第九章 愛と意志想念■意志想念とは何か科学は宇宙の活動力に意思を認めない。だが王仁三郎は、明確に意思想念を感知する。では意志想念とは何か。一般的に意志は「こころざし」とか「考え」、想念とは「考え思うこと」とか「思想」とかをさす。王仁三郎は、意志と想念はもともと切り離せないものとしている。意志の形式が想念であって、本体の意志がなければ、想念はない。だから単に想念という場合にも、意志という言葉を含ませている。王仁三郎は、想念は意志から発し、その意志の核には、愛の情動、またそこからくる歓喜や悦楽も含んでいるという。すなわち根源に愛の情動があって意志が生まれ、これによって歓喜悦楽の情が生じ、想念が形成される。換言すれば、想念の本体は意志であり、意志のさらに根源に愛の情動がある。物質レベルでは、愛をエネルギー、意志を方向づけるもの、想念を方向づけられたエネルギーによって生みだされる変化に対応させることができるだろう。サイバネティックスという科学の分野では、物質レベルから人間の意識まで制御、調節の問題、言い変えれば方向づけの問題をあつかっている。たとえば単純な自動制御の例に、コタツなどの温度調節に使われているサーモスタットがある。一定の温度に目標を定めておくと、熱くなりすぎると電気が切れ、寒くなりすぎると電気が入り暖かくなる。目標に合せて自動制御が行われる例は、機械だけでなく白然界のあらゆる段階に存在する。人間の意志想念の働きもこの自動制御の高度に複雑化したものととらえることができる。したがって現在の科学ではまだ不完全にしかあつかうことができないが、素粒子の段階から人間、そして宇宙全体に同じ法則性が働いていることが、やがて明確になるだろう。科学は目的論を避けるので、目的という言葉を使わないが、しだいに自然を合目的的なものとして、また神ということばは避けても、宇宙を理知的なものとか意識あるものとしてあつかう科学者も増え始めている。マルクスの唯物論的弁証法も、不完全ながらその法則性の一部をとらえていた。■愛の情動たまたま河に溺(おぼ)れていた人を見たとする。とっさに愛の情動によって意志が生まれ、その意志に方向づけられて、歓喜悦楽をともないながら「助けてやろう」との想念を形成する。けれど意志の方向づけによっては、「このさい、瀕死の状態をゆっくり見物してやれ」という想念になるかもしれない。他人の苦しみを眺められる歓喜悦楽(かんきえつらく)に酔いながら。溺れる人を見て助けてやろうという想念が愛の情動だとして、人が溺れるのを見て楽しむ冷酷な想念が愛に発するなどとは、理解しにくいであろう。愛のない人間はいない。たとえば強盗殺人を犯したひどい人間がいたとする。その犯行の動機をつきつめれば、それは愛の情動になる。罪もない相手を殺して奪ってまで自分に与えたい。それほど純粋に激しく自分を愛していることになるから。愛は同じでも、意志によって向けられる対象が問題だ。愛そのものは量的には変らなくても、対象が人とか物に狭く限定されればされるほど、他のことには向かわなくなる。仏教の執着にしても、マルクス主義の物神崇拝にしても、精神分析学のフェティシズムにしても、形は違ってもその問題を突いていると思う。王仁三郎は「愛は人間生命の本体だ」という。人間にこの愛の情動があるから、生命に熱がある。意志をどう方向づけるかはともかくとして、人間に愛の情動がなければ、現世では生きていけない。この宇宙は神の意志によって創造されたから、すべての事象の根元には愛の情動があり、それによって意志が生まれ、それが想念を形成する。そしてその想念が物質世界をつくる原動力となる。■神は愛なり力なり愛は精神生活の基本的感情であり、倫理学や哲学の上でももっとも重要な概念の一つだ。ギリシャで人間そのものの本質を問う哲学が誕生した時、フィロソフィアと呼ばれた。PHILO(愛)とOPHIA(知)を一つにした述語で、哲学そのものが知への愛である。また宗教の本質も愛だ。特にキリスト教は愛の宗教といわれるぐらいで、イエス・キリストの十字架での死そのものがアガペーの実現である。だが仏教では、むしろ迷いやむさぼりをひき起こす根源として、愛を排撃する。それは愛を愛欲という欲望の一つにとらえているからで、それを脱却して初めて悟りへの道が開かれるとする。そして仏典ではくり返し愛着からの解脱(げだつ)を説く。、キリスト教の愛に相当するのは、仏教の慈悲である。儒教では、愛は仁でありヒンズー教では信愛と呼ぶ。王仁三郎は「神は愛なり力なり」という。愛とは神であり、命であり、愛の発動は神の力だ。愛の発動によって宇宙は創造され、万物が発生する。宇宙間いっさいのものはこの愛に左右され、創造も、建設も、破壊も、滅亡も、混乱も生じる。愛の情動のその度合いがよければ生成化育の神業は完成し、愛の情動の度合いが過ぎればついにいっさいを破壊する。人間は神の属性をそのまま与えられている。神の本質が愛である以上、人間の本質もまた愛だ。ただ神と人の違いは、神の愛は無限であり、人の愛は有限であるということ。この無限の神の愛を、神愛と呼ぴ、世間的な愛と区別している。ろうそくの わが身こがして暗がりを てらすは神の心なるかも父母は からたまの親 主の神は わが玉の緒の命の親なりつくるなき 愛の泉はとことわに 生命の水と湧き出でにけりとこしえの 生命も愛もわが神の いだかせたまう力なりけりにらまれて にらみ返すは人ごころ 笑うてかえすは神ごころなる■愛善と愛悪さらに愛には大別して愛善と愛悪の二種類がある。この言葉は『広辞苑』や『日本国語大辞典』にはのっていないから、王仁三郎独特の用語であろう。愛の対象が自分に向えば向うほどその愛は愛悪だ。つまり自己愛ある。反対に愛の対象が家族に、町に、国に、全人類にと外に向えば向うほど、その愛は愛善である。神の愛の対象は、人類ばかりか、動植物にも、鉱物にも、人群万類に及ぶ。家族だけを愛するのは愛悪だが、国を愛するとなれば愛善か、愛悪かという、愛の限界の問題がある。絶対の愛善は、天国にしかない。現実界の愛はすべて物質がともなっているから、どうしても濁りがある。自分の郷里を愛する また日本人が日本の国を愛する、これは人間として当然であり、すばらしいことに違いない。だが神の方から見ると、世界は一視同仁で、どの国もどの人種も愛しておられる。だから神の立場に立つと、得手勝手ということになる。しかも自分の郷里を、国を愛し守るために他をしいたげるとなると、これは完全に愛悪である。完全な愛善は行なえなくても、神愛に近い愛善を行なうことに努力しなければならない。この愛善をさらに分ければ、神への経の愛と、隣人に対する緯の愛がある。愛善の 心は神に通うなり 神は愛なり善なるがゆえ釈迦(しゃか)孔子も 基督(きりすと)孟子の御教も 愛善の道説かざるはなし隣人を あわれむ心を仁という 愛は神なり善は徳なり大本の 教のみなもとたずぬれば ただ愛善の光りなりけり神といい 仏といえど根本は みな愛善の別名なるべし愛善の 道につとむる大本は 神と仏のくべつをたてず人生の 悲惨苦悩も消えゆかん 人類愛善の道をさとらば内外の くに人残らず愛善の 道に生かさん生命のかぎりは■人類愛善会と愛善苑王仁三郎は大正一四年六月九日に人類愛善会を設立するが、その名の「人類」とは人だけではなく人群万類の略である。そして「愛善」は愛と善という意味ではなく、愛悪の反対語である愛善ということだ。つまり神の愛に近い愛善を人群万類に捧げようというのが、命名の由来だ。王仁三郎は、大正期にそんなコスモス的な思想を持っていた。人類愛善という言葉は、ヒューマニズム、つまり人類愛と混同されがちだが、ヒューマニズムは人間の解放と再生の精神であり、人類愛善は神愛そのものだ。王仁三郎がある座談会で、人類愛善について語っている。「世の中に善というのは、愛よりほかにない。もっともカのできるもの、すべて成功するものは愛と善だ。キリスト、ムハメッドは愛を説き、仏教は慈悲を説き・・・これも愛だが、孔子は仁、仁ということは隣人を愛するということで、仏教も、キリスト教も愛を経に、善を緯に説いている。キリスト教はそれで十字架なのだ。すべての宗教は愛を経に、善を緯に説いている。人類愛善ということは、各既成宗教および今までの道徳教のすべてを一つにまとめた、まあ、いうたら抱擁したのだ。かんじんのエキスをとったような名である。仏教とかキリスト教とかは米みたいなもので、米の中から出た酒の汁が愛と善なのだから・・・」(『出口王仁三郎全集』二巻「神霊問答」)国から徹底的に弾圧され地上から抹殺されたと思われていた大本は、戦後ただちにすごいエネルギーで新発足し、世間を驚かせる。そのときに王仁三郎がつけた名前が「愛善苑」である。愛善苑のエンも、ことさらに「園」の字を避け、「苑」を用いる。「園」にはかこいがあるから、かこいのないひろびろした「苑」を選んだという、王仁三郎の深い意図がある。愛善苑の設立趣意書にも「神の心は愛善にして、人群万類ことごとくそのまことを生かし、その処を得しむるにある。神の愛善を心とする強き信念と熱情をもってすれば、時難克服の途はおのずから開かれる・・・」とあるが、あのころの燃え立つような気概は、当時少年だった私にも今ではなつかしい思い出だ。愛善苑という名前で活躍したのは昭和二三年までのわずか二年足らず、王仁三郎が昇天し、出口澄が二代苑主になった昭和二四年には大本愛善苑になり、澄が昇天して直日が三代をついだ昭和二七年から戦前の大本の名に復する。それとともに、残念ながら、あの頃の「世界を愛善化しよう」という王仁三郎の意図はあいまいになり、次第に管理化が進んでくる。国々の きかいはあれど愛善の まことの教はへだたりもなしかんながら 神の誠のみおしえは 愛善世界の提唱なりけり愛善の 道におらねば地の上の 国の平和は来たらざるべし大本の 神は人類愛善の 旗を地上になびかせたまう■愛に五つの別あり王仁三郎は『道のしおり』の中で、愛には五つの別があるという。一 親子の愛 親が子を愛し、子が親を愛するのは、人類はじめ鳥、獣にいたるまで共通する動物自然の愛だ。だが今日では、親が子を愛しても、子が親を敬い愛することは少なくなったと、王仁三郎は嘆いている。一 好むの愛 馬を好むがゆえに馬を愛し、盆栽を好むが故に盆栽を愛する。すべて好むの愛は自分の好みによって自分の心を愛するのだ。馬や盆栽そのものを愛するのではない。一 義理の愛 継母が継子を愛するのはおおむね義理の愛だ。夫に対するために愛し、親戚に対するために愛し、世間へ対するために愛することが多い。一 偽りの愛口先に愛を唱えつつ、心にその愛がない。偽善者などの国にする愛は、すべて偽りの愛だ。王仁三郎は「誠の愛と信じて人を助けんと思い、真の愛を誤解する人の愛は、偽りの愛となることもあり。心の狭き神道者またはかたくななる取次の愛は多く偽りの愛となるものなり」という。一 神の愛正しく美しい愛だ。人をかたより見ず、自分に敵するものを愛し、心の曲ったものを愛して善に導くのは、神の愛である。王仁三郎は「神は善人の田をも照らし、悪人の田をも照らしたもうごとく、いかなる悪しき人たりとも、善人と同じく愛するのを神の愛というなり。神の愛は悪しきものをことさらに慈しむの愛なり」という。『霊界物語』六三巻一O章「鷺(さぎ)と鴻(からす)」・二二章「蚊燻(かくすべ)」、『出口王仁三郎全集』二巻「神霊問答」、『日月日記』二巻「愛善と愛悪」、『道のしおり』三巻下