第四章 相応の理霊界は宇宙の実体界■霊界は宇宙の実体界で、現界は霊界の移写、つまり映像の世界である。ヒンズー教では、この宇宙の創造はブラフマンの遊戯だといい、この世は神によって作りだされたマーヤ(幻影)だという考え方がある。仮の世というのも仏教の影響であろうが、日本人の多くに普遍化した思い方だ。一方、唯物論者は霊界とか天国は人聞の想像力の産物、幻想だという。つまり霊界は、現実の世界を頭の中で移写したものだと逆向きにとらえる。霊界を見てきた人がいるといえば、「そりゃ幻覚だ」で片づける。王仁三郎によれば幽界と顕界との間は、相応の理によってつながる。つまり現界にあったことは霊界にあり、霊界にあったことは現界にそれに相似のものがあるという。「現界すなわち自然界の万物と、霊界の万物との間には、惟神の順序によって、相応なるものがある。また人聞の万事と天界の事物との聞には動かすべからざる理法があり、またその連結によって相応なるものがある」(『霊界物語』四八巻一O章「天国の富」)自然界とは、王仁三郎の定義によれば、「太陽の下にあって、これより熱と光を得る一切の事物」(『霊界物語』四七巻二一章「跋文」)だ。この自然界は、総体の上からも分体の上からも、ことごとく霊界と相応している。だから自然界の一切の事物の有力因(原動力)は霊界にある。神は瞬時も休むことなく活動しているが、それは目的があるからだ。目的のことを、王仁三郎は用と表現する。用の字義は「はたらき」で、働きには必ず目的がある。その用の結果が形体として実現する。たとえば日常のこまごまとした用のつみ重ねが、家庭を形づくり、生命をはぐくむ。虫は虫、烏や獣はそれなりのやり方で、用を実現する。この世に存在する限り、一つとして不要のものはないという。神が宇宙を創造したとき、まず幽の顕なる霊界を創り、その用を発揮して、顕の幽、顕の顕なる現界を創った。霊界と現界の間には「相応の理」なる法則が確立し、霊界事物と自然界事物との相応は、神の用によってつながる。ということは、霊界がなくなったら、自然界における一切の事物もまた存在し得ないのだ。相応の理に造られし世の中は 現界霊界同一なりけり現界にありしことごと霊界に 相応すると思へば恐ろし■コンピュータは擬似霊界?神が霊界を創り相応の理によって現界に移写したように、人聞は擬似霊界であるコンピュータを作る。人間の用によって作り出す機械の中では、人聞の頭脳で考えたもの(擬似霊界) の移写がコンピュータだと考えられないだろうか。人聞の頭脳の移写であるコンピュータの場合、ハードウェアと呼ばれる電子回路などで組まれた機械の部分(人間でいえば身体―|脳)と、ソフトウェアと呼ばれるプログラムなどの情報の部分(人間で言えば精神とか意志想念)からできている。さらに外に手足をつけいれぱロボットになる。情報の部分は容易に変化させることが可能だ。情報はその情報内部の構造が分からないかぎり、電子顕微鏡で見ても意味不明であり、電子回路の電流の状態、磁気の状態、電波で送れば電波の状態、音で送れば音波の状態、人間に読める文字、記号とかさまざまな物質的形態をとり得る。コンピュータで作りだされる映像(コンピュータ・グラフィックス)は、コンピュータ内部では数式と数値などを組み合わせたプログラムの形をとっている。つまりプログラムの移写が映像だ。現在、機械、建築物の設計あるいは気象などの自然現象の解明は、コンピュータの内部に本物を移写したモデルを作り出すこと(コンピュタ・シミュレーション)によって行なわれつつある。この現実を移写したコンピュータの世界では、時間や空間を自由に伸縮させ操作することが可能だ(必要なら複数の時間軸をとることもできる)。さらに、コンピュータと外界とをつなげれば(インタ―フェース)、霊界の移写が現界であるように、コンピュータ内の世界を外界に移写することも可能である。相応の理「相応の理とは何かを知るものは、宗教団体を通じて一人もないといってもいいくらいである。そのことを知らなくては、霊界について明白な知識を持つことはできない。霊界の事物に無智な人聞はまた、霊界から自然界にくる内流について知ることはできないし、また霊的事物と自然的事物に対する関係すら、知ることができない。また人聞の霊魂がその身体に及ぼすところの活動や、死後における人間の情態に関して、少しも明白な思想を持つことはできない」(『霊界物語』四七巻二一章「跋文」)その相応の一つが、移写である。■現界は霊界の移写飛行機のパイロットを養成するシュミュレータ、模擬訓練装置は飛行機の操縦室とそっくりに作ってあり、離着陸などの訓練をするために前方の窓には空港が映り、振動なども本当の飛行機と同じようにしである。ある意味で、そのシュミュレータは現実の移写である。この場合は人間が本物を知っているから模造だとすぐ気づくが、われわれは霊界を知らないから、現界は霊界を模造したものだとは気がつかないだけであろう。現界は霊界の移写であり、縮図だ。霊界の真象をうつしたのが現界で、だから現界のことを称してウツシ世という。たとえば三七七六メートルの富士山を数センチ四方の写真に写したとする。その場合、現実の富士山は霊界で、その写真が現界。写真の富士山はきわめて小さいものでも、現実の富士山は駿、甲、武にまたがる大高山だ。だから霊界は、人間の夢想もできぬ広大なものである。わずか一間四方ぐらいの神社の内陣でも、霊界では、ほとんど現界人の見る十里四方はあるという。現実界の事物はすべて霊界の移写である。家庭に祭ってある祭壇はほんにちっぽけなものであり、われわれはそこに代々の祖先霊をおしこんでいるが、八百万の神々や祖先の霊は、ちっとも狭いとは思わぬ。霊界は情動想念の世界だから、自由自在に想念の延長ができるからだ。一メートル四方ぐらいの祠を建てておいて、祝詞で「下津岩根に宮柱太敷立て、高天原に千木多加知りて・・・」とか、わずかのお供え物で「海河山野種々の美味物を八足の机代に横山の如く置足はして・・・」というのもその意味では決して誇張ではない。霊界では想念の延長によって、きわめて立派な祠が建てられ、また八百万の神々が食べても不足しないほどの供え物になっているという。霊界はそうであっても、現界的に見れば、なんだか神さまに嘘をついているような気持がするかもしれない。「神さまは正直と誠実の行いをお喜びになるのに、組末なものを供えて御馳走をさし上げたようにいうのは間違いじゃないか」という反論は当然あろう。だが王仁三郎は「この天地は言霊の幸はう国なので、たとえ粗末な物でもよく宣り直すのが大切だ」という。良い物を悪いといい、うまい物をまずいというのも、言霊の法則を破壊することになる。『筆先』に「勇めば勇むことがでてくるぞよ。悔めば悔むことがでてくるぞよ」とあるように、人は言霊を清くすることが大事だ。人に物を上げるのに、「お組末な物ですが」とか、食物をすすめて「お口に合いますまいが・・・」とかいうのもおかしぃ。組末な物を贈るのはそれこそ失礼なことだし、まずい物ならすすめるなといいたい。「お役に立つと嬉しいのですが・・・」とか「どうぞ、おいしいと思いますよ」と素直にいうのが、本当ではないだろうか。■人は肉体と精霊でなり立つ人聞は肉体と精霊で成り立つ。現界に物質的な姿や形があるように、相応の理により、霊界にも霊的な姿や形がある。故に人間の精霊にも霊的な容貌、姿態があり、それを霊身という。あらゆるものに内面と外面があるように、人聞の精霊の想念にも内面と外面があり、それを内分と外分という。内分は霊魂そのものの志すところ、霊魂そのものの想うところで、いわば真実の心、偽りのない本心のことである。外分は現界の事物に影響を受けた肉体的感覚、記憶、知識、その知識をもとにした言語、動作などのことで、表面の心、本心をおおい隠す心といってよい。肉体が肉体的五官をもっているように、霊身は霊的五官をもっている。この霊的感覚は、死後に機能するだけではなく、もちろん生きている間も機能する。それならば、我々はどうして霊界のことが感じられないのか、王仁三郎は「肉体的五官にさまたげられ、その機能がにぶっているからだ」とい、いう。だが中には霊的感覚の鋭い人がいる。霊眼で霊界の事物を見たり、霊耳で霊界の音や声を聞くく人もある。超心理学でいう超常機能は、この霊的感覚のことだ。人間の精霊には、霊的な内分と現界的な外分の二面が備わっている。だから人間は、霊的存在である天人の持つすべてを有すると共に、肉体を持たぬ天人にないすべてを持つ。人間はその内分から見て生きながら霊界にいるが、その外分から見れば現界にいる。だから人間は、霊界と現界を和合させる媒介者である。ところが一口に霊界といっても、高天原もあれば八街(やちまた)もあり、根底の国もある。高天原からは清く明るい愛善と信真の天国的な内流がそそがれており、根底の国からは陰湿で暗い悪欲と虚偽の地獄的な想念が押し寄せてくる。問題は、人聞がそのどちらと相応するかということだ。高天原に相応するのも、根底の国に相応するのも、各自の自由意志である。生きながらその籍を高天原に持つときは、それを神界の相応者という。はためにはすごく恵まれている人でも、心の底では地獄の苦しみにのたうつ場合もあれば、気の毒な境遇のように見えても、つき合えば何ともあたたかく、天国的気分にさせられる人もある。実はそれぞれの霊界と相応しているものとは気づかない。霊界と現界の間に「相応の理」というのがあるのなら、もう少しわれわれと霊界の間にパイプがつながっていてもよさそうなものだ。それについて王仁三郎は、太古には「相応の理」によって智恵と証覚を得、天人の知識を吸収する天的人間が多かったと語っている精霊は 人の本体肉体は 人のしばしの仮の宿なる精霊は人の本体肉体は その精霊のころもなりけり■黄金時代から泥土時代へ王仁三郎は、人間は太古から今日まで五つの段階をへて堕落してきたという。黄金時代 地上における最太古の人間は天的人間で、相応そのものによって思索し、眼前に横たわる自然的事物は、思索をするための方便に過ぎなかった。霊界の住民である天人とたがいにまじわり、語り合い、それだけで霊界と現界の和合は成就した。黄金は相応によって天国の善をあらわす最太古の人間のいた境遇である。白銀時代 まだ天人は地上の人間とともにおり、友達のように人間とまじわっていた。だが人間は、相応そのものより思索せず、相応の知識より思索するようになる。だからまだ天人との和合はあったが、以前のように親密ではない。白銀は霊国の善をあらわし、中古の人のいた境遇である。赤銅時代 この時代の人間は相応の理を知らないわけではなかった。その思索は相応の知識によらなかった。だから彼らが考える善徳は現界的なもので、白銀時代の人のように霊的であることはできなかった。赤銅は自然界の善をあらわし、古の人のいた境遇である。黒鉄時代 この時代以後の人間は次第次第に外的になり、肉体的になり、相応の知識はかえりみられず、まして霊界の知識はことごとく減ぴてしまった。黒鉄は冷酷な真をあらわし、善はもうなかった。だが冷酷ではあっても、まだ真は残っていた。泥土時代 黒鉄時代からさらに堕落したのが現代だ。善も真もその影を没し、まさに暗黒無明の世界である。時代が進むにつれて人間は現界的には進化したが、相応の理とますます背を向けたという意味で、霊界的には退歩した。こうなったのにはいろいろな原因があるだろうが、王仁三郎は「その主なものは〈我〉と世間とに執着して、みずから霊界、ことに天界より遠ざかったことになる。」という。ほとんどの人間が、肉体的感覚を喜ばせ、自分の欲望を遂げることばかりに関心をもっ。そして精神的なものにはいっさい目を向けない。■大本は世界のかがみ霊界と現界が相応するように、世界と日本、日本と大本の間も相応があるという。それが雛型思想である。筆先はしばしば「大本は世界のかがみ」であると示す。「かがみ」という言葉には、二通りの意味がある。物の像を写すパッシブな鏡・かがみと手本、模範、雛型を出すというアクティブな鑑である。世界や日本で起こったさまざまな出来事が大本に写るというのlはパッシブな鏡である。また大本の中に雛型を造り、それを日本へ、世界へ波及させるというのは、アクティブな鑑だ。これらの実例については、『第三次大本事件の真相』(自由国民社刊) でふれておいたので、参照されたい。■内流について人間一人一人が一つの小宇宙だという。人間の中に自然界もあれば、霊界もある。心性に属して知と意に関する内分は霊界を作り、肉体に属して感覚と動作に関する外分は自然界を作る。これらの外分は、主神から発せられる神的内流の終局点だ。内流とは、霊界からの意志想念が人の霊魂の内部へ流入することだ。そこで、銃口から発射された弾丸が必ずどこかへ行きつくように、主神の神格から発せられた内流は高天原を通過し、かならず究極のところまで進行する。その究極点が、人間の外分である。そしてこの連結の中に入らないものは、何者も存在することができない。人間が滅亡すると、神格の内流の究極点がなくなるわけだから、神もまた存在しなくなる。故に王仁三郎は「天界を離れた人間は鍵なき鎖のごとく、また人類を離れたる天界は基礎なき家のごとくして、双方和合しなければならない」(『霊界物語』四八巻第一O章「天国の富」)と述べる。また霊界と現界との間だけではなく、霊魂と現界との間にも、相応の理がある。たとえば、大小、強弱、明暗、遠近、深浅、厚薄などというのは本来は物理的な状態をあらわす言葉だが、使い方によれば「大人物、小人物」、「強い意志、弱い意志」、「明るい想念、暗い想念」、「遠い思い出、近い思い出」、「深い思慮、浅い思慮」、「厚い人情、薄い人情」などというように、精神的な意味合いを持つ。つまり精神的世界でも、物理的世界と相応した事柄が存在するのだ。精神的世界と物理的世界の関係だが、例えば、肉体の中に原因が認められない病気を心因性という。心の世界にしかその原因が見出せないのに発熱するとか、頭痛、じんま疹などいろいろな肉体上の症状が起こるのは何故なのか、その原因はまだわかっていない。仮に「病は気から」というが、この心因といわれる心が問題であって、意識なり無意識の意志想念が働きかけて、この肉体に作用する。たとえば、梅干しの話をしたら口が酢っぱくなる。気持の明るいときには体も健康だし、暗いときには食欲もなくなり、あっちこっち病気が出てくる。反対に健康を害していれば、気持が暗くなる。相応の理によって、互いに影響し合っている。医者は体的なことばかり扱って患者の気持ちなど考えないし、宗教者は体的なことを軽視する。相応の理があると知れば、もう少し科学も宗教も違った方向に行くのではないだろうか。身体と意識の関係は、パブロフの犬で有名な条件反射とか、ストレス学説とか、最近話題になっているバイオ・フィードバックなどである程度、科学的に解明されてきた。人間の神経には意志では動かせないときれる自律神経(交感神経と副交感神経)と意志で動かせる体性神経があり、心因性の病気は自律神経失調症とか呼ばれている。問題は、病気の場合、他の原因と区別がつかず人間の意のままにならないことだ。医者の中にも、催眠療法を使ったり、自己催眠や禅や瞑想をすすめる人が出てきてはいる。瞑想などやっていると、自律神経もある程度、意識的に変化させることができるようになり、同時に霊感も鋭くなってくるようだ。『霊界物語』ニ一巻「総説」・四七巻三章「跋文」・八章「中有」 ・四八巻一O章「天国の富」