第八章 一霊四魂と五情の戒律■人の霊魂は一霊四魂で成り立つ人の霊魂は真の神の分霊であり、直霊という一霊と荒魂・和魂・幸魂・奇魂の四魂で成り立つ。直霊は至善至美の純霊であり、善悪を直感し、人を善導する。直霊と四魂の関係はどうか。霊魂は物質ではないから、三次元的思考に囚われない方がいい。直霊は霊魂のもっとも内部にあって四魂を統括していると考えてもいいし、四魂の中にそれぞれ直霊があると考えてもいい。あるいはまた、直霊そのものが霊魂であり、その四方面の働きが四魂となって、その四方面の働きが四球となって現れると考えることもできる。四魂には、それぞれ本体と用がある。用とは働きのことである。荒魂の本体は勇であり、用は進・果・奮・勉・克、すなわち物事を進める時、こうと決すれば 果断果敢に実行し、困難にあっても奮い立ってあたり、しかも感性だけに頼らず常に勉強し、悪にも欲にも打ち克つ。ひらたくいえば実行力・忍耐力・克己心のことである。和魂の本体は親であり、用は平・修・斉・治・交、すなわち平和を作り、身を修め、家を斉え、国を治め、神と人ありとあらゆるものと仲よく交わる。夫婦愛や恋愛や兄弟愛なども含む。親和力とでもいおうか。幸魂の本体は愛であり、用は益・造・生・化・育、すなわち人群万類を益し、物を造り、生み、進化させ、育てる。つまり生成化育のことである。ここでいう愛とは、恋愛とか夫婦愛とか隣人愛とは違う。恋人を愛する、友を愛するなどの感情は幸魂ではなく、和魂から発する。恋人と親しむ、友と親しむといった方がふさわしい。幸魂の愛とは、母親が子を生み苦労もいたわず育て上げる、お百姓が土を耕し、種をまき心を配って世話をし収穫する、芸術家が心をこめて芸術作品を造り上げる、そういった心の働きこそ幸魂の愛である。「恋というのは子が親を慕うがごとき、または夫婦が互いに慕い合うがごとき情動をいうのであって、愛とは親が子を愛するが如き、人類が互いに相愛するがごとき、情動の謂いである。信者が神を愛するということはない。神さまを恋い慕うのである。神さまの方からは、これを愛したまうのである。故に信仰は恋愛の心というのである」(『水鏡』「恋愛と、恋と、愛」)奇魂の本体は智であり、用は巧・感・察・覚・悟、すなわち事をなすのに巧みであり、感覚力が鋭く、知的な覚りも精神的な悟りも明らかになる。いわゆる知恵証覚である。「人は決して感情によって事をしてはならない。必ず冷静な理知と相談してやらねばならないということは真理である。王仁は事業のために初恋を捨てた。それは実に耐え難いものであった。五O幾歳の最近まで思い出すと骨がうずいてくる。しかしながら王仁には重大なる使命があることをその頃からおぼろげにも知っていたので、事業と恋との岐路に立って王仁は冷静なる理知の命ずるままに恋を捨て、ひたすら仕事に猛進したのである」(『玉鏡』「理知と感情」)王仁三郎は西郷隆盛を大人物として高く評価していたが、彼の霊と語ったことがあると述べている。「大島から魔児島へと、今度の旅行で西郷南洲翁の跡をたずねてみたが、翁には惜しいかな奇魂(くしみたま)が足らなかったということを痛感せずにはおれなかった。天下に号令しようとするものが陸路兵をおこして道々熊本を通過して東上せんとするなどは、策のもっとも拙なるものである。 かの時、急援兵を神戸、大阪に送って、名古屋以西を扼(やく)してしまわねばならぬのであった。当時、物情騒然としていて、そんなことはなんでもなくできたことなのである。かくて京都、大阪などの大都市を早く手に収めねば志を伸ぶることができないことは、火をみるよりも明らかなことであった。しかるに事ここに出ずして熊本あたりにひっかかってぐずぐずしていたものであるから、思いもよらぬ朝敵の汚名を一時といえどもきねばならぬようになってしまったのである。奇魂が足らなかった。桐野利秋(きりのとしあき)、篠原国幹(しのはらくにもと)みな然りである。大島に滞在中、一二回ばかり西郷翁の霊に会ったが、いろいろ私に話をしておった。『知恵が足らなかったなあ』というてやったら、『まったくやり方が悪かった』というておった」(『水鏡』「奇魂の足らなかった南洲翁」)天津神 さずけたまいし四つの魂 統(すべ)ておさむる直日の霊天地の 神の霊魂を分けられし 人の霊魂はうるわしきもの耐え忍び つとめはげみて勇ましく すすむは人の荒魂かもためらいの こころ打ち捨て勇ましく 思いし善事遂(よごとと)ぐるは義(ただ)しちはやふる 神と人とにやわらぎて むつびまじわる和魂かもえらえらに えらぎにぎわい栄えゆく 家こそ地上の天国なりけり幸魂 めぐみのつゆの深くして 草のかきはも栄えざるなしいっさいの ものを大事にするという こころは愛の本源なりけり奇魂智恵の ひかりはむらきもの 心の暗を照りあかすなりかんながら 神にまかせば先見の 明智おのずからそなわるものなり
■智恵証覚とはでは奇魂の本体である智恵証覚とは何か。智恵と証覚は違う。智恵は生れながらにして神から与えられたもので、先天的、内分的なものだ。学問がなくても智恵のある人があり、学問があっても智恵のない人がある。外分的後天的な学問その他でできたものは知識で、智恵ではない。王仁三郎は「仏教などでいう善知識というのは外分的の記憶的知識で、真の心の救いとなるものではない」(『出口王仁三郎全集』五巻「智恵と証覚」)と述べる。証覚とは、覚りあかす、あかしをもって神を覚るの意だ。日の昇りぐあいで今は何時ごろだと推測するのも覚りだが、時計を見て何時何分だと覚れるように、あかしをもって宇宙の真理に徹することができるのが証覚だ。王仁三郎は「霊界物語でたとえたならば、これを出されるのは智恵からであって、これのあらわれ、すなわち口述してつけとめられたものは証覚なのである。故に霊界物語は智恵証覚を得る唯一のものである。真善美愛はその証覚より顕われ出ずるものである。それで証覚は理解ともいえる。智恵は本体のようなもので、証覚は働きのようにもなる、仏のいう無上正覚とは正しく覚るの意にて、証覚とは違うのである」(『出口王仁三郎全集』五巻「智恵と証覚」)という。また王仁三郎は質問に対して、次のように答えている。「智恵証覚というのはどこから出るのですか」「それはみな愛善から出るのだ。善を放れた真の智恵はない」「神の善を愛するとは、どんなことでございますか」「神さまの意思そのものを愛するのだ」「そうすると、智恵証覚というものがないと、神さまの意思は解らないわけですか」「愛も善にならないと智恵証覚はでてこない。外分的な欲望のために世人の一般はうまく智恵を働かすようなれど、愛を放れ善に背いた行いはすぐに後からはげてくる。それは本当の智恵ではない。  知恵も証覚もすべて愛から出てくるのだ」(『出口王仁三郎全集』一巻「人類愛善の意義」)奇魂智恵のかがみの明ければ 来る世のことも写るなりけり■五情の戒律一霊四魂には、誰でも五情の戒律が備わっている。直霊は省みる、荒魂は耻(はじ)る、和魂は悔(くい)る、幸魂は畏(おそ)る、奇魂は覚るの働きだ。直霊には省みるという戒律がある。反省する心を持つのは人だけ。反省心を全く失った人は、人に価せぬ。相手が自分のぜひ欲しい物を持っていてそれを要求したが、拒絶されたとする。いかに相手が強そうでも、勇気をふるって殴りかかり、それを強奪したとしよう。その勇は荒御魂の働きだろうか。否、その前に直霊の御霊に省りみれば、おのずと耻るの戒律が働く。だからこそ、本体の勇は正しいことに向かって発揮される。和魂には「悔る」の戒律がある。生成化育が天地の法別であり、それに従って人は常に進歩の道程にある。これはすばらしいが、換言すれば、人は常に不完全な存在であり、過ちをし勝ちだということだ。だが直霊の御霊に省みて素直に過ちを認め悔い改めることができれば、過ちは逆に教訓として次なる飛躍への踏み台になる。また自分の過去を省みたとき、他人を責める資格のないことに思い至る。他人の過ちもあたたかく許せるから、その人の周囲には、常に親和的な雰囲気がかもし出される。幸魂には「畏る」の戒律がある。畏るとは、目に見えない存在にも畏敬の念を抱く心だ。人が見ていなくとも、法律に触れずとも、こんなことをしてはもったいないという思いである。昔の人は、御飯粒一つ落しても「もったいない」と拾って食べた。食べたからといって、どれほど栄養にも家計の節約にもならない。ただ米を作る百姓の苦労を思ったとき、自然とつつましい行為になる。今日、国の方針で減反政策がとられており、田に草を生やしておいても法律に触れぬばかりか、かえって奨励金がもらえる。だが、畏るの戒律が働けば、せっかくの畑を草にまかせてほうってはおけなくなる。畏るの心をもつのは人だけである。孔子は「君子に三つの畏(おそ)れあり、天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る」といい、ソロモンは「エホバを畏るは知自の本なり」といった。このように古の聖賢は民を導くのに「天を恐れよ、神を畏れよ」と教えた。だが今日では、むしろ逆の傾向すらある。「人がなによりも天を恐れ、神以外のなにものも畏れなくなったとき、はじめて理想の世界が地上に実現する。しかるに今日の学校教育は、なによりもまず試験を恐れさす教育ではないか。また今日の社会教育はどうか。あるいは権力を恐れしめ、また法律の制裁、科学の威力を恐れしめる教育がほどこされているではないか。権門の家庭では、その子女を養育するにあたって、いかに権力が今の世に偉大であるかを知らしめようと努力する。富を求める者は、金力の強大性を力説し、法律家は法の制裁を恐れしめることによって、地上天国が出現するかのごとく教え、科学者はなによりも科学の力の恐るべきを強調する。もし、孔子の言葉を正しとするならば、今の世の政治は明らかに君子の道にそむける政治であり、またソロモンの言葉を賢しとするならば、今日の教育家たちは、すべて智を得ざる徒であるといわれでもしかたなきしだいである」(『人類愛善新聞』昭和一O年八月号「天を恐れよ、神を畏れよ」)奇魂には「覚る」の戒律がある。人は経験し、学び、反省することにより、正しく覚る。もし正しく悟らねば、知識や体験を単に集積するに過ぎない。たとえば和魂のところで述べたように、かりに失敗して悔い改めたとしても、間違った方向に改めたのでは、せっかくの悔るの働きも意味のないものとなろう。ここにも奇魂の悟るの助けがいる。動物は五情のうち、覚る、畏るの二情しか働かず、省る、耻る、悔るの三情はない。五情が完全にそなわっているのは、人だけであるすめ神の きずけたまいしわが魂に 五情の清き戒律たまえり省みる 心しあらばすさびくる 八十の曲津もほろび行くべし身になやみ 起らばわれを省みよ 神の心の奥のありかを司には さばかれずとも罪あらば 心の鬼はすぐさばくなり留守の家に 忍びこみたる盗人の 寝ねし赤子に見惚(と)るる人情■戒律を破れば曲霊にこのようなすばらしい一霊四魂と五情の戒律を与えられ、顕の顕界に生れたゆえに、「人は神の子、神の宮」と王仁三郎はいう。ところが宗教によっては、「人は罪の子」と断ずる。神の子と罪の子とではまるで反対だ。日々新間をにぎわす凶悪犯罪がしきりで、後者に軍配を上げたくなるが、実はいづれも正しい。王仁三郎作文の祝詞「感謝祈願調(みやびのことば)」には「四魂」に「たま」、「五情」に「こころ」とルビが打たれているが、一霊四魂と五情の戒律はいわば霊魂と心であり、エンジンとブレーキの関係に似ている。いかに性能の良いエンジンを持つ自動車でも、ブレーキが故障すれば危険きわまりない。文明の利器として作られたものが、逆に人をあやめる凶器になる。それと同様に、直霊の省みるの戒律が破れればたちまち曲霊となり、悪霊の容器と堕していく。人は本来、神の子だが、省みる心を失えば罪の子にもなる存在なのだ。直霊が曲霊に転ずると、四魂の戒律まで狂い出し、荒魂は争魂、和魂は悪魂、幸魂は逆魂、奇魂は狂魂に変ずる。荒魂が耻るの戒律を失えば、強いもの勝ち、私欲のために力をふるう争魂と化す。さしずめ暴力団などはそれであろう。和魂が悔るの戒律を失ったときは、憎しみに走る悪魂となる。もしし悔い改めることのできぬ人なら、自分のみ絶対で人の過ちは許せぬ。姑が嫁の箸の上げ下ろしにまでぶつぶつ小言をいうようなものだ。そんな人の周囲には親しみの情はなく、常に孤独な思いをかみしめねばならぬ。幸魂が畏るの戒律を失えば、天地を畏れず、神にも道にも逆らう逆魂になる。奇魂が覚るの戒律を失えば、善悪美醜の判別をも狂わす狂魂になる。仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教など多くの宗教に戒律があるが、王仁三郎の教えには戒律はない。なぜならばどんな人にも天与の五情の戒律が与えられ、それを真に重んずれば、人為的な戒律などいらぬばかりか、かえって害になる。本来すくすくと伸ぴるべき人間の霊魂が、煩瑣な戒律によって、盆栽の松のようにかえってひねこびてしまうのだ。「人は天帝の御子なり。御子たるもの、真の父たり母たる上帝より賦与せられたる至明至聖なる戒律を度外視し、人の知慮によって作為したる不完全なる戒律を楯と頼み、もって心を清め徳を行ない、向上し発展し、立命せんとするは愚の骨頂にして、あたかも木に縁(よ)って魚(うお)を求めんとするがごとし」(『霊界物語』第十巻二九章「言霊解三」)天つ神 よさしたまいし真心も かえりみせずば曲霊(まがたま)となる身の垢は 湯水石鹸であらえども 洗いがたきは心なりけりはじること 知らずば人と争いて 獣に近き挙動なすなり恥しらぬ 人に恥かくためしなし 人と獣のあいに住む身は勇ましき ことは為すとも恥ずること  知らずばついに争いとなるなにごとも 己れに克つの力あらば 八十の曲霊もいかで犯さん過ちをくいる心し かたければ 天の下には悪むものなしよし人に 親しむとても悔いること 知らずばついに人に悪まる人を愛でいくつしむとも天地に 畏るるなくば道に逆ろう米の飯 喰えば麦飯まずくなり 稗をくらえばうまき麦飯畏るちょう真心あれば道ならぬ人妻めずる逆事もなし物学び 知恵を研くはよけれども覚りしなくば狂いこそすれ大本のまことの道の覚れざる 異邦の教はすべて狂える戒律のるつぼにはめんと自由なる 人の心をしばる宗教やれ五戒 やれ十戒とむつかしく 人の心をしばる曲教 ■義と欲一霊四魂が五情の戒律をともなった時、「義」の心がおこる。義とは、人の行なうべき筋道である。義は四魂それぞれにあり、裁、制、断、割のはたらきをする。荒魂の義は断であり、勇に対して「果毅敢為(かきかんい)」の意を兼ねる。すなわち物事を実行したり、忍耐するにあたって、決断よく、意志強く、最後まで押しきる。「断じて行なえば鬼神もこれを避くという諺がある。物事は断の一字にある。断固として行なえば、できないということはない。私はどんな大問題にぶつかっても、一分間をいでずして決めてしまう。そしてそれを断行する。私が今までなしきたった仕事はみなそれである。世の多くの人は、この断の一字が欠けているから、仕事ができないのであると私は思う」(『水鏡』「断の一字」)和魂の義は制であり、親に対して「政令法度」の意を兼ねる。王仁三郎は「政は正なり、法は公なり、度は同なり」と述べている。すなわち親愛の情は正しく道理にかない、誰に対しても公平にひとしくそそがれる。幸魂の義は割であり、愛に対して「忘身殉難(ぼうしんじゅんなん)」の意を兼ねる。万物を生成化育するにあたって、自分の身を忘れ、あらゆる困難に殉ずることを恐れない。奇魂の義は裁であり、智に対して「弥縫補綴(びぼうほてつ)」の意を兼ねる。智恵証覚を発揮して、至らぬところをおぎない合せ、完全を期する。その「義」の行なわれるところ、「欲」が並立する。義の裁、制、断、割に対して、欲は名、位、寿、富である。名は美しからんと欲し、位は高からんと欲し、寿命は長からんと欲し、富は大ならんと欲する。欲といえばむさぼりほしがらんとする心で、一般にはあまり良い印象を与えないが、王仁三郎によれば、「義」の並立する「欲」は正欲である。もし「欲がなければ、人に向上心はおこらない。(裁)奇魂 智(さとり)の道のほどほどに 世の物事を義(ただ)しく裁くも(制) 大君の 御政事(みまつりごと)も平穏に 制義(おきてただ)しくすすむ御代かな(断) 躊躇(ためらい)の こころ打ち捨て勇ましく 思いし聖事遂ぐるは義し(名) ひさかたの 雲井に高く名を揚げて 世人をすくう人は神なる(位) 雲井なす 高き位にのぼるとも 下いつくしむ道をわするな(寿) 玉きはる 人の命はかぎりあれど 一日もがもと祈る真心(富) 望月の かけたることの無き人は 人の所業(しわざ)によりてたまわん名も位も 寿も富も皇神は 人の所業によりてたまわん人の身体に 尊きものは名と位と いのちと富の外にあるなし名も位も 富も寿も千早振る 神の賜いしたからなりけり名位寿富 これぞ神賦の正欲ぞ 働かざれば名もとみもなし名も大事 位も大事生命も 富も人生に肝要物なる■伊都能売(いづのめ)の御霊四魂はそれぞれ独立の存在というより、直霊の四方面の働きであり、互いに影響し助け合っている。四魂のうち、荒魂・和魂を経の御霊、幸魂・奇魂を緯の御霊という。神は出口直を厳の御霊、出口王仁三郎を瑞の御霊と示した。厳の御霊は経を主、緯を従、瑞の御霊は緯を主、経を従とした働きである。大本教団の改革グループである「いづとみづの会」の名称はここからつけられた。大正七年、出口直が昇天するや、神は王仁三郎が伊都能売の御霊になったと示す。伊都能売の御霊とは、四魂が完全に円満に働く御霊のことである。世の中にはいろいろな性格判断の方法が行なわれているが、一霊四魂の知識によって判断してみるのもおもしろい。経の御霊的性格や緯の御霊的性格、一魂が発達していて他の三魂が弱いもの、三魂が発達していて他の一魂が弱いものなどさまざまであろう。自分の性格をよく知った上で、長所は大切にするとともに短所を補う努力をし、四魂が完全に発揮される伊都能売の御霊に近づくよう勉めることだ。信教の 真の自由は伊都能売の 教えをおきて他にあらなく神となり 仏ともなり鬼となり 世を生かし行く伊都能売の神伊都能売は 三十三相に身を変じ みろくの御世を開かせたまいぬくらやみの 世界を照らす一つ火は 伊都能売の神の光なりけり根の国に 落ちゆく霊魂救わんと やみをはらして伊都能売の神◎になりて すみきりたまう主の神の 内流つたうる瑞の御魂 (以後省略)■精神が変調をきたす時の五つのタイプ精霊と霊の違いについては先に述べたが、王仁三郎は、霊と精神についてもはっきり区別して考えていた。精神といってもいろんな定義がある。武士道の精神とか大和なでしこの精神などというと根本的な理念のようなもの。へーゲルの絶対的精神といえば、万物の理性的な根源力であろうか。肉体に対して実体としての心の働きをさすこともあれば、「精神を凝らす」などと、気力とか根気を表わしたりする。物質を超越した、霊妙な実在としての霊魂をいうこともある。王仁三郎の定義によると、精神とは「肉体の要求により活動する心象」である。。たとえば胃が空虚を訴えると、食物を要求する心がおこる。のどが乾くと、湯や水がほしくなる。美しいものを見ると、それを愛してしまう。これらはみな、肉体の欲求や必要に応じておこる精神である。われわれの精神はいつも健全とは限らない。ときどき変調をきたす時がある。王仁三郎は『霊界物語』六三巻四章「山上訓」の中で、精神に変調をきたす時の五つのタイプを上げている。一 利欲に迷った時。欲がきざすと、誰も冷静な判断と慎重な考慮を失いがちになるから、利をもって釣られることが多い。たとえば他人の物を預かっていて、ふと「これが自分の物だったら」と欲がおこると、責任観念がなくなり、自分の物とごまかしてしまう。また欲しかった物が自の前にあると、前後の見さかいもなく万引きする。一 強い刺激に接した時。単純な蔭口ぐらいで心を乱さない人でも、面と向って手きびしく痛罵されると、ついかっとなって予期しない行動に出る。また美しい女性の媚態や甘い香水の匂いなどにまどわされ日頃の理性を失ってしまう。一 焦心したり狼狽した時。精神の活動が安静をかいているから、過失や失敗を招きやすい。すこしばかりのつまずきを隠そうとしてその失策を大きくしたり、少しの損失にうろたえたばかりに、大損害を受けたりする。一 失意の時と得意の時。 失意の時は能率が減退し、ひっこみ思案になりまた努力をきらうから、社会生活の敗残者への道をたどる。逆に得意の時は精神がたかぶり、冒険的や独断的になり勝ちである。一 迷信に陥った時。ふだんは物事の判断を誤ることがない人でも、こと信仰問題に関すると誰の言にも耳をかきず、とんでもない行動に走ったりする。ほかにも婦人が妊娠したり、生理などで精神に一時的な変調を見ることがあるという。だからどんな人間でも、狂人の未製品であり、予備軍どいえる。『霊界物語』六巻二六章「体五霊五」・一O巻「言霊解」・六三巻四章「山上訓」、『道の大本』三章、『月鏡』「人間と動物」、『水鏡』「恋愛と、恋と、愛」・「理知と感情」・「奇魂の足らなかった南洲翁」、『人類愛善新間』 昭和一O年八月号「天を恐れよ、神を畏れよ」、『出口王仁三郎全集』一巻「人類愛善の意義」・五巻「智恵と証覚」