月の出を待つ平安京最後の天皇、 

孝明天皇の遺勅と救世主 出口王仁三郎聖師 

大立者 旭形亀太郎の尽忠と玉鉾神社 出口和明

大阪中央分苑 出口 恒
私が連載を続ける動機 本連載も二〇一〇年一月号の「二柱の天照大神と饒速日尊の謎に迫る!〈元伊勢研修より得たもの〉前編」から数えると一年五ヶ月、二〇〇九年十一月号掲載の「神々のルーツ・亀岡元々めぐり」から一年七ヶ月となります。その間、もっと詳しく、長期に連載してと激励をいただいたり、文字が小さい、少し難しいのでわかりやすくなどと厳しいご意見もいただいておりますが、私がこの連載を続けている動機をお話したいと思います。「平成十年(一九九八)一月十九日は王仁三郎の五十年目の命日であった。ふとしたことで私(和明)はこの夜、土井靖都の遺品の中から多くの資料を発見した。英国ルートと台湾で、信者の原登喜治の発見のルートとはまったく別のルートが示されていることを、私は知った。切紙神示は日本の皇室にも秘伝されていたのである。 幕末激動の中、北朝最後(?)の天皇である孝明天皇が、勤皇力士隊の若き隊長に託した遺勅。それこそは、皇紀二千六百年(一九四〇)に七十歳となるス(◎)の拇印を持つ男 出口王仁三郎に宛てたものであった。そしてそこで示された秘話は、まさに維新史をくつがえす衝撃である。今はまだ、私はそれらのすべてを書き残す心の整理ができないでいる。ようやく脱稿にたどりついてみれば、なんと今日は旧暦の十二月八日であった……」(「あとがきに代えて」出口和明『出口王仁三郎が語る霊界の最高秘密・最終メッセージ編』KKロングセラーズ) 出口和明の晩年の執筆テーマは、有栖川宮熾仁親王落胤問題、十和田湖の龍神・男装坊伝説、そして切紙神示/孝明天皇の遺勅の三つに絞られていた。そして最後のテーマは、「数表」の解明でした。 これらのテーマについて、和明の子供のひとりとして、私が今は引き継ごうと思っています。 「孝明天皇の遺勅」「切紙神示」は開化天皇の神業である「みろく神業」「世界統一の神業」の中心テーマの一つです。そして有栖川宮熾仁親王落胤問題は「みろく神業の主体者」たる出口王仁三郎聖師の「天に一人」という資格に関わる問題、そこに明治天皇すり替説がからみ和明は「すべて」を書き残す心の整理ができなかった。十和田湖の龍神・男装坊伝説は、みろく神業の継承者の問題。そして、本誌で継続中の、「二柱の天照大神と饒速日尊」は、真実の天照大神と私が考える出口王仁三郎聖師、そして「饒速日尊」としての聖師の、主に時代順に追った各論となります。 以下の和明の発言は、『神の国』誌一九九八年六月号の誌上講座(十四)「御経綸の実現・平成十年のあかし」から引用したものです。
横綱審議委員会初代委員長が記す旭形亀太郎 孝明天皇の伝説『たまほこのひ可里』は「本当に実話なのですか」「旭形亀太郎は本当に実在したのですか」「旭形亀太郎の親族がいるとすれば、大本と関わった証拠があるのですか」「佐藤紋次郎は、本当に聖師に会った証拠があるのですか」、そのように私は実証を何人の方からか求められました。旭形亀太郎のお話は、ほとんど知られていない物語であると私たちは考えていました。ところが昭和三十九年(一九六四)に、現在の日本相撲協会が出版の『日本相撲史中巻』に、第十一代横綱、不知火光右衛門や横綱 小野川才助との並びで、「旭形亀太郎の盡忠」という見出しで、旭形亀太郎の伝説を破格の扱いで掲載していることがわかりました(図一・図二)。なお不知火とは現在の横綱土俵入りの型のひとつである「不知火型」(「雲竜型」との説も有り)の考案者と言われています。 『日本相撲史 中巻』は昭和三十九年に発行された定価八千五百円の豪華限定版の本、執筆者は酒井忠正、勲一等瑞宝章・伯爵。酒井伯爵は、農林大臣を経て横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長となった雅楽頭系酒井家宗家二十一代当主。筆者を見ても、発行者を見ても旭形亀太郎の物語は信用がおけるということです。
アサヒビールへの取材 母禮子は、以前の取材時、アサヒビール(株)に電話し、先月号の『神の国』誌に記載したように、旭形がアサヒビールの総代(社長)であったか、アサヒビールの命名者であったか尋ねました。担当者の応対から、母は「詳しい資料を持っているが、発表できない事情があるのではないか」との心証を持ちました。 私は本年三月にアサヒビールのお客様相談室にメールし同様の質問をしてみました。すると次の趣旨の回答を得ました。 『日本相撲史』に「明治二十八年には大阪麦酒(ビール)会社の生田(秀)氏より総代(社長)として招聘され、旭形の名をとり「アサヒビール」と命名するなど、実業家としての手腕を発揮し、関西実業界の大立者となった」(図二)と記載されている点につき、読売新聞社発行の雑誌『大相撲』の昭和四十年七月号にも同様な記載があり、「総代の意味と、命名説は興味ある研究課題である」と記述されていると紹介されました。 しかしアサヒビール社としては「古い話なので資料がなく、総代が何を意味するのか正確にはわからない」とのことでした。私はアサヒビールの名の由来について調べましたが、諸説あり、今ひとつ説得力に欠けるものでした。 思想家、太田竜氏は『天皇破壊史』成甲書房の中で、「旭形が社長で、アサヒビールの命名者である」と明記しており、武者成一『史談のうちそと』雲母書房には、旭形亀太郎の事績をみろくの三十六ページにわたり紹介していますが、「アサヒビール総代とは総代理店ではなかったか」と推定しています。
アサヒビール社に祀られた旭形亀太郎照る影を 平手に受けし旭形 千代に輝く 功なりけり 朝日形亀太郎は、孝明天皇から賜った御製の和歌により、「朝日形亀太郎」から「旭形亀太郎」に力士醜名を変えました。旭形の命名者は孝明天皇といってよいでしょう。旭形は禁門の変で孝明天皇を平手で救い、幕末に活躍し、大阪中之島の明治記念碑の発起人の一人となり、明治十八年の大阪淀川の大洪水で水防にあたり、荷役運送の会社を設立して各宮家に奉仕し、大阪慈恵病院の設立発起人となり、また西南戦争の起こった明治十年の段階で博愛社(現在の日本赤十字社)大阪支部幹事とまでなった実業界の大立者でしたから、生田秀氏(大阪麦酒社初代支配人兼技師長)が旭形亀太郎を尊敬して、自身のビールに旭形亀太郎のアサヒの名前を採用したことが想像できます(図四)。 なお明治三十年の段階で、博愛社、のちの日本赤十字社の社員数の第一位は大阪府の三三、九〇〇人で第二位の愛知県、第三位の東京都の約二万人を大きく超えていましたから、大阪支部幹事としての旭形亀太郎の働きは瞠目すべきと考えます。 旭形亀太郎が広島県知事に旭ビールわずか二十ダースを贈るのに、時の宮内大臣・子爵 土方久元が書状を送っていること(図三)を考えると、旭ビールの名が旭形から来ていることは確かと私は考えます。そして総代としての旭形亀太郎は、社長そのものではなかったかもしれないが、大阪麦酒会社の代表的・象徴的な地位を占めていたのではないかと思います。 さて、いままでどの方の取材からも、かたくなに旭形亀太郎との関係を明言しなかったアサヒビールより、はじめて「アサヒビールが旭形亀太郎と関係がある」との連絡が三月二十八日に私にメールでありました。「しかしながら、弊社では、アサヒビールグループを力強くご支援いただいたお得意様はじめ関係業界の皆様方と、社業の発展を念じて業務に尽瘁された方々の慰霊に『先人の碑』(図五)を昭和六十三年に建立しており、その中に旭形亀太郎氏のお名前が神社の宮司(「玉鉾神社、役職・創立者・宮司」)として祀られております。その子孫の方がお参りに来館されていたという記録もございました。祀られた経緯までは詳しいことが分かりませんでしたが、出口様からお送りいただいた資料等からも弊社に対してご尽力いただいた方ではないかと思われます……アサヒビールお客様相談室 林」
玉鉾神社と旭形亀太郎 旭形亀太郎が孝明天皇を救った逸話は、それなりに広く知られ信じられていて、関西実業界の大立者であり、大相撲界では立志伝中の人物とされている。そしてアサヒビールの名には旭形亀太郎がその命名に関与している可能性があることは証明されました。 しかし本文が意味を持つためには、旭形亀太郎が大本(愛善苑)なり出口王仁三郎と深く関わっていることを証明しなければなりません。また玉鉾神社が実在していなければ、おとぎ話の世界となってしまいますので、そのあたりの事情を過去の『神の国』誌に記載された父の証言や取材等から探ってみます。
旭形亀太郎と有栖川宮が同じ章を受賞 一八七七年に設立された博愛社(一八八七年に日本赤十字社と改称)は、同年二月に発生した西南戦争に際し、元老院議官佐野常民及び大給恒によって創立された救護団体です。西南戦争では、官軍と薩摩軍両軍で多数の死傷者を出し、佐野、大給の二人は、救護団体による戦争(武力紛争)時の傷病者救護の必要性を痛感し、ヨーロッパの赤十字と同様の救護団体を創ろうと思い立ちました。 博愛社の設立を急いだ佐野常民は、征討総督有栖川宮熾仁親王に直接、博愛社設立の趣意書を差し出すことを決意し、一八七七年五月一日に願い出、熾仁親王は英断をもってこの博愛社の活動を許可されたとのことです。 旭形亀太郎と有栖川宮熾仁は維新の秘史ではつながりが深かったが、赤十字社の世界では、両者は同じ「赤十字有功章」を受賞していたことがわかりました。 明治三十四年一月以来、旭形は胃癌のため、名古屋愛知病院の病床にあり、旭形の病篤しとの報が日赤本社に寄せられるや、総裁小松宮は、同年二月二十六日をもって、元大阪支部幹事・特別社員、旭形亀太郎に対し、赤十字有功章を授与し、御付武官を派遣し、病床を見舞われました。授与者人名表を調べてみると、明治二十一年に小松宮が授与者となり、有栖川宮、伊藤博文首相、山形有朋参謀本部長はじめ、皇族、華族、政府高官、支部長たる知事などが名を連ねていますが、旭形への授与は制度制定以来百二人目に当たり、市井人としては初の受賞に輝きました。力士出身者としてももちろんです。 旭形は死の床から遺言をもって遺体を病理の研究に献ずるよう申し出ました。武者成一氏は、「国士、旭形の死してもなお、国家社会のために尽くそうとした生涯一貫した心意気に深い敬意を捧げたい」としています。
玉鉾神社の創建問 孝明天皇の崩御は慶応二年十二月二十五日ですね。お墓はどこでしたか。和明 遺体は泉湧寺(京都市東山区泉湧寺山内町)に葬られました。泉湧寺は東山連峰月輪山麓にあって、現在は真言宗泉湧寺派の本山です。旭形は孝明天皇の永世供養料として明治二十九年三月二十三日、金五百円を納めている(図六)。当時としては大金でしょう。さらに明治三十年には英照皇太后(孝明天皇の皇后九条夙子)の菩提を弔うために百円を寄付している。問 崩御されて三十四年も過ぎた後でも、孝明天皇を慕う気持ちは変わらないのですね。和明 旭形は孝明天皇の遺勅を守って明治二十八年に武豊に移任しますが、どうしても神社創建の許可が下りない。業を煮やした旭形は弟子の佐藤紋次郎を供にして綾部の出口開祖を訪ね、開祖から孝明天皇の神名を「たまほこの神」と授けられ勇躍して武豊に帰りました。
孝明天皇の御神号はどこから来たか? 孝明神社では許可されぬため、愛知県知事の骨折りで、名古屋から五里ほど離れた寒村にある古い八幡神社を武豊に移し、それに孝明天皇を合祀することにします。問 氏子の反対はなかったのですか。和明 その八幡宮は社殿は荒れるに任せ、一人の氏子もなかったそうだから、問題にはならなかった。孝明天皇は八幡宮を特に崇敬されていたので、御満足だったでしょう。『正八位旭形亀太郎小伝』から抜粋しましょう。「明治二十八年九月より尾洲(註 尾張の国の異称)武豊町に全戸を移し独力を以って先帝の霊を祀り、自ら安ずる所あらんと欲し、桔据(仕事に励む事)経営始めんと五年の星霜を積み、明治三十二年十一月廿八日を以て玉鉾神社建設の認可を得、先帝より拝領したる所の御守護符(五鈷杵と言う)ならびに宝剣を以って神社号とす。君はその経営奔走の余暇を以って、国学を修め、明治三十三年一月(五十九歳)玉鉾神社の神職に補せられ、日夕社殿に奉仕し、維新前の当時を追懐しては感泣に堪えざるものしばしばなりきと言う。※恒 『史談 土俵のうちそと』によれば、沖愛知県知事の助言もあり、愛知県中島郡一の宮字神守山に鎮座する、国弊小社真清田神社の末社、無格社八幡社が古くなり、他に合祀しようとしていたのに目をつけ、移転と譲渡を協議した末、合意に達したので、八幡社の移転という形をとって当局に出願し、明治三十二年に認可されたのですね。問 孝明天皇の霊を祀るために、晩年になってから国学を勉強して神職の資格を得るなんて、ハンパじゃない。でも引用文には「先帝より拝領したる所の御守護符ならびに宝剣(図七)を以って神社号とす」とありますが、佐藤紋次郎は孝明天皇の御神号を出口開祖の命名だと『たまほこのひ可里』で書いていましたね。どちらが本当でしょう。和明 編纂者は出口開祖の命名だと知らなかったのでしょう。なにしろ小伝が編纂されたのは明治三十五年だから……それに、旭形は開祖との出会いを公にはしていなかったのでしょう。問 確かにね。※恒 ここは微妙ですね。『史談 土俵のうちそと』での武者成一氏の記述を引用してみましょう。 
玉鉾神社の創建と皇室の殊遇 明治二十五年十一月、旭形が孝明天皇から賜った御物を、一市井人の私するのは僭越と考え、宮内省に奉還の手続きを取った際、宮内省においては、錦旗のみを受理されて、玉体御守護五鈷杵は、「汝の子孫に伝えて家の宝とせよ」と再下賜されたのみならず、さらに陛下の御手許金百円を下された。 旭形は天恩のかたじけなさに感涙にむせびながら、おし戴いたのであったが、さらに翌二十六年四月、天皇の生母中山一位局からは、皇太子明宮(大正天皇)の御机掛の赤地の織物および先帝の五鈷杵入れの御箱、袋などを賜るに及んで、思し召しのありがたさに感激した彼は、伊勢皇大神宮に詣で、鹿島大宮司に申し出て、先帝守護府の御神号を乞うた。 鹿島大宮司より「孝明天皇御正体 玉鉾大神」という神号をいただいた旭形は、恐懼してさらに四条畷神社(祭神 楠木正行)に詣でて、同社の曽利宮司を煩わせて、「大阪西区江戸堀北通一丁目」の自宅にご神体を奉祀するに至ったのである。 明治二十七年、日清戦争が勃発し、大本営を広島に進められるにあたり、生母中山一位局は大阪に下られ、旭形家に御一泊となり、玉鉾大神に御参拝になった。このとき、有栖川宮、小松、北白川、伏見、久邇、賀陽の各宮家からは親電を寄せられたと言う。 明治二十七~八年の戦役の間、旭形は広島に移り住んで大本営にご用を始める。参謀総長は、さる戊辰の役に征討大将軍として二十三歳の若武者として、赤地錦の直垂に沢潟縅の大鎧を召されて出陣されてから二十七年後の仁和寺宮、小松宮嘉彰であった。宮と旭形との戊辰の役での関係が広島で再現された。 広島大本営に奉仕する間、旭形はその地で多くの知己を得た。旭形の経歴を知り、彼に先帝のため玉鉾神社の建立の挙のあることを知った岐阜の大地主、掘田久左衛門は、旭形の美挙に賛同して己の所有地、愛知県知多郡武豊町六貫山を譲渡することを申し出たのである。……神社用地約一万九千坪。名古屋に住む、帝室技芸員伊藤平左衛門が、熱田神宮を模した神社の設計施工の一切を担当して、二十九年八月に着工された(図八)。この晩年最後の事業に旭形は、精魂を傾け資産を抛って立ち向かったのである…… 造営を進められていた玉鉾神社は、明治三十年六月、第一期の工事を終えた。境内口には、「御祭神 孝明天皇 玉鉾神宮」と桧の柱に謹書する標柱が建てられた……。ところが神社の申請に対し、当局は単に御物のみでは法規上認可できぬと却下するに至った。
玉鉾大神と「たまほこの神」 この書には孝明天皇が玉鉾大神とされた由来が記述されており、正しいと考えます。それならば、『たまほこのひ可里』で出口なおが孝明天皇の神に「たまほこの神」という御神名を示したのは誤りであったかというと、それも正しかったと思います。 佐藤紋次郎の記述では、孝明天皇の予言により一八六四年の禁門の変から二十八年後の辰年、すなわち明治二十五年に「みろくの大神」が現れることが記されています。そしてみろくの大神の顕現、出口ナオ(ナカ)の名前を孝明天皇は切紙神示で知った…… 救世主は「火霊」と「水霊」の二大神であって、アジアの日本タニハアヤベに出口ナカ、出口ヲーワニと顕現する……と示されたのがそれです。 ただし、なお(ナカ)にかかる神は「地のミロク」であったとしても、「天のミロク」「人のミロク」ではなかった。出口なおはヨハネではあったとしてもキリストではなかった。 「聖師数表」で明治二十五年とは、明治三年旧七月十二日生まれの出口王仁三郎聖師が満二十二歳を迎える年を示しています。「王仁」は「二」「十」「二」「イ→人」と分解できますから「二十二の人」、明治二十五年とは、聖師が二十二歳、すなわち「王仁」となる年を示すのです。先月号に記載しましたが、「王仁」の「王」という文字は、「天地人」三才を貫通することを示します。 先月号でご紹介しましたように、明治二十四年に三千年の神業が満ち、翌二十五年(禁門の変から二十八年後)が五十年準備の初年。この年旧正月に、綾部にみろくの大神が現れ(地のミロク)、十二月三十日に聖師の父、有栖川宮熾仁が、伊勢神宮祭主に就任した。伊勢外宮の豊受大神は、出口家の遠祖が綾部でお祭りして、伊勢までもたらしたものという伝承があります。この年、聖師が二十二の人(王仁)となった。したがって、明治二十五年は重要ですが、大本の真の開教は、疑いなく明治三十一年旧二月九日、聖師高熊山入山にあることを押さえる必要があります。理由は機会を見てお示しします。
旭形亀太郎、喜びの謎とは? 佐藤紋次郎は、出口なおから孝明天皇の御神名を得たことについて、「先生の喜びようと申したらどんな事にも動ずる方ではありませんが、彼の時はまったく包みきれぬ模様で、幾度も幾度も礼を述べられ、勇んで帰途につかれたのでございました」とあります。 明治二十五年は、開教の年とされていても、明治二十七年ですら出口なおが座敷牢に閉じ込められたような頃で、出口なおがはじめて艮金神を金光大神とともに綾部で奉斎したのは、明治二十七年十月です。そして明治二十七年から二十八年にかけての日清戦争の間、旭形は広島に移り住んで大本営の御用を勤めており、二十八年に武豊に移住しました。「玉鉾神社が認可されないことは、玉鉾大神という御神名がふさわしくないのかもしれない。自分たちのやったことは、神命にそぐわなかったのかもしれない……そのため、ミロクの大神様に教えを乞いにいくよりほかに方途がない」と旭形が嘆いたとすれば、それに伴う明治二十九年の綾部行きは理に適ったものになります。 「ミロクの大神」様に教えを乞いにいったところ、出口なおより、「たまほこの神」という御神名を孝明天皇にいただいた。この「たまほこの神」という御神名は、鹿島大宮司からいただいた「玉鉾大神」という御神名とほぼ同じだった。だから旭形亀太郎は度のすぎた喜び方をした。 「玉鉾大神」は孝明天皇の宝剣から名付けられたのでしょう。しかし出口なおは、宝剣も見ずに、「たまほこの神」と御神名をつけた。旭形は、それにより出口なおが「ミロクの大神」であったことの確信を深め、孝明天皇の預言の正しさを再認識し、玉鉾神社のあゆみは誤りなく、必ず認証してもらえるとの確信を得た。明治二十九年に「たまほこの(大)神」という御神名が確定したと言って良いでしょう。
旭形の後継者は大本信者だった問 玉鉾神社は現在どうなっていますか。和明 二月二十日に事務局の山口氏の車で玉鉾神社に参拝しました。家内も同道で、朝の六時半に出発しましたが、この日は豪雨で雨がフロントガラスをたたきつけ、運転しづらかったと思います。おまけに名神高速の降り口を通り過ぎて道に迷い、午前中に到着予定が、着いたのは午後二時過ぎでした。小高い森の中にそれはあってね。参拝客を意識したおみくじや宣伝のたぐいは何もなく、孤高を保っているという感じだった(図九)。問 予定が遅れたので先方は待ちくたびれたでしょうね。和明 それでも宮司の奥さんの幸野さんは笑顔で迎えてくれた。問 宮司は?和明 旭形光彦氏。九十二歳の御高齢で、寝たっきりで、人に会えない状態でした。奥さんの幸野さんは七十四歳。年は十八も違う。だからまだしっかりしておられて、記憶もはっきりしていた(図十)。問 宮司は旭形の三代目ですか。和明 だが血はつながっていない。夫婦で養子になられた。問 すると旭形に子供がなかった?和明 いえ、二代目は旭形の長男で亀之助と言われたそうですが、子供がなくて光彦と幸野の夫婦を養子にもらったそうです。そして四代目は長男幸彦氏で、玉鉾神社の禰宜として奉仕しておられる。半田青年会議所の幹事や愛知県神道青年会顧問も引き受けている。ところが妙な縁で、光彦氏は旧姓若林、大本信者だった。※恒 旭形亀太郎の後継者が大本信者であったということは、驚くべき事ですし、遺勅の真実性を高めますね。問 光彦氏はいつ頃の入信ですか。光彦氏、養子入りのきっかけ和明 戦後の愛善苑設立当初の一時期というだけ。出口昭弘氏と窪田英治氏の話を総合すると、光彦氏の奉仕時代は農園にいました。一種のボス的存在で、霊がかり的なことが好きで、立替え信仰的なものがあったらしい。 昭和二十一年八月二十九日に聖師が発病されて、農園の熊野館で静養しておられたが、十二月五日の夕刻、手づくりの幌つきの寝台車で仰臥のまま、八人の奉仕者に台を支えられ、天恩郷の新築の瑞祥館に移られた。その時には光彦氏は台を支えていた一人だったそうです。その中に坂田三郎氏もいた。昭弘氏(十九歳)はまだ若かったせいか、台を支える役をはずされて、聖師の枕を持たされてお供をしている。台を支える八人の男たちの勢いはすごかったらしい。問 瑞祥館はいつごろできたのですか。和明 その三か月前の九月八日にはほぼ完成していたが、完成式は聖師の発病で延期され、瑞祥館に移られて三日後の十二月八日、執行された。ところで聖師の御昇天は昭和二十三年一月十九日ですが、その時光彦氏はもういなかったそうです。推測ですが奉仕をやめたのは、聖師の発病が引き金になったのではないかと。当時の噂では郷里の愛媛県新居浜に帰って新興宗教のようなものをやっているらしいということだった。そして幸野さんと結婚する。問 聖師の御昇天後、あちこちでそういった動きがあったようですね。ところで、光彦氏が旭形家に養子入りしたきっかけは。和明 昭和二十八年、光彦氏は神示によって琵琶湖の竹生島に全国から十六人の人を集めて、何かの神事をした。問 するとその頃には、光彦氏を信じる人がそれぐらいいたということ。和明 そうらしい。その中に旭形二代目の亀之助の妻静子さんも参加していて、光彦さん夫婦を見て養子になることを懇請した。旭形亀太郎から聖師、土井靖都、出口和明へ和明 亀之助氏の没後、光彦氏は玉鉾神社三代目の宮司になります。私が玉鉾神社を訪問した時、御自宅の床の間に聖師の描かれた神像が掛かっていた。風雪にさらされたのか見る影もなく傷んでいましたが、私の来訪を知ってわざわざかけてくれたのでしょう。それとその横に小さな木彫りの観音像が置かれていた(図十一)。銘はないが、うっすらと拇印が残っていた。聖師の作だということです。問 光彦さんはそれをどうして手に入れたのでしょう。和明 幸野さんが光彦さんから聞いているのでは、奉仕時代に聖師からいただいたという……。 でも今となっては、それ以上詳しいことは確かめようもない。いろいろお話しているうちに訪問の目的の切紙神示のことになった。幸野さんは「切紙神示のあるということを聞いているが、どんなものか見当も取れない」という。問 旭形は孝明天皇から切紙神示を直伝されたわけだから、いわば旭形家は本家というわけでしょ。それをご存じないとは意外ですね。和明 意外だった。切紙神示についてもっと深く知りたくて訪問したのに、何も伝わっていないとは思わなかった。問 すると孝明天皇ルーツの切紙神示は、旭形亀太郎から聖師、土井靖都先生、そして長い年月を経て和明さんへということになりますね。「切紙神示」時が来たらお返しします※恒 その通りですが、大正八年に『神霊界』「掃き寄せ集」の中に紙切り宣伝という形で聖師が切紙神示を発表し、昭和七年には土井靖都氏が『大本の出現とそのあかし』の中で切紙神示を発表している。聖師が佐藤紋次郎に会われたのは、出所後の昭和十八年ですから、孝明天皇から霊的に聖師が受け取ったのか、それは解決できない謎ですね。和明 幸野さんから半紙とハサミをお借りして、切紙神示を実演して見せました。幸野さんは息をのんで聞いておられたが、やがてこんな打ち明け話をしてくれました。 旭形光彦夫婦はどうしても切紙神示について知りたくて、大本本部に行けば分かるだろうということになった。そこで昭和四十八年のこと、夫婦は知人の後藤フクさんと三人連れで、亀岡の大本本部を訪ねたそうです。応対に出た人の話では現在、教団では切紙神示について知っている人は一人もないということだった。問 道場講座などで土井靖都先生から聞かされていた人もあるでしょうに。和明 不思議だと驚くばかりで、切紙神示は土井氏の専売特許ぐらいに考えて、誰も本気で覚えなかったのでしょう。それに孝明天皇のルーツについては秘密にされていたしね。大本へ行けば分かるものと思いこんでいた三人の落胆は大きかった。そこで瑞祥館の聖師の御昇天の部屋に通されて、聖師を祀る御神前に参拝した。すると同行の後藤フクさんが神懸りになって泣き始め、最後にこう言ったそうです。「時が来たらお返しします」。問 謎めいていますね。和明 この話をした後、幸野さんは感銘深く言いました。「その時が何時か何時かと待っていましたが、今日のことだったのですね」。問 つまり和明さんから切紙神示を伝えられたこと。和明 私はそう受け取った。その後も何度か旭形夫婦は大本本部へ参拝したそうですが、いつの年か、季節は六月頃、日出麿先生に面会できた。日出麿先生は分厚い座布団の上に座っておられたが、案内の人が、「玉鉾神社の宮司さんです」と紹介すると、いきなり座布団からすべりおり、「ようこそいらっしゃいました」と丁重に頭を下げて挨拶された。夫婦は唖然としたそうです。問 日出麿先生は霊感の強い人だから、何かを感じたのでしょうね。和明 おそらく玉鉾神社の祭神 孝明天皇に対する敬意じゃないかなあ。
旭形亀太郎は前頭七枚目和明 それから玉鉾神社では、もう一つ収穫があった。『旭形亀太郎小伝』に「明治二年(廿八歳)四月従六位に叙せられ、永世録六石、三人扶を給わる。然れども君感する所あり。同月これを返上し同年九月より普通力士の伍に入れり」とありましたが、どれぐらいの実力か知りたかった。ところが幸野さんが明治七年の大阪相撲の番付のコピーを持っておられた。問 大阪相撲というのは?和明 明治維新による廃藩置県は、これまで大名の庇護によって生活していた多くの力士たちに打撃を与えました。だが江戸相撲の傘下から独立した京阪相撲は、一時は東京と対抗するほどになっていた。 明治七年の大阪相撲の番付では、東は大関真鶴、関脇熊ヶ岳、小結鞁の瀧。西は大関黒岩、関脇山響、紀伊ケ瀧。前頭は東西各二十枚目まであり、旭形は西前頭七枚目。三十三歳の年だから、力士としては盛りを過ぎている。若い時は、もっと上位で取っていたと思うのだけどね。※恒 西の上から二段目右端ですね。あと番付が一枚上だと、もっと目立つ太い文字で書かれていたでしょうね(図十二)。問 ところで光彦氏とは会えずじまいでしたか。和明 そうなのです。最近確かめたいことがあって、幸野さんに電話しました。驚いたことには、光彦氏は一九九八年五月八日に急逝されたそうです。とても安らかに。※恒 当初の玉鉾神社の境内は三二三七坪、四方は板垣百二十個をめぐらした、熱田神宮に倣った、伊藤平左衛門が丹精の、総檜造りの荘厳な社であったといいます。 明治三十三年五月二十九日午前、日本赤十字総裁、元帥陸軍大将小松宮彰仁親王が親しく玉鉾神社に参拝されることになります。その年の暮れから病床に伏した旭形は、愛知病院に入院し加療につとめたが、翌年三月十二日早朝、六十一歳で、同病院で波瀾の生涯の幕を閉じることとなります。愛知県知事から旭形危篤の報を受けた宮内省は、特旨をもって正八位に叙し、生前の功に報いました。 明治四十年四月、巡業中の横綱常陸山は旭形の名声を聞き、玉鉾神社神前において手数入りを行い、その霊を慰めたと言われる。……それからこの玉鉾神社には大変な事が起る。なお綾部の大本にもここと同様大変な事になるから、よく覚えておいて貫いたい。…… 次号は玉鉾神社のその後と、大本教事件で灰燼となった孝明天皇の御宸筆、月(聖師)の出を待つ孝明天皇と出口開祖のお話につなげていきます。「佐藤紋次郎は、本当に聖師に会った証拠があるのですか」へのご返事、孝明天皇の遺勅(預言)と「数表」は次号以降になると思います。ご期待ください。※印は筆者の説明