第七章 真神の霊力体■真神の体一、天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし天地間のありとあらゆるものを深くみつめて真神のみ姿を思いめぐらせよというのだ。出口直は神にねだった。「一度、神さまの本当のお姿を拝ませていただきとうございます」神は答える。「その方の姿がこの方の姿であるぞよ」そしてややあって、神は言葉を継ぐ。「本当の姿はのう、青雲笠で耳が隠れぬぞよ」これは含蓄のある問答だ。神がモーゼに「汝はわが面を見ることあたわず、われを見て生くる人あらざるなり」(『旧約聖書』「出エジプト記」 第三三章)といったが、神は姿を持たぬから、その姿を見せろというのが、そもそも無理な注文なのだ。直が神の心と一体になった時は、直が神の姿であり、君が神の心と合すれば君の姿が神となる。青雲笠というのは青空を笠にたとえたもの、青空をすっぽり頭にかぶっても耳が隠れぬほど、本当の姿は大きいという。これはずいぶん大げさな表現かに見えるが、宇宙の本体が神であるなら、むしろまことにひかえ目だ。だが無学な直に理解させようとすれば、こういう表現になろう。それ以上の大きさは、直の理解を超える。神は人体的に顕現した場合と本体とを区別しやさしく説いたのである。極大なる宇宙が神の姿の全体であるならば、極微なる原子もまた神の姿の一部分である。そしてその原子の内奥の秘密すら、まだ謎ばかりなのだ。謎は謎としておいて、神の分体なる万物と無心に対する時、何かが語りかけてくる。ダーウィンは進化論で、人間やもろもろの生物は神によって創造されたものではなく、単細胞生物から複雑化し進化してきたという。個の生物の突然変異と、自然環境に適応したものが生き残り、後は死滅する自然淘汰によって、現在地球上に生息する生物ができたというわけだ。今日でも、分子遺伝学などの理論的補強もあり、科学的な真理としての強い市民権を得ている。だが進化論では、重大なことが欠落してはいないか。生物は、それぞれ自然環境に適応するだけにしては余分なものを持ち過ぎている単に生存するだけならば、花は美しくなくていい。蝶や蜂たちにどんな美意識があるか知らないが、種を残すためならばむしろ格好などかまっていられまいに。花は誰のためにあんなにも美しいのか。他者に食われる運命にある植物や動物は、それを避けて少しでも長く生存したいなら、できるだけ醜くまずければいい。雑食性の人間でも見むきもしまい。あの果物たちの千差万別の味わい、豊かな色彩と形、それだけでも進化論によっては説明できない。天地の まことの象を察らめて まことの神の体を知れ天地の 形あるもの金神の 千別たまいし体なりけり森羅万象 一切神と信じつつ 吾は朝夕ひとりをつつしむ天地の 中にありとしあるものは 元津御神の姿なりけり天と地の 真相をよく観きわめて 主神に体のあるをさとらえ紺碧の 空の深さを眺めつつ 神のいさおの高きをぞ知る■誰が花を作ったか「神の分からぬ者には一本の花を見せてやれ」と王仁三郎はいう。花は語らぬ。だが物言わぬ花の言葉を聞きわける感性を人は持っている。やさしく可憐に、気高く優雅に、あるいは華麗に、熱情的に折々の花はささやきかける。誰がこれらの形を考え、妙なる色香を持たせたのか。同じ土にまいた草花でも、千紫万紅いろとりどりに咲き誇り、その美を競うのだ。丹誠こめて花を咲かせた人は、自分が作ったと思っている。だがよく考えてみよう。花の種はどうしたのか。種の中の絶妙な遺伝子を誰が作ったのか。遺伝子を操作して珍種を作った主でも、遺伝子そのもの、花の命そのものを生むことはできぬ。花作りは花が育つのを世話はしたが、作ってはいない。では誰が花を作ったか。太陽の光、大地、雨、風、それらは種を育てるのに必要なものだが、作り主ではない。花粉を媒介する烏や虫か。やはり違う。地中に埋めたものが石ころなら、どんなに白然に適応しようと芽は出ない。花は花のみでは生きられない。あらゆるものと調和し、その世話を受けとめて生きる。そして枯れれば有機質を含んだ腐葉土となって、微生物や雑草の種などと命を共有する。草花の一輪をみても天地の神のカの大なるをしる一輸の 花さえ天地の神々の カしなくば黙らざるべし一枚の 木の葉も造り得ざる身が 神を知らずにいばっているなり■体の本質は剛、柔、流万物の根源をなす元素は現在、百何十が発見されているが、王仁三郎はさらにその根元に剛、柔、流の三大本質があるという。真の神の全体は剛(玉留魂(たまつめむすび))、柔(足魂(たるむすび))、流(生魂(いくむすび))に大別され、剛は鉱物、柔は植物、流は動物の本質である。剛、柔、流に『古事記』に現われる神名をあてると、左のようになる。万物すべてが剛、柔、流を備えているが、その主となるものによって、鉱物、植物、動物の差ができる。活物の うまれ出でたる本質は 味志葦芽生魂(うましあしがいいくむすび)なり生いしげる 樹草のもとは豊雲野(とよくもぬ) 神の威徳の足魂なるあらがねの 土生り出でし本質は 国常立の玉留魂地主 神剛柔流の三元を もちて肉体つくりたまえる■神の作品と人の作品神は剛、柔、流を素材として万有を作ったが、人もまたいろいろな物を創造する。だが神の作品と人の作品とは、作り方に基本的な相違がある。人の作品は直線が主体だが、神の作品はすべて曲線だ。山の稜線、川のうねり、生物の形、その動き、風に散る花片、みな曲線だ。王仁三郎は「神の作品の中で、もっとも繊細、緻密、霊妙を究めたものは人間であり、とりわけ脳髄と肉体の曲線美はその代表だ。脳髄の曲線美は男の方が勝り、肉体の曲線美は女の方が勝る」という。さらに神の作品から、曲線美のベストスリーを選んでいる。一、女の肉体 二、男の肉体、三 馬とりわけ女性の曲線の美しさよ。だから画家は好んで若い裸婦を画材に選ぶ。色といい、艶といい、完成された女性の曲線は自然美の極致だ。一つの女体の中に山あり丘あり、谷ありでゆるやかなうねり具合は絶妙を尽くし、時には草むらの辺から曲線を描いて噴水を放出し、そのあたりには極楽も地獄も潜む深い落し穴まで用意してある。■王仁三郎の芸術観王仁三郎は、「芸術と宗教は車の両輪」だといった。芸術は形、色、香、音、味などの人の五感を媒介として美の世界を創造し、その中で遊ばせてくれる。宗教はかならずしも感覚に頼ろうとはしない。むしろ五感を超えた人間の霊性の内にある神智、霊覚などの神秘的な洞察力、第六感によって、目いまだ見ず、耳いまだ間かず、心いまだ思わぬ神の生命にふれさせようとする。芸術は形ある美の門から、宗教は形なき真と愛の門から共に人の霊魂のもっとも切実に要求するものを充たしつつ、神のあたたかい懐にいざなってくれる人生の大導師である。だが同じ導師であっても、宗教と芸術とでは導く境地に深浅がある。芸術の対象は美そのものだ。美は神の姿であっても、神の心ではない。その衣であっても、体ではない。だから芸術によって神の姿にふれ、にじみ出る愛に酔うことはできても、神の心を知り、神の霊と交わり、神と共にある妙境に達することは至難の業だ。わずかに神の裳裾(もすそ)にさわることはできても、その暖かい胸に抱かれ、その動悸に触れることはかなわぬ。芸術の極致は、美を創造し観賞することによって現実界の束縛を抜け出し、うっとりと我を忘れることにある。ただしそれは現実の活動世界ではなく、心象世界にとどまり、その感動は一時的であって、永続はしない。宗教の極致は自然美に陶然と酔いしれることではない。その憧憬の対象は形体美ではなく、精神美の実現である。神のうちにある愛と信とをわが身に活現し、永遠無窮に神とともに生きるべき霊的活動の向上発展こそが、宗教本来の目的である。■芸術は宗教の母「芸術は宗教の母なり」は王仁三郎の有名な断案だが、浅薄な理解しかされていない場合が多い。大本教団の中でさえ一時期から、お茶やお花や仕舞や作歌などの伝統芸術を学ぶことが王仁三郎の提唱する芸術の実践であり、御神業であるかのように指導してきた。「私はかつて芸術は宗教の母なりといったことがある。しかしその芸術というのは、今日の社会に行わるる如きものをいったのではない。造化の偉大なる力によって造られたる、天地間の森羅万象をふくむ神の大芸術をいうのである」(『月鏡』「宗教より芸術へ」)。王仁三郎は神を大芸術家、大自然を神の芸術作品と観る。人間の目ざすべき芸術は、大芸術家としての神に習い、地上を天国化していく芸術である。山は単なる鉱物の集積ではない。四季おりおりに装いを変えるの美しきはたとえようもない。また小鳥や水や風や草木の息づかいは妙なる音楽を奏でる。心耳をもって間けば、宇宙にはアオウエイの五大父音が不断に鳴りとどろき、波の音は五七五七七のリズムで打ち寄せる。人は自然の美しさに見慣れ、神の作品をさまで美しいとも絶妙とも思わぬが、心をとめて眺めた時、思わず溜息が出るほど精妙巧緻にできている。その造化の妙こそ、王仁三郎のいう芸術なのだ。真神は大自然の力の本体であり、万物は神の断片だ。神こそすべての根源であり、宇宙を統べる大芸術家である。造化の美に心を動かされ深く感ずることのできる人なら、それを作った本体に対して思わず手を合わす心がおき、そこに宗教心が芽生える。キリストも「ソロモンの栄華の極みの時だにも、その装い野の百合(ゆり)の花の一つに如かぎりき」(新約聖書』「マタイによる福音書」第六章)といった。日月を師とする造化の芸術でこそ「芸術は宗教の母」であるが、単なる人造芸術ならば、やはり「宗教は芸術の母である。せせらぎの 音も静かに聞く時は 神の御声のこもるものなり音もなく 落ち散る秋の桐の葉も 神の心の顕れなるべし絵の筆は いかにたくみに運ぶとも 天造物のうつしなりけり岸を打つ 波の音にも魂を こめてし聞けば神の声あり■真神の力一、万有の運化の毫差なきを視て、真神の力を思考すべし大は天体から小は原子に至るまで、すべてが一定の法則と軌道をもって活動し、移り変っている。その巡り移りにいささかの狂いもないのを視て、真神の力を考えよう。力は別の表現でいえばエネルギーである。光のエネルギー、核エネルギ-、化学エネルギー、運動エネルギーといろいろ姿を変えるが、その総量は一定ときれる。またその変化にも、一定の法則が働いている。生物にしろ、物質代謝とエネルギー交換によって生存しているが、一定で変わらぬものが基底にあるからこそ無限の多様性が生まれる。地球の物質の循環系、生態系の循環系、個々の生物の体を構成する細胞の作り出す循環系、それらが調和し秩序をもって働くことに地球全体がバランスを保ちつづけている。どこかの調和が崩れ出しても、驚くべき復元力を発揮してバランスを回復させる。科学技術によって生み出した物で人類がそのバランスを破壊しつつあるのは、もう周知のことである。人間はその浅知恵によって神を地球から追放すると同時に、すべての存在の奥底にひそむ、変化を調和させ得る力までも追放しようというのか。いかに人類が意気ごんでも、大自然の運化のような大調和も、自然が自動的に調和を保つシステムも、作ることはできない。どこかで破綻が生じてくる。大自然のバランスが崩れる不測の事態がおこれば、人間はただあわてふためくばかりで、対処の方法はない。偶然が自然という巨大システムを作り上げたと信じることは、愚かであろう。何万分の一という確率の賭けで何万回も勝ちつづけるという偶然があるとすれば、それはもう偶然とはいえぬ。万有の 運化の毫差なきをみて 主神の力をさとるべきなりものみなの 運化のくるわぬは まことの神のカなりけりものみなの めぐり動くは皇神の 千別たまいし力なりけり照りわたる 秋の紅葉のすがしさに 神のカをかしこみみるも力とは 霊と体と組み合ひて よろず霊体のはじめとぞなる金鈴を 朝な夕なにふる河鹿の 音にもこもる自然のカよ天地は 巡りめぐりて果てしなし 天津御神の尽きぬカに■真神の八力すでに宇宙の間に活動がおこっているとすれば、根元においてその活動をおこすべき力が存在するからだ。換言すれば、力があるから活動がおこる。真の神の全力は、動・静、解・凝、引・弛、合・分の入力である。この八力に『古事記』の神名をあてれば、左のようになる。   力には常に正反対の二方面がある。動く力と静まる力、解ける力と凝り固まる力、引くカがあれば弛み、合するかと思えば分けていく。それは宇宙間に正反対の性質をおびた相対的二元が存在するからで、その二元の交渉もしくは衝突の場合に新しい活力を生じ、進となり退となり、あるいは動きまたは静まる。王仁三郎は、この宇宙の相対的二元をとらえて、陰陽または火水、霊素体素ともいう。この陰陽、火水、霊体などは具象的な表現ではなく、抽象的、本質的な謂いである。王仁三郎によれば、水として象を現わす時はその中に火があり、火として象を現わす時にもその中に水がある。換言すれば現象の火も水もいずれもおのおの陰陽二元の一種の結合で、おのおの特有の力を発揮している。すでに述べたように、真神の幽の幽、天地未剖判の状態においては、ただ一点の大元霊があるのみだ。真如だの虚無だのというのは、この状態を指すのであろう。真神が一元のままならば、進みも退きもせず、増えも減りもせず、宇宙は無窮に混沌のままであったろう。三元と八力もって万有に あたえたまいし国津大神 (動力)物皆のうごく力は大戸乃地(おおとのじ) 神の美(うま)しき功(いさお)なりけり (静力)大戸乃辺(おおとのべ) 神の力の御功(みいさお)に すべての物は静まりぞする (解力)宇比地根(うひじね)の 神の力にものみな の 容易(たやす)く解(とく)る瑞の功績(いさおし) (凝力)物皆の 凝固(こりかた)まるは 須比地根(すひぢね)の 神の力の稜威(みいず)なりけり (引力)活杭(いくぐい)の神の功にものみなの 引かん力の幸(さちわ)う尊さ (弛力)角杭(つのぐい)の神の力のなかりせば すべてのものは弛(ゆる)ばざるらん (合力)ものみなの合す力は面足(おもたる)の 神の御魂の功績なりけり (分力) 惶根(かしこね)の神の功績に物皆の 分くる力の出ずる尊さ■縦の軌道と横の軌道われわれの住む太陽系を眺めてみよう。太陽を中心に九つの遊星がそれぞれの軌道を持ちながら休みなく動いている。地球もその星の一つだが、地球が自転しながら太陽を一周するのを一年といい、地球自体が一回転するのを一日という。これによって春・夏・秋・冬、朝・昼・タ・夜の循環が繰り返される。月や火星にロケットが行き、地球の周囲を人工衛星が数知れず飛ぶ時代であり、人々は人智のすばらしさに絶賛の拍手を贈る。しかしそれが可能なのも、天体の運行がきわめて正確に法則と軌道に従っているからである。我々の日常にしても、毎日一分の狂いもなく起きたり眠ったりすることはできない。食事の量はまちまち、仕事も今日は十の力を発揮し、明日は半分に満たぬことすらあろう。なのに天体の運行は、昔より少しも変わることがないのだ。天地間いっさいが真神の分力をうけて動き回る。大地の水は水蒸気になって空へ昇り、やがて雨や雪となって大地に降り、再ぴ水蒸気になって空へ返る。もしこの循環が止まり、水は空へ昇りっきりだと大地は干割れ砂漠と化し、万物の霊長などと豪語する人間も干しカレイ並みだ。また雨が降りそそぐばかりで天へ昇ることを止めれば、大洪水となって、万類は死滅する。この循環が休みなく繰り返されるから大地は適度にうるおい、動植物は自然と調和しつつ、それぞれに生きることができる。しかも循環は縦の軌道が横の軌道に従っている。この循環と言えば、木の実が土に落ち、やがて芽を出し、背を伸ばし、枝を張り、花を咲かせ、実となり、やがて大地に落ちる。蝶が卵を産み、卵が青虫となり、蛹と化して蝶となる。横の軌道とうえば、動物が炭酸ガスを吐いて酸素を吸い、植物は酸素を吐き出して炭酸ガスを吸う。春に蒔いた一粒の種は秋には万倍になって広がる。運化の様式はさまざまでありながら、それぞれが合目的的に動く。生物の進化もまた一つの運化であろう。万類は活動し、質的にも生成化育を遂げながら、大調和の中、天地の発展に参加している。その運化の根源にあって大宇宙を統御する無限のエネルギーこそが、真神の力である。■真神の霊一 活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし天地間のあらゆるものはすべて活物である。太陽月、地球すべていっさいが生きて活動している。その活物の心、性質、性格をよく観察し見きわめて、真神の霊魂を悟れよという。私が三年間ほど蔵の二階に閉じこもって、執筆にうちこんでいた時のことである。裏の畑でのささやかな野菜作りが、唯一の大地との接触手段であった。いつも締切りが背中に貼りついているような状況の中、わずかな暇をつくっては耕し、種をまき、育てる。それがどれほど素人百姓の私の心を慰めてくれたことか。徹夜で執筆中、眠くてたまらぬ時がある。だがあと二時間、あと一時間起きていれば、夜が明ける。昨日芽生えた苗が夜露を浴びてどれほど成長しているかを眺めたさに、眠い目をこすって耐えたものだ。まるで惚れ抜いた恋人に対面する時のようなうぶな気持であった。初めて葱の種を撒いた。なかなか芽生えぬ。多忙で水やりを怠ったし、失敗したかと半ばあきらめていた。その日も夜明けを待ちかねて畑へ出た。苗床の土を破って、いっせいに芽が出ている。が、とっさに私はそれが葱だとは思わなかった。私の観念にある葱とは、上が青くて下の方が白く、空に向ってつっ立っていなければならない。ところがどうだ、どれも背を折り曲げている。ちょうど青い針が針穴を上にして一面、針山に突きさきっているかである。間違えて何か別の種を撒いたんだ。きて、何の芽か。私はしゃがみこんで、しばらく眺めていた。と、朝露をいっぱいに浴びたその芽が種殻をつけたまま、次々に折り曲げた背をピンと伸ばし始めるではないか。その姿は小さいながら、まさしく天に向って立つ葱である。涙があふれ出た。思いもよらぬ感動がこみ上げ、気づくと鳴咽(おえつ)すらしていた。葱はそうやって芽生えるのが習性だ、にわか百姓のお前が知らなかっただけだといわれてしまえばそれまでだ。だが、やわらかい葉末を傷つけまいとして背をかがめて土をやぶり、大地の上に姿を表わすと、「きあ、これからがおれたちの世界だ」とばかりウーンと伸びをする。このような知恵というか、霊性というか、己れの命をいとおしみ守る姿を見た時、葱ですら神の霊が宿っていることを、理屈ではなく、魂がはっきりと感じとったのである。活物の 心性をよく覚悟して 主神に霊魂のあるをさとらえ活物の 心の性をきわむれば 神の千別し霊の御光り活物の 心性のはたらき察(あき)らめて まことの神の霊魂を知る鳥けもの 草のかきはにいたるまで 神の御魂のこもらぬはなき鳥獣 むしけらまでも元津神の 御魂そなはると思へば尊しさまざまの 教えはあれど霊力体 一貫を説く言霊はなし遙けかる 外国人も大本の 霊体一致の教にまつろう■霊と精霊の違い動物はともかく、植物や鉱物に霊などあるものかと思う方もあろう。厳密には霊と精霊が違うことを、まず認識しておく必要がある。霊は植物にも鉱物にも形あるすべてに遍在する。もしそれらから霊が抜ければ形が保てぬ。長い年月をへた土器が手もふれぬのにぼろぼろと崩れることがあるが、それは霊が抜けたからだ。つまり形の存する限り霊を含むが、特に人はじめ動物の生魂を精霊と呼ぴ分ける。肉体を持つ生霊も肉体を持たぬ死霊も、善霊、悪霊にかかわらず、動物である限り、すべて精霊である。植物や鉱物になぜ精霊がないかといえば、それはむしろ神の恵みであろう。もし彼らに精霊があれば、長い間おなじ所にじっとしていなければならない不自由に耐えられまい。無機化合物・有機化合物という言葉がある。無機化合物は鉱物性物質であり、有機化合物は炭素を含有主成分として動植物を構成する化合物だ。以前は、生命を形成する化合物はすべて炭素の化合物であり、無機化合物からは人為的に作れないという考え方が基礎にあり、このような分類がなされていた。ところが一八二八年、ウェーラーによって無機物であるシアン酸アンモニウムから尿素が合成された。これは有機物の生体外合成の最初の例として知られている。尿素は主に哺乳動物の尿中に含まれる窒素化合物である。このことによって、今日では、有機・無機の分類は単に便宜上の区別になっている。またタバコの葉などがかかるモザイク病の病原体はそれじたい結晶体の無生物のようだが、葉につけばたちまち微生物として活動をはじめる。命のないはずのものから命が生まれるのだ。■霊の在り方動植物はもちろん、鉱物に至るまで命があり、霊がある。ただその霊の在り方が違う。鉱物は霊の潜んでいる状態、植物は霊の眠っている状態、動物は霊の覚めている状態だという。潜んでいるはずの鉱物の霊や眠っているはずの植物の霊が時に覚めて人に感応すると、人は御神石とか御神木とかいって崇める。同じ霊を観察するなら、覚めている状態である動物の心性を観察することが、より神の霊魂を知る手がかりとなろう。特に人の霊魂は神の霊魂と同じものを与えられている。ただその働きが有限か無限かの違いに過ぎない。だから人間の霊魂の在りようを知り、それを無限大に拡大すれば、神の霊魂をうかがい知ることができる。■神力、法力とは何か新興宗教は霊的に偏し、科学者は物質に偏する。既成宗教は次第に現代の風潮に迎合して、奇跡否定の傾向にある。それを否定すればセミの抜け殻で、通俗化して倫理道徳の方便教に堕す。精神上の迷信に根ざした宗教も、物質上に根ざした科学も、ともに真理に遠い。霊と体との間に奇跡的な力があり、神秘的な作用がある。このカを神力、法カという。「こういう科学万能の世の中に、宗教も生かし科学も生かし、あら_ゆる哲学に生命を与えるところの霊力体の三大学則の教えは、今までどんな智者、学者もこれを唱えたことのない天啓の教理であります。五大州にどんな学者があっても、博士があっても、この霊力体の三大原理に対してはなんともいうことができないのであります。アインシュタインは相対性の原理説を唱えているが、あれは二つであって、こちらは三つである。向うは霊と体と、あるいは東と西と、男と女というようなものであるが、男と女の中に一つの妙な力があって子ができる、こういう所まで説いていないのであります。霊力体のこの三つの旗を押し立ててこの暗黒の世の中に進んだならば、きっと明らかな世の中となる。どんな敵もこれに服すべきはずであります・・・」(『神の国』昭和七年三月号「大本は宇宙意志の表現」)このように王仁三郎は述べるが、霊力体の三大原則から出発せねば、力ある真理は生まれないであろう。『霊界物語』一三巻「総説」・「霊力体」・六五巻「総説」、『大本略義』「一元と二元」、『道の大本』二章、『道のしおり』第一巻、『惟神の道』「愛善道の根本義」、『玉鏡』「大宇宙」・「女は神の傑作」、『月鏡』「宗教より芸術へ」・「芸術は宗教の母」・「神の作品」、『水鏡』「神きまと花」・「霊と精霊」