第一篇 丹波小史
第 一章 丹波の霧の海の底から
二人世の元 大本は、開祖出口直・聖師出口王仁三郎を二大教祖と仰ぐ。 開祖。聖師をつなぐ環は、神縁あって王仁三郎の妻となる直 の末娘、二代教主出口澄である。この三人の非凡なる人柄と波 瀾に富んだ生涯は、それぞれきわだって対照的、個性的だ。 大本を舞扇にたとえれば、華麗な色彩と絵模様の扇面が王仁 三郎、その地紙に埋もれて支える骨は直、それらをしつかりま とめる要が澄。f一人世の元」の筆先が示すように、異質の三 つの魂が火花を散らしてぶつかり合い、からみ合うことによっ て大本の基礎は成り、独自の教風をもたらした。 三人の人生をなぞれば、大本草創期を語ることにもなろう。三色の糸で編んだ一本の組緒のように、一色の糸だけを切り離 してその全容をつかむことはできぬ。
 本書の目的は、出口直の人生の軌跡を与う限り忠実に再現す ることにあるが、直とかかわる他の二人の前半生についても幾 分か触れることになろう。
丹波の深霧 山の中腹に立って仰げば空は青、地は見めぐらすかぎりの霧 の海――丹波には山と川がいたるところにあるため、朝夕は湿 潤の気があふれみち、有名な丹波霧を生む。秋の霧はとりわけ 濃密で、ときには昼近くまで深い帳につつまれる。その霧の 深い地帯ほど米の収穫は多い。良質を誇る松茸も柿も丹波栗も、 霧の海の中にひたり育つ。霧のヴェールをすかし見る山や川の 風景はいっそうやわらかで、大昔から人びとの心に安らぎを与 えてきた。しかし丹波に住む人たちはその恩恵をさしてありが たいとも思わぬし、ましてこの地が仮寝にすぎぬ旅人たちは 「 なんて陰鬱な」と眉をしかめるばかりだろう。 亀岡盆地の年谷川堤防のわずか三十本ばかりの松並木を「 千 本松」と称しているが、むかしは亀山城の一番外側の松の防壁 で、約五町にわたって、多くの松がたちならんでいた。千本松 は「野橋立」とも呼ばれ、 一説には丹波出身の俳人野揚の命名 とされるが、丹波霧の底から浮きたつ松並木を「陸の天の橋 立」に見たてた趣向は、さすがに俳人らしい。

 

 第一章 丹波の霧の海の底から

 

亀の城遊ぶ姿や霧の 海
亀山は蓬葉島か霧の 海
野田泉光院
野々日立圃
たしかに丹波は、漠とした乳色のたゆたいの底ふかく、山ま た山を沈めている。その山ふところには、イノシシ、クマ、シ カ、サル、タヌキ、キツネ、ウサギどもが息をひそめていよう。 いや、そればかりか、都の人びとは丹波の霧と山に神秘的な畏 怖を感じ、それが大江山の酒呑童子の幻想へとつながる。
鬼の棲む地 「 丹波国大江山には鬼神の棲みて、日暮るれば、近国他国 の者までも、数を知らず奪りて行く」翁お伽草子し 鎌倉期に発生した大江山酒呑童子伝説は、絵巻。お伽草子・草双紙・ 浄瑠璃・歌舞伎・謡曲などの題材となり、童一 謡にまで うたわれて、鬼の棲むという丹波のイメージは、人々の心に抜 きがたくしみつく。

 「 折節の空は水無月の末、山々に丹波太郎という村雲おそ ろしく……」翁好色一 代男し 丹波太郎は陰暦六月に丹波方面から湧き立つ雲の異名だが、 鬼の棲む丹波から出るものは、雲でさえ恐ろしいというわけで ある。しかしそれは、一暴を返せば、クモやミミズにさえことさ ら大仰に悲鳴を上げてみせる都の人びとの優越感を助長し、丹波太郎も、酒呑童子も、霧も、町も、民家も、住民も、すべて 彼らの椰楡や嘲笑の種にされてきた。
民家いやし 「 丹波越えの身となりて、道なきかたの草分衣、茂右衛門 おさんの手をひいて」翁好色五人女し 不首尾して京から山越えに丹波に逃げることを「丹波越え」 といい、かけ落ちの代名詞とされる。

 上田秋成は『胆大小心録』で丹波を椰楡の種にする。 「 丹波太郎といふ雲が出るとて、何やらおそろしい所のや うにいへど、腹さもしい故こはいことはなし。酒呑童子が ありし時こそ、京奉公人を引つかんで去に、酒は奈良から や、京からや、池田からや、ただとり山のほととぎす、そ んな事あつたらよからうと、丹波の人はいふべし」 貝原益軒は冬の丹波路を旅し、亀山では「民家いやし」と軽 くけなしながら鳥羽につき、「 今夜は鳥羽に宿す。京より是ま で八里有。およそこの国は京に近くして、大江の坂の山、 一つ へだたりなりぬれば、民俗人家、すべて畿内には大いにかはり て、いぶせくいやし」と『西北遊記』に書く。 『 人国記』の丹波人に対する評価もまた痛烈である。 「 丹波は人の気堕弱、面々各々にして十人十様、わが身を 自慢し、人を誂り、人の誉れあるを誉むべしとはせず。

 而うして余の人のそれより誉れ多きにくらべて是を誂るの類に て、悉皆女人の風俗に異ならず下劣なり。従つて己が日夜 つとむるところの耕作の道は第二にて、商売を本とするこ と偏へに身の栄華せんことを常にたくらみ、すべて勇寡 うして諮ひ強く、昨日は味方にありし人も今日は敵とな り、また前になりかはり渡世する類の風俗もつとも哀れな る形儀なり。然れども自然に能き人出生せば、気柔かくな る意地より成り立つ風俗なれば、双ぶ方なきほどの人もで きざるべし。天下乱れてこの国を治めば、五日のうちに従 ふべきなり」

■ 人国記し 「 按ずるに、丹波は四方山々にて、皆名門の人家なり。寒 雪も北国ほどはなけれども、もつとも烈し。山谷の内の民 なれば偏屈に狭かるべきことなれども、儒弱なる所以は この国山城に隣りて都近きが故に、上邦の風俗を見るに慣 れて自気の精出で、本強の質を失へり。婦人の風俗一 しほ 取じめなくて粗末なるところなり」翁改正人国記し たしかに丹波人の弱みを的確についているが、しかしそれは、 丹波に限らずとも、都会に近い里に住む人のもつ共通の習性で はないだろうか。
丹波の山猿
丹波篠山山家の猿が花のお江戸で芝居する――と田舎者の場
ちがいなおかしさをはやし立てるにはころあいな丹波の山猿。 今日だって、丹波と聞けば、口辺にうすら笑いを浮かべる人は、 まだまだいつ ぱいいる。丹波や丹波人に対する値ぶみは、なぜ にこうまで不当に低いのか。 丹波は鬼も棲まぬし、たしかに、ひけらかすほどの風俗も景 趣ももたぬ。京の都近くに位置しながらともかくひかえ目で、 その地理的利点は、逆に他国の人たちに利用されるばかりだっ た。歴史の流れを変えようと、みずから積極的に身をのり出し たことはついぞなく、天下国家を動かすほどの人物を生み出し たことすらない。足利尊氏や明智光秀が丹波を足台に天下に手 をのばしたことはあるが、彼らも他国からきた人であつた。尊 氏には綾部市安国寺町で生まれたという伝承があるが、仮にそ れが事実だとしても、丹波で育ったわけではない。しょせん丹 波は花道であり、目ざす舞台は王城の地・ 京の都にあった。 丹波は常に受け身であり、アウトサイダーであった。それだ けに、たまりたまったエネルギーは、いつか爆発を見ねばすま ぬ。霧の海の底、この丹波の山野から放たれた「 三千世界の立 替え立直し」の人類史上未曽有の大宣言は、まさにその産声で あろう。

 

 丹波の 名義 タニハーーなまってタンバ。この 地名をあらわすのに、古来
より いろいろな文字が使われてきた。 『 古事記』は「旦波」 、『 日本書紀』は「 丹波」の文字をあて、 古訓ではタニハと読ませている。本居宣長は「 後の世にタンバ と唱ふるは、字音にひかれて訛れるものなり。迩をンと濃るか ら、音便に波をも濁れるなり」翁古事記伝しという解釈を示し ている。 ほかに「但波」「倭姫命世記し、「丹婆」3大同類衆方し、「 賂 羽」翁和漢三才図絵し、「太邁波」翁和名類衆抄し、「 丹州」翁運歩 伊呂波集し、「丹白」翁日本地理志料しなどの文字があてられた。 丹波の名義は湖水説、山岳国説、田庭説のおよそ三説がある が、定説はない。 湖水説。『丹波志』には「おおむかし、丹波は大きな湖であ り、その水が丹かったので丹波と名づけた」また「 斬り殺され た大蛇の血で湖が赤くそまり、丹波の名がついた」とあり、 『 地理志料』も湖水説を採っている。丹い波すなわち丹波が湖 水であったという伝説は各所にあり、出口王仁三郎も大本の機 関誌 『 昭和』に丹波が湖水であったと書いているが、今日では 学術的にも証明されていることである。 山岳国説。『国号考』では「丹波の言は系間なり。山間に於 ける国なるをもつて名を得る」とし、谷の間にある土地、つま り賂間と考える。『倭訓栞』は「谷端の義なるべし。四方に 山々重なれり」と述べ、その形状からの命名だとする。

 『 和漢三才図絵』でも 「 山陰道八ヶ国のはじめ、王城附庸の国たり。 初め路羽の字を用ひ、のち丹波となす」として、これも山間を 連想している。 田庭説。『 諸国名義考』は 「 名義は田庭なるべし。渡会 の外 宮 の豊受大神、この国にましまして、内宮の皇大御神 の朝夕 の 大御食を奉り給う故、しかおひし名なるべし」として、神 々に 供える穀物を作る豊かな土地、田庭論である。また 『延暦儀式 帳』も 「むかし豊受大神 の降り給ふや、五穀 の種をもたらす。 意 の 逢鴎椎や 〓 けふて之を播 ま く。聯静離 り 々田に満 つ。大神喜びて のたまはく。喜哉田庭なり。因 って号けて田庭と いふ」として いる。 以上 の三説を受けて、『丹波及丹波人』は丹波 の地勢 の特長 をとらえながら、「 箱庭説」を提示する。 「いずれの説を可とす べき子に至りては、吾人はにはかに 之が断定を下しがたく、そのいずれも意義ある所に、丹波 は山岳国として他の山岳国と異り、農業国として他 の農業 国とやや趣きを変 へているものが存するのであろう。何故 ならば、山岳国としては甲信地方の如き高峰 峻 嶺を見ず、 優雅な築山を並 べたやうで山岳国の特長が薄 い。また農業 国と いふには、あまりに山林 の余慶に浴することが多 い。 なるほど篠山盆地や亀岡盆地には農耕地を想はじめるが、 かの大阪平野を見て篠山盆地に入 つた者、山城平野を 一巡して亀岡盆地に来た者は、あたかも箱庭に入つたやうな気 がする。田庭とはその意味かも知れぬ」 出口王仁三郎は、丹波の名の由来について、田庭説を採る。

 「 丹波は、もと田場と書き、天照大御神が、青人草の食い て活くべき稲種を作り玉うた所である。故に、五穀を守る といふ豊受姫神は、丹波国丹波郡丹波村、比沼の真奈井 に鎮座ましまし、雄略天皇の御代に至りて、伊勢国山田 に御遷宮になつたのである。御即位式の時、由紀田・主基 田をお選みになるのも、現今の琵琶湖以西が、五穀を作ら れた神代の因縁に基づくからである。由紀といふ言霊は安 国の霊反しであり、主基といふ言霊は知ろし召す国の霊反 しである。これを見ても丹波の国には、神代より深き因縁 のあることが分かるのである」
海のない国 「 夏四月乙未。丹波の国の加佐、与佐、丹波、竹野、熊 野の五郡を割きて、始めて丹後の国を置く」翁続日本紀し むかしの丹波は十一郡を有する広大な政治領域の国であった が、和銅六(七〓こ年に丹波国の北半をさいて丹後国を分出 したため残る丹波は海を失い、全面積の七十パーセント以上が 森林で占められる山国となった。 明治以降、丹波六郡の行政区域に多少の変遷がある。明治十〓一2八八〇)年三月、桑田郡が南桑田郡(亀岡町を含む)と北 桑田郡に分れ、丹波は七郡となった。その後、福知山市と綾部 市が何鹿郡の付近の町村を分割編入し、亀岡市が南桑田郡の町 村を編入してふくれ上がったため、地図の上からは何鹿郡と南 桑田郡が消え、丹波は三市五郡となる。 現在の丹波は、京都府と兵庫県の二つの行政区域にまたがり、 京都丹波、兵庫丹波という。さらに京都丹波は口丹波(亀岡 市・ 北桑田郡)と中丹波(船井郡・綾部市・福知山市・天田部)に 分れ、兵庫丹波を西丹波ともいう。 室町時代は、氷上。天田。何鹿の三郡を奥丹波とも称してい た。京都丹波の面積は京都府の面積の四十七パーセント、兵庫 丹波の面積は、兵庫県の面積の十パーセントを占める。いわば 丹波は京都府に七十パーセント、兵庫県に三十パーセントの割 で、両足またいだ形になる。 一 日に丹波といっても、それぞれ気風は違う。京都に隣接し て都の風習を多分にうかがえる口丹波、出雲文化圏の影響をい まも残す中丹波、播磨、摂津に接して阪神商業圏に密着する西 丹波。 本伝記は、出口王仁三郎の生まれ育った日丹波、出口直。澄 の生まれ育った中丹波、すなわち京都丹波が主人公たちの主た る活躍の場となる。 筆先によれば、大本の出現は三千年あまり前から経綸してあ
るという。ならば主人公たちが生まれ、育ち、死ぬべき必然性 がこの地になければならぬ。煩瑣のようではあっても、この仕 組まれた舞台、京都丹波の風土、歴史を序曲としてまずみつめ 直さなければならない。
丹波の山川 地球誕生以来、四十五億五千万年が経過したという。くらげ なしただよえる地表が激しい火山活動からようやく一応の安定 をみせ、生物出現にいたるのは、今から約六億年前である。そ のとき地表は、ほとんど海洋におおわれていた。
古世代貧ハ億年前上一 億年一理には日本はまだ海底にあったが、 その末期から隆起し、はげしい造山運動によつて孤状列島の骨 組をつくり上げた。そのとき丹波の地も盛りあがり、櫂曲作用 はけわしい山地を形成した。 古世代末期から中世代はじめにかけて誕生した「 原丹波」は、 その後一億年余の雷雨風雪にうたれ、山脈はいつしか平原化し ていった。 新世代(七千万年前〜現在)初期、全世界的な地表の変化が あった。若狭湾、瀬戸内海は陥没し、その影響から丹波の平原 に地裂線が走り、全面じょじょに隆起して、高度数百メートル の高台となる。その後の浸蝕作用は、高台の残したところを山 岳とし、現在の丹波。 丹後高原をかたちづくっていく。
こうしてできた丹波高原は山また山といいながら、さほど高 くはない。山頂をつらねた地平線はいちじるしい高低を示さず (平均標高六百メートル内外) 、数千万年前に隆起した平原をしの ばせる。浸蝕からとり残された固い岩石の部分は、三岳山・頭 巾山・千丈岳。長老岳。 三国岳。 自髪岳など、八百メートル前 後の高い山の部類として残っている。 高台に降りそそぐ雨は土砂まじりの幾条かの奔流となり、日 本海、瀬戸内海へとむかい丹波主要河川の原型をなす。 由良川は京都府と滋賀・ 福井県境の三国峠に端を発し、高屋 川、上林川などを合して丹波山地を西流、福知山盆地で土師 川や牧川をのみ、流路を北に転じて栗田湾にそそぎこむ。流域 には出口澄の故郷・綾部、その母直の故郷・福知山の両市を抱 きかかえる福知山盆地がひらける。和知から綾部にかけての流 れを和知川とも呼び、その水は「 和知川の流れの清きが如く… …」と大本祝詞の一 節にうたわれるほど澄みきっている。 大堰川は丹波高地の大悲山付近に源を発し、由良川と平行し て西へ流れ、日吉町附近で田原川と合し、出口王仁三郎が多感 な青春の一時期を燃焼させた園部町附近を南東に転ずる。亀岡 盆地では王仁二郎の生家を洗う大飼川を合流、保津の峡谷をつ くって京都盆地へ向う。亀岡盆地から下流を保津川、さらに桂 川と名を変えつつ 淀川へつながり、大阪湾に流出する。大堰川 流域には、須知・園部。亀岡の各盆地が生じている。
篠山川は、丹波山地の原山あたりに源を発して西へ流れ、黒 田庄町で佐治川を合して加古川となり、高砂市で神島の浮かぶ 播磨灘にそそぐ。この流域には、兵庫県に属する篠山盆地がひ らけている。
丹波の気候 丹波の気候は土地の高低、山岳の配置など地形が複雑で、 一 様にはいえない。海岸線も湖も持たぬために気温の調節を欠く ことが多く、冬は底冷え、夏はむし暑さに、思わずぐちの一つ もこぼしたくなる。 概括的にいうならば、由良川と大堰川の分水界でもある船井 郡胡麻の辺を気候境として、北は雨量が多くて冬はおおむね雪 となり激しく積雪もみるが、南は雪の量がぐっと減少する。気 候境の南に属する亀岡盆地と北に属する福知山盆地(綾部市を 含む)を比べても、冬期は同じ内陸の気候相ながら、後者は日 本海沿岸にみられるような雨・雪の多い気候である。 しかし春や秋の丹波はすばらしい。山の幸、野の幸、川の幸。 おだやかな容姿の山と清い流れの川に包みこまれて存在する田 畑、まばらな民家など、それらは丹波のもつ湿潤な風土と古い 歴史の手垢に底光っているかである。
丹波と出雲 神代、オホナムチの神(オホクニ不ン命)が八神を従えて黒柄 岳に登り、地勢を見た。丹波は四面山にかこまれた泥海で、オ ホナムチの神が鍬をとつて山の一方を切りひらくと、泥水はひ らかれた水道から流れ出て、保津峡ができた。丹波は水が涸れ、 豊かな大地となった。そのときの鍬が山ほどたまったので、鍬 山神社と名づけた――以上は『丹波志』の伝える鍬山神社の伝 説であるが、これとほぼ同じ伝説は桑田神社にもある。ただオ ホナムチ神にかわって、オホヤマクイ神となっている。また嵐 山の松尾神社にも同様の伝説が残っている。 湖水の底に眠る太古の丹波――水が干上がったときに四面山 にかこまれた豊饒な大地が現出するという想像は、いかにも 神々の故郷にふさわしい。 伝説の主人公が出雲の神であるのは、丹波が出雲族によって 開拓されたことを示唆する。丹波一の宮と称される出雲神社は 出雲大社の神霊を合祀し、オホナムチ神と妻神のミホツ姫を祭 神としている。保津峡はミホツ姫の名を付したといわれる。 大和以前の丹波国は、道のりの近い大和よりも出雲文化圏に 属していたばかりか、住民も文化も出雲そのものであったろう。 丹波の人たちは、スサノヲ尊やオホクニヌシ命やさまざまの土 地の神を祭り、氏族の守りとしていた。四世紀の中頃に大和王 朝が成立しても、丹波は独立国として信仰まで干渉されず、国津神たちに祈りを捧げていたことであろう。
但馬の初見
丹波・ 丹後・但馬を総称して、三丹という。その中で文献に 最初にあらわれるのは但馬で、初見は『古事記』の諮徳天皇 ( 第四代)の段である。 諮徳天皇にはカエシネ命(第五代孝昭天皇)とタギシヒコ命の 二皇子がいる。タギシヒコ命については「 血沼之別、多遅麻之 竹別、葦井之稲置の祖」とあり、多遅麻すなわち三丹の一つ である但馬地方に、早くも皇裔の一枝が下向したことを推測さ せる。 竹別の「 別」は、応神天皇( 第十五代)以前の皇族の称号で あった。『姓氏家系大辞典』の「 別」の項では「地方官職名也。 もと別は皇族の称号なりしが、その地方官となりて下り給ふや、 多くはその地名を冠して『 某々別』と称し給へるより、自然と 皇族の地方官の通称となれる也」とある。したがって「 多遅麻 之竹別」は、但馬の竹野郷盆ハ庫県城崎郡竹野町)を領有した皇 族ということになる。 開聞いらい孝元天皇(第八代)まで、『記紀』にタンバの名 は出てこない。この頃のタンバがどうなっていたのか、手がか りといえば、「 天押帯日子命は、多紀臣の祖なり」「孝昭記し とある「多紀氏」が、丹波国多紀郡の地にちなむ氏族名と推定できるぐらいであろう。
丹波の初見 「 此の 範 毎 ξ キ璧か之大 嘩封 、 名 は由 ゅ 恭 理 り が 禦争嚇 野 の 比 ひ 課を め 男 ま してヽ生みませる御子、距古 こ 由 ゅ 一須 す 美 み 命」( 「 開化 記し 「 是よ り 先に 、天皇、肝 波 ‐ ょ の 悌駒颯をばれて 嬬と かしたま ふ 。 凌湯 ゅ 静隠 命( 痕 っ 盤 は 浚 就争 命 ) を生む」翁開化紀 し 『 古事記』は「旦波」 、『日本書紀』は「丹波」とあるが、タ ニハの文字が文献にあらわれた初めであり、丹波古代史の幕明 けである。 タカノヒメで想起されるのは、タジマノタケノワケの祖。タ ギシヒコ命である。『 姓氏家系大辞典』は「 丹波にも竹野郡が あり、但馬の竹野からあまりかけ離れていない 。おそらく古く はこの辺一帯が竹野とい う総称で呼ばれたか、またはタケノヮ ケの領土が丹波〔のちの丹後〕にもでき、それをも竹野と呼ば れるようになっ たのではないか」と考察してい るが、おそらく タカノヒメの父ユ ゴリはタギシヒコ 命の後裔であっ たろ う。 ここで興味深いのは、『 古事記』がユ ゴリを丹波の大県主と して、単なる県主と区別していることである。丹波とい う地域 の 特殊性を示すものか、ユ ゴリの支配圏の 広大さや権勢の 強さ を示すものと思われる。

 開化天皇は『 古事記』によれば四人の妃から王子四人、王女 一人を生ませた。タカノヒメを妃としてヒコユムスミ 命。庶母 であるイカガシコメ 命を妃としてミマ キイリヒコ イニエ命(第 十代崇神天皇)とミマツヒメ 命。上代においては、継母や異母 妹との結婚は不倫とされず、『 日本書紀』では「伊香色謎命を 立てて 皇后とす」とある。ワニの 臣の祖であるヒコクニオケツ 命の妹オケツヒメ命を妃としてヒコ イマス 王。またワシヒメ を 妃として 生ませた子がタケトヨハ ヅラ別。 後の崇神天皇を除く三皇子の うち、後世もっ とも栄えたのがヒコ イマス王の 後裔である。『 記紀』では、これより前の代々 の 皇子たちの名には命の字を用いており、王の字の使われる皇子はヒコイマス王が最初である。 ヒコイマス王は四人の妃から十 一人の王を生ませる。近江国 御上の祝が斎き祭るアメノミカゲ神の女オキナガノミヅョリ 姫を妃として生ませた王が、タニハノミチヌシ命 (丹波比古多 多須美知能宇斯王)である。 丹波に蒔かれたタニハノミチヌシ命という 一粒の種は、タニ ハノミチヌシ族という太い幹となり、やがては丹波全土に枝葉 をしげらせていく。 出口家の始祖は後に述べるように綾津彦命と伝えられ、さら にそのルーツはタニハノミチヌシ命といわれる。

 

欠史の八代

『 記紀』は、第 一代神武天皇より第九代開化天皇まで歴代天 皇の名こそあげるが、豊富な神話でかざりたてられる神武天皇 は別として、以後の天皇には事績らしいものが記されず、称し て欠史八代という。 戦前、われわれは神武天皇はじめこれらの天皇群の実在を妄 信させられ、疑うことは許されなかった。戦後の歴史学では、 天皇家の権威を高めるために創作された幻の天皇群であろうと するのが定説のようである。しかし実在論、非実在論も共に推 論にすぎず、決定的な証拠があるわけではない。トロイの遺跡 の発見や殷墟の発掘によって、ホーマーの叙事詩や 『史記』の叙述の真実性が証明された例もある。性急な結論はさしひかえ るべきであろう。
日本の根本 日本には、二人のハツクニシラススメラミコトがいる。第 一 代神武天皇と第十代崇神天皇である。『日本書紀』では、前者 を 「始駆天下之天皇」 、後者を 「 御肇国天皇」と文字で使い分 けている。スメ (統0 ラミコトは絶対的権威をもつ天下の統 治者としての天皇の称であるが、はじめて国を治めた天皇が一 国に二人も存在するのは、やはり不自然である。 崇神天皇こそ大和に王権を確立した、実在の可能性ある最初 の天皇とするならば、その父である開化天皇 (天皇の地位にあつ たかどうかは別として)は、それ以前の天皇群よりもはるかに実 在性が濃くなる。 出口王仁三郎は、閉史時代最後の開化天皇に、特別の興味と 関心をいだいていた。それは王仁三郎の郷里である丹波国南桑 田郡曽我部村穴太 ( 現在、亀岡市曽我部町字穴太)の産土、小幡神 社の祭神が開化天皇であるという因縁ばかりではなさそうだ。 言論自由の厳しく封じられた時代に、彼が開化天皇の和風論号 を強調し、「若き日本の根本の神」としてとらえていたのは、 当時の王仁二郎の随筆や次の歌にも明らかである。

 

大和根子彦大毘毘 の  神を祭りし小幡の大宮

あたら し き若 き 日本の 概 型の 宮の氏子と生れしわれなり

新日本もとつ光を地の上に あまねく照さむ御名ぞかしこき

大昆昆の神の命のあれまさむ 世は近づきぬこの地の上に

石の上ふるきゆかりのあらはれて 世人おどろく時近みかも

いつはりの殻ぬぎ捨てて天地の 真木の柱の道光るなり

 古のいつはりごとのことごとく さらけ出さるる神の御世なり

 最上の善とおもひし事柄の あやまちあるを悟る神代かな

( 『 青嵐し 産土の神の形に生れたる ひとの世に立つ年の初秋

( 『 東の光
第二章 神のみ勢いをおそりて

 

殿を同じく 「 神武天皇より開化天皇まで九帝、年を暦る六百三十余歳、 天皇と殿を同じくします也。この時、帝は神とその際い まだ遠からず。殿を同じく床を共しくして、これをもつ て常となす。故に神物官物いまだ分別ず実」翁 御鎮座伝 記し 崇神天皇は、初めは大殿の内にアマテラス大神、ヤマトノオ ホクニタマ神(オホクニイン 神)の二柱を並い祭っていた。大和 朝廷の天皇が、征服した民族の神を皇室の神とあわせ祭ってい たのは何故か。祭祀権まで奪われた被征服民族の心をやわらげ る政治的配慮もあったろうし、根底の国に恨みをのんで隠れ住 むオホクニヌシ神の崇りを恐れる思いもあったろう。しかし 「 その神の一 乳 ぃ を畏りて、共に住みたまふに安からず」と『 日本書紀』にもあるように、神威が強すぎて同殿同床には耐えら れなかった。 崇神天皇六年のこと、アマテラス大神を大和の笠縫村に祭り、 皇女トヨスキイリヒメ命に仕えさせ、磯堅城の神籠を立てた。 またオホクニタマ神を皇女ヌナキノイリヒメ命に祭らせたが、 姫は 「 髪落ち継痩みて祭ること能はず」というありさまで あっ た。
その 頃、国内には疫病がはやっ て人民の 大半が死に絶えんば かりとなり、百姓は土地を離れてさすらい 、反逆する者さえ続 出した。愁い 嘆いて 神体に 寝た夜、天皇の 夢枕にオホモノヌシ 神があらわれて告げた。

「 こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古をもちて、我が御前を 祭らしめたまはば、神の気會ホリ)おこらず、国安らかに平ら ぎなむ」 天皇は駅使を四方に派して、ついに河内の美努村でオホタ タネコを探し出した。素姓を問うと、オホモノヌシ 神の末裔で あることが明らかとなっ た。天皇がオホタタネコを神主として 御諸山にオホモノヌシ神を祀らせると、さしもの疫病もやみ、 国は安らかに治まっ た。日本最古の 神社とされる大神神社の 由 来である。 この説話の底には、すでに征服した前王朝の神であるオホモノヌシ 神の 神威とその崇りに対する、ハツクニシラス天皇の言い知れぬ恐怖がすけて見える。
 皇威の拡大 崇神天皇十年九月、大和朝廷は四道 機の 乾を派遣して四方 の攻略にかかり、一挙に皇威の拡大をはかった。

「規ル古 こ 命をば 高 こ

鳥遂につかはし 、その子嚇溌沸 鵬 命をば 東の方十一 一 道につかはして 、そのまつろはぬ 人どもを 和平さしめたまひ き。また日子坐王をば、旦波国に 遣は して 、 玖 賀耳之 御笠を殺さしめた まひ き 」( 「 崇 神 記 し 「 婦 属の 品 一 ぇ 丸の 朔 就 」 ぇ ぅ 鵠 ひ に 対顔命をもて く 総 の 階につかは す 。 鵡 瀧雌 別 を もて 観 % 滋 に つ か は す 。 静 備 び 津 っ 彦 を もて に 配 道につかはす。丹波道主命をもて丹波につかはす。よりて 詔 して日はく。『 もし教を受けざる者あらば、すなは ち丘 ハ を挙げて伐て』とのたまふ。すでにして共に印綬を 授ひて将軍とす」つ崇神紀し 『 古事記』と『 日本書紀』で多少の記述の相違がある。『 古事 記』には西道派遣の記事を欠く。そして丹波派遣の将軍の名が 『 古事記』ではヒコイマス王、『 日本書紀』ではその子のタニハ ノミチヌシ命となっている。将軍の名の相違は、皇弟ヒコイマ ス王とタニハノミチヌシ命の父子を派遣したものか、タニハノ ミチヌシ命が父王の偉業を継承したものであろう。なおヒコイ マス王の異母弟タケトヨハ ズラ別については、開化記に「 丹波の竹野別の祖」とあるから、この征討に参加したことも考えら れる。 北陸、東海、西道に派遣された将軍たちの鎮撫範囲が北陸諸 道、東海諸道、西海山陽諸道という漠然とした区域に対して、 山陰方面のみ、丹波という特定の一国を示すのは、この国の特 異性と重要性を浮き彫りにする。 崇神天皇十一年四月二十八日、四道将軍は戎夷を平定したこ とを復命した。こうして丹波は完全に大和朝廷の政権下に組み 入れられた。いうならば、土着の古代日本の神がその民と共に 押しこめられ、天降る支配者の神のもとに力で従属させられた のである。

 有史以前の神代からくり返されたという、押しこめた側の天 津神と押しこめられた側の国津神との神霊群の激しい葛藤。そ れが絶えざる主題となってこの丹波の土壌に展開されるのが、 大本歴史とも言えよう。ともあれ、この神々との深いかかわり 合いを抜きにしては理解できぬ大本ならば、今しばらくこの土 壌に目を向けていかねばならない。出雲の神宝 崇神天皇は、タケヒナテル命が天からもつてきたという出雲 の神宝を見たいと望み、出雲に使者を送った。ところが神宝を 掌理していた出雲臣の遠祖、イヅモノフルネが筑紫国に行って不在のため、弟のイヒイリネが皇命をうけて献上した。イヅ モノフルネが帰ってそのことを知り「 私が帰るまで数日待つこ ともできたろうに、何を恐れてたやすく神宝を渡してしまった のだ」とイヒイリネを責めたが、年月がたっても怒りがおさま らず、ついに謀略をもって弟を殺した。この事件を知った天皇 は、キビツ彦とタケヌナカワ別を派遣して、イヅモノフルネを 誅伐した。出雲の民たちは天皇を恐れるあまり、出雲の大神を 祭ることをやめた。 すでに出雲は大和朝廷の政権下にあったとはいえ、まだまだ 心服せぬ首長のいたこと、その首長を力をもって誅し、みせし めとして出雲の民らを僣促させたことヽ国津神への神祭りが 天津神をいただく天皇への反抗ととられたこと……こうして民 族の命ともいえる祭祀権までが大和朝廷へ移行する過程をこの 説話でうかがい知ることができる。 これには後日談がある。丹波の氷上の人、名はヒカトベが皇 焙鷲イクメ尊に告げた。 「 私のまだ幼い子が、こんなことを回走りました。『出雲人の 祈り祭るべき神宝の玉と鏡が人にかえりみられないで水底に沈 んでいる。美しい立派な御魂の玉と鏡が沈んでいる』と。ある いは神がついて言うのであるかも知れません」 皇太子の奏上によってこれを聞いた天皇は、出雲大神の怒り をおそれてか再びこの地の民に神祭りを許した。
紐小刀にて 第十一 代垂仁天皇はサホ彦の妹・サホ姫を后として寵愛して いた。サホ姫はヒコイマス王がサホノオホクラミトメを妻とし て生ませた娘であるから、タニハノミチヌシ命の異母姉であり、 垂仁天皇の従妹にあたる。 天下に野心を持つサホ彦は、サホ姫に 謀 をもらし、天皇 の刺殺を命じた。天皇をとるか兄をとるかの決断に追られたサ ホ姫は、ついに兄から切味鋭い紐小刀をうけとってしまう。 サホ姫は、わが膝枕でうたた寝する天皇の首の上に三度まで 紐小刀をふり上げるが、悲しみがこみ上げ‘保あふれおち、刺 すことができぬ。そのとき、異しい夢をみていた天皇は驚いて おき上がり、サホ姫を問いつめた。観念したサホ姫は、兄のよ こしまな企みを告白してしまった。

 「 吾はほとほとに欺かえつるかも」 そう叫ぶや、天皇は軍隊に命じサホ彦を攻撃させる。サホ彦 も、稲城を作って応戦した。サホ姫は兄を見殺すにしのびず、 宮殿の後門からぬけ出し、兄のこもる稲城に逃げ入った。 ときに、サホ姫は懐妊していた。三年越し誰より后を愛した 天皇であったが、わが子を身ごもっているかと思えば、いとし さがいやつのる。そこで敵を包囲しつつ積極的攻撃をひかえる うち、月満ちて皇子が生まれた。 サホ姫は皇子を抱いて稲城の外にあらわれ、人をして天皇に献上させた。 「 この御子を、天皇の御子と思ほしめさば、治め賜ふべし」 この機に母子ともに連れもどそうと策を講じる天皇だっ たが、 賢いサホ姫に裏をかかれ皇子を得たのみであった。 もはやこれまでと覚悟した天皇が「お前のかわりに誰を后に すればよいか」と問いかける。サホ姫はタニハノミチヌシ命の 女で貞潔な二女王、兄姫、弟姫を推挙した。 ついに軍隊は、サホ彦を殺し、サホ姫は兄に殉じて焔に身を 投じた。 垂仁天皇は、サホ姫の遺言によってタニハノミチヌシ命の娘 たちを召し上げ、長女のヒバスヒメ命を皇后、オトヒメ命を妃 とした。
 丹波道主族 開化天皇の三皇子、ヒコユムスミ命、ヒコイマス王、タケト ヨハズラ別の後裔諸氏を総称して、タニハノミチヌシ族という。 一族の中からサホ彦王という謀叛者を出した以上、タニハノミ チヌシ族は粛清の対象になってしかるべきである。それなのに なぜ、サホ姫はタニハノミチヌシ命の娘を皇后に推挙したのか。 今まで畿外から皇后を選んだ前例はなかったのに。謀叛者の一 族からあえて皇后や妃を立てた垂仁天皇の心中には何があった のか。彼女たちがサホ姫の姪であるから亡き后への追慕のあまり言いなりに……などそんな感傷的理由だけとは思えない。 ヒバスヒメ命の立后には、むしろ政略的な色彩が強くにおう。 タニハノミチヌシ族の勢力は、それほど強固になっていたのだ。 サホ彦が天下に野心をいだいたのも、おのれの一族の力を計算 にいれた上であろう。天皇がサホ彦を包囲しながら攻撃を手び かえねばならなかったのも、大和に近いタニハノミチヌシ族の 向背が気がかりだったからに違いない。大和朝廷にとっては、 特に丹波の統治に意をそそぐ必要があった。丹波の経略は丹波 一国にとどまらず、出雲勢力の掌握にもつながる。大和朝廷と タニハノミチヌシ族との政治的取引が成ったところで、サホ彦 は攻め滅ぼされた。 ごく近い一 族の中から謀叛者が出たことは、同時にタニハノ ミチヌシ命をも困難な立場に追いやったであろう。そこで多分 に人質的な意味あいをこめて娘たちを献じ、天皇への忠誠を示 した。当時豪族の子女は国神の霊力を身につけていると信じら れていたので、なによりの服属の証であった。 タニハノミチヌシ命は継祖母に開化天皇妃となった丹波の大 県主ユゴリの娘タカノヒメを持ち、四道将軍として丹波移住後 は丹波の河上一 帯を領有する豪族マスノイラツの娘を妻として 迎え、丹波の地にしっかと根を張った。垂仁天皇の后妃七人の うち五人までが、皇子皇女十六人のうち十一 人までがタニハノ ミチヌシ族で占められる。その上、皇位を継ぐべきオホタラシヒコオシロ別命 (第十二代景行天皇)はタニハノミチヌシ命の娘 ヒバスヒメ命の生んだ御子である。タニハノミチヌシ族から出 た皇子たちは、丹波ばかりか、東は若狭、近江、美濃、伊勢か ら東国に及び、西は但馬、播磨から中国地方に散って、各氏族 の祖となる。『何鹿郡誌』は「丹波は旧姓道主命の家を推して 尊貴とす」としている。 こうして大和朝廷と丹波との結びつきは一 段と強固になり、 出雲文化から大和文化への傾斜を深めていく。
きづきの宮 サホ姫が戦乱の稲城の内で生み遺したホムチ別は、長じても 口をきくことができなかった。ところがある時、空高く飛んで いく白鳥を見て、はじめてもの問いたげに声を発した。垂仁天 皇は山辺のオホタカ( 人名)に自鳥を追わせた。紀伊・播磨・因播・丹波・但馬。近江・美濃・ 尾張。 信濃と飛び立ってゆく白鳥のあとを追い続けたオホタカはついに越国の和那美の水門 で網をはってつかまえ、都に持ち返って天皇に献じた。天皇の 期待に反して、自鳥を見ても、皇子はだまったままだった。 天皇がうれいに沈んで寝ているとき、夢の中に神があらわれ て告げた。

「 わが宮を天皇の御舎のごと修理めたまはば、御子必ず真 事とはむ」
占はせて見れば、それは出雲大神オホクニヌシ神のお心であ るという。またしても皇室をおびやかす、出雲の崇りである。 天皇はアケタツ王に祈請させた結果、神示のままに物言わぬ 皇子とアケタツ王・ウナカミ王の兄弟を出雲へつかわされた。 この兄弟はオホタマ王の子、すなわちヒコイマス王の孫である から、タニハノミチヌシ族である。 出雲の大神を拝んだその帰途、皇子は声を上げ、言葉を発し た。その報告を受けた天皇は喜びのあまり、すぐにウナカミ王 を出雲へ 引き返させて、大神との誓いを果たすべき杵築の宮を 造らせた。
伊勢の内宮 垂仁天皇二十五年二月、大和の笠縫村でアマテラス大神を 祭っていたトヨスキイリヒメ命が年老いたので、天皇は皇女の ヤマトヒメ命に代わらせた。ヤマトヒメ命は皇后ヒバスヒメ命 の子で、タニハノミチヌシ命の孫にあたる。 『 日本書紀』の伝えるところでは、ヤマトヒメ命はアマテラ ス大神を鎮める地をもとめて、笠縫村から菟田の彼幡。 近江・ 美濃をまわって、伊勢にきた。時にアマテラス大神があらわれ て、ヤマトヒメ命に教えた。 「 この枇熙の伊勢国は、惟世 ょ の浪の塾滋帰 ょ する国なり。傲国 の可怜し国なり。是の国に居らむと欲ふ」
 大神の神示のまにまに、姫は伊勢国に祠を建て、 斎宮を 五十鈴川の川上に建てて、磯宮と名づけた。『 日本書紀』の 一説には、大神を遷座したのは、翌二十六年十月と伝える。こ れが伊勢神宮の内宮の起源である。 『 御鎮座本紀』は、アマテラス大神の永久の大宮地探しがす でに崇神天皇の御代、トヨスキイリヒメ命によって始まったと いう。これによれば、トヨスキイリヒメ命は崇神天皇三十九年、 アマテラス大神の神霊を大和の笠縫村から丹波の吉佐宮に遷し、 同じ年にトヨウケ大神を奉斎している。 興味深いのは、同書に「丹波道主貴、御杖代と為して、口叩 きの %を百机に備へ 貯へて、神害奉る」とあり、ミチヌシ命 が吉佐宮に御杖代として奉仕していることがうかがわれる。丹 波の支配には、天津神の権威を笠に着る必要があったのであろ
ヽつ 。 大神の最初の遷宮地の吉佐宮が丹波のどこにあっ たのか、諸 説あって確定しない。

「 当時、丹波国は今の丹後をも併せ称したるにて、その吉 佐宮の旧址は、丹後国与謝郡吉津村文珠なる現時の切戸文 珠堂の域内なりともいひ、或は同郡府中村なる国弊中社 篭神社の境内なりとも、もしくは丹波丹後の境界なる川 森祉の地にして元伊勢の称を有すともいへ ど、そのいずれ を正しとすべきかは今日よりして断定し難し。されど与謝郡の名は吉佐村の遺跡とも考えられど、その旧址の与謝郡 内にあるべき妥当なるを思はじむ」翁皇大神宮史し 『 御鎮座本紀』によれば、吉佐宮に落ちつかれたのは四年だ けであった。大神がよしとする地を求めてつぎつぎと六ケ所も 遷座する。それでも大神が気に入った地はみつからない。その 事業を受け継いだヤマトヒメ命も二十三ケ所の地に遷座し、垂 仁天皇二十六年九月、五十鈴川の川上に鎮座した。崇神天皇六 年、同殿同床のしきたりを破って大和の笠縫村に斎き祭ってよ り八十八年、二十九ケ所目にして、アマテラス大神はようやく 安住の地を得られたわけである。
殉死の悪習 垂仁天皇二十八年、皇弟のヤマトヒコ命が売去した。身狭の 桃花鳥坂に陵を作り、近習者たちを集めて亡きヤマトヒコ命 に殉じさせるため生き埋めにした。日に夜に嘆きうめいた彼ら も、日をへて息絶え腐りだした。群り寄る大や鳥が待ちかねた ように死骸をむさぼり食い散らした。天皇は彼らの働哭を聞き、 その無惨なありさまに忍びず、詔を下した。 「 それ生けるときに愛みし所をもて、亡者に殉はじむるは、 これ甚だ傷 なり。それ古の風といへども、良からずは何 ぞ従はむ。今より以後、議りて 殉 はじむることを止めよ」 四年後の三十二年秋七月、皇后ヒバスヒメ命(タニハノヽヽヽチヌシ命の長女)が、崩御した。天皇は先の殉死の悲惨さを思い おこし、家臣たちに問うた。 「死 に従ふ道、前に可からずといふことを知れり。今この 行の葬にいかにせむ」 ノミノ宿祠が進み出て答えた。 「 それ君主の陵墓に生人を埋み立つるは、これ不良し。あ に後葉に伝ふることを得む。願はくは今串 町 る 義を議りて奏さ む」 ノミノ宿祠は出雲の国に使いをやつて土部百人を召し出し、 自分が指揮して土で人や馬やいろいろな物を作って天皇に献上 し、申し上げた。 「 今より以後、この土物をもて生人にかへて、陵墓にたて て、後葉の法則とせむ」 天皇は大いに喜び、その土物を皇后の墓に立てた。この土物 を名づけて、埴輪という。 天皇は令を下した。 「 今より以後、陵墓に必ずこの土物をたてて、人をな傷りそ」 日本に古くから殉死の風習があったことは、『魏志倭人伝』 に「鶴¨ も 刻 二 者 ′ 、 奴 ぬ 嫌百余人」とあることからも知れる。しかし ヒバスヒメ命の崩御をもって、殉死の悪習を完全に絶ち切るこ とはできなかったようだ。大化二→ハ四工0年三月の風俗匡正 の詔で、重ねて殉死を禁じている。
「 およそ人死亡ぬ る 時に 、 若し は自を経きて殉ひ 、 ある い は人を絞り て 殉 は じ め 、  齢 ち に麟 る だ の馬 を 殉 は じ め 、 あるいは亡人のために 宝 を墓に蔵め、あるいは亡人の ために、髪を断り股を刺して ・ ・ ´ の 型 と す。かくの如き旧俗、 一 ら にみなことごとくに断めよ。もし詔に違ひて、禁むる 所を犯すこと有らば、必ずその族を罪せむ」( 「 孝徳紀」大 化二年三月)
八坂戦勾玉 「 むかし丹波国の桑田村に人あり。名を甕襲といふ。すな わち甕襲が家に大あり。名を足往といふ。この大、山の獣、 名を牟士那といふを咋ひて殺しつ。すなわち獣の腹に八坂 場毎理あり。因 ょ りて た 藤っ る。この玉は、い ま一 儒瑚枇課に あり」翁垂仁紀」八十七年の条) これは、垂仁天皇の御代、丹波が大和朝廷の政権下にいっそ う組み入れられたことを暗示する。

 『亀岡市史』も 「八尺瑣勾 玉を献上するという事件は、当時勾玉が有する霊力、社会的象 徴力から推考して、大和朝廷に完全に帰属したことを記したも のであろう」と考察している。 大和朝廷は、必ずしも近国から遠国へと力だけで攻め陥した わけではない。政略結婚も有効に利用し、地方の有力者と姻戚 関係を保ちつつ、順次その周囲を統合、支配していったようで
ある。 丹波地方をまとめてみるならば、まず諮徳天皇の皇裔の一枝 タギシヒコ命を但馬へ、孝昭天皇の皇子アメノオシタラシヒコ 命を丹波国多紀郡へ、開化天皇の御代には、タギシヒコ命の子 孫であろう丹波の竹野郡あたりの大県主ユゴリの娘・タカノヒ メを妃に迎えて竹野郡一 帯は皇子ヒコユムスミ命の領土に帰す る。崇神天皇はヒコイマス王父子をして丹後地方の豪族を征服、 タニハノミチヌシ命はヒコユムスミ命の養子となって竹野郡一 帯を継承し、熊野郡川上の豪族マスノイラツの娘を妻としてこ の地方も支配下におさめた上、娘たちを垂仁天皇の后妃に献じ て景行天皇の祖父となる。 かくて丹波の大地を支配した国津神たち、スサノヲ尊やオホ クニヌシ命らは次第にその影をうすめつつ、天津神々の世界ヘ と交替していく。
日本タケル 第十二代景行天皇は身長一 丈二尺、怪の長さだけでも四尺一 寸という神話的巨人。精力もまた絶倫であったらしく、多くの 后妃に八十人の子を生ませた。その子らの中から三人を選んで 日 ひ 縫の御 み 子 こ とし、残る七十七人はすべて離つ み 運 一 r和知・ 確 置。県主とした。八十人は実数ではないとしても、別と称す る皇族たちが各国に封ぜられたという『 記紀』の所伝は、タニハノミチヌシ命の孫である景行天皇を媒介としてミチヌシ家の 血が全国にばらまかれ、各地の支配者側の地位に立ったことを 思わせる。日継の御子の一人であるヲウス命――のちのヤマト タケル尊は、中でも古代のヒーローとして民衆に親しまれてき た。その豊富な説話は『古事記』と『日本書紀』では相違する が、『 日本書紀』の伝える天皇の信任を得た英雄像よりも、『 古 事記』のえがいた天皇からうとんぜられ苦悩する尊の悲劇性に、 民衆の心を魅きつけるものがある。 ところで興味深いのは、ヤマトタケル尊が西征におもむくと き、叔母にあたるヤマトヒメ命に御衣御裳をたまわるくだりで ある。『古事記伝』では「ヤマトヒメ命は伊勢大神の御杖代で あるから、そのご威光をいただいた」とし、その衣裳に正体を 隠してクマソタケル兄弟を討ち果たす。東方十二国平定の折に も伊勢神宮に参り、ヤマトヒメ命から草薙剣と御嚢をいた だく。はたしてその賜物が相武国で尊の危難を救うのだが、二 度までも尊の転機に重要な小道具を視透して与え得る呪術力が タニハノミチヌシ族であるヤマトヒメ命に備わっていたことを 一不している。 ヤマトタケル尊が死んで大きな白い千鳥と化したという美し い説話が『 記紀』ともにみえるが、死後、霊魂が鳥と化して天 へ上がるという民間信仰のあらわれであろうか。 景行天皇崩御ののち、日継の御子ワカタラシヒコ命が 

 代成務天皇となる。第十四代仲哀天皇はヤマ トタケル尊の皇子 タラシナカツヒコ命であり、皇后はオキナガタラシヒメ 命、す なわちのちの 神功皇后である。
 鎮魂の原形 仲哀天皇がクマソ国を討とうと軍を起こし、筑紫のカシヒ 宮 に至ったときである。天皇が神霊をい ざない寄せる琴を弾き、 タケノウチ宿爾が審神者になり、神功皇后を神主として神託を 乞うた。神功皇后は神がかりして告げた。 「 西の方に国有り。金銀を本として、日の炎燿く種種の 珍しき宝、多にその国にあり。吾今その国を帰せたまはむ」 この時、天皇は不服であっ た。 「 高き地に登りて西の方を見れば、国土は見えず。ただ大海 のみあり」 いつ わり神と思って琴を押しのけそれ以上弾こ うとしない天 皇の態度に、神は激怒し、烈しく宣告する。 「 およそこの天の下は汝の知らすべき国にあらず、汝は一道 に向ひたまへ 」 審神者が天皇をなだめて琴を弾くようすすめたので、い やい やながらも天皇は弾き始める。けれどもその琴の音は続かな かっ た。灯火をつ けて見ると、天皇はすでに息絶えていた。
この 説話によっ て、古代の鎮魂帰神法を知ることがで きる。
神主と審神者と琴の三者、のちに出口王仁三郎が修する鎮魂帰 神法もこの原形に学び、琴の代わりに石笛を使っている。 霊媒者としての神功皇后の秀れた天一果は、 一 代のものとは思 えない。皇后の父方の遠祖はタニハノミチヌシ命の父ヒコイマ ス王であり、母方の遠祖がアメノヒボコであることが、この素 質にかなりの影響を与えていよう。 タニハノミチヌシ命の母は、アメノミカゲ神が御上神社の神 職の娘に生ませたと伝えられるオキナガミゾヨリヒメ命である。 これは神と人との結合によって子が宿る三輪山伝説を想起させ 2 の 。 ミヅョリヒメ命の出生地であるオキナガ(滋賀県近江町の地 名)は、「垂仁紀」三年の条の一書に「ここに、 天日槍、菟道 河よりさかのぼりて、 北近江国の吾名邑に入りてしばらく 住む」とある辺であり、アメノヒボコとオキナガ氏との関係を 思わせる。 ヒコイマス王の血統には、オキナガ(息長)の字義からも見 られる宗教的、呪術的要素が色こく流れこみ、タニハノミチヌ シ命、ヤマトヒメ命、アケタツ王、オキナガタラシヒメ命( 神 功皇后)など、神と交流する人物を輩出してきた。そして遠く 時代をへだてた後にも、その末裔に、神と同化する出口直の出 現を見る。まさに血の不思議であり、霊統というべきかも知れ ぬ。

第三章 だまして岩戸を開いた
新統一王朝 仲哀天皇の不慮の死にもめげず、神意のままに海を渡る神功 皇后は、朝鮮半島に兵を進めた。アメノヒボコの末裔という伝 承が事実ならば、いわば祖先の故郷へのたけだけしい里帰りで ある。皇后は臨月の体であったが、神への祈願によってその身 を保ち、新羅から凱旋の後、ホムダ別を産んだ。出生からして 神秘化されたホムダ別が、第十五代応神天皇となる。 『 記紀』では、崇神・垂仁。景行の天皇群の事蹟が詳細で具 体的なのに比べて、成務。仲哀両天皇の事蹟はあまりにもわず かで抽象的に過ぎる。代わってヤマトタケル尊や神功皇后が神 秘の雲に彩られて登場、再転して具象的現実的な応神天皇の事 蹟へとつながる。 崇神天皇が実在の可能性ある最初の天皇ならば、応神天皇は実在を確かめ得る最初の天皇である。今日の歴史学では、応神 天皇は崇神王朝を滅ぼして日本最初の新統一王朝を樹立したと する説が有力である。南朝鮮に領土と支配権が確立し拡大され たのも、大陸文明とともに多くの朝鮮人(百済、任那)や中国 人が渡来した第一波も、この時期であった。百済の王仁博士は、 論語十巻。千字文一巻を伝来した。まさに歴史の朝明けである。
女官の産地 応神天皇には十人の后妃と二十六人の皇子、皇女がいたが、 その中から特に三人の皇子を選び出し、オホヤマモリ命には 「 山海の  一 . っ 崚 」 とヽオホサザキ命には「 食国の政」を命じ、可愛 がっていた年少のウヂノヮキイラツコを皇位継承者に定めた。 応神天皇が崩じると、オホヤマモリ命は天下を握ろうとして、 ひそかに軍兵を集めた。オホサザキ命の内報でそれを知った太 子ウヂノワキイラツコは、逆に兄オホヤマモリ命を謀殺した。 オホサザキ命とウデノワキイラツコの兄弟は皇位を譲り合つ て三年間空位になるが、ついに太子ウヂノワキイラツコが自殺 し、兄オホサザキ命の即位のための道を開いた。オホサザキ命 が第十六代仁徳天皇となる。 『 記紀』の仁徳天皇の条では、叙述の多くを天皇の女性問題 に割く。 天皇は嫉妬深い皇后イハノヒメ命の目を盗み、まめに浮気するが、丹波の女性クガヒメもその犠牲者の一人であった。天皇 は後宮に仕える桑田のクガヒメを愛していたが、皇后の怒りを 恐れて側に召すことができず、むなしく年月がたってしまっ た。 いたずらに花の盛りを過ごさせるに忍びず、天皇はクガヒメを 側近の舎人播磨の国造の祖先ハヤマチに与えた。しかしクガヒ メが妻となるのを拒んだため、天皇はハヤマチを添えてクガヒ メを故郷の桑田まで送らせた。けれどもクガヒメは旅の半ばで 病死して丹波の里には戻れなかった。 桑田のクガ( 玖賀)ヒメといえば、四道将軍派遣のとき、ヒ コイマス王に殺された豪族クガ(玖賀)ミミノミカサを思い出 す。生き残りの一族が、美しいクガヒメを天皇に貢上したもの であろう。国造や県主などの地方豪族が天皇にさし出した一族 の子女を、朝廷では宋女という女官に採用した。大和に近い丹 波は、そういう女官たちのすぐれた供出地でもあったろう。
聖帝の御世 皇位には無欲に見えたオホサザキ命も、天皇となってからは そうはいかない。 天皇は皇后イハノヒメ命の留守中、異母妹のヤタノヮキイラ ツメを引き入れて妃とした。けれど皇后の怒りが激しくて思う にまかせぬ。今度はそのワキイラツメの妹メドリ王に思いを寄 せ、異母弟のハヤブサワケ王を仲人に立てた。ところが、天皇の命を伝えにきたハヤブサワケ王は、当のメドリ王と通じてし まった。それを知った天皇は恨みに思ったが、今もって姉のワ キイラツメを孤関のままに捨ておくひけ目もあるので、我慢し ていた。 メドリ王は、夫ハヤブサワケ王に歌いかけた。
雲雀は天に翔ける高行くや
速総別鶴鵜取らさね
この明らかな謀坂の歌が耳に入ると、天皇は軍隊に命じて大 和国宇陀郡まで追いつめ、異母弟妹を殺してしまった。 そんな仁徳天皇ではあったが、歴代天皇の中にぬきん出て聖 帝の誉れは高い。ある時、高い山にのぼって国見すると、家々 のかまどから煙が立っていなかった。 「 国中に姻たたず。国皆貧窮し。故、今より三年といふまで は、 悉 に人民の課、役を除せ」 仁徳天皇の仁政とされるこの説話は、それに先立つ御代の年 貢の重さが、かまどに煙がのぼらぬほど、人民を恒常的飢餓状 態に追いつめていた証左である。課役を免除せねば国家形態が 保てぬほど、人民は極限まで収奪されていたのである。 課役を免じたために宮殿が痛んで雨もりがひどかったが、手 直しもせぬまま三年がたった。再び国見すると、家々のかまどからは煙立ち、民は富み栄えていた。当然、租税や賦役は復活 する。 天皇は対足を使役してな田 だ の居ち と茨田の屯 み 笛を作り、九 ゎ 懃 の池、依網の池を作った。また難波を河川の氾濫から守るため 堀江を掘って海にまで通わせ、小橋の入江を掘って墨江の船着 場を定めた。 仁徳陵は堺市大仙町の平地に築かれた。全長四百八十六メー トル、前方部幅三百五メートル、後円部径三百四十九メートル の大墳丘、三重塚をめぐらし、周囲に陪塚十三を数える世界 最大の王墓である。天皇は生前から自身の陵墓づくりに着工し ているが、これだけのものを築造するのに延べ百八十万人を要 したろうと計算される。この過重な賦役に加えてどれだけ多く の血税を消費させたか。三年間の免税も、聖帝の御世も、裏返 してみれば、しよせん己が権威を誇る専制君主にすぎなかった のかと、急に白ける思いがする。
人間不信に 皇后イハノヒメ命の生んだ皇子はイザホワケ命・スミノエノ ナカツ王・タジヒノミヅハワケ命・ヲアサヅマワクゴノスクネ 命の四人である。仁徳天皇が崩御すると、この同腹の兄弟同士 の皇位争いが激しく火を吹いた。 ナカツ王は、太子イザホワケ命が酔いつぶれている難波の宮
に火を放つ 。アチノアタヘ が眠りこけるイザホワケ命をこつ そ り連れ出し、馬に乗せて石上神宮に難を避けた。 人間不信におちいつ たイザホワケ命は、弟のミヅハワケ命を も疑って会おうとしない 。 「 お前もナカツ 王と同じ心ではないか。もしお前に反逆の心 がないならば、ナカツ王を殺してから参れ。そのときには必ず 会おヽ つ 」 ミズハワケ命は難波に行き、ナカツ王の近習の隼人ソバカリ をそそのかした。 「 お前がナカツ王を殺したら私が天皇になり、お前を大臣に してやろう」 その言を信じたソバカリは、厠に入ったナカツ王を矛を もっ て 刺し殺した。 ミゾハワケ命は、ソバカリを連れて大和へ上る途中、ジレン マ におちい る。 ――ソバカリは功績を上げたが、主人殺しは道にはずれてい る。自分として彼の功績にむくい ないのは、信がないことに なる。しかし約束通り実行すると、ソバカリはまたいつ裏切る やも知れず、その 底意がおそろしい 。そうだ、功にむくい るだ けむくいた上で、殺してしまおう……。 ミヅハワケ命は大阪の山口で 仮宮を作り、ソバカリを名ばか りの大臣に 任命した上で 言っ た。

「 今日は大臣と同じ蓋の酒を飲もう」 ミゾハワケ命が顔のかくれるほど大きな椀でまず飲み、それ をソバカリに廻す。椀がソバカリの顔をおおった瞬間が、首と 胴の離れる時であった。むかむかする話である。
古代の倫理 イザホワケ命が即位して第十七代履中天皇となり、弟のミヅ ハワケ命が太子となる。ナカツ王殺害の褒賞であろう。ミヅ ハワケ命が第十八代反正天皇に、その弟のヲアサヅマワクゴノ スクネ命が第十九代允恭天皇となる。 五人の皇子。四人の皇女を残して允恭天皇が崩御し、まだ喪 の明けないうちのこと、キナシノカル太子は同腹の妹カルノオ ホイラツメと通じてしまった。彼女の肌は衣の外まで輝いて見 えるほど白く美しかったのでソトホシノイラツメ(衣通郎女) と呼ばれていた。カル太子と妹との醜聞が洩れひろがると、人 望はカル太子に背いて弟のアナホ命に集まった。人心の帰趨を 恐れたカル太子が、大臣のオホマヘヲマヘ宿祠を頼り、戦う準 備をすると、アナホ命も軍を興し大臣の家を包囲した。 大臣は、兄弟同士の戦争となって天下の誹りを受けることを 恐れ、カル太子をとらえてアナホ命にさし出した。アナホ命は 兄カル太子を伊 t 、 余 ょ の湯に流した。ソトホシノイラツメはカル太 子の後を追って行き、二人とも自殺してしまった。
アナホ命は石上に穴穂宮を作り、第二十代安康天皇となる。 安康天皇は家臣の読言を信じて叔欠オホクサカ王を殺したばか りか、王の摘妻となっていたナガタノオホイラツメを奪って皇 后とした。オホクサカエの子マヨワ王はまだ七歳であったが、 父王の死の秘密を知るや、眠っている天皇の首に切りつけてツ ブラ大臣の助けを求めた。 安康天皇の年若い末の弟オホハツセ王は天皇の死を聞いて嘆 き憤り、兄のクロヒコ王のもとへかけつけた。 「 人、天皇を取りつ、いかにか為まし」 反応のにぶいクロヒコ王に弟はののしる。 「 天皇でもあり、兄でもある人が殺されたというのに、驚き もせず何をものぐさにしているか」 オホハツセ王は兄クロヒコ王の襟首をとって引き出し、大刀 を抜いて打ち殺した。すぐ上の兄シラヒコ王もまた者¨ えきらぬ 態度である。オホハツセ王はこの兄の襟首もつかんで小治田ま で引きずって行き、穴を掘って生き埋めにせんとした。腰まで 埋めたとき、シラヒコ王は恐怖のあまり両眼がとび出て死んで しまった。 オホハツセ王は軍隊をひきいてツブラ大臣の家を囲み、激し く矢を射かけさせ、矛を杖にして叫んだ。 「 わしが言い交した乙女は、この家におりはしないか」 ツブラ大臣は八度拝して答えた。
「 先日、妻問いなされた娘カラヒメはお側にお仕えするであ りましょう。カラヒメに五村の屯宅をそえて献じます。私がお 仕えできぬ理由は、往古より今に至るまで、臣下が皇族の官に 隠れたことは聞きますが、王子が臣下の家に隠れられた例を 聞きません。賤しい私ごとき者が力を尽くしてお手向いしても、 とうてい勝つことはできますまい。けれど私を頼ってこられた 王を、死んでも見捨てることはできません」 幼い王に頼られたツブラ大臣は死力をつくして戦ったが、力 つき矢つき、マヨワ王を刺し殺し、返す刀で自分の首を切り落 とした。 カル太子に頼られたオホマヘヲマヘ宿祠、マヨワ王に頼られ たツブラ大臣、この両大臣の身の処し方はまことに対照的であ る。 一方は皇子を犠牲にして無用の戦争を防ぎ、他方は自己の 節義を守って多くの血を流した。古代の倫理では、どちらをよ り是としたのであろうか。
相剋の系譜 長兄カル太子は自殺、叔父オホクサカ王は殺され、殺した次 兄安康天皇も、その子に殺された。残る二人の兄を思いのまま に打ち殺した上、兄帝の仇討ちの戦いでマヨワ王はじめ多くの 殺数を重ねたオホハツセ王にとって、ただ一人皇位の前に立ち はだかるのは、従兄にあたる履中天皇の皇子イチベノオシハ王だけとなった。ある日、オホハツセ王は衣の下にひそかに鎧を 着こみ、オシハ王を誘って、淡海の国の蚊屋野で狩をした。そ して無警戒のオシハ王を射殺したばかりか、死体を切断して馬 縮に入れ、墓を築かず地面と同じ高さに埋めた。埋葬地を知ら せぬためにである。 邪魔物はすべて殺して皇位にあぐらをかいたオホハツセ王が 第二十一 代雄略天皇となる。あらあらしい帝王の出現である。 応神・ 仁徳・ 履中の壮大な三大帝陵を誇る応神王朝ではある が、その歴史はまさに肉親相剋の系譜であり、熾烈な死闘の重 ね合いであつた。謀略と権力は上に立つ者や英雄たちの常套 手段になり下ってしまったのだろうか。スサノヲ尊は人喝 大蛇を毒酒に酔わせて殺し、神武天皇はご馳走でだまして土雲 一族を皆殺しにし、ヲウス命はクマソタケルやイヅモタケルを あざむき殺してヤマトタケルと讃えられる。 山伏に扮した源頼光にたばかり殺される酒呑童子のいまわの きわの叫びは、人の肺腑をえぐらずにはおかぬ。 「 情けなしとよ客僧たち、いつわりなしとは聞きつるに、鬼 神に横道なきものを」 そして出口直にかかる大本神は、天の岩戸開き以来の現世界 の本質を、ずばり指摘する。 「 まえの天照皇大神宮どののおり、だまして岩戸を開いた のでありたが、岩戸開くのがうそを申して、だまして無理に 引っ ぱり出して、この 世は勇みたらよいものと、それか らは天宇受女命どのの うそが手柄となりて、この世がうそでつ くねた世であるから、カミにまことがないゆえに、 人民が悪くなるばかり……」( 明3 8・旧4・咎
丹波の小子 オホハツセ王(雄略天皇)に射殺された履中天皇の皇子イチ ベノオシハ王には、幼い二王子オケ王・ヲケ王が遺された。父 の死によって身の危険を知った兄弟は、帳内のクサカベノムラ ジ使主とその子アタ彦に連れられて逃れ、丹波国余佐郡に隠 れた。クサカベノムラジは開化記に「 沙本毘古王は日下部連、 甲斐国造の祖なり」とあり、『 姓字録』にも「日下部連。彦 晏 すの ダ一の子、狭 さ 静デ留%の 復なり」とあるから、タニハノミ チヌシ 族である。また丹波で王子ら逃亡者の一行をかくまっ た イソカマクロビトは「垂仁天皇第四の妃莉竣入媛7ニハイミ チイン命の王女〕の 御子五十足彦尊の苗裔」翁丹後旧事記 しと い うから、彼もまた丹波にこぼれ落ちた皇胤の末であっ たろう。 クサカベノムラジは名をタトクと改め、ひたすら身分を隠し ていたが、それでも追手への恐れに耐えきれず、なおも逃げる 途中播磨の縮見山の石屋で首をくくって死んだ。オケ王、ヲケ 王はアタ彦と共に播磨の赤石郡に至り、「丹波の 小子」と称し て、縮見の屯倉の首に仕え成人することになる。
外宮の由来 雄略天皇二十一年冬十月、斎王ヤマトヒメ命は、夢でアマテ ラス大神に教えさとされた。 「 われ、すでに五十鈴川の大宮に鎮まっているが、 一人では 楽しくない。御餞も安く食べられぬ。丹波の国与佐の小見比沼 の魚井之原にますタニハノミチヌシ王の子孫のヤヲトメの斎き まつるトョウケ大神をお連れせよ」 ところが雄略天皇も同じ霊夢を見ていた。天皇は驚き、伊勢 の山田原に新宮をいとなみ、翌二十二年秋九月、トョウヶ大神 を丹波の魚井之原から迎えて新殿に鎮座した。この宮を外宮と いい、内宮とあわせて大神宮、または伊勢神宮という。 これは『 豊受大神御鎮座本紀』ら神道五部書に伝える外宮の 由来である。『 丹後旧事記』は、タニハミチヌシ命の館は比沼 の真奈井の近く府の岡という所にあったと記す。内宮の御杖代 であるヤマトヒメ命はミチヌシ命の長女ヒバスヒメ命(垂仁天 皇の皇后)の皇女として、母方の里から外宮を迎えたことにな 一 。
出口家始祖 『 大本教祖伝・開祖の巻』(以下『 教祖伝しは「丹波道主命の 後裔綾津彦命は綾部の郷・神部の地( 本宮山といわれる)を卜し て永住し、トヨウケ大神を祭っていた。のち神勅によって神霊を丹波郡丹波村の比沼の真奈井に遷し、子孫が代々奉仕してい た。ところが雄略天皇二十二年九月、再び神勅によってトヨウ ケ大神の神霊を比沼の真奈井から伊勢の山田へ遷すことになり その時に神霊を奉持して伊勢へ移住したのが出国家の分家であ り、渡会家の始祖となった。その子孫には神道家。国学者とし て著名な出口(渡〈こ延佳が出ている。出国家の本家は綾部の 地に子孫繁栄し、多く抱き右荷を家紋とした。現在の綾部市味 方にある斎神社 ( 祭神経津主命・創建由緒不詳)は出口一族の氏 神として往昔奉祀されていた」と伝える。しかし詳細な記録や 系図は中世火事によつて煙滅したというから、出口家の伝承に 拠ったものであろう。 出口はイツクチであり、イツキの転訛と考えれば、出口姓と 斎神社とは深い関連がありそうだ。斎とは、潔斎して神に仕え ること、またはその人をさす。さらに斎王の略であり、即位 の初めに卜定され、天皇に代わって伊勢神官や賀茂神社に奉仕 した至高の巫女である未婚の内親王や女王を指す。
奇しき神縁 出口直の末女澄と結婚して出国家の養子になる王仁三郎の生 家は、上田家であった。上田家の遠祖は藤原鎌足とされ、さら にさかのぼれば天児屋根命となる。 上田家は丹波国桑田郡曾我部村大字穴太小字宮垣内 (現・ 亀岡市曾我部町穴太)にある。伝承では、この大字 ・小字 の地名 の 由来を、トヨウケ大神 の伊勢遷座に関連づけている。 王仁三郎 の 「 故郷乃弐拾八年」によると、遷座 の途次、神輿 は曾我部郷に御駐輩にな った。この地がお旅所に選ばれたのは アメノコヤネ命 の縁故によるとあるから、すでにアメノコヤネ 命 の子孫が住み ついていたのであろうか。そして厳粛に祭典が 執行されたが、そのとき神に供えた荒稲の種がけやき の老木 の 腐り穴 へ散り落ちた。やがてそこから芽を出し、見事な瑞穂を 得た。里庄はそれを神 の大御心とし、種を四方に植え広めた。 けやき の穴から穂が出たため、この里を穴穂と いうようになり 穴生 。穴尾と転じて、今の穴太とな った。 上田家 の祖先はこの瑞祥を末世に伝えるため、上田家 の屋敷 のあ った宮垣内に荘厳な社殿を造営し、アマテラス大神 ・トヨ ウケ大神を奉祀して神明社と称し、親しく奉仕した。上田家の 屋敷 のある官垣内 の名称は、神明社建造の時から発したと いわ れる。
文録年 間 (一五九二〜九上 0、神明社 は宮垣内から川原 雑 (現 ・亀岡市曾我部穴太 ・小幡神社の東側辺)に遷座されてから後 神明社と改称され、 いつのまにか後神社と里人が唱え出し、今 では郷神社と呼ばれ、穴太 の産土である小幡神社 の附属とな っ ている。 いずれも今日では考証できずにいるが、それが事実とするならば、すでに二千五百年も昔、出口・上田両家の遠祖の出会い がトヨウケ大神を仲立ちに穴太の地で行なわれ、不思議な神縁 を結んでいたことになる。 なお伊勢の外宮にトヨウケ大神を遷座したことは国体に関す る重要な出来事であるのに、なぜか正史である『 日本書紀』に は一行の記載もない。
浦掛の水門
雄略天皇二十三( 四七九)年、吉備臣ヲシロが新羅征討のた め蝦夷ら五百をひきいて進発、故郷の吉備の里に立ち寄った時、 天皇崩御の知らせがあった。 「 吾が国を領べ制めたまふ天皇、すでに鵬がりましぬ。時失 ふべからず」 そう叫ぶや、蝦夷は近郡を犯して略奪した。『 日本書紀』に 「 大だ悪しくまします天皇なり」と天下の人がそしったという 雄略天皇の死は、頭上の重石を取り除いたような気分にさせた のであろヽつ 。 ヲシロ軍は彼らと娑婆の水門で合戦したが、相手は実に馴 憚で苦戦を強いられる。しかしついには丹波国の浦掛の水門ま で追いつめて、蝦夷を皆殺しにしてしまっ た。
皇胤の発見 雄略天皇の太子。生来の白髪というシラガノオホヤマトネコ 命が第二十二代清寧天皇となる。わずか在位五年で崩御したが、 この天皇に子がなかった。そこで探し出されたのが、雄略天皇 に父を惨殺され逃亡していた履中天皇の孫たちである。 播磨で身を落とし、馬飼い牛飼いをして生きのびたオケ王。 ヲケ王に、ようやく天下の春がめぐってくる。 兄弟は互いに皇位を譲り合ったが、まず弟のヲケ王が即位し て第二十三代顕宗天皇となり、在位八年で崩ずると兄のオケ王 が第二十四代仁賢天皇となった。
浦嶋子は誰 「 秋七月に丹波国の余佐郡の管川の人瑞江浦嶋子、舟に乗 りて釣す。つひに大亀を得たり。たちまちに女と化為る。 ここに浦嶋子、感りて婦にす。あひしたがひて海に入る。 蓬葉山に到りて、仙衆を歴り観る。語は、別巻にあり」 翁雄略紀」二十二年) 有名な浦嶋太郎の原型であるが、しばしば歌材にも使われ、 『 万葉集』一七四〇の長歌のほかにも、多くの歌人たちが詠ん でいる。 浦嶋子のことを『丹後風土記』逸文は「与謝の郡、日置の里。 この里に筒川の村あり。この人夫、早部首らが先祖の名を筒川の嶼子といひき。為人、姿容秀美しく、風流なること類 なかりき。こはいはゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり」とし て、浦嶋子は早部、つまリクサカベ族であるという。また 『 丹 後旧事記』でも、浦嶋太郎は水の江の熊野の長者であり、クサ カベノオビトの祖だとする。クサカベ氏の祖は垂仁天皇に反乱 したサホ彦王だからミチヌシ命と兄弟である。これによっても、 ミチヌシ家の一族の末裔が長者として丹波に繁栄していたこと がうかがえる。 『 丹腎府志』は「 浦嶋子」の説話について、仁賢天皇が雄略 天皇の難を避けて丹波の余佐や播磨に隠れ、年をへて都に帰っ て四十九歳で天子になったことの比喩ではないかと考察してい る。仁賢天皇の字を嶋 郎というのも、浦嶋太郎を連想させ

 

暴君の見本

仁賢天皇が崩ずると、その子ヲハツセノヮカサザキ命が天下 を握っ た。暴君の悪名高き第二十五代武烈天皇である。 「 ひ 甦 な りて つ 斗性 . E 威 ■ を好みた ま ふ 。 法 の 令 り 禦 唯 し 。 日 ひ 肇つ までま 亜. と 難しめして、か Lる 極必ずと ごろ しめす。疑を 晩ゎることにご 町を得たまふ。又融術にも ス 認一 の や 苺こ と を造 し たま ふ。ひ 一 っ もょ 妻と を憐めたまはず。耐旬 そも 説ろ の直性鵬、壺ちら 覧 はさずといふこと無し。国の内の居 人、二鴨くに皆震ひ怖づ」「武烈紀し 天皇みずから法廷に立ち酷刑でのぞまねばならぬほど、国の 治安は乱れていたのか。「幽柾必ず達しめす」とあるように、 国のすみずみまで密偵をはなち人心の動向を探らせた。それで も疑心暗鬼はつのるばかり。いらだちが天皇を異常な行動に駆 り立てる。 妊婦の腹を裂いて胎児の形を観た。人の生爪をはいで薯預を 掘らした。頭髪を抜いて木に登らせ、その本を切り倒して人の 押しつぶれるのを楽しんだ。人を池の樋に投げ入れ、外に流れ 出るのを三刃の矛で刺し殺して楽しんだ。人を木に登らせ弓で 射落として咲った。全裸の女を板の上に坐らせて馬と交接させ、 女陰をしらべて潤んだ者は殺し、潤まぬ者は官婢とした。 これは『日本書紀』の伝える武烈天皇の暴逆の数々である。 地獄の鬼でも逃げ出しそうなこの天皇には、あわれみのひとか けらもなかったのか。数ある妃にも御子はなく、皇統はまさに 絶えようとした。
穴太の王子 皇統の王子探しはまず丹波に視点が向けられる。丹波国桑田 郡には、第十四代仲哀天皇の五世の孫ヤマトヒコ王がいた。大 連の大伴金村らが軍兵を従えて迎えに行く。 「 是に倭彦王、通に迎へたてまつる丘 ハを望りて、燿然りて色失りぬ。傷りて山堅に 遁 りて、詣せむ所を知 らず」翁継体紀し 出口王仁三郎の『 霊界物語』第一巻第一章の冒頭には、若き 日の王仁三郎が入山し救世の神示を得た故郷丹波国曽我部村穴 太の霊山高熊山について、こう一 不している。 「 高熊山は上古は高御座山と称し、ついで高倉と書し、つ ひに転訛して高熊山となつたのである。丹波穴太の山奥に ある高台で、上古には開化天皇を祭りたる延喜式内小幡神 社の在つた所である。武烈天皇が継嗣を定めむとなしたま うたときに、穴太の皇子はこの山中に隠れたまひ、高倉山 に一生を送らせたまうたといふ古老の伝説が遺つておる霊 山である。天皇はどうしても皇子の行方がわからぬので、 やむをえず皇族の裔を探し出して、継体天皇に御位を譲り たまうたといふことである」 穴太の皇子というのはむろん地名から出た通称であり、ヤマ トヒコ王の世を隠れ忍ぶ姿であったのか。その胤が穴太の野に 落ちこぼれ、人知れず育っていたのかも知れない。 それにしても引用の文章の持つ密意は容易ならぬ。皇室の祖 である継体天皇は単に体を継いだに過ぎず、真の皇統を継ぐベ き皇子は、王仁三郎の修行した雲山・高御座実皇の位の称) 山に潜み、その皇胤は郷里の穴大に人知れずこぼれ落ちたこと を暗示している。国家のうたい上げた万世一系の否定である。
継体朝の謎

 ヤマトヒコ王の行方が知れぬため、大伴金村らが応神天皇五 世の孫というヲホド命を近江国高島郡三尾郷より迎え、天皇に 擁立した。第二十六代継体天皇である。 継体天皇はその出現と崩年に謎が多い。古代史のタブーが解 禁となった戦後の学会では、応神王朝は武烈天皇をもって滅亡 し、継体天皇を新王朝の始祖とする説が有力である。『日本書 紀』が武烈天皇を暴君の見本のように描くのは、王朝交替の必 然性を強調する作為とも思える。綾靖天皇より開化天皇までを 閲史八代とするなら、『古事記』では武烈・ 継体・安閑・宣 化・ 欽明。敏達・ 用明・崇峻・推古の最後の九代は天皇の系譜 の羅列にとどまる後期の開史八代である。正史 『 日本書紀』が 仔細に天皇の事績を語るに反して、『古事記』は新王朝成立の 事情に何故か口をつぐんでしまった。 継体天皇について、後者は五世の孫、前者は五世の孫の子と だけ記し中間の歴代を省いたのは異例である。継体朝と応神朝 との血縁関係は、全くないか、あるいは伝えられるよりももっ と淡いかであろう。そこで前王朝との血縁をつなぐ仁賢天皇の 皇女タシラカ皇女を皇后に立て、その名の如く、かろうじて体 を継ぐことになる。

丹波の国府

五九二年、第三十三代女帝推古天皇が即位し、翌年聖徳太子 に万機を委ねた。今まで大臣、大連のにぎっていた国政総理の 職掌を皇室の一手に回収、六〇三年には冠位十二階を制定し、 個人の勲功に応じて位階を授与した。これは世襲的な氏姓政治 から官僚制度への転換を意図するものであり、半世紀後の大化 改新の先鞭をつけた。 聖徳太子の没後、官僚制度の編成替えに協力した蘇我氏には、 次第に専横のふるまいが目立ってきた。六四五年、 中大兄皇 子・中臣鎌足らのクーデターは蘇我入鹿を暗殺し、その父蝦 夷を自害に追いこんだ。 入鹿暗殺直後、皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)に御位をゆず り、中大兄皇子が皇太子となって改新の実権を握った。はじめ て元号を採用、大化元年と称する。 翌大化二年、改新の詔を宣布。それによると、私地私民を廃 し、京師。国・郡・里などの地方行政組織の確立、戸籍の作製 と班田収授法の実施、租・庸。調・雑得など統一的租税体系を 定めた。国は大国。上国。中国。下国に分け、当時、丹波は上 国に位置した。郡は上郡。中郡・小郡に区分し、五十戸をもっ て一里とした。律令制が整備されるにともなって、形態、位置 ともに画期的な国府がおかれた。国府とは、国司が常駐して行 政事務をとり、郡との連絡などにあたる諸国の政庁である。そ の
位置は、国内統治の 便や 交通上の要点などを考慮して定めら れた。 「 丹波の国府は桑田郡に在り、行程は上るに一 日、下るに半 日、六郡を管す」と『 和名抄』は記す。丹波の国府から都まで、 人々は重い貢物をかついで一日がかりで上っ たが、下りは手 ぶらのためか歩速もの び、半日で帰りついたものであろう。 丹波の国府の所在地については、現在のところ、亀岡市千代 川町から八木町屋賀に移されたとい う説が有力である。
主基の国郡

「 天武紀」五( エ ハ 七工0年九月の 条に「丙成 〔二十一 日 〕に、 枇唖麺 し て 鴎 さ く ヽ 競 家の た め に 殴 . 驚 「 を 虚 」 ふに 、 齋 ゅ 忌 き は す 眠 ち尾張国の山田郡、次は丹波国の 訂沙郡、並に 卜に 食へり」 とある 。 大嘗祭は天皇が即位後はじめて行なう新嘗祭で、祭儀の中 でも最も重大で厳粛な行事とされている。その年の新穀を供え てアマテラス大神と天神地祗を祀るが、祭場はニカ所に設けら れ、東を悠紀殿・西を主基殿とい う。当日は天皇みずから、ま ず悠紀殿。次に主基殿で神事をする。その時、斎田に作った 稲・栗などの神餞を捧げる国郡は、あらかじめ諸国の中からト 定される。 醍醐天皇からは、悠紀の国は近江、主基の国は丹波。備中と交互に定められた。
大江山の関 大江山は山陰と大和・京都をつなぐ唯一の重要な関門であっ た。『 延喜式』には「 大枝〔大江〕に駅停を設けて八匹の駅馬 を置く」とある。 丹波の大江山を詠んだ歌は数多く、古くは万葉集にみえる。 和泉式部は丹後守として赴任する藤原保昌に再嫁し、丹後の宮 津に下る時に詠ずる。
丹波路の大江の山のさな蔑 絶えむの心吾が念はなくにその娘、小式部内侍は身は宮中にありながら、はるかな丹後 の母に思いをはせる。
大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立
ところが丹波には大江山が二か所あるから話がややこしくな る。 一つは山城・ 丹波の境の老の坂大枝山、 一つは丹波。丹後 の境の大江山千丈ケ岳。小式部内侍の詠んだ大江山について、貝原益軒は『 西北紀行』で前者を、伴高曖は『 閑田耕筆』で 後 者を採ったが、それぞれ地元でも本家を主張し合っ て 結着がつ かぬままだ。 「 ふり上げ見れば源の、鬼神退治の大江山、峯は青葉につ つまれて、谷も尾上も、しんじんと山の……」(近 松門左衛 門『鑓の権三重帷子 し 酒呑童子のいた大江山についても、同様に両者の本家争いは 果てぬ。さらに近江国伊吹山とする説もある。
大江山傾く月の影さえて 鳥羽田のおもに落つる雁がね翁新古今 和 歌集 し
大僧正慈円の歌だが、京都の鳥羽辺の 情景を詠み込んである ので、これは老の坂である。『 今昔物語』にある「丹波の国の 郡司が観音像を造ること」「丹波守平貞盛、胎児の生肝を取れ ること」「 妻を具して丹波の国に行きじ男、大江山にて縛られ たること」の三つの説話も舞台は老の 坂の大江山に違いない 。 最後の 説話からとつた芥川龍之介の『藪の中』は黒沢明監督の 映画化によっ て、世界的に 有名になっ た。 これらの 説話に 扱われたように、大江山は強盗や人殺しの場 として うっ てつけであっ たの だろう。 事実、鎌倉時代の 延応元( 〓〓一 元)年には執権北条泰時らが鈴鹿山と大江山の悪賊鎮圧を近辺の地頭に命じている。
帰化人の血

第四十三代元明天皇は、和銅三(七一〇)年に都を平城京に 移した。翌四年、「 丹波史千足ら八人が外印を偽造し、ひそか に人に位を与えたために、信濃に流された」と『続日本紀』は 伝える。『新撰姓氏録』には「丹波史、後漢霊帝八世孫、孝目 王之後世」とあるから、彼は帰化人の裔であろう。丹波康頼は その子孫といわれる。 四世紀ごろから八世紀ごろにかけて、朝鮮人( 百済上局 句 麗・新羅・任那)や中国人が多く日本に渡来した。彼らが伝え た技術は飛鳥。白鳳。 天平と大陸的仏教的特色の強い文化を築 き上げる。それが完全に咀疇され、消化されて、やがては日本 的な平安文化を生み出してゆくのであるが、丹波各地にも多く の渡来人が定住して影響を与えた。 「 十六年の秋七月、撃粥り してヽ桑に宣き国県に桑を殖ゑ し む 。 又 対の民を 惚 ち 巴 し て ヽ 計 」 調 を た 藤 っ ら し む 」 ( 「 雄 略紀し しばしば桑田郡の名の起源に引き出される一文であるが、こ こでも秦氏が桑を植え、養蚕し、絹布を献じたことであろう。 前文に続いて『 日本書紀』は述べる。 だヽ 渤 期麗に、な ちり してヽ灘部 べ を履へて、その確ピどを定む。姓を賜ひて直と日ふ」 何鹿郡綾部も元は漢部と書いたが、綾織を職とする漢部が居 住したからだという。漢部は大化改新の前、中国から渡来した 漢氏の部民の総称である。船井郡園部 (薗部とも書く)の地名 も、古代の部民のひとつ「そのべ」が由来だが、苑部の氏の上 は苑部首といい、百済の知豆神の裔とされる。 このように、土着の血と外来の血がわき上がる濃い丹波霧の 中でとけ合って、丹波族の勃興を見たのである。それは、出雲 文化の土壌に大和文化や大陸文化が融合し、さらに時代の洗礼 をへて丹波文化が形成されたことでもあった。水を涸らして丹 波国を作る伝説にしても、オホヤマクイ神は秦氏の祖神であり、 オホクニヌシ神は出雲の神であるから、まさに暗一不的といえる。
国分寺造営

第四十五代聖武天皇は、天平十三 ( 七四こ年、仏教の功徳による国土安穏・ 災厄除去を求めて、国ごとに国分僧寺・ 国分 尼寺を造営する勅令を発した。 丹波国分寺跡は、異論はあるが一応は桑田郡千歳村字国分の 高台ということになっており、亀岡平野を展望できる景勝の地 である。現在は小さな本堂だけの無住寺だが、境内には昔の堂 塔の礎石が存在して当時の規模の大きさをしのばせている。 寺伝によると、明智光秀が丹波平定のときに焼失したままく荒廃していたが、宝暦年間に護勇比丘(一 七八八没)が再興 して今日に及ぶ。本堂に安置される本堂薬師如来坐像( 木造) は重要文化財、寺跡は国指定史跡となっている。なお国分尼寺 は、近年の発掘調査から、五百メートル西の御上人林廃寺跡と 推定されている。

第四章 馬蹄に踏みにじられて
平氏と丹波 延暦十三(七九四)年、第五十代桓武天皇は都を平安京に遷 した。山陰ののど首の位置にある丹波は、皇室公家との関係が より密接になり、禁裏の課役にかり出される割も多くなった。 魅惑的な都の文化の風は老の坂をこえかねていても、戦乱の嵐 となれば容赦なく馬蹄に踏みにじられ、戦列にかり出されるの は丹波の地であり、人馬であった。 平安時代末期に登場した武士団の棟梁平氏は桜花のように咲 き誇り、短く散った。その全盛期には「 日本秋津島はわづかに 六十六個国、すでに半国にこえたり。そのほか庄園田畑いくら という数を知らず」翁平家物謳 y  一之巻) 、「日本国に平家の庄園 ならぬ所やある」(同三二之巻)とあるように、 一時は全国の半 分を知行し、五百余箇所の荘園を有していた。平重盛が父清盛の慢心をいさめる言葉の中にも「 しかのみならず、国郡半過 ぎて一門の所領となり、田園ことごとく一家の進止たり」 (同・二之巻)とある。 丹波もまた平氏の支配下にあり、所領も多く存したと思われ るが、それを証する資料は乏しい。九条兼実の日記『 玉葉』 治承五(一一八こ年二月八日の条には「宣下、以二前越中守平 朝臣盛俊ヽ宜し 為二丹波国諸庄園総下司ことあって、丹波国の 諸庄園が平家の支配下にあったことが知れる。 表面立った反平家の動きは、治承元(一一七七)年の鹿ケ谷 謀議が最初である。後自河法皇の命によって、藤原成親ら法皇 の近親が京都東山鹿ケ谷にある僧俊寛の山荘で清盛討伐の密議 をこらしたが、多田行綱の密告によって発覚し、一味は過酷な 処罰を受ける。この事件に関連して、按察大納言資賢らが落ち のびる先は、丹波路であった。 「 夜中に掟 句 重 ぇ の内をまぎれ出でて、八重たつ雲の外へぞお もむかれける。かの大江山、いく野の道にかかりつつ、丹 波国村雲と云ふ所にぞ、しばしはやすらひ給ひける。それ よりついには尋ね出されて、信濃国とぞ聞えし」翁平家物 語』三之巻)
源氏と丹波 亀岡から茨木街道を高槻方面へ向かうと、街道によりそった
年谷川に俗称・ 弁慶橋がかかつている。その西側の山の中腹に は、大きな弁慶岩、更に近く弁慶池がある。その音、武蔵坊弁 慶が落下する大岩をもろ手で支え、踏んばった足跡がこの池だ という。子供の頃、雑魚とりに友らと行くたび、荒唐無稽なこ の話は長敬をこめてくりかえされ、雲つくばかりの大男を思い 描いていた私だった。 丹波には、平氏の伝説が少くて、源氏のは豊富である。大江 山の酒呑童子退治の源頼光は子供でも知るが、源頼政も丹波に ゆかりの深い武将であった。 保元の乱(一一五工Cには、源義朝に従って後白河天皇を警 固し、源為義・為朝らと戦って功をたてる。しかし平治の乱 ■一 五九)では義朝の招請に応じて出陣したが、途中で平清盛 方についた。天皇を悩ます鶴を三度まで退治して名をあげたか と思うと、得意の歌に託して昇殿や昇進をはかり、平清盛にと り入るなど、たくみな処世術をみせる。 ところが思わぬ破綻が待っていた。治承四(一一八〇)年以 仁王を説いて平家追討の令旨を得たが、事が発覚し、頼政は宇 治平等院に逃れ、王とともに奮戦の末自刃する。 『 平家物語』は語る。 「 その後伊豆国給はり、子息仲綱受領になし、我身三位し て、丹波の五ケ庄、若狭のとう宮河知行して、さておは すべかりし人の、よしなき謀叛おこいて、宮をもうしなひ
まいらせ、我身もほろびぬるこそうたてけれ」(四之巻超『し 五ケ庄が源三位頼政の所領であったことは『吾妻鏡』文治二 年三月八日条「源蔵人大夫頼兼愁申丹波国五箇庄事、二品〔頼 朝〕可下 令し 執コ 申京都一 給上之由、及二 御沙汰ヽ是入道源三位卿 頼政家領也」とあるのを見ても明らかである。 亀岡市西つつじが丘の頼政山には、宇治川で戦死した頼政の 首を埋めたと伝えられる頼政塚がある。塚の石碑裏面の碑文に は「鶴退治の恩賜として矢代荘を得た」と記し、「 丹州矢代者 公之釆地也」として、矢代(=矢田荘)が頼政領であることを 示しているが、石碑が江戸時代のものである以上、史実とはな りがたい。しかし、伝承的には頼政と矢田荘との関係がうかが ゝえ る Ъ 『 神護寺文書』には「 寿永三年前兵衛佐源朝臣頼朝、以丹波 国宇津郷令寄進当寺伝法料畢……彼吉富庄宇津郷者、故左馬頭 源朝臣義朝之私領也」と、吉富庄宇津郷が源義朝の私領であっ たことを記している。また『吾妻鏡』の文治二(一一八工C年 三月二十六日の条に「 被レ 宛コ 申丹波国篠村庄於松尾延朗上人ヽ 本是三位中将重衡卿所領也、後為二義経之勧賞地一 也」とある ように、篠村荘は平家から源義経に、さらに義経から源氏の縁 につながる僧延朗へと引き継がれる。 治承四(一一八〇)年、源頼朝は伊豆国で挙兵した。応じて 立ち上がった源義経は、寿永三(一一八四)年、兄範頼と共に木曾義仲を近江に倒し、さらには平氏を追って一の谷へと向っ た。『平家物語』によれば、 揚手の大将源九郎御曹司義経は 「 都合其勢一万余騎、同日の同時に都をたつて、丹波路にか かり、二日路を一日にうつて、播磨と丹波のさかひなる三草の 山の東の山口、小野原にこそ着にけれ」と大江山を越え丹波 を疾風のように駈け抜ける。 この途中、那須与市が丹波亀山で急病にかかるが、法楽寺の 阿弥陀如来に祈ってたちまち平癒、霊符を身につけ一行の後を 追う。屋島の合戦で見事武功を立てた与市は凱旋後、法楽寺を 再興し、出家して仏道に生きた。享保元(一七王0年、法楽 寺は火災で焼失するが、本尊の如来像は焼け残っ た。ただちに 再興された小さな祠は、那須与市堂と呼ばれる。
後醍醐天皇

鎌倉幕府は源頼朝の創設以来、およそ百五十年続く。三代将 軍源実朝のとき、外祖父の北条時政が執権として天下を握り、 頼朝の遺策を守って家臣の支持を受けた。以来、将軍は次第に 名のみになるが、執権が幕府の事実上の主であったのは北条時 宗まで。その後の勢力争いで鎌倉はしばしば戦乱の巷になり、 政局は腐敗して次第に人心を失っていく。 文保二(三二一八)年、第九十六代後醍醐天皇は朱子学の名 分論にもとづく天皇親政の復活という理想に燃えて即位した。
一 匹量二(≡三二)年十二月には院政を廃して天皇親政を実現、 さらに討幕の計画を練るが、正中の変で無惨に失敗した。 社会不安はつのる一方で、守護・地頭の中にも鎌倉幕府、北 条執権家に反感を示すものが増えていく。天皇はこれらの状況 をふまえて南都北嶺の僧徒や在地の豪族たちに呼びかけるが、 元弘の乱によって禍は天皇の身にも及ぼうとした。八月、後醍 醐天皇は奈良の東大寺に走り、ついに笠置山にたてこもった。 九月には笠置城も陥ち赤坂城へ向う途次、山城の有王山で捕虜 となり、翌年三月には隠岐に配流された。 元弘三(正慶二・三≡≡》年天皇は隠岐を脱出、伯者の名和 長年に迎えられて船上山の山上を行在所とした。この死弘の 乱は畿内の内乱に力をつけ、翌三十三年には四国。 九州に波及 して全国的に広がっていく。
必勝の願文 六波羅の早馬が泡をかんで鎌倉にとぶ。船上山から京へ攻め 上るとの報に驚いた執権北条高時は、足利高氏に「迎え討て」 と命じた。妻と千寿王(義詮)を入質に高氏は重い腰を上げて 鎌倉を立つ。幕府への叛意を抱く彼は京へ進軍の道中、伯者山 上の後醍醐天皇に密書を送って勅命を乞い、綸旨を手中に入洛 する。 山陰道を追撃するかに見せかけた高氏は、京都から老の坂を越えて丹波の篠村に陣取り、北条打倒の兵をあげた。篠村はじ め口丹波一 帯は源家にゆかりある土地柄であり、地の利も計算 した上であったろう。この日、高氏は篠村八幡宮で源氏の自旗 を旗立の楊になびかせ、自筆の必勝の願文を納めた。かつて は笠置攻めで幕府方につき功を立てたが、今は後醍醐天皇に味 方し、幕府の崩壊を祈る高氏である。 呼びかけに応じてまっ先に馳せ参じたのは、丹波国氷上郡栗 作郷の地頭で源氏の庶流、久下弥三郎時重ひきいる三百五十騎 と『 太平記』は伝える。 彼らの旗や笠符の「一番」の家紋には由緒があった。源頼 朝が石橋山合戦に敗れたとき、時重の祖先、久下二郎重光が真 先きに馳せ参じる。頼朝は喜び「 もし天下をとれば一番に恩賞 を与えよう」と約し、ョ番」の文字を書いて与えた。のちに 重光は、恩賞地として丹波国栗作郷の地頭職、領家職を与えら れる。この源家ゆかりの家紋を見、故事を聞いた高氏は「 さて は是が最初に参りたるこそ、当家の吉例なり」と誉め、全軍の 士気を鼓舞した。 このとき馳せ参じた近国の武将は「 久下・ 長沢・志宇知・山 内・葦田・余田・酒井・ 波賀野・小山・ 波々伯部」の面々とい う。軍兵総て二万三千余騎、近国、丹波の郷士たちである。 五月七日午前四時、篠村を発した高氏が再び老の坂峠に立っ た時、ひとつがいの山鳩が自旗の上を飛びかった。高氏はこれを奇瑞とし「 これ八幡大菩薩の立翔つて護らせ給ふ験也。こ の鳩の飛び行かんずるに任せて向ふべし」と下知した。鳩は大 内の旧跡、神祗官の前にある栴檀の木に止まっ た。勇みたつ高 氏軍が、内野を指して突き進むと、敵は五騎・十騎と旗を巻き 甲を脱いで降る。篠村を出たあかつきの二万余騎は、御所に近 づいた頃、早くも五万余騎にふくれ上がっていた。 高氏は千種忠顕、播磨の赤松則村軍と呼応し、激戦の末、六 波羅を陥す。北方探題の北条仲時、南方探題の北条時益は炎上 する両六波羅の館を後に京を脱出、時益は六波羅を出てまもな く落命、仲時も近江国番場の宿で野武士に襲われ、四百三十二 名の家臣とともに自害し果てた。 やがて新田義貞軍が鎌倉を攻め破り北条高時は自刃、百五十 年続いた鎌倉幕府は滅亡した。
建武の新政

京都六波羅全滅の吉報に、後醍醐天皇は船上山を下り京都還 幸の途についた。即位より十六年目、新政府の元首となった天 皇は、幕府・ 院政・関白などを廃し、政務の中心機関に記録所 を設けて天皇親政の実現を果たした。翌一三三四年、年号を建 武と改める。 建武政府は、論功行賞にあたつて、武勲の第一 を足利高氏と し、後醍醐天皇の尊治の名一 字を賜い尊氏とした。その上、武蔵・ 常陸・下総三国を与えられる。新田義貞には上野・越後・ 播磨、足利直義に遠江、新田義顕に越後、新田義助に駿河、楠 木正成に摂津。 河内、名和長年に因播・ 伯者、その外、公家・ 武家それぞれ給る中に軍功あった赤松円心には佐用庄ただ一 国、しかも播磨の守護職までとり上げられる。 「 されば建武の乱に円心俄に心がわりして朝敵となりしも、 この恨みとぞ聞こえし」と『太平記』も語るが、建武新政が 成ったのも地方武士の味方があってこそなのに、公家勢力と武 家勢力の寄合い世帯である新政府機関の恩賞方は、荘園の再分 配を要求する彼らに満足を与えることができなかった。京都に 私設の奉行所を開いた尊氏は、全国から所領安土と恩賞を求め て上洛する不平武士たちの把握に力を入れて棟梁としての実績 を作った。  一方、源氏の同族である新田義貞は一 族をもつて軍 事機構の一つ武者所を固めて頭人となり、親衛指揮官の立場 で新政府を擁護する側にあった。 対照的な身の処し方をみせる尊氏・義貞の対立は次第に深ま り政局不安をかきたてたが、尊氏が護良親王の将軍罷免、鎌倉 幽閉に成功すると両者の争いは表面化した。 建武二年七月、北条時行の反乱がおこると、尊氏はその征討 を理由に征夷大将軍の地位を要求、勅許のないまま鎌倉に下り 反旗をひるがえした。十二月、新田義貞は天皇方の追討軍とし て鎌倉に向うが箱根竹ノ下の戦いに敗れて退く。尊氏は義貞を追って一 気に京都へ攻め上った。 西国では尊氏に応じて播磨の赤松円心、安芸の武田信武らが 挙兵し、讃岐の細川定禅も海を渡って進撃した。丹波でも久下 時重、波々伯部為光、中沢三郎らが足利方につき、十二月二十 八日守護代碓井盛景を攻めて摂津へ敗走させた。この前後に尊 氏は丹波の新守護代として同族の高山寺城主に仁木頼章を任じ ている。 明けて建武三 (〓三二0年正月八日、久下、波々伯部ら丹 波の六千余騎は西山の峰の堂に拠る二条師基の軍勢を破り、大 江山の峠にかがり火をたいてこもった。天皇方の大将江田行義 は、新田一族を加えた二千余騎をひきいて桂川を押し渡り朝霞 にまぎれて大江山に攻め寄せた。この戦いは丹波軍に利あらず、 久下時重の弟長重は討死、久下。波々伯部・酒井らは丹波の里 へ逃げ帰った。 正月十一日、山崎の戦いで天皇方を破った尊氏が入洛、後醍 醐天皇は比叡山延暦寺を頼って近江の東坂本へ難を避けた。し かし十二日に北畠顕家ひきいる奥州勢が義良親王を奉じて近江 の愛智河の宿に至ると、形勢は逆転、京都奪回の総攻撃で二十 九日には決定的な勝利を得た。 尊氏は大江山を越え、篠村を通り、尾宅の宿を過ぎて、丹波 篠山の曽地にある内藤道勝の館へ逃げた。さらに二月二日、丹 波を立って摂津へかくれる。この日、後醍醐天皇は京都へ還幸、二十五日には年号を延元と改めた。
南北朝時代 二月十二日、再起をはかる尊氏は、兵庫より海路九州に向っ た。備後の輌の津に船を寄せた時、尊氏の運命は一変する。 『 梅松論』によれば、光厳上皇より鎮西の討伐を命ずる院宣が もたらされたのである。これによって尊氏は朝敵の汚名を逃れ、 錦の旗をかかげることができる。南北両朝の相剋はすでに始 まっていた。 やがて九州で勢力を盛り返した尊氏は早くも四月の末に九州 を発ち京都へ 向う。この前後、尊氏に味方する久下。長沢・萩 野・波々伯部ら丹波の武士たちは仁木頼章を大将とし高山寺城 に立てこもる。 五月二十五日、湊川での激戦は一日で終わった。多勢に無勢、 天皇方の智将楠木正成は力つきて、弟正季と共に湊川の民家で 自刃、 一 族十六人、兵五十余人は主君に殉じる。 『 太平記』によれば、勝に乗じた足利軍は、生田森の決戦で 天皇方の総大将新田義貞はじめ五千余騎を丹波路へと敗走させ た。悲報を受けた後醍醐天皇は、比叡山に難を避ける。この一 連の戦闘によって、建武の内乱は一応終燎を告げ、尊氏は光厳 上皇と弟・豊仁親王を奉じて入洛した。 八月十五日、尊氏の要請で光厳上皇の院政が決定、豊仁親王
が即位して光明天皇となる。ここに二人の天皇が対立し、南 北朝時代が開かれた。十月九日、後醍醐天皇は再挙に備えて皇 太子恒長親王を新田義貞にあずけひそかに越前に向かわせる。 翌十日、和睦の形で京都に帰還した後醍醐天皇は、尊氏の強要 により三種の神器を光明天皇に譲る。これはかねて用意した偽 物であったという。 十一 月七日、尊氏は建武式目を定め、室町幕府のすべり出し を見せた。
応仁の大乱

北朝の光明天皇を擁して幕府を開いたのちも、足利尊氏は政 権の安定を目ざして連戦し、暦応元(三壬一一八)年、宿敵新田 義貞を倒して征夷大将軍となった。しかし吉野に入った南朝側 の抵抗は根強く、南北両朝の合体をみるのは、尊氏の子義詮の 代をへて孫義満に至ってである。 この南北朝時代をへて、荘園制を基盤とする貴族。社寺勢力 の没落が決定的となり、かわって武家勢力による封建的政権が 樹立された。室町幕府によって任命された守護はしだいに領主 化し、また一方で郷村社会のなかで国人層が拾頭をはじめた。 室町幕府は足利義満の代に全盛期を迎えたが、 一方では守護 大名の反乱や畿内近国の土一揆に悩まされた。丹波でも永一早元 (一四一 九)年二月に土一 揆が起っている。当時、武家社会では分割相続制から長子単独相続制への過渡 期にあり、将軍家・有力大名の家でも継嗣争いが後を絶たぬ。 これらの内部争いはやがて足利義尚の将軍就任問題から火を吹 き、応仁元( 一 四六七)年、天下を東西に三分して戦う応仁の 乱へと燃え広がった。京に近い丹波の武将たちもこの兵火の渦 中にまきこまれて多くの犠牲者を出している。 継嗣争いに端を発した応仁の乱も実は中世的な諸制度の矛盾 が一挙に爆発したものといえよう。室町幕府の根太をゆさぶり、 瓦壊させながら、百年に及ぶ戦国時代へと突入する。
丹波の武将 下剋上の気風がみなぎり渡ると、将軍や守護や古い地方豪族 の勢力は揺れ動き、領国に実権をもつ守護代や家臣の中から武 士団がのし上がってくる。 戦国動乱期の丹波では、管領細川氏の下で守護代をつとめる 内藤氏が船井郡に、また、波多野氏が多紀郡、赤井一族が氷上 郡でそれぞれ勢力をのばしつつあつた。  一方、京都では応仁の 乱以後、絶え間ない争乱がくりかえされていた。細川氏内部で は継嗣をめぐって内紛がおこり、これに京都の情勢もくわわつ て、丹波は混沌とした状況におちいつた。 荻野直正は赤井時家の次男として出生、朝日城主荻野氏の養 子となった。青年期に達した直正は宗家であり叔父にもあたる
黒井城主荻野秋清を刺殺して城をのっ とり、みずから荻野悪右 衛門直正と名乗っ た。下剋上の世にふさわしい 知略にたけた典 型的な豪傑として、荻野・葦田・赤井一族に 君臨し、丹波の赤 鬼と恐れられた。 戦国大名波多野秀治は一族の長として八上城にあっ た。赤井 一族、さらに 播磨の三木城主別所長治と姻威関係をもち、中国 の雄・ 毛利氏ともよしみを通じる。 尾張の一小大名から嘔起した織田信長は永録三(一五六〇 ) 年、今川義元を桶狭間に破り、同十年、美濃の斎藤龍興を屠り、 元亀元(一五七〇)年、徳川家康と連合、姉川の戦いで浅井長 政・ 朝倉義景の連合軍を屈伏せしめ、翌二年、延暦寺を焼きは らっ た。 天下統一の野望に燃える信長が、早くから意図していた丹波 への進攻を明智光秀に命じたのは、天正三(一五 七五)年のこ とである。山や川が複雑に交錯する要塞丹波は、荻野氏や波多 野氏、内藤氏その他土豪たちの頑強な抵抗とあい まっ て、しば しば明智軍を敗退させてい る。
亀山城由来
天正五( 一 五七七 ) 年十月、明智光秀の軍勢は老の坂を越え て亀山城に攻め寄せた。『南桑田郡誌』によれば、当時の亀山 城は亀岡市余部町にあり、円岡城と称した。『丹陽軍記』に「 此余部ノ城卜申スハ平城トハ云ナガラ大堀深ク柵ノ木キビシ ク結廻シ大木古木シゲリ合深山ノ如ク」とあるから、当時一般 的な天険を利用した山城ではなかったが、かなり堅固なもので あったろう。 前年の冬、波多野秀治の臣内藤忠行が没して以来、ここは秀 治の弟秀尚の居城であった。攻守三昼夜、明智軍の猛攻にたえ かねて降を請う者が多く、ついに秀尚は八上城に落ちのびる。 屈せず、ふみとどまった福井貞政は苦闘の末、妻を刺殺し屏風 に火をかけて切腹、三十余人の郎党も差し違えて落城の悲運を 共にする。光秀は一 時この円岡城を拠城とするが、丹波攻めで 初めて得た勝利であった。 『 丹陽軍記』によれば、天正六年から七年にかけ、光秀は明 智左馬介に命じて亀山砦のあった高台、荒塚山( 現在の大本本 部・天恩郷)に縄張りさせ、  一気呵成に亀山城を築き上げた。 鉄砲戦に備えた大規模な平山城である。城の南側にあたる大手 には人工的な防備をほどこし、揚手には自然の地形をそのまま 利用した。どんなにか急を要する築城であったのだろう、穴太 寺はじめ近隣の神社・ 仏閣等をこわし、その用材で城郭を築い たと伝えられる。 同書には「 思ヒモヨラズニ我事ナレバ桁梁棟板敷材木虹梁ノ 類穴太ノ観音ヲ初奉り近辺ノ神社仏客格子・扉・遣戸・敷石マ デモ借用シテ」とあり、また『亀山城地録』には「天正之此乱
世故城普譜急也、依て近郷の寺院を破却し用ゆる事多しと也」 とある。 再び『丹陽軍記』の記述をかりれば、亀山城について「近国 ノ者ドモ是程ノ城二日ヲ歴ズシテ築事前代未聞ノ事ナリト、初 テ驚ク計ナリ。去ル程二此城ハ 東二篠村ノ八幡宮、南二桑山大 明神、西二穴太観世音、北二愛宕ノ御社、貴賤往来市ヲナシ四 方皆是福祐ノ地、民ユタカニシテ満々タリ。山遠シテ原広シ、 カカルロ出度城ナレバ亀宝城卜名付ケル」という。亀山城と呼 ぶようになったのは、のちのことである。 『 亀山城地録』は「亀山の名は郷村の名にあらず。天守の辺 小丘にして亀山といふ山の名なるべし」としている。三百四十 余年後、この光秀築城の亀山城は大本に買収されて根本聖地の 一つとされる。その城主ともいうべき出口王仁三郎もまた、 一 時、光秀とともに逆賊の汚名を着ねばならぬ運命にある。
丹波の平定 天正六(一五七八)年三月、「 丹波の赤鬼」と恐れられた赤井 悪右衛門直正が庁の病をえて帰幽、織田信長は再び明智光秀 に丹波平定を命じた。光秀は組下に細川藤孝・滝川一益・丹波 長秀を従え、まず八上城に向かった。 八上城は朝路山(標高四百五十九メートと に作られた山城で ある。山頂に本丸があり、山全体が一つの城塞となっていて守りは鉄壁、波多野秀治がこもつて激しく抵抗した。 さて、日本に初めて鉄砲が伝来したのは一五四三年のこと。 これを本格的に利用し、成功したのが織田信長である。鉄砲隊 の出現により戦法は急速に変化した。 光秀はその鉄砲を使った戦術をもっとも得意とした。光秀は 八上城の回りに鉄砲隊を配置し、波多野の軍勢を城の本丸まで 追い詰めた。その上、山麓に堀を設け、塀や逆茂木・柵をめぐ らし、兵糧攻めを開始した。 その間、光秀は石山本願寺、園部城の荒木氏綱と、転戦を重 ねている。八月には娘の玉( 教名ガラシこを副将細川藤孝の 子忠興に嫁がせた。 翌天正七年二月、光秀は氷上郡に攻め入った。先回の黒井城 攻めでは赤井の呼び込み戦法に痛手を被ったので、今回に一挙 に攻撃はせずに回りの城を一つ一つ抑え、黒井城を孤立させる 戦術に出た。 まず八幡山に本営を設け、 一万の兵を率いて久下城(玉巻城) を囲む。城主は久下重治、兵は三百、氷上城の波多野宗貞も援 護にかけつけたが宗貞は戦死、重治も城に火を放ち、久下城は 落ちた。 続いて氷上城へ。この頃から羽柴秀吉の弟秀長の加勢を得た。 氷上城主は波多野宗貞・宗長兄弟であったが、兄の宗貞は戦死 し、兵力も落ちていたのでまもなく落城、氷上城が落ちると秀長は秀吉の播磨攻略に馳せ向かっ た。 その間、 一年三カ月の籠城に、八上城の糧食もつきはててい た。光秀は母を八上城に送って人質とし、降伏を勧めた。つい に波多野秀治・秀尚兄弟も降伏し、城を出た。光秀は二人をす ぐに安土城の信長に送っ た。信長は「度重なる波多野の裏切り、 侍の本分を知らず」と、すぐに城下の慈恩寺で礫にしてしまつ た。八上城の将兵はこれを知って怒り、光秀の母を殺したとい ヽ う ノ 。 八上城が落ち、丹波は織田の支配下に入り、残るは赤井一 族 のみとなっ た。赤井一族は黒井城、天田郡の 鬼ガ城に拠点を設 けた。翌月、光秀は黒井城の砦・支城を破却し、城下の民家を 焼き払っ て 長期戦の構えをとつ た。その一方で 鬼ガ城を落とし、 ついで桑田郡の宇津城、丹後の 峰山城、弓ノ 木城を攻めた。 八月九日、光秀の軍勢はただ一 つ 残っ た黒井城を取り囲んだ。 荻野直正も前年に帰幽、城主はわずか九歳の赤井直義である。 多勢に無勢、赤井一族は城に火をかけ、落ち延びて行っ た。こ こに光秀による丹波・ 丹後の平定は完成した。 黒井城落城の後、戦後処理を任されたのは光秀の 家臣斎藤利 三である。斎藤利三は美濃の国の人、斎藤氏に仕えたが諸国を めぐり、光秀の家臣となっ た。天正十年の本能寺の変に参画し たが、山崎の戦いで敗れ、京都の六条河原で斬首となっ た。後 に 徳川幕府三代将軍家光の乳母となっ たお福こと春日局は利三の娘である。 室町初期からようやく平定を見る戦国末期まで、凄絶な死闘 のはてに流されたおびただしい彼我の血潮と怨恨の涙は、丹波 の大地深くしみ入った。彼らの魂の群れは、どこをさまよって いるのであろう。
福智山の城 横山城は由良川と、支流土師川の合流点西側の朝暉ヶ丘丘陵
( 旧名横山)にある。光秀はみずから縄張りしてこの城を大改築 し、鉄砲戦に即応できる近代的城郭に築き直した。この時も近 在の寺院を壊して用材とし、墓石を集めて資材にあてたと伝え られる。 容姿を変えた横山城を光秀は福智山城と改称した。「 ふくち」 の語源は、この地を旅する和泉式部ρ詠じた「 たにはなる吹風 の山の紅葉は散らぬ先より散るかとぞ思ふ」の歌という。ま た福智山は天下一の富士山の宛字であることから、光秀の天下 取りの野心をこの字にこめて借用したとする『丹波志』の説が ある。福智山が現今の福知山に改まったのは、享保十三(一七 二八)年とされる。 丹波平定の功により、光秀は丹波二十九万石に封じられ統治 にあたった。亀山と福知山の居城を丹波経営の根拠地とし、家 臣を代官として要所に配置する。綾部は福知山の支配下におかれた。
敵は本能寺 天正十(一五八一こ年六月二日亀山城を発し、夜の大江山、 老の坂峠を越える光秀の一軍。「ときは今あめが下知る五月哉」 決断に至るまで、どれほどの恨みと苦悩が、その胸中に渦巻い たであろう。桂川に至る時、ついに光秀は桔梗の旗でさし示す、 「 敵は本能寺にあり」と。そこから主君織田信長の宿する本能 寺へは一息であった。未明のうちになだれ入って、信長を火中 に自刃させる。 光秀の謀反を信長ほどの武将がなぜ予知できなかったのか。 むざむざ討たれた理由の一つとして、『亀岡市史』では、地理 的錯覚を上げ、「即ち京都から丹波方面を眺むれば、はるかに 遠い山の中に亀山があるように思われるが、その距離は約三十 キロ余りである。しかも亀山から老の坂を越えて桂川辺まで来 ると、本能寺まで馬を馳せれば、僅かに二〜三十分程で到着す る。この奇襲に対する時間的な計算を予期できなかったところ に、信長の敗因をもとめることができよう」と述べる。実際の 距離よりも丹波は遠いという錯覚は、現代の都会人の中にもあ りはしまいか。 主を討って天下を奪ったのも束の間、六月十二日午後から十 三日にかけての山崎の戦で惨敗した光秀は、小栗栖の土民に深手をおわされ、はかない最後をとげる。 戦前の日本では、弓削道鏡、足利尊氏と並ぶ三大逆賊の一 人 として、三日天下の汚名を印された光秀であった。にもかかわ らず築城に際して神社仏閣を破壊したという批判を除けば、丹 波での光秀評は悪くない。わずか三年の治世の間に、なにが民 衆の心を捉えたのであろうか。
明智光秀丹波をひろめ ひろめ丹波の福知山 福知山出て長田野越えて 駒を早めて亀山へ光秀の治世を慕って歌った福知山音頭の一 節である。 一 福知山 の領民は、御霊神社に光秀の霊を祭った。その御霊祭は今も三 丹一の賑わいをみせる。

第五章 幕藩体制下の丹波諸藩
秀吉の天下 山崎合戦後の天正十( 一 五公じ年六月二十七日、羽柴秀 吉・柴田勝家ら織田氏庭下の遺臣によって行なわれた清州会議 において、丹波は秀吉の支配地となっ た。秀吉は猶子の羽柴秀 勝に丹波の支配をゆだね、特に 福知山は北丹の 重鎮であるため、 杉原家次を城主に命じた。この 清州会議では光秀討伐の功労者 としての 秀吉の発言が強まり、織田家の重臣柴田勝家との対立 がきわ立っ た。
天正十一 年、秀吉は柴田勝家を滅ぼし、大規模な大阪城を築 城して天下に威勢を示した。十二年には徳川家康と小牧・長久 手で戦い勝敗を決せず講和したが、家康を臣従させることに 成 功する。十三年には、紀伊。四国を平定するや大がかりな大名 の配置がえを行ない 、全国制覇の足取りを進めた。また秀吉は
この年には関白、翌年には太政大臣になり、豊臣姓を冠した。 そして天正十五年、島津義久を降して九州を平定、天正十八年 には北条氏を滅ぼし、ついに全国統一を完成する。 文禄元(一五九二年、秀吉は明国出兵を志し手初めに朝鮮 に出兵したが、次第に戦局は行きづまる。そこで明国との講和 をはかるが、失敗して再び出兵。その間に諸大名の対立が激し くなり、それに乗じた徳川家康が力を備える。心身とみに衰え た秀吉は、秀頼の将来を案じつつ慶長三(一 五九八)年、つい に世を去った。 秀吉の死後、天下の声望は五大老の第一の実力者、徳川家康 に集まった。五奉行の枢機にあった石田三成は豊臣政権の将来 を憂い、五大老の毛利輝元・宇喜田秀家。上杉景勝らと結び、 家康を除こうとする。
幕藩制確立 慶長五年九月、関ケ原において、家康方の東軍と石田三成方 の西軍の間に天下分け目の戦いが開かれ、八時間の激闘の末に 東軍の大勝が決定した。その結果、豊臣秀頼は摂津・ 河内・和 泉六十余万石の大名に転落し、徳川氏の覇権が事実上確定した。 慶長八年二月、家康は征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開 く。同十年、将軍職を秀忠に譲り駿府城に引退したが、依然と して軍務。政務の実権を握り、大御所として君臨した。
フ 第五章 幕藩体制下の丹波諸藩
元和元(王全五)年五月、家康は大阪の陣に豊臣秀頼を滅 ぼして元和侶武を実現し、七月には武家諸法度を定めるなどし て次第に幕藩体制を確立し、幕府の下に大小三百の諸侯( 幕末 期に墜二百六十六藩)が全国を支配した。
丹波は福知山・篠山。亀山・園部・柏原・ 綾部・山家の七藩 に分治されるが、特に本伝記にかかわり深い亀山・園部・ 福知 山・綾部各藩の成立事情とその歴史について、簡単に述べるこ とにする。
亀山藩小史
天正十( 一 五杢こ年六月、光秀が山崎の合戦で敗死すると 丹波は閥国となり、秀吉は家臣堀尾山城守に亀山城を守らせる。 清州会議で丹波が秀吉の管轄になったため、猶子の羽柴秀勝に 丹波の支配をゆだねた。以下、『 亀岡市史』『京都府南桑田郡 誌』を参考に歴史を記す。
羽柴秀勝。天正十一年〜同十三年(一五△一了八五) 。秀勝は 織田信長の第四子で童名を於継丸といい、信長の死後、秀吉の 猶子となり、羽柴姓を名乗った。『亀山御城の由来』によると、 亀山城入城の時はわずか十六才のため、初めは堀尾茂助、後に 前田玄以が後見した。聖隣庵に信長の墓を立て、十三年、十八 才で夭折する。
羽柴(小士 こ秀勝。天正十三年〜十九年( 一 五八五〜九こ。 同姓同名の城主が二代続くから、間違われやすい。二代目秀勝 は豊臣秀次の弟で童名を小吉と名乗り、亀山城主となった。九 州征伐・小田原征伐に従い甲斐・信濃を与えられ、天正十九年 三月に岐阜城に移った。
小早川秀秋。天正十九年〜文録四年(一五九一〜九五) 。秀秋 は秀吉の正室北政所の兄木下家定の第五子で幼名辰之助。幼少 から秀吉の養子となり北政所に養われていたが、天正十九年に 参議に任ぜられて右衛門督を兼ね、次いで丹波亀山に封じられ た。しかし実際の秀秋の亀山入城は文録二年で、それまでは城 代が在城していたらしい。秀秋は丹波中納言と称していたが、 小早川隆景の養嗣子となり、翌年、その封地備後三原城におも むいたため、亀山城は在番城となった。秀秋在城の文録二年八 月より同三年三月までに光秀築城の亀山城は改修され、三重の 天主閣が五重になった。文録四年、秀秋は関白秀次の罪に座し て丹波の所領を奪われたが、養父隆景の隠居とともに筑前及び 筑後の一部の封領を継ぐ。
光秀亡き後の亀山城の主が秀吉の養子(於継丸秀勝Y養子 (小吉秀勝)・甥( 小早川秀秋)と三代続くのは、秀吉が京に近い 亀山城を重視したからか。文録四年に城主の住まぬ在番城に格落ちしたかに 見えるの は、本能寺の変から十三年、秀吉の視点 が明国に向けられ、亀山城の 重要性がにわかに 薄れたからで あろヽつ 。 『 亀山御城の由来』によれば、在番城となった亀山城には、 慶長七年までの間に石田三成。 前田玄以・ 前田主膳正・北条氏 勝が城代として名をつらね、慶長七年から十四年までは天領で 権田小三郎が代官として在番、そして慶長十四年、十六年ぶり に城主を迎える。
岡部長盛。慶長十四年〜元和七年(三ハ〇九二一こ。岡部長 盛は上総・下総両国に一万三千石を領していたが、慶長一四年、 亀山に二万石、さらに徳川秀忠より二千石を加増されて城主と なった。大阪冬の陣には徳川方に味方して功績あり、元和七年 に福知山へ転封になる。 幕府は皇居に接する丹波を重視し、丹波各藩が皇室に味方す ることを警戒して多くの小藩に分割し譜代大名を配置、しかも たびたび領主を代えた。亀山藩も岡部長盛の後は松平(大給) 成重が三河の西尾より移封、以後は菅沼氏二代十三年、松平 (藤井)氏三代三十八年、久世氏一 代十一年、井上氏一代五年 と目まぐるしく城主が代わる。寛永元(一七四さ 年に松平( 形原)信琴が篠山から亀山へ移封されてからは国替えのこと がなく、八代百二十年間松平氏が亀山を支配した。
亀山藩はわずか五万余石の小藩だが、亀山城をとりまく実質 の禄高三万石余、あとは備中の浅口郡内に一 万三千石、丹波竹田・篠山・ 須知近辺に合わせて一 万余石と散在していた。これ は二万何千石かの飛地支配を奉行。代官・同心二人という程度 のわずかな人員でまかなえるということであり、最低の人件費 で全体の五分の二の所得が得られるのだから、その利益は大き い。それが亀山城下の繁栄にもつながり富裕な商人を輩出した。 これを飛地を持たぬ隣国の園部藩三万石と比較すると、石高 の差は別としても、園部中心の三万石だけで切り盛りせねばな らぬ園部藩は城主以下「万事質素に質素に」と耐乏生活を余儀 なくされた。 この両藩の優劣の差は維新によって逆転する。版籍奉還にと もなう領地の還元により、飛地を多く支配する大名の城下町は 不景気になった。亀山藩もその例に洩れず飛地からの収入が絶 え、急激に衰亡に向う。 一方、園部は飛地がないためさほどの 影響を受けず、むしろ逆に活況を呈し出し、若き日の出口王仁 三郎もまたその中に青春の一時期を燃焼する。
園部藩小史 園部藩の藩祖は小出吉親である。吉親の祖父、通称甚左衛門 尉は豊臣秀吉と同郷の尾張国愛知郡中村の出身であり、そのよ しみで早くから秀吉に仕えて信任を得、 一字を授けられて秀政と称した。秀政は和泉国岸和田三万石を領したが、関ケ原の役 では老病のため立たず、長子の但馬国出石城主吉政を西軍に、 次子秀家を東軍に属させる苦肉の策をとる。戦後、秀家の 戦功 によっ て、秀政・吉政親子は本領を安堵された。秀政はその 後 い くばくもなく死ぬ。 慶長九( 三ハ〇四)年、秀政が死ぬと、吉政は嫡子吉英を出 石にとどめ、みずからは岸和田に移る。吉政の死後、吉英は出 石を弟吉親に与え、父の後を継いで岸和田に移る。
元和五(三全九) 年、全国的な国替えによって小出吉親は 出石から園部三万石に転封になっ た。園部は昔から無住の地で あっ たため、宍人村郷士小畠太郎兵衛宅を仮館とし、盆地中央 部を占める小向山を中心に草原を開拓して園部城を築い た。完 成は元和七年といわれる。園部時代の 出口王仁三郎が岡田惟平に 師事してしばしば出入りした南陽寺も、この年に 創建された。
吉親は民政に 意を尽くし、道路を開き、町造りの 基礎を固めた。 以後、小出氏は一度の国替えもなく、外様大名ながら歴代藩主 の 中には幕藩に列する優遇を得る者もあり、十代三百五十余年 にわたって園部を領有する。 慶長三(一八エハ七)年十二月、十代英尚はみずから藩兵をひ きいて入京し、孝明天皇皇后の 御殿である准后殿を警固し、京 中見廻役をした。大政奉還後はいち早く新政府に帰順し、西園 寺公望を総督とする山陰道鎮撫軍に 従っ た。藩領は明治二年に園部県となり、同四年の廃藩で京都府に編入された。 幕藩体制下の百姓は常にきびしい 搾取と圧迫に 加えて凶作や 飢饉に泣いたが、小藩の園部藩でも天明七(一七八七)年秋の 大がかりな百姓一揆、天保元(一八一一一〇)年の米買占めに抗議 する打ちこわし、同七年の 強訴、万延元年の米価高騰による打 ちこわしなどがあいつい だ。
福知山小史

秀吉は北丹の重鎮である福知山の城主に杉原家次を任じたが、 天正十二(一五八五)年に家次が死ぬと、秀吉の家臣小野木重 勝が城主となっ た。 慶長五(王ハ○○)年七月、小野木は豊臣方に与し二十一軍 一万五千の総指揮となり、徳川方の細川幽斎の拠る田辺( 舞 鶴)城を攻めた。その時、幽斎の子の忠興は家康に従い関東に あっ た。幽斎は籠城してよく戦い持久戦になるが、後陽成天皇 は幽斎が死ぬと歌道秘訣の絶えるのを恐れ石田三成に救命させ たため、攻囲軍は引き上げた。やがて天下分け目の関ヶ原の 戦 い は徳川方の勝利に帰す。忠興は小野木を恨み、家康の 許しを 得て、帰国するやただちに福知山城を攻めた。小野本は城を明 け渡し(亀山藩の尼寺寿仙院(現亀岡 市本町にあり 、 浄土寺とも 号す)で自殺した。 小野木滅亡により、徳川方に属した有馬豊氏が遠江横須賀三万石より転じて福知山城主となった。豊氏は関ケ原の役に軍功 があつたとして三万石を加増され、綾部を含む何鹿郡の西半分 六万石を領有した。 江戸幕府が幕藩体制の基礎を固めていく過程の中で、有馬豊 氏は大阪夏・冬の陣にも功を立て、初代藩主として城下町の整 備や領内の検地を行なうなど存分の治績を上げる。豊氏が領内 で実施した検地は有馬検地といわれ、その後の福知山。綾部の 領政の展開に重要な影響を与える。豊氏は在福二十年の後、元 和六(三全一〇)年間十二月に二十三万余石をもつて筑後久留 米に転封した。郷土史家の声田完は、久留米市役所付近( 城下 町がもっとも早く形成されたと思われる地帯)と福知山の旧城下町 を比較して、町割や町名ならびにその配置が全く一 致している ことを報告している。 有馬氏転封後、元和七年岡部長盛(五万石) 、次に寛永元(一 六一 一四)年稲葉紀通( 四万五千七百石)が入封する。慶安元(一 六四八)年、紀通は発狂して家臣を殺し、領民十数人を斬殺し、 また丹後の飛脚を城楼から発砲して倒すなどの狂態を演じた。 このため隣国諸侯が福知山城を囲んで事件の拡大を防ぎ、紀通 は自刃して除封になる。翌慶安二年、松平忠房(四万五千九百 余石)が入封した。 こうしてめまぐるしく領主は代わるが、寛文九(三ハ 六九) 年に松平忠房が肥前島原へ移封になると、朽木植昌が常陸土浦から三万三千石で入封した。それ以来、藩主は代々朽木氏が継 承し、明治維新まで十三代およそ二百年に及ぶ朽木藩政が続く。 その間さしたる暴君も出ず、大藩のない丹波丹後では譜代の大 名として君臨し、中には第八代朽木昌綱のような知名の文化人 も出た。 出口直が生まれた頃の藩主は二代朽木綱張で城下の町家は千 軒前後、ほかに三百軒余の藩士の家があり、俗に「 福知千軒」 といわれた。
綾部藩小史

幕藩制の次第に成立する中で、天領や福知山藩領であった綾 部が藩としての独立を見るのは、寛永十( 王全≡こ年九鬼隆 季が新規取立として志摩国鳥羽から綾部に移り、新封二万石 (何鹿・天田二部内二十七村)を領有したのに始まる。 九鬼氏は藤原北家より出た奥熊野の豪族で、往古より南海の 海賊として名高い。藤原鎌足十九代目の教真が熊野別当職と なってより、四人の子がそれぞれ熊野三山及び田辺社に仕え、 以来、子孫代々、別当職を継いできた。 九鬼の名の由来は、南北朝の頃(三二二ハ〜八四) 、熊野三山 の別当家の支族とされる隆真が足利尊氏に仕え、紀州の久木村 ( 九鬼とも書く。現・ 和歌山県伊都郡花園村久木)に住んでその名を 名のったとされる。

第五章 幕藩体制下の丹波諸藩
綾部藩武家屋敷 (江戸時代)
本 宮 山 FT九 鬼霊社跡
田ノロ町  蔦
上野城地 (幕 末旧藩士の覚えをもとに作成)

出口澄もまた九鬼の名のおこりについて語っているので、紹 介しておこう。 「 九鬼の因縁についても、時節がくるまでは分らんやろう。 九鬼という名のおこりは、信仰の熱心な婦人があって、毎 日神詣うでを欠かさず続けていた。その婦人に九人の子供 があって、ある時、神詣りから家に帰ると、その子供の一 人が死んでいたのや。また次の日も同じように死に、順々 に子供がみな死んでしもうた。それでその婦人が『 神さま もあんまりや』と言うて歎いていると、神さまが現われて おいでになり、『お前の熱心な信仰に免じ救うてやったの や。墓に行って調べてみやれ』とおっしゃられたので、そ の婦人は『 これはおかしなことを申される』と墓に行き棺 を調べて見ると、恐ろしいことに、自分の子はみな鬼に なって死んでいた。そういうことがあって九鬼といわれる ようになったということや」翁花明山夜話」『木の 花』昭和二 十五年九月号) 因に、九鬼の鬼は、正しくは角のない「 兄」の文字を使用す フ一 。 九鬼家中興の祖とされる嘉隆は、信長ついで秀吉の電下に入 り、九鬼水軍の声名を高めた。さらに志摩国鳥羽に 築城し三万 五千石を領有、慶長二(一五 九七) 年嫡子守隆に家督を譲っ て 隠居した。
慶長五年の関ケ原の戦――守隆が家康に属し会津攻めに加 わっている留守中、嘉隆は西軍に味方し、鳥羽城に拠った。家 康の命で鳥羽城奪回を計る守隆と、ついに父子相克の戦いとな る。関ケ原の戦は東軍の勝利に帰し、嘉隆は家康から切腹を命 ぜられ、守隆の助命嘆願の許されたのも知らず、その報の至る までに五十九歳の生涯を終った。 守隆は関ケ原の戦の功により二万石加増の五万六千石を領有 したが、彼の没後、子供らの家督争いは激しいお家騒動へと発 展する。守隆には良隆・貞隆・隆季。久隆の四男子があったが、 次男貞隆は早世、末子久隆は八歳で仏門入りした。寛永九(一 上雀三)年長男良隆は病気のため廃嫡、本来なら残る三男隆季 に跡目のまわる順序だが、守隆は隆季ときわめて不仲であるた め、十五歳になっていた久隆をわざわざ還俗させて鳥羽城に引 き取り、同年九月「久隆を後嗣とせよ」と遺言して没した。 隆季は久隆の後継に異議をとなえて幕府に訴状を提出、久隆 も父の遺言を楯に応訴、親戚家臣を両分しての激しいお家騒動 となった。十一 月二十七日、幕府の裁決下る。久隆の勝訴で あった。幕府は遺言通り久隆の家督を許したが、家督相続の過 怠を責めて五万六千石のうち二万石を召し上げ、摂津三田三万 六千石に転封を命じた。敗訴した隆季とそれを支持する家臣ら は浪々の身となるも、翌十年二月、隆季は将軍家光に呼び出さ れ、新たに綾部二万石に封じられた。こうして九鬼氏は幕府船手番から脱落し、海運の要衝鳥羽か ら離され、三田へ、綾部へ――全く海のない山国の小藩に封ぜ られ、水軍としての特色を失う羽日となる。お家騒動を機とし ての改易転封は、幕府の政策であつ た。 隆季が入部するまでの綾部は、 一集落に過ぎなかった。戦国 時代末期、江田行範が本宮山に綾部城を築き、周囲に武家屋敷 ができたと推測される。しかし町といえるほどではなかった。 隆季は下市場( 現・綾部市青野町綾部高校東校舎附近)に陣屋を築いたが、慶安三(Iハ五〇)年に焼失、翌年上野に新たに陣屋 を構築してから、城下町が形成されてい く。隆季は治世約四十 年、創業に 全力を傾け、九鬼氏十代三百三十余年の基礎を固め た。
歴代綾部藩主の中で異色は八代隆度であっ た。病身のため文 政五( 一 八壬こ年二十三歳で隠居し、その後は文化人として の 余生を楽しみ、歌垣綾麻呂の号で、狂歌三大名の一 人に数え られた。

隆度の跡を継いだ弟の九代隆都は、傑出した君主である。直 が綾部にきた頃の藩主は、この隆都だ。当時の綾部は、天保の 飢饉や江戸・京都等の藩邸の火災の頻発、隆度の幕命による公 務等で藩財政は窮乏していたが、藩主と家臣、あるいは領民と のつながりの中に温かい情が流れ、それは故郷福知山とは大き な違いであった。 文政五年隆都が藩主となるや、家老以下の役人の粛正から改 革の手をつけて成功した。 単なる並び大名でなく、内外多事の藩政を改革した歴代中の 英主として、幕府は隆都の存在を高く評価し、一再ならず公職 につかせた。隆都は文政六年以来、日比谷御門番・公家使節接 待役。江戸城警備の統率役である大御番頭・京都二条城在番を へて、以後もたびたび京都・大阪で番頭をつとめている。 隆都は人道的政治家であり、たとえば天保の飢饉の時など、 高値の他国米を買い入れて救民に専念し、領内からほとんど餓 死者を出していない。天保十( 一 杢二九)年には農学の大家。 佐藤信淵を招請して、領内の産業経済の立て直しをはかってい  。
嘉永六( 一 八二こ年は、六月にペリーが軍艦四隻を率いて 浦賀に入港、開港を迫った年である。幕府は周章狼狽して、に わかに「 海岸防備を厳重にせよ」と触れる。九鬼隆都は、ただ ちに海岸防禦用取扱いに向かわねばならなかった。
直が結婚した安政二(一八五五)年には、隆都は講武所総裁 に命じられて、その造営に尽力している。講武所はのちのわが 国陸海軍の濫腸となったもので、幕末海軍の創始者勝海舟は、 隆都の下で、講武所砲術師範役などをつとめている。孫の九鬼 隆治は「城中で『 勝』と呼び捨てにできるのは隆都だけであっ たそうな」と語っていた。仙石相馬両家のお家騒動にもその収 拾に尽力し、また江戸城明け渡しの際にも勝の背後にあって大 きな力になったと、九鬼家では今も伝えている。 隆都は身の丈六尺有余、文武両道に秀で、弘化元(一 八四四) 年には江戸城内で馬術や槍術を将軍の上覧に供したり、大番頭 として江戸城番士の調練の指導にもあたった。また山鹿素水を 聘し、みずから師事して山鹿流の皆伝も受けている。漢学にも 通じ、書画ともに殿さま芸以上のものを残した。文久元(一 八 工全)年家督を隆備にゆずるが、治世四十年、数々の治績を残 し、明治十五(一八公こ年八十二歳で没した。 戦国時代の海賊の将で江戸時代の大名として残るのは、肥前 大島の来島氏と九鬼氏だけである。
九鬼の因縁 九鬼氏が綾部に入封させられたのは幕府の政策であったが、 九鬼氏と綾部には不思議な因縁めいたものがある。 平氏の熊野信仰が篤く、平清盛も重盛もそれぞれ四度にわ

たって参詣し、平氏の武運長久を祈っている。平重盛は綾部を 領有していたが、並松 (現・綾部市並松町)一帯の風景が熊野に 似ている所から、綾部に熊野三所権現を勧請したという。 綾部藩の記録の中に、熊野新宮社の縁起を収録しているが、 それによると 「 即ち此所昔平氏小松三位中将 〔平重盛〕御領地 たるによつて、彼卿熊野権現を信仰して此所に三熊野を勧請し、 不時の詣をなさまくおぼして景地の清き所を選び給ふに、此 所心に叶ひけるにや宮造りまして敬ひ給ふ旧跡とかや。真に三 熊野の景色にて、本宮と云山の北に新宮の社有、南に那智と云 ふ所有、是熊野三山を移し給ふ跡なり。本宮山の東の方に滝有、 那智の滝の如く流れの末は川有。是三熊野の川になぞらへて妙 なる霊地なり」とあり、出国家の所在した本宮村新官坪内はか つての熊野新宮社の境内だったのであろう。坪内は中庭の意味 がある。 『 新宮権現勧進並に本宮権現勧進の事』によると、寛文十二 貧六七一一)年、藩祖九鬼隆季は新宮を並松一 本木に遷し、新殿 を新築し、本官の御神体も共に遷した。 『 綾部町史』によると、六月末日の夜ふけ、由良川の上流に 月が出て、田野川のそそぎ落ちるかさねの滝に月影が映じる。 その時を合図に祭典が始まり、庶民も群がり参拝し、終夜にぎ やかな祭りがおこなわれた。それが現在、綾部名物の一つであ る水無月祭りの由縁である。
紀州熊野の別当職であっ た九鬼氏が綾部に入封させられる五 百年も前に、すでに綾部に 熊野三所権現が勧請されていたので ある。そして六代目の 九鬼宗隆は、熊野に 帰っ て 本宮大社の宮 司となっ た。
大本と熊野 「 本宮山のお宮が建ち了りたら、九鬼大隅守の深い因縁が 判りてきて、 艮の 金神の経綸が判りてくるから、そうな りたら、夜が明けて日の出の 守護とあいなりて、五六七の 神代が天晴れ成就いたすぞよ」η 伊都能売神 諭 し 大本と熊野と九鬼の関係も深い 。熊野本宮の主祭神は家津御 子大神、すなわち素蓋鳴大神であり、大本では素蓋鳴大神を 救世主神とする。王仁三郎が最後の地方巡教したのも熊野で あった。 明治二十五 (一八九二 年、出口直は、産土神のお働きのお 礼として、綾部の熊野神社境内に梅と桜と白藤を植え、「産土 神さまの庭の自藤、梅と桜は、出口直のおん礼の庭木に植えさ したのであるぞよ。白藤が栄えば、綾部よくなりて、末で都と いたすぞよ」と筆先に示す。 大正十 (一九二こ年一月に熊野新宮神社境内の拡張が行な われ、記念碑が建てられた。その表面には王仁三郎の歌が刻ま れた。
67 第五章 幕藩体制下の丹波諸藩
神の子の真心ささげて拡めたる 神苑清しき石の玉垣 苔生して神さび立てる常磐木の 松にしるけし水無月の宮
しかし大本事件によって、その二首の歌も、裏面の献金者の 芳名の中の 「出口王仁三郎」の名も削りとられた。 昭和三十三 (一 九五八)年、綾部市議会は熊野神社の裏 (北 部)に市民センター建設を決議、翌三十四年に着工したため、 かつての人百二十二・四坪の敷地は三分の一に縮小された。市 民センターの建設は資金難などで難航、十年がかりで四十三年 に完成した。昭和四十三年、熊野新宮神社は代替地を得て、市 民センターの西、現在地に遷された。 綾部では、節分の豆まきの時、「 福は内、鬼も内」と唱える。 九鬼の名の鬼をはばかつたというより、九鬼の殿さまを慕った、 領民の素直な心のあらわれであろう。大本も節分行事で同じ唱 え方をするが、後述するようにその意義は別である。