出口直の筆先は示す

「化物こわいと申すたとえは、こんどのことぞよ。この大本の化物は、三千世界の大化物であるから、すっくり現われてみせたら、いかなるものでも改心いたすぞよ。ながい化物であるから、世界に応じてあらわれるぞよ」(明治三四年旧二月二四日)ここで大化物呼ばわりされているのは、ほかならぬ出口王仁三郎その人。「いかなるものでも改心いたすぞよ」にはほど遠いこの世のありさまだ。それは、王仁三郎の全貌が、まだすっくり現われていないからだろう。この大化物は、肉体の生死をこえた息のながさで、世界の動きに呼応し現われると、神はいいたいのか。そもそも化物とはなんだろう。荒っぽくいえば、異次元に出没、いろいろな姿に変化し、その実体がつかみにくいコワイ存在で、俗にいう幽霊、お化け、物の怪、化生、怪物、変化、妖怪、魔物的存在。だがどんなに言い代えてみても、実体はいっこうに分からない。現代のエイリアンなみに、分からないうちは化物だ。そういう意味なら、王仁三郎はまさしく正体不明、「大」の字つきの化物である。この王仁三郎、水陸両棲ばかりか、脱魂して天空にも飛翔、神界・幽界にも顔のきく得体の知れぬ怪物だ。どこが頭やらへそやら尻尾やら。男かと思えば変性女子、素盞鳴尊かと思えば裏鬼門の金神、善やら悪やら真偽の判別もしにくい。「天であらため地であらためた系統のみたま」と、筆先はいう。秘められた出生は、野に落ちた一粒の胤、皇族である実の父から認知されぬままの子だ。大日本帝国は二度までも大弾圧を下して彼を檻に封じ、「天皇にとって代わろうとした逆賊」と喧伝してきた。だが予言者、超能力者の王仁三郎を知っても、彼の真価を知る人は少ない。晩年の二年余を除けば、王仁三郎は、現人神の御威光が燦然と光り輝き、不敬罪という怖い法律で民衆をからめとる時代を生き抜いた。不敬罪の根拠は建国神話を肯定し、天皇を唯一絶対の現人神と仰ぐか否かである。王仁三郎の対する神は、天皇を超えた宇宙の本源的存在だ。しかもその神は建国以前の神話を語り、「闇の世と堕した三千世界を立替え立直して、末代続く神国の世にする」と宣言する。天皇制を抜きにした現状変革はあり得ない。王仁三郎が不敬罪の枠をはみだし神の声を民衆に伝えようとする限り、国家権力との対決は覚悟せねばならぬ。二度の弾圧を予見しながら、それをくぐり抜けてどう生きるか。「瓦となって全からんより玉となって砕けよ」という軍部の「玉砕」主義を否定し、「玉となって全かれ」という「玉全」主義を教える彼である。玉全をはかるためには、自分の思想に煙幕を張らねばならなかった。教団の機関誌には天皇制に異常に迎合する論文を発表し、真実の思いを『霊界物語』という教典にひそかに塗りこめてゆく。
 王仁三郎の研究者は、まずその真意の分かりにくさに幻惑される。それに何しろ全八一巻(八三冊)、百字づめ原稿用紙一O万枚という『霊界物語』の量に圧倒され、途中で投げ出す人も多い。そこで、建前として発表した諸論文で王仁三郎の思想を評価し、片づけようとするから薮の中だ。とんでもない間違いを犯すことになりかねない。王仁三郎は幾つもの顔を持つ。見る方角によれば、白と黒ほどにも違う。また王仁三郎の思想とされているものでも、両義性どころか多義性、さらに仮面性すら持つ。どれが建前でどれが本音かは、まことに判じにくい。誰かがその思想に光をあてぬ限り、間違ったなりでまかり通ることになる。だから及ばずながら、私なりに挑んでみようと思う。現在スプーン曲げ、ノストラダムスの大予言などにはじまり、テレビ、出版界には霊界に関する怪しげな情報が氾濫。さかのぼって明治後期、大正期のオカルトブームのルーツとなった王仁三郎の超能力、大予言が再評価されてきた。今日、迷信でしかないオカルト情報に振りまわされ、毒されている人たちがいかに多いことか。このままでは、日本人の思想が腐ってしまう。このいかがわしいオカルト・ブームに止めをさすためにも今こそ真打ち登場、元祖出口王仁三郎の思想にアプローチして、その全身をすっくり地上に蘇えらせねばならない。私には学者先生のような学問はない。科学や哲学、芸術にもうとい。ただ王仁三郎の本音に迫ろうという情熱は誰にも負けぬ。あくまで『霊界物語』を基本にしつつ諸論文もなおざりにせず、オニサブローのフィルターを通して、彼の神観、人生観などを語りたい。本書のタイトルにことさら「活哲学」なる造語を使用したのは、王仁三郎の哲学は頭だけの理解ではなく、血肉となって魂を「活」かし、人生に光明を投げかける「活きた」哲学と信じるからだ。八百屋や魚屋が生の材料を売って料理はお客まかせのように、王仁三郎の文章をそのまま引用するのが理想的であるが、まだ調理法も知られておらず、生食すれば読者は消化不良を起こしかねない。そこで私は決心した。私がコックになって精魂こめた手料理を調理する。材料はとぴきり精選、科学調味料や防腐剤はいっきい使用せぬ。うまい、まずいはコックの腕次第か、さもなければお客さまの味覚の問題。他の料理店を求められるのは御自由だが、今のところは「大化物」思想料理をメニューに加えている店はなきそうである。

註 記:現人神 天皇の称。神は目に見えないものとされるが、戦前、天皇は人の姿をとってこの世に現われた神とされた。

不敬罪 天皇・太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太孫・神宮・皇陵・皇族に対して「不敬の行為」をする罪。「不敬の行為」が何を指すかはあいまいで、日記に皇室を冒涜するようなことを書いただけでも罪とされた。一九四七(昭和二二)年、刑法の一部改正で削除。

建国神話 天照大神の孫である邇々芸命が日向の高千穂の峰に降り、日本を建国し、皇室の祖となったという神話を指す。敗戦までは小学生の教科書に「国史」として載っていた。

立替え立直し  この他に「三千世界の大掃除、大洗濯をいたすぞよ。三千世界一つに丸めて万劫末代続く神国の世にいたすぞよ」と直の筆先に出ている。 

『霊界物語』 大本の根本教典で、出口王仁三郎の著作の一つ。一九二一(大正一O)年、「明治三一年旧二月(高熊山修行の時)に、神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」との神示が下った。王仁三郎は第一次大本事件で責付出獄中であり、大本本部の本宮山神殿も当局の命令によって破壊されつつある中で口述筆記が開始された。
 口述の筆録者の中には、後に生長の家を関教した谷口正治(雅春)もいた。神憑り状態での口述のため、内容が寒冷地の時は夏でも炬燵をいれたり、登場人物が苦痛を味わう場面では王仁三郎も苦しみながら口述を続けるなど不思議なこともあった。内容は全世界を舞台とし、正神と邪神、人間が「みろくの世」を創建するまでの闘争の歴史を描いたもの。全人類はひとしく神の子であり、その命は神より与えられたものとして男女はもとより万民の平等を説く「人類愛善」の精神が貫かれている。漢文調の難解な文章もあれば、「八さん、熊さん」調の会話もあり、スケールの大きな、ひとつの文芸作品ともなっている。

 ノストラダムス 一五O三~六六フランスの占星術者・医師。大予言書といわれる『諸世紀』を著わした。 本書は構成の都合上、自著『出口王仁三郎』各巻(新評論刊)、『第三次大本事件の真相』(自由国民社刊)、『出口直・出口王仁三郎の予言確言』(光書房刊)と一部重複する部分がある。 

 

出口王仁三郎の神の活哲学

目  次

序 文

 

第一章 神と科学と技術                                                            

肉体的思考を離れよ

・人間とは何かという問題・科学と技術・百匹目の猿の話・三千世界一度に開く梅の花

第二章 真の神とは                                                            

・冥土の旅の一里塚・死後の世界は存在するか・真の神は天地万有の創造主・無限絶対無始無終の宇宙の大言霊・宇宙の本源は活動力・祈りは天帝のみ・無神論者とは

第三章 宇宙の成り立ち                                                      

   ・宇宙の時間と空間・科学でいう宇宙起源説・言霊について・宇宙は言霊によって創造・王仁三郎の説く宇宙創造・言霊のビックバン・◎の言霊・霊素と体素・天之御中主神の観念・真神は三神即一神・ムスビの意義・幽の幽から幽の顕へ・天之御中主の神業・天の数歌

第四章 相応の理                                                             

・霊界は宇宙の実体界・コンピューターは疑似霊界?・現界は霊界の移写・人は肉体と精霊でなり立つ・黄金時代から泥土時代へ・大本は世界のかがみ・内流について

第五章 大本教旨                                                              

・王仁三郎の神観・人体のたとえ・大本教旨・人は神の代行者

第六章 大本三大学則                                                          

・神とは坊主の頭のようなもの・大本三大学則・驚くことのすばらしさ・草木も人民も光り輝く・神の黙示の意味

第七章 真神の霊力体                                                        

・真神の体・誰が花を作ったか・体の本質は剛、柔、流・神の作品と人の作品・王仁三郎の芸術観・芸術は宗教の母  ・真神の力・真神の八力・縦の軌道と横の軌道・真神の霊・霊と精霊の違い・霊の在り方・神力、法力とは何か

第八章 一霊四魂と五情の戒律                                                  

・人の霊魂は一霊四魂で成り立つ・知恵証覚とは・五情の戒律・戒律を破れば曲霊に・義と欲・伊都能売の御霊・精神が変調を来す時の五つのタイプ

第九章 愛と意思想念                                                              

・意思想念とは何か・愛の情動・神は愛なり力なり・愛善と愛悪・人類愛善会と愛善苑・愛に五つの別あり

第一〇章  善と悪、美と醜                                                      

現界は善悪美醜が混交 ・人には霊能と体能がある ・神の代行者としての自由意思 ・神はなぜ罪を犯す人間を作ったか ・神の立場でロボットを作れば ・美醜善悪は時所位によってかわる ・法律上の善悪 ・絶対善も絶対悪もなし ・みろくの世にも悪は滅びない ・生存と生活は違う ・天下公共のためにするのは善 ・神が表に現れて ・三猿主義は去勢政策 ・鬼も大蛇も料理する

第一一章  霊主体従                                                          

・主と従の関係を自由に ・進右退左が宇宙の大原則 ・霊主体従と体主霊従 ・霊五体五が理想的 ・高熊山修行は空前絶後の実習 ・体主霊従的なお賽銭のあげ方 ・長者の万灯、貧者の一灯 ・誠心と魔心 ・赤血球は霊能、白血球は体能

第一二章 霊衣                                                                

・死者の霊衣と生者の霊衣 ・人の霊衣を見て法を説く ・破れた霊衣を現代人は宝石でごまかす ・霊気は足先からも出る ・霊衣の色 ・体から毒素が出る ・囚われぬ心を持て ・包容とは抱擁 ・出口なおと八人の子供たち ・どうしたら霊衣を厚くできるか

第一三章 大本神話                                                            

・日地月の発生 ・地上霊界の形成 ・人類の誕生 ・アダムとイヴ ・邪神群の発生 ・稚姫君命の御霊の因縁 ・国祖御引退 ・国祖の霊を封印 ・大洪水 ・日本列島の成立

第一四章 神素盞鳴大神                                                      

・素盞嗚尊は悪神か善神か ・素盞嗚尊は救世主神 ・変性男子と変性女子 ・疑いと武力が紛争の種 ・天の岩戸ごもり ・機の仕組み ・謀略的岩戸開き所謂「開教百年」についての一考察     

編集 出口 恒

第一章 神と科学と技術

■肉体的思考をはなれよ

科学技術の発達によって世の中が便利になり、昔は分らなかった謎もおいおい解明されいろんな迷信や偏見が打破される。その結果、「宇宙戦争が想定される現代において、神や霊界などにまどわされるのは前近代的だ」と思い込んでいる人は多い。だがはたしてそれでいいのだろうか。どんなに科学が進んでも、宇宙の謎を完全に解明することはできぬ。白い米を食って、赤い血をだし、黒い髪をはやし、黄色い糞をたれる。この原理が明瞭にわかった医学博士もなければ、科学者もない。出口王仁三郎は「鼠一匹を研究して論文をだしても博士になれる世の中だから、学者といっても、真に頼りないものである」(水鏡』「科学の力」)といい、「屁のような理屈を吐いて飯を食う醜のものしりあな恐ろしき」と嘆く。一流といわれる科学者の中にも、宇宙は科学ではとらえきれないことに気づいている人は少なくない。アインシュタインや湯川秀樹も科学の限界について深く認識した。昨今力を得てきたニューサイエンスも、物質の限界にようやく気づき、霊性など目に見えないものを認識しはじめたきざしがある。物理学者の中には、東洋の神秘主義の神秘的体験から得た世界観の中に探している答えがあるのではないかと、考える人が増えている。『タオ自然学』を書いたフリッチョフ・カブラなどはその例だが、別に物理学に限らず、生物学のライアル・ワトソンなどもニューサイエンスの旗手だ。神とか霊界は非科学的な迷信だと信じる人は、科学を一枚岩のがっちりしたものだと、思い込んではいないだろうか。実際はパラダイムのつぎ合せ、寄木細工に過ぎないのに。たとえば現在、理論物理学の分野、特に素粒子のレベルで、幾つものパラダイムが併存している。長い間、物質の構成要素の最も小さいものとされてきた原子が、実は電子、陽子、光子といった素粒子によって構成されていることが分った。一九三二年に中性子が、その後、現在までに数百の素粒子が発見されている。物理学者たちは、「そんなに何百も物質を構成する要素などあるはずがない。もっと基本的な構成要素を探そう」とつき進めば進むほど、底なしの沼に踏みこむ。沼の底では、素粒子が理由もなく消滅しては純粋なエネルギーに化けたり、その逆の過程が進行したりで、実態としての物質という観念すらも怪しくなってきた。奇妙なことだが、物質はより根源的なエネルギーの代名詞だというのだ。物質もエネルギーも根は一株につながっているが、その正体を見届けた者はまだ一人もいない。そんなミクロの世界のことさえまだ闇の中だから、神や霊界の有無について、科学で答えがでるのはまだまだ先であろう。現実の表層に浮かび上がる物質世界を説明するいかなる言葉も、今ではすっかり色褪せた。近代科学はじまっていらい確固不動の礎とみなされてきた物質は、結局、うたかたの夢のように明滅していくはかない幻想であり、実像そのものではあり得ない。このような認識は、同時に物質の背後にあって支えきっている別次元の深層界を想定せざるを得ないはめに陥った。そして、深層の岩盤をえぐり出そうとする苦渋に満ちた試みも、ようやく緒についたばかりである。王仁三郎はうそぶく。「半可通的学者の鈍才浅智をもって、無限絶対無始無終の神界の事柄にたいして喃々するは、竿をもって蒼空の星をがらち落とさんとするようなものである。洪大無限の神の力に比べては、鼠の眉毛に巣くう虫、その虫のまた眉毛に巣くう虫、そのまた虫の眉毛に巣くう虫の放った糞に生いた虫が、またその放った糞に生いた虫の、またその虫の放った糞に生いた虫の糞の中の虫よりも、小さいものである。ソンナ比較にもならぬ虫の分際として、洪大無辺の神界の大経論が判ってたまるものでない」(『霊界物語』五巻「総説」)とかく科学者は科学者の目で、宗教家は宗教家の目で、哲学者は哲学者の目でしか神や霊界を見ていない。そういう色眼鏡をはずし肉体的思考から離れぬ限り、物事の真実はわかるまい。王仁三郎が中途半端な学者に対してこのような毒舌を吐くのも、科学もまた将来、神や霊界に到る大事な道だという期待があるからだ。「昔の人聞は直感すなわち、第六感が鋭かった。

だが今日の科学は、最低の直感を基礎として立てられたものだから、だんだんその第六感をにぶらしめてきた。それは人類にとってたいへんな損失であり、どうしても今後の学問は科学的に人間の知慧を向上せしめるとともに、神より与えられた人間の直感力をいよいよ発達させて、両々相まって人類の福祉に貢献するよう、努力させねばならぬ」(『人類愛善新聞』昭和一O年八月二三日「直観力を養え」)。また王仁三郎は「ナザレの聖者キリストは神を楯としパンを説き、マルクスパンもて神を説く」といい、また「大本は霊もて霊の道を説き、パンもてパンを説く教えなり」という。

・・・科学を基礎としなくては/神の存在経論を/承認しないと鼻高が/下らぬ屁理屈並べたて/己が愚をも知らずして/世界における覚者ぞと/構えいるこそおかしけれ/学びの家に通いつめ/机の上にて習いたる/畑水練生兵法/実地に間に合うはずがない/口や筆には何事も/いとあざやかに示すとも/肝腎かなめの行いが/できねばあたかも水の泡/夢か現か幻の/境遇に迷う亡者なり/肉の眼は聞けども/心の眼暗くして/一も二もなく知恵学を/唯一の武器と飾りつつ/進むみ霊ぞ憐れなり・・・知るという 人はなにもの 天地の 妙(あや)しき神業(みわざ) かみならずして霊と肉 一致和合のみおしえは 三五の道を おいて他になし
■人間とは何かという問題

ダーウィンが『種の起源』を発表した当時その時代の人々にとって「人間とは何か」という問いかけは、文字通り現代以上に大問題であったろう。現代の科学技術は、核爆弾、自然の汚染、環境の破壊といった問題を生み出し、人類ばかりか地球上の全生命までも滅亡させかねない状態になっている。遺伝子操作の技術の進歩は、そのうち、人間そのものの遺伝子に手を加えてゆくであろう。こうして科学が神の領分にまで踏みこもうという事態になると、あらためて「人間とは何か」を根源から考え直す必要がある。人工知能やロボットの研究により、他動物に比べすぐれているとされた人聞の思考能力は、人間自身がうぬぼれているほどのこともなく、機械で可能な部分がかなりあることに気づかされた。ここでもやはり「人間とは何か」が問題になってくる。コンピュータの研究とは、「考える」ということを考えることである。私たちが「考える・理解する」大部分は、三段論法など単純な論理の組み合わせである。この根底にあるものは、要するに「そう決めたらこうなる」ということだ。これまで科学の「人間とは何か」との問いかけは、霊的な面を否定する方向に人間を導いてきた。だがいずれ、科学技術の頂点において神と出会う状況になれば、もっと根元的などんでん返しもあり得よう。白米を 食いて黄色き糞をたれ 赤い血を出す 理知らぬ学者よ洋人の よだれのかすを切売りし 飯を食ってる 現代の学者よ
■科学と技術

科学技術をとらえるやり方はさまざまあるが、単純に科学を研究、技術をその応用とすると、戦後いちじるしく伸びているのは技術の方だ。その技術は人聞の持つ能力の延長、拡大、変形と欲求の現実化へ進む。技術の発展につれ、人聞が思ったことと、それが実現するまでの時間的ズレが少なくなる。一九二二年、王仁三郎はすでに、「二十一世紀の初期には通信機関が発達して、毛筆や鉛筆や万年筆の必要はなくなり、指先で空中に七十五声の文字を書けば相手に通じるようになる」(『霊界物語』一五巻二一章「帰顕」)と予言している。文字が言語を発する時代になるというのだが、当時は荒唐無稽に思われていたことでも、今では不可能な夢ではなくなった。だんだん思っていることがそのまま現実化していこう。は執筆はすべてワープロを利用している。ワープロで打って執筆というのもおかしいが、鉛筆を持つことも、消しゴムを使うことも、まったくなくなった。たしかに早くて便利にはなったが、何かのことでワープロが使えなくなれば、再び鉛筆でのろのろと執筆できるだろうかと不安だ。中毒のようなもので、もう私はワープロを捨てられそうもない。人聞の生活面は技術の開発によって欲求が限りなくエスカレート、物が充ちあふれ格段の進歩を遂げたかに見えるが、根の部分はさほど変わっていない。それよりも、技術によって生み出されたものが生物すべてに有害だと気づいても、それを根絶することの方がより困難になってきた。たとえば公害の最たるもの、もともとあってなんら益のない核兵器の廃棄自体、さらに強力な兵器を発明するより至難であろう。悪と悟ってソク改めるだけの英知と決断が、もはや人類には残されていないのか。既成宗教 科学の斧に頭より わらるる時の せまり来にけり目に皺を 寄せて吐息をつきながら 悟らんとする人のおかしさ
■百匹自の猿の話

このまま科学と精神文明が跛行(はこう)状態を続けると、人類はバランスを失って、ひっくり返る危険がいっぱいだ。どうであれ人類は、神や霊界に背を向けたまま、行きも戻りもならぬところまでつき進むのだろうか。手遅れにならぬうち、人類が一度に目ざめるという奇跡はないのだろうか。あるのだ、その可能性は。「百匹自の猿」という話を思い出そう。宮崎県の幸島に群棲するニホン猿のうち、賢く若い一匹の猿がある日、ふと芋を海水で洗って食べた。翌日は別の若い猿がまねる。旧習依然たる老い猿たちを除き、次つぎ芋洗いを真似る若猿たちが増え続け、その習慣が定着するのに六年かかった。ところがある朝、最後の若猿・・・百匹目だったとして・・・が芋を洗った時から、突如変化がおこった。頑固保守猿たちが何思ったか、いっせいに芋洗い猿に変身したのだ。驚いたことに、まったく交流のない別の島々にいる猿の群までいっせいに芋を海水で洗って食べる習慣を持ち始めた。この現象をどう理解すればいいのか。まったく飛躍的な情報が、一つの「種」のみに共通する「目に見えない場」を通じ、空間を超えて伝達、発現したのではないかという考え方がある。一九八一年、レパート・シェルドレイクは、この「目に見えない場」を「形態形成場」と名づけたが、それを「霊界」と呼びかえてもさしつかえあるまい。一度目ざめた猿の知恵は次から次へと新しい局面を切り開き、現在ではタコ狩りを覚えるまでに至った。しかも、明らかに調理技術を身につけている。海辺の岩角にとりたてのタコをこすりつけ、すり跡に海水の塩味をしみこませる高等手法を編み出してしまったのだ。向島の猿族はこうした知的な営みに喜々としてたわむれ、今後どこまで発展するのか注目を集めている。それがまた、形態形成場を通じて、別のサル群にどう波及してゆくか、興味ある問題である。人類の未来に行きづまりを感じている人にとっては、「百匹自の猿」の話はあらたな希望の光を投げかけるものであろう。最近では、さまざまな人々が「百匹目の猿」をたとえとして持ち出している。人間の場合、「百匹目の猿」のような飛躍的現象は、言語の使用などによって促進され、それこそ無数に存在する。人類の進歩は飛躍によってもたらされてきた。新しい発明が社会に普及したり、明治維新、ロシア革命などの現象もそうである。飛躍は必ずしも良い方向へ向うとは限らぬ。ファッシズムの拾頭と民衆への波及、兵器の発明とその拡大などといった好ましくない飛躍もある。いずれの場合でもその先駆者は少数から始まり、ある程度の数に達した時に飛躍が生まれる。少数にとどまったまま飛躍にいたらず、途中で消えてしまったものも数多い。弁証法でいう「量から質への転化」はそのことを意味する。艮の金神は「このままでいくと世界の大峠がきて、人民が三分になるぞよ」と警告した。第一次、第二次世界大戦で人類は幾つかの峠を越えたが、まだ地球を傾けるほどの「大峠」は越えていない。早く人類が意識を変革せぬ限り、それはくる。出口直に憑かる艮の金神は三千世界の立替え立直しを叫び、人民が改心せねば「三分になるぞよ」 と予言する。その「立替え立直し」も、ある質的大変換が引き金になるであろう。キリスト教の中には、最後の審判で神に救われる者以外は絶滅すると信じている宗派もある。人類滅亡のノストラダムスの予言など、人類の未来に絶望的な予言は数多いが、王仁三郎の考えは決して悲観的なものではない。「キリストは、『最後の審判をなすために再臨する』といったが、彼の最後の審判というのは、火の洗礼を施すということだ。彼は火の洗礼を施そうとして、その偉業が中途で挫折したため、再び来たって火の洗礼を完成させようと欲した」といい、火の洗礼とは人聞を霊的に救済することだとしている(『水鏡』「霊界物語は最後の審判書なり」)。そして「最後の審判は、閻魔大王が罪人を審くと同様なる形式において行わるると、考えている人が多いようだが、それは違う。天国に入り得るものと、地獄に陥落するものとの標準を示されることである。この標準を示されて後、各自はその自由意志によって、自ら選んで天国に入り、あるいは自ら進んで地獄におつる、そは各自の意志想念のいかんによるのである。標準とは何か、霊界物語によって示されつつある神示そのものである。ゆえに最後の審判は、大正十年十月(霊界物語の口述を指す)より、すでに開かれているのである」としている(『水鏡』「霊界物語は最後の審判書なり」)。王仁三郎によれば、予言とは、「予め言う」予言ばかりではなく、「神が言を預かる」預言の意を含む。神は出口直の口を通して警告したが、あとは時節がくるまで、神自身の吐いた言葉を神が預かる。もし人類がどうしても改心できねば、万策つきて返さねばならぬ。だがそれに気づいて目ざめれば、人類の未来は希望に輝く。これからも、人類の生み出した邪気を清めるために大天災大地災はあるかもしれないし、第三次世界大戦がないともいえない。それが人類の越えねばならない大峠だとすれば、すでに峠越えは始まっている。しかし王仁三郎は、その峠の先に人類の明るい未来を見る。立替え立直しとは、世界全体のことばかりではなく、実は自分自身の問題でもある。
立替えを 他人のことと勿(な)思ひそ 立替するは己が身魂ぞゆめの世に 夢を見るちょう人の世も 神の御声に醒めざるはなし
■三千世界一どに聞く梅の花

「三千世界一どに聞く梅の花」と、艮の金神は初発に宣言した。一八九二年旧正月のことである。これについて、王仁三郎は解釈する。「今日の物質文明と大本の精神文明との準備がととのったということであり、三千世界一どに聞くというのは、縦からも横からも全部天にあるものいっさいを指して、それがいっさい、地にあるもの、一度に開くということだ。今までにためてあったすべての経綸が、まず形の上から現われてくる」(『真如の光』昭和六年二月一五日号「時代に生きて働け」)確かに艮の金神が宣言した当時からみれば、加速度的に発展した物質文明、地球上の華やかな変化は目をみはるに十分だ。だが精神文明の方はどうか。むしろ後退し、蹴行的状態である。王仁三郎は、梅の花は神の教えだと示す。神の教えが一気に人類の目をきます時がくるということであろう。その時期はいつか、どんな方法でか、私たちには分らぬ。碁の名人が素人相手に対局したとする。名人の打った捨て石が、進むにつれてどうなって、どう利くかということは、予測もつかなぃ。「名人ともあろうものが、ばかな石を打つものだ」ぐらいに思うこともあろう。だが振り返ってみると、その一石が決め手となることさえあるのだ。神の経論は近視眼的な我々には理解できなくてあたり前、完全な理想世界を築くには、政治も、経済も、宗教も、芸術も、形あるものないものすべてが必要であり、わけでも科学は大きな役割をになうであろう。王仁三郎は、一九三一年、宣伝使会で次のように語っている。「大本がこれだけ神さまのお道を伝えるのに便宜を得たのも、物質文明のおかげである。これがなければ、台湾や北海道、海外諸国などへは、一代かかっても、行けるか行けないかわからない。けれどこうして千里もへだたった人と一堂に会することのできるのは、物質文明の賜物である。昔のようなら、どんなに神さまが三千世界を統一するといわれでも、百年河清を待つよりむずかしい。今日のアメリカの出来事を今日聞けるようになったのも、高御産巣日(たかみむすび)系統の神の活動だ。また神御産巣日(かんみむすび)系統の活動は、これは女性的の活動だから、はっきり表に現われてないが、並行して現われている。思想の洪水が氾濫するのも、神の道が発展した証拠だ。一方には思想の洪水があって国を危うくする者がないと、真剣に国を守る者が出ない。皆、神の方から見れば、すぺてが経論であって、一潟千里(いっしゃせんり)の勢いで進展している」(『真如の光』昭和六年二月一五日号「時代に生きて働け」)この頃に比べると、宇宙中継のおかげで、世界の人が一度に梅の花の開くのを見ることも夢ではなくなった。今後の社会は物質から情報へ、情報から霊的なものへと質的変化をめざし、両方併存しつつ、霊的側面が優勢になることが望ましい。いま目まぐるしく進むこの情報社会でこそ、梅の花、教えがパッと一度に咲きにおう時期がくる。その霊的変革によってのみ、三千世界は破滅から救われる。ある時期は速度を早めながら、破滅か光明かの選択を人類にきびしく迫りつつ、最後の百匹目へと確実に進みつつある。
みな人の 眠りにつける真夜中に 醒めよと来なく山ほととぎす梅の花 一度に開く時来ぬと 叫び給いし御祖畏(みおやかしこ)し『霊界物語』五巻「総説」・一O巻「総説歌」・一五巻二一章「帰顕」、『水鏡』「科学の力」・「霊界物語は最後の審判書なり」、『人類愛善新聞』昭和一O年八月二三日号「直観力を養え」、『真如の光』昭和六年二月一五日号「時代に生きて働け」 

第二章 真の神とは

■冥土(めいど)の旅の一里塚

凶暴な殺人者でも、死刑を宣告されると、震えおののくという。彼らは独房の中で考える時間だけはたっぷり持っているから、死への恐怖をそれだけじっくりと味あわねばならぬ。人はこの世に生まれるなり、矢が弓を離れるように墓場に向って一直線につき進む、それが人生というもの。死に対する限り、我々もまた死刑囚とさして変わらぬ。生まれながらにして大自然から死刑を宣告されているのと同然で、ただ死ぬ時期と方法が彼らよりもっと漠然としているに過ぎない。人により死刑台の高さはまちまちでも一年の時の経過はそれを一段上がるのと同じこと。なのに正月がくれば「おめでとう」、誕生日がくれば「おめでとう」という。何がめでたかろう。一休禅師の歌に「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」とある通りだ。死は金持、貧乏人を間わず、例外なく訪れる。まだまだ若いから関係ないと安心することもできない。飛行機が落ちれば、老いも若きも一蓮托生だ。病気などのように前ぶれのある時もあるが、足元から鳥が立つように突然に襲ってくることもある。人間は常に死に直面して生きている。エピクロスはいう。「生涯を通じ、食うための手段をととのえることにあくせくしている人びとがある。われわれすべてにそそがれた誕生の薬は、また死への薬でもあったことを理解しないからだ」「死以外のことに対してなら、身の安全を得ることもできよう。が、死に関する限りわれわれ人間のすべてはいわば無防御の町に住んでいるのだ」私の父の死後、悲しむ母のもとに未亡人たちが毎日のように集まり、一時期、わが家は後家クラブの観を呈していた。そこへ愛する夫に先立たれたM子が加わった。M子は「もう生きる希望がなくなった。死にたい、死にたい」と嘆きいまにも後追い自殺をしかねんばかり、皆が本気で心配した。やがてM子は健康を害し、癌の疑いが持たれた。と、癌に効くというありとあらゆる薬を探して飲んだ。もう死にたいとはいわなくなった。いぎとなれば、人間の生への執着はそのぐらい強い。ふだんはささほど思わぬのに、ちょっとどこかが痛み出すと、「あ、ひょっとすると癌? このまま死ぬかも・・・」などと怯(おび)える。ある高僧が癌の宣告を聞いて取り乱したという話も有名だ。意識するしないにかかわらず、誰もが心の底に死への怯えを抱いている。それでいながら、さほど不安もなく生きていけるのは、主に二つの理由によろう。一つは、「私に限って死はまだまだ先だ」という、誰もが持っている迷信だ。「目も歯も弱ったし、去年のギックリ腰以来どうも無理がきかん。だがまだまだしたいことが山ほどある。わしに限って、なかなかお迎えはこんぞ。かえってあんな元気そうに見える奴がポックリいくんじゃないか」などと、自分のことにはいやに楽観的だ。それにもう一つ、人間は明日への期待を作る名人だということ。誰もが、大なり小なり、明日への期待を作って生きている。「今は借金で苦しいが、明日になったら二千万円の宝籤(たからくじ)が当たるかも」とか、「ひょっとすると、あの娘はおれに惚(ほ)れとるぞ。よし、明日はデートに誘ってみてやれ」とか。しかし待ちに待ったデートの時がきても、その楽しい現在は絶対につかめない。つかんだと思うと、過去という名でするすると逃げ出し、悲しい別れの時が迫ってくる。会うは別れの初めなのだ。すばらしい肉体美の女性を妻にしても、その絶妙の曲線美は時々刻々と微妙に変化し、やがては梅干しなんとかという複雑な曲線美に変わる。絶世の美女といわれた小野小町でさえ、美しかった花が老いしなびてゆくのをみて「花の色は移りにけりないたずらに 我身世にふる眺めせしまに」と、自分の容色の衰えを嘆いているではないか。そして人間は、こまごました現実の欲求を果たすため、日々死の行程をあえぎあえぎ進む。
咲く花の 散りゆく見ればいとどなお 身のはかなさを偲ばるるかな春の夜の 短き夢にも似たるかな 露の命の散るを思えば秋風に 揺らるる萩の露のごと おちて消え行く人の玉の緒花と匂い 玉と栄えし人の身の 消ゆるを見ればはかなかりけり
■死後の世界は存在するか

四苦八苦という仏教用語は人間のあらゆる苦しみのこと。生苦、老苦、病苦、死苦の四苦に哀別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんせいく)を加えたものである。現代の子供なら、そのほかに受験苦もある。まさに人生は無明の闇だ。だが王仁三郎は、「生、病、老、死、これを四苦といって、人生で一番苦しい。生まれる時の苦痛が一番ひどく、人はその苦しみによって自分の前生をすべて忘れてしまい、何もわからぬようになる。次が病のくるしみ。これはたいていの人が大か小か味あわないものは少ない。次が年をとってゆく苦しみ、だんだん苦痛が軽く、死が一番、苦痛が小さい」(『水鏡』「四苦」)と語る。一般に苦痛の度を反対に考えているが、もし王仁三郎の言が事実ならば、一番の苦痛は誰しも通り過ぎてきたことになる。だからといってそれはほんの気休めにすぎない。ふと我に帰った場合、生まれてから心臓が停止するまで、それだけが人生かと思えば、こんなむなしいものはない。しかし霊魂の命は尽きることなく、生まれてくる前に前世という生があり、死んでからも死後の世界という永遠の生があると知れば、人生の考え方がまるで違ってくるはずである。死後の世界を信じず平気で生きている人のなんと多いことよ。宗教家にも霊界の存在を信じていない人は少なくない。それでいながら、葬式を待って人の死で食っている。肉体が灰になった後にも魂は残るなど、それが科学的に立証されたわけでもないのに、死後の世界についてあれこれ頭を悩ますのはむだじゃないかという考えの人もあるだろう。しかし神や死後の世界があるかないかわからないとして、もし死んで霊界に行ってから「しまった」と思っても、それこそ「後悔先に立たず」だ。「濡れてから衣を乾すより濡れぬ間に傘さしかざし広き道ゆけ」と王仁三郎は教える。神や霊界の存在を信じて、人生にどんなむだがあるだろう。それを信じることで人生に本当の生甲斐を見つけられればこんなすばらしいことはないoパスカルは「神は存在するという表の側をとって、その得失を計ってみよう。二つの場合を見積ってみよう。もし君が勝てば、君はすべてを得る。もし君が負けても、君は何も失いはしない。だからためらわずに、神は存在するという側に賭けたまえ」(『パンセ』)と述べる。賭けるのはいいが、正しい霊界の知識に欠けると邪悪な宗教もはびこり、それに迷わされて大火傷する。だからこそ、信じるにしても、神や霊界についての正しい判断力を身につけておく必要がある。
世の中に 死後の世界を知らぬほど 寂しきものはあらじと思う人生に おける一大問題は 死後の世界の有無にかかわる何時までも 魂の命はあるものを 消ゆるといいし醜(しこ)のものしりあめ地に 神なきものとほこりつつ まさかのときに手を合す曲(まが)生前に 死後の備えのなき人は 死期せまるとき無限の悔あり人間は この世を去ればそれぎりと 思へる人の驚く霊界霊界に 至りて人は驚かん 依然と命の続けるを見ておおかたの 人のあわれは死してのち 天国あるを悟らぬことなりはかなさは 人の命としりながら いのちの神を世人知らずも人の世の 悲哀の際(きわ)み待ちくらす 醜僧侶のこころきたなきみ仏の 法を伝うる道忘れ さかしまごとを待つ坊主かな人の世は 死ぬにましたる憂いなしと 葬式のみ待つ坊主の汚さ苦しみの 中にも神の恵みあり 悩みなき身を幸とな思いそ
■真の神は天地万有の創造主

「神といえばみな等しくや思うらん烏なるもあり虫なるもあり」と古人は歌うが、まさに神は八百万ある。太陽、月、星、天空、大地、山、川、海、水、火などの自然の対象とか、風、嵐、稲妻、雨、暁、夜などの気候現象はしばしば神格化、あるいはその属性として表わされる。またギリシャ神話に出てくるようなロマン多き神々もあれば、知恵授けの神、火難除け、水難除けの神、金儲けの神もある。受験合格に霊験あらたかな神、交通安全の神など大流行だ。病気治しの神にしても、万病に効くと思えば、頭痛、眼病、胃病、婦人病、火傷、疣(いぼ)とりなどと専門化されてもいる。日光東照宮、天満宮、靖国神社などのように死んだ人間を祀ることもあれば、生きながら現人神に仕立て上げたりもする。そのいい例が天皇を神と祀り上げて、「大君の辺にこそ死ねめ、かえりみはせじ」と死を賛美し、日本を戦争にかり立てたあの戦前の天皇制である。今日、新興宗教は、教主を生き神に仕立てて大もうけ。どの神と出会い、どの神とつき合うかで、人生の明暗を分けるといっていい。もし本書を読んで迷信から目覚め、真の神の存在に気づいていただける人が一人でもいたらありがたい。人間が全幅的に身もゆだねるに足る神を、かりに真の神と名づけよう。では真の神とはいったいどういう存在なのか。王仁三郎は「天地万有の創造主」という。この宇宙に無数に散らばる星たちをはじめありとあらゆるもの、火も、水も、土も、空気も、光の粒子や遺伝子のすべてを生み、はぐくみ、命あるもの、ないもの、形あるものばかりか自に見えぬ霊界までをも、いっさいがっさい創り上げつつ調和させ、寸分の狂いなく運行させ得る力ある主体、それが造物主だ。それではこの真の神を誰が造ったか。もし真の神を造った他力があれば、その他力こそ真の神。またその他力を造った大他力があれば、その大他カこそ真の神であらねばならぬ。要するに真の神とは誰からも造られたものでなく、太初から在るものとなる。人や動物は造られたものだから、それらの霊はもちろん真の神ではない。
天帝は 霊力体の三元を もちて一切万有をつくれり主の神は あまつ月日を生みまして 森羅万象をそだてたまえる父母の ほかには親はなきものと 誠の親神わするる世の中
■無限絶対無始無終の宇宙の大元霊

王仁三郎はさらに加えて、真の神とは「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」という。太初において無限小であり、その広がりにおいて無限大となり、その権威は絶対、始まりなく終りなき宇宙の総根源こそが、大元霊たる真の神である。ではその真の神はどこにいますのか。それが分らねば、どちらに向って祈ってよいか分らぬではないか。真の神の住居は宇宙の外か、内か。宇宙が無限大なれば無限の外に存在するはずはない。当然、宇宙の中であろう。では太陽か、月か、星か、地球か。地球とすればどこの大陸に、どこの国におわす? :神社仏閣に鎮坐(ちんざ)ましますのか、家々の神棚か仏壇にか?しかしもし真の神が宇宙のどこかの一点に存在するとすれば、王仁三郎のいう「絶対」の定義からははずれる。たとえば伊勢神宮としよう。宇宙の中の、地球の、日本の、三重県伊勢市の、伊勢神宮の内宮の中なれば、宇宙と相対的な関係となる。真の神だけは他に比肩すべきもののない唯一、絶対でなければならないのだ。視点を変えてみよう。活きている君そのもの、それをかりに君の本体と呼ぼう。君を君たらしめている君の本体は、どこに存在するのか。肉体の外にか、内にか。外なら、肉体はリモコンつきのロボットに過ぎぬし、君の本体とはいいがたい。内ならば、頭の中にか、心臓、腹、腕や足の中にか。それとも神経血液?もし君の本体が君の腕の中に存在したとしよう。片腕を切断すれば君の本体は半分になるし、両腕を切断すれば君の本体は存在しないことになる。しかし両腕を切断しても君は君であり、ちっとも減りはしない。多量の出血を他人の血液でおぎなった場合でも、君は君で、他人にはならぬ。一つしかない頭や顔や心臓が壊れても、手術で補いのつく間、生きている限りは真の君だ。つまり君の本体は、生きている肉体のすみずみまですべて君と合一状態にある。今、人聞の考え得る極みは宇宙である。唯一絶対であろうとすれば、宇宙のはてまで同体の他はない。すなわち真の神とは、宇宙と合一状態にある大元霊をいう。ではそれは一体何なのか。王仁三郎は答える。

■宇宙の本源は活動力

「宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり」(『霊界物語』六七巻六章「浮島の怪猫」)彼の神観、宇宙観を要約して明快に表現したものだが、換言すれば、神とは宇宙を活かす不断の力、造化の働き、生成化育の妙である。「なんだ、力か」とシラケてはいけない。そういう人たちは、えてしておどろおどろしい宗教屋の餌食になり、骨までしゃぶられる」ことになる。もう少し我慢して先を読んでもらいたい。真の神が特に神社におわすわけでもないならば、わざわざ参拝の必要はあるまいと思うであろう。だがそうではない。我々の周囲にはテレビの電波がとびかっているが、肉眼では見えぬ。受像器のスイッチを入れ、チャンネルを合わせ、初めて絵が映り音が聞こえる。神と人間とは次元の違う存在だから、ふつうでは神との交流は不可能だ。そこで神社や家々の神棚を受像器とし、宇宙の本源なる電源につなぐ。真剣に祈るという行為は、スイッチを入れ神と向き合うこと。ここで初めて神との感合が可能になるが、チャンネルの合わせ方を間違えると、地獄界の想念を受け止めかねない。要注意だ。
■祈りは天帝にのみ

人が困難に立ち至った時、神を信じぬ人でも目に見えぬ何かに対して祈る。それは人の本能だからだ。本能の要求があるのは、求めるものが実存するからであろう。のどの乾きに対して水が存在し、欲情に対して異性が存在する。平常は理性で押えていても、いざとなると思わず祈る心がおこるのは、神が存在すればこそである。王仁三郎は述べるo「祈りは天帝(真の神)にのみすべきものである。他の神さまには礼拝するのである。私はそのつもりでたくさんの神さまに礼拝するのである。そはあたかも人に挨拶するのと同様の意味においてである。誠の神さまはただ一柱しかおわさぬ。他はみなエンゼルである」(『水鏡』「祈りは天帝のみ)神は尽きることのない電力をたたえた大電源であり、人の霊魂は一個の蓄電池にたとえられよう。祈りはその電源にコードをつなぐことであり、人の霊魂に神気がゆたかに充電されてこそ、勇みに勇んで活動することができる。「心だにまことの道にかないなば祈らずとても神は守らん」という古歌があるが、それは思い上がりで、祈り行なうという行為がなければ、次元の違う神に通じようがない。そこで王仁三郎は、「心だにまことの道にかなうとも 行ないせずば神は守らじ」と宣り直す。
神殿に 神はまさねど人びとの 斎かんたびに天降りますかもいのるとも 心に曲のあるときは 神の救いのいかであるべき霊顕(れいけん) の現われそうなはずはなし 錠をおろして祭りたる神外面より 錠前おろし檻のごと 祠に閉じられし神憐れなり礼なくて 黒(きたな)き心持つひとの いのる言葉にしるしあらめやもみじなす 幼き児らの手を合せ 神に祈れる様いじらしも
■無神論者とは

神を信じない人たちは自分を無神論者だという。そうだろうか。ほとんどの人が唯物論的教育を受けて育っているから、無理もない。だがもう少しつっこんで考えてみよう。自称無神論者にもいろいろなタイプがある。まず確信派と暖昧派だ。後者は非科学的迷信家と思われるのがいやさに、無神論者の顔をする。もともと神などのしちめんどうな概念は、チリほども思い浮かべない、関係ないといった文化人だ。彼らはさておきで問題にしたいのは確信派の場合だ。確信派の無神論者を生んだ多くの責任は、まず宗教が負わねばならぬ。宗教が今日まで人類に与えた功罪を比較すると、むしろマイナス面の方が大きい。自分の宗派を守るために異端への排他と憎悪をかきたて、どれほど多くの血を流し続けたことか、それも神の名において。現に今なおアラブ諸国では、目をおおう無残な殺戮(さつりく)が行なわれている。宗教によって迷信がはびこり、神のお告げによって善男善女たちから金がかき集められ、人目を驚かす大殿堂大伽藍が造られる。甘い分前をねだる政治屋は信者面して入りこみ、大きな集票源をつかみとるのだ。堕落した宗教は、神を鰹節(だし)にして肥え太る大なる悪魔である。確かに「宗教は阿片なり」だ。まともな人間なら、怒りをもって反宗教をとなえよう。反宗教が必然的に無神論者を作り出す。しかし宗教がいかに堕落しようが、在る神は在る。世界の人口の何割かを占める仏教徒は、宇宙を創造した神など認めない。だが彼らは宇宙の大理法を仏と信じている。換言すれば、王仁三郎のいう宇宙の造化の働き、生成化育の力ではないか。宇宙の活動力に意志を認め、それを「神」と呼ぶならば、宇宙意志の有無が有神、無神の決め手となろう。しかしたとえ意志を認めたとしてもこういう意地っぱりもいるに違いない。「宇宙の活動力を、なぜことさら神といいかえる必要があるか。今さら手を合わせて拝まずとも、宇宙は勝手に動いている。ありがたがりやの宗教は、だから嫌いだ」。そう、神という言葉には素直になれない。大半がアレルギーをひきおこす。「ヒト」という言葉もやめよう。ホモ・サピエンスで結構、時には「二本足で歩く哺乳動物」「万物の霊長類」などといい代えたりして。ついでに「母」もしめっぽい。「私を生んだ女」でいいじゃないか。「父」なる言葉の代わりに、「私を生んでくれた女に私を生ましめた男」とはっきり呼ぼう。待てよ、生ましめたなんて、あの男はそれほどの明確な意志を持っていたかどうか。やっぱり生ましめるに至ってしまったかな。それで世の中さばさばしそうなものだが、何だか霊魂の脱出したホモ・サピエンスの死体を見るようだ。血のぬくみが伝わらぬ。やはり肉体に精霊を包みこんでこそ、ヒトであろう。宇宙なる一言葉は純理的、学理的、形式的であり、ひややかな体を思わせる。そこに霊がこもってこそ、力を発揮する。神の実体を宇宙の活動力と断言する王仁三郎は、その活動力に深奥な神の意志を感じ、広大無辺、壮麗きわまる霊力を観る。その感動をこめて表現するには、「宇宙の活動力」という説明語では血が通わぬ。他に適当な日本語がない限り、やはり神というほかはないのだ。
神は世に 無きものなりと賢しげに 物識人が世迷言宣るも一匹の 虫の研究に一生を ついやす学者の神知るべきやは五官もて 究めも得ざる大宇宙 造りし神をいかで知るべき無神論反 宗教論に没頭し 魂殺す人をあわれむ
『霊界物語』三巻「安息日」五〇章・六七巻六章「浮島の怪猫」、『水鏡』「生命」・「人生と信仰」、「祈りは天帝のみ」、『道の大本』第一章、『大本略儀』「神と宇宙」 

第三章 宇宙の成り立ち

■宇宙の時間と空間

真神は「天地万有の創造主」であり「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」と王仁三郎はいうが、その宇宙なるものがまったく謎に包まれている。最新の科学では、宇宙には百数十億年の歴史があるという。地球が生まれて四六億年、そこに生物が発生して四O億年、わが人類が生まれて二百万年という。たかだか何千年かの歴史しか持たぬ我々にとって、百億年の時間といえば始まりがないに等しい。始めなければ終りなし、まさに宇宙は無始無終である。宇宙は百億光年の広がりを持つ。一光年は光が一年間に走る距離であり、光は秒速一ニO万キロ、地球を七まわり半する速度だ。宇宙の果ては宇宙の地平線と呼ばれ、光速で遠ざかっているため、光はこちらには届かない。地球と太陽の距離は一億五千万キロ。オギャ!と生まれた赤ん坊を時速百キロの新幹線なみの乗物に乗せて出発、太陽に向ったとする。休みなくただひた走っても到達は七五万時間後、八五歳になっている。世界一の長寿といわれる日本人の平均寿命すら上まわる。ところが太陽の光なら、八分一九秒で地球に到達する。それほど秒速三O万キロというのは超スピードであり一年間走ると九兆四千六百億キロになる。その百億倍が宇宙空間の広さ、しかもなお限りなく膨張し続けているという。太陽のような恒星が一千億個ぐらい集まったものが銀河あるいは島宇宙と呼ばれ、それぞれの銀河聞の距離は百万光年である。宇宙には銀河が一千億個あるというから、宇宙の恒星の数は一千億個の一千億倍あることになる。したがって時空の場での宇宙の様子は想像もつきがたい。時間には始めもなければ終りもなく、空間もどこまでも果てしないのが宇宙の真相やも知れぬ。
■科学でいう宇宙起源説

宇宙の生い立ちについて誰しも知りたいところだが、それが自然科学の対象になったのはようやく二O世紀に入ってからだ。一九二二年、ハッブルによって、遠い銀河ほど早い速度で遠ざかっていることが発見され、宇宙膨張説が大きくクローズアップされた。さらに一九四八年、ガモフによって、火の玉のような宇宙からビッグ・バン(大爆発)によって現在の宇宙が誕生したという説が唱えられた。一九六五年、宇宙のどの方向からも一様に放射されている熱の存在が発見きれ、ビッグバン説はより有力な宇宙起源説となった。現在では、ビッグ・バン説をさらに発展させ、宇宙誕生後の一兆分の一秒よりも短い時間のことにメスを入れようとしている。この時期は超高温状態であり、短時間に急激な膨張、インフレーションが起きたという。現代の科学は、宇宙全体が一センチ立方より小きかった時代のことまで論じている。銀河が一千億個集まったこの宇宙がてのひらに乗る角砂糖よりも小さかった時期があったと聞かされても、とても想像できない。そうなると、銀河は一ミクロンより小さくなってしまうのだから。いかなる意志で、何の目的でとは科学で問うところでないとしてもビッグ・バンの瞬間、なぜ一点に凝縮していたのかという原因も分かっていない。科学の方程式では解けない謎であろう。もちろん宇宙誕生の時は時間も空間もない状態だから、それ以前はどうだったのかと問うのもナンセンスかも知れぬ。
■言霊について

宇宙の嬰児時代について、『古事記』序では「それ根元すでに凝りて、気象いまだ効(あらわ)れず、無名無為(なもなくわざもなし)、誰か其形を知らむ」、『日本書紀』では、「古(いにしえ)天地未だ剖(わか)れず、陰陽(めお)分れず、混沌(まろかれたること)雞子(とりのこ)の如し」とあるのみで、暖昧模糊としている。王仁三郎は、宇宙は言霊によって形成されたという。ここで言霊について簡単な説明をする。『万葉集』にも「しき島のやまとの国は言霊のたすくる国ぞまさきくありこそ」(柿本人麻呂)、「そらみつ倭(やまと)の国は皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国言霊のさきはふ国と語り継ぎ 言ひ継がひけり」(山上憶良)とあるように、言霊とは古来、言葉に宿ると信じられた霊力である。それを研究する学問を言霊学という。言霊学者としては、中村孝道、大石凝真素美、杉庵志道、本田親徳、長沢雄楯(かつたて)、水野満年などが知られる。なかでも中村孝道は言霊学中興の祖といわれ、王仁三郎の祖母上田宇能(うの)は彼の姪である。王仁三郎は物心ついた頃から、都にはまれな素養を持つこの祖母に言霊学を学ぶ。また本田親徳の言霊学は、その弟子長沢雄楯を経由して、王仁三郎に強い影響を与えた。
■宇宙は言霊によって創造

宇宙は言霊によって創造されたというと、奇異に感じる人も多かろう。だが王仁三郎は、古事記でも聖書でも仏典でも教えていることだと主張する。古事記冒頭に述べる。「天地が初発(なりた)つ時に、高天原に成る神名は、高御産巣日(高皇産霊)神、次に神産巣日(神皇産霊)神。この三柱の神は並(みな)独神(す)に成りまして、隠身也」「高天原に成る神名は」の語句は一般的には「天地剖判の時に高天原という霊地に生まれられた」ぐらいに解釈されるが、王仁三郎は否定している。「成る」は「鳴る」の意であり、伊邪那岐神の「黄泉行(よみのくにいき)」の段に「八雷成居(やぐさのいかづちがみなりいる)」とあるのも、「鳴り居る」の義である。したがって本当の意味は、天地が初めて開けた時、「タァーカァーアーマァーハァーラァー」と言霊が鳴り響いて、まず霊界に高天原が形成されていったというのだ。「タカアマハラ」は天之御中主神の根本発動である。『新約聖書』ヨハネ伝第一章には「初めにコトバがあった。コトバは神と共にあった。コトバは神であった。このコトバは初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち一つとしてこれによらないものはなかった。このコトバに命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そしてやみはこれに勝たなかった」とあり、すべてのものがコトバによってできたと述べている。真言密教では、阿(ア)字を万有の根源とし、この字のいろいろな意義や功徳を説く。「阿吽(あうん)」は吐く息と吸う息、息の出入りのことである。「阿伝の呼吸」という言葉があるが、共に一つのことを為し遂げようとする時の相互の微妙な息の合い方を指す。この阿吽のニ字をいっさいのものの太初と究極を象徴するものとし、阿は万有が発生する理念の本体、吽はそれが帰着する智徳を意味する。寺院の山門の左右にある仁王や狛犬が左方は口を聞き、右方は口をとざしているのは、阿吽を象徴している。このように仏教でも言霊で万有が発生したことを説いているのだが、王仁三郎は、「ア・ウンの前に総根源であるス(神)の言霊があることを知らない。だから仏教哲理を究めても、神の概念にまで到達することは困難だ」という。王仁三郎は「宇宙の実在は神であり、この世のあらゆる現象は神の意志の発作、神の意志の表現だ。そして神の意志とはコトバであり、すなわち神は言霊である」という。だから神名に大国主命とか素盞鳴尊などとある命(尊)は「御言」「神言」の義だ。また声は心の柄であり、嬉しさ、悲しきなどの思いはまず声に現われる。進め、退け、起きろ、寝ろなど、人間の一挙一動、みな言霊の力によって左右される。・・・世界の太初に言葉あり/言葉は道なり神に坐す/すべてのものは言霊の/清き御水火にもとづきて/造られ出でしものぞかし/現しきこの世は言霊の/幸わい助け生ける国/天照り渡る貴の国/すべての法規も更生も/言葉をはなれて外になし/ああ惟神言霊の/幸わいたすくる神の国に/生まれ出でたる嬉しきよ
■王仁三郎の説く宇宙誕生

では王仁三郎が神より見せられたという宇宙誕生の模様はどうか。天もなく、地もなく、したがって時間も空間もない大虚空に、極微なる一点のほち「、」が忽然と現われ、無形、無声、無色の霊物となる。この霊物はついに霊気を産出し、澄みきり澄みきらいつつ次第に拡大して、一種の円形を作る。円形は湯気よりも、煙よりも、霧よりも遥かに微細な神明の気を放射し、円形の圏を描いて元の円形を包み、◎の形になる。「、」は◎へと形を発展させながら、寂然たる無音の虚空に初めてあるかなしかのスの言霊を発生する。@すなわちスの言霊はかすかな声音のようだが、遠く、深く、強く、どこまでもしみとおってゆく。「澄みきり澄みきらいつつ」スースースース―と極みなく延び広がり、ふくれ上がり、鳴り鳴りて鳴りやまず、ついに極まり達してスゥースゥーとウの言霊が発生する。ウの言霊はウーウーウーウーと透徹し、その活動を領分して上へ上へと昇りつめ、その極みにアの言霊を生む。一方、ウは下へ下へと降ってついにオの言霊を生み、さらに降ってエの言霊、イの言霊を生む。ここに天の言霊であるアオウエイの五大父音が完成し、次にカサタナハマヤラワの九大母音ができ、キシチニヒミイリヰの火の言霊、ケセテネへメエレヱの水の言霊、オコソトノホモヨロヲの地の言霊、クスツヌフムユルウの結(神霊) の言霊が生成され、さらにガゴグゲギ、ザゾズゼジ、ダドヅデヂ、バボブベビ、パポプペピの言霊が生まれ、ついに七十五声の言霊が完成する。
大虚中 ただ一点の現れて 至大天界生まれ給へり大虚空一点の、あらはれて スの言霊は生れ出でたり大宇宙 みち足らいたるアオウエイ 父音の言霊聞き得る人なし澄みきりし スの言霊の生い立ちに 天之峯火夫(あめのみねひお)の神とならせり峯火夫の 神の功のなかりせば 紫微天界は生れざるべし久方の天之峯火夫の神は 天界の万有諸神が主神に坐します主の神の 力によりて宇迦須美の 神の御霊は生れましけりウの神の 功は下りて大津瑞穂(おおつみずほ)神と生れます言霊なりけりウの神は 上に開きて天津瑞穂 アの言霊と生れたまひぬ主の神は 七十五声を生みなして 天の世界を開きましけり天に満ち 天に輝き透き徹り 鳴り鳴りやまぬ主の神の功
■言霊のビッグ・バン

七十五声の言霊があい和して大音響をとどろかせ、宇宙は震動して紫色に輝きはじめる。だが言霊の鳴りみちて現われた世はまだ霊界のみである。それは次第に水火を発し、虚空に光を放ち、その光凝結して無数の霊線を発射し、紫色に輝く紫微圏(しびけん)層を、ついで蒼明(そうめい)圏、照明(しょうめい)圏、水明(すいめい)圏、最後に成生(せいせい)圏の五層の段層を生じた。その高さ、広さかぞうべきもない。まさに◎に発した言霊のビッグ・バンである。紫微圏層の中にも五つの天界が次第に形成きれていく。天極にある至厳至美、至粋至純の透明圏なる紫天界、続いて蒼(そう)天界、紅(こう)天界、白天界、黄天界・・・光彩の渦は巡り巡る。天空には万の星座がきらめいてその数を増す。大虚空(だいこくう)に鳴り鳴りやまぬ霊力体の三元は、スの言霊の玄機妙用によって、紫微天界に大太陽を現出する。ただしこれは物質界の太陽ではなく、霊界の太陽である。その太陽の輝きは、物質界の太陽の七倍以上の強きだという。
■◎の言霊

◎すなわちスの言霊の活動を称して宇宙の大元霊といい、古事記では天之御中主神、『天祥地瑞』では天之峯火夫(あめのみねひお)神という。「けだし◎の言たるや◎にして◎なるが故に、すでに七十五声の言霊を完備して、純乎(じゅんこ)として各自みなその真位を保ちつつあり。しかしてその真位というは、みな両々あい向いて、遠近皆悉(ことごと)く返対力が純一に密合の色を保ちて実相しつつ、至大極乎として恒々(こうこう)たり、活気臨々として点々たり、いわゆる至大氳呍(いんうん)の気が声と鳴り起(たた)んと欲して、湛々(たんたん)の中に神機を含蔵するの時なり。故に世の人たる者は、まず第一にこの◎のいわれを明らかに知るべきものとす、何故ならば◎は皇の極元なればなり」(『天祥地瑞』七三巻四章「◎の神声」)スの言霊は、光でいえば白色光、音でいえばホワイト・ノイズ(白色雑音)にあたらないだろうか。現代の科学は、すべての物質が粒子と波動(振動) の両方の性質を持つことを明らかにしているが、音にしろ光にしろ、波動は似かよった性質を持つ。白い光はプリズムを通せば赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色にわかれる。さまざまな波長の色の光が集まったのが白色光であり、「澄みきり澄みきらいつつ」というように、澄んだ透明な色である。またホワイト・ノイズはすべての波長の音をふくみスーあるいはサーといった音に聞こえる。ホワイト・ノイズはフィルターを通してさまざまな音を分離して、音の電子的合成に利用されることがある。
独神(す)になりて 隠身(すみきり)たもう神の上は かしこき人もかたりえざらめ
■霊素と体素

スより発したウの言霊を、『天祥地瑞』では宇賀須美(うがすみ)神と称する。ちなみにウの言霊から現れたアの言霊を天津瑞穂の神、オの言霊を大津瑞穂神という。このウの言霊の鳴り鳴りて鳴り極まるところ、上にのぼりでは神霊の大原子である霊素が発生、これを霊系の祖神高皇産霊神という。次に下っては物質の大原子である体素を醸成、これを体系の祖神神皇産霊神という。霊素、体素という表現がお気に召さねば、火素・水素、陽素・陰素などと呼んでもよし、もっと現代的な別の呼称でもさしつかえない。霊素、体素を生み出したウの言霊は万有の霊と体を産み出す根源であり、ウの言霊を産み出したスの言霊はさらにその総根源である。ここでいう言霊とは、単に人間の耳に聞える音声のみでなく、すべての物質の根元に連なるものとしての言霊である。
■天之御中主神の観念

天之御中主神が万有一切をまきおさめてこれを帰一し、いまだ活動をおこさない宇宙誕生の瞬間、すなわちその静的状態にある時は、むろん時間、空間を超越している。時間、空間が無いのではなく、さればとてまた有るのでもない。その観念がおこるべき素因がなのだ。時間、空間の観念が発生するのは、少なくとも天之御中主神の本体から霊と体との相対的二元である高皇産霊神、神皇産霊神の二神が顕現し、活動を始めてからのことである。天之御中主神の活動を縦に考察する時に時間という観念がおこり、またこれを横に考察する時に空間という観念がおこる。活動がなければ時間もなく、空間もない。たとえあってもこれを量るべき標準もなく、またこれを量るべき材料もない。むろん無限絶対なる天之御中主神の属性があるから、時間、空間ともに無限であり、無始無終であらねばならぬ。外に向って無限であると同時に、内に向ってもまた無限である。至大外なく、至小内なしである。天之御中主神をその静的状態から考察すれば、霊力体を帰一するところの宇宙の大元霊である。一元の虚無、また絶対的実在といってもよい。次にその動的状態から考察すれば、この神は随時随所に霊力体の微妙神秘なる配分をおこない、無限の時間、空間にわたりて天地、日月、星辰、神人、その他万有一切の創造に任ぜられる全一大祖神である。だが王仁三郎は「この神の静的状態、動的状態は一通り正しい観念を得れば、それで充分とすべきである」(『大本略義』「時間と空間」)と述べる。なぜならば、天之御中主神はすでに無限の時間、空間にわたって活動し、再ぴ太初の静的状態に逆行することはありえない。もしかりに逆行することがあったとしても、その時には天地間いっさいのものは死滅する。人類もまた混沌の中にその痕跡すら残きぬから、心配しようにも心配する主体そのものが消滅する。そこで肝心なのは、天之御中主神の動的状態の理解体得である。天之御中主神の意志は、一は理想世界である神霊界の大成、一は現実世界である人間界の大成である。人は天地経倫の大使命を神から与えられている。したがって天之御中主神が過去においていかなる活動をし、将来いかなる目標に向うか、特に現在いかなる経輸を実施中なのか、そのプログラムの大要を理解した上で神業の働き手とならねば、人は人として生まれてきた価値がない。天之御中主神については、『古事記』では単に造化第一神として名称をのせるにとどまり、『日本書紀』では名称すらのらない。
るしゃな仏 阿弥陀如来も伊都能売も 御名こそかわれ一つ神なり
■真神は三神即一神

天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の三神を造化三神といい、古事記の冒頭に現われる神名である。王仁三郎によれば、高皇産霊神は霊系、神皇産霊神は体系で、唯一の実在なる天之御中主神の神格が二大系統に分かれたことを意味する。ゆえに三神は別個の独立した神ではなく、宇宙の大元霊のそれぞれの働きにつけられた神名であり、三神即一神の三位一体の関係にある。この神を称して三つの身魂、すなわち瑞の身魂という。実在に二大系統が含蔵されていることは、仏教でも教えている。真言密教では胎蔵金剛(たいぞうこんごう)の二大界を説き、法華経は釈迦多宝の並座を説く。だがそれを一歩進めて、なぜ実在に二大系統が生まれたのか、いったい実在の本質とは何かまで問いつめると、「果報としての仏の悟りの内容は言葉をもって説示することができない」すなわち「果分不可説」という宗教哲学の熟語になり、曰く「口ではいえない」、(不可称)、日く「まったく奇妙だ」(不可思議)、日く「真理の不可思議の本質は言葉や思慮を離れ、有であるとも無であるともいえぬ。  言葉による表現を超えたところに、かえって深い意味があるのじゃ」 (廃詮談旨(はいせんだんし))「それは言葉で推しはかれる領域を超えている」(言忘慮絶(げんぼうりょぜつ)) で逃げてしまう。ただ真言密教は「真言をもって果分の極致(結果としての仏の境地)をも説くことができる」(果分可説)と説破し、「梵字の阿の字は宇宙万有を一字のうちに収めている姿であり、阿字は本来あるもので、他のものによって新たに生ずるものではない」(阿字本不生(あじほんぶしょう))という根本説を提供する。
■ムスビの意義

 高皇産霊神、神皇産霊神の神名にあるように、この宇宙には産霊(むすび)という不思議な働きがある。このことを言霊から説明しよう。産霊の産は産む、蒸すの意であり、霊は霊であり、日であり、命だ、産霊とは単なる連結ではなく、酸素と水素の結びで水が産まれ、陽極と陰極の結びで電気が産まれ、男と女の結びで子供が産まれるように、陰陽二元の働きから霊を有無、すなわち命を蒸し出すことである。言霊学では、霊はチまたはヒと読み、体はカラ、カラタマ。霊 (チ)素と体(カラ)素が結んで霊体(チカラ)、すなわち力が産まれる。霊素と体素が結び合うことによって精気が発生し、この精気より電子が産まれ、電子が発達して宇宙間に電気が発生し、動、静、解、凝、引、弛、合、分の八カが完成する。こうして霊力体の三元の活動により大宇宙、小宇宙が形成され、万物が造られる。したがって宇宙間のありとあらゆるものは、真の神の霊力体で造られたといえる。万物は海中に浮かぶ海綿のようなもの、海水をたっぷりふくんだ海綿の外にも洋々たる海があるように、真の神の霊力体で造られた万物の外にもまた、真の神の霊力体が活気と満ちている。産霊とはよろずのものの生れいずる  本つ御神の御魂の力よ
■幽の幽から顕の顕へ

無から有が生まれたと言えば、いぶかしがる読者も多かろう。「龍樹菩薩は空を説いた。空というのは、神また霊ということである。空相は実相を生む。霊より物質が生まれてくることを意味する。無より有を生ずるというのも同じ意味で、神がすべての根元であり、それより森羅万象を生ずるのである。霊が先であり、体が後である。家を立てようという思いは外的にみて空である。けれどもその思いの中には、ちゃんと立派な建造物ができ上がっているのである。それがやがて設計図となって具体化する。さらに木材の蒐集となり、組立となり、ついに実際の大厦高楼が現出する。空相が実相を生み、無より有が生じたのである。真如実相という意を聞くのか。真如は神、仏、絶対無限の力を言うのであるから、前と同じ意味である。実相は物質的意味である(『月鏡』「空相と実相」)。王仁三郎は、隠身から現身へ、無から有へと生成発展する過程を、「幽の幽」「幽の顕」「顕の幽」「顕の顕」の四段階に分けて説明する。宇宙は、目に見えざる世界の幽界(霊界)と現象の世界である顕界(現界)で成り立つ。幽界にはもっとも内奥の世界である幽の幽界と霊的あらわれの世界である幽の顕界がある。顕界もまた、顕の幽なる境域と顕の顕なる境域とがある。ここに君が存在する。ということは、それ以前に潜在的、無意識的に君の生まれるべき素因いわば霊子があったことになる。それが幽の幽の世界だ。そして現界で父と母が出会い愛を求める時、その想念の中で君は幽の顕になった。そして夫婦の愛の産霊によって母の胎内に「、」を発生、人類の進化の過程をほぼ十筒月で体験しつつ成育するが、まだこの現界には現われていない。これを顕の幽の段階といえるだろう。そして母の胎内に胞衣を投げ捨てて生まれてきた時が顕の顕界だ。だがいつか寿命が尽きた時、君は肉体を投げ捨てて、顕の幽界に戻ってゆく。君の家は顕の顕の存在だ。その家を実現するために土地を探し設計を考え、いろいろの準備をする。だがまだ建設されていないから、顕の幽の段階だ。家の建築を決意した時が幽の顕といえよう。だがはっきり意識せずとも、そこに至る前になんらかの素因があるはずだ。それを幽の幽という。宇宙もまた幽の幽から幽の顕と霊界をまず形成し、次第に顕の幽から顕の顕、現象の世界へと発展した。ともあれ、宇宙でのものごとのすべては幽の幽が根本の原動力になり、顕の顕に至って立ち現れてくるという発想の萌芽は、ニューサイエンスの宇宙観の中にも垣間見られるようになってきた。ロンドン大学のデビッド・ボームはアインシュタインと研究室を共にして以来の研究の成果を踏まえていう(カッコ内は著者註)。「物理学の完全な『現われた世界』(現界)は暗在系(霊界)に起源をもっと考えるべきであり、しかもこの暗在系は、それ自体が独立して存在する奥深い何ものか(幽界)の投影されたひとつの『光景』というべきものである。暗在系から奥深い何ものかに至る『現われた世界』のバックグラウンド(基盤)は、明らかに高度に幻妙にして触知しがたい何ものかによって成り立っている。物質世界はそのような基盤から由来するに過ぎないということである。したがって我々は、幻妙なるもの(幽界)は具象物の抽象化なりとする通説をくつがえし、あえてこういわんと欲するものである。すなわち、具象物(現実世界)こそ幻妙なるもの(幽界)の抽象形なりと・・・」第一次暗在系(顕の幽)はさらに奥深い第二次暗在系(幽の顕)から湧出し、以下同様にさらにさか上っていけば、究極にはおそらくいかなる境界をも想像できない、さらにさらに深い基盤(幽の幽)へと到達するであろう。
■天之御中主神の神業

『古事記』上巻は表面的字句の解釈にとどまり勝ちで、ともすれば荒唐無稽な神話としか扱われない。だが王仁三郎は言霊学の活用により、天之御中主神の経倫としての意義を認めている。天之御中主神の神業は大別して四段階となる。

第一段「幽の幽」天地初発の根本造化の経論で、伊邪那岐、伊邪那美以前。

第二段「幽の顕」理想世界たる天の神界の経論で、主として伊邪那岐、伊邪那美二神の活動によって三貴神が顕現し、ひとまず大成する。

第三段「顕の幽」地の神界の経論で、天孫降臨から神武天皇以前のこと。第四段「顕の顕」現実世界での経倫

王仁三郎は「便宜上四段階に分けて説明するが、これは単なる時代の区分ではなく、むしろ方面の区別だ」という。第一段階から順次経論は進んだが、しかし一段階の経綸が完成して次の段階へと移ったのではなく、四段階同時の活動であり、経論だ。そして現在に至るもいずれも未完成で不整理、不整頓であり、また各段階の連絡も不充分でありこの経論は永遠に続く。
■天の数歌

天界には、天の数歌が不断に鳴り響く。一二三四五六七八九十百千万(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)天の数歌はたんなる数の順序ではない。幽の幽である大元霊が百千万の運化をへて生成化育し、顕の顕としての宇宙を創造される順序をうたい上げ、その力徳をたたえる言霊である。

ひと(一霊四魂) 大宇宙の根源に大元霊がましまし、一霊のもとに勇親愛智の四魂を統べていられることを表わす。

ふた(八力) 真神のいとなみである陰陽二元の組みあわせによって八力が生じる。

み(三元) 八力の複雑微妙な結合により、剛、柔、流の三元ができ、ここで霊(一霊四魂)、カ(八力)、体(三元)の三大要素が揃ったことを表わす。以上については、「大本三大学則」の章で詳述する。

よ(世) ついに泥海のような世界ができる。

いつ(出) 日月星辰や大地が現われる。

むゆ(燃) 草木をはじめ諸生物が萌えいでる。

なな(地成) 人類が生まれ、地上の世界が成就する。

や(弥) その世界がますます発展する。

ここの(凝)  充実安定を表わす。

たり(足) 完成の域に達する。

もも(諸) さらにもろもろのものが生まれる。

ち(血) 大造化の血が宇宙をくまなく巡り、生命力が満ちる。

よろず(夜出) 生成発展の光明世界が永遠に聞けていく。この天の数歌の言霊によって、大太陽は百雷の一時にとどろく大音響を発し、左遷しはじめた。紫の光は四辺を包み、光輝燦然とし、光と熱は千万里を照らして炎熱熾烈である。時にア声の神霊が西南の空にはたらいて高地秀の峰に現われ、言霊を発声する。それは凝ってついに大太陰と顕現し、右遷を始める。たちまち水の霊能が現われて、霧となり、雲となり、雨となってうるおし、宇宙は清涼の気が満ち、火水和合して炎熱を鎮めた。これが王仁三郎の見た「幽の顕」宇宙霊界の剖判である。ここに至るまでに数十億年の年月がかかったという。大太陽界に鎮まる神霊を厳の御霊天道立神、大太陰界に鎮まり守護される神を瑞の御霊大元顕津男(おおもとあきつお)神とたたえる。

霊交活力体因出燃地成弥凝足諸血夜出(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)と 称(と)なえよ天地

『霊界物語』四巻五〇章「神示の宇宙」・六巻一章「宇宙大元」・六三巻四章「山上訓」、『天祥地瑞』子の巻一章「天之峯火夫の神」・図二章「高天原」・同三章「天之高火男の神」・同四章「◎の神声」、『大本略儀』「時間と空間」・同「顕幽の神称」、『太古の神の因縁』、『国教樹立論』、『祝同略解』、『神言』
 第四章 相応の理

霊界は宇宙の実体界

■霊界は宇宙の実体界で、現界は霊界の移写、つまり映像の世界である。ヒンズー教では、この宇宙の創造はブラフマンの遊戯だといい、この世は神によって作りだされたマーヤ(幻影)だという考え方がある。仮の世というのも仏教の影響であろうが、日本人の多くに普遍化した思い方だ。一方、唯物論者は霊界とか天国は人聞の想像力の産物、幻想だという。つまり霊界は、現実の世界を頭の中で移写したものだと逆向きにとらえる。霊界を見てきた人がいるといえば、「そりゃ幻覚だ」で片づける。王仁三郎によれば幽界と顕界との間は、相応の理によってつながる。つまり現界にあったことは霊界にあり、霊界にあったことは現界にそれに相似のものがあるという。「現界すなわち自然界の万物と、霊界の万物との間には、惟神の順序によって、相応なるものがある。また人聞の万事と天界の事物との聞には動かすべからざる理法があり、またその連結によって相応なるものがある」(『霊界物語』四八巻一O章「天国の富」)自然界とは、王仁三郎の定義によれば、「太陽の下にあって、これより熱と光を得る一切の事物」(『霊界物語』四七巻二一章「跋文」)だ。この自然界は、総体の上からも分体の上からも、ことごとく霊界と相応している。だから自然界の一切の事物の有力因(原動力)は霊界にある。神は瞬時も休むことなく活動しているが、それは目的があるからだ。目的のことを、王仁三郎は用と表現する。用の字義は「はたらき」で、働きには必ず目的がある。その用の結果が形体として実現する。たとえば日常のこまごまとした用のつみ重ねが、家庭を形づくり、生命をはぐくむ。虫は虫、烏や獣はそれなりのやり方で、用を実現する。この世に存在する限り、一つとして不要のものはないという。神が宇宙を創造したとき、まず幽の顕なる霊界を創り、その用を発揮して、顕の幽、顕の顕なる現界を創った。霊界と現界の間には「相応の理」なる法則が確立し、霊界事物と自然界事物との相応は、神の用によってつながる。ということは、霊界がなくなったら、自然界における一切の事物もまた存在し得ないのだ。
相応の理に造られし世の中は 現界霊界同一なりけり現界にありしことごと霊界に 相応すると思へば恐ろし
■コンピュータは擬似霊界?

神が霊界を創り相応の理によって現界に移写したように、人聞は擬似霊界であるコンピュータを作る。人間の用によって作り出す機械の中では、人聞の頭脳で考えたもの(擬似霊界) の移写がコンピュータだと考えられないだろうか。人聞の頭脳の移写であるコンピュータの場合、ハードウェアと呼ばれる電子回路などで組まれた機械の部分(人間でいえば身体―|脳)と、ソフトウェアと呼ばれるプログラムなどの情報の部分(人間で言えば精神とか意志想念)からできている。さらに外に手足をつけいれぱロボットになる。情報の部分は容易に変化させることが可能だ。情報はその情報内部の構造が分からないかぎり、電子顕微鏡で見ても意味不明であり、電子回路の電流の状態、磁気の状態、電波で送れば電波の状態、音で送れば音波の状態、人間に読める文字、記号とかさまざまな物質的形態をとり得る。コンピュータで作りだされる映像(コンピュータ・グラフィックス)は、コンピュータ内部では数式と数値などを組み合わせたプログラムの形をとっている。つまりプログラムの移写が映像だ。現在、機械、建築物の設計あるいは気象などの自然現象の解明は、コンピュータの内部に本物を移写したモデルを作り出すこと(コンピュタ・シミュレーション)によって行なわれつつある。この現実を移写したコンピュータの世界では、時間や空間を自由に伸縮させ操作することが可能だ(必要なら複数の時間軸をとることもできる)。さらに、コンピュータと外界とをつなげれば(インタ―フェース)、霊界の移写が現界であるように、コンピュータ内の世界を外界に移写することも可能である。
相応の理「相応の理とは何かを知るものは、宗教団体を通じて一人もないといってもいいくらいである。そのことを知らなくては、霊界について明白な知識を持つことはできない。霊界の事物に無智な人聞はまた、霊界から自然界にくる内流について知ることはできないし、また霊的事物と自然的事物に対する関係すら、知ることができない。また人聞の霊魂がその身体に及ぼすところの活動や、死後における人間の情態に関して、少しも明白な思想を持つことはできない」(『霊界物語』四七巻二一章「跋文」)その相応の一つが、移写である。
■現界は霊界の移写

飛行機のパイロットを養成するシュミュレータ、模擬訓練装置は飛行機の操縦室とそっくりに作ってあり、離着陸などの訓練をするために前方の窓には空港が映り、振動なども本当の飛行機と同じようにしである。ある意味で、そのシュミュレータは現実の移写である。この場合は人間が本物を知っているから模造だとすぐ気づくが、われわれは霊界を知らないから、現界は霊界を模造したものだとは気がつかないだけであろう。現界は霊界の移写であり、縮図だ。霊界の真象をうつしたのが現界で、だから現界のことを称してウツシ世という。たとえば三七七六メートルの富士山を数センチ四方の写真に写したとする。その場合、現実の富士山は霊界で、その写真が現界。写真の富士山はきわめて小さいものでも、現実の富士山は駿、甲、武にまたがる大高山だ。だから霊界は、人間の夢想もできぬ広大なものである。わずか一間四方ぐらいの神社の内陣でも、霊界では、ほとんど現界人の見る十里四方はあるという。現実界の事物はすべて霊界の移写である。家庭に祭ってある祭壇はほんにちっぽけなものであり、われわれはそこに代々の祖先霊をおしこんでいるが、八百万の神々や祖先の霊は、ちっとも狭いとは思わぬ。霊界は情動想念の世界だから、自由自在に想念の延長ができるからだ。一メートル四方ぐらいの祠を建てておいて、祝詞で「下津岩根に宮柱太敷立て、高天原に千木多加知りて・・・」とか、わずかのお供え物で「海河山野種々の美味物を八足の机代に横山の如く置足はして・・・」というのもその意味では決して誇張ではない。霊界では想念の延長によって、きわめて立派な祠が建てられ、また八百万の神々が食べても不足しないほどの供え物になっているという。霊界はそうであっても、現界的に見れば、なんだか神さまに嘘をついているような気持がするかもしれない。「神さまは正直と誠実の行いをお喜びになるのに、組末なものを供えて御馳走をさし上げたようにいうのは間違いじゃないか」という反論は当然あろう。だが王仁三郎は「この天地は言霊の幸はう国なので、たとえ粗末な物でもよく宣り直すのが大切だ」という。良い物を悪いといい、うまい物をまずいというのも、言霊の法則を破壊することになる。『筆先』に「勇めば勇むことがでてくるぞよ。悔めば悔むことがでてくるぞよ」とあるように、人は言霊を清くすることが大事だ。人に物を上げるのに、「お組末な物ですが」とか、食物をすすめて「お口に合いますまいが・・・」とかいうのもおかしぃ。組末な物を贈るのはそれこそ失礼なことだし、まずい物ならすすめるなといいたい。「お役に立つと嬉しいのですが・・・」とか「どうぞ、おいしいと思いますよ」と素直にいうのが、本当ではないだろうか。
■人は肉体と精霊でなり立つ

人聞は肉体と精霊で成り立つ。現界に物質的な姿や形があるように、相応の理により、霊界にも霊的な姿や形がある。故に人間の精霊にも霊的な容貌、姿態があり、それを霊身という。あらゆるものに内面と外面があるように、人聞の精霊の想念にも内面と外面があり、それを内分と外分という。内分は霊魂そのものの志すところ、霊魂そのものの想うところで、いわば真実の心、偽りのない本心のことである。外分は現界の事物に影響を受けた肉体的感覚、記憶、知識、その知識をもとにした言語、動作などのことで、表面の心、本心をおおい隠す心といってよい。肉体が肉体的五官をもっているように、霊身は霊的五官をもっている。この霊的感覚は、死後に機能するだけではなく、もちろん生きている間も機能する。それならば、我々はどうして霊界のことが感じられないのか、王仁三郎は「肉体的五官にさまたげられ、その機能がにぶっているからだ」とい、いう。だが中には霊的感覚の鋭い人がいる。霊眼で霊界の事物を見たり、霊耳で霊界の音や声を聞くく人もある。超心理学でいう超常機能は、この霊的感覚のことだ。人間の精霊には、霊的な内分と現界的な外分の二面が備わっている。だから人間は、霊的存在である天人の持つすべてを有すると共に、肉体を持たぬ天人にないすべてを持つ。人間はその内分から見て生きながら霊界にいるが、その外分から見れば現界にいる。だから人間は、霊界と現界を和合させる媒介者である。ところが一口に霊界といっても、高天原もあれば八街(やちまた)もあり、根底の国もある。高天原からは清く明るい愛善と信真の天国的な内流がそそがれており、根底の国からは陰湿で暗い悪欲と虚偽の地獄的な想念が押し寄せてくる。問題は、人聞がそのどちらと相応するかということだ。高天原に相応するのも、根底の国に相応するのも、各自の自由意志である。生きながらその籍を高天原に持つときは、それを神界の相応者という。はためにはすごく恵まれている人でも、心の底では地獄の苦しみにのたうつ場合もあれば、気の毒な境遇のように見えても、つき合えば何ともあたたかく、天国的気分にさせられる人もある。実はそれぞれの霊界と相応しているものとは気づかない。霊界と現界の間に「相応の理」というのがあるのなら、もう少しわれわれと霊界の間にパイプがつながっていてもよさそうなものだ。それについて王仁三郎は、太古には「相応の理」によって智恵と証覚を得、天人の知識を吸収する天的人間が多かったと語っている
精霊は 人の本体肉体は 人のしばしの仮の宿なる精霊は人の本体肉体は その精霊のころもなりけり
■黄金時代から泥土時代へ

王仁三郎は、人間は太古から今日まで五つの段階をへて堕落してきたという。

黄金時代 地上における最太古の人間は天的人間で、相応そのものによって思索し、眼前に横たわる自然的事物は、思索をするための方便に過ぎなかった。霊界の住民である天人とたがいにまじわり、語り合い、それだけで霊界と現界の和合は成就した。黄金は相応によって天国の善をあらわす最太古の人間のいた境遇である。

白銀時代 まだ天人は地上の人間とともにおり、友達のように人間とまじわっていた。だが人間は、相応そのものより思索せず、相応の知識より思索するようになる。だからまだ天人との和合はあったが、以前のように親密ではない。白銀は霊国の善をあらわし、中古の人のいた境遇である。

赤銅時代 この時代の人間は相応の理を知らないわけではなかった。その思索は相応の知識によらなかった。だから彼らが考える善徳は現界的なもので、白銀時代の人のように霊的であることはできなかった。赤銅は自然界の善をあらわし、古の人のいた境遇である。

黒鉄時代 この時代以後の人間は次第次第に外的になり、肉体的になり、相応の知識はかえりみられず、まして霊界の知識はことごとく減ぴてしまった。黒鉄は冷酷な真をあらわし、善はもうなかった。だが冷酷ではあっても、まだ真は残っていた。

泥土時代 黒鉄時代からさらに堕落したのが現代だ。善も真もその影を没し、まさに暗黒無明の世界である。時代が進むにつれて人間は現界的には進化したが、相応の理とますます背を向けたという意味で、霊界的には退歩した。こうなったのにはいろいろな原因があるだろうが、王仁三郎は「その主なものは〈我〉と世間とに執着して、みずから霊界、ことに天界より遠ざかったことになる。」という。ほとんどの人間が、肉体的感覚を喜ばせ、自分の欲望を遂げることばかりに関心をもっ。そして精神的なものにはいっさい目を向けない。
■大本は世界のかがみ

霊界と現界が相応するように、世界と日本、日本と大本の間も相応があるという。それが雛型思想である。筆先はしばしば「大本は世界のかがみ」であると示す。「かがみ」という言葉には、二通りの意味がある。物の像を写すパッシブな鏡・かがみと手本、模範、雛型を出すというアクティブな鑑である。世界や日本で起こったさまざまな出来事が大本に写るというのlはパッシブな鏡である。また大本の中に雛型を造り、それを日本へ、世界へ波及させるというのは、アクティブな鑑だ。これらの実例については、『第三次大本事件の真相』(自由国民社刊) でふれておいたので、参照されたい。
■内流について

人間一人一人が一つの小宇宙だという。人間の中に自然界もあれば、霊界もある。心性に属して知と意に関する内分は霊界を作り、肉体に属して感覚と動作に関する外分は自然界を作る。これらの外分は、主神から発せられる神的内流の終局点だ。内流とは、霊界からの意志想念が人の霊魂の内部へ流入することだ。そこで、銃口から発射された弾丸が必ずどこかへ行きつくように、主神の神格から発せられた内流は高天原を通過し、かならず究極のところまで進行する。その究極点が、人間の外分である。そしてこの連結の中に入らないものは、何者も存在することができない。人間が滅亡すると、神格の内流の究極点がなくなるわけだから、神もまた存在しなくなる。故に王仁三郎は「天界を離れた人間は鍵なき鎖のごとく、また人類を離れたる天界は基礎なき家のごとくして、双方和合しなければならない」(『霊界物語』四八巻第一O章「天国の富」)と述べる。また霊界と現界との間だけではなく、霊魂と現界との間にも、相応の理がある。たとえば、大小、強弱、明暗、遠近、深浅、厚薄などというのは本来は物理的な状態をあらわす言葉だが、使い方によれば「大人物、小人物」、「強い意志、弱い意志」、「明るい想念、暗い想念」、「遠い思い出、近い思い出」、「深い思慮、浅い思慮」、「厚い人情、薄い人情」などというように、精神的な意味合いを持つ。つまり精神的世界でも、物理的世界と相応した事柄が存在するのだ。精神的世界と物理的世界の関係だが、例えば、肉体の中に原因が認められない病気を心因性という。心の世界にしかその原因が見出せないのに発熱するとか、頭痛、じんま疹などいろいろな肉体上の症状が起こるのは何故なのか、その原因はまだわかっていない。仮に「病は気から」というが、この心因といわれる心が問題であって、意識なり無意識の意志想念が働きかけて、この肉体に作用する。たとえば、梅干しの話をしたら口が酢っぱくなる。気持の明るいときには体も健康だし、暗いときには食欲もなくなり、あっちこっち病気が出てくる。反対に健康を害していれば、気持が暗くなる。相応の理によって、互いに影響し合っている。医者は体的なことばかり扱って患者の気持ちなど考えないし、宗教者は体的なことを軽視する。相応の理があると知れば、もう少し科学も宗教も違った方向に行くのではないだろうか。身体と意識の関係は、パブロフの犬で有名な条件反射とか、ストレス学説とか、最近話題になっているバイオ・フィードバックなどである程度、科学的に解明されてきた。人間の神経には意志では動かせないときれる自律神経(交感神経と副交感神経)と意志で動かせる体性神経があり、心因性の病気は自律神経失調症とか呼ばれている。問題は、病気の場合、他の原因と区別がつかず人間の意のままにならないことだ。医者の中にも、催眠療法を使ったり、自己催眠や禅や瞑想をすすめる人が出てきてはいる。瞑想などやっていると、自律神経もある程度、意識的に変化させることができるようになり、同時に霊感も鋭くなってくるようだ。『霊界物語』ニ一巻「総説」・四七巻三章「跋文」・八章「中有」 ・四八巻一O章「天国の富」

 第五章 大本教旨
■王仁三郎の神観

真の神はもとより日本専有の神ではない。世界各国で、いろいろな名がつけられている。またこの神に対する概念も、浅深、大小さまざまだ。主神、独一真神、造物主などは、真の神の属性からつけられた名前である。神道では天之御中主神と称え、キリスト教ではゴッド(天の父)、イスラム教ではアラー、ギリシャ神話ではゼウスの神という。中国では天、天主、天帝などといい、易では太極だ。仏教でこの概念に比較的近いのは、阿弥陀如来であろう。阿弥陀如来は西方にある極楽世界を主宰する仏陀の名で、信者は死後、その世界に生まれ変るとされている。大本では大国常立尊であり、筆先は天の御先祖さまと親しく呼びかけ、救世主神としてみろくの大神ともたたえる。また霊界物語では、素盞嗚大神がそれにあてられている。「ルシャナ仏 阿弥陀如来も伊都能売も御名こそかわれ一つ神なり」と王仁三郎は歌うが、真の神を信仰の対象にする宗教である限りただ呼称が違うだけで、実は同じ神に祈っている。だから宗教によって「わが神尊し」と争うことほど、ナンセンスなことはない。同じ神を祈っているのに、なぜこうもいろいろな宗教に分かれるのかといえば、基本的には神をどう観るかという神観の相違に帰する世界的宗教を大別すれば、一神教、多神教、汎神教になる。一神教は一神観にもとづく宗教である。一神観では、神はただ一柱あるのみ。その神は唯一絶対の存在であり、万物を創造し、時間を超えて永遠に生きる。すべての存在は神によって支配きれ、生かされ、神の経論の中にくみこまれる。神は被造物である人間と本質において相違する超絶的存在だが、同時に人間の心を理解し、人間に働きかける人格的存在でもある。イスラム教、キリスト教は典型的な一神教だ。多神教は多神観にもとづき、複数の神を認める。それらの神は太陽神、大地の神、海原の神、風の神などの自然神であったり、医薬・治療の神、農耕の神、真理・秩序・正義の神、生殖の神、技術の神、思慮の神というように、抽象的なカや観念を司る神であったりする。エジプト、ギリシャ、ローマの宗教やヒンズー教、日本の神道などは多神教であり、神社には多くの神々が合せ祭られている。汎神教は汎神論にもとづき、すべての存在(宇宙、世界、自然)が神であり、神はこれらすべてと同一という宗教観、哲学観だ。インドのウパニシャツドの思想、仏教哲理、ギリシャ思想、また近代ではスピノザ、ゲーテ、シェリングなどの思想は汎神論に属する。仏教の「仏性」思想はかなり汎神論的であり、特に大乗仏教にそれがいちじるしい。真の神は「天地万有の創造主」であり、「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」であると称える王仁三郎の神観は、まぎれもなく一神観だ。複数の神も認めており、そういう意味では多神観に立つ。そして「宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり」というからには、汎神論である。王仁三郎は述べる。「宇宙根本の力を体現するものは、すでに述ぶるが如く、宇宙を機関として無限、絶対、無始、無終の活動を続けたまうところの全一大祖神天之御中主神、一名大国常立尊である。この意義において、宇宙は一神である。が、宇宙の内部に発揮さるる力はおのおの分担が異り、方面が異り、性質が異り、軽重大小が異り、千種万様その究極を知らない。そしてこれらの千種万様の力は、おのおの相当の体現者をもって代表されている。この意義においては宇宙は多神にいわゆる八百万の神の御活動である。由来、一神教と多神教とは、あい背馳して並立することができぬものの如くみなされ、今日においてもまだ迷夢のさめざる頑迷者流が多いが、実は一神論も多神論もともにそれだけでは半面の真理しかとらえていない。一神にして同時に多神、多神にして同時に一神、これを捲けば一神に集まり、これを放てば万神わかるのである。この意義において天地、日月、万有、一切ことごとく神であり(汎神)、神の機関である。小天之御中主神である」(『大本略義』「天地剖判」)宇宙を一大人格ととらえてみよう。宇宙は一つ、その本体は宇宙の活動力の本源である真の神一柱、一神観である。しかし太陽も月も地球も星も、その他いっさいが宇宙の懐にあって活動しているように、真の神の力徳の大小の変化にいちいち神名をつけた時、それが八百万の神々となる。また真の神から生まれたいろいろのエンゼルや古代の英雄を神と呼ぶ場合もある。つまり多神観だ。巻けば一神、開けば多神で一神即多神、多神即一神である。宇宙間のすべてが真の神の霊力体で作り出され、分霊、分力、分体を受けている。これは汎神論である。ただ王仁三郎の汎神論で注意すべきは、「石ころ即仏」、「木の葉即仏」ではく、石ころも木の葉も真の神の一部分だということである。別の角度から説明しよう。ここに一冊の本がある。つらぬかれているテーマは一つだ(一神観)。だが開けば何百ページに分かれ、それぞれに意味がある。(多神観)そしてどのページも本の一部分だ(汎神論)。ただし本そのものではない。
地の上に 数多の国はありながら 信ずる神は一つなりけり一はしら 神のいさおを八百万 わかちてとける大本の道八百万 神はいませど伊都能売(いづのめ)の  神の分かちし霊魂なりけり西東 南も北も天地も わが身も神のふところにあり
■人体のたとえ

人体でたとえれば、人体は一個体である(一神観)。その人体は頭、胴、子、足、さらには骨、筋、、皮膚、内臓などに分れ、それぞれ独自の働きを持つ(多神観)。そしていかなる部分もすべて細胞から成り立ち、その一つ一つの細胞は生きて活動している(汎神観)。ここに太郎がいる。何か真剣になそうとする時、彼のカは一点、思いは一念に集中される。まさに太郎は一つだ(一神観)。だが太郎にしても、心が千々に乱れることがある。また太郎の行動に名がつけられる。体全体で行動する時、立つとか、坐るとか、走るとか、止まるとか。また体の一部たとえば指先の動きにつねるとかなでるとか、くすぐるとか(多神観)。そして指もまた太郎の一部分である(汎神論)。ただし太郎そのものではない。このように王仁三郎の多神観も汎神論も、真の神の本質を説明する便宜のためであり、本質的にはあくまで一神観である。「反可通学者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だといっているが、かかる連中はわが国の神典を了解せないからの誤りである。独一真神にして天之御中主神と称え奉り、その他の神名はいずれも天使や古代の英雄に神名を附せられたまでであることを知らないからである。真神は宇宙一切の全体であり、八百万の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にわが神道は一神教であるのだ」(『筆のしずく』五)
■大本教旨

それ以外に王仁三郎は独特の汎神論を持つ。それを大本教旨といい、いわば大本の教えの根幹をなす。「神は万物普遍の霊にして、人は天地経論の主体なり。神人合一してここに無限の権力を発揮す」

第一段は神について。万物に普遍している霊が神だというのだから「巻けば一神、開けば多神」という王仁三郎の神観に立つ時、万物に普遍した霊は、総根源たる真の神から分け与えられたものだということを、理解しておく必要がある。

第二段は人について。天は地上に対する宇宙、現界に対する霊界を意味するから、天地とは霊界現界を合わせた全宇宙である。経論とは、「唯天下至誠、為能経論天下之大経、立天下之大本、知天地之化育」(『中庸』)、「上下心を一つにして、きかんに経論を行なうべし」 (「五箇条の御ご誓文」一八六八(慶応四)年とあるように、天下国家をととのえ治めるための雄大な構想の意味がある。つまり人は字宙全体を立派にととのえ治めるために構想し実践すべき主体であり、これほど人間としての存在を高く評価した哲学は他にあるまい。

第三段は神と人との関係について。大本教旨にある「神人合一して」は、「霊体一致して」と表現される場合もあるが、この方がより広い意味を持つ。神は霊であり、人はその霊を容れる体だ。いくら霊で自の前のグラスを取ろうと念じても、体が協力せねば取ることができぬ。だが霊の働きが停止すれば、ただこんこんと眠る植物人間になるよりあるまい。霊と体と合して初めて力が出るように、神と人とが一体になってこそ、初めて無限の力を発揮できるのだ。
真神は 万物普遍の霊にして 人は天地の経論者なる

大神の みたまをうけし人の身は 天地経論の主宰者なりけり

主の神は 万物普遍の霊なれば 人を造りて世を間きましぬ
■人は神の代行者

もし神と人とが完全に合一したとすれば、自分からも、社会からも、その外側の地球からも解放され、思わず言霊となってほとばしろう。

天にかがやく月日の玉を/取ってみようと野心をおこし/天教地教の二つの山を/足の台にして背伸びをしたら/雲が邪魔して一寸にや見えぬ/見えぬはずだよ盲目の企み/そこでちょっくり息してみたら/雲が分かれて銀河となった/左手に太陽わしづかみ/右手に月をばひんにぎり/顔にあてたら目ができた/顔にあてたら目ができたさらに王仁三郎は歌う。

日地月丸めてつくる串団子 星の胡麻かけくらう王仁口

日地月星の団子も食いあきて いまや宇宙の天海を呑む
「神が全智全能ならば、なぜかかる不公平なる世界をいつまでも放置しておかれるのか。賛沢三昧に暮らしている国があるかと思えば、一方では飢えに苦しむ国がある。この世界には差別がいっぱいだ。これでは人類の苦しみを眺めて喜んでいるとしか思えない」 という疑問に出合うことがある。

神は「隠身」、つまり肉体を持たぬ存在だ。そこで神は全智全能なるが故に、人を地上に下して、自分の代行者として天地経輸の働きをになわせた。いわば人は地上における神である。この現界においては、人が主体なのだ。神と人とがあいまって初めて、神の全智全能の威力を発揮できる。神は山河草木を造り出したが、人間の力が加わらねば、山河草木は依然として太古のままであろう。神はこの宇宙を生成化育、無限に発展させようという大欲望がある。そしてこの地上にすばらしい楽園、みろくの世を造ろうと望んでも天地経総の主体としての大使命をになう人が協力せねば不可能なのだ。ただ祈っていれば理想的世界が到来すると考えているような宗教があるが、それは神と人との関係を理解しないからにほかならない。真の宗教者ならば、世界の軍備全廃のために率先して行動することを、王仁三郎は教えている。みろくの世が実現するもしないも、すべて人の責任にある。この世がいつまでもよくならないのは、人が神の意志を無視して勝手なことをやっていることの証明でもある。

ではみろくの世を実現するのは、神か人か。こんな笑い話がある。「大坂城は誰が造ったかね」「もちろん豊臣秀吉だ」「違うな。大工や左官が造ったのだ」

確かに大坂城は大工や左官が造った。秀吉がいかに権力があろうと、大工や左官がいなければ、大坂城はできなかった。しかし大工や左官が何万人いようと、あの時、秀吉が築城を決意せねば、大坂城はできなかった。働き手は大工や左官だが、しかし誰が造ったかといえば、やはり豊臣秀吉が造ったというべきであろう。

そのように、みろくの世の建設のための働き手は人だが、絶対的な権限はやはり神にある。

革命は人の知恵の限界内で、人の力で理想世界を築こうとするものだが、それが実現してはたして人類が幸福になれるかどうかの保証はない。あるいはジョージ・オーエルの『一九八四年』のような、人間ががんじがらめに管理されるような状況にならぬとも限らない。だが王仁三郎のいう世界改造は、神人合一、神と人との協同作業で理想世界を築こうとする。それが立替え立直しである。
ちはやふる神の霊魂をわかたれし 人は神の子神の宮かも

いと小さき人間なれど魂は 全大宇宙に感応するなり

世の中の一切万事の出来事は 神のよさしの経倫としらずや

手も足も動かさずしてみろくの世 はやこよかしと祈る曲神

延び縮み心の船のままぞかし 神の経倫は人にありせば

体も霊魂も神のものなれば 仰ぎうやまえ我とわが身を

『霊界物語』六巻一章「宇宙大元」・九巻「総説歌」 ・四七巻「総説」・五六巻一O章「十字」・六三巻四章「山上訓」・六七巻六章「浮島の怪猫」・七二巻一八章「法城渡」、『大本略義』「天地剖判」、『筆のしずく』五、『道のしおり』第一巻、「水鏡』「神の経論」 

第六章 大本三大学則

■神とは坊主の頭のようなもの

王仁三郎のいうように、真の神が宇宙の大元霊だとなると、あまりにも大き過ぎて見当もつかぬ。象の足の上をはっている蟻が、どんなに背延びしでも象の全体像を見られないのと同様だ。『西遊記』にこんな話がある。孫悟空という猿、肋斗雲(きんとうん)の術を会得、伸縮自在の如意金箍(にょいきんこ)棒をあやつり、天界を大混乱におとしいれる。慢心した孫悟空は、お釈迦さんに高言した。「わしは天のはてまでいってきます」肋斗雲に飛び乗って息の続く限りつっぱしる。天のはてと思われるところに、大小不揃いの五本の柱が立っていた。孫悟空はその柱に「斉天大聖(孫悟空の別名)此に遊ぶ」と大書し意気揚々と帰って、お釈迦さんに報告する。「天のはてまで行った証拠に、柱に文字を書いてきました」 お釈迦さんはお笑いになり、「お前が書いた文字はこれか」とてのひらをお見せになると、五本の指に孫悟空の書いた丈字が残っていた。人間、いかに万物の霊長だといばってみても、しょせんお釈迦さんのてのひらの上で踊っている猿のようなものか。王仁三郎は「神とは坊主の頭のようなものだ」としゃれる。坊主の頭には髪の毛がない。その心は「神(髪)は言う(結う)に言われず、説く(杭く)に説かれず」ということ。あるいはこうもいう。「書は言をつくす能はず、言は意をつくす能はず、意は真をつくす能はずということがある。意につくす能はざるところに神の権威があり、また真理がある。神は説明することができぬ。あたかもボタ餅がうまいといっても、どんなにうまいということは、味わわぬ人に説明することができないようなものである」(『玉鏡』「神さまと味わい」)
また「神徳を完全に伝えようとすれば、太平洋の水をインキにしても書き尽くすことはできぬ」、さらに「頭だけで神を理解しようとすれば、その者はきちがいになるより仕方あるまい」ともいい、「耳でみて目で聞き鼻でもの食うて口でかがねば神は分らず」と教える。
霊を見ずば 信仰せぬというような わからずやには相手になるな

悪神は 神を見せよとなじるなり よい罰当り亡びはちかし

天地の 霊力体の活動を 考えて見よ世の阿呆ども

目に見えぬ こそ神々は尊けれ 曇れるものは人の目につく
■大本三大学則では

人間の分際では、どんなに努力しても神は永遠に分からないのか。若い頃の王仁三郎もまた、神を求めて悩んだ。一八三七年八月下句、王仁三郎は産土の小幡神社に夜ひそかに参龍し、神教を請う。三七日(二一日間)の上りに、はっきりと神示を得た。
一 天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし

一 万有の運化の事差なきを視て、真神のカを思考すべし

一 活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すベし
王仁三郎がその意義を問うと、神は教えた。

「三条の学則は、これ神の黙示なり。汝よく天地に俯仰して観察すべし。宇宙は、この霊と力と体との三大元質をもって充たされるを知り得ん。この活教典をもって、真神の真神たる故由(ゆえ)を知ることを知り得ん。この活教典をもって、真神の真神たる故由を知ることを得ん。なんぞ人為に成れる書籍を学習するに及ばんや。ただ宇宙間にはこの不変不易たる真鑑実理あるのみ」

これが大本三大学則として、神を知るための基本理念になっている。くだいていえば、「神の実在、力徳、神性を悟るには、書籍や学間などに頼らず、直接天地自然を心ひそめて観察せよ。そうすれば、どんな人にでも分るのだ」との意だ。大本の 教の奥所をまつぶさに  説き示さんと選(えり)しこの学則
■驚くことのすばらしさ

国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』は、独歩の本音の人生観を語った作品である。牛肉は現実、馬鈴薯は理想を暗示しているらしい。主人公は岡本という作家で、舞台は東京の西洋風の建物。そこで何人かの紳士が人生について語りあっている。とりたてて筋書はない。そこで岡本が「僕には不思議なる願いがある。この願いさえかなえられれば、どんな犠牲を払ってもよい」という。席につらなったものは大いに興味をそそられあれかこれか憶測する中で、「びっくりしちゃァいけませんぞ」と念を押しながらついに岡本は明かす。「自分の願いは驚きたいということだ」あまりにも意外な返答に一座の反応はまちまちだが、岡本のいいたいことを要約しよう。「びっくりしたいというのが僕の願いなんですよ・・・即ち僕の願いとは夢魔を振い落したいんですよ・・・宇宙の不思議を知りたいという願いではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願いです・・・死の秘密を知りたいという願いではない、死ちょう事実に驚きたいという願いです」まったく、驚きを忘れているのが現代といえる。幼い頃、私は、落ちて行く夕陽を見て、西山の頂上に立てばあのお日さまにさわれると信じ、走り出したい衝動を感じた。誰だって、かつては、そういったみずみずしい心のときめきを持っていたはずだ。だが生存を続ける間に感動する心は急速に摩滅し、太陽が東から昇り西に沈む、あたり前だになってしまう。蚕が青い桑の葉を食って白い糸を出す、人間が白い米の飯を食って黄色い糞を出す、あたり前だで、誰も驚かない。私はこれまで、多くの大本信者に接してきた。彼らの多くは、神の偉大きを悟ったり、何かの強烈な体験を得たり、つまり大きな驚きが踏み台になって入信した。が、日々の信仰の中で初心をみがきつつ教えに生きる人は、案外に少ないのだ。その驚きが念頭から忘れ去られるにつれ、体験的知識だけがいたずらに蓄積、信仰の古さを誇るようになる。それを「信仰にカビがはえる」という。こういう人たちほど、度しがたいものはない。
■草木も人民も光り輝く

あれは小学校六年生ぐらいだったろうか、ある大本の先生から、王仁三郎の神観について初めて聞かされた。私は体の芯が燃えるようで、なぜだかすごく感動した。家への帰途、いつになく足が軽くうきうきしていた。気がつくと、いつも見なれているはずの景色が、まるで違ってみえる。緑は生まれたての透きとおった緑に、紅はいっそう紅に、空も草木もすべての色彩が冴え冴えと光り輝き、波のように踊っている。何かのかげんで私の目の鱗が落ち、やっと皆と同じ景色が見えようになったのかと思った。喜びの叫びを上げて、ステップを踏むようにして家に帰った。部屋に入っても落ちつけない。もう一度あのすばらしい色彩に踊る山野が見たくて外に出た。そして失望した。私の見たのは平凡なふだんの風景、どんなに目をこすっても、もうあの輝きは戻らない。では私はあの時、まぼろしを見たのか。そうは思わない。人の眼で見た月と、魚の魚眼やトンボの複眼で見た月は同じではない。人の肉眼で見た月だけが真実だと、誰が決める権利があるのか。それこそ、人の倣慢ではないのか。
出口直の筆先は、「こんど天地の岩戸が開けたら、草木も、人民も、山も海も光りかがやいて、まことにそこら中がきらきらいたして、たのもしい世のおだやかな世になるぞよ。これがまことの神代であるぞよ。・・・月も日ももっと光がつよくなりて、水晶のように、ものがすきとおりて見えだすから、悪の身魂のかくれる場所がなきようになるぞよ」と述べる。「天地の岩戸が開けたら」とは「理想世界が建設されたら」ということで、大本では「みろくの世」という言葉で表現する。ではほんとうにみろくの世になれば、草木や人民や山や海や太陽や月はもっと光り輝き出すのか。私はそうは思わない。実体は今も輝いているのに、人の目がその光を存分に受けとめ得ないだけなのかも知れない。あるいは実体は変わらぬのに、人の心がみろくの世にふさわしくなれば、その知覚を通して眺めた時、光り輝くように映るのかも知れない。借金取りに追われて逃げ回り、橋の下から心細く眺める星と、恋人同士が肩寄りそってうっとり眺める星とは、同じ星でも違って見えるはずだ。天才バカボンのパパが「大空の梅干しにパパが祈る時」と歌うように、せっかくの星も、パパにかかっては唾液を分泌させるだけの存在に過ぎない。その人の心のありようで、同じ対象ですら変わって見える。
■神の黙示の意味

総本体である大国常立尊はあまりにも洪大無辺で、その全体を察することは不可能だが、粟一粒にも米一粒にも真の神の霊力体が混然と融合し、粟は粟粒なり、米は米粒なりに独特の機能を発揮している。王仁三郎の妻澄はご粒の米の中にも三体の神いますこと夢な忘れそ」と歌うが、粟粒も米粒もいわば小国常立尊である。そして大国常立尊の縮図である小国常立尊は天地間に満ち満ちているのだ。神は姿をお持ちにならぬから、見ることはできぬ。だが感じることはできる。驚くことのできるみずみずしい心を持ち、活眼を開き、素直な心で天地間のあらゆるものに対すれば、悟りの種はいつどこにでもころがっている。天思郷にある三大学則碑の前文には、「神の黙示は即ちわが俯仰観察する宇宙の霊力体の三大をもってす」とあるが、めぐりうつる大自然こそ生きた教科書であって、神は早く悟れよと示されている。それが黙示ということであろう。『スーパー・ネイチャー|』、『生命潮流』などの世界的ベストセラーの書で知られるライアル・ワトソンは一九七八年夏に亀岡の大本本部で開かれた第三回大本日本伝統学苑に学苑生の一人として参加したが、その間三回にわたり学苑生に講話した。その中で、大本三大学則についてふれている。「皆さんご存じのように天思郷万祥殿の裏に二つの石碑があります。そのうちの奥まった所にある石碑には、大本三大学則が刻まれております。これはいうまでもなく大本教祖出口王仁三郎師が唱えられたものですが、私はこの学則を拝見し、その英訳文を読んで、たいへん感動しました。そこには、私がこれまで探究しつづけた万象の心理を究める方途が端的に表現されていたからです。この大本三大学則との遭遇は、自然科学者である私に今後の進路を明示してくれたといっても、決して過言ではありません。私のみならず、世界のすべての学者に物事を研究、観察する上での基本的な姿勢をうち出しているといってもよいでしょう。私がなぜ大本へ引き寄せられたのか、この学則に遭遇してはっきりと認識できたわけです。(『おほもと』昭和五四年三月号「自然科学と三大学則」)真撃に宇宙の神秘に目を見開こうとする科学者は、今後も三大学則に新たな発想の源泉を見出すであろう。「梧桐(ごどう)一葉落ちて天下の秋を伝う。春風一陣水を過りて万波揺るぐ。成因成果ことごとくみなものの教えとならぬはない。山野の樹草は風に吹かれて自然の舞踏を演じ、河水はひとり音楽を奏し、鳥歌い蝶舞い花笑う至美至楽の天地、一として神の御声ならざるはなく、神の御姿ならざるはない。空にかがやく日月も、星辰も、皆これ神の表現、天地は吾々の大師であり教典である。善悪美醜一として神の御姿ならざるはない」(『霊界物語』二五巻「総説」)教とは 人の覚りのおよばざる 天地の神の言葉なりけり

『霊界物語』二五巻「総説」、『大本略義』「霊力体」、『玉鏡』「神さまと味わい」、『道の大原』第二章 

第七章 真神の霊力体

■真神の体

一、天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし天地間のありとあらゆるものを深くみつめて真神のみ姿を思いめぐらせよというのだ。出口直は神にねだった。

「一度、神さまの本当のお姿を拝ませていただきとうございます」

神は答える。「その方の姿がこの方の姿であるぞよ」

そしてややあって、神は言葉を継ぐ。「本当の姿はのう、青雲笠で耳が隠れぬぞよ」これは含蓄のある問答だ。神がモーゼに「汝はわが面を見ることあたわず、われを見て生くる人あらざるなり」(『旧約聖書』「出エジプト記」 第三三章)といったが、神は姿を持たぬから、その姿を見せろというのが、そもそも無理な注文なのだ。

直が神の心と一体になった時は、直が神の姿であり、君が神の心と合すれば君の姿が神となる。青雲笠というのは青空を笠にたとえたもの、青空をすっぽり頭にかぶっても耳が隠れぬほど、本当の姿は大きいという。これはずいぶん大げさな表現かに見えるが、宇宙の本体が神であるなら、むしろまことにひかえ目だ。だが無学な直に理解させようとすれば、こういう表現になろう。

それ以上の大きさは、直の理解を超える。神は人体的に顕現した場合と本体とを区別しやさしく説いたのである。極大なる宇宙が神の姿の全体であるならば、極微なる原子もまた神の姿の一部分である。そしてその原子の内奥の秘密すら、まだ謎ばかりなのだ。謎は謎としておいて、神の分体なる万物と無心に対する時、何かが語りかけてくる。ダーウィンは進化論で、人間やもろもろの生物は神によって創造されたものではなく、単細胞生物から複雑化し進化してきたという。

個の生物の突然変異と、自然環境に適応したものが生き残り、後は死滅する自然淘汰によって、現在地球上に生息する生物ができたというわけだ。今日でも、分子遺伝学などの理論的補強もあり、科学的な真理としての強い市民権を得ている。だが進化論では、重大なことが欠落してはいないか。生物は、それぞれ自然環境に適応するだけにしては余分なものを持ち過ぎている単に生存するだけならば、花は美しくなくていい。蝶や蜂たちにどんな美意識があるか知らないが、種を残すためならばむしろ格好などかまっていられまいに。花は誰のためにあんなにも美しいのか。他者に食われる運命にある植物や動物は、それを避けて少しでも長く生存したいなら、できるだけ醜くまずければいい。雑食性の人間でも見むきもしまい。あの果物たちの千差万別の味わい、豊かな色彩と形、それだけでも進化論によっては説明できない。
天地の まことの象を察らめて まことの神の体を知れ

天地の 形あるもの金神の 千別たまいし体なりけり

森羅万象 一切神と信じつつ 吾は朝夕ひとりをつつしむ

天地の 中にありとしあるものは 元津御神の姿なりけり

天と地の 真相をよく観きわめて 主神に体のあるをさとらえ

紺碧の 空の深さを眺めつつ 神のいさおの高きをぞ知る
■誰が花を作ったか

「神の分からぬ者には一本の花を見せてやれ」と王仁三郎はいう。花は語らぬ。だが物言わぬ花の言葉を聞きわける感性を人は持っている。やさしく可憐に、気高く優雅に、あるいは華麗に、熱情的に折々の花はささやきかける。誰がこれらの形を考え、妙なる色香を持たせたのか。同じ土にまいた草花でも、千紫万紅いろとりどりに咲き誇り、その美を競うのだ。丹誠こめて花を咲かせた人は、自分が作ったと思っている。

だがよく考えてみよう。花の種はどうしたのか。種の中の絶妙な遺伝子を誰が作ったのか。遺伝子を操作して珍種を作った主でも、遺伝子そのもの、花の命そのものを生むことはできぬ。花作りは花が育つのを世話はしたが、作ってはいない。では誰が花を作ったか。太陽の光、大地、雨、風、それらは種を育てるのに必要なものだが、作り主ではない。花粉を媒介する烏や虫か。やはり違う。地中に埋めたものが石ころなら、どんなに白然に適応しようと芽は出ない。花は花のみでは生きられない。あらゆるものと調和し、その世話を受けとめて生きる。そして枯れれば有機質を含んだ腐葉土となって、微生物や雑草の種などと命を共有する。

草花の一輪をみても天地の神のカの大なるをしる
一輸の 花さえ天地の神々の カしなくば黙らざるべし

一枚の 木の葉も造り得ざる身が 神を知らずにいばっているなり
■体の本質は剛、柔、流

万物の根源をなす元素は現在、百何十が発見されているが、王仁三郎はさらにその根元に剛、柔、流の三大本質があるという。真の神の全体は剛(玉留魂(たまつめむすび))、柔(足魂(たるむすび))、流(生魂(いくむすび))に大別され、剛は鉱物、柔は植物、流は動物の本質である。剛、柔、流に『古事記』に現われる神名をあてると、左のようになる。

万物すべてが剛、柔、流を備えているが、その主となるものによって、鉱物、植物、動物の差ができる。

活物の うまれ出でたる本質は 味志葦芽生魂(うましあしがいいくむすび)なり

生いしげる 樹草のもとは豊雲野(とよくもぬ) 神の威徳の足魂なる

あらがねの 土生り出でし本質は 国常立の玉留魂

地主 神剛柔流の三元を もちて肉体つくりたまえる
■神の作品と人の作品

神は剛、柔、流を素材として万有を作ったが、人もまたいろいろな物を創造する。だが神の作品と人の作品とは、作り方に基本的な相違がある。人の作品は直線が主体だが、神の作品はすべて曲線だ。山の稜線、川のうねり、生物の形、その動き、風に散る花片、みな曲線だ。王仁三郎は「神の作品の中で、もっとも繊細、緻密、霊妙を究めたものは人間であり、とりわけ脳髄と肉体の曲線美はその代表だ。脳髄の曲線美は男の方が勝り、肉体の曲線美は女の方が勝る」という。さらに神の作品から、曲線美のベストスリーを選んでいる。一、女の肉体 二、男の肉体、三 馬とりわけ女性の曲線の美しさよ。だから画家は好んで若い裸婦を画材に選ぶ。色といい、艶といい、完成された女性の曲線は自然美の極致だ。一つの女体の中に山あり丘あり、谷ありでゆるやかなうねり具合は絶妙を尽くし、時には草むらの辺から曲線を描いて噴水を放出し、そのあたりには極楽も地獄も潜む深い落し穴まで用意してある。
■王仁三郎の芸術観

王仁三郎は、「芸術と宗教は車の両輪」だといった。芸術は形、色、香、音、味などの人の五感を媒介として美の世界を創造し、その中で遊ばせてくれる。宗教はかならずしも感覚に頼ろうとはしない。むしろ五感を超えた人間の霊性の内にある神智、霊覚などの神秘的な洞察力、第六感によって、目いまだ見ず、耳いまだ間かず、心いまだ思わぬ神の生命にふれさせようとする。芸術は形ある美の門から、宗教は形なき真と愛の門から共に人の霊魂のもっとも切実に要求するものを充たしつつ、神のあたたかい懐にいざなってくれる人生の大導師である。だが同じ導師であっても、宗教と芸術とでは導く境地に深浅がある。芸術の対象は美そのものだ。美は神の姿であっても、神の心ではない。その衣であっても、体ではない。だから芸術によって神の姿にふれ、にじみ出る愛に酔うことはできても、神の心を知り、神の霊と交わり、神と共にある妙境に達することは至難の業だ。わずかに神の裳裾(もすそ)にさわることはできても、その暖かい胸に抱かれ、その動悸に触れることはかなわぬ。芸術の極致は、美を創造し観賞することによって現実界の束縛を抜け出し、うっとりと我を忘れることにある。ただしそれは現実の活動世界ではなく、心象世界にとどまり、その感動は一時的であって、永続はしない。宗教の極致は自然美に陶然と酔いしれることではない。その憧憬の対象は形体美ではなく、精神美の実現である。神のうちにある愛と信とをわが身に活現し、永遠無窮に神とともに生きるべき霊的活動の向上発展こそが、宗教本来の目的である。
■芸術は宗教の母

「芸術は宗教の母なり」は王仁三郎の有名な断案だが、浅薄な理解しかされていない場合が多い。大本教団の中でさえ一時期から、お茶やお花や仕舞や作歌などの伝統芸術を学ぶことが王仁三郎の提唱する芸術の実践であり、御神業であるかのように指導してきた。「私はかつて芸術は宗教の母なりといったことがある。しかしその芸術というのは、今日の社会に行わるる如きものをいったのではない。造化の偉大なる力によって造られたる、天地間の森羅万象をふくむ神の大芸術をいうのである」(『月鏡』「宗教より芸術へ」)。王仁三郎は神を大芸術家、大自然を神の芸術作品と観る。人間の目ざすべき芸術は、大芸術家としての神に習い、地上を天国化していく芸術である。山は単なる鉱物の集積ではない。四季おりおりに装いを変えるの美しきはたとえようもない。また小鳥や水や風や草木の息づかいは妙なる音楽を奏でる。心耳をもって間けば、宇宙にはアオウエイの五大父音が不断に鳴りとどろき、波の音は五七五七七のリズムで打ち寄せる。人は自然の美しさに見慣れ、神の作品をさまで美しいとも絶妙とも思わぬが、心をとめて眺めた時、思わず溜息が出るほど精妙巧緻にできている。その造化の妙こそ、王仁三郎のいう芸術なのだ。真神は大自然の力の本体であり、万物は神の断片だ。神こそすべての根源であり、宇宙を統べる大芸術家である。造化の美に心を動かされ深く感ずることのできる人なら、それを作った本体に対して思わず手を合わす心がおき、そこに宗教心が芽生える。キリストも「ソロモンの栄華の極みの時だにも、その装い野の百合(ゆり)の花の一つに如かぎりき」(新約聖書』「マタイによる福音書」第六章)といった。日月を師とする造化の芸術でこそ「芸術は宗教の母」であるが、単なる人造芸術ならば、やはり「宗教は芸術の母である。
せせらぎの 音も静かに聞く時は 神の御声のこもるものなり音もなく 落ち散る秋の桐の葉も 神の心の顕れなるべし絵の筆は いかにたくみに運ぶとも 天造物のうつしなりけり岸を打つ 波の音にも魂を こめてし聞けば神の声あり
■真神の力

一、万有の運化の毫差なきを視て、真神の力を思考すべし

大は天体から小は原子に至るまで、すべてが一定の法則と軌道をもって活動し、移り変っている。その巡り移りにいささかの狂いもないのを視て、真神の力を考えよう。力は別の表現でいえばエネルギーである。光のエネルギー、核エネルギ-、化学エネルギー、運動エネルギーといろいろ姿を変えるが、その総量は一定ときれる。またその変化にも、一定の法則が働いている。生物にしろ、物質代謝とエネルギー交換によって生存しているが、一定で変わらぬものが基底にあるからこそ無限の多様性が生まれる。地球の物質の循環系、生態系の循環系、個々の生物の体を構成する細胞の作り出す循環系、それらが調和し秩序をもって働くことに地球全体がバランスを保ちつづけている。どこかの調和が崩れ出しても、驚くべき復元力を発揮してバランスを回復させる。科学技術によって生み出した物で人類がそのバランスを破壊しつつあるのは、もう周知のことである。人間はその浅知恵によって神を地球から追放すると同時に、すべての存在の奥底にひそむ、変化を調和させ得る力までも追放しようというのか。いかに人類が意気ごんでも、大自然の運化のような大調和も、自然が自動的に調和を保つシステムも、作ることはできない。どこかで破綻が生じてくる。大自然のバランスが崩れる不測の事態がおこれば、人間はただあわてふためくばかりで、対処の方法はない。偶然が自然という巨大システムを作り上げたと信じることは、愚かであろう。何万分の一という確率の賭けで何万回も勝ちつづけるという偶然があるとすれば、それはもう偶然とはいえぬ。
万有の 運化の毫差なきをみて 主神の力をさとるべきなり

ものみなの 運化のくるわぬは まことの神のカなりけり

ものみなの めぐり動くは皇神の 千別たまいし力なりけり

照りわたる 秋の紅葉のすがしさに 神のカをかしこみみるも

力とは 霊と体と組み合ひて よろず霊体のはじめとぞなる

金鈴を 朝な夕なにふる河鹿の 音にもこもる自然のカよ

天地は 巡りめぐりて果てしなし 天津御神の尽きぬカに
■真神の八力

すでに宇宙の間に活動がおこっているとすれば、根元においてその活動をおこすべき力が存在するからだ。換言すれば、力があるから活動がおこる。

真の神の全力は、動・静、解・凝、引・弛、合・分の入力である。この八力に『古事記』の神名をあてれば、左のようになる。

 

 

 

力には常に正反対の二方面がある。動く力と静まる力、解ける力と凝り固まる力、引くカがあれば弛み、合するかと思えば分けていく。それは宇宙間に正反対の性質をおびた相対的二元が存在するからで、その二元の交渉もしくは衝突の場合に新しい活力を生じ、進となり退となり、あるいは動きまたは静まる。王仁三郎は、この宇宙の相対的二元をとらえて、陰陽または火水、霊素体素ともいう。この陰陽、火水、霊体などは具象的な表現ではなく、抽象的、本質的な謂いである。王仁三郎によれば、水として象を現わす時はその中に火があり、火として象を現わす時にもその中に水がある。換言すれば現象の火も水もいずれもおのおの陰陽二元の一種の結合で、おのおの特有の力を発揮している。すでに述べたように、真神の幽の幽、天地未剖判の状態においては、ただ一点の大元霊があるのみだ。真如だの虚無だのというのは、この状態を指すのであろう。真神が一元のままならば、進みも退きもせず、増えも減りもせず、宇宙は無窮に混沌のままであったろう。
三元と八力もって万有に あたえたまいし国津大神 

(動力)物皆のうごく力は大戸乃地(おおとのじ) 神の美(うま)しき功(いさお)なりけり 

(静力)大戸乃辺(おおとのべ) 神の力の御功(みいさお)に すべての物は静まりぞする 

(解力)宇比地根(うひじね)の 神の力にものみな の 容易(たやす)く解(とく)る瑞の功績(いさおし) 

(凝力)物皆の 凝固(こりかた)まるは 須比地根(すひぢね)の 神の力の稜威(みいず)なりけり 

(引力)活杭(いくぐい)の神の功にものみなの 引かん力の幸(さちわ)う尊さ 

(弛力)角杭(つのぐい)の神の力のなかりせば すべてのものは弛(ゆる)ばざるらん

 (合力)ものみなの合す力は面足(おもたる)の 神の御魂の功績なりけり 

(分力) 惶根(かしこね)の神の功績に物皆の 分くる力の出ずる尊さ
■縦の軌道と横の軌道

われわれの住む太陽系を眺めてみよう。太陽を中心に九つの遊星がそれぞれの軌道を持ちながら休みなく動いている。地球もその星の一つだが、地球が自転しながら太陽を一周するのを一年といい、地球自体が一回転するのを一日という。これによって春・夏・秋・冬、朝・昼・タ・夜の循環が繰り返される。月や火星にロケットが行き、地球の周囲を人工衛星が数知れず飛ぶ時代であり、人々は人智のすばらしさに絶賛の拍手を贈る。しかしそれが可能なのも、天体の運行がきわめて正確に法則と軌道に従っているからである。我々の日常にしても、毎日一分の狂いもなく起きたり眠ったりすることはできない。食事の量はまちまち、仕事も今日は十の力を発揮し、明日は半分に満たぬことすらあろう。なのに天体の運行は、昔より少しも変わることがないのだ。天地間いっさいが真神の分力をうけて動き回る。大地の水は水蒸気になって空へ昇り、やがて雨や雪となって大地に降り、再ぴ水蒸気になって空へ返る。もしこの循環が止まり、水は空へ昇りっきりだと大地は干割れ砂漠と化し、万物の霊長などと豪語する人間も干しカレイ並みだ。また雨が降りそそぐばかりで天へ昇ることを止めれば、大洪水となって、万類は死滅する。この循環が休みなく繰り返されるから大地は適度にうるおい、動植物は自然と調和しつつ、それぞれに生きることができる。しかも循環は縦の軌道が横の軌道に従っている。この循環と言えば、木の実が土に落ち、やがて芽を出し、背を伸ばし、枝を張り、花を咲かせ、実となり、やがて大地に落ちる。蝶が卵を産み、卵が青虫となり、蛹と化して蝶となる。横の軌道とうえば、動物が炭酸ガスを吐いて酸素を吸い、植物は酸素を吐き出して炭酸ガスを吸う。春に蒔いた一粒の種は秋には万倍になって広がる。運化の様式はさまざまでありながら、それぞれが合目的的に動く。生物の進化もまた一つの運化であろう。万類は活動し、質的にも生成化育を遂げながら、大調和の中、天地の発展に参加している。その運化の根源にあって大宇宙を統御する無限のエネルギーこそが、真神の力である。
■真神の霊

一 活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし天地間のあらゆるものはすべて活物である。太陽月、地球すべていっさいが生きて活動している。その活物の心、性質、性格をよく観察し見きわめて、真神の霊魂を悟れよという。私が三年間ほど蔵の二階に閉じこもって、執筆にうちこんでいた時のことである。裏の畑でのささやかな野菜作りが、唯一の大地との接触手段であった。いつも締切りが背中に貼りついているような状況の中、わずかな暇をつくっては耕し、種をまき、育てる。それがどれほど素人百姓の私の心を慰めてくれたことか。徹夜で執筆中、眠くてたまらぬ時がある。だがあと二時間、あと一時間起きていれば、夜が明ける。昨日芽生えた苗が夜露を浴びてどれほど成長しているかを眺めたさに、眠い目をこすって耐えたものだ。まるで惚れ抜いた恋人に対面する時のようなうぶな気持であった。初めて葱の種を撒いた。なかなか芽生えぬ。多忙で水やりを怠ったし、失敗したかと半ばあきらめていた。その日も夜明けを待ちかねて畑へ出た。苗床の土を破って、いっせいに芽が出ている。が、とっさに私はそれが葱だとは思わなかった。私の観念にある葱とは、上が青くて下の方が白く、空に向ってつっ立っていなければならない。ところがどうだ、どれも背を折り曲げている。ちょうど青い針が針穴を上にして一面、針山に突きさきっているかである。間違えて何か別の種を撒いたんだ。きて、何の芽か。私はしゃがみこんで、しばらく眺めていた。と、朝露をいっぱいに浴びたその芽が種殻をつけたまま、次々に折り曲げた背をピンと伸ばし始めるではないか。その姿は小さいながら、まさしく天に向って立つ葱である。涙があふれ出た。思いもよらぬ感動がこみ上げ、気づくと鳴咽(おえつ)すらしていた。葱はそうやって芽生えるのが習性だ、にわか百姓のお前が知らなかっただけだといわれてしまえばそれまでだ。だが、やわらかい葉末を傷つけまいとして背をかがめて土をやぶり、大地の上に姿を表わすと、「きあ、これからがおれたちの世界だ」とばかりウーンと伸びをする。このような知恵というか、霊性というか、己れの命をいとおしみ守る姿を見た時、葱ですら神の霊が宿っていることを、理屈ではなく、魂がはっきりと感じとったのである。
活物の 心性をよく覚悟して 主神に霊魂のあるをさとらえ

活物の 心の性をきわむれば 神の千別し霊の御光り

活物の 心性のはたらき察(あき)らめて まことの神の霊魂を知る

鳥けもの 草のかきはにいたるまで 神の御魂のこもらぬはなき

鳥獣 むしけらまでも元津神の 御魂そなはると思へば尊し

さまざまの 教えはあれど霊力体 一貫を説く言霊はなし

遙けかる 外国人も大本の 霊体一致の教にまつろう
■霊と精霊の違い

動物はともかく、植物や鉱物に霊などあるものかと思う方もあろう。厳密には霊と精霊が違うことを、まず認識しておく必要がある。霊は植物にも鉱物にも形あるすべてに遍在する。もしそれらから霊が抜ければ形が保てぬ。長い年月をへた土器が手もふれぬのにぼろぼろと崩れることがあるが、それは霊が抜けたからだ。つまり形の存する限り霊を含むが、特に人はじめ動物の生魂を精霊と呼ぴ分ける。肉体を持つ生霊も肉体を持たぬ死霊も、善霊、悪霊にかかわらず、動物である限り、すべて精霊である。植物や鉱物になぜ精霊がないかといえば、それはむしろ神の恵みであろう。もし彼らに精霊があれば、長い間おなじ所にじっとしていなければならない不自由に耐えられまい。無機化合物・有機化合物という言葉がある。無機化合物は鉱物性物質であり、有機化合物は炭素を含有主成分として動植物を構成する化合物だ。以前は、生命を形成する化合物はすべて炭素の化合物であり、無機化合物からは人為的に作れないという考え方が基礎にあり、このような分類がなされていた。ところが一八二八年、ウェーラーによって無機物であるシアン酸アンモニウムから尿素が合成された。これは有機物の生体外合成の最初の例として知られている。尿素は主に哺乳動物の尿中に含まれる窒素化合物である。このことによって、今日では、有機・無機の分類は単に便宜上の区別になっている。またタバコの葉などがかかるモザイク病の病原体はそれじたい結晶体の無生物のようだが、葉につけばたちまち微生物として活動をはじめる。命のないはずのものから命が生まれるのだ。
■霊の在り方

動植物はもちろん、鉱物に至るまで命があり、霊がある。ただその霊の在り方が違う。鉱物は霊の潜んでいる状態、植物は霊の眠っている状態、動物は霊の覚めている状態だという。潜んでいるはずの鉱物の霊や眠っているはずの植物の霊が時に覚めて人に感応すると、人は御神石とか御神木とかいって崇める。同じ霊を観察するなら、覚めている状態である動物の心性を観察することが、より神の霊魂を知る手がかりとなろう。特に人の霊魂は神の霊魂と同じものを与えられている。ただその働きが有限か無限かの違いに過ぎない。だから人間の霊魂の在りようを知り、それを無限大に拡大すれば、神の霊魂をうかがい知ることができる。
■神力、法力とは何か

新興宗教は霊的に偏し、科学者は物質に偏する。既成宗教は次第に現代の風潮に迎合して、奇跡否定の傾向にある。それを否定すればセミの抜け殻で、通俗化して倫理道徳の方便教に堕す。精神上の迷信に根ざした宗教も、物質上に根ざした科学も、ともに真理に遠い。霊と体との間に奇跡的な力があり、神秘的な作用がある。このカを神力、法カという。「こういう科学万能の世の中に、宗教も生かし科学も生かし、あら_ゆる哲学に生命を与えるところの霊力体の三大学則の教えは、今までどんな智者、学者もこれを唱えたことのない天啓の教理であります。五大州にどんな学者があっても、博士があっても、この霊力体の三大原理に対してはなんともいうことができないのであります。アインシュタインは相対性の原理説を唱えているが、あれは二つであって、こちらは三つである。向うは霊と体と、あるいは東と西と、男と女というようなものであるが、男と女の中に一つの妙な力があって子ができる、こういう所まで説いていないのであります。霊力体のこの三つの旗を押し立ててこの暗黒の世の中に進んだならば、きっと明らかな世の中となる。どんな敵もこれに服すべきはずであります・・・」(『神の国』昭和七年三月号「大本は宇宙意志の表現」)このように王仁三郎は述べるが、霊力体の三大原則から出発せねば、力ある真理は生まれないであろう。

『霊界物語』一三巻「総説」・「霊力体」・六五巻「総説」、『大本略義』「一元と二元」、『道の大本』二章、『道のしおり』第一巻、『惟神の道』「愛善道の根本義」、『玉鏡』「大宇宙」・「女は神の傑作」、『月鏡』「宗教より芸術へ」・「芸術は宗教の母」・「神の作品」、『水鏡』「神きまと花」・「霊と精霊」 

第八章 一霊四魂と五情の戒律

■人の霊魂は一霊四魂で成り立つ

人の霊魂は真の神の分霊であり、直霊という一霊と荒魂・和魂・幸魂・奇魂の四魂で成り立つ。直霊は至善至美の純霊であり、善悪を直感し、人を善導する。直霊と四魂の関係はどうか。霊魂は物質ではないから、三次元的思考に囚われない方がいい。直霊は霊魂のもっとも内部にあって四魂を統括していると考えてもいいし、四魂の中にそれぞれ直霊があると考えてもいい。あるいはまた、直霊そのものが霊魂であり、その四方面の働きが四魂となって、その四方面の働きが四球となって現れると考えることもできる。

四魂には、それぞれ本体と用がある。用とは働きのことである。荒魂の本体は勇であり、用は進・果・奮・勉・克、すなわち物事を進める時、こうと決すれば 果断果敢に実行し、困難にあっても奮い立ってあたり、しかも感性だけに頼らず常に勉強し、悪にも欲にも打ち克つ。ひらたくいえば実行力・忍耐力・克己心のことである。

和魂の本体は親であり、用は平・修・斉・治・交、すなわち平和を作り、身を修め、家を斉え、国を治め、神と人ありとあらゆるものと仲よく交わる。夫婦愛や恋愛や兄弟愛なども含む。親和力とでもいおうか。

幸魂の本体は愛であり、用は益・造・生・化・育、すなわち人群万類を益し、物を造り、生み、進化させ、育てる。つまり生成化育のことである。ここでいう愛とは、恋愛とか夫婦愛とか隣人愛とは違う。恋人を愛する、友を愛するなどの感情は幸魂ではなく、和魂から発する。恋人と親しむ、友と親しむといった方がふさわしい。

幸魂の愛とは、母親が子を生み苦労もいたわず育て上げる、お百姓が土を耕し、種をまき心を配って世話をし収穫する、芸術家が心をこめて芸術作品を造り上げる、そういった心の働きこそ幸魂の愛である。

「恋というのは子が親を慕うがごとき、または夫婦が互いに慕い合うがごとき情動をいうのであって、愛とは親が子を愛するが如き、人類が互いに相愛するがごとき、情動の謂いである。信者が神を愛するということはない。神さまを恋い慕うのである。神さまの方からは、これを愛したまうのである。故に信仰は恋愛の心というのである」(『水鏡』「恋愛と、恋と、愛」)

奇魂の本体は智であり、用は巧・感・察・覚・悟、すなわち事をなすのに巧みであり、感覚力が鋭く、知的な覚りも精神的な悟りも明らかになる。いわゆる知恵証覚である。「人は決して感情によって事をしてはならない。必ず冷静な理知と相談してやらねばならないということは真理である。王仁は事業のために初恋を捨てた。それは実に耐え難いものであった。五O幾歳の最近まで思い出すと骨がうずいてくる。しかしながら王仁には重大なる使命があることをその頃からおぼろげにも知っていたので、事業と恋との岐路に立って王仁は冷静なる理知の命ずるままに恋を捨て、ひたすら仕事に猛進したのである」(『玉鏡』「理知と感情」)
王仁三郎は西郷隆盛を大人物として高く評価していたが、彼の霊と語ったことがあると述べている。「大島から魔児島へと、今度の旅行で西郷南洲翁の跡をたずねてみたが、翁には惜しいかな奇魂(くしみたま)が足らなかったということを痛感せずにはおれなかった。天下に号令しようとするものが陸路兵をおこして道々熊本を通過して東上せんとするなどは、策のもっとも拙なるものである。 かの時、急援兵を神戸、大阪に送って、名古屋以西を扼(やく)してしまわねばならぬのであった。当時、物情騒然としていて、そんなことはなんでもなくできたことなのである。かくて京都、大阪などの大都市を早く手に収めねば志を伸ぶることができないことは、火をみるよりも明らかなことであった。しかるに事ここに出ずして熊本あたりにひっかかってぐずぐずしていたものであるから、思いもよらぬ朝敵の汚名を一時といえどもきねばならぬようになってしまったのである。奇魂が足らなかった。桐野利秋(きりのとしあき)、篠原国幹(しのはらくにもと)みな然りである。大島に滞在中、一二回ばかり西郷翁の霊に会ったが、いろいろ私に話をしておった。『知恵が足らなかったなあ』というてやったら、『まったくやり方が悪かった』というておった」(『水鏡』「奇魂の足らなかった南洲翁」)
天津神 さずけたまいし四つの魂 統(すべ)ておさむる直日の霊

天地の 神の霊魂を分けられし 人の霊魂はうるわしきもの

耐え忍び つとめはげみて勇ましく すすむは人の荒魂かも

ためらいの こころ打ち捨て勇ましく 思いし善事遂(よごとと)ぐるは義(ただ)し

ちはやふる 神と人とにやわらぎて むつびまじわる和魂かも

えらえらに えらぎにぎわい栄えゆく 家こそ地上の天国なりけり

幸魂 めぐみのつゆの深くして 草のかきはも栄えざるなし

いっさいの ものを大事にするという こころは愛の本源なりけり

奇魂智恵の ひかりはむらきもの 心の暗を照りあかすなり

かんながら 神にまかせば先見の 明智おのずからそなわるものなり

■智恵証覚とは

では奇魂の本体である智恵証覚とは何か。智恵と証覚は違う。智恵は生れながらにして神から与えられたもので、先天的、内分的なものだ。学問がなくても智恵のある人があり、学問があっても智恵のない人がある。外分的後天的な学問その他でできたものは知識で、智恵ではない。王仁三郎は「仏教などでいう善知識というのは外分的の記憶的知識で、真の心の救いとなるものではない」(『出口王仁三郎全集』五巻「智恵と証覚」)と述べる。証覚とは、覚りあかす、あかしをもって神を覚るの意だ。日の昇りぐあいで今は何時ごろだと推測するのも覚りだが、時計を見て何時何分だと覚れるように、あかしをもって宇宙の真理に徹することができるのが証覚だ。王仁三郎は「霊界物語でたとえたならば、これを出されるのは智恵からであって、これのあらわれ、すなわち口述してつけとめられたものは証覚なのである。故に霊界物語は智恵証覚を得る唯一のものである。真善美愛はその証覚より顕われ出ずるものである。それで証覚は理解ともいえる。智恵は本体のようなもので、証覚は働きのようにもなる、仏のいう無上正覚とは正しく覚るの意にて、証覚とは違うのである」(『出口王仁三郎全集』五巻「智恵と証覚」)という。また王仁三郎は質問に対して、次のように答えている。「智恵証覚というのはどこから出るのですか」「それはみな愛善から出るのだ。善を放れた真の智恵はない」「神の善を愛するとは、どんなことでございますか」「神さまの意思そのものを愛するのだ」「そうすると、智恵証覚というものがないと、神さまの意思は解らないわけですか」「愛も善にならないと智恵証覚はでてこない。外分的な欲望のために世人の一般はうまく智恵を働かすようなれど、愛を放れ善に背いた行いはすぐに後からはげてくる。それは本当の智恵ではない。  知恵も証覚もすべて愛から出てくるのだ」(『出口王仁三郎全集』一巻「人類愛善の意義」)

奇魂智恵のかがみの明ければ 来る世のことも写るなりけり
■五情の戒律

一霊四魂には、誰でも五情の戒律が備わっている。直霊は省みる、荒魂は耻(はじ)る、和魂は悔(くい)る、幸魂は畏(おそ)る、奇魂は覚るの働きだ。直霊には省みるという戒律がある。反省する心を持つのは人だけ。反省心を全く失った人は、人に価せぬ。相手が自分のぜひ欲しい物を持っていてそれを要求したが、拒絶されたとする。いかに相手が強そうでも、勇気をふるって殴りかかり、それを強奪したとしよう。その勇は荒御魂の働きだろうか。否、その前に直霊の御霊に省りみれば、おのずと耻るの戒律が働く。だからこそ、本体の勇は正しいことに向かって発揮される。和魂には「悔る」の戒律がある。生成化育が天地の法別であり、それに従って人は常に進歩の道程にある。これはすばらしいが、換言すれば、人は常に不完全な存在であり、過ちをし勝ちだということだ。だが直霊の御霊に省みて素直に過ちを認め悔い改めることができれば、過ちは逆に教訓として次なる飛躍への踏み台になる。また自分の過去を省みたとき、他人を責める資格のないことに思い至る。他人の過ちもあたたかく許せるから、その人の周囲には、常に親和的な雰囲気がかもし出される。幸魂には「畏る」の戒律がある。畏るとは、目に見えない存在にも畏敬の念を抱く心だ。人が見ていなくとも、法律に触れずとも、こんなことをしてはもったいないという思いである。昔の人は、御飯粒一つ落しても「もったいない」と拾って食べた。食べたからといって、どれほど栄養にも家計の節約にもならない。ただ米を作る百姓の苦労を思ったとき、自然とつつましい行為になる。今日、国の方針で減反政策がとられており、田に草を生やしておいても法律に触れぬばかりか、かえって奨励金がもらえる。だが、畏るの戒律が働けば、せっかくの畑を草にまかせてほうってはおけなくなる。畏るの心をもつのは人だけである。孔子は「君子に三つの畏(おそ)れあり、天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る」といい、ソロモンは「エホバを畏るは知自の本なり」といった。このように古の聖賢は民を導くのに「天を恐れよ、神を畏れよ」と教えた。だが今日では、むしろ逆の傾向すらある。「人がなによりも天を恐れ、神以外のなにものも畏れなくなったとき、はじめて理想の世界が地上に実現する。しかるに今日の学校教育は、なによりもまず試験を恐れさす教育ではないか。また今日の社会教育はどうか。あるいは権力を恐れしめ、また法律の制裁、科学の威力を恐れしめる教育がほどこされているではないか。権門の家庭では、その子女を養育するにあたって、いかに権力が今の世に偉大であるかを知らしめようと努力する。富を求める者は、金力の強大性を力説し、法律家は法の制裁を恐れしめることによって、地上天国が出現するかのごとく教え、科学者はなによりも科学の力の恐るべきを強調する。もし、孔子の言葉を正しとするならば、今の世の政治は明らかに君子の道にそむける政治であり、またソロモンの言葉を賢しとするならば、今日の教育家たちは、すべて智を得ざる徒であるといわれでもしかたなきしだいである」(『人類愛善新聞』昭和一O年八月号「天を恐れよ、神を畏れよ」)奇魂には「覚る」の戒律がある。人は経験し、学び、反省することにより、正しく覚る。もし正しく悟らねば、知識や体験を単に集積するに過ぎない。たとえば和魂のところで述べたように、かりに失敗して悔い改めたとしても、間違った方向に改めたのでは、せっかくの悔るの働きも意味のないものとなろう。ここにも奇魂の悟るの助けがいる。動物は五情のうち、覚る、畏るの二情しか働かず、省る、耻る、悔るの三情はない。五情が完全にそなわっているのは、人だけである
すめ神の きずけたまいしわが魂に 五情の清き戒律たまえり

省みる 心しあらばすさびくる 八十の曲津もほろび行くべし

身になやみ 起らばわれを省みよ 神の心の奥のありかを

司には さばかれずとも罪あらば 心の鬼はすぐさばくなり

留守の家に 忍びこみたる盗人の 寝ねし赤子に見惚(と)るる人情
■戒律を破れば曲霊に

このようなすばらしい一霊四魂と五情の戒律を与えられ、顕の顕界に生れたゆえに、「人は神の子、神の宮」と王仁三郎はいう。ところが宗教によっては、「人は罪の子」と断ずる。神の子と罪の子とではまるで反対だ。日々新間をにぎわす凶悪犯罪がしきりで、後者に軍配を上げたくなるが、実はいづれも正しい。王仁三郎作文の祝詞「感謝祈願調(みやびのことば)」には「四魂」に「たま」、「五情」に「こころ」とルビが打たれているが、一霊四魂と五情の戒律はいわば霊魂と心であり、エンジンとブレーキの関係に似ている。いかに性能の良いエンジンを持つ自動車でも、ブレーキが故障すれば危険きわまりない。文明の利器として作られたものが、逆に人をあやめる凶器になる。それと同様に、直霊の省みるの戒律が破れればたちまち曲霊となり、悪霊の容器と堕していく。人は本来、神の子だが、省みる心を失えば罪の子にもなる存在なのだ。直霊が曲霊に転ずると、四魂の戒律まで狂い出し、荒魂は争魂、和魂は悪魂、幸魂は逆魂、奇魂は狂魂に変ずる。荒魂が耻るの戒律を失えば、強いもの勝ち、私欲のために力をふるう争魂と化す。さしずめ暴力団などはそれであろう。和魂が悔るの戒律を失ったときは、憎しみに走る悪魂となる。もしし悔い改めることのできぬ人なら、自分のみ絶対で人の過ちは許せぬ。姑が嫁の箸の上げ下ろしにまでぶつぶつ小言をいうようなものだ。そんな人の周囲には親しみの情はなく、常に孤独な思いをかみしめねばならぬ。幸魂が畏るの戒律を失えば、天地を畏れず、神にも道にも逆らう逆魂になる。奇魂が覚るの戒律を失えば、善悪美醜の判別をも狂わす狂魂になる。仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教など多くの宗教に戒律があるが、王仁三郎の教えには戒律はない。なぜならばどんな人にも天与の五情の戒律が与えられ、それを真に重んずれば、人為的な戒律などいらぬばかりか、かえって害になる。本来すくすくと伸ぴるべき人間の霊魂が、煩瑣な戒律によって、盆栽の松のようにかえってひねこびてしまうのだ。「人は天帝の御子なり。御子たるもの、真の父たり母たる上帝より賦与せられたる至明至聖なる戒律を度外視し、人の知慮によって作為したる不完全なる戒律を楯と頼み、もって心を清め徳を行ない、向上し発展し、立命せんとするは愚の骨頂にして、あたかも木に縁(よ)って魚(うお)を求めんとするがごとし」(『霊界物語』第十巻二九章「言霊解三」)
天つ神 よさしたまいし真心も かえりみせずば曲霊(まがたま)となる

身の垢は 湯水石鹸であらえども 洗いがたきは心なりけり

はじること 知らずば人と争いて 獣に近き挙動なすなり

恥しらぬ 人に恥かくためしなし 人と獣のあいに住む身は

勇ましき ことは為すとも恥ずること  知らずばついに争いとなる

なにごとも 己れに克つの力あらば 八十の曲霊もいかで犯さん

過ちをくいる心し かたければ 天の下には悪むものなし

よし人に 親しむとても悔いること 知らずばついに人に悪まる

人を愛でいくつしむとも天地に 畏るるなくば道に逆ろう

米の飯 喰えば麦飯まずくなり 稗をくらえばうまき麦飯

畏るちょう真心あれば道ならぬ人妻めずる逆事もなし

物学び 知恵を研くはよけれども覚りしなくば狂いこそすれ

大本のまことの道の覚れざる 異邦の教はすべて狂える

戒律のるつぼにはめんと自由なる 人の心をしばる宗教

やれ五戒 やれ十戒とむつかしく 人の心をしばる曲教

 

■義と欲

一霊四魂が五情の戒律をともなった時、「義」の心がおこる。義とは、人の行なうべき筋道である。義は四魂それぞれにあり、裁、制、断、割のはたらきをする。荒魂の義は断であり、勇に対して「果毅敢為(かきかんい)」の意を兼ねる。すなわち物事を実行したり、忍耐するにあたって、決断よく、意志強く、最後まで押しきる。「断じて行なえば鬼神もこれを避くという諺がある。物事は断の一字にある。断固として行なえば、できないということはない。私はどんな大問題にぶつかっても、一分間をいでずして決めてしまう。そしてそれを断行する。私が今までなしきたった仕事はみなそれである。世の多くの人は、この断の一字が欠けているから、仕事ができないのであると私は思う」(『水鏡』「断の一字」)和魂の義は制であり、親に対して「政令法度」の意を兼ねる。王仁三郎は「政は正なり、法は公なり、度は同なり」と述べている。すなわち親愛の情は正しく道理にかない、誰に対しても公平にひとしくそそがれる。幸魂の義は割であり、愛に対して「忘身殉難(ぼうしんじゅんなん)」の意を兼ねる。万物を生成化育するにあたって、自分の身を忘れ、あらゆる困難に殉ずることを恐れない。奇魂の義は裁であり、智に対して「弥縫補綴(びぼうほてつ)」の意を兼ねる。智恵証覚を発揮して、至らぬところをおぎない合せ、完全を期する。その「義」の行なわれるところ、「欲」が並立する。義の裁、制、断、割に対して、欲は名、位、寿、富である。名は美しからんと欲し、位は高からんと欲し、寿命は長からんと欲し、富は大ならんと欲する。欲といえばむさぼりほしがらんとする心で、一般にはあまり良い印象を与えないが、王仁三郎によれば、「義」の並立する「欲」は正欲である。もし「欲がなければ、人に向上心はおこらない。

(裁)奇魂 智(さとり)の道のほどほどに 世の物事を義(ただ)しく裁くも(制) 大君の 御政事(みまつりごと)も平穏に 制義(おきてただ)しくすすむ御代かな

(断) 躊躇(ためらい)の こころ打ち捨て勇ましく 思いし聖事遂ぐるは義し(名) ひさかたの 雲井に高く名を揚げて 世人をすくう人は神なる

(位) 雲井なす 高き位にのぼるとも 下いつくしむ道をわするな

(寿) 玉きはる 人の命はかぎりあれど 一日もがもと祈る真心

(富) 望月の かけたることの無き人は 人の所業(しわざ)によりてたまわん

名も位も 寿も富も皇神は 人の所業によりてたまわん

人の身体に 尊きものは名と位と いのちと富の外にあるなし

名も位も 富も寿も千早振る 神の賜いしたからなりけり

名位寿富 これぞ神賦の正欲ぞ 働かざれば名もとみもなし

名も大事 位も大事生命も 富も人生に肝要物なる
■伊都能売(いづのめ)の御霊

四魂はそれぞれ独立の存在というより、直霊の四方面の働きであり、互いに影響し助け合っている。四魂のうち、荒魂・和魂を経の御霊、幸魂・奇魂を緯の御霊という。神は出口直を厳の御霊、出口王仁三郎を瑞の御霊と示した。厳の御霊は経を主、緯を従、瑞の御霊は緯を主、経を従とした働きである。大本教団の改革グループである「いづとみづの会」の名称はここからつけられた。大正七年、出口直が昇天するや、神は王仁三郎が伊都能売の御霊になったと示す。伊都能売の御霊とは、四魂が完全に円満に働く御霊のことである。世の中にはいろいろな性格判断の方法が行なわれているが、一霊四魂の知識によって判断してみるのもおもしろい。経の御霊的性格や緯の御霊的性格、一魂が発達していて他の三魂が弱いもの、三魂が発達していて他の一魂が弱いものなどさまざまであろう。自分の性格をよく知った上で、長所は大切にするとともに短所を補う努力をし、四魂が完全に発揮される伊都能売の御霊に近づくよう勉めることだ。
信教の 真の自由は伊都能売の 教えをおきて他にあらなく

神となり 仏ともなり鬼となり 世を生かし行く伊都能売の神

伊都能売は 三十三相に身を変じ みろくの御世を開かせたまいぬ

くらやみの 世界を照らす一つ火は 伊都能売の神の光なりけり

根の国に 落ちゆく霊魂救わんと やみをはらして伊都能売の神

◎になりて すみきりたまう主の神の 内流つたうる瑞の御魂

 (以後省略)
■精神が変調をきたす時の五つのタイプ

精霊と霊の違いについては先に述べたが、王仁三郎は、霊と精神についてもはっきり区別して考えていた。精神といってもいろんな定義がある。武士道の精神とか大和なでしこの精神などというと根本的な理念のようなもの。へーゲルの絶対的精神といえば、万物の理性的な根源力であろうか。肉体に対して実体としての心の働きをさすこともあれば、「精神を凝らす」などと、気力とか根気を表わしたりする。物質を超越した、霊妙な実在としての霊魂をいうこともある。王仁三郎の定義によると、精神とは「肉体の要求により活動する心象」である。。たとえば胃が空虚を訴えると、食物を要求する心がおこる。のどが乾くと、湯や水がほしくなる。美しいものを見ると、それを愛してしまう。これらはみな、肉体の欲求や必要に応じておこる精神である。われわれの精神はいつも健全とは限らない。ときどき変調をきたす時がある。王仁三郎は『霊界物語』六三巻四章「山上訓」の中で、精神に変調をきたす時の五つのタイプを上げている。
一 利欲に迷った時。欲がきざすと、誰も冷静な判断と慎重な考慮を失いがちになるから、利をもって釣られることが多い。たとえば他人の物を預かっていて、ふと「これが自分の物だったら」と欲がおこると、責任観念がなくなり、自分の物とごまかしてしまう。また欲しかった物が自の前にあると、前後の見さかいもなく万引きする。
一 強い刺激に接した時。単純な蔭口ぐらいで心を乱さない人でも、面と向って手きびしく痛罵されると、ついかっとなって予期しない行動に出る。また美しい女性の媚態や甘い香水の匂いなどにまどわされ日頃の理性を失ってしまう。
一 焦心したり狼狽した時。精神の活動が安静をかいているから、過失や失敗を招きやすい。すこしばかりのつまずきを隠そうとしてその失策を大きくしたり、少しの損失にうろたえたばかりに、大損害を受けたりする。
一 失意の時と得意の時。 失意の時は能率が減退し、ひっこみ思案になりまた努力をきらうから、社会生活の敗残者への道をたどる。逆に得意の時は精神がたかぶり、冒険的や独断的になり勝ちである。
一 迷信に陥った時。ふだんは物事の判断を誤ることがない人でも、こと信仰問題に関すると誰の言にも耳をかきず、とんでもない行動に走ったりする。ほかにも婦人が妊娠したり、生理などで精神に一時的な変調を見ることがあるという。だからどんな人間でも、狂人の未製品であり、予備軍どいえる。
『霊界物語』六巻二六章「体五霊五」・一O巻「言霊解」・六三巻四章「山上訓」、『道の大本』三章、『月鏡』「人間と動物」、『水鏡』「恋愛と、恋と、愛」・「理知と感情」・「奇魂の足らなかった南洲翁」、『人類愛善新間』 昭和一O年八月号「天を恐れよ、神を畏れよ」、『出口王仁三郎全集』一巻「人類愛善の意義」・五巻「智恵と証覚」
 第九章 愛と意志想念

■意志想念とは何か

科学は宇宙の活動力に意思を認めない。だが王仁三郎は、明確に意思想念を感知する。では意志想念とは何か。一般的に意志は「こころざし」とか「考え」、想念とは「考え思うこと」とか「思想」とかをさす。王仁三郎は、意志と想念はもともと切り離せないものとしている。意志の形式が想念であって、本体の意志がなければ、想念はない。だから単に想念という場合にも、意志という言葉を含ませている。王仁三郎は、想念は意志から発し、その意志の核には、愛の情動、またそこからくる歓喜や悦楽も含んでいるという。すなわち根源に愛の情動があって意志が生まれ、これによって歓喜悦楽の情が生じ、想念が形成される。換言すれば、想念の本体は意志であり、意志のさらに根源に愛の情動がある。物質レベルでは、愛をエネルギー、意志を方向づけるもの、想念を方向づけられたエネルギーによって生みだされる変化に対応させることができるだろう。サイバネティックスという科学の分野では、物質レベルから人間の意識まで制御、調節の問題、言い変えれば方向づけの問題をあつかっている。たとえば単純な自動制御の例に、コタツなどの温度調節に使われているサーモスタットがある。一定の温度に目標を定めておくと、熱くなりすぎると電気が切れ、寒くなりすぎると電気が入り暖かくなる。目標に合せて自動制御が行われる例は、機械だけでなく白然界のあらゆる段階に存在する。人間の意志想念の働きもこの自動制御の高度に複雑化したものととらえることができる。したがって現在の科学ではまだ不完全にしかあつかうことができないが、素粒子の段階から人間、そして宇宙全体に同じ法則性が働いていることが、やがて明確になるだろう。科学は目的論を避けるので、目的という言葉を使わないが、しだいに自然を合目的的なものとして、また神ということばは避けても、宇宙を理知的なものとか意識あるものとしてあつかう科学者も増え始めている。マルクスの唯物論的弁証法も、不完全ながらその法則性の一部をとらえていた。
■愛の情動

たまたま河に溺(おぼ)れていた人を見たとする。とっさに愛の情動によって意志が生まれ、その意志に方向づけられて、歓喜悦楽をともないながら「助けてやろう」との想念を形成する。けれど意志の方向づけによっては、「このさい、瀕死の状態をゆっくり見物してやれ」という想念になるかもしれない。他人の苦しみを眺められる歓喜悦楽(かんきえつらく)に酔いながら。溺れる人を見て助けてやろうという想念が愛の情動だとして、人が溺れるのを見て楽しむ冷酷な想念が愛に発するなどとは、理解しにくいであろう。愛のない人間はいない。たとえば強盗殺人を犯したひどい人間がいたとする。その犯行の動機をつきつめれば、それは愛の情動になる。罪もない相手を殺して奪ってまで自分に与えたい。それほど純粋に激しく自分を愛していることになるから。愛は同じでも、意志によって向けられる対象が問題だ。愛そのものは量的には変らなくても、対象が人とか物に狭く限定されればされるほど、他のことには向かわなくなる。仏教の執着にしても、マルクス主義の物神崇拝にしても、精神分析学のフェティシズムにしても、形は違ってもその問題を突いていると思う。王仁三郎は「愛は人間生命の本体だ」という。人間にこの愛の情動があるから、生命に熱がある。意志をどう方向づけるかはともかくとして、人間に愛の情動がなければ、現世では生きていけない。この宇宙は神の意志によって創造されたから、すべての事象の根元には愛の情動があり、それによって意志が生まれ、それが想念を形成する。そしてその想念が物質世界をつくる原動力となる。
■神は愛なり力なり

愛は精神生活の基本的感情であり、倫理学や哲学の上でももっとも重要な概念の一つだ。ギリシャで人間そのものの本質を問う哲学が誕生した時、フィロソフィアと呼ばれた。PHILO(愛)とOPHIA(知)を一つにした述語で、哲学そのものが知への愛である。また宗教の本質も愛だ。特にキリスト教は愛の宗教といわれるぐらいで、イエス・キリストの十字架での死そのものがアガペーの実現である。だが仏教では、むしろ迷いやむさぼりをひき起こす根源として、愛を排撃する。それは愛を愛欲という欲望の一つにとらえているからで、それを脱却して初めて悟りへの道が開かれるとする。そして仏典ではくり返し愛着からの解脱(げだつ)を説く。、キリスト教の愛に相当するのは、仏教の慈悲である。儒教では、愛は仁でありヒンズー教では信愛と呼ぶ。王仁三郎は「神は愛なり力なり」という。愛とは神であり、命であり、愛の発動は神の力だ。愛の発動によって宇宙は創造され、万物が発生する。宇宙間いっさいのものはこの愛に左右され、創造も、建設も、破壊も、滅亡も、混乱も生じる。愛の情動のその度合いがよければ生成化育の神業は完成し、愛の情動の度合いが過ぎればついにいっさいを破壊する。人間は神の属性をそのまま与えられている。神の本質が愛である以上、人間の本質もまた愛だ。ただ神と人の違いは、神の愛は無限であり、人の愛は有限であるということ。この無限の神の愛を、神愛と呼ぴ、世間的な愛と区別している。
ろうそくの わが身こがして暗がりを てらすは神の心なるかも父母は からたまの親 主の神は わが玉の緒の命の親なりつくるなき 愛の泉はとことわに 生命の水と湧き出でにけりとこしえの 生命も愛もわが神の いだかせたまう力なりけりにらまれて にらみ返すは人ごころ 笑うてかえすは神ごころなる
■愛善と愛悪

さらに愛には大別して愛善と愛悪の二種類がある。この言葉は『広辞苑』や『日本国語大辞典』にはのっていないから、王仁三郎独特の用語であろう。愛の対象が自分に向えば向うほどその愛は愛悪だ。つまり自己愛ある。反対に愛の対象が家族に、町に、国に、全人類にと外に向えば向うほど、その愛は愛善である。神の愛の対象は、人類ばかりか、動植物にも、鉱物にも、人群万類に及ぶ。家族だけを愛するのは愛悪だが、国を愛するとなれば愛善か、愛悪かという、愛の限界の問題がある。絶対の愛善は、天国にしかない。現実界の愛はすべて物質がともなっているから、どうしても濁りがある。自分の郷里を愛する また日本人が日本の国を愛する、これは人間として当然であり、すばらしいことに違いない。だが神の方から見ると、世界は一視同仁で、どの国もどの人種も愛しておられる。だから神の立場に立つと、得手勝手ということになる。しかも自分の郷里を、国を愛し守るために他をしいたげるとなると、これは完全に愛悪である。完全な愛善は行なえなくても、神愛に近い愛善を行なうことに努力しなければならない。この愛善をさらに分ければ、神への経の愛と、隣人に対する緯の愛がある。
愛善の 心は神に通うなり 神は愛なり善なるがゆえ

釈迦(しゃか)孔子も 基督(きりすと)孟子の御教も 愛善の道説かざるはなし

隣人を あわれむ心を仁という 愛は神なり善は徳なり

大本の 教のみなもとたずぬれば ただ愛善の光りなりけり

神といい 仏といえど根本は みな愛善の別名なるべし

愛善の 道につとむる大本は 神と仏のくべつをたてず

人生の 悲惨苦悩も消えゆかん 人類愛善の道をさとらば

内外の くに人残らず愛善の 道に生かさん生命のかぎりは
■人類愛善会と愛善苑

王仁三郎は大正一四年六月九日に人類愛善会を設立するが、その名の「人類」とは人だけではなく人群万類の略である。そして「愛善」は愛と善という意味ではなく、愛悪の反対語である愛善ということだ。つまり神の愛に近い愛善を人群万類に捧げようというのが、命名の由来だ。王仁三郎は、大正期にそんなコスモス的な思想を持っていた。人類愛善という言葉は、ヒューマニズム、つまり人類愛と混同されがちだが、ヒューマニズムは人間の解放と再生の精神であり、人類愛善は神愛そのものだ。王仁三郎がある座談会で、人類愛善について語っている。「世の中に善というのは、愛よりほかにない。もっともカのできるもの、すべて成功するものは愛と善だ。キリスト、ムハメッドは愛を説き、仏教は慈悲を説き・・・これも愛だが、孔子は仁、仁ということは隣人を愛するということで、仏教も、キリスト教も愛を経に、善を緯に説いている。キリスト教はそれで十字架なのだ。すべての宗教は愛を経に、善を緯に説いている。人類愛善ということは、各既成宗教および今までの道徳教のすべてを一つにまとめた、まあ、いうたら抱擁したのだ。かんじんのエキスをとったような名である。仏教とかキリスト教とかは米みたいなもので、米の中から出た酒の汁が愛と善なのだから・・・」(『出口王仁三郎全集』二巻「神霊問答」)国から徹底的に弾圧され地上から抹殺されたと思われていた大本は、戦後ただちにすごいエネルギーで新発足し、世間を驚かせる。そのときに王仁三郎がつけた名前が「愛善苑」である。愛善苑のエンも、ことさらに「園」の字を避け、「苑」を用いる。「園」にはかこいがあるから、かこいのないひろびろした「苑」を選んだという、王仁三郎の深い意図がある。
愛善苑の設立趣意書にも「神の心は愛善にして、人群万類ことごとくそのまことを生かし、その処を得しむるにある。神の愛善を心とする強き信念と熱情をもってすれば、時難克服の途はおのずから開かれる・・・」とあるが、あのころの燃え立つような気概は、当時少年だった私にも今ではなつかしい思い出だ。愛善苑という名前で活躍したのは昭和二三年までのわずか二年足らず、王仁三郎が昇天し、出口澄が二代苑主になった昭和二四年には大本愛善苑になり、澄が昇天して直日が三代をついだ昭和二七年から戦前の大本の名に復する。それとともに、残念ながら、あの頃の「世界を愛善化しよう」という王仁三郎の意図はあいまいになり、次第に管理化が進んでくる。
国々の きかいはあれど愛善の まことの教はへだたりもなし

かんながら 神の誠のみおしえは 愛善世界の提唱なりけり
愛善の 道におらねば地の上の 国の平和は来たらざるべし

大本の 神は人類愛善の 旗を地上になびかせたまう
■愛に五つの別あり

王仁三郎は『道のしおり』の中で、愛には五つの別があるという。

一 親子の愛 

親が子を愛し、子が親を愛するのは、人類はじめ鳥、獣にいたるまで共通する動物自然の愛だ。だが今日では、親が子を愛しても、子が親を敬い愛することは少なくなったと、王仁三郎は嘆いている。

一 好むの愛 

馬を好むがゆえに馬を愛し、盆栽を好むが故に盆栽を愛する。すべて好むの愛は自分の好みによって自分の心を愛するのだ。馬や盆栽そのものを愛するのではない。

一 義理の愛 

継母が継子を愛するのはおおむね義理の愛だ。夫に対するために愛し、親戚に対するために愛し、世間へ対するために愛することが多い。
一 偽りの愛

口先に愛を唱えつつ、心にその愛がない。偽善者などの国にする愛は、すべて偽りの愛だ。王仁三郎は「誠の愛と信じて人を助けんと思い、真の愛を誤解する人の愛は、偽りの愛となることもあり。心の狭き神道者またはかたくななる取次の愛は多く偽りの愛となるものなり」という。

一 神の愛

正しく美しい愛だ。人をかたより見ず、自分に敵するものを愛し、心の曲ったものを愛して善に導くのは、神の愛である。王仁三郎は「神は善人の田をも照らし、悪人の田をも照らしたもうごとく、いかなる悪しき人たりとも、善人と同じく愛するのを神の愛というなり。神の愛は悪しきものをことさらに慈しむの愛なり」という。

『霊界物語』六三巻一O章「鷺(さぎ)と鴻(からす)」・二二章「蚊燻(かくすべ)」、『出口王仁三郎全集』二巻「神霊問答」、『日月日記』二巻「愛善と愛悪」、『道のしおり』三巻下 

第一〇章 善と悪、美と醜

■現界は善悪美醜(ぜんあくびしゅう)が混交

人間の善悪美醜は、その生きざまと死後の世界に大きくかかわる。では王仁三郎の善悪美醜観は何か。「天地開闢の初めにあたり、清く軽きものは天となり、重く濁れるものは地となった。故に地上は幾万億年を経るといえども、天空の如き清明無垢なることはとうていできないのが自然の道理である」善悪美醜は人によって価値観が異なり、それをはかる尺度のないものだが、王仁三郎は、「善というのは、透明体である霊魂だ」という。「天帝(神)から贈ったところの至粋至純なる清い清い霊魂」なのだ。そして体とは物質そのもので、これを善である霊と対照して悪と呼ぶ。美もまた、神の目からみた美が真の美で、それと対照したものが醜となろう。「天主一物を創造す。ことごとくカ徳による。故に善悪相混じ美醜互いに交わる」(『霊界物語』六巻二六章「体五霊五」)王仁三郎は善悪一如、善悪不離を説き、「悪の中にも善があり、善の中にも悪があり、善悪美醜混交しているのが世の中だ」(『道の大原』二章)という。人間は肉体と精霊で成り立つ。言霊学では、霊をヒ、またはチと読む。人は精霊を止める存在だから、霊(ヒ)止(ト)なのだ。体はカラ、カラタマだ。もともと肉体は精霊を入れるために作られた中身なしの容器である。だから殻、空と同義で、カラタマは「霊魂が空(から)」とか、「霊魂の殻」などの意味がある。また現身(うつしみ・うつせみ)のことを「空蝉」と形容したりするのも、生きがいを失った肉体は、いわば蝉のカラのようなものだからであろう。

そこで「大本教旨」にあるように、霊(チ)と体(カラ)と合し、
からたまも 霊魂(みたま)も神のものなれば 仰ぎうやまへ我とわが身をからたまは よしまかるとも霊魂は いく千代までも生きて栄ゆる

霊体の 力徳により造りたる 万物に善悪美醜あるなり

善となり 悪となるのも力徳の 配合度合によるものと知れ

美と生れ 醜と生るも天帝の みなカ徳の按排(あんばい)なりけり

物体は にごりかたまるものなれば 元より悪しき性質をふくめる

世の中は 善事曲事まじらいて  すべてのものは生(な)り出づるなり

至善至美の 神のつくりし天地も 善悪美醜はまぬがれざるなり

難波江(なにわえ)の 善きも悪きもまじこりて 一つの物ぞ生り出ずるなり 

(一部省略)

善と悪と和合してこそ力が生まれる。世の中のいっさいがっさいが霊と体で成り立つ以上、すべて善悪混交が真相だ。

 

 

 

 

「世の中には神はなにゆえ善ばかりをこしらえぬかと理屈をいうものがあるが、神は大工や左官でないから、指金は持ち給わぬ。善になるも悪になるも、みなそのものの力徳である。それで誠の道におもむいて神力をうけねばならぬ」(『道のしおり』「一巻」)
■人には霊能と体能がある

人間は誰でも霊能(霊的性能)と体能(体的性能)というニつのあい反する性能を具備している。霊能とは、向上、正義、純潔、高雅、博愛、犠牲などという、最高の倫理的、審美的感情の源泉であり、体能とは、呑みたい、食いたい、着たい、寝たい、犯したいなどの欲望をおこさせ、はては人間をして堕落、放縦(ほうじゅう)、排他、利己などの非道徳的行為に導く。ならば霊能が善、体能が悪と思えるが、善と悪とは対照的な符号に過ぎず、絶対的な善の基準がきまらぬかぎり、対照語である悪が、悪いとも不必要ともいえない。もし霊能がなければ他の動物と変わりなく、人間としての価値を失う。人間を人間たらしめているのが霊能だ。だが体能がなければ自己保存もおぼつかなくなり一ヵ月をへぬまに人間はこの地上から滅び去るであろう。人間が人間として生きて行くためには、霊能体能いずれも不可欠であり、両性能に優劣の区別はない。「陰滅すれば陽減す」で、体能が滅びれば、霊能もまた滅びてしまう。霊能も体能もともに宇宙の大元霊から分れ出る二大元質で、甲乙軽重の差はないのだ。霊(善)と体(悪)が合してカを生ずる時、そのカ徳によって善悪美醜がまじり合う。つまりその時の力の配分によって、善悪美醜がきまる。同じ夫婦の子供でも、その時の互いの体や心理状態の都合もあり、霊の状態のよしあしもからんで、男ができたり、女ができたり、美人ができたり、不美人ができたりする。神が力徳によって万物を造った限り、悪をしない人間を造ることは不可能である。
■神の代行者としての自由意思

神は人間をその代行者として造ったが、他の動物と違って特に優れているのは、主に二点であろう。

一 霊魂の働きが複雑精妙であること。

二 幅広い自由意志を持つこと。

霊魂については「一霊四魂」で述べたが、人間が幅広い自由意志を持つとは、善人はなお善人に、また悪人はより悪人になるのも自由、逆に善人に立ち返ることも自由ということだ。だから人間は、生まれながらにして創造的、自律的に悪を行う自由を内包している。悪のできない人間を造ったとしても、それは神の代行者としての自由の資格を失った動物に過ぎぬ。猫でも黙って鰹節を盗んだ時には逃げ、鼠(ねずみ)を取ってくると手柄顔して家人の前で食べる。彼らにも多少の善悪の観念はあろう。だが、罪の意識はあるまい。罪の意識は、良心の有無と結びついており、良心がなければ、罪の意識は生まれぬ。猫に良心はない。彼らが肉や魚を盗んだとき、人間をみたらパッと逃げるのも、それは罪の意識ではなく、人間の体罰を恐れるからだ。ところが虫や魚になると、善悪の観念すらない。害虫は畑の作物を荒すが、悪いことをしているという意識はなく、逆にまた益鳥は害虫を食ってくれるが、善をなしたという意識もない。ただ生存するための行為でしかないのだ。
■神はなぜ罪を犯す人を作ったか

岡本かの子が何かの中で「神さまはなぜ罪を犯す人間をお造りになったのですか。人間の罪を悪となさるなら、初めから全智全能のお力で、罪を犯さない人間を作って下さればいいのに」というようなことを書いていたが、これは誰もが抱く疑問であろう。だがもともと悪を行えないように造られた人間が善をしたとしても、それはたんに本能的善、機能的善であって、はたして善の名に価するかどうか。自由意志は神から人間への最大の贈り物であろうが、やっかいなことには、何をするにしても常に選択をせまられる。いっそ自由意志などなければどんなに気楽であろう。人間、時には多少の悪を犯さねば生きられぬ。選択の余地なく生まれついていれば、犯した罪は自由意志を与えなかった神の責任に帰せられる。それなら、食ってはいけない目前のリンゴに手を出したからといって、罪の意識におびえることもない。純潔をぜひ守らなければならぬとあれば、神は人間を性的不能に造られたらいい。だがそれでは、人類は子孫を残すこととはできないし、生きる喜びすら半減するだろう。罰せられない保証さえあれば、悪の喜びを思うさま味わってみたいと、心の底で願っている人も少なくはあるまい。自分の自由意志で悪への誘いをはねのけ、あるいは悪のどろ沼から這い上がって善をなしとげてこそ、その喜びは大きいのだ。
■神の立場でロボットを作れば

神が代行者として人間を造ったように、人がその代行者としてロボットを作る。この場合、人はロボットに対して神の立場に立つ。今使われている単純な産業用のロボットではなく、選択の判断もできる複雑なロボットが完成されたとして、善悪を考えてみよう。有名なSF作家のアイザック・アシモフが作品の中で、「ロボット工学の三原則」というのを作っている。これは手塚治虫の漫画『鉄腕アトム』に使われており、人工知能の専門的な本にも論じられている。

一 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また何も手を下さずに人間が危害を受けるのを黙視していてはならない。

二 ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第一原則に反する命令はその限りではない。

三、ロボットは、自らの存在を護らなくてはならない。ただしそれは第一、第二原則に違反しない場合に限る。

一応、それらの原則に反さなければ善、反したら悪と仮定しよう。人間でいえば第一第二原則が霊能、第三原則が体能に対応する。さらにアシモフの三原則を拡張し、「ロボットはロボットに危害を加えてはならない。またロボットが危害を受けるのを黙視していてはならない」というのを付け加えるとしよう。アシモフの小説の一場面。ロボットが人間を危害から助けださなければならなくなった。人間を救おうとすると、ロボット自身が破壊されてしまう状況だ。自分が破壊されると人間を救えぬ。かといって、見すごせば第一原則に違反する。どの原則を優先すべきかの判断力を失って、身動きができなくなる。単純なロボットであれば、間違いの少ない、完全に近いものはできる。だが単純なことしかできないから、使い道は限られてしまう。複雑なまわりの状況を判断して行動するロボットを作ろうとすれば、状況のさまざまのレベルから得た情報を総合して、判断させねばならぬ。そこで判断の優先順位をいろいろ決める。欲をいえば、そのロボットにいちいち全部教えていたらたいへんだから、失敗やまわりの状況から自分で学習し主体的に行動する判断力があって欲しい。それだけの精巧なロボットができたとしても、たくさんのロボツトが動いていれば、お互いの間で協力がうまくいかない可能性がある。複雑さが増せば、それだけ判断がむずかしくなる。おまけに一回失敗すると、影響が後に残る。物理的な時間などの制約によって、完全な判断はできない。何度でも修正することが可能なら問題ないが、それは不可能だ。その時点時点で良いと思って判断しても、全体の流れでは悪いかもしれない。その時点で悪い判断をしたと思っても、全体の流れでは良い判断なのかもしれない。ロボットを方向性として善を行うように作ることはできても、完全に求めるのは不可能だ。ロボットに自主的な判断力を与えず、全部人間が面倒を見るしかない。そうすると何のためにロボットを作ったのかというジレンマに陥る。人間のすぐそばでロボットを働かせれば問題はないが、もし遠くで作業させる場合、人間とロボットが電波で通信することに仮定しよう。「判断に困れば人間に相談しろ」といって送り出しても、電波の妨害物や雑音が入ると、ロボットの判断が狂ってしまうおそれもある。そうなると、人間がいくら「それをしてはダメだ」といっても、やってしまう。あるいは誰か他の人間が、そのロボットを自分のものにしようと偽の電波を送れば、そっちのいいなりになってしまう。ロボットに自由意志を与えないと単純なことしかできず、他からの悪にも従うおそれがある。自由意志を与えても、やっぱり悪を犯す可能性がある。親の立場と似ている。自由意志さえもたない子供なら、「この子はどうなっているのか」と先ゆきが不安だし、子供の自由にゆだねたい気があっても、悪に染まる可能性がいっぱいで、やはり心配だ。悪人だ、善人だと決めつけるのは人間の勝手、神の目には善人も悪人も同じ神の子だ。親はできの悪い子ほどかわいいというが、まして神は善人、悪人の分けへだてなどなさらない。ロボットを作る人間なら失敗作はあろうが、むしろ神は人間を巧妙に造り過ぎたのかも知れない。「人間に邪曲のあるは造化力の 巧妙すぎしと悔やます大神」と王仁二郎は歌う。
人間に 邪曲のあるは造化力の 巧妙すぎしと悔やます大神

善悪美醜は時所位によってかわる

ところで何が善で何が悪なのだろう。釈迦が八O歳で入滅するとき、修行者スバッダに「私は二九歳で善を求めて出家し、ここに五O年余となった」と語っている。

釈迦は三五歳で仏になったから、その後は善を求めて求道生活をする必要はないはずだ。にもかかわらず、仏となった以前も以後も、生涯かけて善とは何かを探究し続けたのはなぜなのか。

聖徳太子はこれについて、「修行の結果得られた善はあらかじめ果報を期待して得られたものだから、なんらの果報を求めず、ひたすら身に修めていこうとする善にくらべて逢かに劣るもの」と解釈

している。しかし釈迦の求めた善とはどんなものなのか、私にはよくわからない。なぜならば、善悪美醜は時所位によってかわるから

時所位とは、文字通り、時代と、場所と、その置かれている位置(立場) である。美醜でいえば、平安時代の美人が現代の美人として通用するかどうか、今日の美人なぞ万葉時代には顔をそむけられるかもしれない。時代によって美意識は移り変り、国によっても美醜の基準は違う。

中国では、昔は纏足(てんそく)といって、人為的に足の成長を止め、よたよた歩く小さな足が貴婦人の美だった。ホッテントットを持ち出すまでもなく、人種により、個人によっても美の好みは違う。

善悪もまた、時と所と位置によって逆転さえする。

宗 教、哲学、倫理学の立場からも、善悪の問題は常に追求されてきた。プラトン、カント、ショーペンハウアー、ニイチェと、それぞれの持つ善悪観は違う。キリスト教や仏教、神道、イスラム教などの説く善悪感も明確に違う。だから哲学や宗教の違いがまき起こす争いも、根強く絶えぬ。ヒンズー教徒は牛を食わず、イスラム教徒は豚を食わない。

また時代の要求が、その立場によって、善悪の判断を狂わせてゆく。たとえば太平洋戦争に突入した時、国民は聖戦と信じさせられて勇躍、戦場に向った。聖なる戦いは悪に勝つはずであった。今日では、戦争そのものに聖も善もない。お国のために一人でも多く敵兵を殺すことは忠義であり誇りであったが、今日では「一人の人間の命は地球より重し」といわれる。しかし現在戦っている中近東では、かつての臼本と同じ倫理が通用することであろう。

州によって法律が違うアメリカでは、国内でも善悪の碁準が分れるということだ。世界を見わたしても、ポルノ解禁の国もあれば、罪悪として罰する国もある。

・・・ただ何事も神の手に/任せまつるにしくはない/善悪同体この真理/胸に手を当てつらつらと/直日に見直し聞き直し/人の小さき智恵もちて/善悪正邪の標準が/分かろう道理のあるべきや/この世を造りし大神の/心に適いしことならば/いずれ至善の道となり/その御心に適わねば/すなわち悪の道となる/人の身にして同胞を/裁く権利は寸毫も/与えられない人の身は・・・

 

■法律上の善悪

法律上の善悪というのは社会の運営には必要でも、心の内面の善悪とは一致しない。王仁三郎によれば、法律上の善とは「仮の善」で、最低の道徳を基本にしたもの。法律にそむかねば善かといえば決してそうではないし、法治国家の良民というわけでもない。

それについては『霊界物語』の中で村人と宗彦という宣伝使が語り合っている場面がある。王仁三郎の善悪観がよく出ていると思う。

「今の法律は行為の上の罪ばかりを罰して、精神上の罪を罰することはせないのですが、万一霊魂が罪を犯し、肉体が道具に使われてもやっぱりその肉体が罪人となるというのは、神界の上から見れば実に矛盾のはなはだしいものではありませんか」

「そこが人間ですよ。ともかく法律というものは人間相互の生活上、都合の悪いことはみな罪とするのですから。たとえ法律上の罪人となっても、神界においては結構な御用として褒めらるることもあり、法律上立派な行いだと認められていることが、神界において大罪悪と認められることもあるのです。それだから何ごとも神さまが現われてお裁き下さらぬことには、善と悪との立別けは人間の分際として絶対に公平にできるものではありません。

また人間の法律や国家の制裁カというものは、有限的のものであって、絶対的のものでない。浅間山が噴火して山林田畑を荒し、人家を倒し、桜島が爆発してあまたの人命を致損し、地震の鯰が躍動して山を海にし、海に山をこしらえ、家を焼き、人を殺し、財産をすっかり掠奪してしまっても、人間の作った法律で浅間山や地震や桜島を被告として訴えるところもなし、放りこむ刑務所もなし、裁判することもできぬようなもので、とうてい駄目です。ただ何事も神さまの大御心にまかすより仕方がありませんなあ」(『霊界物語』二O巻八章「心の鬼」)

 

法律は 世人を救うものでなし ただ罪人を罰するのみなり

 

■絶対善も絶対悪もなし

すべて宇宙のいっさいは、顕幽一致、善悪一如で、絶対の善もなければ絶対の悪もない。絶対の極楽もなければ、絶対の苦難もない。歓楽のうちに艱苦があり、艱苦のうちに歓楽がある。また悲観を離れた楽観はなく、罪悪と対立した真善美もない。善悪不二というのは浄土教では「ぜんまくふに」禅宗では「ぜんなくふに」と読むが、本来、善悪の差別対立などないことを意味している。仏典の「煩悩(ぼんのう)即菩提(ぼだい)。生死即涅槃(ねはん)。裟婆即浄土。仏凡本来不二」は、神の道からいえば「神俗本来不ニ」であろう。

山一つみても、頂上もあれば谷もある。木をみても、幹もあれば根もある。人間の体も、頭もあれば足もある。男があれば、女もある。どんな美女でも尻の穴があるから美を保てるので、もしなかったら、美どころか、命さえ保てない。善ばかり思っていたのでは、霊界のことよりできぬ。善悪、美醜上下、明暗すべて裏表・・・きれいごとばかり並べても、大地に住む限り、多少の悪と、隠された醜の部分はまぬがれぬ。

だからといって、「多少の悪ぐらい、神きまは大目に見て下さる」と開き直ってはいけない。また事実そういう弊害もあったらしく王仁三郎は述べる。

「信者の中には善悪不二とか正邪一如という聖言を楯にとって、自分の勝手のよいように解釈している人もあるようだが、これは神が善悪不二といわれるのは中有界に迷える人間に対していわれるのであり、かつ神は善悪にかかわらず慈愛の心をもって臨ませられる見地からおおせられる言葉である。決して人間がうんぬんすべき言葉ではない」(『霊界物語』五二巻一七章「飴屋」)

つまり神は、人の善悪正邪の区別によって、その大愛に厚い薄いの差をつけられない。だからといって、その真理に甘えてはならない。

 

■みろくの世にも悪は滅びない

みろくの世になると至善、至美、至真、天はあくまで青く、明るく、水は水晶のように澄みきって・・・と思う人もあろうが、そうばかりではない。やはり昼もあれば暗夜もある。月夜には水気が大地に下がって露ができ、植物の成育を助ける。だが月夜ばかりだと、水気が多過ぎてかえって害になる。そこで暗夜があって調節する。人間もまた、昼ばかりでは体を十分に休めることができぬ。光には影があり、時には光をさけて影にやすらう。肉体のある限り、ろくの世になっても影の部分、必要悪はなくならぬ。

今の世は、悪いことをしても世間をごまかし表を飾れば、立身出世もできるし、大もうけもできる。正直でくそまじめなばかりに虐げられ、苦しめられ、悲惨な境遇に泣く人がたくさんある。それは悪魔が君臨する世だからだ。

これからは、もうこんな不合理は許きれない。善いことをすればどんどん善くなり、悪いことをすれば片端から打ち砕かれ、悪の思惑の一つもたたぬようになる。それがみろくの世である。

 

■生存と生活は違う

正しい神と正しく向き合えば、当然に神格が内流する。航路を見失った船が、北極星によって正しく向きをとるように。だが内流を受け止めるために、人はどうやって向きを変えるのだろう。理屈で

わかっでいても悪をやめられないのが人間の弱さだからいろんな宗教は戒律でしめつける。

仏教の五戒十重(じゅうじゅう)の五戒は、生きものを殺さない、盗みをしない、男女の間を乱さない、嘘をつかない、酒を飲まないだが、これを完全に守れるだろうか。

小乗仏教の僧の場合、五戒を守っている人もいる。インドのジャイナ教の空衣派は空気を衣としているから、まっぱだかで、口に布を当てている。息を吸った時、誤って小虫を口に入れ殺さぬようにだ。うっかり足を出し、蟻を踏み殺したら一大事。息をするのも歩くのも大変だ。戒律を完全に守れれば確かに聖者だろうが、それで神と向き合えたろうか。五戒に意識を縛られて、生活しているとはいえまい。

王仁三郎は「生存と生活は違う」 という。生活とは、神から与えられた命を完全に活かすことだ。多くの人が生存と生活を混同している。王仁三郎流にいえば、文化生活など、文化風をよそおった生存に過ぎない。大部分の人間がたくましく生存しているか、弱々しく生存しているかの違いだけで、はたして生活しているといえるかどうかを蚕は繭をつくって蛹となり、孵化して蛾となって子孫を残そうとの本能はあっても、蒸されて絹糸にされようなど思ってもいない。

しかし蚕を殺さなければ人の身を包む絹布はできぬ。人は絹を着なくても生きてはいけよう。生きものの皮をはがさずとも、凍え死なない方法はある。だが魚を食うのも、米や野菜を食うのも、そのものの命を断つからには、不殺生戒をまぬがれぬ。大魚は小魚を食い、猫は鼠を食う。それが彼らの生活であり、この天職を果たさねば生きられない。

仏教の場合、植物と動物は区別しており、動物を食べるのは畜生道だが、植物を食うのは戒律にふれない。仏教用語に有情とあるが、情は心の意で、いっさいの生類の総称だ。つまり無感覚な草木や山河を非情とか無情というのに対しての言葉だ。しかし命という意味では、動物も植物も同じこと。植物の命は殺してもよいが、動物の命ならいけないという差別を、神はしていない。宇宙を一つの大生命体とみた場合、それぞれがその中でどう役割を果たすかが大事であろう。

戒律を完全に守る医者は嘘をつけない。癌患者には、お釈迦さん流に「病気ではあるが、癌であるかないか、そういうことには答えません」と告げる。少なくとも嘘はつかなくてすむだろう。患者は

その返事を癌と同義語ととろうし、そのショックで患者が死ねば、不妄語(ふもうご)戒をまぬがれでも、不殺生戒を犯すことになる。

 

開けたる 御代の恵みを浴びながら 生存難に苦しめる世なり

生活は 世の人のため国のため 活きて働く人の業なり

衣食住 外に望みのなき人は 生存競争の衡(ちまた)にさまよう

 

■天下公共のために処するのは善

人間の霊魂には、反省するというすばらしい働きがあるから、善悪の判断にまた悩みもする。「私は絶対に間違ってない」「僕は絶対に正しい.」など強弁しがちだが、王仁三郎によれば、人に「絶対」はない。「絶対ということが絶対にない」といいきってしまうと論理の矛盾だが。

善悪の問題には、全体と部分といった関係があるようだ。自己にとっての善がその属している集団にかかわれば悪になりうる。一集団にとっての善が、もっと大きな集団に、たとえば国にとっては悪かも知れない。ある国の善が世界全体からみて恐ろしい悪になることだってある。神の目から見ての善がそれぞれの段階で一致して善となればすばらしいが、なかなかできない。

完全な悪などは、人間の分際として、したくてもできない。万類を絶滅させかねない核兵器にしても、持っている者は核抑止力という理屈によりかかり、世界の平和を守る手段としての善だと主張す善悪が時所位によって異なるとしても、せめて最低限の善悪の基準がほしい。それは何か。

「善は天下公共のために処し、悪は一人の私有に所す。正心徳行は善なり不正無行は悪なり」(『霊界物語』一巻、一二章「顕幽一致」)

どんな善であれ、私欲を肥やすためのみに行うのは、真の善とはいえないし、たとえ多少の悪が混じっていても、天下公共のためになる行為は善といわねばならない。

「文王一度怒って天下治まる。怒るもまた可なりというべし」で、ときには怒ることも必要だ。また何もしないのは、かえって悪に通じる。竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)などは、せっかく恵まれた天分を活用もせず、行動しないのだから、神の目からはやっぱり悪だ。

「人間には神の属性がすべて与えられている」との王仁三郎哲学によれば、凡人の中に神のすべてがある。言い換えれば、我々の持っている性質そのままが、神の分霊である以上、天国も人の作る現界も、本質においては差がないということだ。

仏の大慈悲とか神の恵み幸いといえども、凡人の欲望と本質的に変わらない。だがその働きに、無限と有限という天地の差がある。凡人は自分の妻子眷属だけを愛して満足し、他をかえりみない。神は、三千世界のいっさいをわが子とし済度しようという大欲望がある。凡人は小楽観者であり、小悲観者で、神は大楽観者であり、大悲観者だ。

天国は大楽大苦、裟婆は小楽小苦の境域である。理趣経に「大貪大痴(だんどんだいち)是三摩地(さんまぢ)。是浄菩提(じょうぼだい)。淫欲是道(いんよくぜどう)」とあるように、世間のさまざまな姿がそのまま深遠な道理をあらわすという、当相即道(とうそうそくどう)の真諦(しんてい)である。

人間の霊魂は本来、これを宇宙大に活動させることのできる天賦的性質を与えられている。だから神俗、浄穢、正邪、善悪などというのも、この素質を十分に発揮して活動するかしないかにつけられた符合にずきない。

 

天の下 公共のために身をつくす 人は誠の善神にぞありける

私欲(わたくし)の ために力をつくす人は 悪魔の神のかがみとぞなる

公の ために争うひとびとは 神の御眼(みめ)より罪とはならじ

国のため 世人のためといいながら 世の大方は身のためにする

 

■神が表に現われて

哲学者や学者がいくら理性で善悪を分類し論じてこようとも、不完全な人間に真の判断がつくものではない。人間は知らず知らずの間に罪を重ねる。世の中には、目に見えない罪人は数限りなくある。王仁三郎は、「中でも一番罪の重いのは学者と宗教家だ。神さまからいただいた結構な霊魂を曇らせ、腐らせ、殺すのは、誤った学説を流布したり、神さまの御心を取り違えてまことしやかに宣伝したり、あるいは神さまの真似をするデモ宗教家、デモ学者がもっとも重罪を神の国に犯している」という。その学者や宗教家が尊敬され、尊重される時代だから、筆先で「今は獣の世、悪の世」と嘆く。

今日「最善」と思ったことが、明日は逆に「非常な悪」だったと気がつく。それだけ進歩したことを、むしろ喜ぶべきだろう。だから今日としては今日の最善を行なうよりない。明日になって過ちに気がついたら、悔い改めて正せばいい。悪と知りながら行うことは、もっとも悪い。

善と思うところを行なう日々にも、ふと迷いはあろう。神の目からはたして善かどうか。だからこそ、神の教えを求める必要がある。

「教えとは人の覚(さと)りのおよばざる 天地の神の言葉なりけり」

また大本の『基本宣伝歌』の中にこういう一節がある。

「神が表に現われて、善と悪とを立別ける、この世を造りし神直日、心も広き大直日、ただ何事も人の世は、直日に見直せ開直せ、身の過ちは宣り直せ」

善悪を裁くのは人ではなく、神である。我執(がしゅう)にとらわれて過ごした日々を省み、神の目を恐れるあまり縮(ちぢ)こまっていてはいけないのだ。わが心に見直し聞き直しながら最善と思ったことは勇んで実行し、知らずに犯した罪けがれは神に祈って見直し聞き直していただく。そこに信仰の喜びもわいてくる。

 

 

 

〔基本宣伝歌〕

朝日は照るとも曇るとも/月は(みち)つとも虧()くるとも/たとえ大地は沈むとも/曲津の神は荒ぶとも/誠の力は世を救ふ/

三千世界の梅の花/一度に開く神の教/聞いて散りて実を結ぶ/月日と地の恩を知れ/この世を救ふ生神は/高天原に神集ふ

神が表に現はれて/善と悪とを立別ける/この世を造りし神直日/心も広き大直日/ただ何事も人の世は/直日に見直せ聞直せ/身の過ちは宣り直せ

 

■三猿主義は去勢政策

 

 

 

 

 

■鬼も大蛇も料理する

王仁三郎は、世間で悪人といわれる人でも上手に使った。「毒にならぬものは薬にもならぬ。毒もうまく使えば、たいした働きをするものである。毒にならぬものは、ただ自分だけのことができるぐらいのものだ。

『聖師さまのそばには悪魔ばかりがついている』とののしるものがあるそうだが、よし悪魔であってもさしつかえないではないか。毒になるものは薬になる。かのいわゆる善人なるものは、ただ自分自

身を救うことができれば関の山だが、悪魔が一朝大悟徹底改心すれば、多くの人を救う働きをするものである。

鬼も大蛇も救わにゃならぬこの神業に、尻の穴の小さい、毛ぎらいばかりしていて、他人を悪魔あつかいする人たちが、信仰団体の中にもたくさんあることは嘆かわしいことである。また悪魔を料理しうる人材がいかにもすくないことも、嘆かわしいことの一つである。お人のよいばかりが能ではない、私も本当に骨が折れる。誰か私に代わって、鬼も大蛇も料理するという偉才が早く現われないものかなあ。このワニ口は、鬼や大蛇はまだおろか、どんな骨の固い、腕節(うでっぷし)の強い獣物でも、かみこなすだけの強い歯を持っておるつもりだ。御心配御無用」(『水鏡』「毒と薬」)

『霊界物語』一巻一ニ章「顕幽一致」・六巻二O章「善悪不測」 ・同二六章「体五霊五」・一五巻八章「ウラナイ教」・二O巻八章「心の鬼」・三八巻一章「道すがら」・五二巻第一章「真と偽」・第一七章「飴屋」、『神の国』昭和七年三月号「大本は宇宙意志の表現」、昭和七年五月号「宗教は酒の如し」、『道の大原』ニ章、『道のしおり』一巻、『大本略義』「霊主体従」、『水鏡』「ミロクの世」、同「毒と薬」・・「三猿主義は徳川氏の消極政策」

 


第一一章 霊主体従

■主と従の関係を明白に

人は生きている限り、誰しも霊能と体能を持つ。この宇宙間で意義ある活動をするには、どちらか一方を主とし、他方を従にしなければならない。右足と左足はどちらも大事だ。ところがお互いに先に進むことを主張すれば、立ち往生するより仕方がない。一方が先に足を踏み出すことで、歩くという行動が可能になる。

同じ体型、同じ力を持った両力士ががっぷり四つに組み全力で押し合ったとしても、勝負がつかぬ。水入り引分けに終ってしまう。どちらかが先に技をかけ、他方が受けることで相撲が成立つ。

男女は同権だが、いったん夫婦になると、どちらかの意見を立て他方が従わないと、家庭の中が不統一になる。そこで夫主妻従、あるいは状況によっては、妻主夫従となろう。

主と従の考え方の基本が決まると、それは固定的、半永久的でなければならない。たとえば日本では「車は左」が原則だが、規則が一週間おきに左になったり右になったりすると、混乱がおこる。だから霊能、体能ともに大事でも、霊能を主にし体能を従にせよというのが、王仁三郎の主張であり、これを霊主体従という。逆に体能を主とし、霊能を従とした生き方を、体主霊従という。

 

むらきもの 心尊み体()を次に するはまことの神にかなえる

 

■進左退右(しんさたいう)が宇宙の大原則

言霊学上、左は「火足(ひたり)」の義で火の系統、霊の系統を示し、右は「水極(みぎ)」で水の系統、体の系統であることを示す。宇宙全体の運動は「進左退右」が原別であり、相応の理によって、霊主体従が人として生きるべき道だと王仁三郎は説く。

「宇宙全体は人間の理智想像で推定するにはあまりに偉大に過ぎ、とてもその運動の法則がその通り進左退右になっていると証明することはできないから、小宇宙たる人間その他二、三の卑近な実例をあげて説明する」 (『大本略義』「進左退右」)と王仁三郎は前置きして述べている。

意識するにしろしないにしろ、運動という運動はすべて左が進み、右が退くようにできている。三歳の幼児が拍手する場合でも、常に先方に出るのは左手で、後方に退くのは右の手だ。摺鉢で味噌をする時、碾き臼をひく時、その他類似の無数の場合においても、進左退右の原則に従っている。もちろんこれにそむくこともできなくはないが、妙に勝手が悪く、骨が折れることおびただしい。  昔の柱時計など、ふつう時計用の螺針(ねじ)と時報用の螺針と双方別々に取りつけてあり、左巻き右巻きの二種に作製してある。右巻きの方は巻きやすいが、左巻きの方はおびただしく力がいる。

動静脈によって体内を循環する血液も同一原則に従い、祭式で左足からまず踏みだし、後退に際して右足から退くのも、やはり自然の天則だ。

 

■霊主体従と体主霊従

筆先に「身魂の立替え立直し」という言葉がしばしばでてくるが、ミタマといえば霊魂だけをさすのではない。身は身体、または物質界をさし、魂とは霊魂、心性、神界等をさす。霊と体の関係を別の角度からいえば、すべて宇宙は幽の幽、霊が元で顕の顕である体が末になっているから、宇宙一切は霊界が主であり、現界が従というのが大原則だ。これを霊主体従と称する。

霊主体従の身魂を霊()の本の身魂、体主霊従の身魂を自己愛智(ちしき)の身魂ともいう。霊主体従の身魂は「いっさい天地の律法にかなった行動を好んで遂行しようとし、常に天下公共のために心身をささげ、犠牲的行動をもって本懐となし、至真、至善、至美、至直の大精神を発揮して救世の神業に奉仕する、神や人の身魂」(『霊界物語』巻「発端」)である。

一方、体主霊従の身魂は「私利私欲にふけり、天地の神明を畏れず、体欲を重んじ、衣食住にのみ心をわずらわし、利によって集まり、利によって散じ、その行動は常に正鵠を欠き、利己主義を強調するほか一片の義務もわきまえず、慈悲を知らず、心はあたかも豺狼(さいろう)のような不善の神や人」(『霊界物語』一巻「発端」) をいう。

王仁三郎の善悪観によると、霊主体従が善で、体主霊従が悪だ。愛善は霊主体従、愛悪は体主霊従の同義語だと考えてもよい。

「愛にも善があり、悪がある。愛の善とは、すなわち霊主体従、神より出たる愛であり、愛悪とは体主霊従といって、自然界における自愛、または世間愛をいうのである。いま口述者(王仁三郎)が述

ぶる世間愛とは、決して世の中の博愛や慈善的救済をいうのではなぃ。おのが種族を愛し、あるいは郷里を愛し、国土を愛するために他をしいたげ、あるいは滅ぼして、自己団体の安全を守る辺境的愛を指したのである。(『霊界物語』四七巻九章「愛と信」) そしてこの愛善を大別すれば、神へ向かう経の愛と、隣人に対する緯の愛がある。

 

■霊五体五が理想的

善を求めるあまり霊能をのみ高める努力をすれば神に近い崇高な人であるかのようだが、そうではない。霊主体従といっても、その関係はあくまで霊五体五であることが必要だ。たとえば縦横の長さの和を十として、どの比率の四角形の面積が一番大きいか。一対九ならば九、二対八では一六、三対七だと二一、四対六で二四、五対五ならば二五であるように、縦横いずれも五の正方形の面積が最大となる。かりに一方が零ならば、いくら掛けても面積は零で、なんの広がりも持たぬ。

それと同様に、霊五体五が一番力を発揮する理想的な状態であり、霊六体四、霊七体三もまた悪となる。霊能、体能いずれか零になれば、人間としての存在価値もまた無に等しい。

五分五分ならば、体五霊五でもよさそうなもの。しかしこの地上は物質世界である限り、どうしても体能の力が強くなる。体五霊五のつもりでも、気がつかぬうちに体六、体七と引きずられやすい。

だから同じ五と五でも、霊を主にし体を従にせねばならない。

王仁三郎は「体主霊従といえども、体五霊五は、すなわち天の命ずるところにして、これに体、超過すれば、いわゆる罪となるなり」(『霊界物語』六巻二六章「体五霊五」)

「おなじ体五分、霊五分といえども、その所主の愛が外的なると内的なるとによって、霊五体五となりまた体五霊五となるのである。

ゆえに霊五体五の人間は天国に向かって内分がひらけ、体五霊五の人間は地獄に向かってその内分が開けているものである」と語る。すばらしい騎手と名馬が組めばまさに「鞍上(あんじょう)人なく鞍下(あんか)馬なし」で、人馬一体の疾走ぶりを見せてくれる。そのためには、騎手も馬もともに大事だ。          

霊主体従というのは、人が馬を乗りこなした状態だが、体主霊従は、神の目から見れば、馬が人を乗せた状態といえる。

 

吾みたま 守るは吾のからだなり 吾が身守るも吾の霊魂(たましい)

病悩(いたずき)の 身を天地にいのるとも 夢現世(うつしよ)の医師をわすれな

 

■高熊山修行は空前絶後の実習

人生の意義は、顕幽一致、霊体一如の真理によって、現界で大活動をし、天地の経綸に奉仕することだ。よく霊能を高めようとして深山幽谷に入り、難行苦行をする人があるが、すべて「業」は「行」だから、たとえ一ヶ月でも人界の事業を廃して山林に隠遁し、怪行異業に熱中するのは一ヶ月の社会の損害だ。神界からみても、人生のサボタージュである。王仁三郎は、「現界において生成化育、進取発展の事業につくすをもって第一の要件とせなくてはならぬ」(『霊界物語』一巻二章「業の意義」)と述べる。

「神界の業というものは、そんな軽々しい容易なものではない。しかるに自分から山林に分入りて修行することを非難しておきながら、かんじんの御本尊は一週間も高熊山で業をしたのは、自家撞着(じかどうちゃく)もはなはだしいではないかとの反問も出るであろうが、しかし自分はそれまでに二十七年間の俗界での悲痛な修行を遂行した。その卒業式ともいうべきものであって、生存中ただ一回のみの空前絶後の実修であったのである。

世に『釈迦でさえ檀特(だんとく)山において数ヶ年の難行苦行をやって、仏教を開いたではないか。それに僅か一週間ぐらいの業で、達観することを得るようになったとは、あまりの大言ではあるまいか』と疑問を抱く人々もあるであろうが、釈迦は印度国浄飯(じょうぼん)王の太子と生れて社会の荒き風波に遇()うたことのない坊ンさんであったから、数年間の種々の苦難を味わったのである。

自分はこれに反し、幼少より極貧の家庭に生れて、社会のあらゆる辛酸(しんさん)を嘗()めつくしてきたために、高熊山に登るまでに顕界の修行を了え、また幾分かは幽界の消息にも通じていたからである。(『界物語』一巻二章「業の意義」)

肉体と霊は、グラスと水のようなもの。丸いグラスなら水は丸い。四角い、グラスにそそげば水も四角くなる。肉体を苦しめて、正しい霊がかかるはずはない。

王仁三郎は「悪霊は人の空虚に入って害悪を及ぼす。打たれたり、あるいは断食の修業などすれば、肉体が衰弱して空虚ができるから、そこに悪霊が感応するのである。空虚があっては、正しい人ということはできない」といっており、またこんな歌を詠んでいる。

 

礼無きは 醜(しこ)の宗教家(とりつぎ) 裸身(はだかみ)の 滝にうたれて太祝詞(ふとのりと)宣る

 

普通には、不思議な行をする人たちをありがたがる風潮があるが、「正法に不可思議なし」だ。行者などが火の上をはだしで歩いたり、腕に針を刺したりして平気でいるのは、悪霊に混依されているからであろう。そうなると感覚を蕩尽(とうじん)させたり、意念を断絶させたり、いろいろ不思議なことをする。催眠術にかかったときなどまったく邪霊の活動ばかりで、肉体を守る精霊の活動がさまたげられると王仁三郎はいう。

 

礼なきは 醜の宗教家 裸身の滝に打たれて太祝詞宣る

 

■体主霊従的なお賽銭の上げ方

霊主体従は、『霊界物語』の中でも、大きなテ―マとしてつらぬかれている。具体的な行動で考えよう。

神社にお参りして、お賽銭(さいせん)を上げ、一心こめて家の繁栄を神に祈る。これは善男善女の美しい姿に違いない。神に祈るという行為は、たしかに霊主体従であろう。ただで願いごとをするより、お妻銭を上げた方がいい。しかしその上げ方が霊主体従的行為であろうか。

子供にお菓子を与えるにしても、紙に包んで上げる。お年玉なら、可愛い袋に入れて上げる。まして神さまに頼みごとをしておきながら、犬や猫に餌をくれてやるように、賽銭箱にポンと小銭を投げ入れる。あなたなら、他人から物を投げ与えられて、ありがたくいただくだろうか。もし本当に神様をあがめられるなら、清浄な白紙に包んで玉串料としてお供えするのが当然であろう。そういう意味で、大本には賽銭箱がない。

神社に参ったら賽銭を上げるのは長い間の日本人の慣習であり、初詣でにぎわう神社など、妻銭箱を除けば収拾がつかなくなるだろう。ただここでいいたいのは、霊主体従的善行と思ってることに、案外、体主霊従的なおとし穴があり勝ちだから、常識を一度ひっくり返してみつめ直してほしいのだ。お賽銭の上げ方ばかりか、お金と引きかえに御利益を得ようとする心そのものが、すでに体主霊従的行為ではないだろうか。

お賽銭で人のいいなりになるようでは、真の神ではない。人にこき使われる低級霊だ。また祈ったから願いをかなえ、祈らぬから頬かむりするなら、神の大愛にもとる。

第一、ろくに勉強もしないで合格を祈っておき、落ちたからと神を恨むなど、それは祈りではなく、取引きに過ぎない。ましてや人目に立っところに寄進者の名をかかげて誇ったり、鳥居を立ち並べ

て名を書き入れるなど、虚栄まるだしの身欲信心の看板で、思わず顔をそむけたくなる。

天地を活かす真神の大愛に身も心もすべてをゆだねる心こそ、霊主体従的祈りだ。幾つもの荒波を乗りこえて平穏無事に生かされている日々を神きまのおかげだと気がつけば、思わず手を合わせたくなる。神に感謝せねばすまぬ心がおきる。心にその思いが起きればそれを形で現わすことが霊主体従だ。

だから妻銭でなくても、畑でとれた物、自分で煮炊きした物でもよい。それは何も金額の多寡ではない。これについて、一つの挿話を紹介しよう。

 

■長者の万灯、貧者の一灯

大本開教初期の明治二七(一八九四)年秋、金光教は出口直の霊カを利用して何鹿(いかるが)地方に教勢を拡大Lようと考え、布教師の奥村定次郎を綾部に派遣した。そして直に病気を治してもらった人たちを中心に教会を開く。

開設当初は信者たちの寄進やお供え物が有力な維持費である。だがその受け方が、奥村と直は対象的であった。初めのうちはなんでも喜んでおしいただいた奥村だったが、信者がふえ出すと、金を寄進する者には顔をほころばすが、大根や豆では嬉しそうな様子もしない。ところが直は逆である。信者は直の面前では、金を寄進するのは気がひける。なんだか名誉でない、気恥ずかしい思いがする。

直は、畑でとれた大根を煮たり、麦をひいて麦こがしにしたりして持って行くと、「これはまあ、お手間のいった御馳走はんを」とていねいに挨拶し、心から嬉しげであった。お供えに大根一本あっても「みなさんでおかげをいただいておくれなはれ」といって、信者たちに分ける。もちろん直のような態度では経済的に教会を維持できるわけはないが、信者たちには、「神さまは人の真心を喜ばれる」ということが素直に胸にしみいった。

「長者の万灯、貧者の一灯」の言葉があるように、神はその人の誠心をお受け取りになる。お祖父さんが孫から飴玉をもらうと、たとえそれが誕でぺちゃぺちゃでも、目を細めて口に入れる。お祖父さんにとっては、飴玉で示される孫の愛情が、どんなものよりも嬉しいのだ。

 

■誠心と魔心

宗教儀式だから霊主体従だと思うと、大きな間違いだ。たとえば祝詞やお経を唱えることは霊主体従のように思えるが、そのあげる人の心の持ち方によろう。形式だけは立派でも、見てくれよがしで心が外に向っていては、かえって神に無礼になる。祝詞やお経さえあげれば、機械のスイッチを入れるように、誰でも同じ結果が生じるというものではない。

「祝詞はすべて神明の心を和らげ、天地人の調和をきたす結構な神言であるが、その言霊が円満晴朗にして初めて一切の汚濁と邪悪を払拭することができる。悪魔の口より唱えられるときは、

世の中はますます混乱悪化するものだ。けだし悪魔の使用する言霊は世界を清める力が無く、欲心、嫉妬、憎悪、羨望、憤怒などの悪念によって濁っている結果、天地神明の御心を損なうにいたるからである。

それ故、日本は言霊の幸はう国とはいっても、身も魂も本当に清浄となった人がその言霊を使って初めて、世のなかを清めることができる。これに反して、身魂の汚れた人が言霊を使えば、その言霊には一切の邪悪分子を含んでいるから、世の中はかえって暗黒になるものである」(『霊界物語』一巻一七章「神界旅行四」)

 

大神の まことの道に入りながら 真言魔言のはき違いする

いのるとも 心に曲のある時は 神の救いの如何であるべき

世のためと 祈る真人ぞすくなけれ 底の心はわが身のためのみ

太祝詞 ながなが称へ私利をのみ 祈るは誠の信徒にあらず

礼なくて 黒き心もつ人の  いのる言葉にしるしあらめや

■赤血球は霊能・白血球は体能

言霊学では霊をチと読むと述べたが、王仁三郎は、霊を運ぶのは血液だという。

われわれの全身には、血液が回っている。その血液は血球(赤血球・白血球・血小板)と無色透明の血漿で成り立つ。血液が赤く見えるのは、赤血球がヘモグロビン (血色素)なる生態色素をふくむためである。

王仁三郎は「霊は形のないものだが、霊が血管の中を動いているから血液が赤いのだ」という。体外に出た血がやがて凝結して黒っぽく変色するのも、霊が血液から抜けたからであろう。さらにまた、「血球の中の赤血球が霊能で、白血球が体能だ」と語る。赤血球が霊的、精神的方面をつかさどって、白血球が体を発育させる。そして血管の中で赤血球と白血球がまじり合って、動静解凝引弛分合の八力の働きをする。「人間が死んで霊がなくなったら、血液は元通りにあるが、その水分が死体に吸収されて見えなくなるのだ」ともいっている。

これらの王仁三郎の説は医学的には根拠のないものであろう。だが医学の場合は、ミクロの世界といっても目でふれうる範囲でしか考えられないから、霊と血液とのかかわりなど正しいかどうかは判断できないであろう。物質レベルで血液の凝固反応を論じても、その原因が背後にあって観察できなければ、物質的な二次的な現象を原因として考えることになる。将来解明されるのを待つしかない。

「ミクロの決死圏」という映画の中で、ミクロに縮小された人間が、無数の円盤状の血球の浮かんだ血漿の海を潜水艦で航海するが、肉体のメカニズムの美しき、神秘さに圧倒され、登場人物の一人のせりふそのまま、まさに創造主の意志を感じてしまった。

白分の潔白を証明したさに、「まっかな血を見せてやりたい」と口走る。真実のあかしに血判を押したり、血縁関係を大事にするのも、血が霊との潜在観念があるからであろう。血液霊という血と一体化した霊魂観念は、原始宗教では重要な役割を持っている。殺した敵の血をすすったり、動物の血を神に供えたりする。やくざが兄弟分の関係を結ぶのに血をすすり合ったりするのも、本能的な血と霊とのからみの影響であろう。

『霊界物語』一巻「発端」・二章「業の意義」 ・一七章「神界旅行四」 ・六巻二六章「体五霊五」・四七巻九章「愛と信」・五二巻一章「真と偽」・同一七章「飴屋」、『大本略義』「進左退右」・「霊主体従」、『道の大原』二章、『玉鏡』「お玉串について」・「霊と血」 ・「血」、『水鏡』「白血球と

赤血球」

 


第一二章 霊  衣

■死者の霊衣と生者の霊衣

人が死ぬと精霊はそれぞれの霊界へ旅立つ。その精霊の霊身は、肉体が服を着ているように、それなりの霊衣(れいい)をつけている。霊眼のきく人なら、その霊衣が見える。霊衣(レイエ)といえば仏教での喪服をさすが、この霊身のまとう霊衣は一般的にはオーラと呼ばれている。人間の持つエネルギーが、人の形なりに放射して見える、最近では、漫画などの影響で子供でもオーラという言葉は知っている。

生きている精霊も死んだ精霊も霊衣はあるが、形は明らかに違う。霊衣を霊視すれば、生者と亡者の精霊の区別は判然とつく。生者の霊身は丸く霊衣を体一面に放出しているが、亡者の幽体は頭部が山形にとがり、三角形に見える。それも霊衣は腰から上までで、腰以下は消えている。「幽霊に足がない」と俗にいわれるのも、見えないからであろう。

霊能者としての王仁三郎はたくさんの病人を治しているが、どんな病人でも直せたわけではない。病人を霊視して、その霊衣の厚薄と頭部の円角の程度で判断を下すが、「百発百中間違ったことはない」と豪語した。名医が匙(さじ)を投げた人でも、その霊衣が厚く光があれば、必ず全快するし、「大丈夫」と太鼓判を押された病人でも、霊衣の頭が山形になっていたり、薄く破れていたら助からない。もし霊衣を透視できる医者がいたら繁盛するだろう。霊衣の三角っぽい患者はほかの病院に回し、重病人でも頭が丸みをおびていたら引き受ける。

死者をお棺に入れるとき、頭に三角の布をつける習慣がある。幽霊の絵にもそれを描く。あれは亡者の霊衣をシンボル化したのであろう。

 

■人の霊衣を見て法を説く

王仁三郎は人の霊衣や智恵証覚を霊視してその人の知能程度や精神程度を判断し、その一、二分ばかり上のことを教えた。相手はよく理解する。ところが三、四分高いところを説くと、相手はわからない。「この前にはこういわれたが、こんどは少し違う。どちらが本当か」と逆に疑問を抱く。だから王仁三郎は、いつも自分からピントを合わせる。無学な人にでも、学者にでも「王仁三郎はおれよりちょっと偉いかな」と思わせていた。

「信仰は、その人の内分に入って適切に説かないと、必ず問題がおこる。人を見て法を説くのでなければ、どんなに名論卓説でも効果はない」

霊衣の薄い人には、王仁三郎は言葉を多く使い、同じところまで下りていって手を引くように指導する。だがもういちいち機嫌をとらなくとも、一人歩きできるとみれば、本人の自由意思にまかせる。と、「初めのうちは聖師さまはちやほやして下さったが、この頃は知らん顔で・・・」などと不平をいいだす。人を導くということは、ほんとうに骨が折れると、王仁三郎もぼやいている。

 

■破れた霊衣を現代人は宝石でごまかす

霊衣は厚ければ厚い人ほどすばらしい。有徳の精霊は厚いばかりか大きく広がっていて、目を射るように光沢が強い。彼らは人々を統御する能力を持っている。

釈迦や仏像の絵には頭部に大きな後光が捕かれているが、あれも霊衣だ。特に大きいので、光輪という。王仁三郎は「現代の人間は霊衣の立派な人が少ないから、大人物が出ない。人間はおいおいと霊衣が薄くなり、光沢を放射することもなく、邪神界の神々の霊衣のように少しも権威がなく、破れている」(『霊界物語』二巻「総説」)と嘆いた。

ダイヤモンドのようなまばゆい宝石で身体を装飾するのは、邪神界の神々の模倣だという。正神は全身ことごとく光に輝いているため装飾をつける必要はない。ところが邪神界の神々は曇りにみちて穢いから、いろいろな宝玉を霊身に飾って、光に包まれた正神の真似をする。

太古の神々は、光のない天然の石を磨いて五百津御須麻琉(いほつみすまる)の珠を作り、首や腕や腰のあたりの飾りにしたが、ダイヤモンドのような光を放つものを身につけることを軽蔑した。光のある玉を身にまとうのは、自身の光の弱さを示すこととみられるのだ。

「愛善の徳に満ち信真の光がそえば、身に宝石を付着せずとも、幾総倍の光を全身にみなぎらせ、知らず知らずの間に尊敬されるものだ。私は婦人などの指または首のあたりにちりばめたいろいろの宝石の鈍き光を眺めながら、浅ましきを感ずる」(『玉鏡』「光る宝石と曲津」)

力を誇り、権勢を示すために造られているような庭園を見かけるが、王仁三郎によれば、庭の樹木や草花までその家人の徳性を表現するもので、どんなに金をかけ、人力を尽くして形づくっても、観る人が観れば貧弱にしかうつらない。

金とか地位や名声の力で人を統御しようとする世の中だが、それもも霊衣の薄さを補うため、自分の弱味を本能的にカバーしようとするからだ。「金の切れ目は縁の切れ目」で、そうした人は、金や地位がなくなると誰も寄りつかなくなる。

別におもしろい話をするわけでもないのに、なんとなく慕い寄りたい気分にさせる人がいるが、よほど霊衣が厚いからだろう。霊衣の厚い人ほど、人がなつく。それは霊衣の中に深く人を包みこむためだ。

反対に、頭がきれ立派な地位にあるが、そばに寄りつきにくい人がいる。そういう人は、霊衣が薄い。身体と身体とが接触しない限り、霊衣の中に入れない。どこか寒々しくて、そばを離れるとほっとする。相互の関係がきわめて冷ややかで、欲によって常に離合集散する。

有徳の人になれば、どんな悲惨な境遇におちいっても、「どこまでも」とついてくる者もすくなくない。夫婦の情合が格別なのは、たとえ薄い霊衣の人であっても、お互い霊衣に触れ合う度合が濃いためである。

 

■霊気は足先からも出る

霊衣とは、精霊から発する霊気、気の形象化であろう。よく手のひらから「気」がでているというが、手ばかりか、足からも出ている。

釈迦が成道して山を下り、父浄飯王に会見したとき、王は仏足をいただいて礼拝したといわれる。仏足跡(ぶっそくせき)を拝む信仰はインドでは仏像崇拝より起源が古く、南アジア一般に行なわれているという。

王仁三郎は、釈迦が父王に足を拝ませたことについて、こう語っている。

「それは実際に親への孝行であって、永年の修業によって得た霊徳を父に贈与する最もよい方法であった。元来霊気は、四肢の指先において最も多く放射するものである。特に足の指先が一番多く霊を放射するのであるから、釈迦が足を父の額につけて、先づ一番に父に霊徳をわかたんとしたのだ。満足したといい、足らうといい、円満具足といい、みな足の字がつくのはこの理由からくるのである」(『玉鏡』「仏足頂礼」)

大正五年一O月五日(旧九月九日)、出口直、王仁三郎、妻澄や役員信者ら八一人が高砂沖の神島に渡った。これを「神島開き」といい、大本にとって重大な歴史的転換になった神事である。

王仁三郎は上陸にあたって、参拝者全員に「わしより先に上がってはならん」と厳重な布告を出していた。ところが船が接岸したとき、どうしたわけか一人の男が人々をかきわけ、砂浜をかけ出して

いった。王仁三郎らが上陸すると、先に走った男が、砂浜で、亀が甲羅を返したみたいにもがいている。男は京都に住む女郎屋の親父だ。彼は泣き叫んだ。

「神さんはわしをここまで連れてきながら、人前で恥をかかせるなんて殺生や」

当時の役員の梅田信之がひざまずいて鎮魂したが、男の背中は弓なりに硬直して、抱き起こすこともできない。梅田は王仁三郎に助けを求める。

王仁三郎は無首のまま素足になって、左足を上げて男の足から顔にかけて逆なでし鎮魂の姿勢をとると、「許す」と一声。すると男の体は急にやわらかになって、自分の力で起き上がった。この情景は多くの人が目撃したわけだが、その中の一人佐藤尊勇が後になって王仁三郎に抗議した。

「人間は神の生き宮どっしゃろ。それをなんぼ先生かて、足で鎮魂するやなんて、あんまり馬鹿にしとるやおへんか」

「仕方ないのや。男は左足で逆なでしてやる。女は右足で頭から足へとなでてやる。神さまから罰せられたやつを治すには、こうせなあかんのや。よう覚えとけよ」

 

■霊気の色

霊気には色がある。人の心が平和と喜びと慈しみに満ちている時、つまり愛善の精神がみなぎっている時は、その五体から明紫の霊光が放射する。そうした人々の集いでは、ほのぼのした霊光に包まれて、人間ばかりか動植物まで、精神的、物質的生長力が旺盛になってくる。

反対に人の心が乱れ憎悪に満ちている時、つまり愛悪の精神に犯された時は、五体から暗赤色を放射する。これは常に破壊性、殺害性の力を持ち、そのために刺激を受けると、精神的にも物質的にも生長力を阻害される。校内や家庭内暴力のように、衣類を裂き、器具を壊すなどの突発的行為も、統合された破壊的色素の触発による一つの働きである。

この愛悪の霊的色素がだんだん濃度を増し天地に充満してくると、肉体的には悪病が広がり、精神的には不安慎悩、猜疑が高まって、ついには争奪のちまたが出現する。

愛悪の色素を放射することの有害性はわかっても、かといってそう簡単に愛善の色素に切りかえられるものではない。だから日本では昔から、禊祓(みそぎはら)いという邪気を払い清める行事がある。大麻(おおぬさ)による大祓(おおはらえ)、祝詞奏上、鎮魂などはすべて禊祓の一方法だ。しかし人間が悔い改めず、邪気の充満を人力で食いとめられなくなると、祓戸の神の御出動だ。暴風豪雨地震などで地上の邪気は清められる。

天災地変が祓戸の神の働き、「大掃除、大洗濯」だといえば、科学万能主義者は軽蔑するだけだろう。

「智者とは日を知る者の意である。日は熱と光の源泉であり、万有生命の原動である。はたして今日の科学者に生命の根本をあきらかにせるものが一人でもあるか。すなわち日を知れる智者なるものがいくばくあるか」(『人類愛善新聞』昭和一O年八月「専ら天を恐れ其の啓示に心せよ」)

天の異象を見、地の変兆を知らされても、神意を悟らぬ人には何の感じもおこるまい。つまずく石にも神の警告を感得する敬慶な心は持てないだろう。

 

天地の 神も怒らせたまいけむ 百のわざわい次ぎ次ぎいたる

神がみの 怒りたまえる世の中は 万の曲事止むときぞなき

大三災 小三災の頻発も 人の心の反映なりけり

 

■体から毒素が出る

淋しくてたまらないような時は霊衣と関係がある。それは霊性のふさがっている部分があるからだ。囚(とら)われているからだ。何ものにも囚われない自由闊達な心でいれば、淋しい気はおこらない。

囚われる心には、悪霊が感応しやすい。悪霊は首筋や尻からかかってくる。ゾッと寒くなる。正しい霊なら、前額部がポーッと熱くなる。

なぜ囚われる心に悪霊が感応するのか。たとえば手足を縛られたとする。そんなとき、小さな蚊に刺されても自由がないから、大きな苦痛を感じる。だが片手でもあいていれば、追い払うなどは簡単だ。小さなことに執着し心を縛られては、人間はますますひねこびついには気が変になる。

腹が立って人を許せぬなど、やはり心が囚われているせいだ。カーライルは「怒りを感ずるやいなや、われわれはもはや真理のためではなく、怒りのために争う」と語っているが、まったく真理である。

怒ったり恐れたりすると、暗赤色を放つだけでなく、人間の体から毒素が出る。その毒素の匂いをかぐと、敵愾(てきがい)心がわいてくる。この敵愾心は誰でも感じはするが、鋭く感じる人とにぶい人との差がある。犬などは臭覚が特に敏感だから、すぐにそれと知って吠えついてくる。犬が泥棒(どろぼう)を感じるのも、そのせいだ。虎や熊に出会えば、恐怖心がおこる。または「こいつを捕まえて毛皮で売れば、いくら儲かる」などと、下心で銭勘定する。その毒素の匂いに感応して、相手は牙をむいて飛びかかろうとする。敵愾心をもつことがいけないとわかっていても、猛犬を見れば、どうしても恐怖心が湧いてくる。だからこそ、日々愛の心を養うことが大事だと王仁三郎はいう。

王仁三郎の万物に対する愛の発芽は、高熊山の修行であった。夜中になると怪音や怪声に悩まされた。孤独は耐えがたい。たとえ狐でも、狸でも、虎狼でもかまわぬ。生きた声が聞きたい。生きた姿が見たいと欲した。と、かたわらの小篠の中からガサガサと音がして、王仁三郎の座る一尺ほど前に青い目が二つ現われた。

高熊山の主は巨大な熊で、人を八つ裂きにして松の枝にかけて行くと、古老から聞かされていた。殺されるのではないかと、心臓の血が凍る。「ままよ何事も惟神(かんながら)に一任するにしかず・・・と心を膳下丹田(せいかたんでん)に落ちつけた。サアそうなると恐ろしいと思った巨熊の姿がたいへんな力となり、そのうなり声が恋しく懐かしくなった。世界一切の生物に仁慈の神の生魂が宿りたまうということが、適切に感じられたのである。

かかる猛獣でさえも寂しいときには力になるものを、いわんや万長の霊長たる人においてをやだ。アア世界の人を悪んだり、怒らしたり、侮ったり、苦しめたり、人をなんとも思わず、日々を暮して

きた自分はなんとしたもったいない罰当りであったのか、たとえ仇敵(きゅうてき)悪人といえども、みな神さまの霊が宿っている。人は神である。いな人ばかりではない、一切の動物も植物も、皆われわれのためには、必要な力であり、頼みの杖であり、神の断片である。

人はどうしても一人で世に立つことはできぬものだ。四恩ということを忘れては人の道が立たぬ。人は持ちつ持たれつ相互に助け合うてゆくべきものである。人と名がつけば、たとえその心は鬼で蛇でもかまわぬ。大切にしなくてはならぬ。それに人はすこしの感情や利害の打算上から、たがいに憎み嫉(ねた)み争うとは、なんたる矛盾であろう。不真面目であろう。人間は神さまである。人間をおいて力になってくれる神さまがどこにあるであろうか。

神界には神さまが第一の力であり、頼りであるが、現界では人間こわれらを助くる誠の生きたる尊い神さまであると、こう心の底から考えていくと、人間が尊く有難くなって、粗末にとり扱うことは、天地の神明にたいし奉り、恐れありということを強く悟了したのである。

これが自分の万有に対する慈悲心の発芽であって、有難き大神業に奉仕する基礎的実習であった。・・・(『霊界物語』一巻三章「現界の苦行」)_

 

■囚われぬ心を持て

宗教の弾圧史の中で、大本事件の場合は転向者が極端にすくなかったといわれるのは、王仁三郎の徳の高きであろう。信者は王仁三郎に惚()れ抜いていた。王仁三郎の霊衣がとてつもなく厚かったということか。

天思郷から四キロ離れた穴太寺の住職が語っている。「私は聖師さまが今日、亀岡の天恩郷におられるかどうかが、穴太にいてわかりますよ。それで穴太におって、聖師さまの存否をよく知っている。聖師さまのおられる日は、この穴太寺の庭の葉色が非常に艶を増して輝いている。御不在の日は、庭の草木が艶がなく、輝きがない。それで私は遠く離れた穴太にいても、庭の草木を見て、聖師さま亀岡在住かどうか、見わけで知っている」(『木の花』昭二六年二月号「聖師の言葉」)

また王仁三郎は、「わしの霊衣は、未決から帰って地上に五里四方、地下に五里四方も拡大された」とも語っている。話が大き過ぎて、眉に唾をつけたくなろう。とにかく王仁三郎は、人を魅きつける力の強い人だった。子供の頃、私は王仁三郎の側にいたくて、用事もないのにその周りをちょろちょろしていたものだ。

これは無意識にその厚い霊衣に包まれたいからで、そばにいるだけで気持がほかほかしてくる。だからあれだけ多くの人を魅きつけ、あれだけの仕事ができたのであろう。

狂者(きちがい)の そのなりそめをたずぬれば 心小さく持つがゆえなり

主の神は 天と士とに不可思議を 示したまえどさとるものなし

狭くとも 心を広く持つときは しづが伏屋もたのしき天国

くよくよと ものごと悔む暇あれば 大小となく行いてみよ

 

■包容とは抱擁

「人間というものは、すぐ敵愾心を持つからいけない。敵意をもって事に処すれば、万物みな敵になる。愛をもって向えば、みな味方になる。愛は絶対的権威を持つものである」(『玉鏡』「怒りと毒素」)

魂は遠心的なものだから、外へ出さねばならない。内へひっこめるから狭い胸がちょっとのことでいっぱいになって、苦しくなってくる。囚われない、執着しない、大きな心を持っていたら、淋しき

などは湧いてこない。

「人の悪口などを恐がるようではだめだ。大きなものには大きな影がさす。出る杭は打たれる。じっとしてさえいたら人にかれこれいわれることはないが、問題にされるぐらいの人でなければだめだ」(『月鏡』「淋しいということ」)

囚われないためには、包容力を養うこと。包容は抱擁で、抱けばよい。鶏が雛を抱いて暖めてやる、あれが真の包容で、氷のような冷たい心で抱いてもちっともありがたくない。雛はすぐに抜け出してしまう。あまり固く抱きしめると、またよくない。抱かれた雛は、しめつけられて育たぬ。ゆるすぎても、雛につつかれる。包容の仕方も難しい。

 

■出口直と八人の子供たち

出口直には夫政五郎との間に八人の子がいた。

長女米(よね)は綾部のならず者大槻鹿蔵と駆け落ちの末、道義的でない結婚をし、世間をはばかってそれを許さぬ父母を憎悪する。次女琴は奉公先から家出して、王子(現亀岡市篠町王子)で栗山庄三郎と結婚するが、貧しい出口家や弟妹たちを厄介に思う。

長男竹蔵は大工見習いを嫌って自殺未遂ののち蒸発し、長年月消息を絶つ。三女久は、兄姉と違い、幼い頃から母を思い、母を助ける。が、父政五郎の死後、苦しい環境に耐えられずに母を見捨てて一時は行方をくらます。それでいながら、死ぬまで母に密着、逆らいつつもとことん母の生きざまに支配される。

次男清吉も、母を助けて成長する。直が一番愛し期待した息子であった。だが近衛兵にとられ、明治二八年、台湾で戦死する。三男伝吉は小さい頃に大槻家の養子になり、直とのつながりは薄い。四女龍は子供の頃から母を助けて、奉公暮らしo五女澄は生涯、母とより添って生き、晩年まで母の面影を慕い続ける。

このように見てくると、養子伝吉を除き、明治元年生まれの久を境に、上になるほど母との精神的葛藤が激しい。上四人は一度は親を捨てて家出しているのだ。なぜか下になるほど、母と強い愛情で結ばれる。

むろん子供たちの持って生まれた性格も起因しよう。だがそれよりも、子供たちに対する直の接し方にも原因があるのではないか。若い頃の直は、みずから生きてきた封建道徳そのままを子供たちに踏ませようとした。「親が貧乏すりゃ子は巾着で、いかな人にも下げられる」と歌って聞かせ、人に見下げられないような人間になることを説諭した。子供たちをやかましく叱ることはない代りに、強く目で制した。それが子供たちにはなによりも恐ろしかったという。

しかし子が成長するにつれ次つぎに親を裏切って行く現実に直面し、母としての指導理念が揺らいだのではないか。直は次第に子に甘い母に変貌する。背中に龍をおぶり、ふところに澄を抱いて重い石臼をひく直。山家鰻頭を待ちくたびれて寝ている子に早く食わせたくて、わらじのまま畳を這う直。屑買いに一日歩き回ってくたびれきった身で、八歳にもなる澄をおぶって町を行く直。

そこにはかつての子のしつけにきびしい直はなく、子にめろめろの子煩悩な女がある。子の教育に絶望し、今日でいうスキンシップの愛情に変ったとき、皮肉なことに子供たちは母に慕い寄る。

これもまた、包容の一つのあり方ではなかろうか。

 

■どうしたら霊衣を厚くできるか

王仁三郎は人に接するとき、まず霊衣の厚薄を見る。信仰の穂によって霊衣に次第に厚みを加える人もあれば、神に反対したり人の妨害などをしてせっかくの天授の霊衣を薄くし、中には円相が山形に変化しかかっている人も数多く見る。そういう人に向っていろいろと信仰の道を説くが、かえって神の道を疑い、ひがみ、逆に恨まれることもあった。

世の中そうしたもので、相手のことを思って忠告してあげれば、逆恨みされることが多い。何度も苦い思いをすれば、つい見て見ぬふりをしてしまう。未来が見えるだけに、悲しい思いを数限りなくしたことだろう。だが人の忠告をなかなか素直に受け入れられないのが、人間である。だから自分で気がつくより仕方ない。霊衣が薄く山形になっている人は、自分の今までの心のありかたを反省し、大神に心から謝罪し、天津祝詞を円満晴朗に奏上すると、その霊衣は厚きを増し、三角形は円形に立ち直り、死をまぬがれることができる。

だがこうして救われた人が神の大恩を忘れたときには、たちまち霊衣が薄れ幽界行きとなる。普通の人の霊衣の厚きは五分くらいなものだが、神の道を説く宣伝使になると三尺くらいに拡がっているそうだ。また王仁三郎は「宣伝に行けと命令を受けると、霊衣を拡げてもらえる。それで御神徳

をいただくのである」といっている。

どうしたら霊衣を厚くできるのか。正しい信仰や人間としての徳を積むことである。王仁三郎はいう。「霊性の一部が塞がっている人は、霊界物語を読まぬからだ。重要なる神様の御用を承けたまっておる人は、ことさら物語を拝読しておかぬと霊性が塞がっておっては、本当の御用は出来ない」(『月鏡』 「淋しいということ」)

 

よきことを 為せば霊魂はふゆるなり 悪事は魂の力をうしなう

 

『霊界物語』一巻三章「現界の苦行」・二巻「総説」、「玉鏡』

「仏足頂礼」・「怒りと毒素」・「光る宝石と曲津」、『月鏡』「淋しいということ」、『水鏡』、「魂は外へ出さねばならぬ」 ・「包容力」・「霊衣のこと」、

『人類愛善新聞』昭和一O年八月「専ら天を恐れ其の啓示に心せよ」、『木の花』昭和二六年一一月号「聖師の言葉」

 

第一三章 大本神話

■日地月の発生

宇宙の創世紀、一点のほち「、」が◎の言霊を発し、鳴り鳴りて七五声を産霊(むすび)、きらめく紫微天界を成していくさまは「宇宙の成り立ち」の章で述べたが、それはやがて「顕の幽」として地上霊界に写っていく

上田喜三郎(若い日の王仁三郎)が穴太の高熊山に肉体をおき霊界探検中、大神の導きによって、宇宙の中心に無辺の高きで屹立する霊峰、須弥仙(しゅみせん)山の頂上に立ち、神から賜わった天眼鏡で下界を眺める。それは数十億年の歳月を縮め、時空を超えて一望のもとに映じてくる。茫々(ぼうぼう)たる宇宙の混沌の中に、一つの球い凝塊(かたまり)ができた。見るまに凝塊は膨大して、自のとどかぬ広がりに至る。

球形の真ん中に、鮮やかな金色の円柱が立っていた。それは直立したままゆるやかに左旋を始める。周辺にただよう泥水は渦巻き、次第に大きな輸を広げていく。円柱は回転の速さを増すにつれ傾斜の度を深めつつ、視覚にもふれ得ぬ速度となる。すると回転体の内から暗黒色の小塊体が次々と飛び出して無数の光のない黒い星と化し、遠く近く宇宙に散乱し、左旋回する。

金の円柱がおのずから転げたとみると、巨大な剣膚(たちはだ)の金の龍体と変化し、逆巻く濁流を割って、東西南北に馳せ巡る。その意志の発するところ、自在に魂を分ち身を分ち、種々の色彩を持った大小無数の龍体を生む。その龍体もまた随所に泳ぎ始め、それらの巻き起こす波動によって泥の部分は次第に凝り固まり、稀薄になって水蒸気は昇騰する。

龍体が尾を降り回すごとに泥の波形が残り、大龍体の通った後には大山脈が、小龍体の通った後には小山脈ができる。水は低地へと流れ落ち、川となり、集い寄って海を生ずる。

宇宙はその時、おぼろ月夜の少し暗い状態であったが、海の中ほどから銀色の円柱が立ち上がり、右旋回を始めた。旋回の速度が強まるにつれて、いろいろの種物が飛び散るように現われ、あらゆるところにふり撒かれる。やがて銀の柱は横ざまに倒れ、銀色に輝く龍体と化した。

東から金龍が固まりかけた地上を西へ駆け、海上の銀龍は海鳴りをとどろかせて東へ駆ける。その合するところ、金銀二つの光の旋回が左と右へ大地を震(ふる)わしてまき起こり、天地は光輝を発した。やがてつんざくばかりの音響とともに、金龍の口から昇騰する球がある。それはめくるめく白金の光芒を放って天に昇り、嚇々たる太陽となった。金龍は太陽に向って息吹きを吐く。それは虹の橋をかけたように見える。太陽はにわかに光を強め、熱線を放射する。黒い星たちはいっせいに輝きだした。

一方、銀龍の口からは霧のような清水がふき上がり、白色の球が天に昇って太陰となる。太陰もまた虹のような尾をたれて、地上の水を吸い上げる。水はみるまにその容量を減じてくる。つき立ての餅のようにやわらかい山野は、水が減じるにつれて固まり、大地の種物はいつか芽をふく。山には松が、野には竹が、やがて梅も生じ、土くれの焙烙ほうらく)を伏せたような山々は青々と息づく。

赤褐色の天は青く藍色に澄み、黄ずんでいた濁水は天の色を写すかのように青くうねる海となった。

・・・聖きとうとき国の御祖/大国常立大神は/三千世界の大宇宙/完全(うまら)に具足(つばら)に造りまし/天の御中主大神と現()/大元霊の真神として/聖き御姿見えねども/天地万有に普遍して/総てのものを守り玉う/高天原の霊園に/月の大神と現れ玉い/また天国に到りては/日の大神と現われて/顕幽神の三界を/守りたまうぞ畏けれ/仰ぎ敬え伊都御魂/この世の大本大御神

 

■地上霊界の形成

顕の幽界たる地上霊界が成ると、泥海をかき分けるための龍体は必要なくなり、金の円柱と見えた金龍は荘厳無比な人の姿と化す。幽の顕界から顕現された大国常立尊の霊体である。その精霊は天に昇り、撞の大神として天上の主宰神となられた。

白色の龍体から発生した一番力ある龍神も人格化した。色は白く、容貌きわめて美しく、黒い髪は地上に引くほど長く垂れ、髭は腹まで延びている。その男神を素盞鳴尊といった。

王仁三郎が大英雄神のお姿に見とれていると、その身から白光が天に沖し、月界に昇られて月夜見尊となられた。撞の大神は太陽の現界を伊邪那岐尊の貴子である天照大御神、太陰の現界を月夜見尊に主宰させられた。そしてみずからは国常立尊として地上霊界を主宰し、顕の顕、いまだに大海原である地上現界は素盞鳴尊を主宰神と定められた。

銀の龍体は女神豊雲野(とよくもぬ)尊と顕現され、国常立尊の妻神として、その神業を輔佐きれる日月星辰なり、山川草木が発生したとはいえ、樹草の類は葱(ねぎ)のようにか弱かった。海や岸辺に生まれた動物も、海月(くらげ)や海鼠(なまこ)のように柔軟でしかなかった。大地の修理周成に立ち向われた国常立尊は地の世界最高の山の頂に立たれ、息吹きを放たれた。この息吹きより、十二の風の神々が出現した。神々が分担を定めて風を起こすと、松、竹、梅をはじめ一切の種物は葦のように吹き倒きれた。

国常立尊は御自身の胸の骨を一本抜き取り、粉々にかみ砕いて四方に吹き放たれた。この骨の粉末を吸収して、初めて樹草は大地に根を張って立ち、動物には骨が備わった。また骨の粉末を多量に含み、凝り固まったところには、鉱物や岩石が生じた。これを称して岩の神という。

太陽は苛烈な光熱を放射し、月は水を吸引し続けている。このままでは大地は干しかれいを焦がしたようにくすぶる。そこで国常立尊は海原にまだ残っていた大小もろもろの龍神に命じて、口にふくんで海水を運ばせ、狭霧のように吹き放たれた。たちまち雲がわき満ちて天をおおい、雨が沛然(はいぜん)と降り出してひからびた地上をうるおしてゆく。これらの龍神を総称して、雨の神と名づけられる。

雨との調和をはかり、尊は太陽の熱を御身いっぱいに吸いこまれ、身体の各部から熱を放射された。その熱からたちまち無数の龍体が天に向って昇騰する。これを火龍神と名づけられた。

風の神、雨の神、火龍人、岩の神らの調和ある活動により、藍色に澄み渡った天空には鳥が舞い、海原は鱗群(うろくず)を養いつつ青くうねり、山野は花咲き実り、生き物たちは木陰や草のしとねに安らいで眠る。

大本では、国常立尊を国祖と称える。天界そのままの楽土を写して、地界は成る。国祖国常立尊は太陽、太陰に向って陰陽の水火を吸いこみ、息吹きの狭霧より御子を生まれた。この日月の精から現われた稚姫君命(わかひめぎみのみこと)は地上霊界の神政の司となる。大八洲彦命は天使長兼宰相となり、聖地エルサレムの地の高天原にある龍宮城で、神務と神政を開く。

一方、伊邪那岐(いざなぎ)尊の御油断により手の俣(また)をくぐりぬけ、太陽界から中国の北方に降誕した神があっった。盤古大神といい、中国の祖先神であり、元来は温厚無比の正神である。もう一方、天王星より常世国、今の北米大陸に下った豪勇の神人に大自在天神大国彦命がある。

地上霊界は国祖国常立尊の統治のもと、稚姫君命の神政と合わせて、盤古大神系、大自在天神系の三神系がそれぞれ一族を擁し、平和に治めていた。

しかし時ふるにつれ、妖邪の気が発生する。燃えさかる聖火の炎からもかすかに立ち昇る煤(すす)があり、湧き出る清水も一つところに止どまれば次第に濁り、虫が湧く。スの言霊から鳴り鳴りて澄みきったはずの天界のきわみにも、やがて混濁の気が生ずるのはやむをえぬ。ここまでが顕の幽、地上霊界の姿である。

 

主の神は 玉留魂(たまつめむすび)金石の もとを造りて世を固めましぬ

海月なす 漂う国を沼矛(ぬほこ)もて 許遠呂許遠呂(こおろこおろ)にかきなし給う

矛先の 露かたまりて自転倒(おのころ)の うるわしき島生れましにけり

 

■人類の誕生

地上霊界の姿は、相応の理によって現界に写らねばならぬ。国祖は、顕の顕界である地上物質界の修理国成に着手される。この自然界は時間、空間に支配された有限の世界だ。力あるものははびこり、弱きものはいつか形を滅ぼすしかない。自然界を統一し、調和ある善美の世界を招来するには、同じ三次元界の物質の法則によって成る肉体を持ち、神の心を心として自然を支配する、力ある生きものが必要になる。

そこで国祖は、神の子、神の宮として、神に代わって天地経論の主宰となり地上を修理固成すべき人間の祖を造られた。有限の肉体の器に無限の火水の霊魂を満たして霊止(ひと)となしその陰陽二人をエデンの園に下された。天足 (あだる)彦、胞場(えば)姫である。

だが天界ですら、妖邪の気が発生する。宇宙は霊力体の三大元をもって造られた。「善と悪」の章で述べたように、霊を清であり善とするなら、相対的に体は濁であり悪である。霊体二元を配合する度合の差から発した神力は、必然的に善悪混交、美醜明暗あいまって千変万化し、いっさいを成り立たせている。まして重く濁れる分子のみ凝り固まった地の世界のことである。時とともにエデンの楽園にも邪気が凝り、霊主体従の神木に体主霊従の果実を結んだ。

「この実を食うべからず」と、神は天足彦、胞場姫に厳命し、その性質を試した。二人は体的欲望にそそのかされてその実を食う。これより地上世界は体主霊従に傾いて、霊界も人界もともに混濁してゆく。

 

足引の 山の草木を生み給い 万の神を造らせ給う

天地の 守りの神々生み了えて 貴(うず)の器官と人を生ませり

生魂(いくむすび) 主神の御稜威(みいづ)に人草(ひとぐさ)の 種はこの地に生い出でにけり

主の神は 人間を生み動物を いやつぎつぎに造り給いぬ

人間の 次に獣を生み給い 鳥獣魚類を造らせ給う

いやはてに 数多の虫を造らして大地にあまね〈ま〈ばり給いぬ

生殖 の道はからんと動物に 愛と情とを授け給いし

動物は いうもさらなり草木まで みな生殖の器官を賜う

 

■アダムとイヴ

これは『旧約聖書』に出てくるアダムとイヴ(エバ)の物語とオーバーラップする。そして善悪と罪の意識の問題に重大な関係があ

『旧約聖書』によれば、エホバの神がまず人類の始祖であるアダを創り、エデンの園に住まわせる。「園のすべての木の果実は好きなように食べてもよいが、善悪を知るの木の果実だけは食べてはいけない。これを食べれば死ぬだろう」と神は告げる。次に神は、アダムの妻としてイヴを創る。アダムとイヴは、裸で暮らしても、少しも恥ずかしいと思わなかった。

野の生物の中でもっとも狭滑な蛇が、イヴに禁断の木の実を食べることをすすめる。イヴは蛇の誘惑に負けて禁断の木の実を食べ、アダムにもすすめる。木の実を食ったアダムとイヴは裸であることが恥ずかしくなり、それ以来イチジクの葉で体を隠すようになった。禁断の木の実を食べたことで神の怒りにふれ、二人は国を追放され

キリスト教では善悪の絶対的な基準を神に求めるから、キリスト教における罪は、すべてこの堕罪の物語に発する。『旧約聖書』においては、アダムが神の意志に反する行為をしたことにより罪と死がこの世に到来したとされ、全人類は生まれながらに罪を負う。これが原罪である。

『新約聖書』では、罪の意味が内面化され、深められ、罪の悔い改めとともに神の恩寵による罪からの救済が説かれる。原始仏典に似た話がある。新しい世界が始まった時は、人は光り輝く身体をもち、地の上空の楽園に住んでいた。だが蜜のような甘い大地をなめてみたいという体的な欲求にかられ、ついに誘惑に負ける。その時から地の要素と関係、だんだん粗大な食物を食べだして地上の身体ができあがり、男女の性があらわれ、その結果としてあらゆる悪行と苦の人類の状態が生れた。ただし仏教は、原罪という考えを取らない。

王仁三郎の語る天足彦、胞場姫の神話にしても、当然、反論をする人があろう。「神は全智全能であり、智徳円満な存在ならば、なぜ体主霊従の果実を食ったときにすぐに人体の祖を改造し、体主霊従の朋芽を刈りとらなかったのか。体主霊従の祖を放任したばかりに邪悪の世界をつくり、みづからその処置に因むのはおかしいじゃないか。こんな矛盾をおかす神ならば、神の存在すら疑わしい」

それに対して、王仁三郎は答える。

「神には毫末の依怙贔(えこ)もなく、逆行的神業もない。人類の祖先の性質を試したのが神業であれば、それを食ったからといって取り消すわけにはいかないではないか。一度手を降した神業は、昨日を今日に戻すことができないように、弓を離れた矢が中途で還ることがないように、ふたたびこれを更改しないところに、厳然たる神の権威がともなう。神にしてしばしばその神勅を更改することがあれば、宇宙の秩序はここに全く紊乱(ぶんらん)しつひには自由放漫の端を聞くことになる。古の諺にも『武士の言葉に二言なし』というが、ましてや宇宙の大主宰である神明においてはなおきらだ。

神諭にも、『時節には神もかなわぬぞよ。時節を待てば煎豆(いりまめ)にも花の咲く時節が参りて世に落ちてをりた神も世に出て働く時節がまいりたぞよ。時節ほど恐いものの結構なものはないぞよ』と示されているように、天地の神明も『時』のカだけはどうすることもできない」(『霊界物語』一巻「発端」)

神が人間に一霊四魂を与え、神に代わって地上の主宰者としての_権限を授けた以上、人は自律して霊と体とを統べ、自分の意志のまに生きねばならない。毒あるものを食うなというのは親の愛だ。だが成人した息子は親に隠れて甘い実をむきぽる。それでも親は、可愛い息子に食わしたくない毒を根絶はできぬ。なぜならば、それは人類にとって必要だからである。

体的成長のためには、体的欲望がなくてはならない。それを悪と決めつけるわけにもいかぬ。神性をとるも獣性をとるも、人の自由である。青い大空だけではいっさいを生かせず、大地だけでも生きとし生けるものをはぐくめぬ。エデンの菌の神木のように、大地にしっかりと根を張って枝葉を伸ばし、月日の恵みを受ける。そして霊五体五の正しい実を結ぶことを神は願う。

地上物質界はもともと体主霊従に造られたところ。神に代わって人智を得、それに奢ってゆくのも無理はない。むしろ宇宙完成のためには、必然的な経過であった。聞きわけのない息子の初発に犯した罪を全人類の末裔にまでかぶせてみずからをいやしめるのは決して神の御心ではない。だが人が神慮にそむいて神の元を去ったばかりに、やがては恐ろしい災禍を生む結果となる。

現行刑法でさえ祖先の罪はうんぬんしないのだ、アダム、イヴの罪まで背負ってたまるかい

 

■邪神群の発生

荒野に去った天足彦、胞場姫から生まれた子らは各地に散って人類の子孫を生みふやしていった。神の意志を代行すべき人間が年移り星変わるにつれて神を忘れ、人智に長け、情はねじけ、私利私欲のために争うことをはばからぬ存在に堕落してゆく。言霊は次第に濁って神通力を失い、怒号、悪罵、嘲笑、怨嗟(えんさ)の声は悪意とからみ合い、毒ある邪気を発生し続けた。邪気は邪気を呼ぴ、天地間に立ちふさがる。神界よりの水火は、その邪気をふくむ密雲にさまたげられて届かぬ。もはや神と人と地の調和はくずれた。

地上は流水の清さを失って腐敗し始め、海は濁って悪臭を放ち、大気は汚染されて息ぐるしく、日は暗い。人類は得体の知れぬ流行病におかきれ、苦しんだ。地上霊界からこの様を見た国祖は憂悶(ゆうもん)やるかたなく、深い吐息をつかれた。その吐息から八種の雷神と荒の神が生まれた。稲妻はひらめきわたってわだかまる邪気を裂き、疾風おこって暗雲をなぎ払ぃ、地上は吹き荒ぶ嵐に包まれ、不気味な地鳴りと共に揺れ動いた。

大荒れの後の天地は火水に洗われて甦ったが、根強く残った邪気は三方に分かれて凝り固まる。その邪気は、地上人類のもろもろの害毒から溢れ出たばかりではない。天界の端々にもよどむ残り滓(かす)が沈んで澱(おり)を成すように、類をもって集まり、力を生み、ついに邪神界が現出する。

露国のあたりに発生した邪神群を、仮に八頭八尾の大蛇という。印度近辺に極陰性の邪気ばかり凝り固まったのが、金毛九尾白面の悪狐である。八頭八尾の大蛇はその霊を分けて力ある国々の権力者に、金毛九尾の狐はおのが分霊を権力者の妻に憑依させたがる。

もとより人体は霊を止める器、宿として造られたもの。その主たる霊が突如、あるいは少しずつ交替してまったく別の霊に感応し、支配されてしまうのだ。まっさきに大蛇の霊が襲ったのは、盤古大神の子、常世彦命であり、その妻常世姫命を狙って、たくみに九尾の狐がもぐりこむ。常世姫は地上霊界の神政の司、稚姫君命の第三女である。国の司夫妻をとりこにした邪霊群は、こわいもの知らずの威をふるう。常世国には妖気がみなぎり、政治は乱れて、上も下も体主霊従の行動を好むようになっていく。

一方、ユダヤの地に凝固した邪霊は、六面八管の邪鬼と化した。彼らは神界、霊界の組織を打ちこわし、力をもって全世界を従えようとひそかに企む。この邪鬼は大自在天神大国彦命に憑依し、着々と力主体霊的行動をおこしていった。

正神界の神々が「(ほち)」の言霊から発生したように、彼らもまた邪悪な想念、邪悪な言霊から発生して力を得た。彼らが目的と意志をもって動く時、必ず何らかの形をとる。実際は相手方の意にそうように、威容厳然たる正神か美しい女神となって現われたがる。その方がだましやすいからである。

しかし見破られたり包みきれなくなった時など、思わず正体を現す。古くその姿は日本や中国や印度などで記録されているが、金毛九尾白面の悪狐、八頭の大蛇、六面八替の邪鬼というのも、そうした形につけられた名称に過ぎない。

入道に似た雲に入道雲と名づけるのは、人間に入道という記憶があるからだ。悪狐とか悪龍(大蛇)、邪鬼と呼ぶのも、狐や大蛇や鬼の連想から、そのような姿に見えるのである。また逆に人間の観念、あるいは相手の潜在意識をついて、邪霊がそうした姿を現わすのか。

三系統の悪霊は三つ巴となって大神の経倫を妨害し、罪悪は平然と横行し、弱肉強食の巷となる。地上霊界の乱れは、相応の理によって現界にも写り、顕幽神界の混乱紛糾は収拾ならぬまでに立ち至る。

 

■稚姫君命の御霊の因縁

国祖は乱れに乱れた三界を持ち直すため肝胆(かんたん)をくだき、妻神豊雲野尊と天道別命(あめじわけのみこと)と相談し、天地の律法を制定した。律法は、内面的には「省みよ」、「恥じよ」、「悔いよ」、「畏れよ」、「覚れよ」の五戒律(五情の戒律) である。

だがもはやこれだけでは、なんの歯止めにもならない。そこでやむをえずさらに具体的に厳格化された外面的律法が制定きれた。

一、夫婦の道を厳守し、一夫一婦たるべきこと。

一、神を敬い、長上を尊み、博く万物を愛すること。

一、互いに嫉妬(ねた)み、誹(そし)り、偽り、盗み、殺しなどの悪行を厳禁すること。

「この律法はまず地の高天原から実行せよ。それを型としてのち、天下万民に伝示せよ」との神命である。龍宮城に入って暴威をほしいままにしていた常世姫一派も、さすがに律法の前には手が出ず、エルサレムを去っていった。金毛九尾、八頭八尾ら邪神たちは鳴りをひそめ、ようやく地の高天原は戒律を取り戻すに至った。

神政の司、稚姫君命は愁眉を開き、早朝なる神楽(かぐら)を奏上、天地の祭りごとを盛んにして、諸神は太平の夢に酔う。

稚姫君命には夫神天稚彦(あめのわかひこ)との間に三男五女の御子があった。おりしも天稚彦命は常世姫一派の奸策(かんさく)におちいり、ある女神の色香に迷って、城を出たまま戻らぬ。その留守中、稚姫君命は舞曲に合わせて美しく踊る若い男神に心を奪われ、恋のとりこになっていた。

貞淑高潔、天より高く咲く花とうたわれた稚姫君命はここに夫婦の道を誤り、みずから厳正なる天地の律法の犠牲になり、夫神ともども幽界に落ちていく。これより稚姫君命の精霊は三千年の長きにわたって生き変わり死に変わりしつつ、律法を犯した罪をつぐなわんと、あらゆる苦しみをなめる。この稚姫君命の霊魂が出口直である。

 

■国祖御引退

天の大神の許しをえて、国祖は律法を天上、天下に宣伝した。その管掌の神として、一六神将を天使に任じた。稚姫君命をまんまと落とした邪神たちは手を替え品を替え、あらゆる策を講じて正神たちを挑発した。だが正神たちは愛の心を持って忍耐に忍耐を重ね

図に乗った常世彦らの魔軍は天をおおってエルサレムに攻め寄め寄せ、龍宮城を目がけて火弾毒薬を投下した。国祖は厳として武力の使用を許さず、「忍耐を旨に、至誠一貫敵を言向け和せ」と命じるのみ。進退極まった天使、神将はついに破邪顕正の剣を抜き放った。

戦い終り魔軍は壊滅したが、邪神たちは己の悪行をかえりみず、「殺すなかれ」の律法を無視した天使らの処罰を国祖に強要する。国祖は涙を呑み、律法を破った天使長大八洲彦命ら一六神将の追放を命じた。そうまでしても、律法を守り抜こうとしたのである。邪神系の暴動は続き、天使長や天使らを更迭すること数回に及ぶ。

ついに神々は会議を開き、律法の精神にのっとり、身につけたすべての武器を撤廃した。神代における軍備撤廃はまことに徹底したもので、神々は生まれながらに付着している武装まで廃棄したのだ。龍神は自らの鋭い牙を抜き取り、角(つの)を折り、剣膚(たちはだ)の鱗(うろみ)をはがして、蛇に近い姿になる。

眷属神といえども、翼をとり、鋭い爪、針毛を抜き、無防備の体となってまで暴力を否定した。常世彦命夫妻も一時は国祖の御心に打たれて悔悟し、地上霊界は平和に治まった。だがそれは何時までも続かぬ。神々や人々の体主霊従、力主体霊の邪気は時とともに広がり、またしても悪狐、悪龍、悪鬼どものほしいままに荒れていった。彼らには律法の厳しさが我慢ならぬ。その律法を守って毫も屈せぬ国祖が邪魔でならない。彼らは一致して国祖の非を鳴らし、天の大神に直訴した。たしかに国祖はあまりに厳格剛直に過ぎたため、混沌時代の主宰神としては少しばかり不適任であった。

悪霊の容器となった八百万の神々の不平不満は、天の大神といえども制止しきれぬ。ついに天の大神は、地上神界の情勢やむをえずとして万神の請願を聴許し、国祖に「少しく緩和的神政を行うよう説得した。妻神豊雲野尊も「時代の趨勢に順応する神政を」と、涙ながらに諌言した。それでも国祖は、「律法は重大だから、軽々に改変すべきではない」として聞き入れぬ。万神はこぞって国祖隠退を唱え、温和な盤古大神を奉ずることを直訴し続けた。天の大神はついに神策尽き、国祖に「聖地を退去して根の国に降れ」と以心伝心的に示した。国祖は天の大神の心情を深く察し、千座の置戸を負って、根底の国に落ちて行く決意をする。そこで妻神に累が及ばぬよう、きっぱりと夫婦の縁を絶つ。

国祖は、「われは元来頑迷にして時世を解せず、ために地上の神界をしてこのように常暗の世と化せしめたのは、まったくわが罪」と天界に詑びごとを奏上された。天の大神は千万無量の悲嘆を隠してそれを聞き入れられ、「一陽来福(いっちょうらいふく)の時を待って、元の地上神界の、王権神に任ずる時がこよう。その時はわれもまた天より降って、貴神の神業を輔佐しよう」と暗黙のうちに約された。

悪盛んにして天に勝つ。ここに国祖は神議りに議られ、暴悪な邪神どもに髪を抜かれ、手足を切られ、骨を断たれ、筋をちぎられ、よってたかつて残酷な処刑を甘んじて受けられた。

しかしいかに邪念を凝らしてみても、国祖の威霊までほろぼすことはできない。元の霊身に立ち帰った国祖は、一人エルサレムを去ってゆく。その背に神々は煎()り豆を投げつけて叫んだ。

「煎り豆に花が咲くまで、この世に入るべからず」

 

■国祖の霊を封印

国祖御引退は節分の日であったという。

天の大神は、大地の火球の世界へ落ちて行かれる国祖の精霊の一部を、聖地エルサレムの東北()、七五三垣(しわがき)の秀妻(ほづま)国に止めさせられた。神々は国祖の威霊の再び出現することを恐れ、七五三縄(しめなわ)を張り巡らして霊を封印する。

豊雲野尊は離縁された身とはいえ、夫神の悲惨な境遇を座視するに忍ぴず、自ら聖地の西南()の島に隠れて、夫神に殉じた。天地の律法を国祖とともに守った正しい天使たちは神々に弾劾され、それぞれ世に落ち、長い星霜をさすらう身になる。

邪神たちは艮の金神、坤の金神、つまりは鬼門・裏鬼門の悪神、祟り神と広く喧伝し、今にいたるも世の親神を忌み嫌わせた。特に国祖の威霊の封印された日本では、節分ともなれば「鬼は外、福は内」と叫ぴ、鬼を追って煎り豆を撒く。それだけではない。日本の神事、仏事、五節の祭礼は、すべて艮の金神の調伏の儀式である。出口直の筆先は述べる。「年越しの夜に煎り豆をいたして、鬼は外、福は内と申して、鬼神にいたして、この方を押し込めなされたのだが、時節がまいりて、煎り豆に花が咲く世がまいりたぞよ」。明治三五年旧一O月ニ日(『大本神諭』第二集)「年越しの夜に、鬼は外、福は内と申して、この艮の金神を鬼神にいたして、独法師(ひとりぼっち)にいたされて、世におちて国をつぶさん(つぶさない)ために、化けて世界の守護をしておりたぞよ。この方、守かまわな一寸もいけんぞよ」明治三六年間五月二五日(『大本神諭』第二集)

「煎り豆が生えたら出して上げると申して、三千年あまりて押しこめておりたなれど、この神を世に出すことはせんつもりで、たたきつぶして、はらわたは正月の雑煮にいたし、骨は二十日の骨正月に焼いて食われ、身体の筋は盆に素麺にたとえて、ゆでて食われたぞよ。そうしられでもこたえんこの方、化けて世界を守護いたしておりたぞよ」明治三五年旧九月二日(『大本神諭』第二集)

「正月の三箇日の雑煮の名をかえさすぞよ。この艮の金神を鬼神といたして、鬼は家へ入れんと申して、十四日のどんどにも、鬼の目はじきと申して、竹を割りて、家のぐるりに立てであろうがな」明

治三七年旧一月二日(『大本神諭』第四集)

 

■大洪水

多年の宿望が成就して、常世彦命は天の大神の命をいただき、盤古大神を奉じて地上霊界の神政をにぎった。常世彦命は八王大神の称号をかちとり奢りきっていた。国祖はじめこの堅苦しい律法をかざす天使は追放し、ただ少々煙たいのはエルサレムの奥殿にいる盤古大神だけである。常世彦命は盤古大神の温厚な神格が苦手で、エデンの園に造った宮殿に転居を乞うた。盤古大神は見ざる聞かざる言わざるの三猿主義をとり、常世彦のいうままになる。

また常世彦命は地の高天原の御神霊との同殿同床を避け、申しわけに小さな宮を橄欖山の頂きに建てて移し、年に一度お祭りするにとどめた。神殿は風雨にさらされて荒廃するに任せ、屋根は雨がもり、くもの巣ははびこって、ついに野鼠の住家となる。各国の八王八頭も聖地に神習って宮殿から国魂を分離して形ばかりの宮に移し、祭祀の道を怠った。地上霊界の乱れは現界に写り、人々は天地の神を信じ、おのれを省みる心を失い、律法は遠く忘れ去られる。

国祖大神の威霊の抜け出た天地六合(りくごう)は大変調をきたす。春の花は秋に咲き、夏は雪降り、冬蒸し暑く、妖気 (ようき)は天をとざして次第に日月の光は曇ってゆく。

エルサレムの龍宮城は八王大神が住んで遊楽の場となり、おぼろ月夜のような大地の気候異変も苦にせず遊び狂った。ついにエルサレムやエデンの城は鳴動(めいどう)爆発し、大火災になる。盤古大神や八王大神夫妻らは、アーメニアの野に向って逃げた。彼らは大蛇や悪狐の容器になりはて、アーメニアに神都を聞く。

国祖御退隠に際しては協力し合った仲の大自在天一派はこの機を逃きず、天下の神政統一を旗印にまず常世城を占領、盤古大神一派に無名の戦端を切った。この反逆に激怒したアーメニア側は、常世城討伐を期して、各山各地の八王八頭を招集した。

大自在天神も同じ力をもって招集令を発したので、天下は二分し、おのおのその去就に迷わされた。内乱衝突は各地に広がり、もはや頼むにたる権威すらない。混乱に乗じて大蛇、悪弧、邪鬼の邪神たちは、時こそ至れりと暴威をふるった。

国祖の数十億年の忍苦の結果になった地上は汚濁し、邪悪な気魂は宇宙の霊気を汚し、毒素は刻々と増してくる。このままでは天足彦、胞場姫の体主霊従の気を受けついだ地上人類は

殺し合いによらずともみずから滅亡するよりほかにない。

かなわぬ時の神頼み、今さらのように国祖大神の威霊を慕い、神殿に伏して祈願を捧げる人々さえ現われた。地上霊界、現界のこの有様は、隠身となった国祖の神霊に響かぬはずはない。国祖は耐えに耐えた吐息を内にこらえ、涙を体内に呑む。今にして堪忍の緒を切れば、体内に積みふさがった悲憤の思いがどれだけの力を爆発させるか、御自分でも分かるだけに泣くに泣けぬ。それにしても、国祖の腹中に蓄積された嘆きの涙は、満ちあふれんばかりになっていた。そしてついに煩慮(はんりょ)の息は鼻口よりかすかもれて大彗星(だいすいせい)を生み、無限の宇宙間に放出される。一息ごとに一個の大彗星が、そしてまたたくうちに数十万の彗星が現われ、やがてその光は稀薄になって消滅した。しかしその邪気はガス体となって宇宙開に飛散し、ついに欝積(うっせき)して充ち満ちる。

蔭ながらこの世を守っておられた艮坤二柱の大神は地上を立替え立直す時がきたのを悟り、ひそかに救いの道を開かれる。根底の国に落ちていた天使たちは国祖の神命を受けて予言者になり

言触れにことよせて、神の教えと警告を世界各地に広める。

だが利己一辺に傾き荒みきった人々は、わずかを除いて流浪(さすらい)神の予言警告などに耳をかさぬ。その中でも、さすがに盤古大神は、言触神(ことぶれかみ)の一言で世の終りを悟った。礼を尽くしてその教えを聞き、改心して新しく神殿を造り、日月地の神を鎮祭した。

それに反Lて八王大神一派は言触神を牢に投じ、「呑めよ、騒げよ、一寸先は暗よ、暗の後には月が出る」と自棄(じき)的に踊り狂い、予言警告を無視した。さらに盤古大神を暗夜に乗じて攻め滅ぼそうとする。

盤古大神は無抵抗主義をとり、言触神とともに辛うじて聖地エルサレムに逃れた。かつての神政の都エルサレムは崩壊し、すすき野になっていた。天変地妖は各地に続発し、予言を信じた神々たちはエルサレムに集まってくる。

八王大神の野望は止どまるところを知らず、盤古大神を偽称して、ついに魔軍を率い、海を渡って大自在天神を攻めた。偽盤古と見破った大自在天神一派は、迎え撃って猛烈な戦端を開く。地上は真二つに割れて、惨慌たる修羅場となった。国祖は、絶望と怒りと悲しみのため、耐えに耐えてきた大声を発し、地団駄を踏んだ。

大地は揺れ、地震の神、荒の神が一度に発動した。酷熱の太陽が数個、一度に現れて氷山を溶かし、海水は刻々に増加する。太陽の光が沈んだと思うと暗夜が続いて、五六七日にわたる長雨となった。天弛は鳴動し、地は避け、山は崩れ、津波は常世城を没っせんばかりに襲いかかる。

引き返そうとした魔軍の磐樟(いわくす)船は狂乱の波にもまれて海底に沈み、天の鳥船も大気の激震に耐えかねて、次々と墜落していった。天地神明の怒りの前には、さしも猛威をふるった大蛇、悪弧、邪鬼の魔力もなえ、ただただイモリ、ミミズに変化(へぐ)れて逃げまどうばかりである。

大洪水は地上を泥海に返した。水中よりわずかにのぞく高い山の頂きにはいち早く天災を知った鳥類、獣類が、あるいは数日前からこのことを予知していた蟻の大群が真黒に積もっていた。

泥海の上には、幾つかの神示の方舟が、暴風雨にもまれつつただよっている。これは一名目無堅間(めなしかたま)の船といい、銀杏の実を浮かべたように、上下がしっかりと樟の板で丸〈覆われている。わずかに空気穴があいているのみである。予言者の神示に従って、心正しい人々が長い日数かけ、牛、馬、羊、烏などを一つがいずつ入れ、草木の種を積み、食物とともに準備していたのである。それに乗って生き残った人々が、第二の人類の祖先といえる。地上の蒼生のほとんどが死に絶えた。艮坤二神は世の終末を見るに耐えず、天の日月の精霊に対して祈る。

「地上の森羅万象を一種(ひといろ)も残さず、この大難より救わせ給え。吾らは地上の神人をはじめ、一切万有の贖いとして、根底の国に落ちゆき、無限の苦しみを受けむ。願わくは地上万類の罪を許させたまえ。地上のかくまで混濁して、かかる大難の出来したるは吾らの一大責任なれば、身をもって天下万象に代らむ」(『霊界物語』六巻「極仁極徳」)

祈り終るや、二神は地獄の口を開く天教山の噴火口に身を踊らせ、根底の国へ神避()られ給う。その贖いによって、本来なら根底の国に落ちるべき人類の霊魂が、地上蒼生(ちじょうそうせい)のすべてとともに、そのま顕の幽界へ救われる。龍宮城から延びてきた天の浮き橋から金銀、銅の霊線が下りてきて、東西南北に巡りながら波間にただよう無数の神人を救い上げる。

地上霊界の神々の体は三次元の物質とは違う稀薄な霊身だから、いったんは死の世界へ落ちても、救いの御綱によって蘇ることができる。盤古大神や大自在天神は金橋に救われ、極悪非道の八王大神夫婦でさえ見捨てられず、国祖の慈愛の綱にかけられた。しかしその身は蟻の山に下ろされ、全身蟻だらけになる。

 

■日本列島の成立 

天地の大変動によって、地軸はやや西南に傾いた。そのために北極星、北斗星は、地上より見てその位置を変じた。現今のアフリカの一部と南北アメリカの大陸が現出し、太平洋および日本海が陥落した。それまでは今の日本海はなく中国も朝鮮も日本と陸続きであった。

地球のもっとも強固な部分が、龍の形をして取り残された。ここは天地剖判の初めに泥海の中に黄金の円柱が立っていて、おのずから転げたところ、その形は龍体に変じた大国常立尊のお姿そのままであり、同じ大きさであった。この島を自転倒島(おのころじま)と名づけ、世界の胞衣(えな)として立て分けておかれた。

大国常立尊は「この海月(くらげ)なす漂える国を修理固成なせ」と宣り、日月界から伊邪那岐尊、伊邪那美尊を下きれ、天の瓊鉾(ぬほこ)(北斗星) を給う。この星が月の呼吸を助け、月は地上の水を盛んに吸引した。数年をへて洪水は引き、陸地が現われた。地上の蒼生はいったん国祖の贖いの力に蘇り、命が芽吹いてくる。

伊邪那美尊二神は撞の御柱を中に行き巡り合い、美斗能麻具波比(みとのまぐわい)、すなわち火と水の息を調節して陰陽合致、万有に活生命を与える国生み、御子生みの神業を始められる。

『霊界物語』一巻より六巻までの各巻

 


第一四章 神素盞嗚大神

ここまでが記紀神話以前のあらましで、『霊界物語』一巻から六巻までに王仁三郎の口を通して筆録されている。これは国常立尊の御退隠にかかわるあたり、神代の昔、素盞鳴尊が高天原を追放される記紀神話にどこか似ている。相応の理により、地上霊界の主宰神である国常立尊の動向は、地上現界の主宰神素盞鳴尊の行為に投影されるのか。

この先語られる神代史はまさに記紀神話を裏返し、問い直す対抗神話といえる。

『古事記』では、素盞鳴尊は、父伊邪那岐尊に命じられた大海原を治めきれず、ただ手もなく長い年月を泣きわめく。あげくに父神にとがめられ、地上を捨てて荒々しく高天原に上り、姉である司神天照大神に抵抗し、乱暴狼籍(らんぼうろうぜき)を働く。たまりかねて姉神は岩戸にこもり常暗の世を招くに至って、万神は智恵をかたむけ岩戸を開き、素盞嗚尊を弾劾の上、追放する。何ともあきれはてた悪神なのであ

しかし高天原を追われて出雲国に降った素盞嗚尊は、どうしたことか突如、詩的で英雄的な神に変神する。粗暴で無能で女々しくて何ひとつ取柄のなかった神が、ここでは恐ろしい八岐の大蛇を退治して悪の根を断ち、櫛名田(くしなだ)姫を救け、大蛇の尾から出た名刀を天照大神に献上する。勇気凍々、優れた智謀、果断な処置、自分を疑い追放した姉神へさらりと向ける崇敬の志。

出雲の地に須賀宮を建て、妻を得た喜ぴを

「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」と美しい歌に託す詩情。いったいどちらの素盞鳴尊が実像なのか

素盞鳴の 神世にいでてはたらかば がぜんこの世は浦安の国

伊邪那岐の 神の鼻より現れましし 素盞鳴の神先端の神

先端の 先端をゆく素盞鳴の 神のいでます世とはなりけり

素盞鳴と いう言霊は現代語の 先端を行く百破戦闘よ

蓑笠を つけて国々まわりつつ 霊魂しらべし神ぞとうとき

素盞鳴の 神は神代のエロの神 三十一文字で世をならしましぬ

八雲たつ いづも八重垣つまごみにの 歌の心を知れる人なし

素盞鳴の 神の始めし敷島の 歌は善言美詞(みやび)のはじめなりけり

素盞鳴の 神にならいて吾今に、歩みつづくる敷島の道

海原を 知らせと神のメッセージ いまにまったき素盞鳴の神

 

さらにまた年をへて、違った素盞鳴尊の顔がある。根の堅州国に住んでいた時のこと、大国主命は悪逆非道の兄弟八十神から逃れて、その祖である素盞鳴尊のもとへ逃げこむ。そこで尊の娘須勢理姫と一目で恋におちる。

素盞鳴尊は大国主命を蛇の室、翌夜はムカデと蜂の室に寝かせた上、野火を放ってあやうく焼き殺そうとする。そのやり方はまことに乱暴で意地が悪い。大国主命は姫や野鼠の助けを得て、これらの難問を無事に切り抜ける。素盞鳴尊は頭のシラミをとらしているうち、寝てしまう。大国主命は姫と共謀して、寝入った素盞鳴尊の髪を垂木(たるぎ)に結びつけ、巨岩で戸をふさぎ、生太万(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)と天(あめ)の詔琴(のりごと)(政治的、宗教的支配力の象徴)を盗み出し、須勢理姫を背おって逃げ出す。

天の詔琴が木にあたって鳴り響く。目ざめた尊は室を引き倒し、結びつけられた髪をとかして黄泉比良坂(よもつひらさか)まで追いつめ、遠く逃げゆく二人に叫ぶ。

「そのお前が持って出た生太万、生弓矢で八十神どもを追い放ち、国の支配者となって、わが娘須勢理姫を正妻となし、宇迦(うか)の山に立派な宮殿を造って住めよ、こやつめが」

髪の中に無数のムカデを飼っておくような、見るも恐ろしい素盞鳴尊。その婿を試す方法はいかにも荒っぽい。しかし最後のせりふにこもる深い情愛はどうであろう。可愛い娘と生命ともいうべき宝

を盗んで逃げる男に向って、「こやつめが」と投げる一言に、無限のいとおしみがあふれでいるではないか。

数々の試練をくぐり抜けて自分をあざむいた男に対して、その資質を審神し、娘との愛をもたしかめ、盗んだ宝を与えて、その未来を指示し祝福してやる。なんと行き届いた舅であろうか。

 

■素盞鳴尊は救世主神

大本では、素盞鳴尊を瑞の御霊の救世主神であり、購い主として仰ぐ。これは明治政府の宗教政策により作為された皇室の祖神天照大神を仰ぐ、神道系宗教に見られない神観である。霊界物語では一巻から六巻まで、艮の金神国常立尊を主軸にして、神代が展開する。だが一五巻からは、完全に主軸が素盞鳴尊に移動するのである。

なぜ大本ばかりは、世間のいう悪神、崇り神を信仰するのか。出口直にかかった良の金神ばかりか、王仁三郎にかかる素盞鳴尊まで。

王仁三郎は、素盞鳴尊が犯した罪について、言霊学上から独特の解釈を示す。

悪盛んにして天に勝つ。地上神界ですら、すでに国祖の威霊は封ぜられ、天地の律法は名ばかりの世であった。伊邪那岐大神の神命を受けて素盞鳴尊が地に下った時、合せ鏡である現界は手がつけられぬばかりに乱れていた。もともと軽い清らかなものは天になり、重く濁ったものが沈んで積み重なり地を造った。その成り立ちから体的なのだ。当然、肉体を持つ地上人類の体的欲望は激しい。

霊的性能が体的性能に打ち克つための、すなわち霊主体従の素盞鳴尊の神教など、血を吐くほどに叫んでも、体主霊従に堕した人々には通じない。その心痛は「八拳須(やつかひげ)心の前に至るまで」泣くほどであった。治まる時には治めずとも治まるが、治まらぬ時にはどんな神が出ても治まらぬ。

父伊邪那岐大神のお咎めに対して、素盞鳴尊は一言の弁明もせず、地上人類の暴逆や不心得をも訴えず、罪を一身にかぶって引退する覚悟であった。咎める伊邪那岐大神も、貴のみ子の苦衷を察せられぬはずはない。しかし人類を傷つけまいとされる尊の誠をくみとられ、「いま、わが子一人に罰を与え罪人としたならば、人類も悪かったと気づいてくれよう」との悲願をこめ、涙をのんで追放される。

 

八束髭 わが胸先に垂るるまで 嘆き玉いぬ天地のために

素盞鳴の 神は地上を知らすべき 権威持たせり惟神にして

素盞鳴の 神の恵みに村肝の 心せまりて涙こぼるる

 

■変性男子と変性女子

素盞鳴尊は地上を去るにあたり、姉天照大神に別れを告げるべく高天原へ上る。地上は統治者を失って、大変な騒ぎである。天照大神はその騒ぎに、弟神が高天原を奪りにくると疑い、もろもろの武備を整え、おたけび上げて待ち受ける。

「私に邪(きたな)い心はない。ただ事情を申し上げたいばかりに参ったのだ」と告げても、疑いはとけぬ。

素盞鳴尊の心の潔白を証明するために、天の安河原での誓約の神事を申し出る。天照大神は素盞鳴尊のもつ剣をとって三つに折り、天の真奈井にすすぎ、かみにかんで吐き出す息から三柱の女神が生まれた。素盞鳴尊が天照大神の髪や左右の手にまいた珠をとって同じくかんで吹き放つと、五柱の男神が生まれた。そこで天照大神は告げる。

「あとに生まれた五柱の男神は私のもっている珠から生まれたからわが子、先に生まれた三柱の女神は汝の剣から生まれたから汝の子である」

この御霊調べの結果、天照大神は五つ()の男霊、すなわち厳(いづ)の御霊(みたま)であり、女体に男霊を宿すから変性男子。素盞鳴尊は三つ(()の女霊、すなわち瑞の御霊であり、男体に女霊を宿すから変性女子と判明する。

変性男子、変性女子は大本独特の筆先用語であり、神界の都合で国常立尊、のちには男霊である天照大神の霊魂の湿る出口直を変性男子といい、逆に豊雲野尊や女霊である素盞鳴尊の霊魂を宿した王仁三郎を変性女子という。また直を厳の身魂、王仁三郎を瑞の身魂とも呼ぶ。

天照大神が素盞鳴尊の心を疑ったことについて、王仁三郎は述べる。

「元来、変性男子の霊性はお疑いが深いもので、わしの国を奪りにくる、あるいは自分の自由にするつもりであろう、こう御心配になったのであります。ちょうどこれに似たことが、明治二五年以来の

お筆先に非常にたくさん書いてあります。変性女子(王仁三郎)が高天原(綾部)へきて破壊してしまうといって、変性女子の行動に対して非常に圧迫を加えられる。また女子が大本全体を破壊してし

まうというようなことが、お筆先にあらわれております。・・・大本教祖(出口直)も変性男子の霊魂であって、やはり疑いが深いという点もあります」(『霊界物語』一二巻二九章「子生(みこうみ)の誓」)

王仁三郎は、皇室の祖神とされる天照大神を批判し、その対抗神である素盞鳴尊を愛の神として捉えている。善と悪とは相対的であり、一方を善とすれば、他方は悪となる。今日まで、皇室の祖神天照大神は善の象徴として考えられていたが、はたしてそうだろうか。

 

安河に 誓約の業を始めたる 厳と瑞との神ぞ尊き

八洲河の 誓約になれる真清水は 罪ちょう罪を洗い清める

 

■疑いと武力が紛争の種

素盞鳴尊が地上を追われたのには、より深い原因があったことを、王仁三郎は『霊界物語』の中で一庶民の噂話にことよせ述べている。

「天の真奈井からこっちの大陸は残らず、素盞鳴尊の御支配、天教山の自転倒島から常世国、黄泉島(よもつとう)、高砂洲は姉神様がおかまいになっているのだ。それにもかかわらず、姉神様は地教山も黄金山も、コーカス山もみんな自分のものにしようと遊ばして、いろいろと画策をめぐらされるのだから、弟神様も姉に敵対もならず、進退これきわまって、この地の上を棄()てて月の世界へ行こうと遊ばし、高天原へ上られて、今や誓約とかの最中だそうじゃ。姉神様の方には、珠の御徳から現われた立派な五柱の吾勝命(あかつのみこと)、天菩火命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)という、それはそれは表面殺戮(さつりく)征伐などの荒いことをなさる神さまが現われて、善と悪との立別けを、天の真奈井で御霊審判(みたましらべ)をしてござる最中だということじゃ。

姉神様は玉のごとく玲瀧(れいろう)として透きとおり愛の女神のようだが、その肝腎の御霊からあらわれた神さまは変性男子の霊で、ずいぶん激しい我の強い神さまだということだ。弟神様の方は、見るも恐ろしい十握(とつか)の剣の霊からお生まれになったのだが、仁慈無限の神様で、瑞霊ということだ」(『霊界物語』一二巻二五章「琴平丸」)

いわば天照大神は疑い深く、我が強く、弟神の領分まで侵略したがるほどに欲深く、殺戮征伐を好む神になる。素盞鳴尊がなすすべもなく泣いていたわけであろう。

これが口述されたのは大正一一年三月一一日、大日本帝国はシベリアに出兵、軍備を強め、仮想敵国を作って牙をとぐ頃。しかも王仁三郎は第一次大本事件で投獄され、開祖出口直の墓はあばかれ、神殿はこわされ、不敬罪に関われている最中である。よくもまあ、これが酷(きび)しい検閲の目をくぐり抜けたものである。

視点をかえて見れば、天照大神の行為そのものにも首をかしげたくなる。お別れの挨拶がしたいという弟神の心を察する前に、ソク武力を整える。天界と地界は合わせ鏡、手のつけられぬ地上の乱れの原因を知り、その立て直しの方策を考えるのに一度高天原を見たかった・・・そう思いやることがなぜできなかったろう。

今日でも「疑い」が、大は仮想敵国をつくり上げる国際問題から小は家庭のいざこざまで、どれほど多くの紛争の種を撒()いていることか。それを清くあるべき高天原の主宰神がまず犯された罪は重大である。

しかもその疑いの解決を、まっさきに武力に求めようとした。この体質は省みられず、帝国日本に引き継がれ、尾を引いた。口述の翌一二年関東を襲った大地震には朝鮮人暴動の疑いをかけ、数千人を殺している。その後も二度にわたる世界大戦や幾多の愚かな戦争のくり返しが、人類をどれほど悲惨な状況におとしいれてきたことか。さいわい神代では、素盞鳴尊の言霊と誓約によって、あやうく地上軍との武力衝突こそ避けられたが。

素盞鳴尊は「我が心清く明し。故、我が生める子は手弱女(たおやめ)を得つ。これによりて言(もう)さば、自ら我勝ちぬ」(これで私の清明潔白なことは証拠立てられた。私の心の綺麗なことは私の魂から生れた手弱女によって解りましょう。従って、私の勝です)といい、勝ちのすきびに乱暴をする。これについて王仁三郎は、地上から従ってきた素盞鳴尊の従神たちの集団行為だという。主である素盞鳴尊があらぬ疑いをかけられた無念を、その潔白が晴れたとたんに爆発させたのだ。

 

編集者註: 素盞嗚尊は罪もないのに高天原を放逐され、天の磐戸隠れの騒動を仕組んだのは、ウラナイ教の高姫ということが霊界物語に記されています。 

 

(引用)第一八章  婆々勇(ばばいさみ)〔五八五〕
 高姫、黒姫、蠑螈別を始め、一座の者共は折から聞ゆる宣伝歌の声に頭を痛め、胸を苦しめ、七転八倒、中には黒血を吐いて悶え苦しむ者もあった。宣伝歌は館の四隅より刻一刻と峻烈に聞え来たる。
黒姫『コレコレ蠑螈別サン、高姫サン、静になさらぬか、丁ン助、久助その他の面々、千騎一騎のこの場合、気を確(しっか)り持ち直し、力限りに神政成就のため活動をするのだよ、何を愚図々々キヨロキヨロ間誤々々するのだい。これ位の事が苦しいやうなことで、どうして、ウラナイ教が拡まるか、転けても砂なりと掴むのだ、ただでは起きぬと云ふ執着心が無くては、どうしてどうしてこの大望が成就するものか。 

変性女子の霊や肉体を散り散りばらばらに致して血を啜り、骨を臼に搗いて粉となし、筋を集めて衣物に織り、血は酒にして呑み、毛は縄に綯ひ、再びこの世に出て来ぬやうに致すのがウラナイ教の御宗旨だ。折角今迄骨を折つて天の磐戸隠れの騒動がおっ始まる所まで旨く漕ぎつけ、心地よや素盞嗚尊は罪もないのに高天原を放逐され、今は淋しき漂浪(さすらい)の一人旅、奴乞食のやうになつて、翼剥は)がれし裸鳥、これから吾々の天下だ。 

この場に及んで何を愚図々々メソメソ騒ぐのだ。高姫さま貴女も日の出神と名乗った以上は、何処迄も邪が非でも日の出神で通さにやなるまい。 

(はばか)りながらこの黒姫は何処々々迄も竜宮の乙姫でやり通すのだ。蠑螈別さまは飽までも大広木正宗で行く処までやり通し、万々一中途で肉体が斃れても、百遍でも千遍でも生れ替はってこの大望を成就させねばなりませぬぞ。エーエー腰の弱い方々だ。この黒姫も気の揉める事だワイ、サアサア、シャンと気を持ち直し、大望一途に立て通す覚悟が肝腎ぢや。 

(大正一一・四・三 旧三・七 加藤明子録)

 

■天の岩戸ごもり

高天原の神々は、天照大神に素盞鳴尊の従神たちの暴逆を訴える。だが天照大神は、誓約によって弟神の潔白が明らかになった今、激しく後悔されたであろう、だから今度は、しきりに弁護する。

「神殿に糞をしたといって騒ぐけれども、あれはきっと、酒に酔って何か吐き散らしたまでのことでしょう。田のあぜや溝をこわしたというのも、耕せば田となる土地をあぜや溝にしておくのは惜しいと

思つてのことでしょう。わが弟のしたことですから」

だがかばい切れぬ事件が起こった。

清めぬいた忌服屋(いみはたや)では、天照大神のもとで織女たちが神に捧げる御衣を織っていた。その時、御殿の棟がこわされて、その穴から火のかたまりのようなものが落ちてきた。逆はぎにはがれた天の斑馬(ふちこま)ではないか。逃げまどう織女たちの絶叫、梭()に陰上(ほと)をついて死ぬ織女。なんと、天井の穴からのぞき見ているのは、弟素盞鳴尊の髭面ではないか。

あまりのことに思慮を失った天照大神は、天の岩屋戸に閉じこもってしまう。これによって高天原は常闇の世となり、荒ぶる神々はここぞと騒ぎまわり、禍という禍はことごとに起こった。

天の斑馬(ふちこま)を逆はぎにはいで落としたのは、明らかに素盞鳴尊自身である。こればかりは、弁護の余地さえなさそうだ。それにしても、安河原の誓約(うけい)では確かにやさしい魂をもっ素盞鳴尊が、なぜわざわざ姉の面前で、そのような残虐行為に出たものか、その矛盾がひっかかってならない。これについては、王仁三郎はなぜか口をとざして語らぬ。代って私が推理しよう。

 

素盞鳴尊の従神たちの乱暴を神々が訴えた時、天照大神は弟神をかばい過ぎてしまった。厳然として天地の律法を守らねばならぬ高天原の主宰神が、天則違反を犯す天下の大罪人(部下の罪は主人の罪の意で)を、いとしい弟だからと見すごしてはならない。それは天地の神々へのしめしもつかず、律法は内側から崩れてゆこう。だからこそ父伊邪那岐尊は、涙を呑んで貴の子を追放されたものを。姉神がかばえぱかばうほど、素盞鳴尊は苦しんだであろう。姉神をその重大な過失から救い、従神たちの天つ罪をつぐなって、傷ついた律法の尊厳を守る手だては「部下の罪は私の罪だ。どうか私を罰Lて下さい」とまともに申し出ても、理性を失っている神は聞き入れまい。

素盞鳴尊のとるべき道は一つ。姉神の面前でのつぴきならぬ怒りを買うのだ。万神の激怒をわが身一神にふりかえて処罰させる。それしかないではないか。ところが天照大神はしょせんは女神。素盞鳴尊の深い志を察して罰を与えるゆとりすらなく、

天職も誇りも捨てて岩戸へこもってしまわれた。王仁三郎がこの事件について口ごもるのは、触れようとすれば非を皇室の祖神天照大神に重ねて帰せねばならない。

しかし王仁三郎は、天照大神と機について、重大なことを示唆している。

「ここで機を織るということは、世界の経論ということであります。経と緯との仕組をしていただいておったのであります。すると、この経綸を妨(さまた)げた。天の斑馬、暴れ馬の皮を逆はぎにして、上からどっと放したので、機を織っていた稚比売(わかひめ)の命は大変に驚いた。驚いた途端に竣に秀処(ほと)を刺して亡くなっておしまいになったのであります」(『霊界物語』一二巻二九章「子生の誓」)

単に血だらけの馬を落として驚かす単純な悪戯などではない。素盞鳴尊が天照大神の経輸を妨害したと、王仁三郎はいっている。もしそうであれば、まさしく素盞鳴尊は天下の大罪人である。が、も一つ底があるかも知れない。合せ鏡の元、天照大神の経論そのものが国祖の律法から見て間違っているとすれば・・・。

瑞御霊(みずみたま) 千座(ちくら)の置戸を負わせつつ 世人の犠牲と降りましけり

 

■機の仕組

筆先には、「機の仕組」について、しばしば説かれている。「にしきの機の下ごしらえであるから、よほどむつかしきぞよ。このなかにおりよると、魂がみがけるぞよ。みがけるほど、この中は静かになるぞよ。機の仕組であるから、機が織れてしまうまでは、なにかそこらが騒々しいぞよ。にしきの機であるから、そう早うは織れんなれど、そろうて魂がみがけたら、機はぬしがでに(一人で)織れていくぞよ」明治三三年旧八月四日(『大本神諭』「第二集L)

にしきの機とは、綾錦の布を織ることをさすが、みろくの世に至る道程を、さまざまに織りなしていく人々の苦節を色糸にたとえ、象徴的に表現したものであろう。機は経糸と緯糸で織り成されるが、

出口直と王仁三郎のふたつの魂の要素ともいうべきものが、経と緯の関係になぞらえる。

経糸 出口直     艮の金神  変性男子  厳の御霊

緯糸 出口王仁三郎 坤の金神 変性女子  瑞の御霊

 

対立し、ぶつかり合い、からみ合うふたつの個性や生きざまの鮮やかな対照がいつのまにやらそのまま組みこまれて、大本の教義を成していく。直にかかる神の啓示と王仁三郎にかかる神の教えが、火と水、男子と女子、父と母、天と地、小乗と大乗、ナショナルとインターナショナルというように、まったくあい反しながら、機の経糸、緯糸となって織りなされてゆくのである。

 

「古き世の根本のみろくさまの教えをいたさなならん世がまいりきて、にしきの機のたとえにいたすのは、変性男子のお役は経のお役で、初発からいつになりてもちっとも違わせることのできんつらい御用であるぞよ。変性女子は機の緯の御用であるから、きとくが落ちたり、糸がきれたり、いろいろと綾のかげんがちごうたりいたして、何かのことがここまでくるのには、人民では見当のとれん経綸がいたしてあるから、機織る人が織りもって、どんな模様がでけておるかわからん経論であるから、出来あがりてしまわんとまことの経論がわからんから、みなご苦労であるぞよ」大正五年旧九月五日(『大本神諭』「第五集」)

この筆先には、経緯の役目の相違がはっきりと示されている。経糸は、いったんピンと張り終ると、後はびくとも動くことはできぬ。それが経糸の役目である。

国祖国常立尊の至正、至直、至厳なやり方に対して不満の神々が天の大神に直訴する。天の大神もついに制止しきれず、「もう少し緩和的神政をするよう」説得したが、国祖は聞き入れぬ。もしそこで聞き入れてゆるめれば、機の末は乱れきるのが目に見える。たとえ天の大神のお言葉を拒もうとも貫く、これが機の仕組の経糸のつらい役目なのだ。

経糸が張られれば、後は緯糸のお役。緯糸は、張りつめた経糸の聞をくぐり抜ける度に筏(おさ)で打たれながら、きとくが落ちたり、糸が切れたり、梭のかげんが違ったりしつつ錦の機の完成まで動き続ける。これまたいっそうつらい役。

経と緯というのは、すべての物事の成り立ちのぎりぎり決着の表現であろう。いかなる文化も経と緯、時間と空間のないまじりから成る。「縦横無尽の活躍」というのも、自由自在な働きの根底が経と

緯とで構成されていることを示す。

大本的表現をすれば、この錦の機を織り上げるのが神業であり、人間は一筋の糸として参加するため、この世に生まれてきたのである。この地球上で人間が創造している文化(政治、経済もふくめ)は、それぞれ勝手にやっているようで、実は織られているのだ。短い糸をつなぎ、より合わせていつか時代の流れの色模様が染め上げられていく。

経と緯とがうまく整い、見事な布が織られていくことを「まつりあう」という。政治を、日本古来の言葉では「まつりごと」と称した。天と地、神と人、霊と体との均り合いが真にうまくとれることが政治の理想であろうが、神に対する祭りも同様である。その意味から見れば、現今の文化のいっさいは均衡を欠いており、人間の我欲だけが一方的に突出して、歪んでしまっていはしないか。

筆先では、大本の機は日本の、世界の雛型となるべき錦の機という。少しのゆがみも許されぬ経糸はもちろん、我がなければならず、あってはならずで、打たれ打たれて織られていく緯糸の過程の苦きゆえに、魂に磨きがかかるのであろう。醜い我欲を捨て、織り手の心のままに澄んでいけば、錦の機は自然に完成していくと、筆先は繰り返し教えている。

 

たてよこの 神のよさしの綾錦 機のかがやく世とはなりけり

綾の機 織る身魂こそ苦しけ一れ 一つ通せば三つも打たれつ

 

■謀略的岩戸開き

高天原の司がすべてを投げ捨て岩戸にこもっては、世は闇夜となりはてる。万の災禍も起こってきた。そこで八百万の神々が安河原に集まって思金神(おもいかねのかみ)に知恵を傾けさせる。長鳴鳥を鳴かせ、さかきの上枝にみすまるの玉をかけ、鏡をつけ、下には白や青の布を垂らしておき、太祝詞を奏上した。天宇受売命(あめのうづめのみこと)が伏せた桶の上で、足をふみとどかし、胸乳もあらわに踊り狂ったので、高天原も揺れるほどに神々はともに笑った。天照大神は不思議に思われ、岩戸を細目に開いて声をかけられた。

「私がこもっているので、高天原は暗く、また世の中も暗いと思うのに、どうして天宇受売命は楽しそうに踊り、神々は笑うのか」天宇受売命は答えた。

「あなたよりも尊い神が出られましたので、みな大喜びで笑い遊んでいます」

が、たしかに岩戸の前には光り輝く女神がいる。それがさし出された鏡に写る御自身とは知らず、思わず戸より出てのぞかれたので、隠れていた天の手力男神がみ手をとって引き出し、布刀玉(ふとたま)命がしめ縄を張って「これより中に、もう戻らないで下きいと申し上げた。

岩戸は開けこの世は明るく照りわたった。

まるで天照大神の日頃のお疑い深き嫉妬深さをみこして万神謀議の末、道具立ても抜け目なく、まんまと罠にはめて成功した。めでたしめでたしである。しかしこれが高天原随一の知恵者、思金神の出し絞った知恵というのか。それにしては幼稚な・・・そう思った時、逆に胸の暖まる心地がした。この物質世界でこそ人間は有史以来、悪知恵を研ぎすまさねばならなかった。この程度の策略にころっとだまされる天照大神も、いっそ愛らしい無垢のお心ではないか。

岩屋戸の変以前の高天原は、そうした嘘やいつわりを知らぬ清い別天地であったろう。とすればこの天界に芽生えた邪気の初めは何か。一方的に被害者にされる天界の主宰神天照犬神にまったく非はなかったのだろうか。王仁三郎は述べる。

「言霊の鏡に天照大御神のお姿がうつって、すべての災禍はなくなり、いよいよ本当のみろくの世に岩屋戸が開いたのであります。そこで岩屋戸開きが立派におわって、天地照明、万神おのずから楽しむようになつだけれども、今度は岩屋戸を閉めさせた発頭人をどうかしなければならぬ。天は賞罰を明らかにすとはこのことでございます。が、岩屋戸を閉めさせたものは三人や五人ではない、ほとんど世界全体の神々が閉めるようにしたのである。で、岩屋戸が開いたときに、これを罰しないでは、神の法にさからうのである。しかし罪するとすれば、すべての者を罪しなければならぬ。すべての者を罰するとすれば、世界はつぶれてしまう。

そこで一つの贖罪者を立てねばならぬ。すべてのものの発頭人である、贖主(あがないぬし)である。仏教でも基督(きりすと)教でもこういうのでございますが、他のすべての罪ある神は自分らの不善なりし行動をかえりみず、もったいなくも大神の珍の御子なる建速須佐之男命お一柱に罪を負わして、髭を切り、手足の爪をも抜き取りて、根の堅洲国へ追い退けたのであります」(『霊界物語』一二巻三O章「天の岩戸」)

みずから悪神の仮面をかぶり、千座の置戸を負って、怒れる神々に髭をむしられ、手足の爪まで抜かれて高天原から追放される素盞鳴尊。その推理は、国祖国常立尊の御退隠と重なって、何がまことの善なのか悪なのかを、この世の根源にさかのぼって問い直したくなる。

姉神をふくめた万神と地上人類の罪の贖主として甘んじて処刑を受けられた素盞鴫尊こそ救世主、救いの大神として、王仁三郎は位置づける。もとより国祖は、この岩戸の開き方が気に入らない。筆先はずばり指摘する。「まえの天照皇大神宮どののおり、岩戸へおはいりになりたのをだまして無理にひっぱり出して、この世は勇みたらよいものと、それからは天の宇受売命どののうそが手柄となりて、この世がうそでつくねた世であるから、神にまことがないゆえに、人民が悪くなるばかり」明治三八年旧四月二六日(『大本神諭』第四集)

神代の昔から、こうした嘘や偽りで日の大神をだました上、力にまかせてひっぱり出し、それを手柄として自分たちの謀略を省みようともせぬ高天原の万神たち。神がこうだから、神に誠心がないから、それが地上世界へ写って人民が悪くなる。目的さえよければ手段を選ばぬ今の人民のやり方が、どれだけ世を乱すもととなっているか。

人民ばかりが悪いのではない。神、幽、現界を含めて三千世界を立替え立直す。まずその根本を正してこの世を造り直させよう。これがどうやら国祖の御意志らしい。

さすが剛直をもってならしたお方であり、八百万の神々に煙たがられ、ついに艮へ押し込められたお方だから、岩戸開きのやり方はもとより、現界の、ことに上に立つ人々の利己と欺瞞にどんなにか我慢がならなかったことであろう。

時は今、再び岩戸が閉められる。明治二五年に国祖は出口直にかかり、第二の岩戸開きを宣言した。それは立替え立直しと共通項でくくられるものであり、相互に内的関連性を持つといえよう。

ではどうした方法で第二の岩戸を開くのか。神代の岩戸開きの過ちを再び繰り返さぬためには、愛と誠で開くよりない。王仁三郎は示す。

「天の岩戸の鍵をにぎれるものは瑞の御霊なり。岩戸の中には厳の御霊かくれませり。天の岩戸開けなば、二つの御霊そろうてこの世を守りたまわん。さすれば天下はいつまでも穏やかとなるべし」(『道のしおり』「第三巻」上)

素盞嶋尊の願っている理想世界とは何か。尊が八岐の大蛇を退治し櫛名田姫を得、出雲の須賀に宮を作った時の歌に集約されている。

「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」

この歌が和歌の始まりといわれる。一般的解釈は字句通り、雲の沸き立つ出雲の地に宮を建て妻を得た感動を歌ったものとされるが、王仁三郎はその歌に特別の密意を読みとっていた。

「出雲」はいずくも、「八重垣」は行く手をはばむ多くの垣、妻は秀妻、すなわち日本の国、だからこの歌は素盞鳴尊の嘆きと決意を示したものとなる。

「伊邪那岐尊から統治をゆだねられたこの大海原、地上世界には八重雲が立ちふきがっている。どの国にもわき立つ邪気が日の神の光をさえぎるばかりでこの世は曇りきっている。秀妻の国の賊(八岐の大蛇)は退治したものの、さらにこの国を八重に閉じこめている心の垣 その八重垣をこそ、取り払わねばならぬ」

人類の歴史は、いわばいかに頑丈な垣根をめぐらすかに腐心してきた。神代の昔、すでに姉と弟の間にも越えがたい垣根がはばんで文明が開化すればするほど、われわれは多くの垣根を作って生きている。

国と国が、人類同志が、民族間、階級間、その上宗教の違いまでが生み出す心と心の垣。そのさまざまな八重垣を取り払い、焼き減ぼすのが、素盞鳴尊の目ざす火()の洗礼、「みろくの世」ではないだろうか。

 

立替えを 世人のこととな思いそ 立替えするは己が御魂ぞ

みろくの世 早や来よかしと祈りつつ 岩戸の開く時を待つかな

三千歳の 天の岩戸も明烏(あけがらすみ) 時きわたりつつ世をさますなり

八束髭 手足の爪をはがれつつ 血をもて世をば清めたまいぬ

八束髭 生血と共に抜かれたる 瑞の御魂は戸川町の天弛の岐美(きみ)

 

『霊界物語』一二巻二五章「琴平丸」 二八章「三柱の貴子」・二九章「子生の誓」・三O章「天の岩戸」、『道のしおり』「第三巻」上、『大本神論』「第二集」・「第三集」・「第四集」・「第五集」

「琴平丸」 二八章「三柱の貴子」・二九章「子生の誓」・三O章「天の岩戸」、『道のしおり』「第三巻」上、『大本神論』「第二集」・「第三集」・「第四集」・「第五集」