天岩戸の秘密と熾仁親王の許嫁、三人の皇女和宮

< 霊界物語四一巻に示されていた >

今月号は出口禮子が著した「天皇の黒幕と天岩戸の秘密」『ムー』二〇〇四年十二月一日号を再掲載し、明治維新の真相に迫ります。そして次号以降で、『霊界物語』の記載を織り交ぜながら、皇女和宮と有栖川宮熾仁親王、上田よねの真実に迫りたいと思います。
出口王仁三郎の恋人と冠句の師匠・清之助 王仁三郎曰く。秘密の「秘」は、「必ず示す」と書く。命がけで隠し通した歴史の秘密も時めぐりくれば真実の姿をさらさずにおかないのだろうか。私の夫、出口和明は生涯をかけて祖父・出口王仁三郎を顕すべく生きた人であった。彼の著、大河小説『大地の母』全一二巻(昭和四六年~四八年 毎日新聞刊)は、大本(教)の創成期を揮身の力を込めて描いたもので、私もその取材に深く携わった。老境にさしかかった今、当時では書ききれなかった王仁三郎の実父・有栖川宮熾仁親王と和宮の最期について世に知られざる新事実を語りたい。それは二年前(九年前)に逝った和明の遺志でもある。 もう四〇年も昔のことであるが、いま思えば、その後、私たちの歩んだ道は見えない一本の糸で、一教団の枠を超えた近代日本の歴史の深い闇へと導かれていたような気がせずにはおれない。 『大地の母』は小説とはいっても、フィクションではなく、あくまでも細かい事実の検証と積み重ねによる歴史小説である。昭和三五年、大本教団では上田正昭、村上重良、林屋辰三郎など錚錚たる学者を編集参与に迎えて教団史編纂の大事業がスタートし、昭和三七年には上下巻三千ページにおよぶ『大本七十年史』が完成していた。しかし、公的な教団史では無視されがちな王仁三郎や初期の大本関係者たちの人間臭いエピソードのからみ合いによってこそ、はじめて明かされる真実というものがあるのではという思いで、取材に奔走していた。 その過程で私たちは上田喜三郎〈王仁三郎の本名〉の青春を彩る女性たちについて、調査することになった。手がかりは、王仁三郎の残した回顧歌集『故山の夢』『霧の海』である。王仁三郎は相手の立場を慮ってか、実名はいっさい記していないが、幸い、王仁三郎が生まれ育った亀岡の山間の集落、穴太の里には、若いころの王仁三郎を知る古老たちが何人もおり、「喜三やん」にまつわる思い出を楽しげに語ってくれた。 

 こうして私たちは、歌集から摘出した王仁三郎の「七人の恋人」について次々と特定していくことができたが、そのうちのひとりに八木弁という女性がいた。昭和四四年の春、私たちは、亀岡の千代川村にある八木弁の生家を捜し当てたが、ここで二重の不思議な暗合に遭遇することになる。私たちを暖かく迎えてくれた当主の八木次男氏(図一)は、弁の父・八木清之助が明治二九年から書き留めた膨大な和綴じの日記を持ってこられたが、その表紙には「度変窟烏峰」の名が墨書されてあったのだ。若き日の王仁三郎が冠句に熱中し、偕行社というサークルまでつくっていたことはよく知られている。穴太の小幡神社には、その創立一周年に王仁三郎の奉納した額が残っている。冠句は江戸中期から流行した俳句と川柳を混ぜたような大衆文芸である。季語はなく、選者が五七五の最初の五の題を指定して、それに応じて参加者が七、五と続け、その優劣を競うのである。 回顧歌集や奉納された額から判断すると、王仁三郎の冠句の師匠は「度変窟烏峰」という人物であるが、いったいどこのだれなのか、皆目わからないままであった。ところが喜三郎の恋人、八木弁は「度変窟烏峰」の娘だったのだ。それだけでも驚きであったが、この烏峰こと八木清之助の経歴には尋常ならざるものがあった。清之助は動乱の幕末裏面史に深くかかわっていたのだ。
和宮の遺骨が眠る亀岡の謎の石塔(図二) 弘化四年(一八四六)、千代川村拝田に生まれた清之助は、一四歳で京都のある宮家に中間奉公することになったという。そして翌文久元年(一八六一)、泣く泣く関東に降嫁する和宮の供として江戸へ下っているのだ。「小石川藩邸にて」と裏表紙に記した和綴じの本が残っていた。小石川藩邸というと、水戸藩の江戸屋敷に滞在していたのだろうか。 さらに清之助は、いわゆる七卿落ち(図三)に際しても長州まで同行している。実際、昭和七年十一月二七日にゆかりの京都洛北にある妙法院で、七卿西走七〇年記念の法要が行われた際、「七卿落ち当時からの唯一の生存者」として八木清之助(当時八八歳)と丹波から伴ってきた八木義一郎が出席したことが写真入りで当時の新聞に報じられているのだ。それは、ただの中間ではない。七〇年の後、最後のひとりとなっても名を記されていた。同志の扱いではないか。八・一八の政変で京都での地位を喪失した長州藩は、勢力挽回のため、藩主父子の雪冤と七卿の赦免を朝廷に願いでるがむなしく、さらに翌元治元年(一八六四)六月には池田屋で藩士多数を殺戮されたため、武力による宮中制圧を策し、ついに三家老が兵を率いて上京。七月一九日、会津・薩摩藩と蛤御門付近で交戦するが敗北する。いわゆる禁門の変である。 このとき在京中の長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允 図四)も身辺に危険が迫り、但馬出石に落ち延びる。身なりをやつして二条大橋の下に潜む桂のもとに芸妓の幾松(木戸松子)が握り飯を運んだという有名なエピソードはこのときのものである。ここまでは一般に知られている物語だが、いったいどういう経路で出石まで落ち延びたのかは、詳らかではない。ところが八木次男氏によれば、桂小五郎は八木清之助を頼って京を抜け、拝田の清之助の家のわら小屋にかくまわれたという。清之助が、桂を八木、園部をへて、但馬、出石へと逃がすルートを確保したのだ。「逃げの小五郎」といわれるほど用心深い彼が、清之助には一命をあずけている。私は骨のままであるらしい玄関協のゆがんだトタン屋根のわら小屋から、桂小五郎と越えたという拝田峠に視線を移した。ふもとには、十四、五軒の農家が散らばる。 「うちの脇を通らんと峠には行けん。それに、昔はもっと狭い、ひどい道やったげな」と、次男氏は八木に向かってせり上がっていく峠を指さした。母屋の裏手は崖で、なかほどからふたまたになった見事な松の大木がある。崖を上った奥に、小さなお地蔵さんが二十余り並び、ひっそりと五輪の塔(三重の塔として現存していたが、その後地震等のため今の形は留めていない)が建っていた。その前に湯気の上がったご飯と水が供えられている。「あれは……?」「和宮さんの墓ですんや」と次男氏。「なにか和宮の遺品でも納めてあるのでしょうか」と、和明。「いや、祖父は分骨だと、これを子孫代々供養せいと」 清之助さんの遺言をしっかり守る次男氏の言葉に迷いはない。しかし、和宮の分骨とは?和宮の遺骸は徳川家の菩提寺である増上寺(図五)に葬られているはずだ。たしかに清之助は和官の降嫁に際してお供として付き従ったが、そんな中間は何人もいただろう。いったい下々の者に皇女の遺骨を分骨するというようなことがありえたのだろうか。現代の庶民においてさえ、よほど生前から縁のある者でなければ考えられない。それ以上に辻棲が合わないのは、当時の上層階級が土葬だったことである。土葬の遺骸からどのように分骨するのだろう?疑問は次々湧いてきた。 だが、なぜかはわからないが、和宮の分骨がこの墓にある。そう和明が信じるのには少し理由があった。私たちは大本教団でもタブーとされてきた王仁三郎の有栖川宮熾仁親王落胤伝説を追跡し、それがほぼ事実であるという確信を深めていた矢先であった。 そして有栖川宮家が廃絶となった現在、和宮の魂が引き寄せたいのは、いとしい熾仁の血を継ぐ王仁三郎、そして和明にほかならなかったのではないだろうか。それならよし、さびしい和宮の御霊を慰めることができればと、昭和五〇年八月三一日、和明は生まれて初めての祭主を買って出て、有志の者たちとひそやかにこの基前で和宮慰霊百年祭を執行した。昭和五十年同月一日付の「人類愛善新聞」は、その模様を次のように記している。 「……この塔が和宮の墓であるなど、ほんの最近まで近所の人すら知らなかった。それが八木家の人以外に知られたのは昭和四十五年、出口和明氏が『大地の母』執筆の際、調査のため八木家を訪れてからである。和明氏は『大地の母』で出口王仁三郎師の若き日の事跡を調べていた。とくに〈王仁師の有栖川宮熾仁親王落胤説〉の調査に没頭していた。その途中、この事実を知らされたことに、〈何か因縁のようなものを感じる〉と和明氏は言う…」こうして、王仁三郎の青春時代の恋人というまったく関係のないラインから、熾仁親王の許嫁である悲劇の皇女、和宮の影が浮かびあがってきた。それだけに、この和宮の分骨の話は、闇に封印された彼方の世界からの、なにか貴重なシグナルに思えたのである。そして実際、それはそのとおりだったのだ。
失われた和宮の左手首を巡る謎 さて、思わぬところで和宮の墓に遭遇した私たちであったが、この段階では、なぜそこに分骨が埋葬されているのかはまったくの謎であった。その謎の追求に後髪を引かれながらも、翌年からはいよいよ『大地の母』の刊行が始まり、連日の取材、執筆、校正と文字通り寝食の暇もない状態へと追い込まれていった。ところが、『大地の母』一二巻の出版もようやく終わった昭和四六年、亀岡在住中に取材を手伝ってくれた奄美の大本信徒・祷正巳氏からあるラジオ放送の録音テープが送られてきた。 「人生読本」という番組で、出演者は元東京国立博物館資料室長の鎌原正巳氏。番組では東京港区芝の増上寺の徳川廟改葬工事に関連して、和宮の遺骸は胸に一枚のガラス写真を抱いていたが、ある不手際からその写真の映像は永久に失われたこと、和宮の遺骸には左の手首がなかったことなど奇怪な事実が語られていた。 和宮が抱いていた写真? それは誰だったのか?左の手首の真相は?私たちはさっそく、写真を見た当事者である山辺知行氏を訪ねた。増上寺の徳川家霊廟には、二代将軍・秀忠をはじめ、徳川家ゆかりの人々の墓が立ち並ぶ。昭和三三年には、戦禍で荒廃したままになっていたこの墓所の改築工事が行われることになり、東京大学理学部長の小谷政夫氏を代表とする総合調査が行われた。この一連の調査に国立博物館染色室長であった山辺氏は、副葬品調査の立場から参加していた。 二代秀忠、六代家宣、十二代家慶に続いて、同年十二月二十日、静寛院宮親子内親王、つまり皇女和宮の改葬および調査がはじまり、翌三四年二月五日、徳川家十七代当主の家正氏が立ち会って、はじめて柩の蓋が開けられた 和宮は座棺ばかりの墓地のなかで唯一、寝棺で葬られていた(図六)。朽ち果てた三重の木棺の床に敷きつめられた石灰の下に、期待された副葬品はなかった。ほかの墓に数々見られたような服飾、装具はなにひとつ得られず、かすかに足元に絹の細片が散っていただけの淋しさである。 北に枕してわずかに膝を屈し、両肘を前に伸ばすようにして静かに横たわっている華奢な遺骨、そして切り揃えられた黒髪……。「まるで遊び疲れた子供がうたた寝しているような」と、立ち会った山辺氏は、印象を私たちに語ってくれた。見るべき副葬品こそなかったが、このとき山辺氏は重大な遺品をひとつ発見し、その後、思わぬ不手際からこれを失う羽目になった。和宮の両腕の間にちょうど今が今まで抱きしめていたかのような形で、小さなガラス板が落ちていたのだ。山辺氏は懐中鏡かなにかの裂地の部分が腐朽したものだろうと思い、採取して持ち帰った。
哀れ消え失せた写真の人物はだれか その後、山辺氏は、博物館の仕事場で採取物の整理をしていた。和宮の抱いていたガラス板をふと電灯の光に透かしてみると、なにかが写っている。それはおぼろげながら長袴の直垂に立烏帽子姿のまだ若い男子の立像ではないか。これはだれだろう?和宮の夫、家茂将軍の写真だろうか?いやそれとも……?  ひとりで見つめていると、暗い廊下をこつこつと足音が近づいてくる。守衛のHさんだった。呼び止めて、墓から持ち帰ったばかりのガラス板を見せた。彼もガラス板に写った像を認めた。自分ひとりの想像や錯覚ではなかった。Hさんとふたりで見たのだ。これは昔の湿板写真に間違いない。明日になったら明るい光の下でよく調べよう。そう思いつつ、山辺氏は明日を楽しみに、その写真板を仕事場の台の上に立てかけておいて、家へ帰った。直垂長袴は武家の柳営(幕府ここでは江戸城)出仕の服であるから、はじめは家茂だと思った。しかし、公家も内々に用いていたはずである…。家へ帰っても、そのおぼろげな像が頭に焼き付いて離れなかった。しかもだんだん家茂将軍ではなく、和宮の「許嫁」だった有栖川宮熾仁親王なのではないか、と思われてくる。 翌朝、館に出るなり、さっそくその板を取り上げてみた。ところがなんと、ただの素透しのガラスになっているではないか。うっかり机上に立てておいたのが運のつきだった。あわてて隣の文化財研究所に持ち込んだが、「もうダメですよ。土のなかに埋まっていてこそ、百年でも二百年でも残るけど、陽の光に当てちゃったら、いくらなんでも復元できませんよ」と、つっ放されるばかりであった。 和宮が骨となっても抱きつづけた幻の人はだれだったのか。今となっては永遠の謎であるが、生きているうちには許されなかった恋しい若宮・熾仁親王の幻影を胸にかき抱き、だれにも邪魔されることのない墓地のなかで安らかに眠っていたのだと私は思いたい。心きいた子女のだれかが、あまりにも寂しい宮の遺体にこっそりとしのばせてくれたのであろうか。が、それにしてもどこまで憎い運命のいたずらだろう。たったひとつの墓のなかの宝物まで和宮から取り上げ、光にさらして無情にも消してしまうとは……。   しかし、和宮の遺骸に関しては、この消えた写真を上回る奇怪な謎があった。骨絡の保存状態は良好であるのに、なぜか、左手首の関節から下が発見できなかったのである。これはただ単純に、見つからなかったではすまされない問題である。行き倒れならともかく、庶民であっても、親の死骸は大切に葬るものである。ましてや皇女であり将軍の正室であった女性の遺骸が、粗末に扱われたはずはない。山辺氏たちは不思議でならず、和宮の数少ない写真をあさってみたが、左手はどれも袖下に隠されている。あるいは先天的になかったのでは……と疑いかけたところ、洋装の和宮の写真(図八)が見つかり、それにはちゃんと左手指が写っていた。ではなぜ遺骸には左手首がないのか?
謎の投書が語る和宮惨殺の物語 その頃、和宮の侍女であったという女性から、朝日新聞と調査団に奇怪な投書が舞い込んだ。明治初年の頃、和宮が岩倉具視と投書者の祖母に当たる宮の祐筆〈公文書や記録の作成を行う人〉に若干の供回りを連れて江戸から京都へ向かう途中、箱根山中で賊に遭い、防戦中に自害されたという内容であった。差出人が匿名であったこともあり、この投書は一笑に付されたようだ。しかし、正式な発掘調査報告書『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会)の本文中に「(昭和三十四年)三月○日、静寛院宮の臨終について朝日新聞社、および調査担当官に投書が来る」の一行が記録されているとこからすると、そこにはやはりなにかひっかかるものがあったのではなかろうか。 原文は調査団のひとりである鈴木尚氏の著書、『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』の後書きにも掲載されているので、七十四ページに転載しておく。 鈴木氏は「達筆で認められたこの手紙は、教養と自信であふれていた」と記し、さらに「和宮の遺骨には、刃の跡その他の病変部は認められなかった。ただ、不思議にも左手から先の手骨は遂に発見されなかった(図七)「可能性としては、晩年の和宮に、彼女の手のなくなるような何かが起こったか、あるいは秘されているが、和宮か何かの事件に巻こまれたか、ということになろうか。私は、前述の匿名夫人の説にも、時間的に不自然な点があるのですぐに肯定できるものではないが、ことによると、墓誌銘に伝えられるような脚気がもとで薨去されたのではなく、何か別の事件、たとえば投書の内容に似た事件にでも、巻き込まれたことがあっての御最期であったかもしれない。今となっては判断のしようもないが、何とも不思議な話ではある」と述べている。 なお、手紙に「お手許品も何も入れず」とあるのも、消えた湿板写真以外に副葬品がなかった事実と不思議に一致している。ちなみにほかの将軍夫人たちは、華やかな副葬品と共に葬られているのだ。公式記録によると、和宮は明治二年一月一八日に東京(江戸)から京都に戻り、明治七年七月に再び京都から東京に移り、明治十年に脚気療養のため箱根塔之沢で湯治中に死去したことになっている。この点で匿名婦人の投書は年代が少し合わないが、和宮の自筆の日記『静寛院宮御日記』が明治五年で終わっているのは少し気になるとこである。 鈴木尚氏のいうように、今となっては事実はわからない。しかし、もしも亀岡の八木家の塔に眠っている「分骨」が和官の左手首だったとすれば、すべての辻棲が合うことも確かなのである。また、匿名婦人の投書がなんらかの事実を伝えているとしても、なぜ明治政府はその事実を隠蔽する必要があったのか、という問題は残る。たしかに、皇女が盗賊に襲われて死亡したというだけでもスキャンダルであり、治安責任者のみならず政府の責任が厳しく問われることになる。しかし、はたしてそれだけなのか? とくに匿名婦人の投書で、岩倉具視の名前があがっていることが気になる。岩倉は和宮の降嫁を強引に進めた冷血な策謀家であり、しかも後で述べるように孝明天皇密殺謀議の首魁と目される人物なのである。そう、この話の背後には、隠されたもっと深い闇があるのではなかろうか。有栖川宮の死因は割腹自殺であった? 私たちが手探りながら、そう考えたのには理由がある。実は、皇女和宮だけではなく、有栖川熾仁親王の死についても、ある見逃せない情報を得ていたのだ。「熾仁親王は実は品川御殿(図九)で割腹自殺された。血の飛び散った屏風が残されているはずです。その御殿は解体されて、山城八幡の円福寺に移された。一院は大徳寺の竜光院にある。当時の住職、上月鉄舟がすべてを知っています。 これは昭和四四年九月十日、突然訪れた京都の小原某氏から聞いた話である。ごく親しい阿刀弘文氏公に聞かれて『大地の母』執筆中の和明に知らせてくださったのだ。阿刀家は、大嘗祭の執綱を務める家柄とか。弘法大師の兄弟である阿刀大足の直系で有栖川宮とも縁続き、皇室関係の文書も担当している由である。それでも当時は私たちの知識が至らず、消化するだけの時間もなかった。締め切りが迫ってくる。手がかりを求めて『有栖川宮熾仁親王行実』や『有栖川宮熾仁親王日記』を探っても、かくかくたる事績ばかりで自殺にいたる影もない。 公式には、熾仁親王は日清戦争の勝利を目前とした広島大本営にあり、参謀総長の激務のなかで病を得、舞子別荘に退き療養のところ、マラリアチフスと判明、明治二十八年一月一五日に崩御したことになっている。六一歳である……(出口禮子)
恒 なお、少し気になる点があります。明治二十七年、日清戦争が勃発し、九月十七日、大本営を広島に進められるにあたり、明治天皇の生母中山一位の局は大阪に下られ、旭形亀太郎家に御一泊となり、玉鉾大神に御参拝になった。このとき、有栖川宮、小松、北白川、伏見、久邇、賀陽の各宮家からは親電を寄せられたと言います。九月十五日に明治天皇が広島に入ることで、平壌攻略戦で日本軍が勝利。そして明治二十七年の時の、参謀総長として広島大本営に入ったのは、有栖川宮熾仁親王。明治二十七~八年の戦役の間、旭形は広島に移り住んで大本営にご用を始める。したがって、旭形亀太郎は、有栖川宮熾仁親王を追うように広島に入っています。 大本営とは,明治二六(一八九三)年の勅令(天皇の命令)で制定された戦時下の天皇直属の最高統帥(軍隊を率いること)機関であり、そのおかれているところが首都ともいえるかもしれません。 西南戦争の起こった明治十年の段階で博愛社(現在の日本赤十字社)大阪支部幹事とまでなった実業界の大立者が旭形亀太郎、その博愛社の活動を一八七七年に英断をもって許可したのが有栖川宮熾仁親王。孝明天皇暗殺の日に鰉を届けようとした旭形亀太郎と、孝明天皇の妹、和宮の許嫁であった有栖川宮熾仁は赤十字社の世界では、両者は同じ「赤十字有功章」を受賞していました。 それにしても、中山一位の局は、その真偽はともかく明治天皇の母とされている人物、その人が旭形家に泊まるとは、明治天皇と旭形亀太郎の関係もなみなみならぬものがあることが想起されます。 

 孝明天皇にとって旭形亀太郎は、『霊界物語』での白狐旭と白狐高倉・月日明神であるかのように見えてきます。しかし旭形は、その記録の中でも、あえて和宮の死去は明治二年か十年か(恒)なぜ、今皇女和宮(図一・図二)なのか? 疑問に思われる方もいらっしゃると思います。皇女和宮は出口王仁三郎聖師の父、有栖川宮熾仁親王の許嫁として、公武合体の犠牲になられ、江戸城無血開城にも貢献された方です。私は先月の十一月号の『神の国』誌の記事で、和宮が明治二年に箱根塔ノ沢で暗殺され、骨は東京に持ち帰られ、左手首は、八木清之助が持ち帰って亀岡市の郷里に埋めて五輪の塔(図三)の形で祀られたことを仮説として呈示しました。出口禮子は、明治十年に和宮が箱根で死亡したという公式事実から、和宮暗殺は明治十年であろうしていますが、和宮が京に帰ったのは、明治二年二月三日とされていますから、「調査団宛の手紙」を書いた老婆の指摘する明治初年の年代、和宮の暗殺はこの二月三日の前のことではないでしょうか。 「調査団宛の手紙」の主旨は、明治初年に「岩倉卿と祖母が主になって、小数の供まわりを従へ、御手回り品を取まとめ、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊にあい(多分、浪人共)、宮を木陰か洞穴の様な所に(もちん御駕籠)おかくまいいたし、祖母も薙刀を持って戦いはしたものの、道具類は取られ、家来の大方は斬られ、傷つき、やっと追いはらって岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早これまでと、お覚悟あってか、立派に自害してお果てなされた」ということです。それならば、明治二年二月二四日に明治天皇に会ったという和宮親子内親王とは、その面会の事実そのものが虚偽か、あるいは、殺されたであろう和宮の「替玉」であったのではないでしょうか。 大室寅之祐明治天皇は、江戸開城から半年を経た明治元年十月一三日、初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改められました(東京遷都)。和宮が十一月一日に明治天皇と面会したという記録がありますが、天皇は御簾の外から顔を出して和宮と会見したのでしょうか。もしそうなら、和宮は明治天皇が偽物であることを見抜いていたはず。 ただ、兄孝明天皇が暗殺され、夫、徳川家茂も暗殺説が飛び交い、孝明天皇の子とされる睦仁親王も暗殺されたと悟ったならば、自身の命を考えるならば、和宮は黙るしかなかったはず。そして、辻ミチ子氏の『和宮』(ミネルヴァ書房)によれば、上京に当たり和宮には千金(千両、または多額の金額)が渡され、藤子はじめ侍女たちにもお手当が出ます。勝海舟は日記に「万事朝廷にて御賄いなし下され、かつ天璋院様へ三千両お送り下され、至厚のご趣意、岩倉殿深情に出ず」と記しています。 ここに登場するのは、「調査団宛の手紙」の老婆の指摘と同じ、岩倉具視です。この千両とか三千両とは、岩倉具視や伊藤博文が実行した孝明天皇暗殺と大室寅之佑すりかえに伴う「口止め料」ではないでしょうか。
有栖川宮熾仁親王、維新後京都滞在の年譜 ここで、出口禮子「落胤問題を実証する(二二)」『神の国』誌二〇〇三年三月号から引用します。(禮子)私の関心は、世祢(図四)の推定受胎期よりほぼ一年前、「調馬之事」のしきりに現われる明治二年代へと移っていく。当時の熾仁親王の行実を、年譜的に記してみよう。九月八日 一世一代の制を立て、明治と改元。一〇月一三日 明治天皇、東京に御著輦。親王は午前四時出門。錦旗兵杖を具して品川に奉迎される。皇居と定まった西丸に供奉し、午後三時帰邸。一〇月一九日 天皇お手習い師範仰せつけられ、お手本を調進すべき旨の沙汰がある。一〇月二二日 初めてお手習い師範として参内、以後しばしばこのことがある。一〇月二三日 上表し、東北平定の状を述べ、大総督辞任を奏請する。一一月二日 錦旗節刀を奉還し、賜暇を奏請する。一一月五日 京都に凱旋のため、因州藩邸を発する。一一月二五日 京都着、直ちに参朝、凱旋を報じ帰邸。東征進発以来、九ケ月ぶりの帰邸である。一二月三日 参内、大宮、桂両御所に伺候。一二月二二日 天皇京都著輦。一二月二五日 天皇は後月検束山陵に親謁、親王は供奉される。一二月二八日 一条美子(のちの昭憲皇太后)立后宣下。二月一六日 すでに朝議は東京遷都に決していたが、天皇の再度東幸について、お留守取締りを命じられる。二月二一日 『日記』に初めて「調馬之事」の記述があらわれる。三月三日 来る四月十日までに寒月下向のことを沙汰される。三月六日 参内し、東下を辞退する。三月七日 天皇東幸を奏送する。六月二日 征東の功を質し、世銀千二百石下賜の沙汰がある。この日初めて武田信晁令義解講義を聴聞。六月四日 はじめて武田信晁の日本書紀、河内図書の大学講義を聴聞。六月五日 漢学所御用掛に、聴講加入を申し出られる。六月二七日 父宮と謀り、家政革新。七月一二日 父幟仁親王と連署し、宮名返上の上表を提出。(註・東京ではすでに四日前の七月八日、行政官布告をもって位宮以外の従来の百官の受領を停められていたが、遠隔の京都にはその布告が届いていなかった)八月八日 別殿構内に仮学問所設置。八月二〇日 邸内武揚の開演に臨み、以後武術のお稽古される。九月一九日 徳川貞子と縁組成る。元十五代将軍慶喜の異母妹。一〇月二日 皇后東行につき、墨一箱進献。一〇月五日 軽い風邪のため、使者をもって皇后東行を奏送させる。一〇月七日 父宮より親王の縁組勅許願出。一〇月一二日 御学問所の講釈日割を改める。一〇月一五日 はじめて竹沢寛三郎の古本大学、伝習講義を聴講。一〇月二三日 東京出向の沙汰がある。一一月一日 京都発(十一月十五日に東京へ着かれてからの一年余の動静は略する)
権謀術数に狂奔する新政府高官 維新の鴻業に情熱を傾け、みずから買って出てまで東征大総督の重任を負われた親王であった。親王が幕府的秩序の破壊に身命を賭している一方、京都では、五か条のご誓文、官政改革(太政七宮の制・総裁職廃官になる)、江戸を東京と改称、明治天皇即位、明治と改元し一世一元の制を定めるなど、天皇政権の経綸が着々と推し進められていた。 明治元年十月十三日、天皇が東京に御著輦になるや親王は大総督を辞任、まだ十六歳のお若い天皇を残してさっさと京都へ引き揚げていられる。翌二年三月には東京遷都による東下の命も、固辞して受けられぬ。 『行実』の編者は「その理由は、資料欠如のため今之を詳するを得ず」と述べているがいかにも歯切れが悪い。その後京都におられたこの一年、記録すべき政治的軍事的業績は何一つ残しておられぬ。お若い天皇を民事と切り離し、神的権威にまで吊り上げておいて、そのまわりの地歩を刻々と固めつつある維新の役者たちを横目に、ただ学問と武術と調馬の明け暮れ……世をすねているとしか思えぬご日常ではないか。形こそ王政復古は成した。しかしその裏に親王の見たものは、「百事御一新」の約束とはこと離れ、高給をむさぼり、広大な屋敷に住み、人民を忘れて醜い権謀術数に狂奔する新政府高官たちの姿ではなかったか。立て替えはなっても、立て直しには、やはり虫の食った古材を粉飾して使っている。かといって、親王に何ができよう。皇族という立場など、しょせんは、彼らが政権獲得までの飾り物の帽子であったに過ぎぬ。 参与兼東征大総督軍参謀の西郷隆盛は、明治元年五月、東京を離れて京都へ、翌六月には京都を離れて薩摩へ帰り、何故か中央から遠ざかってしまう。原因は違っても、どこか一脈通じる思いが、親王にもあったかもしれない。 愛する女「世祢」の元へお忍びで通われた印 希望が挫折した時、男はしばしばやり場のない心のうずきを、酒と女によって癒そうとする。親王は、それを調馬に……いや、待てよ、馬といえば世俗にも、よく女を……「調馬之事」が、新しい意味合いをおびて、私に迫ってくる。 繰り返すが、親王は明治元年十一月二十五日から明治二年十一月一日までの一年間、京都にお住みであった。その間に限定して、『熾仁親王日記』に現れる「調馬之事」の回数を調べてみると、最初にこの言葉が記された二月二十一日から京都で最後の「調馬之事」のあった十月二十七日までの二百四十三日間に七十回、三日半に一度の割となる。そしてその間の「日記」(図五)の空白は十四回で、そのうち九回までその前後に「調馬之事〈馬を乗り回すこと〉」の記述がある。まず次表をごらんいただきたい。 そうだ、「調馬之事」とは、愛する女の元へお忍びで通われた印であり、それに前後する空白の日は、そのまま女のそばに居続けられたことを意味するのではないか。空白の日の代わりに「調馬之事」の記述でもよさそうなものだが、それでは日帰りか居続けかの区別がつかぬ。前述したように、「調馬之事」の記述が一度も連続して現れないのは、その為である。 では何故、「調馬之事」の記述を、空白の日の前とか後とかに決めておかれなかったのか。それではあまりに意図が明白で、作為を見破られてしまうおそれがある。親王のような身分で女の元ヘ通う自由があったか、という疑念を抱く読者があるかもしれない。ところがある時期まで、われわれが考える以上に、宮様や政府高官にも自由が許されていたようである。 明治十一年五月十四日午前八時、正三位参議兼内務卿大久保利通が参朝の途中、凶徒のために暗殺される事件が起こる。それが契機となり、特旨をもって次のように決められた。 〔五月廿四日・東京日日新聞〕「有栖川宮二品親王(熾仁親王)、三条、岩倉両大臣に参議諸公の参朝退官の節は、馬車の前後を東京鎮台騎兵(銃を背負い抜刀を持つ) にて護衛しまいらすよう昨廿三日より定められぬ。但し親王、大臣は六騎、参議は四騎と申すこと」 つまりそれまでは、内務卿(内務大臣)の公式参朝でさえ、馬丁と馭者だけの身軽なものである。まして首都の東京に背を向けて京都に住み、今やこれといった公的なお仕事のない独身の親王である。家臣たちにしても、親王が女性の元ヘしのばれると察すれば、そして何らかの形で親王の血をこの世に残したいという願望があったとすれば、むしろほほえましく眺めていたのではないか。 空白表だけなら、三月二十九日より四月三日まで居続けられたように見えるが、三月二十九日には、「調馬之事」のほかに「申半刻過宿直参、朝之事」の記述があるから、これは一種の句読点と考えて、この日は日帰り。そして翌三月三十日から四月三日まで四日間の居続け。さらに二日おいて、六、七、八と三日間。五月には三日間が二回と二日間、六月、三日間、七月、二日間、九月にも十、十一日の二日間の居続けをなさっている。 「調馬之事」の女性がすべて上田世祢であったかどうかは知る手がかりもないが、熾仁親王から世祢に与えられた わが恋は深山の奥の草なれや茂さまされど知る人ぞなき という恋歌から考えても、数少ない逢瀬でないことは知れる。造花のような宮廷の女官ばかりを見なれた熾仁親王である。野育ちの世祢の可憐さ、うぶうぶしさが新鮮な魅力となって、悩み多き親王のお心をとらえられたのであろう。伏見まで馬をとばせられ御酒でも召し上がられれば、つい帰るのがおっくうにもなられよう、世祢が止めたか、親王が帰らぬと言われたか、かくては「調馬之事」と「日記」の空白の続くばかり……。 九月十、十一日の居続けのあと、女の元ヘ外泊された形跡が絶えるのは、一層私の主張を裏付ける。なぜならば、九月十九日に貞子妃との縁組が定まっているからである。さすがに今までのような自由な外泊はできにくいし、家臣たちも自重を望んだであろう。けれど親王の情熱が薄らいだのでない証拠には、「調馬之事」の記録は九月だけで十一回を数える。 それでは、十一月十五日に東京へお着きになってから翌明治三年二月十六日の貞子妃との結婚までに「調馬之事」が十三回もあるのは何故か。世祢と生木を裂くように別れねばならなかった淋しさ、また独身時代最後の名残としての思いもあって、調馬にこと寄せ遊里に足を踏み入れられたのであろう。都の女でも、丹波の野の花でもない江戸の女もまた、それはそれで親王のお心をお慰めしたと見え、厳寒の十二月には九回の多きに達する。しかし「調馬之事」と『日記』の空白の続く日は、一度もない。 御結婚後、「調馬之事」の記録は四回あり、そのうち一度は、三月十三日『日記』の空白、十四日「調馬之事」と続いている。妃との御関係に、しっくりいかぬものがあったのだろうか。けれど四月五日を最後として、『日記』に「調馬之事」が現れることはない。 真の生年月日は知らぬ 私が何を言おうとするか、もはやお察しであろう。私たちは今まで聖師の「明治四年旧七月十二日生」を絶対揺るぎない聖な鉄壁と考え、私もその前でたじろいだものであった。 しかしそれが動かせぬものならば、熾仁親王落胤説はでたらめで、聖師は大嘘つきである。 『更生日記」第二巻昭和六年二月十二日の項に、聖師は、第一次大本事件を回顧して、次の一連のお歌を残しておられる。 前十四首略刑事らに送られ自動車に揺られつ地方裁判所へとつれらる検事局に暫し待たされ予審判事 室につづいて送られにけり何故か理由は知らねど大いなる 嫌疑をうけしことを悟りぬ不敬事件新聞紙法違反など 吾が名記せし調書に悲憤す判事等に生年月日尋ねられ 知らずと吾は直に答へぬ大本の道とく身ながら生れたる 日を知らぬかと判事はなじる西東黒白もわからぬ赤ん坊が 如何して生れた日が知れようか戸籍面に生年月日はありながら 親にあらねば真偽は知らず理屈のみ云ふ男よと判官は 目を丸くしてわが顔にらむ睨まれて睨みかへせば判官は しばらくありてふき出しにけり道の為大君のため尽くす身の 裁かるるわけなしと思ひぬ型の如住所姓名生年月日 調書に記して帰れとぞ云ふさやうなら汽車で綾部へ婦らんと いへば判官監獄といふ監獄ときいていささか驚けど 道の御為とあきらめにけり 後十二首略 聖師が判事をからかわれているように見えるが、この場合、そんなことをする必要はどこにもない。いたずらに判事の心象を悪くするだけで、大きなマイナスである。ただ生年月日を答える簡単な手続きなのに、ここで返事をあいまいにして言質を与えないのは、訴因が不敬事件と知ったればこそである。問う方も答える方も、落胤問題がはっきり意識の下敷きにあったに違いない。 聖師は、ご自分の真の生年月日は知らぬ、と調書にまで述べておられる。それを回顧歌にして、ちゃんと残しておいてくださったと思おう。さあ、これで幾分、私の気が軽くなった。
 上田幸吉氏談(昭和四十四年五月十四日取材) 「有栖川宮さまの落胤のことは、母(上田世祢)から聞かされた。聖師さんからは、ちょっとも聞かされたことはない。母は菊の紋のついた片袖(白い小袖・禮子註)をもらったが、それは明治三十四年の火事でも残って、聖師さんが預かっていた。母が死んだ後、聖師さんから「宮さんの巾着みたいなもの預かっとらんか」と訊かれたことはある。母から聞いた話やと、お婆さん(うの)の弟が伏見に舟宿しとって、芸者を嫁にしていた。だから自由になる姪を貸してほしくて、伏見に呼んだのや。母は末子やから、どこへ嫁に行ってもよかった。養女にもらうつもりやったのや。ところが宮さまのお手がついて、つわりになってどうにもならんから、しぶしぶ帰ってきて、婿もろた。母が祖母に打ち明けると、祖母は「こんな結構なことはない」と言うて、とても喜んだ。だから聖師さんが生まれると、一二代続いた吉松の名を廃めて、嬉しいから喜三郎とつけた。二、三ヶ月早く生まれたが、父は気がつかなんだ」 木庭次守氏談 「出口三千麿氏の家で、聖師は『母は親王の胤を宿して帰ってから、父吉松を養子にもらった。だからいつも腹帯をきつくしめて、月満ちて生まれでも、父には七ヶ月児と思わせていた』と私に語られたことがある」 世祢が明治三年春に結婚し、翌四年旧七月に出産したのなら、世祢は夫に七ヶ月児だといつわる必要はさらにない。 聖師は「うちのお母は発展家でなあ、伏見へ預けられたらわしできたんや。丹波よいとこ女の夜這いというやろ」と仰られたこともあった。父はだから可哀想であるとも言われたし書いてある。短冊が二枚あったが、火事で焼けた(実際には救い出された。短冊の一枚は熊野館から行方不明ですが、短冊の一枚は綾部に現存しています)(図六)。落胤の証拠になる物件を置いておくと危ないという考えが母世祢にはあった。それを十分に知っておられたので、聖師は青春時代から阿呆に見せかけられた。十年ほど顔を洗わなんだり、歯茎にはぐそをいっぱいつけたりして(以上出口和明・禮子取材メモから)。 聖師は「わが生まれし十二夜の月を仰ぐたびふるさとの山偲ばれにける」などとしばしば歌っていられるように、七月十二日という日を非常に意義づけ、大事にしていられる。旧七月十二日出生は動かぬが、問題は生年である。
聖師は明治三年旧七月十二日に出生 明治三年旧七月十二日出生。これが私の考え抜いたあげくの結論である。その日から逆算して上田世祢の受胎の日を推定すると、二百八十日前は明治二年旧十月一日になる。ところが聖師は『昭和青年』五月号の青年たちとの座談会の中で「……人間も女子は二百八十日、男子は二百八十五日で生まれる」と語っていられるので、二百八十五日前にさかのぼると、明治二年九月二十六日になる。 さて、その前後十日ばかりの「調馬之事」の記述は、どうか。明治二年九月二十日、二十二日、二十四日、二十七日、二十九日、十月一日、五日、十三日、非常にひんびんである。大胆な推論であるが、私は、そのいずれかの日に、世祢は熾仁親王の一粒の胤を宿したと信ずる。しかし、その自覚もないまま、別離がせまる。 一〇月二十七日、最後の逢瀬で泣きぬれたであろうのに、世祢はまだ妊娠を知るまい。つわりが始まるのは人によって差があるが二ヶ月前後、すでに親王は、東ヘ旅立たれた後であったろう。頼るべき人を失い途方にくれた世祢は、その暮に故郷の穴太へ帰り、翌明治三年一月十六日(この日のことは後述)、あわただしい結婚をする。腹の子は、聖師が木庭氏に語られたように、まさに三、四ヶ月である。月満ちて聖師が生まれられたのが明治三年七月十二日。だから世祢は母うのと共謀して、夫吉松に「七ヶ月児だ」といつわらねばならなかった。 聖師の生年を一年早めるだけで、恐ろしいほど辻つまが合ってくる。聖師は神童と言われたが、同じ年頃の子より一年早ければ、その天賦の才とともに、一層目立つことだろう。
熾仁親王と世祢に鉄壁のアリバイ 最後に戸籍の問題にふれよう。聖師の生年月日を戸籍の上で一年もごまかすことが可能か、ということである。戸籍簿が初めて全国的に施行されたのは、廃藩置県を経て明治五年、壬申の年の二月からである。つまり聖師の生まれられたのは壬申戸籍以前であり、作為ある申告をしたところで、ばれる心配はなかった。 戸籍に聖師の出生年月日の嘘の申告をした張本人は、上田家でただ一人文字の書けた上田うのであろうと思う。聖師の生年月日を遅らせているばかりではない。上田吉松と世祢の結婚については「明治二年一月十六日京都府船井郡平民佐野静六次男婿養子として入籍、明治二年二月六日相続」として、実際の結婚より一年早めた形跡が歴然である。 何のためにその必要があったのか。推理小説には、完全犯罪のアリバイ作りとして、犯行時刻をずらせる手法がよく使われる。結婚後七ヶ月で生まれたことをごまかす考慮よりもさらに重要な理由は、何とかして、熾仁親王の落胤であるという痕跡をかき消し、可愛い孫を安全地帯においてやりたいせっぱつまった親心であったろう。いずれにしても、吉松と世祢の結婚を早め、聖師出生を一年遅らせることで、熾仁親王と世祢に鉄壁のアリバイができたのである。 聖師の生年月日の疑問を提出することは、私にとって、どれほど勇気が必要であったか、読者にもおわかりいただけると思う。聖師の満五十六才七ヶ月の昭和三年三月三日にしても、昭和六年、聖師還暦の更生のみ祭りにしても、すべて明治四年出生を前提としてのことである。神定のその日を、私はこの手でガラガラと突き崩す気などさらにない。断言してはばからぬが、現実界はどうあれ、戸籍に登録された明治四年旧七月十二日こそ、まぎれもなく聖師の出生が神界に登録されたその日である。
実際の出生日と登録された出生の日の違う人は数多くある。私の母八重野も、実際の出生日と戸籍の出生日が違う。ひのえうま生まれの女子が生年さえごまかすことは、すでに社会問題になっている。ともあれ実際の出生日がどうであろうと、小学校へ行く年も、かつての徴兵検査も、戸籍の日によって定まる。生年月日による占いにしても、実際の生年月日ではなく、戸籍による生年月日で判断する。私にとっても、神界にも、戸籍にも登録された明治四年七月十二日は、やっぱり動かすことのできぬ神聖な日なのである。
聖師は大嘘つきではなかった! 多くの批判が出ることを覚悟で、あえてこの問題を発表する決意をもったのは、聖師は単なる教団大本の聖師でなく、世界全人類の聖師、だと信ずるからである。いつか世界の学者たちが、聖師の足跡を真剣に研究する時が来よう。そうなれば、落胤問題も日かげに捨てておいてはくれまい。日の当たる場所に引き出しいざ研究をはじめたとたん、がつんと大きな壁にぶつかる。それを乗り越えようと努力する前に、彼らから、落胤はラクインでも、大嘘つきの焔印を押されかねないからである。 以上のことを覚悟の上で、私は『大地の母』の執筆に踏み切っている。だから『大地の母』第三巻(毎日新聞社発行)では、聖師の出生に関して、「戸籍による喜三郎の生年月日は明治四年旧七月十二日」とわざわざ傍点を付し、あとは知らぬ顔ですましでおいた。慧眼の読者なら、世祢が伏見から帰ってきて吉松と結婚するくだりの描写から聖師の生年月日の間に一年間のずれがあることを見抜き、作者のうかつさをわらわれたであろう。この一文がそれに対する答になっていれば幸いである(引用終了)。
有栖川宮熾仁親王と和宮の出会いは中村孝道の縁(恒)有栖川宮熾仁親王と上田世祢の逢瀬について記しました。しかしなぜ、後の皇位継承順位第一位の有栖川宮熾仁親王が田舎娘の「世祢」を選んだか、疑問を持たれるでしょう。その縁はもちろんこの時代には亡くなっておられるものの、中村孝道を通しての縁でした。 もう一度年表をご参照ください。明治元年一○月二三日に有栖川宮熾仁親王は東征大総督を辞任し、一一月二日に錦旗節刀を奉還し、賜暇を奏請します。錦旗とは天皇旗といい、禁門の変に旭形亀太郎が孝明天皇から賜った、あるいは預かったもの。トコトン殺れ節の「宮さん宮さん、お馬の前でひらひらするのはなんじゃいな」の「ひらひらするの」は有栖川宮熾仁親王が掲げた錦の御旗・天皇旗を指すのですが、その旗は祇園で造らせた偽物であり、本当の錦旗は、旭形亀太郎が預かっていました。旭形亀太郎は孝明天皇の側近です。有栖川宮熾仁親王は、仁孝天皇の猶子〈他人の子供を契約により自分の子供として親子関係を成立させたその子供。明治以前に存在〉であり、和宮親子内親王は、仁孝天皇の皇女。熾仁親王と和宮は兄妹のような関係に当たります。 八木清之助は、和宮家、あるいは有栖川宮家に筆の行商などを通し出入りし、勤めたであろう勤王の志士で、出口王仁三郎聖師の冠句の師 度変窟烏峰宗匠、そして聖師の恋人、八木弁の父です。清之助が熾仁親王と上田世祢を結んだのかもしれません。しかし二人の出会いについては、出口王仁三郎聖師が示しています。 うのさん(上田宇能。聖師の祖母)のお父さんが中村孝道である。王仁は十三歳の時から言霊学をお祖母さんからならっている。大石凝先生に会ったのは明治三十五年で、その言霊学を習ったが基礎があったから判ったのである。大石凝先生は中村孝道の弟子である(自伝自画には明治三十二年四月とあり)。 中村孝道は有栖川宮家の侍医であった。それで母が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになったのである。(昭和十八年)(「王仁と言霊学」『新月の光下巻』) 中村孝道とは、文化・文政の頃の言霊学者であって、京都で産霊舎を称し、門弟多数を抱えていたといいます。聖師の祖母、旧姓中村宇能の父とされています。
中村孝道の経歴とは 出口王仁三郎聖師の言霊学は、大石凝眞素美(図七)の影響はあったものの、大本言霊学と大日本言霊学の二本立て(用・体)であり、前者は山口志道『水穂伝』をベースとし、後者は祖母・宇能の父、言霊学中興の祖、中村孝道から伝わった「言霊学」としていたようです。大石凝眞素美は中村孝道の孫弟子です。以下引用します。 山口志道など多くの縁者が五十音図に依拠したのに対し、孝道の言霊学では五十音に濁音・半濁音を加えた七十五声を曼荼羅のように配列した「ますみの鏡」がその根幹に据えられます。これは言霊の曼荼羅であり、最下段のア音がもっとも重い音で、最上段のカ行がもっとも軽い音とされる。中心には「す」が置かれ、この図に示される音の階層秩序は、同時にあらゆる存在の階層秩序とされ、そこからネオプラトニズム的な自然秩序が誘導されていくのである。 また孝道は、七十五声の音を形象化した「水茎文字」の伝、太占天之目止木などを口伝、伝書などといった形で弟子たちに伝えました『古神道の本』学研。 中村孝道の言霊学は中心に「す」を置き、五十音をたとえば「さそすせし、たとつてち」と置くなど聖師の言霊学とそのあたりは一致しています。 私は、出口王仁三郎聖師が有栖川宮熾仁の落胤であったという真実性をさらに確認するために、聖師の「中村孝道は有栖川宮家の侍医だった」という言葉に注目しています。聖師の曾祖父が有栖川宮熾仁親王の侍医であれば、聖師の母、上田世祢と熾仁親王の密会というのは、自然だからです。
中村孝道の弟子、鎌田昌言は有栖川宮家の侍医だった! さて鎌田昌言という人がいます。中村和裕「幻の言霊学者 中村孝道と言霊七十五声派」『古神道の神秘』別冊歴史読本特別増刊の記載を援用します。ひらがな部分の原文はカタカナです。 中村和裕氏は、孝道から王仁三郎までの近世言霊学の系譜を正しく再建するには、嘉永元年に成立した、前記、鎌田昌言の『言霊由来』が必要であると述べています。鎌田昌言は『言霊由来』の中で、舎主中村主計(孝道)先生は、もと建仁寺町通四条所下る所の両替屋なりしか、遊蕩にて二十四歳の時、身上没却。せんかたなしに按摩をもって糊口せられぬ。それにより宇氏(宇津木昆台・古医法の大成者)の傷寒論の講釈を聴かれたり。いつくのことにか、内所を迎えられしに、この内所も按摩をする人にて、夫婦ともに按摩をもって業とし、室町通り三条上る所東側に、中村主計としておられたり。以下、中村和裕氏の文章の骨子を引用します。 中村氏は中村孝道を天明七年(一七八七)頃の生まれと推測しています。有栖川宮熾仁親王は天保六年(一八三五)の生まれです。 中村孝道は、文政三年(一八二〇)には、まとまった最初の著作『言霊秘伝』を著しました。一八一八年頃、京都から旅に出ています。孝道は言霊の秘奥を知るためとして国生み神話の残滓を探索しつつ、淡路島や中国路を旅したようです。出雲へ下り、千家国造家の俊信(鈴門)や北島主膳と会見したのもこの折りのこと。 『言霊由来』によると、出雲からの帰途、孝道は竜野に「言霊塚」を建立しています。瓦一枚に「三声の言霊」を書いたものを七十五枚埋めたとあります。この地には、圓尾屋の後援を得て、言霊学の社中が他に先駆けて形成されました。 帰京後、私塾・産霊舎を旗揚げしたのは、文政六年(一八二三)ころの両替町二条下る東側です。按摩を生業としていた時代に「傷寒論」を受講していた関係で面識のあった宇津木昆台の経済的後援を得て、「産霊舎」の扁額を認めたのは、望月幸智(内記)でした。 産霊舎には、中村忠次(掃部)をはじめ、望月の長男・直方、次男登、医師鎌田昌長・昌言父子など門人二百人ほどを数え、教勢は北陸・姫路・大坂・江戸等へ拡大し、入門誓詞や規則、門人張『産霊舎姓名録』の整備なども行われ、文政年間には一世を風靡するに至ります。 これを裏付けるように、上洛しての修学案内書ともいうべき『平安人物誌』文政五年七月版と文政十三年十月版には、「言霊を伝ふ」として孝道の名前が記されています。 しかし昆台との言霊学伝授を巡る、あつれきや妻との離別などもあって、孝道は新天地を江戸に求めて天保二年(一八三一)九月に下行、四谷鮫ヶ橋に産霊舎を設けています。文政年間には小石川に産霊舎があった。天保五年九月、主著、「言霊或門が成稿されたのは、この四谷鮫ヶ島の産霊舎においてでした。江戸では神谷と満田が「助講」として下行し、その布教に当たっています(骨子引用終了)。 さて、鎌田昌言の『言霊由来』の冒頭に「舎主中村主計先生は」とあるように、鎌田氏は出口聖師の祖母宇能の父、中村孝道の弟子でした。江戸時代は、公家は公家諸法度などの規則にしばられ、幕府は隠密をはりめぐらしていました。また朝廷は貧しく喘いでいました。力士の旭形亀太郎が公家や武士の家に自由に出入りしていたように、両替商から按摩師に落ちぶれた中村孝道といえども、宮家に仕える余地はあったのです。しかも当時は一世を風靡する学者で、どこにも出入りできた。世間の情勢に明るい知恵者の孝道は、有栖川宮家でも重宝されたはずです。侍医だけでなく、隠密のような役割もあったのかもしません。 鎌田昌言は、その文脈から見て、中村孝道にあまり好意的でなかったような印象を受けました。ただ私が注目したのは彼の経歴です。鎌田昌言は中村和裕氏の説明では、有栖川宮の侍医を勤めた人物で『平安人物誌』によると「書を能くした」とあります。念のため「時代総合検索システム」で「鎌田昌言」で調べると次のような経歴が出てきました。…鎌田昌言(~安政六年)医家。名は廉吉、号は苟完、京都の人、三条東洞院角に住し有栖川宮の待医を、つとめ、業余書を能くした。安政六年七月十九日没、年六十二。出雲路橋西詰明光寺墓地に葬る。法号不退院浄光(文政十三書(漢)天保九 医家再出書(漢)嘉永五医家) 言霊学の系譜に属した、医者、鎌田昌言が有栖川宮家の侍医であるということは、当時は、師匠から弟子へ職業などが伝えられた時代だったから、中村孝道が、一時的かもしれませんが有栖川宮家の侍医をしていた可能性が非常に高くなったと思います。実際、中村孝道は、古医法などの研鑽をしていました。有栖川宮熾仁親王が生まれた時は、中村孝道は、四十七歳ぐらいで、侍医だったのは、熾仁親王の父、幟仁親王の時代かもしれません。 仮に侍医ではなかったとしても、有栖川宮家の侍医、鎌田昌言は師匠を宮家に紹介したでしょうから、中村孝道と有栖川宮家に接点があったことは確実で、その縁で、「それで母が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになった」のでしょう。
七ヶ月児と思われた聖師 さて、上田世祢の祖父、中村孝道の縁で上田世祢が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになったことがわかりました。 聖師の弟、豊受大神を祭る京丹後市峰山の比沼麻奈為神社の神主を三十年ほどつとめていた上田幸吉氏の証言によれば、「母から聞いた話やと、お婆さん(うの)の弟が伏見に舟宿しとって、芸者を嫁にしていた。だから自由になる姪を貸して欲しくて、伏見に呼んだのや。母は末っ子やからどこに嫁にいってもよかった。養女にもらうつもりやったのや。ところが宮さんのお手がついて、つわりになってどうにもならんから、しぶしぶ帰ってきて、婿(明治三年一月十六日入籍)もろた。母が祖母に打ち明けると祖母は「こんな結構なことはない」と言うてとても喜んだ。だから聖師さんが生まれると二代続いた吉松の名を廃れて、嬉しいから喜三郎とつけた。二、三ヶ月早く生まれたが、父は気がつかなんだ」。聖師が七ヶ月児と思われていた証言です。 先月号でご紹介した老婆の書いた「調査団宛の手紙」の冒頭を再読してみましょう。書いた老婆の指摘する明治初年の年代は、明治二年の一月一八日から二月三日、行程を考えると、おそらく一月二十日頃に暗殺されたものと思われます。 明治政府にとり、和宮は生かしておくには危険すぎる女性だった。つねに天皇と皇女和宮は同じ場所にいてはいけない。天皇が江戸にいるときは、和宮は原則、京都にいなければならない。だから天皇は、好きな京都へ行くことはできない。…でも和宮を暗殺できれば、それが一番憂いがない。 二月一六日 すでに朝議は東京遷都に決していたが、天皇の再度東幸について、有栖川宮熾仁天皇はお留守取締りを命じられます。岩倉具視らによる和宮暗殺の情報は、遅滞なく熾仁親王の知るところとなったでしょう。そして二月二一日、『日記』に初めて「調馬之事」の記述があらわれ、有栖川宮熾仁親王は世祢と会うことになります。おそらく場所は伏見の船宿でしょう。三月三日 来る四月十日までに(明治天皇に)寒月下向のことを沙汰される。三月六日 参内し、東京下向を辞退する。三月七日 天皇東幸を奏送する。 熾仁親王は天皇の命令を拒否したのです。 私は当初、有栖川宮熾仁親王が東京行きを拒否したのは、明治天皇が大室寅之祐と知って、その偽の天皇にしたがうのが嫌さに拒否したのだと思いました。しかしよく考えると、熾仁親王は、孝明天皇暗殺にはまったく関与していないものの、明治維新総裁を引き受けた時点で、すべてのことは呑み込んでいたはずです。ここで東京行きを拒否するのは、男児としてあまりにも情けないと思います。「毒をくらわば皿まで」ではないですが、新革命政権とともに、新しい日本を立ち上げなければならないお立場であったでしょう。しかし、一月下旬に、愛する皇女和宮が岩倉具視たちの手で暗殺された、その背後には当然、大室寅之祐、明治天皇がいたと知るならば、熾仁親王は東京にいくつもりになるでしょうか。 七月二一日 父幟仁親王と連署し、宮名返上の上表を提出。ありえないことと思います。和宮の死が重ならなければ。 しかし東京行きを拒否する理由がもうひとつありました。皇女和宮が自害した後、少なくとも明治二年二月二十一日から京都で最後の「調馬之事」のあった十月二十七日までの二百四十三日間に七十回、三日半に一度の割となる。そしてその間の『日記』の空白は十四回で、そのうち九回までその前後に「調馬之事」の記述がある。私はこの間の空白の時は、有栖川宮熾仁親王はほぼすべて上田世祢との逢瀬をしていたのだと思います。官名を返上するという方法で、和宮を暗殺した(かもしれない)政府に対し、怒りをあらわにした。有栖川宮熾仁親王は、徳川家茂なきあと、皇女和宮との婚姻を真剣に望んでいた。和宮なきあと結婚を望んだのは、出口王仁三郎の母、上田世祢とだったのだと思う。
深山の草 出口和明『大地の母』第一巻一章(みいづ舎)を引用してみましょう。 深山の草 日は天から地から暮れかかる。木枯らしは、いつか細かい雪をまじえていた。その天と地の灰色のあわいを、旅姿の娘が行く。翳った瞳が時おり怯えてふりむく。雪の野面を烏が舞い立つ羽音にも……。伏見より老の坂を踏み越えて山陰道を西へと故郷に近づきながら、娘の足どりは重い。亀岡(現京都府亀岡市)の城下町も過ぎ、歩みを止めたのは丹波国曽我部村穴太(現亀岡市曽我部町穴太)の古びた小幡橋の上であった。犬飼川が両岸を薄氷にせばめられ、音もなく流れる。指が凍てつく欄干の上をなでる。国訛の人声が近づく。びくっとして、娘は橋を渡り、石段を三つ四つ、続いてまた四つ五つ降って石の鳥居をくぐり、小幡神社の境内に走りこむ。おおいかぶさる森を背に、小さな社殿があった。その正面には向かわず、右手の大桜の幹にかくれてうずくまる。 誰にも言えぬ、娘の身で妊娠などと。死ぬほど恥ずかしい。伏見の叔父の舟宿に養女に望まれて行ったのは十九の年、まだ都の風にもなじまぬ世祢であった。叔父は伏見一帯の顔役であり、勤皇方の志士たちとのつながりが深かった。早朝あるいは深夜ひそかに舟宿に集う人々の中に、あの方はおられた。僧衣をまとい、深く頭巾をかぶったお姿だった。 叔父は心得たようにすぐ奥座敷へ招じ入れ、接待には世祢一人を申しつけ、他の女たちを寄せつけなかった。叔父も、同志たちも、敬慕と親しみをこめて、あの方を「若宮」とお呼びしていた。若宮が何さまであるかなど、まだ世祢は知らない。けれど二度三度おいでのうちに、あの方はなぜか世祢に目を止められ、名を問われた。そんなある夜、驚きと恐れにおののきながら、世祢は引き寄せられるまま、固く眼をつぶった。抵抗できる相手ではなかったのだ。それに…それにお名を呼ぶことすらためらわれるあのお方を、いつか待つ心になっていた。雲の上の出来事か妖しい夢のようで、現実とは思えなかった。幕末から明治へと激動する歴史の流れが、世祢を押しつぶした。東征大総督宮として江戸へ進軍されるあの方は、もう世祢の手の届かない遠い人。江戸が東京となり、明治と年号が変わり、天皇は京を捨てて東へ行かれる。虚しい日々が過ぎて一年、若宮凱旋の湧き立つ噂さえ、よそごとに聞かねばならぬ世祢であった。 明治二(一八六九)年の正月も過ぎ桜にはまだ早いある朝、何の前触れもなく、あの方は小雨の中を馬を馳せていらした。あわただしい逢瀬であった。言葉もなくただ世祢はむせび泣いた。ここにあの方のお胸があるのが信じられない。待つだけの世祢のもとに、たび重ねてあの方は京から来られる。帝は京を捨てても、あの方は京に残られた。夏が過ぎ、そして秋――最後の日は忘れもせぬ十月二十七日の晴れた午後。深く思い悩んでおられる御様子が、世祢にも分かった。「これぎりでこれぬ。帝がお呼びになるのじゃ。これ以上逆らうことはできない。東京に住居をもてば妻を迎えねばならぬ。達者で暮らしてくれ、世祢……」 あの方は、いくども世祢を抱きしめ、抱きしめて申された。何も知らなかった田舎娘の世祢にも、あの方のお苦しみがおぼろに分かりかけていた。京の人々の口さがない噂では、あの方は、帝のおおせで、水戸の徳川の姫と御婚約なさったとか。けれどあの方は、仁孝天皇の皇女、先の帝のお妹にあたる和宮さまが六歳の時からの婚約者であられた。同じ御所うちに育ち、その上父宮幟仁親王さまの元に書道を習いに通われる幼い和宮をいつくしまれつつ御成人を待たれて十年、やっと挙式の日取りも決まる時になって、和宮は公武合体の政略に抗しきれず、贄となられて関東に御降嫁。 しかしあの方は、未だに深く宮さまを慕っておられる。二十一歳にして前将軍家茂未亡人静寛院宮と変わられ、江戸におられる薄幸の人を――。東征大総督として江戸城明け渡しの大任を果たされたあの方は、天皇の叔母君であられる和宮さまを御所に呼び戻し、改めて結婚を許されるよう、帝に願い出られたそうな。総督としての官職を捨て臣籍に下りたいとまで嘆願なされたと聞く。帝は、いまだ治まらぬ天下の人心を叡慮され、風評も恐れぬあの方の情熱を許されなかった。その上、亡びた徳川一門の繁姫〈徳川貞子〉の御縁を、あの方によって再び結ぼうとなされたのだ。三十五歳になられる今まで、あの方が親王家として前例のない独身で過ごされたのも、ただ和宮さまへの変わらぬ真心であったものを。 東京遷都の美々しい鳳輦御東行のお供も辞し、官名を返上されて、あの方は京に残られた。しかし勅命でお呼び寄せになられれば、どうして逆らうことができよう。――うちは、あの方のなんやったんやろ、と世祢は思う。思うそばから、考えまいとふり切った。お淋しいあの方のために、一時の慰めのよすがとなれたら……。ただそれだけで、うちは幸せなんや。供を一人連れただけのお身軽ないでたちで、あの方は去って行かれた。絶えまなく船が行きかう川べりを駆け抜けていかれる最後の馬上のお姿が、世祢の瞼に焼きついて離れない。懐妊に気づいたのは、極月に入ってからであった。あの方は知らない。東の空の下、帝のお傍で、多忙な公務に明け暮れておられよう。訴えるすべさえわからぬ世祢であった。 ある日、事情に気付いた船宿の朋輩の一人が世祢の様子をうかがい、おどすように忠告した。「有栖川の若宮さまの落胤は、男やったら攫われて殺されるそうどすえ。気いつけやっしゃ」「ちがう。うち、身ごもってまへん」世祢は強く否定した。にらんだ下から、唇が褪せた。故郷が狼狽する世祢を招いた。養女に望んでいた。 けれど世祢は、引き止められるのを振り切って、伏見を発った。思いつめて戻っては来たものの、父母の住むわが家に、すぐにはとびこめない。かじかむ手を合わせ、産土さまにすがりながら、暗くなるまでここにいようと世祢は思った(引用終了) なお、誤解されがちですが、「深山の草」とは、上田世祢のことではありません。有栖川宮熾仁親王の、世祢に対する恋心がつのる様子を、深山の草の誰もしらないが茂る様子に例えたものです。
和宮はなぜ暗殺されたか ある人は、新政府が和宮を暗殺するには、根拠が薄弱ではないか、和宮を暗殺しなくとも、他の宮家や貴族にしたように口封事さえできればよかったと。そのことを考えてみました。 この文中に出てくる「繁姫」とは、徳川貞子(図八)(嘉永三年(一八五〇)旧十月二七日 ~明治五年(一八七二)旧一月九日)のことです。徳川斉昭の十一女として駒込の水戸藩下屋敷に誕生し、書は有栖川宮幟仁親王から学んでいます。慶応三年(一八六七年)に兄徳川慶喜の養女として、皇女和宮との婚約破談後の有栖川宮熾仁親王と婚約します。嫡母吉子女王及び長兄慶篤の正室幟子女王も有栖川宮出身であり、水戸徳川家と有栖川宮は縁戚関係にありました。しかしその後、徳川慶喜の大政奉還により婚姻が延期され、そして翌明治二年(一八六九)、九月十九日、徳川斉昭娘貞子と再度婚約しました。十一月七日、婚約勅許。明治三年一月十六日、徳川貞子と結婚、四月三日、熾仁親王は維新政府の兵部卿に就任しました。 有栖川宮家は、皇族の代表であり、和宮に代わり有栖川宮が徳川家との姻戚関係を続けることで、武家に口封じをし、かつ日本統一の礎にしようとしました。もし徳川家に嫁入った和宮が有栖川宮と再婚するならば、公武合体の意味は水泡に帰しかねないし、また徳川貞子は最後の将軍、徳川慶喜の養女であり、異母妹です。熾仁親王の許嫁、皇女和宮の夫である徳川家茂を殺したのが、徳川慶喜(図九)と信じられており、その慶喜の養女、すなわち娘と結婚することは、仇の娘と結婚するようなもの、熾仁親王としてなっとくできるものではありません。また、大室寅之祐明治天皇からすれば、家茂暗殺の口封じのためには、熾仁親王と貞子妃の結婚が望ましいとこです。 貞子妃は結婚の二年後、熾仁親王が藩知事として福岡に赴任中に丹毒を病み、東京の有栖川宮邸にて死去。東海寺に葬られました。
江戸城大奥最後の日 私は和宮と有栖川宮の関係を明かにするため、熾仁親王の江戸城入城の記録が欲しいと思いました。大奥は熾仁親王が率いる官軍に明け渡しが決まっていたのですが、そのような中、「江戸城大奥最後の日」というテーマで次の文章が見つかりましたので、部分引用させていただきます(栗原隆一「江戸城大奥最後の日」『将軍家・大名家、お姫様の明治維新』別冊歴史読本)。 十二代将軍家慶の時分、大奥の年間経費は二十万両といわれた。四十万石大名の一年間の収入に近い金額である。それが和宮の降嫁があった文久元年(一八六一)の末以降、毎年四、五万両ほど超過して、そうでなくてさえ苦しい幕府の財政を圧迫した。一橋慶喜は将軍となるや、大奥御年寄りの反対を押し切って、ただちにハーレムの経費節減を勘定方と御広敷御用人(大奥の用を総括する役儀)に命じた。御台を江戸城大奥に入れていない彼にとって、時局をわきまえない女どもの蕩尽ぶりは、耳にするさえ苦々しきかぎりであったし、もはやその存在意義さえなくなった大奥は、単に無用の長物でしかない。ために、その節減策は徹底をきわめた。「衣服は、できるだけ洗い張りをして着用させよ」「年二回の畳替えも今後は一回、場所によっては裏返しですますこと」「時節柄、外出や物見遊山、贈答などを自粛せよ」 このほかにも、もろもろの節減項目が勘定方より御広敷御用人に指示された……
…和宮と天璋院の不和 皇女和宮(後の静寛院宮)が将軍家に降嫁して江戸城に入られた頃、大奥には先代家定の未亡人天璋院篤姫(図十)をはじめ、家定の生母にあたる本寿院、将軍家茂の生母である実成院が、別殿で多数の侍女たちにかしずかれて起居していた。勝海舟(図十一)の遺談によると、天璋院付きの女中は二百六十人、和宮付きは二百八十人いたという。これら多くの女性を中心に形成された大奥の生活は、きわめて複雑かつ煩瑣に堪えないものがあり、日常の容止〈立居振舞〉から諸行事の執りおこない方、交際、衣装等にいたるまで都振りと江戸風のちがいがあって、京都育ちの女官たちは、何かといえば江戸の生活慣習をさげすむところがあり、何かにつけてこれがいざこざのもとになった…… 和宮の一行をむかえる幕府の態度は、おしなべて不誠実で、これが宮に供奉してきた朝臣や侍女たちを憤慨させた。女官たちの諍いに困惑した岩倉具視は、江戸から京の正親町三条実愛(議奏)に書を送り「(宮付きの女官たちの)居所、食物類何れも厳敷もの、由、針妙(裁縫にたずさわる下級の召使い)向きは泣き暮し候。一口にだまされたと申しおり候由にて、これは昨日、中卿より噂にて三浦へ段々申し聞け候所、大仰天にて早速取調に掛り候由に候。何かごてごて行違いばかりにて……」と報じている。 こうした諍いはその後も尾を引くが、文久三年九月、朝廷内儀の大典侍(女官長)中山績子から庭田典侍あてに、「嫁した以上は徳川家の風儀にしたがい、諸事和するように」との、きつい達示がとどいた。後宮(御所)と大奥(江戸城)の葛藤といっても、具体的には姑にあたる天璋院と和官の感情のもつれで、両者を取り巻く女官たちの角突き合いが、この諍いをいよいよ過熱させた。 和宮の側では、あくまで皇女たる立場を堅持しようとし、天璋院のほうでは姑としての立場を明示しようとする。姑といっても和宮よりわずか十歳の年長で、宮の入輿当時はまだ二十六歳にすぎない。現代感覚からいえば未婚の女を連想するが、十四、五歳で結婚した当時においては、すでに肉置ゆたかな姥桜の観があった。片や若い和宮には京おんなに共通の肌の白さ、きめのこまかさがあり、深窓育ちの貴女の匂やかな香りが鼻先をくすぐるが、花の盛りをすぎた天璋院はその香しさも失せ、本つ根〈男根〉の坐さぬ家定に嫁して、生理的に干乾しにされてきた欲求不満が臓騒となって、その面相をきつくしている……。 慶応四年正月十二日、上方の戦に敗れて慶喜が江戸に逃げ帰ると、大奥の女中たちは青くなって騒ぎ立てた。遠い寿永のむかしの、壇ノ浦における平家女官輩の哀れな末路を思い浮かべたのである。「表の役人にも増して立ち騒ぎしは、かよわ心の住み処、大奥の一構なりけり。世は如何に成り行くべきなど、さわ寄れば障れば語り合ひ……」(『定本江戸城大奥』より、以下おなじ) 江戸城に入城した大総督有栖川宮熾仁親王(『幕末・明治文化変遷史』より) 慶喜は朝敵の汚名をそそぐため、天障院と静寛院宮とに朝廷へのとりなしを頼んだ。二人はそれぞれ御年寄に嘆願書を持たせて都へ急行させた。 しかし、和宮をこよなく慈しまれた孝明天皇はすでに身罷られ、十七歳の明治天皇は討幕派の公卿たちにガードされて、大奥差遣の御年寄ときいても、だれも一顧だにあたえなかった。もはや大奥に往年の神通力はなかったのである。そうこうするうち、三月十三日におこなわれた西郷・勝会談で、江戸開城は四月十一日と決まった。それを受けて四月八日、大総督府より江戸城明け渡しの命令が徳川家に下り、大奥(図十二)も開城の日までに立ち退くように言い渡された。 十一日まであと三日しかない。「よって当時江戸表に彷徨いおける閤老、参政等協議の上、静寛院宮様ならびに実成院殿を田安御殿へ、天璋院殿を一ツ橋御殿へ、また当時一ツ橋に在らせられける慶喜公の御台所を小石川御館梅の御殿へ移し参らすることに定め、その儀諸院に上申しけるに」天璋院のみ動く気配がない。 「水戸表へ立たれた前将軍の先途も見とどけずに、城を明け渡すとは何ごと!」というのが彼女の言い分である。筋が通っているだけに諸役も困り果て、ない知恵を絞ったあげくが、三日間だけの立ち退きと申しあげてだますことにし、岩佐摂津守がその旨を伝えた。九日は日暮れまえのことで、天璋院も「三日間なら」とあっさり諒承した。急に引っ越しのお供を命ぜられた女中たちは二日のうちに立ち退くと聞いて、そのあわてざまは尋常ではない。タモン(部屋の走り使い)を生家へやって母や妹に手伝わせる者がいたり、長持に手当たりしだい衣類や調度品などを詰めこんで、荷札をつけて送り出すなど、男顔負けの力仕事に汗だくの体。……かくて天璋院は着替えの衣類と化粧道具を用意しただけで、十日、本寿院と一橋御殿に引っ越した。静寛院宮もその翌日昼すぎ、七年近く暮らした大奥に名残を惜しみながら、実成院ともども田安御殿に移っていった。がらんとして人気のなくなった大奥には、長局(奥女中)一人と、大奥の御用をつかさどってきた御広敷役人三、四十人がひかえているだけ……。外は陽光燦々たる若葉の季節というのに、ここ大奥は寒々として咳 ひとつない。「(御広敷役人が)物寂しげに額集めて、今宵一夜をこの空寒なる大広間に明かすことかと思えば、いと心細くあわれを催し、しばらくは語もなくてありしが……」 「イザ立退かれよと御日付の指図に、役人は一同御広座敷に集り、着座して紅葉山の方に向いて再拝し、御先祖代々、我々も代々昼夜を別たず出仕せし大奥も、今日よりぞ永の別となるべしとて、顔見合せて今更らの如くにかこち……」 万感胸にせまって目頭を押さえながら部屋を去り、名残惜しげにあとを振りかえりつつ、ともすれば立ち止まりがちな自分を叱陀して平河口にさしかかったのが、いつもなら下城時刻の七ツ時(午後四時)。橋を渡り終えて、ふと右手を見ると、ちょうど薩州の兵五大隊が隊伍を組み、鼓笛を打ち鳴らして意気揚々と城へ繰りこむところで、「(その整然たる行進の)心悪くさよ」と「定本江戸城大里」の記述にある。 翌四月十二日、官軍諸藩は西の丸、大手、坂下、桜田、竹橋、清水、田安、矢来、馬場先、雑子橋、一橋の各門を固めた。そして大総督有栖川官熾仁親王が入城。江戸城は二百六十五年にわたる歴史の幕を閉じた。(栗原隆一「江戸城大奥最後の日」『将軍家・大名家、お姫様の明治維新』別冊歴史読本。) さて、有栖川宮熾仁親王があえて江戸城無血開城のための大総督をかって出たのは、江戸を戦火から守るためと、愛する元許嫁、皇女和宮親子内親王を救い出すことでした。江戸城無血開城のときに、「天璋院は着替えの衣類と化粧道具を用意しただけで、十日、本寿院と一橋御殿に引っ越した。静寛院宮もその翌日昼すぎ、七年近く暮らした大奥に名残を惜しみながら、実成院ともども田安御殿に移っていった」としています。
皇女和宮と熾仁親王との再会再現! 明治二年一月に有栖川宮が家茂なき後結婚を望んだ和宮が岩倉具視らにより暗殺されましたと考えます。その悲しみが熾仁親王と上田世祢を結びつけることになったのでしょう。 しかしその説を主張するためには、明治十年に逝去したとされる和宮の公式記録と明治二年に逝去したとする時間の差をどう説明するかが問題となります。明治二年以降に替玉としての新しい和宮が現れなければならない。 そして仮説に過ぎませんが、私は、和宮にもっともふさわしい女性として、南部郁子妃(図十三)を考えてみました。
「皇女和宮」写真は別人?読売新聞朝刊の記事 皇女和宮と見なされた女性が三人いた可能性がある…。有吉佐和子の小説でも三人説を唱えていますが、あくまで小説であり、特定の名前が示されることはありませんでした。 有栖川宮熾仁親王の許嫁であった、愛する和宮が、明治二年に天皇権力を背景にした岩倉具視らに暗殺されたことが疎明されるならば、熾仁親王が天皇の命令に逆らってまで、東下を拒否し官名を返上して京都に留まり、その結果、聖師の母、上田よねと出会ったストーリーが納得いくものとなるわけです。 しかしそれが仮に事実としても、そのような事実は徹底的に関係者の間で隠蔽され、消される。だからこそ、母・禮子は和宮が暗殺された年を、公式の没年どおり明治十年としたはずです。 そのような中、二〇一一年六月十六日に、読売新聞朝刊に目を通した私に、「皇女和宮 写真は別人?」という見出しが飛び込みましたので、全体を引用します。(引用)十四代将軍・徳川家茂の正室、皇女和宮の肖像とされてきた古写真が、明治時代の雑誌に別人として紹介されていることが、古写真研究家の方の調査で分かったそうです。知られている古写真は小坂善太郎・元外相の祖母が所有していたもの。台紙の裏側に「静寛院和宮」と書き込みがあり、祖母の一九二八年の日記にも「明治天皇の皇后、昭憲皇太后の女官の証明で、和宮様の写真であるとわかった」旨の記述があった。また、徳川家も同じ写真を所有していることから、和宮の写真として認知されてきた。 しかし同じ写真が明治三五年発行の雑誌「太陽」に、昭憲皇太后の姉で、大和郡山藩藩主の正室、柳澤明子の肖像として掲載されているのを古写真研究家が確認。  写真の人物が「大垂髪」という貴族の髪形で、家茂の死後髪を切った和宮とは考えにくいことや、別の明子の写真にも同一とみられる人物が写っていることなどから、「和宮とされる女性は、明子である」と判断した。「昭憲皇太后の姉である明子が、和宮と混同されて伝えられたのでは」と推測する。  これに対し、古写真に詳しい日本写真芸術会評議員の方は、説得力はあるが、雑誌が間違っていることもあり得る。写真は角度などで別人でも似て見える場合があり、断定は難しい。ただ、確実に和宮といえる写真はまだ見つかっておらず、これまでの和宮像を再検討する契機になる」と話している(二〇一一年六月十六日 読売新聞)(引用終了)
発見された静寛院宮(和宮)の写真 私は読売新聞の記事をもとに、そのニュースソースである『歴史街道』平成十一年七月号を購入し、古写真研究家 森重和雄「皇女和宮の真実」からその主張を読みましたので引用します。(引用)テレビや歴史関係の本で皇女和宮の肖像写真として広く一般に紹介されている写真(図一)がある。この写真は僕が知る限り、最初は『歴史読本特集最後の幕臣一一五人の出処進退十二月号』(新人物往来社一九九三年十二月一日発行)の解説・岩尾光代、撮影・坂田薫「皇女和宮謎の肖像 小坂善太郎元外相宅で発見された一枚の写真」という記事で紹介された。 それによれば、この肖像写真は小坂善太郎元外相の祖母繁子さんの遺品で、長野市の自宅に保存されていたものだ。写真は金属製の軍扇の裏側に差し込み式で入れられており、写真台紙の裏側には「静寛院和宮」(図二)という書き込みがある。しかも、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の女官高倉寿子が、和宮の写真であることを確認したことが繁子さんの日記(図三)に書かれているという。昭和三年(一九二八)一月二十七日の「静寛院宮様のお写真の事 京都高倉寿子様の証明にて相わかりうれしき事この上なし」という記述がそれで、これを根拠に、この写真は、皇女和宮の肖像写真であろうと言われてきた。 また平成十五年に江戸開府四〇〇年記念として江戸東京博物館で開催された「徳川将軍家展」でも、「静寛院宮(和宮・親子内親王)」(徳川恒孝氏所蔵)の肖像写真としてこれと全く同じ写真がパネル展示されている。この肖像写真は、「第九六号  静寛院宮御潟真」と墨書きされた別紙と共に徳川家で見つかっている。
…和宮の写真ではない? 平成二十一年のある日、いつもいろいろとご教授いただく新選組研究の第一人者・釣洋一先生が経営されている四谷三丁目の「春廻舎」で、僕はいつものように歴史関係の話題で盛り上がりながら酒を飲んでいた。ちょうど同席されていた明治初期軍装蒐集・勲章研究の第一人者・平山晋先生が、「森重さん、皇女和宮の肖像写真と世間で思われている写真があるけれど、あれは実は違うのではないでしょうか」と言い出した。 「それはまた……どういう根拠があるのですか」と尋ねると、「全く同じ写真が明治時代の雑誌『太陽』に掲載されていた。それによればこの写真は皇女和宮ではなく、大和郡山藩最後の藩主・柳澤保申夫人、柳澤明子の写真だそうです。ぜひ調べてみてください」と、平山先生は朴訥な口調でおっしゃった。 こういう依頼は僕のような古写真探偵としては実に興味深い。そこでまず、いつも調べ物をする際によく行く、広尾の東京都立中央図書館に足を運んだ。和宮の基本的な参考資料に目を通す必要があるからだ。平山先生が教えてくださった雑誌『太陽』の該当記事をこの目で確認する必要もある。
…薙髪して静寛院と称した まずは皇女和宮の簡単な略歴を紹介しておくことにしよう。 和宮親子内親王、弘化三年(一八四六)閏五月十日~明治十年(一八七七)九月二日、仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹。 嘉永四年(一八五一)七月、有栖川宮熾仁親王と婚約したが、幕府は公武一和の対策として将軍家茂への降嫁を奏請。和宮は天皇の苦衷を察し、またこの間種々の策動も行われたため、やむなく承諾。十月勅許され、文久二年(一八六二)二月、婚儀が行われた。しかしわずか四年余にして慶応二年(一八六六)七月、家茂は長州再征の途上、大坂城において死去。和宮は薙髪して静寛院と称した。やがて王政復古なった明治元年(一八六八)正月、和宮は徳川慶喜の懇請を受け、侍女を上京させて徳川の家名存続を嘆願するなど婚家のために尽力。江戸開城にあたって清水邸に移り、翌二年、京都に戻る。 明治七年(一八七四)、再び東京に移居。しばし平穏な日々を送ったが、十年(一八七七)九月、脚気治療のため湯治に赴いた箱根塔ノ沢の旅館で薨去。享年三十二歳。※日本歴史学会編『幕末維新人名事典』(吉川弘文館、昭和五十六年)をもとに作成 ここで注目したいのは、「宮は薙髪して静寛院と称した」という点である。このことは諸書に出ているが、調べてみると、慶応二年十二月十九日に和宮は薙髪している。二十一歳の時だ。このことは例えば寺門咲平『静寛院宮』(静寛院宮刊行会、昭和九年)には、「(前略)京都を立ち出でられた時とは全くお変わり果てた御薙髪の御姿で懐しき御思い出の京の土を踏ませ給うたのであった(後略)。」と書かれていることから、慶応二年に薙髪してから、明治二年一月十八日に東京を発って、二月三日に京都に帰住するまで、和宮は薙髪であったことがわかる。 薙髪の意味を辞書で調べてみると、「髪を切ること。髪をそり落とすこと」とある。しかし、「皇女和宮の肖像写真」の女性の髪型は薙髪ではない。どう見ても大垂髪(おすべらかし、または、おおすべらかし)である。大垂髪とは、「平安時代の貴族女性の髪形。本来は自然のままに髪を垂らした姿を言うが、肩の辺りで髪を絵元結で結んでその先を等間隔に水引で束ねていく〈元結掛け垂髪〉も〈おすべらかし〉と呼ばれることがある」と辞書にある。これでこの写真の女性は和宮ではないという仮説が立てられる。少なくとも和宮が薙髪していた慶応二年十二月十九日から明治二年二月三日までの聞に撮影されたものでないことは確かだ。 薙髪した慶応二年十二月十九日以前に江戸で撮影されたという可能性もなくはないが、だとすればこの「皇女和宮の肖像写真」は二十一歳以前のものということになる。しかし、いくらなんでもそういう歳の女性とは僕には見えない。 撮影年代についての可能性をさらに探ってみよう。和宮が再び東京(東京市麻布区市兵衛町一丁目十一番地)に移住するのは、二十九歳の明治七年七月八日。このときから、亡くなる明治十年九月二日(二十九~三十二歳)の聞に、東京で撮影された可能性は確かにあるわけだ。
昭憲皇太后の御姉君 次に、問題の雑誌『太陽』のバックナンバーを調べてみることにした。 その結果、平山先生がおっしゃっていたのは、『太陽』第八巻第二号(博文館、明治三十五年二月発行)の「物故諸名士」(亡くなった名士たち)という口絵写真(図四)であることがわかった。そこには、上段に一点、下段に二点の写真が並んでいるが、その右下の写真が、驚いたことに、「皇女和宮の肖像写真」とまったく同じ写真なのである。説明文には「故・柳澤明子刀自 THE LATE MADAM,A.YANAGIZAWA」と記されている。しかもこの口絵写真の次ページ(裏)には、以下のように書かれていた。「故・柳澤明子刀自は柳沢保蕙伯の養母にして、皇后陛下の御姉君にあたらせられる、一月八日を以て薨去せらる(後略)」(振り仮名と傍点、森重)。 さっそく調べてみると、この柳澤明子という女性は、平山先生がおっしゃったとおり、大和郡山藩最後の藩主柳澤保申の正室、幕末の公卿左大臣一条忠香の娘(弘化三年十月二十三日生れ、二女)であることがわかった。それならば、大垂髪姿であることは納得がいく。 柳澤明子が亡くなったのは明治三十五年一月八日(五十七歳)である。だから、翌二月発行の雑誌『太陽』第八巻第二号にその死が報じられているのだ。 このことからこの写真の女性が故柳澤明子刀自であることは疑う余地はないと思われる。 念のため、他に柳澤明子の写真はないかと探してみると、森田義一編『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和大和郡山』(国書刊行会、昭和五十四年八月十日発行)に別の立姿の写真(図五)が見つかった。少々写りは悪いのが難だが、この写真の柳澤明子も大垂髪姿である。明治初年の結婚時に撮影されたものとされている(国書刊行会刊)。〈恒注 明治初年と言えば、和宮が暗殺されたと推定される頃か?〉 もう一度、例の「皇女和宮の肖像写真」をよく見てみると、女性が腰かけている椅子の特徴的なデザインに見覚えがあった。 この椅子は東京の清水東谷の写真館で使用されていた小道具なのである。このことは、古写真蒐集・研究家の石黒敬章氏所蔵の、清水東谷の写真館で撮影された名刺判写真(図六)と比較すれば確認できる。絨毯の柄もまったく同じだ。つまりこの「皇女和宮の肖像写真」は、清水東谷が撮影したものなのである。
…いまだに残る謎 ではなぜこの写真が「第九六号 静寛院宮御潟真」と墨書きされた別紙と共に徳川家で見つかったのか?またなぜ小坂善太郎元外相の祖母繁子さんの遺品としてあったのか?謎である。柳澤明子は一条忠香の娘であり、雑誌『太陽』の記事にあったように、「皇后陛下の御姉君」、つまり昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の姉である。これは僕の仮説にすぎないが、このことが和宮と混同され、誤って静寛院宮として伝えられた原因なのではないだろうか。 前出・小坂繁子さんの昭和三年一月二十七日の日記には「静寛院宮様のお写真の事、京都高倉寿子様の証明にて相わかりうれしき事この上なし」とあるが、しかし、高倉寿子は天保十一年(一八四〇)生まれで、昭和五年(一九三〇)一月二十七日に数え九十一歳で亡くなっている。昭和三年一月二十七日当時は八十九歳という高齢であったことから、この記述の内容も何かの間違い(高倉寿子の見間違い)ではないだろうか。高倉寿子は一条忠香に仕えていたのだから、記憶さえしっかりしていれば、一条忠香の二女・柳澤明子のことを知らないはずはないと僕は思うのである。
…「洋装姿の和宮」 これとは別に「洋装姿の和宮(数の宮)」(図七・八)という別の写真がある。ついでながら、こちらも和宮の写真ではない。なぜならばこのような上流婦人の洋装姿は、鹿鳴館時代(明治十六年~明治二十三年)以降のものであるからだ。和宮は明治十年にすでに亡くなっているのだから、この洋装姿の女性は和宮ではありえない。 これについてもさらに調べてみると、吉田義昭・及川和哉編著『図説盛岡四百年下巻〔Ⅱ〕』(郷土文化研究会、平成四年)にまったく同じ写真(図九)が掲載されており、この洋装姿の女性は旧南部藩に関係した女性であることがわかった。さらに、大久保利謙監修『旧皇族・華族秘蔵アルバム 日本の肖像第一巻』の「盛岡・南部家」の四十一頁左下の三人の集合写真に同じ顔の同一人物を発見した。この洋装姿の女性は、盛岡藩第十五代・南部利恭(最後の盛岡藩主)の姉、南部郁子という女性だったのである。彼女は後に華頂宮博経親王妃になっている。 面白いことに、この華頂宮博経親王妃・郁子の写真も、東京の清水東谷の写真館で撮影されていた。従来、和宮として紹介されてきた写真は、大垂髪姿も洋装姿もそれぞれ和宮ではないものの、同じ写真師・清水東谷の写真館で撮影されていたのだ……(引用終了)(ここまでの写真は、『歴史街道』平成十一年七月号より転載)
皇女和宮の写真秘話「HP写真が紐解く幕末明治」に森重和雄氏が「皇女和宮の写真秘話」ということでさらに意見を記しています。(引用)「まず、柳澤明子は明治三五年(一九〇二)五六歳で亡くなっているわけだから、当たり前だが当然、この間に撮影された写真ということになる。次にこの写真を撮影した写真師・清水東谷について調べてみると、清水東谷は明治三七年(一九〇四)に亡くなっているので、これは問題ないけれど、実際は明治十五年(一八八二)に清水東谷は養子の鈴木東谷に家業を譲っており、しかも鈴木東谷は横浜の太田町十一番地で開業していることから、問題の写真は明治十五年(一八八二)以前に清水東谷が東京で撮影した可能性が高い。 また、柳澤明子の夫・柳澤保申が明治十七年(一八八四)に伯爵となり、明治十八年(一八八五)三月には久能山東照宮宮司となっていることを考慮すれば、ざっくり明治十五年(一八八二)頃に撮影された写真という仮説が考えられる。 (柳澤保申は明治二六年(一八九三)十月二日、郡山旧邸内で死去。享年四八歳。) 明治十五年(一八八二)といえば、柳澤明子三六歳の時ということになる。この写真が柳澤明子三六歳の時の写真というのは、そういう年齢の女性の写真として僕には納得できる。もっともこれは僕の主観にすぎないので、これで百%柳澤明子だと完全に断定できるわけではないのだが、まぁ、少なくとも和宮の写真と考えることよりはましのような気がする(引用終了)
柳澤明子と皇女和宮は同い年であった! 柳澤明子の夫君、柳澤保申(図十)、松平時之助保申は大和郡山藩の第六代(最後)の藩主(郡山藩柳澤家七代)ですが、慶応四年(一八六八)の戊辰戦争では新政府に協力して東北戦争に参加し、主に後方の輜重部隊の役割を果たしています。このとき、松平姓を捨てて柳澤姓に戻しています。明治二年(一八六九)六月十七日、版籍奉還により知藩事となり、明治四年(一八七一)の廃藩置県で免官されました。明治十七年(一八八四)に伯爵となります。 柳澤家は譜代でありながら、松平性の名乗りを許されていました。甲府から大和郡山への移封に際しても減俸されることもなく、将軍の寵臣であったが没落せず、従四位下の官位と領地を保持したまま幕末まで存続した大名家です。 江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名柳澤吉保をはじめ、将軍の寵臣の係累でありながら柳澤家が没落しなかった。 柳澤明子には、重要な皇女和宮との共通点がありました。和宮の生年月日は弘化三年閏五月十日(一八四六年七月三日)、柳澤明子は一八四六年生まれ、同じ生年で、ともに貴族の出自で皇室の文化と一体となることができ、自然に振る舞える。和宮の替玉にはまさにふさわしいわけです。 柳澤明子が常時、和宮として振る舞っていたとは思えません。和宮が生きていることを証明するために、写真に和宮として撮影されるなどの条件で、限られた役割をしていたのではないか。何しろ、柳澤保申夫人という立場があるはず。写真ももっと古いものもあったのではないか。ウィキより要旨を引用します。(要旨引用)和宮は明治二年以降も京都に在住し、明治七年(一八七四)七月に東京に戻り、麻布市兵衛町(現・港区六本木一丁目)にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院・家達〈徳川宗家十六代当主〉をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになります。しかしこの頃より脚気を患い、明治十年(一八七七)八月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉(図十一)へ向かった。転地療養先では地元住民との交流も行われたという証言があります。程なく明治十年九月二日、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去した。三二歳という若さでした。当初、政府は葬儀を神式で行う予定でしたが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われました。墓所は東京都港区の増上寺(ウィキ)。〈恒註 清水東谷は、明治五年横浜で写真館を開業するが、すぐ東京に移転しているので、洋装姿の和宮の写真は明治五・六年の撮影だと思う。南部郁子は一八五三年生まれなので、明治六年とすると、一八七三年で、南部郁子二十歳の頃の写真となり、相応の容姿と考える。南部郁子は貴族の家に輿入れし、明治三年に夫が米国留学しているほどで、時代を先取りした鹿鳴館風の服装で撮影することも、不可能ではないと思う。和宮が暗殺されたならば、和宮の遺言は疑問。〉
和宮明治十年死亡は偽装か 私は、和宮が明治十年になくなったというのは、明治二年に暗殺された和宮を隠しきれず、そのように偽装したのだと考えています。薨去する前に、和宮を知る人のいない箱根に移動したのも怪しいと思います。地元住民は和宮の顔を知りません。本年十一月号『神の国』誌記載「調査団宛の手紙」の老婆が指摘するように、遺骨は、明治二年に殺害された和宮の骨をとりおいて東京に持って帰りましたが、それを使用したのだと思います。なぜか老婆が指摘する、和宮が亡くなった地、箱根山中と同じ、箱根塔ノ沢で薨去したことになっています。 なぜ、和宮の公式の死亡時期に明治十年九月二日が選ばれたかというと、日本最後の内乱、西南戦争(図十二)で西郷隆盛と総司令官、有栖川宮熾仁親王(鹿児島県逆徒征討総督)が率いる官軍の戦いが同九月に終わったからでしょうか。有栖川宮帰任までに和宮が死亡していた必要があったのかもしれません。 いずれにせよ、西南戦争を政府は乗り切ったことで、過去の時代の象徴、和宮の存在は名目的にも必要がなくなったのでしょう。十月十日に熾仁親王は、陸軍大将および元老院議長に任命されます。 柳澤明子が皇女和宮の役を果たしえたのは、明治二年から京都滞在の数年でしょう。柳澤明子の写真が撮影された場所は、東京の清水東谷写真館ですから、案外明子自身は東京に住居をしていたのかもしれません。しかしできれば明治七年から十年まで東京に在住するもう一人の、替玉としての皇女和宮が必要となるのです。
娘を明治天皇、徳川家茂の猶子に嫁がせた一条忠香の娘、柳澤明子 和宮は新政府から、戊辰戦争や政局の混乱で延期されていた上洛を願い出るよう促されます。「父君である仁孝天皇陵の参拝と、徳川家に寛大な処分を新政府がしたことへのお礼をするため、和宮は上洛を願い出たいが、徳川家の経済状況はよくなく、また江戸の市民がそれをどのようにとるかを考えると、和宮からは願い出ることはできない。適切な名目で朝廷から上洛を命じて欲しい」と希望します。橋本実麗からは明治天皇の東京(明治元年七月十七日に改称)行幸が終るまでは見合わせるようにと止められます。 明治天皇は明治元年十月十三日の一度目の東京行幸で江戸城に入城してこれを東京城と改称しました。その後一度京都に戻り、明治二年の二度目の東幸以降は東京に留まりました。大室寅之祐明治天皇は、天皇の正体を見破れる和宮との面会を行うことはできない。大室寅之祐が東京に留まるならば、和宮は京都の地に留まられなければならなかった。 昭憲皇太后(図十三)〈嘉永二年(一八四九)~大正三年(一九一四)は睦仁親王を含む明治天皇の皇后です。旧名は一条勝子といい、従一位左大臣一条忠香の三女です。徳川慶喜に嫁いだ美賀子とも義理の姉妹となります。
明治天皇の夜伽の相手をすべて決めた実力者 高倉寿子(図十四) 柳澤明子は、昭憲皇太后の姉であり、女官長高倉寿子は、昭憲皇太后の意向を受けて、明治天皇の毎日の夜伽の相手のすべてを決めていたほどの実力者でした。柳澤明子と和宮親子内親王の写真を見間違うわけがありません。 皇女和宮が暗殺されたと推定される時期は、雑誌『ムー』に記載の、「調査団宛の手紙」を出した老婆の記述から推定すると、和宮が入京する前の明治二年一月二十日頃。 明治元年十二月二六日(一八六九年二月七日)、昭憲皇太后勝子は美子と改名します。同月二八日(一八六九年二月九日)入内して女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられました。明治二年一月二十日(旧歴)頃、皇女和宮が暗殺されたのならば、美子が皇后に立てられてすぐに皇女和宮は亡くなったことになります。そこに関連はないと信じたいのですが。
有栖川宮熾仁親王と和宮の帰洛 和宮の夫君、徳川家茂は慶応二年(一八六六)七月二十日、満二十歳にて逝去。熾仁親王は天保六年(一八三五)二月十九日生まれですので、この時、二十九歳。私はこの晩婚は、和宮親子内親王に立てた、一種の貞操なのだと考えます。それだけ親王の和宮への思いは深く、無垢だったのでしょう。慶応三年(一八六七)九月に徳川斉昭娘の貞子と婚約勅許になります。ところが、この結婚は熾仁親王の本意ではなかった。そして斉昭の息子、徳川慶喜の大政奉還を名目に婚姻が延期されます。徳川家は朝敵だということなのでしょうか。 私は徳川貞子との婚姻の有栖川宮の逡巡の背景には、徳川家茂の夫人となり、かつ未亡人となった和宮親子内親王と結婚したいという強い意志があったからと考えています。 熾仁親王が東征に出発したのは、明治元年(慶応四年)(一八六八)二月十五日。御所御学問所で明治天皇に謁見、節刀と錦旗を賜り東征に出発します。そして京都に入ったのが旧歴明治元年(一八六八)十月二十五日。明治天皇の京都御所での即位の御大礼は八月二七日ですので、即位大礼の後となります。 翌明治二年(一八六九)、一月十八日に和宮一行は東海道を京都へと向かい、二月三日に京都へ帰着。私の推理では帰洛前に暗殺された?のですが。和宮がこの時を帰洛の時期と選んだのは、恋する有栖川宮熾仁親王が十月二五日に帰洛したという情報が入ったからではないでしょうか。 和宮が帰洛し熾仁親王も帰洛すると、二人の結婚が現実味を帯びてきます。そして熾仁親王も皇女和宮も、大室寅之佑が明治天皇であることを知り抜いていますし、明治維新の真相も知っています。そして和宮の夫君、徳川家茂の暗殺に徳川慶喜が関与したかもしれないということも。 徳川斉昭の十一女、徳川貞子は兄慶喜の養女です。徳川慶喜は朝敵であり、貞子は慶喜との縁組を解消して婚儀に臨んだとされ、ようやく熾仁親王が徳川斉昭の娘貞子と再度婚約したのは、明治二年(一八六九)九月十九日のことでした(図十五)。 明治二年一月二十日頃に皇女和宮が暗殺され、有栖川宮熾仁親王が有栖川宮家の侍医であった中村孝道の縁で、少なくとも明治二年二月二十一日から十月二十七日までの七十回近く、出口王仁三郎の母、上田よねと逢瀬を重ねたであろうことは、『神の国』誌二〇一一年十二月号に記載のとおりです。 ここで、和宮親子内親王の夫君、徳川家茂の暗殺についての山岡荘八の推理を松重楊江『二人で一人の明治天皇』たま出版から見てみましょう。
将軍家茂暗殺の真相(引用)第二次長州征伐の最中、慶喜、慶永らの命を受けた宮中の医者によって将軍家茂(図十六)が毒殺されたが、この事件の背後には、幕府に反抗する長州とこれを支援する薩摩、すなわち薩長同盟があった。これについて、山岡荘八氏は次のように述べている(『明治百年と日本人』~月刊ひろば四三/一一所収)。「私が調べたところによると、(家茂が)息をひきとるとき、御小姓組番頭の蜷川相模守(元蜷川京都府知事の祖父にあたる)が、ただ独りで側に付き添っていた。この人が漏らしているだけで、あとは極秘になっていて、病気で亡くなったことになってはいるが、将軍は亡くなった七月二十日の四、五日くらい前に、風邪気味でふせっていた。そこへ『宮中からさし回された』といって医者が訪ねてきた。名前ははっきりしていない。 孝明天皇と将軍とは、和宮が降嫁されてから非常に仲が良かったから、何も疑わずに、この医者を居間へ通した。脈を診て、「いや、大したことはありません。ではこの薬を召し上がってください」といって薬を調合して置いて帰った。それを飲んで、それから三、四日目に亡くなっているわけである。 将軍の胸のあたりに紫の斑点がでて、大変苦しがって、その蜷川という御小姓組番頭に、骨が折れるほどしがみついたまま息を引き取った。この蜷川相模守という人は、五千石の旗本であるが、この人がずっと遺体に付き添って、江戸まで持って帰った。そしてこの死を発表したのは、一月たった八月二十日になってからだ」※カッコ内は筆者松重氏補筆。 この時、大阪城定番(城代家老の次席)は渡辺丹後守章綱(伯太藩主/一万三千石)であったが、その嫡子の宮崎鉄雄氏によれば、宮中から医師を案内してきたのは長州藩士の品川弥二郎で、城中に手引きしたのは定番の下役某であったという。だとすれば、この暗殺は薩長同盟と慶喜または慶永の側近の手によってお膳立てされたことになる。このような薩長同盟の忍者たちによって行われた将軍家茂の暗殺は、さらに孝明天皇の暗殺へと続いていく……。 吉田松陰が安政の大獄で処刑されたあと、水戸藩の激派は密かに長州藩を援けようとし、藤田小四郎は長州の中忍・桂小五郎から四百両の軍資金を貰って天狗党を決起させた。…公武合体派の徳川、会津、薩摩の連合軍によって京都から追放された長州は、天狗党の挙兵に乗じて勢力回復を図ろうとし、再び京都に集結し始めた。その矢先の元治元年(一八六四)六月五日の夜、突如新撰組と見廻組によって河原町の池田屋を襲撃され、長州系の志士たち多数が斬殺されたり捕えられたりした。 かくして、六月中旬から七月上旬にかけて、長州藩は京都に派兵。伏見、嵯峨、山崎に布陣して、七月十九日、長州軍の発砲をきっかけに、「蛤御門の変(禁門の変)」が起こった。しかし薩摩軍の変心のため、わずか一日で長州軍は敗北し、来島又兵衛、久坂玄瑞、眞木和泉ら多くの勇士が戦死した。そのため、天狗党が挙兵した意味は失われてしまった。
…水戸と長州の「成破の約」と「日本改造計画」 その後、天狗党は水戸鎮派の武田耕雲斉が隊長となり、一橋慶喜(図十七)に頼る方針に決した。 だが慶喜は、池田屋の変のあと、長州藩が大挙して大阪湾に上陸した際には、戦いを避けて長州説得を試みた。そのため、宮廷では「一橋どのは長州と通じている」などと公然と噂されていた。慶喜はいわば手兵を持たない「裸の王様」であり、幕閣が賊とした天狗党を助ける蛮勇も持ち合わせていなかった。おまけに、天狗党の水戸勤皇派は内部分裂によって長州を助けることもできず、慶喜を孤立させて、歴史の進行を遅らせただけとなった。同じ南朝正系論を信奉する水戸と長州の「成破の約」は、こうして破綻するのである。 しかし、「成破の約」のもう一つの密約は着実に実行に移されつつあった。すなわち、熊沢天皇家を擁する水戸藩と、大室天皇家を擁する長州藩が手を結び、南朝革命を実現せんとするものである。それによって水戸藩は徳川家の存続を、長州藩は毛利公の将軍位奪取を目指した。したがってこの密約に将軍家茂と孝明天皇の暗殺が含まれていたことは間違いない。だが孝明天皇を亡き者にしたとしても、陸仁親王が跡を継いだのでは皇統は南朝に戻らない。したがって、陸仁親王もすり替える必要がある。かといって、長い江戸時代を通じて家臣の身分となった熊沢家の者を、再び皇位に戻すことは公的に不可能である。 かくして、熊沢天皇に代わる大室天皇の出番となり、ウラ毛利の上忍・益田親施と中忍・吉田松陰の命令で、早くから下忍・伊藤俊輔(博文)が守役となって育成していた「玉」大室寅之祐を世に出す陰謀が開始されたのである。 これを実現するためには、まず勤皇派の結束を図らねばならない。無論、水戸家出身の一橋慶喜もこの計画に加担していたことは言うまでもない。薩長同盟を演出した坂本竜馬は勝海舟の命を受けており、勝は慶喜と相談していたという。その相談とは、「勤皇派と協力する南朝革命によって王政を復古し、改めて南朝系天皇から征夷大将軍を拝命して徳川家を安泰ならしめよう」というものであった。これが慶喜と勝による「日本改造計画」で、慶喜は得意の二枚舌を使って佐幕、勤皇両派の幹部をコントロールしようとした。そしてその計画を実現するために、海舟の命を受けた竜馬は「薩長同盟」の成立に向けて奔走していくことになったのである(引用終了)。
明治維新の秘密共有をする支配層 松重氏のこの著書内容の真偽は、私はこの時代を生きてきたわけではないのでわからない。松重氏が徳川家茂の暗殺者を徳川慶喜とするのは、徳川家茂と孝明天皇の暗殺、大室寅之佑を世に出すことを含む、徳川慶喜と勝海舟の「日本改造計画」の一環とみたからでしょう。だとすると、徳川家茂の御台所、皇女和宮暗殺も日本改造計画に含まれていたのではないか。勝海舟も品川弥次郎、大室寅之佑も、西郷隆盛も、広沢真臣も、坂本竜馬も、桂小五郎(木戸孝允)も、岩倉具視の子供達も、ともにフルベッキ写真に写っている幕末の志士。フルベッキ写真の維新志士の群像が日本改造計画の担い手たちなのかもしれません。徳川家存続につき同床異夢の部分があったとしても。 もし一橋(徳川)慶喜の日本改造計画が事実であり、それが奏功したならば、明治維新時の支配層は、徳川家紀州派の徳川家茂と孝明天皇、皇女和宮を、親族の口止めとともに暗黙のうちに葬り去り、それらに代わる大室寅之祐明治天皇と徳川慶喜の縁戚で固めたはず。そこには維新の秘密を共有し漏洩させないという目的があるはず。その中に心ならずも巻き込まれた人たちに、出口王仁三郎の父、有栖川宮熾仁親王、旭形亀太郎、八木清之助がいるのではないか。 日本改造計画が中途半端で露見するならば、維新政府首脳は、一網打尽となって、反対勢力により粛正される可能性があります。それを防ぐ方法はただ一つ、後に出口王仁三郎聖師の父となる、皇女和宮の元許嫁、有栖川宮熾仁親王を、「日本改造計画」の全貌を明かさないで、自分たちの仲間に引き入れてしまうこと。それは成功しました。 南部郁子のドラマ 朝敵の汚名返上 次は「陸奥国盛岡藩 南部利剛 息女 郁子」『お嬢様の明治維新』別冊歴史読本からの引用です。(引用)慶応四年(一八六八)一月三日、京都洛外の鳥羽・伏見に端を発した戊辰戦争は、全国三百藩に旗幟を鮮明にする事を迫った。盛岡藩(岩手・二十万石)は奥羽越列藩同盟に加わり、西南諸藩軍を主体とする新政府軍と対決する道を選んだ。 時至って同年七月二十七日、列藩同盟から離脱した秋田藩(二十万五千石)に、楢山佐渡を総大将とする二千の軍勢で五街道より一挙に攻め入った。緒戦は連戦連勝。しかし新政府軍の反転攻勢の前に大敗を喫した。 降伏後、新政府から「朝敵」の烙印を押され「官位剥奪」「城地没収」の処分を蒙った藩主南部利剛(図十八)は隠居、世子彦太郎十四歳を謝罪使に立てて寛大な処置を願い出た。だが許されず、父子は佐渡を始めとする反逆首謀三奸らとともに江戸に召喚されて籠居させられた。この年の九月八日、年号は明治と改元されたので、明治元年十二月二日の事である。 盛岡藩は、朝敵の汚名を返上する事を喫緊の最重要案件と捉え、新政府に謝罪する事に決定、この非常事態の打開を、執政に復帰した家老東次郎に託した。次郎は盛岡藩では少数派の勤王方である。徳川方に与する事に異議を唱えて藩主の逆鱗に触れ、領地に蟄居を命ぜられていた者である。敗戦で蟄居を解かれ、難局に対処する任に就いていた。
郁子姫の宮家入興浮上 次郎は利剛の親書を携さえて京都に赴き、議定官池田慶徳に謁見を申し入れて許された。慶徳は利剛の正室松姫(歌名明子)の実弟で、鳥取藩(三十二万五千石)主。水戸藩主斉昭の子である。同じく子で実弟の将軍徳川慶喜とは早くに袂をわかち、藩論を勤王に決して新政府内に重きをなしていた。 慶徳は利剛の親書を披見し、その公議人(太政官の諮問機関・公議所の議員)の沖守固に命じ、以後、「次郎と一体となり諸事を弁ずべし」と親しく謀計を授けた。次郎は慶徳の謀計によって、新政府の参与官広沢真臣(長州藩士)(図十九)の知遇を得た。 謝罪は、広沢らの計らいで朝廷の受け入れるところとなり、次郎は利剛上洛を願い出た。ところが、難題が持ち上がった。「藩の謝罪は受け入れるが、官位を剥奪された前藩主利剛を許した訳ではない。前藩主の処遇については、いまだ、議定におよんでおらぬ。よって朝廷としては、独り利剛のみの上洛を許す訳には参らぬ」 多額の工作資金が必要であった。次郎は断念を広沢に伝えた。盛岡藩は降伏後、七万両を謝罪金として新政府に提供していた。多年にわたった東エゾ地警備費用の捻出で藩財政は火の車、金策の手立ては無きに等しい。 広沢は代案を提供した。「わしは今、内国事務係を兼ねておるが、これは宮家の縁結びをする仕事である。創始したばかりの華頂宮博経親王はまだ独身。然るべきお妃候補があらば、盛岡藩が他に先んじて手を打たれてはどうか」 「適任の姫君がおられます」。次郎は胸を躍らせて即答した。「どなたの姫君でござるか」 「されば、世子彦太郎君の姉君にて郁子姫(図二十)と申され、まことに﨟長けたお方でござる」「申し分のないお話である」 広沢は賛意を表したが、「当今は金次第でござってな」。五万円の持参金が必要であった。 「祝い事となれば別。藩主らはもとより、御用達商らも喜んで協力致しましょう」 次郎は、上洛嘆願の路銀と公卿・弁事らへの賂〈賄賂〉に大枚を費消して名を得るより、姫君に持参金を持たせて宮家に入輿させ、実利を取る事で汚名返上ができるものと考えた。華頂宮は四親王家中もっとも重きをなす伏見宮邦家親王の第十二王子で、京都の知恩院の門跡(王子が当たる住職)であるという。 さて、郁子姫は利剛の正室の子ではない。正室松姫の入輿は安政四年(一八五七)だが、世子彦太郎(のち利恭)は安政二年十月九日に盛岡で誕生している。母は家臣宮治兵衛の娘静子、利剛の側室である。郁子姫も御前様(静子)から嘉永六(一八五三)八月に生まれている。ちなみに、利剛と正室との間に子はない。
…入興工作に関する資料 郁子姫の宮家入興工作がどのように進められたかにつき、興味深い資料がある。『南部次郎政図之伝』(白井新太郎記)である。白井は次郎の次女の夫で会津の人。次郎は晩年、南部名乗りを許された。これに次郎(図二十一)の工作が詳細に書かれてある。 「即ち皇族と婚し以て謝罪の実を明らかにせんと請う。広沢参与官らがこれに賛し、遂に藩主の長女華頂宮家に入るを約せり」 この文脈は、次郎側から婚儀を働きかけたように受けとれる。次郎は藩主の家門につながる名家の出だが、その評価は、毀誉褒貶が相半ばする人物といわれている。伝には、白井の身贔屓の筆致が随所に散見されるので、割引いて読まなくてはならない。 これと微妙に異なる今一つの資料に『幽囚目録』がある。目録は、反逆首謀三奸の一人として、麻布下屋敷の長屋に佐渡らと幽閉された、藩校作人館教授江幡梧楼(のち那珂通高)が明治元年十二月二日から翌年十月三日までの十ヵ月間を記録した日記である。梧楼は十八歳で脱藩、全国遊学中に長州の吉田松陰と肝胆相照らす間柄となった人物である。明治二年八月二十日の項に、「華頂宮親王の儒員、長岡謙吉といえる者と相談し、親王へ郁子姫君御縁約の内談せんとの書面来れり」 さらに同年八月二十九日の項に、「東(次郎)の西京(京都)にての振舞い、奇怪なるよしにて、華頂宮儒員長岡など、別人に面会したき旨云々」、九月二十六日の項に、「昨日、木戸準一郎(孝允)相尋ぬべしと、長岡謙吉へ云々」、九月三十日の項に、「容道(芝の和尚・盛岡藩のために種々の工作をした)より書簡来たり、準一郎ぜひ速やかに対面したき由にて、長岡謙吉来たり居たる聞に来らるべしとの事にて云々」とある。これで考えると、長岡が東京で種々の工作をしている事と、広沢と同郷の木戸も華頂宮家への郁子姫入輿で動いた事実がわかる。よって、次郎一人の成果でなかった事がわかる。しかし、次郎は華頂宮との交誼を深めていき、郁子姫の弟英麿を宮とともに清国への留学を実現させている。 「宮の留学費用は全額宮室費を以て、公子英麿は南部家費を以て、(中略)宮は留学三年にして病を以て帰朝せられ、公子もまた大成せず(中略)。 宮はしばしば次郎の邸に遊ばれ、或いはその邸を借り、或いはこれを買われて思寵浅からず。交じり水魚の如し」『南部次郎政図之伝』にはこのように記述されてあるが、宮は志願して明治三年にアメリカに留学、海軍の軍事を学び、海軍少将に累進、明治九年五月二十四日に二十五歳で薨去している事と、整合性を欠くのである。 ともあれ、清国へであれ、アメリカへであれ、皇族の海外留学の嚆矢ではあった。 郁子姫は、博経親王が亡くなられてから三十二年後の明治四十一年に薨去した。彼女は南部家安泰のための道具に使われた人身御供だったかもしれないが、宮とは仲睦まじかったといわれる。ただし、第二代の博厚親王は、明治十六年にわずか九歳で薨去、必ずしも家庭運には恵まれなかった。さらに第四代博忠親王は大正十三年に薨去。嗣子がなかったので、同年宮家は廃絶された。南部家は、郁子姫の宮家への入輿で朝敵の汚名は雪がれ、曲折を経て城地の回復も成ったが、郁子姫の生涯は激動の時代に翻弄されたものといえようか(引用終了)
日本改造計画と皇女和宮すり替え 私はこの文章をみていくつか気になったことがありました。 南部次郎が謁見を申し入れて許された池田慶徳は、水戸藩主斉昭の子供であり、実弟に最後の藩主徳川慶喜がいること。新政府の参与官広沢真臣(長州藩士)の知遇を得たこと。広沢真臣は明治四年一月に暗殺されています。 「華頂宮親王の儒員、長岡謙吉といえる者と相談し、親王へ郁子姫君御縁約の内談せんとの書面来れり」と、華頂宮親王と郁子姫ご縁約の内談を記しているのが江幡梧楼(のち那珂通高)で、十八歳で脱藩、全国遊学中に長州の吉田松陰と肝胆相照らす間柄となった人物とのこと。南部次郎だけでなく、広沢と同郷の木戸も華頂宮家への郁子姫入輿で動いた事実。しかし次郎は華頂宮との交誼を深めていき、郁子姫の弟英麿を宮とともに清国への留学を実現させていること。清国といえば、マッソンの東洋本部、米国ニューヨークといえば、マッソンの中枢を想起し、海軍といえば、それらの時に受け皿と見る見方は極論と言えますが。華頂宮博経親王は二人いた可能性はなかったのか? 日本の田舎の藩である盛岡藩の救済のために、徳川斉昭や徳川慶喜の関係者がからみ、長州藩士広沢真臣までが関与していること、長州の吉田松陰と肝胆相照らす間柄の人物が『幽囚目録』の記録者として登場している。 いったん朝敵となっても、娘を持参金とともに宮家に差し出せば、藩自体が救われる。そのような解決策が有効ならば、どの朝敵とされた藩の藩主も娘を差し出すでしょう。 これだけの大物が動くのは、薩長同盟、あるいは日本改造計画の密約の一つに、皇女和宮のすり替えがあったのではないかと想像します。
華頂宮博経親王は徳川家茂と孝明天皇の猶子 しかしそれを激しく否定する自分自身がありました。まず南部郁子は日本の東北である、朝敵とされた盛岡藩の女性であり、かつ盛岡藩主南部利剛の正室の娘でもない。皇女和宮と本来、何のゆかりもないはず。何か単純な間違いではないか?和宮の替玉となることなど、親王が夫君として許すはずがないではないか。確かにその美貌、品位は皇女にふさわしいものではあるが……。そのように考えながら私は伏見宮邦家親王第十二王子である華頂宮博経親王の年譜を調べてみました。
嘉永四年(一八五一)三月十八日誕生嘉永五年(一八五二)十月十二日知恩院相続(門跡)万延元年(一八六〇)八月二七日孝明天皇猶子万延元年(一八六〇)徳川家茂猶子万延元年(一八六〇)十一月二九日親王宣下・名を博経とする万延元年(一八六〇)一二月二九日落飾・知恩院門跡・法名尊秀入道親王慶応四年(一八六八)一月七日復飾・復名博経親王慶応四年(一八六八)一月十日華頂宮家創設明治元年(一八六八)九月一八日元服明治三年(一八七〇)六月アメリカ留学明治五年(一八七二)八月病気帰国明治九年(一八七六)五月一三日任海軍少将明治九年(一八七六)五月二四日薨去 博経親王は、南部郁子の間に博厚親王をもうけていました。 華頂宮博厚親王(明治八年(一八七五)一月十八日~明治十六年(一八八三)二月十五日) 華頂宮博経親王第一王子で伏見宮邦家親王の孫。母は伯爵南部利剛の長女郁子。 明治九年(一八七六)五月二十四日の父王博経親王の薨去を受けて華頂宮の家督を継承する。明治初年に皇族の範囲・賜姓皇族の方針を定めた。それによると博厚親王は臣籍降下する事となっていたが、明治天皇の思召しによって皇族の身分を保ち、明治十六年(一八八三)二月十五日に明治天皇猶子となり親王宣下を受けるが即日薨去。僅か八歳であった。 親王は幼少であった為継嗣はなく、伏見宮家から博恭王が入り華頂宮を相続する。博恭王はその後本流である伏見宮を継承するはずであった邦芳王が病弱であった為、伏見宮に復籍し家督を相続、華頂宮は博恭王の第二王子博忠王が継承する事となる(ウィキ)。
南部郁子は皇女和宮の義理の娘だった   洋装姿の和宮の写真が、実は南部郁子の写真だった。それは南部郁子が和宮の替玉である傍証とはなりますが、決定打とまではいかない。南部郁子が輿入れした華頂宮博経親王は、知恩院に入寺して落飾し、尊秀入道親王と称しましたが、明治維新後還俗して、知恩院の山号・華頂山にちなんで華頂宮の宮号を賜り一家を創設しました。 一八六〇年には、博経親王は、孝明天皇と徳川家茂の猶子だったのです。当時の公家の養子には三種類あり、養子、猶子、実子の三種類です。禁中並公家諸法度で、公家が女系の縁で養子を取ることは禁止されました。際限なく公家が増え、費用がかかることを防止する措置でしょうか。 猶子とは、明治以前において存在した、他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶことです。ただし養子とは違い、契約関係によって成立し、子供の姓は変わらないなど親子関係の結びつきが弱く擬制的な側面(その子の後見人となる)が強いといいます。実子は、他人の子供を「実の子供」とするわけですから、生家の系譜から抹消されます。養子と猶子は生家の系譜から抹消されないわけですね。 だから現在の感覚とは多少異なりますが、博経親王は、皇女和宮から見て、兄である孝明天皇の子、すなわち甥であり、和宮の夫君である徳川家茂の子、義理の子供であったわけです。 さらに不可解なのは、南部郁子と博経親王の間に生まれたとされる博厚親王です。伊藤博文は、口止め料として爵位を乱発したといわれますが、宮号も乱発したのでしょうか、伏見宮邦家親王は、十七人の王子と十五人の王女がいます。その十二王子である博経親王にまで宮家の創設を許しているのですが、この宮家は本来一代限りで、博厚親王は臣籍降下するはずでした。明治天皇の思し召しで皇族の身分を保ち、明治十六年(一八八三年)二月十五日に明治天皇猶子となり親王宣下を受けるが即日薨去します。 このような破格の待遇は、裏を返せば、それだけ握っている秘密が大きいことを示すのではないかと思います。当時、すべてが白日のもとにさらされたならば、日本には、「玉」である天皇が乱立し、それぞれに外国勢力がついて、内戦がとめどもなく広がり、日本が分割統治されたかもしれません。 いずれにせよ、自身の写真が皇女和宮とされた南部郁子妃の輿入先は、北朝最後の天皇、孝明天皇の子息の家系であり、かつ第十四代将軍徳川家茂の家系でした。南部郁子妃は、和宮から見て、義理の子、姪の関係に持つことになります。そして、和宮が京都にいたとする明治三年から五年には、華頂宮博経親王は、アメリカに留学して、五年に病気帰国することになります。ただ博経親王が清に留学していたという伝聞もあり、謎に包まれています。病身の身で明治九年に海軍少将を任じられ、翌日薨去します。 明治九年には、孝明天皇とその妻、和宮、徳川家茂の系譜を猶子として担う博経親王は、薨去してしまいます。これで維新の元勲たちによる口止めは完了したのでしょうか。 ここまで読まれて、鋭敏な読書の方は気づかれたと思います。再び記します。
皇女和宮は東京の南部家の屋敷に居住していた 和宮は明治二年以降も京都に在住し、明治七年(一八七四)七月に東京に戻り、麻布市兵衛町(現・港区六本木一丁目)にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院(図二十二)・家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになります。しかしこの頃より脚気を患い、明治十年(一八七七年)八月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かった……。 和宮は、再び東京へ戻ることを決め、明治七年(一八七四年)七月に東京に戻っています。柳沢明子は大和郡山の藩主の妻の身、ここでの皇女和宮を南部郁子と推定しましょう。 私が『神の国』誌前号、十二月号で和宮と天璋院との確執を掲載したのは、本来二人は天敵のような存在であり、協働で大奥を守ることはあったとしても、自由な状態で、皇族や天璋院・家達などと幅広い交流などすることはありえないことを記したかったからです。和宮は江戸でも御簾の中に入り人に姿を見せず、そのためか入浴も月に一度くらいだったとする伝聞もあります。もし幅広い交流をするような女性であれば、真っ先に有栖川宮の姻戚との交流があったはずです。 和宮が生きていたのならば、有栖川宮熾仁親王が、官位を返上してまで京都に留まることはなかった。官位を返上して、出家してでも和宮と一緒になったはず。しかし和宮が江戸でいっしょに過ごしたのは、陸奥国八戸藩の第九代(最後)の藩主で明治初期の政治家、南部(島津)信順です。信順の長男は南部栄信であり、家督を信順から譲られます。明治五年に八戸から東京に移り住み、明治七年(一八七四)二月に南部利剛次女の麻子と結婚します。南部郁子は、利剛の娘ですから、麻子とは姉妹になります。南部(島津)信順は島津重豪の十四男です。 そして、島津重豪薩摩藩主の曾孫が島津斉彬(図二十三)であり、その養女が天璋院篤姫なのです。系図をみておわかりのように、島津家と天璋院、南部家は親せき同士であり、東京へ越した皇女和宮の替玉、南部郁子が姉妹の義父である南部信順の屋敷に居住することは当然です。天璋院と交流を持つのもまったく自然。宮家に入ることが生涯の念願だった南部郁子は、幸か不幸か、華頂宮に嫁いだもの夫君に死なれ、和宮として過ごすことになります。南部郁子はその親戚、南部信順の屋敷で過ごすことで、明治維新の秘密の保持を果たすことになります。このように、明治七年以降、東京に滞在した皇女和宮親子内親王が、南部郁子であることは、間違いのないことと考えます。 ひとつわからないのは、皇女和宮の左手首(図二十四)です。それは亀岡市の八木清之助の家系の家で、明治二年から五輪の塔の下で眠っているのでしょう。 先述の「失われた和宮の左手首を巡る謎」の中で、「和宮は座棺ばかりの墓地の中で唯一、寝棺で葬られていた。朽ち果てた三重の木棺の床に敷きつめられた石灰の下に、期待された副葬品はなかった。ほかの墓に数々見られたような服飾、装具はなにひとつ得られず、かすかに足元に絹の細片が散っていただけの淋しさである……」と記載しました。京都から江戸に降嫁するときに、お迎えの者など二十万の行列を得た皇女和宮が、いくら明治に時代が変わったといえども、病死し、皆から葬られる時に副葬品ひとつないことはありえない。暗殺されたからこそ、遺骨だけ江戸に届けられ、増上寺に葬られた。だから和宮から家茂への遺言はなかったのではないか。寝棺にガラス版を入れたのは、側近でしょうが、そのような小さなものを唯一、和宮の居住地から探し出して棺に入れることは考えにくい。つまり、ガラス板は、京都へ行くときに持っていったものでしょう。有栖川宮が明治元年十月二五日に帰洛し、その有栖川宮に逢いに行ったと考えると、その場所に徳川家茂のガラス板を持っていくのはふさわしくない。増上寺の、和宮の寝棺の中の遺品となる、和宮の両腕の間に抱きしめていた小さなガラス板は、当然有栖川宮熾仁親王の姿を写していたと思う。そして、皇女和宮薨去が、有栖川宮熾仁親王と上田よねの逢瀬につながり、出口王仁三郎聖師の出生につながるのです……。
解決すべき問題 皇女和宮が明治二年一月二十日頃に岩倉具視らに暗殺され(図一・八木清之助の家の裏山に建てられた皇女和宮の墓と伝承の五輪の塔)、そのことが有栖川宮熾仁親王の東京行拒否、有栖川宮家の侍医であったと思われる中村孝道の縁を通しての、伏見での上田よねとの出逢い、出口王仁三郎聖師の誕生につながったことを推論しました。そして、盛岡藩最後の藩主南部利剛の娘、南部郁子妃と、昭憲皇太后の姉で、大和郡山藩主柳澤保申の妻、柳澤明子の二人が、和宮が公式に薨去したとされる明治十年頃までその替玉の役目を果たしたであろうことを著述してきました。明治十年とされる公式な皇女和宮の葬儀に関与したのが伊藤博文です。図二は欧米視察の岩倉使節団の写真ですが、維新の元勲たちが映っています。 しかしまだ不明な解決すべき問題があります。一、皇女和宮の公式記録では、明治十年九月二日に、和宮が薨去されたことになっている。当然、大がかりな葬式が行われ、ご遺体の改めも行われたはず。そのご遺体自体も替玉であったのですか。二、小坂家で発見されたという、皇女和宮の写真について、どういう経緯で撮影されたことになっているのか記録は残っていないのですか。もう少し説得力が欲しい。この二点です。
和宮を密葬した阿弥陀寺水野和上の証言 皇女和宮は私の援用する『調査団宛の手紙』の老婆の指摘では、明治初年に箱根山中に暗殺され、公式記録では、明治十年九月二日に箱根塔ノ沢で薨去されたことになっている。その和宮の密葬をされた箱根阿育王山阿弥陀寺のホームページ上で、第三八世和上、水野賢世(図三)が和宮について記載していますので、引用させていただきます。(引用)和宮親子内親王は、弘化三年(一八四六)閏五月十日未刻(午後二時頃)、仁孝天皇第八皇女として生まれた。母は典侍橋本経子(議奏権大納言橋本實久の女)、のちの観行院である。仁孝天皇は多くの后妃との間に七男八女をもうけられたが、大半は夭逝して、成人したのは三人のみ。姉の敏宮と兄、のちの孝明天皇、そして和宮であった。 和宮が生まれた時は、父仁孝天皇はこの世になく、和宮誕生間近の弘化三年一月二六日にお風邪がもとで病死なされている(御年四七歳)。御誕生後、七夜に当たる閏五月十六日に命名の儀が行われ、御兄帝により和宮と命名された。 和宮は六歳の時、有栖川宮家の長男熾仁親王(天保六年二月十九日生)と婚約、以来学問を有栖川宮家で学んだ。熾仁親王は十七歳、早婚の当時としては、そろそろ配偶者を迎える年頃でありながら六歳の婚約者は有難迷惑であったに違いないが、 孝明天皇の妹ということで受け入れたと思われる。阿弥陀寺に和宮の書面が保存されているが、和宮の文字は実に流麗で美しい。和宮は熾仁の父幟仁親王から習字の手ほどきを受け、のちに熾仁親王より和歌を学んだのである〈図四は皇女和宮の絵であり、真実の和宮の容姿を示しているのではないかと私は感じています〉。 和宮は小柄でとても可愛らしい少女で、一メートル四三センチ、 三四キロくらいだったとのこと。和宮は成長して十四歳を迎える頃、熾仁親王は二五歳の立派な大人であり、容姿もそれは立派な青年であった。その親王との婚礼を胸に描きながら、夢見がちの日々を過ごしていたある日、突如として沸き起こった「公武合体」。 この時代は日本にとって重大な政治問題が山積、国際的な問題も多々あり、国内的には尊王攘夷を旗印として倒幕を目指す連中の力を殺ぐためには、 「公武合体」即ち江戸と京都の間で政略結婚を行う以外にないと幕府は考えた。ときの将軍は紀州家から来た家茂(弘化 三年閏五月二四日生)であった。 大老井伊直弼(図五)は早くから公武合体を望んでいた。そうして和睦を図る一方で、京都の反対を押し切ってアメリカと条約を結んだが、反対派が激高すると、次々と捕らえて投獄した。いわゆる安政の大獄である。吉田松陰、梅田雲浜、頼三樹三郎、橋本左内など前途有為の人が犠牲になった。その後暫くして、今度は井伊直弼自身が水戸浪士など凶刃にかかって桜田門外で果てたのであった。 図六は、映画「桜田門外の変」の映像です。 井伊大老横死の後、 老中 久世広周、安藤信正らの画策により、万延元年(一八六〇)四月、公武合体のため幕府から朝廷へ正式に徳川第十四代将軍家茂の妻として和宮の降嫁が願い出された。兄帝孝明天皇からこの話を告げられた和宮はどんなに驚いたことであろう。有栖川宮家への輿入も年内には、と聞かされていた身には大変な衝撃であったはずである。 和宮は拒絶した。帝も妹宮の胸の内を思いやり、この結婚には反対の旨を幕府に伝えたのである。しかし幕府は諦めず何度となく圧力をかけて来た。帝は「仕方がない。それでは去年生まれた娘壽万宮〈岩倉具視の実妹堀河紀子の長女、孝明天皇第三皇女〉を江戸へ送ろう。嬰児では困ると幕府がいうなら、退位しよう」と、帝は関白九条尚忠に手紙を宛てて信条を述べた。この手紙の写しが新大典侍勧修寺徳子と勾当掌侍高野房子の両名により和宮の所へ届けられた。書面には「壽万宮を江戸へ」と書かれたあと、帝は「一人娘のことで、少々寂しくはあるが〈第一皇女、第二皇女は死去していた〉」と添えられてある、その書面を見せられた和宮は胸を衝かれた。 「私が我を張り続けているために、まだ乳のみ子の壽万宮が江戸へ送られる。そればかりか、話がこじれれば帝は退位するとおっしゃっておられる」。和宮は血をはく思いで「承知」の一言をもらされたのであった。 文久元年十月二十日辰刻(午前八時)、和宮の行列は江戸に向かった。幕府はこの時とばかりと、衰えぬ威勢を示すため、お迎えの人数二万人を送ったという。道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢二十万にもなった。公武合体に反対の連中から護るため、庄屋の娘三人を、和宮と同じ輿を造り、計四つの御輿で中山道を通って江戸へと行列は続いた。京より他の土地を知らない宮の御心を慰めようと、途中名勝を通る時など御輿をお止めして添番がご説明申し上げたという。和宮は、その時つぎのような一首をつくられたのである。 落ちて行く身を知りながら紅葉ばの 人なつかしくこがれこそすれ 大好きであった熾仁親王と別れて来た。その人の面影を想い、涙を流したことであろう。 十一月十四日に無事板橋の駅に到着、翌十五日江戸九段の清水邸に入られた。それから約一ヵ月後の十二月十一日に、それは素晴らしい行列で江戸城に入ったのである。【皇女和宮= 第十四代将軍徳川家茂へ御降嫁に際し中山道を通って江戸へ向かわれたが、その途中、信州の小坂家で休息された折、小坂家の写真師が撮影した日本唯一の和宮様の写真。ポジのガラス乾板で軍扇(図七)に収められている。これを複写したものを小坂家の小坂憲次さん(前衆議院議員)のご好意により、阿弥陀寺に寄進された。】 …和宮は数え年三二歳になった頃より脚気の病になり、 伊藤博文公の勧めにより明治十年八月七日から箱根塔之沢の「元湯」に静養のため滞在され、 一時よくなられて歌会を開かれるまでに快復されたが、二六日目の九月二日、俄に衝心の発作が起こり、この地で他界されたのである。 すぐさま知らせが東京に飛び、協議に入った。その間、増上寺が徳川家の菩提寺であるので、その末寺の塔之沢阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬をつとめたが、なかなか東京からの知らせがこない。東京では和宮の葬儀を神式葬か仏式葬かで激論が繰り広げられていたのである。しかし和宮の遺言「将軍のお側に」とのお言葉が取り上げられ、九月十三日、増上寺での本葬となった。御遺骸は芝の増上寺に眠る夫君、徳川十四代将軍家茂公の隣に葬られた。御法名は「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」と申し上げる……(執筆 水野賢世)
入那の国は京都、セーラン王は孝明天皇・熾仁親王か 『霊界物語』四十一巻には「入那の国」が出てきますが、私はその国を日本の京都を中心とした地域とみています。韓国語では、日本の「日」を「イル」と発音します。ハルナの国が「ハル・東」、ナ・「地」を示し、東京を示すように、那とは出口王仁三郎聖師の記述では、国や地を示していますから、当時の日本の中心、京都を示しても不思議ではありません。そして『霊界物語』の発表された当時、韓国は日本に併合されていましたから、「イル」という発音が「日」を示すことは、知られていたと思います。 ちなみに、テルマン国は、関東・江戸ではないかとするのが私の推定です。テルマンの「言霊返し」は「トルマン」と同様「ツマ」であり、「ホツマ・秀妻」の国、優れた国、日本の東部なのでしょう。テルモン国も「照る紋」という意味で、三葉葵の紋などが翻る江戸かなと考えています。 そして、右守司カールチンは、時の右大臣岩倉具視を示すのではないかと考えています。現実の歴史では、岩倉具視は実の妹、堀河紀子を孝明天皇の典侍〈高級女官の最上位〉とします。堀河紀子は、典侍でも天皇の寵愛を当初は一身に受け、皇子女を生む側室の役割を持つ者でした。実際に壽万宮と理宮の二人の宮をもうけています。 四一巻のセーラン王は、孝明天皇であり、かつその次の天皇として予定されていただろう有栖川宮熾仁親王を指すと考えています。とすれば、セーラン王の、当初は寵愛を受けた妻、カールチンの娘、サマリー姫は、堀河紀子を示すのでしょうか。
和宮降嫁に隠された三人の庄屋の娘和宮  さて、水野賢世和上が執筆されているように、和宮降嫁に当たり、庄屋の娘三人が替玉に立てられたことがわかります。 …道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢二十万にもなった。公武合体に反対の連中から護るため、庄屋の娘三人を、和宮と同じ輿を造り、計四つの御輿で中山道を通って江戸へと行列は続いた。……と、和宮の降嫁に伴う江戸行きの当初から、皇女和宮には、庄屋の娘、三人を替玉としていたことがわかります。ここで和宮が替玉と馴染み深いことがわかりますし、沿道や警備、お迎えの、和宮を見た人の四人に三人が、偽物の和宮を本物として認識したことになります。 そして、次にわかったことは、和宮とされる小坂家所蔵の、真偽はともかく伝えられる出自です。
小坂家所蔵 皇女和宮の写真の出自 皇女和宮は一八四六年五月十日生まれ、和宮降嫁は一八六一年であり、十二月十一日、和宮は江戸城本丸大奥に入ります。皇女和宮はその時、満十五歳、小坂家所蔵の皇女和宮の写真は、十五歳の時の写真となりますが、とてもその年齢の女性にはみえません。小坂家所蔵の写真は、私にも三十歳後半以降の女性の写真に見えます。この写真は、古写真研究家の森重和雄氏の調査では、明治十五年(一八八二)頃に撮影された、柳澤明子の写真とわかっています。だから、阿弥陀寺に保存された和宮の写真は、真実のものとは言えないでしょう。明かに和宮の写真であるはずがないのに、なぜ阿弥陀寺はこの写真を和宮の写真としているのか謎が残ります。
なぜ、明治天皇は和宮に東京滞在を進めたか和上のHPの中に次の記述があります。  慶応四年(一八六八)四月九日、和宮は江戸城を出て清水邸に移られた。 その後、京都に帰住されるため明治二年一月十八日、東京(明治元年七月十七日、江戸を東京と改称)を立ち京都に向かわれた。京都在住は明治七年六月までの五年に及んだ。 既に東京に移られていた天皇のお勧めにより、東京移住を決心された和宮は、明治七年六月二四日京都を立ち、七月八日、東京に到着、かねて用意されていた麻布市兵衛町の御殿に入られた。和宮はここで三年有余を過ごされたのである… ここも疑問です。明治天皇が大室寅之祐であれば、寅之祐の素性を知る皇女和宮と会うことを避けるはず。しかし大室寅之祐天皇は和宮に東京在住を勧めた。明治二年には京都在住を命じたに関わらず。すでに皇女和宮は南部郁子に入れ替わっていたからではないでしょうか。 南部郁子の姉、麻子は八戸藩九代藩主南部信順(薩摩藩主島津重豪の十四男)の子、南部栄信と結婚します。栄信は明治五年(一八七二)に八戸から東京に移り住み、明治七年(一八七四)二月に麻子と結婚、同年十一月アメリカに留学するも、明治九年(一八七六)に病のため帰国します。同年三月に死去し享年十九です。麻子との間に子は無く、南部家の家督は麻子が継いだとのこと。 ちなみに、麻子の妹、皇女和宮の替玉の疑惑がある南部郁子(和宮の義理の子・姪)の夫、華頂宮博経親王が米国に留学したのが明治三年で、明治五年八月に病気帰国し、明治九年五月に薨去します。和宮の公式な死去の年、明治十年の前年に、替玉和宮としての南部郁子をもっともよく知る、郁子の義兄、南部栄信と、郁子の夫、華頂宮博経親王が薨去されたのは偶然なのでしょうか。なぜ皇女和宮(実際には南部郁子)ともあろう富裕な人が、自宅ではなく、いかに義兄の家とはいえ、他家で世話になり暮らしたのか。実際には、栄信が家督を継いだ当時、南部家の財政事情は苦しかったとされ、明治七年(一八七四)に旧八戸藩江戸藩邸を一万五千円(当時)で静寛院宮邸として売却し、豊島の邸宅を二千六百円(当時)で購入し転居したからとわかりました(WIKI南部栄信参照)これも両者が義兄弟であったからでしょう。 南部栄信と島津斉彬の養女、天璋院篤姫は親戚ですから、替玉、南部郁子は篤姫と東京で交流を持ったことは前月号で記した通りです。図八は、洋装姿の和宮・南部郁子の写真です。
薨去した和宮が誰なのかわからない 阿弥陀寺に保存されている、皇女和宮の写真は、柳澤明子の写真です。しかし柳澤明子は、明治三五年(一九〇二)に亡くなったとされている。明治十年に亡くなった人が柳澤明子でないとすれば、第四の皇女和宮がいたのか、あるいは、塔ノ沢でのご療養そのものが架空の話だったのか、私は、皇女和宮が療養のため滞在したとすること自体があやしいと考えます。 その根拠は、阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬をつとめたが、東京からの知らせがなかったこと。和宮は、天皇家と徳川家の象徴的存在、公武合体の象徴であり、降嫁の時に二十万の人々が集まったほどの重要な人物です。阿弥陀寺の住職の判断で、皇女の通夜、密葬ができるものなのでしょうか。密葬とは、死者の家族やごく近しい親類・友人のみで小規模に行われる葬儀のこと。まして場所は箱根です。阿弥陀寺の住職も和宮の顔は見たことはなかったでしょう。そもそも今でも写真一枚ない皇女なのです。 和宮には父である仁孝天皇はもちろん、母である勧行院橋本経子(慶応元年(一八六五)八月九日逝去)、夫である徳川家茂(慶応二年(一八六六)七月二十日薨去)も、兄である孝明天皇(慶応二年(一八六七)十二月二五日崩御)も含めて、和宮の真の顔を知るような、親族は誰もおらず、まして箱根塔ノ沢の遠隔地、誰も密葬に参列していないでしょう。替玉南部郁子の夫、華頂宮博経も、また南部栄信も前年に亡くなられているのです。
和宮の顔を知っていた島田左近の惨殺 確実に和宮の顔を知っていた、皇女和宮に降嫁を脅迫的に迫った九条関白の家臣島田正辰左近(図九)は、文久二年(一八六二)七月、京・木屋町の愛人宅へ忍んで出向いているところを、薩摩藩の田中新兵衛ら配下三名に襲撃され、塀を乗り越えて逃げようとして尻を斬られ、落ちたところで首を討たれとされます。首は加茂川の河原に晒されたが、このときの暗殺劇から始まるのが、いわゆる「天誅」と呼ばれる、都で続発した殺戮騒動とのこと。和宮嫁が文久二年(一八六二)二月ですから、和宮降嫁の後の口封事による暗殺なのだと考えています。皇女和宮は、大室寅之祐ではない睦仁親王の顔を知っていた……。 伊藤博文が、明治二年に暗殺された和宮の、最終的なケリをつけるために、箱根塔ノ沢で和宮に衝心の発作が起こり、この地で他界したことにしたのではないか。和宮降嫁を策謀した有力人物は、岩倉具視であり、孝明天皇暗殺は、岩倉具視と伊藤博文の計画と疑われています。 箱根塔ノ沢には徳川将軍家の菩提寺・芝増上寺の修行寺である阿弥陀寺があり、また和宮を知る人は誰もおらず、通夜と密葬を行ってしまえば、和宮の死顔を見せる必要はない。死顔をみても、有栖川宮熾仁親王以外、宮の顔を見分ける人はいない。冷蔵施設もない当時、九月二日から本葬の日まで十二日も経ってしまえば、顔も腐敗に近いはずです。 密葬、あるいは本葬の時の遺骸があったとすれば、誰か他人の遺骸か、あるいは、「調査団宛の手紙」を出した老婆の指摘どおり、明治二年に暗殺された和宮の遺骨を使用したのではないかと思います。
西南戦争と有栖川宮熾仁親王 なぜ、皇女和宮の死去が明治十年九月二日とされたのか、改めて確認しました。熾仁親王は、明治十年二月十九日、鹿児島県逆徒征討総督を兼帯しました。 十月十日には、陸軍大将に任命され、元老院議長となり、十二月二日には、大勲位を叙勲し、菊花大綬章を受章しています。 その九月一日には、西郷軍は鹿児島をほぼ制圧し、情勢は大きく西郷隆盛軍に傾いていました。九月三日には官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐したとのことですが、そのような西南戦争の天王山という時期に、鹿児島県逆徒征討総督 有栖川宮熾仁親王が箱根の和宮の密葬に参加できるはずがありません。そして九月二四日、西郷隆盛の切腹で西南戦争は終わります。だからそれ以前の和宮の本葬にも有栖川宮熾仁親王は参列してない可能性があります。西南戦争の混乱の時期が和宮の、それはどの和宮かはわかりませんが、葬儀の日として選ばれたのでしょう。図十は、西南戦争逆徒出陣の図です。 歴史を紐解きましょう。殺された源義経の首は、頼朝の元に実検のため送られましたが、四十三日輸送にかかりました。顔を腐らして誰かわからなくするためといいます。源頼朝は腐敗しきった顔を見て、「これは義経でない」と見破ったのでしょう。平泉の藤原泰衡に大軍を送り滅ぼしました。 葬儀の延期により顔を腐敗させて死者を偽ることは過去から常套手段だったのでしょう。水野永世和上の記述、「すぐさま知らせが東京に飛び、協議に入った。その間、増上寺が徳川家の菩提寺であるので、その末寺の塔之沢阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬をつとめたが、なかなか東京からの知らせがこない。東京では和宮の葬儀を神式葬か仏式葬かで激論が繰り広げられていたのである」という激論の理由は、和宮の姿をみさせないための手段だったのではないかと考えます。 神式ならば皇室、仏教ならば徳川家の領分なのでしょうが、薨去された後もすぐに葬式の形式を決定できないほど重要な人物ならば、副葬品はたくさんあるはずなのに、ガラス板ひとつ。これも、和宮の死が偽装であるひとつの証左となります。 さらに、和宮は伊藤博文の勧めによって、箱根塔ノ沢の「元湯」に療養のため滞在され、にわかに衝心の発作が起こり、他界したといえます。享年三二歳、若くして唐突な死は不自然です。
田中光顕伯爵の告白  幕末維新の時に、「孝明天皇が弑逆され、睦仁親王が殺され、奇兵隊の天皇 大室寅之祐へすり替えられた」とする天皇すり替え説。これが流布する起りは、豊川市に住む三浦天皇こと三浦芳堅氏の著作である「徹底的に日本歴史の誤謬を糺す」にあります。鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇』新国民出版社から主旨を引用します。鹿島氏は、著書の中で「睦仁親王でさえ、中山慶子の流産した胎児とすり替えられたものかもしれない」と示唆しています。(引用)昭和四年の二月、私(三浦芳堅氏)は思い切って極秘伝の『三浦皇統譜系譜』及び記録を、埋蔵せる地下から掘り出していって、山口鋭之助先生に見ていただきました。先生はびっくりして、「私の一存では何ともお答えできないから、私の大先輩で宮内大臣をなさり、維新当時は勤王の志士であった田中光顕伯爵がまだご生存中であるから、この方にお尋ねてみようということで、私は連れていって頂きました〈図十一は若き日の田中光顕(顕助)〉。(田中伯爵は)これが正しい歴史であろう。けれども、今現在は明治維新が断行されて、宇宙のあらんかぎり、絶対に千古不滅の欽定憲法が御制定になった。だから過去の歴史は歴史として、現実はこの欽定憲法によって、大日本帝国の国体は永遠に確立せられたのである。あなたが今この事を発表したならば、それこそ幸徳秋水同様、闇から闇へと大逆罪の汚名を被せられて、極刑に処せられることは火を見るよりも明らかなことであるから、あなたのお父上がおっしゃった通り、早く埋蔵して何人にも一切語られぬがよろしい」と言われて、さっぱり私の疑問を説いていただくことはできませんでした。「伯爵は、これは日本の正しい歴史だとご鑑定なされた。その正しい歴史を私が発表することが、欽定憲法に触れて極刑に処せられると言われたが、私は他人と違ってその直系の子孫であります。私の生命観ではとても耐えられません。それを発表することが極刑に処せられるような欽定憲法であるならば、今このまま、直ちに私を司直に渡して極刑に処していただきたい」と申し上げました。 そのように申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔面蒼然となられ、しばらく無言のままであられましたが、やがて「私は六十年来かつて一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在、この事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵ただお一人が生存していられるのみで、みな故人になりました」と前置きされて「実は明治天皇〈図十二〉は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新という時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘、中山慶子様で、お生まれになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたという事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばせたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、すなわち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩においてこの御王孫をご守護申し上げてきた。これがすなわち、吉田松陰以下、長州の王政復古御維新を志した勤王の運動である。 吉田松陰亡き後、この勤王の志士を統率したのが、明治維新の元老木戸孝允、すなわち桂小五郎である。元来、長州藩と薩摩藩とは犬猿の仲であったが、この桂小五郎と西郷南洲(隆盛)とを引きあわせて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である〈恒 桂小五郎を禁門の変の時、亀岡は千代川村拝田の自宅のわら小屋に匿い、但馬、出石へ逃がしたのが志士である八木清之助です。和宮の五輪の塔は清之助が建立。薩長連合の成立に関わったのが旭形亀太郎だと考えますが、旭形は全貌を知らされていなかった〉。 薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲〈隆盛 西南戦争の一方の雄〉に『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』ということを打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘してこれに賛同し、ついに薩摩を尊皇倒幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。これが大政奉還、明治維新の原動力となった。……御聖徳により、着々として明治維新は進展し、日清、日露の両役にも世界各国が夢想にしなかった大勝を博し、日本国民はこぞって欽定憲法の通り、即ち明治天皇の御皇孫が永遠に万世一系の天皇としてこの大日本帝国を統治遊ばされると大確信するに至り、しかも明治四十四年南北正閏論が沸騰して桂内閣が倒れるに至った時においても、明治天皇は自ら南朝が正統であることをご聖断あらせられ、従来の歴史を訂正されたのである。 このようにして、「世界の劣等国からついには五大強国のひとつとなり、さらに進んで今日においては日米英と世界三大強国の位置にまでなったという事は、後醍醐天皇の皇子の御王孫明治天皇の御聖徳の致すところである」と王政復古明治維新の真相を語り、なおこの外に岩倉具視卿の(孝明天皇と睦仁親王を暗殺した)活躍や、三条以下七卿落ちの〈大室天皇擁立運動の〉真相や、中山忠光卿の長州落ち等々、詳細にわたってお話くださいました」。 大室寅之祐明治天皇の出自については、近年これとは異なる見解が出されておりますが、全体として傾聴すべきと考えています。
幕末明治維新の正確な理解なくして『霊界物語』はわかるものではない 父、出口和明が、「有栖川宮熾仁親王と出口王仁三郎 落胤問題を実証する」とのテーマで、和宮と熾仁親王の関係を『神の国』誌に掲載しています。(十五)(十六)では特に和宮と孝明天皇、幕府方の動きが克明に追跡されています。このことは、『霊界物語』四十一巻に記載の、皇女和宮を表すとみられるヤスダラ姫、孝明天皇と有栖川宮熾仁親王の投影であろうセーラン王、堀河紀子の投影を意識させるサマリー姫について考察するときに役立ちます。 なぜ熾仁親王や和宮、孝明天皇、維新の元勲のストーリーが、『霊界物語』を読み解くうえで、必須であるのか、このことの正確な理解なくして、『霊界物語』は絶対にわかるものではない、それは後の号でご説明します。
有栖川宮熾仁親王と皇女和宮(引用)和宮親子内親王は、生まれながらに幸薄い姫君であった。弘化三年(一八四六)閏五月十日、仁孝天皇を父、新典侍橋本経子を母として、京都御所建春門前の橋本家に産声を上げた。しかし仁孝天皇はそれより四カ月前、即ちこの年の正月二六日に崩御していたから、まったく父を知らない。一五人もの皇子皇女は次々と夭折し、生き残った姉の敏宮も、気の狂うほどの病体と伝えられるから、末の和宮が頼りとしたのは、この年一五歳の異母兄孝明天皇ただ一人という淋しさである。 弘化三年が六〇年に一度めぐってくる丙午であったことも、何か悲劇的ではないか。丙午は宿曜雑暦にちなむ迷信のひとつである。十干十二支を五行に配すると、丙(火の兄)、丁(火の弟)、己、午が火性で、従って丙午は火勢が熾烈という。これにあたる年は大火が多く、この年出生したものは気性が激しくて、特に女は男を食い殺すという俗信のため、丙午の女との縁談は忌みきらわれた。 明治三九年(一九〇六)の女児出生届数が前後の年に比して格段に少ないのもその影響であるし、近くは昭和四一年(一九六六)の丙午で出産を手びかえた記憶も新しい。まして禁忌の盛んな朝廷のことであるから、この忌わしい年まわりの姫君の御誕生は決して平静に受け取られなかったであろう。 『実久卿記』(和宮外祖父)等には「寛永元年八月二日に至り、叡慮を以て和宮御歳替の事あり、即丙午を乙巳(丙午の前年)に改められ、其翌年御誕辰を(弘化二年)十二月十一日と定めらる」とある。 嘉永四年(一八五二)、孝明天皇は、勅使権大納言三条実万、前大納言坊城俊明をもって、皇妹和宮の有栖川宮熾仁親王への降嫁を内旨する。この時、熾仁かぞえ十七歳、和宮六歳。 安政五年(一八五八)頃から、幕府は皇女を御台所(将軍夫人)に迎えたい意向を抱きはじめていた。いかにも皇室をありがたがっているように見えるが、その実、井伊大老は、安政の大獄の鉄拳で威嚇し朝廷を屈服させたこの好機をのがさず、更に朝廷を統制する腹であった。外国条約勅許のいざこざがおこる以前の、政治から隔離した存在であった朝廷にまで引き戻す。幕府の常識ではそれが正常な在り方だったのだ。 安政五年時点で皇室から御台所を選ぶとなると、将軍家茂は一三歳、孝明天皇の姉敏宮淑子内親王(三〇歳)はとうに婚期を過ぎながら独身でいるほどの病弱であり、皇女富貴宮はこの六月に生まれたばかり、いくら政略結婚とはいえ言い出しかねる。年令からなら将軍と同い年の和宮が好適だが、すでに熾仁親王との婚約が成っている。 井伊大老は関白九条尚忠と協議を重ね、やむなく富貴宮を第一候補としたが、翌安政六年(一八五九)八月二日に薨去する。このため降嫁問題は和宮一人にしぼられるに至った。家茂は紀州藩時代の幼時に伏見宮貞教親王の妹則子女王(倫宮)と縁談を進めていたが、この八月皇女を迎える用意に破棄している。 一方、熾仁親王と和宮の婚儀は翌年冬に準備されており、『実麗卿記』(和宮の生母橋本経子の兄)によると、翌万延元年(一八六〇)二月三日、和宮は熾仁親王との婚儀準備のため、勅許を得て生家の橋本邸から桂御所へ移られている。
桜田門外の変と飯田忠彦の憤死 万延元年に入ると、井伊大老の独裁専制と志士弾圧に反発する空気がいっそう険悪さを増してくる。三月三日上巳の節句の日、陽暦では三月二四日というのに、春には珍しい大雪であった。芝愛宕山に集まった水戸脱藩士ら一八人は、桜田門外で井伊直弼の登城を待つ。井伊の行列総勢六〇余人が桜田門外に来かかった時、暗殺団は雪を蹴って目指す駕龍に襲いかかった。大老となって二年と満たぬ間である。井伊直弼の急死とともに幕府権力、独裁的政治秩序は急速な崩壊をみせていく。 桜田門外の変で水戸浪士らに井伊大老が殺されるや、飯田忠彦は再び幕府の嫌疑を受け、伏見奉行所に捕われる。後に宿預りとなるが、その過酷な取調べに憤懣のあまり自らの命を断つ。享年六三。大老の死を、幕府は半年余も世間にひた隠している。
和宮降嫁問題 幕府運営は老中久世広周と安藤信正に移り、井伊の死以後も降嫁問題は特に安藤によって推進されていた。幕府の土台が揺るぎ出すと、朝廷統制という最初の降嫁目的は、公武一体(公武合体)、つまりは朝廷の権威を借りて幕権を強化しようという望みに変わっていた。 尊皇攘夷運動のスローガンが反幕権力結集に利用されている時、たしかに「皇妹を将軍の御台所に迎えればこれこそ公武一和、尊王精神の具体化ではないか」と尊王論者どもの矛先をかわすメリットはある。 四月一二日、幕府は老中連署の書簡(四月一日付)を所司代酒井若狭守忠義を通して九条関白に届け、和宮降嫁を正式に申し入れた。 連名をもって貴意を得ます。されば公方さま(家茂将軍)お年頃になられましたので、ご縁組の内意をおおせ出されました。ご先規もあらせられることなので、この度は皇女の内とご縁組を整えたい御内存で、われわれ老中もそう願っており、早速評議いたしましたところ、お年頃も和宮がふさわしく至極結構に思いますが、先般有栖川宮へご縁組のご内意がありましたことゆえ、右をお沙汰止めということになれば都合よろしく、公方さまとのご縁組を整えられるようご勘考おとりはからい下さいませ。そうして下されば公武ましますご一和の筋を国内はもちろん外夷までもさし響きますので、第一国家のおためと存じますので、厚く関白(九条尚忠)殿へご内談をとげられ、はやくあい整いますようおはからい下さいませ。四月朔日 安藤対馬守 脇坂中務大輔 内藤紀伊守 久世大和守酒井若狭守様 国家のために、有栖川宮との縁談を一万的に破棄させ将軍との縁談をまとめてほしい、というまことに虫のよい申し出で、さらに追伸には「皇妹和宮を孝明天皇の養女にした方が都合がよろしい」と和宮の皇女としての資格まで要求している。もっともこれまでには十分根まわしがしてあり、大老井伊直弼の腹臣長野主膳義言、九条関白の家臣島田左近、公卿の中で第一の策士といわれる岩倉具視らがおこたりなく裏面工作を進めていた。幕府としても十分な成算があってのことであろう。 長野義言は国学者であったが、出生地も不明で、前半生は謎に包まれている。伊勢三河・尾張・美濃の各地を遊歴、近江に入り志賀谷村代官阿原民に寄寓、国学塾高尚舘を開き彦根藩の井伊直弼と親交を結ぶ一方、二条家など堂上方にその学を講じた。井伊が藩主になると藩校弘道館の指導者に登用され、また系譜方、異国船処置御用掛などの役目をかねた。 井伊の大老就任後、長野は通商条約勅許問題、安政の大獄事件をめぐり尊攘派勢力の反幕工作に対抗するために主として京都にあって活動、井伊側近としての実権をふるっていた。だから長野にとって井伊の不慮の死は大打撃で、それだけに井伊の遺志をなし遂げる決意も強かったであろう。 長野から所司代の家臣三浦七兵衛にあてた密書(上包には月一八日に逢すとある)には、和宮降嫁について大胆に腹中を明かしている。…このたび悪党ども狼藉に及び、市中は動揺して容易ならぬ御時節に至り、一昨年来公武の間をさまたげてきた手段にも及ぶところ、厚き叡慮をもって公武ますます御一和の旨おおせ出され、天下安堵の地になりましたが、またまた悪党ども、この度のごとく蜂起いたし色々虚説も流布いたすようになって参りましたので、早く天下の疑惑を晴らさねばなりません。 ついては皇女のうちにも御年長にあられる和宮とのご縁組を遊ばされれば、国内はもちろん諸夷(諸外国)までもいよいよ公武一和の儀を示すことになり、国体のためにもなりますので、なにとぞそのようにお運び下さいませ。 和宮は有楢川帥宮にご縁組をおおせ出されておられます由、有栖川宮はご薄禄(低収入)、和宮をお申しうけになってもお賄い何かとご迷惑でありましょうし、内実は和宮さま、丙午のお生れですから中務卿宮(父幟仁親王)は深く恐れていられるように聞いています(註・実は邪推に過ぎない)。そのため、和宮と有栖川宮との御縁談は成立すまいとの風聞もあるくらいで、将軍家にご降嫁願うことは双方に都合がよいことになりましょう。 そこでまず内々に関白殿下へ申し上げて御厚談の上、しかるべくおとりはからいなされますようにお願いします。このこと、老中さま方よりもおおせられるはずであり、主人からも直書をもって申しあげるつもりでありますが、この節不快につき(註・主人の井伊大老はすでに死んでいるが、表向きは病気としている)まず私よりあなたまで申し上げるよう命じられましたので、なにとぞ一日も早くご縁組が整いますようご心配下されたく、ひとえに頼りに思っておられます……。 幕府から矢の催促をうけながらためらっていた九条関白も、ようやく五月一日になって和宮降嫁の件を奏上した。これに対し四日、孝明天皇は書を九条関白に下して、やんわりと拒絶する。 今度関東より内願の一件、公武合体の件ももだしがたいが、和宮にはすでに有栖川宮と内約もあることだから、今さら違約もできぬではないか。先帝(仁孝天皇)の皇女であり、自分としても義理合があるから、その事情もくみとってほしい。それに和宮はまだ年幼い女子のこと、関東に蛮夷(外国人)がたくさん入ってきているというので、こわがっておられる。せっかく申しこんできたものでもあり、自分としてもよくよく考えてみたが、実に仕方のないことゆえ、この縁談は見合わすべきだと思う。 外国との条約調印のことについて幕府との意見の食い違いもあり、幕府では朝廷が何かもくろんでいるように考えてか、しばしば公武合体を申し立ててくるようだが、こちらとしては隔心など決してないのであるから心配することはいらない。ただ外国との条約の件については自分はあくまで不同意である。この主旨をよく体して、幕府へ申し渡すようにとりはかってもらいたい。 関白からこの勅使の内容を聞かされた所司代酒井忠義は、幕府へ伝えず、五月一一日、一存で書き綴った奉答書を逆に関白に取次がせ、いちいち反論して幕府の意向を強引に通そうとする。 おおせの趣きもっとも至極のことで早速にも関東へ申してやるべきですのに、私一人の考えを申し上げることはまことに恐れいりますが、和宮ご降嫁の件は軽率に決めて願い出たものではなく、閣老一同が公式の間はいうまでもなく、天下のおためを考えて十分に評議を尽くしたものであり、将軍のお考えもよくお聞きした上で深重のご注意をもって申しあげるように言ってきたもので、勅旨の趣きを関東へ申してやりましても、すぐさまご降嫁の儀を再び願い出ることは決まりきっております。いそいでおります時にそのやりとりで時日をついやすことも実にむだなことで、さしでがましいと思われましょうが、なにとぞ関白殿下にはいま一応とくとご賢察の上、主上にお取次ぎ願いたいのでございます。 有栖川宮(熾仁)(図十五)とのご内約についてのご心配であられますが、有栖川宮家ではご降嫁の件はしかと承知しておられます(註・事実ではない。手を廻して有栖川宮に辞退させる確信があって、あえて強弁したのであろう)。ただいまご破談になっても少しもご心配に及びませんし、かえって先方で安心される場合もございましょう。まだご結納もすまされず御内約に過ぎぬのですから、これによって御名儀を失わせられることなどありますものか。 また先帝の皇女であられるお義理合い、ごもっともではございますが、関東との縁組も先例のあることであり、遠隔の地へ御降嫁願うことはおそれいりますが、お仕え申すことに至ってはかえってお手厚にできることでございましょう。 和宮さまは御幼年であられ、関東は蛮夷来集の地であることを恐れていらっしゃるようですが、関東は諸大名が多く家来たちを召し連れて御警衛も行き届き、決してご心配なされるようなことはございません。この度のご縁組の儀は天下一体のための重要な事柄でありますので、右の事柄をよくおくみとりご納得下さいますよう願い上げます。 なお、また公式の間柄、少しも隔心ないとのおおせ承り、かねがね私はありがたく拝承しておりましたが、なにぶんにも一昨年来たびたび往復して交渉もありました故、天下一統が公武一和の儀をしっかりとわきまえているとは申せず、その上、この度の縁談をおことわりになれば、関東年寄までもおぼしめしの儀を深く心配いたすことでしょう。その上再三懇願つかまつり、遠路往反むなしく時日をついやすばかりで御押合御往復もたびたびになりましてはこれまでの御一和にもあい響き申すのではないかと心痛いたしております。関白殿下にはくれぐれもご賢察下さいまして、今一度主上の思し召しをお伺い下さいませ。 衣の下に鎧をちらつかせての強談である。孝明天皇は関白を通して再度不承知を言いやったが、閣老たちは引き退らぬ。和宮降嫁以外に公武一和の方策がないかのような打ちこみようだ。強引に実現してはみても、それがもたらすマイナス面の大きさを考えないのが不思議である。酒井所司代はさらに降嫁を請願する。一、有栖川宮に於かれましては、御内実、格別に御懇願なされた上、御内約になったようにも承ってはおりません。また御結納もすまされてはおらず、全くの御内談中のものと存じますから、御名儀にこだわられることもありますまい。またお義理合いもあられる先帝の皇女でありますから、関東へ御下向なされれば御保養の辺は幾重にも、お手厚くなりますよう私ども十分に丹誠いたしますので、先帝に対してはむしろ御追孝になることかと存じます。一、和宮は関東に蛮夷来集につき恐れておられますが、蛮舶(外国船)が集まりますのは貿易を願い出るためで、闘争を求めているのではありません。万一戦争になったとしても厳重な御警備もあり、諸大名へ命じなされて十分に防禦もできますので、決して御心配いりません。一、公武の御間の儀は将軍はもとより崇敬をつくされるおぼしめしですが、国中は申すまでもなく外夷から見ても公武一和の実が判然となるよう望まれていますので、この度の御縁組は亀筮(亀の甲を焼いて占うこと)の御吉兆だけでなく、天下の御治道第一のことですので、ひとえにお願いしている次第です。一、蛮夷の儀はいつまでも御不同心におぼしめされる儀、ごもっともと存じます。関東においても将軍はじめ政務にたずさわるもの一人として外夷との交易を好んでいるものはございません。 ただ今日の場合、ねんごろに貿易を願い出ているのに無法にこちらより征討するわけにもならず、余儀なく御猶予中になっておりますことは、一昨年末たびたび申し上げ御承知のことと存じます。ひっきょう御縁組の儀も将軍においては第一国内の人心を一致いたさせ、おいおい防禦の方も厳重にお備えになろうとの御趣意にありますので、深くお察し下され何とぞ縁組が整いますよう、伏してこい願い上げ奉ります。 六月一六日、宮中では和宮の「月見の儀」がもよおされる。孝明天皇も臨御。先月「儲君」(皇太子の称)となった祐宮(のちの明治天皇)や推后もともに陪覧する。 当時の風俗として男女かぞえ一六歳になると六月一六日をもって月見の儀を行なう。特に女子にとっては男子の元服にも比すべき大事な儀であり、女子の元服ともいう。和宮は丙午生まれの一五歳であるが、公式には前年の乙巳誕生と改められているので、一年早められたのであろう。月見の儀の作法は、月に百味を供し、女子はその中の饅頭一個をとって萩箸で穴をうがち、その穴で月をのぞき見る。この元服の儀に和宮はどんな思いで列したであろう。 和宮降嫁をめぐって朝幕間の公式の折衝が重ねられる一方、幕府の裏面工作もまた激しかった。五月二九日付老中連署の所司代あて書状。…徳大寺、中山両公卿はそのまま職においてはどれほど公武一和のさまたげになるか知れず、第一朝廷のためにもはなはだよろしくないと存じ、昨年十二月関白殿へ内々に申しあげていたところ、その後、御内沙汰の次第もある旨申し越されてきたので御猶予なされていたが、近来中山はおいおいおだやかになってきて御一和の筋にも努力しているようだが、徳大寺は今もって同様であり、この上ともお役をつとめさせていてはよろしくない。早々に御内沙汰をもってお役ごめんになるよう関白殿へ申し上げてもらいたい。 和宮降嫁に反対し、幕府ににらまれた議奏徳大寺公純は老中の圧力に屈し、辞職させられる。六月一八日徳大寺より足痛を理由に辞職願を出させている。こういう幕府側の強硬な手段を見せつけられると、降嫁に反対の公卿たちも動揺する。 一方、岩倉具視の妹右衛門典侍(堀川紀子)や千種有文の妹、右衛門少将(今城重子)が天皇の寵妃であるのをよいことに、これを通して天皇に働きかけた。降嫁に反対の参議橋本実麗(和宮の伯父)や観行院橋本経子(和宮の生母)には、故徳川家慶将軍の上﨟橋本勝子(両人の伯母)を動かし、忠告の手紙を出させる。朝儀は混乱した。
岩倉具視の見解 孝明天皇は侍従岩倉具視を召して下問されると、岩倉はここぞと答える。「幕府の覇業はすでに地に落ちたとはいえ、ここで一挙に皇権を回復しようとすれば、かえって天下の大乱を招きましょう。順をおってこれを収めるに越したことはありません。あたかもよし、幕府は和宮の降嫁を奏請してきていますので、その願いを達してやり公武一和を天下に示し、幕府をして次第に蛮夷との条約を撤廃させ、国政の大事はことごとく朝廷の裁決を経て執行するようにしむければ、政権は自ら朝廷のものになりましょう。今や和宮の一身は実に九鼎よりも重く、内願の聴否はまことに皇威の消息に関します。ですから幕府が条約撤廃の実行を誓うならば、和宮をさとして承諾させ、降嫁を許させ給うべきです」 同じ降嫁の賛成派でも、岩倉の意見は個性的であり、卓見であった。降嫁によって朝廷を統制しようとした井伊大老の意図を両刃の剣として、逆に関東に委任した政権を朝廷に収めようというのである。叡慮は動いた。
六月二〇日の勅書――蛮夷の儀はどこまでも拒絶されるよう、すでに三社へも幣使をさしむけ祈願させているほどのこと、朕の代より蛮夷和親が始まったとあれば、これまでにも申した通り、神宮を始め先帝に対しても申しわけなく、これのみ日夜心を痛めている。 別して先帝の皇女を夷人徘徊の土地へ縁組させるなど、実にもっておそれている。困難ながら、蛮夷拒絶し、せめては嘉永初年頃の通りに関東にも処置できるようなら、もはやとやかくなく、和宮にもせいぜい申しさとし、縁組の談合もできようが、この頃の形勢のままでは前文の通り心配である……。
老中連署の答書 「攘夷ができれば和宮の降嫁を許そう」との天皇の条件付き譲歩に対して、七月四日付、老中連署の答書では「降嫁によって公武一体の実を示し、人心一致して外夷防禦に集中しよう」と約束し、さらには攘夷の期限まで言い切ってしまう。―夷人のいる地へ御縁組の事で衆人の心が動揺するであろうとのお言葉ですが、江戸は、夷人の在留する横浜の地とは八里もへだたっており、その間に舟で渡らねばならぬ六郷川という大河があります。この六郷川を限って江戸の方へ勝手に遊歩できぬように条約で取り決めてありますので、よんどころなく役人どもが応接にまかり超すことは別として、その外の者が勝手に江戸市中を徘徊するなど、もとよりございません。 御勅旨では、今すぐにも蛮夷を打ち払うようにとも伺えますが、五蛮(アメリカ・ロシア・オランダ・イギリス・フランス)貿易の一条は一時の願い立てにて許したわけではなく、かねがね言上しておりました通り、相手の願いをだんだん縮小して今日の条約を見るに至ったのですから、ただいま無法に打ち払うようなことをしては、たとえ夷狄でありましょうとも、一昨年御猶予おおせ出され、条約も結んだものを、手の裏を返すような処置に出ては名節を失し、実に神国の御信義も成立ちがたく、かえって御国威を失うものとなりましょう。 その上、国内が十分に一致しないうちに外患が発生しては、その挙に乗じ内乱もおこるべく、外夷もまたその挙に乗ずるでしょう。内外の騒乱が一時に起っては平定する見通しもありません。今は干戈(武器)をとるべき時節ではないと一昨年も申し上げて御納得いただき、御猶予下されたわけです。その後とても関東ではさまざまな配慮を重ね、油断はしておりません。ただいま軍艦鉄砲製造のその最中であり、なまけているわけではありません。衆議をつくし、計画をめぐらしていますので、当節より七、八箇年乃至十箇年もたちます内には、ぜひぜひ応接をもって引き戻すか、または干戈をふるって征討するか、その節の処置方法のはかりごともありましょうが、前もってこのようにすると決めておくわけにはいきません。 謀略は密をもって良しといたしますこととて、臨機応変の御処置がなくては始終の勝利をおさめられませぬ。いずれその節はきっと叡慮を立てさせられ、御安心のいく御処置にあいなるべく、右およその攘夷の年限は申し上げましたが、万一向こうより兵端を開くか、または条約に違反するか、御国制を犯すようなことがあれば御処置になられますよう、一同、せいぜい勘考しております。右のような運びになりますにも、まず国内の一致が第一の手始めでありますから、くれぐれも御厚察なし下さいましてすみやかに御許容になり、御縁組が整いますようひとえに願いあげます。…以下略。
「成破の盟」 維新の立役者はいうまでもなく薩摩・長州の両藩だが、藩論が統一して討幕に立ち上がるまでのそれぞれの内部には、複雑な葛藤があった。 万延元年(一八六〇)年七月、攘夷と夷狄に通謀する姦吏の排除を目的として、長州藩尊攘志士と水戸藩尊攘志士との間に「成破の盟」が結ばれ、水戸藩が破壊活動、長州藩が事態収拾にあたることを誓い合った。 攘夷についてはぬらりくらりと逃げていた幕府である。「七、八箇年乃至十箇年」と具体的に期限を切るなど、むろん成算あってのことではない。十年もあれば何とか情勢も変ろうとの、いわば外交辞令にすぎなかったであろうこの言葉が、孝明天皇のお心を開かせていた。 攘夷は天皇の泣き所である。そのためならば、和宮降嫁も万やむをえない。八月六日天皇は議奏久我建通を九条関白の屋敷へつかわし、橋本実麗、観行院等に和宮降嫁のことを斡旋するよう説く。 翌七日、関白は橋本実麗を招き天皇のお気持ちを伝えた。和宮の心を知る橋本はいったんはおことわりするものの、勅諚といわれては仕方ない。和宮に伝えねばならなかった。「勅諚之趣言上之処御迷惑御困之御様子誠恐入候事筆頭難尽」と実麗はその日記に書き残している。 だがどのように勧められても和宮は承知せず、八日には自ら天皇に書簡を出して固辞し、生母観行院もまた和宮の意志の変らぬことをのべるのである。 むりもなかった。かぞえ六歳といえば、ものごころもつかぬうちより、他でもない兄である天皇自身の口から「有栖川家へ嫁せよ」と運を定められてきたのだ。熾仁親王の妻たるべくして和宮は成人した。一〇年の時の流れが二人の心を固く結びつけていよう。今になって心変りせよとはあんまりである。天皇の言葉とも思えぬではないか――。
天皇の九条関白への宸翰 天皇もほとほと困惑した。三日宸翰〈天皇の直筆の文書〉を九条関白に下し、幕府に伝えるように命じる。……和宮にせいぜい説得して見たが、どうしても承知しない。和宮の気持ちを察するとまことに哀れであるし、和宮は先帝の皇女、自分とは異腹の義理合いもあり、火急理不尽にも押しつけることはできない。この上に無理にと申したならば不慮の儀もできはせぬかと心配している。なるべくゆるゆると説得するつもりであるから、急に内定にまではこぎつけられまい。関東には色々注文をつけたことでもあるし、ただことわるとは申し出にくい。実に一和の上の一和と喜んでいた甲斐もなく、関東へは信義を失うことになろう。 それでもひたむきに急ぐということであれば、壽万宮を代りに降嫁させてはどうであろう。幼年なので好まないだろうか。一人の女子だから少々は哀憐も加わるが、公武一和の儀には替えがたい。天下のためであるから、よく相談した上で早急に内定してほしい。それもだめで和宮も承知しないならばどうしようもない。関東の信義を失うことになれば、譲位もまたやむを得ない。よろしく幕府をして考慮いたさせよ……。 壽万宮とは、前年三月に生れたばかりの皇女であるから、いかに政略結婚とはいえ幕府も承服できない。天皇は長橋局を使いに出し、重ねて観行院を説得させるが、彼女もまたあくまでおことわり申し上げる。
和宮母、勧行院の見解 このあいだ長橋局さまお使いにお参りの節、私にも拝見いたし候、老中の書取の内に、七八か年の間には異人ども退散に成候の御工風のよし、しかしながら宮さま御下向の上ならでは、御所関東の御間柄御和親のこと世上へしれがたく候故、先手始は御縁組のことかんじんの由相見え申し候、さてまたこの間、長橋さまお咄し、七八か年もたち異人の事も相すみ候上ならば御承知も遊ばし候やとのこと故、さ候わば只今御治定にて御結納もすましおかれ候はば世上へ御和親のことも相知れ候こと故、まことにおいやさまのことには候えども、先年より異国のことは御心配の御事、さ候はば御上にも御安心の御事故またまた御すすめ申上ようも御座候えども、それとてもただ今だけの御約束にて、七八か年も立ち候ても異人へ関東より応対引もどしもとくと済み申さぬ内に、御結納も相済み候こと、かつは御年もだんだんめされ候などと申し、御下向の事、関東よりしいて申し参り候ようなることも候わねば、御すすめ申し上げかね候。 その辺しかといたし候、書物にても関東より参り候ことにも候わば、兄私ともどもせいぜい御すすめ申し上げ試み候わんながら、右の御事御むつかしき事にも候わば、御すすめ申し上げ候ことは幾重にもおことわり申し上げ候。全体関東より申し立て候御事は引申さず、候よしながら、この御事はよほどよほど御無理なる御事ゆえ、幾重にも御ことわりのこと御勘考遊ばし進められ候わねば、実々なげかわしく恐れ入り恐れ入り存じ参らせ候。陰謀は渦巻く 九条関白の家来島田左近の暗躍 陰謀は渦巻く。九条関白の家来島田左近と諸大夫宇郷玄番頭は、人を使って和宮の乳人田中絵島(藤御乳という)をふるえ上がらせた。「橋本兄妹(実麗と観行院)があくまで不同意を唱えるなら、関白、議奏が協議して、橋本実麗を落飾させ、観行院は蟄居をおおせつけられよう。お前も橋本兄妹側につくならば追放されるだろう」というのである。 乳人からこの話を聞いた実麗は、周囲の状況からもうどうにもならないことと観念し、桂御所を訪ねて和宮に縁組を承知されることを説く。一五歳の少女は、追いつめられてまったく孤立無援となった。一時は尼門跡として林丘寺に入ることまで覚悟した和宮である。その小さくても固い固い殻をついに打破ったのは、先の八月一三日付、九条関白あての宸翰であった。天皇の命を受けた典侍観修寺徳子、掌侍高野房子が折しも和宮説得の為に参上し、この場で宸翰の写しを見せたのである。その文中の譲位の二文字に目を止め、ふるえる指でさし示しながら、和宮は実麗に告げる。「これを拝読すれば、私は寝食を安ずることができません。すぐに御聖慮に従いたいと存じます。どうぞ私の気持ちをお汲みとり下さいましてよろしいようにお取り計らい下さるよう――」
降嫁の五つの条件 八月一六日、ようやく降嫁の議に従った和宮は、五つの条件をあげている。明後年先帝の一七回忌の御廟参をすませてから下向し、その後も毎年回忌ごとに上洛する事、江戸下向の後も和宮はじめお目通りに出るもの万事御所風にする事、江戸になじむまで女中の一人を拝借し、仲間の内三人つけられたいこと、和宮が御用の節は橋本宰相中将下向のこと、また御用の時は上藤、お年寄のうちからお使いとして上京させること。 ただ一つ、幕府が難色を示したのは和宮東下の時期を明後年とすることである。不穏な国内情勢を考えると、一刻も早く降嫁の切り札を出したい。下向の時期については、まだまだもめるのである。 八月二二日、関白九条尚忠はみずから有栖川宮家におもむき、幟仁、熾仁父子と対座した。すでに家臣島田左近から、有栖川宮家の諸大夫藤木哉基に対して、和宮との婚約解除の話があればすぐに諒承してほしいと申し入れてある。そうしてもらえば幕府は摂家または三家の女を将軍の養女にして熾仁親王と縁組されるよう周旋し、有栖川宮家の歳入の増加も配慮したいと、幕府側の意向も通じてある。しかし、対座する関白尚忠の胸底にはいやでも一〇数年前のにがい記憶がよみがえっていたであろう。 孝明天皇の准后夙子(幼名基君、諡・英照皇太后)は、尚忠の第六女である。幼い時から夙子は、有栖川宮幟仁親王と許婚の中であった。 弘化二年(一八四五)春、宮中に摂家の女数人が召されて茶菓や料理をたまわったことがある。当時一五歳の皇太子統仁親王(孝明天皇)に配する后を求めるためだが、その中の一人夙子(一三歳)に白羽の矢が立ち、早くも同年九月一四日御息所と内定した。 翌弘化三年二月六日、仁孝天皇が崩御するや、同月一三日に孝明天皇は践祚、嘉永元年(一八四八)一二月一五日、夙子は一六歳で入内する。大雪の日であった。牛車で九条邸を出る夙子は十二単衣を召し、その傍らに尚忠の姪広子(三〇歳)が六衣を着てつきそった。廣子(岸君)は尚忠の実兄二条斉信の第五女であり、尚忠は九条家の養子となった人。 この廣子は、数カ月前の五月二日、有栖川宮幟仁親王と結婚している。幟仁三七歳、廣子三〇歳でどちらも晩婚である。有栖川宮家と二条家が結ばれたことによって、九条尚忠は血はつながらぬながら、幟仁とは叔父、熾仁とは大叔父の関係になる。 いかに勅令とはいえ、尚忠は十数年前に自分の娘と幟仁との婚約を破談にし、今は幟仁の子熾仁の婚約を破談にするための交渉の矢面に立たされている。孝明天皇にしても、その苦しい立場は同じであろう。かつては幟仁の婚約者を奪い、今は熾仁と妹和宮の婚約破棄を命ぜねばならぬ。 翌八月二三日、有栖川宮家より伝奏広橋光成に書付一通が提出される。 和宮様おこし入れなさるについて、御殿を御新造、御絵図等もそえて関東へお願いの筋おおせ立てられてはおりますが、何分にも有栖川宮邸は御地面も狭く、そのほか御不都合のおんことどもも多いので御心配になっておりましたところ、昨二十二日関白殿御内沙汰のお旨もご承知なされ、御恐懼のおんことでございます。ついては御縁辺の儀はまことに容易ならぬことにておそれいりなされておりますので、何とぞ御延引の御沙汰になりますようおおせられたく、この段よろしく御沙汰なされますよう頼み入ります。八月二十三日         有栖川宮御内藤木木工頭 二六日、いよいよ願意聴きずみとなる。こうして縁組は表面上延引となったが、その実は解約であった。この婚約破棄について、熾仁親王の和宮に対する気持ちをと汲み取る資料は乏しい。熾仁親王は平生より精細に日記をつけ、たとえ夜半を過ぎるとも必ず筆をとっていた。慶応四年二月九日東征御進発から明治二八年一月八日すなわち薨去の七日前まで一日も欠かさぬ日記が現存する。むろん、東征以前の多恨なる青春期、国事奔走の丹念な記録がなかったはずがない。しかしそれらのすべては他見をはばかるためか。親王自らの手で火中に投じたという。熾仁親王の思いも、その日記とともに実ることなく灰と散ったのであろう。三六歳までかたくなに独身を続けた親王の姿に、悲しい意地を見るのは私だけであろうか(引用終了)。 出口和明「有栖川宮熾仁親王と出口王仁三郎 有栖川宮落胤問題を実証する(十五、十六)」『神の国』(二〇〇二年八・九月号)より一部引用(敬称略)次号へ続く