第四六章 神示の宇宙 その一〔一九六〕
 我々の肉眼にて見得るところの天文学者の所謂太陽系天体を小宇宙といふ。 大宇宙には、かくの如き小宇宙の数は、神示によれば、五十六億七千万宇宙ありといふ。宇宙全体を総称して大宇宙といふ。 我が小宇宙の高さは、縦に五十六億七千万里あり、横に同じく、五十六億七千万里あり、小宇宙の霊界を修理固成せし神を国常立命といひ、大宇宙を総括する神を大六合常立命といひ、また天之御中主大神と奉称す。 小宇宙を大空と大地とに二大別す。しかして大空の厚さは、二十八億三千五百万里あり、大地の厚さも同じく二十八億三千五百万里ある。 大空には太陽および諸星が配置され、大空と大地の中間即ち中空には太陰及び北極星、北斗星、三ツ星等が配置され、大地には地球及び地汐、地星が、大空の星の数と同様に地底の各所に撒布されあり。大空にてはこれを火水といひ、大地にてはこれを水火といふ。大空の星はそれぞれ各自光を有するあり、光なき暗星ありて凡て球竿状をなしゐるなり。 大地氷山の最高部と大空の最濃厚部とは密着して、大空は清く軽く、大地は濁りて重し。今、図を以て示せば左の如し。
 大空の中心には太陽が結晶し、その大きさは大空の約百五十万分の一に当り、地球もまた大地の約百五十万分の一の容積を有せり。しかして太陽の背後には太陽と殆ど同形の水球ありて球竿状をなし居れり。その水球より水気を適宜に湧出し、元来暗黒なる太陽体を助けて火を発せしめ、現に見る如き光輝を放射せしめ居るなり。故に太陽の光は火の如く赤くならず、白色を帯ぶるはこの水球の水気に原因するが故なり。 太陽はかくの如くして、小宇宙の大空の中心に安定し、呼吸作用を起しつつあるなり。
 また、地球(所謂地球は神示によれば円球ならずして寧ろ地平なれども、今説明の便利のため従来の如く仮りに地球と称しておく)は、四分の三まで水を以て覆はれあり。水は白色なり。この大地はその中心に地球と殆ど同容積の火球ありて、地球に熱を与へ、かつ光輝を発射し、呼吸作用を営み居るなり。而て、太陽は呼吸作用により吸収放射の活用をなし、自働的傾斜運動を起しゐるなり。されど太陽の位置は大空の中心にありて、少しも固定的位置を変ずることは無し。
 地球は大地表面の中心にありて、大地全体と共に自働的傾斜運動を行ひ、その傾斜の程度の如何によりて、昼夜をなし春夏秋冬の区別をなすものなり。自働的小傾斜は一日に行はれ、自働的大傾斜は四季に行はる。彼岸の中日には太陽と地球の大傾斜が一様に揃ふものなり。また六十年目ごとにも約三百六十年目ごとにも、夫々の大々傾斜が行はれ、大地および地球の大変動を来す時は即ち極大傾斜の行はるる時なり。 太陽は東より出でて西に入るが如く見ゆるも、それは地上の吾人より見たる現象にして、神の眼より見る時は、太陽、地球共に少しも位置を変ずることなく、前述の如く、単に自働的傾斜を行ひてゐるのみなり。 天に火星、水星、木星、金星、土星、天王星、海王星その他億兆無数の星体ある如く、大地にもまた同様に、同数同形の汐球が配列されありて、大空の諸星も、大地の諸汐球も、太陽に水球がある如く、地球に火球がある如く、凡て球竿状をなしゐるものにして、各それ自体の光を有しゐるなり。なほ、暗星の数は光星の百倍以上は確かにあるなり。 太陰は特に大空大地の中心即ち中空に、太陽と同じ容積を有して一定不変の軌道を運行し、天地の水気を調節し、太陽をして酷熱ならしめず、大地をして極寒極暑ならしめざるやう保護の任に当りゐるものなり。 しかして太陰の形は円球をなし、半面は水にして透明体なり。而てそれ自体の光輝を有し、他の半面は全く火球となりゐるなり。今図を以て示せば次の如し。(第四図参照)
 太陰は大空大地の中心を西より東に運行するに伴ひ、地汐をしてあるひは水を地球に送らしめ、或は退かしむるが故に満潮干潮の現象自然に起るものなり。神諭に、『月の大神様はこの世の御先祖様である』と示しあるは、月が大空と大地の呼吸作用たる火水を調節するの謂なり。火球は呼気作用を司り、地汐は吸気作用を司る。『富士と鳴門の仕組が致してある』といふ神示は、火球の出口は富士山にして、地汐は鳴門を入口として水を地底に注吸しゐることを指示せるものなり。火球及び地汐よりは、なほ人体に幾多の血管神経の交錯せる如く、四方八方に相交錯したる脈絡を以て、地球の表面に通じゐるものなり。
(大正一〇・一二・一五 旧一一・一七 桜井重雄録)

 

第四七章 神示の宇宙 その二〔一九七〕

 前節に述べたるところを補ふために、更に少しく断片的に説明を加へ置くべし。しかし自分の宇宙観は凡て神示のままなれば、現代の天文学と如何なる交渉を有するや否やは全然自分の関知するところにあらず。
 自分は神示に接してより二十四年間、殆ど全く世界の出版物その物から絶縁し居たり。随つて現在の天文学が如何なる程度にまで進歩発達しゐるかは無論知らざるなり。故に自分の述ぶる宇宙観に対して、直ちに現代の天文学的知識を以て臨むとも、俄に首肯し難き点少なからざるべし。
 前節に引続き太陽のことより順次述ぶる事とせり。
 太陽は暗体にして、太陽の色が白色を加へたる如き赤色に見ゆるは、水が光り居るが故なり。暗夜に赤布と白布とを比較して見れば白布の方がハツキリ見ゆるものなり。これによりて見るも水の光りゐることが判じ得るなり。
 大宇宙間の各小宇宙は互に牽引してゐるものにして、それと同じく太陽がその位置を支持するは諸星の牽引力によるものなり。故に天主は太陽を支持するために先づ諸星辰を造りたり。(第一篇天地剖判の章参照)
 太陽と我が地球との距離は、小宇宙の直径五十六億七千万里の八分の一に当り、而て大空の諸星は皆それ自体の光を放ちつつ太陽の高さ以上の位置を占めゐるなり。太陽の光は、決して大空に向つては放射されず、恰も懐中電燈の如く、凡て大地に向つてのみ放射さるるなり。
 普通我々は太陽の昇る方角を東としてゐるが、本来宇宙それ自体より言へば、東西南北の別なし。仏説に、
『本来無東西何処有南北』
とあるも、この理に由る。今、東西南北の区別を立つれば、大地の中心たる地球が北極に当る。北とは気垂、水火垂、呼吸垂、の意なり。南とは皆見えるといふ意味の言霊なり。
 地球は前述の如く、世の学者らの信ずる如き円球にあらずして地平なり。我々の所謂地球は、大地の中心なる極めて一小部分にて、大地は第一図に示す如く、悉く氷山なり。而てその氷山は所謂地球を相距るほど愈嶮峻になり行く。普通氷山の解けるといふことは、地球の中央に接近せる氷山の解けるのみにして、大部分の氷山は決して解くることはなきものなり。
 地球説の一つの証拠として、人が海岸に立ちて沖へ行く舟を眺める場合に、船が段々沖へ行くに従つて、最初は船体を没し、次第に檣を没して行くといふ事実を挙げられるやうだが、それは我々の眼球がすでに円球に造られてあるが故である。望遠鏡は凹鏡であるから、人間の瞳との関係で、遠方が見えるのである。故に地球説を固執する人々は先づ人間の眼球そのものの研究より始めねばなるまい。
 地球はまた一種の光輝を有し、暗体ではない。
 宇宙全体の上に最も重大なる役目を有するのは、太陰即ち月である。太陽の恩恵によつて万物の生成化育し行くことは誰でも知つてゐるが、蔽はれたる月の洪大無辺なる恩恵を知る者は殆ど全く無い。
 宇宙の万物は、この月の運行に、微妙にしてかつ重大なる関係を有つてゐる。月は二十九日余即ち普通の一月で、中空を一周する。但し、自転的運行をするのではなく、単に同一の姿勢を保つて運行するに過ぎない。大空における月の位置が、たとへば月の三日には甲天に、四日には乙天と順次に変つて行くのは、月が静止してゐるのでなくして西より東に向つて運行してゐる證拠である。
 月が我々の眼に見えるのは、第一図の上線を月が運行してゐる場合で、下線を通過してゐる時は全然我々には見えない。月が上線を運行する時は、月読命の活動であり、下線を運行する時は素盞嗚尊の活動である。
 次に月を眺めて第一に起る疑問は、あの月面の模様である。昔から猿と兎が餅を搗いてゐるといはれるあの模様は、我々の所謂五大洲の影が月面に映つてゐるのである。それ故、何時も同じ模様が見えてゐる。蝕けた月の半面に朧げな影が見えるのは、月それ自体の影である。つまり月の半面たる火球の部分が見えてゐるからである。
 月蝕の起るは、月が背後から太陽に直射された場合である。日蝕は、月が太陽と地球との中間に入つて、太陽を遮ぎつた場合である。
 銀河は、太陽の光が大地の氷山に放射され、それがまた大空に反射して、大空に在る無数の暗星がその反射の光によつて我々の眼に見えるのである。銀河の外椽に凸凹あるは氷山の高低に凸凹あるがためである。
 また彗星は大虚空を運行し時に大地より眺められる。大虚空とはこの小宇宙の圏外を称するので、青色を呈してゐる。大空の色は緑色である。しかし、我々は大空の色のみならず、青色の大虚空をも共に通して見るが故に、碧色に見えるのである。
 この小宇宙を外より見れば、大空は大地よりはずつと薄き紫、赤、青等各色の霊衣を以て覆はれ、大地は黄、浅黄、白等各色の厚き霊衣を以て包まれてゐる。そしてこの宇宙を全体として見る時は紫色を呈してゐる。これを顕国の御玉といふ。
 わが小宇宙はこれを中心として他の諸宇宙と、それぞれ霊線を以て蜘蛛の巣の如く四方八方に連絡し相通じてゐるのであつて、それらの宇宙にも、殆ど我々の地球上の人間や動植物と同じ様なものが生息してゐない。但この我が小宇宙における、地球以外の星には神々は坐ませども、地球上に棲息する如き生物は断じてゐない。この小宇宙と他の宇宙との関係を図によりて示せば、第五図の如くである。

(大正一〇・一二・一五 旧一一・一七 桜井重雄録)
第四八章 神示の宇宙 その三〔一九八〕
 王仁は前席において、太陽は暗体であつて、その実質は少しも光輝を有せぬと言ひ、また地球は光体であると言つた事に就き、早速疑問が続出しましたから、念のために茲に改めて火と水との関係を解説しておきます。されど元来の無学者で、草深き山奥の生活を続け、かつ神界よりの厳命で、明治以後の新学問を研究する事を禁じられ、恰も里の仙人の境遇に二十四年間を費したものでありますから、今日の学界の研究がどの点まで進ンで居るかと云ふ事は、私には全然見当が付かない。日進月歩の世の中において、二十四年間読書界と絶縁して居たものの口から吐き出すのですから、時世に遅れるのは誰が考へても至当の事であります。昔話にある、浦島子が龍宮から帰つて来た時のやうに世の中の学界の進歩は急速であつて、私が今日新なる天文、地文、その他の学問を見ましたならば、嘸驚異の念にからるるで在らうと思ひます。しかし私としては今日の科学の圏外に立ち、神示のままの実験的物語をするまでです。 『神ながら虚空の外に身をおきて日に夜に月ぬものがたりする』現代文明の空気に触れた学者の耳には到底這入らないのみならず、一種の誇大妄想狂と見らるるかも知れませぬ、然れど『神は賢きもの、強きものにあらはさずして、愚なるもの、弱きものに誠をあらはし玉ふ』と言へる聖キリストの言を信じ、愚弱なる私に真の神は、宇宙の真理を開示されたのでは無からうかとも思はれるのであります。 凡て水は白いものであつて、光の元素である。水の中心には、一つのゝがあつて、水を自由に流動させる。もしこのゝが水の中心から脱出した時は固く凝つて氷となり、少しも流動せない。故に水からゝの脱出したのを、氷と云ひ、または、氷と云ふ。火もまたその中心に水なき時は、火は燃え、かつ光る事は出来ぬ。要するに水を動かすものは火であり、火を動かすものは水である。故に、一片の水気も含まぬ物体は、どうしても燃えない。 太陽もその中心に、水球より水を適度に注入して、天空に燃えて光を放射し、大地はまた、氷山や水の自然の光を地中の火球より調節して、その自体の光を適度に発射して居る。 次に諸星の運行に、大変な遅速のあるやうに地上から見えるのは、地上より見て星の位置に、遠近、高低の差あるより、一方には急速に運行する如く見え、一方には遅く運行するやうに見えるのである。が、概して大地に近く、低き星は速く見え、遠く高き星はその運行が遅いやうに見える。 例へば、汽車の進行中、車窓を開いて遠近の山を眺めると、近い処にある山は、急速度に汽車と反対の方向に走る如く見え、遠方にある山は、依然として動かないやうに見えまたその反対の方向に走つても、極めて遅く見ゆると同一の理である。 前述の如く、太陰(月)は、太陽と大地の中間に、一定の軌道を採つて公行し、三角星、三ツ星、スバル星、北斗星の牽引力に由つて、中空にその位置を保つて公行して居る。月と是等の星の間には、月を中心として、恰も交感神経系統のやうに、一種の微妙なる霊線を以て、維持されてある。 太陽と、大空の諸星との関係もまた同様に太陽を中心として、交感神経系統のやうに一種微妙の霊線を以て保維され、動、静、解、凝、引、弛、合、分の八大神力の、適度の調節に由つて、同位置に安定しながら、小自動傾斜と、大自動傾斜を永遠に続けて、太陽自体の呼吸作用を営ンで居る。 大地もまたその中心の地球をして、諸汐球との連絡を保ち、火水の調節によつて呼吸作用を営み居る事は、太陽と同様である。地球を中心として、地中の諸汐球は、交感神経系統の如く微妙なる霊線を通じて、地球の安定を保維して居る。 また地球面を大地の北極と云ふ意味は、キタとは、前述の如く、火水垂ると云ふことであつて、第六図の如く、(挿図参照)太陽の水火と、大地の中心の水火と、大地上の四方の氷山の水火と、太陰の水火の垂下したる中心の意味である。
 人間が地球の陸地に出生して活動するのを、水火定と云ふ。故に地球は生物の安住所であり、活動経綸場である。また水火即ち霊体分離して所謂死亡するのを、身枯留、水枯定と云ふのは、火水の調節の破れた時の意であります。されど霊魂上より見る時は生なく、死なく、老幼の区別なく、万劫末代生通しであつて、霊魂即ち吾人の本守護神から見れば、単にその容器を代へるまでであります。
(大正一〇・一二・二七 旧一一・二九 加藤明子録)
第四九章 神示の宇宙 その四〔一九九〕
『瑞月憑虚空、照破万界暗』とは神示の一端である。 瑞月王仁は前述の如く、現代の盛ンな学説に少しも拘泥せず、霊界にあつて見聞きせるそのままを、出放題に喋舌るばかりである。これに就いては、満天下の智者学者が邪説怪論として、攻撃の矢を向けて来るであろう。 大空に懸る無数の星辰の中には、その光度に強弱あり、厚薄ありて、その色光一定して居ないのは、決して星の老若大小によるのではない。その水火調節の分量及び金、銀、銅、鉄等の包含の多少の如何に由つて種々に光色が変つて見えるまでである。水の分量の多い時は白光を顕はし、火の分量の多い星は赤色を表はす。故に星の高低や位置に由つて種々の光色を各自に発射して居る。星の光の☆の如く五光射形に地球より見えるのは火の量分の多い星であり、〓の如く六光射形に見ゆるのは水の量分の多い星である。火の字の各端に○点を附して見ると〓のごとく五つの○点となる。五は天を象り、火を象る。また水の字の各端に○点を附して見ると、〓の如く六つの○点となる。六は水を象り、地を象る。故に五光射星と六光射星は天上にあつて水火の包含量の多少を顕はして居るのであります。 また星は太陽の如く、自動傾斜運動をなさず、月球のやうに星自体が安定して光つて居るから、五光射、六光射が良く地球上から見得らるるのである。 太陽もまた星のやうに、安定し自体の傾斜運動をせなかつたら、五光射体と見え、または六光射体と見えるのであるが、その自動的傾斜運動の激しきために、その光射体が円く見えるのである。譬へば蓄音機の円盤に、色々の画や文字を書き記しておいて、これを廻して見ると、その色々の形の書画が盤と同様に、丸くなつて見えるやうなものである。 また北斗星と云ふのは、北極星に近い星であつて、俗にこれを七剣星、または破軍星と称へられてゐる。この七剣星はまた天の瓊矛とも言ひ、伊邪那岐の神、伊邪那美の神が天の浮橋に立つて漂へる泥海の地の世界を、塩古淤呂古淤呂にかき鳴らしたまひし宇宙修理固成の神器である。今日も猶我国より見る大空の中北部に位置を占めて、太古のまま日、地、月の安定を保維して居る。 また北斗星は、円を画いて運行しつつある如く地上より見えて居るが、これは大空の傾斜運動と、大地の傾斜運動の作用に由つて、北斗星が運行する如く見ゆるばかりである。万一北斗星が運行するやうな事があつては、天地の大変を来すのである。しかし他の星は、地上より見て、東天より西天に没する如くに見ゆるに拘らず、北斗星の運行軌道の、東西南北に頭を向けて、天界を循環するが如くに見ゆるのは、その大空の中心と、大地の北中心に位して居るため、他の諸星と同じやうに見えぬのみである。譬ば、雨傘を拡げて、その最高中心部に北極星稍下つて北斗星の画を描き、その他の傘の各所一面に、星を描いて直立しその傘の柄を握り、東南西北と傾斜運動をさせて見ると、北斗星は円を描いて、軌道を巡る如く見え、広い端になるほどその描いた星が、東から西へ運行するやうに見える。これを見ても、北斗星が北極星を中心として円き軌道を運行するのでない事が分るであらう。 また太陽の光線の直射の中心は赤道であるが、大地の中心は北極即ち地球である。大地の中心に向つて、大空の中心たる太陽が合せ鏡の如くに位置を占めて居るとすれば、地球の中心たる北部の中津国即ち我が日本が赤道でならねばならぬと云ふ人があるが、それは太陽の傾斜運動と、地球の傾斜運動の或る関係より、光線の中心が地球の中心即ち北部なる我日本に直射せないためである。 また赤道を南に距るほど、北斗星や北極星が段々と低く見え、終には見えなく成つてしまふのは、大空と大地の傾斜の程度と、自分の居る地位とに関係するからである。これも雨傘を上と下と二本合して傾斜廻転をなしながら考へて見ると、その原因が判然と分つて来る。
(大正一〇・一二・二七 旧一一・二九 外山豊二録)
第五〇章 神示の宇宙 その五〔二〇〇〕
 宇宙間には、神霊原子といふものがある。また単に霊素と言つてもよい、一名火素とも言ふ。火素は万物一切の中に包含されてあり、空中にも沢山に充実して居る。また体素といふものがあつて単に水素とも云ふ。火素水素相抱擁帰一して、精気なるもの宇宙に発生する、火素水素の最も完全に活用を始めて発生したものである。この精気より電子が生れ、電子は発達して宇宙間に電気を発生し、一切の万物活動の原動力となるのである。 そしてこの霊素を神界にては、高御産巣日神と云ひ、体素を神御産巣日神と云ふ。この霊体二素の神霊より、遂に今日の学者の所謂電気が発生し、宇宙に動、静、解、凝、引、弛、合、分の八力完成し、遂に大宇宙小宇宙が形成された。ニユートンとやらの地球引力説では、到底宇宙の真理は判明しないでありませう。 物質文明は日に月に発達し、神秘の鍵を以て、神界の秘門を開いた如くに感ぜられる世の中になつたと言つて、現代の人間は誇つて居るやうであるが、未だ未だ宇宙の真理や科学は神界の門口にも達して居ない。しかし今日は、高皇産霊(霊系)、神皇産霊(体系)の二大原動力より発生したる電気の応用は多少進ンで来て、無線電信や、電話やラヂオが活用されて来たのは、五六七の神政の魁として、尤も結構な事であります。しかしながら物には一利一害の伴ふもので、善悪相混じ、美醜互に交はる造化の法則に漏れず、便利になればなるほど、一方にまたそれに匹敵する所の不便利な事が出来るものである。電気なるものは、前述の如く宇宙の霊素、体素より生成したものであるが、その電気の濫用のために、宇宙の霊妙なる精気を費消すればするだけ、反対に邪気を発生せしめて宇宙の精気を抹消し、ために人間その他一切の生物をして軟弱ならしめ、精神的に退化せしめ、邪悪の気宇宙に充つれば満つるほど、空気は濁り悪病発生し害虫が増加する。されど今日の人間としては、これ以上の発明はまだ出来て居ないから、五六七神世出現の過渡時代においては、最も有益にして必要なものとなつて居る。モ一歩進んで不増不減の霊気を以て電気電話に代へるやうになれば、宇宙に忌はしき邪気の発生を防ぎ、至粋至純の精気に由つて、世界は完全に治まつて来る。この域に達するにも、今日のやうな浅薄なものを捨て、神霊に目醒めねばならぬ。大本信者の中には、電気燈を排斥する方々が、たまたま在るやうに聞きますが、それは余り気が早過ぎる。これ以上の文明利器が発明されて、昔の行燈が不用になつたやうに、電燈が不用になる時機の来た時に電気を廃すればよい。 また宇宙には無限の精気が充満してあるから、何程電気を費消しても無尽蔵である。決して、無くなると云ふ心配は要らぬ。また一旦電気濫費より発生した邪気も宇宙無限の水火の活動によつて、新陳代謝が始終行はれて居るから大丈夫である。この新陳代謝の活用こそ、神典に所謂祓戸四柱の大神の不断的活動に由るのである。 人間は宇宙の縮図であつて天地の移写である。故に人体一切の組織と活用が判れば、宇宙の真相が明瞭になつて来る。諺に曰ふ『燈台下暗し』と、吾人の体内にて間断なく天の御柱なる五大父音と、国の御柱なる九大母音が声音を発して生理作用を営み居る如く、宇宙にもまた無限絶大の声音が鳴り鳴りて、鳴り余りつつある。しかして大空は主として五大父音を発声し、地上及び地中は主として九大母音が鳴り鳴りて、鳴り足らざる部分は天空の五大父音を以てこれを補ひ、生成化育の神業を完成しつつある。天空もまた大地の九大母音の補ひによつて、克く安静を保ち、光温を生成化育しつつある。またこの天地父母の十四大音声の言霊力によつて、キシチニヒミイリヰの火の言霊を生成し、またケセテネヘメエレヱの水の言霊と、コソトノホモヨロヲの地の言霊と、クスツヌフムユルウの結(即ち神霊)の言霊とを生成し、天地間の森羅万象を活き働かしめつつ造化の神業が永遠無窮に行はれて居る。試みに天空の声を聞かむとすれば、深夜心を鎮めて、左右の人指を左右の耳に堅く当てて見ると、慥にアオウエイの五大父音を歴然と聞くことが出来る。瑞月王仁の無学者がこンなことを言つても、現代の学者は迂遠極まる愚論と一笑に附し去るであらうが、身体を循環する呼吸器音や、血液や、食道管や、腸胃の蠕動音がそれである。しかるにその音声を以て宇宙の音響と見做すなど、実に呆れて物が言へぬと笑はれるであらう。安くンぞ知らむ、人間の体内に発生する音響そのものは、宇宙の神音霊声なることを。今医家の使用する聴診器を応用して考へ見る時は、心臓部より上半身の体内の音響は、五大父音が主として鳴り轟き、以下の内臓部の音響は九大母音鳴り渡り、その他の火水地結の音声の互に交叉運動せる模様を聞くことが出来る。人体にして是等の音声休止する時は、生活作用の廃絶した時である。宇宙もまたこの大音声休止せば、宇宙は茲に潰滅してしまふ。地中の神音は人間下体部の音響と同一である。ただ宇宙と人体とは大小の区別あるを以て、その音声にも大小あるまでである。大声耳裡に入らず、故に天眼通、所謂透視をなすに瞑目する如く、宇宙の大声を聞かむとすれば、第一に閉耳するの必要がある。神典に曰ふ、『鳴り鳴りて鳴り余れる処一所あり、鳴り鳴りて鳴り足らざる処一所あり』と、これ大空及び大地の音声活用の神理を示されたものである。聖書に曰ふ『太初に道あり云々』と、これによりて宇宙言霊の如何なる活用あるかを窺知すべきである。
(大正一〇・一二・二八 旧一一・三〇 松村仙造録)(第四六章~第五〇章 昭和一〇・一・二三 於車中 王仁校正)
さんぜんせかい、いちどにひらくむめのはな、こんじんのよになりたぞよ。さんぜんせかいが、いちどにひらくぞよ。しゆみせんざんにこしをかけ、あをくもがさでみみがかくれぬぞよ。(明治三十七年九月六日神諭)