第一二章 霊  衣

■死者の霊衣と生者の霊衣人が死ぬと精霊はそれぞれの霊界へ旅立つ。その精霊の霊身は、肉体が服を着ているように、それなりの霊衣(れいい)をつけている。霊眼のきく人なら、その霊衣が見える。霊衣(レイエ)といえば仏教での喪服をさすが、この霊身のまとう霊衣は一般的にはオーラと呼ばれている。人間の持つエネルギーが、人の形なりに放射して見える、最近では、漫画などの影響で子供でもオーラという言葉は知っている。生きている精霊も死んだ精霊も霊衣はあるが、形は明らかに違う。霊衣を霊視すれば、生者と亡者の精霊の区別は判然とつく。生者の霊身は丸く霊衣を体一面に放出しているが、亡者の幽体は頭部が山形にとがり、三角形に見える。それも霊衣は腰から上までで、腰以下は消えている。「幽霊に足がない」と俗にいわれるのも、見えないからであろう。霊能者としての王仁三郎はたくさんの病人を治しているが、どんな病人でも直せたわけではない。病人を霊視して、その霊衣の厚薄と頭部の円角の程度で判断を下すが、「百発百中間違ったことはない」と豪語した。名医が匙(さじ)を投げた人でも、その霊衣が厚く光があれば、必ず全快するし、「大丈夫」と太鼓判を押された病人でも、霊衣の頭が山形になっていたり、薄く破れていたら助からない。もし霊衣を透視できる医者がいたら繁盛するだろう。霊衣の三角っぽい患者はほかの病院に回し、重病人でも頭が丸みをおびていたら引き受ける。死者をお棺に入れるとき、頭に三角の布をつける習慣がある。幽霊の絵にもそれを描く。あれは亡者の霊衣をシンボル化したのであろう。 ■人の霊衣を見て法を説く王仁三郎は人の霊衣や智恵証覚を霊視してその人の知能程度や精神程度を判断し、その一、二分ばかり上のことを教えた。相手はよく理解する。ところが三、四分高いところを説くと、相手はわからない。「この前にはこういわれたが、こんどは少し違う。どちらが本当か」と逆に疑問を抱く。だから王仁三郎は、いつも自分からピントを合わせる。無学な人にでも、学者にでも「王仁三郎はおれよりちょっと偉いかな」と思わせていた。「信仰は、その人の内分に入って適切に説かないと、必ず問題がおこる。人を見て法を説くのでなければ、どんなに名論卓説でも効果はない」霊衣の薄い人には、王仁三郎は言葉を多く使い、同じところまで下りていって手を引くように指導する。だがもういちいち機嫌をとらなくとも、一人歩きできるとみれば、本人の自由意思にまかせる。と、「初めのうちは聖師さまはちやほやして下さったが、この頃は知らん顔で・・・」などと不平をいいだす。人を導くということは、ほんとうに骨が折れると、王仁三郎もぼやいている。 ■破れた霊衣を現代人は宝石でごまかす霊衣は厚ければ厚い人ほどすばらしい。有徳の精霊は厚いばかりか大きく広がっていて、目を射るように光沢が強い。彼らは人々を統御する能力を持っている。釈迦や仏像の絵には頭部に大きな後光が捕かれているが、あれも霊衣だ。特に大きいので、光輪という。王仁三郎は「現代の人間は霊衣の立派な人が少ないから、大人物が出ない。人間はおいおいと霊衣が薄くなり、光沢を放射することもなく、邪神界の神々の霊衣のように少しも権威がなく、破れている」(『霊界物語』二巻「総説」)と嘆いた。ダイヤモンドのようなまばゆい宝石で身体を装飾するのは、邪神界の神々の模倣だという。正神は全身ことごとく光に輝いているため装飾をつける必要はない。ところが邪神界の神々は曇りにみちて穢いから、いろいろな宝玉を霊身に飾って、光に包まれた正神の真似をする。太古の神々は、光のない天然の石を磨いて五百津御須麻琉(いほつみすまる)の珠を作り、首や腕や腰のあたりの飾りにしたが、ダイヤモンドのような光を放つものを身につけることを軽蔑した。光のある玉を身にまとうのは、自身の光の弱さを示すこととみられるのだ。「愛善の徳に満ち信真の光がそえば、身に宝石を付着せずとも、幾総倍の光を全身にみなぎらせ、知らず知らずの間に尊敬されるものだ。私は婦人などの指または首のあたりにちりばめたいろいろの宝石の鈍き光を眺めながら、浅ましきを感ずる」(『玉鏡』「光る宝石と曲津」)力を誇り、権勢を示すために造られているような庭園を見かけるが、王仁三郎によれば、庭の樹木や草花までその家人の徳性を表現するもので、どんなに金をかけ、人力を尽くして形づくっても、観る人が観れば貧弱にしかうつらない。金とか地位や名声の力で人を統御しようとする世の中だが、それもも霊衣の薄さを補うため、自分の弱味を本能的にカバーしようとするからだ。「金の切れ目は縁の切れ目」で、そうした人は、金や地位がなくなると誰も寄りつかなくなる。別におもしろい話をするわけでもないのに、なんとなく慕い寄りたい気分にさせる人がいるが、よほど霊衣が厚いからだろう。霊衣の厚い人ほど、人がなつく。それは霊衣の中に深く人を包みこむためだ。反対に、頭がきれ立派な地位にあるが、そばに寄りつきにくい人がいる。そういう人は、霊衣が薄い。身体と身体とが接触しない限り、霊衣の中に入れない。どこか寒々しくて、そばを離れるとほっとする。相互の関係がきわめて冷ややかで、欲によって常に離合集散する。有徳の人になれば、どんな悲惨な境遇におちいっても、「どこまでも」とついてくる者もすくなくない。夫婦の情合が格別なのは、たとえ薄い霊衣の人であっても、お互い霊衣に触れ合う度合が濃いためである。 ■霊気は足先からも出る霊衣とは、精霊から発する霊気、気の形象化であろう。よく手のひらから「気」がでているというが、手ばかりか、足からも出ている。釈迦が成道して山を下り、父浄飯王に会見したとき、王は仏足をいただいて礼拝したといわれる。仏足跡(ぶっそくせき)を拝む信仰はインドでは仏像崇拝より起源が古く、南アジア一般に行なわれているという。王仁三郎は、釈迦が父王に足を拝ませたことについて、こう語っている。「それは実際に親への孝行であって、永年の修業によって得た霊徳を父に贈与する最もよい方法であった。元来霊気は、四肢の指先において最も多く放射するものである。特に足の指先が一番多く霊を放射するのであるから、釈迦が足を父の額につけて、先づ一番に父に霊徳をわかたんとしたのだ。満足したといい、足らうといい、円満具足といい、みな足の字がつくのはこの理由からくるのである」(『玉鏡』「仏足頂礼」)大正五年一O月五日(旧九月九日)、出口直、王仁三郎、妻澄や役員信者ら八一人が高砂沖の神島に渡った。これを「神島開き」といい、大本にとって重大な歴史的転換になった神事である。王仁三郎は上陸にあたって、参拝者全員に「わしより先に上がってはならん」と厳重な布告を出していた。ところが船が接岸したとき、どうしたわけか一人の男が人々をかきわけ、砂浜をかけ出していった。王仁三郎らが上陸すると、先に走った男が、砂浜で、亀が甲羅を返したみたいにもがいている。男は京都に住む女郎屋の親父だ。彼は泣き叫んだ。「神さんはわしをここまで連れてきながら、人前で恥をかかせるなんて殺生や」当時の役員の梅田信之がひざまずいて鎮魂したが、男の背中は弓なりに硬直して、抱き起こすこともできない。梅田は王仁三郎に助けを求める。王仁三郎は無首のまま素足になって、左足を上げて男の足から顔にかけて逆なでし鎮魂の姿勢をとると、「許す」と一声。すると男の体は急にやわらかになって、自分の力で起き上がった。この情景は多くの人が目撃したわけだが、その中の一人佐藤尊勇が後になって王仁三郎に抗議した。「人間は神の生き宮どっしゃろ。それをなんぼ先生かて、足で鎮魂するやなんて、あんまり馬鹿にしとるやおへんか」「仕方ないのや。男は左足で逆なでしてやる。女は右足で頭から足へとなでてやる。神さまから罰せられたやつを治すには、こうせなあかんのや。よう覚えとけよ」 ■霊気の色霊気には色がある。人の心が平和と喜びと慈しみに満ちている時、つまり愛善の精神がみなぎっている時は、その五体から明紫の霊光が放射する。そうした人々の集いでは、ほのぼのした霊光に包まれて、人間ばかりか動植物まで、精神的、物質的生長力が旺盛になってくる。反対に人の心が乱れ憎悪に満ちている時、つまり愛悪の精神に犯された時は、五体から暗赤色を放射する。これは常に破壊性、殺害性の力を持ち、そのために刺激を受けると、精神的にも物質的にも生長力を阻害される。校内や家庭内暴力のように、衣類を裂き、器具を壊すなどの突発的行為も、統合された破壊的色素の触発による一つの働きである。この愛悪の霊的色素がだんだん濃度を増し天地に充満してくると、肉体的には悪病が広がり、精神的には不安慎悩、猜疑が高まって、ついには争奪のちまたが出現する。愛悪の色素を放射することの有害性はわかっても、かといってそう簡単に愛善の色素に切りかえられるものではない。だから日本では昔から、禊祓(みそぎはら)いという邪気を払い清める行事がある。大麻(おおぬさ)による大祓(おおはらえ)、祝詞奏上、鎮魂などはすべて禊祓の一方法だ。しかし人間が悔い改めず、邪気の充満を人力で食いとめられなくなると、祓戸の神の御出動だ。暴風豪雨地震などで地上の邪気は清められる。天災地変が祓戸の神の働き、「大掃除、大洗濯」だといえば、科学万能主義者は軽蔑するだけだろう。「智者とは日を知る者の意である。日は熱と光の源泉であり、万有生命の原動である。はたして今日の科学者に生命の根本をあきらかにせるものが一人でもあるか。すなわち日を知れる智者なるものがいくばくあるか」(『人類愛善新聞』昭和一O年八月「専ら天を恐れ其の啓示に心せよ」)天の異象を見、地の変兆を知らされても、神意を悟らぬ人には何の感じもおこるまい。つまずく石にも神の警告を感得する敬慶な心は持てないだろう。 天地の 神も怒らせたまいけむ 百のわざわい次ぎ次ぎいたる神がみの 怒りたまえる世の中は 万の曲事止むときぞなき大三災 小三災の頻発も 人の心の反映なりけり ■体から毒素が出る淋しくてたまらないような時は霊衣と関係がある。それは霊性のふさがっている部分があるからだ。囚(とら)われているからだ。何ものにも囚われない自由闊達な心でいれば、淋しい気はおこらない。囚われる心には、悪霊が感応しやすい。悪霊は首筋や尻からかかってくる。ゾッと寒くなる。正しい霊なら、前額部がポーッと熱くなる。なぜ囚われる心に悪霊が感応するのか。たとえば手足を縛られたとする。そんなとき、小さな蚊に刺されても自由がないから、大きな苦痛を感じる。だが片手でもあいていれば、追い払うなどは簡単だ。小さなことに執着し心を縛られては、人間はますますひねこびてついには気が変になる。腹が立って人を許せぬなど、やはり心が囚われているせいだ。カーライルは「怒りを感ずるやいなや、われわれはもはや真理のためではなく、怒りのために争う」と語っているが、まったく真理である。怒ったり恐れたりすると、暗赤色を放つだけでなく、人間の体から毒素が出る。その毒素の匂いをかぐと、敵愾(てきがい)心がわいてくる。この敵愾心は誰でも感じはするが、鋭く感じる人とにぶい人との差がある。犬などは臭覚が特に敏感だから、すぐにそれと知って吠えついてくる。犬が泥棒(どろぼう)を感じるのも、そのせいだ。虎や熊に出会えば、恐怖心がおこる。または「こいつを捕まえて毛皮で売れば、いくら儲かる」などと、下心で銭勘定する。その毒素の匂いに感応して、相手は牙をむいて飛びかかろうとする。敵愾心をもつことがいけないとわかっていても、猛犬を見れば、どうしても恐怖心が湧いてくる。だからこそ、日々愛の心を養うことが大事だと王仁三郎はいう。王仁三郎の万物に対する愛の発芽は、高熊山の修行であった。夜中になると怪音や怪声に悩まされた。孤独は耐えがたい。たとえ狐でも、狸でも、虎狼でもかまわぬ。生きた声が聞きたい。生きた姿が見たいと欲した。と、かたわらの小篠の中からガサガサと音がして、王仁三郎の座る一尺ほど前に青い目が二つ現われた。高熊山の主は巨大な熊で、人を八つ裂きにして松の枝にかけて行くと、古老から聞かされていた。殺されるのではないかと、心臓の血が凍る。「ままよ何事も惟神(かんながら)に一任するにしかず・・・と心を膳下丹田(せいかたんでん)に落ちつけた。サアそうなると恐ろしいと思った巨熊の姿がたいへんな力となり、そのうなり声が恋しく懐かしくなった。世界一切の生物に仁慈の神の生魂が宿りたまうということが、適切に感じられたのである。かかる猛獣でさえも寂しいときには力になるものを、いわんや万長の霊長たる人においてをやだ。アア世界の人を悪んだり、怒らしたり、侮ったり、苦しめたり、人をなんとも思わず、日々を暮してきた自分はなんとしたもったいない罰当りであったのか、たとえ仇敵(きゅうてき)悪人といえども、みな神さまの霊が宿っている。人は神である。いな人ばかりではない、一切の動物も植物も、皆われわれのためには、必要な力であり、頼みの杖であり、神の断片である。人はどうしても一人で世に立つことはできぬものだ。四恩ということを忘れては人の道が立たぬ。人は持ちつ持たれつ相互に助け合うてゆくべきものである。人と名がつけば、たとえその心は鬼で蛇でもかまわぬ。大切にしなくてはならぬ。それに人はすこしの感情や利害の打算上から、たがいに憎み嫉(ねた)み争うとは、なんたる矛盾であろう。不真面目であろう。人間は神さまである。人間をおいて力になってくれる神さまがどこにあるであろうか。神界には神さまが第一の力であり、頼りであるが、現界では人間こそわれらを助くる誠の生きたる尊い神さまであると、こう心の底から考えていくと、人間が尊く有難くなって、粗末にとり扱うことは、天地の神明にたいし奉り、恐れありということを強く悟了したのである。これが自分の万有に対する慈悲心の発芽であって、有難き大神業に奉仕する基礎的実習であった。・・・(『霊界物語』一巻三章「現界の苦行」)_ ■囚われぬ心を持て宗教の弾圧史の中で、大本事件の場合は転向者が極端にすくなかったといわれるのは、王仁三郎の徳の高きであろう。信者は王仁三郎に惚(ほ)れ抜いていた。王仁三郎の霊衣がとてつもなく厚かったということか。天思郷から四キロ離れた穴太寺の住職が語っている。「私は聖師さまが今日、亀岡の天恩郷におられるかどうかが、穴太にいてわかりますよ。それで穴太におって、聖師さまの存否をよく知っている。聖師さまのおられる日は、この穴太寺の庭の葉色が非常に艶を増して輝いている。御不在の日は、庭の草木が艶がなく、輝きがない。それで私は遠く離れた穴太にいても、庭の草木を見て、聖師さま亀岡在住かどうか、見わけで知っている」(『木の花』昭二六年二月号「聖師の言葉」)また王仁三郎は、「わしの霊衣は、未決から帰って地上に五里四方、地下に五里四方も拡大された」とも語っている。話が大き過ぎて、眉に唾をつけたくなろう。とにかく王仁三郎は、人を魅きつける力の強い人だった。子供の頃、私は王仁三郎の側にいたくて、用事もないのにその周りをちょろちょろしていたものだ。これは無意識にその厚い霊衣に包まれたいからで、そばにいるだけで気持がほかほかしてくる。だからあれだけ多くの人を魅きつけ、あれだけの仕事ができたのであろう。狂者(きちがい)の そのなりそめをたずぬれば 心小さく持つがゆえなり主の神は 天と士とに不可思議を 示したまえどさとるものなし狭くとも 心を広く持つときは しづが伏屋もたのしき天国くよくよと ものごと悔む暇あれば 大小となく行いてみよ ■包容とは抱擁「人間というものは、すぐ敵愾心を持つからいけない。敵意をもって事に処すれば、万物みな敵になる。愛をもって向えば、みな味方になる。愛は絶対的権威を持つものである」(『玉鏡』「怒りと毒素」)魂は遠心的なものだから、外へ出さねばならない。内へひっこめるから狭い胸がちょっとのことでいっぱいになって、苦しくなってくる。囚われない、執着しない、大きな心を持っていたら、淋しきなどは湧いてこない。「人の悪口などを恐がるようではだめだ。大きなものには大きな影がさす。出る杭は打たれる。じっとしてさえいたら人にかれこれいわれることはないが、問題にされるぐらいの人でなければだめだ」(『月鏡』「淋しいということ」)囚われないためには、包容力を養うこと。包容は抱擁で、抱けばよい。鶏が雛を抱いて暖めてやる、あれが真の包容で、氷のような冷たい心で抱いてもちっともありがたくない。雛はすぐに抜け出してしまう。あまり固く抱きしめると、またよくない。抱かれた雛は、しめつけられて育たぬ。ゆるすぎても、雛につつかれる。包容の仕方も難しい。 ■出口直と八人の子供たち出口直には夫政五郎との間に八人の子がいた。長女米(よね)は綾部のならず者大槻鹿蔵と駆け落ちの末、道義的でない結婚をし、世間をはばかってそれを許さぬ父母を憎悪する。次女琴は奉公先から家出して、王子(現亀岡市篠町王子)で栗山庄三郎と結婚するが、貧しい出口家や弟妹たちを厄介に思う。長男竹蔵は大工見習いを嫌って自殺未遂ののち蒸発し、長年月消息を絶つ。三女久は、兄姉と違い、幼い頃から母を思い、母を助ける。が、父政五郎の死後、苦しい環境に耐えられずに母を見捨てて一時は行方をくらます。それでいながら、死ぬまで母に密着、逆らいつつもとことん母の生きざまに支配される。次男清吉も、母を助けて成長する。直が一番愛し期待した息子であった。だが近衛兵にとられ、明治二八年、台湾で戦死する。三男伝吉は小さい頃に大槻家の養子になり、直とのつながりは薄い。四女龍は子供の頃から母を助けて、奉公暮らしo五女澄は生涯、母とより添って生き、晩年まで母の面影を慕い続ける。このように見てくると、養子伝吉を除き、明治元年生まれの久を境に、上になるほど母との精神的葛藤が激しい。上四人は一度は親を捨てて家出しているのだ。なぜか下になるほど、母と強い愛情で結ばれる。むろん子供たちの持って生まれた性格も起因しよう。だがそれよりも、子供たちに対する直の接し方にも原因があるのではないか。若い頃の直は、みずから生きてきた封建道徳そのままを子供たちに踏ませようとした。「親が貧乏すりゃ子は巾着で、いかな人にも下げられる」と歌って聞かせ、人に見下げられないような人間になることを説諭した。子供たちをやかましく叱ることはない代りに、強く目で制した。それが子供たちにはなによりも恐ろしかったという。しかし子が成長するにつれ次つぎに親を裏切って行く現実に直面し、母としての指導理念が揺らいだのではないか。直は次第に子に甘い母に変貌する。背中に龍をおぶり、ふところに澄を抱いて重い石臼をひく直。山家鰻頭を待ちくたびれて寝ている子に早く食わせたくて、わらじのまま畳を這う直。屑買いに一日歩き回ってくたびれきった身で、八歳にもなる澄をおぶって町を行く直。そこにはかつての子のしつけにきびしい直はなく、子にめろめろの子煩悩な女がある。子の教育に絶望し、今日でいうスキンシップの愛情に変ったとき、皮肉なことに子供たちは母に慕い寄る。これもまた、包容の一つのあり方ではなかろうか。 ■どうしたら霊衣を厚くできるか王仁三郎は人に接するとき、まず霊衣の厚薄を見る。信仰の穂によって霊衣に次第に厚みを加える人もあれば、神に反対したり人の妨害などをしてせっかくの天授の霊衣を薄くし、中には円相が山形に変化しかかっている人も数多く見る。そういう人に向っていろいろと信仰の道を説くが、かえって神の道を疑い、ひがみ、逆に恨まれることもあった。世の中そうしたもので、相手のことを思って忠告してあげれば、逆恨みされることが多い。何度も苦い思いをすれば、つい見て見ぬふりをしてしまう。未来が見えるだけに、悲しい思いを数限りなくしたことだろう。だが人の忠告をなかなか素直に受け入れられないのが、人間である。だから自分で気がつくより仕方ない。霊衣が薄く山形になっている人は、自分の今までの心のありかたを反省し、大神に心から謝罪し、天津祝詞を円満晴朗に奏上すると、その霊衣は厚きを増し、三角形は円形に立ち直り、死をまぬがれることができる。だがこうして救われた人が神の大恩を忘れたときには、たちまち霊衣が薄れ幽界行きとなる。普通の人の霊衣の厚きは五分くらいなものだが、神の道を説く宣伝使になると三尺くらいに拡がっているそうだ。また王仁三郎は「宣伝に行けと命令を受けると、霊衣を拡げてもらえる。それで御神徳をいただくのである」といっている。どうしたら霊衣を厚くできるのか。正しい信仰や人間としての徳を積むことである。王仁三郎はいう。「霊性の一部が塞がっている人は、霊界物語を読まぬからだ。重要なる神様の御用を承けたまっておる人は、ことさら物語を拝読しておかぬと霊性が塞がっておっては、本当の御用は出来ない」(『月鏡』 「淋しいということ」) よきことを 為せば霊魂はふゆるなり 悪事は魂の力をうしなう 『霊界物語』一巻三章「現界の苦行」・二巻「総説」、「玉鏡』「仏足頂礼」・「怒りと毒素」・「光る宝石と曲津」、『月鏡』「淋しいということ」、『水鏡』、「魂は外へ出さねばならぬ」 ・「包容力」・「霊衣のこと」、『人類愛善新聞』昭和一O年八月「専ら天を恐れ其の啓示に心せよ」、『木の花』昭和二六年一一月号「聖師の言葉」