第一〇章 善と悪、美と醜■現界は善悪美醜(ぜんあくびしゅう)が混交人間の善悪美醜は、その生きざまと死後の世界に大きくかかわる。では王仁三郎の善悪美醜観は何か。「天地開闢の初めにあたり、清く軽きものは天となり、重く濁れるものは地となった。故に地上は幾万億年を経るといえども、天空の如き清明無垢なることはとうていできないのが自然の道理である」善悪美醜は人によって価値観が異なり、それをはかる尺度のないものだが、王仁三郎は、「善というのは、透明体である霊魂だ」という。「天帝(神)から贈ったところの至粋至純なる清い清い霊魂」なのだ。そして体とは物質そのもので、これを善である霊と対照して悪と呼ぶ。美もまた、神の目からみた美が真の美で、それと対照したものが醜となろう。「天主一物を創造す。ことごとくカ徳による。故に善悪相混じ美醜互いに交わる」(『霊界物語』六巻二六章「体五霊五」)王仁三郎は善悪一如、善悪不離を説き、「悪の中にも善があり、善の中にも悪があり、善悪美醜混交しているのが世の中だ」(『道の大原』二章)という。人間は肉体と精霊で成り立つ。言霊学では、霊をヒ、またはチと読む。人は精霊を止める存在だから、霊(ヒ)止(ト)なのだ。体はカラ、カラタマだ。もともと肉体は精霊を入れるために作られた中身なしの容器である。だから殻、空と同義で、カラタマは「霊魂が空(から)」とか、「霊魂の殻」などの意味がある。また現身(うつしみ・うつせみ)のことを「空蝉」と形容したりするのも、生きがいを失った肉体は、いわば蝉のカラのようなものだからであろう。そこで「大本教旨」にあるように、霊(チ)と体(カラ)と合し、からたまも 霊魂(みたま)も神のものなれば 仰ぎうやまへ我とわが身をからたまは よしまかるとも霊魂は いく千代までも生きて栄ゆる霊体の 力徳により造りたる 万物に善悪美醜あるなり善となり 悪となるのも力徳の 配合度合によるものと知れ美と生れ 醜と生るも天帝の みなカ徳の按排(あんばい)なりけり物体は にごりかたまるものなれば 元より悪しき性質をふくめる世の中は 善事曲事まじらいて  すべてのものは生(な)り出づるなり至善至美の 神のつくりし天地も 善悪美醜はまぬがれざるなり難波江(なにわえ)の 善きも悪きもまじこりて 一つの物ぞ生り出ずるなり (一部省略)善と悪と和合してこそ力が生まれる。世の中のいっさいがっさいが霊と体で成り立つ以上、すべて善悪混交が真相だ。    「世の中には神はなにゆえ善ばかりをこしらえぬかと理屈をいうものがあるが、神は大工や左官でないから、指金は持ち給わぬ。善になるも悪になるも、みなそのものの力徳である。それで誠の道におもむいて神力をうけねばならぬ」(『道のしおり』「一巻」)■人には霊能と体能がある人間は誰でも霊能(霊的性能)と体能(体的性能)というニつのあい反する性能を具備している。霊能とは、向上、正義、純潔、高雅、博愛、犠牲などという、最高の倫理的、審美的感情の源泉であり、体能とは、呑みたい、食いたい、着たい、寝たい、犯したいなどの欲望をおこさせ、はては人間をして堕落、放縦(ほうじゅう)、排他、利己などの非道徳的行為に導く。ならば霊能が善、体能が悪と思えるが、善と悪とは対照的な符号に過ぎず、絶対的な善の基準がきまらぬかぎり、対照語である悪が、悪いとも不必要ともいえない。もし霊能がなければ他の動物と変わりなく、人間としての価値を失う。人間を人間たらしめているのが霊能だ。だが体能がなければ自己保存もおぼつかなくなり一ヵ月をへぬまに人間はこの地上から滅び去るであろう。人間が人間として生きて行くためには、霊能体能いずれも不可欠であり、両性能に優劣の区別はない。「陰滅すれば陽減す」で、体能が滅びれば、霊能もまた滅びてしまう。霊能も体能もともに宇宙の大元霊から分れ出る二大元質で、甲乙軽重の差はないのだ。霊(善)と体(悪)が合してカを生ずる時、そのカ徳によって善悪美醜がまじり合う。つまりその時の力の配分によって、善悪美醜がきまる。同じ夫婦の子供でも、その時の互いの体や心理状態の都合もあり、霊の状態のよしあしもからんで、男ができたり、女ができたり、美人ができたり、不美人ができたりする。神が力徳によって万物を造った限り、悪をしない人間を造ることは不可能である。■神の代行者としての自由意思神は人間をその代行者として造ったが、他の動物と違って特に優れているのは、主に二点であろう。一 霊魂の働きが複雑精妙であること。二 幅広い自由意志を持つこと。霊魂については「一霊四魂」で述べたが、人間が幅広い自由意志を持つとは、善人はなお善人に、また悪人はより悪人になるのも自由、逆に善人に立ち返ることも自由ということだ。だから人間は、生まれながらにして創造的、自律的に悪を行う自由を内包している。悪のできない人間を造ったとしても、それは神の代行者としての自由の資格を失った動物に過ぎぬ。猫でも黙って鰹節を盗んだ時には逃げ、鼠(ねずみ)を取ってくると手柄顔して家人の前で食べる。彼らにも多少の善悪の観念はあろう。だが、罪の意識はあるまい。罪の意識は、良心の有無と結びついており、良心がなければ、罪の意識は生まれぬ。猫に良心はない。彼らが肉や魚を盗んだとき、人間をみたらパッと逃げるのも、それは罪の意識ではなく、人間の体罰を恐れるからだ。ところが虫や魚になると、善悪の観念すらない。害虫は畑の作物を荒すが、悪いことをしているという意識はなく、逆にまた益鳥は害虫を食ってくれるが、善をなしたという意識もない。ただ生存するための行為でしかないのだ。■神はなぜ罪を犯す人を作ったか岡本かの子が何かの中で「神さまはなぜ罪を犯す人間をお造りになったのですか。人間の罪を悪となさるなら、初めから全智全能のお力で、罪を犯さない人間を作って下さればいいのに」というようなことを書いていたが、これは誰もが抱く疑問であろう。だがもともと悪を行えないように造られた人間が善をしたとしても、それはたんに本能的善、機能的善であって、はたして善の名に価するかどうか。自由意志は神から人間への最大の贈り物であろうが、やっかいなことには、何をするにしても常に選択をせまられる。いっそ自由意志などなければどんなに気楽であろう。人間、時には多少の悪を犯さねば生きられぬ。選択の余地なく生まれついていれば、犯した罪は自由意志を与えなかった神の責任に帰せられる。それなら、食ってはいけない目前のリンゴに手を出したからといって、罪の意識におびえることもない。純潔をぜひ守らなければならぬとあれば、神は人間を性的不能に造られたらいい。だがそれでは、人類は子孫を残すこととはできないし、生きる喜びすら半減するだろう。罰せられない保証さえあれば、悪の喜びを思うさま味わってみたいと、心の底で願っている人も少なくはあるまい。自分の自由意志で悪への誘いをはねのけ、あるいは悪のどろ沼から這い上がって善をなしとげてこそ、その喜びは大きいのだ。■神の立場でロボットを作れば神が代行者として人間を造ったように、人がその代行者としてロボットを作る。この場合、人はロボットに対して神の立場に立つ。今使われている単純な産業用のロボットではなく、選択の判断もできる複雑なロボットが完成されたとして、善悪を考えてみよう。有名なSF作家のアイザック・アシモフが作品の中で、「ロボット工学の三原則」というのを作っている。これは手塚治虫の漫画『鉄腕アトム』に使われており、人工知能の専門的な本にも論じられている。一 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また何も手を下さずに人間が危害を受けるのを黙視していてはならない。二 ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第一原則に反する命令はその限りではない。三、ロボットは、自らの存在を護らなくてはならない。ただしそれは第一、第二原則に違反しない場合に限る。一応、それらの原則に反さなければ善、反したら悪と仮定しよう。人間でいえば第一第二原則が霊能、第三原則が体能に対応する。さらにアシモフの三原則を拡張し、「ロボットはロボットに危害を加えてはならない。またロボットが危害を受けるのを黙視していてはならない」というのを付け加えるとしよう。アシモフの小説の一場面。ロボットが人間を危害から助けださなければならなくなった。人間を救おうとすると、ロボット自身が破壊されてしまう状況だ。自分が破壊されると人間を救えぬ。かといって、見すごせば第一原則に違反する。どの原則を優先すべきかの判断力を失って、身動きができなくなる。単純なロボットであれば、間違いの少ない、完全に近いものはできる。だが単純なことしかできないから、使い道は限られてしまう。複雑なまわりの状況を判断して行動するロボットを作ろうとすれば、状況のさまざまのレベルから得た情報を総合して、判断させねばならぬ。そこで判断の優先順位をいろいろ決める。欲をいえば、そのロボットにいちいち全部教えていたらたいへんだから、失敗やまわりの状況から自分で学習し主体的に行動する判断力があって欲しい。それだけの精巧なロボットができたとしても、たくさんのロボツトが動いていれば、お互いの間で協力がうまくいかない可能性がある。複雑さが増せば、それだけ判断がむずかしくなる。おまけに一回失敗すると、影響が後に残る。物理的な時間などの制約によって、完全な判断はできない。何度でも修正することが可能なら問題ないが、それは不可能だ。その時点時点で良いと思って判断しても、全体の流れでは悪いかもしれない。その時点で悪い判断をしたと思っても、全体の流れでは良い判断なのかもしれない。ロボットを方向性として善を行うように作ることはできても、完全に求めるのは不可能だ。ロボットに自主的な判断力を与えず、全部人間が面倒を見るしかない。そうすると何のためにロボットを作ったのかというジレンマに陥る。人間のすぐそばでロボットを働かせれば問題はないが、もし遠くで作業させる場合、人間とロボットが電波で通信することに仮定しよう。「判断に困れば人間に相談しろ」といって送り出しても、電波の妨害物や雑音が入ると、ロボットの判断が狂ってしまうおそれもある。そうなると、人間がいくら「それをしてはダメだ」といっても、やってしまう。あるいは誰か他の人間が、そのロボットを自分のものにしようと偽の電波を送れば、そっちのいいなりになってしまう。ロボットに自由意志を与えないと単純なことしかできず、他からの悪にも従うおそれがある。自由意志を与えても、やっぱり悪を犯す可能性がある。親の立場と似ている。自由意志さえもたない子供なら、「この子はどうなっているのか」と先ゆきが不安だし、子供の自由にゆだねたい気があっても、悪に染まる可能性がいっぱいで、やはり心配だ。悪人だ、善人だと決めつけるのは人間の勝手、神の目には善人も悪人も同じ神の子だ。親はできの悪い子ほどかわいいというが、まして神は善人、悪人の分けへだてなどなさらない。ロボットを作る人間なら失敗作はあろうが、むしろ神は人間を巧妙に造り過ぎたのかも知れない。「人間に邪曲のあるは造化力の 巧妙すぎしと悔やます大神」と王仁二郎は歌う。人間に 邪曲のあるは造化力の 巧妙すぎしと悔やます大神■善悪美醜は時所位によってかわるところで何が善で何が悪なのだろう。釈迦が八O歳で入滅するとき、修行者スバッダに「私は二九歳で善を求めて出家し、ここに五O年余となった」と語っている。釈迦は三五歳で仏になったから、その後は善を求めて求道生活をする必要はないはずだ。にもかかわらず、仏となった以前も以後も、生涯かけて善とは何かを探究し続けたのはなぜなのか。聖徳太子はこれについて、「修行の結果得られた善はあらかじめ果報を期待して得られたものだから、なんらの果報を求めず、ひたすら身に修めていこうとする善にくらべて逢かに劣るもの」と解釈している。しかし釈迦の求めた善とはどんなものなのか、私にはよくわからない。なぜならば、善悪美醜は時所位によってかわるからだ時所位とは、文字通り、時代と、場所と、その置かれている位置(立場) である。美醜でいえば、平安時代の美人が現代の美人として通用するかどうか、今日の美人なぞ万葉時代には顔をそむけられるかもしれない。時代によって美意識は移り変り、国によっても美醜の基準は違う。中国では、昔は纏足(てんそく)といって、人為的に足の成長を止め、よたよた歩く小さな足が貴婦人の美だった。ホッテントットを持ち出すまでもなく、人種により、個人によっても美の好みは違う。善悪もまた、時と所と位置によって逆転さえする。宗 教、哲学、倫理学の立場からも、善悪の問題は常に追求されてきた。プラトン、カント、ショーペンハウアー、ニイチェと、それぞれの持つ善悪観は違う。キリスト教や仏教、神道、イスラム教などの説く善悪感も明確に違う。だから哲学や宗教の違いがまき起こす争いも、根強く絶えぬ。ヒンズー教徒は牛を食わず、イスラム教徒は豚を食わない。また時代の要求が、その立場によって、善悪の判断を狂わせてゆく。たとえば太平洋戦争に突入した時、国民は聖戦と信じさせられて勇躍、戦場に向った。聖なる戦いは悪に勝つはずであった。今日では、戦争そのものに聖も善もない。お国のために一人でも多く敵兵を殺すことは忠義であり誇りであったが、今日では「一人の人間の命は地球より重し」といわれる。しかし現在戦っている中近東では、かつての臼本と同じ倫理が通用することであろう。州によって法律が違うアメリカでは、国内でも善悪の碁準が分れるということだ。世界を見わたしても、ポルノ解禁の国もあれば、罪悪として罰する国もある。・・・ただ何事も神の手に/任せまつるにしくはない/善悪同体この真理/胸に手を当てつらつらと/直日に見直し聞き直し/人の小さき智恵もちて/善悪正邪の標準が/分かろう道理のあるべきや/この世を造りし大神の/心に適いしことならば/いずれ至善の道となり/その御心に適わねば/すなわち悪の道となる/人の身にして同胞を/裁く権利は寸毫も/与えられない人の身は・・・ ■法律上の善悪法律上の善悪というのは社会の運営には必要でも、心の内面の善悪とは一致しない。王仁三郎によれば、法律上の善とは「仮の善」で、最低の道徳を基本にしたもの。法律にそむかねば善かといえば決してそうではないし、法治国家の良民というわけでもない。それについては『霊界物語』の中で村人と宗彦という宣伝使が語り合っている場面がある。王仁三郎の善悪観がよく出ていると思う。「今の法律は行為の上の罪ばかりを罰して、精神上の罪を罰することはせないのですが、万一霊魂が罪を犯し、肉体が道具に使われてもやっぱりその肉体が罪人となるというのは、神界の上から見れば実に矛盾のはなはだしいものではありませんか」「そこが人間ですよ。ともかく法律というものは人間相互の生活上、都合の悪いことはみな罪とするのですから。たとえ法律上の罪人となっても、神界においては結構な御用として褒めらるることもあり、法律上立派な行いだと認められていることが、神界において大罪悪と認められることもあるのです。それだから何ごとも神さまが現われてお裁き下さらぬことには、善と悪との立別けは人間の分際として絶対に公平にできるものではありません。また人間の法律や国家の制裁カというものは、有限的のものであって、絶対的のものでない。浅間山が噴火して山林田畑を荒し、人家を倒し、桜島が爆発してあまたの人命を致損し、地震の鯰が躍動して山を海にし、海に山をこしらえ、家を焼き、人を殺し、財産をすっかり掠奪してしまっても、人間の作った法律で浅間山や地震や桜島を被告として訴えるところもなし、放りこむ刑務所もなし、裁判することもできぬようなもので、とうてい駄目です。ただ何事も神さまの大御心にまかすより仕方がありませんなあ」(『霊界物語』二O巻八章「心の鬼」) 法律は 世人を救うものでなし ただ罪人を罰するのみなり ■絶対善も絶対悪もなしすべて宇宙のいっさいは、顕幽一致、善悪一如で、絶対の善もなければ絶対の悪もない。絶対の極楽もなければ、絶対の苦難もない。歓楽のうちに艱苦があり、艱苦のうちに歓楽がある。また悲観を離れた楽観はなく、罪悪と対立した真善美もない。善悪不二というのは浄土教では「ぜんまくふに」禅宗では「ぜんなくふに」と読むが、本来、善悪の差別対立などないことを意味している。仏典の「煩悩(ぼんのう)即菩提(ぼだい)。生死即涅槃(ねはん)。裟婆即浄土。仏凡本来不二」は、神の道からいえば「神俗本来不ニ」であろう。山一つみても、頂上もあれば谷もある。木をみても、幹もあれば根もある。人間の体も、頭もあれば足もある。男があれば、女もある。どんな美女でも尻の穴があるから美を保てるので、もしなかったら、美どころか、命さえ保てない。善ばかり思っていたのでは、霊界のことよりできぬ。善悪、美醜上下、明暗すべて裏表・・・きれいごとばかり並べても、大地に住む限り、多少の悪と、隠された醜の部分はまぬがれぬ。だからといって、「多少の悪ぐらい、神きまは大目に見て下さる」と開き直ってはいけない。また事実そういう弊害もあったらしく王仁三郎は述べる。「信者の中には善悪不二とか正邪一如という聖言を楯にとって、自分の勝手のよいように解釈している人もあるようだが、これは神が善悪不二といわれるのは中有界に迷える人間に対していわれるのであり、かつ神は善悪にかかわらず慈愛の心をもって臨ませられる見地からおおせられる言葉である。決して人間がうんぬんすべき言葉ではない」(『霊界物語』五二巻一七章「飴屋」)つまり神は、人の善悪正邪の区別によって、その大愛に厚い薄いの差をつけられない。だからといって、その真理に甘えてはならない。 ■みろくの世にも悪は滅びないみろくの世になると至善、至美、至真、天はあくまで青く、明るく、水は水晶のように澄みきって・・・と思う人もあろうが、そうばかりではない。やはり昼もあれば暗夜もある。月夜には水気が大地に下がって露ができ、植物の成育を助ける。だが月夜ばかりだと、水気が多過ぎてかえって害になる。そこで暗夜があって調節する。人間もまた、昼ばかりでは体を十分に休めることができぬ。光には影があり、時には光をさけて影にやすらう。肉体のある限り、みろくの世になっても影の部分、必要悪はなくならぬ。今の世は、悪いことをしても世間をごまかし表を飾れば、立身出世もできるし、大もうけもできる。正直でくそまじめなばかりに虐げられ、苦しめられ、悲惨な境遇に泣く人がたくさんある。それは悪魔が君臨する世だからだ。これからは、もうこんな不合理は許きれない。善いことをすればどんどん善くなり、悪いことをすれば片端から打ち砕かれ、悪の思惑の一つもたたぬようになる。それがみろくの世である。 ■生存と生活は違う正しい神と正しく向き合えば、当然に神格が内流する。航路を見失った船が、北極星によって正しく向きをとるように。だが内流を受け止めるために、人はどうやって向きを変えるのだろう。理屈でわかっでいても悪をやめられないのが人間の弱さだからいろんな宗教は戒律でしめつける。仏教の五戒十重(じゅうじゅう)の五戒は、生きものを殺さない、盗みをしない、男女の間を乱さない、嘘をつかない、酒を飲まないだが、これを完全に守れるだろうか。小乗仏教の僧の場合、五戒を守っている人もいる。インドのジャイナ教の空衣派は空気を衣としているから、まっぱだかで、口に布を当てている。息を吸った時、誤って小虫を口に入れ殺さぬようにだ。うっかり足を出し、蟻を踏み殺したら一大事。息をするのも歩くのも大変だ。戒律を完全に守れれば確かに聖者だろうが、それで神と向き合えたろうか。五戒に意識を縛られて、生活しているとはいえまい。王仁三郎は「生存と生活は違う」 という。生活とは、神から与えられた命を完全に活かすことだ。多くの人が生存と生活を混同している。王仁三郎流にいえば、文化生活など、文化風をよそおった生存に過ぎない。大部分の人間がたくましく生存しているか、弱々しく生存しているかの違いだけで、はたして生活しているといえるかどうかを蚕は繭をつくって蛹となり、孵化して蛾となって子孫を残そうとの本能はあっても、蒸されて絹糸にされようなど思ってもいない。しかし蚕を殺さなければ人の身を包む絹布はできぬ。人は絹を着なくても生きてはいけよう。生きものの皮をはがさずとも、凍え死なない方法はある。だが魚を食うのも、米や野菜を食うのも、そのものの命を断つからには、不殺生戒をまぬがれぬ。大魚は小魚を食い、猫は鼠を食う。それが彼らの生活であり、この天職を果たさねば生きられない。仏教の場合、植物と動物は区別しており、動物を食べるのは畜生道だが、植物を食うのは戒律にふれない。仏教用語に有情とあるが、情は心の意で、いっさいの生類の総称だ。つまり無感覚な草木や山河を非情とか無情というのに対しての言葉だ。しかし命という意味では、動物も植物も同じこと。植物の命は殺してもよいが、動物の命ならいけないという差別を、神はしていない。宇宙を一つの大生命体とみた場合、それぞれがその中でどう役割を果たすかが大事であろう。戒律を完全に守る医者は嘘をつけない。癌患者には、お釈迦さん流に「病気ではあるが、癌であるかないか、そういうことには答えません」と告げる。少なくとも嘘はつかなくてすむだろう。患者はその返事を癌と同義語ととろうし、そのショックで患者が死ねば、不妄語(ふもうご)戒をまぬがれでも、不殺生戒を犯すことになる。 開けたる 御代の恵みを浴びながら 生存難に苦しめる世なり生活は 世の人のため国のため 活きて働く人の業なり衣食住 外に望みのなき人は 生存競争の衡(ちまた)にさまよう ■天下公共のために処するのは善人間の霊魂には、反省するというすばらしい働きがあるから、善悪の判断にまた悩みもする。「私は絶対に間違ってない」「僕は絶対に正しい.」など強弁しがちだが、王仁三郎によれば、人に「絶対」はない。「絶対ということが絶対にない」といいきってしまうと論理の矛盾だが。善悪の問題には、全体と部分といった関係があるようだ。自己にとっての善がその属している集団にかかわれば悪になりうる。一集団にとっての善が、もっと大きな集団に、たとえば国にとっては悪かも知れない。ある国の善が世界全体からみて恐ろしい悪になることだってある。神の目から見ての善がそれぞれの段階で一致して善となればすばらしいが、なかなかできない。完全な悪などは、人間の分際として、したくてもできない。万類を絶滅させかねない核兵器にしても、持っている者は核抑止力という理屈によりかかり、世界の平和を守る手段としての善だと主張する善悪が時所位によって異なるとしても、せめて最低限の善悪の基準がほしい。それは何か。「善は天下公共のために処し、悪は一人の私有に所す。正心徳行は善なり不正無行は悪なり」(『霊界物語』一巻、一二章「顕幽一致」)どんな善であれ、私欲を肥やすためのみに行うのは、真の善とはいえないし、たとえ多少の悪が混じっていても、天下公共のためになる行為は善といわねばならない。「文王一度怒って天下治まる。怒るもまた可なりというべし」で、ときには怒ることも必要だ。また何もしないのは、かえって悪に通じる。竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)などは、せっかく恵まれた天分を活用もせず、行動しないのだから、神の目からはやっぱり悪だ。「人間には神の属性がすべて与えられている」との王仁三郎哲学によれば、凡人の中に神のすべてがある。言い換えれば、我々の持っている性質そのままが、神の分霊である以上、天国も人の作る現界も、本質においては差がないということだ。仏の大慈悲とか神の恵み幸いといえども、凡人の欲望と本質的に変わらない。だがその働きに、無限と有限という天地の差がある。凡人は自分の妻子眷属だけを愛して満足し、他をかえりみない。神は、三千世界のいっさいをわが子とし済度しようという大欲望がある。凡人は小楽観者であり、小悲観者で、神は大楽観者であり、大悲観者だ。天国は大楽大苦、裟婆は小楽小苦の境域である。理趣経に「大貪大痴(だんどんだいち)是三摩地(さんまぢ)。是浄菩提(じょうぼだい)。淫欲是道(いんよくぜどう)」とあるように、世間のさまざまな姿がそのまま深遠な道理をあらわすという、当相即道(とうそうそくどう)の真諦(しんてい)である。人間の霊魂は本来、これを宇宙大に活動させることのできる天賦的性質を与えられている。だから神俗、浄穢、正邪、善悪などというのも、この素質を十分に発揮して活動するかしないかにつけられた符合にずきない。 天の下 公共のために身をつくす 人は誠の善神にぞありける私欲(わたくし)の ために力をつくす人は 悪魔の神のかがみとぞなる公の ために争うひとびとは 神の御眼(みめ)より罪とはならじ国のため 世人のためといいながら 世の大方は身のためにする ■神が表に現われて哲学者や学者がいくら理性で善悪を分類し論じてこようとも、不完全な人間に真の判断がつくものではない。人間は知らず知らずの間に罪を重ねる。世の中には、目に見えない罪人は数限りなくある。王仁三郎は、「中でも一番罪の重いのは学者と宗教家だ。神さまからいただいた結構な霊魂を曇らせ、腐らせ、殺すのは、誤った学説を流布したり、神さまの御心を取り違えてまことしやかに宣伝したり、あるいは神さまの真似をするデモ宗教家、デモ学者がもっとも重罪を神の国に犯している」という。その学者や宗教家が尊敬され、尊重される時代だから、筆先で「今は獣の世、悪の世」と嘆く。今日「最善」と思ったことが、明日は逆に「非常な悪」だったと気がつく。それだけ進歩したことを、むしろ喜ぶべきだろう。だから今日としては今日の最善を行なうよりない。明日になって過ちに気がついたら、悔い改めて正せばいい。悪と知りながら行うことは、もっとも悪い。善と思うところを行なう日々にも、ふと迷いはあろう。神の目からはたして善かどうか。だからこそ、神の教えを求める必要がある。「教えとは人の覚(さと)りのおよばざる 天地の神の言葉なりけり」また大本の『基本宣伝歌』の中にこういう一節がある。「神が表に現われて、善と悪とを立別ける、この世を造りし神直日、心も広き大直日、ただ何事も人の世は、直日に見直せ開直せ、身の過ちは宣り直せ」善悪を裁くのは人ではなく、神である。我執(がしゅう)にとらわれて過ごした日々を省み、神の目を恐れるあまり縮(ちぢ)こまっていてはいけないのだ。わが心に見直し聞き直しながら最善と思ったことは勇んで実行し、知らずに犯した罪けがれは神に祈って見直し聞き直していただく。そこに信仰の喜びもわいてくる。   〔基本宣伝歌〕朝日は照るとも曇るとも/月は盈(みち)つとも虧(か)くるとも/たとえ大地は沈むとも/曲津の神は荒ぶとも/誠の力は世を救ふ/三千世界の梅の花/一度に開く神の教/聞いて散りて実を結ぶ/月日と地の恩を知れ/この世を救ふ生神は/高天原に神集ふ神が表に現はれて/善と悪とを立別ける/この世を造りし神直日/心も広き大直日/ただ何事も人の世は/直日に見直せ聞直せ/身の過ちは宣り直せ ■三猿主義は去勢政策     ■鬼も大蛇も料理する王仁三郎は、世間で悪人といわれる人でも上手に使った。「毒にならぬものは薬にもならぬ。毒もうまく使えば、たいした働きをするものである。毒にならぬものは、ただ自分だけのことができるぐらいのものだ。『聖師さまのそばには悪魔ばかりがついている』とののしるものがあるそうだが、よし悪魔であってもさしつかえないではないか。毒になるものは薬になる。かのいわゆる善人なるものは、ただ自分自身を救うことができれば関の山だが、悪魔が一朝大悟徹底改心すれば、多くの人を救う働きをするものである。鬼も大蛇も救わにゃならぬこの神業に、尻の穴の小さい、毛ぎらいばかりしていて、他人を悪魔あつかいする人たちが、信仰団体の中にもたくさんあることは嘆かわしいことである。また悪魔を料理しうる人材がいかにもすくないことも、嘆かわしいことの一つである。お人のよいばかりが能ではない、私も本当に骨が折れる。誰か私に代わって、鬼も大蛇も料理するという偉才が早く現われないものかなあ。このワニ口は、鬼や大蛇はまだおろか、どんな骨の固い、腕節(うでっぷし)の強い獣物でも、かみこなすだけの強い歯を持っておるつもりだ。御心配御無用」(『水鏡』「毒と薬」)『霊界物語』一巻一ニ章「顕幽一致」・六巻二O章「善悪不測」 ・同二六章「体五霊五」・一五巻八章「ウラナイ教」・二O巻八章「心の鬼」・三八巻一章「道すがら」・五二巻第一章「真と偽」・第一七章「飴屋」、『神の国』昭和七年三月号「大本は宇宙意志の表現」、昭和七年五月号「宗教は酒の如し」、『道の大原』ニ章、『道のしおり』一巻、『大本略義』「霊主体従」、『水鏡』「ミロクの世」、同「毒と薬」・・「三猿主義は徳川氏の消極政策」