『霊界物語』56巻
第一六章 不臣〔一四四六〕
 神殿の拝礼が終ると共に三千彦は小国姫の居間に招ぜられ、茶菓の饗応を受け朝飯を頂き等して寛いでゐる。朝飯が済むと二人の侍女はこの場を立ち去り小国姫は憂ひ顔をしながら現はれ来り、姫『アン・ブラツク様、よくまアお越し下さいました。折入つてお願致したい事がございますが、聞いては下さいますまいかな』三千『ハイ、私の力に及ぶ事ならば如何なる御用も承はりませう。御遠慮なく仰せ下さいませ』姫『有難うござります。早速ながらお伺ひ致しますが、当館は貴方も御承知の通りバラモン教の大棟梁大黒主の神様が、まだ鬼雲彦と仰せられた時分、ここを第一の聖場とお定め遊ばしたバラモン発祥の旧跡でございます。吾々夫婦の名は国彦、国姫と申しましたが、鬼雲彦様より御名を頂いて今は小国彦、小国姫と申して居ります。就いては当館の重宝如意宝珠の玉が紛失致しまして今に行衛は知れず、百日の間にこの玉を発見せなければ吾々夫婦は死してお詫をせなくてはならない運命に陥つて居ります。吾夫はそれを苦にして大病に罹らせ玉ひ、命旦夕に迫ると云ふ今日の場合でございます。悪い事が重なれば重なるもので、今より三年以前に妹娘のケリナと云ふもの、仇し男と共に家出を致し、今に行衛も分らず、夫婦の心配は口で申すやうの事ではございませぬ。どうぞ御神徳を以て如意宝珠の所在をお知らせ下さる訳には参りませぬか』 三千彦は天眼通が些とも利かないので、こんな問題を提出されても一言も答へる事が出来ない。しかしながら、何とかしてこの場のゴミを濁さねばならないと一生懸命に大神を念じながら事もなげに答へて云ふ。三千『お話を承はれば実に同情に堪えませぬ。必ず御心配なさいますな。私がここへ参りました以上は必ず神様のお綱がかかつて引寄せられたに相違ございませぬ。ここ一週間の間御祈念致し、玉の所在を伺つてみませう』とその場逃れの覚束なげの挨拶をして居る。溺るる者は藁条一本にも頼らむとする喩の如く、小国姫は三千彦の言葉を唯一の力とし大に喜んで笑を湛へながら、姫『御親切に有難うございます。何分によろしうお願ひ致します。そして厚かましいお願ひでございますが、夫の病気は如何でございませうかな』三千『先づ一週間心魂を籠めて祈る事に致しませう。神様はどうしても必要があると思召したら命を助けられるでせうし、また霊界にどうしても御用があると思召したら命をお引き取りになるでせう。生死問題のみは如何ともする事は出来ませぬ。これは神様にお任せなさるより外に道はありますまい』姫『仰せの如く何時も私も信者に生死問題に就いては、人間の如何ともする所でないと説いて居ますが、さて自分の身の上に関するとなるとツイ愚痴が出たり、迷ふたりしてお恥しき事でございます。それから、も一つ申兼ねますが娘の行衛でございます。彼娘はまだ無事にこの世に残つて居るでせうか。或は悪者のために殺されたやうな事はございますまいか。そればかりが心配で堪りませぬ』 三千彦はどれもこれもよい加減な返事はして居れない。エー、ままよ、一か八かと決心して、三千『娘さまの事は御心配なさいますな。屹度神様のお恵で近い内に無事にお帰りになります』姫『ハイ、有難うござります。そして娘は今頃は何処の国に居りますか。一寸それを聞かして頂きたいものでございます』 三千彦はハツと詰まりながら肝を放り出して、三千『つい近い所に隠れて居られます。まア御心配なさいますな。軈て帰られますから、しかし詳しい事は御神殿で伺つて来なくては申上兼ねますから』姫『成程、さうでございませう。どうぞ御緩りなさいましたら、一度御神勅を伺つて下さいませ』三千『ハイ、承知致しました。これから早速伺つて参ります。しかしながら誰方もお出でにならぬやうに願ひます』と云ひ残し神殿さして進み行く。 三千彦は神殿に進み小声になつて天津祝詞を奏上し、終つて、三千『私は大変な難問題にぶつつかりました。しかしながら苟くも三五の宣伝使、いい加減な事は申されませぬ。もしいい加減の事を申し、化けが露はれたなら、それこそ神様のお名を穢し、師の君に対しても相済みませぬからハツキリした事を、ここ一週間の間に私の耳許にお聞かせ下さいますか、但は夢になりと知らして下さいませ。そしてなる事なら吾師の君の所在のほどもお示し願ひます』 かく念じてしばらく瞑目して居ると忽ち背中がムクムクと膨れ出し、犬のやうなものが負ぶさつたやうな重味が感じて姿は見えねど、少し掠つた声で耳許に囁いた者がある。これはスマートの精霊が三千彦の身を守るべく諭してくれたのである。さうしてその示言は左の通りであつた。精霊『三千彦殿、其方は大変に心配を致して居るが、玉国別様一行は軈て近い内にこの館でお目にかかれるであらう。そして当館の重宝如意の宝珠は家令の悴ワツクスと云ふ者がある目的のために隠して居るのだから、これも只今現はれるであらう。儂は初稚姫の身辺を守るスマートと云ふものだが、小国姫に対しては決してワツクスが匿して居る等と云つてはなりませぬぞ。しかし直様、現はれるやうに致すから心配致すなと云つて置きなさい。またこの家の主人小国彦はここしばらくの寿命だから、それは諦めるやうに云ふて置くがよい。また娘のケリナ姫は三五教の修験者に助けられ、近い中に帰つて来る。これも安心するやうに知らしてやりなさい。尋ねる事は、もうこれでないかな』と小さい声が聞えて来る。三千彦は初めて天耳通が開けたものと考へ、非常に喜んで大神に感謝し、莞爾として小国姫の居間に引返した。小国姫は三千彦の何処ともなく元気に充ちた顔色を見て、姫『こりや、些と有望に違ひない』と早くも合点し、さも嬉しげに、姫『これはこれはアンブラツク様、御苦労様でございました。御神徳高き貴方、定めし神様のお告げを直接お聞きなさいましたでせう。どうぞお示し下さいませ』三千『イヤ、さう褒められては恐れ入ります。何を云つてもバラモン教へ這入つてから、俄に抜擢されて宣伝使になつたものの、経文も碌にあがりませぬ。ただ信念堅実と云ふ廉を以て宣伝使にして貰つたのですから、バラモン教の教理は少しも存じませぬが、信仰の力によりまして天眼通、天耳通を授けて頂いて居ります。それでどんな事でも鏡にかけた如く知らして頂けます』姫『イヤ、結構でございます。今の宣伝使は難い小理窟ばかり云つて、朝から晩まで経文の研究に日を暮し、肝腎の信仰が欠けて居ますから、神様のお取次でありながら、些とも大神の意思が分らないのでございますよ。何を云つても不言実行が結構でございます。さうして神様は何と仰せられましたかな』三千『はい、明白した事は分りませぬが私のインプレッションに拠りますれば、このお館の重宝は近い中にお手に這入ります。屹度私が貴女にお手渡しをしますから御安心下さいませ。さうしてお嬢さまは日ならずお帰りになります。しかしながら旦那様はお気の毒ながら天国へ御用がおありなさるさうだから先づお諦めなさるがよろしからう』姫『どうも有難うござりました。神様の御用で昇天するとあれば止むを得ませぬが、成る事ならば夫の生存中に如意宝珠の在所が分り、また娘の顔を一目見せたいものでございますが、如何でござりませう、これは叶ひますまいかな』三千『イヤ、御心配なさいますな。これは屹度現はれて参ります。そして御主人が如意宝珠を抱き、片手に姫さまを抱いて喜び勇んで国替をなさいますから、まア一時も早く神様のお繰合せをして頂くやう御祈願を成さいませ。私も一生懸命に御祈願致します』姫『ハイ、有難うございます』と嬉し涙にかき暮れる。かかる処へ家令のオールスチンは衣紋を繕ひ現はれ来り、オールス『もし、奥様、旦那様が大変お苦みでございます。そして奥を呼んで来てくれとおつしやいますからどうぞ早く側へ行つて下さいませ。私は宣伝使のお側にお相手を仕りますから』姫『アン・ブラツク様、今家令の申した通り、主人が待つて居りますから一寸行つて参りますからどうぞ御緩りとお休み下さいませ』と言ひ捨てて忙しげにこの場を立つて行く。 オールスチンは三千彦に向ひ、オールス『宣伝使様、どうも御苦労様でございます。お聞及びの通りこのお館には大事が突発致しまして上を下へと騒ぎ廻つて居ります。どうか貴方の御神徳によりまして、この急場が逃れますやうにお願ひ致したうございます。そして神様の御神勅は如何でございましたか』三千『御心配なさいますな。如意宝珠の玉は決して外へ紛失はして居りませぬ。このお館に出入する相当な役員の息子が、ある目的を抱いて玉を匿して居ると云ふ事が、神様のお告げで分りました。軈て出て来るでございませう』オールス『エ、何とおつしやります、あの如意宝珠の宝玉をこの身内の者が匿して居るとおつしやるのですか。そしてこの館へ出入する重なる役員の息子とは誰でございませう。参考のためにお名を聞かして頂きたうございますが……』三千『まだ私も修行が足りませぬので、隠した人の姓名まで明白り云ふ事は出来ませぬ。丸顔の色白い男だと云ふ事だけは確に分つて居ります』オールス『はてなア、妙な事を聞きまする。しかしながら誰が匿してあるにせよ、これを探し出さねば小国彦様の言ひ訳が立たず、またこの館の役員までが大黒主から厳しい罰を受けねばなりませぬ。そしてその玉は近いうちに現はれるでございませうか』三千『屹度現はれます。成るべく事を穏かに済ませたいと思ひますから、どうぞ秘密にして置いて下さいませ。互に瑕がついてはなりませぬからな』オールス『成程、おつしやる通りでございます。こんな事が外へ洩れては一大事、一時も早く現はれますやう、そして旦那様に一時も早く安心の行くやう、願つて下さいませ』三千『ハイ、承知致しました』 かかる所へ小国姫は再び現はれ来り、姫『もし、宣伝使様、主人が大変に様子が悪うなりましたから、どうぞ一つ御祈祷をしてやつて下さいますまいかな』三千『それはお困りです。しからば参りませう』と云ひながら家令と共に主人の居間に通つた。 小国彦は熱に浮かされて囈言を云つて居る。そして時々、ワツクス ワツクスと呻いて居る。ワツクスとは家令のオールスチンが息子である。オールスチンはこれを聞くよりハツと胸を撫で、俯向いて思案に暮れて居る。小国姫は少しく声を尖らしながら、姫『これ、オールスチン、今旦那様が夢中になつて「ワツクス ワツクス」とおつしやるのはお前の悴の名に違ひない。何か旦那様に対し、御無礼の事をして居るのではあるまいか。よく調べて下さい。この宣伝使様にお尋ねすれば直分るだらうけれど、こんな事まで御苦労になるのは畏れ多い事だから、お前、心に当る事があるなら包まず隠さず、ワツクスの事に就いて述べて下さい』オールス『ハイ、心当りと申しては何もございませぬが、ともかく宅へ帰りまして悴を調べて見ませう。しばらくお待ち下さいませ。しからば奥様、旦那様をお大切にして下さいませ。アンブラツク様、左様ならば一寸宅まで帰つて参ります。どうぞよろしうお願ひ申します』と言葉を残し急ぎ吾家を指して帰り行く。 オールスチンは館を出でて吾家に帰る道すがら幾度となく吐息をつき、何事か心に当るものの如く首を傾けながら、杖を突きトボトボとして吾家に帰り行く。田圃の稲葉は風に煽られてサラサラと勇ましく鳴つて居る。燕は前後左右に梭をうつやうに黒い羽根の間から白い羽毛を現はし、或は高く或は低く大車輪の活動を稲田の上にやつて居る。寝むたさうに梟の声はホウホウと家の後の森林から聞えて居る。オールスチンは秘かに吾家の門口に帰つて見ると二三人の人声が盛に聞えて居る。心にかかるオールスチンは耳をすませて門の戸に凭れ話の様子を立聞きし居たりけり。
(大正一二・三・一七 旧二・一 於竜宮館 北村隆光録)

『霊界物語』56巻

第一七章 強請〔一四四七〕

 オールスチンの館には悴のワツクスとエキスとヘルマンの二人が胡床をかいて密々話に耽つて居る。
ワツクス『お前達二人はさう何遍も何遍も無心に来てくれては困るぢやないか。俺もお前の知つて居る通り部屋住だから、さう金が自由になるものぢやない。あの禿チヤンがうまく死んでくれたらこの家の財産は俺の自由だからどうでもしてやるが……さう云はずにしばらく待つて居てくれ、さうすれば小国別夫婦は玉の紛失の咎によつて職務を取り上げられ、厳罰に処せられてしまふ、さうすりや俺がこの玉を発見したと云うて大黒主様に届けたならば、屹度小国別の跡目相続をデビスにさすに定つて居る。さうすれば俺が玉を発見した褒美として婿になるのだ。モウそこに出世がぶらついて居るのだから、さう八釜しう云はずとしばらく待つて居てくれ、その代り、お前を重役に守り立て、さうして幾何でも金は渡してやるからなア。親父に悟られやうものなら、家を放逐され、一も取らず二も取らずになつてしまふ。さうすればお前達も困るぢやないか』
 エキス、ヘルマンの両人はワツクスの悪友で常に好からぬ事ばかり勧めては親父の金を盗み出させ飲み喰ひに費してゐた。ワツクスは元来が何処かに抜けた所のある馬鹿息子である。けれども家令の息子と云ふ事で非常に若い者の仲間には持て囃され、調子に乗つては親父の金を盗み出し、悪友と共に飲食に費つて居た。父のオールスチンは女房には先立たれ、ただ一人の悴ワツクスを力とし、目の中に入つても痛くないほど愛して居た。それ故段々増長して手にも足にも合はなくなつてしまつた。そしてワツクスは小国別の娘デビス姫に恋慕し、明けても暮れてもデビス デビスと口癖のやうに言つて居た。しかし肝腎のデビス姫は、馬鹿息子のワツクスを蚰蜒の如く嫌ひ、目を細くして言ひ寄る度に、手厳しく肱鉄をかませ恥かしめて居た。しかしながらワツクスは益々恋が募つて嫌へば嫌ふほど可愛くなり、何とかして目的を達せむものと、エキス、ヘルマンの二人に相談をかけた。狡猾いエキスは一も二もなく嘲笑つて云ふ。
エキス『デビス姫を君の妻にせうと思へば何でもない事だ。如意宝珠をそつと盗み出し隠してやつたなら、きつと監督不行届きの廉によつて小国別夫婦及び家族一同が免職を喰ひ、その上刑罰に処せらるるに定つて居る。まづ第一にその玉を隠し心配をさせてやると、小国別夫婦が、終の果には百計尽きて、「もしもあの紛失した如意宝珠を探して来た者があつたらデビス姫をやらう」とか、「婿にせう」とか云ふに定つて居る。先づその玉を隠すが一番である』
とエキス、ヘルマンが知恵をつけた。そこで薄野呂のワツクスは夜密に奥殿に忍び込み、エキス、ヘルマンと共力して玉を盗み出し、床下を掘つて人知れず隠して置いた。そして当座の鼻塞ぎとして百両宛渡して置いたのである。しかしエキス、ヘルマンの二人は、忽ち酒食に使用つてしまひ、幾度も幾度も弱身をつけ込んでワツクスの所へ無心にやつて来る。その度ごとにワツクスもいろいろ工夫して渡しておいた。しかし父親の金も、もう無い所まで盗み出して渡して居たのだから、もう幾何請求されても渡す金が無いのである。それ故ワツクスは最早一文も無いから……しばらく待つてくれ、今に願望成就すれば、幾何でも金をやるから……と断つて居たのである、されどエキスは……この家令の家には金銀が目を剥いてゐるに違ひない、脅迫さへすれば、この馬鹿息子は幾何でも出して来るに違ひ無い……と悪胴を据ゑ声を尖らし、
エキス『オイ、ワツクス、余り馬鹿にして貰ふまいかい。金剛不壊の如意宝珠を命がけで盗み出し、もし発覚したら俺達の命がないのだ。さうして甘い汁を吸ふのはお前ばかりぢやないか。天下一品のナイス、デビス姫さまの婿となり、さうしてテルモン山の神司となつて覇張散らす身分になれるぢやないか。俺達両人は何程お前が出世した所で、デビスを女房にする訳にも行かず、神司にもなれないのだから引き合はないのだ。それだからお前から酒代でも貰つて酒でも呑まねば不安で苦しうて、一日でもかうして居る事が出来ない。グヅグヅ云はずに百両ばかり出さつしやい。それでなければ自分達も罪になるのを覚悟して、「恐れながら」と罪状を自白する積だ、それでもよいか』
ワツクス『さう大きな声で云ふものぢやない、近所に聞えたらどうするのだ。俺達の迷惑のみではない親父までが迷惑するではないか』
エキス『迷惑したつて何でい。俺アもう破れかぶれだ。のうヘルマン、犬骨折つて鷹に取られるやうな荒仕事をやらされて耐つたものぢやない。此奴はきつと目的が成就したが最後、自分の権威を笠に着て、俺達を反対に罪に落すかも知れないぞ。それより今の中にもぐるだけはもぐつて甘い汁でも吸ふて置かねば算盤が持てないや。オイ ワツクスの先生、俺が今バラしたが最後、お前の笠の台は飛んでしまふぞ。百両の命は安価ものだ、どうだ買ふ気はないか』
ワツクス『百両は安価やうなものの、さう何遍も百両々々と云ふて来られては堪らないぢやないか。親父の臍繰金まで皆貴様に出してやつたし、もう逆さに振つたつて血も出ないのだ。些俺の心も察してくれないか。九分九厘と云ふ所になつて引くり返つては詮らないぢやないか。俺の目的さへ立てば、お前の思ふやうにしてやるのだから』
エキス『ヘン甘い事云つて乞食の虱ぢやないが、口で殺さうと思つてもその手に乗るやうな哥兄ぢやないぞ。末の百両より今の五十両だ。さつぱりと五十両にまけて置く。サアきつぱりと出したり出したり』
ワツクス『何程出せと云ふても無い袖は振れんぢやないか。そんな無茶の事を云はずに、今しばらくの所我慢してくれ、掌を合して頼むから』
エキス『ヘン、貴様が掌を合して金の一両も降つて来るのなら辛抱もしない事はないが、拝み倒さうと思つても、そんな事に乗るやうな俺ぢやないわい。こんな大きな屋台骨をした家の悴でありながら、親父の金が無くなつたと云つたつて誰が本当にするものか、人を馬鹿にするない。出さにや出さぬでよいわ。これから俺が一伍一什をデビス姫の所へ知らしに行き、二人が証人となつて報告するからさう思へ。オイ、ヘルマン、こんな奴にかかつて居ても仕方がないわ。さア行かう』
と立ち上らうとするをワツクスは慌てて手を握り、真青な顔をしてビリビリ慄ひながら、
ワツクス『オイ、エキス、さう短気を出すものぢやない。暫時待つてくれと頼むのにお前も聞き訳のない男だなア。お前も俺の心を知つとるだらう、有る金を隠して千騎一騎のこの場合、誰が無いと云ふものか。些考へてくれ』
エキス『千騎一騎の場合になつてゴテゴテ云ふ奴は駄目だ。考へもヘチマも有つたものかい、薬罐頭の帰つて来ない中に早く出さないと陰謀露見の恐れがあるぞ。貴様は親父が怖いのか。親父が怖いやうな事では伊勢神楽は見られないぞ……、

 親の財産あてにすれや
  薬罐頭が邪魔になる

と云ふのは俺達の爺の事だ。貴様らは親一人子一人、羊羹よりも甘い奴だから、貴様が何程盗み出して俺にくれたとて、悴の命とつりがへだと聞いたら、滅多に怒る気遣ひはない、余程貴様はケチな奴だなア』
ワツクス『どうか頼みだから、今日だけは柔順く帰つてくれ、何とかまた考へて置くからなア』
エキス『俺も男だ。一旦口へ出した以上は滅多に恥を掻いて帰るやうな哥兄ぢやないぞ。サア、グヅグヅ云はずに出しやがらないか、グヅグヅ云ふとこの鉄拳が貴様の頭にお見舞申すぞ』
と飛びつかうとする。ヘルマンは慌て後より抱留め、
ヘルマン『待つた待つた、短気は損気だ、大事の前の小事だ、今短気を出しては俺達三人の首は無くなるぢやないか。首が無くなつては酒を飲むと云つたつて飲めないぢやないか。今日はまア此処の銀瓶でも持つて帰らう、ナア、ワツクス、金の代りに銀瓶ならお前も何とも云ひはすまい』
ワツクス『それはどうぞ耐へてくれ、今親父が帰つて来て調べたら大変だからのう』
エキス『そんなら床の置物が無垢らしいから、彼品を攫つて行かう、これなら千両や二千両の価値はあるだらうから』
ワツクス『どうぞそれだけは耐へてくれ、親父に見つけられては困るからなア』
エキス『ヘン、二つ目には親父々々と吐しやがつて、親父を煮汁に俺達の要求を拒絶する考へであらう、同じ穴の貂だ。親父だつて貴様の陰謀をすつかり知つて居て、素知らぬ顔をしてけつかるのだ。ええもうかうなつては構ふものか、悪胴を据ゑて百両渡すか、この無垢の置物を渡すかするまでは、十日でも廿日でも坐り込んで動かない覚悟を定めやうかい』
ヘルマン『ワツクスの云ふ通り、今日は柔順く帰つてやらうぢやないか、俺達も矢張疵持つ足だからなア』
エキス『俺は一旦云ひ出した事は後へは退かぬのだ。馬鹿らしい、男がこれだけ金銀の目を剥いて居る家へ来て請求すべきものを請求せずして帰る事が出来るものか、貴様もよい腰抜けだなア』
 ヘルマンはムツと腹を立て、顔を真つ赤にしながら、腹立紛れに何もかも忘れてしまひ、
ヘルマン『こりやエキス、悪垂口を叩くにもほどがある。俺が腰抜けなら貴様は魂抜けだ。今に目に物見せてやらう、覚悟せよ』
と云ふより早く床にあつた無垢の置物をグツと頭上にさし上げ、エキスを目蒐けて投げつけた。エキスは避け損うて向脛にカンと打ちあてられ、
『アイタタタ』
と云つたきり座敷の中央に倒れてしまつた。折柄門口を慌ただしく押し開けて這入つて来たのはこの家の主人オールスチンである。
オールス『オイ、ワツクス、私の留守中に何を喧嘩して居るのだ。些静にせないか』
ワツクス『ヘエ、ほんの酒の上で訳もない喧嘩をおつ初めまして誠に申訳がございませぬ』
オールス『さうではあるまい。最前から門口ですつかり立聞をした。貴様ら三人は如意宝珠を盗んだ大罪人だ。仮令吾子と雖も許す事は出来ぬ。サア三人とも手を後へ廻せ』
ワツクス『お父さま、誠に済まぬ事を致しました。しかしながらもう今日限り心を改めますから、どうぞ内証にして下さい』
オールス『馬鹿を云ふな、誠の道に親疎の区別はない。オールスチンの悴に貴様のやうな大悪人が出来たかと思へば、神様に対し、先祖に対し、申訳がない、どうして俺の顔が立つか。グヅグヅ云はずに罪に伏するが好い。これやエキス、ヘルマンの両人、元を云へばお前達が悴に知恵をかつたのだから、お前等の罪が最も重い、しかしながら悴も悪いのだから免れる訳にはゆかぬ。三人共覚悟してバラモンのお経でも唱へたがよからう』
と両眼に涙を湛えて居る。エキスは吃驚して、
エキス『もしオールスチン様、誠に済まぬ事でございましたが、これには貴方の息子のワツクスも入つて居るのですから、どうぞ大目に見て下さい。どうぞその筋へ突き出す事だけは許して下さい。その代り玉は直様お還し申しますから』
オールス『玉を還す事は勿論だ。しかしながら一旦取つた罪はどうしても許す事は出来ぬ。さてもさても困つた事をしてくれたものだなア。このままにして置いたら御主人の家は断絶、随つてこの家令も監督不行届の罪によつて、どんな厳罰に処せらるるかも知れない。貴様等三人を突出して主家と吾家を守らねばならぬ。斯様な時に悴の愛に引かれて大事を誤るやうなオールスチンではないぞ』
と声高に叱りつけて居る。三人は平た蜘蛛のやうになつて畳に頭をにぢりつけ、只々詫入るばかりであつた。オールスチンは直に神前に額づき『吾子の罪を許させたまへ』と一生懸命に祈つて居る。されど一旦大罪を犯したこの三人はどうしても助ける工夫は無い。もしも自分の子なるが故をもつて罪を許さば綱紀紊乱の端緒を発し、不公平の譏を受け、誠の道を潰してしまはねばならぬ、ああ如何にせむと滝の如くに落涙して居る。二人は目と目を見合せ、後から細縄を首に引つかけ引倒し折重なつて締め殺さうとして居る。オールスチンは力限りに、防ぎ戦ひ、逃げ脱れむとすれども力足らず、彼等がなすままに任すより仕方がなかつた。
ワツクス『オイ、エキス、ヘルマン、俺の親父をさう甚い事をしてくれな、死んでしまふぢやないか。打転す位はよいけれど、命まで取らうとするのか』
エキス『定つた事だい。此奴の命を取らねば俺達の命が無くなるのだ。貴様の命もなくなるのだぞ。何を呆けて居るのだ。オイ、ヘルマン俺は老耄をバラしてしまうから、貴様はワツクスをやつつけてしまへ』
ヘルマン『よし来た』
とワツクスに喰ひつく。茲に二組の殺し合ひが初まり、ジタン、バタンと怪しき物音が戸外まで聞えて居る。この物音を聞きつけ慌ただしく飛び込んで来たのは、小国別の僕エルであつた。エキス、ヘルマンはエルの顔を見るより一目散に裏口から雲を霞と山越に逃げてしまつた。そしてエルは最前からの喧嘩の顛末や由来を残らず聞いてしまつた。オールスチンは漸くにして起き上り首筋の痛みを撫でて居る。ワツクスは、庫の中へ飛び込み、中より錠を卸して慄つて居る。エルは一目散にこの有様を報告せむと、宙を切つて館へ馳帰り行く。

(大正一二・三・一七 旧二・一 於竜宮館階上 加藤明子録)