実証 十和田湖の神秘『月鏡』と男装坊の再生『玉鏡』(一)

                     大阪中央分苑 出口 恒

元千年の開きと本当の神 

紀元一千年のひらきあり。キリストの神が本当の神である。(昭和二十一年一月十六日)「紀元」『新月の光』 私がこの聖師の言葉を読み、最初に考えたのは、紀元前六六〇年に即位という、神武天皇紀元が千年間誤っていたのではないか。もっと新しいとなると、西暦三四〇年が実際の即位年なのか。神武、開化、崇神天皇(私の見解)から平成天皇まで天皇が通常の人間の寿命で生きたと仮定すると、概ね神武天皇即位としては妥当な時代となります。しかし確信はない。見方を変えて私の注目したのは、「本当の神」です。「本当の神」とはどの神なのか。 『霊界物語』の文中でイエス・キリストとして現れるのは、少彦名命です。少彦名命(司)は、幽界を遍歴し、天地に上下し、天津神の命を受けユダヤに降誕し、天国の福音を地上に宣伝しました。少彦名神は素盞嗚尊の幸御魂であり、少彦名がイエス・キリストとしてユダヤに降誕して天国の福音を宣伝したとされています。少名彦命は、言霊別尊から少彦名命、そして言依別命と名を変えています。イエズスと云う意味は救いをもたらす人、クリストは油を注がれるもの、即ち現界を如実に救うという訳です。出口氏『そうや、イエズスは本当のクリストの命を受けてただけや。本当のクリストやないけれども、名をもって代名者として出たんやな、ワシはそう解している。「出口王仁三郎氏を囲む座談会(二)」『昭和青年』。 少彦名命は天津神の命を受けていた。天津神の最高神は、主神神素盞嗚大神(素盞嗚命)ですから、素盞嗚命の幸魂に由来するイエス・キリストは、素盞嗚の命令に従い、ユダヤの地に降臨した。そして、キリストが再臨するとは、素盞嗚命の代名者であるイエス・キリストが再臨するのではなく、イエス・キリストをユダヤに降誕させた素盞嗚命御本体が、地上に再臨するということを示す。ゆえに、本当のキリストとは、素盞嗚命を示します。 では、素盞嗚命、再臨のキリスト(ミロクの再生)とは、誰か。『霊界物語』六四巻上巻から見てみましょう。…年 月 日 アメリカンコロニーのマリヤより 恋しき恋しきブラバーサ様…『長らく御厄介に預かりまして何から何まで御親切に有難うございます。何れまた近い中に上って参ります。その時は日の出島の再臨のキリストの現われたまう時かと存じます。どこまでも幾久しく御厚情を願いましょう。随分お壮健で御神業に奉仕して下さいませ』「帰国と鬼哭」『霊界物語』六四巻下巻二二章。 聖師は、『霊界物語』のこの「二十二・王仁」の章を通じ、本当の神・再臨のキリストとは素盞嗚命の顕現、出口王仁三郎自身であることを表明されている。
世界統一の開化天皇の神業 出口王仁三郎聖師は、明治三年(一八七〇)旧七月十二日に穴太の地に誕生しました。しかし現界の戸籍に登録されたのは、明治四年(一八七一)旧七月十二日です。 〈紀元一千年のひらきあり。キリストの神が本当の神である〉この意味をもう一度考えましょう。本当の神が出口王仁三郎聖師とすれば、そのちょうど千年前に、聖師出生につながる由縁を持つ何か特別なことが起きたのではないか。 聖師の手になる文章で、ただひとつだけ、ちょうど千年前の事件に言及されたものがある。それは「十和田湖の神秘」『月鏡』です。…この文では、歌を除いた主要文を数回に分けてご紹介しますが、今まで未知の領域であった、聖師の五六七神業を継承する男装坊の物語を、写真や解説を織り交ぜながら来月号で実証的に解説してみます。誌面の関係上、本号は、引用が主となりますが、『月鏡』の「十和田湖の神秘」との違いは、それを実証するための写真や新発見の事実を加えたことです。 全体を読破されたい方は、『三鏡』等をご参照ください。
十和田湖の神秘引用 東洋の日本国は到る所山紫水明の点において西洋の瑞西と共に世界の双壁と推称されている。日本は古来東海の蓬莱嶋と称えられただけあって、国中到る処に名山があり、幽谷があり、大湖があり、大飛瀑があり、実に世界の公園の名に背かない風光がある。中に湖水として最も広大に最も名高きものは近江の琵琶湖、言霊学上、「天の真奈井」があり近江八景といって支那瀟湘八景にならった名勝がある。芦の湖、中禅寺湖、猪苗代湖、支笏湖、洞爺湖、阿寒湖、十和田湖などがある、何れも文人墨客に喜ばれているものである。中にも風景絶佳にして深き神秘と伝説を有するものは十和田湖の右に出づるものは無いであらう。自分は今度東北地方宣伝の旅を続け、その途中、青森県下その他近県の宣信徒に案内されて、日本唯一の紫明境なる十和田の勝景に接する事を得ると共に、神界の御経綸の深遠微妙にして人心凡智の窺知し得ざる神秘を覚る事を得たのである。 さて十和田湖の位置は、裏日本と表日本とを縦断する馬背の如き中央山脈の間に介在して、北方には八甲田山、磐木山など巍々乎として聳え立ち、南方遙かの雲表より鳥海山、岩手山の二高嶺が下瞰しているのである。 十和田湖の水面の高さは海抜一千二百尺にして、その周囲の山々は之より約二千尺以上の高山を以て環繞せられ、湖面は殆んど円形にして牛角形と馬蹄形とを為せる二大半嶋が湖心に向って約一里ばかり突出し、御倉山御中山など神代の神座や神名に因んだ奇勝絶景を以て形造られている。湖中の岩壁や、岩岬や、嶋嶼などの風致は実に日本八景の随一の名に背かない事を諾かれるのである。湖中の風景の絶妙なる事は、一々ここに記すまでもなく『東北日記』に名所名所を詠んでおいたから、ここには之を省略して十和田湖の神秘に移ることに仕ようと思う。
十和田湖の神秘 十和田湖の伝説は各方面に点在して頗る範囲は広いが、自分は凡ての伝説に拘わらないで、神界の秘庫を開いて爰に忌憚なく発表する事とする。さて十和田の地名については十湾田、十曲田などの文字を宛はめているが、アイヌ語のトーワタラ(岩間の湖)ハッタラ(淵の義)が神秘的伝説中の主要人物、十和田湖を造ったという八郎(別名、八太郎、八郎太郎、八の太郎)が伝説の中心となっている。次に開創鎮座せし藤原男装坊も南祖、南宗、南僧、南曽、南蔵等種々あるが、今日普通に用いられている文字は南祖である。しかし王仁は伝説の真相から考察して男装坊を採用し、この神秘を書く事にする。 昔、秋田県の赤吉と云う所に大日別当了観と云う有徳の士が住んでいたが、たまたま心中に邪念の萌した時は北沼と云う沼に年古くから棲んでいる大蛇の主が了観の姿となって妻の許へそっと通った。その大蛇の主というのは神代の昔神素盞嗚尊が伯耆大山即ち日の川上山に於て八岐の大蛇を退治され、大黒主の鬼雲別以下を平定されたその時の八岐の大蛇の霊魂が凝って再び大蛇となり、北沼に永く潜んでいたものであった。間もなく了観の妻は妊娠し、やがて玉の如き男子を生み落したが、あたかも出産の当日は朝来天地晦冥大暴風雨起り来りて大日堂も破れんばかりなりしという。了観はその恐ろしさに妻子を連れて鹿角へ逃げその男子を久内と名付けて慈しみ育てた。その後三代目の久内は小豆沢に大日堂を建立したるも身魂蛇性のため天日を仰ぎ見ること能はず、別当になれない所から草木村という所の民家に代々久内と名告って子孫が暮していた、さてその九代目に当る久内の子八郎が神秘伝説の主人公である。〈図一のA点が草木村の所在地です〉 何時の世にか、青山緑峰に四方を繞まれたる清澄なる一筋の清流を抱いて眠る農村の昔、秋田県鹿角郡の東と南の山峡に草木という夢のような静寂な農村があつた。この村に父祖伝来住んでいる久内夫婦の仲に儲けた男の子を八郎と名づけ、両親は蝶よ花よと慈しみ育くむ間に八郎は早くも十八歳の春を迎える事となった。八郎は天性の偉丈夫で、母の腹から出生した時、既に已に大人の面貌を具え一人で立ち歩きなどをしたのである。八郎が十八歳の春には身長六尺に余って大力無双鬼神を凌ぐ如き雄々しき若者であったが、又一面には至って孝心深く村人より褒め称えられていた。八郎は持ち前の強力を資本に毎日深山を駆け廻って樺の皮を剥いたり、鳥獣を捕えては市に売捌き、得たる金にて貧しい老親を慰めつつ細き一家の生計を支えていたのである。 ある時八郎は隣村なる三治、喜藤といふ若者と三人連れにて遠く樺の皮剥きに出掛けた。三人は来満峠から小国山を越へ遥々と津久子森、赤倉、尾国と三つの大嶽に囲まれている奥入瀬の十和田へやってきた、往時の十和田は三つの大嶽に狭められた渓谷で、昼尚暗き緑樹は千古の色をたたえその中を玲瓏たる一管の清流が長く南より北へと延びていた。三人は漸々此処へ辿りついたので、流れの辺りに小屋をかけ交り番に炊事を引受けて昼夜樺の皮を剥いて働き続けていた。 数日後のこと、その日は八郎が炊事番に当り、二人の出掛けたる跡にて水なりと汲みおかんとて岸辺に徐々下り行くに、清き流れの中に、岩魚が三尾心地よげに遊泳しているのを見た。八郎は物珍らしげに岩魚を捕って番小屋に帰って来た、そして三人が一尾づつ食わんと焼いて友二人の帰りを待っていたが、その匂いの溢れるばかりに芳しいのでとても堪らず一寸つまんで少々ばかり口に入れた時の美味さ、八郎は遂に自分の分として一尾だけ食ってしまった。 俺は未だこんな美味いものは口にした事は一度も無いと彼はかすかに残る口辺の美味に酔うた。後に残れる二尾の岩魚は二人の友の分としてあった。けれども八郎は辛抱が仕切れなくなって何時の間にかとうとう残りの分二尾とも平げてしまった。アッしまったと思ったが後の祭りで如何とも詮術がなくなった。八郎は二人の友に対して何となく済まないような気持を抱くのであつた。 間もなく八郎は咽喉が焼きつくように渇いて来た、口から烈火の焔が燃へ立ってとても依然としておられなくなったので、傍に汲んで来て置いた桶の清水をゴクリゴクリと呑み干したが、また直ぐに咽喉が渇いて来るので一杯二杯三杯四杯と飲み続けたが未だ咽喉の渇きは止まらず、かえって激しくなるばかりである。 アア堪らない、死んでしまいそうだ、是は又何とした事だろうと呻きながら沢辺に駈け下るや否や、いきなり奔流に口をつけた。そしてそのまま沢の水もつきんばかりに飲んで飲んで飲み続け、ちょうど正午頃から、日没の頃まで、瞬間も休まず息もつがず飲みつづけて顔を上げた時、清流に映じた自分の顔を眺めて思はずアッと倒れるばかり驚きの声を揚げた。 ああ無惨なるかな、手も足も樽の如く肥り、眼の色ざし等、既にこの世のものでは無かった。折から山へ働きに行っていた二人は帰って来て、この始末に胆を潰すばかり驚愕してしまった。オオイ八郎八郎と二人が声を合せて呼べば、その声にハッと気付いた八郎は漸くにして顔をあげ、恐ろしい形相で二人の友をじっと眺めてからやがて口を開いた。 八郎は夕刻二人の友の帰ったのを見て少時無言の後やっと口を開き、「お前達は帰って来たのか」と云えば二人は「オイ八郎一体お前の姿は何だ。如何してこうなった。浅間しい事になったの。さあ住所へ帰ろうよ」と震え声を押し沈めて言った時、八郎は腫れあがった目に一杯涙を浮べて、「もう俺はどこへも行く事はできない身体になってしまったのだ。何と云う因果か知らぬが、魔性になった俺は寸時も水から離れられないのだ。これから俺は此処に潟を造って主になるからお前達は小屋から俺の笠を持って家に残っておられる親達へこの事を話して呉れろ。アア親達はどんなに歎かれるだろう」と両眼に夕立の雨を流して嘆ずる声は四囲の山々に反響して又どうと谺するのであつた。かくては果じと二人は、「八郎よ俺たち二人はここで永の別れをする。八郎よさらば」と名残惜し気に十和田を去った。二人の立去る姿を見すましてから八郎は尚も水を飲み続ける事三十四昼夜であったが、八郎の姿は早くも蛇身に変化し、やがて十口より流れ入る沢を堰止めて満々とした一大碧湖を造り二十余丈の大蛇となってざんぶとばかり水中に深く沈んでしまった。かくして十和田湖は八郎を主として、年移り星変り数千年の星霜は過ぎた。永遠の静寂を以て眠っていた一大碧湖の沈黙は遂に貞観の頃となって破られるに至ったのである。
聖師生誕の千年前から物語りは始まる 貞観十三年(西暦八七一年)春四月、京都綾小路関白として名高い、藤原是実公は讒者の毒舌に触れ最愛の妻子を伴い、桜花乱れ散る京都の春を後に人づても無き陸奥地方をさして放浪の旅行を続けられる事となった。一行総勢三十八人は奥州路を踏破し、やがて気仙の岡に辿りついてここに仮の舎殿を造営し、暫時の疲れを休められた。間もなく是実公他界せられ、その嫡子是行公の代となるや、元来公家の慣習として、何んの営業も無く、貧苦漸く迫り来りたる為、今は供人共も各自に業を求めて各地に離散してしまい、是行公は止を得ず、奥方のかよわき脚を急がせつつ、仮の舎殿を立出で、北方の空を指して、落ち行き給いし状は、実にあわれなる次第であった。斯くて日を重ね、月を閲して三ノ戸郡の糖部へ着かれ、何所か適当なる住処を求めんと、彼方此方尋ね歩行かれたが、一望荒寥とした北地の事とて、人家稀薄依るべきものなく、村らしき村も見えず、困苦をなめながら、やがて馬淵川の辺りまでやって来られたが渡るべき橋さえもなく、又船も無いので、途方に暮れながら夫婦は暫時河面を眺めて茫然たるばかりであった。かくてはならじと二人は勇気を起し川添いに雑草を踏み分け三里ばかり上りしと思おしき頃、目前に二三十軒の人家が見えた。是行公は雀躍して、奥よ喜べ、人家が見えると慰めつつやがて霊験観音の御堂〈図二、現在の斗賀神社拝殿〉へと着かれた。そして其夜は御堂内に入りて足を休め又明日の旅路をつくづく思い悩みつつ、まんじりともできなかったのである。 その翌日是行公の室へ這入って来た別当は威儀を正して「何処となく床しき御方に見え候も、何れより御越しなるや、お構いなければ大略の御模様お話し下されたし」と言葉もしとやかに述ぶる状は、普通の別当とは見えず、必ずや由緒ある人の裔ならんと思われた。是行公は、「吾等は名もなき落人なるが、昨夜来より手厚き御世話に預り、御礼の言葉も無し。願わくは後々までも忘れぬため、苦しからずばこの霊験観音堂の由来をきかせ玉え」と言葉を低うして訊ねるに、彼の別当は襟を正しながら、「さればに候、拙者は藤原の式部と申す者にて、そもそも吾祖先は藤原佐富治部卿と申す公家の由にて讒者のため都より遥々此処に落ち、柴の庵を結びこの土地を拓きて住めるなり、現在にては百姓も追々相集りかくの如く、一つの村を造りしものにて、この観音堂は村人が我祖先を観音に祀りたるものにして、近郷の産土神にて候、さて又御身は都よりの落人の由、何故この様なる土地へとお越し遊ばされしや」と重ね重ねの問いに是行公は懐しげに、式部の顔を打ち眺め「あ、さては貴公は吾一族なりしか、吾祖先も藤原の姓、父上までは関白職なりしも、無実の罪に沈み、かく流人となりたり。只今承はれば貴公も藤原と聞く、系図なきや」と問はれて式部は早速大切に蔵めてあった家の系図を取り出し、披き見るに是行公は本家にて、式部は末家筋なれば、式部思はず後に飛び去って言うには、「さてもさても不思議の御縁かな。是と申すも御先祖の御引合せならむ。この上は此処に御住居あらば、我等は家来同様にして、御世話申す可し」と是より是行公と式部は兄弟の契を結び、是行公は兄となつて、名を宗善に改め給うたのである。 爰に藤原是行公の改名宗善は式部の計らいに由って、三ノ戸郡仁賀村を安住の地と定めて何不自由なく暮していたが、只々心に掛るは世継の子の無い事であつた。アア子が欲しい欲しいと嘆息の言葉を聞く度に奥方は秘かに思うよう、もうこの上は神仏に祈願を篭めて一子を授からんものと霊験堂の観音に三七二十一日の参篭を為し、願はくは妾等此の儘にして此土地に朽ち果つるとも、子の成人したる暁は再び都へ帰参して、関白職を得るような器量ある男子を授け給へと一心不乱に祈っている中、ちょうど二十一日の満願の夜のこと、日夜の疲労に耐へ兼ね思わず神前にうとうととまどろめば、何処ともなく偉大なる神人の姿現はれて宣たまうよう、汝の願に任せ、一子を授けむ。されどもその子は必ず弥勒の出世を願う可し、夢々疑うなかれ、我は瑞の御霊神素盞嗚尊なりとて御手に持たせ給える金扇を奥方玉子の君に授けて忽ちその御姿は消へさせられた。夢よりさめたる奥方玉子の君は、夫の宗善に夢の次第を審さに告げられしが、間もなく懐胎の身となり月満ちて生れ落ちたは玉のような男と思いの外女の子であつた。夫婦は且つ喜び且つ女子なりしを惜しみつつ蝶よ花よと育みつつ七歳となった。夫婦は男子なれば都に還りて再び藤原家を起し、関白職を継がせんとした望みは俄然外づれたれども、今の間に男装をさせ、飽くまでも男子として祖先の家名を再興させんものと、名を南祖丸と付けたのであるが、誰いうとなく女子が男装しているのだ、それで男装坊だと称えるようになったのは是非なき仕儀と言はねばならぬ。 然るに生者必滅会者定離のたとえにもれず、痛ましや南祖丸が七歳になった秋、母親の玉子の君は不図した原因で病床に伏したる限り日夜病勢重るばかりで、最早生命は旦夕に迫って来たので南祖丸を枕辺近く呼びよせて言う。 「お前は神の申し子で母が一子を授からんと霊験堂へ三七(二十一)日間参籠せし時、瑞の御霊神素盞嗚神より、生れたる子は弥勒の出生を願うべしとの夢の御告げありたり。汝はこの母の亡き後までも此の事ばかりは忘るなよ」と苦しき息の下から物語りして遂に帰らぬ旅に赴いてしまったのである。 南祖丸はじめ父の宗善、式部夫婦等が涙の裡に野辺の送りをやっと済ませた後、父宗善は熟々南祖丸を見るに、年は幼けれども手習い学問に精を出しあたかも一を聞いて十を悟るの賢さ、是が真正の男子ならば成人の後京都に還り祖先の名を顕はして吾家を関白家に捻ぢ直す器量は十分であらう。しかしながら生来の女子如何に骨格容貌の男子に似たりとて妻を娶り子孫を生む事不可能なり。乳児の頃より男子として養育したれば世人は之を女子と知る者なかるべし。如かず変生男子の願いを立てこのまま男子として世に処せしめ、神仏に仕へしめん。誠や一子出家すれば九族天に生ずとかや。亡き妻の願望に由りて神より与えられたる子なれば家名再興の野心は、流水の如く捨去り、僧となって吾妻の菩提を弔わしめんと決心の臍を固め、奥方の死より三日後、同郡五戸在七崎の観音別当永福寺の住僧なる徳望高き月志法印に頼みて弟子となし、その名も南僧坊と呼び修行させる事とはなった。 然るに不可思議なる事は如何なる悍馬も宗善の厩に入れば直に悪癖が直り名馬と化るのを見て、里人は何れも之を奇とし宗善の没後には宗善の霊を祀りて一宇を建立し馬頭観音と称へ其徳を偲んでいるが、奥州南部地方の習慣として馬頭観音を蒼前(宗善)と言い、又宗善は絵馬を描く事を楽しみとしてゐたので後世に至るまで絵馬を御堂へ奉納する風習が残つたのである。そして永福寺へ弟子入をした南僧坊は日夜学問を励みその明智、非凡絶倫には月志法印も舌を捲いて感嘆するのであった。かくてその後数年を過ぎ南僧坊はここに十三歳の春を迎ふるに到った。 円明鏡の如き清らかな念仏修行、はらはらと散る桜花の下に南僧坊は瞑想に耽っていた。幽寂の鐘の音は止んで夕暮近き頃、瞑想よりフト我に帰って彼方の大空を眺め、亡き母が臨終の遺言をじっと考え込んだ。アア我母上は枕頭に吾を招き苦しき息の下から「弥勒の出世の大願を忘れるなかれ」と言われた。アア弥勒、弥勒出世の大願、しかしながら自力にてはとても叶うべくも無い。是より吾は紀伊国熊野へ参詣して神力を祈りながら大願成就せんものと決心を固め師の坊月志法印へ熊野参詣の志望を申し出でたが、まだ幼者だからとて許されなかつた。南僧坊は今は是非なく或夜密かに寺門を抜け出し七崎の村を後に遥々紀伊路を指して出発してしまった〈図五の写真は現在の永福寺である普賢院〉。 さて紀伊国熊野山は本地弥陀の薬師観音にして熊野三社と言われその霊験いやちこなりと伝えられる霊場地であって、三社の御本体は、瑞の霊(三ツの魂)の神の変名である。南僧坊は一ケ所の御堂に廿一ケ日宛三ケ所に篭もって断食をなし、日夜三度づつ、水垢離を取って精進潔斎し一心不乱になって弥勒の御出世を祈るのであった。ちょうど満願の夜半になって、南僧坊は不思議の霊夢を蒙ったので、それより諸国を行脚して凡ての神仏に祈らんと熊野神社を後に第一回の諸国巡礼を思い立つ事となった。 神勅に由って熊野三社を立出でた男装坊は先づ高野山に登り大願成就を一心不乱に祈願し終って山麓に来かかると、道傍の岩石に腰を下ろし休んでいた一人の山伏がつかつかと男装坊の前に進んで来た。見れば身長六尺余、柿色の法衣に太刀を帯び金剛杖をついて威勢よく言葉も高らかに、「如何に御坊修行は法師の業と見受けたり。汝男子に扮すれども吾法力を以て観じるに全く女人なり。女人禁制の霊山を犯しながら修行などとは以ての外の不埒ならずや。必ずや仏の咎に由って修行の功空しからん。万々一修行の功ありとせば吾前にて其法力を現すべし」と言葉を掛けられて男装坊は暫時ぎょっとしたるが、直に心を取り直し満面笑みを湛えながら、「汝吾に向って女人なれば不埒とは何事ぞ、衆生済度の誓願に男女の区別あるべきや。吾に修行の功如何とは愚なり。三界の大導師釈迦牟尼如来でさえも阿羅々仙人に仕えてその本懐を遂げ玉いしと聞く。况んや凡俗の拙僧未だ修行中にて大悟徹底の域に達せず。御身においては又修行の功ありや」と謙遜しつつも反問した時、彼の山伏は鼻高々と答うやう、「拙者はそもそも大峰葛城の小角、吉野にては金剛蔵王、熊野権現は三所その他山々渓々にて極めし法力によって空飛ぶ鳥も祈り落し、死したる者も生かす事自由なり。いざ汝と法力を行ひ較べん」と詰めよるにぞ、男装坊は静かに答へ、「さらば貴殿の法力を見せ給へ」「然らば御目に掛けん、驚くな」と山伏は腰に下げたる法螺の貝を取って何やら呪文を唱えると見えしが、忽ち炎々たる火焔を貝の尻から吹き出してその火光の四方に輝く様は実に見事であつた。男装坊は泰然自若として暫時打ち眺めいたるが、やがてニッコと微笑みながら静かに九字を切つて合掌するや忽ち猛烈なりし火焔は跡なく消え失せて了った。山伏は最初の術の破れたるを悔やしがり、何を小癪な今度こそは思い知らせんと許り傍の小高き所へ駈け上りざま、珠数も砕けよと押しもんで一心不乱に祈れば見る見る一天俄に掻き曇りピューピューと凄い風は彼方の山頂より吹き下りて一団の黒雲瞬く間に拡がり雪さえ交へて物さみしい冬の景色と変ってしまった。その時に異様の怪物遠近より現はれ出で笑ふもの叫ぶものの声天地に鳴り轟きさも恐ろしき光景を現出した。しかれども男装坊は少しも騒ぐ色なく、「さてもさても見事なる御手の内」と賞めそやしながら真言即言霊の神器を用いれば、今までの物凄き光景は忽ち消滅して再び元の晴天にかへった。 山伏は之を見て、「恐れ入ったる御手の内、愚僧等の及ぶ所に非ず。御縁も在らば又お目に懸らん」と男装坊の法力に征服された山伏は叮嚀に会釈を交して何処ともなく立去ってしまった。 かくて男装坊は高野の山を下り、紀州尾由村という所に差し掛り嘉茂と云える有徳の人の許に一夜の宿を求めた。ところがその夜主人が男装坊の居室を訪ねて言うよう、「実は私の妻が四年ばかり前から不思議の病気に犯され、遠近の行者を頼みて祈祷するも一向少しの効目も無く誠に困り果ててゐる次第なれば何卒御坊の御法力を以て御祈念給はり度し」と言葉を盡して頼み込む様子に男装坊は「してその御病気とは」と問えば「ハイ実は夜な夜な髪の中から鳥の頭が無数に出ては啼き叫び、その鳥の口へ飯を押し込めば忽ち頭髪の中へ隠れるという奇病です。何と云っても毎夜毎夜のことで妻は非常に窶れ果て明日をも知れない有様、何卒御見届けの上御救いくだされたし」と涙をはらはらと流して頼むのであつた。男装坊は暫時小首を傾け考えていたが、「はて奇態なる事を承わるものかな。何はともあれ拙僧及ばずながらその正体を見届けし上祈念を為さん」と快よく承諾した言葉に主人は欣喜雀躍するのであった。さてその夜丑満と思しき頃になると案の如く病人の頭から数十羽の鳥の頭が出て啼き叫ぶ様は実に気味の悪い程である。男装坊は病人の苦しむ様子を熟視した上、「さてもさても不憫の者なるかな」と座敷の中央に壇を飾つて病人を北向きに直し、高盛の食十三盛、五色の幣三十三本を切り立て清水を盥に汲んで、「足」といふ文字を書いた一寸四方の紙片を水に浮べ、さて衣の袖を結んで肩に打ちかけ珠数をさらさらと押しもんで暫く祈ると見えしが不思議なるかな今まで七転八倒の苦しみに呻吟して居た病人はたちまち元気付き頭の鳥は一羽も残らず消え失せてしまった。「最早大丈夫明晩からは何事も無かるべし」と言えば主人を始め並いる一統の人々は非常に喜んで礼を述べ勧められるままに一両日足を停めることとはなつた。 果してその翌晩からは何事もなくなったので男装坊は止むる家人に、「急ぎの旅なれば」と別れを告げるや主人は「名残惜しき事ながら最早是非もなし、些少ながら」とて数々の進物を贈ろうとしたが、「拙僧は身に深き願望あつて、諸国を廻るもの、一切施し物は受け難し。去りながら折角の御厚志を無にするも何んとやら、又一つには病人より離れた鳥どもはこのままにして置いてはさぞや迷いいるならんも心許なし、今一つの願ひあり、是より東に当つて一里ばかりの所にある竹林の中へ一つの御堂を建立し、額に鳥林寺と銘を打ち給わらば幸なり」と言い残してから家人に再び別れを告げて道を急いだ。それより男装坊は二名の嶋へ渡り数々の奇瑞を現はし、九州に渡って筑紫の国を普く廻り所々にて病人を救い、或は御堂を建立する事数知れず再び本土に帰り、熊野に詣で三七日間の祈願を篭め第二回目の諸国行脚に出た。 男装坊は弥勒出世大願の為に国々里々津々浦々遣る隈なく修行しつつ、十三才の頃より七十六歳に至るまで前後を通じて殆んど六十四年間休みなく歩き続けたが、この間熊野三社に額きし事三十二回に及んだ。そしてちょうど三十三回目の熊野詣での時、三七日社前に通夜した満願の夜思わずとろとろと社前に微睡した。と思うと夢とも現つとも判らず神素盞嗚神、威容厳然たる三柱の神を従へ現はれ給い、神々しいその中の一柱神が「如何に男装坊、汝母に孝信として弥勒の出世を願う事不便なり。汝はこの草鞋を穿きこの杖の向くままに山々峰々を凡て巡るべし。此の草鞋の断れたる所を汝の住家と思い、そこにて弥勒三会の神人が出世を待つべし」と言い残し、神姿はたちまち掻き消す如くに隠れ給うた。男装坊は夢より醒めて自分の枕頭を見れば鉄で造れる草鞋と荊の杖が一本置かれてあつた。男装坊は蘇生歓喜の涙にむせびながら、「アア有難し有難し我が大願も成就せり」と百度千度社前に額きて感謝をなし、「さらば熊野大神の神命に従い、国々の山々峰々を跋渉せん」と熊野三社を始め日本全国の高山秀嶽殆んど足跡を印せざる所無きまでに到ったのである。 それより男装坊は日本全洲の霊山霊地と名のつく箇所は残らず巡錫し、名山巨刹に足を止めて道法礼節を説き、各地の雲児水弟の草庵を訪いて法を教へ且つ研究し、時々は病に悩めるを救い、不善者に改過遷善の道を授けて功徳を積み累ねながら、北方の天を望んで行脚の旅を十幾年間続けたる為、鬚髯に霜を交える年配となり、幾十年振りにて故郷の永福寺に帰ってみれば、悲しきかも恩師も両親も既に已に他界せし後にて、ただ徒らに墓石に秋風が咽んでいるのみであった… 次号の実証版に続きます。ノアとナオの方舟の「五十音図」の新発見を掲載する予定でしたが、十和田湖研修が決定したことで、「実証 十和田湖の神秘『月鏡』と男装坊の再生『玉鏡』(一)」を優先しましたこと、ご了承ください。