第一章 高熊山(謡曲調)〔六四六〕
 梅咲き匂ふ春の夜半、牛飼ふ男子の枕辺に、忽然として現はれ出でたる異様の輝き、眼を睜り眺むれば、世人の無情残酷を、うら紫や青黄色、神の大道も白玉や、赤き心の五色の玉は、賤が伏屋の室内を、右往左往に飛び交ひて、何時とはなしに男子の身体目蒐けて、或は胸に、或は腹に、肩に背中に滲み込み、男子は忽ち心機一転して、三十路に近き現身の、命毛の筆執るより早く、苦労する墨硯の海に、うつす誠の月照の、神の御霊に照らされて、床の間近く立寄りつ、壁にさらさら書き下ろす、天地大本大御神、今日は昨日に引替へて、この世に神なきものをぞと、思ひ詰めたる青年が、恭敬礼拝神号を唱へつつ、吾身の罪を詫ぶる折しも、門の戸を叩き訪ふ者あり。神使『吾こそは、天教山に現はれ給ふ木の花姫の御使、弥勒の御代を松岡の、梅花も開く蓮葉の、台の国に導かむ。早くこの門あけさせ給へ』若男『あら訝かしや、この真夜中に金門を敲く人の有りとは。風も静まり水さへも、子の正刻に候へば、夜の明くるを待つて訪れ給へ』 松岡神使は詞も終らぬに、戸をさらりと引き開け、悠々として入り来り、神使『吾は天教山の皇大神の御使なり。抑も木花咲耶姫命、蓮華の山に立たせ給ひて、西の空高く望ませ給へば、瑞雲棚引き、星の光奇く照させ給へば、神の仕組の真人の現はれ給ふ瑞祥ならむ。汝迅く迅く我神言を奉じ、雲井の空を翔つけて、天の八重雲押開き、心の空も丹波の、青垣山を繞らせる、穴太の郷に出立ちて、我神言を宣り伝へ、迎へ帰れとの御神勅なり。早々吾に続かせ、天教山に参上り給へ』 男子は益々訝かりつ、松岡神使の顔を打眺め、しばし茫然として居たりけり。時しもあれや一陣の春風烈しく、梅の花片を撒いて、家の外面を亘りゆく。忽ち屋内に美妙の音楽聞え、梅の花片チラチラと、男子が頭に降かかるよと見る間に、紫の被衣に包まれ、あと白雲となりにける。若男『嗚呼吾は空行く鳥なれや。遥に高き雲に乗り、地上の人が各自に、喜怒哀楽に捉はれて、手振り足振りする様を、吾を忘れて眺むなり。実に面白の人の世や。然れども余り興に乗り、地上に落つる事もがな。嗟、大神よ大神よ、千代に八千代に永久に吾身を守らせ給へかし』とただ一筆の落し書、賤が伏家に遺し置き、松樹茂れる山の口、洋服姿の松岡神使、俄に白髪異様の神人と変化し、男子が手を把り、林の茂みをイソイソと、進むで此処に如月の、九日の月西山に傾きて、再び閉ざす闇の幕、千丈の岩窟の前に着きにけり。 松岡神使は男子に一礼し、神使『此処は名におふ、高天原の移写と聞えたる高熊山の岩窟にて候、天地百の神たちの、時有つて神集ひに集ひ給ふ、四十八個の宝座あり。吾はこれにて袂を別たむ。汝は此処に現世の粗き衣を脱ぎ、瑞の御霊の真人として、五六七の神業に奉仕せよ。さらばさらば』と云ふかと見れば、姿は消えて白雲の、彼方の空に幽かに靉く訝かしさ。男子は忽ち身体硬化し、時間空間を超越し、寒暑の外に立ちて、何時とはなしに身変定の、今の姿と白装束、黄金の翼身に備へ、一道の空に輝く光の架橋、矢を射る如く天の八重雲切り抜けて、須弥仙山の頂上に、早くもその身は立ちにける。白馬に跨り、白雲別けて駆来る一人の神人、男子の前に立ち現はれ、馬を乗り棄てツカツカと立寄り、男子の左手をシツカと握り、明神『われは小幡大明神なり。この度五六七の神世出現に際し、天津神国津神のよさしのまにまに、暫時丹州と現はれ給ふ汝が御霊、現幽神三界の探険を命じ、神業に参加せしめよとの神勅なれば、三十五年の昔より、木の花姫と語らひて、汝が御霊を拝領し、我が氏の子として生れ出でしめたり。ゆめゆめ疑ふ事勿れ』 男子は驚き『ハイ』と一声、さし俯き、涙に暮るる折しもあれ、松吹く風に覚されて、四辺を見ればこは如何に、処はシカと分らねど、何処とはなしに見覚えの、有難や、清き岩窟の前に端坐し居るこそ不思議なれ。男子は首を傾け、若男『人里離れしこの深山の奥、何処の山かは知らねども、何とはなしに、心勇ましき所かな。牛飼ふ男子の昨日まで、賤の職業に励精みし身の、四辺に輝く吾身の服装、紫青赤白黄色、白地に梅の花は散り、裳裾に松葉の模様、何時の間にかは更衣や、忽ち変る女神の姿、心も凪ぎて春風の、木々の木の花撫で渡る、いとも長閑な思ひなり』 忽ち虚空に音楽聞え、今迄岩窟と見えしは、夢か現か幻か、際限もなく四方に展開せる、荘厳無比の大宮殿、黄金の甍旭に輝き、眼下の渓間を眺むれば、緑漂ふ池の面に、鴛鴦の比翼の此処彼処、時ならぬ菖蒲の花も咲きみだれ、百鳥の唄ふ声、天国浄土もかくやあらむと思はるるばかりなり。嗚呼訝かしや訝かしやと、首を傾げ思案に暮るる時しもあれ、宮殿の彼方に声ありて、『瑞月、瑞月』と呼ばせ給ふ。男子はこの声に耳を澄ませ、若男『瑞月とは誰人なるか、われより外に人も無し。怪しき事よ』と佇む折しも、黄金の翼を飜し、この場に向つて現はれ来る、黄金の鵄を先頭に、孔雀、鳳凰、迦陵頻伽、八咫烏、何時とはなしに王仁の身は、またもや月の付近まで進み居るよと見る中に、黄金の扉は開かれて、中より現はれ給ふ梅花の如き女神の姿、二人の侍女に松梅の小枝を持たせ、御手に玉を携へて、言葉静かに宣り給ふ。女神『われこそは三千年のその昔、国治立の大神と共に、中津御国の聖地を後にして、根底の国に到りしが、一度に開く梅花の時を得て、再び天に舞ひ昇り、今は西王母が園の桃、花散り実のる時ぞ来て、皇大神に奉らむ。時遅れては一大事、小幡明神の承諾によりて、今より汝が命の体を借らむ』と言ふかと見れば、姿は消えて白煙、忽ちその身は天馬に跨り、小幡明神に送られて、宇宙の外の世界を眺め、地上を指して降り来る。此処は何処ぞ、以前の宝座の前、不思議なりける次第なり。
(大正一一・五・六 旧四・一〇 松村真澄録)   ○ 本章は、謡曲まがひに口述してありますから、専門の方々は言葉の長短を補ひまたは削り謡ひよく直して見て下さい。