第一一章 霊主体従

■主と従の関係を明白に人は生きている限り、誰しも霊能と体能を持つ。この宇宙間で意義ある活動をするには、どちらか一方を主とし、他方を従にしなければならない。右足と左足はどちらも大事だ。ところがお互いに先に進むことを主張すれば、立ち往生するより仕方がない。一方が先に足を踏み出すことで、歩くという行動が可能になる。同じ体型、同じ力を持った両力士ががっぷり四つに組み全力で押し合ったとしても、勝負がつかぬ。水入り引分けに終ってしまう。どちらかが先に技をかけ、他方が受けることで相撲が成立つ。男女は同権だが、いったん夫婦になると、どちらかの意見を立て他方が従わないと、家庭の中が不統一になる。そこで夫主妻従、あるいは状況によっては、妻主夫従となろう。主と従の考え方の基本が決まると、それは固定的、半永久的でなければならない。たとえば日本では「車は左」が原則だが、規則が一週間おきに左になったり右になったりすると、混乱がおこる。だから霊能、体能ともに大事でも、霊能を主にし体能を従にせよというのが、王仁三郎の主張であり、これを霊主体従という。逆に体能を主とし、霊能を従とした生き方を、体主霊従という。 むらきもの 心尊み体(み)を次に するはまことの神にかなえる ■進左退右(しんさたいう)が宇宙の大原則言霊学上、左は「火足(ひたり)」の義で火の系統、霊の系統を示し、右は「水極(みぎ)」で水の系統、体の系統であることを示す。宇宙全体の運動は「進左退右」が原別であり、相応の理によって、霊主体従が人として生きるべき道だと王仁三郎は説く。「宇宙全体は人間の理智想像で推定するにはあまりに偉大に過ぎ、とてもその運動の法則がその通り進左退右になっていると証明することはできないから、小宇宙たる人間その他二、三の卑近な実例をあげて説明する」 (『大本略義』「進左退右」)と王仁三郎は前置きして述べている。意識するにしろしないにしろ、運動という運動はすべて左が進み、右が退くようにできている。三歳の幼児が拍手する場合でも、常に先方に出るのは左手で、後方に退くのは右の手だ。摺鉢で味噌をする時、碾き臼をひく時、その他類似の無数の場合においても、進左退右の原則に従っている。もちろんこれにそむくこともできなくはないが、妙に勝手が悪く、骨が折れることおびただしい。  昔の柱時計など、ふつう時計用の螺針(ねじ)と時報用の螺針と双方別々に取りつけてあり、左巻き右巻きの二種に作製してある。右巻きの方は巻きやすいが、左巻きの方はおびただしく力がいる。動静脈によって体内を循環する血液も同一原則に従い、祭式で左足からまず踏みだし、後退に際して右足から退くのも、やはり自然の天則だ。 ■霊主体従と体主霊従筆先に「身魂の立替え立直し」という言葉がしばしばでてくるが、ミタマといえば霊魂だけをさすのではない。身は身体、または物質界をさし、魂とは霊魂、心性、神界等をさす。霊と体の関係を別の角度からいえば、すべて宇宙は幽の幽、霊が元で顕の顕である体が末になっているから、宇宙一切は霊界が主であり、現界が従というのが大原則だ。これを霊主体従と称する。霊主体従の身魂を霊(ひ)の本の身魂、体主霊従の身魂を自己愛智(ちしき)の身魂ともいう。霊主体従の身魂は「いっさい天地の律法にかなった行動を好んで遂行しようとし、常に天下公共のために心身をささげ、犠牲的行動をもって本懐となし、至真、至善、至美、至直の大精神を発揮して救世の神業に奉仕する、神や人の身魂」(『霊界物語』巻「発端」)である。一方、体主霊従の身魂は「私利私欲にふけり、天地の神明を畏れず、体欲を重んじ、衣食住にのみ心をわずらわし、利によって集まり、利によって散じ、その行動は常に正鵠を欠き、利己主義を強調するほか一片の義務もわきまえず、慈悲を知らず、心はあたかも豺狼(さいろう)のような不善の神や人」(『霊界物語』一巻「発端」) をいう。王仁三郎の善悪観によると、霊主体従が善で、体主霊従が悪だ。愛善は霊主体従、愛悪は体主霊従の同義語だと考えてもよい。「愛にも善があり、悪がある。愛の善とは、すなわち霊主体従、神より出たる愛であり、愛悪とは体主霊従といって、自然界における自愛、または世間愛をいうのである。いま口述者(王仁三郎)が述ぶる世間愛とは、決して世の中の博愛や慈善的救済をいうのではなぃ。おのが種族を愛し、あるいは郷里を愛し、国土を愛するために他をしいたげ、あるいは滅ぼして、自己団体の安全を守る辺境的愛を指したのである。(『霊界物語』四七巻九章「愛と信」) そしてこの愛善を大別すれば、神へ向かう経の愛と、隣人に対する緯の愛がある。 ■霊五体五が理想的善を求めるあまり霊能をのみ高める努力をすれば神に近い崇高な人であるかのようだが、そうではない。霊主体従といっても、その関係はあくまで霊五体五であることが必要だ。たとえば縦横の長さの和を十として、どの比率の四角形の面積が一番大きいか。一対九ならば九、二対八では一六、三対七だと二一、四対六で二四、五対五ならば二五であるように、縦横いずれも五の正方形の面積が最大となる。かりに一方が零ならば、いくら掛けても面積は零で、なんの広がりも持たぬ。それと同様に、霊五体五が一番力を発揮する理想的な状態であり、霊六体四、霊七体三もまた悪となる。霊能、体能いずれか零になれば、人間としての存在価値もまた無に等しい。五分五分ならば、体五霊五でもよさそうなもの。しかしこの地上は物質世界である限り、どうしても体能の力が強くなる。体五霊五のつもりでも、気がつかぬうちに体六、体七と引きずられやすい。だから同じ五と五でも、霊を主にし体を従にせねばならない。王仁三郎は「体主霊従といえども、体五霊五は、すなわち天の命ずるところにして、これに体、超過すれば、いわゆる罪となるなり」(『霊界物語』六巻二六章「体五霊五」)「おなじ体五分、霊五分といえども、その所主の愛が外的なると内的なるとによって、霊五体五となりまた体五霊五となるのである。ゆえに霊五体五の人間は天国に向かって内分がひらけ、体五霊五の人間は地獄に向かってその内分が開けているものである」と語る。すばらしい騎手と名馬が組めばまさに「鞍上(あんじょう)人なく鞍下(あんか)馬なし」で、人馬一体の疾走ぶりを見せてくれる。そのためには、騎手も馬もともに大事だ。          霊主体従というのは、人が馬を乗りこなした状態だが、体主霊従は、神の目から見れば、馬が人を乗せた状態といえる。 吾みたま 守るは吾のからだなり 吾が身守るも吾の霊魂(たましい)病悩(いたずき)の 身を天地にいのるとも 夢現世(うつしよ)の医師をわすれな ■高熊山修行は空前絶後の実習人生の意義は、顕幽一致、霊体一如の真理によって、現界で大活動をし、天地の経綸に奉仕することだ。よく霊能を高めようとして深山幽谷に入り、難行苦行をする人があるが、すべて「業」は「行」だから、たとえ一ヶ月でも人界の事業を廃して山林に隠遁し、怪行異業に熱中するのは一ヶ月の社会の損害だ。神界からみても、人生のサボタージュである。王仁三郎は、「現界において生成化育、進取発展の事業につくすをもって第一の要件とせなくてはならぬ」(『霊界物語』一巻二章「業の意義」)と述べる。「神界の業というものは、そんな軽々しい容易なものではない。しかるに自分から山林に分入りて修行することを非難しておきながら、かんじんの御本尊は一週間も高熊山で業をしたのは、自家撞着(じかどうちゃく)もはなはだしいではないかとの反問も出るであろうが、しかし自分はそれまでに二十七年間の俗界での悲痛な修行を遂行した。その卒業式ともいうべきものであって、生存中ただ一回のみの空前絶後の実修であったのである。世に『釈迦でさえ檀特(だんとく)山において数ヶ年の難行苦行をやって、仏教を開いたではないか。それに僅か一週間ぐらいの業で、達観することを得るようになったとは、あまりの大言ではあるまいか』と疑問を抱く人々もあるであろうが、釈迦は印度国浄飯(じょうぼん)王の太子と生れて社会の荒き風波に遇(あ)うたことのない坊ンさんであったから、数年間の種々の苦難を味わったのである。自分はこれに反し、幼少より極貧の家庭に生れて、社会のあらゆる辛酸(しんさん)を嘗(な)めつくしてきたために、高熊山に登るまでに顕界の修行を了え、また幾分かは幽界の消息にも通じていたからである。(『界物語』一巻二章「業の意義」)肉体と霊は、グラスと水のようなもの。丸いグラスなら水は丸い。四角い、グラスにそそげば水も四角くなる。肉体を苦しめて、正しい霊がかかるはずはない。王仁三郎は「悪霊は人の空虚に入って害悪を及ぼす。打たれたり、あるいは断食の修業などすれば、肉体が衰弱して空虚ができるから、そこに悪霊が感応するのである。空虚があっては、正しい人ということはできない」といっており、またこんな歌を詠んでいる。 礼無きは 醜(しこ)の宗教家(とりつぎ) 裸身(はだかみ)の 滝にうたれて太祝詞(ふとのりと)宣る 普通には、不思議な行をする人たちをありがたがる風潮があるが、「正法に不可思議なし」だ。行者などが火の上をはだしで歩いたり、腕に針を刺したりして平気でいるのは、悪霊に混依されているからであろう。そうなると感覚を蕩尽(とうじん)させたり、意念を断絶させたり、いろいろ不思議なことをする。催眠術にかかったときなどまったく邪霊の活動ばかりで、肉体を守る精霊の活動がさまたげられると王仁三郎はいう。 礼なきは 醜の宗教家 裸身の滝に打たれて太祝詞宣る ■体主霊従的なお賽銭の上げ方霊主体従は、『霊界物語』の中でも、大きなテ―マとしてつらぬかれている。具体的な行動で考えよう。神社にお参りして、お賽銭(さいせん)を上げ、一心こめて家の繁栄を神に祈る。これは善男善女の美しい姿に違いない。神に祈るという行為は、たしかに霊主体従であろう。ただで願いごとをするより、お妻銭を上げた方がいい。しかしその上げ方が霊主体従的行為であろうか。子供にお菓子を与えるにしても、紙に包んで上げる。お年玉なら、可愛い袋に入れて上げる。まして神さまに頼みごとをしておきながら、犬や猫に餌をくれてやるように、賽銭箱にポンと小銭を投げ入れる。あなたなら、他人から物を投げ与えられて、ありがたくいただくだろうか。もし本当に神様をあがめられるなら、清浄な白紙に包んで玉串料としてお供えするのが当然であろう。そういう意味で、大本には賽銭箱がない。神社に参ったら賽銭を上げるのは長い間の日本人の慣習であり、初詣でにぎわう神社など、妻銭箱を除けば収拾がつかなくなるだろう。ただここでいいたいのは、霊主体従的善行と思ってることに、案外、体主霊従的なおとし穴があり勝ちだから、常識を一度ひっくり返してみつめ直してほしいのだ。お賽銭の上げ方ばかりか、お金と引きかえに御利益を得ようとする心そのものが、すでに体主霊従的行為ではないだろうか。お賽銭で人のいいなりになるようでは、真の神ではない。人にこき使われる低級霊だ。また祈ったから願いをかなえ、祈らぬから頬かむりするなら、神の大愛にもとる。第一、ろくに勉強もしないで合格を祈っておき、落ちたからと神を恨むなど、それは祈りではなく、取引きに過ぎない。ましてや人目に立っところに寄進者の名をかかげて誇ったり、鳥居を立ち並べて名を書き入れるなど、虚栄まるだしの身欲信心の看板で、思わず顔をそむけたくなる。天地を活かす真神の大愛に身も心もすべてをゆだねる心こそ、霊主体従的祈りだ。幾つもの荒波を乗りこえて平穏無事に生かされている日々を神きまのおかげだと気がつけば、思わず手を合わせたくなる。神に感謝せねばすまぬ心がおきる。心にその思いが起きればそれを形で現わすことが霊主体従だ。だから妻銭でなくても、畑でとれた物、自分で煮炊きした物でもよい。それは何も金額の多寡ではない。これについて、一つの挿話を紹介しよう。 ■長者の万灯、貧者の一灯大本開教初期の明治二七(一八九四)年秋、金光教は出口直の霊カを利用して何鹿(いかるが)地方に教勢を拡大Lようと考え、布教師の奥村定次郎を綾部に派遣した。そして直に病気を治してもらった人たちを中心に教会を開く。開設当初は信者たちの寄進やお供え物が有力な維持費である。だがその受け方が、奥村と直は対象的であった。初めのうちはなんでも喜んでおしいただいた奥村だったが、信者がふえ出すと、金を寄進する者には顔をほころばすが、大根や豆では嬉しそうな様子もしない。ところが直は逆である。信者は直の面前では、金を寄進するのは気がひける。なんだか名誉でない、気恥ずかしい思いがする。直は、畑でとれた大根を煮たり、麦をひいて麦こがしにしたりして持って行くと、「これはまあ、お手間のいった御馳走はんを」とていねいに挨拶し、心から嬉しげであった。お供えに大根一本あっても「みなさんでおかげをいただいておくれなはれ」といって、信者たちに分ける。もちろん直のような態度では経済的に教会を維持できるわけはないが、信者たちには、「神さまは人の真心を喜ばれる」ということが素直に胸にしみいった。「長者の万灯、貧者の一灯」の言葉があるように、神はその人の誠心をお受け取りになる。お祖父さんが孫から飴玉をもらうと、たとえそれが誕でぺちゃぺちゃでも、目を細めて口に入れる。お祖父さんにとっては、飴玉で示される孫の愛情が、どんなものよりも嬉しいのだ。 ■誠心と魔心宗教儀式だから霊主体従だと思うと、大きな間違いだ。たとえば祝詞やお経を唱えることは霊主体従のように思えるが、そのあげる人の心の持ち方によろう。形式だけは立派でも、見てくれよがしで心が外に向っていては、かえって神に無礼になる。祝詞やお経さえあげれば、機械のスイッチを入れるように、誰でも同じ結果が生じるというものではない。「祝詞はすべて神明の心を和らげ、天地人の調和をきたす結構な神言であるが、その言霊が円満晴朗にして初めて一切の汚濁と邪悪を払拭することができる。悪魔の口より唱えられるときは、世の中はますます混乱悪化するものだ。けだし悪魔の使用する言霊は世界を清める力が無く、欲心、嫉妬、憎悪、羨望、憤怒などの悪念によって濁っている結果、天地神明の御心を損なうにいたるからである。それ故、日本は言霊の幸はう国とはいっても、身も魂も本当に清浄となった人がその言霊を使って初めて、世のなかを清めることができる。これに反して、身魂の汚れた人が言霊を使えば、その言霊には一切の邪悪分子を含んでいるから、世の中はかえって暗黒になるものである」(『霊界物語』一巻一七章「神界旅行四」) 大神の まことの道に入りながら 真言魔言のはき違いするいのるとも 心に曲のある時は 神の救いの如何であるべき世のためと 祈る真人ぞすくなけれ 底の心はわが身のためのみ太祝詞 ながなが称へ私利をのみ 祈るは誠の信徒にあらず礼なくて 黒き心もつ人の  いのる言葉にしるしあらめや■赤血球は霊能・白血球は体能言霊学では霊をチと読むと述べたが、王仁三郎は、霊を運ぶのは血液だという。われわれの全身には、血液が回っている。その血液は血球(赤血球・白血球・血小板)と無色透明の血漿で成り立つ。血液が赤く見えるのは、赤血球がヘモグロビン (血色素)なる生態色素をふくむためである。王仁三郎は「霊は形のないものだが、霊が血管の中を動いているから血液が赤いのだ」という。体外に出た血がやがて凝結して黒っぽく変色するのも、霊が血液から抜けたからであろう。さらにまた、「血球の中の赤血球が霊能で、白血球が体能だ」と語る。赤血球が霊的、精神的方面をつかさどって、白血球が体を発育させる。そして血管の中で赤血球と白血球がまじり合って、動静解凝引弛分合の八力の働きをする。「人間が死んで霊がなくなったら、血液は元通りにあるが、その水分が死体に吸収されて見えなくなるのだ」ともいっている。これらの王仁三郎の説は医学的には根拠のないものであろう。だが医学の場合は、ミクロの世界といっても目でふれうる範囲でしか考えられないから、霊と血液とのかかわりなど正しいかどうかは判断できないであろう。物質レベルで血液の凝固反応を論じても、その原因が背後にあって観察できなければ、物質的な二次的な現象を原因として考えることになる。将来解明されるのを待つしかない。「ミクロの決死圏」という映画の中で、ミクロに縮小された人間が、無数の円盤状の血球の浮かんだ血漿の海を潜水艦で航海するが、肉体のメカニズムの美しき、神秘さに圧倒され、登場人物の一人のせりふそのまま、まさに創造主の意志を感じてしまった。白分の潔白を証明したさに、「まっかな血を見せてやりたい」と口走る。真実のあかしに血判を押したり、血縁関係を大事にするのも、血が霊との潜在観念があるからであろう。血液霊という血と一体化した霊魂観念は、原始宗教では重要な役割を持っている。殺した敵の血をすすったり、動物の血を神に供えたりする。やくざが兄弟分の関係を結ぶのに血をすすり合ったりするのも、本能的な血と霊とのからみの影響であろう。『霊界物語』一巻「発端」・二章「業の意義」 ・一七章「神界旅行四」 ・六巻二六章「体五霊五」・四七巻九章「愛と信」・五二巻一章「真と偽」・同一七章「飴屋」、『大本略義』「進左退右」・「霊主体従」、『道の大原』二章、『玉鏡』「お玉串について」・「霊と血」 ・「血」、『水鏡』「白血球と赤血球」