第二章 真の神とは■冥土(めいど)の旅の一里塚凶暴な殺人者でも、死刑を宣告されると、震えおののくという。彼らは独房の中で考える時間だけはたっぷり持っているから、死への恐怖をそれだけじっくりと味あわねばならぬ。人はこの世に生まれるなり、矢が弓を離れるように墓場に向って一直線につき進む、それが人生というもの。死に対する限り、我々もまた死刑囚とさして変わらぬ。生まれながらにして大自然から死刑を宣告されているのと同然で、ただ死ぬ時期と方法が彼らよりもっと漠然としているに過ぎない。人により死刑台の高さはまちまちでも一年の時の経過はそれを一段上がるのと同じこと。なのに正月がくれば「おめでとう」、誕生日がくれば「おめでとう」という。何がめでたかろう。一休禅師の歌に「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」とある通りだ。死は金持、貧乏人を間わず、例外なく訪れる。まだまだ若いから関係ないと安心することもできない。飛行機が落ちれば、老いも若きも一蓮托生だ。病気などのように前ぶれのある時もあるが、足元から鳥が立つように突然に襲ってくることもある。人間は常に死に直面して生きている。エピクロスはいう。「生涯を通じ、食うための手段をととのえることにあくせくしている人びとがある。われわれすべてにそそがれた誕生の薬は、また死への薬でもあったことを理解しないからだ」「死以外のことに対してなら、身の安全を得ることもできよう。が、死に関する限りわれわれ人間のすべてはいわば無防御の町に住んでいるのだ」私の父の死後、悲しむ母のもとに未亡人たちが毎日のように集まり、一時期、わが家は後家クラブの観を呈していた。そこへ愛する夫に先立たれたM子が加わった。M子は「もう生きる希望がなくなった。死にたい、死にたい」と嘆きいまにも後追い自殺をしかねんばかり、皆が本気で心配した。やがてM子は健康を害し、癌の疑いが持たれた。と、癌に効くというありとあらゆる薬を探して飲んだ。もう死にたいとはいわなくなった。いぎとなれば、人間の生への執着はそのぐらい強い。ふだんはささほど思わぬのに、ちょっとどこかが痛み出すと、「あ、ひょっとすると癌? このまま死ぬかも・・・」などと怯(おび)える。ある高僧が癌の宣告を聞いて取り乱したという話も有名だ。意識するしないにかかわらず、誰もが心の底に死への怯えを抱いている。それでいながら、さほど不安もなく生きていけるのは、主に二つの理由によろう。一つは、「私に限って死はまだまだ先だ」という、誰もが持っている迷信だ。「目も歯も弱ったし、去年のギックリ腰以来どうも無理がきかん。だがまだまだしたいことが山ほどある。わしに限って、なかなかお迎えはこんぞ。かえってあんな元気そうに見える奴がポックリいくんじゃないか」などと、自分のことにはいやに楽観的だ。それにもう一つ、人間は明日への期待を作る名人だということ。誰もが、大なり小なり、明日への期待を作って生きている。「今は借金で苦しいが、明日になったら二千万円の宝籤(たからくじ)が当たるかも」とか、「ひょっとすると、あの娘はおれに惚(ほ)れとるぞ。よし、明日はデートに誘ってみてやれ」とか。しかし待ちに待ったデートの時がきても、その楽しい現在は絶対につかめない。つかんだと思うと、過去という名でするすると逃げ出し、悲しい別れの時が迫ってくる。会うは別れの初めなのだ。すばらしい肉体美の女性を妻にしても、その絶妙の曲線美は時々刻々と微妙に変化し、やがては梅干しなんとかという複雑な曲線美に変わる。絶世の美女といわれた小野小町でさえ、美しかった花が老いしなびてゆくのをみて「花の色は移りにけりないたずらに 我身世にふる眺めせしまに」と、自分の容色の衰えを嘆いているではないか。そして人間は、こまごました現実の欲求を果たすため、日々死の行程をあえぎあえぎ進む。咲く花の 散りゆく見ればいとどなお 身のはかなさを偲ばるるかな春の夜の 短き夢にも似たるかな 露の命の散るを思えば秋風に 揺らるる萩の露のごと おちて消え行く人の玉の緒花と匂い 玉と栄えし人の身の 消ゆるを見ればはかなかりけり■死後の世界は存在するか四苦八苦という仏教用語は人間のあらゆる苦しみのこと。生苦、老苦、病苦、死苦の四苦に哀別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんせいく)を加えたものである。現代の子供なら、そのほかに受験苦もある。まさに人生は無明の闇だ。だが王仁三郎は、「生、病、老、死、これを四苦といって、人生で一番苦しい。生まれる時の苦痛が一番ひどく、人はその苦しみによって自分の前生をすべて忘れてしまい、何もわからぬようになる。次が病のくるしみ。これはたいていの人が大か小か味あわないものは少ない。次が年をとってゆく苦しみ、だんだん苦痛が軽く、死が一番、苦痛が小さい」(『水鏡』「四苦」)と語る。一般に苦痛の度を反対に考えているが、もし王仁三郎の言が事実ならば、一番の苦痛は誰しも通り過ぎてきたことになる。だからといってそれはほんの気休めにすぎない。ふと我に帰った場合、生まれてから心臓が停止するまで、それだけが人生かと思えば、こんなむなしいものはない。しかし霊魂の命は尽きることなく、生まれてくる前に前世という生があり、死んでからも死後の世界という永遠の生があると知れば、人生の考え方がまるで違ってくるはずである。死後の世界を信じず平気で生きている人のなんと多いことよ。宗教家にも霊界の存在を信じていない人は少なくない。それでいながら、葬式を待って人の死で食っている。肉体が灰になった後にも魂は残るなど、それが科学的に立証されたわけでもないのに、死後の世界についてあれこれ頭を悩ますのはむだじゃないかという考えの人もあるだろう。しかし神や死後の世界があるかないかわからないとして、もし死んで霊界に行ってから「しまった」と思っても、それこそ「後悔先に立たず」だ。「濡れてから衣を乾すより濡れぬ間に傘さしかざし広き道ゆけ」と王仁三郎は教える。神や霊界の存在を信じて、人生にどんなむだがあるだろう。それを信じることで人生に本当の生甲斐を見つけられればこんなすばらしいことはないoパスカルは「神は存在するという表の側をとって、その得失を計ってみよう。二つの場合を見積ってみよう。もし君が勝てば、君はすべてを得る。もし君が負けても、君は何も失いはしない。だからためらわずに、神は存在するという側に賭けたまえ」(『パンセ』)と述べる。賭けるのはいいが、正しい霊界の知識に欠けると邪悪な宗教もはびこり、それに迷わされて大火傷する。だからこそ、信じるにしても、神や霊界についての正しい判断力を身につけておく必要がある。世の中に 死後の世界を知らぬほど 寂しきものはあらじと思う人生に おける一大問題は 死後の世界の有無にかかわる何時までも 魂の命はあるものを 消ゆるといいし醜(しこ)のものしりあめ地に 神なきものとほこりつつ まさかのときに手を合す曲(まが)生前に 死後の備えのなき人は 死期せまるとき無限の悔あり人間は この世を去ればそれぎりと 思へる人の驚く霊界霊界に 至りて人は驚かん 依然と命の続けるを見ておおかたの 人のあわれは死してのち 天国あるを悟らぬことなりはかなさは 人の命としりながら いのちの神を世人知らずも人の世の 悲哀の際(きわ)み待ちくらす 醜僧侶のこころきたなきみ仏の 法を伝うる道忘れ さかしまごとを待つ坊主かな人の世は 死ぬにましたる憂いなしと 葬式のみ待つ坊主の汚さ苦しみの 中にも神の恵みあり 悩みなき身を幸とな思いそ■真の神は天地万有の創造主「神といえばみな等しくや思うらん烏なるもあり虫なるもあり」と古人は歌うが、まさに神は八百万ある。太陽、月、星、天空、大地、山、川、海、水、火などの自然の対象とか、風、嵐、稲妻、雨、暁、夜などの気候現象はしばしば神格化、あるいはその属性として表わされる。またギリシャ神話に出てくるようなロマン多き神々もあれば、知恵授けの神、火難除け、水難除けの神、金儲けの神もある。受験合格に霊験あらたかな神、交通安全の神など大流行だ。病気治しの神にしても、万病に効くと思えば、頭痛、眼病、胃病、婦人病、火傷、疣(いぼ)とりなどと専門化されてもいる。日光東照宮、天満宮、靖国神社などのように死んだ人間を祀ることもあれば、生きながら現人神に仕立て上げたりもする。そのいい例が天皇を神と祀り上げて、「大君の辺にこそ死ねめ、かえりみはせじ」と死を賛美し、日本を戦争にかり立てたあの戦前の天皇制である。今日、新興宗教は、教主を生き神に仕立てて大もうけ。どの神と出会い、どの神とつき合うかで、人生の明暗を分けるといっていい。もし本書を読んで迷信から目覚め、真の神の存在に気づいていただける人が一人でもいたらありがたい。人間が全幅的に身もゆだねるに足る神を、かりに真の神と名づけよう。では真の神とはいったいどういう存在なのか。王仁三郎は「天地万有の創造主」という。この宇宙に無数に散らばる星たちをはじめありとあらゆるもの、火も、水も、土も、空気も、光の粒子や遺伝子のすべてを生み、はぐくみ、命あるもの、ないもの、形あるものばかりか自に見えぬ霊界までをも、いっさいがっさい創り上げつつ調和させ、寸分の狂いなく運行させ得る力ある主体、それが造物主だ。それではこの真の神を誰が造ったか。もし真の神を造った他力があれば、その他力こそ真の神。またその他力を造った大他力があれば、その大他カこそ真の神であらねばならぬ。要するに真の神とは誰からも造られたものでなく、太初から在るものとなる。人や動物は造られたものだから、それらの霊はもちろん真の神ではない。天帝は 霊力体の三元を もちて一切万有をつくれり主の神は あまつ月日を生みまして 森羅万象をそだてたまえる父母の ほかには親はなきものと 誠の親神わするる世の中■無限絶対無始無終の宇宙の大元霊王仁三郎はさらに加えて、真の神とは「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」という。太初において無限小であり、その広がりにおいて無限大となり、その権威は絶対、始まりなく終りなき宇宙の総根源こそが、大元霊たる真の神である。ではその真の神はどこにいますのか。それが分らねば、どちらに向って祈ってよいか分らぬではないか。真の神の住居は宇宙の外か、内か。宇宙が無限大なれば無限の外に存在するはずはない。当然、宇宙の中であろう。では太陽か、月か、星か、地球か。地球とすればどこの大陸に、どこの国におわす? :神社仏閣に鎮坐(ちんざ)ましますのか、家々の神棚か仏壇にか?しかしもし真の神が宇宙のどこかの一点に存在するとすれば、王仁三郎のいう「絶対」の定義からははずれる。たとえば伊勢神宮としよう。宇宙の中の、地球の、日本の、三重県伊勢市の、伊勢神宮の内宮の中なれば、宇宙と相対的な関係となる。真の神だけは他に比肩すべきもののない唯一、絶対でなければならないのだ。視点を変えてみよう。活きている君そのもの、それをかりに君の本体と呼ぼう。君を君たらしめている君の本体は、どこに存在するのか。肉体の外にか、内にか。外なら、肉体はリモコンつきのロボットに過ぎぬし、君の本体とはいいがたい。内ならば、頭の中にか、心臓、腹、腕や足の中にか。それとも神経血液?もし君の本体が君の腕の中に存在したとしよう。片腕を切断すれば君の本体は半分になるし、両腕を切断すれば君の本体は存在しないことになる。しかし両腕を切断しても君は君であり、ちっとも減りはしない。多量の出血を他人の血液でおぎなった場合でも、君は君で、他人にはならぬ。一つしかない頭や顔や心臓が壊れても、手術で補いのつく間、生きている限りは真の君だ。つまり君の本体は、生きている肉体のすみずみまですべて君と合一状態にある。今、人聞の考え得る極みは宇宙である。唯一絶対であろうとすれば、宇宙のはてまで同体の他はない。すなわち真の神とは、宇宙と合一状態にある大元霊をいう。ではそれは一体何なのか。王仁三郎は答える。■宇宙の本源は活動力「宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり」(『霊界物語』六七巻六章「浮島の怪猫」)彼の神観、宇宙観を要約して明快に表現したものだが、換言すれば、神とは宇宙を活かす不断の力、造化の働き、生成化育の妙である。「なんだ、力か」とシラケてはいけない。そういう人たちは、えてしておどろおどろしい宗教屋の餌食になり、骨までしゃぶられる」ことになる。もう少し我慢して先を読んでもらいたい。真の神が特に神社におわすわけでもないならば、わざわざ参拝の必要はあるまいと思うであろう。だがそうではない。我々の周囲にはテレビの電波がとびかっているが、肉眼では見えぬ。受像器のスイッチを入れ、チャンネルを合わせ、初めて絵が映り音が聞こえる。神と人間とは次元の違う存在だから、ふつうでは神との交流は不可能だ。そこで神社や家々の神棚を受像器とし、宇宙の本源なる電源につなぐ。真剣に祈るという行為は、スイッチを入れ神と向き合うこと。ここで初めて神との感合が可能になるが、チャンネルの合わせ方を間違えると、地獄界の想念を受け止めかねない。要注意だ。■祈りは天帝にのみ人が困難に立ち至った時、神を信じぬ人でも目に見えぬ何かに対して祈る。それは人の本能だからだ。本能の要求があるのは、求めるものが実存するからであろう。のどの乾きに対して水が存在し、欲情に対して異性が存在する。平常は理性で押えていても、いざとなると思わず祈る心がおこるのは、神が存在すればこそである。王仁三郎は述べるo「祈りは天帝(真の神)にのみすべきものである。他の神さまには礼拝するのである。私はそのつもりでたくさんの神さまに礼拝するのである。そはあたかも人に挨拶するのと同様の意味においてである。誠の神さまはただ一柱しかおわさぬ。他はみなエンゼルである」(『水鏡』「祈りは天帝のみ)神は尽きることのない電力をたたえた大電源であり、人の霊魂は一個の蓄電池にたとえられよう。祈りはその電源にコードをつなぐことであり、人の霊魂に神気がゆたかに充電されてこそ、勇みに勇んで活動することができる。「心だにまことの道にかないなば祈らずとても神は守らん」という古歌があるが、それは思い上がりで、祈り行なうという行為がなければ、次元の違う神に通じようがない。そこで王仁三郎は、「心だにまことの道にかなうとも 行ないせずば神は守らじ」と宣り直す。神殿に 神はまさねど人びとの 斎かんたびに天降りますかもいのるとも 心に曲のあるときは 神の救いのいかであるべき霊顕(れいけん) の現われそうなはずはなし 錠をおろして祭りたる神外面より 錠前おろし檻のごと 祠に閉じられし神憐れなり礼なくて 黒(きたな)き心持つひとの いのる言葉にしるしあらめやもみじなす 幼き児らの手を合せ 神に祈れる様いじらしも■無神論者とは神を信じない人たちは自分を無神論者だという。そうだろうか。ほとんどの人が唯物論的教育を受けて育っているから、無理もない。だがもう少しつっこんで考えてみよう。自称無神論者にもいろいろなタイプがある。まず確信派と暖昧派だ。後者は非科学的迷信家と思われるのがいやさに、無神論者の顔をする。もともと神などのしちめんどうな概念は、チリほども思い浮かべない、関係ないといった文化人だ。彼らはさておきで問題にしたいのは確信派の場合だ。確信派の無神論者を生んだ多くの責任は、まず宗教が負わねばならぬ。宗教が今日まで人類に与えた功罪を比較すると、むしろマイナス面の方が大きい。自分の宗派を守るために異端への排他と憎悪をかきたて、どれほど多くの血を流し続けたことか、それも神の名において。現に今なおアラブ諸国では、目をおおう無残な殺戮(さつりく)が行なわれている。宗教によって迷信がはびこり、神のお告げによって善男善女たちから金がかき集められ、人目を驚かす大殿堂大伽藍が造られる。甘い分前をねだる政治屋は信者面して入りこみ、大きな集票源をつかみとるのだ。堕落した宗教は、神を鰹節(だし)にして肥え太る大なる悪魔である。確かに「宗教は阿片なり」だ。まともな人間なら、怒りをもって反宗教をとなえよう。反宗教が必然的に無神論者を作り出す。しかし宗教がいかに堕落しようが、在る神は在る。世界の人口の何割かを占める仏教徒は、宇宙を創造した神など認めない。だが彼らは宇宙の大理法を仏と信じている。換言すれば、王仁三郎のいう宇宙の造化の働き、生成化育の力ではないか。宇宙の活動力に意志を認め、それを「神」と呼ぶならば、宇宙意志の有無が有神、無神の決め手となろう。しかしたとえ意志を認めたとしてもこういう意地っぱりもいるに違いない。「宇宙の活動力を、なぜことさら神といいかえる必要があるか。今さら手を合わせて拝まずとも、宇宙は勝手に動いている。ありがたがりやの宗教は、だから嫌いだ」。そう、神という言葉には素直になれない。大半がアレルギーをひきおこす。「ヒト」という言葉もやめよう。ホモ・サピエンスで結構、時には「二本足で歩く哺乳動物」「万物の霊長類」などといい代えたりして。ついでに「母」もしめっぽい。「私を生んだ女」でいいじゃないか。「父」なる言葉の代わりに、「私を生んでくれた女に私を生ましめた男」とはっきり呼ぼう。待てよ、生ましめたなんて、あの男はそれほどの明確な意志を持っていたかどうか。やっぱり生ましめるに至ってしまったかな。それで世の中さばさばしそうなものだが、何だか霊魂の脱出したホモ・サピエンスの死体を見るようだ。血のぬくみが伝わらぬ。やはり肉体に精霊を包みこんでこそ、ヒトであろう。宇宙なる一言葉は純理的、学理的、形式的であり、ひややかな体を思わせる。そこに霊がこもってこそ、力を発揮する。神の実体を宇宙の活動力と断言する王仁三郎は、その活動力に深奥な神の意志を感じ、広大無辺、壮麗きわまる霊力を観る。その感動をこめて表現するには、「宇宙の活動力」という説明語では血が通わぬ。他に適当な日本語がない限り、やはり神というほかはないのだ。神は世に 無きものなりと賢しげに 物識人が世迷言宣るも一匹の 虫の研究に一生を ついやす学者の神知るべきやは五官もて 究めも得ざる大宇宙 造りし神をいかで知るべき無神論反 宗教論に没頭し 魂殺す人をあわれむ『霊界物語』三巻「安息日」五〇章・六七巻六章「浮島の怪猫」、『水鏡』「生命」・「人生と信仰」、「祈りは天帝のみ」、『道の大本』第一章、『大本略儀』「神と宇宙」 第三章 宇宙の成り立ち■宇宙の時間と空間真神は「天地万有の創造主」であり「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」と王仁三郎はいうが、その宇宙なるものがまったく謎に包まれている。最新の科学では、宇宙には百数十億年の歴史があるという。地球が生まれて四六億年、そこに生物が発生して四O億年、わが人類が生まれて二百万年という。たかだか何千年かの歴史しか持たぬ我々にとって、百億年の時間といえば始まりがないに等しい。始めなければ終りなし、まさに宇宙は無始無終である。宇宙は百億光年の広がりを持つ。一光年は光が一年間に走る距離であり、光は秒速一ニO万キロ、地球を七まわり半する速度だ。宇宙の果ては宇宙の地平線と呼ばれ、光速で遠ざかっているため、光はこちらには届かない。地球と太陽の距離は一億五千万キロ。オギャ!と生まれた赤ん坊を時速百キロの新幹線なみの乗物に乗せて出発、太陽に向ったとする。休みなくただひた走っても到達は七五万時間後、八五歳になっている。世界一の長寿といわれる日本人の平均寿命すら上まわる。ところが太陽の光なら、八分一九秒で地球に到達する。それほど秒速三O万キロというのは超スピードであり一年間走ると九兆四千六百億キロになる。その百億倍が宇宙空間の広さ、しかもなお限りなく膨張し続けているという。太陽のような恒星が一千億個ぐらい集まったものが銀河あるいは島宇宙と呼ばれ、それぞれの銀河聞の距離は百万光年である。宇宙には銀河が一千億個あるというから、宇宙の恒星の数は一千億個の一千億倍あることになる。したがって時空の場での宇宙の様子は想像もつきがたい。時間には始めもなければ終りもなく、空間もどこまでも果てしないのが宇宙の真相やも知れぬ。■科学でいう宇宙起源説宇宙の生い立ちについて誰しも知りたいところだが、それが自然科学の対象になったのはようやく二O世紀に入ってからだ。一九二二年、ハッブルによって、遠い銀河ほど早い速度で遠ざかっていることが発見され、宇宙膨張説が大きくクローズアップされた。さらに一九四八年、ガモフによって、火の玉のような宇宙からビッグ・バン(大爆発)によって現在の宇宙が誕生したという説が唱えられた。一九六五年、宇宙のどの方向からも一様に放射されている熱の存在が発見きれ、ビッグバン説はより有力な宇宙起源説となった。現在では、ビッグ・バン説をさらに発展させ、宇宙誕生後の一兆分の一秒よりも短い時間のことにメスを入れようとしている。この時期は超高温状態であり、短時間に急激な膨張、インフレーションが起きたという。現代の科学は、宇宙全体が一センチ立方より小きかった時代のことまで論じている。銀河が一千億個集まったこの宇宙がてのひらに乗る角砂糖よりも小さかった時期があったと聞かされても、とても想像できない。そうなると、銀河は一ミクロンより小さくなってしまうのだから。いかなる意志で、何の目的でとは科学で問うところでないとしてもビッグ・バンの瞬間、なぜ一点に凝縮していたのかという原因も分かっていない。科学の方程式では解けない謎であろう。もちろん宇宙誕生の時は時間も空間もない状態だから、それ以前はどうだったのかと問うのもナンセンスかも知れぬ。■言霊について宇宙の嬰児時代について、『古事記』序では「それ根元すでに凝りて、気象いまだ効(あらわ)れず、無名無為(なもなくわざもなし)、誰か其形を知らむ」、『日本書紀』では、「古(いにしえ)天地未だ剖(わか)れず、陰陽(めお)分れず、混沌(まろかれたること)雞子(とりのこ)の如し」とあるのみで、暖昧模糊としている。王仁三郎は、宇宙は言霊によって形成されたという。ここで言霊について簡単な説明をする。『万葉集』にも「しき島のやまとの国は言霊のたすくる国ぞまさきくありこそ」(柿本人麻呂)、「そらみつ倭(やまと)の国は皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国言霊のさきはふ国と語り継ぎ 言ひ継がひけり」(山上憶良)とあるように、言霊とは古来、言葉に宿ると信じられた霊力である。それを研究する学問を言霊学という。言霊学者としては、中村孝道、大石凝真素美、杉庵志道、本田親徳、長沢雄楯(かつたて)、水野満年などが知られる。なかでも中村孝道は言霊学中興の祖といわれ、王仁三郎の祖母上田宇能(うの)は彼の姪である。王仁三郎は物心ついた頃から、都にはまれな素養を持つこの祖母に言霊学を学ぶ。また本田親徳の言霊学は、その弟子長沢雄楯を経由して、王仁三郎に強い影響を与えた。■宇宙は言霊によって創造宇宙は言霊によって創造されたというと、奇異に感じる人も多かろう。だが王仁三郎は、古事記でも聖書でも仏典でも教えていることだと主張する。古事記冒頭に述べる。「天地が初発(なりた)つ時に、高天原に成る神名は、高御産巣日(高皇産霊)神、次に神産巣日(神皇産霊)神。この三柱の神は並(みな)独神(す)に成りまして、隠身也」「高天原に成る神名は」の語句は一般的には「天地剖判の時に高天原という霊地に生まれられた」ぐらいに解釈されるが、王仁三郎は否定している。「成る」は「鳴る」の意であり、伊邪那岐神の「黄泉行(よみのくにいき)」の段に「八雷成居(やぐさのいかづちがみなりいる)」とあるのも、「鳴り居る」の義である。したがって本当の意味は、天地が初めて開けた時、「タァーカァーアーマァーハァーラァー」と言霊が鳴り響いて、まず霊界に高天原が形成されていったというのだ。「タカアマハラ」は天之御中主神の根本発動である。『新約聖書』ヨハネ伝第一章には「初めにコトバがあった。コトバは神と共にあった。コトバは神であった。このコトバは初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち一つとしてこれによらないものはなかった。このコトバに命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そしてやみはこれに勝たなかった」とあり、すべてのものがコトバによってできたと述べている。真言密教では、阿(ア)字を万有の根源とし、この字のいろいろな意義や功徳を説く。「阿吽(あうん)」は吐く息と吸う息、息の出入りのことである。「阿伝の呼吸」という言葉があるが、共に一つのことを為し遂げようとする時の相互の微妙な息の合い方を指す。この阿吽のニ字をいっさいのものの太初と究極を象徴するものとし、阿は万有が発生する理念の本体、吽はそれが帰着する智徳を意味する。寺院の山門の左右にある仁王や狛犬が左方は口を聞き、右方は口をとざしているのは、阿吽を象徴している。このように仏教でも言霊で万有が発生したことを説いているのだが、王仁三郎は、「ア・ウンの前に総根源であるス(神)の言霊があることを知らない。だから仏教哲理を究めても、神の概念にまで到達することは困難だ」という。王仁三郎は「宇宙の実在は神であり、この世のあらゆる現象は神の意志の発作、神の意志の表現だ。そして神の意志とはコトバであり、すなわち神は言霊である」という。だから神名に大国主命とか素盞鳴尊などとある命(尊)は「御言」「神言」の義だ。また声は心の柄であり、嬉しさ、悲しきなどの思いはまず声に現われる。進め、退け、起きろ、寝ろなど、人間の一挙一動、みな言霊の力によって左右される。・・・世界の太初に言葉あり/言葉は道なり神に坐す/すべてのものは言霊の/清き御水火にもとづきて/造られ出でしものぞかし/現しきこの世は言霊の/幸わい助け生ける国/天照り渡る貴の国/すべての法規も更生も/言葉をはなれて外になし/ああ惟神言霊の/幸わいたすくる神の国に/生まれ出でたる嬉しきよ■王仁三郎の説く宇宙誕生では王仁三郎が神より見せられたという宇宙誕生の模様はどうか。天もなく、地もなく、したがって時間も空間もない大虚空に、極微なる一点のほち「、」が忽然と現われ、無形、無声、無色の霊物となる。この霊物はついに霊気を産出し、澄みきり澄みきらいつつ次第に拡大して、一種の円形を作る。円形は湯気よりも、煙よりも、霧よりも遥かに微細な神明の気を放射し、円形の圏を描いて元の円形を包み、◎の形になる。「、」は◎へと形を発展させながら、寂然たる無音の虚空に初めてあるかなしかのスの言霊を発生する。@すなわちスの言霊はかすかな声音のようだが、遠く、深く、強く、どこまでもしみとおってゆく。「澄みきり澄みきらいつつ」スースースース―と極みなく延び広がり、ふくれ上がり、鳴り鳴りて鳴りやまず、ついに極まり達してスゥースゥーとウの言霊が発生する。ウの言霊はウーウーウーウーと透徹し、その活動を領分して上へ上へと昇りつめ、その極みにアの言霊を生む。一方、ウは下へ下へと降ってついにオの言霊を生み、さらに降ってエの言霊、イの言霊を生む。ここに天の言霊であるアオウエイの五大父音が完成し、次にカサタナハマヤラワの九大母音ができ、キシチニヒミイリヰの火の言霊、ケセテネへメエレヱの水の言霊、オコソトノホモヨロヲの地の言霊、クスツヌフムユルウの結(神霊) の言霊が生成され、さらにガゴグゲギ、ザゾズゼジ、ダドヅデヂ、バボブベビ、パポプペピの言霊が生まれ、ついに七十五声の言霊が完成する。大虚中 ただ一点の現れて 至大天界生まれ給へり大虚空一点の、あらはれて スの言霊は生れ出でたり大宇宙 みち足らいたるアオウエイ 父音の言霊聞き得る人なし澄みきりし スの言霊の生い立ちに 天之峯火夫(あめのみねひお)の神とならせり峯火夫の 神の功のなかりせば 紫微天界は生れざるべし久方の天之峯火夫の神は 天界の万有諸神が主神に坐します主の神の 力によりて宇迦須美の 神の御霊は生れましけりウの神の 功は下りて大津瑞穂(おおつみずほ)神と生れます言霊なりけりウの神は 上に開きて天津瑞穂 アの言霊と生れたまひぬ主の神は 七十五声を生みなして 天の世界を開きましけり天に満ち 天に輝き透き徹り 鳴り鳴りやまぬ主の神の功■言霊のビッグ・バン七十五声の言霊があい和して大音響をとどろかせ、宇宙は震動して紫色に輝きはじめる。だが言霊の鳴りみちて現われた世はまだ霊界のみである。それは次第に水火を発し、虚空に光を放ち、その光凝結して無数の霊線を発射し、紫色に輝く紫微圏(しびけん)層を、ついで蒼明(そうめい)圏、照明(しょうめい)圏、水明(すいめい)圏、最後に成生(せいせい)圏の五層の段層を生じた。その高さ、広さかぞうべきもない。まさに◎に発した言霊のビッグ・バンである。紫微圏層の中にも五つの天界が次第に形成きれていく。天極にある至厳至美、至粋至純の透明圏なる紫天界、続いて蒼(そう)天界、紅(こう)天界、白天界、黄天界・・・光彩の渦は巡り巡る。天空には万の星座がきらめいてその数を増す。大虚空(だいこくう)に鳴り鳴りやまぬ霊力体の三元は、スの言霊の玄機妙用によって、紫微天界に大太陽を現出する。ただしこれは物質界の太陽ではなく、霊界の太陽である。その太陽の輝きは、物質界の太陽の七倍以上の強きだという。■◎の言霊◎すなわちスの言霊の活動を称して宇宙の大元霊といい、古事記では天之御中主神、『天祥地瑞』では天之峯火夫(あめのみねひお)神という。「けだし◎の言たるや◎にして◎なるが故に、すでに七十五声の言霊を完備して、純乎(じゅんこ)として各自みなその真位を保ちつつあり。しかしてその真位というは、みな両々あい向いて、遠近皆悉(ことごと)く返対力が純一に密合の色を保ちて実相しつつ、至大極乎として恒々(こうこう)たり、活気臨々として点々たり、いわゆる至大氳呍(いんうん)の気が声と鳴り起(たた)んと欲して、湛々(たんたん)の中に神機を含蔵するの時なり。故に世の人たる者は、まず第一にこの◎のいわれを明らかに知るべきものとす、何故ならば◎は皇の極元なればなり」(『天祥地瑞』七三巻四章「◎の神声」)スの言霊は、光でいえば白色光、音でいえばホワイト・ノイズ(白色雑音)にあたらないだろうか。現代の科学は、すべての物質が粒子と波動(振動) の両方の性質を持つことを明らかにしているが、音にしろ光にしろ、波動は似かよった性質を持つ。白い光はプリズムを通せば赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色にわかれる。さまざまな波長の色の光が集まったのが白色光であり、「澄みきり澄みきらいつつ」というように、澄んだ透明な色である。またホワイト・ノイズはすべての波長の音をふくみスーあるいはサーといった音に聞こえる。ホワイト・ノイズはフィルターを通してさまざまな音を分離して、音の電子的合成に利用されることがある。独神(す)になりて 隠身(すみきり)たもう神の上は かしこき人もかたりえざらめ■霊素と体素スより発したウの言霊を、『天祥地瑞』では宇賀須美(うがすみ)神と称する。ちなみにウの言霊から現れたアの言霊を天津瑞穂の神、オの言霊を大津瑞穂神という。このウの言霊の鳴り鳴りて鳴り極まるところ、上にのぼりでは神霊の大原子である霊素が発生、これを霊系の祖神高皇産霊神という。次に下っては物質の大原子である体素を醸成、これを体系の祖神神皇産霊神という。霊素、体素という表現がお気に召さねば、火素・水素、陽素・陰素などと呼んでもよし、もっと現代的な別の呼称でもさしつかえない。霊素、体素を生み出したウの言霊は万有の霊と体を産み出す根源であり、ウの言霊を産み出したスの言霊はさらにその総根源である。ここでいう言霊とは、単に人間の耳に聞える音声のみでなく、すべての物質の根元に連なるものとしての言霊である。■天之御中主神の観念天之御中主神が万有一切をまきおさめてこれを帰一し、いまだ活動をおこさない宇宙誕生の瞬間、すなわちその静的状態にある時は、むろん時間、空間を超越している。時間、空間が無いのではなく、さればとてまた有るのでもない。その観念がおこるべき素因がなのだ。時間、空間の観念が発生するのは、少なくとも天之御中主神の本体から霊と体との相対的二元である高皇産霊神、神皇産霊神の二神が顕現し、活動を始めてからのことである。天之御中主神の活動を縦に考察する時に時間という観念がおこり、またこれを横に考察する時に空間という観念がおこる。活動がなければ時間もなく、空間もない。たとえあってもこれを量るべき標準もなく、またこれを量るべき材料もない。むろん無限絶対なる天之御中主神の属性があるから、時間、空間ともに無限であり、無始無終であらねばならぬ。外に向って無限であると同時に、内に向ってもまた無限である。至大外なく、至小内なしである。天之御中主神をその静的状態から考察すれば、霊力体を帰一するところの宇宙の大元霊である。一元の虚無、また絶対的実在といってもよい。次にその動的状態から考察すれば、この神は随時随所に霊力体の微妙神秘なる配分をおこない、無限の時間、空間にわたりて天地、日月、星辰、神人、その他万有一切の創造に任ぜられる全一大祖神である。だが王仁三郎は「この神の静的状態、動的状態は一通り正しい観念を得れば、それで充分とすべきである」(『大本略義』「時間と空間」)と述べる。なぜならば、天之御中主神はすでに無限の時間、空間にわたって活動し、再ぴ太初の静的状態に逆行することはありえない。もしかりに逆行することがあったとしても、その時には天地間いっさいのものは死滅する。人類もまた混沌の中にその痕跡すら残きぬから、心配しようにも心配する主体そのものが消滅する。そこで肝心なのは、天之御中主神の動的状態の理解体得である。天之御中主神の意志は、一は理想世界である神霊界の大成、一は現実世界である人間界の大成である。人は天地経倫の大使命を神から与えられている。したがって天之御中主神が過去においていかなる活動をし、将来いかなる目標に向うか、特に現在いかなる経輸を実施中なのか、そのプログラムの大要を理解した上で神業の働き手とならねば、人は人として生まれてきた価値がない。天之御中主神については、『古事記』では単に造化第一神として名称をのせるにとどまり、『日本書紀』では名称すらのらない。るしゃな仏 阿弥陀如来も伊都能売も 御名こそかわれ一つ神なり■真神は三神即一神天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の三神を造化三神といい、古事記の冒頭に現われる神名である。王仁三郎によれば、高皇産霊神は霊系、神皇産霊神は体系で、唯一の実在なる天之御中主神の神格が二大系統に分かれたことを意味する。ゆえに三神は別個の独立した神ではなく、宇宙の大元霊のそれぞれの働きにつけられた神名であり、三神即一神の三位一体の関係にある。この神を称して三つの身魂、すなわち瑞の身魂という。実在に二大系統が含蔵されていることは、仏教でも教えている。真言密教では胎蔵金剛(たいぞうこんごう)の二大界を説き、法華経は釈迦多宝の並座を説く。だがそれを一歩進めて、なぜ実在に二大系統が生まれたのか、いったい実在の本質とは何かまで問いつめると、「果報としての仏の悟りの内容は言葉をもって説示することができない」すなわち「果分不可説」という宗教哲学の熟語になり、曰く「口ではいえない」、(不可称)、日く「まったく奇妙だ」(不可思議)、日く「真理の不可思議の本質は言葉や思慮を離れ、有であるとも無であるともいえぬ。  言葉による表現を超えたところに、かえって深い意味があるのじゃ」 (廃詮談旨(はいせんだんし))「それは言葉で推しはかれる領域を超えている」(言忘慮絶(げんぼうりょぜつ)) で逃げてしまう。ただ真言密教は「真言をもって果分の極致(結果としての仏の境地)をも説くことができる」(果分可説)と説破し、「梵字の阿の字は宇宙万有を一字のうちに収めている姿であり、阿字は本来あるもので、他のものによって新たに生ずるものではない」(阿字本不生(あじほんぶしょう))という根本説を提供する。■ムスビの意義 高皇産霊神、神皇産霊神の神名にあるように、この宇宙には産霊(むすび)という不思議な働きがある。このことを言霊から説明しよう。産霊の産は産む、蒸すの意であり、霊は霊であり、日であり、命だ、産霊とは単なる連結ではなく、酸素と水素の結びで水が産まれ、陽極と陰極の結びで電気が産まれ、男と女の結びで子供が産まれるように、陰陽二元の働きから霊を有無、すなわち命を蒸し出すことである。言霊学では、霊はチまたはヒと読み、体はカラ、カラタマ。霊 (チ)素と体(カラ)素が結んで霊体(チカラ)、すなわち力が産まれる。霊素と体素が結び合うことによって精気が発生し、この精気より電子が産まれ、電子が発達して宇宙間に電気が発生し、動、静、解、凝、引、弛、合、分の八カが完成する。こうして霊力体の三元の活動により大宇宙、小宇宙が形成され、万物が造られる。したがって宇宙間のありとあらゆるものは、真の神の霊力体で造られたといえる。万物は海中に浮かぶ海綿のようなもの、海水をたっぷりふくんだ海綿の外にも洋々たる海があるように、真の神の霊力体で造られた万物の外にもまた、真の神の霊力体が活気と満ちている。産霊とはよろずのものの生れいずる  本つ御神の御魂の力よ■幽の幽から顕の顕へ無から有が生まれたと言えば、いぶかしがる読者も多かろう。「龍樹菩薩は空を説いた。空というのは、神また霊ということである。空相は実相を生む。霊より物質が生まれてくることを意味する。無より有を生ずるというのも同じ意味で、神がすべての根元であり、それより森羅万象を生ずるのである。霊が先であり、体が後である。家を立てようという思いは外的にみて空である。けれどもその思いの中には、ちゃんと立派な建造物ができ上がっているのである。それがやがて設計図となって具体化する。さらに木材の蒐集となり、組立となり、ついに実際の大厦高楼が現出する。空相が実相を生み、無より有が生じたのである。真如実相という意を聞くのか。真如は神、仏、絶対無限の力を言うのであるから、前と同じ意味である。実相は物質的意味である(『月鏡』「空相と実相」)。王仁三郎は、隠身から現身へ、無から有へと生成発展する過程を、「幽の幽」「幽の顕」「顕の幽」「顕の顕」の四段階に分けて説明する。宇宙は、目に見えざる世界の幽界(霊界)と現象の世界である顕界(現界)で成り立つ。幽界にはもっとも内奥の世界である幽の幽界と霊的あらわれの世界である幽の顕界がある。顕界もまた、顕の幽なる境域と顕の顕なる境域とがある。ここに君が存在する。ということは、それ以前に潜在的、無意識的に君の生まれるべき素因いわば霊子があったことになる。それが幽の幽の世界だ。そして現界で父と母が出会い愛を求める時、その想念の中で君は幽の顕になった。そして夫婦の愛の産霊によって母の胎内に「、」を発生、人類の進化の過程をほぼ十筒月で体験しつつ成育するが、まだこの現界には現われていない。これを顕の幽の段階といえるだろう。そして母の胎内に胞衣を投げ捨てて生まれてきた時が顕の顕界だ。だがいつか寿命が尽きた時、君は肉体を投げ捨てて、顕の幽界に戻ってゆく。君の家は顕の顕の存在だ。その家を実現するために土地を探し設計を考え、いろいろの準備をする。だがまだ建設されていないから、顕の幽の段階だ。家の建築を決意した時が幽の顕といえよう。だがはっきり意識せずとも、そこに至る前になんらかの素因があるはずだ。それを幽の幽という。宇宙もまた幽の幽から幽の顕と霊界をまず形成し、次第に顕の幽から顕の顕、現象の世界へと発展した。ともあれ、宇宙でのものごとのすべては幽の幽が根本の原動力になり、顕の顕に至って立ち現れてくるという発想の萌芽は、ニューサイエンスの宇宙観の中にも垣間見られるようになってきた。ロンドン大学のデビッド・ボームはアインシュタインと研究室を共にして以来の研究の成果を踏まえていう(カッコ内は著者註)。「物理学の完全な『現われた世界』(現界)は暗在系(霊界)に起源をもっと考えるべきであり、しかもこの暗在系は、それ自体が独立して存在する奥深い何ものか(幽界)の投影されたひとつの『光景』というべきものである。暗在系から奥深い何ものかに至る『現われた世界』のバックグラウンド(基盤)は、明らかに高度に幻妙にして触知しがたい何ものかによって成り立っている。物質世界はそのような基盤から由来するに過ぎないということである。したがって我々は、幻妙なるもの(幽界)は具象物の抽象化なりとする通説をくつがえし、あえてこういわんと欲するものである。すなわち、具象物(現実世界)こそ幻妙なるもの(幽界)の抽象形なりと・・・」第一次暗在系(顕の幽)はさらに奥深い第二次暗在系(幽の顕)から湧出し、以下同様にさらにさか上っていけば、究極にはおそらくいかなる境界をも想像できない、さらにさらに深い基盤(幽の幽)へと到達するであろう。■天之御中主神の神業『古事記』上巻は表面的字句の解釈にとどまり勝ちで、ともすれば荒唐無稽な神話としか扱われない。だが王仁三郎は言霊学の活用により、天之御中主神の経倫としての意義を認めている。天之御中主神の神業は大別して四段階となる。第一段「幽の幽」天地初発の根本造化の経論で、伊邪那岐、伊邪那美以前。第二段「幽の顕」理想世界たる天の神界の経論で、主として伊邪那岐、伊邪那美二神の活動によって三貴神が顕現し、ひとまず大成する。第三段「顕の幽」地の神界の経論で、天孫降臨から神武天皇以前のこと。第四段「顕の顕」現実世界での経倫王仁三郎は「便宜上四段階に分けて説明するが、これは単なる時代の区分ではなく、むしろ方面の区別だ」という。第一段階から順次経論は進んだが、しかし一段階の経綸が完成して次の段階へと移ったのではなく、四段階同時の活動であり、経論だ。そして現在に至るもいずれも未完成で不整理、不整頓であり、また各段階の連絡も不充分でありこの経論は永遠に続く。■天の数歌天界には、天の数歌が不断に鳴り響く。一二三四五六七八九十百千万(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)天の数歌はたんなる数の順序ではない。幽の幽である大元霊が百千万の運化をへて生成化育し、顕の顕としての宇宙を創造される順序をうたい上げ、その力徳をたたえる言霊である。ひと(一霊四魂) 大宇宙の根源に大元霊がましまし、一霊のもとに勇親愛智の四魂を統べていられることを表わす。ふた(八力) 真神のいとなみである陰陽二元の組みあわせによって八力が生じる。み(三元) 八力の複雑微妙な結合により、剛、柔、流の三元ができ、ここで霊(一霊四魂)、カ(八力)、体(三元)の三大要素が揃ったことを表わす。以上については、「大本三大学則」の章で詳述する。よ(世) ついに泥海のような世界ができる。いつ(出) 日月星辰や大地が現われる。むゆ(燃) 草木をはじめ諸生物が萌えいでる。なな(地成) 人類が生まれ、地上の世界が成就する。や(弥) その世界がますます発展する。ここの(凝)  充実安定を表わす。たり(足) 完成の域に達する。もも(諸) さらにもろもろのものが生まれる。ち(血) 大造化の血が宇宙をくまなく巡り、生命力が満ちる。よろず(夜出) 生成発展の光明世界が永遠に聞けていく。この天の数歌の言霊によって、大太陽は百雷の一時にとどろく大音響を発し、左遷しはじめた。紫の光は四辺を包み、光輝燦然とし、光と熱は千万里を照らして炎熱熾烈である。時にア声の神霊が西南の空にはたらいて高地秀の峰に現われ、言霊を発声する。それは凝ってついに大太陰と顕現し、右遷を始める。たちまち水の霊能が現われて、霧となり、雲となり、雨となってうるおし、宇宙は清涼の気が満ち、火水和合して炎熱を鎮めた。これが王仁三郎の見た「幽の顕」宇宙霊界の剖判である。ここに至るまでに数十億年の年月がかかったという。大太陽界に鎮まる神霊を厳の御霊天道立神、大太陰界に鎮まり守護される神を瑞の御霊大元顕津男(おおもとあきつお)神とたたえる。霊交活力体因出燃地成弥凝足諸血夜出(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)と 称(と)なえよ天地『霊界物語』四巻五〇章「神示の宇宙」・六巻一章「宇宙大元」・六三巻四章「山上訓」、『天祥地瑞』子の巻一章「天之峯火夫の神」・図二章「高天原」・同三章「天之高火男の神」・同四章「◎の神声」、『大本略儀』「時間と空間」・同「顕幽の神称」、『太古の神の因縁』、『国教樹立論』、『祝同略解』、『神言』