大本略義出口王仁三郎

  大本略義    大正五年九月口述 出口瑞月 口述

   序
 近来|頻《しき》りに「世界改造」だの「理想世界の将来」だのという文句が、|漸次《ぜんじ》日本の言論界の流行語と成り掛けた。しかし一般世間から度外視されつつある綾部の大本では、明治二十五年から主として|此事《このこと》ばかり呼号して|居《い》た。近くは大正六年一月から雑誌「神霊界」を刊行し、引続きて|之《これ》に関する研究書類をも発行し、大正維新、世界改造の意義等を解説し、三千年来の世人の|惰眠《だみん》を|覚《さ》ますべく全力を尽した大本は、|少《すくな》くとも十年余りは一般世間よりも先んじて居る|訳《わけ》だ。霊覚の発達した人、先入的偏見の少き人、誠意に富んだ人達は、既に之によりて動かされ、数十百里を遠しとせずして、陸続綾部に参集し、真面目なる研究と実修との途に|就《つ》かれた者が|尠少《せんしょう》ではない。 中には|最《も》う無意義に近き従来の職務を棄てて綾部に来り住み、白熱的信仰の途に入り、国家人類の|為《た》め、神界の為めに献身努力、寝食を忘れて自己の天分を尽さんとして居る。足は未だ一度も霊地を踏むには至らねど、内部の生命に向って一点の霊火をを投ぜられ、参綾の意念|勃々《ぼつぼつ》として|止《や》み難く、神縁の熟し切って|居《い》る方々は、幾百千人に|上《のぼ》って居るか、|殆《ほと》んど想像に余りあるのである。現在世界の大勢に|鑑《かんが》み、一片の至誠ある人なら、|此際《このさい》|何《ど》うしても安閑としては居られない|筈《はず》に成って居る。五年に|跨《またが》りし欧州の大戦は、『大本神諭』の教ゆる通り、昨秋を|以《もつ》て|一旦《いったん》落着したものの、此数年の間に起りし幾多の現象は、果して|何《ど》う解釈して|可《よ》いであろうか。実に考えれば考える程、身の毛のよだつ様な事が続出して居るではないか。『大本神諭』には、「今度の世界|大革正《おおたてかえ》は、|罪穢《めぐり》の|劇甚《ひど》い所、遠い所から始まるから、|其《その》|懲戒《みせしめ》を見て改心せよ」との意を、明治二十五年から繰り返されて居るが、欧州方面の状態を|観《み》れば観るほど、げにもと|首肯《うなずか》さるる事ばかりである。 財足り、敵少く、世界の楽隠居を以て任じつつ、|淫蕩《いんとう》の甘い空気の|裡《うち》に浸って居たベルギイは、真先きにあの大懲戒を受けた。歌舞文芸の本場を以って|他《ひと》も許し、|吾《われ》も誇り、肉感肉欲の|奴隷《どれい》となり切って、世界の道楽者のあぶく銭を吸収するに全力を尽して居たフランスは、徹頭徹尾、あの苦しい|惨《みじめ》な|苦楚《くそ》を|嘗《な》め続けた。世界最強の海軍国を以て自認し、世界の土地と貿易とを|我物顔《わがものがお》に占領して意気|傲然《ごうぜん》たりし迄はよかったが、戦争中、敵の潜航艇、飛行機、飛行船の来襲に悩まされ続け、何よりも先ず食糧問題に|躓《つまず》いて、米国の為めに、自己の生命の|鍵《かぎ》を握られた気味のある英国は、あれが果して|何《ど》う成るであろう。殊に|印度《いんど》方面の|裡面《りめん》の動揺、|愛蘭《あいるらんど》問題の|欝屈《うつくつ》等、其前途は必ずしも楽観を許さない。露国の無秩序に至りては言語道断。学問万能、武力一点張り、世界征服の夢を見て無鉄砲にも横紙破りをした|独逸《どいつ》はあの通りの有様である。最近図に乗りて急に鼻息を荒くし、正義だの自由だの、平和だのという有り合せの|鳴物《なりもの》を入れて、実は|飽《あく》まで黄金力、物質力で全世界を|己《おの》が脚下に|蹂躙《じゅうりん》せんとする某国の如き、|其《その》一挙一動は、独逸よりも|余程《よほど》不淡泊で、そして英国よりも一層|不躾《ぶしつけ》、無作法である。その|爪牙《そうが》は既に欧州方面にも現われて居るが、更に東洋方面に|於《おい》て一層露骨に現われて居る。|支那《しな》、南洋、シベリヤ等、|何処《どこ》にもその|牙《きば》に|噛《か》まれ、爪に|掻《か》かれぬ処はないのだ。 由来日本人は、二千年来外国文物の吸収を|以《もつ》て国是とした習慣から、ややもすれば新規なもの、突飛なものを見れば直ちに之に感服し、二流三流以下になると、真に真に|碌《ろく》でもない事物に心酔し、模倣する悪癖がある。現に欧州戦争開始以来の様子を見ても、最近迄、|独逸《どいつ》式の軍国主義に敬服し切って居るものが、決して少数では無かった。|又《また》現在では、米国大統領などの振り|翳《かざ》す看板に釣り込まれて、その|提灯《ちょうちん》を持ちたがる学究などが、|尚《な》お少々見受けられるようだ。|吾々《われわれ》は今日から振り返って、吾々祖先の陥った印度心酔、支那崇拝を|嗤《わら》うが、今日でも矢張り、長い間の習癖は決して脱け切れては居ないようだ。 日本が東洋に孤立せる一小島国として、|呑気《のんき》に世界の文物の吸収に没頭する事を許されて居た時代には、心酔も崇拝も格別の損害には成らなかった。過去の日本は修学時代の学生の如きもので、其間に何を研究しても、何を模倣しても|差支《さしつかえ》えはない。|所謂《いわゆる》「多々益々弁ず」であって、要は世界中の|有《あ》らゆる文物を吸収し、あらゆる事物を理解し、よく|之《これ》を|咀嚼《そしゃく》し消化して、他日、独立独行、大成飛躍の素地を築きさえすればそれで|可《よ》かったのだ。思えば、ほんに気楽なりしは過去二千年の日本の境遇であったが、人間生まれて何時までも親の|脛嚙《すねかじ》りをして、学生たることを許されないと同様に、一国民も、|徒《いたず》らに修行、研究、模倣、崇拝ばかりを続けて行く|訳《わけ》には行かない。 国民自身は、従来毫も気付かずに、地上に於ける|一山《ひとやま》百文の人類であると|思惟《しすい》して居たが、実は吾々は、世界|経綸《けいりん》の指導者たるべき重大責任が|懸《かか》かって居たのであった。かかるが|故《ゆえ》に、日本人の修業時代が、|斯《か》くの如く、他の|何処《いずく》の国民よりも遥かに長く、又|其《その》必修科目も他の何れの国民よりも複雑多種であったのだ。活眼を開いて世界を一覧するが|宜《よ》い。何処に、二千年懸りて、東西両洋に|跨《またが》れる|形而上《けいじじょう》|並《ならび》に|形而下《けいじか》のあらゆる文物を吸収した国民が居るか。これは、決して浮世知らずの御国自慢でもなければ、一時の快を買わんとする大言壮語でもない。歴史が証明して居る。吾々の祖先は先ず|支那《しな》の文物を吸収し、次ぎに印度の思想哲学を吸収し、次ぎに欧州の学問文芸の吸収という順序で、今日に及んで居る。これ|丈《だけ》の総過程を修めた国民が、地上何れの所にも無い事は、公平な観察者には直ちに分かる。支那人も最近少しく覚醒して、留学生などを海外に派出するように成ったが、無論|一《ひ》と通り初歩を修めたというに過ぎぬ。欧米人士は、世界の最大知識、世界の先進先覚を以って任じて居るが、実は欧米人士は、ただ自己の国土内に発達した学問文芸の修業者であるという|丈《だけ》で、印度、支那、|就中《なかんずく》日本の国土内に起った霊妙深奥な学問文芸等に対しては、全然盲目ではないか。|斯《か》くの如く、全世界の国民に対する理解と知識と同情とのない者が、全世界を指導するの資格が|在《あ》るものか。真正の資格が完備して居るのは、|独《ひと》り神の選民あるのみである。けれども、現在に及んで、いよいよ神国民の修業時代も終結に近づいた。これからはいよいよ世界の表面に立ちて|其《その》|蘊奥《うんのう》を傾注し、世界経綸の大事業に|真正面《ましょうめん》から従事せねばならなくなった。日本人がいくら従来の通り引込思案で、親の|脛嚙《すねかじ》り下宿住いで我慢して居たくても、ひしひしと四方八面から押し寄せて来る世界の大勢が許さない。四年半越しの欧州の戦乱は一旦落着したようなものの、社会の奥底、人心の根本から|揺《ゆる》ぎ出した世界の大動揺であるから、動き切る迄は|何《ど》うしても動く。戦争、疫病、天災、内乱、飢餓、一波は万波を生み、一事は万事を|孕《はら》み、動揺を起すべき材料の全滅する迄は決して|止《や》まない。言わば、天地の創造の際から規定されたる約束の大動揺である。 欧州もこれから本気に動き出すが、東洋方面も、無論これから本当に動くのだ。|就中《なかんずく》、北米の動き方に至りては、|尚更《なおさら》真剣だ。此の間に立ちて、日本独り動かず、超然として成金の夢を見、自然主義の実行を|恣《ほしいまま》にして居る訳には行かぬ。最後には、動いて動いて、動き方にかけても|亦《また》、世界第一であらねばならぬ。

大本の使命
 神人両界の関係も知らず、世界に|於《お》ける日本の地位と使命とをも弁ぜざる人士には、仲々|腑《ふ》には落ち兼ねる所が|在《あ》るに相違ない。|之《これ》を充分説明し、実証し、そして適切なる指導訓練を加えるのが大本である。大本以外に、徹底的に|此事《このこと》の分る所は、地球上|何処《どこ》にも絶無である。綾部には事々物々|悉《ことごと》く神界から直接神勅を仰ぎ、之に|拠《よ》りて世界一切の問題を解決する「地の|高天原《たかあまはら》」である。神界の決議計画の一部が、|予《あらかじ》め警告的に人間界に発表され、沈黙の|裡《うち》にぐいぐい実行に|掛《かか》られる。|扨《さて》、大本の真髄骨子は、到底筆で伝え|得《う》る限りではない。せいぜい|其《その》形骸に|就《つ》きて、大体の観念を与える位のものである。|何《ど》うしても真の|理会《りかい》と信仰の道に導く為めには、直接の面会と|幽斎室《ゆうさいしつ》に於ける実修を必要とする。正しき霊覚は、無論理性の要求と|相《あい》反する所はないが、理性ばかりで真信仰に入るには不充分である。是非とも一歩も二歩も之を超越して、一躍|直《ただ》ちに神秘の門に突入するを必要とする。

真神
 大本の真意義を根本的に理会せんが為には、是非とも宇宙の独一神|天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》に就きて、判然した観念を有する事が必要である。これが信仰の真髄骨子となるのであって、この事の充分徹底せぬ信仰は、|畢竟《ひっきょう》迷信に堕して|了《しま》う。|但《ただ》し神に就きての誤らざる観念を伝える事は、実に至難中の至難事である。|其《その》神徳が広大無辺であると同時に、其の神性は至精至妙で、いかに説いても、|何《ど》う書いても、これで充分という事は、人間|業《わざ》では先ず望まれない。されば本邦の皇典「古事記」にも、単に造化の第一神として、|劈頭《へきとう》に御名称を載せてあるに過ぎぬ。『古事記』の筆録者たる|大朝臣安万侶《おおのあそみやすまろ》は、序文の|初《はじめ》に、「それ混元既に|凝《こ》り、気象未だ|効《あらわ》れず。|無名無為《なもなくわざもなし》。誰か其形を知らむ」と書いてある。『日本書紀』の方では、本文に|天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》の御名称さえ|載《の》せず、単に|此《こ》の神の性質の一小部分を捕え、|古《いにしえに》天地いまだ|剖《わか》れず、|陰陽《めお》|分《わか》れず、|渾沌雞子《まろかれたることとりのこ》の如し」などと書いてある。これも決して|態《わざ》書かぬのではなく、書き|度《た》くても、とても窮屈な漢文などで書きこなす事が出来なかったのであろう。 天之御中主神という御名称は、本邦所伝のものであるが、無論此神は、日本専有の神ではなく、世界各国で種々雑多の名称を付して呼んで居る。太極、天、梵天、エホバ、ゴッド、ゼウス等を初め、他にも種々ある。そして|是《これ》に対する観念も、浅深大小、決して一様ではないようだが、|畢竟《ひっきょう》|我《わが》皇典の天之御中主神を|指《さ》すものである。|只《ただ》|此神《このかみ》の徳性が余りに微妙、幽玄、広大無辺なるが為めに、|大抵《たいてい》の経典は、辛うじて神性の一小片端を捕うるに止まり、世界中何処を捜しても、此神に就きて円満|正鵠《せいこう》な観念を伝え得たものは|一《ひとつ》も無い。 哲学者だの科学者だのは、多く神という事を嫌い、全然神と絶縁して|仕舞《しま》った|所思《つもり》で得意がって居るが、|豈《あに》|量《はか》らんや、彼等|畢生《ひっせい》の努力も研究も、実は天之御中主神の神業の一少部分を|節孔《ふしあな》から|覗《のぞ》いて居るようなものに過ぎない。 今日、天之御中主神の真解が、曲りなりにも|企及《ききゅう》し|得《う》るように成ったのは、大本|言霊学《げんれいがく》を以ての『古事記』の説明、及び『大本神諭』中に見出さるる|此神《このかみ》の解釈等の|賜物《たまもの》である。

神と宇宙
 簡単に述べると、|天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》は、無限絶対、無始無終に宇宙万有を創造する全一大祖神、宇宙の大元霊であるが、|是《こ》れ|丈《だけ》書いたのでは、|一《ひとつ》の定義たり|符牒《ふちょう》たるに止まり、其神徳、神性に就きての明白な観念がとても読者の脳裡に浮ぶ訳に行かぬ。是非とも、詳しく説明せねばならぬ。 自分は今、此神を説くに、「宇宙の大元霊」なる文句を使用したが、此神と宇宙とを引離して、まるで別個の無関係のものの如く考えられては困る。此神は、決して宇宙の外に在るのではない。宇宙の外に何者かが存在するという事は、|吾人《ごじん》の意識し|得《う》る限りでない。さりとて、神は|亦《また》宇宙の宇宙の内に在るのでもない。宇宙の内に在る以上は、少くとも、宇宙と相対的となり絶対という事は出来ない。宇宙の外にも在らず、又宇宙の内にも在らずというのでは、何うしても此の神は宇宙と合一状態にあらねばならぬ。換言すれば、天之御中主神は宇宙の本体それ自身であらねばならぬ。 ただ|此《この》宇宙という言葉は、いかにも純理的、形式的な、学術的|臭味《くさみ》のある語で其中に生命が無い。いかにも|冷《ひやや》かな感を与える。|天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》の形骸を|髣髴《ほうふつ》せしむる事は出来ても、|渾然《こんぜん》として大成せる一個の霊活妙体を髣髴せしむる|温味《ぬくみ》が乏しい。例えば、霊魂が脱出して了った殻の肉体の様な感を起させるのが、宇宙という文字の欠点である。自分が此語を使用するのは、説明の必要上、|万《ばん》止むことを得ざるが為めである。読者は|飽《あ》く迄、活機|凛々《りんりん》たる神霊原子が充実し切り、|磅礴《ほうはく》し切った至大天球、無始無終、|永劫《えいごう》不滅に活動して至仁、至愛、至正、至大、|稜威《みいつ》を以て天地、日月、|星辰《せいしん》、神人、其他万有一切を創造せらるる全一大祖神という観念を失わぬ様に希望する。|斯《か》く考えると、他の文字を以って言い表すよりも、矢張り天之御中主神と申上げることが穏当であると感ずる。又『大本神諭』の如く、ずっと平らく、|親《したし》み|敬《うやま》って、「天之御先祖様」と申上ぐるも、至極結構であると思う。何うしても人間の感情は、|其所《そこ》まで向上し|醇化《じゅんか》せねば駄目だ。

霊力体
 既に天之御先祖様である。吾々自身の肉体精神とても、吾々の生を養う動物植物とても、生物でも無生物でも、吾々の耳目に触るるものの一切、吾々の理智想像の及ぶ限りのものの一切は、|悉《ことごと》く此御先祖様から分与せらるるのである。換言すれば、此の神は霊力体の総本体である。 霊と体とは、天之御中主神が、その絶対一元の静的状態から動的状態に移らるる時に、必然的に発揮せらるる二元の呼称である。霊体という代りに、陰陽、水火、其の他の文句も使用されるが、全然同一義を以て使用されるのであると承知して|宜《よろ》しい。又力とは霊体二元の結合の瞬間に発生するもので、霊のみで力なく、又体のみでも力はない。霊体二元が|揃《そろ》うから、力が出来る。無論、霊体二元の配合|如何《いかん》によりて、発生する力が非常に違う。人間が人為的に生物だの無生物だのと区別して居ても、実は霊体の配合が違い、従って其の発揮する力に雲泥の相違が生じて居ると云うに過ぎない。|兎《と》に|角《かく》、宇宙間は霊力体が|充《み》ち充ちて、|斯《か》くの如く活気|凛々《りんりん》として居る。その総本体が天之御中主神である。宇宙間に発生する万有一切は、皆、小天之御中主神である。之を放てば万有であるが、之を|捲《ま》き収むれば、天之御中主神に帰一する。 |天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》の総本体は、広大無辺であるから、吾々人間が、いかなる霊智霊覚を以てしても、其全体を|視《み》、其|全豹《ぜんぴょう》を察する事は出来ない。|所謂《いわゆる》、無限絶対、無始無終である。|併《しか》し|乍《なが》ら、此の神の縮図たる小天之御中主神は、天地間に充ち充ちて居る。|粟《あわ》一粒も小天之御中主神である。霊と体と力とが渾然として融合して、一個独特の機能を発揮して居る。活眼を開いて素直な心で対すれば、悟りの種は随時随所に充満して居る。それが即ち神の黙示であるのだ。
   神の黙示一、天地の|真象《しんしょう》を観察して、|真神《しんしん》の|体《たい》を思考すべし。一、|万有《ばんゆう》の運化の|濠差《ごうさ》なきを見て、真神の力を思考すべし。一、活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし。 天地の真象、万有の運化、活物の心性、これは誠に不変|不易《ふえき》の|活経典《かつきょうてん》と称すべきである。吾々は実に|此《この》活経典に対して、真神の真神たる|所以《ゆえん》を悟る事に努力せねばなるまい。

時間と空間
 吾々が宇宙全一大祖神に|就《つ》きて正しき観念を得た暁には、かの学者の頭脳を悩ます時間、空間の問題の如きも、容易に解決し得るのである。|此神《このかみ》が万有一切を捲き収めて、|之《これ》を帰一し、未だ活動を起さざる時、|即《すなわ》ち其静的状態にありては、無論、時間空間を超越して居る。時間、空間が無いのではなく、さればとて又有るのでもない。|其《その》観念が起るべき|因由《いんゆう》が無いのだ。 時間、空間の観念が|起《おこ》って来るのは、少くとも此神の本体から、霊と体との相対的二元が顕われてからの事である。神典で云えば、|高皇産霊神《たかみむすびのかみ》、|神皇産霊神《かみむすびのかみ》の二神が顕現して、活動を起されてからの事である。即ち|此神《このかみ》の活動を|縦《たて》に考察する時に、時間という観念が起り、|又《また》|之《これ》を横に考察する時に、空間という観念が起る。活動がなければ、時間もなく、空間もない。|縦令《たとえ》あっても、之を|量《はか》るべき標準もなく、又これを量るべき材料もない。無論、無限絶対なる此神の属性があるから、時間、空間共に無限であり、無始無終であらねばならぬ。外に向って無限であると同時に、内に向っても、|亦《また》無限である。至大外無く、至小内無しである。 以上説く所に|由《よ》って、|略《ほ》ぼ|天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》に就きて正しい概念は得られる事と思う。即ち|其《その》静的状態から考察すれば、此神は霊力体を帰一せる所の宇宙の大元霊である。一元の虚無というてもよろしく、又絶対的実在というてもよい。次に、其動的状態から考察すれば、此神は、随時随所に霊力体の微妙神秘なる配分を|行《おこな》い、無限の時間空間に|亘《わた》りて、天地、日月、星辰、神人、其他万有一切の創造に任ぜらるる全一大祖神である。 此神の静的状態、帰一状態は、|一《ひ》と通り正しい観念を得れば、それで充分とすべきである。何となくれば、此神は既に|已《すで》に無限の時間、空間に|亘《わた》りて活動を開始されて|居《お》り、|再《ふたた》び太初の静的状態に逆行さるる心配は絶無だからである。よし万々一、逆行さるる事がありとしても、其場合には万有一切は全滅し、|随《したが》って吾々人類も|混沌《こんとん》の裡に|痕跡《こんせき》さえ|失《うしな》って|了《しま》い、心配するにも心配すべき|手懸《てがかり》が無いことになって来る。|誠《まこと》に|詰《つま》らない。実際問題としては、此神の動的状態の理会体得が何よりも肝要である。人間は天地|経綸《けいりん》の|衝《しょう》に|当《あた》るべき使命があるから、此神が過去に於いて、いかなる活動を|為《な》されたか、|又《また》将来に於て、いかなる目標に行進せらるるか、少くとも其大綱に|通暁《つうぎょう》せねば本当でない。が、|就中《なかんずく》肝要なる事は、現在此神が、いかなる経綸の実行実施中であるかの問題で、これを理会体得して、御神業の助成に努力するにあらずんば、人間の人間たる価値は無い。 天之御中主神の御神業は、大体に於て二方面に分れて居る。一は理想世界たる神霊界の大成、一は現実世界たる人間界の大成である。 従来は、宇宙の未製品時代で、理想世界が真に理想世界の域に達せず、|屡々《しばしば》変調に陥って居た。人間界の乱雑|乖離《かいり》に至りては、|殆《ほと》んど言語道断で、同胞の殺し合い、国の|奪《と》り合いを演じて、|敢《あえ》て怪むを知らぬどころか、自分達の全一大祖神の存在まで打忘れて居た。いや忘れるというよりも、此神を認める|丈《だけ》の能力に欠けて居た。そして其の粗末な頭脳で、|歪《ゆが》んだ不備な宗教だの、哲学だの、理屈だのを勝手に考え出して、互に|相《あい》排斥し合って、|寧《むし》ろ得意がって居たが、現在に及びて、天之御中主神は大々的整理を施して、神人両界の大成を期せらるる事に成り、明治二十五年を以て、此神の御神勅は先ず国祖|国常立尊《くにとこたちのみこと》に降った。|爾来《じらい》今に至りて三十有余年、|祖神《そしん》御経綸の歩武は、神人両界に|跨《またが》りて、|寸毫《すんごう》の|齟齬《そご》なく、遅滞なく、粛々として進行し|来《きた》り、大正七年十一月、其大準備の完成と同時に、国祖は大本教祖の肉の宮から|神去《かんさ》りまして、残る後半の大神業を|豊雲野尊《とよくもぬのみこと》に譲られた。五年越しの欧州戦乱の如き、|開闢《かいびゃく》以来の大事変の|様《よう》だが、実は、真の大変動は今後に起る。それが|済《す》めば宇宙の間が始めて全部整理される。独り現世界ばかりでなく、神界の奥の奥まで、天地、日月、星辰の状態まで一変する。それが、大本で教ゆる処の大正の維新、二度目の世の|立替《たてかえ》|立直《たてなおし》の真意義である。之に|比《ひ》すれば、従来の|所謂《いわゆる》維新だの革命だのは、何れも|姑息《こそく》で、不徹底で、児戯に近いものである。 「大正維新」「世の立替立直し」、文字はいかにも有り|触《ふ》れた|月並《つきなみ》|至極《しごく》のものであるが、其内容は大きい。天地の根本から、悠久長大なる歳月に|亘《わた》りて待ちに待たれた大転換期、大完成時代に到着したのである。天之御中主神の大神業に、漸く目鼻が付く時なのである。言わば大地、太陽、太陰、列星を始め、あらゆる神も人も、何も|彼《か》も、この大神業を完成せんが為めに準備し置かれたのである。 吾々は、従来|愚昧《ぐまい》|鈍劣《どんれつ》にして、けち臭い目前の小利小害に没頭して、勝手気儘な各個運動、眼先の見えぬ盲目行動を続けて来たものだ。こんな事では、人間はもう小天之御中主神たる資格はない。此世に存在の意義のない、出来|損《そこ》ねの廃物である。霊力体をばらばらにして、造り替え練り直さるるより|外《ほか》に仕方がない。が、それは決して至仁至愛なる天之御先祖様の御旨意ではないので、反省改悟の準備として、|幾何《いくばく》かの猶予を与えられ、国祖の一万巻の『神諭』とも成り、懇切周到なる警告と教戒とを与えられたが、大本教祖の帰幽昇天と同時に、警告準備の時代は既に経過し、いよいよ最後の実現実行の時代に突入する事となった。 時期が時期であるから、|此際《このさい》大至急覚醒して、下らぬ迷信や振り棄てて|了《しま》い、そして一刻も早く真信仰に入らねばならぬ。真信仰の第一歩は、宇宙独一真神天之御中主神を|認《みと》める事である。

一元と二元
 自分は、前章に於て、天之御中主神が宇宙の独一真神で、霊力体の総本山である|所以《ゆえん》を説明したが、本章に於ては、此神の動的方面、即ち其霊力体の妙用を発揮して、天地、太陽、|太陰《たいいん》、列星を創造されたる次第を説明したいと思う。 霊力体の意義に就きては、第一章(ママ)にも一言して置いたが、|爰《ここ》では、も|些《すこ》し詳細に、其真意義を解釈して置きたい。天之御中主神の静的状態、即ち天地未|剖判《ぼうはん》の|混沌《こんとん》状態に在りては、無論、霊だの体だのの区別はない。|唯《ただ》一元の「大元霊」があるのである。|真如《しんにょ》だの、|虚無《こむ》だのというのは、此状態を|指《さ》したものであるが、既に前にも一言せる通り、此状態は、|吾々《われわれ》が|強《し》いて意念する|丈《だけ》のもので、実際としては、天之御中主神の御活動は、無窮に悠遠なる時代から、既に|已《すで》に開始されて居た。|何《ど》うしたとて、吾々は其無窮を超えて一元の「大元霊」の|裡《うち》に|遡《さかのぼ》る事は出来ない。思索、想像の|赴《おもむ》くべき一面としては興味がないではないが、要するに、それに|耽《ふけ》るのは結局道楽|三昧《ざんまい》である。印度人だの、南方支那人だのは、|兎角《とかく》|此様《こん》な道楽が好きだが、神業の大成の局に当るべき日本人としては、|其様《そん》な|閑日月《かんじつげつ》は無い。殊に現在、宇宙間は、あらゆる方面に|亘《わた》りて活動又活動、天地創造以来の大活躍が|起《おこ》らんとしつつある瞬間であるから、|尚更《なおさら》の事である。既に宇宙の間に活動が起って居るとすれば、根源に於て其活動を起すべき力の存在は明白である。換言すれば、力があるから活動が起るのだ。|所《ところ》が、力という力には、常に正反対の二方面が|具《そなわ》って|居《い》る。進あれば必ず退あり、動あれば静あり、|引《いん》あれば必ず|弛《ち》あり、と云う具合である。吾々は、|何故《なにゆえ》力に斯く正反対の二方面が|具《そな》わるのであるかを考究せねばならぬ。何が其原因か。かく追求すると、吾々は是非共、宇宙の間に相対的二元の存在を認めざるを得ぬ。正反対の性質を帯びたる二元が存在するから、其二元の交渉|若《もし》くは衝突の場合に、|進《しん》となったり、|退《たい》と成ったり、|或《あるい》は動と成ったり、静と成ったりする。宇宙の内部が一元のままならば、進退もなく動静もない。相対的二元があるから力が生じ、そして其力に相対的二方面が|具《そな》わる。|斯《こ》ういう次第だ。大本霊学では、此宇宙内部の相対的二元を捕えて、陰陽ともいい水火とも又霊体ともいうて居る。霊体、火水等は、|平生《へいぜい》浅薄な通俗的意義に使用されて居るが、|爰《ここ》に述ぶる所は、根本の第一義のもの、抽象的のものである。吾々は、之を意識の上に明瞭に描く事は出来るが、其実体は、之を捕える事は出来|難《にく》い。爰に火水という時は、火水の本体、第一義の火水を指すので、水として|象《しょう》を現わす時は、実は其中に火があり、火として象を現わす時にも、同じく其中に水がある。換言すれば現象の火も水も、|何《いず》れも|各々《おのおの》陰陽二元の一種の結合で、各々特有の力を発揮して居るのである。この事が|腑《ふ》に落ちぬと、自然不可解に|陥《お》ちたり、低級卑俗の見解に堕したりして、宇宙根源の|真諦《しんたい》に触れる事は到底不可能である。 |言霊学《げんれいがく》から言葉を|査《しら》べて、霊と体と力との関係が非常によく明白になるのである。元来日本語は世界言語の根源で、諸外国の言語の根本の|如《ごとく》|転訛《てんか》がないから、|音韻《おんいん》の根本義が大変|査《しら》べ|易《やす》く、其方面からも宇宙の神秘、造化の|奥妙《おうみょう》等を|探《さぐ》るに多大の便宜を有する。言霊学の性質、さては日本語と外国語との関係等に就きては後章に論ずることとして、|爰《ここ》では単に、|霊《れい》、|力《りょく》、|体《たい》の|言霊《ことたま》を|説《とく》に|止《とど》める。「霊」は本邦の古語では「ヒ」であり、又「チ」である。又「体」の邦音は「カラ」であり、又「カラタマ」である。元来、「体」は霊を|宿《やど》すべきもので、言わば中身無しの容器である。即ち「体」は|殻《から》、|空《から》等と同一義を有する。又古来日本では、|韓《から》でも|唐《から》でも、すべて外国を「カラ」と呼んで居るが、要するに、外国は|体《からだ》を|貴《とうと》ぶ国、霊性の|足《た》りない「|空唐国《からくに》」という事なのである。「力」は即ち霊、体で、霊体二元の結合という事である。霊、力、体の関係が、かく明白に言葉の上にもあらわれて居るというのは、真に驚歎すべきではないか。

霊主体従
 |扨《さ》て、陰陽又は水火、霊体の二元が、宇宙の「大元霊」から|岐《わか》れ出づる所の相対的二大原質でありとすれば、宇宙の「大元霊」たる|天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》から|覧《み》れば、無論双方とも同様に肝要で、其間に甲乙軽重の差がある筈はない。 陰が滅すれば、同時に陽も滅し、又陽が滅すれば、同時に陰も滅する。二者の|中《うち》、其一を欠く事は出来ない。吾々の身体で、左右の眼、左右の手足が共に肝要であると云うよりも、更に痛切な意味に於て、肝要至極である。|併《しか》し|乍《なが》ら、宇宙の内面に於て意義ある活動を起そうとするには、是非とも其一方面を主とし、他方を従とせねばならぬ。五分五分の権能を賦与せられたのでは、全然活動は|起《おこ》らない。同力量の力士が、土俵の|真中《まんなか》で|水入《みずいり》引分に終るが如きものである。又主と従との関係は、永久固定的であらねばならぬ。さもなければ、起る所の活動が乱雑不統一に陥って|了《しま》い、結局無活動と同じ結果になる。千万世に|亘《わた》りて変る事なく、秩序整々、意義ある活動を続けようとするには、|何《ど》うしても陰陽の間に主従優劣の固定的関係を設くる事が、絶対に必要だ。|乃《そこ》で天之御中主神は、活動の太初に於て陽を主と|為《な》し、陰を従と|為《な》し玉うた。大本霊学は此根本原則を普通「霊主体従」という言葉で言い現わして居る。陽主陰従でも火主水従でも意義は同一である。 「霊主体従」が宇宙の大原則である事は、宇宙|其物《そのもの》に|就《つい》て考えたとて、容易に分るものではない。余りに広大で、余りに奥が深過ぎる。が、大宇宙の間には、同一原則で出来た小宇宙が充満して居るので、吾々は|是等《これら》に|就《つ》きて大宇宙を|忖度《そんたく》するの便宜を有して居る。人間としては、先ず手近い自分自身を攻究するのが|暁《わか》り易い。 少し静思反省すると、|何《ど》うしても吾々人間には、霊的性能と体的性能との正反対の二面が|具《そな》わって居る事が|判《わか》る。霊能は、吾々に向上、純潔、高雅、正義、博愛、犠牲等を迫る。これが最高の倫理的感情又は審美的性惰の源泉である。之に反して体能は、吾々に食い|度《た》い、飲みたい、着たい、犯したい等、少くとも非道徳的念慮を起さしめ、甚だしきは堕落、放縦、排他、利己等の行為をも迫る。|此《この》二性能は、常に吾々の体内で両々相対抗して居る。人間として存在する以上、到底|之《これ》を免れない。|若《も》し霊能が無いとすれば、吾々は忽ちに禽獣化し、人類として存在の価値を失う。若し又、体能が全然無いとすれば、それでは自己の保存が|覚束《おぼつか》ない。例えば食われない|丈《だけ》でも滅びて|了《しま》う。両性能を具有する事は絶対に必要であるが、両性能の間には、主従優劣の区別を設けて、一身の行動の規準とせねば、人間は適従する所に迷うて了う。|乃《そこ》で霊能を主とし、体能を従とし、之を守るのが善、之に|反《そむ》くのが悪と規定せられて居る。大宇宙の原則は、|矢張《やはり》小宇宙たる人間に於ても、原則とせられて居る。ただ人類が未製品なので、大体之を原則として規定しても、実行の上には原則違反ばかり続けて居るのだ。

進左退右
 宇宙の二大原質の関係は「霊主体従」であるが、其活用から云えば霊は左で、進む性質を有し、体は右で、退く性質を有する。|乃《そこ》で「霊主体従」と云う事を、運動の上からは、「進左退右」と言う言葉で現わしたのである。 宇宙全体の運動という運動は、この「進左退右」を以て根本原則とし、之に|協《かな》うものは順、之に|背《そむ》くものは逆と云う事になる。言霊学の上から、左は「|火足《ひたり》」の義で、火の系統、霊の系統たる事を示し、右は「|水極《みぎ》」の義で、水の系統、体の系統たる事を示して居るのである。 例によりて、宇宙全体は、人間の理智想像で推定するには、余りに偉大に過ぎ、とても|其《その》運動の法則が、|斯《こ》の通り「進左退右」に成って居ると証明する事は出来ないから、小宇宙たる人間その他二、三の卑近な実例を挙げて説明する。 先ず人間の肉体に|就《つい》て述べんに、有意識の運動にしろ、無意識の運動にしろ、運動と云う運動は、|悉《ことごと》く左が進み、右が退くように出来ている。三歳の小児が拍手する場合に於ても、常に先方に出るのは左手で、後方に退くのは右の手である。之に反する所の逆運動を行うものは無い。下女が|摺鉢《すりばち》で味噌を|摺《す》る時、百姓が|碾臼《ひきうす》で|籾《もみ》を|碾《ひ》く時、其他類似の無数の場合に於て、何人と雖も進左退右の運動に違反するものはない。かかる場合に|強《し》いて之に違反せんとすれば、|為《な》し得ない事もないが、妙に勝手が悪く、骨が折れる事|夥《おびただ》しい。柱時計などには、普通時計用の|螺釘《ねじ》と時報用の螺釘と、双方別々に取付けてあり、そして其の|捲方《まきかた》が、左巻、右巻の二種に作製してある。右巻の方は巻くのに容易であるが、左巻の方は夥しく力を要する。宇宙の運動の原則に従うと否との難易は、かかる場合に、最もよく判る。吾人が祭式に際して、左足から先ず踏み出し、後退に際して右足から踏み出すも、矢張り自然の天則である。日本の都会で、通行を規定するに当り「左へ左へ」などは、自然に天則を励行するものである。確かにこの方が勝手が|宜《よ》い。 次ぎに、植物の|蔓《つる》の巻き方を見ても、この運動の原則は大部分に|於《おい》てよく守られて居る。朝顔でも、豆類でも、|山芋《やまいも》でも、藤でも、|其《その》|蔓《つる》の巻き方は、皆進左退右式である。人間が|戯《たわむ》れに朝顔の蔓などを逆に巻いて、縛って置いて見ると、矢張り蔓は承知せずに、先端の方は宇宙の運動法則を実行する。無論人間の中に|左利《ひだりきき》の人があると同様、植物にも原則違反者がある。|或《あるい》は植物の方が、其数が一層多いようだ。|尚《なお》|此《こ》の|外《ほか》、旋風にしろ、渦巻きにしろ、天体の運行にしろ、数えて立てれば際限がない。かかる現象の|蒐聚《しゅうしゅう》は、専門の士が、各々己が向き向きに試みて、|飽《あく》まで研究材料を豊富ならしむるよう努力さるる事を希望する。

天地剖判
 |兎《と》に角、宇宙間に、この「進左退右」の根本運動が開始され、其結果が天地剖判、日月、血、|星辰《せいしん》の顕現という事に成って来るのであるが、この事を理解する為めには、先ず大宇宙の形態に就きて、正確なる観念を有する事が必要だ。大宇宙は吾々人間から客観すれば、時間、空間共に無限であり、無始無終である。 到底、其窮極、際涯を知る事は出来ない。|併《しか》し|乍《なが》ら、天之御中主神から主観されれば、無限でも無く、無始無終でもないに決まって居る。そして其全体に|亘《わた》りて、統一あり秩序ある進左退右運動を始められたとすれば、無論其運動には、大中心もあり、又太極もあるに相違ない。 一個の大中心から、東西南北、四方八面に向って太極がありとすれば、|爰《ここ》に吾々の頭脳には、|髣髴《ほうふつ》として至大天界の在ることが浮んで来る。 かくして出来た至大天球の内部は、最初は|混沌《こんとん》として天地の区別もなかったが、進左退右の旋回運動が継続さるる|中《うち》に、軽く澄みたるものと、重く濁れるものとは次第に分離され、そして軽きものは外周に、重きものは中心に向って凝集して来る。是れは吾々が簡単な方法で実験して見ても判る。泥水を円形の器物に入れ、左右の手で、とんとん叩いて旋回運動を与えるなども、一の実験法である。そうして居ると、泥は次第に中央に向って突起したように凝集し、周囲の方は澄んで来る。又立体と平面体との差別はあるが、円盆の上に、豆だの|塵《ちり》だのを載せて|掻《か》き混ぜて置き、同様に両手で叩いて見ても判る。軽い塵は周囲に集り、重い豆は中心に集る。農夫などは、|惟神《かんながら》に此の天則を知って居て、|平生《へいぜい》、|此《この》方法で塵と穀類との|選別《よりわけ》をして居る。天とは、宇宙の内部で軽く澄みたる所の総称で、科学者はエーテル界などと|称《とな》える。又地とは、重く濁れるものの総称で、即ち物質世界である。無論、天も陰陽二元から成り、地も同様である。只陰陽の配合に於て、二者甚だしく赴きを異にする。根本の原質に於て差異はないが、形態機能の上には多大の相違がある。 天地|剖判《ぼうはん》の初頭に於ては、天に対して地も|唯《ただ》一個であった。旋回運動が継続されて居る|中《うち》に、大地の内部に|於《おい》ても、重い物と軽い物、澄んだ所と濁った所とが次第に区分され、外周に集合した所の比較的軽く澄んだ所、例えば|瓦斯体《がすたい》は、|或《あ》る時期に於て、中心の固形体、又は液体との共同運動が不可能となり、|終《つい》に分離して|了《しま》う。そして天の一角に或る位置をを占めて、一方宇宙の大運動に伴いつつ、自己も|亦《また》独立せる小運動を続ける。これが第一の星である。次に第二の星が分離し、次に第三、第四、第五と次第に分離して、現在見るが如き無数の天体を形成するに至った。|是等《これら》諸星辰の分離に連れて、無論地の容積は縮小又縮小、最後に太陽、太陰等と分るるに及びて、現在の大地と成って|仕舞《しま》った。容積から言えば、天体中には大地球よりも大きいものもあるが、|併《しか》し宇宙の中心という点から言えば、大地球がそれであらねばならぬ。|最早《もはや》大地は大体出来|上《あが》って、|此上《このうえ》分離するものがなく、例えば充分酒を絞り|上《あ》げた|酒粕《さけかす》の如きものになって居るのだ。 宇宙根本の「力」を体現するものは、既に述ぶるが如く、宇宙を機関として、無限、絶対、無始、無終の活動を続け給う所の全一祖神天之御中主神、一名|大国常立尊《おおくにとこたちのみこと》である。此意義に於て、宇宙は一神であるが、宇宙の内部に発揮さるる力は、各々分担が異り、軽重大小が異り、千種万様、其窮極を知らない。そして是等の千種万様の力は、各々相当の体現者を以て代表されて居る。此意義に於ては、宇宙は多神に依りて経営され、|所謂《いわゆる》|八百万神《やおよろずのかみ》の御活動である。由来一神論と多神論とは、|相《あい》|背馳《はいち》して並立する事が出来ぬものの如く|見做《みな》され、今日に於ても尚お迷夢の覚めざる|頑冥《がんめい》者流が多いが、実は一神論も多神論も、共にそれ|丈《だけ》では半面の真理しか捕えて居ない。一神にして同時に多神、多神にして同時に一神、|之《これ》を捲けば一神に集まり、之を放てば万神に|分《わかれ》るのである。此の意義に於て、天地、日月、万有、一切|悉《ことごと》く神であり、神の機関である。小天之御中主神である。世人の多数は、現象に捕えられ、物質に拘泥して、神に就きて正しい観念を容易に|有《も》ち得ないが、元来、言葉の意義から|査《しら》べて、神とは「|火水《かみ》」である。即ち陰陽、霊体、火水の二元が結果して、各自特有の「力」を発揮するものは皆神である。それが幽体であろうが、現体であろうが、共に神である事に変りはない。幽と現との区画は、そう分明なものでない。甲の人の眼に映ずるものが、必ずしも乙の人の目には映じない。換言すれば、甲には現であるが、乙には幽である、という事になる。即ち現体といい、幽体といい、人といい、神といい、単に大小、高下、強弱、清濁、軽重等の差異|丈《だけ》で、根元に於ては同一である。程度の差異丈で、原質の差異ではない。自己の肉眼に見えないものは、多くの人は否定したがる、少くとも疑を|挿《はさ》みたがるが、色盲患者が五色を見せられた時に、「これは三色である」、「四色である」と主張するのと、何の相違はない。だから従来、肉眼本位、物質本位の人でも、充分修業を積みて、一旦、霊聞霊眼等が開け出し、|所謂《いわゆる》神の言葉をきき、神の姿を拝することに成ると、多くは|翻然《ほんぜん》として大悟し、「自分が足りなかったのだ」という事が判って来る。現在、地上人類の大多数は、悉く一種の色盲患者であるから、五色を見せられ|乍《なが》ら、これはたった三色であると主張する所の頑冥者流が多いのである。

顕幽の神称
 『古事記』の解釈は、従来、表面的辞句の解釈に|止《とど》まり、従って|荒唐無稽《こうとうむけい》にして|寧《むし》ろ幼稚なる一の神話として取扱われて居たが、大本言霊学の活用によりて、漸く其|真面目《しんめんぼく》が発揮され、深遠博大、世界独歩の真経典たることが分って来た。之によりて観ると、天之御中主神の御神業は、大別して四階段を成して居る。第一段が天地初発の根本造化の経営で、皇典でいえば、|伊邪那岐《いざなぎ》、|伊邪那美《いざなみ》以前である。第二段が理想世界たる天界の経営で、主として、伊邪那岐、伊邪那美二神の御活動に|係《かか》り、三貴神の御顕現に至りて、それが|一《ひ》と先ず大成する。 第三段が地の神界の経営で、天孫降臨から神武天皇以前に達する。第四段が現実世界たる人間界の経営である。|此《この》四階段は、決して単に時代の区別ではない。|寧《むし》ろ方面の区別である。換言すれば第一段が全部済みて第二段の経営に移り、順次に第三段、第四段と成って来たのではなくして、四階段同時の活動であり、経営である。そして現在に於ては、|何《いず》れも未製品で、不整理、不整頓を免れず、又各階段の連絡も充分でない。『大本神諭』の|所謂《いわゆる》「世の|大立替《おおたてかえ》|大立直《おおたてなおし》」を待ちて、始めて目鼻がつくという状態に成って居る。無論、天だの、地だの、神だの、人だのが、ごちゃごちゃに同時に出来上ったのではなく、秩序整々、適当の順序を以て発生顕現したのであるから、其点から考うれば、時代という|考《かんがえ》もなくてはならぬ。矢張り第一段の経営が真先に始まり、第二段の経営が之に続き、第三段、第四段とは成って来たのだ。ただ四階段の経営が|悉《ことごと》く現在まで引続き、そして今後も永久に続くのである事を忘れてはならぬ。|此事《ことこと》が充分|腑《ふ》に落ちて居らぬと、天地経綸の真相は到底|会得《えとく》し得ない。現在大活動を|為《な》されて居る神々を、歴史的遺物として遇する様な大過誤に|陥《お》ちて|了《しま》う。 吾々は、説明の便宜の為めに、此階段に名称を付して呼んで居る。即ち第一段が「幽之幽」、第二段が「幽の顕」、第三段が「顕之幽」、第四段が「顕之顕」である。此四階段に就きての明確な観念を伝えて居るものは、古経典中、|独《ひと》り『古事記』あるのみで、他は、大抵最初の三階段を、ごっちゃに取扱ったり、又は無関係のものの如く取扱ったりして居るから、天地の経綸などという事が到底腑に落ちない。宇宙と天体との関係も分らず、天津神と国津神との区別も分らず、|宛然《さながら》、暗中模索の感がある。従来の宗教などは、|其様《そん》な片輪な、幼稚なものを|提《ひっさ》げて、「之を信仰せよ」と迫ったのだから、随分無理な話だ。頭脳の鈍い者には、迷信も出来ようが、|荀《いやし》くも健全な理性常識を具えて居る人には、到底出来ない。十八、九世紀以降、無神、無宗教を唱うる者、年々歳々増加したのは、|寔《まこと》に当然の話である。在来の宗教などを信奉する人は、単にそれ|丈《だけ》で頭脳が健全でない事を証明して居るのだ。|或《あ》る程度迄、天文、地文学に背反し、古生物学に背馳し、歴史に背馳し、理化学に背馳し、倫理、人道に背馳し、その他諸種の科学や常識に背馳して居る宗教が、何で人類に対し絶対の権威を有し得る筈があるものか。真正の大道は、|是等《これら》一切の学問を網羅抱擁し、其不完全を補い、其|誤謬《ごびゅう》を正し、|尚《な》お進んで其根原に|遡《さかのぼ》り、其出発点を探りて、帰一大成するものでなければならぬ。無論天地間の秘奥は、人間の小智小才を以て|探《さ》ぐるのみでは、不充分である。人間の推理研究には程度があって、大宇宙の奥底に透徹するなどは思いも寄らぬ。 |凡《すべ》ての科学、哲学等が大成せぬは、之れが為めである。最高の|堂奥《どうおう》は、是非とも偉大純正なる神啓に待たねば分らぬ。昔では、我皇祖皇宗の御遺訓たる『古事記』、今では、国祖|国常立尊《くにとこたちのみこと》の垂示し給う『大本神諭』等が、即ちそれである。|何《いず》れも人間の推理研究の結果として生れたる産物ではなく、|醇正無二《じゅんせいむに》の大神啓である。従って議論や理屈を超越して居るが、併し決して正しき議論、正しき理屈、正しき推理研究と背馳しないで、|却《かえ》って之を補正、抱擁して、余裕|綽々《しゃくしゃく》たるものがある。理屈から言うても、成程と|首肯《しゅこう》せざるを得ぬものである。それでこそ、人生に対して絶対の権威のある真正の大道である。自分は、是から皇典に|拠《よ》りて、四階段の分担方面、及び各階段の関係、脈略等を説明したい。

幽の幽
 宇宙の大元霊から、陰陽の二元が|岐《わか》れ、それが万有の根元であると云うことは、既に説明したが、此原則は|何所《どこ》迄行っても厳格に守られ、神界も限界も、常に陰陽二系の併立を以て終始一貫する。先ず「幽之幽」から説明するが、『古事記』でいうと「幽之幽」の神々は、天之御中主神、|高御産巣日《たかみむすび》神、|神産巣日《かみむすび》神、|宇麻志阿志訶備比古遅《うましあしかびひこじ》神、|天之常立《あめのとこたち》神、|国之常立《くにのとこたち》神、|豊雲野《とよくもぬ》神、|宇比地邇《うひじに》神、|須比智邇《すひじに》神、|角杭《つぬぐい》神、|活杭《いくぐい》神、|意富斗能地《おおとのじ》神、|大斗能弁《おおとのべ》神、|淤母陀流《おもだる》神、|阿夜訶志古泥《あやかしこね》神等である。天之御中主神が活動を起して、宇宙内部に進左退右の運動が開始されたとなると、此の「進左」と「退右」という正反対の根本的二大力を、|司《つかさど》るべきもの、即ち「進左」と「退右」との体現者がなければならぬ。それが即ち|高御産巣日《たかみむすび》神と|神産巣日《かみむすび》神とである。高御産巣日神は「進左」を司りて、霊系の祖神であり、神産巣日神は「退右」を司りて、体系の祖神である。 地位、活動等の関係から述ぶれば、前者は主であり、君であり、天であり、男であり、表であり、上であり、そして霊界の経綸に当り玉う。後者は従であり、臣であり、地であり、女であり、裏であり、裏であり、下であり、そして現界の造営を司る。宇宙内部の経綸が進むに連れて、霊系、体系共に、無数の神々が顕現するが、皆此二大祖神の分れである。二大祖神の発揮さるる力の一分担者である。霊系に属するものの一切を捲き収むれば、|悉《ことごと》く高御産巣日神に帰し、体系に属するものの一切を捲き収むれば、|悉《ことごと》く神産巣日神に帰する。更に高御産巣日神と神産巣日神とを捲き収めて、帰一せしめたとすれば、それが即ち天之御中主神である。三神一体、|三位《さんみ》一体は、此間の消息を伝えたものである。 |宇麻志阿斯訶備比古遅《うましあしかびひこじ》神以下、悉く相対的活用を司り、霊体二系、六|対《つい》の神々に分類することが出来る。即ち|比古遅《ひこじ》神は、霊系に属し、温熱を供給し、万物を化育する根元の働きを|宰《つかさど》り、天常立神は、体系に属し、水系を終結し、天体を構成整理する根元の働きを宰り玉う。次に国常立神は、霊系に属し、|経《たて》に大地の修理固成に当り、一貫不変の条理を固守せしむる根本の働きを|宰《つかさど》り、又豊雲野神は、体系に属し、|緯《よこ》に天地の修理固成に当り、気候、風土等の|如何《いかん》に応じて、異別的特色を発揮せしむる根本の働きを宰り玉う。現在起りつつある二度目の世の|立替立直《たてかえたてなおし》とても、|詰《つま》り此二神の根元の働きの連続である。国常立神と豊雲野神との働きに就きては、後章に細説することとして、|爰《ここ》では他神の働きに移る。|宇比地邇《ういじに》、|須比地邇《すいじに》の対神は、宇宙根元の解力と凝力とを宰り、|角杭《つぬぐい》、|活杭《いくぐい》の対神は、宇宙根元の|弛力《しりょく》と引力とを宰り、|意富斗能地《おおとのじ》、|大斗乃弁《おおとのべ》の対神は、宇宙根元の動力と静力とを宰り、|淤母陀流《おもだる》、|阿夜訶志古泥《あやかしこね》の対神は、宇宙根元の分力と合力とを宰る。即ち宇宙間に起る所の八大力は、以上挙げたる八大神の分担に|係《か》かるものである。 「幽之幽」は神界の奥の奥に位し、天地万有発生の基礎を分担さるる根本の祖神の活動所で、「顕之顕」に活動する人間からは、容易に|窺知《きち》する事が出来ない。霊力体を具えらるる神々であるから、其原質は、|敢《あえ》て人間と違った所はない、|言《い》わば人間と親類筋であるが、清濁、大小の差が大変違う。『古事記』に|所謂《いわゆる》「|独神成坐而《すになりまして》、|隠身也《すみきりなり》」とある通り、聖眼、之を視る|能《あた》わず、賢口、之を語る能わざる境涯である。不生不滅、不増不減、至大無外、至小無内の極徳を発揮されて居る。之を仰げば益々高く、之を探れば|弥々《いよいよ》深く、之を望めば弥々遠く、其威力は常に不可杭の天理天則と成りて、宇宙万有の上に圧し来る。『大本神諭』の所謂「時節」「天運の循環」などという事も、|詰《つ》まり「幽之幽」の経綸に属する事柄で、それが全一大祖神天之御中主神によりて統一されるから、一糸|紊《みだ》るる事がない。「天道是か非か」なぞというのは、微弱偏小な愚人の|囈語《たわごと》で、天道は是非を超越した絶対の大権威である。宇宙の存在する限り|抂《ま》ぐる事は出来ない。二度目の|大立替《おおたてかえ》、|大立直《おおたてなおし》とても、同じく天道の発現である。|宇内経綸《うだいけいりん》の道程に於て、是非通過せねばならぬ関門である。一日の遅速も、|一豪《いちごう》の加減も許されない、天地創造以来の大約束であるのだ。されば『古事記』三巻、千百余年の昔に書かれたものであり|乍《なが》ら、今日の事が|其裡《そのうち》に予言されて|掌《たなごころ》を|指《さ》すが如く、|立直《たてなおし》に関する大方針まで明示され、『大本神諭』一万巻、明治二十年代から筆に現れて居るもので、現在世界の変局に処すべき細大の事項を網羅して|余蘊《ようん》なしである。人間でも守護神でも、絶対的服従を迫らるる|所以《ゆえん》は|爰《ここ》にある。

幽の顕
 「幽之幽」神界は、宇宙内部の活機を|掌《つかさど》る所で、即ち造化の根元は|爰《ここ》に発するのであるが、|此所《ここ》の活動では、現象としては宇宙間に何等の痕跡も現出せぬ。「幽之顕」神の顕現に及びて、始めて或程度迄、現象にも現われて来る。「幽之顕」界は、即ち宇宙を舞台として活動する神々の世界で、人間界から之を見れば、|一《ひとつ》の理想世界である。皇典で|天津神《あまつかみ》と|称《とな》えるのが、即ち此界の神々を指すので、今便宜上、此界を天之神界と称えて、地之神界と区別する事にした。 自分は前章に於て、神々を力の表現と観て、宇宙内部が次第に整理せられ、天地、日月、大地、|星辰《せいしん》の|剖判《ぼうはん》する次第を略述したが、取りも直さず、あれが天の神界の創造大成である。即ち客観的には、天地、月日、大地、星辰の出現であるが、主観的には|八百万《やおよろず》の|天津神《あまつかみ》達の出現である。天文学というものは、|是等《これら》の天津神をば物質的に取扱い、専ら其形態、組織、運行の法則等を推定せんとする努力である。|恰《あた》かも生理、解剖学者が人体に対して行う所と同一見地に立って居る。一面の真相は、之によりて|捕捉《ほそく》する事が出来る。其方面の開拓も、今後益々発達せねばならぬが、単にこれ|丈《だけ》に|止《とど》まりては、|偏頗《へんぱ》不完全を免れない。生きたる人体の全部が、生理解剖等の力で到底判らぬと同じく、活機|凛々《りんりん》たる天津神の活動は、決して天文学のみでは判らない。是非とも、其内部の生命に向って、探窮の歩を進めねばならぬ。それが即ち霊学であるのだ。『古事記』は、此点に於て至尊至貴の天啓を漏らし、あらゆる世界の古経典中に、異彩を放って居る。即ち『古事記』上巻、|伊邪那岐《いざなぎ》、|伊邪那美《いざなみ》二神の御出生から始まり、二神が多くの島々や草木、山川、風雨等の神々をお産みに成り、最後に|天照大御神《あまてらすおおみかみ》、|月読命《つきよみのみこと》、|建速須佐之男命《たけはやすさのおのみこと》の三貴神をお産みになる迄の所は、実は天之神界の経営組成の大神業を描いてあるのであるが、前にも一言せる通り、表面から解釈すれば、|頗《すこぶ》る幼稚なる神話としか見えない。「大本言霊学」の活用によりて、始めて其裏面に隠されたる深奥の意義が|闡明《せんめい》される。 天之神界の|経綸《けいりん》を主として担当された神は、伊邪那岐、伊邪那美の二神であるが、伊邪那岐の命は、霊系の祖神たる|高御産巣日《たかみむすび》の顕現であり、又、伊邪那美命は、体系の祖神たる|神産巣日《かみむすび》神の顕現である。換言すれば、天地初発の際に、「幽之幽」神として宇宙の根本の造化の神業に活動された霊体二系の祖神が、万有の根源たるべき理想世界を大成すべく活動を起され、複雑神秘なる|産霊《むすび》の神業によりて、|八百万《やおよろず》の天津神を|産《うみ》出し玉うたのである。 既に「幽之顕」神と申上ぐる通り、|或《ある》程度、天津神々の形態は、肉眼にも拝し|得《う》る。日、地、月、即ちそれである。しかし、|其《その》|全豹《ぜんぴょう》は到底人間界から|窺知《きち》し得る限りでない事は、天文学者が最も熟知して居る。吾人の生息する大地すら、僅かに表面の一部を探知し得るに|止《とど》まり、之に関するの知識は、実に浅薄を極めて居る。科学者が|査《しら》ぶれば査ぶる|丈《だけ》、哲学者や霊力者が|究《きわ》むれば究むる程、奥は深く成るばかりで、決して其際涯を知ることが出来ない。顕は顕だが、大部分は矢張り幽の領域を脱し得ない。「幽の顕」神と唱える|所以《ゆえん》は|爰《ここ》に存する。 人間は、|兎角《とかく》自己を標準として推定を下し、神といえば、直ちに人格化せる神のみを想像しようとする。そして自己に比較して、余りに偉大幽玄なる太陰、大地、星辰等は、一の無生機物(ママ)であるように|思惟《しい》したがるが、この幼稚な観念は一日も早く放棄せねばならぬ。 人体に寄生する所の微生物には、恐らく人体の全豹を理会想像する力が無いであろうが、人間も亦、うっかりすると同様の短見に陥る。 あらゆる天体は、霊力体の|混成《こんせい》せる独立体で、活機|凛々《りんりん》、至大天球間を舞台として、大活動を行う所の活神である。遠距離の星辰から人間が|亨《う》くる所の|恩沢《おんたく》は|判《わか》らぬにしても、少くとも自己の居住する大地、並に太陽、太陰等から|日夕《にっせき》|亨《う》くる所の恩沢|位《くらい》は、人間に|判《わか》らねばならぬ。人間がいかに自由を叫んで見た所が、大地の上に支えられ、大地の与うる空気を吸わずには居れぬ。電気や|瓦斯《がす》で天然を征服したなどと威張って見ても、|若《も》し三日も日輪の照臨する事なかりせば、|何人《なんぴと》か気死せずに居れよう。天地の恩沢は、実に洪大無辺である。ただ余りに洪大無辺なるが為めに、|却《かえ》って其恩沢を忘れ勝ちになるのである。人間が之を天体などと云うは、|畢竟《ひっきょう》忘恩と浅慮と無智とを|標榜《ひょうぼう》するものである。単に漠然と其形態を認める|丈《だけ》で、其奥に控えたる天津神の偉霊を窺知する能力に欠乏して居る。 |八百万《やおよろず》の天津神の霊魂こそは、取りも直さず、宇宙全一大祖神の大精神の分派分脈である。之を捲き収むれば、根源の一に帰し、之を分ちに分てば、千万無数の心霊作用となり、微妙複雑なる宇宙の|経綸《けいりん》を行う。即ち「幽之幽」神界の大成で、宇宙内部の基本的大綱が定まり、「幽之顕」神界の大成で、宇宙内部の理想的細則が定まる次第である。無論、宇宙内部は|尚《なお》未製品で、従って「幽之顕」神界としても、従来は絶対的理想には仕上っては居ないが、吾々人間界からは、常に理想の標準を|爰《ここ》に求めねばならぬ。

理想の標準
 |天津神《あまつかみ》、換言すれば天体を機関として活動さるる「幽之顕」神の働きは、細別すれば千万無数に|上《のぼ》るが、宇宙造化の根源に|於《おい》て確立されたる陰陽の二系の法則は、|爰《ここ》にも|厳守《げんしゅ》される。天地が初めて|剖判《ぼうはん》した時には、宇宙間は、只一個の天に対して|只《ただ》一個の大地を包含するのみである。そして天は陽にして首位を占め、地は陰にして|従位《じゅうい》を占める。|更《さら》に|此《この》大地は、無数の天体に分裂するが、要するに、これも|火系《かけい》(陽)に属するか、|水系《すいけい》(陰)に属するか、決して此二つを出ない。宇宙内部に羅列する無数の天体中で、最も顕著に火系を代表するものは太陽であり、水系を代表するものは|太陰《たいいん》である。「大本霊学」は、この天、火、水、地の|四大《しだい》を基礎とし、霊魂の研究も常に出発点を|爰《ここ》に求める。 霊魂の働きは、之を四分類し|得《う》る。即ち|奇魂《くしみたま》、|荒魂《あらみたま》、|和魂《にぎみたま》、|幸魂《さちみたま》の|四魂《しこん》である。|宇内《うだい》の|経綸《けいりん》は、|体《たい》から云えば天、火、水、地の四大配置に|係《かか》るが、用から云えば、|奇魂《くしみたま》、|荒魂《あらみたま》、|和魂《にぎみたま》、|幸魂《さちみたま》の活用に外ならぬ。霊の霊というべきは|奇魂《くしみたま》の働きで、天に配し、霊の体というべきは|荒魂《あらみたま》の働きで、火に配し、体の霊と云うべきは|和魂《にぎみたま》の働きで、水に配し、|体《たい》の|体《たい》というべきは|幸魂《さちみたま》の働きで、地に配する。|四大《しだい》と|四魂《しこん》とは、結局、宇宙内部の経綸を、物質と精神との二方面から観察したものに外ならない。 天を代表するものは|奇魂《くしみたま》であるが、これは|和魂《にぎみたま》が|其《その》活動の中枢を代表するということで、無論その中には、他の三魂も具備されて居る。割合から云えば、和魂四分五厘、奇魂二分五厘、荒魂、幸魂|各々《おのおの》一分五厘位の見当である。他の火、水、地等に於ても同様である。即ち天の中に四魂を配し、火にも水にも地にも、各々四魂を配すれば、十六種の配合を|得《うる》。更に其十六種の各魂に、|復《ま》た四魂を配すれば、六十四種となり、更に之を|繰《く》り返せば二百六十種となり、更に幾度も之を重ぬれば、六万五千五百三十六種ともなる。霊魂の活用は、|斯《か》くの如く複雑で|且《か》つ微妙であるから、推理分析等にたよって見ても、容易に|其《その》根底まで|究《きわ》め得ない。例えば天体から放射する光線や温熱にも、必らず神意の発動があるに相違ないが、現在の科学の程度では、|殆《ほと》んど|之《これ》を捕うるに|由《よし》なしである。古来行われた|星卜術《せいぼくじゅつ》などは、幾分此間の機微を|覗《うかが》ったものに相違ないが、茫洋不正確の|憾《うらみ》があったので、うちしか社会から葬り去られて|了《しま》った。我が大本霊学には、之を研究すべき二大分科がある。一は|言霊学《げんれいがく》で一は『神諭』である。前者は霊魂の種類、性質を声音から推究するもの、後者は霊魂の働きを、|玉《たま》の|緒《お》即ち魂線と観て|詮鑿《せんさく》するもので、|共《とも》に神聖無比の根本であるのだが、長年月に|亘《わた》りて二者共に埋没して居た。幸いなる|哉《かな》、今や|是等《これら》の二大分科は、神啓により大本教主の手で|漸次《ぜんじ》、復活大成の緒に|就《つ》きつつある。一(ママ)言霊学は、志ある者の是非とも|研鑚《けんさん》を必要とする学科であるが、これも学問と称するのは|勿体《もったい》ない性質のもので、誠心誠意の人、霊智霊覚の|優《すぐ》れたる人にして、初めて|其《その》|堂奥《どうおう》に達し得るものである。 |抑《そもそ》も「声」というは、「心の|柄《え》」の義で、心の発作の表現したものである。心と声との関係の、至妙で密接不離の関係を有する事は、吾々が日常経験することでよく|判《わか》る。喜怒哀楽の変化も、甲と乙との心の相違も、常に声音に現われる。無機物でも、|松籟《しょうらい》と|竹籟《ちくらい》とは違い、金声と銀声とは違い、三絃と太鼓とは又違う。声音即ち精神、言霊即ち神霊と見て、決して|差支《さしつかえ》がない|所以《ゆえん》である。されば天之神界の神々の御出生ということは、つまりは宇宙の言霊の大成ということになる。『古事記』三巻、其解釈法は高低深浅種々に分れて、十有二種にも達するが、最も高遠なる解釈法は、一部の言霊学書としての解釈である。|伊邪那岐《いざなぎ》、|伊邪那美《いざなみ》二神が島を生み、山川草木風雨等の神々を生むということも、そはただ表面の辞義であって、内実は五大母音の発生から、五十正音の発達を説き、更に語典、語則の網要を説明して居るので、言わば一部の言霊学教科書なのである。 言霊学より|岐美《きみ》二神の働きを解すれば、|伊邪那美《いざなみ》の|命《みこと》は鳴り鳴りて鳴り合わざる声、即ち「ア」声である。又|伊邪那岐《いざなぎ》の|命《みこと》は鳴り鳴りて鳴り余れる声、即「ウ」声である。|岐美《きみ》二神は、各々「ア」「ウ」の二声を分け持ちて、一切の声を生み出し玉うので、|苟《いやし》くも音韻学上の知識ある人は、一切の声音が此の二声を基本とすることは熟知する所である。二大基礎音が|一《ひと》たび増加して五大|母音《ぼいん》となり、|二《ふた》たび増加して五十正音となり、|三《み》たび増加して七十五音声となり、|四《よ》たび増加して無量無辺の音声となり、同時に森羅万象一切は成立する。神即ち声音、声音即ち万有、到底是等を別々に引離して考えることは出来ぬ。声音の円満清朗なるは、取りも直さず霊魂の優秀高潔ということで、一方が存在すれば必ず他方が伴うことは、形の影と離るることが出来ぬと同様である。世界の国民中、五十正音の発音者は日本人、|蒙古《もうこ》人、殊に中央部の日本人に限る。|之《これ》に反して、不純音、混合音たる鼻音、濁音、|抑音《よくおん》、|促音《そくおん》等の発音者は、支那但し(ママ)は欧米人である。 無量無辺の声音の変化は、窮極する所を知らないが、之を還源すれば、|只《ただ》一音の「ス」に帰一する。|天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》が万有を捲き収めて帰一せる絶対一元の静的状態が、即ち「ス」である。宇宙根源の「ス」は、現に差別界に生息する人間では経験する事は出来ぬが、小規模の「ス」は間断なく経験し|得《う》る。|万籟《ばんらい》声を|潜《ひそ》め、天地間、|寂《じゃく》たる境地は、|即《すなわ》ち「ス」である。安眠|静臥《せいが》、|若《もし》くは黙座鎮魂の状態も、同じく「ス」である。「ス」は即ち絶対であり、中和であり、統一であり、又潜勢力である。有にあらず、又無にもあらず、有無を超越したる一切の極元である。|統《す》べる、|皇《すべらぎ》、住む、澄む、|済《す》む等の「ス」は、|悉《ことごと》く同一根源から出発した言霊の活用である。 既に宇宙の間に|八百万《やおよろず》の神々が顕現された以上は、是非とも宇宙の|大元霊《だいげんれい》|天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》の|極仁《きょくじん》、極徳、極智、極真、極威、極神霊を代表して、|之《これ》を統一主宰する一神がなければならぬ。換言すれば、「ス」の言霊の表現神がなければならぬ。神典『古事記』には明瞭にこの間の神秘を漏して居る。三貴神の御出生の物語が、即ちそれである。|伊邪那岐《いざなぎ》命の左の御目から御出生になられたのが、|天照大御神《あまてらすおおみかみ》である。左は即ち「火垂」で、霊系を代表される。右の御目から御出生になられたのが|月読命《つきよみのみこと》である。右は即ち「水極」で、体系を代表される。御鼻を洗われる時に御出生になられたのが、|建速須佐之男命《たけはやすさのおのみこと》である。鼻は即ち顔の|正中《せいちゅう》に位し、|気息《いき》の根を司り、左右の鼻孔は、霊体二系の|何《いず》れをも|具《そな》えて居る。即ち統治の位地にある。|尚《な》お『古事記』は、例の神話的筆法で、三神の御分担御職責を一層確定的に描いて居る。天照大御神の|知《しろ》しめさるる所は|高天原《たかあまはら》であるが、大本言霊学で解釈すれば、|高天原《たかあまはら》は全大宇宙である。天之神界の統治権の所在はこれで明白である。|月読命《つきよみのみこと》の|知《しろ》しめさるる所は、夜の|食国《おすくに》であるが、夜は即ち昼の|従《じゅう》である。|何所《どこ》までも天照大御神を|扶《たす》けて宇宙の|経綸《けいりん》に当らねばならぬ御天職である。次に|須佐之男命《すさのおのみこと》の|知《しろ》しめさるる所は|海原《うなばら》である。海原とは大地である。即ち|須佐之男命《すさのおのみこと》は宇宙の中心に位し、陽と陰との天上の二神の御加護によりて、統治の大責任を果されねばならぬ御職責であるのだが、|屡々《しばしば》述ぶるが如く、従来は宇宙内部の未完成時代であるので、天之神界も|尚《なお》真の理想世界たる|能《あた》わず、地の神界の|惑乱混濁《わくらんこんだく》は、更に一層劇甚を極め、|妖気《ようき》邪気|濛々《もうもう》、闇黒時代を形成して居る。これが全部一掃せられて完全円満なる理想時代となるのは、近く開かるべき、第二の|天之岩戸開《あめのいわとびら》きの暁である。 之を以て見ても、|岩戸開《いわとびらき》と云う事が、いかに広大無辺な徹底的の大維新であるかが判るであろう。顕幽両界に|跨《またが》り、天上地上一切に|亘《わた》りての大維新である。人間の努力のみで到底出来る仕事ではない。神人一致の大活動、大努力に待たねばならぬ。従来、人間も理想世界を将来せん為めには、随分出来る限りの努力をした。宗教的又は倫理的教育の伸長、医術の改良、技術の向上、法律規約|若《もし》くは各種の条約の設定、博愛慈善事業の|推奨《すいしょう》等、数え|来《きた》れば無数に|上《のぼ》る。殊に現在、|巴里《ぱり》に|於《おい》ては、|所謂《いわゆる》世界の名士が人為的に世界を改造せんとして、半歳以上も苦心焦慮して居るが、其結果は|何《ど》うかといえば、要するに失敗の歴史に一新例を加えたに過ぎぬ。宇宙の内部は、神も人も天も地も、首尾|連関《れんかん》、同一原則で支配されて居る一大機関である事を忘れ、人間界で単独に処分解決せんとするのだから駄目だ。一般世人が、一時も早く三千年来の迷夢を|醒《さま》し、明治二十五年以来、全大宇宙革正の|衝《しょう》に当られて居る|国祖《こくそ》|国常立尊《くにとこたちのみこと》の前に頭を下げ、神政維新の大神業の完成に従事さるる事を切望する次第である。

厳瑞二霊
 天之神界の組織|経綸《けいりん》の大要を述べたから、順序として、|爰《ここ》に地之神界の組織経綸の大要を述べねばならぬ。 天之神界を組織する所の|天津神《あまつかみ》に対し、地の神界の神々を|国津神《くにつかみ》と称える。即ち|国津神《くにつかみ》は、大地の内部を舞台として活動する所の神々を|指《さ》すのである。 既に説けるが如く、最初大地は、今日の如き凝集固成した一小天体ではなく、|其《その》|太初《たいしょ》にありては天地|未《いま》だ|剖判《ぼうはん》せず、宇宙全体は天にして、同時に又、地であった。それが造化陰陽二系の神々の活動の結果、縮小して先ず大々地となり、更にそれが分裂して|八百万《やおよろず》の天体と成り、最後に宇宙の中心に現在の大地を成した。されば今|仮《か》りに、宇宙間に羅列運行する各種の天体を、八百万の酒に|譬《たと》うれば、大地は、それ等八百万の酒から絞りあげたる|酒粕《さけかす》の総集合体である。かかるが故に、容積から云えば大地は甚だ細微なものだが、この|団塊《だんかい》中には、あらゆる天体の要素を含有している。構成の順序から云えば、大地は天体中にありては最後に出来たが、|見様《みよう》によりては、完全なる大地を構成せんがために、|日月《じつげつ》|星辰《せいしん》が先ず分離したとも言える。宇宙の万有|悉《ことごと》く宇宙の縮図でないものはないが、この意義に|於《おい》て、大地は特に重要なる宇宙の縮図である。其容積の微小なのにも|係《かかわ》らず、本邦の古典を|初《はじ》め、|何処《どこ》の国の|古経典《こきょうてん》に|於《おい》ても、天と地とを対立|並称《へいしょう》する|所以《ゆえん》である。物質にのみ拘泥する偏見者流は、|其《その》形の小なるを以て、地球を軽視する傾向があるが、それは一を知って|未《いま》だ二を知らざるものである。天と地とを対立せしむるのは、決して滑稽でも不合理でもない。陽と陰、霊と体、|+《ぷらす》と|−《まいなす》とを対立せしむると同意義、同価値を有するものである。 |兎《と》に|角《かく》、大地は宇宙間にありて最重要の位置を占むる中心の統一機関で、|其中《そのなか》には、あらゆる天体の要素一切を包含して居ることは、科学の研究の結果から見ても明白である。語を|換《か》えて云えば、八百万の天津神の分霊は、|悉《ことごと》く大地に宿りて居る。それが八百万の国津神の霊魂であるのだ。天津神も八百万、国津神も八百万、そして本霊と分霊とは相呼応して、天と地との経綸を行うのである。|恰《あたか》も大小無数の歯車が|相《あい》連関して一大機関を構成するのと、何の相違はないのである。 国津神の発生は大地の凝結集成と其時を同うし、|之《これ》を経営すべき使命を帯びて発生したのであるが、其順序手続きも、人間界から観れば随分距離が遠く、自然力とか造化の働きとか云って|仕舞《しま》いたくなる。天津神々を産み成し給うたのは、「ウ」「ア」の二大言霊を受持ち給う所の|伊邪那岐《いざなぎ》、|伊邪那美《いざなみ》の二祖神であったことは既に述べたが、国津神を産み成すべき大神事を分掌し給うたのは、霊系(天)に属して高天原を主宰し給う|天照大御神《あまてらすおおみかみ》、及び体系(地)に属して地球を主宰すべき|素佐之男尊《すさのおのみこと》の二神であった。要するに、|曩《さ》きに|岐美《きみ》二神の行われたる同一神事を小規模とし、之を大地に対して行われたので、之を天然現象として言い現わせば、火と水との調和|塩梅《あんばい》により、土中から神々を発生せしめたのである。 例によりて『古事記』には、|此間《このかん》の大神事を、神話的概観の|下《もと》に面白く|描破《びょうは》してある。|天《あめ》の|八洲河《やすかわ》に於ける|璽剣《たまつるぎ》の|誓約《うけい》の段がそれである。姉神なる|天照大御神《あまてらすおおみかみ》は、先ず弟神なる|須佐之男尊《すさのおのみこと》の|佩《は》かせ給える|十拳剣《とつかのつるぎ》を|請《こ》い給いて、三段に打折り、|奴那登《ぬなと》|母々《もも》|由良《ゆら》に|天《あめ》の|真奈井《まない》に|振《ふ》り|滌《そそ》ぎ、|佐賀美《さがみ》に|賀美《かみ》て|吹棄《ふきす》てられた。すると、その|気吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》に成りませる神は三女神で、|即《すなわ》ち|多紀理姫命《たぎりひめのみこと》、|市寸島姫命《いちきしまひめのみこと》及び|田寸津姫命《たきつひめのみこと》である。次に須佐之男尊が、先ず天照大御神の左の|御髻《みみずら》に|纒《まか》せる|八尺《やさか》の|勾瓊《まがたま》を請い受けて、|気吹《いぶき》|放《はな》たれると、御出生になったのは|正勝吾勝命《まさかつあかちのみこと》であった。次に右の|御髻《おんもとどり》の|珠《たま》からは|天之菩日命《あめのほひのみこと》、|御鬘《みぐし》の珠からは|天津彦根命《あまつひこねのみこと》、左の御手の珠からは|活津彦根命《いくつひこねのみこと》、右の|御手《みて》の珠からは|熊野樟日命《くまのくすびのみこと》、|併《あわ》せて五|彦神《ひこがみ》が御出生になったのである。この物語が含蓄する神秘は実に深い。 |須佐之男尊《すさのおのみこと》は体系(陰系、水系、地系)の活動力である。この活動力を表現する|剣《つるぎ》を中枢とし、霊系(陽系、火系、男系、天系)の活動力たる|天照大御神《あまてらすおおみかみ》の御魂を以て外周を包めば、|生《うま》れたものは三女神である。それと正反対に、天照大御神の御魂(|璽《たま》)を中枢とし、須佐之男尊の御魂を以て外周を包むと、生れたものは五男神である。男性と女性との生まるる神界の秘奥は、|爰《ここ》に示されている。即ち女性の生まるる場合、陰が陽に包まれ、男性の生るる場合は、陽が陰に包まる(ママ)。陰陽一対の二神は、かくして或る時は女性を生ましめ、或る時は男性を生ましむるのである。 三女神とは即ち三つの|御魂《みたま》である。|瑞《みず》の御魂である。右の系統、水の系統で、円満美麗にして、みずみずしい御魂である。『大本神諭』に「|変性女子《へんじょうにょし》の|御魂《みたま》」とあるのは|之《これ》を|指《さ》すので、要するに外姿は男性なれども、その内性が女性であることを|謂《い》うのである。又五男神とは、即ち五つの御霊である|厳之御魂《いづのみたま》である。左の系統、火の系統で、|稜威《いずいず》しき御魂である。『大本神諭』に「|変性男子《へんじょうなんし》の御魂」とあるのがそれで、要するに外姿は女性なれど、その内性は男性であることを謂うのである。二者|各々《おのおの》|其《その》特徴があるが、|変性女子《へんじょうにょし》のみでも不完全、又|変性男子《へんじょうなんし》のみでも一方に偏する。両者を合一して、初めて長短得失|相補《あいおぎな》うて完全なものとなる。|是《これ》が即ち|伊都能売御魂《いづのめのみたま》である。地の神界の|経綸《けいりん》も其根本に|於《おい》て、|変性女神《へんじょうにょしん》たる須佐之男尊と、|変性男神《へんじょうなんしん》たる天照大御神の|誓約《うけい》に基いて出来た。人界の経綸も矢張り同一組織で遂行さるるので、現に|大本《おおもと》も、|厳《いづ》の御魂と|瑞《みづ》の御魂との結合によりて、始めて基礎が|出来《でき》、活動が出来ることになっている。人倫の|大本《おおもと》たる夫婦の関係も同様である。|厳《げん》と|瑞《ずい》との霊的|因縁《いんねん》ある二個の肉体が合一して、初めて其天職を完全に遂行し|得《う》る。

大正十四年三月二十九日  成瀬勝勇  謹写

(終わり)


-------------------------------------------------------底本 『出口王仁三郎著作集 第一巻 神と人間』読売新聞社、1972年2012年8月15日作成王仁三郎ドット・ジェイピー(飯塚弘明)http://onido.onisavulo.jp/oni_do@ybb.ne.jp-------------------------------------------------------