月の出を待つ平安京最後の天皇、 

孝明天皇の遺勅と救世主 出口王仁三郎聖師  

明治維新は現界の第一の岩戸開き編  出口和明            

大阪中央分苑 出口 恒
 本連載ではいくつかの反響をいただいております。あついご支援があり、また何度も読み返してくださる方がおられます。一方、「神の国誌で明治維新や孝明天皇にこだわる意味をもう一度、誌上で説明してください、よくわからない」という意見も一部の方からはあります。 重要点が三点ありますが、出口和明の誌上講座(十八)「明治維新は現界の第一の岩戸開き」『神の国』誌一九九八年十月号を援用し、私の意見を加えながらの説明に代えたいと思います。合わせて、先月号でお約束した、孝明天皇暗殺現場について、松重 楊江(『二人で一人の明治天皇』たま出版)から引用したいと思います。但しその真偽については皆さまでご判断ください。また私は「至聖団」『霊界物語』六十四巻上の記述等に鑑み、神の仕組みとして明治維新を肯定的に考えています。ただ、事実は公開すべきだったと考えています。 はじめに『霊界物語』冒頭の「序」から、『霊界物語』略述・開示の目的を記します。冒頭の「天の岩戸開き」にご注目ください。霊主体従子 序(物語一巻一章) この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞嗚尊が地球上に跋扈跳梁せる八岐大蛇を寸断し、ついに叢雲宝剣をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし、五六七神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまひし太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現われ来ることも、あながち否み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。大正十年十月廿日 午後一時 於松雲閣 瑞月 出口王仁三郎誌
二度目の天の岩戸開き和明 私は切紙神示を本誌に連載中、ずっと心にかかっていたことがあってね、私の頭の中でモヤモヤしていたのです。それが最近やっとまとまってきた。問 何ですか。和明 実は大本教学の基本に関することなので、一つの問題提起として受け取っていただきたい。 出口直開祖の筆先の核心はいうまでもなく「三千世界の立替え立直し」だし、別の言葉で云えば、「天の岩戸開き」です。つまり「立替え立直し」と「天の岩戸開き」は共通項でくくられる。ところで筆先では、「二度目の世の立替え」とか「二度目の天の岩戸開き」という言葉もしばしば使われる。明治三十八年旧四月二十六日  三千世界の世の立替えと申すのは、世界の人民の身魂の立替えのことであるぞよ。世界の身魂がみな総ぐもりになりてしもうて、言い聞かしたくらいには、改心のでける身魂はないようになりておるぞよ。むかしのみろくの世は結構でありたなれど、暮れていきよると、身魂にくもりがでけてきて、天照皇大神宮どののおりは、ここまでにもなかりたなれど、こんどの二度めの世の立替えは骨がおれるぞよ。まえの天照皇大神宮どののおり、岩戸へおはいりになりたのを、だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸開くのがうそを申して、だまして無理に引っばり出して、この世は勇みたらよいものと、それからは天の宇受売命どののうそが手柄となりて、この世はうそでつくねた世であるから、神にまことがないゆえに、人民が悪くなるばかり。 こんど沓島へ行きたのは、沓島が竜宮であるということをあらわせに連れ行きたのでありたぞよ。竜宮の乙姫どののお住まいどころは、ここということをあらわせに連れまいりたのであるから、三人の行はだいぶ厳しき行でありたぞよ。沓島の荒海で行のあがりでありたゆえ、ご苦労でありたぞよ。問 開祖の沓島ごもりから帰って間もなくの筆先ですね。和明 そうです。沓島ごもりは明治三十八年五月十四日から二十五日までの十二日間で、大槻伝吉・後野市太郎を供にして日露戦争の必勝祈願に行かれた。問 必勝祈願?……平和祈願じゃなかったですか。和明 それはきれいごとで、実際は必勝祈願です。つまり筆先でいう「露国の極悪神」との国家の命運を賭けての戦いだから開祖の思いは日本の必勝ですよ。問 そういえば、沓島ごもりから帰られて二日後の五月二十七日から二十八日にかけて日本海海戦が行われ、敵に壊滅的打撃を与えるのでしたね。開祖の念願がかなった――和明 引用の筆先の書かれた旧四月二十六日は新暦では五月三十日、開祖の高揚したお気持ちが伺える。 ところで霊界と現界とは合わせ鏡で、まず霊界で起こったことがこの現界に現れる。引用の筆先でも判るように、地上霊界での大事件は国祖隠退神話です。それが地上現界に写ると、記紀神話の伝える天の岩戸開きですね。開祖にかかる神は、それを第一の岩戸開きと称して、きわめて批判的です。天の宇受売命のヌード・ダンスで中にこもる天照大神をだまし、天照大神が細めに戸を開けて外をのぞいた時に天の手力男命が怪力で岩戸を開いた。だから第二の岩戸開きはその失敗を繰り返してはならないということです。天の岩戸開きに対する艮の金神の指摘はさすがに鋭いですね。和明 これまで日本人は神話として受け入れるだけでしたものね。ところで『神霊界』大正十一年十月二十五日号に「松葉の塵」と題する小文が掲載されています。それは八島別の名で発表されていますが、これは聖師の世を忍ぶ仮の名だと思う。問 どうしてですか。和明 教団の機関誌『神霊界』は第一次大本事件でしばらく休刊して、大正十一年十月十日を「復活号」として再刊します。当時、聖師は裁判中で、教団の役職から隠退して機関誌への論文も遠慮していられた。だから仮名で発表されたものでしょう。『霊界物語』に登場する神名を聖師以外にペン・ネームで使用できるとは思えないし、教義の根幹にかかわる重要な内容の発表は聖師以外に許されない。ですから、八島別が聖師から聞いたという体裁をとっている。とにかく転載してみましょう。○霊界物語の時と場所が解らぬという人が多い。之は誠にもっともの事と思う。ある人はこれは天の霊界神界の事であるといい、ある人は昔の神界の事であるといい、ある人は幽界の事であるといい、何れにしても解らない。○そこで私は四ケ月以前にこの事を先生(註・聖師のこと)に尋ねて見た○すると先生は神界幽界現界に過去現在未来があってつまり全体で九界となる。其中霊界物語は太古における現界を主として神界幽界との相互関係を述べたものであると申された。○すると霊界物語は有史以前の太古における地球上の人間界に起りたる事実を主として記したものであるといえる。但し当時の人間は今の人間と全然等しからず故に之を神代と言った。昔の事と今の事とを一緒に書いたからとて何も時間空間を超越した訳ではない。○つまり今の世は大現在の事であってこの大現在中に過去現在未来がある。吾人が読んだ歴史はこの大現在の過去の事実である○しかしてその有史以前に大過去の世があり、その大過去中に過去と現在と未来とがある。歴史は繰り返す意味において大過去の過去は大現在の過去に映り、大過去の未来は大現在の未来に映る訳である○また同様にして大未来があって之にまた過去現在未来があり、この時が真の立替立直されたる三千世界の五六七の神代と思はれる○先生が之はよい質問であると、直ちに筆を執って書かれたのが第六篇(註・第六巻)の序文松葉の塵である。(八島別)※恒註 図一と図二は聖師の文章から恒が仮に作図したものです。図三は霊界物語ガイドブックが出典で木庭次守先生が作成された、時代別活動表の一部です。天の岩戸開きの時代的位置づけが記されています。問 実に雄大な時間観ですね。世紀末とかなんとか、わずか百年ぐらいの単位でワイワイ言っているのが情けなくなる。和明 そこで私の問題提起は、地上現界で起こった第一の岩戸開きは遠い神代の物語だから、大過去のことです。とすると、大過去の出来事は大現在に投影しますから、それは現在の何の事件に当たるのかということです。問 これは大変な問題提起ですね。具体的には、どういうことです? 和明 つまり明治推新こそ、筆先のいう第一の岩戸開きじゃなかったのかと――問 まさか――和明 私自身もこのことに気がついた時には「まさか―」と思った。だが孝明天皇が天皇旗と遺勅を旭形亀太郎に託した時、一九九八年五月号でちょっと触れましたが、皇太子の睦仁親王(孝明天皇の皇子)がいるのになぜという思いが強かった。明治維新には今もって謎の部分が非常に多い。例えば孝明天皇や十四代将軍徳川家茂が暗殺されたという説。それから明治天皇は二人いたという説。問 『天皇の伝説』(メディアワークス発行)に鹿島昇(東京弁護士会所属、歴史家)が書いていましたね。ショッキングな内容でした。和明 鹿島昇は『裏切られた(明治維新の謎)三人の天皇』(新国民社刊)でも、この問題について詳しく書いている。睦仁親王(のちの明治天皇とされる)は暗殺されていて、南朝の血統の大室寅之祐にすり替えられたというのですね。大室寅之祐は長州藩に庇護されていた。問 長州力士隊にいたそうですね。旭形亀太郎も一時、長州力士隊にいたわけだから、いっしょにいた時期があったことになる。旭形はなぜかそこから出て、勤王力士隊を組織し、孝明天皇の警護に当たるわけですが、禁門の変では、まさに敵味方になる。※恒註 孝明天皇暗殺疑惑のある伊藤博文は長州力士隊隊長でしたから、大室寅之佑、旭形亀太郎、伊藤博文、三人とも長州力士隊に所属していたことになります。図四は、伊藤博文の長州力士隊当時の写真です。当然お互いに顔を知っていたはず。和明 明治天皇すり替え説を初めて読んだ時は、実は全く荒唐無稽にしか思えなかった。ところが孝明天皇が天皇旗と遺勅を旭形に託したことを知って、その可能性を否定できなくなった。つまり孝明天皇の立場はそれほど不安定だったし、禁門の変の時に睦仁親王は恐怖の余り気を失ったというぐらい、ひ弱で頼りなかった。まだ十三歳の若年ですから、無理もないのだけど。ところが聖師の生まれた明治四年(※恒注 実際には真実の出生日は明治三年と和明は認識)旧七月十二日の二日後、明治天皇は江戸城に五十六の在京藩主を集めて廃藩置県を宣言する。天皇は御簾のうちで、顔は見えないのですが――いわば「玉」を抱えこんで薩長のしかけた宮中クーデターだよね。伝えられる睦仁親王のイメージと余りにも違い過ぎる(図五)。明治天皇は酒や相撲や乗馬が好きで、大声で号令したがる。生母の中山邸で風にもあてず育った睦仁親王と、忍者軍団とも言われた長州力士隊でもまれて育った二十四貫の大男の寅之祐との違いですよ。問 もし天皇が南朝の末裔の大室寅之祐にすり替えられたとしたら、明治天皇以後、天皇家は南朝ということになりますか?和明 そう、それが事実なら、明治維新は七卿落ちの公卿たちと薩長が手を結んで仕組んだ南朝革命だったのです。そう考えれば、子供の頃からなんとなく抱いていた疑問が解けて、すっきりする。問 疑問というと? 和明 南北朝時代以後、北朝が天皇家を継ぎますが、南朝方についた楠木正成や新田義貞などが忠臣とされ、北朝にくみした足利尊氏が大逆賊にされるのが納得いかなかった。だが大人たちは別に不思議がっているようでもないし、私の方がおかしいのかと思っていました。 明治四十四年(一九十一)に南北朝正閏論が激しく戦われ、明治天皇に裁定がゆだねられることになった。そして北朝の血統であるはずの明治天皇が「南朝が正統である」という裁定を下すのですね。いわば自分の血統の否定だから、何とも不思議だったけど、明治維新が南朝革命だとすると、なんとまあ―問 もしそれが事実なら、明治推新は筆先でいうように、嘘と力で国民をだまして達成したことになる。しかも孝明天皇・睦仁親王・将軍徳川家茂など、おびただしい流血の中でです。
浮島の怪猫和明 ところで、関連して、『霊界物語』六十七巻第六章「浮島の怪猫」が思い出されてね。問 ああ、明治を暗示する「アケハルの岩」のところ。東京遷都からその後の日本と天皇制の推移を暗示したと思われる問題の章ですね。※恒註 「浮島の怪猫」の詳細は、二〇一一年一月号(三六九号)、P三十四からの「二柱の天照大神と饒速日尊 浮島の怪猫の謎に迫る」をご参照ください。たとえば、「猫」を「根子→天皇」と推理しています。浮島の怪猫でのアケハルの岩と大山(図六)との関係が注目されます。和明 あとで前後をゆっくり拝読して頂くとして、気になる部分だけ抜粋してみます。「そう承れば、いかにも動いております。あれあれ、そろそろ夫婦岩が頂の方から下の方へ向かって歩き始めたじゃありませぬか」「なるほど妙だ。段々下って来るじゃありませぬか。岩かと思えば虎が這うているように見え出してきたじゃありませぬか」「いかにも大虎ですワイ――」問 これが何か?和明 大虎――大室寅之祐を連想しませんか。そして岩山の頂上にいた時は大虎に見えたが、磯端に下った時、よくよく見れば牛のような虎猫だったという――問 そうか、気がつかなかった。偶然のようですが、なぜか符節を合しますね。でも明治維新が大過去に起こった第一の天の岩戸開きの投影だとすれば、なぜ筆先はそれを明示しなかったのでしょう。和明 当時の状況でできるはずがない。第一の岩戸開きが失敗だということは神界のことだから言えても、その投影である明治推新が失敗だとは言えない。大逆事件で南北朝のタブーにふれた幸徳秋水ら十二名が死刑になった時代でしょう。問 確かにそうだ。すると第二の岩戸開きはいつでしょう。和明 まずその前に地上霊界でそれがあるはずだけど、霊界のことは判らない。すでにあったのか、これからなのかも。そしてそれが地上現界に反映するには、まだまだ永い年月がかかるだろうし。たとえば平成元年、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁がなくなったのも、ソ連の崩壊も、その先ぶれかもしれないよね。問 あれはショックでした。もう九年の年月がたっている。※恒註 これについては、一九三七年から一九四五年で立替、第二の岩戸開きがなされた可能性を私は考えています。和明 それからもう一つの問題提起。これも切紙神示に興味を持ち始めてからずっと心に引っかかっていたことなのですが『霊界物語』によると、宇宙は霊界と現界に大別され、いずれも太陽界、太陰界、地上界と区分される(図七)。そして神素盞嗚尊が主神として全大宇宙を統括され、みずから分霊分身として顕現されつつ、各界を統治される。次の表のようになります。和明 国祖隠退神話は地上霊界の大事件ですね。体主霊従の邪気に汚染された八百万の神々にとって天地の律法は窮屈でならず、その遵法を固執する国祖が邪魔になる。そこで八百万の神々は天の大神に国祖の非を直訴する。彼らの激しい不満は天の大神といえど制し切れず、国祖に「少し緩和的神政をせよ」と説得し、妻神豊雲野尊も涙と共に諌言しますが、「天地の律法は軽々しく改変すべきじゃない」と頑として応じない。天の大神は国祖の正しいことを知りながら、「万神に一神は代えられず」と涙を呑んで隠退を宣言する。その時、天の大神は国祖に神約を交わします。「貴神が隠退すれば、地上神界の乱れはつのり、地上は泥海になって滅びる事態になるだろう。だから一陽来福の時を待って貴神を再び地上神界の主権神に任じ、三千世界を立替え立直し、元の神代に立て直そう。貴神にだけは苦労はさせぬ。時いたらば吾もまた天より下りて、貴神の神業を輔佐しょう」問 そして国祖は神議に議られて残酷な処刑を甘んじて受け、千座の置戸を負って艮の地(日本)に押し込められてしまうのでしたね。※恒註 図八で本論考の三界に関する主旨を仮作図してみました。公式なものではなく、もっとよい図があれば差し替えたいと考えます。和明 それも神々は国祖の威霊が再び出現することを恐れて七五三縄を張りめぐらして、「妙り豆に花が咲くまで出てくるな」と呪詛する。そして調伏の儀式は節分を初め、日本の伝統的な儀式の中に今でも続いています。問 世界にいろいろな神話がありますが、私が国祖の隠退神話を初めて知った時に、なんという優れた神話なのだろうと感じたものでした。和明 その国祖隠退神話は地上霊界の話ですね。しかし相応の理によって、それが地上現界に写ったのが素盞嗚尊の高天原追放神話になる。聖師は明治三十八年、「御霊魂のことわけ」(『道の莱』第二巻下)で書いていられる。……天照大御神忌機室に坐しまして、神の御衣を織らしめ給う時にその機室の棟を穿ちて、天の斑駒を逆剥ぎに剥ぎて落し入るゝ時に、天の御衣織女(註 日本書紀では「稚日女」)、これを見て驚きて稜に秀處を突きて身失せたりき。ここにおいて天照大御神は余りの事に驚きて、天の窟戸に戸を閉じてさし寵もり給へり。これを天の岩戸隠れと申すなり。ここに八百万の神議りたまいて、再び天照太御神を、岩戸より出し奉り、速素盞嗚尊に千座の置座の罪を負はせて、足の生爪を抜き取り、胸髯を抜きなど、種々の苦しみを負はせて流し奉れり。これぞ素盞嗚尊が天津罪を我身一つに贖い給いて、天津国の御霊を救はれしなり。実はこの神は瑞の御霊にして、天地八百万の罪ある御霊の救主なり。読むもの心すべし。 速素盞嗚尊は、天津罪国津罪を残らず、我が身に引受けて、世界の人贖い給う瑞の御霊なれば、天地の有らん限りの重き罪科を、吾身に引受けて、涙を流して足の爪まで抜かれ、血潮を流し給ひて、世界の罪人我々の遠津御祖の罪に、代わり給いし御方なる事を忘るべからず。今の世の神道者は、悟り浅くして、直ちに速素盞嗚を悪しく見放すが、誠に畏れ多き事共なり。 この如く天地の罪人の救主なれば、再びこの天が下に降りまして、瑞の御霊なる真如の身を宮となして、普く世界を救わんとなし給へるなり。素盞嗚尊の救いの御霊の再び現れ玉いしは天帝の深き御心にして、この世の岩戸開きの為めに、寓の事をまかせて天降し給へるなり。人民の重き罪科も速素盞嗚尊の御名の徳によりて、天照大御神より宜しきに詔り直し給ふぞ、尊きの至りなり。限りなき苦しみ、病い、憂い、曲事を救われん事を願はゞ瑞の御霊を篤く信仰すべし。
国常立尊と素盞嗚尊は同体神か?和明 どうです、国祖隠退と素盞嗚尊の受難は地上の霊界と現界の相違だけで、非常に似ている。相似形というか――問 確かにそうですが――和明 つまり神素盞嗚大神が地上霊界では国常立尊の名で現れ、地上現界では素盞嗚尊の名で現れられた。問 たしかに神素盞嗚大神はその分身分霊で各界に顕現され統治されたのだから、同体神とも言えるでしょうが。しかし国常立尊は厳の御霊だから、なんだかゴチャマゼにはできない感じ。和明 私もそうだったから、頭の中でもやもやしていたのですが、やっと整理できたような気がする。問 でも聖師はなぜ誤解するような書き方をされたのだろう。和明 開祖派に対する煙幕でしょうね。 ところが、霊界物語四十七巻「総説」をよく読むと、ちゃんと示していられる。……しかるに神界にては、一切を挙げて一神の御管掌に帰したまい、宇宙の祖神大六合常立大神に絶対的神権を御集めになったのであります。ゆえに、大六合常立大神は、独一真神にして宇宙一切を主管したまい、厳の御霊の大神と顕現したまいました。さて、厳の御霊に属する一切の物は、悉皆、瑞の御霊に属せしめたまうたのでありますから、瑞の御魂は、すなわち厳の御魂同体神ということになるのであります。ゆえに、厳の御魂を太元神と称え奉り、瑞の御魂を救世神または救いの神と称え、または主の神と単称するのであります。問 なるほど、確かに同体神と書かれていますが、しかし国祖は艮の金神の名で出口開祖にかかり、三千世界の立替え立直しを宣言されたわけで、素盞嗚尊じゃない。和明 そこなんです。まぎらわしいのは。誰もが国祖すなわち、開祖という思いこみがある。だが神素盞嗚大神が開祖の神霊である稚姫君命にかかられた時には艮の金神の名で顕現されたというだけで、国祖すなわち開祖じゃない。だから開祖の筆先も国祖だけがかかって書かれたのではなく、いろんな神がかかって書かれている。問 そうか、だから聖師の審神のない筆先は教典じゃないと言われるわけですね。和明 そこが肝要点です。聖師は『玉鏡』の「艮の金神様と支那」という小題で述べておられる。道院に現れ給う神様が国常立尊の出現であると云う見地から、艮の金神は出口直でなくては懸からぬと云う神諭に矛盾を感ずると言う人があるが、いささかも矛盾はない。支那では艮の金神としては現れておられない。至誠先天老祖として顕現しておられるので、艮の金神の名においては、絶対に大本開祖の外にはかかられぬのである。問 なるほど、判ってきました。だから同じ意味で、主神の全神格である神素盞嗚大神は聖師以外には懸かられぬと云うことですね。和明 そのことを明確に認識すべきです。問 聖師の生まれ変わりだとか、聖師から特別の啓示を受けたと称して一派をつくる連中はもちろん論外ですね。 恒 聖師は全体を過去・現在・未来、神界・幽界・現界と区分し、全部で九界あるとされていますが、ひとつのマス目、大現在の中に、過去・現在・未来があるならもっと細密にみれば、三掛ける九で二十七界あるのかもしれません。 瑞の御魂は、すなわち厳の御魂同体神ということが、ただちに素盞嗚尊と国常立尊が同体神となるか。和明は見出しに「?」をつけていますが、私も関心があります。私は瑞の御霊は全て厳の御霊を含むのではないかと考えます。瑞の御魂を瑞厳の御霊、三五をやはり、三五と考えることはできないか。瑞霊を宇宙意思を体現した主神とすれば、厳霊が含まれることは当然のこと。ただし、開祖すべてが完全に厳御霊と言い切るのは誤りを招くと考えています。開祖は人間であり(聖師の表現では手桶でしょうか)、厳御霊がかかることがある。しかし少なくとも開祖逝去後、厳御霊 艮金神国常立命は聖師にも懸かられている。
艮の金神と思兼神恒 前述の明治三十八年旧四月二十六日の神諭は、「こんどの二度めの世の立替えは骨がおれるぞよ。まえの天照皇大神宮どののおり、岩戸へおはいりになりたのを、だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸開くのがうそを申して、だまして無理に引っばり出して、この世は勇みたらよいものと、それからは天の宇受売命どののうそが手柄となりて、この世はうそでつくねた世であるから、神にまことがないゆえに、人民が悪くなるばかり」と開祖にかかる神は天の岩戸開きでの思兼神提案の、天の岩戸を開くための嘘を批判しています。 思兼神の提案とは、天照大神が天岩戸に隠れたあと、世界は暗黒となり、天地の悪霊が騒いでいろいろな災いが起こったことを背景に、常世の国から来た長鳴鳥を鳴かせ、鍛冶と玉造の神に鏡や玉を作らせ、それを飾った玉串を製作。玉串と祝詞を捧げながら天照大神を褒め称える最高の儀式を考案し、天の宇受売命のヌードタンスで天照大神の気を引いて岩戸を開けさせ最後に天手力男神が天照大神を岩戸からひっぱり出すという提案です。 しかし神霊界掲載の聖師の手になる大正八年二月十八日神諭では、艮の金神国常立之尊が素盞嗚尊の顕現である聖師(神諭上では言霊幸彦命)に懸かり、「……若姫君之尊は三男五女神の八柱神を養育して立派に神代の政治を遊ばしておれた処へ元の素盞嗚之命様が地の世界へ降りて非常に御立腹遊ばして若姫君の命の生命を取り、天も地も一度に震動させ再び常夜の暗となり、万の妖神が荒れ出しどうにもこうにも始末が付かぬように成りたので、天に坐ます天照大御神様はついに地球之洞穴へ御隠れ遊ばし、天も地も真の暗みとなってしまったので、八百万の神々が地の高天原の竜宮館に神集いして、艮の金神は思兼神となりて色々と苦心の末に天之岩戸を開き、天地は再び照明に成ったので在るぞよ」と、「艮の金神」は「思兼神」になりてと、天の岩戸開きを計画したのは、艮の金神であることを記しています。 この記述に私は非常に困惑しました。直の手になる筆先は、天の岩戸開きを「だまして岩戸を開いたのでありたが」とだました主体(記紀神話では思兼神)を非難していながら、聖師の手になる艮の金神の神諭では、「艮の金神」は「思兼神」となり、「苦心して天の岩戸を開いた」としているのです。恒 私は、素盞嗚尊の高天原放逐神話は、「婆々勇み」『霊界物語』十五巻一八章から黒姫、高姫、いもり別などウラナイ教グループの仕業と考えています。一部引用します。 ……高姫、黒姫、いもり別を始め、一座の者共は折から聞える宣伝歌の声に頭を痛め、胸を苦しめ、七転八倒、中には黒血を吐いて悶え苦しむ者もあつた。宣伝歌は館の四隅より刻一刻と峻烈に聞え来たる。黒姫『コレコレいもり別サン、高姫サン、静になさらぬか、「……変性女子の霊や肉体を散り散りばらばらに致して血を啜り、骨を臼に搗いて粉となし、筋を集めて衣物に織り、血は酒にして呑み、毛は縄に綯い、再びこの世に出て来ぬように致すのがウラナイ教の御宗旨だ。折角今まで骨を折って天の磐戸隠れの騒動がおっ始まる所まで旨く漕ぎつけ、心地よや素盞嗚尊は罪もないのに高天原を放逐され、今は淋しき漂浪の一人旅、奴乞食のようになって、翼剥がれし裸鳥、これから吾々の天下だ。この場に及んで何を愚図々々メソメソ騒ぐのだ。高姫さま貴女も日の出神と名乗った以上は、どこまでも邪が非でも日の出神で通さにやなるまい……」(引用終了) 思兼神の話に戻り、和明の説を敷衍すると、出口直には、艮の金神以外にさまざまな神が懸かる、したがって、天の岩戸開き批判を展開する開祖にかかった神が艮の金神とは限らないという見方が成り立ちえます。あるいは、この頃になると直の筆先には、出口直自身の天の岩戸開きに関する知見が色濃く影響して神諭に現れてきたのか。聖師の筆先の続きは、「そこで神々様の協議の結果、素盞嗚尊に重き罪を負はせて外国へ神退いに退はれたので、素盞嗚尊は神妙に罪を負い、贖罪の為に世界中の邪神を平定遊ばし、終には八岐の大蛇を退治して、叢雲の剣を得、之を天照皇大神に奉られたので在るぞよ」となっています。叢雲の剣は神話の記述により、熱田神宮の奥深くに神体として、安置されているとの説があります。この文章の主旨、「八岐の大蛇を退治して、叢雲の剣を得……」は『霊界物語』第一巻序とそっくりです。艮の金神が素盞嗚尊にかかって、その後に出版される霊界物語と同様な言葉を記しているということは、艮の金神・素盞嗚尊が同体神である例証と言えるのかもしれません。同体神は、同神とは異なることはもちろんです。 同神諭では、冒頭に「大正八年二月十八日 艮の金神国常立之尊が世界の中心田庭の国の神屋敷、神宮本宮坪の内、竜宮やかたの地の高天原に現はれて、瑞の御魂の宿りておる言霊幸彦命の手を借りて、世の根本からの大略の因縁を書いて置くぞよ」とありますので、艮金神が艮金神の名前で聖師(この場合は、言霊幸彦命の名で出ている)に懸かることはあります。正確には、「艮の金神の名においては、絶対に大本開祖と聖師の外にはかかられぬのである」とすべきかと考えています。
出口聖師は「素盞嗚尊と国常立尊」『新月の影』で問 素盞嗚尊は国常立尊をお出しになるのですか。答 神は元は一株だから国常立尊は左の手で、素盞嗚尊は右の手のようなもので皆協力してやられるのである。一番仕舞いに神は一株だからと断っておいたらよい。(昭和十九年四月十一日)(参照)『霊界物語』第一巻序 同体神の概念はとても難しく、さらなる研鑽が必要ですが、「天の岩戸開きに思兼神としての艮の金神が関わり、天の岩戸を開いた」という記述は非常に大切です。明治維新は明治元年旧九月八日に始まっています。九月八日の仕組みも思わせます。神が関与したというよりも、悪神と悪神の企みを見抜き、外国の日本国内の戦争への直接参入、支配を最後の一厘で防ぎ、当時の中国のように一部でも植民地になることを防いだ。同時に江戸幕府を倒し、日本完全統一の道を進め、世界統一への型を作ったというほうが正確でしょうか。 最後に先月号でお約束しましたように、孝明天皇の暗殺現場の証言を『二人で一人の明治天皇』から掲載します。 明治維新は、天の岩戸開きと同様、だまして岩戸を開けたのか? その真偽の判断は皆様にお任せします。ただし真実であったとしても有栖川宮熾仁親王と旭形亀太郎は関与していなかったことは明らかになっており、それは別稿で記載します。
孝明天皇(図九)暗殺現場の証言証言・父・渡辺章網と孝明帝暗殺事件の詳報 慶応(二)年旧十二月二十五日(一八六七年一月三〇日)(松重氏)孝明天皇が暗殺された堀河紀子邸における、慶応二年十二月二十五日早朝の「一部始終」を目撃した〃女忍者〃の存在を、実父の遺言によって知り、この老女をついに捜し当てた宮崎鉄雄氏(一八九九~一九九九年)は、その著『京狂異変』の中で以下のように述べている。少し長くなるが、明治天皇の「すり替え」説を証明する重要な証人の言葉なので、ぜひ読んでいただきたい。(宮崎氏)鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇』(新国民社)を読んだ。その死を恐れない正義感に接して、私は非常に恥ずかしい人間であることを知った。日本の歴史家に鹿島氏のような勇気があれば、日本史がウソ八百で固められることもなかったであろう。 私の父、渡辺平左衛門は明治になると、長崎市で青年学校をつくった。渡辺家は嵯峨天皇の末裔であり、幕末には一万三千石の大阪城定番(城代家老に次ぐ役職)であった。渡辺平左衛門は自ら源西古と名乗り、本名は渡辺丹後守章綱である。「明治初年に創られた長崎市稲佐の渡辺青年学校は、総面積三万五千坪、木造総二階(一部三階)。明治二十年には、郵便配達と警察官巡回に不便だとの抗議があって、二丁日、三丁目通路のために校舎の一部である一階を壊し、防火のためその貫通路中央に井戸をつくった」と、私は母の歌女に関かされて、その井戸の所在を確認している。 兄は渡辺魁といって、長崎で判事をしていたが、伊藤博文が派遣した長州人の刺客に稲佐橋付近で襲われて争い、刺客側は死者三人、重傷八人を出した。このとき、父の平左衛門が重傷となり、のち明治二十七年、東京千代田区、永田町の本宅で死亡したことになっている。 平左衛門は大阪城定番であったが、将軍徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べ、それが伊藤(博文)と岩倉(具視)であることを知り、青年学校の生徒たちにそのことを公言していたから、伊藤に命を狙われたらしい。しかし、実は平左衛門はこのとき九死に一生を得て、大阪市淀川沿いの鴻ノ池の倉庫に隠れて生きのび、変名して長崎へ戻り、もと八百人いた生徒・関係者の中から数十人を集めて、再び寺子屋式の私塾を営んで明治四十四年まで長生きした。…… 私は父から武士として育てられ、のちに宮崎という姓になったが、それは安政五年に生まれて明治三十八年に男爵家(の戸主)となった宮崎敬治の養子になったからである。私の生年月日は分からないが、少なくとも明治三十二年生まれにしてもらわないと私の成長体験とぴったりこない。実父の平左衛門が私を実子だと公言しなかったのは、おそらく深い考えがあってのことだと思われる。私の実母の歌女は平左衛門の後妻であったが、私が十二、三歳まで添い寝してくれた。そのとき、彼女が慶喜の寝室に行かされたことを関かされている。…… のちに、渡辺家の小間使いか、行儀見習いか定かではないが、新居起代子の兄・新居起代太が、「あなたは渡辺の殿様の種だが、産んだのは歌女様ではなく私の妹の起代子だった」と言ったことがある。私はそう言われて、起代子と共に別府の岩崎男爵の別邸で約一週間暮らしたが、起代子は私の生年月日を開いても知らなかった。新居男爵は、陸軍退役大佐で北鮮の元山府知事、のちの商工会頭の伊藤隆式が伊藤博文の義弟だといっていた。そのためであろうか、昭和十七年まで、私が何処にいても私の居所をつきとめたが、長崎の新居家の所在を私に隠し、起代子の死去の時も「来るに及ばず」と連絡してきた。それでは、起代子が私の母であるはずはないではないか。これはおそらく、私の動静を探るための伊藤博文の差し金だったのであろう。 のちに私は、新居起代子と伊藤の義弟(?)隆式が同居している事実を確認している。(中略)私は、父である渡辺平左衛門章網から孝明天皇暗殺の次第を教えられ、この事実を天下に明らかにするよう遺命を受けた。 それなのに、いま勇敢なる鹿島氏と対面しながらも、孝明天皇暗殺の真犯人で、明治憲法をつくった初代総理伊藤博文の名を挙げられず、長州忍者ぐらいにしておこうかと考える。煮え切らない配慮が内心にうごめくことが情けないのである。要するに私は小心者であり、臆病者であった。いま九十歳を超える長寿を得て、もはや恐れる者はないであろうに。父である平左衛門にすまない、また繰り返し夜ごとに口伝してくれた母の歌女にも申しわけないと、心からお詫びしたい。だから、今から決心して、記憶の糸を探りながら私なりの維新史を思いつくままに記述してみよう(この原稿は拙宅に送られてきた。筆者(松重氏))。
孝明天皇の暗殺(一)  幼帝 睦仁の暗殺 大室寅之祐が睦仁とすり代わって明治天皇になったという事実を、維新の革命家は知っているが、国民のほとんどは知らない。「忠節なる臣民」とか「赤子」などとおだてられて、犬か豚のようにとことん酷使され、鉄砲玉となってあの侵略戦争の犠牲になった国民のほとんどは、明治、大正、昭和と続いた奇妙な教育で、自ら考えることができない理性を失ったロボット人間に改造されていた。 しかし、慶応二年(一八六六年)十二月二十五日の孝明天皇暗殺はまぎれもない事実であり、北朝という一つの王朝の消滅であった。中山や岩倉(具視)(図十)は、天皇の遺体を洗い清めて食中毒ということにして睦仁に見せたから、睦仁も一応は納得して慶応三年一月九日に践祚した。先帝には同年二月一六日、正式に「孝明天皇」の諡号が贈られたが、睦仁は宮中の慣習によって女装して女言葉を話すなど、十六歳にしては体格も悪くて華奢な少年で、かつて岩倉具視のオチゴさんであった孝明の血筋を引く幼帝であった。 睦仁は女形の子役のようなひ弱な体であったが、生まれながらの皇子で、先帝に似て強情であった。自分の叔母様が縁付いた徳川家を討とうとする勤王家を憎み、公武合体を主張した亡父の志を継ごうと決意して倒幕に反対した。鹿島昇氏によれば、かくて睦仁の毒殺も易々と実行された。内部の者だけが知り、一般には何事も知らされず、そのため、国民は睦仁とすり代わった大室寅之祐の写真を明治天皇として神棚に祀って拝んだ。 大室寅之祐は、長州奇兵隊の伊藤俊輔(博文)率いる力士隊の隊士だったから、伊藤の子分同様の少年であったろう。明治天皇になってからも生涯伊藤を裏切らず、伊藤に頼まれると、彼と対立した重臣たちを、大根を切るように片っ端から切って捨てた。
四条大橋の朝廷のかくれ屋敷 さて、私は孝明天皇暗殺のことを書かねばならない。私は大正十三年、亡き父である渡辺章網の遺命によって京都に行った。京都市中京区の四条大橋の東袂、石垣の中程に鉄門があって鉄門の中に地下道があり、それを行くと広大な地下の屋敷がある。そこは朝廷のかくれ屋敷で、孝明天皇と岩倉が密会用に使っていたところである。 大正十三年当時、この屋敷の家守は見たところ七十歳以上の老女であった。父は、生前に「孝明天皇の暗殺について、この老女から詳しい情報を聞け」と言っていたのである。夏のこととて、私は浴衣を着て高下駄を履いていた。老女は名を口走ったが、思い出せない。姓は父と同じ渡辺で、代々家守をしているという。私が章綱の名を出して、孝明天皇について話を聞かせてほしいと頼むと、老女は真剣な顔つきに変わり、「私はそのとき現場にいた。私が見たことは全部教えてやる。やるが、その前に私の言うことを聞け」と言った。さらに老女は続けて、「お前は二度とここへは来るな。来たら命は無いぞ。孝明様の話は五十年間喋ってはならない。妾(私)はずっと男に飢えておった。今夜は妾(私)に乗れ。嫌だというなら殺す」と、恐ろしい形相で睨んだ。 私はそう簡単に殺されないだけの修行は積んでいたが、情報を入手するためには仕方がない。女の要求をのむことに決めて、「俺は、子供の頃にお医者さんごっこをやったが、大人の女とは初めてだ」と言った。 女は私には六十歳と言ったが、もっと年をとっているように見えた。実際には八十歳以上であったろう。(性描写のためカット)老女は満足したらしく、「そのまま」といって、熱湯を入れた金盥でタオルを蒸し、私を清めた。……
老女の告白「私がこんな達人になったのは、稲佐の殿様(渡辺章綱)の仕込みじゃ。歌女さんも仕込まれて上達しゃしたに違いない」。そう一言った後、以下のように諄諄と語り始めた。 幕府は常々、朝廷に対して、「生活費を十分に渡すから政治には口を出すな。セックス面で堪能してくれ」と言っていた。殿方は、はじめ美女を求めるが、やはり最後は女の道具の良し悪しとなる。彼らは、いくら女に手を出しても庶民とは違って「強姦」や「猥褻」と言われない。しまいには信長と蘭丸式になる。岩倉は少年時代、自分の出自には不満があった。さきの権中納言堀河家の次男であるが、長男ではなく、父も太政大臣ではない。十四歳にして岩倉家の養子となったが、あまりパッとしない。孝明帝とは六歳違いだったが、宮中で遊び相手を命ぜられて仲良くなった。二人ともお医者ごっこに堪能した。周りの者は帝も今に成長して姫君を求めるだろうと思い、幼時のたわむれとして見過ごしていた。安政元年(一八五四年)に、岩倉は(三十歳にして)正式に侍従となり、帝とは思想的にも共鳴する。天皇は政治や外交に興味を覚えて人間が変わっていったが、岩倉は孝明と幼い日から続いた同性愛から抜け切れなかった。 三十三歳のとき、日米修好事件で大原重徳と組んだり、三十六歳のとき皇女和宮の降嫁に従い江戸へ行って公武合体を推進したのも、いとしい孝明との情愛ゆえであった。それなのに天皇は、やがて女性に興味を抱くようになると、岩倉との仲を絶とうとした。文久二年(一八六二年)、天皇三十二歳、岩倉三十八歳。人生五十歳の時代である。 天皇が岩倉をうるさいと言って激怒するまでの十年間、この四条大橋の密室は二人の密会場所で、岩倉が絶縁を命ぜられてからは主に孝明の専用だったが、孝明が落命したのはここではなく下京区である……。 数日のち、私は老女の描いてくれた地図を頼りにその場所へ行き、土地の古老をつかまえて何気ないふうで昔のことを開いた。老人は耳が遠いらしく、幾度も耳をつき出しながら私の質問を確かめ、当時のことを、さも目撃したように大声で喋りまくった。その内容は、父の渡辺章綱から聞いていた話とほとんど同じだったし、四条大橋の老女から開いた話とも同じであった。 平成二年(一九九〇年)、私は再び下京区のその場所へ行った。やや高層のビルディングや風呂屋が建ち並んでおり、すっかり様子が変ってしまっていたが、伊藤博文らの忍者部隊が事を済ませてから身体についた天皇の血を洗ったという川は、昔日と同じ水量で清々と流れていた。私は、渡辺老女に会うまでは、天皇暗殺の現場として紫野、知恩院方面などを想定していたが、岩倉と品川弥二郎らが謀議してつくったという堀河紀子の妾宅は下京区内であった。現在は、三ノ宮通り上ノ口上ル岩滝町とあって、地番不祥である(鹿島と筆者松重氏は確認済み)。(図十一参照)
孝明天皇の暗殺(二) 綿密な暗殺の舞台作り 孝明天皇は、「攘夷、攘夷」と繰り返すのみで、見方によっては自ら殺されるように行動したともいえる。とにかく、岩倉、木戸、大久保たちは善良な国民にとっては恐怖すべき人物であったが、その殺人鬼たちもいつ天皇の暗殺とすり替えがばれるかと、夜もおちおち眠れなかったであろう。その恐怖心を、彼らは大規模の殺人、すなわち戊辰の「私戦」によって解消しようとした。鹿島昇氏がいうように、戊辰の役は慶喜の口止めのための私戦であった。 さて、孝明天皇の暗殺であるが、この実行がなかなかに難しい。確かに、御所の中でもやれないことはない。御所は京都の街の中にあり、江戸城のように堀と岩石で防衛されていない。忍びの者にとっては易々と侵入できるのである。天皇も人間である。並の人間より位が高い貴人であったが、プロの殺し屋にとってはたやすい標的であった。天皇は武芸者でなく、戦闘的条件から見れば遊惰者であるから、抵抗なく生命を奪うことができる。 しかし、天皇を暗殺するためには幾つかの条件があった。ひそかに音を立てずに殺さねばならない。できる限り傷口を狭く小さくせねばならない。しかも一撃で即死させねばならない。出血を手早く吸収して身体を洗い清め、外科医によって傷口を縫合せねばならない。外科医を待合室で待たすことはできないし、前もって「何月何日何時に到着せよ」と指令することもできない。 殺害は十二月二十四日深夜というが、本当は二十五日の早朝であった。暗殺のターゲットが天皇だから、すべての予定を殺し屋が条件付けることは不可能であった。暗殺の立会人(見届役)となる人物は、中山と岩倉の関係者となるから、前もってかれらにも事を知らせて心の準備をさせておかねばならない。たとえ天皇がお忍びで妾宅の堀河邸へ行くとしても、疱瘡は治った。治ったから妾宅へ行くのだから、「疱瘡で命をおとしめされた」では後世に疑いを残す。とにかく一刀で絶命していただく。かつ大量の出血も処理しやすい場所を選ぶ。天皇に死の予感を与えてもいけない。 睦仁と遺体との対面の場にしても、長崎仕込みの外科医を呼ぶにしても、殺害の場、すなわち屋敷は、然るべき構えの格式高い外装があって、内部も然るべき建築でなければならない。天皇家には金はないが、日本開国以来の一大イベントのために、薩長同盟は革命のための予算の中からかなりの金を出して、この一夜のための殺人舞台づくりを着々と完成させ、入念な工夫とあくなき「リハーサル」を重ねた。最初は伏見区の深草あたりに新たに屋敷をつくる案もあったが、行幸の距離が遠いし外科医が来るにも不便なので取り止めとなった。山科川ほどの水量はないが、川は川であったから、堀河邸の入り口の川幅を広げ、屋敷の大門前を石畳に改造し、門衛の番兵が必要に応じて橋を下し、普段は門の方向へ手繰り上げておけば外部からの邪魔者が防げるとしてそのように工事した。 現在の梅小路公園あたりだと屋敷の裏手の防衛に具合のよい丘があるが、岩倉が選んだ岩滝町には川はあるが山がなかった。しかし金さえあれば山もつくれるから、盛り土して急造の山をこしらえる。岩倉は己れの義妹のために、いや自分の野望のために、平地であった岩滝の地に、三方が山で、庭園から山へも登れず、山から庭へも忍び込めないという天然の要害御殿を完成させたのである。 御所を出て、丸田町、御池、四条と下る。すぐに東西の本願寺があり、右折すると新撰組に近い壬生寺となり、島原はもう少し先である。天皇はお忍びだから、牛車でなく「お駕籠」で堀河邸へ向われた。一方、お屋敷のほうでも大変である。日数をかけての入念なリハーサルはあったが、それでも天皇は何となく落ち着けない。女たちがいつもと違うのが妙に気になったのである。夕方からは、疱瘡の全快祝いということで、この日は蹴鞠は中止で雅楽と踊りだけになり、宮中の楽人は舞台に並んで、庭先の篝火に照らされ、楽を奏してゆるやかに踊った。 ところが、天皇は上の空で、楽人をねぎらったり自ら踊ったりしない。これには公卿方も女房連も参った。樹林にひそんで時を待つ警護武者(実は忍者隊)も気が抜けてしまった。伊藤たち長州の忍者たちも十分計画を立てていたが、いざ実行となると予定通りにはいかなかった。 天皇と妾紀子の間には女の子供が二人いたが、子供には惨事は見せられないから前もって堀河家へ遊びに行かせた。やがて楽人は去り、客人たちも引き取って、天皇と女たちばかりになる。といっても、それは寝殿の内部、千代田城でいえば大奥の人的配置であって、湯殿での三助役から火の元係、万一の時の医者、按摩師などサービス係の男たちがおり、女房たちの下役としてお坊主がいて、お茶係など雑役をする。また、寝殿の周りと庭先から背後の山までは武人(忍者)が守護している。
天皇は、どんなことも自分でやってはいけない 天皇は、どんなことも自分でやってはいけないことになっていた。入浴は女が裸にさせ、洗う役は男になり、お湯が少々熱くても「熱い」とはいえない。そんなことをいうと湯加減係が罰せられたから、坊主が「いかがでございますか」と尋ねた時、熱すぎても「良い湯じゃ」と声に出し、表情で顔をしかめるなどして熱いとかぬるいとかを伝えねばならない。はばかり(便所)に行くにも三名の女が同行して、一人が越中(揮)をはずし、一人が着衣をまくしあげ、一人が柔らかい上質和紙の束を捧げ持って、天皇をしゃがませ、「御下風!」と叫ぶ。すると天皇は力んで「プーッ」とガスを排出する。そこで「シーッ」と女官がケイヒツの声を発すると、「ジャーッ」と小水が流れ、程よきところで大便が落ちてくる。はばかりは浴室のとなりで、下痢などのときは浴室の引き戸から浴場へ移動して腰部を清めるが、一切女官が行い、自分でやってはならない。 はばかりは長さ一メートル、幅五十センチほどで、前方には両手でつかまる棒があり、穴のふちは獣毛でおおわれていた。お尻から心臓を突き刺して、穴から下ヘ遺体をひきずり落す時に皮膚を痛めない仕掛けである。浴室もはばかりも中二階式になっていた。というのも、浴室は湯釜の下に薪をくべて燃やすに便利だからであり、はばかりは排出物を大きな便器で受け、用が済んで洗浄する設備が必要だからである。 御下風があり、小水のあと、あるいは同時に大便が落下する様子は、受け箱の一部にはめこまれたガラスから見える。用が済んでも、天皇はすぐ立ち上がって退去しない。女官が和紙を六枚使用するまでしゃがんでいる。最初の一枚で肛門を「サーッ」と拭く。二、三、四枚目で軽くなでる。五枚目を拭き、点検し、まだ着色があれば「まーだ」と発声し、六枚目で拭き、七枚目の紙で全部つつんで、「シーッ」といいながら受け箱へ紙束を投入する。同時に、地下室の箱係りは「サーッ」と箱を横へずらす。すると、天皇のさがりものと肛門が見える。この地下室の箱係りを、岩倉が前もって買収しておいた。暗殺には実行者も大切だが、引込み役の選定も不可欠である。将軍にしろ天皇にしろ、貴人の暗殺には引込み役が重要となる。
暗殺決行 その若さで長年、プロの殺し屋であった長州忍者の伊藤は、そのとき便所の床下に隠れていた。そうして、秘蔵の忍者刀(図十二の刀か)でお尻の中央を突き上げて肋骨の真下の左から心臓へと突き刺し、刀の先端を回して臓器をえぐり、「サーッ!」と抜いた。手馴れた早業であったが、薩摩の殺し屋による竜馬殺しのような派手さはない。はばかり係の女官が天皇を抱きかかえて穴から下に降し、力士忍者が受け取って、前もって用意した箱へソ-ッと寝かせて血を洗い流し、再び穴から上へ押し上げ、さらに女官が隣の浴室で十分洗ったあと、着衣させて御座所へ運んだ。伊藤は落ち着き払って便所の手水鉢で天皇の血がついた自分の手と刀を洗い、共犯者の力士たちも敷地に流れ込む小川で身体を洗った。すべてが終ったのは夜明け方で、絶命した天皇は長崎帰りの外科医によって傷口を縫い合わされ、病死したことを一同に確認させてから遺体は御所へ運ばれた (引用終了)。(松重楊江『二人で一人の明治天皇』たま出版。)
明治維新は世界統一の型恒 明治維新が、地上現界で起こった太古、大過去の岩戸開きの反映である「現界の第一の岩戸開き」であると見られるからこそ、その核心をなす、維新政府や孝明天皇、旭形亀太郎、有栖川宮熾仁親王たちの真実を明かすことか必要であると考えました。その真実性の証明は完全にはなされておりませんし、もし真実で証拠があれば、それは真っ先に廃棄させられるでしょう。 聖師は、地租の委譲問題にからみ、下記の文章を遺されています。地租(現行の固定資産税と類似)委譲問題(国税から地方税にすること)は地方分権制度でマッソン(フリーメーソン)の仕組である。細民いじめのやり方であって、国運はいよいよ危くなるばかりである。貴族院が反対するのも無理はない、第一神様は世界統一を企てておられる、日本も昔からほとんど統一した事がなく、群雄割拠から織田、豊臣、徳川の世を経て、明治大帝に至って初めて完全に日本統一が出来上つたので、この型を世界にうつすのが本当であるのに、反対に地租委譲なんかをやろうと云うのは間違っている。本当の事を言うと、全世界もまだ一度も統一せられた事がないので、月の国が七千余国であるばかりではなく、世界も七千余国であって、神様の思召によってそれがだんだん統一されつつあるので、今は余程統一せられたところである(引用終了)。 聖師は明治天皇に「明治大帝」と敬称を使用され、「日本も昔からほとんど統一した事がなく群雄割拠から織田、豊臣、徳川の世を経て、明治大帝に至って初めて完全に日本統一が出来上ったので、この型を世界にうつすのが本当」と、明治維新が世界統一の型であることを示しています。「神は偽悪だ。悪に見せて大善をなす」(昭和十九年四月十日)『新月の光』「……スターリンでも何でもスリ鉢の中の味噌のようなものであって、スリコギを廻している者を知らないのである」(昭和十九年)『新月の光』 明治維新やそれに影響を与えた孝明天皇に関わる一連のことがわからないと、神の仕組みは本当にはわからない。明治維新の闇と犠牲は大きすぎるのか……。否か。世界をまるめて入れた「すり鉢」の中でスリコギを廻している者……それは出口王仁三郎聖師その人です……。※印は筆者の説明