人間と云ふ問題
 人間とは何か、と云ふ問題が現代思潮に持ち上がつて来たやうであるが、今さら人間を評論するもおかしいやうでもあるが、今日までの学者の評論が総て他の事のみに限られて、人間ご自分の事はお互ひに忘れられてゐたのもおかしい事であつた。古い言葉だが、燈台下暗しとはこの事である。総て人間の世界は人間のものでなくてはならぬ。換言すれば人間は総て人間的生存でなければならぬ。何でもない人間を万物の霊長だからといつて無理矢理に祭壇に祭り上げたり、ことに道学先生や、神主さんや、僧侶や、神道教師の間に於て、神さん振りを発揮したり、仏さんじみた顔付きをして見せたりする。学校の教師は、木石同様の取り扱ひを受け、万々一性慾問題などを論議しようものなら、たちまち驚異の眼をもつて、上司からも、父兄からも睨まれると云ふ状態である。しかし人間は、どこまでも人間であつて、これを分析して見れば、或ひは神聖な所もある。或ひは貧慾な性分もあり、或ひは応分の野獣性ももつてゐる。故に人間は善だとか、悪だとか云ふ事は、すでに議論の末である。学校の教師だとて、恋愛心もあるし、金も欲しい。女郎だとて、乞食だとて、信義を堅く守る事もある。神主、僧侶、牧師だとて、殺人行為がないとも限らない。司法官や警官がたの中から、盗賊が出ないともいへぬ。人間には三分の自惚れと、七分の黴毒気のないものはないと云ふではないか。無産階級の人々が野獣性に富んで、有産階級の人々が神聖味が豊富だと云ふ筋合ひでもない。いづれを問はず、人間として生を有するものは、以上の如き性分を含有してをる。ただその量に於て、多少の差は、ある底の信仰や、修行によつて異なつてをる所があるくらゐのものである。 現行法律の上からは、人間から生れたものを人間と云ふ断定のもとに人間を取り扱つてゐる。それに人間と神とを同一に取り扱はうとするものがあるかと思へば、脱線した自由主義者や自然主義者の間に於ては、これを獣的に取り扱はうとするものさへある。これらの人間はただ単に性慾満足、物質満足をもつて、人生は足るやうに思つてゐる輩である。一体全体、人間を主義などと云ふものの型にはめようとするのが、そもそもの間違ひである。 大本は、人は神の子、神の宮と唱へてゐる。また「神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰なり。神人合一して、茲に無限の権力を発揮す」とか、また「人は天界の基礎なり。天国は昇り易く、地獄は堕ち難し」といつてをるのは、普通一般の所謂人間ではない。人間界を超越した神の御用に立つ所の神柱のヒト(霊止)を指したものである。人と獣との中間に彷徨してをる縦はな横眼の者をさして人間と称しての、この論旨であると考へて貰ひたい。

恋愛について
 現代青年男女の主唱する恋愛神聖論なるものほ、いたつて浅薄なもののようである。美人だ、ナイスだ、キャラモンだ、色男だ、曲線美だ、肉体美だ、おしりが細い、乳房がつんもりしている、肌が艶滑だ、色が白い、明眸咬歯だ、髪がからすの濡羽色だ、花顔柳腰だ、新月の眉だなぞいうところから出発しているが、それがただちにあつらえどおりに成立するものではない。そんなことを標準として芽ばえるものは、その大部分は性欲のみを中心として出発する蠢動にすぎない。ゆえにそれらを中心としなせる結婚は永続性がない。ある一点に欠陥を生じた場合には、たちまち破壊されるのがつねである。 だから恋愛は人格と人格との結合でなくては嘘である。人格と人格を基礎として築かれた結婚生活には永続性があり、未来性がある。男女がお互いの人格を見いだすまでにはそうとうの時間がいる。色眼の使い方で恋愛が発生して、結婚が自由だなぞとは、あまりにも自分というものにたいして忠実味を欠いている。四囲の光線のいかんによつて、秋波と藪睨との識別をあやまることさえあるではないか。 要するに恋愛発生の第一要件は、相手の人格を見いだすことに、まずもつてつとめねばならぬ。それを根底にした結婚でなくては、真個の恋愛の意義をなさない。そして人格とは真に人間らしい性格をそなえたことである。
(恋愛に就て、『東北日記』 三の巻 昭和3年8月15日)