第一五章 大相撲〔一六四四〕
 カトリックの僧院ホテルに滞在してゐるブラバーサの居間を訪ねて来た一人の老紳士があつた。これはバハイ教の宣伝使バハーウラーである。ボーイの案内につれてブラバーサの居間に通り、『御免なさいませ』と言ひながら、軽く一礼を施した。ブラバーサは手づから椅子をとりよせて、『やあ、貴方は汽車中でお目にかかつたバハーウラー様でございましたか。一度お訪ねしたいと存じて居りましたが、何分処慣れないものですから彼方此方と見学して居りました。よう御訪ね下さいました』と挨拶すればバハーウラーはテーブルを中におき、両方から向ひ合ひとなり、『ハイ、私も一度お訪ねしたいと思つてゐましたが、何だか彼是ととり紛れ漸く今日となりました。どうです聖地においでになつてからの貴方の御感想は?』『ハイ、見るもの、聞くものが日の出島と違つて居りますので面喰ひましたよ。漸く地理も分り空気にも慣ましたと見え、少しばかり落付いて参りました』『成程、私も同感ですよ。常世の国から此処までやつて来ましたが、いやもう見るもの聞くもの変つた事ばかり、かやうな処へ救世主がお降りにかるかと思へば何だか奇異の感にうたれます。国に居ります時は聖地エルサレムエルサレムと云つて日夜憧憬して居ましたが、古く荒びた神都の跡、何れも涙の種ならぬはありませぬ。黄金の花が咲き匂ふてゐると思つた私の期待はスツカリ裏切られてしまひましたよ。アハヽヽヽヽ』『都会は人が作り、田舎は神が作るとか申しまして、かやうな田舎びた処でないと到底神様はお降りになりますまい。紅塵万丈の巷に、霊肉ともに穢してゐる人の集まつてる処へは救世主はお降りになる筈はありませぬ』『成程、さう承はればさうかも知れませぬな。数年以前、バルカン半島に現はれた一朶の黒煙は燎原を焼く勢ひで全欧羅巴に蔓延し全世界の地をして戦雲に包んでしまひましたが、ためにその後の人心は益々悪化し、二進も三進も行かなくなつて来たぢやありませぬか。かやうな処へ救世主が御降臨になつた処で足一つ踏み込まれる処はありますまいな。一人でも多く心を研き魂を研いて神心となつて救世主の降臨を待たねばなりませぬ。実に常暗の世の中となつたものでございますわい』『ルートバハーの教祖ヨハネの教にも三千世界の大戦ひが初まるぞよと三十年以前から仰せられましたが、到頭世界の大戦争が起りました。さうしてヨハネの教祖は先達の世界戦争の開戦期間の日数一千五百六十七日を終り平和条約が締結されたその朝、即ち自転倒島で云へば大正七年(旧)十月三日の朝昇天されました。その後と云ふものは実に世の中は目もあけて居られないやうな惨怛たる現状でござります』『先達の戦争について交戦国の総面積を調ぶれば、四千三百四十万二千七百六十二平方哩即ち世界面積の七割五分八厘にあまり、またその戦争に参加した人員の数は無慮十六億一千百九十二万人に達し世界人口の九割二分五厘に相当する空前の大戦争でござりました。恰も秋霜烈日の大威力を示して満天下の草木を一夜の中に凋落せしめてしまひました。ただ常磐木のみ巍然として聳え、また、別に数種の紅黄紫青等の僅かに艶を競ふて世の終末の美を暫時誇つてゐる位であります。あゝ恐るべき世界の大戦争はもはやこれで根絶したでございませうか。大戦後の世界は何処の果てを見ましても平和の象徴を見る事は出来ぬぢやありませぬか。到る処小戦争は行はれ、餓鬼畜生修羅の惨状を遺憾なく曝露してるぢやありませぬか。ハルマゲドンの戦争とは、先達ての戦争を云つてるのぢやありますまいか。ハルマゲドンの戦争が済めば世の終りが近づくとの聖書の教、どうも物騒になつて来ました。暑い時に寒い風が吹き作物は思ふやうに発達せず、到る処火山は爆発し、地震洪水の悩み、強盗殺人に諸種の面白からぬ運動、到底人間としてこの世をどうする事も出来ますまい。もうこの上は救世主の降臨を仰ぐより外に道はございますまいなア』『救世主は屹度御降臨になつて世界を無事太平に治めて下さる事を私は確信してゐます。しかしそれまでに一つ大峠が出て来るでせう。ハルマゲドンの戦争は私は今後に勃発するものと思ひます。今日は世界に二大勢力があつて虎視眈々として互に狙ひつつある現状ですから、到底このままでは治まりますまい。世の立替立直しは今日の人間の力つき鼻柱が折れ、手の施す余地がなくなつてからでなくては開始致しますまい。九分九厘、千騎一騎になつて救世主が降臨なされるのが神様の経綸と存じます』『成程御同感です。そして貴方の二大勢力とは何を指して仰せらるるのですか』『今日この地球上において二つの大勢力が互に暗々裡に争つてゐますのは貴方も大抵御承知の事だと思ひます。一方には強大なる一新勢力を発揮し、全世界に活動飛躍を試み傍若無人的の振舞をなし、不自然極まる人為的暴圧力によつて膨脹拡大し、弱肉強食を以て唯一の国是となせる強大なる国家があり、一方には鎖国攘夷の夢を破り一躍して全世界の舞台に現はれ、列強と相伍し、再躍して世界の一大強国となつた国家がございます。世界万民はこの二大勢力に対して驚異の眼を以てのぞみ、茫然自失の体でございます。その発展振りたるや前古未聞の大事実でございますけれども、しかもその発展は頗る公明正大と唱へられて居るのでございます。一方はピラミツドの如く極めて壮観なれども真の生命なき建築物であり、一方は喬木の如く生々としその壮観の度においては到底彼のピラミツドの建築には及びませぬけれども、真に生命ある成長を遂げつつあるのであります。そしてこの二大勢力は一つは極東の一小孤島、一つは極西の一大大陸です。一つは現今における最古の国、一つは列強中の最も新しき国、一は建国以来の王国、一は建国以来の民国、一は万世一系の皇統を誇り、一は四年交代の主権を誇り、一は天孫の稜威を本位とし、一は億兆烏合の民権を本位としてゐます。そしてその国民性たるや、一は義につき一は利につき一は強国と云ひながら神国と自称し、一は基督教国と云ひながら民国と自称し、一は親子の経的関係を以て家庭の本位となし、一は夫婦の緯的関係を以て家庭の本位とし、一は男尊女卑の関係を以て人倫の本位とし、一は女尊男卑の関係を以て人倫の本位とし、一は太陽を以て国章となし、一は星を以て国章となしてゐる。故に自らその国情と使命において相容れないのは当然ではありませぬか』『成程今貴方のおつしやつたのは実に時代を達観した宣言だと思ひます。一方は日出国一方は常世の国と世界に相対立してゐる現状をお示しになつたのでせうな。諺にも両雄相戦はば勢ひ共に全からずとか申しまして、どちらか一方に統一されねばなりますまい。実に困つた世の中になつたものでございますな。政治と云ひ経済と云ひ思想と云ひ、宗教と云ひ何もかも一切今日ほど行つまりの世の中はござりますまい。どうしてもこの悩みは何処かで破裂せなくてはおかない道理でございますな』『さうです。かくの如く今や東西の大関が世界の大土俵上に、褌を〆めて腕を鳴らせ肉を躍らせて相対するの奇観を呈してる以上は、一方が屈服するか、但しは引込まない以上は、早晩虎搏撃壤の幕が切つて落されるは火を睹るより明かでせう。ハルマゲドン、即ち世界最後の戦争は到底免れなくなつてゐます。それで大神様は地上をして天国の讃美郷に安住せしめむがために、ヨハネ、キリストの身魂を世に降して、天国の福音を普く万民に伝へしめられつつあるのです。さりながら常暗の世になれきつた地上の人類は一人としてこの大神様の御真意を悟り得る者なく、ただ僅かに忠実なる神の僕が誠を尽し、神を念じて待つてゐるばかり、実に世界は惨めな有様でございます。かやうな邪悪に満ちた三千世界を立替立直し遊ばす神様の御神業も実に大謨ではございますまいか』『この世界の人類は、皆神様の同じ御水火より生れたる尊い御子でございますから、吾々人類は皆兄弟でござります。しかしながら今日の状態では到底吾々宗教家が何程あせつた所で駄目でございませう。偉大なる救世主が現はれて整理して下さらねば乱麻の如き世界は到底収拾する事は出来ますまい。しかしこの二大勢力は一旦、どちらが天下を統一するとお考へになりますか。常世の国でせうか、日出島でございませうか。貴方のお考へを承はりたいものでございますが』『到底人間の分際として神様の御経綸は分りませぬが、私がルートバハーの教示により、おかげを頂いて居りますのは、将来の国家を永遠に統御すべき人種は決して常世の国人ではなからうと思ひます。二千六百年、亡国の民となつて居つた讃美郷の人々は先達の大戦争によつて神から賜はつたパレスチナを回復し、今や旭日昇天の勢でございます。そしてその人種の信仰力、忍耐力並に霊覚力と云ふものは、到底世界に比ぶべきものがございませぬ。私は先申しました二大勢力よりも、も一つ奥に大勢力が潜み最後の世界を統一するものと神示によつて確信して居ります。ユダヤ人は七つの不思議があります、それは、第一、万世一系の皇統を戴きつつ自らその国を亡ぼした事、第二は亡国以来二千六百年なるにも拘らず、今日も尚依然として吾等は神の選民也と自認してゐる事、第三は二千六百年来の亡国を復興して、仮令小なりと雖もパレスチナに国家を建設した事、第四は自国の言語を忘却し、国語を語るものを大学者と呼びなすまでになつて居つてもその国を忘れず、信仰をまげない事、第五は如何なる場合にも決して他の国民と同化せない事、第六には亡国人の身を持ちながら不断的に世界の統一を計画してゐる事、第七は今日の世界全体は政治上、経済上、学術上、ユダヤ人の意のままに自由自在に展開しつつある事です』『成程それは実に驚くべきものでございますわ。如何にも神の選民と称へられるだけありて偉いものでございますわい。それから、一方の奥の勢力とは何でございますか』『それは日出島の七不思議でございます。先づ第一に万世一系の皇統を戴き終始一貫義を以て立ち、一度も他の侵略を受けず、国家益々隆昌に赴きつつある事、第二は自ら神洲と唱へながら自ら神の選民または神民と称ふるものの尠い事、第三は王政復古の経歴を有するも未だ一度も国を再興したる事なき事、第四は国語を進化せしめたるもこれを死語とせし事もなく、従つて国語を復活せしめた事のなき事、第五は同化し難い国民のやうに見ゆれどもその実、何れの国の風俗にも同化し易く、且何れの思想も宗教も抱擁帰一し、ややもすれば我生国を忘れむとする国民の出づる事、第六は一方常世の国は世界統一のためには手段を選ばざるも、日出島は常に正義公道即ち惟神によつて雄飛せむとする事、第七は世界は寄つてかかつて日出島を孤立せしめむと計画しつつあれども日出島は未だ世界的の計画を持たず、ユダヤとは趣を異にしてゐる事であります。これを考へて見ればどうしても、この日出島とパレスチナとは何か一つの脈絡が神界から結ばれてあるやうに思はれます。一方は言向和すを以て国の精神となし、征伐侵略等は夢想だもせざる神国であり、二千六百年前に建国の基礎が確立し、ユダヤはまた前に述べた通り二千六百年前に国を亡ぼし、そして今やその亡国は漸く建国の曙光を認めたぢやありませぬか。私は屹度このエルサレムが救世主の現はれ給ふ聖地と固く信じ万里の海を渡り雲に乗つて神業のために参つたのでございます』『今貴方は雲に乗つて来たと仰せられましたが飛行機の事ぢやありませぬか』『いえ雲と申しますのは自転倒島の古言で舟の事でございますよ。雲も凹に通ひますから舟に乗つて来るのを雲に乗つて来ると聖書に現はれてるのですよ』『成程、それで救世主の雲に乗つてお降りになると云ふ事も諒解致しました。いや有難うございました。お邪魔を致しまして……またお目にかかりませう。ちつと御寸暇にお訪ね下さいませ。ヨルダン川の辺に形ばかりの館を作つて吾々の信者が集まつて居りますから……』『ハイ、有難うございます。何れ近い中にお邪魔を致します。左様ならばこれにてお別れ致しませう』
(大正一二・七・一二 旧五・二九 北村隆光録)