月の出を待つ平安京最後の天皇、 孝明天皇の遺勅と

救世主 出口王仁三郎聖師  本宮山山上に現れた富士山霊石、  

古事記に記載せる天の一つ火と神の仕組み 

出口和明 大阪中央分苑 出口 恒
孝明天皇と旭形亀太郎に関わる伝説は、現在の大本教団に残されているのか。そのような疑問を持つ中、孝明天皇と佐藤紋次郎に関わる冨士山霊石の不思議な記事があることを、村山浩樹さんが見つけられ、情報提供くださいました。石原雍久「鶴山霊石の神秘」『おほもと』誌 昭和四十八年十二月号より全文を掲載いたします。
富士山の木花咲耶姫のご神霊の鎮まり給うご霊石 十二月八日が近づくと、思い出されるのは第二次大本事件のことである。そして同時に事件に関連する鶴山々上のご霊石にまつわる神秘なできごとである。昭和十年の初秋のことである。ある先輩から「富士山の大爆発により、八里も飛んで山梨県に落下したお石が、綾部総本部に納まる」という話を開いた。よく聞くと、木花咲耶姫のご神霊の鎮まり給うご霊石ということである。運搬は作業課のご用であって、私たち祭祀課員には直接関係のあるご用ではなくそのまま日は過ぎていった。秋の大祭も間近になり、鶴山々上には日の大神さまのお鎮まりになる長生殿の釿始式が執り行われることになっている。いよいよ長生殿の基礎工事も終ったので、下見にお山に登ってみれば、すでにご霊石は穹天閣の前庭中央に無造作に置かれてあった。 その後、修行者の案内をして二代教主さまにご挨拶のため再びお山に登った時には、霊石の前には平たい石が置かれ、両側と裏は山石にて固まれた型になっており、山つつじの木も植込まれていた。ちょっと見たところでは、普通の庭石が置かれたようになっていて、この話を知らない人には、まさかこれが、富士のご霊石とはだれも気のつかないようなあり方にしてあった。 最近、このご霊石に関して、大本の元老である佐藤尊勇からお話を聞くことができた。とくに吉田氏は第二次大本事件前から綾部作業課長として長年奉仕せられ、当時の作業の責任者であり、霊石の取り扱いについて最も詳しい方であった。吉田氏は大要つぎのように語った。「あのご霊石は誰も受け取った者のない、ふしぎなご霊石である。誰かが置いて行ったのである。時期は昭和八年八月であったが、元みろく殿横の石段を登った小山の登り口に少し広い場所があり、そとに早咲きの梅の木がある。その下に山家から運んだ山の石と川石が置いであった。その上に薦に包み太縄でくるんだ石が置かれてあった。自分は知らないことであるが、こんなに丁寧に包まれてあるから、聖師さまにお尋ねすればよかろうと作業課の人たちに命じ、お山に上げておいた。 ある日お山に登ってみると、穹天閣の正面玄関横に置かれている。ここでは邪魔であるからどっかに移さねばと思い、何気なく手を懸けて、一人で抱き上げ、〃磐境〃(磐境とは穹天閣前のお庭)に置きました。今でも不思議に思うのは、あんなに重いのが、自分の力でどうして動いたかということで、ほんとうに驚いた。 亀岡から聖師さまが穹天閣にお帰りになったので、このことを申し上げたところ、「どこに置いたか」とおっしゃりつつお出ましになり、「よう来た、よう来た」と、ご霊石に語りかけられ、さも嬉しそうになさっていた。〃どこに安置すればよいでしょうか〃とお伺いすると「この磐境でよろしい」とのことであった」 また、佐藤先輩はご霊石について次のようにも語った。「私は大本事件のとき、神苑を破壊に来た土方の親方と、あることから親しくなった。その親方がいろいろ話をしているうちにご霊石の話となった。親方は、お山の中央にあるまん丸い石を、ハンマーで二、三回打ったが、カンカンと響き、毀れないので、毀れた他の石と一緒に入れて埋めておき、警察へは、皆破壊したと報告しておいた。
事件前の事件 このように、作業責任者も知らないうちに届いたご霊石であった。当時、私はいずれ長生殿ができあがれば、ご神体としてお鎮めなるご霊石であろうと、ひそかに思っていた。ところで、お筆先には「さいくはりうりう仕上げをごろうじ」とあるように、大本神業の進展は、凡夫小人どもの計り知るところにあらざることを、三十八年経った今初めて悟らしていただいたのである。 さて長生殿(日の大神さまの檜造りのご神殿・事件のため建設中止)釿始祭には、私も祭員の一員として、祝詞後取の役をご奉仕した。この祭典の斎主には、はじめ日出麿先生と定まっていたが、祭典三十分前、聖師さまが突然「斎主は私がする」とおっしゃったので、さっそく問題の黄呂染の袍(黄呂染の袍とは第二次大本事件に不敬罪として、それを着た聖師さまを責苦に追いやる攻撃の材料になったもの。黄色味を帯びた茶色で、桐・竹・鳳凰の柄で構成され、天皇陛下のお召しの袍と同色・禁色)を取りに教主殿まで走ったことを思い出す。 祭典もすすみ、いよいよ聖師さまの祝詞となり、続いて聖師さまの玉串奉奠である。私はちょうど聖師さまの斜め後におり、聖師さまのご動作がよく見える。玉串をお受け取りになり、一揖をなされたと思うと、おつむりをぐっとお下げになり、拝の位置まで下げられ、頭を前後に二、三回振られたので、冠りが下に落ちかかった。モトイがあるため下には落ちなかったが、もう少しで下に落ちるところであった。私はびっくりして、おそるおそる聖師さまのみ前に出で冠りを直さしていいただいた。 昭和十年の年は祭祀課としても緊張つづきの年であった。春の大祭には大麻のお祓いにつきお叱りを受けた。「大麻は塵払いとちがう」とおっしゃり、聖師さまみずからお手本を示され、私に直接ご指導も下さった。 ところで、第一次大本事件以来斎主としてお出ましになったことの無い聖師さまが、突然にこの祭典にお出ましになられ、故意に冠りを落さんとされたこと……。一般祭員が神饌物を落としたさい退座しなければならないのに、どう考えてもわからないことであった。また何か大きなことが起こるのではないかと緊張の日が続いた。そして、ついに年の瀬もせまる十二月八日午前四時四十分、第二次大本事件が起きた。事件が起きてからしばらくして、あの日の聖師さまのことなど想い出し、いろいろ考えさせられたことである。
鶴山から霊光 事件後、綾部市内のある店に勤めていたが、いつのころからか、大本の噂話が町に流れた。それは「大本さんを破壊したので、神さんが腹を立てておられて、夜な夜な鶴山から光りが現れる」とのことである。いろいろその話の出所を調べて見ると、もと私がいた上野町の谷前玉子さんから出た話であった。谷前さんとは隣組であり、事件後もいろいろ話をしている方である。谷前さんの話では、本宮山のご霊石からお光りが出るということについて玉子さんはつぎのよう語っておられたという。「隣に住む、〃おのぶさん〃というおばさんが本宮山に関するふしぎな霊夢を見て、その翌日から、現実の本宮山からお光りをはじめて見るようになった。それ以来、いろいろな人々が、次々にお光りを見る。私は〃おのぶさん〃からその霊夢の判断を求められたがわからないので、そういうことにくわしい湯浅仁斎さんにおたずねしたが、確答を得られなかった(くわしくは後述)。 これまで湯浅仁斎先生から、〃尾張半田の経綸〃とか、〃孝明天皇の紙切神示〃等を聞かせていただいていたが、その後、藤山の雑草居を整理して亀岡に移るようにとのことで、中矢田農園に移り、ご奉仕するようになり、このことはあまり思わないようになっていた。昭和十三年三月、支那事変に召集を受けた時、目標とするご神体はなく、日はすっぽり西に沈んだ夕暮れを待って、ひそかに鶴山に登り、武運長久をこのご霊石に祈った。その時、ご霊石をさすったところ、一片のカケラが起きたことを記憶しているが、今思うと、佐藤先輩の話にあったように、石屋がハンマーで打ったところではなかったかと拝察するのである(恒註 石屋フリーメーソンとみれば、石屋がハンマー手打ちの意味は深い)。 私は昭和四十五年一月八日付にて、再度ご奉仕され、万祥殿に奉仕することとなった。もっぱら宣霊台帳作成の御用であり、次々と先輩、諸先生の功績、略歴などを書き入れてきた。ある日、綾部の台帳から湯浅仁斎毘古、谷前玉子毘女を見て想い出したのが、鶴山のご霊石であった。 急にもっと深く知りたくなり、綾部市上野町の湯浅一男氏宅を訪れた。訪問すると、佳子夫人のみ在宅で、佳子夫人の話では、「亡くなった母は良く存じておりましたが、私どもでは何もわかりません」とのことであった。ある時、万祥殿奉仕の上治恒雄宣伝使と話しているうちに、鶴山富士のご霊石の話になり、同氏もご霊石について思い出があるとのことである。こんな近い所に話の種があることに驚きつつ話を聞いた。上治宣伝使は、大要つぎのように語ってくれた。
霊石をたよりに 「第二次大本事件後、浪速(大阪)の信者の中には東に去り、あるいは西へと離散していく現状であった。この際、浪速の青年として如何にすべきかと悩み続けた。それにはまず自らの腹が決まらねばならないと考えつつ、ふと思い浮かんだのが、かの御霊石のことである。昭和十年秋季大祭のとき参綾し、さだめしご霊石は穹天閣の内の台の上に安置せられてあるものと思っていたが、室内には見当たらない。奉仕者に尋ねてみると、〃それはお庭に置かれてあります。それ、そのお石でありますよ〃と指さす方を見れば、庭石のように置かれてあった。 しかし、今となって考えて見れば、さりげなく庭石のように置かれていたことに深いご神慮のあったことを感じる。ご神体として祭ってあれば、事件で持ち去られるか、砕かれていただろう。 さて、事件になって考えたのは、穹天閣もみろく殿も皆破壊されたとしても、あのご霊石が安泰なれば、大本は大丈夫である……ということであった。さっそく、そのことを同志と語り、まず参綾しご霊石をたしかめるべきであると一決。元徳島池田分苑長であった故島崎忠俊氏と自分の二名が選ばれて綾部に参拝した。綾部駅に降り立つと、町内は何かざわついている。用心しながら本町まで来て見れば、綾部のお祭りである。島崎氏は〃上治さん、今日はお祭りだ。好都合ですな〃と語りかけたが、油断は禁物と、まず天王平の奥津城に参拝、今日の目的の由を報告祈願をした。いよいよ本宮山に登るべく、お山の北側みろく殿と掬水荘の中間から静かによじ登った。 ちょうど、みろく亭の裏山に出た。みろく亭も穹天閣も基礎の跡だけが残されている。あまり緊張していたためか、くわしい風景などは目に入らない。頭にはただご霊石のことよりほか、何ものも無い。お庭に立って、無事なご霊石を拝した時、ただただ良かったと安堵し、二人は手を握り、言葉もなく、感激の泣き笑いであった。 見届けた上は一刻も早く同志に伝えねばならないと帰りを急いだ。帰阪後、同志を集めて今後のことにつき語り合った。われらの腹はいよいよ定まった。神さまは一厘の仕組みだ。必ず聖師さまは無事お帰り下さる。引っかけ戻しにかかってはならん。他宗に流れ行く者を一人でも引き止めることこそ、われらのご用であると語り合った」 右のような話の後「そのご霊石について、まだ発表していないはずと思うが、当時のことを書き記した小冊子があるから、貴殿にお目にかけます」ということであった。しばらくして「これは西田家秘蔵のものである。決して紛失したり汚しては困る」と言いながら一冊の書類を渡された。見ると、能筆にして墨色も黒々と書き綴られてある。 内容を拝見してみれば、当時のことがそのまま書き綴られてある。三十年前の当時を思い浮かべ、懐かしさと同時に、大本神の偉大さ、尊さを改めて悟ったことである。以下はご霊石について、富士山爆発から大本に納まるまでのいきさつを記した同書の写しである(原文のまま)。
秘めた史料序昭和十八年の霜月中の五日、丹波の国世継王山の麓に住む湯浅仁斎大人に伴はれて浪速の地に住む佐藤紋次郎氏わが寓居を訪れ富士の霊石につき物語り、吾にこれを筆にせむ事を乞うわれ浅学非才なれども神業奉仕の一端ともならば身の光栄これに過ぎずと思いおこがましくも約してここに「霊石の奇蹟」と題して編修することと為す。しかして前半は和田謙太郎氏の口述を、後半は佐藤紋次郎の口述をもって骨子として編む。もし誤りあらむには、文書編者に存する事を特に記し置くものなり。◎のきみが御手に触れなむことあらば 身の幸いは比ぶものなし昭和十八年十一月十五日西田豊太郎 識
(原文のまま)霊石の奇蹟梅の花万葉集三の巻(望不尽山)山部赤人の歌に天地の分れし時ゆ神佐備て  高く貴き駿河なる布士の高嶺を天の原 振放見れば度る日の蔭も隠ろひ照月の光も 見えず白雲も伊去はばかり時自久ぞ雪は落ける語つぎ 言継ゆかむ不尽の高嶺は布士の山ひとつある物と思ひしに かひにも有りてふ駿河にもありてふ源 光行の歌富士の嶺の風にただよふ白雲を 天つ少女の袖かとぞ見る
和田謙太郎(元判事)談話大阪市西区土佐堀通り三丁目三四一、木花咲耶姫命之霊石富士噴火の歴史(原文読み下し)今より丁度千百四十二年前の延暦二十一年一月元旦に富士山大爆発せる時、山嶺より八里離れた山梨県南都留郡明見村舟久保の庭前へ霊石飛来降下したので、同家では「木花咲耶姫の御神霊」として邸内に社殿を建て奉斎し、爾来子子孫孫氏神の如く、崇敬し祭祀怠りなく仕え奉り、また村人も参拝していたのである。(恒註 平安時代末に成立した史書『日本紀略』に、延暦十九年に噴火が八〇〇年旧三月十四日から四月十八日までほぼひと月続いたこと、噴煙のために昼でも暗く、夜は噴火の光が天を照らし、雷のような鳴動が聞こえ、火山灰が雨のように降ってふもとの川が紅色に染まったことが記述されている。同じく『日本紀略』に、富士山が噴火して砂礫があられのように降ったことを、駿河国と相模国の国司が延暦二十一年正月八日(八〇二年二月一三日)に報告してきている(HP 富士山歴史噴火総解説小山真人 静岡大学教育学部総合科学教室)。 ところが、大正八年の頃、ある日、出口聖師は霊夢で、この霊石が明見村の舟久保氏方にあることを知り、当時大本の幹部役員であった豊本景介氏に命じて譲受を交渉せしめられ、再度豊本氏は行き来したが、談合うまくまとまらず、ついにそのままとなっていたのである。 元判事和田謙太郎氏が昭和十年春(三月)=編者注・昭和八年の誤りと思われる=行政裁判所用の為め上京して東京都日本橋区人形町水天宮前の富士屋旅館に宿泊し、大本祝詞を奏上しておると同宿の舟久保氏が和田氏の部屋を訪れ「アナタは大本信者ですか」「そうです」「しからば豊本景介と云う人ご存じですか」「よく存じて居ります」という事から前記の如く先年、豊本氏が彼の霊石に就いて再三交渉した顛末を縷々話されたので、これを聴いた和田氏はその時心中深く期する処あり、自分は大本信者として如何に苦慮するともわが手にて出口聖師の御心を体して、必らず納入せしめんものと思い、幾回となく富士の裾野に往来し家族の方々とも昵懇となり、ついに「舟久保さんアナタは先きに豊本さんに金十万円ならば譲ると仰せられたとお話し下さいましたが、学者であり信仰と云うこともよく御理解のアナタがたとえ冗談にせよ神様御霊代を金銭と替へると言うような言葉を使う事は良いか悪いかは御承知でございますから、そのことについては私は何も申上げませぬが、御霊石に対し、ただ今はアナタをはじめ村人の数名のみ礼拝しているだけでありまするが、もし是を大本へ納められると大本信者のみならず支那満洲は愚か世界中の何百万何千万と云う多くの人々が御加護を願ふこととなり、まして貴家は最も厚き御加護を受けられる事は勿論であります。 御神霊と致しましでもモットモット広い広い処へお出ましになりたいと拝察致しますから、どうか私にお譲りくださる訳にはまいりませぬか。私は心だけの御礼の印までに包み金として差上げますから、その金高などは私にお任せ下さいまして何卒お譲り下さるよう御願い致します」と種々言葉を尽し熱心に頼まれたので、舟久保氏も同氏の熱意にほだされ、ついに大本へ納める事を承諾せられたのである。よって和田氏はこれを運ぶにいろいろと苦心されたが、結果的には遠路つつがなく丹波綾部町の鶴山(本宮山)の上に安置されたのである。 この霊石が無事に納まり、出口聖師は非常に喜ばれて、ご霊石に向って「よう来た、よう来た、早う来たかったであろう」と言って、指一本でなでられると、重量百八十貫もある石がコトコトと動いたから並いる人も驚いたと云う事で、ある人のごときはこれは台石の上に円い石が乗っかっているからだろうと云って両手で押されたが、びくとも動かず、今更ながら出口聖師の偉大なる神力に驚嘆したと云う(恒註 関係者の証言では、今までは五人がかりで何とか石が動いたということ)。 霊石を鶴山山上(天津磐境)に安置されしが、十二月八日未明大本事件勃発し、神殿その他の施設ことごとく破壊されたから、かの霊石はその後如何なりしやと案じていたところ、幸いに今尚無事山上に在ることを知り安堵したのである。
松のひかり孝明天皇様の御寝筆の中に紀元二千六百年(辰年)トナレバ、本山(モトヤマ)に神光(ヒカリ)ガ出ル コノ神光ハ永遠ニ消ユルコトナク光リト倶ニ皇国ハ万々歳デ天壌無窮デアルとあり又切紙神示にも一、紀元二千六百年、タンバ、アヤベ本山に神のヒカリ(神光)出る 又マコトの トボル ナガクツヅク アクマの ナクナル ヲシマイ と現れるので、大阪市南区高津八番町七番地に住む佐藤紋次郎氏は、本山(モトヤマ)とは何処ならんと思い、昭和十六年紀元二千六百一年のある日、神示のままに丹波の弥仙山、世継王山、本宮山の三山のうち神光の出現せる場所はその何れかに相違なしとてそれを捜しもとめんものと思い、弁当や草履を相当に用意して大阪より徒歩でまづ綾部を指して参ったのである。(恒註 日本で「紀元」と言った場合には、普通キリスト生誕の年を元年とするキリスト紀元西暦を指しますが、戦前の日本では「紀元」とは一般的に神武天皇が即位したとされる年を元年とする神武天皇即位紀元「皇紀」を指していました。ここでは神武天皇紀元を指します) 途中、綾部も間近に迫りし、彼の思い出多き須知山峠にて息を休め考うるに本宮山、世継王山は最早近々に見えるから、もしこのうちに神光現われるならばきっと綾部町の住民で誰かが見たるに相違ないと、しからばこの地に永く住める最も古き大本信者を訪ねるが最も上策なりと思い、昵懇なる綾部町上野の湯浅仁斎氏を訪問すること為したり。 幸い湯浅大人も在宅なりし故、訪問の要旨を語れば、「佐藤さんそれに就いて私に心当りがある。この事に違ひない」と湯浅大人は大要左の如く話されたのである。
神光を発する富士山の霊石 昭和十四五年春の頃の事である。谷前玉子さんの借家に住んでいる奈良県高市郡高取町から綾部へ炭焼に来ている米田重と云う人の母親で、おノブと云う当年八十一才になるお婆さんがある夜夢を見た事がある。それは本宮山に燈篭が建っていて火が点り、その燈篭を二足の蛇が巻いておって、上の方にいる蛇は空のような色で、下の方の蛇は黒い色であったと云う事である。その夢を見てからは毎日実際に本宮山に火が点り、その火は大きな盥位で真赤で奇麗な御光が射しております。あれは何と云う訳でしょうか判断して下さいと、たびたび谷前へ来て五月蝿ほど訊ねるのでお玉さんが拙宅へ来て私に判けてくれと云われるから、自分は心に思い当る事もあり、またおノブ婆さんだけでなく郡是製糸会社の社員の佐々木さんの奥さんも、ある夜十二時頃子供の小便をやろうと思い戸外に出たら、本宮山の上に火の光るのを見て喫驚して、それからは夜分には恐くて外出をようせぬと言っておる事も聞いておったので、谷前さんの家でおノブ婆さんに来てもらって尋ねると、前に話したような次第であるから、それではお婆さんアナタは光りの出る場所は何処やと云う事を確かに知っていますかと聞くと「判っておりまする」と言うので自分の妻小房とお玉さん、おノブのお婆さんの四人連で山へ登ったのである。 その時おノブさんは用意周到にお洗米や御酒の御供物を持って行くではありませんか……それには私も感心致したのである。いよいよ本宮山の上へ登ると、お婆さんは「此処です。彼のお石からお光が出ております」と言ってある円い石を指して教えてくれたのであった。 そこはちょうどそのお石を中心として、前には御供えする台に恰好な平な石があり、左右両側と後ろにほどよく屏風で囲ったように三個の大きな岩が置かれであるでは在りませんか。お婆さんは前面の平な石の上へ持参のお米や御酒をお供へして平蜘蛛のように平伏して礼拝しているから、自分等もまたお礼をしたのである。そしてお婆さんの言うには「両脇に左大臣右大臣と云う風に二柱の神様がおられて御守護遊ばしておいでになりまする」と。そのお石と言うのは佐藤さん、自分がもしや彼の石では無いかと思っておった通り、アナタも御存知の彼の富士山から出たと云う霊石でありますと……。 佐藤氏は、ああ、それに相違ない、自らのもとめる神光はこれであると、大層喜び、最早他を捜すに及ばずとて、勇んでこの度は汽車で帰阪したと言う。編者の歌本宮の山のお宮は毀されて いま本山となるぞうたてき(恒註 本宮山の神殿が官憲に破壊されることにより、本宮山から宮がなくなり、一九四〇年には宮のない本山となったことを孝明天皇は切紙紙示などにより知っていたのでしょう) このごとく、孝明天皇様の御宸筆なる切紙神示の一言一字の間違いのなきは、唯々驚嘆するばかりであると同氏は語ったのである。結 以上記せるものにて畏くも孝明天皇の御宸筆及び神示は一字一句の毛筋の横幅ほども相違なく、予言どころか確言ばかりなるを立証し、また出口聖師の偉大なる神力をたとえ片鱗なりとも知るを得ば、編者の幸甚これに過ぎざるものあり、しかしてこの霊石につき古より今に至るまで脈々としてあるものの、繋りあるを感得せられるのである。もし大本神諭をも持ち来りて対照する時は尚一層明確に判らむと思えども、余り長文になる嫌いあるを以て、これにて筆を擱くことと為す惟神霊幸倍坐世昭和十八年十一月十五日 終附記、昭和十八年十二月十五日、綾部に於て此書を出口聖師に御覧に供したる時、聖師はこれは彼の古事記に記載せる天の一つ火であると申されたり、依ってここに附記す 綾部鶴山富士の霊石にしても、天恩郷月宮宝座の天拝石にしても、〃一厘の仕組〃そのままに、十年間汚されること無く、日月そろってお山に神鎮まり給うこそ、実にめでたき極みであると思うのである(引用文終了)。恒 『松のひかり』は、『たまほこのひ可里』とともに、湯浅仁斎、あるいは西田豊太郎より出口王仁三郎聖師に献納されたことを、西田豊太郎の娘、中井和子氏より確認しました。『たまほこのひ可里』は数表などとともに、土井靖都氏に預けられ、逝去後、遺品として出口和明が貰い受けました。 『松のひかり』も同様、土井氏が預かったものと思いますが、その所在はわかりません。『たまほこのひ可里』や数表など孝明天皇に関わる一連の証拠は、二〇一〇年八月十四日の熊野館火災の前日、翌日以降に火災になるという胸騒ぎがあり、安全のため母の承認を得て運び出しました。したがって現存します。
天のひとつ火とは伊邪那岐の燈火か ここで私は推理します。聖師の示された「古事記の天の一つ火」とは何を示すのでしょうか。一つ火とは、三省堂『大辞林』を引くと、「一本の木でともす火。孤灯」とあります。用例として、「ー燭して入り見たまひし時/古事記(上訓)」とありました。その部分の引用をします。 伊邪那美命が火の神カグツチを産むことで伊邪那美命は亡くなってしまい、伊邪那岐は十拳剣でカグツチの首を刎ねました。伊邪那美を忘れられない伊邪那岐は、伊邪那美を連れ戻すために黄泉の国を訪ねましたが、伊邪那美はすでに黄泉の国の食べ物を食べたあとで、もとの国には戻れない身となっていました。伊邪那岐の熱意により黄泉の神に相談することにしました。その際、伊邪那美は自分の姿を見ないようにいい残して立ち去りますが、伊邪那岐は約束を破り、その結果、腐敗して蛆の湧いた、八柱の雷神が湧き出す、恐ろしい伊邪那美の姿を見てしまいました。 これを見た伊邪那岐はとっさに逃げだし、怒った伊邪那美は黄泉醜女に後を追わせたのです。背後から迫る追っ手に伊邪那岐は気づき、髪飾りや櫛の歯を投げつけて撃退をし、雷神が大軍を率いて迫ると、黄泉比良坂の麓に生えていた桃の実を投げつけて退散させました。 最後の妹の伊邪那美命が自ら追って来たので、ここに千引の岩を黄泉比良坂に引き塞えて、その石を中に置きて、千引の岩をはさみ立って、事戸を渡すとき、伊邪那岐命は、「愛しき我が命よ。私は地上の人間を一日に千人殺します」と恨みを込めて言い、伊邪那岐は「それなら一日に千五百人の子を産ませよう」と応答、二柱の神は永遠の決別をしました。黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と言います。 なお、この『古事記』に記載された、事戸渡しの時の伊邪那美命は、『霊界物語』に照らし偽者です。 さて、暗い黄泉国(夜見の国にも通じますね)で伊邪那岐が左の御角髪に刺せる湯津津間櫛の男柱一個取り開きて、伊邪那美命を見るために灯した火が「一つ火」なのです。 「出口聖師に御覧に供したる時、聖師はこれは彼の古事記に記載せる天の一つ火であると申されたり依ってここに附記す」のように、「天の一つ火」とは書かれていませんが、このことと推測します。 大正十年二月十二日に第一次大本教弾圧事件が始まり、同年新十月二十日午後一時に天の御三体の大神を祭った至聖所である本宮山神殿の破壊が開始されました。「天の一つ火」であったとすれば、当時の弾圧により破壊し尽くされた綾部は、一時的に黄泉の国のようになったと言えるのかもしれません。
霊界の情勢 日本国創建神話 『霊界物語』一巻、みろくの第一八章 霊界の情勢 通算一八章を引用します。 さて天界は、天照大御神の御支配であって、これは後述することにするが、今は地上の神界の紛乱状態を明らかにしたいと思う。今までは地上神界の主宰者たる国常立尊は、『表の神諭』に示されたごとくに、やむを得ざる事情によって、引退され給うていられた。 それに代って、太古において衆望を担うて、国常立尊の後を襲いたまうた神様は、現在は支那といふ名で区劃されている地域に、発生せられたる身魂であって、盤古大神という神である。この神はきはめて柔順なる神にましまして、決して悪神ではなかった。ゆえに衆神より多大の望みを嘱されてたまうた神である。今でこそ日本といい、支那といい露西亜といい、種々に国境が区画されているが、国常立尊御神政時代は、日本とか外国とかいうような差別は全くなかった。 ところが天孫降臨以来、国家という形式ができあがり、いわゆる日本国が建てられた。従って水火沫の凝りてなれるという海外の地にも国家が建設されたのである。 さて、いわゆる日本国が創建され、諸々の国々が分れ出でたるとき、支那に生まれたもうた盤古大神は、葦原中津国に来たりたまひて国祖の後を襲ひたまうた上、八王大神といふ直属の番頭神を御使いになって、地の世界の諸国を統轄せしめられた。 一方いわゆる外国には、国々の国魂の神および番頭神として、国々に八王八頭といふ神を配置された。ちょうどそれは日本の国に盤古大神があり、その下に八王大神がおかれてあったようなものである。日本本土における八王大神は、諸外国の八王八頭を統轄し、その上を盤古大神が総纜したまいましたが、八王八頭は決して悪神ではない。天から命ぜられて各国の国魂となったのは八王であり、八頭は宰相の位置の役である。こういう風なのが、今日、国常立尊御復権までの神界の有様である。 そうこうするうちに、露国のあたりに天地の邪気が凝りかたまつて悪霊が発生した。これがすなわち素盞嗚命の言向和された、かの醜い形の八頭八尾の大蛇の姿をしていたのである。この八頭八尾の大蛇の霊が霊を分けて、国々の国魂神および番頭神なる八王八頭の身魂を冒し次第に神界を悪化させるように努力しながら現在に至ったのである。 しかるに一方印度においては、極陰性の邪気が凝りかたまって金毛九尾白面の悪狐が発生した。この霊はおのおのまた霊を分けて、国々の八王八頭の相手方の女の霊にのり憑った。 しかして、また一つの邪気が凝り固まって鬼の姿をして発生したのは、猶太(ユダヤ)の土地であつた。この邪鬼は、すべての神界並びに現界の組織を打ち毀して、自分が盟主となって、全世界を妖魅界にしようと目論みている。 しかしながら日本国は特殊なる神国であって、この三種の悪神の侵害を免れ、地上に儼然として、万古不動に卓立しておることができた。この悪霊の三つ巴のはたらきによって、諸国の国魂の神の統制力はなくなり、地上の世界は憤怒と、憎悪と、嫉妬と、羨望と、争闘などの諸罪悪に充ち満ちて、ついに収拾すべからざる三界の紛乱状態を醸したのである。 ここにおいて、天上にまします至仁至愛の大神は、このままにては神界、現界、幽界も、ともに破滅淪亡の外はないと観察したまい、ふたたび国常立尊をお召出し遊ばされ、神界および現界の建替を委任し給うことになった。そうして坤之金神をはじめ、金勝要神、竜宮乙姫、日出神が、この大神業を輔佐し奉ることになり、残らずの金神すなわち天狗たちは、おのおの分担に従って御活動申し上げ、白狐は下郎の役として、それぞれ神務に参加することになった。 ここにおいて天津神の嫡流におかせられても、木花咲耶姫命と彦火々出見命は、事態容易ならずと見たまひ、国常立尊の神業を御手伝い遊ばすこととなり、正神界の御経綸は着々その歩を進め給いつつあるのである。それとともにそれぞれ因縁ある身魂は、すべて地の高天原に集まり、神界の修行に参加し、御経綸の端なりとも奉仕されることになっておるのである。 そもそも太古、葦原瑞穂中津国は大国主命が武力をもって、天下をお治めになっていた。天孫降臨に先だち、天祖は第三回まで天使をお遣しになり、ついには武力をもつて大国主命の権力を制し給うた。大国主神も力尽きたまひ、現界の御政権を天命のままに天孫に奉還し、大国主御自身は、青芝垣にかくれて御子事代主とともに、幽世を統治したまうことになった。 この時代の天孫の御降臨は、現在の日本なる地上の小区劃を御支配なし給うためではなく、実に全地球の現界を知食すための御降臨であり給うた。しかしながら未完成なる世界には、憎悪、憤怒、怨恨、嫉妬、争闘等あらゆる邪悪が充満しているために、天の大神様の御大望は完成するにいたらず、従って弱肉強食の修羅の巷と化し去り、地上の神界、現界は、ほとんど全く崩壊淪亡しやうとする場合に立ちいたったのである。 かかる情勢を見給ひし天津神様は、命令を下したまひて、盤古大神は地上一切の幽政の御権利を、艮金神国常立尊に、ふたたび御奉還になるのやむなき次第となった。ここに盤古大神も既に時節のきたれるを知り、従順に大神様の御命令を奉戴遵守したもうた。しかるに八王大神以下の国魂は、邪神のためにその精霊を全く汚されきっているので、まだまだ改心することができず、いろいろと悪策をめぐらしていたのである。なかには改心の兆しの幾分見えた神もあった。 かくの如くにして国常立尊が、完全に地上の神界を御統一なしたまうべき時節は、既に已に近づいている。神界の有様は現界にうつりきたり、神界平定後は天津日継命が現界を治め給ひ、国常立尊は幽政を総纜したまい、大国主命は日本の幽政をお司りになるはずである。しかし現在ではまだ、八頭八尾の大蛇、金毛九尾の悪狐および鬼の霊は、盤古大神を擁立して、幽界および現界を支配しようと、諸々の悪計をめぐらしつつあるのである。 しかしながら従順な盤古大神は、神界に対するかかる反逆に賛同されないので、邪鬼の霊はみづから頭目となり、赤色旗を押立てていろいろの身魂をその眷族に使いつつ、高天原乗取策を講じている。そこで天よりは事態容易ならずとして、御三体の大神が地上に降臨ましまして、国常立尊の御経綸を加勢なしたまうことになり、国常立尊は仮の御息所を蓮華台上に建設して、御三体の大神様を奉迎し給うこととなるのである。したがって、御三体の大神様の御息所ができたならば、神界の御経綸が一層進んだ証拠だと拝察することができる。(大正一〇・一〇・二〇 旧九・二〇 谷口正治録)
地の高天原乗っ取り策 さて、出口王仁三郎聖師は、「丹波は昔全部が湖水であり、本宮山はその水面に頂上だけ出ていた。太古に素盞嗚尊が出雲から出てこられた時、この本宮山の上に、母神である伊邪那美尊をお祀りになり、熊野神社と名づけられた。その後、素盞嗚尊は紀州方面にご進発になり、紀州にもまた神宮、本宮、新宮という熊野三社をお祀りになったのである」と語られました。 当局は、その本宮山の山頂の神殿を、それが伊勢神宮の社殿と同じ神明造りの形式で明治憲法制定前の大蔵省達一一八号に違反し不敬であるから、破壊せよとも命じました。 この文脈で言う高天原乗取り策とは、同文の中の「因縁ある身魂は、すべて地の高天原に集まり、神界の修行に参加し、御経綸の端なりとも奉仕されることになっておるのである」という記述から、綾部の、素盞嗚尊が伊邪那美尊を祀った地、綾部「地の高天原」、乗取り策となります。そして、その乗取りを図るアクマとは、「霊界の情勢」よりみれば、盤古大神を擁立して、赤色旗を押立てて、いろいろの身魂をその眷族に使ってきた。すなわち、アクマとは「大日本帝国支配者」そのものと見ることができます。赤色旗は天皇旗であるという仮説をすでに呈示しています。
閑話休題 中国神話での宇宙開闢の創造神、盤古。盤古が起きれば昼、眠れば夜とされますが、盤古の死後に、左目が太陽、右目が月になった。古事記では、伊邪那岐尊が左目を洗った時に太陽神の天照大神、右目を洗った時に月読命、鼻を洗った時にスサノオノミコトが生まれた。エジプト神話では、月は天地万物の創造主ラーの左目で、右目が太陽、鼻から出るのは空気、そして口からはナイル川が流れ出たという……。「眼」という文字は、左に目、右に艮ですね。これらの伝説は相互に関わりがあるのか、艮の金神・国常立尊の後を襲いたまうた神様盤古大神とはどの神を指すのかは、これからの説くべき謎と考えます。 またこの文章の中で、「白狐は下郎の役として、それぞれ神務に参加することになった」とありますが、この白狐とは『霊界物語』での旭(日)明神であり、旭形亀太郎がそのひとつの現れを示すものではないかと私は考えています。その理由については別の機会に記したいと思います。神の仕組みどおり、大日本帝国は滅びたのか? さて、「マコトのヒカリがトモ(ボ)リ ナガクツヅク アクマ ヒカリがナクナル」との孝明天皇の遺勅を解するならば、大本教事件の後の一九四〇年は、時の大本自体が事実上解体していたのですから、孝明天皇が大本の出口聖師、なおをアクマと見ていたという推論も成り立ちます。しかし孝明天皇の遺勅は、すでにご紹介ずみですが、次のようなものでした。一、救世主は「火」霊と「水」霊の二大神であって、アジアの日本タニハアヤベに出口ナカ、出口ヲーワニと顕現する。一 ヲーワニ神のオヤク 二千六百年で七十のトシ、神が見止めて神が守る一 タンバアヤベ 出口ナクセバ日本はホロブ一 大日本の三山はミセン(弥仙山)、ヨツオ(四継王)山、ホン九(本宮)山一 ヨツヲ山は世ヲツグカミ山、寺山へコム、十里四方 神のミヤコトナル、一 日本のミ九サ(三種)の神タカラとヒノマルのミハタをベーコクは奪うタクミユダンスルナ一 日米戦の状態は、天はヒコーキ、ヒコー千、バクダン、地は旭のミハタ、大ホ、タン九、ウミヲクグルクマノフネ 孝明天皇は、出口オーワニ(王仁三郎)とナカ(直)を救世主とし、「タンバアヤベ 出口ナクセバ日本はホロブ」と宣言しています。ゆえに両者は孝明天皇にとり、「救世主」であって「アクマ」ではありません。 「一九四〇年に孝明天皇の遺勅を出口王仁三郎聖師に渡すことができれば、日米の戦いについて、◎の拇印を持つ七十トシの男、出口ヲーワニが何とかしてくださる」とするのが孝明天皇の遺勅の骨子でした。◎の拇印を持つ聖師に渡ることで、切紙神示で作った「日本」という文字が完成します。実は、私の検証では天皇の「皇」という文字が切紙神示で完成するのにも、聖師の◎の拇印が必要なのです。一九四〇年に、日本の表舞台から出口王仁三郎は獄中にあったため消されていた。「タンバアヤベ出口ナクセバ日本はホロブ」は本当だった。
大本教事件は「千歳の鶴(理想世界)の替玉」 旭形亀太郎は亡くなる前に佐藤紋次郎に次の言葉を遺したことはすでに記しました。……それからこの玉鉾神社には大変な事が起る。なお綾部の大本にもここと同様大変な事になるから、よく覚えておいて貫ひたい。…… 大変なことが起こる、旭形は大本教事件が起こることを、孝明天皇の遺勅から見抜いていたのだと思います。「邪鬼の霊はみづから頭目となり、赤色旗を押立てていろいろの身魂をその眷族に使いつつ、高天原(地の高天原、綾部の大本か)乗取策を講じている」遺勅の文脈から、「アクマのナクナル オシマイ」の「アクマ」とは、「ベーコク」と読めますが、『霊界物語』の霊界の情勢と、孝明天皇が預言したと思われる、「綾部の大本にもここと同様大変な事になる」から考えると、亡くなってしまう「アクマ」とは、「大日本帝国」、あるいは赤色旗を押し立てた「邪鬼の霊」を使う為政者そのものではなかったかと考えます。大正八年一月二十七日 現はれてまもなく隠るゝ西の空、二日の月は上弦の、敏鎌の如き鋭鉾を、暫し隠して武蔵野の、草木もなびく時津風、時を松風梅ケ香の、薫る小さき神の森に、三五の月は澄渡り、谷の戸開けて鴬の、声も長閑な足御代の、竹の園生の清くして、功績も太く村肝の、心の奥は朗らかに、皇太神に捧げ奉り真心の、千歳の鶴の替玉と、仕えて誉れを酉の年、四十四度の紀元節、五六七の神代の初春ぞ、正しき友の寄り集い、雄々しき清き活動に、助けの神と表はれて、雲井に高き高松の、八重の玉垣いと赤き、心の色は日月の、光に疑ふ尉と姥、鶴は千年亀万、東邦朔の九千年、栄え三浦の王統家は、日夜久睦まじく神国の、神世の姿備はりて、三千世界の太平を、松竹梅の経綸ぞよ。 辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組。天津国玉、国津御魂、石凝姥の神御魂、金銀竜の神馬の御魂、高天原に納まりて、天下太平、千秋万歳万々歳、七福神の楽遊び、豊受の神の豊国の、主と現はれ真寸鏡。『神霊界』大正八年二月一日号 この歌は、大正十年二月十二日未明の大本弾圧の預言歌です。王仁三郎の預言をはずすために、紀元節の二月十一日に弾圧が予定されていたのを一日ずらしたとのこと。しかし出口王仁三郎聖師への勾引状の発らせれたのは二月十一日だったと伝わっています。 辛酉、四十四度の紀元節(二月十一日)は、大正十年が神武天皇即位の辛酉年(紀元前六六〇年)から四十四回目に当たり、その年に弾圧があるという預言でした。この歌の詳細な解説は別の機会に委ねるとして、注目すべきは「千歳の鶴の替玉」という言葉です。大道氏の見解を引用します。 右文中の「千歳の鶴の替玉」とあるのは、理想世界の建設には大正十年の弾圧が、すなわち替玉として十字架の贖罪がなければならぬということを啓示されたものであり、千歳の鶴というのは、大本でいう松の世、すなわち理想世界の替え言葉である。すなわち鶴は一般的に松に関連して松の代名詞に用いられているからである(大道幸一郎『大本の出現を證すヨハネ黙示録』八幡書店) 私は鶴には「鶴山」綾部の意味も含まれているのではないかと考えます。第一次大本教事件は、梅田、第二次大本教事件は松江、第三次大本教事件は竹田を発火点として起こりました。松江の「松」にも贖罪の意味が込められているのかもしれませんね。松毎に千歳の鶴の巣ぐひたる  この清丘は神の御舎(「玉野の神丘」『霊界物語』七四巻一九章)。思へば嬉しき今日の日も 尊き神の守ります 稜威の仕組の開け口 堅磐常磐に神国の 栄えを待つや高砂の 島に老たる一つ松 千歳の鶴の永久に 何時も巣籠る芽出度さは やがて開くる五六七の世 亀の齢の万世も……(「誠の告白」『霊界物語』二八巻一七章)。マコトのヒカリがトモ(ボ)リ ナガクツヅク アクマ ヒカリがナクナル 孝明天皇は大本と日本、世界の型の仕組みを見抜いていたのか。一九四〇年、日米戦争の分水嶺を預言した孝明天皇。出口王仁三郎聖師は一九四〇年に遺勅を受け取らない(ただし、一九四二年に佐藤紋次郎から『たまほこのひ可里』を受けとる)ことで、日米戦争、「アクマ」と「アクマ」の戦争を神の意志に委ねた。その神の意志を示す記述があります。 昭和二〇年八月十五日、この日は私(父 出口和明)の誕生日だった。祝いに集まってくれた家族やいとこたちとともに、祖父を囲んで玉音放送を聞いた。王仁三郎は「マッカーサーれた」と笑い飛ばすが、私はぷいと立って家を飛び出し、近くの寺川の水にもぐりこんで一人泣いた。 国賊王仁の子の涙なぞ、誰にも見られたくなかった。〃大本教事件〃は、「……その日の夕刻、王仁三郎は「こうならぬとこの神は世に出られぬ」ともらしたが、その翌日、自宅の離れでくつろぎ煙草をふかしながら、「王仁は興奮して寝られんのじゃ。筆先に陣引きするとあるやろ」と側近に語ったと述べている。マッカーサーが日本に進駐してくると、王仁三郎はその意義を大掃除にたとえて説き明かす。「世界を一軒の家に例えると、日本は家の中の神床にあたる。ところがその神床が非常に汚れ塵埃がたまっているので掃除せねばならぬが、日本の神床を日本人自身にやらせると、血で血をきはせぬ。そこで神は、マッカーサー元帥という外国出身の荒男を連れてきて、掃除をさせられるのや。ところが神床はもともと神聖なところなので、掃除をするにしても絹の切れでこしらえたハタキとか、紙製のきれいなハタキとか使って、掃除せねばならぬ性質のものだが、そこは外国出身の荒武者のことだから、竹の荒箒を使って神床を掃除するような時も起ころう。神床のゴミをはたくと、次は座敷の掃除が順序じゃな。世界の座敷はどこかというと、朝鮮支那になる。そして掃除は座敷をもって終わるものではない。庭先の掃除か必要になってくる。世界の庭先とは、ソ連や米国に当たる。」(出口和明『出口王仁三郎・なおの預言確言』みいづ舎) 今月号は鶴山霊石の神秘、『古事記』に記されたる天の一つ火・神火について記載しました。 大本が「千歳の鶴の替玉」、理想世界への贖罪として大日本帝国による弾圧をあえて受け、それを型として世界に映し、太平洋戦争の型とすることで、大日本帝国は滅亡し、日本の軍備は取り払われ、世界平和への魁となった。太平洋戦争によってアジアの欧米諸国の植民地は日本に奪取され、その日本が敗戦を迎えることにより、アジア諸国は独立、アフリカ独立の呼び水になった。 ただし、出口なおの預言の実現をさせないため、大本弾圧前に聖師が現実の世界で、戦争を避け、世界を平和に治めるためのさまざまな大陸工作を仕掛けたことは記録にあります。それはまだ研究途上です。 非常に不謹慎な言い方ですが、私は日本が太平洋戦争に勝つよりも、米国に負けて本当に良かったと思います。日本の意思がどこにあったにせよ、アジア・アフリカ諸国が独立できて良かったと思っています。今の自由と平和を、それは識者からみれば見せかけのものかもしれないけれど、享受できている……。※印は筆者の説明文