「序文」『霊界物語』三六巻一章


 現代の学者は、『宗教は芸術の母なり』とか、『宗教が芸術を生むのだ』と謂つて居るさうである。私はそれと反対に『芸術は宗教の母なり、芸術は宗教を生む』と主張するものである。 洪大無辺の大宇宙を創造したる神は、大芸術者でなければならぬ。天地創造の原動力、これ大芸術の萌芽である。宗教なるものは神の創造力や、その無限の意志の僅かに一端を、具体的に人の手を通し口を徹して現はされたものに過ぎない。さうでなくては、宗教が神や仏を仮想の下に描いたことになつてしまふ。ソンナ根拠の薄弱なる神または仏なりとすれば、吾々は朝夕これに礼拝し奉仕する心がどうしても湧いて来ない道理だ。しかるに天地の間には、何物か絶対力の存在する如く心中深く思惟さるるのは、要するにこの宇宙に人間以上の霊力者の儼存するものたる事を、朧気ながらも感知し得らるるからである。如何なる無神論者でも、地震、雷鳴、大洪水等の災厄に遭遇した時は、不知不識の間に合掌し、何ものかの救ひを求むるのは自然の人情である。裏の神諭に曰ふ『雷鳴の烈しき時、地震の強く揺る時は、神を祈らぬものはなし。その時の心を以て、平常に神を求めよ祈れよ』とある。どうしても宇宙には大芸術者たる神が儼存し玉ひて、万有一切を保護し給ふことは争はれぬ事実である。現代の人は神と云ふのを愧ぢて、自然とか天然力とかの雅号にかくれて、神と唱ふることを避けようとして居るものが多いのは、実に残念な事である。 出口直子刀自の筆先を一見して、低級な神だとか拙劣な文章だとか、到底神の言として見るに忍びないとか、筆先は怪乱狂暴一読の価値なきものだとか謂つて居る人もソロソロ現はれて来たやうである。しかしながら私は決してさうは思はない。茲に一つの例を挙げて曰ふならば、艮金神国常立尊は大海の潮水の如きものである。そして出口教祖は手桶のやうなものである。その手桶に汲み上げられた一杯の潮水こそ、教祖の手になれる艮の金神の所謂筆先そのものである。しかしながら大海の潮水も、手桶に汲み上げられた潮水も、その色において、鹹味において、少しも変化は無きはずである。さすれば如何なる卑近な言を以て表はされた筆先と雖も、神様の意志表示に就ては毫末も差支ないものである。筆先にも『出口直の落ぶれものに書かした筆先であるから、人民が疑うて誠に致さぬは無理なきことであるぞよ云々』と示されてある。落ちぶれたといふ言葉は物質的のみを指して仰せられたのではない。教育の程度にも神魂にも応用すべきものであります。水は方円の器に従つてその形を変ずる如く、神即ち大海の潮水も同様に、その器に由つて変化し、その容器の大小と形状に従つて、力と形に変化を来たすは自然の道理である。故に出口教祖の筆先が如何に拙劣なものでも艮の金神国常立尊の権威を傷つくべき道理は決してない。ただ今まで出口教祖の身魂を、全艮の金神、全国常立尊そのままの顕現と信じて居た人の小言に過ぎないのであります。それ故、筆先にも女子の身魂が克く調べてくれと断つてある所以であります。要するに筆先そのものは、神の芸術の腹から産れた所の宗教(演劇)の脚本を作るべき台詞書であることは、既に已に霊界物語第十二巻の序文に述べた通りであります。変性女子そのものも、決して瑞の御魂の全体ではない。矢張大海の潮水を手桶に汲みあげたその一部分であります。私は世人の見て、最も不可解なる筆先の台詞を茲に纏めて、嘗て神霊界を探険して見聞したる神劇に合せて、教祖の筆先の出所や、如何なる神の台詞なるやを明かにせむため、この物語を口述したのであります。この神幽二界の出来事を一巻の書物に綴つたのが霊界物語である。霊界の幾分なりとも消息が通じない人の眼を以て教祖の筆先を批評するのは、実に愚の至りであります。 あゝ惟神霊幸倍ませ。   

大正十一年九月二十四日正午十二時 於瑞祥閣