第六章 大本三大学則■神とは坊主の頭のようなもの王仁三郎のいうように、真の神が宇宙の大元霊だとなると、あまりにも大き過ぎて見当もつかぬ。象の足の上をはっている蟻が、どんなに背延びしでも象の全体像を見られないのと同様だ。『西遊記』にこんな話がある。孫悟空という猿、肋斗雲(きんとうん)の術を会得、伸縮自在の如意金箍(にょいきんこ)棒をあやつり、天界を大混乱におとしいれる。慢心した孫悟空は、お釈迦さんに高言した。「わしは天のはてまでいってきます」肋斗雲に飛び乗って息の続く限りつっぱしる。天のはてと思われるところに、大小不揃いの五本の柱が立っていた。孫悟空はその柱に「斉天大聖(孫悟空の別名)此に遊ぶ」と大書し意気揚々と帰って、お釈迦さんに報告する。「天のはてまで行った証拠に、柱に文字を書いてきました」 お釈迦さんはお笑いになり、「お前が書いた文字はこれか」とてのひらをお見せになると、五本の指に孫悟空の書いた丈字が残っていた。人間、いかに万物の霊長だといばってみても、しょせんお釈迦さんのてのひらの上で踊っている猿のようなものか。王仁三郎は「神とは坊主の頭のようなものだ」としゃれる。坊主の頭には髪の毛がない。その心は「神(髪)は言う(結う)に言われず、説く(杭く)に説かれず」ということ。あるいはこうもいう。「書は言をつくす能はず、言は意をつくす能はず、意は真をつくす能はずということがある。意につくす能はざるところに神の権威があり、また真理がある。神は説明することができぬ。あたかもボタ餅がうまいといっても、どんなにうまいということは、味わわぬ人に説明することができないようなものである」(『玉鏡』「神さまと味わい」)また「神徳を完全に伝えようとすれば、太平洋の水をインキにしても書き尽くすことはできぬ」、さらに「頭だけで神を理解しようとすれば、その者はきちがいになるより仕方あるまい」ともいい、「耳でみて目で聞き鼻でもの食うて口でかがねば神は分らず」と教える。霊を見ずば 信仰せぬというような わからずやには相手になるな悪神は 神を見せよとなじるなり よい罰当り亡びはちかし天地の 霊力体の活動を 考えて見よ世の阿呆ども目に見えぬ こそ神々は尊けれ 曇れるものは人の目につく■大本三大学則では人間の分際では、どんなに努力しても神は永遠に分からないのか。若い頃の王仁三郎もまた、神を求めて悩んだ。一八三七年八月下句、王仁三郎は産土の小幡神社に夜ひそかに参龍し、神教を請う。三七日(二一日間)の上りに、はっきりと神示を得た。一 天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし一 万有の運化の事差なきを視て、真神のカを思考すべし一 活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すベし王仁三郎がその意義を問うと、神は教えた。「三条の学則は、これ神の黙示なり。汝よく天地に俯仰して観察すべし。宇宙は、この霊と力と体との三大元質をもって充たされるを知り得ん。この活教典をもって、真神の真神たる故由(ゆえ)を知ることを知り得ん。この活教典をもって、真神の真神たる故由を知ることを得ん。なんぞ人為に成れる書籍を学習するに及ばんや。ただ宇宙間にはこの不変不易たる真鑑実理あるのみ」これが大本三大学則として、神を知るための基本理念になっている。くだいていえば、「神の実在、力徳、神性を悟るには、書籍や学間などに頼らず、直接天地自然を心ひそめて観察せよ。そうすれば、どんな人にでも分るのだ」との意だ。大本の 教の奥所をまつぶさに  説き示さんと選(えり)しこの学則■驚くことのすばらしさ国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』は、独歩の本音の人生観を語った作品である。牛肉は現実、馬鈴薯は理想を暗示しているらしい。主人公は岡本という作家で、舞台は東京の西洋風の建物。そこで何人かの紳士が人生について語りあっている。とりたてて筋書はない。そこで岡本が「僕には不思議なる願いがある。この願いさえかなえられれば、どんな犠牲を払ってもよい」という。席につらなったものは大いに興味をそそられあれかこれか憶測する中で、「びっくりしちゃァいけませんぞ」と念を押しながらついに岡本は明かす。「自分の願いは驚きたいということだ」あまりにも意外な返答に一座の反応はまちまちだが、岡本のいいたいことを要約しよう。「びっくりしたいというのが僕の願いなんですよ・・・即ち僕の願いとは夢魔を振い落したいんですよ・・・宇宙の不思議を知りたいという願いではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願いです・・・死の秘密を知りたいという願いではない、死ちょう事実に驚きたいという願いです」まったく、驚きを忘れているのが現代といえる。幼い頃、私は、落ちて行く夕陽を見て、西山の頂上に立てばあのお日さまにさわれると信じ、走り出したい衝動を感じた。誰だって、かつては、そういったみずみずしい心のときめきを持っていたはずだ。だが生存を続ける間に感動する心は急速に摩滅し、太陽が東から昇り西に沈む、あたり前だになってしまう。蚕が青い桑の葉を食って白い糸を出す、人間が白い米の飯を食って黄色い糞を出す、あたり前だで、誰も驚かない。私はこれまで、多くの大本信者に接してきた。彼らの多くは、神の偉大きを悟ったり、何かの強烈な体験を得たり、つまり大きな驚きが踏み台になって入信した。が、日々の信仰の中で初心をみがきつつ教えに生きる人は、案外に少ないのだ。その驚きが念頭から忘れ去られるにつれ、体験的知識だけがいたずらに蓄積、信仰の古さを誇るようになる。それを「信仰にカビがはえる」という。こういう人たちほど、度しがたいものはない。■草木も人民も光り輝くあれは小学校六年生ぐらいだったろうか、ある大本の先生から、王仁三郎の神観について初めて聞かされた。私は体の芯が燃えるようで、なぜだかすごく感動した。家への帰途、いつになく足が軽くうきうきしていた。気がつくと、いつも見なれているはずの景色が、まるで違ってみえる。緑は生まれたての透きとおった緑に、紅はいっそう紅に、空も草木もすべての色彩が冴え冴えと光り輝き、波のように踊っている。何かのかげんで私の目の鱗が落ち、やっと皆と同じ景色が見えようになったのかと思った。喜びの叫びを上げて、ステップを踏むようにして家に帰った。部屋に入っても落ちつけない。もう一度あのすばらしい色彩に踊る山野が見たくて外に出た。そして失望した。私の見たのは平凡なふだんの風景、どんなに目をこすっても、もうあの輝きは戻らない。では私はあの時、まぼろしを見たのか。そうは思わない。人の眼で見た月と、魚の魚眼やトンボの複眼で見た月は同じではない。人の肉眼で見た月だけが真実だと、誰が決める権利があるのか。それこそ、人の倣慢ではないのか。出口直の筆先は、「こんど天地の岩戸が開けたら、草木も、人民も、山も海も光りかがやいて、まことにそこら中がきらきらいたして、たのもしい世のおだやかな世になるぞよ。これがまことの神代であるぞよ。・・・月も日ももっと光がつよくなりて、水晶のように、ものがすきとおりて見えだすから、悪の身魂のかくれる場所がなきようになるぞよ」と述べる。「天地の岩戸が開けたら」とは「理想世界が建設されたら」ということで、大本では「みろくの世」という言葉で表現する。ではほんとうにみろくの世になれば、草木や人民や山や海や太陽や月はもっと光り輝き出すのか。私はそうは思わない。実体は今も輝いているのに、人の目がその光を存分に受けとめ得ないだけなのかも知れない。あるいは実体は変わらぬのに、人の心がみろくの世にふさわしくなれば、その知覚を通して眺めた時、光り輝くように映るのかも知れない。借金取りに追われて逃げ回り、橋の下から心細く眺める星と、恋人同士が肩寄りそってうっとり眺める星とは、同じ星でも違って見えるはずだ。天才バカボンのパパが「大空の梅干しにパパが祈る時」と歌うように、せっかくの星も、パパにかかっては唾液を分泌させるだけの存在に過ぎない。その人の心のありようで、同じ対象ですら変わって見える。■神の黙示の意味総本体である大国常立尊はあまりにも洪大無辺で、その全体を察することは不可能だが、粟一粒にも米一粒にも真の神の霊力体が混然と融合し、粟は粟粒なり、米は米粒なりに独特の機能を発揮している。王仁三郎の妻澄はご粒の米の中にも三体の神いますこと夢な忘れそ」と歌うが、粟粒も米粒もいわば小国常立尊である。そして大国常立尊の縮図である小国常立尊は天地間に満ち満ちているのだ。神は姿をお持ちにならぬから、見ることはできぬ。だが感じることはできる。驚くことのできるみずみずしい心を持ち、活眼を開き、素直な心で天地間のあらゆるものに対すれば、悟りの種はいつどこにでもころがっている。天思郷にある三大学則碑の前文には、「神の黙示は即ちわが俯仰観察する宇宙の霊力体の三大をもってす」とあるが、めぐりうつる大自然こそ生きた教科書であって、神は早く悟れよと示されている。それが黙示ということであろう。『スーパー・ネイチャー|』、『生命潮流』などの世界的ベストセラーの書で知られるライアル・ワトソンは一九七八年夏に亀岡の大本本部で開かれた第三回大本日本伝統学苑に学苑生の一人として参加したが、その間三回にわたり学苑生に講話した。その中で、大本三大学則についてふれている。「皆さんご存じのように天思郷万祥殿の裏に二つの石碑があります。そのうちの奥まった所にある石碑には、大本三大学則が刻まれております。これはいうまでもなく大本教祖出口王仁三郎師が唱えられたものですが、私はこの学則を拝見し、その英訳文を読んで、たいへん感動しました。そこには、私がこれまで探究しつづけた万象の心理を究める方途が端的に表現されていたからです。この大本三大学則との遭遇は、自然科学者である私に今後の進路を明示してくれたといっても、決して過言ではありません。私のみならず、世界のすべての学者に物事を研究、観察する上での基本的な姿勢をうち出しているといってもよいでしょう。私がなぜ大本へ引き寄せられたのか、この学則に遭遇してはっきりと認識できたわけです。(『おほもと』昭和五四年三月号「自然科学と三大学則」)真撃に宇宙の神秘に目を見開こうとする科学者は、今後も三大学則に新たな発想の源泉を見出すであろう。「梧桐(ごどう)一葉落ちて天下の秋を伝う。春風一陣水を過りて万波揺るぐ。成因成果ことごとくみなものの教えとならぬはない。山野の樹草は風に吹かれて自然の舞踏を演じ、河水はひとり音楽を奏し、鳥歌い蝶舞い花笑う至美至楽の天地、一として神の御声ならざるはなく、神の御姿ならざるはない。空にかがやく日月も、星辰も、皆これ神の表現、天地は吾々の大師であり教典である。善悪美醜一として神の御姿ならざるはない」(『霊界物語』二五巻「総説」)教とは 人の覚りのおよばざる 天地の神の言葉なりけり『霊界物語』二五巻「総説」、『大本略義』「霊力体」、『玉鏡』「神さまと味わい」、『道の大原』第二章