物語76巻-6章 

 希臘の天地開闢説
 ギリシヤの天地開闢説は古来種々の伝承があつて、人々によつて区々である。しかし大体から言へばユダヤの神話にある如き世界創造説ではなく、支那の神話に見ゆる如き天地開闢説である。即ちこの世界は造られたものでなく、幾万年の世代の変化を経て、次第に現在の状態になつたものである。従つて神々も世界よりさきに存在したのではなくて、神々自身もまたこの世界と言ふ一家族のうちに生れて来たものである。 天地開闢の神話は、それを語り伝へた詩人によつて区々である。ホメロスによれば、口で尾をくはへた蛇のやうに海と陸とを取りまいてゐる広大無辺の大河オケアノスが万物の本源で、また総ての神々の父であつた。また他の伝説によると、「夜」と「闇」が世界の根源で、そのうちから光が生れたといつてゐる。更に詩人オルフェウスが伝へたと言はれてゐる説によると、世界の始めには無始無終の「時」があつて、これから「カオス」と言ふ底なしの淵が生れ、その深淵の中で「夜」と「霧」と「精気」が育くまれた。その中に「時」は「霧」を動かして中心なる「精気」のまはりを、独楽のやうに廻転させたので、世界は大きな卵のやうな塊団になり、それがまた廻転の速力でまづ二つに割れて、一つは昇つて天となり、一つは降つて地と成つた。そしてその卵の中からは「愛」をはじめ、いろいろな不思議なものが生れたと言ふのである。 しかし世界と神々の起源を述べたものの中で、一番纒まつてゐるのはヘシオドスの「テオゴニヤ」(神統記)であつた。「テオゴニヤ」によると、万物の始めには「カオス」があつた。次に広い胸を持つた「ガイヤ」(地)と地の底なる暗黒の「タルタロス」と不死の神々の中で一番美しいエロス(愛)が出来た。「カオス」は(口をあいた場所)といふ意味で、その内部は真黒な霧で満されてゐた。「カオス」の次には地が出来て、雪をいただくオリムポスの絶頂に住むべき神々の安全な座位となつた。けれどもまだ空も海も山々もなければ、昼や夜もなかつた。堅い地の外には何物もなかつた。その次に現はれたのが「エロス」であつた。エロスは男性と女性とを結びつけて新らしい世代を生み出ださせる愛の力であつた。 次に「カオス」からは、地下の闇なる「エレボス」と遠い日没の国に住んでゐる地上の闇なる「夜」が生れた。「エロス」は「夜」と「エレボス」とを結び付けてその間に二人の子を生ませた。天の光なる「精気」と地の光なる「昼」である。次に「ガイヤ」即ち母なる地は「エロス」と接触して「ウラノス」(星の多い天)と広大な山々と「ボントス」(荒い海)を生む。「ウラノス」と「ガイヤ」(天と地)はこの世界の最初の主宰者として、次の世代の神々の父母となつた。 ヘシオドスの記事はかくの如き幼稚なものであるが、しかしギリシヤの開闢神話の中では、これらが代表的なものである。勿論この開闢説の中に、どれほど深い哲学的思想の芽が包まれてゐるかは、問題ではないのである。
   神々の世代
 ギリシヤの神話は、この世界を支配する神々の世代をほぼ三つに分つてゐる。天地万物が生じて、第一にこの世界の主宰者となつた神は「ウラノス」と「ガイヤ」であつたが、それに就て「クロノス」と「レア」の治世が永い間続いた後、最後に「ゼウス」と「ヘラ」がこの天地の主宰者となつた。「ウラノス」と「ガイヤ」の系統には「チタン」と「キクローベ」と「ケンチマネ」と言ふ三つの神族があつた。このうち「チタン」族は後の神族の敵となつて、この世界に大動乱を起したもので、ギリシヤの神代史の中で、いつも争闘の渦中に飛び込んで、増悪と争闘とを煽るものはこの一族であつた。神話学者の間には、火山の爆発とか、地震とか言ふ地球上の大変動を人格化したものと解釈されてゐる。「ホメロス」の詩に現はれる「チタン」族は「イアベトス」と「クロノス」の二つだけであるが、ヘシオドスは十三の「チタン」族の名を挙げてゐる。即ち「オケアノス」と「テチス」「ヒペリオス」と「テイヤ」「コイオス」と「フオイベ」「クレイオス」と「エウリビヤ」と「イヤベトス」「テミス」と「ムネモシネ」「クロノス」と「レア」である。 次に「キクローベ」族は雙眼の大怪物で、その名を「プロンテス」「ステロペス」「アルゲス」と言ひ、雷鳴と電光と落雷の人格化であつた。 最後に「ケンチマネ」族は、百本の手を持つた怪物で、「プリアレオス」「ギエス」「コツトス」と言ひ、大地を震はす海の激動や怒号や、山のやうな波濤の恐怖を人格化したものである。 「ウラノス」はこの三神族のうち、後の二族を怖ろしいものに思つて、生れると直ぐ母なる大地の底の「タルタロス」へ投げ込んで、そこへ封じ込めてしまつた。母の「ガイヤ」は、この無情な行動を深く憤つて、「ウラノス」に対して復讐を企て、「チタン」族の助けを求めたが、「クロノス」の外は、たれも母に味方をするものはなかつた。「ガイヤ」はそこで、「クロノス」に一つの鋭利な鎌を与へて、「ウラノス」を待ち伏せに襲つて深傷を負はせた。そのとき「ウラノス」の体から流れた血は化生して、蛇の髪をもつた復讐の三女神「エリニエス」や新しい大怪物巨人族となり、また海に落ちたものは、美の女神「アフロヂテ」となつた。「ウラノス」に就ては、これ以上に何事も伝はつてゐない。ギリシヤ人は「ウラノス」を神に祓らなかつた、従つてギリシヤ神話における「ウラノス」の地位は、ただ自然界の基本的な力を代表する神々の父と言ふだけに過ぎなかつた。 かうして「ウラノス」の時代は過ぎて新しい「クロノス」の世となつたが、「クロノス」は父に取つて代つたといふ事情があるので、父の祟りだけでも永続しないやうな運命を帯びてゐた。 一方ではまた「ウラノス」の系統を引いた神々から、自然と「クロノス」とは異系の多くの神々が生れた。「オケアノス」と「テチス」の間には無数の河神や泉と森の少女「ニムフェ」が生れ、続いて海の「ニムフェ」だの海や陸の色々な怪物が出来た。「ヒベリオン」と「テイヤ」とは「日」と「月」と「暁」の両親となり、暁の女神は色々な「風」と「暁の明星」の母となつた。また「イヤベトス」の子には広大無辺の天を支へてゐる「アトラス」と人間の創造に力を尽した「プロメテウス」「エピメテウス」の兄弟があつた。「クロノス」は妹の「レア」と共に天地を支配して、その間に「ヘスチヤ」「デメテル」「ヘラ」の三女神と「ハデス」「ポサイドン」「ゼウス」の三男神を生んだ。 「クロノス」の治世はこの天地が未だ罪と汚れを知らなかつた、いはゆる黄金時代で、疾病も知らず、老いると言ふ事もなく、野山には種々の果実が、一面に実つてゐるから、働いて食ふと言ふ心配もなく、天地間の万物が無限の幸福と快楽とを味はつて居た時代だと伝へられる。この黄金時代は久しい間続いたが、その間に「クロノス」は自分が生んだ子が、いつか自分に代つてこの天地の主宰者になると言ふことを知つてゐたので、子供が生れるや否や、みんな呑んでしまつたが、しかし最後に「ゼウス」の生れる時は、母の「レア」は「クレテ」の嶋へ行つて生れた赤子を一つの洞窟の中へ隠し、大きな石を産衣の中へ包んで「クロノス」へ渡したので、「クロノス」は気がつかずに一口にそれを呑み込んでしまつた。 かうして危い命を助けられた「ゼウス」は、クレテ島に「ニムフェ」らに保護されて、「アマルテイヤ」と言ふ山羊の乳でそだてられたが、「ニムフェ」らは赤児が泣く度に鐘や太鼓を鳴らし、軍のまねごとをして泣き声を「クロノス」の耳に入れないやうにしたと伝へられる。そのうちに「ゼウス」は生長すると、先づ祖母の「ガイヤ」の助けをかりて「クロノス」の口から呑み込んだ同胞らを吐き出させた。その時第一に出たのは「ゼウス」の身代りになつた大石で、これは後に神託で有名になつた「デルフォイ」の神殿に保存された。それから、順々にほかの五人の同胞らが吐き出されて、母の「レア」の手へ戻された。そこで天上界に第二の革命が起つた。 「ゼウス」はその同胞の神々と倶に「オリムポス」の山上へ立籠ると、多くの「チタン」族は「クロノス」を助けて「オトリス」の山に拠つて十年の間戦争を続けた。この戦争は自然力の全部を闘争の渦中に捲き込んで、この世界の存在をも脅かしたほどに猛烈なものであつた。同時に他の一方では、神と悪魔、正義と暴力との戦ひであつた。この間に「チタン」族のうちでも「テミス」と「ムネモシネ」(公正と記憶)とは、暴力の味方になることを避けて、智力と秩序の代表たる「ゼウス」の味方につき、また「プロメテウス」(先見)も終局の勝利が「ゼウス」にあることを予知して「オリムポス」に走つた。 戦争は殆んど果しが付かなかつた。「ゼウス」は終に「チタン」族の暴力を征服するには、他の暴力を借るほかはないと悟つた。そこで「ゼウス」は再び祖母「ガイヤ」の力を借りて、「ウラノス」が地底の「タルタロス」へ封じ込めて置いた「キクローベ」や「ケンチマネ」の一族を解放して味方につけ、「キクローベ」の手から雷電を譲り受けて、先頭に立つて敵に向ふと、三箇の「ケンチマネ」は三百本の手で岩をつかんでは敵に向つて雨霰と投げつけた。その時「オリムポス」の山上から投げかける雷電のために、周囲の地は焼けただれ、河海の水は沸騰して、火の如き霧は「オトリス」の山を包み、「チタン」族は絶えず閃めく電光のために悉くその視力を失つた。 同時に「ケンチマネ」は地と海を震はして突進したので、さすがに勇猛な「チタン」族も、電光に焼かれ岩の下に埋められて、たうとう「ゼウス」の軍に降服してしまつた。そこで「ゼウス」は「ケンチマネ」に命じて、「クロノス」を始め自分に刃向つた「チタン」族を、「タルタロス」の底へ幽閉し、「ケンチマネ」をして監視させた。 神々と「チタン」族との戦闘の神話は、世界の起原に関するギリシヤの神話の中でも、恐らく最古の伝説に関するものである。この戦闘の舞台となつた「テツサリヤ」の地勢を見れば何人にも想像されることではあるが、そこには自然の激変の跡が著しく残つてゐる。「テツサリヤ」の平原そのものが、あの山壁を裂いて「テンペ」の大谿谷を作り出した大地震の産物であつた。そして「オリムポス」山と「オトリス」山とは丁度この大谿谷を挟んで相対峙する大城壁のやうな形勢をして、その間の谿谷には処々に巨大な漂石が「ゼウス」族と「チタン」族の間に投げかはされた巌石のやうに捲き散らされて居るのである。 「クロノス」の黄金時代は、かうして永久に過ぎ去つた。「クロノス」の神話については、互に矛盾した二つの性質が賦与されてゐる。一方では、この時代を地上には永久の春が続いて人間が無限の幸福を享楽した黄金時代だと説くとともに、他の一方では、その治世が既に父の「ウラノス」に対する反逆に始まつたやうに、この治世を通じて権謀術数によつて支配された時代のやうにも説いてゐる。この第二の伝説によると、「クロノス」は結局正義の代表者たる「ゼウス」に対して、邪曲の代表者と見られるのである。しかしさう言ふ道徳的の矛盾を除外して見れば、この時代は、後の天地万物の秩序が次第に整つて来た時代であつた。 「ゼウス」は終にその強敵「チタン」族を征服したけれども、「ゼウス」の主権はまだ本当に安定する所までは行かなかつた。「ガイヤ」は一旦は孫の「ゼウス」を助けて「クロノス」と「チタン」族を征服させたけれども、いよいよ「ゼウス」が勝つて見ると、さすがに自分の生んだ「チタン」族の没落を憐むやうな心持も出て、「ゼウス」に対してまたまた陰謀を企てるやうになつた。 「ガイヤ」には、「チタン」族のほかに「チフオイオス」といふ子があつた。「チフオイオス」は同胞の「チタン」族よりは一層恐ろしい怪物で、どうしても全能の「ゼウス」に反抗すべき運命を持つて居た。この「チフオイオス」は一百の蛇の頭と火の如く暉く目と真黒な舌を持ち、その一百の口からは同時に蛇、牡牛や獅子や犬やその他あらゆるものの声を立てて咆吼するのであつた。この怪物が母の「ガイヤ」の命を受けて「ゼウス」に向つて戦ひを挑んで来たが、「ゼウス」は直ぐにその雷電をあびせかけて打ち倒し、「チタン」らと一緒に「タルタロス」の底へ投げ込んでしまつた。 しかしこの戦争で天も地もそのため震撼して「タルタロス」の底までも響き渡つた。そして「ゼウス」の雷光に包まれながらも、その怪物の吐き出す息がかかつた地は、まるで白蝋かなにかのやうに、どろどろに鎔けたと伝へられてゐる。この怪物は今もなほ「タルタロス」の底で、折々恐ろしい唸り声や泣き声を立てる、その度に噴火山の口から怖ろしい火の舌を吐き、或は恐ろしい熱風を起して、地上の草木を焼き払ふのである。「チフオイオス」は猛烈な旋風の人格化であつた。 「チフオイオス」の反乱に続いて巨人族の反乱があつた。巨人族と言ふのは、「ウラノス」の血から生れた巨大な怪物である。伝説によると、キラキラした鎧を着て手に長槍を持つた魁偉な巨人であつた。巨人族の中でも、特に雄強なものは「アルキオネス」「パラス」「エンケラドス」及び火の王「ボルフィリオン」であつた。この巨人族との戦ひでは、「オリムポス」諸神の中でも、「ヘラ」と「アテーネ」の二女神が首功を立て、また「ゼウス」の血を受けた英雄「ヘラクレス」がその強弓をひいて敵をなやましたと言ふことになつてゐる。 この巨人族は自然界の勢力の人格化であつた。「チタン」族とは違つて、俗間の信仰に根拠を持つた妖魔であつた。従つて巨人族は「チタン」族や「キクローベ」や「チフォイオス」よりは一層人間に近く、古い彫刻では獣の皮を着て岩や根棒を武器とする蛮族の姿であらはされてゐるが、後には胴から下は人間の形体を失つて、脚のかはりに頭をもつた二匹の蛇をつけるやうになつた。巨人族は恐らくある地方に特有な俗間信仰から出て一般の神話の領域に侵入して行つたものらしく、その性質には、有史前の獰猛な蛮族を暗示するところがある。人間と同様に土から生れたといふ形容詞をつけられてゐるのも、その一つの証拠である。とにかくこの巨人族も、他の二族と同様に「ゼウス」のために全く征服されて「タルタロス」の底へ全く葬られてしまつた。 そこで天地の秩序が始めて定まり、「ゼウス」は「クロノス」に代つて天地の主宰者となつた。 この時「ゼウス」は神々の会議を開いて、それぞれにその支配を定めた。「ポサイドン」「オケアノス」に代つて海を支配し、「ハデス」は暗黒な地下の世界と「タルタロス」の王となり、「ヘラ」は「ゼウス」の妃として「オリムポス」の女王となつた。