出口和明

 

明治、大正、昭和と現人神の威光がきらめきわたる天皇絶対の海を、右に左にかきわけて、国家体制をゆるがす波紋をたてつつ、泳ぎぬいた男がいる。大化物、怪物と世間を騒がせた出口王仁三郎である。

大日本帝国のおカミは、ご威信にかけてもほっとけぬとばかり、大正一O〈一九二一)年の第一次大本事件では不敬罪と新聞紙法違反、昭和一O(一九三五)年の第二次大本事件では不敬罪と治安維持法違反で二度までも王仁三郎をめしとり、オリの中にとじζ めて、みせしめにさらし首にしようした。

だが一次事件では大正天皇の崩御による恩赦、第二次事件では予言通りの敗戦で、手かせ足かせからしゆるっとぬけだしてしまった。日本のすみずみにまで「天皇にとってかわろうとした逆賊」といいふらされ、「弓削道鏡、足利尊氏、明智光秀、出口王仁三郎」と四大逆賊の一人にかぞえられながら、戦後はぶすりと姿を消して無視されてきた。もとより、歴史の教科書にもあらわれない。これは不思議なことだが、考えてみればこの文明の世の中、怪物の動向やその予言など教科書にのせようもなかったろう。

現在、王仁三郎の超能力、大予言が再評価されつつあるが、彼の神や霊界についての見方を、正面から語る書物はない。また思想家としての彼を知る人も少ない。娘直日の小学校の家庭調査職業織に「世界改造業者」としるして教師をたまげさせた王仁三郎だ。彼には「大宇宙の根源に神があり、宇宙意志となってたゆまずすべてを活かし、現界と合わせ鏡の界が実在する」という信念がある。それは有神論などというような理屈ではなく、実体験にもとづくものだから、ゆるぎようがない。

現界から見る霊界を諮るばかりではなく、ふかく霊界にわけ入ってこの世を逆照射し、独自の世直し思想をくりひろげる。不敬罪のよりどころは天皇を唯一最高の現人神にまつりあげることにあるが、王仁三郎の見つめる神は、天皇をこえた宇宙の本源的存在だ。しかもその神の意志は「闇の世におちた三千世界を立替え立直して、末代つづく神国の世にする」ことにあり、当然、天皇制をふくめた現状変革である。王仁三郎が天皇制の枠をこえて神の声を民衆に伝えようとするかぎり、いやでも国家権力と対決しなくてはならなかった。玉仁三郎没して三八年、現在、第三次大本事件が進行中である。

第一次、第二次大本事件は、いわば国家権力による「外」からの王仁三郎思想の弾圧であった。第三次は、王仁三郎つぶしのくわだてを持った連中がたくみに教団に入りこみ、ついに執行部をつくりあげ、「内」から王仁三郎の思想を破ろうとしておこった。しかもそれは、王仁三郎がすでに早くから予言していることでもあった。王仁三郎の思想をわかろうとすれば、第三次事件の本質を知らねばならぬ。いまその渦中になまなましく身をおく私は、まず私自身の足もとから語りおこす。第三次事件はいわば宗教改革であり、その真相をつたえようとすれば、長くかくされた教団の裏面史を明るみにさらけだし、大本を腐敗にみちびいた人たちをとがめねばならぬ。私の身内、恩愛深い方々、先輩、友らの多くをこうして傷つけることはまことに忍びがたいが、それでもなお、真の大本のよみがえりのためには、私は語らねばならない。私自身もふかく傷つくことを覚悟しながら。

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第ニ次大本事件

昭和十年に起った国家権力の宗教弾圧事件。

当時百万の大本信徒への徹底した破壊活動と暗黒裁判を描く。突如未明の大弾圧、教団を襲う検挙の嵐/死者も鞭打つ特高/人情特高もいた/一転して国賊の子に/第一審祖父は無期懲役、父は懲役十五年/ぽっかぶりの歌/治安維持法は無罪/戦火の予言が人々を救う/わしは花咲爺じやわい/大本は世界のかがみ第一次大本事件大本の開祖・出口直と上回喜三郎(出口王仁三郎)の生いたちと運命的出会い。霊界からの通信、大本教義。地獄の釜の焦げ起こし/福島久と米の神がかり/三千世界の立替え立直し/多情多恨の安閑坊喜楽/過去、現在、未来を霊界で見聞/上田喜三郎の綾部入り/大気違いと大化物/火と水の戦いはじまる/機の仕組の特異な発想/水晶の世にする種/大槻米、福島久についた金毛八尾の狐/王仁三郎にかかる霊はみろくの大神だった/立替えに魅せられた浅野和三郎/第一次大本事件勃発/教団の内部矛盾の露呈/『霊界物語』の口述開始/王仁三郎、蒙古へ密出国/第一次大本事件の解決大本教団の変質戦後、大本の再生と愛善苑の発足、王仁三郎昇天後の教団内部に入りこんだ危険な影と教畿の変質。戦後のスタート愛善苑の新発足/大本愛善苑に改称/三代の世になって大本に名称を復帰/出口栄二内閣の成立/栄二内閣の崩壊/梅松館の建設/混乱に輪をかける梅松教会の設立/十和田湖の神秘/大本教団、安保賛成を表明/聖師聖誕百年瑞生大祭/「生き神信仰を正して下さい」/老いの坂越えて死へのドライブ第三次大本事件出口王仁三部が昭和十年代に予言した教団の内部分裂が現実のものになり、宗教改革運動が始まる。大本海外作品展/あわや危機一髪、神言事件の真相/昇峰の離反/京太郎総長の出現と言論弾圧の強化/株式会社「いづとみづの会」の設立//第三次大本事件勃発/疑惑の大本教制改正なる/始まりの宗教改革/言論弾圧の全国機関長会議/教主念頭の辞「道を護らむ」」/覚書の調印と懇話会の発足/松の根元の大掃除、出口、栄二の追放/京太郎解任、宇美総長の出現/出口直美教主継承取消し/三宣伝使の地位確認等請求事件の公判始まる/教団に帰っておいで下さい/大本事件の本質/薬のいがは内からはぜる一、引用文は〔〕内に二字下げて記し、末尾に原典を記した。二、著書は『』でくくった。一、『大本神論』は『神論』、『霊界物語』は単に『物語』と表示した。四『筆先』には、執筆年月日を旧暦で一記した。五、年号の下の〈)内は西暦を表示した。六、必要に応じ、〈)内に旧歴の月日を記した。七、読者の理解しやすいよう、引用の文や歌は現代かなづかいに改めた。ただし大本用語や特殊な使い方をしたものは、原文のままとした。八、引用の難解な漢字はひらがなに、また誤字脱字は訂正した。九、年令は原則として数え年で示した。十、本文中の人名の敬称はすべて省略させていただいた。
第一編

第二次大本事件

突如、未明の大強圧、教団を襲う検挙の嵐王仁三郎は妻澄との間に女六人、男二人の子をもうけたが、男の子はいずれも育たなかった。私は昭和五年八月一五日、王仁三郎の三女八重野と婿養子字知麿(本名・佐賀伊佐男)の長男として生まれた。男の孫は私が初めてであっただけに嬉しかったのであろう、王仁三郎は和明と命名し、初膳を祝った席で、その名をおりこんで「身は和く魂明らけく神国に衣食足らいて百千歳住め」とうたっている。私にとって忘れられない心象風景がある。

コスモスの花が目いっぱい風にゆれる野であった。その人はコスモスに見えかくれして遠ざかる。幼い私にとって、その背を慕い追うのは、たまらないスリルであった。祖父もそれを知っていて、わざとおきざりにする。祖父と孫とのかくれんぼだ。コスモスは私の頭より高かったから、四つか五つのころであったろう。ついに追いあぐみ、立ちどまってせいいっぱい叫んだ。「聖師(王仁三郎の尊称)ちゃま、聖師ちゃま」王仁三郎は大またであともどりし、私を抱きあげ、高くかざしてくれた。白やピンクの花波が目の下にひろがった。朝に晩に「おはよう」「おやすみ」をいいにゆくだけではない。「おべんきょう」といって、平仮名のいくつかを書いてみせる。そのたびに王仁三郎は私を抱きあげ、打ち出の小づちをふるようにおやつをくれ、うれしい言葉をかけてくれた。父よりも母よりも、だれよりも祖父が好きであった。

おとなたちが王仁三郎を中心に動いていることは、もの心ついたばかりでもわかる。その王仁三郎に愛されていることは誇りであり、得意であった。昭和一O年一二月八日未明、雲一つない月あかりに浮かび上がる明智光秀の城あと、亀岡町(現京都府亀岡市)天恩郷の大本本部百数十棟の殿堂は、忍びよる決死の武装警官隊によって、ひたひたとおしつつまれていった。交わりあう探照灯、切断される電話線。夜霧の底にはりついた彼らは鉄かぶとをつけ、白布を腕にまき、白たすきをななめにかける。軍靴はすでに老の坂峠でゾウリとはきかえられているから、足音は死んでいる。日曜日、神の定めた安怠日というのに。午前四時三O分、指令一下「火事だ」「デンポウ、デンポウ」:::それが合い言葉の異様な叫び。そのとき六歳の私は天守閣あとにたつ「月宮殿」の隣「光照殿」の一室で、母と弟(四歳)と安らかに眠っていた。枕元に乱入した土足の警官たちを見て、のんきな母は逃げる泥棒でも追っているのと思ったらしい。自ざめた私は泣きもせず彼らをにらんで「こら、帰れ」とどなったと母はいうが、私はおぼえていない。警官たちはしがみつく幼な子から母をもぎとろうとする。

「あっ、あl」と隣室からは、ちょうど泊まり合わせていた伯父出口日出麿が、ねぼけたような声を出した。母と伯父は令状も示されず、そのまま拘引される。出口王仁三郎、澄夫妻はいそがしすぎて、家庭などかまいみるゆとりはなかった。直日、梅野、八重野、尚江、住之江の五人の娘たちは、捨て育ちといってよかった。その気になれば、両親や姉妹と何日も顔を合わせずにすんだ。学校をさぼって遊びほうけたところで叱るものはない。それぞれ性格のちがう五人姉妹の中で、私の母八重野は子供のころから鬼娘でとおるほどのわがままの怒りんぼう、そのくせさびしがりやだ。放任の上にめっぽう娘に甘い王仁三郎の溺愛をいいことに、好きほうだいに生きていた。一六歳で親のいいなりに結婚したものの、夫宇知麿は若いながら王仁三郎の全幅の信頼を得、教団の実務上の中心的存在であったから、これまた家庭など一時のまどろみの場でしかない。このやんちゃな幼な妻がどこかできげんよく遊んでいてくれればよかった。さびしくていたたまれぬ夜など、八重野は枕をかかえて姉妹や女友達の家を泊まりあるく。結婚して七年目で私を生んだが、子の可愛さと育児のわずらわしさは別ものらしく、私の世話はもっぱら奉仕の女性にゆだねられていた。

夜明けにたたき起こされて連れてこられたのが、亀岡署の雑居房。なぜこんなところに投げこまれねばならぬかと、八重野には納得できない。汚くて、寒くて、退屈で、おまけにねむたい。ふくれかえっているところへおりよく信者の青年小高が投獄されてきたので、「ちょっと膝をかしてえな」とととわり、彼の膝枕でうたた寝した。やがてめざめた八重野は、日曜日の約束を思いだす。どうしよう、友らと京都へ封切りの映画を見にゆく予定やのに…それが気になって、取調官の質問にもうわの空だ。どっちみち教義や教団の内情なんか聞かれても、関心ないから知るわけはない。「せっしょうな、早く出してもらわんと映画におくれるわな」といらだつばかり。

いま襲っている嵐が何ものをもたたきのめすほど激しいととに気がつかない。…近代日本宗教史上かつてない大本大検挙は、一年余にわたる当局極秘の布石をおえてこの日午前四時半ついに強権を発動、全国各地の大本諸機関にうちいった。綾部(現京都府綾部市)の大本総本部は三OO人の警官隊によって役員信者一五O人が検束、六七人が留置された。大本三代を継ぐべき伯母出口直日は三人の幼子とともに信者宅に軟禁される。亀岡では、二三O名の警官隊によって一五O人が検束、一一O人が留置。検束をまぬがれた信者には、「ただちに帰郷せよ」と命じ、建物の出入口や窓は板でふさぎ釘づけ封鎖する。首魁と目される出口王仁三郎(六五歳)は、松江市の島根別院に滞在していた。七日夕、綾部からくわわった妻澄(五三歳〉と秘書の大国以都雄とともに赤山の対岳亭でくつろぎ、夕陽の映える大山の雄姿をのぞみつつ、亭内の名残りの紅葉を楽しむ。「裏を見せ表を見せて散る紅葉…誰の句だったかなあ」と王仁三郎はつぶやき、ふもとの警察部長官舎のあたりを見おろし、誰にともなく「明日は大雨だな」という。その夜、王仁三郎夫妻は赤山山上の三六亭にとまった。

翌八日の明け方、二八O人の武装警官隊が襲いかかった。柔剣道二段以上の猛者一五人が水盃をかわし「大本では剣、銃、爆弾などの装備もそうとう充実している模様である。いかなる事態に発展するか知らぬが、諸君の命はただいま頂戴する」との悲壮な訓示により、決死の先陣をつとめたのだ。王仁三郎は衣服をあらため、澄が火をつけてさしだした煙草をうまそうにすった後「急に用事ができて京都にかえったと信者に伝えてくれ」と後事をたくし、しずかに連行されてゆく。東京では約八O人の警官隊が昭和神聖会本部など六カ所をおそい大本幹部八名を検挙するが、この中には私の父がいる。

その日の大阪朝日新聞は「関係者一向はいずれも落ちつきはらったもので、出口宇知麿のごときは終始微笑を浮かべ‘ながら、何事もなかったような態度で護送されていった」と報じている。この日、捜索を受けた場所は全国で一O九カ所に達し、大本幹部、有力信者四四人が翌九日までに全国各地から京都市内の八警察署に護送、留置される。

全国どこの地でも抵抗どころか混乱すらなかったのに、何を寝ぼけたのか、この大げさな捕物陣。「子子子子子子」も読みようでかわる。「猫の子、子猫」か「獅子の子、子獅子」。信者のすべてにゆきわたった無抵抗主義の大本も、国家権力の色メガネで見れば軍隊まがいにでも写るのだろうか。午前五時、はやくも大本検挙をスクープした大阪毎日新聞が号外第一号、続いて第二号、第三号をだす。抜かれた他紙も、負けじとはでな大見出しの号外をきそう。「妖教大本の大陰謀」、「断固!抹殺の方針」、「突如一大秘魔教に大旋風」号外の鈴の音をよそに、私と弟は誰かに連れられて天恩郷内の瑞月庵に移される。立入禁止の神苑内は、捜索にあたる検事やものものしい警官たちで満ちていた。その異様な空気だけは、今もはっきり私の心にやきついている。

その夜から、八重野、尚江、住之江の三姉妹と子供たちは、小さな瑞月庵で扇をよせあい不安な五日間を過ごす。一三日、天思郷内に帰ることも許されず、三家族九名は追われるように西山のふもと荒塚の一軒家に借り住まいの身になる。数多い奉仕者は強制的に帰郷させられたが、現実に飯を炊くさえおぼつかない彼女らのために、男性奉仕者一人と一家族一人ずつ女性奉仕者が残ることを許された。家は門をしめられ、竹矢来がくまれ、裏口があくだけである。一歩も外へ出ることが許されず、裏の寺のそばを流れる小さな溝川から水をくんで風呂をわかした。警察のきびしい監視下で、月々最低の暮らしに必要な金だけが渡される。私のまわりは激変した。第一、男たちが消えたのである。祖父、父、叔父たち、いつもそばにいてくれていた人々も。その理由を誰かれかまわず聞いてまわる。「どこへ行ったの」「遠い遠いところへ」「なにしに」「神さまの御用がいそがしいので」「でもいつ帰ってくるの」「さあ…」「あといくつ寝たら…:ねえ」しつこくなると返事もじゃけんになる。一族の者たちが監獄につながれているわけなど、だれも教えてはくれぬ。いつしか私は無口になった。同じ頃、出口澄と直日は綾部で、梅野は亀岡から四キロ離れた穴太で、不安な日々を送っていたのである。死者も鞭打つ特高京都の各警察署に分散留置された王仁三郎以下六五人にたいする取調べは峻烈をきわめた。その目的はいうまでもなく自白の強要だ。特高警察のほこ先はまず直日の夫出口日出麿(三九歳)に集中した。日出麿は本名高見元男、倉敷市に生まれ、岡山一中、六高をへて京都帝大を中退し、大本へとびこんだ。直日と結婚後はその鋭い霊覚、ひょうひょうとした風貌、深い思索を自在に書きとめた文章や詩歌などでご信者たちの敬慕と三代の世への希望を一身に集めた人であった。「拷問にかけられわが子のとイヒイと苦しむ声を聞くは悲しも」「日出麿は竹万で打たれ断末魔の悲鳴あげいるを開くつらさかな」 このように王仁三郎は歌うが、昭和一一年二月、人間の耐えうる限界をこえたのか、日出麿は日赤病院にかつぎこまれる。あきらかな精神異常にもかかわらず、さらに中立売署に移されて取調べがつづけられる。王仁三郎もまた、三尺のびた長髪をひきずりまわされ、失神しながらも、なぐるけるの暴行にたえていた。やがて王仁三郎はその長髪を根元から刈られる。丸ぼうずになった彼の写真が新聞に大きくのったが、左手は開け、右手は擦って人さし指一本をのばし、さりげなく膝においている。この六本指の報道写真は、王仁三郎が天下に示す「無(六)罪」のサインだ。機会をつかめばソク逆境にある信者たちを励まさずにはおかぬ王仁三郎である。この断髪の写真でよくわかるのは、うしろの髪は黒いのに額のふちばかりが目だって白いこと。これは王仁三郎の肉体的特長の一つだ。額毛に霜おきながら髪長く 濃きは弥勒と蒙古の智者いう

昭和一一年二月二五日、内務省の唐沢警保局長が京都府会議事堂で全国の特高課長を集め、「大本教はわが国教と絶対あいいれず、許すべからざる邪教で、断闘として根絶をきさねばならぬ」と訓示。翌日未明、二・二六事件勃発。参会の特高らは青くなって任地へとんで帰る。予定されていた現地〈綾部・亀岡)視療も祝宴もむろんお流れである。二・二六事件の首魁北一縄は大本事件寸前の昭和一O年一二月六日、こっそり天恩郷を訪ね王仁三郎に会見、クーデター計画をもらしてその資金二五万円を求めた。王仁三郎は「そんな金は手もとにないし、神さまが人殺しのための金は出してはいかんといわれる」と軽く一蹴。北は「国家の大事をうちあけた以上、命をいただく。京都に一二人の刺客が伏せてある。命か金か二つに一つだ」と食い下がる。松江に旅立つ王仁三郎は、「とにかく四、五日待て」となだめて帰した。そのため、私の父宇知麿が人質になる約束であった。その王仁三郎も宇知麿も二日後には囚われの身の上、実は警察に保護されたのも同然。「北一輝らはさぞ地団駄ふんだろう」とのちに語っているが、そんな王仁三郎の心もしらず、唐沢警保局長は「右翼の資金源を絶つための弾圧」とうそぶくのである。三月九日夜、幹部の栗原白嶺(六六歳)が縊死。「私はあこがれの天津御固に参ります。…大本の神につかえて一O余年、かかる悲しき終りを見るとは」と、中立売署独房の板壁に爪できざんだ遺言と辞世の歌一首。翌一O日、綾部署は二代澄を連行、澄名義である綾部の土地処分の委任状に捺印をせまる。「土地は神のもの、信者のもの、いっさいを精算せねばならんような悪事のおぼえはない」とつっぱねる。一ニ日再び「印をおせい」と命ずる彼らに、澄はいいはなった。「大本は日本のヒナ型、大本で起こったことは必ず日本に、世界に写る。この神苑を手渡すことは、やがて日本が外国にとられる型になる。それでも捺印せいというのなら、私を殺してからにしなはれ」 いいきってひるまぬ澄の腹中には、「大本は世界の型」の信念がどっかと根をおろしていた。

「型」については、後にくわしく述べる。こと面倒と警察は二三日、改めて澄を検挙し翌日京都に護送、五条署に留置する。「お前たち一族はどう、じたばたしても死刑はまぬがれんから、その覚悟で入っておれ」と、澄は警官にいわれた。けっしてこけおどしではない。治安維持法違反の最高刑は死刑、当局は「大本を地上から抹殺する」と豪語していたのだから。ある日、澄は「これから裁判所の監房に護送するからいそげ」といわれ、「これが末期の水だぞ」と一杯の水を与えられた。「アアそうか、私は死刑になりにゆくのか。これまで調べてもまだわからず、いつまでもこんな所に入れられているより、その方が良いかもしれん。大声で万歳をとなえて、にこにこ笑って死んでやろう。わしは死んだら神さまが待っておられる身じゃし」そう思うと澄は心が勇んでならぬ。護送車に乗せられるそのときの澄の笑顔は、全国紙にいっせいに掲載された。保釈後、澄はこの写真を見て笑うのだった。「アホウやのう。私は死刑にされるつもりでいたのやが、子供が遠足にでもゆくような嬉しそうな顔をして」。澄が検挙された三月一三日、王仁三郎ら八人の起訴が決定、同時に内務省は大本関係八団体の解散命令と本部、および地方の教団全建造物の強制破却処分を発令。しかも「破却のための全費用は教団財政から支出せよ」との条件だ。当局ははじめから土地建物ばかりか、教団財政いっさいの処分方針を立てていた。まずは破却の準備として教団の家具、備品、機械類を捨て値同然で強制売却させた。売りたたくことによって大本を経済的に困らせ、公判の弁護費用をださせぬようにとの策略である。

命をはって澄が守ろうとし、王仁三郎が「いかなることありとも、右三ケ所〈綾部、亀岡、穴太)の土地は一坪たりとも売却いたさぬ覚悟…」と獄中から悲痛なはがきをよせて死守を示した土地は、国家の強権の前にはもろくも崩れる。綾部の二五一八五坪は三六七六円二二銭(坪あたり一四銭)で綾部町に、亀岡の二四五三O坪は二二一四円二一銭(坪あたり九銭)で、亀岡町に売却される。当時の地価は最低でも綾部で坪あたり二O円ぐらい、亀岡で一二、三円であったから、百分の一にも当たらぬ法外な値で譲渡させられたのである。三月三O日、有留弘泰が五条署で自殺未遂。拷問のすさまじさがうかがわれる。四月九日には梅野が父王仁三郎に、八重野が夫宇知磨に各一O分ずつ初めて面会。呪われた出口一族にたいするジャーナリズムの興味はつきず、「獄舎に父と涙の対面」「四ヶ月自の対面、おお、わが父よ、夫よ、王仁三郎の娘ら接見許可」などと、翌日の新聞をにぎわしている。四月中旬、福島県白河町の神正彦(二二歳)は白河署に留置され、本署から出張の特高の取調べをうけた。京都に連行された正彦の父の神守は王仁三部の信任があつかった。当局では守の自白をとる手段として病身の息子を拘引し、激しくせめたのである。夜も眠らせず、なぐる、蹴る、頭を下にして鼻や口に水をそそぐなどの拷問が一週間つづけられ、病状は悪化する一方、強度の神経衰弱におちいったが、医師の要請にも十分の手当てを受けさせない。六月中旬、突然帰宅を許されたが、すでに正彦は半死半生。留置場で死なせでは警察の落ち度になると釈放したまで。「父に一目会いたい」と正彦は訴えつづけたが、それさえかなえられず短い生涯を閉じる。五月一一日破却工事の第一槌は開祖出口直の墓に加えられる。第一次大本事件のとき二度にわたって直の墓をあばいた当局は、死して一八年後三たび死者を鞭打つのである。枢は共同墓地に移され、「衆人に頭を踏まさねば成仏できぬ大罪人、極悪人なり」という特高課長の指図で、腹部のあたりに墓標が立てられる。直を誰よりも敬愛してやまぬ直日の、悲憤の歌が残っている。「死してな、お安からぬ祖母ふたたびも逆族の名に墓あばかれつわが心臓石の如くに脈うたずあばかれんとすも祖母の墳墓は惟神の道ましぐらに歩みたる祖母也成仏願いたまわず綾部、亀岡の両本部と穴太の破却工事は三O二O四円で清水組がうけおった。

両本部の土地約五万坪の売却費用はわずか六千苑にみたぬのに、その五倍強の破却費用を大本会計から支出させようというのだ。これに要した日数二六日、取締り総人員六七八五人、一日平均二六一人)、破却従業員九九三四人(一日平均三八二人)。石と鉄骨でつくり上げた二一坪の月宮殿の破壊だけでも一五〇〇発のダイナマイトを使用し二一日間もかかっている。地方施設の破壊も両本部と並行してすすめられ、別院二七、分社四一、歌碑四Oはすべてあとをとどめぬまでに破壊しつくされ、日本海舞鶴沖の孤島沓島や播州沖の神島の祠まで打ちくだかれた。

まだ起訴すらされぬ前に勝手に有罪と断じうちとわす。まさに狂気の沙汰である。さらに大本の出版部である天声社在庫の八四〇〇〇冊の書籍類、多くの祭壇、祭服、神旗、王仁三郎作の書画、陶器などは綾部、亀岡の神苑内のくぼ地に投げこまれ、火をつける。それは一ヶ月余にわたってくすぶり続けた。そのころ、春日坂を通りかかってこの破壊ぶりを目撃した一信者が、「ああ、もったいない」と思わずつぶやいたばかりに留置場に投げこまれ、竹刀で叩きのめされ、翌日やっと釈放された。

私ははるかな天窓郷のあたりを心細く眺める。くる日もくる日も腹の底までふるわすような爆発音が響きわたり、黒煙が空をおおっていた。あの下にあるのが本当に私の住んでいたあの家だろうか。いま思えば、あれは月宮殿の破壊の炸裂音であり、焚書の煙であったのだ。
人情特高もいた六月九日、私たち三家族は亀岡町の南、中矢田農園に移転する。荒い普請の古家であっても荒塚の一軒家にくらべればずっと広く間取りも多かったから、子供たちはこ踊りして廊下をはねまわった。いよいよ三家族九人水入らずの生活が始まる。そのころ興味本位に、王仁三郎の留守家族の様子がニュース映画で報道されたことがある。ぎたない服装の私や弟や従兄弟たちが障子の絞れから部屋をのぞいている姿が写っていたと、母たちが笑いながら語っていた。ここにも警察の自は光っていた。私が外で遊んでいると、自つきの鋭い男が話しかけ、家族のことや客のことを聞く。まわりのおとなたちとはまったく違った雰囲気が私をすくませるが、嘘をつく知恵がないからありのまま答えるしかない。とがった母の呼ぶ声に呪縛をとかれ、玄関に逃げこむ。

今度は母の質問攻めである。男からなにを聞かれ、私がどう答えたかと。あげくに母は釘をさす。「あれはトッコウ(特別高等警察の略称〉という悪い悪い人や。あの人の姿を見たら、すぐ逃げて帰るのやで」。悪という観念が幼い私の前に姿をあらわしたのは「特高」が初めてである。それでも私は何があったのか知らされず、またそれを知ることがこわかった。「死にたしと吐息もらせばおさな子は死ぬなといいて膝によりくる/いつひかれ行くべき吾が幼らと春日の庭に刻おしみつつ」このころの直日の歌であるが、まもなくそれが現実になり、検束の手は、残された出口家の女たちにも及ぶ。六月一七日、まず母八重野が京都の川端署に護送され、ついで中立売署に移された。その道すがら、ある特高刑事が「お前はまだ若いんだから検事に会ったら泣いて見せろ。取調べが緩やかになるぞ」と知恵をつけてくれたが、ちっとも泣けない。それどころか「警察はこわくないだろ」と声をやわらげる検事にむかつて、「暑いから窓をあけて」「寒くなったから窓をしめて」「ちょっと煙草ありませんか」。とうとう頭にきた検事に「饗察に遊びにきておるのと違うぞ」とどなりつけられる始末。検事は八重野からなんとか聞きだそうとするが、知らないものは知らない。「お前はとぼけるのが上手だ。王仁三郎そっくりだ」といわれて、くやしい思いがしたという。

そんな八重野でも涙を流したことがある。「…一回だけ町の風呂につれていってくれましたね、なわひもをつけて。そのとき風呂で和明ぐらいの子どもをみて悲しくなってね、はじめて私の自に涙がにじんできました。帰ってきて、ちょっとおおげさに泣いてやれと思ってワンワン泣いていました。そこへ看守がびっくりしてでそれこそうちをなだめてなだめて『こんなほがらかな人が泣くなんて不思議やな』というてね。いっしょに雑房にはいっていた、おばあさんがいたの。看守が『このおばあさんに感謝しなよ』というので『なぜですか』といったら、『あんたはグウグウよくねる人で』と。とにかく眠くて眠くて眠りζけるのですね。『あなたはしらんでよいけれども、このばあさんはかわいそうに、ひと晩あんたをあおいでいたのや』というて、『おばあさん、ほんとですか』『あんたがよく寝てるし、私は寝られんので、あんたは若いし、かわいそうだからあおいであげたのですわ』その人がしきりに再婚をすすめてね。二七だったし髪をお下げみたいにしていたでしょ、それに私が『お父さんも、お母さんも、夫も、姉妹もここにはいっています』といったので。そのおばあさんは大本事件ということに気がつかないから『ここにくるようなムコさんのことはあきらめて、その若さだしよいムコさんをもらって』といってくれて、おかしくってね。女ばかりの雑房でしたが、入ってくる女がみな泣くのです。泣いて芝居しているらしいの。そうすると調べがやわらかいのですって。そんなこと私は知ら、ないし、のんきで通ってしまったらしいのです」『おほもと』昭和三七年八・九月号「有悲之碑」

取調べは一月近くも続くのだが、警察は八重野にはサジを投げ、「直日は行儀がよいが、お前も少しは見習って、大人になったらどうだ」と説教する。それでも勝手に作られた調書を見たとき「こんなこといってません。これみんな嘘や」と夢中で抗議したが、「いまさら否認してもだめだ」と検事はとりあってくれなかった。六月二二日、伯母梅野は亀岡署、ついで京都の五条署に移され一月近くを留置されるが、梅野の美しさは話題であったらしい。彼らはのぞきにきてはささやく。「あれが王仁三郎の娘か。ほう、ベッピンやのう」。なにを関かれでも「さあ…さあ…」と首をひねる梅野であったが、調べが出口直にふれると、きっと面をあげる。「開祖さまのなさることにまちがいありません」、とうとうそれで通してしまった。そのことが写真入りで新聞に出ると、梅野の長女操は子供心に誇らしくて、切り抜いて額に入れ飾ったという。梅野はどうしても麦飯が食べられぬ体質で、帰ってきた時にはやせこけて、玄関の式台にへたりこんだまましばらく動けなかった。六月二九日、臨月近い身重の直日は、一〇日間にわたって綾部署に留置される。「お前の父母および主人亡きあとは、子供らを日本国民として恥ずかしくないように育てよ」との取調官の言葉は、直自の胸を深くえぐった。その上、綾部署特高部長の下書きした始末書を強制的に写させられる。「不逞不敬の大反逆思想を抱いておりましたにもかかわらず、このたび寛大なる…今後ますます謹慎いたしまして、日本国民としての…」煮えたぎる直日の胸のうちは、幾首かの歌になってほとばしり出ずにはいられない。「なみだ流れてやまざりけり ゆるされて帰るほどうのつゆの日照りは/かくのみの陥穽ありとも知らずして正は邪に勝つものと思いし/死の刑も笑みてぞうけん黒白の けじめ正しくわかち給わば」。まもなく直日は長男梓(のち京太郎と改名)を出産。拘置中の夫日出麿に手紙で知らせたが、何の返事もなかった。

叔母の尚江も住之江も、亀岡署へ一週間ばかり毎日出頭させられる。住之江に対するは、京都府警きってのインテリ山崎英顕である。調べはあと一息というところですでにたそがれ初めていた。調書をしたためている山崎の筆を借り、住之江は自前の紙にさらさらと書きつける。「憶良らは今はまかむ子泣くらむその子の母も吾を待つらむぞ」、山崎はあらためて住之江を見直す。一八歳というお下げ髪の小娘に乳のみ子があろうとは。「よござんす」とそくざに彼は調べを打ちきった。万葉の山上憶良の歌が、取調官と被疑者との間に人間的な心のふれ合いを呼び起こしたのであろう。調ベの後、住之江は山崎に歌をおくつている。「職業はいかめしけれど優雅なる君の物腰こころ魅かれき」。敗戦後しばらくして警察畑を退いた山崎に、私はこの話を開いた。当時高校生であった私は、東京外語大出身の山崎から、英語の個人指導を受けていたのである。山崎は大本の若き知恵袋と評された父宇知麿と取調べで対決、まっこうから宗教論を戦わせた仲である。互いに人間的共感を抱きあっていた。父は彼からだけは一度も暴行や強圧を受けなかった。終生二人は親交をかさねるが、私が山崎に師事したのもそのせいであった。七月二八日姉妹五人とも起訴猶予と決定する。

山崎のような人物が警察の中にもいたように、特高といえどもすべてが鬼ばかりではない。忘れてはならぬ人がいる。当時ほやほやのシンマイ特高であり、出口澄の取調べの助手をつとめた銅銀松雄である。銅銀は郷里愛媛の八幡浜に帰省した時、偶然のことから、母校八幡浜商業高校を中退して無謀にも大本にとびこんだ秀才佐賀伊佐男というのが、いま世間を騒がせている大物出口宇知麿であることを知った。銅銀の寄宿舎時代に使っていた机や洗面器は佐賀伊佐男の残していった名入りの物、だから会ったことはなくても妙に親近感があった。任務に戻った朝、銅銀は丸太町の検事局まで父を連行して行く役をみずから買ってでた。その道すがらの御所のベンチで、銅銀は後輩の名乗りをあげる。どちらからともなく校歌が口ずさまれた。手錠でつなぎ合ったこ人の手がいつか拍子をとり、低く合唱される。満開の桜の下、父はほろほろと涙をこほしたという。銅銀は、特高として許されるぎりぎりの範囲まで、人間としてのぬくもりを伝えてくれた。出口澄に彼女の大好きな黒砂糖をそっと手渡したり、澄を喜ばせようと残された家族のようすを見に亀岡を訪れたり、いやそれどとろか、許されぬ途方もない所まで、この人情特高は踏みこんでしまう。夏の初めのある日、澄はこの若く甘い特高についつりこまれ、無造作に心の底をのぞかせる。

「二代さん、いったい何がいけないのですか」「そりゃ銅銀さん、これが…自ざめなあかん。改心せなあきまへんのや」これが…と澄は親指を立てていた。一瞬混乱したのは銅銀の方であった。「これが」とはなにか。それこそいま、国家が、特高仲間が、この一言を得るために血まなこになっているのだ。それがとともあろうに、二代教主の口をついてでた。「えらいことをいうたわ」さすがに澄も動揺を隠せなかった。それが拷問であればどんなにつらくても耐ええたであろうに、人の良い澄は、相手が人の良い銅銀だから、その職種すらはずみで忘れていたのであろう。せいいっぱいこわい顔をつくり調書にその重大な一言を書きこみながら、しかし銅銀は鬼にはなれなかった。「罪をきるんやったら、うち一人でよろし。うちが悪者になります。そやから…」必死の覚悟で叫ぶ澄をみつめて、銅銀はその調書の一枚を小さく引きちぎっていく。では澄に思わず叫ばせた「これが…」の意味はなにか。いずれ本書で明らかにしていく。

警察では取調べにあたって、天皇陛下のみ名でむごい拷問をかさねる。肉体の上になおも精神的しめ木をかけてくる。「王仁三郎はすでに自白し(ワナである)髪まで切って更生を誓っておるのに、お前はまだがんばるのか。これからは四つ足扱いにするからそう思え」。公正な裁判に一縷の望みをかけて心ならずも警察の思い通りの調書に屈した被告たちも、予審にのぞんで暴行以上の不殺の殺にあう。自白をこばめば拷問のかわりに放置が待っている。二ヵ月、三ヵ月、そして二年半もの長い歳月が費やされるのだ。「お前が供述をひるがえせば全被告の審理をやりなおす。二、三年はかかるなあ。年寄りは死ぬぞ」王仁三郎を落としたのもその手だ。廊下を手錠をかけられて悄然として引かれてゆく老被告を見かけた時、王仁三郎は暗然として落涙し、多数の被告人の保釈をかちとりたさに署名捺印する。九月二一日朝六時、最高幹部岩田久太郎(六二歳)が獄死。「脚気衝心のため病死」との診断書。しかし岩田の獄中の歌に死因がはっきりと示されている。「むちうたばわが身やぶれんやぶれなばやまとおのとの血の色をみよ」。暮近くには松田政盛が拷問に抗議して中京刑務所で自殺をはかる。宮川剛は日赤病院に移され間もなく死亡。遺体には隠しようもない拷問の跡が無残に刻されていた。最高幹部の高木鉄男(台湾明治製糖元重役)は、自分のノートに記した言葉、「聖師には絶対、天子には批判的」「ほんもうじゃ、さかさまの世に不敬罪」「東京にむかって出発、邪神の巣穏に入らんとす」が激しい拷問の種にされる。高木は東京帝大で当時の小原法相と同期であったから、徳永検事正が特別に説得して自白をすすめたが聞き入れぬ。四年留置の末に釈放されたが、無罪の二審判決を見ずに病死する。地方警察でも犠牲者があいついでいる。弾圧の嵐は吹きやむととなく、昭和一一年暮までに九八七人が検挙され、三一八人が検事局に送れる。家宅捜索や物品の押収は全国的に信者の家庭にもおよび、大本に対する物件は紙一片だに見逃さぬきびしさであった。その年のうちに幹部六一人が起訴、全員に治安維持法違反が適用され、併合罪として王仁三郎ら一一人が不敬罪、高木鉄男と桜井重雄にはさらに新聞紙法違反が加わった。治安維持法違反は、「国体を変革することを日的として結社を組織したる者」に死刑または無期懲役、「情を知ちて結社に加入したる者」には二年以上の懲役を科するという民衆弾圧の悪法であり、共産主義運動取締りの目的で立法されたもの。これを宗教団体に適用することは権力側の一方的な解釈であった。以後、治安維持法との苦しい戦いが続く。

一転して国賊の子に

昭和一一年四月、直日の長女直美、梅野の長女操が綾部小学校へ、翌一ニ年に私は亀岡小学校に入った。真新しいランドセルを入手した時、私は体の底がふるえるのを感じた。それはなぜか天窓郷の夜空を焦がす火の色やあの爆裂音を思いおこさせる。中矢田農園という出口一族の隠れ里だけが、いまは私の域であった。ここでなら、私は弟や従兄弟たちのお山の大将でいられたから。だが一歩外へ出れば、何かとても恐ろしいことが待ちかまえている予感があった。入学式の日から、早くも私の暗い予感は的中した。新入生やその父兄たちの目がけっして好意的でない視線で私を射すくめる。亀岡小学校が出口家の子供を迎え入れるのは私が初めてで、地元だけに王仁三郎の孫に対する興味は異常であった。私の胸にいっぱいつまっていた「なぜ? どうして?」の解答が次々向うからぶつかってきた。先生が、友遣が教えてくれた。

私の祖父母や父や伯父たちが何もので、どんな大それたことをしでかし、今はどこにいるのか、それが何を意味するのか、いっぺんにはのみこめなかった。これまで私がなに一つ知らされていなかったことなど、誰が信じよう。子供らは私を勝手に王仁三郎の「子」(孫ではなく〉にし、「ワニさん」とか「ワニさんの子」とあだ名した。王仁三郎は「おにさぶろう」と呼ぶのが正しいが、世間では「ワニさぶろう」と呼んでいた。寝ても、起きても、獄中にいる「ワニさん」の存在が、私の脳裏に熔印されていた。子供らは大本や王仁三郎に対する噂をそのまま知識として吸いこみ、大人たちはその噂を新開、雑誌、単行本、ラジオなどから仕入れた。それらの世論をたくみに操作するのは、「大本を地上から抹殺せよ」と指揮する政府当局に外ならなかった。大本は「邪教」「妖教」であり、王仁三郎は「国賊」「逆賊」「大山師」「妖怪」「詐欺師」「色魔」だ。当局による世論操作の一例を示そう。事件直後、新聞記者や有力者を天窓郷に招き、わざわざ王仁三郎の寝室を公開して写真を撮らせている。敷きっぱなしの蒲団に並べた女の枕、その上、春画やみだらな展示がされたまま。「おかしいぞ。王仁三郎は検挙の二日前に松江に旅立っているのに」とつぶやく者もあった。京都府警の写真撮影を担当したSが、のちに「あれは写真を撮るため、外から持ってきたもの」と証言している。

子供らにはネズミをなぶり殺しにする猫の残酷さがあった。彼らは私を追いつめてとことん私の耳に吹きこまずにはおかぬ。王仁三郎が多くの女性たちとどのような醜い関係にあったか。丹波独特の卑猥な言葉が子供とも思えぬえげつなさで投げつけられる。性解放の今日と違い、私にとって、その一事だけでもたいへんな犯罪に思えた。どれほど王仁三郎は贅沢をしたか。天皇陛下に対してどんな恐ろしい陰謀を企てたか。毒の吹矢を針ネズミのように私に突き刺しながら、なお足らぬ彼らは私をつねる、なぐる。だが彼らに悪意はなかった。今呂の「いじめ」とは形は同じでも、根が違う。国賊の子を天に代わって征伐することは胸ふくらむ正義であり、愛国心の発露なのだ。なぜならば、天皇にとって代わろうとしたという弓削道鏡と王仁三郎を比較して「王仁三郎の方がもっと悪い国賊だ」と教えた先生がいた。

習字の待問、名前を小さく端っこに書くと、それを生徒たちに示して「日陰者の子は名前一をこんなにちぢこまって書く」という先生もいた。むろん小学校六年間を通じて陰から私をかばって下さった先生や、わけへだてなく叱って下さった先生だってある。大本事件中の出口一族は、まさに被差別民であった。私は、わが体内に流れるいまわしい血を呪った。白昼の太陽すらあおぐ資格のない、日陰者の子と自認した。私だけは、天皇陛下の赤子であってはならなかった。決してしあわせであってはならなかった。私はおろかにもそう信じ、ひとり思いつめていた。まさに「いじめ」の標的にされるにふさわしい、ネクラの少年であった。道をゆけば大人たちの冷たい目に出合う。「ワニさんの子が歩いとるぞ」「ヤiイ、青びょうたんのへiかまし」小さな子供まで私に石を投げた。ほんとは私だって、お国のためになることなら、何でもしたいのだ、日を輝かせて国賊の子を打つ彼らのように。だから私は走っては逃げない。うつむいて、身を固くして、しょほしょぼ歩いていた。一刻も早く彼らの自の前からかき消えたいとあせりながら通学の道が恐ろしいばかりに私はある方法を思いついた。まだ暗いうちに家を抜け出し、人気のない道をこっそりと行く。学校の裏門の向いにある土井家の戸をたたいて入れてもらい、そこで始業時間を待つ。時を見はからい裏門の鉄条網をくぐり抜ける。放課後は裏門から忍び出て土井家に行き、暗くなってから家へ帰る。これなら、私を見ているのは月や星だけ。土井家とは東京帝大法学部出身の元検事、大本幹部の土井靖都宅。その頃の靖都は未決拘留中で逆に裁かれる身だから、清江夫人が留守を守っていた。

清江は私の乳母…というと、逆さまになろうか。清江は子を産んだことがないから、乳は出ない。授乳の時間だけ私を母に抱かせ、飲み終るとさっと連れ去る。後は誰一入手をふれさせぬぐらいにして、私を育ててくれた人であった。独占欲の強い人だっただけに、無条件に私をゆだねるのは祖父王仁三郎のふところだけ。東大病院の看護婦長であった清江の育児方針にはさすがに母も逆らえなかったらしい。ピアノや乗馬に明け暮れていた母であったが、時にはチョコレートやキャラメルで私を誘惑し清江にみつかって大喧嘩になったりした。夜も明けぬうち家を出て暗くなってしか帰らぬ理由を母たちは私の意思とは知らず、清江が離したがらぬせいにして快く思わなかった。両者の対立した感情のはざまにあって、私は胸を痛めた。清江の私に対する愛情は病的ですらあった。朝早く玄関の戸をたたく私を抱きとるようにして迎える。学校にまでしばしば顔をだす。授業中は外に立って窓ごしに私をのぞき、休み時間には手招きして引き寄せたがる。その過保護ぶりは異常であり、どんなに「もうこないで」と頼んでもきかなかった。「和明ちゃま、和明ちゃま」という清江の口まねが、友達の私をからかう種の一つでもあった。清江には、私に対する強固な信念があり、まだ物心つかぬうちから、熱っぽい口調で語り聞かせたものである。

「和明ちゃまは十和田湖の龍神さんの生まれかわりで、ほんとうは聖師さまのお子さまとしてお生まれなさるはずだったのに、御都合で八重野さまが生ませていただいたのですよ」。とっぴょうしもない話だが、これについては後にふれる。こうして霊的には祖父の子だと聞かされて育ったせいか、光照殿時代の思い出にも私には父の存在がひどく薄い。母に押入れにいれられたときに出してくれた、ぐらいの思い出しかない。だから今となって私の心に突きささる「ワニさんの子」の十字架はどんなにつらくても負わねばならぬ。心の傷のうずきに耐えかねる夜は、私は土井家に眠る。なめて、なめて、なめころがす母猫のような、清江の愛情に抱かれたかった。「和明ちゃま、もう少しの御辛抱ですよ。今に日本が世界じゅうを相手に大戦いを始めます。そのうち日本のお空は、敵機でいっぱいになります。そうすると聖師さまが刑務所から出ていらっして、指で飛行機に向ってエイっと光をだすと、ばたばたと落ちて…」語る清江は本真剣である。「なにしろ聖師さまは神さまだから」と。私はそんな夢のようなことを信じない。第一神さまならなぜ牢から出てこれないのか。なぜ私を助けにきてくれないのか。寝る時には清江は私の枕元に端座し、ひそかに隠し持つ『霊界物語』を読み聞かせてくれた。人間が大蛇の腹中を探検したり、白狐が活躍したり、子供の興味をひきそうな個所を選んでだが…それが嬉しくて家に帰りそびれ、私の土井家泊まりはついかさなる。夜中に目ざめても、彼女は膝もくずさず、ぼそぼそと音読している。小さな私に『物語』の深い意味など理解できるはずもないが、「眠っていらしても、和明ちゃまの霊魂はちゃんと聞いています」といってやめなかった。私は神々の物語の中で安らかに眠った。一年生の秋、直日や梅野一家が亀岡へ移り、中矢田農園の住人に加わった。同居していた三姉妹もそれぞれ農園の中に家をもって独立していた。私より一つ年長の直美や操も亀岡小学校へ転校した。いつのころであったか、操がいじめられ大声で泣きながら学校から走り帰る姿を見て、とてもうらやましく思った。泣くとか訴えるとかそんな無邪気な子供らしさを、私はひとかけらも残さず失っていたから。外でいじめられているなど、母や清江や一族の者に知られる、ぐらいなら、死んだがましだ。父兄参観日、母の視線の中で、死に物狂いで演技する。とつぜん誰かにぶつかったり、授業中に奇声をだしておどけたり、みんなに負けずに結構いたずらをやってますというふうに。そのくせ冷や汗を出しながら。「和明がいたずらするので、恥ずかしゅうて」と母が叔母たちにこぼすのを聞いて、私はとびはねたいほど嬉しかった。自意識過剰の、さぞいやらしい少年であったろう。三、四年生になっても私のみじめな立場はつづいていた。全校生徒が校庭に立ち並ぶ朝礼のとき、背の順で中ほどにある私は後へ後へとはじき出される。はねのけられるのは慣れっこだが、弟や従兄弟たちの自にさらされるのが悲しい。私は今でも出口一族の隠れ里、中矢田農園のがき大将なのだ。その大将のみじめなかっこうを、彼らに、どうして見せられよう。はじき出される前にみずから下がって舌をだす。悲しきパフォーマンスだ。クラスの列の一番後尾にニンニクくさい子がやはり疎外されて立っている。その子が並んでくれたら「のらくろ全集」をそっくりやろうと、私は心で誓う。しかし彼のひじは待っていたように私の脇腹をきびしく打った。ぽつねんと一人立つ自分の影法師。まじろぎもせずに見つめておいてから空を見上げれば、青空をくっきり抜いて影法師が写る。あの白い影法師が本当の私であり、見ている私が影法師の影であればと、どれほど願ったことか。やがて影法師が暗く自の前いっぱいに広がり、すべてが遠くなる。こうして医務室に運ばれることが何度かあったが、青白きやせこけた「青びょうたんのヘーかまし」が日射病で倒れるぐらい不思議はなかった。

第一審祖父は無期懲役、父は懲役一五年昭和一三年一O月四日、五九人の被告の予審終結、全員治安維持法違反、うち一O人が不敬罪等の併合罪で公判にふされることになる。一O月一四日、尚江の夫貞四郎叔父が病気療養のために保釈出所、一族にはじめて男がもどった。貞四郎は二代目東京商業会議所〈東京商工会議所の前身)会頭中野武営の孫で一高、東京帝大を卒業。学生時代ボート部で鍛えた恵まれた長身と端正で理知的な面立ち、激しい正義感と情熱の持主で、特にその歯切れのいい江戸弁が、私はたまらなく好きであった。貞四郎の発病は二年前であった。昭和二年夏、刑務所内で喀血、肺浸潤の診断で、房中絶対安静の状態に入る。予審判事に問われてありのまま病状を答えると「そりゃ君、入ってれば治るよ」と冷然といいはなたれた。血痰や高熱がでても無理解な看守は「異常なし」と答えて二年余。いたましくやせ衰えた叔父を抱え三人の子を夫の肺病から守りつつ、尚江の必死の看病が始まる。一二月一三日、住之江の夫新衛が保釈出所してきて、農園の中は次第に明るさを取り戻した。

事実審理が終ろうとする直前の昭和一四年三月一三日、林弁護士は予審判事松野孝太郎を文書偽造行使罪の嫌疑あるものとして検事総長木村尚達あて異例の告発をする。出口自出麿が精神異常になったと知って、昭和一三年七月二五日、林は前回、富沢、田代三弁護人と共に中京刑務所で日出麿に接見し事実を確認した。そこで二七日、京都地方裁判所第一刑事部に日出麿にたいする精神鑑定の申し立てをする。庄司裁判長は京都帝大医学部精神病学の三浦主任教授に日出麿の精神鑑定を命じる。三浦は数回にわたり鑑定を行ない、一ニ月ニ一日に鑑定書を提出した。それによると「出口元男(日出麿)は現在真実の精神病にかかり、病名としては精神分裂症がもっとも疑わしきものなり」とし、その発生の時期を昭和一ニ年三月ごろと推定した。ところが松野予審判事の作成した日出麿にたいする予審尋問調書は理路整然として乱れたところがないのは不可解であり、文書偽造行使罪の疑いがあるというのが告発の理由である。この告発事件は大阪控訴院の取調べの結果いちおう不起訴と決定したが、司法部内に大きな衝撃を与え、社会的にも第二次大本事件の取調べの内容についての疑惑を抱かせる。これを契機として、弁護団は受身の立場から積極的攻勢に転じて行く。一O月二七日に日出麿が京大付属病院から退院し、中矢田農園に帰ってきた。精神分裂症と鑑定された伯父の言動はしばしば常軌を逸し、夜中にはだしでとび出して山野をさまよう。新衛叔父や町在住の信者たちがいつも身辺につきそわねばならなかった。

私たち子供はただこわごわ遠くから眺めるうたのみである。「うつろなる夫の魂誰にむかい吾が訴えんもとにかえせと」、そう詠う直日の心は、切り裂かれんばかりであったろう。おだやかな容態のある日、日出麿は屏風に筆を走らせる。「はるかぜの吹きのはげしきうつそみを見そなわすらんおからすの神」、同じ扉風にしたためた直日の返歌。「吹きつのる風のはげしきわがつまを あわれみたまえおからすの神」 おからすの神とは、伊勢の香良洲神社の祭神わかひめぎみのみこと(稚姫君命)のことで、出口直の神霊とされている。昭和一五年一月、阿部内閣が陸海軍の支持を失って総辞職し、かわって米内光政内閣が成立する。このころ、信者の大山美子が京都の中京刑務所で王仁三郎に面会し、物価高を訴えた。「米もないのですよ」「そりゃ当りまえや、コメナイ(米内)内閣だから」「炭もないし…」「お澄をここに入れておくからや。早くお澄を出せばよい」「今は闇(闇相場、闇取引)ばかりで」「闇の後には月〈瑞月、王仁三郎の号〉が出る」「いつ出ますか」「…」二月二九日京都地方裁判所の陪審大法廷において第一審の判決が下る。出口王仁三郎無期懲役、出口宇知麿一五年、井上留五郎、東尾吉三郎、高木鉄男各一ニ年、出口澄一O年…叔父の出口貞四郎は五年、出口新衛は四年の各懲役であった。弁護団はこの判決を不服とし、即自控訴の申し立てをする。各新聞はいっせいにこの判決を報道、法廷の模様を伝えている。四月、米、味噌、木炭、砂糖など一O品目に切符制を採用する。この頃、八重野は風邪から急性肺炎になり、危篤状態になった。それを理由に、弁護団は王仁三郎の保釈をかちとろうとした。その結果、見舞いのために宇知麿の一泊の帰宅が許されるとの朗報。四月一六日四国からきていた伯母佐賀トモエ(父の実姉〉、不屈の精神力で健康を回復しつつあった貞四郎叔父、それに私と弟が中京刑務所に迎えにいった。汽車とハイヤーの、どちらで帰るかと聞かれた父は、「久しぶりで景色をゆっくり眺めたいから」と汽車を選んだ。父は円錐形の深網笠をかぶり、絞つきの羽織はかまをつけていた。その後を二人の刑事がついてくる。「網笠はこちらからは見えて向うからは見えないから、便利なものね」と誰にともなくつぶやき、父は笑った。亀岡釈で人だかりがしたが、私はついと他人のような顔で離れた。その夜、病妻の枕元で隣室の刑事を気にしつつ父が何を語りあかしたか、私は知らない。翌夕、九時の門限にはまだ十分に時間があるのに、几帳面な父らしく「あちら(刑務所)に心配をかけては気の毒だからね」と、なれなじんだ家へでも帰るように獄舎へ向った。父が戻っていった翌一八日早朝、王仁三郎、澄、宇知麿は護送用の大型自動車で大阪北区刑務所へ移される。その四日後、澄もまた許されて一夜を娘の見舞いに戻り、一族に囲まれて明るい笑いの渦をまく。

「八重野が病気してくれたおかげで、私も字知麿も帰れた。お前は親孝行してくれたのう」。母の肺炎は峠をこえていた。どんなにこの日を夢見ていたであろう、一族に囲まれてとった写真の澄はほほえみ、九人の孫たちはそれぞれ、おどけて写っている。直日は詠む。「何をして仕えもうさめ只一日 許されて母の帰り来ませる/寸秒も惜しむおもいに母上の めぐり離れずわが家族どち/この黒白わけたまうまで囚獄ずみ 一生辞せずとのらす母かも」。この頃から農園では総出で田や畑仕事に励む。私たち子供まで、麦踏みや田植えに懸命になる。自活への態勢である。昭和一五年六月、町では食料増産をはかるため、もと大本の土地を私たち小学生までかり出して開墾し、苧や南瓜を作ることになった。私にとっては五年ぶりに見る天窓郷である。恐ろしかった。また友達に何をいわれるかとすくみながら、瓦磯の山に踏みこんだ。これが本当に美しかった天思郷なのだろうか。友達らのいじめから逃れ、酷熱の太陽の下で、私は石や瓦を掘りおこしては夢中で運んだ。が、突然、心臓が止まるかと思った。金線の模様のはいった瓦にくっきりと十曜の紋が刻まれている。私はそれを菊の御紋章と信じこんだ。「ワニさんは枕や寝巻にまで菊の御紋をつけていた」と友達がしゃべっていた言葉が、私の頭の中でがんがんひびきわたる。この決定的証拠をどこにかくそう。私は瓦を抱えて掘端にかけおりた。掘の中に投げこんだまでは覚えているが、後は分からない。意識がもどったときは、上の方で友達の明るい笑い声が聞こえていた。昭和一六年五月二七日、父の実母佐賀シナヨ死去。佐賀家の一人息子であった父をこころよく出口家に養子に出したぐらいだから、シナヨの信仰は一途であった。宇知麿が保釈になるとのデマが流れシナヨにこの吉報を伝えた時、彼女は浮かぬ顔でいった。「あの子が最後まで聖師さまのお供ができすようにと祈っていたのに…」この母の死に自にあえず獄中にいた字知麿は、それが母の望む最後の孝行であったろう。思いがけやす再び父といっしょの時を過ごすことになった。葬犠のため母、私、弟、新衛叔父が父とともに愛媛県大洲へ旅立つ。大阪天満署の巡査二人がついてくる。ジジパパの葬式は孫の祭り、私は船に乗って海を渡れることが嬉しくってならなかった。船中、巡査に監視されながら父と弟と三人、まわり将棋をして遊んだのは忘れえぬ思い出で、なじめなかった父に私は初めて子供らしい親近感を抱いた。仕事の鬼であった父と遊んだのは、生涯この時だけであった。

シナヨの葬儀には、一人の信者も参列を許されなかった。大本の会計を担当していた中村純也がひそかに私たち一行を追って海を渡り、参列者の中にまぎれこむ。親戚のふりをして巡査をごまかし、一室で字知麿と重要な打ち合せをする。この時の滞在は二日間で、宇知麿は一舟び獄へ戻る。ぼっぶりの歌昭和一六(一九四一)年一二月八日未明、六年前の大本事件勃発と同日同時刻、日本はハワイの真珠湾奇襲によって、太平洋戦争に突入する。不思議な暗合である。法廷闘争も激しくおこなわれていた。だが長い未決の生活中、出口澄だけは何のために投獄されているのか最後まで分からずじまいで、ひとかけらも罪の意識はなかった。おそらくこんな被告人は、前代未聞であろう。学問をせぬ澄には文字はひらがながやっとだし、法廷での検事と弁護士のやりとりもかいもくわからぬ。 これでは取調べの係官もさぞ因ったに違いない。役員の東尾吉三郎にあてた澄の書簡が残っている。(原文はすべてひらがな〉「…実のところ、私はこの五年この中にいれられたのであるが、本当のところは知らぬのであります。裁判所で検事さん、判事さんのいわれた意味がわからず、弁護士さんも罪のわけを話して下されたこともないし、さっぱりわかりませぬ故、、どういうことを私がしたがために未決にいるのでありますか、一度わけがらを話してほしいのです。この世のヒナ型として神さまがお使いになっているということより、合点がゆきませぬ。これは神さまのことであるし、人間界の罪はなにをしたのであるか、くわしく話して下さるように願います」

昭和一六年四月一八日澄は六一人の被告人中ただ一人の女性として、未決の独房生活を強いられた。「気を強く広く大きくこまやかにあたたかみある人になりたき」 これは澄の歌であるが、澄の人柄そのままをあらわしてもいた。長い未決の独房にいても、その人柄はつゆほども損なわれてはいない。京都の中京区刑務支所の独房は畳一畳に一畳の板の間がつき、手の届かぬ所に二尺角の窓が一つ。洗面も排便もこの鉄格子の檻の中ですます。司法省から刑事局長一行の未決監視察があったときのこと、彼らは四、五人で廊下を渡りながら大本被告の監房をのぞいていった。澄の独房をのぞいた時、思いもかけず中から声をかけられた。「あんた、そんなところから目ばかり出しておっても話ができしまへんで。まあ、ここへ入って、ゆっくりいっぷくおしやす」。彼らは思わずにっこり会釈を返し、あわてて澄の独房を離れた。帰京した局長は林弁護士に「この前、関西で偉い人に会ってきたよ。大本の二代教主という女、あれは傑物だね」と述懐した。独房で一番恐ろしいのは孤独である。窓越しに見えるのはただ一本の桐の木。この桐だけが生き物であり、澄の喜びを汲み上げる心の友となった。春の角芽のやわらかなときめき、茂り合う夏の葉のたくましい命、やがて散り落ちて知る秋、冬の裸木のいたいたしい枝先…コンクリートのわずかな窓枠ごしにひねもす見つめあい、語りあう。夏の初め、桐は幼いセミをとまらせ、鳴かせてくれた。桐もセミもいじらしく、可愛くて、涙がにじむ。そこには、日を浴びて万物が愛し合い、生かされる姿があった。ある日、不意の訪問客に驚かされる。一羽のスズメが窓枠に止まり、澄をのぞきこんでいるのだ。

「ああ、お前はスズメやないか。どこのスズメやいな」と語りかけると、たちまち仲間が集まってきて、にぎやかに合唱する。次の日、差入れ弁当をへずってスズメのために御飯を残し、高い窓枠においた。スズメは毎日毎日遊びにきて澄の御飯をわけあって食べる。独房が変わっても、スズメたちはちゃんと澄を探しあてて集まった。今度の窓枠にはどうしたものかキビがはえていて、秋になると穂をつける。そのキピにスズメが止まって、楽しげにゆれながらついばんでいる。その喜びが、自然の姿の美しさが澄の胸を深くひたしてくるのだった。ある朝、澄は手のとどくところに、思いがけぬ友を見つけ出す。「まあ、ありがたい。お前はどこから来たんじゃ。ここは虫一匹くる所じゃないのに」と、澄は喜びのあまり、大声をあげた。それは二匹の、ぼつかぶりである。両手を膝の上に行儀よくそろえて首を傾け、黒い顔で澄を見上げる。夫婦らしい。ぼっかぶりというと愛らしいイメージだが、これは綾部地方の方言で、つまりきらわれもののゴキブリyだ。ぼっかぶり夫婦はたいへん律儀者で、毎朝八時になるときまってあらわれ、洗面の水たまりで遊んでゆく。初めははにかんでうつむいていたぼつかぶりも、だんだん澄に慣れなじみ、頭に登ったり、ひざの上でいっぷくしたりである。そんなとき、よく歌をうたって聞かせた。夫婦はいつかすましこんで、頭をちょっと傾けて聞きいる。そのきまじめな様子がおかしくて、笑いころげたこともある。澄の与える餌を、夫婦仲よく上品に分けあってたべていた。ある朝一匹で現われたぼつかぶりが、いかにも元気なく歩みよってくる。「お前の嫁さん、今日はどうしたんやいな」と問いかけても、しょぼしょぼするばかり。次の臼も次の日も一匹だけ。たまりかねて澄は、担当の看守に「黒い小さな虫を見かけなかったか」と聞いてみた。「なんという虫か知らんが、この房の前を二匹の虫が通っていて、一匹をうっかりして踏みつぶしてしまった」。しかたがない。交通事故である。澄はやもめの虫にいい聞かせる。「お前は虫やでな、ちょっとも遠慮はいらんさかい、のちぞいを連れてきて、見せておくれよ」、それでも、ぼつかぶりは寂しげに一匹できた。

こうした交遊が八、九ヵ月もつづいたある日、いつにない威勢のよい歩きぶりで、ぼつかぶりがシュッシュッとやってくる。その後に恥ずかしげな花嫁を従えて。「お前さん、カカアもらったのかい。よかったなあ、ははは」と澄は祝ってやった。新夫婦はなぜか夜ふけでも帰らず、澄の夜具の中にもぐりこんでくるようになった。ぼつかぶりの離れがたそうな気配から、保釈の日が近いのではないかと予感する。間もなく弁護士から、保釈の知らせがあったが、こみ上げる喜びと共に、澄は「ああ、この虫を置いてゆくのはかなわん」と真実とまどう。しかし保釈は中止になり、再び向じ独房にぼつかぶりと暮らすことになる。獄中にいる信者の着物を洗濯させてほしいと澄は看守に頼みこみ、毎日、一O本ほどの手拭を洗っていた。娘たちの面会にくるうれしい日、澄は歯ミガキ粉を念いりに顔にはたいて会う。獄中で患った丹毒の跡を認すためであった。「いつもいうように、私のところに〈面会に〉くるよりも、父さま〈王仁三郎〉と息子(獄中にいる婿養子たち〉の方に行く方が嬉しいです。私はなんとなく、ここへはいらしてもらった方が気持がいいのです。私のことは心配せいでもよろしいです。一一の時から今までの修行よりも、こちらへ来てからの方が悟りが開けたような気がして、とても嬉しいです。お前たちに勝手に会えぬのはかなわんなれど、その他は結構な修行であると思っています。〈八重野あての手紙、原文ひらがなのみ〉住之江あて便りの末尾には「ありがたいありがたいのでありがたいありがたいより言葉ないなり」と書き添えている。

小学生の私は、母に連れられて何度も大阪の裁判所にいった。子供だから法廷内にいれてもらえない。廊下を通る祖父母や父を一目眺めるためだ。祖父は茶目つけたっぷり、父は謹厳そのもの、祖母は片手で網笠を上げて信者たちに笑いかけるが、千両役者のように堂々としていた。中京区刑務所の女看守平井ツルは澄の人柄を慕うようになり、ひそかに黒砂糖や巻ずしやうどんまで与えてくれたという。ある時など、こっそり火をつけた煙草をいれてくれた。「これは神さまが『この事件はどうなるだろう』と心配している私に謎で教えて下さったのだ。この事件は煙になって消えてしまうということに違いない。こんなところにはいることのない者がはいったのゃから、これは煙になるということを神さまがいうて下さったのである…そう思いながら、私は煙草を喫うていました。この時の煙車ほど、おいしい嬉しい味というものはあるものではありません。煙草は喫えば減る、喫わずと、おいても減ってゆく、喫んでも惜しい、喫まずとも惜しいで、一本の煙車を心ゆくまで楽しみました」ツルの澄に対して示した規則破りは仲間に密告され、宮津に転勤になる。正直者のツルは宮津の転勤をことわり、辞職して家庭の人となった。ツルの父親は山科刑務所で王仁三郎の担当になり親切にしてくれたと、澄は伝えている。保釈後も、ヅルは懐かしさに再三、澄を亀岡に訪ねてきていた。京都の未決に四年、澄は大阪拘置所の五畳ほどの雑一房に移される。、ぼつかぶりとの、お別れだ。「ほしくらに三とせなじみしぼつかぶりに別るる今日はつらく思うも/なが月日われとなじみし、ぼつかぶり 仲よく暮らせよ妻を迎えて/四年を慣れなじんだる、ぼつかぶり棄はまめなか子らはふえたか」