霊界物語発表九十周年記念企画 大本事件を起こしたのは誰か、 そしてなぜか(一) 大阪中央分苑 出口 恒

 

『霊界物語』は、大正十年十月八日(旧九月八日)「明治三十一年の如月に神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ」という神命によって、十月十八日から出口王仁三郎聖師により口述が開始されることになりました。 私は、大正十年は第一次大本教事件の勃発した年であり、今年二千十一年が『霊界物語』口述と同様、九十周年となることから、第一次大本教事件を本当に起こしたのは『霊界物語』上、誰なのか、そしてそれは真実なのか調査を進めていました。 ところが、四国にご在住の山本氏が、出口和明、禮子の著書や連載をもとにしながら、さらに『霊界物語』からこのテーマについて優れた鋭い切り込みをなされていることがわかり、その文を拝見させていただきました。 山本氏より、「文章の料理については全面的にお任せします。すべて貴方の文章として書き直してください」というお話でしたので、書き進めた結果、大巾に内容を追加し、また私の見解に変更させていただきました。その旨、山本氏のご了解を得ております。執筆者は併記とさせていただきます。私は後日、『霊界物語』の記述をもとに、この問題についてさらなる分析を加えたいと思います。したがって、本文中に私とは出口を指します (出口恒)。                 検察により免訴に追い込まれた第一次大本事件 第一次大本事件とは、大正十年二月十一日に始まる当局の出口王仁三郎聖師への逮捕指示に端を発し、大本が不敬罪、及び新聞紙法違反で起訴された事件である。当時、大阪梅田の大正日々新聞社に起居していた出口王仁三郎聖師は、逮捕状も示さず同行を求める刑事に対して、新聞社の当直の者に「ちょっと行って来る。誰もこなくていい」と言い残して新聞社を後にした。 今日でもオウム真理教の事件においては、裁判での判決が確定する以前に、同教の教団施設が徹底的に破壊された。その、判決が確定する前の破壊の魁けとなったのが、大本弾圧事件であり、この弾圧が国家権力の一つの意図によって進められた為に、その破壊のすさまじさは宗教史に類をみない弾圧であった。また、情報操作された報道によって大本教は邪教とのイメージ作りも苛烈であった。この事件については出口栄二氏の「大本教事件」や出口和明氏の「第三次大本事件の真相」及び大本教団の公式史書「大本七十年史」に詳細に述べられているので事件の経過については割愛するが、第一次大本事件による大本の弾圧は、当時の原敬内閣によって行われたことは記憶しておいていただきたい。 この裁判の結果は無罪ではない。一審でも二審においても有罪であり、大審院では王仁三郎の精神鑑定を行わず、事実証拠を示さず下した判決に誤謬があるとして、原判決を破棄し、再度、大審院自身の手で再審理をすることが決定された。しかし、昭和二年五月十七日の公判で、矢追検事が「本件はすみやかに大赦令よって免訴の判決をなすべきもの」と主張したことにより、王仁三郎に免訴の判決が下された。 前年十二月に大正天皇の逝去による大赦令が適用された。この判決が第三次大本事件への種を残したと多くの先輩達は種々の資料や文献で触れている。
大本事件がなぜ起こったのか さて、この大本事件がなぜおこったのか、誰の意向で実行されたのか。諸先輩は、出口直開祖のお筆先に示された「立替え立直し」思想に見られる現状社会体制への批判や、王仁三郎聖師の、天津日嗣天皇に関する著述や暗号が(当時の強大な天皇制下においては天皇に仮託して自己の主張をのべる以外には発言の道がなかったのではあるが)、大本教弾圧に繋がったのではないか推測する。神道を国教化し、富国強兵を国策とし、東アジアへの領土的野心を露わにし、王政復古後の天皇制権力の増大を謀る為政者に対し、大正日々新聞等を用いてキャンペーンする大本は政府にとって好ましい存在では無かった筈。 しかも、当時、日露戦争の帰趨を決した日本海海戦で、勇名をはせた秋山真之海軍少将(当時)(図一)の綾部入りなど、陸海軍の幹部軍人の大本への関心が高まり、内務省としては看過できなかったことも見受けられる。更に神道国教体制に順応した仏教界や神社界にとっても大本の急速な進出は苦々しい事であり、各地で大本排撃運動も実施された記録がある。 当時の資料には、事件に関係した人物として、平沼検事総長の名前や内務省警保局長川村竹治、司法省豊島刑事局長、京都府警察部長藤沼庄平、内務大臣床次竹二郎などの名前も見られるが、これらの関係者は総て弾圧の直接実行部隊であって、彼らを動かしたもっと大物がかげで糸を操っていたのではなかろうか。この事件の結末がいかにも曖昧で、検事側から免訴が弁論されている。弾圧を実行した検事側の方からタオルをリングへ投げ入れて休戦へ持ち込んでいる、そこに謎はないのか。 この事件で綾部本宮山の神殿が破壊された大正十年十月十八日、王仁三郎聖師は『霊界物語』の口述を始められた(図二)が、この『霊界物語』のなかで王仁三郎聖師は先の疑問を解く明快なメッセージを示されていた。第一次大本弾圧を企画したのは山縣有朋で、原敬が司法省と内務省に命令した「応対盗」『霊界物語』第五十二巻二十四章 白い色の守衛は、大勢の者を一々手まねきした。まず第一に招かれて近よったのは、八十ばかりの、杖をついた老爺である。「その方は何という名だ」「ハイ、敬助と申します」「どこか具合が悪いか、チッと顔色が悪いじゃないか」「なんだか、ステイシヨン〈東京駅〉のような所へ行っておったと思えば、私の胸に行きあたったものがある。その際に、はっと思ったと思えば、いつの間にか、かような所へやって来ました」「年齢はいくつだ」「ハイ、六十才〈実際には萬六五歳〉でございます」「あまり頭が白いので、八十ばかりに見えた。お前は余ほどハラ(図三)の悪い男だなァ、エルサレムの宮(図四)〈綾部の神殿〉を部下の奴に命じて叩きつぶしたのはその方だろう」「いえめっそうな、決して私じゃありませぬ。片山君が命令をいたしましたので、その命令を聞かねば、……とうてい、ド口棒会社の社長がつとまりませぬのでやむを得ず、部下に命令をいたしました。決して主犯ではございませぬ」「そうするとお前は従犯だな。ヨシヨシこいつア容易に俺の手には合わぬ。伊吹戸主の神さまに、厳格なる審判をお願いするであろう、サ、この門を通れ」と、白の守衛は門内へつき入れてしまった。しらがのオヤジヒョロヒョロしながら、屠所の羊のようにあゆみ行く。あとには、ほそ長い六十くらいな男〈実際には萬八十三歳〉が白の審判を受けている。「その方は何者だ、ネームを名のれ」「ハイ、私は片山狂介と申します」「なる程、ずい分軍閥でバリついたものだな。お前のために、いく万の精霊を幽界へ送ったか分からぬ。幽界にては大変に名高い男だ。これも、ここでさばく訳にはゆかぬ。サァ、奥へ行けッ」と又も門内へおし込んだ。次にやって来たオヤジは鉄の杖〈鉄道を杖に例えた?〉をついている。「その方は、高田悪次郎〈萬八十二歳〉ではないか」「ハイ、私は表善裏悪の張本人、世界一の富豪になろうと思うてずい分苦労いたしました。しかしながら、不慮の災難によって、かような所へまよい込み、まことに面目次第もございませぬ」「その杖は鉄じゃないか、さようなものを、なぜ、こんな所まで持ってくるか」「これは鬼にかな棒〈金融の棒か〉と申しまして、現界におる時から鬼の役をつとめておりました。このかな棒をもって、すべての銀行をたたきこわし、みな一つに集めて巨万の富をつんだゆい一の武器でございますから、こればかりは、どこでも放すことは出来ませぬ」(大正十二年二月十日、旧十一年十二月二十五日 松村真澄録) この場面は死後の精霊が審判を受けるために、八街の関門に到着した場面である。登場する三人の精霊は「敬助」、「片山狂介」、「高田悪次郎」と名乗っている、敬助の独白の中に物語るドロ棒会社について、やや時代が下がるが、かつて陸軍の天才といわれた石原莞爾が昭和二十一年冬、東京裁判の尋問の為に訪れたアメリカ人の検事に対して次の様な事を語っている。 「我々は徳川幕府のむかしから鎖国主義で満州も台湾も不要だったのに、アメリカからペリーが黒船に乗ってやってきて、大砲でおどかして門戸開放を迫り、日本を世界の荒波のなかに押し出し、自らの侵略の手本を示した。こうなってくると、日本としても何とか生きる方法を考えねばならず、外国を先生として、泥棒的侵略を習い覚えたのだ」 『霊界物語』五十二巻二十四章が口述されたのは大正十二年二月十日である。日本が帝国主義を振りかざし、朝鮮を併合し、満州への野望を果たし、中国の利権を求め絶望的な戦争への道を突き進んだ姿を、石原は泥棒的侵略と表現したが、その二十数年前に聖師様はこの国の姿をド口棒会社と表現されている。 伊藤博文等による明治維新の時の国盗り物語を含めて指すのならそのとおりと思う。それ以降の戦争への突入は、独立を維持する自衛の意味も含めて歴史の必然から避けがたい要素があったのも事実。タイとチベット以外アジア諸国はほとんど植民地状態であった しかし領土的野心が為政者のすべてにまったくなかったとも私には思えない……。
三人の亡者の身元調べ 「白に審判を受けている」という文面があるが、守衛は警察と検事、一審の判事のような役割があるのだろう。少なくとも弁護士は八街にはいそうもない。 それでは三人の亡者の身元調べに入りたい。 まず敬助さんは第二十七章で姓名が「大原敬助」となっている、「大」と、「助」を除くと「原敬」となる。つまり第一次大本事件勃発当時の内閣総理大臣である。ステイシヨンで胸になにかが当たったと喋っているが、原敬は大正十年十一月四日、東京駅で中岡艮一に胸を刺されて死亡している。正にドロ棒会社の社長 内閣総理大臣であったわけである。 次に「片山狂介」さんは、「片」と「山」をひっくり返すと「山片」となる、つまり「山縣」である。山縣有朋(図五)は「元老中の元老」、「日本軍閥の祖」の異名をとった、明治維新の時に伊藤博文とならび低い身分から栄達を遂げた代表的人物である。 元帥陸軍大将 山縣有朋は沢山の幼名があるが、その一つに「狂介」がある。軍閥でバリつき、いく万の精霊を幽界へ送ったとある。「ばりつく」とは、「はぶりよく振る舞う」という意味。山縣有朋は戊辰戦争から臼清・日露の戦争で、戦争遂行の先頭に立った長州出身の軍人政治家である。大正十一年二月一日に死亡している。 三人目の高田悪次郎は鉄の杖を持ち、銀行を次々に支配して、世界一の富豪になろうとしたとあるが、「不慮の事故にあった」といっている。安田財閥の創始者安田善次郎は大正十年九月二十八日、朝日平吾なる刺客に襲われ刺殺されている。善次郎は東大の安田講堂に名を残すような慈善事業も行ったが、極貧から身を起こし富豪となっただけに弱小銀行の買収や、浅野セメントと組んで現在の京浜工業地帯の用地造成等大開発を手がけて名を成したもの。大正の三大ケチともいわれた程の吝嗇家だった。高値安値の世界で生きた人だから「安」を「高」に、「善」を「悪」に替えたのであろう、高田悪次郎とは安田善次郎のこととなる。一九〇四年の日露戦争(図六)に勝利した日本政府が南満洲に利権を獲得し、旅順、大連を中心とする遼東半島南部の租借権をロシアから引き継いだ。ここに関東州をつくり、精鋭の関東軍を投入していった。長春から旅順にいたる南満洲鉄道は日本の支配下に置かれていた。 一九〇六年七月十三日、安田善次郎は南満州鉄道株式会社設立委員を命じられ、同年同社が設立される。二億円の鉄棒とは二億円の手形 さて、『霊界物語』五二巻二四章「応対盗」の続きをみよう。 「この鉄棒〈鉄道。ドロ棒をする手段としての鉄の棒かも。戦(一九三)・地獄(二五九)への道を開く鉄道か〉はこちらに預かる。サア、キリキリ渡して行け」 「滅相もない、命より大切な鉄棒、どうしてこれが渡されましょうかい」 「お前がこれを持っていると、伊吹戸主の審判に会うた時は、キツと地獄の底へ堕ちるぞよ。それでここで渡して行けと言うのだ。そうすると八街の世界へおいてもらうようになるかも知れぬから」 「滅相もないことおつしゃいませ。そんな甘いことを言って、泥棒しようと思ってもその手には乗りませぬぞ。この鉄棒はこうみえても二億円の価値があるのです。この鉄の棒から生み出した二億円、言わばこの棒は二億円の手形のようなものだ。何時地獄へやられても、これさえあれば大丈夫だ。地獄の沙汰も金次第、如何なる鬼も閻魔〈伊吹土主か〉もこれにてたちまちやっつけてしまい、地獄界の王者となる重宝な宝だ。何と言ってもこればかりは渡しませぬから諦めて下さい」 かかる所へ、赤面の守衛がやって来た。 「ヤア、お前は高田悪次郎じゃな。よい所へ出てうせた。サア、奥へ来い、その鉄棒は門内へ一歩も持込むことは罷りならぬぞ」 「ハハハハハ、冥土の八街か何か知らぬが、体のよい泥棒が徘徊するとこだワイ。これは高田が唯一の武器だ。誰が何と申しても放しは致さぬ、放せるなら放してみい。いかなる権力も神力も金の前には屈服致さねばなるまいぞ」 「馬鹿者だなア。霊界において、物質上の宝がいるものか。金が覇を利かすのは、暗黒なる現界においてのみだ」 「それでも、地獄の沙汰も金次第というじゃありませぬか」 「金を以て左右致すのは、いわゆる地獄のやり方だ」 「それ御覧、いずれ私のような者は天国へ行ける気遣いはない。生前より地獄行と覚悟はしていたのだ。それだから、地獄へ行けば金の必要がある、何と言ってもこれは放しませぬワイ」 「そうすると、貴様は天国よりも地獄がいいのだな」 「そうですとも、地獄の方が人間も沢山いるだろうし、金さへあれば覇が利くのだから、どうか地獄へやって貰いたいものです。何程地獄だって、二億円の金さへあれば何でもできますからな」 「そういう不心得な奴に、金を持たして地獄へやる事は罷り成らぬ。ここにおいて行け」 「何と言っても、此奴ばかりは放しませぬよ」 「しからば、この方の力で放してみせよう」 「ウン」と一声霊縛をかけるや否や、高田の手は痺れて、鉄の棒はガラリと地上に落ちた。たちまち高田の手を後へまわし、「この応対盗人奴」と言ひながら、サル括りにし、ポンと尻をけって門内へ投げ込んだ。高姫は群衆の中から伸び上って、ニコニコしながらこの光景を眺めていた。……(引用終了)
安田善次郎がお膳立てをした南満州鉄道 謎解きをしましょう。この章のタイトルは「応対盗」。盗人だが、どうどうと受答えするドロ棒と私は解釈した。安田善次郎は、かな棒ですべての銀行をたたきこわし、みな一つに集めて巨万の富を積んだ安田財閥〈日本最大の金融財閥だった〉の創業者。かな棒とは、「金融ドロ棒」の略であろう。鉄棒とは「鉄道ドロ棒」の略と考える。 「その杖は鉄じゃないか、さようなものを、なぜ、こんな所まで持ってくるか」 「これは鬼にかな棒〈金融の棒か〉と申しまして、現界におる時から鬼の役をつとめておりました。このかな棒をもって、すべての銀行をたたきこわし、みな一つに集めて巨万の富をつんだ唯一の武器でございますから、こればかりは、どこでも放すことは出来ませぬ」 安田財閥を起こす安田善次郎の特筆すべき事業は現在のみずほフィナンシャルグループのもととなった金融の他に鉄道の敷設である。京浜急行、阪神電鉄など、安田がその一部でも関わった鉄道事業を数えると、二十四鉄道にも及び、また海外では、南満州鉄道への参画があったのではないか。 戦前に日本が中国へ進出した頃に、米国の鉄道を範にとった同鉄道があった。そこで走る特急アジア号は、中国大陸を最高時速一二〇キロで走り、列車はエアコン完備で、日本では実現できないハイレベルの会社だった。この南満州鉄道は、安田善次郎が明治期に中国大陸を二度視察して大蔵省に提出した報告書、「満州経営に関する意見書」がその設立に大きな影響を与えたと言う。 同株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄道提理部を母体に、日本政府が一九〇六年に設立した半官半民の特殊会社であり、日露戦争(一九〇四年ー一九〇五年)の勝利によるポーツマス条約の結果、ロシア帝国から譲り渡された東清鉄道の南満州支線・長春ー大連間の鉄道施設・付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設された軽便鉄道の安奉線(安東(現・丹東)ー 奉天(現・瀋陽)間)とその付属地の経営が当初の設置目的であった。当初はアメリカの実業家のエドワード・ヘンリー・ハリマンが資本参入し、桂・ハリマン協定により日米共同経営が予定されていたが、外務大臣の小村寿太郎が反対し、日本単独資本となった。
二億円とは南満州鉄道の資本金だった! そのドロ棒した鉄道の運営のために南満州鉄道株式会社が設立され、その設立委員が安田善次郎だった。そして「二億円」とは、一九〇六年、同鉄道株式会社設立時の資本金の金額である。満州の鉄道路線は図七の通り。 一八九一年、ロシアは軍港ウラジオストックと中央を連結させるため、シベリア鉄道の建設を開始した。極東地域では、清国との国境、黒竜江に沿って建設されていたが、距離短縮のため北満州を横切る事が求められ、建設されたのが一八九六年に三国干渉の見返りに清国から敷設権を獲得した東清鉄道だった。もし極東のヴラディ(征服)ヴォストーク(東)まで完成すれば、ロシア軍はぞくぞくと極東に送られるのは自明。ヴラディヴォストーク、旅順という軍港への補給路が確立されれば、ロシア艦隊による日本封鎖も可能になるから、日本はシベリア鉄道が全通する前に日露開戦をする必要に迫られた。半年後にはシベリア鉄道の全線開通がなされる…… 西暦一九三一年(皇紀二五九一年)九月十八日、それぞれ戦のはじめ、地獄のはじめとされる年、満州事変は勃発した。そして西暦一九三七(皇紀二五九七年)七月七日、世界の立替の初めとなる盧溝橋事件が中国共産党の謀略により勃発した。
地獄行きを命じられた三人と、地獄への道を進んだ神国日本 安田善次郎〈高田悪次郎〉は、二億円の鉄の棒を放さず、地獄への道を選んだ。南満州鉄道は、張作霖爆殺事件の舞台となり、同鉄道の爆破が戦と地獄のはじめの満州事変につながった。ただし張作霖爆殺事件は、スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだとソ連情報機関の資料から明らかになっている(ユン・チアン「マオ 誰も知らなかった毛沢東」)。
片山君が命令いたしましたので、その命令を聞かねば 『霊界物語』に戻ってみよう。「エルサレムの宮を、部下の奴に命じて叩きつぶしたのはその方だろう」と守衛が敬助に尋ねているが、エルサレムとは聖地のこと、つまり陸の竜宮なる綾部。綾部の宮とは本宮山の神殿。第一次大本事件では竣成して間もない本宮山の神殿が徹底的に破壊された、この破壊命令を敬助、つまり「原敬が部下に命じて実行させた」と尋問されている。すると「イエめっそうな、決して私じゃありませぬ。片山君が命令をいたしましたので、その命令を聞かねば……ドロ棒会社の社長がつとまりませぬので、やむを得ず、部下に命令をいたしました。決して主犯ではございませぬ」と敬助は弁解している。 片山君とは山縣有朋のことであるから、山縣がこの第一次大本弾圧を原敬に命令し、その命令を聞かなければ、ドロ棒会社の社長、つまり日本国の総理大臣が務まらぬとあり、第一次大本教事件の主犯は山縣有朋であると『霊界物語』には明確に記されている。原敬が、総理大臣の座を守るにはなぜ山縣の命令に従う必要があったのか。 原敬の身元調べ 原敬(一八五六~一九二一)は岩手県盛岡市出身、祖父は家老の家柄だったが、戊辰戦争で盛岡藩が賊軍となったため十六才で東京へ遊学、天主教の牧師の家に学僕(住み込みの下男奉公)、として住み込み奉公をして、フランス語を習得。二十八才で陸奥宗光の知遇を得て外務官僚になる。パリ在勤中、フリーメーソンともされる西園寺公望の知遇を得る。四十五才逓信大臣(伊藤博文内閣)、五十一才政友会総裁。六十二才内閣総理大臣。六十五才、現職総理の時、東京駅にて中岡艮一に刺殺される。中岡艮一の名前には「艮」の一字。 中岡艮一に原敬を殺させた張本人は東海散士こと柴四朗。暗殺理由は「恨み骨髄の薩長藩閥の頭目、山縣有朋にすり寄って権勢を求める不届きな原敬の懲罰」だとしている(長文連『原首相暗殺の真相』(三一書房) 参照)。 この間、大阪毎日新聞社長、北浜銀行頭取、古河鉱業副社長などを歴任する。以上の経歴から平民宰相として人気が高かった原敬だが、彼自身は平民ではなく士族の出身で、維新の元勲に巧みに取り入り、知遇を得つつ、筆の力に頼ったり、官僚として官界に勢力を伸ばし、さらに金融家や富国強兵のシンボル的存在である古河鉱業にも関与している。  薩長の力のバランスの上に絶妙に政界・官界・財界を遊泳したと見られる。本人は清廉な人物とされているが、権力の中枢に至ると、周辺では満鉄疑獄事件、阿片事件、東京市電疑獄事件など次々と腐敗事件が発生している。満鉄疑獄事件とは、炭坑や汽船を高額で満鉄に売りつけ、代金を政友会の選挙資金に充てた事件である。なお満鉄幹部のポストは政党の利権の対象となり、原敬は政友会の幹部を満鉄の総裁や副総裁に送り込んでいる。
原敬に米国フリーメーソンの資金 なお、ヤコブ・モルガンという人は、その著『誰も書かなかった昭和史』第一企画出版の中で、気になる文を記している。……不思議な事に岩手県や仙台市にはユダヤの工作人が異常に多い。一つには岩手県薄衣村周辺に米国ユダヤ・フリーメーソンの流れを汲む佐藤と言う帰国者がおり、その多大な影響があるものとみえる。岩手人脈には、原敬や齋藤實、米内光政、東條英機等歴代のフリーメーソン系首相が輩出されている。原敬には米國ユダヤからの資金が注ぎ込まれていた…… ……そう考えると、原敬が実現した「普通選挙」は、フリーメーソンの標語、「自由・平等・博愛」の実践なのか。『霊界物語』余白歌は、次となっている。 千二百六十日の間 月汚す 六百六十六匹のけもの 『霊界物語』三六巻、十五章 〈六百六十六匹は、弥勒となるので三六巻、月は十五夜なので十五章を暗示。〉……バイブルに六百六十六の獣と言う言葉があるが、それは三六様に抵抗すると言う事である。○○○○の如きがそれである。もしその通りになったならば宗教は滅びる。宗教が滅ぶれば反乱が起きる。六といふ字は神と人とが開くと言う字なので、即ち、ゝはカミ、一はヒト、八は開くと言う事である『水鏡』  聖師第一回入獄の大正十年二月十二日より、入蒙を経て門司へ帰着。第二回入獄の前日、大正十三年七月二十六日までの日数千二百六十日 (ユダヤ式に一カ月三十日の計算で四十二カ月。前記ヨハネ黙示録、十一・十二・十三章参照)。その間、大本と出口王仁三郎は、世間の悪罵・嘲笑にさらされ続けた。
原敬と山縣有朋、安田善次郎 しかし、政治手法については原敬は常に山縣の対極にあり、特に軍拡派の山縣と軍縮派の原敬は予算編成上あらゆる権謀術策を駆使して争っている。原敬は当時としてまだ不成熟な政党の、弱い基盤をバックにしていたため、争いながらも山縣に相当気を使い機嫌を取ったようで、これが原敬が山縣の命令を聞かざるをえない理由であった。山縣をフリーメーソン系首相とみる人もいる。山縣はまた、原敬の若さと斬新な政治手法を認めながら、自らの権益は決して手放そうとしなかった。従って山縣の要求に対して原敬は自分や、政友会に不利益を及ぼさない範囲においては、協力の姿勢を取ったことは当時の両者の立場から明らかである。 山縣有朋(一八三八~一九二二)通称 狂介 他、父は萩藩元、安政五年(一八五八)六月、二十一才の時、伊藤博文ら五名と京都へ、それ以降は尊皇攘夷運動に参画する。同年十月松下村塾に入門。文久三年(一八六三)、奇兵隊に拳加。元治元年英米仏蘭四国連合艦隊との交戦(下関砲撃事件)で負傷して攘夷論から開国論に転じた。明治二年(一八六九)渡欧、帰国した後、大村益次郎没後は明治新政府の軍最高首脳となる。明治十八年内務大臣(伊藤博文内閣)、明治二十二年第一次山縣内閣発足、明治三十一年再び首相、同年元帥となる。大正十年宮中某重大事件の政争で皇太子妃婚約解消論に敗れ小田原に隠遁、大正十一年死去。以上が山縣有朋の経歴である。 安田善次郎と山縣有朋の初会は、矢野文雄『安田善次郎伝』安田保善社 大正十四年四月二十八日発行に掲載されている。明治二十七年八月一日に、大阪より下関へ向けての船に、朝鮮出陣のため、山口県人 山縣有朋が乗り合わせるが、そこに乗船していたのが安田善次郎である。そのとき安田善次郎は、持ち合わせの単衣物一枚、帯一本、名刺を山縣に渡し、はなむけとする。山縣が伯爵になったときも二人は懇意にしている。
宮中某重大事件が大本教弾圧事件のひとつの要因 大正九年から十年にかけて宮中某重大事件として、皇太子迪宮裕仁親王 (後の昭和天皇)(図八)の妃に内定していた久邇宮良子女王(図九)が、母方の島津家に由来する色盲の血統を受けているとの話をめぐって、天皇家の神聖を守るために婚約を破棄すべしとする元老山県有朋を中心とする長州閥と、当時、内務大臣の薩摩出身の松方正義が対立し、問題が大きくなった。久邇宮家には鶴殿親子の姉、好子が嫁いでおり、久邇宮家から親子経由で聖師様に相談があったのは頷ける。聖師様を心酔する頭山満、内田良平達も松方側に付き、山県攻撃の論陣を張った。実は原敬は皇太子妃内定取り消しに内々同意していたので、この事件に関しては山縣と原敬が一腹であった。これについては、木庭次守氏の談話が残っている。〈色盲事件の時、久邇宮家から頼まれて、鶴殿親子さんが聖師さまのところに判断を求めにきました。後年、聖師さまは「わしが支持したからできたんや」といわれました〉。 大正十年二月十日、当時の中村宮内大臣が決定を正式発表して、良子が皇太子妃と確定したが、この政争に惨敗した山縣は政界引退に追い込まれて、急激に影響力を失う。 病気の大正天皇に代わって実質的に皇室を動かしている貞明皇后、久邇宮家、そして皇太子裕仁親王当人の意思から、婚約辞退は破棄され、そのまま内定した形となった。 また王仁三郎聖師の霊力に頼ってきたのはもう一人、久邇宮家の宮務監督で、良子姫の養育にあたった、山田春三である。「極秘で色盲の当否を見抜いてほしい」という依頼があり、王仁三郎が「大丈夫」と答えたので、山田は勇気百倍してご成婚問題に奔走した。大本教信者山田春三(一八四六年~一九二一年)は日本の内務官僚・政治家。四県の県知事歴任、宮中顧問官、貴族院議員。なぜか大正十年になくなっている。 第二次大本事件は御前会議で決まった 後の昭和天皇裕仁と良子の結婚を出口王仁三郎聖師は実現させたが、その出口聖師の配慮にも関わらず、第二次大本教事件に際し昭和天皇裕仁の前で行われた御前会議が大本弾圧事件を決めた……。大本検挙は○○会議を開いてやったのである(昭和十九年七月二十九日)「大本検挙」『新月の光』。 この背後に、天皇の遺志を超えるもっと抗いがたい存在がいた……。 そして山縣有朋が命じ、原敬が実行した大正十年二月十一日に発令された大本弾圧事件で、出口王仁三郎聖師は検挙され、同年同日、時を同じくして山縣有朋は失脚した。 山縣による皇室への干渉は、大正五年以前になされていた。李王世子である李垠と、同じく昭和天皇のお妃候補であった梨本宮方子(後の李方子)(図十)の婚約発表が大正五年八月であったからである。 方子が自らの婚約を知ったのは、避暑のため梨本宮家大磯別邸に滞在していた大正五年八月三日の早朝であり、手元にあった新聞を何気なく開いた際で、大変ショックを受けたという。二人の結婚は、日韓併合後のいわゆる「内鮮一体」を目的とする政略結婚であり、山縣有朋による策略説もあるとされているが、私には、霊界物語の「情約〈条約〉締結」のキーワードのある章のどこかに、これら政略結婚の話が塗り込められているはずと考えている。 では、皇太子妃選考において、他の候補者とは誰だったのか。文藝春秋の記載によると、同選考では、先述の梨本宮方子姫と、一條家の朝子姫、久邇宮良子姫の三人が候補に挙がった。このとき、山縣有朋が、方子姫は子が産めない体(実際には後に二子が生まれる)、良子姫は色盲の系統と主張し、朝子姫を強硬に押し、「宮中某重大事件」となったといわれている。結局良子姫が皇太子妃となり、方子姫は李垠王世子と、朝子姫は伏見宮の王との婚姻が決まった。世子とは世継で、李子朝鮮の跡継ぎということ。宮中某重大事件とは、初期においては、日韓の皇室に及ぶ重大事件だった。 有朋は出口王仁三郎聖師の「良子の色盲の遺伝はない」との具申が決定打となって、宮中某重大事件で失脚し、それと機を一にして、大本教弾圧を原敬に命じた。 この事件により山県は元老を辞することを表明したが留意され、翌年に失意のまま没した。またこの事件で当時首相であった原敬は山縣側についており、原敬暗殺事件の遠因の一つであるとも言われている。山縣有朋には、大本弾圧事件で聖師を収監する大きな動機があった。 さて、『霊界物語』に登場するもう一人の人物、高田悪次郎〈安田善次郎〉は聖師がこの場面で登場させている以上、何らかの関係があると考えられる。右翼 朝日平吾に暗殺された安田善次郎 前二人と同様にその経歴を調べてみた。安田善次郎(一八三八~一九二一)(図十一)、天保六年越中富山に生まれた善次郎は二十歳で江戸へ出て問屋奉公、この時、彼の懐にはわずか二分と八百文しかなかった。六年後、奉公中の蓄財二十五両を元手に、江戸日本橋人形町に海産物商を兼ねた両替商(銀行業)を開いた。安田財閥の基になる安田屋(後の安田商店)の誕生。その間、時代は桜田門外の変・生麦事件・皇女和宮の将軍家茂への降嫁・新撰組の誕生と幕末の激動期へ突入する。一代で安田財閥を築きながら金融界では天下の三ケチの一人といわれた大倉財閥の創始者大倉喜八郎は、安田を評して「慈善事業への出資はなく、金を握ったら離さない男だ」と述べ、一般の評判も「金持ちなのに、ケチだ」といわれていたという。 安田は明治三十二年、浅野セメントの社長浅野総一郎と共同で「東京湾築港計画」を政府に申請した。大森海岸から品川にいたる海岸を造成して一万トン級の船舶の接岸を可能にしようというもので、後の京浜工業地帯発展の原点である。この工事は大正二年から昭和七年まで継続して行われたが、明治三十三年、伊藤博文内閣の時、原敬は逓信大臣に就任、さらに原敬が内務大臣になったのは正に大正二年であり、国家的プロジェクト「東京湾築港計画」を進める安田と原敬が無関係ではなかった。 安田は朝日平吾なる右翼の刺客に暗殺されたが、朝日は内田良平及び北一輝宛に次のような遺書を残している。「君側の奸が富と結託して不正を働いために、愛国心は滅び、悪思想がひろがった。ために奸富を葬り、既成政党を粉砕し、顕官貴族を葬り、普通選挙などの改革をすすめるために、まず奸富に一人一殺の天誅を加えよと警めるものなり」。安田は君側につながる奸富の一人として刺殺された。山縣有期はなぜ、大本潰しを原敬に命じたか 伊藤が明治維新の争乱の中で、下級武士の身分でありながら何を為し、何かを為さないで明治の元勲に成り得たのか、つまり山縣は常に伊藤の下で同じ軌道を走っていたのではないだろうか。 伊藤博文は一八四一年(天保十二年)、周防国(今の山口県)熊毛郡に生まれた。家が貧しかったので十二才で若党奉公〈武士の従者、戦闘に参加するが馬に乗る資格のない軽輩〉に出ている。十六才で松下村塾に入り吉田松陰の教えを受けて、下忍から中忍〈佐官級の忍者〉に昇進。松陰から「玉」大室寅之祐の守り役を命ぜられている。 一八六二年(文久二年)、高杉晋作と共に英国公使館を焼き討ち、この年十二月、山尾庸三と一味して国学者・塙次郎を斬殺している。翌年井上馨、野村弥吉などと英国へ密留学、この年ようやく士分に取り立てられた。この時、伊藤は二十二才であった。つまり、長州忍者の実行部隊として、その手は血に汚れ、裏切りや謀略に明け暮れていたのである。 一九〇九年(明治四十二年)十月二十六日、ハルピン駅頭で朝鮮人・安重根〈木+艮〉に暗殺されるまで、武闘派として政治の世界でも若き日の体験が彼の一生に刷り込まれていたと考えられる。余談ながら、伊藤博文も、原敬も共に駅頭で、ともに艮の金神様にゆかりの艮の文字を名前に持つ人物に殺害されている。誠に不思議な一致と考えられる。
欧州と日本の黒手組組織 そもそも長州には黒手組なる秘密組織が存在したという。現代風に表現すれば諜報機関とでもいえようが、彼らは血判をする代わりに、墨を塗った掌で手形をおして盟約をしたために、黒手組といわれた。なお黒手組とは、普通セルビアの民族主義者により、今から百年前の一九十一年に結成された秘密組織・テロ組織を普通指す。日本語では「黒い手」「ブラックハンド」。 一九一四年のサラエボにおいてオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公を暗殺したサラエボ事件に関与したとされる。サラエボ事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。大公を暗殺したセルビア人のガヴリロ・プリンツイプという青年は、黒手組フリーメーソンであり、暗殺はフリーメーソンの指示があったと裁判で告白していている。 長州の黒手組と、セルビアの黒手組の名前の一致は偶然だろうか?セルビアの黒手組が皇太子を殺して、サラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦を起こし、長州の黒手組が天皇、あるいは親王を殺して明治維新を起こしたのか。さて、黒手組の頭領は当時長州で上忍に昇格した木戸孝允であったという。木戸孝允を匿ったのが、出口王仁三郎聖師の恋人 八木弁の父、八・一八の政変で七卿に従った八木清之助。和宮の墓(伝承)を建立してもいる。木戸孝允の後を伊藤博文が継ぎ、その地位は山縣有朋へと受け継がれた。 この秘密組織は奇兵隊を組織し、幕府の長州征伐に対抗する兵力不足を補い、倒幕の戦闘に悲惨な戦いを命じている。慶応元年(一八六五)に長州藩が幕府軍の侵攻に備えるため発した兵制によれば、奇兵隊の総官は山内梅三郎・軍監、山縣狂介、定員三百七十五名とあり、営所は赤間関(下関)となっている。これらの部隊には大村益次郎の指導で長崎、グラバー商会から買い入れた新式銃(実は米国南北戦争で使われた中古品であった)で装備し、洋式訓練で調練した為、士分の侍で編成された部隊と何ら違いがないほどに精強部隊となった。加えて、奇兵隊隊員の中には元来賎民出身者が多く、彼らは松下村塾出身の志士達に王政を復古すべしと教育され、部落解放の夢を実現すべしと指導されて教練されたために、彼ら一人の戦力は幕府兵十人に匹敵したというほど精強部隊であったという。後に日本陸軍の要が長州によって握られるが、その原点とも考えられる。孝明天皇の暗殺については、前号で記載したため割愛する。 さらにこの二人は孝明天皇の実子である陸仁親王を殺害し、大室寅之祐とすり替えて明治天皇(図十二)としたとの説もある。大室寅之祐は長州の田布施町麻郷出身、彼は後醍醐天皇の三代後の南朝・松良天皇の末子・光良親王の末裔との伝説があり、その真偽はともかく南朝の後胤とされている、一八五一年生まれ・饅頭職人であったが、下関へ行って奇兵隊・力士隊へ入隊したといわれ、このすり替えに伊藤が深く関わっている。饅頭とは土饅頭という形で墓を意味するから、「饅頭をつくりに行く」とは、「死体の山を築きに行く」とも読める。 北朝系の有栖川熾仁親王のご落胤が存在する   伊藤と行動を共にしていた山縣は当然この事実を知っていた。つまり、北朝系統の天皇は睦仁親王の暗殺で表面的には途絶えたこととなる。 明治天皇がすり替えられた事について聖師は巧妙に我々にメッセージを発している。山縣に取って天皇すり替えは最も守らなければならない秘密であり、北朝系の天皇を謀殺し、その血筋は断絶させたはずであった。しかるに大正初期から、「北朝系の有栖川宮熾仁親王のご落胤が存在する」との噂に加え、続々と宮中関係者や軍人がそれを信じて大本教に入信、そして大正天皇の体調不良(お脳の病気)、皇太子はまだ若年にして、山縣から見れば意に添わず、政治的にも台頭する政党政治家に押され気味の情勢の中で、出口王仁三郎(図十三)の存在は決して愉快なものでは無かったと思われる。
大正天皇に関わる噂 大正天皇は大隈重信の子という噂を聞いたことがある。ネットを見ても「明治十二年、天皇の子を身ごもった(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、一條勝子〈美子、後の昭憲皇太后〉に知られることを恐れて、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三十一日無事男児を出産した」とある。このようなことは、普段は問題にしないのだが、以前から聖師の一文が気になっていた。…… 神国の畠をサツマ芋〈薩摩〉や丁子〈長州〉が荒らして来たのであるから、跡の整理も荒らしたものがする責任があるにも拘はらず、雲〈宮中〉にかくれて首を出さぬ大熊〈大隈重信?〉の卑怯さ。是も自業自得とは言いながら、よくも行詰ったものだ。俗謡に『あとの始末は誰がする鬼〈王仁〉が出て来て始末する』、何だか肩が凝るような、我々は思いがするのである(『新月の光』『神霊界』大正八年十一月一日号随筆)。 「大隈重信は、明治維新の時に日本を荒らした薩長土肥の一角、肥前藩出身であり、後の始末をする責任があるのに、大正天皇の父として宮中に隠れて首を出さぬ卑怯さ……。だから王仁三郎が出てきて始末をする」と解釈し、私は「大熊」を「大隈重信(図十四)」とみた。そうだとすると、明治維新の始末こそが、太平洋戦争での敗戦なのかもしれない。 二十一世紀日本アジア協会HPから引用する。……大正天皇は堅苦しい山縣が大嫌い、話のうまい大隈が大好きです。大正四年(一九一五)七月、内務大臣大浦兼武の議員買収事件が発覚した時、大浦本人のほかに首相の大隈以下、各閣僚も連袂辞職したが、大正天皇が「留任せよ」と仰せられたため、閣僚 三人の更迭で乗切って、大隈内閣は命拾いしました。政友会の西園寺公望や原敬は、天皇を政争に巻き込む大隈に反対です。官僚閥率いる山縣有朋と組んで大隈に対抗します。この中で、大正天皇以降、宮廷は憲政会・民政党好み、政友会嫌いに傾きます。政治的に対抗する一派に与するのです……(引用終了) 大正天皇と大隈重信が、特別親しい関係、後ろ盾のような関係にあったのは間違いない。しかし結局、大正五年十月には大隈重信は政界から引退するのであるが、長崎のフルベッキの塾生だった大隈重信は、大正天皇の庇護者として権威を維持してきただけに、大正天皇への影響力は残したと考えられる。そして大正七年(一九一八)九月、原敬内閣設立の頃から大正天皇の体調が悪化し、乗馬もできず、勅語も読めなくなった、自分が庇護する大正天皇がこのような状態になって、大正八年には大隈重信は完全に行き詰まる。このことを聖師は『新月の光』で、……よくも行き詰ったものだ。俗謡に『あとの始末は誰がする鬼が出て来て始末する』何だか肩が凝るような、我々は思いがするのである……と書かれたのか。もし大正天皇が大隈重信の子供であれば、聖師の目には、日本を混迷に導く大隈重信の責任を突いた可能性がある。 そして大正九年(一九二〇)、三月に第一回目の病状発表が行われ、大正十年十一月に天皇裕仁が大正天皇の摂政となる。一九二二年(大正十一年)一月十日に胆石症のため早稲田で死去する。それを考えると、大正十年十一月には、死を前にした病床にいたはずである。
大正十年、大正天皇引退、大正天皇は正嫡か? ここにひとつの推理をすることをお許し願いたい。出口王仁三郎聖師が鶴殿親子の証言などで有栖川宮熾仁親王の落胤であることは、政府の中枢には知れ渡っていた。大正天皇は、その出生に関することはともかく、脳病を煩ったことがあり、皇室典範によれば、本来、即位できない体だった。いや、皇室典範は、大正天皇を即位させないために作ったもの。 皇室典範が作成された時の、明治天皇がなくなった場合の皇位継承順位一位は、大正天皇ではなく有栖川宮熾仁親王であった。もし大正天皇が明治天皇の子供ではないのであれば、皇位は有栖川宮熾仁親王の長男、出口王仁三郎に行く可能性がある。まして明治天皇がすり替えならば、なおさらである。孝明天皇は自分の妹、皇女和宮を有栖川宮熾仁親王の許嫁にするなど、有栖川宮への期待は大きく、その熾仁の一人息子が出口王仁三郎であった。 大室寅之佑が明治天皇であったとしても、大正天皇が明治天皇の正規の子であれば、それが露見した場合は、王朝交代で説明を済ませることができた。時の政府が出口王仁三郎をあれほど恐れたわけは、大正天皇の出生に疑義があってはじめて理解できる。 だからこそ、本当は執務ができる大正天皇をはやく排除して、次の天皇を確定させる必要があったと推理する。そのためには、出口王仁三郎聖師をはやく取り除くしかない。それが大本事件の真因ではなかったか。素盞嗚尊に例えられる出口王仁三郎と、天照大神にも例えられる政府との間の誓約により、無罪が明らかになり、元老たちは、早く免訴の形で幕引きを謀ろうとしたのではないか。また裁判官たちは審理の過程で、「出口王仁三郎は人間ではない」ということを確信したのではないか。「出口王仁三郎を有罪にすれば大変なことになる」……。実際にわずか一年三ヶ月の間に大本を弾圧した大正天皇の引退はもちろん、実業界のトップである安田、そして総理大臣、大勲位、そして元老中の元老の死亡が重なるのは偶然だろうか。おそらく、全員が大本と出口王仁三郎聖師と深い関わりがある。大正十年十月十八日に、最後の審判書である『霊界物語』の口述が始まり、その口述の妨害のためか、十月二十日、エルサレムの宮、本宮山神殿の破壊が始まっている。最後の審判はすでに開かれている。 私は、いくつかの文献から大正天皇の病状は作られたものではないかと疑っている。大正天皇の片腕の一人、原敬は暗殺事件で大正十年十一月四日に暗殺され、さらに大隈重信に死期が見えたことにより、大正天皇は庇護者を失い、実質的に天皇としては取り替えられた、大正十年十一月二十五日には裕仁親王が大正天皇の摂政となって、大正の御代は事実上終わった(図十五)。 ふたたび大正天皇に戻る。明治の終わりごろには、皇太子(大正天皇)はまだ病状が残るものの、健康を回復させつつあった。皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物像を『原敬日記』に記している。また、エルヴィン・フォン・ベルツは欧米風の自由な生活を送る皇太子について好感を持って記している(大正天皇のウィキペディア引用)。出口王仁三郎聖師に関する不敬罪適用の可否 大正時代、山縣有朋など元老が恐れたのは、不敬罪という大逆の罪が、時の為政者、大正政府自体に及ぶことだったと思う。皇位継承の可能性のある出口王仁三郎の大本を、弾圧したことによる不敬罪の適用である。 大正十年二月十一日、辛酉の紀元節に大本教弾圧指令がなされ、十月二十日午後一時に天の御三体の神様を祀る本宮山神殿が原敬内閣により破壊された。そしてわずか二週間後の十一月四日、聖師の予知どおり、原敬首相は東京駅駅頭で暗殺される。大正天皇は、原敬の暗殺により、二週間後の同年十一月二五日、引退に追い込こまれる。 大正天皇と昭和天皇の血縁関係を疑う向きもあるが、それはともかく昭和天皇は完全に健康体を持つ。皇室典範に触れる脳病でもない。出口王仁三郎を不敬罪により大本事件で獄舎につないでおく間に、手早く大正天皇から裕仁への事実上の譲位を成し遂げることが、時の元老たちが自分たちの権益を守り、かつ不敬罪で訴追されることを免れる唯一の方法だったのではないか。獄舎で暗殺ということも考えたと思う。 自分にとって不利な材料は芽の内に摘み取らねばならない。そんな思いが山縣に沸々とわき起こった。自らの手は汚さず、原敬に大本潰し、聖師潰しを命令した。しかし、その説を説得力有るものにする為には、明治天皇がすり替えられた事、出口王仁三郎が真実、有栖川宮熾仁の落胤であることが前提となる。後者については、紙数の関係で今回は割愛する。
明治天皇すり替え説の検証 我々は明治天皇のご肖像のイメージとして、髭を蓄えられ、沢山の勲章を軍服に付けられたご真影を思い出すが、実はあのご真影は写真ではない。イタリア人のキヨソーネという画家が描いた肖像画を写真に写し、大量に印刷され配布されたものである(前出)。孝明天皇の実子たる陸仁親王は種痘を受けておられ、天然痘には罹っておられなかった。従って痘痕はなかった。ところが明治天皇には口の周りに痘痕があった。この痘痕を隠すために口髯が蓄えられ、写真を撮られるのを極端に嫌われた。実際、明治天皇の行幸や視察の写真は一切発表されていない。 第二に禁門の変のとき、十三才であった睦仁親王は、砲声と女官たちの悲鳴を聞いて失神したと記録があり、蒲柳の体質であった、十六才頃まで女官と人形で遊んでいたという。 しかし明治天皇(大室寅之祐)は二十四貫(約九十キロ)の巨漢で、側近と相撲をとっては投げ飛ばしていたという。大室寅之佑は旭形亀太郎とともに奇兵隊の力士隊に所属していた。隊長は伊藤博文であった。幕臣山岡鉄太郎は後に侍従となったが、ある日、明治天皇から相撲を挑まれ、辞退するところを不意に体当たりされた。山岡はとっさに身を引いて天皇をねじ伏せ、振る舞いの激しさを散々に苦諌したという。 第三に睦仁親王は即位前に乗馬の記録がない。馬に乗れなかったようである。ところが明治天皇は威風堂々と馬上から閲兵し、大号令を掛けている。一体いつの間に馬術を調練なされたのか、そうした記録は一切無い。 『明治三年、駒場(現在の世田谷区池尻町)にて大調練(観兵式)ありと聞き、太一郎、兄とともに拝観に赴けり。現夜の大橋の快にて、還幸途上の明治天皇を初めて拝す。武人の御装束にて馬上にあり、その両側には数人の力士ありて、日月の印つきたる大いなる錦の御旗二旒を高々と捧持せり』(この項、石光真人著「縄文人の記録」より) 第四に睦仁親王は右利きであったが、明治天皇は左利きであった。当時左利きは嫌われており、上流貴族で左利きは全く不自然である。幼児期に矯正するのが普通である。 第五に明治天皇のご真筆については、残された数々の筆蹟が誠に見事である。ところが幼少の陸仁親王は金釘流のひどいもので、幼少時代の書も残されているが、これが同一人物の書とはとても考えられず、全く不自然である。そもそもすりかえられる前の睦仁親王自体が孝明天皇の子供であるか疑問である。孝明天皇は実子とされた睦仁親王がいながら、天皇旗を旭形亀太郎に預けたのだ。それは睦仁親王が孝明天皇の子共ではないということを暗示している。 ここで大事なことは、幼少の睦仁親王の手習いの師匠、つまり、書道教授が有栖川熾仁親王であったことである。親しくお側にお仕えしていた有栖川熾仁親王がすり替えをご存じないことは絶対にない。出口王仁三郎聖師様の悲劇がここに因する。 第六に「明治天皇紀」明治十年の条には「天皇が侍補・元田永孚を陪席させて観菊の宴を張り、午後四時から十一時まで延々七時間にわたって飲んだ」と書かれ、また明治十一年正月十日の条に「土方久元・元田永孚らをはべらせて、午前三時まで飲んだ」と書かれ、かなりの酒豪である。しかし不思議なことに睦仁親王時代には酒を好んだという記録はない。一説には伊藤博文が天皇に酒と女をすすめて政務から遠ざけたともいうが、これとても、子供の時から飲酒の体質がなければ、これほど酒豪にはならない。
最大の疑問、明治天皇の自己否定 南朝正統論 最大の疑問は「南朝正統輪」が明治天皇の裁断によって公式に決定されたこと。明治天皇の父は孝明天皇、その血統は北朝系。明治憲法下において『天皇は神聖不可侵』である。従って明治天皇の出自は不可侵のもとに孝明天皇の御子である限り北朝天皇である。しかし今から百年前の明治四十四年(一九一一)三月三日、明治天皇は当時の首相・桂太郎の奏上を勅許遊ばされ、南朝正統の勅裁を下し給うた。明治天皇は自己のよって立つべき王統を『否なり』とした。この勅裁をどう説明するのか。こうした論議は、戦後もタブーとされ、菊のカーテンが剥がされて論議する事が一般的になったのは平成の御代になってからのことである。 そして明治天皇は明治四十四年になって、岩倉具視や伊藤博文が没していたから、初めて自分が北朝天皇ではない、実は南朝天皇、つまり自分は大室寅之祐である事を密かに表明したのではなかろうか。この当時、元老にとっては、北朝の正当性を否認した明治天皇の存在は非常に疎ましかった。およそ一年後に明治天皇が崩御されたのは、元老たちにとり時宜を得たもの。この天皇すり替えの事実を聖師は総てご存知であり、数々のヒントを残しておられる。聖師が示された数々のヒントを検証する。 十六図は十二段の宣伝歌とされる聖師様の強烈なメッセージである。この宣伝歌は大正六年十二月頃作成され、役員に交付されたものとされているが、この和歌にはつぎの様な説明文が付いている。 『「いつのひか、いかなる人のとくやらむ、このあめつちのおほひなるなぞ」十二通乃十二段四段門の上流を掬いて天下の正段を知れ。流れ流れて八段の、逆くに流るる逆汐に、潜む八岐の大おろち、八つの頭に八つの尾は、られくて十六の、またうらわかき、さほひめを、神代の夢と消へやらで、三千とせなりし今の世に、化けて洋服身にまとひ、大和島根の大空を帰りてここに三千年、思地乃鬼とやらわれし、神の稜威に照らされて元の姿となる神は、きくも邪悪な守護神』 いまのてんしにせものなり この説明に基づいて四段目を右から左によんでいくと「あやべにてんしをかくせり」となる。八段目を逆に読むと「いまのてんしにせものなり」とよめる。「綾部に天子を隠せり」「今の天子偽者なり」となる。今の天子、つまり、当時の大正天皇が偽者であり、真の天子は綾部に隠れていると明確に聖師は述べられている。神の稜威に照らされて元の姿となる神は、きくも邪悪な守護神……。 この和歌を作った動機に付いて聖師は第二次大本事件の予審調書で次の様に供述されている。『私が、この歌を作った動機は、私が大正六年十二月頃に綾部市西町の大槻鹿造宅へ行った時、鹿造の近所の四十歳位の女が鹿造方へ天理教のお筆先を持って来ておりましたので、それを見ましたらその筆先中に今の、天子様は外国から来られたのであると言う趣旨の事を書いてありました。また、その時その女が天理教の管長様の中山新次郎が日本の心即ち中心になるのであると話しました。 私はその天理教の筆先及び、女の人の話からヒントを得て大本へ帰って、別荘と言うておった六畳敷きの室で、白紙に縦横の線を引いて縦横に十二字宛書ける様にして、四段目に「あやべにてんしをかくせり」の十二宇を右から左へ並べて書き、八段目に、「いまのてんしにせものなり」の十二字を左から右へ並べて書いた上、第一行から普通の読方で読んで行くと大本の宣伝歌になる様に平仮名を書き入れてその下に十二通の十二段四段目の云々の詩を書き、尚「いつのひか、いかなる人のとくやらむ、このあめつちのおほいなるなぞ」の歌をかいたのであります。 右十二段の宣伝歌は大本発行の雑誌新聞等には掲載しませぬが、加藤新子の他、一ー二の役員には見せた様に思います、また、歌を書いた紙は加藤新子に渡した様に思います、私の作った宣伝歌が御示しの太平洋砂歴磔工業合資会社(伊藤伊助経営)の用紙に写し取られている位で有りますから、所々に私の作った歌が流布されておったものと思います。 十二段の歌中の「あやべにてんしをかくせり」は天子となるべき者、即ち私が綾部の大本に隠れていると言う意味で「いまのてんしにせものなり」は畏れ多い事でありますが、今の天皇陛下は日本を統治せらるべき真正の天皇ではない、偽の天皇であると言う意味であります。「十二通の十二段四段目の上流を掬ひて天下の正段を知れ」は右十二段の歌の四段目を読んで、天子となるべき私が綾部の大本に隠れている事を知り、且つ私が天子となるべき正統である事を知れと言う意味で『流れながれて八段の、逆くに流るる逆汐に、潜む八岐の大おろち、八の頭に八の尾は』は十二段の歌中の八段目を逆に読んで見よといふ意味と、八段目に書いてある今の天子即ち今の天皇陸下は偽物で、八頭八尾の大蛇であると言う意味で「られくては」はいかなる意味で書いたものか思出せませぬが、字が抜けたのか、又は字を間違えて写し取られたものと思ひます。(中略)  要するに右二つの歌は現御皇室は日本を統治せらるべき真正の天子様ではない、私即ち出口王仁三郎が日本を統治すべき真正の天子であると言う事を主張せんが為に私が作った者であります。誠に申訳御座いませぬ。』 後に行われた本裁判(昭和十三年八月十五日の裁判)で聖師は右の供述を全面的に否定された。結局、この十二段の和歌は伊豆湯が島の安藤唯夫氏が作った歌とされて裁判は進行したが、『霊界物語』五十五巻序文にもこの十二段の和歌に似た構成で表現された文章(図十七)があり(普通の文章の一段目を横に読んでいくと別の意味を持った文章が現れる)。それから考えると、この十二段返しの歌も聖師自身が作られたもの。聖師は、裁判を通して「証し」・誓約をする必要があった。天照大神に対する素盞嗚尊としての、「私の心は穢くない」という証しである。日本国の裁判所で証言することで未来永劫公的な記録が残る。しかしいつも本当のことを述べると、獄中に闇で殺される。起訴された信者を守るためには、時に嘘もいわなければならない。ただし予審調書は警察が作文できる。 すでに死亡していた伊豆湯ケ島、湯本館の当主であった安藤唯夫氏に罪をかぶってもらおうと、関係者は口裏を合わせるため、拘置所の便所やすれ違う際の目の合図で、連絡をとりあった。そして、十二段返しの歌への聖師の関与を否定する証言を行った。このことは出口禮子が、「十二段返しは安藤唯夫の作である」と法廷で証言した石田卓治氏より直接確認している。聖師を守る必死の思いで証言したのだろうが、十二段返しが真実である意味は重い。 なぜ裁判官が、不敬罪の最も明確なこの和歌をこれ以上追求しなかったのかも謎であるが、聖師自らが皇室の血筋を引いている事を示された和歌が『霊界物語』第六十一巻第九十七に次のようにしるされている。 天津日の神の御裔とあれませる珍の御子をば敬い奉れ 天津日とは天津日継ぎのことであり、皇室を明確に表している。その末裔に生まれたる珍の御子、つまり、珍とは貴い方、身分の高いとの意味であるから、ご自分が皐室の血筋を継承する高い位にある事を宣言している和歌と理解される。明治天皇が大室寅之祐がすり替わった天皇であり、やがてその天皇制が崩壊して行くと厳しくも鋭く説かれているのが『霊界物語』第六十七巻第六章「浮島の怪猫」である。浮島の怪猫の詳細な解説は、『神の国』誌三六九号(二千十一年一月号)二柱の天照大神と饒速日尊「浮島の怪猫の謎に迫る!」を参照されたい。 「波切丸がハルの湖水を進んで行くと、昔は夜光の岩山と言って、岩の頃辺に日月の如き光が輝き、月のない夜の航海には灯明台として尊重されたものです。あのスックと雲を抜き出た山容の具合といい、全山岩を以て固められた金剛不壊の容姿と言い、万古不動の霊山です。」「今日となってはもはや無用の長物ですな。昔はあの山の頂きが特に目立って、仁王の如く直立している大岩石を、アケハルの岩と称え、国の守り神様として、国民が尊敬していたのです。それが今日となっては、少しも光がなく、おまけにその岩に、縦に大きなヒビが入って、何時破壊するか分からないようになり……」「成程妙だ。段々下って来るじゃありませぬか。岩かと思えば虎が這うている様に見えだして来たじゃありませんか」「いかにも大虎ですわい」「よくよく見れば牛の様な虎猫である。」「俄に浮島は鳴動を始め、前後左右に揺れてきた。チクリチクリと山の量は小さくなり低くなり、半時ばかりの内に水面にその影を没してしまった」。 断片的に抜き書きしたが、波切丸に乗っている宣伝使は聖師の化身である梅公宣伝使、波切丸とは救世の舟であり、国民が尊敬していた大岩石とは皇室のことであり、アケハル(明治)の岩とは明治天皇のこと。それが崩れて湖水に沈むとは、天皇制の崩壊を象徴したこと。そして虎が登場し、虎猫となり、やがて消えていく訳で、この虎こそ大室寅之祐の寅を示す恐るべき聖師様の確言である〈それにしても牛の様な虎猫とは何を示すのであろうか〉。 聖師は明治天皇が睦仁親王ではなく、北朝天皇の血筋を継ぐべき者は既に亡くなり、ご自分こそが北朝天皇の末裔であると示されている。一連の聖師のお示しはハッキリと今の天皇家は正しい系統ではない、つまり「いまのてんし〈大正天皇〉にせものなり」となっており、現在も解明されていない明治維新に関わる謎なのである。 なおアケハルの岩は、大山と相応し、ハルの海は、宍道湖にも相応していると考える。十八図は宍道湖に写る大山の絵。「浮島の怪猫」とは、「浮島、つまり根無し草のように浮き、前の天皇と断絶している、怪しい天皇(根子)」と理解する。「ねこ」とは天皇「根子」を示す言葉。
安田善次郎、原敬、山縣有朋は裁かれた さて、幽界に現れた安田善次郎、原敬、山縣有朋はどのように伊吹戸主に裁かれたのか。「胎蔵」『霊界物語』五二巻二七章を見よう。 時置師神杢助は、ライオンを守衛に預けおき、八街の審判神伊吹戸主の館へ進み入り、奥の一間において伊吹戸主と二人対談をやっている。「ああ時置師神様、随分宣伝はお骨の折れる事でしょうなあ、御苦心お察し申します」「ドーモ曇り切った世の中で、吾々の如き人間は神様の御思召の万分一も働くことができませぬので、実に慙愧の至りでございます。つきましては今度お訪ね致しましたのは、神素盞嗚大神様の御命令によってでございます。三五教におりました高姫と言う女、彼の行状については実に困ったものでございます。兇党界の精霊、妖幻坊なる妖怪に誑惑され、それをば私と思い込み、彼方こなたで時置師や杢助をふり廻すので世の中の人間が非常に迷います。それ故、今度霊界へ参ったのを幸い、しばらくの間、現界へ帰さないように取計らって貰いたいものです」「なるほど、大神様の御言葉、何とか致さねばなりますまい。しかしながら彼高姫は、未だ生死簿を見れば二十八年間寿命が残っております。霊界に止め置くのは御易い事でございますが、どうしても彼は現界へ還さねばならぬもの、余り長く止め置けば、その肉体が役に立たないようになってしまいます。その肉体を換へても差支えなくば、何とか取計らいましょう」「どうか二三年の間ここに御止めを願い、三年先になって霊界へ来るべき女の肉体に高姫の精霊を宿し下さいますれば、大変都合が好いでしょう」 伊吹戸主神はしばらく目を閉じ、思案をしていたが、やがて打肯いて、「イヤよろしうございます。適当な肉体が三年後に霊界へ来るのがございますから、その肉体に高姫の精霊を宿し、二十八年間現界へ生かす事に取計らいましょう」「イヤ、それは実に有難うございます。左様なれば御免を蒙りましょう」「時置師神様、エー今此処へ大原敬助と片山狂助、高田悪次郎などの大悪党が出てまいりましたが、今審判が開けますから、一寸傍聴なさっては如何ですか。高姫もこれから審判が始まります」「イヤもう、高姫がいるとすれば折角ながら止めましょう、ハハハハハ」「たって御勧めはいたしませぬ。左様ならば大神様へよろしくおっしゃって下さいませ。私はこれより審判に参ります」とツイと立って廊下を伝い審判廷に行く。杢助は守衛を呼んでライオンを曳き来らしめ、ヒラリと背に跨り、ウーツとライオンの一声辺りを轟かせながら、一目散にウブスナ山の方面指して中空を駆り帰って行く。今現はれし敬助や 片山狂介、悪次郎 右三人の兇悪は いと厳格な審判を 下され直ちに暗黒の 地獄の底へ落されて 無限の永苦を嘗むるべく 両手を前にぶら下げて 意気消沈の為体 顔青ざめてブルブルと 慄い戦く相好は 忽ち変る妖怪の 見るも浅まし姿なり …続いて高姫神司 伊吹戸主にさばかれて 此処三年のその間 中有界に放り出され 荒野を彷徨ひいろいろと 艱難辛苦を味はいつ 我情我慢の雲も晴れ 漸く誠の人となり また現界に現はれて 三五教の御為に 誠を尽しいたりしが 再び情念勃発し 妖幻坊に欺されて 印度の国のカルマタの とある丘陵に身を潜め 妖幻坊と諸共に 悪事の限りを尽すこそ 実にもうたてき次第なり かく述べ来る霊界の 誠を写す物語……(大正一二・二・一〇 旧一一・一二・二五 外山豊二録)
カルマタ国のユダヤ人の故郷、カザール ここで気になったのは、「カルマタ」という地名である。インドということはいったん離れよう。『霊界物語』六八巻では、カルマタ国に「牛の湖水」(図十九)があるとされている。牛の湖水は別名「裏海」であり、裏海とはカスピ海を指す。それはまた、近江の琵琶湖のことでもあり、三段の型として琵琶湖(小)・日本海(中)・カスピ海(大)とある……。一、カスピ海、日本海、琵琶湖は大中小の天の真名井である(「天の真名井」『新月の光』) カスピ海は、中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖。古代には「ハザール海」と呼ばれ、現代のトルコ語やペルシア語でもそう呼ばれる。中国語では現在に至るまで裏海と呼ばれる。さて、ユダヤ人には、二つの流れがあると言われる。 流れの一つはセファルディム、もう一つはアシュケナジムと呼ばれる。『世界大百科事典』(平凡社、一九八八)では、「アシュケナジム」の項では、「最初はライン地方のユダヤ人を意味した」とし、「第二次世界大戦前には、全世界のユダヤ人口一六五〇万の九十%はアシュケナジムであった。ナチスのホロコーストはこの比率を大きく低下させた」と記している。 「ユダヤ人」の項では[東方ユダヤ人]を区分し、以下のように説明する。「ロシア、ポーランドなど東ヨーロッパ諸地域にも多くのユダヤ教徒が居住していた。その一部はスペインでの迫害を逃れて移住した人びとであったが、他のかなりの部分は、ハザ-ル王国の滅亡とともに各地に離散したユダヤ教徒であった。……彼らは十九世紀後半に帝政ロシアの迫害と貧困を逃れるため大量に西ヨーロッパ諸国、さらにアメリカへと移住した」「ハザ-ル族」の項では「王族は、九世紀の初めユダヤ教に改宗した」としている (HP電網木村書店。) 第二次世界大戦前、全世界のユダヤ人の人口の九〇%がカスピ海にあるカザール(ハザール)帝国(図二十)を起源としたと記されている。現実にユダヤ人と言われている人の故郷は、ヘブライではなくカスピ海にあったハザール。ハザール帝国は突厥の衰退に伴い六五十年頃独立し、八五十年頃衰退している。 すなわちカルマタ国とはユダヤ人の真の故郷であり、琵琶湖・江州(滋賀県)は、ユダヤの型。ユダヤ商人と近江商人は商売上手ということで相応しているが、それはこのためだろう。
カスピ海、日本海、琵琶湖は天の真名井で型 カスピ海、日本海、琵琶湖は大中小の天の真名井。型として私たちが思いだすのは、第二次大本事件が第二次世界大戦の型となったこと。再び『新月の光』を見る。 昭和七、八年頃、聖師様が「天風海濤」と書かれました。その頃、琵琶湖があれて舟が転腹したり水が赤くなったりしたことがありました。聖師様は「ユダヤの竜神と日本の竜神との戦いであった。江州はユダヤの型でここが開けんと世界は開けん。宣伝歌を歌って、琵琶湖を一周するように」と教えられました。(「江州はユダヤの型」『新月の光』) 江州とは、近江(滋賀県)のことで、そこにあるのが琵琶湖です。 「カルマタのとある丘陵に身を潜め妖幻坊と諸共に悪事の限りを尽すこそ……」 高姫(福島久子がそのひとりとして想定される)は、世界の真名井であるカスピ海の地域で、妖幻坊と一緒になり悪事の限りを尽くす。これは高姫がユダヤと関係することを示すと考える。琵琶湖・近江はカスピ海の型、そのカスピ海で悪事の限りを尽くすことで、さらに悪事は広まったのか。 昭和七、八年頃、琵琶湖が荒れたが、それはユダヤの竜神と日本の竜神との戦いであったと言う。私はその研究によって、第一次世界大戦も第二次世界大戦も、全世界を舞台にしたユダヤ対反ユダヤの戦いであったと思う。しかし日・独など反・または非ユダヤ諸国の上層部は、多くはユダヤのスパイとなり、それぞれの戦いは、反ユダヤ諸国がユダヤ諸国に負けるための戦いだったと考えている。そして太平洋戦争までの日本と戦う中国の背後には満州などを狙う米国がいた。 琵琶湖で行われたユダヤの竜神と日本の竜神との戦いは、それらの戦いの型の一部となった可能性があると思う。そしてその型を仕掛けたのは、高姫と妖幻坊かもしれない。しかし聖師は、「江州はユダヤの型でここが開けんと世界は開けん。宣伝歌を歌って、琵琶湖を一周するように」と述べられている。ユダヤを全否定するのは誤りと思う。ユダヤが世界を開いて来た真実も認めなければならないと思う。 高姫はウラル姫と改称した常世姫の再来、その背後には米国がいる 『霊界物語』を引用する。……高姫「定まった事だ。米の字に因縁のある所に建てたお宮に立てこもった吾々は、迷宮〈米+侵入+宮〉にいるのは当然だ。三五教の素盞嗚尊は、よっぽど、馬鹿正直な奴だ。世界のために千座の置戸を負いよって、善を尽し、美を尽し、世界から悪魔だ、外道だと言はれて、十字架を負うのは自分の天職だと甘ンじている、コンナ馬鹿が世界にまたと一人あるものか…… 女〈高姫〉実地誠の事は、〈常世の国に生まれた〉常世姫の霊の憑ったこの肉体、日の出神の生宮にお聞きなさらねば、後で後悔して、地団駄踏みても戻らぬ事ができまする。あなたは三五教の教をお開きなさるのは、天下国家のため、誠に結構でございまするが、しかしながら三五教の教は国武彦命が表であって、素盞嗚尊は緯役、邪さの道ばっかり教へる。天の岩戸を閉める、悪の鑑でございまする……」(「衣懸松」『霊界物語』十六巻八章)。 高姫は、常世の国〈米国〉に生まれた常世姫の再来であるが、高姫は若桜姫〈出口直〉の三女だから、福島久にあたる。ウラル姫と改称する。もちろん高姫はすべてが福島久に相応するのではない。 常世彦神常世姫 これまた悪魔に魅せられて ウラルの教を建設し 盤古神王を主の神と 仰いで世界を開き行く その勢ひの凄じさ 至仁至愛の大神は いかでか許し玉はむや(「光と熱」『霊界物語』四四巻第八章)。 八木「八+木」=「米」に因縁のある所で生まれた高姫は、ウラル姫と改称した常世姫の再来であり、常世国とは米国「米+国」を示す。さらに『新月の光』の引用を続ける。 天照大神と素盞嗚尊の誓約はカスピ海を中心に行われたのである。カスピ海、以東アジアは天照大神の御領分、以西ヨウロッパは素盞嗚尊の御領分であったのでその中心で行われたのである。昔の日本(欧亜大陸の境)で行われたのである。現今の琵琶湖は型である「天照大神と素盞嗚尊の誓約」(『新月の光』)。(昭和十七年十月十二日夜 大本農園有悲閣にて)(参照)『霊界物語』第十五巻第十章「神楽舞」。第十二巻第十六章乃至第二十六章。第二十九章。 小々彼の志賀の近江は人の祖の生れし貴国神の守る国琵琶の湖の永久の神秘の明らけく世に光る時松の世楽しも(『神の国』昭和五年十一月号「言華」)
山縣有朋に弾圧をささやいた真の黒幕は誰か 安田善次郎、原敬、山縣有朋は、伊吹戸主に裁かれ、地獄の底へ落されて無限の永苦を嘗めることになった。山縣有朋が命じ、原敬が大本弾圧を決定した。そして、大本弾圧事件は、大正天皇問題が影を落としている。しかし山縣有朋の背後で弾圧をささやいたのは誰か。 ふと、大正十二年から二八年後はいつになるか計算してみると、昭和二六年となることがわかった。大本事件の大審院判決が昭和二十年九月八日、その型が世界に映って、六年後にサンフランシスコ講和条約の締結が昭和二六年九月八日となる。これは聖師が、大本教事件を起こしたのは高姫であるとの暗号なのかもしれない。 それはたまたま偶然と思いながら『霊界物語』を精査すると、次の文章を再確認した。……高城山の峰つづき、小北山の松林を切り開いて沢山な小宮やチヤーチを建てたルートバハー〈大本〉の脱走教があつた。ここの主人を虎嶋久之助〈福島寅之助〉と言い、女房は虎嶋寅子〈福島久子〉と言う。生れつき自我心の強い女であったが、変性男子の系統と言うのを奇貨としてユラリ教と言う変則的なる教団をたて、ユラリ彦命を祀って、盛んにルートバハーの教主ウヅンバラチヤンダー〈瑞月・聖師〉に反抗的態度をとっている。そして自分は底津岩根の大弥勒、日の出神と自称し、朝から晩まで皺枯声を出して濁った言霊で四辺の空気を灰色に染めている。 ここへ集る信徒の中には随分色々な変り者があって、中にも最も寅子の信任を得たのは、善も悪きも難波江の菖蒲のお花〈星田悦子〉と言う、あまり色の白くない背の低い横太い年増婆アさまである。そして寅子の最も信任しているのは守宮別〈飯森正芳?〉と言う海軍の士官上りの外国語をよく囀る男であつた。寅子は日の出神の生宮と自称しながらこの守宮別と共に宅を外にして曲霊軍の襷を掛け、日の出島の東西南北を隈なく巡教し、軍艦布教までやつてヤンチャ婆アさまの名を売った、したたか者である。守宮別は日の出神と腹を合せ、如何にしても変性女子のウヅンバラチヤンダーを社会の廃物となし、自分等がとつて代らむと苦心の結果、守宮別は四方八方に反対運動を開始し、終には六六六の獣を使ってウヅンバラチャンダーの肉体の自由まで奪った剛の者である(「祭誤」『霊界物語』六四巻入蒙記上巻)。
『大地の母』に登場する高姫と守宮別 さて、これと相応する場面が出口和明『大地の母』十一巻四章にある……。不思議な御縁というのは三峰山の口癖で、浅野(和三郎)の耳はタコになっていた。酒を飲みながら語るところによると、飯森〈海軍中佐の飯森正芳という思想遍歴屋〉はキリスト教に入るまでに神霊現象に興味を持ち、三峰山へもしばしば研究に来ていたという。憑かれた人のように飯森は綾部の大本について語り出した。「出口直」・「明治二十五年」・「お筆先」など聞き慣れぬ単語が入り乱れて二時間余、三峰山などそっちのけである……。
ウズンバラチャンダーの地位をねらった飯森中佐 守宮別は日の出神(自称 福島久子)と腹を合せ如何にしても変性女子のウヅンバラチャンダーを社会の廃物となし、自分等がとつて代らむと苦心の結果、守宮別は四方八方に反対運動を開始し、終には六六六の獣〈フリーメーソンを言うのか?〉を使ってウヅンバラチャンダーの肉体の自由まで奪った剛の者である……。 大本弾圧事件の首魁、原敬とは米国から資金を受け取るフリーメーソン系首相との、ヤコブ・モルガン氏の著作があった。福島久子と海軍の飯森中佐との全国行脚による悪宣伝が、原敬や、山縣有朋を動かした可能性がある……。 今月のテーマは『霊界物語』九十周年にちなむことなので、大胆に『霊界物語』の記載を援用しました。大正天皇の出生につきましては、あくまで仮説ですが、聖師の著述などと妙に付合します。 次回以降に、有栖川宮熾仁親王落胤問題、満州鉄道問題を含めてこの問題の続きを掲載したいと考えています。
天照大神としての大正・昭和政府と、素盞嗚命としての聖師との間の誓約? 最後に、私は悩ましい問題にぶつかった。カルマタ国のあるカスピ海・琵琶湖は天照大神と素盞嗚命の誓約の地。そして型が出るところ。カルマタを「カルマ(業)多」とは考えすぎ?。 さて大正天皇と聖師の皇位継承問題はさておき、第一次大本事件での政府と大本の立場を考えます。政府が天照大神としての開祖の御筆先を裁いたとするのがひとつの見方(和明説)。そうなれば、第二次大本事件とは、素盞嗚命としての聖師の『霊界物語』が政府に裁かれた事件とも言えます。 しかし太古の天照大神と素盞嗚命の誓約をすなおに当てはめるならば、大本事件をひとつの事件として、天照大神としての大正・昭和政府と、素盞嗚命としての出口王仁三郎聖師の「どちらが清いか」を争う誓約の物語ともみることができるのではないでしょうか。 本文に出てくる三人、安田善次郎、原敬、山縣有朋を裁く現場に高姫はいました。高姫はカルマタ国にいて妖幻坊とともに悪事の限りを尽くした。妖幻坊は海軍軍人の一部なのか、それはわかりません。 これは民事ではなく刑事事件ですので、天照大神・大正政府・あるいは昭和政府を動かし加担するものが、高姫。高姫が「印度の国のカルマタのとある丘陵に身を潜め妖幻坊と諸共に悪事の限りを尽す」とは、カスピ海・琵琶湖に相応するカルマタ国で、天照大神と素盞嗚命の誓約となる大本事件を惹起し、天照大神の象徴である政府に妖幻坊とともに悪事の限りを尽くして加担することで、聖師を獄舎に放り込む。裁判においても出口王仁三郎聖師を不利な状況に追いやる。海軍軍人達を使って、フリーメーソンに関わる山縣有朋、米国フリーメーソンを資金源とする原敬を煽動し、第一次大本事件を引き起こす……。もちろん、最奥は……。 少し飛躍した発想・仮説であり真実は確かめようがないのですが、少しでも検証していきたいと考えます。(続く)参考文献 『明治・大正・昭和天皇の生涯』新人物往来社、出口栄二『大本教事件』自由国民社、鹿島昇『裏切られた三人の天皇』新国民社、出口和明『出口なお・王仁三郎の預言確言』 みいづ舎……その他多数。