出口和明
明治、大正、昭和と現人神の威光がきらめきわたる天皇絶対の海を、右に左にかきわけて、国家体制をゆるがす波紋をたてつつ、泳ぎぬいた男がいる。大化物、怪物と世間を騒がせた出口王仁三郎である。

 大日本帝国のおカミは、ご威信にかけてもほっとけぬとばかり、大正一O〈一九二一)年の第一次大本事件では不敬罪と新聞紙法違反、昭和一O(一九三五)年の第二次大本事件では不敬罪と治安維持法違反で二度までも王仁三郎をめしとり、オリの中にとじこ めて、みせしめにさらし首にしようした。だが一次事件では大正天皇の崩御による恩赦、第二次事件では予言通りの敗戦で、手かせ足かせからしゅるっとぬけだしてしまった。日本のすみずみにまで「天皇にとってかわろうとした逆賊」といいふらされ、「弓削道鏡、足利尊氏、明智光秀、出口王仁三郎」と四大逆賊の一人にかぞえられながら、戦後はぶすりと姿を消して無視されてきた。

 もとより、歴史の教科書にもあらわれない。これは不思議なことだが、考えてみればこの文明の世の中、怪物の動向やその予言など教科書にのせようもなかったろう。現在、王仁三郎の超能力、大予言が再評価されつつあるが、彼の神や霊界についての見方を、正面から語る書物はない。また思想家としての彼を知る人も少ない。娘直日の小学校の家庭調査職業欄に「世界改造業者」としるして教師をたまげさせた王仁三郎だ。彼には「大宇宙の根源に神があり、宇宙意志となってたゆまずすべてを活かし、現界と合わせ鏡の世界が実在する」という信念がある。それは有神論などというような理屈ではなく、実体験にもとづくものだから、ゆるぎようがない。現界から見る霊界を語るばかりではなく、ふかく霊界にわけ入ってこの世を逆照射し、独自の世直し思想をくりひろげる。

 不敬罪のよりどころは天皇を唯一最高の現人神にまつりあげることにあるが、王仁三郎の見つめる神は、天皇をこえた宇宙の本源的存在だ。しかもその神の意志は「闇の世におちた三千世界を立替え立直して、末代つづく神国の世にする」ことにあり、当然、天皇制をふくめた現状変革である。王仁三郎が天皇制の枠をこえて神の声を民衆に伝えようとするかぎり、いやでも国家権力と対決しなくてはならなかった。

 第一次、第二次大本事件は、いわば国家権力による「外」からの王仁三郎思想の弾圧であった。…

                                                       目 次

第ニ次大本事件 

 昭和十年に起った国家権力の宗教弾圧事件。当時百万の大本信徒への徹底した破壊活動と暗黒裁判を描く。突如未明の大弾圧、教団を襲う検挙の嵐/死者も鞭打つ特高/人情特高もいた/一転して国賊の子に/第一審祖父は無期懲役、父は懲役十五年/ぽっかぶりの歌/治安維持法は無罪/戦火の予言が人々を救う/わしは花咲爺じやわい/大本は世界のかがみ/第一次大本事件大本の開祖・出口直と上田喜三郎(出口王仁三郎)の生いたちと運命的出会い/霊界からの通信/大本教義/地獄の釜の焦げ起こし/福島久と米の神がかり/三千世界の立替え立直し/多情多恨の安閑坊喜楽/過去、現在、未来を霊界で見聞/上田喜三郎の綾部入り/大気違いと大化物/火と水の戦いはじまる/機の仕組の特異な発想/水晶の世にする種/大槻米、福島久についた金毛八尾の狐/王仁三郎にかかる霊はみろくの大神だった/立替えに魅せられた浅野和三郎/第一次大本事件勃発/教団の内部矛盾の露呈/『霊界物語』の口述開始/王仁三郎、蒙古へ密出国/第一次大本事件の解決

大本教団の変質

 戦後、大本の再生と愛善苑の発足、王仁三郎昇天後の教団内部に入りこんだ危険な影と教団の変質。

戦後のスタート/愛善苑の新発足/大本愛善苑に改称/三代の世になって大本に名称を復帰/出口栄二内閣の成立/栄二内閣の崩壊/梅松館の建設/混乱に輪をかける梅松教会の設立/十和田湖の神秘/大本教団、安保賛成を表明/聖師聖誕百年瑞生大祭/「生き神信仰を正して下さい」/老いの坂越えて死へのドライブ

第三次大本事件

 出口王仁三郎が昭和十年代に予言した教団の内部分裂が現実のものになり、宗教改革運動が始まる

大本海外作品展/あわや危機一髪、神言事件の真相/昇峰(のぼりたかし)の離反/京太郎総長の出現と言論弾圧の強化/株式会社「いづとみづの会」の設立/第三次大本事件勃発/疑惑の大本教制改正なる/始まりの宗教改革/言論弾圧の全国機関長会議/教主念頭の辞「道を護らむ」」/覚書の調印と懇話会の発足/松の根元の大掃除、出口栄二の追放/京太郎解任、宇佐美総長の出現/出口直美教主継承取消し/三宣伝使の地位確認等請求事件の公判始まる/教団に帰っておいで下さい/大本事件の本質/薬のいがは内からはぜる

 一、引用文は〔〕内に二字下げて記し、末尾に原典を記した。二、著書は『』でくくった。一、『大本神論』は『神論』、『霊界物語』は単に『物語』と表示した。四『筆先』には、執筆年月日を旧暦で一記した。五、年号の下の〈)内は西暦を表示した。六、必要に応じ、〈)内に旧歴の月日を記した。七、読者の理解しやすいよう、引用の文や歌は現代かなづかいに改めた。ただし大本用語や特殊な使い方をしたものは、原文のままとした。八、引用の難解な漢字はひらがなに、また誤字脱字は訂正した。九、年令は原則として数え年で示した。十、本文中の人名の敬称はすべて省略させていただいた。
 第一編 第二次大本事件

 突如、未明の大弾圧、教団を襲う検挙の嵐

 王仁三郎は妻澄との聞に女六人、男二人の子をもうけたが、男の子はいずれも育たなかった。私は昭和五年八月一五日、王仁三郎の三女八重野と婿養子宇知麿(本名・佐賀伊佐男)の長男として生まれた。男の孫は私が初めてであっただけに嬉しかったのであろう、王仁三郎は和明と命名し、初膳を祝った席で、その名をおりこんで「身は和く魂明らけく神国に衣食足らいて百千歳住め」とうたっている。私にとって忘れられない心象風景がある。コスモスの花が目いっぱい風にゆれる野であった。その人はコスモスに見えかくれして遠ざかる。幼い私にとって、その背を慕い追うのは、たまらないスリルであった。祖父もそれを知っていて、わざとおきざりにする。祖父と孫とのかくれんぼだ。

 コスモスは私の頭より高かったから、四つか五つのころであったろう。ついに追いあぐみ、立ちどまってせいいっぱい叫んだ。「聖師(王仁三郎の尊称)ちゃま、聖師ちゃま」王仁三郎は大またであともどりし、私を抱きあげ、高くかざしてくれた。白やピンクの花波が目の下にひろがった。朝に晩に「おはよう」「おやすみ」をいいにゆくだけではない。「おべんきょう」といって、平仮名のいくつかを書いてみせる。そのたびに王仁三郎は私を抱きあげ、打ち出の小づちをふるようにおやつをくれ、うれしい言葉をかけてくれた。父よりも母よりも、だれよりも祖父が好きであった。おとなたちが王仁三郎を中心に動いていることは、もの心ついたばかりでもわかる。その王仁三郎に愛されていることは誇りであり、得意であった。 昭和一〇年一二月八日未明、雲一つない月あかりに浮かび上がる明智光秀の城あと、亀岡町(現京都府亀岡市)天恩郷の大本本部百数十棟の殿堂は、忍びよる決死の武装警官隊によって、ひたひたとおしつつまれていった。交わりあう探照灯、切断される電話線。夜霧の底にはりついた彼らは鉄かぶとをつけ、白布を腕にまき、白たすきをななめにかける。軍靴はすでに老の坂峠でゾウリとはきかえられているから、足音は死んでいる。日曜日、神の定めた安息日というのに。午前四時三O分、指令一下「火事だ」「デンポウ、デンポウ」…それが合い言葉の異様な叫び。そのとき六歳の私は天守閣あとにたつ「月宮殿」の隣「光照殿」の一室で、母と弟(四歳)と安らかに眠っていた。枕元に乱入した土足の警官たちを見て、のんきな母は逃げる泥棒でも追っているのと思ったらしい。

 自ざめた私は泣きもせず彼らをにらんで「こら、帰れ」とどなったと母はいうが、私はおぼえていない。警官たちはしがみつく幼な子から母をもぎとろうとする。「あっ、あl」と隣室からは、ちょうど泊まり合わせていた伯父出口日出麿が、ねぼけたような声を出した。母と伯父は令状も示されず、そのまま拘引される。出口王仁三郎、澄夫妻はいそがしすぎて、家庭などかまいみるゆとりはなかった。直日、梅野、八重野、尚江、住之江の五人の娘たちは、捨て育ちといってよかった。その気になれば、両親や姉妹と何日も顔を合わせずにすんだ。学校をさぼって遊びほうけたところで叱るものはない。それぞれ性格のちがう五人姉妹の中で、私の母八重野は子供のころから鬼娘でとおるほどのわがままの怒りんぼう、そのくせさびしがりやだ。放任の上にめっぽう娘に甘い王仁三郎の溺愛をいいことに、好きほうだいに生きていた。

 一六歳で親のいいなりに結婚したものの、夫宇知麿は若いながら王仁三郎の全幅の信頼を得、教団の実務上の中心的存在であったから、これまた家庭など一時のまどろみの場でしかない。このやんちゃな幼な妻がどこかできげんよく遊んでいてくれればよかった。さびしくていたたまれぬ夜など、八重野は枕をかかえて姉妹や女友達の家を泊まりあるく。結婚して七年目で私を生んだが、子の可愛さと育児のわずらわしさは別ものらしく、私の世話はもっぱら奉仕の女性にゆだねられていた。

 夜明けにたたき起こされて連れてこられたのが、亀岡署の雑居房。なぜこんなところに投げこまれねばならぬかと、八重野には納得できない。汚くて、寒くて、退屈で、おまけにねむたい。ふくれかえっているところへおりよく信者の青年小高が投獄されてきたので、「ちょっと膝をかしてえな」とととわり、彼の膝枕でうたた寝した。やがてめざめた八重野は、日曜日の約束を思いだす。どうしよう、友らと京都へ封切りの映画を見にゆく予定やのに…それが気になって、取調官の質問にもうわの空だ。どっちみち教義や教団の内情なんか聞かれても、関心ないから知るわけはない。「せっしょうな、早く出してもらわんと映画におくれるわな」といらだつばかり。いま襲っている嵐が何ものをもたたきのめすほど激しいととに気がつかない。

…近代日本宗教史上かつてない大本大検挙は、一年余にわたる当局極秘の布石をおえてこの日午前四時半ついに強権を発動、全国各地の大本諸機関にうちいった。綾部(現京都府綾部市)の大本総本部は三〇〇人の警官隊によって役員信者一五〇人が検束、六七人が留置された。大本三代を継ぐべき伯母出口直日は三人の幼子とともに信者宅に軟禁される。

 亀岡では、二三〇名の警官隊によって一五〇人が検束、一一〇人が留置。検束をまぬがれた信者には、「ただちに帰郷せよ」と命じ、建物の出入口や窓は板でふさぎ釘づけ封鎖する。

 首魁と目される出口王仁三郎(六五歳)は、松江市の島根別院に滞在していた。七日夕、綾部からくわわった妻澄(五三歳〉と秘書の大国以都雄とともに赤山の対岳亭でくつろぎ、夕陽の映える大山の雄姿をのぞみつつ、亭内の名残りの紅葉を楽しむ。「裏を見せ表を見せて散る紅葉…誰の句だったかなあ」と王仁三郎はつぶやき、ふもとの警察部長官舎のあたりを見おろし、誰にともなく「明日は大雨だな」という。

 その夜、王仁三郎夫妻は赤山山上の三六亭にとまった。翌八日の明け方、二八〇人の武装警官隊が襲いかかった。柔剣道二段以上の猛者一五人が水盃をかわし「大本では剣、銃、爆弾などの装備もそうとう充実している模様である。いかなる事態に発展するか知らぬが、諸君の命はただいま頂戴する」との悲壮な訓示により、決死の先陣をつとめたのだ。王仁三郎は衣服をあらため、澄が火をつけてさしだした煙草をうまそうにすった後「急に用事ができて京都にかえったと信者に伝えてくれ」と後事をたくし、しずかに連行されてゆく。東京では約八〇人の警官隊が昭和神聖会本部など六カ所をおそい大本幹部八名を検挙するが、この中には私の父がいる。その日の大阪朝日新聞は「関係者一向はいずれも落ちつきはらったもので、出口宇知麿のごときは終始微笑を浮かべ‘ながら、何事もなかったような態度で護送されていった」と報じている。

 この日、捜索を受けた場所は全国で一〇九カ所に達し、大本幹部、有力信者四四人が翌九日までに全国各地から京都市内の八警察署に護送、留置される。全国どこの地でも抵抗どころか混乱すらなかったのに、何を寝ぼけたのか、この大げさな捕物陣。「子子子子子子」も読みようでかわる。「猫の子、子猫」か「獅子の子、子獅子」。信者のすべてにゆきわたった無抵抗主義の大本も、国家権力の色メガネで見れば軍隊まがいにでも写るのだろうか。午前五時、はやくも大本検挙をスクープした大阪毎日新聞が号外第一号、続いて第二号、第三号をだす。抜かれた他紙も、負けじとはでな大見出しの号外をきそう。

 「妖教大本の大陰謀」、「断固! 抹殺の方針」、「突如一大秘魔教に大旋風」 号外の鈴の音をよそに、私と弟は誰かに連れられて天恩郷内の瑞月庵に移される。立入禁止の神苑内は、捜索にあたる検事やものものしい警官たちで満ちていた。その異様な空気だけは、今もはっきり私の心にやきついている。その夜から、八重野、尚江、住之江の三姉妹と子供たちは、小さな瑞月庵で肩をよせあい不安な五日間を過ごす。一三日、天思郷内に帰ることも許されず、三家族九名は追われるように西山のふもと荒塚の一軒家に借り住まいの身になる。数多い奉仕者は強制的に帰郷させられたが、現実に飯を炊くさえおぼつかない彼女らのために、男性奉仕者一人と一家族一人ずつ女性奉仕者が残ることを許された。

 家は門をしめられ、竹矢来がくまれ、裏口があくだけである。一歩も外へ出ることが許されず、裏の寺のそばを流れる小さな溝川から水をくんで風呂をわかした。警察のきびしい監視下で、月々最低の暮らしに必要な金だけが渡される。

 私のまわりは激変した。第一、男たちが消えたのである。祖父、父、叔父たち、いつもそばにいてくれていた人々も。その理由を誰かれかまわず聞いてまわる。「どこへ行ったの」「遠い遠いところへ」「なにしに」「神さまの御用がいそがしいので」「でもいつ帰ってくるの」「さあ…」「あといくつ寝たら…ねえ」しつこくなると返事もじゃけんになる。一族の者たちが監獄につながれているわけなど、だれも教えてはくれぬ。いつしか私は無口になった。同じ頃、出口澄と直日は綾部で、梅野は亀岡から四キロ離れた穴太で、不安な日々を送っていたのである。死者も鞭打つ特高京都の各警察署に分散留置された王仁三郎以下六五人にたいする取調べは峻烈をきわめた。その目的はいうまでもなく自白の強要だ。特高警察のほこ先はまず直日の夫出口日出麿(三九歳)に集中した。

 日出麿は本名高見元男、倉敷市に生まれ、岡山一中、六高をへて京都帝大を中退し、大本へとびこんだ。直日と結婚後はその鋭い霊覚、ひょうひょうとした風貌、深い思索を自在に書きとめた文章や詩歌などで信者たちの敬慕と三代の世への希望を一身に集めた人であった。「拷問にかけられわが子のヒイヒイと苦しむ声を聞くは悲しも」「日出麿は竹万で打たれ断末魔の悲鳴あげいるを聞くつらさかな」 

 このように王仁三郎は歌うが、昭和一一年二月、人間の耐えうる限界をこえたのか、日出麿は日赤病院にかつぎこまれる。あきらかな精神異常にもかかわらず、さらに中立売署に移されて取調べがつづけられる。王仁三郎もまた、三尺のびた長髪をひきずりまわされ、失神しながらも、なぐるけるの暴行にたえていた。やがて王仁三郎はその長髪を根元から刈られる。丸ぼうずになった彼の写真が新聞に大きくのったが、左手は開け、右手は擦って人さし指一本をのばし、さりげなく膝においている。この六本指の報道写真は、王仁三郎が天下に示す「無(六)罪」のサインだ。機会をつかめばソク逆境にある信者たちを励まさずにはおかぬ王仁三郎である。 この断髪の写真でよくわかるのは、うしろの髪は黒いのに額のふちばかりが目だって白いこと。これは王仁三郎の肉体的特長の一つだ。

 額毛に霜おきながら髪長く 濃きは弥勒と蒙古の智者いう

 昭和一一年二月二五日、内務省の唐沢警保局長が京都府会議事堂で全国の特高課長を集め、「大本教はわが国教と絶対あいいれず、許すべからざる邪教で、断闘として根絶をきさねばならぬ」と訓示。翌日未明、二・二六事件勃発。参会の特高らは青くなって任地へとんで帰る。予定されていた現地〈綾部・亀岡)視療も祝宴もむろんお流れである。二・二六事件の首魁北一縄は大本事件寸前の昭和一〇年一二月六日、こっそり天恩郷を訪ね王仁三郎に会見、クーデター計画をもらしてその資金二五万円を求めた。 王仁三郎は「そんな金は手もとにないし、神さまが人殺しのための金は出してはいかんといわれる」と軽く一蹴。北は「国家の大事をうちあけた以上、命をいただく。京都に一二人の刺客が伏せてある。命か金か二つに一つだ」と食い下がる。松江に旅立つ王仁三郎は、「とにかく四、五日待て」となだめて帰した。そのため、私の父宇知麿が人質になる約束であった。その王仁三郎も宇知麿も二日後には囚われの身の上、実は警察に保護されたのも同然。「北一輝らはさぞ地団駄ふんだろう」とのちに語っているが、そんな王仁三郎の心もしらず、唐沢警保局長は「右翼の資金源を絶つための弾圧」とうそぶくのである。

 三月九日夜、幹部の栗原白嶺(六六歳)が縊死。「私はあこがれの天津御固に参ります。…大本の神につかえて一〇余年、かかる悲しき終りを見るとは」と、中立売署独房の板壁に爪できざんだ遺言と辞世の歌一首。翌一O日、綾部署は二代澄を連行、澄名義である綾部の土地処分の委任状に捺印をせまる。

 「土地は神のもの、信者のもの、いっさいを精算せねばならんような悪事のおぼえはない」とつっぱねる。一ニ日、再び「印をおせい」と命ずる彼らに、澄はいいはなった。「大本は日本のヒナ型、大本で起こったことは必ず日本に、世界に写る。この神苑を手渡すことは、やがて日本が外国にとられる型になる。それでも捺印せいというのなら、私を殺してからにしなはれ」 

 いいきってひるまぬ澄の腹中には、「大本は世界の型」の信念がどっかと根をおろしていた。「型」については、後にくわしく述べる。こと面倒と警察は二三日、改めて澄を検挙し翌日京都に護送、五条署に留置する。「お前たち一族はどう、じたばたしても死刑はまぬがれんから、その覚悟で入っておれ」と、澄は警官にいわれた。けっしてこけおどしではない。治安維持法違反の最高刑は死刑、当局は「大本を地上から抹殺する」と豪語していたのだから。

 ある日、澄は「これから裁判所の監房に護送するからいそげ」といわれ、「これが末期の水だぞ」と一杯の水を与えられた。「アアそうか、私は死刑になりにゆくのか。これまで調べてもまだわからず、いつまでもこんな所に入れられているより、その方が良いかもしれん。大声で万歳をとなえて、にこにこ笑って死んでやろう。わしは死んだら神さまが待っておられる身じゃし」

 そう思うと澄は心が勇んでならぬ。護送車に乗せられるそのときの澄の笑顔は、全国紙にいっせいに掲載された。保釈後、澄はこの写真を見て笑うのだった。「アホウやのう。私は死刑にされるつもりでいたのやが、子供が遠足にでもゆくような嬉しそうな顔をして」。

 澄が検挙された三月一三日、王仁三郎ら八人の起訴が決定、同時に内務省は大本関係八団体の解散命令と本部、および地方の教団全建造物の強制破却処分を発令。しかも「破却のための全費用は教団財政から支出せよ」との条件だ。当局ははじめから土地建物ばかりか、教団財政いっさいの処分方針を立てていた。まずは破却の準備として教団の家具、備品、機械類を捨て値同然で強制売却させた。売りたたくことによって大本を経済的に困らせ、公判の弁護費用をださせぬようにとの策略である。命をはって澄が守ろうとし、王仁三郎が「いかなることありとも、右三ケ所〈綾部、亀岡、穴太)の土地は一坪たりとも売却いたさぬ覚悟…」と獄中から悲痛なはがきをよせて死守を示した土地は、国家の強権の前にはもろくも崩れる。 綾部の二五一八五坪は三六七六円二二銭(坪あたり一四銭)で綾部町に、亀岡の二四五三〇坪は二二一四円二一銭(坪あたり九銭)で、亀岡町に売却される。当時の地価は最低でも綾部で坪あたり二O円ぐらい、亀岡で一二、三円であったから、百分の一にも当たらぬ法外な値で譲渡させられたのである。

 三月三〇日、有留弘泰が五条署で自殺未遂。拷問のすさまじさがうかがわれる。四月九日には梅野が父王仁三郎に、八重野が夫宇知磨に各一〇分ずつ初めて面会。呪われた出口一族にたいするジャーナリズムの興味はつきず、「獄舎に父と涙の対面」「四ヶ月自の対面、おお、わが父よ、夫よ、王仁三郎の娘ら接見許可」などと、翌日の新聞をにぎわしている。

 四月中旬、福島県白河町の神正彦(二二歳)は白河署に留置され、本署から出張の特高の取調べをうけた。京都に連行された正彦の父の神守は王仁三部の信任があつかった。当局では守の自白をとる手段として病身の息子を拘引し、激しくせめたのである。夜も眠らせず、なぐる、蹴る、頭を下にして鼻や口に水をそそぐなどの拷問が一週間つづけられ、病状は悪化する一方、強度の神経衰弱におちいったが、医師の要請にも十分の手当てを受けさせない。

 六月中旬、突然帰宅を許されたが、すでに正彦は半死半生。留置場で死なせでは警察の落ち度になると釈放したまで。「父に一目会いたい」と正彦は訴えつづけたが、それさえかなえられず短い生涯を閉じる。

 五月一一日破却工事の第一槌は開祖出口直の墓に加えられる。第一次大本事件のとき二度にわたって直の墓をあばいた当局は、死して一八年後三たび死者を鞭打つのである。枢は共同墓地に移され、「衆人に頭を踏まさねば成仏できぬ大罪人、極悪人なり」という特高課長の指図で、腹部のあたりに墓標が立てられる。直を誰よりも敬愛してやまぬ直日の、悲憤の歌が残っている。「死してなお 安からぬ祖母ふたたびも逆族の名に墓あばかれつ」「わが心臓石の如くに脈うたず あばかれんとすも祖母の墳墓は」「惟神(かむながら)の道 ましぐらに歩みたる祖母也 成仏願いたまわず」 綾部、亀岡の両本部と穴太の破却工事は三〇二〇四円で清水組がうけおった。両本部の土地約五万坪の売却費用はわずか六千苑にみたぬのに、その五倍強の破却費用を大本会計から支出させようというのだ。

 これに要した日数二六日、取締り総人員六七八五人(一日平均二六一人)、破却従業員九九三四人(一日平均三八二人)。石と鉄骨でつくり上げた二一坪の月宮殿の破壊だけでも一五〇〇発のダイナマイトを使用し二一日間もかかっている。地方施設の破壊も両本部と並行してすすめられ、別院二七、分社四一、歌碑四〇はすべてあとをとどめぬまでに破壊しつくされ、日本海舞鶴沖の孤島沓島や播州沖の神島の祠まで打ちくだかれた。

 まだ起訴すらされぬ前に勝手に有罪と断じうちこわす。まさに狂気の沙汰である。さらに大本の出版部である天声社在庫の八四〇〇〇冊の書籍類、多くの祭壇、祭服、神旗、王仁三郎作の書画、陶器などは綾部、亀岡の神苑内のくぼ地に投げこまれ、火をつける。それは一ヶ月余にわたってくすぶり続けた。そのころ、春日坂を通りかかってこの破壊ぶりを目撃した一信者が、「ああ、もったいない」と思わずつぶやいたばかりに留置場に投げこまれ、竹刀で叩きのめされ、翌日やっと釈放された。

 私ははるかな天窓郷のあたりを心細く眺める。くる日もくる日も腹の底までふるわすような爆発音が響きわたり、黒煙が空をおおっていた。あの下にあるのが本当に私の住んでいたあの家だろうか。いま思えば、あれは月宮殿の破壊の炸裂音であり、焚書の煙であったのだ。

人情特高もいた

 六月九日、私たち三家族は亀岡町の南、中矢田農園に移転する。荒い普請の古家であっても荒塚の一軒家にくらべればずっと広く間取りも多かったから、子供たちはこ踊りして廊下をはねまわった。いよいよ三家族九人水入らずの生活が始まる。そのころ興味本位に、王仁三郎の留守家族の様子がニュース映画で報道されたことがある。きたない服装の私や弟や従兄弟たちが障子の絞れから部屋をのぞいている姿が写っていたと、母たちが笑いながら語っていた。

 ここにも警察の自は光っていた。私が外で遊んでいると、自つきの鋭い男が話しかけ、家族のことや客のことを聞く。まわりのおとなたちとはまったく違った雰囲気が私をすくませるが、嘘をつく知恵がないからありのまま答えるしかない。とがった母の呼ぶ声に呪縛をとかれ、玄関に逃げこむ。今度は母の質問攻めである。男からなにを聞かれ、私がどう答えたかと。あげくに母は釘をさす。

 「あれはトッコウ(特別高等警察の略称〉という悪い悪い人や。あの人の姿を見たら、すぐ逃げて帰るのやで」。悪という観念が幼い私の前に姿をあらわしたのは「特高」が初めてである。それでも私は何があったのか知らされず、またそれを知ることがこわかった。「死にたしと吐息もらせばおさな子は死ぬなといいて膝によりくる/いつひかれ行くべき吾が幼らと春日の庭に刻おしみつつ」 このころの直日の歌であるが、まもなくそれが現実になり、検束の手は、残された出口家の女たちにも及ぶ。

 六月一七日、まず母八重野が京都の川端署に護送され、ついで中立売署に移された。その道すがら、ある特高刑事が「お前はまだ若いんだから検事に会ったら泣いて見せろ。取調べが緩やかになるぞ」と知恵をつけてくれたが、ちっとも泣けない。それどころか「警察はこわくないだろ」と声をやわらげる検事にむかって、「暑いから窓をあけて」「寒くなったから窓をしめて」「ちょっと煙草ありませんか」。

 とうとう頭にきた検事に「饗察に遊びにきておるのと違うぞ」とどなりつけられる始末。検事は八重野からなんとか聞きだそうとするが、知らないものは知らない。「お前はとぼけるのが上手だ。王仁三郎そっくりだ」といわれて、くやしい思いがしたという。

 そんな八重野でも涙を流したことがある。「…一回だけ町の風呂につれていってくれましたね、なわひもをつけて。そのとき風呂で和明ぐらいの子どもをみて悲しくなってね、はじめて私の自に涙がにじんできました。帰ってきて、ちょっとおおげさに泣いてやれと思ってワンワン泣いていました。そこへ看守がびっくりして、それこそうちをなだめてなだめて『こんなほがらかな人が泣くなんて不思議やな』というてね。いっしょに雑房にはいっていた、おばあさんがいたの。看守が『このおばあさんに感謝しなよ』というので『なぜですか』といったら、『あんたはグウグウよくねる人で』と。とにかく眠くて眠くて眠りζけるのですね。『あなたはしらんでよいけれども、このばあさんはかわいそうに、ひと晩あんたをあおいでいたのや』というて、『おばあさん、ほんとですか』『あんたがよく寝てるし、私は寝られんので、あんたは若いし、かわいそうだからあおいであげたのですわ』

 その人がしきりに再婚をすすめてね。二七だったし髪をお下げみたいにしていたでしょ、それに私が『お父さんも、お母さんも、夫も、姉妹もここにはいっています』といったので。

 そのおばあさんは大本事件ということに気がつかないから『ここにくるようなムコさんのことはあきらめて、その若さだしよいムコさんをもらって』といってくれて、おかしくってね。女ばかりの雑房でしたが、入ってくる女がみな泣くのです。泣いて芝居しているらしいの。そうすると調べがやわらかいのですって。

 そんなこと私は知らないし、のんきで通ってしまったらしいのです」『おほもと』昭和三七年八・九月号「有悲之碑」

 取調べは一月近くも続くのだが、警察は八重野にはサジを投げ、「直日は行儀がよいが、お前も少しは見習って、大人になったらどうだ」と説教する。それでも勝手に作られた調書を見たとき「こんなこといってません。これみんな嘘や」と夢中で抗議したが、「いまさら否認してもだめだ」と検事はとりあってくれなかった。

 六月二二日、伯母梅野は亀岡署、ついで京都の五条署に移され一月近くを留置されるが、梅野の美しさは話題であったらしい。彼らはのぞきにきてはささやく。「あれが王仁三郎の娘か。ほう、ベッピンやのう」。なにを関かれでも「さあ…さあ…」と首をひねる梅野であったが、調べが出口直にふれると、きっと面をあげる。「開祖さまのなさることにまちがいありません」、とうとうそれで通してしまった。そのことが写真入りで新聞に出ると、梅野の長女操は子供心に誇らしくて、切り抜いて額に入れ飾ったという。 梅野はどうしても麦飯が食べられぬ体質で、帰ってきた時にはやせこけて、玄関の式台にへたりこんだまましばらく動けなかった。

 六月二九日、臨月近い身重の直日は、一〇日間にわたって綾部署に留置される。「お前の父母および主人亡きあとは、子供らを日本国民として恥ずかしくないように育てよ」との取調官の言葉は、直日の胸を深くえぐった。その上、綾部署特高部長の下書きした始末書を強制的に写させられる。「不逞不敬の大反逆思想を抱いておりましたにもかかわらず、このたび寛大なる…今後ますます謹慎いたしまして、日本国民としての…」煮えたぎる直日の胸のうちは、幾首かの歌になってほとばしり出ずにはいられない。「なみだ流れてやまざりけり ゆるされて帰るほどうのつゆの日照りは/かくのみの陥穽(かんせい)ありとも知らずして正は邪に勝つものと思いし/死の刑も笑みてぞうけん黒白の けじめ正しくわかち給わば」。

 まもなく直日は長男梓(のち京太郎と改名)を出産。拘置中の夫日出麿に手紙で知らせたが、何の返事もなかった。叔母の尚江も住之江も、亀岡署へ一週間ばかり毎日出頭させられる。住之江に対するは、京都府警きってのインテリ山崎英顕である。調べはあと一息というところですでにたそがれ初めていた。

 調書をしたためている山崎の筆を借り、住之江は自前の紙にさらさらと書きつける。「憶良らは今はまかむ子泣くらむその子の母も吾を待つらむぞ」、山崎はあらためて住之江を見直す。一八歳というお下げ髪の小娘に乳のみ子があろうとは。「よござんす」とそくざに彼は調べを打ちきった。

 万葉の山上憶良の歌が、取調官と被疑者との間に人間的な心のふれ合いを呼び起こしたのであろう。調ベの後、住之江は山崎に歌をおくつている。「職業はいかめしけれど優雅なる君の物腰こころ魅かれき」。

 敗戦後しばらくして警察畑を退いた山崎に、私はこの話を開いた。当時高校生であった私は、東京外語大出身の山崎から、英語の個人指導を受けていたのである。山崎は大本の若き知恵袋と評された父宇知麿と取調べで対決、まっこうから宗教論を戦わせた仲である。互いに人間的共感を抱きあっていた。

 父は彼からだけは一度も暴行や強圧を受けなかった。終生二人は親交をかさねるが、私が山崎に師事したのもそのせいであった。七月二八日姉妹五人とも起訴猶予と決定する。

 山崎のような人物が警察の中にもいたように、特高といえどもすべてが鬼ばかりではない。忘れてはならぬ人がいる。当時ほやほやのシンマイ特高であり、出口澄の取調べの助手をつとめた銅銀松雄である。銅銀は郷里愛媛の八幡浜に帰省した時、偶然のことから、母校八幡浜商業高校を中退して無謀にも大本にとびこんだ秀才佐賀伊佐男というのが、いま世間を騒がせている大物出口宇知麿であることを知った。銅銀の寄宿舎時代に使っていた机や洗面器は佐賀伊佐男の残していった名入りの物、だから会ったことはなくても妙に親近感があった。

 任務に戻った朝、銅銀は丸太町の検事局まで父を連行して行く役をみずから買ってでた。その道すがらの御所のベンチで、銅銀は後輩の名乗りをあげる。どちらからともなく校歌が口ずさまれた。手錠でつなぎ合った二人の手がいつか拍子をとり、低く合唱される。満開の桜の下、父はほろほろと涙をこほしたという。

 銅銀は、特高として許されるぎりぎりの範囲まで、人間としてのぬくもりを伝えてくれた。出口澄に彼女の大好きな黒砂糖をそっと手渡したり、澄を喜ばせようと残された家族のようすを見に亀岡を訪れたり、いやそれどとろか、許されぬ途方もない所まで、この人情特高は踏みこんでしまう。

 夏の初めのある日、澄はこの若く甘い特高についつりこまれ、無造作に心の底をのぞかせる。「二代さん、いったい何がいけないのですか」「そりゃ銅銀さん、これが…自ざめなあかん。改心せなあきまへんのや」これが…と澄は親指を立てていた。一瞬混乱したのは銅銀の方であった。

 「これが」とはなにか。それこそいま、国家が、特高仲間が、この一言を得るために血まなこになっているのだ。それがとともあろうに、二代教主の口をついてでた。「えらいことをいうたわ」さすがに澄も動揺を隠せなかった。それが拷問であればどんなにつらくても耐ええたであろうに、人の良い澄は、相手が人の良い銅銀だから、その職種すらはずみで忘れていたのであろう。

 せいいっぱいこわい顔をつくり調書にその重大な一言を書きこみながら、しかし銅銀は鬼にはなれなかった。「罪をきるんやったら、うち一人でよろし。うちが悪者になります。そやから…」必死の覚悟で叫ぶ澄をみつめて、銅銀はその調書の一枚を小さく引きちぎっていく。

 では澄に思わず叫ばせた「これが…」の意味はなにか。いずれ本書で明らかにしていく。警察では取調べにあたって、天皇陛下のみ名でむごい拷問をかさねる。肉体の上になおも精神的しめ木をかけてくる。「王仁三郎はすでに自白し(ワナである)髪まで切って更生を誓っておるのに、お前はまだがんばるのか。これからは四つ足扱いにするからそう思え」。

 公正な裁判に一縷の望みをかけて心ならずも警察の思い通りの調書に屈した被告たちも、予審にのぞんで暴行以上の不殺の殺にあう。自白をこばめば拷問のかわりに放置が待っている。二ヵ月、三ヵ月、そして二年半もの長い歳月が費やされるのだ。「お前が供述をひるがえせば全被告の審理をやりなおす。二、三年はかかるなあ。年寄りは死ぬぞ」

 王仁三郎を落としたのもその手だ。廊下を手錠をかけられて悄然として引かれてゆく老被告を見かけた時、王仁三郎は暗然として落涙し、多数の被告人の保釈をかちとりたさに署名捺印する。

 九月二一日朝六時、最高幹部岩田久太郎(六二歳)が獄死。「脚気衝心のため病死」との診断書。しかし岩田の獄中の歌に死因がはっきりと示されている。「むちうたばわが身やぶれんやぶれなばやまとおのとの血の色をみよ」。暮近くには松田政盛が拷問に抗議して中京刑務所で自殺をはかる。宮川剛は日赤病院に移され間もなく死亡。遺体には隠しようもない拷問の跡が無残に刻されていた。最高幹部の高木鉄男(台湾明治製糖元重役)は、自分のノートに記した言葉、「聖師には絶対、天子には批判的」「ほんもうじゃ、さかさまの世に不敬罪」「東京にむかって出発、邪神の巣穏に入らんとす」が激しい拷問の種にされる。

 高木は東京帝大で当時の小原法相と同期であったから、徳永検事正が特別に説得して自白をすすめたが聞き入れぬ。四年留置の末に釈放されたが、無罪の二審判決を見ずに病死する。地方警察でも犠牲者があいついでいる。弾圧の嵐は吹きやむととなく、昭和一一年暮までに九八七人が検挙され、三一八人が検事局に送れる。家宅捜索や物品の押収は全国的に信者の家庭にもおよび、大本に対する物件は紙一片だに見逃さぬきびしさであった。

 その年のうちに幹部六一人が起訴、全員に治安維持法違反が適用され、併合罪として王仁三郎ら一一人が不敬罪、高木鉄男と桜井重雄にはさらに新聞紙法違反が加わった。治安維持法違反は、「国体を変革することを日的として結社を組織したる者」に死刑または無期懲役、「情を知ちて結社に加入したる者」には二年以上の懲役を科するという民衆弾圧の悪法であり、共産主義運動取締りの目的で立法されたもの。これを宗教団体に適用することは権力側の一方的な解釈であった。

 以後、治安維持法との苦しい戦いが続く。

一転して国賊の子に

 昭和一一年四月、直日の長女直美、梅野の長女操が綾部小学校へ、翌一ニ年に私は亀岡小学校に入った。真新しいランドセルを入手した時、私は体の底がふるえるのを感じた。それはなぜか天窓郷の夜空を焦がす火の色やあの爆裂音を思いおこさせる。中矢田農園という出口一族の隠れ里だけが、いまは私の域であった。ここでなら、私は弟や従兄弟たちのお山の大将でいられたから。だが一歩外へ出れば、何かとても恐ろしいことが待ちかまえている予感があった。入学式の日から、早くも私の暗い予感は的中した。新入生やその父兄たちの目がけっして好意的でない視線で私を射すくめる。亀岡小学校が出口家の子供を迎え入れるのは私が初めてで、地元だけに王仁三郎の孫に対する興味は異常であった。私の胸にいっぱいつまっていた「なぜ? どうして?」の解答が次々向うからぶつかってきた。

 先生が、友遣が教えてくれた。私の祖父母や父や伯父たちが何もので、どんな大それたことをしでかし、今はどこにいるのか、それが何を意味するのか、いっぺんにはのみこめなかった。これまで私がなに一つ知らされていなかったことなど、誰が信じよう。

 子供らは私を勝手に王仁三郎の「子」(孫ではなく〉にし、「ワニさん」とか「ワニさんの子」とあだ名した。王仁三郎は「おにさぶろう」と呼ぶのが正しいが、世間では「ワニさぶろう」と呼んでいた。寝ても、起きても、獄中にいる「ワニさん」の存在が、私の脳裏に熔印されていた。子供らは大本や王仁三郎に対する噂をそのまま知識として吸いこみ、大人たちはその噂を新開、雑誌、単行本、ラジオなどから仕入れた。

 それらの世論をたくみに操作するのは、「大本を地上から抹殺せよ」と指揮する政府当局に外ならなかった。大本は「邪教」「妖教」であり、王仁三郎は「国賊」「逆賊」「大山師」「妖怪」「詐欺師」「色魔」だ。

 当局による世論操作の一例を示そう。事件直後、新聞記者や有力者を天窓郷に招き、わざわざ王仁三郎の寝室を公開して写真を撮らせている。敷きっぱなしの蒲団に並べた女の枕、その上、春画やみだらな展示がされたまま。

 「おかしいぞ。王仁三郎は検挙の二日前に松江に旅立っているのに」とつぶやく者もあった。京都府警の写真撮影を担当したSが、のちに「あれは写真を撮るため、外から持ってきたもの」と証言している。

 子供らにはネズミをなぶり殺しにする猫の残酷さがあった。彼らは私を追いつめてとことん私の耳に吹きこまずにはおかぬ。王仁三郎が多くの女性たちとどのような醜い関係にあったか。丹波独特の卑猥な言葉が子供とも思えぬえげつなさで投げつけられる。性解放の今日と違い、私にとって、その一事だけでもたいへんな犯罪に思えた。どれほど王仁三郎は贅沢をしたか。天皇陛下に対してどんな恐ろしい陰謀を企てたか。毒の吹矢を針ネズミのように私に突き刺しながら、なお足らぬ彼らは私をつねる、なぐる。

 だが彼らに悪意はなかった。今日の「いじめ」とは形は同じでも、根が違う。国賊の子を天に代わって征伐することは胸ふくらむ正義であり、愛国心の発露なのだ。なぜならば、天皇にとって代わろうとしたという弓削道鏡と王仁三郎を比較して「王仁三郎の方がもっと悪い国賊だ」と教えた先生がいた。習字の時間、名前を小さく端っこに書くと、それを生徒たちに示して「日陰者の子は名前をこんなにちぢこまって書く」という先生もいた。むろん小学校六年間を通じて陰から私をかばって下さった先生や、わけへだてなく叱って下さった先生だってある。

 大本事件中の出口一族は、まさに被差別民であった。私は、わが体内に流れるいまわしい血を呪った。白昼の太陽すらあおぐ資格のない、日陰者の子と自認した。私だけは、天皇陛下の赤子であってはならなかった。決してしあわせであってはならなかった。私はおろかにもそう信じ、ひとり思いつめていた。まさに「いじめ」の標的にされるにふさわしい、ネクラの少年であった。

 道をゆけば大人たちの冷たい目に出合う。「ワニさんの子が歩いとるぞ」「ヤーイ、青びょうたんのへーかまし」小さな子供まで私に石を投げた。ほんとは私だって、お国のためになることなら、何でもしたいのだ、日を輝かせて国賊の子を打つ彼らのように。だから私は走っては逃げない。うつむいて、身を固くして、しょほしょぼ歩いていた。一刻も早く彼らの自の前からかき消えたいとあせりながら通学の道が恐ろしいばかりに私はある方法を思いついた。まだ暗いうちに家を抜け出し、人気のない道をこっそりと行く。学校の裏門の向いにある土井家の戸をたたいて入れてもらい、そこで始業時間を待つ。時を見はからい裏門の鉄条網をくぐり抜ける。放課後は裏門から忍び出て土井家に行き、暗くなってから家へ帰る。これなら、私を見ているのは月や星だけ。

 土井家とは東京帝大法学部出身の元検事、大本幹部の土井靖都(やすくに)宅。その頃の靖都は未決拘留中で逆に裁かれる身だから、清江夫人が留守を守っていた。清江は私の乳母…というと、逆さまになろうか。清江は子を産んだことがないから、乳は出ない。授乳の時間だけ私を母に抱かせ、飲み終るとさっと連れ去る。後は誰一人手をふれさせぬぐらいにして、私を育ててくれた人であった。

 独占欲の強い人だっただけに、無条件に私をゆだねるのは祖父王仁三郎のふところだけ。東大病院の看護婦長であった清江の育児方針にはさすがに母も逆らえなかったらしい。ピアノや乗馬に明け暮れていた母であったが、時にはチョコレートやキャラメルで私を誘惑し清江にみつかって大喧嘩になったりした。

 夜も明けぬうち家を出て暗くなってしか帰らぬ理由を母たちは私の意思とは知らず、清江が離したがらぬせいにして快く思わなかった。両者の対立した感情のはざまにあって、私は胸を痛めた。清江の私に対する愛情は病的ですらあった。朝早く玄関の戸をたたく私を抱きとるようにして迎える。学校にまでしばしば顔をだす。授業中は外に立って窓ごしに私をのぞき、休み時間には手招きして引き寄せたがる。その過保護ぶりは異常であり、どんなに「もうこないで」と頼んでもきかなかった。

 「和明ちゃま、和明ちゃま」という清江の口まねが、友達の私をからかう種の一つでもあった。清江には、私に対する強固な信念があり、まだ物心つかぬうちから、熱っぽい口調で語り聞かせたものである。

 「和明ちゃまは十和田湖の龍神さんの生まれかわりで、ほんとうは聖師さまのお子さまとしてお生まれなさるはずだったのに、御都合で八重野さまが生ませていただいたのですよ」。とっぴょうしもない話だが、これについては後にふれる。こうして霊的には祖父の子だと聞かされて育ったせいか、光照殿時代の思い出にも私には父の存在がひどく薄い。母に押入れにいれられたときに出してくれた、ぐらいの思い出しかない。だから今となって私の心に突きささる「ワニさんの子」の十字架はどんなにつらくても負わねばならぬ。

 心の傷のうずきに耐えかねる夜は、私は土井家に眠る。なめて、なめて、なめころがす母猫のような、清江の愛情に抱かれたかった。「和明ちゃま、もう少しの御辛抱ですよ。今に日本が世界じゅうを相手に大戦いを始めます。そのうち日本のお空は、敵機でいっぱいになります。そうすると聖師さまが刑務所から出ていらっしゃって、指で飛行機に向ってエイっと光をだすと、ばたばたと落ちて…」

 語る清江は本真剣である。「なにしろ聖師さまは神さまだから」と。私はそんな夢のようなことを信じない。第一神さまならなぜ牢から出てこれないのか。なぜ私を助けにきてくれないのか。寝る時には清江は私の枕元に端座し、ひそかに隠し持つ『霊界物語』を読み聞かせてくれた。人間が大蛇の腹中を探検したり、白狐が活躍したり、子供の興味をひきそうな個所を選んでだが…それが嬉しくて家に帰りそびれ、私の土井家泊まりはついかさなる。夜中に目ざめても、彼女は膝もくずさず、ぼそぼそと音読している。小さな私に『物語』の深い意味など理解できるはずもないが、 「眠っていらしても、和明ちゃまの霊魂はちゃんと聞いています」といってやめなかった。私は神々の物語の中で安らかに眠った。

 一年生の秋、直日や梅野一家が亀岡へ移り、中矢田農園の住人に加わった。同居していた三姉妹もそれぞれ農園の中に家をもって独立していた。私より一つ年長の直美や操も亀岡小学校へ転校した。いつのころであったか、操がいじめられ大声で泣きながら学校から走り帰る姿を見て、とてもうらやましく思った。泣くとか訴えるとかそんな無邪気な子供らしさを、私はひとかけらも残さず失っていたから。外でいじめられているなど、母や清江や一族の者に知られる、ぐらいなら、死んだがましだ。父兄参観日、母の視線の中で、死に物狂いで演技する。とつぜん誰かにぶつかったり、授業中に奇声をだしておどけたり、みんなに負けずに結構いたずらをやってますというふうに。そのくせ冷や汗を出しながら。「和明がいたずらするので、恥ずかしゅうて」と母が叔母たちにこぼすのを聞いて、私はとびはねたいほど嬉しかった。

 自意識過剰の、さぞいやらしい少年であったろう。三、四年生になっても私のみじめな立場はつづいていた。全校生徒が校庭に立ち並ぶ朝礼のとき、背の順で中ほどにある私は後へ後へとはじき出される。はねのけられるのは慣れっこだが、弟や従兄弟たちの自にさらされるのが悲しい。私は今でも出口一族の隠れ里、中矢田農園のがき大将なのだ。その大将のみじめなかっこうを、彼らに、どうして見せられよう。はじき出される前にみずから下がって舌をだす。悲しきパフォーマンスだ。クラスの列の一番後尾にニンニクくさい子がやはり疎外されて立っている。その子が並んでくれたら「のらくろ全集」をそっくりやろうと、私は心で誓う。しかし彼のひじは待っていたように私の脇腹をきびしく打った。

 ぽつねんと一人立つ自分の影法師。まじろぎもせずに見つめておいてから空を見上げれば、青空をくっきり抜いて影法師が写る。あの白い影法師が本当の私であり、見ている私が影法師の影であればと、どれほど願ったことか。やがて影法師が暗く自の前いっぱいに広がり、すべてが遠くなる。こうして医務室に運ばれることが何度かあったが、青白きやせこけた「青びょうたんのヘーかまし」が日射病で倒れるぐらい不思議はなかった。

第一審祖父は無期懲役、父は懲役一五年

 昭和一三年一〇月四日、五九人の被告の予審終結、全員治安維持法違反、うち一〇人が不敬罪等の併合罪で公判にふされることになる。一〇月一四日、尚江の夫貞四郎叔父が病気療養のために保釈出所、一族にはじめて男がもどった。

 貞四郎は二代目東京商業会議所〈東京商工会議所の前身)会頭中野武営の孫で一高、東京帝大を卒業。学生時代ボート部で鍛えた恵まれた長身と端正で理知的な面立ち、激しい正義感と情熱の持主で、特にその歯切れのいい江戸弁が、私はたまらなく好きであった。貞四郎の発病は二年前であった。昭和二年夏、刑務所内で喀血、肺浸潤の診断で、房中絶対安静の状態に入る。予審判事に問われてありのまま病状を答えると「そりゃ君、入ってれば治るよ」と冷然といいはなたれた。

 血痰や高熱がでても無理解な看守は「異常なし」と答えて二年余。いたましくやせ衰えた叔父を抱え三人の子を夫の肺病から守りつつ、尚江の必死の看病が始まる。一二月一三日、住之江の夫新衛が保釈出所してきて、農園の中は次第に明るさを取り戻した。事実審理が終ろうとする直前の昭和一四年三月一三日、林弁護士は予審判事松野孝太郎を文書偽造行使罪の嫌疑あるものとして検事総長木村尚達あて異例の告発をする。

 出口自出麿が精神異常になったと知って、昭和一三年七月二五日、林は前回、富沢、田代三弁護人と共に中京刑務所で日出麿に接見し事実を確認した。そこで二七日、京都地方裁判所第一刑事部に日出麿にたいする精神鑑定の申し立てをする。庄司裁判長は京都帝大医学部精神病学の三浦主任教授に日出麿の精神鑑定を命じる。三浦は数回にわたり鑑定を行ない、一ニ月ニ一日に鑑定書を提出した。それによると「出口元男(日出麿)は現在真実の精神病にかかり、病名としては精神分裂症がもっとも疑わしきものなり」とし、その発生の時期を昭和一ニ年三月ごろと推定した。ところが松野予審判事の作成した日出麿にたいする予審尋問調書は理路整然として乱れたところがないのは不可解であり、文書偽造行使罪の疑いがあるというのが告発の理由である。

 この告発事件は大阪控訴院の取調べの結果いちおう不起訴と決定したが、司法部内に大きな衝撃を与え、社会的にも第二次大本事件の取調べの内容についての疑惑を抱かせる。これを契機として、弁護団は受身の立場から積極的攻勢に転じて行く。一〇月二七日に日出麿が京大付属病院から退院し、中矢田農園に帰ってきた。精神分裂症と鑑定された伯父の言動はしばしば常軌を逸し、夜中にはだしでとび出して山野をさまよう。新衛叔父や町在住の信者たちがいつも身辺につきそわねばならなかった。私たち子供はただこわごわ遠くから眺めるうたのみである。

 「うつろなる夫の魂誰にむかい吾が訴えんもとにかえせと」、そう詠う直日の心は、切り裂かれんばかりであったろう。おだやかな容態のある日、日出麿は屏風に筆を走らせる。「はるかぜの吹きのはげしきうつそみを見そなわすらんおからすの神」、同じ扉風にしたためた直日の返歌。「吹きつのる風のはげしきわがつまを あわれみたまえおからすの神」 おからすの神とは、伊勢の香良洲神社の祭神わかひめぎみのみこと(稚姫君命)のことで、出口直の神霊とされている。昭和一五年一月、阿部内閣が陸海軍の支持を失って総辞職し、かわって米内光政内閣が成立する。このころ、信者の大山美子が京都の中京刑務所で王仁三郎に面会し、物価高を訴えた。「米もないのですよ」「そりゃ当りまえや、コメナイ(米内)内閣だから」「炭もないし…」「お澄をここに入れておくからや。早くお澄を出せばよい」「今は闇(闇相場、闇取引)ばかりで」「闇の後には月〈瑞月、王仁三郎の号〉が出る」「いつ出ますか」「…」

 二月二九日、京都地方裁判所の陪審大法廷において第一審の判決が下る。出口王仁三郎無期懲役、出口宇知麿一五年、井上留五郎、東尾吉三郎、高木鉄男各一ニ年、出口澄一〇年…叔父の出口貞四郎は五年、出口新衛は四年の各懲役であった。弁護団はこの判決を不服とし、即自控訴の申し立てをする。各新聞はいっせいにこの判決を報道、法廷の模様を伝えている。四月、米、味噌、木炭、砂糖など一〇品目に切符制を採用する。この頃、八重野は風邪から急性肺炎になり、危篤状態になった。それを理由に、弁護団は王仁三郎の保釈をかちとろうとした。その結果、見舞いのために宇知麿の一泊の帰宅が許されるとの朗報。

 四月一六日、四国からきていた伯母佐賀トモエ(父の実姉)、不屈の精神力で健康を回復しつつあった貞四郎叔父、それに私と弟が中京刑務所に迎えにいった。汽車とハイヤーの、どちらで帰るかと聞かれた父は、「久しぶりで景色をゆっくり眺めたいから」と汽車を選んだ。父は円錐形の深網笠をかぶり、絞つきの羽織はかまをつけていた。その後を二人の刑事がついてくる。

 「網笠はこちらからは見えて向うからは見えないから、便利なものね」と誰にともなくつぶやき、父は笑った。亀岡釈で人だかりがしたが、私はついと他人のような顔で離れた。その夜、病妻の枕元で隣室の刑事を気にしつつ父が何を語りあかしたか、私は知らない。

 翌夕、九時の門限にはまだ十分に時間があるのに、几帳面な父らしく「あちら(刑務所)に心配をかけては気の毒だからね」と、なれなじんだ家へでも帰るように獄舎へ向った。父が戻っていった翌一八日早朝、王仁三郎、澄、宇知麿は護送用の大型自動車で大阪北区刑務所へ移される。その四日後、澄もまた許されて一夜を娘の見舞いに戻り、一族に囲まれて明るい笑いの渦をまく。

 「八重野が病気してくれたおかげで、私も字知麿も帰れた。お前は親孝行してくれたのう」。母の肺炎は峠をこえていた。どんなにこの日を夢見ていたであろう、一族に囲まれてとった写真の澄はほほえみ、九人の孫たちはそれぞれ、おどけて写っている。直日は詠む。「何をして仕えもうさめ只一日 許されて母の帰り来ませる/寸秒も惜しむおもいに母上の めぐり離れずわが家族どち/この黒白 わけたまうまで囚獄(ひとや)ずみ 一生辞せずとのらす母かも」。

 この頃から農園では総出で田や畑仕事に励む。私たち子供まで、麦踏みや田植えに懸命になる。自活への態勢である。昭和一五年六月、町では食料増産をはかるため、もと大本の土地を私たち小学生までかり出して開墾し、苧や南瓜を作ることになった。私にとっては五年ぶりに見る天恩郷である。恐ろしかった。また友達に何をいわれるかとすくみながら、瓦礫の山に踏みこんだ。

 これが本当に美しかった天思郷なのだろうか。友達らのいじめから逃れ、酷熱の太陽の下で、私は石や瓦を掘りおこしては夢中で運んだ。が、突然、心臓が止まるかと思った。金線の模様のはいった瓦にくっきりと十曜の紋が刻まれている。私はそれを菊の御紋章と信じこんだ。「ワニさんは枕や寝巻にまで菊の御紋をつけていた」と友達がしゃべっていた言葉が、私の頭の中でがんがんひびきわたる。この決定的証拠をどこにかくそう。私は瓦を抱えて掘端にかけおりた。掘の中に投げこんだまでは覚えているが、後は分からない。意識がもどったときは、上の方で友達の明るい笑い声が聞こえていた。

 昭和一六年五月二七日、父の実母佐賀シナヨ死去。佐賀家の一人息子であった父をこころよく出口家に養子に出したぐらいだから、シナヨの信仰は一途であった。宇知麿が保釈になるとのデマが流れ、シナヨにこの吉報を伝えた時、彼女は浮かぬ顔でいった。「あの子が最後まで聖師さまのお供ができすようにと祈っていたのに…」

 この母の死に自にあえず獄中にいた字知麿は、それが母の望む最後の孝行であったろう。思いがけやす再び父といっしょの時を過ごすことになった。葬犠のため母、私、弟、新衛叔父が父とともに愛媛県大洲へ旅立つ。大阪天満署の巡査二人がついてくる。ジジババの葬式は孫の祭り、私は船に乗って海を渡れることが嬉しくってならなかった。船中、巡査に監視されながら父と弟と三人、まわり将棋をして遊んだのは忘れえぬ思い出で、なじめなかった父に私は初めて子供らしい親近感を抱いた。

 仕事の鬼であった父と遊んだのは、生涯この時だけであった。シナヨの葬儀には、一人の信者も参列を許されなかった。大本の会計を担当していた中村純也がひそかに私たち一行を追って海を渡り、参列者の中にまぎれこむ。親戚のふりをして巡査をごまかし、一室で宇知麿と重要な打ち合せをする。この時の滞在は二日間で、宇知麿は一舟び獄へ戻る。

 

ぼっかぶりの歌

 昭和一六(一九四一)年一二月八日未明、六年前の大本事件勃発と同日同時刻、日本はハワイの真珠湾奇襲によって、太平洋戦争に突入する。不思議な暗合である。法廷闘争も激しくおこなわれていた。だが長い未決の生活中、出口澄だけは何のために投獄されているのか最後まで分からずじまいで、ひとかけらも罪の意識はなかった。おそらくこんな被告人は、前代未聞であろう。学問をせぬ澄には文字はひらがながやっとだし、法廷での検事と弁護士のやりとりもかいもくわからぬ。 これでは取調べの係官もさぞ因ったに違いない。役員の東尾吉三郎にあてた澄の書簡が残っている。(原文はすべてひらがな〉「…実のところ、私はこの五年、この中にいれられたのであるが、本当のところは知らぬのであります。裁判所で検事さん、判事さんのいわれた意味がわからず、弁護士さんも罪のわけを話して下されたこともないし、さっぱりわかりませぬ故、どういうことを私がしたがために未決にいるのでありますか、一度わけがらを話してほしいのです。この世のヒナ型として神さまがお使いになっているということより、合点がゆきませぬ。これは神さまのことであるし、人間界の罪はなにをしたのであるか、くわしく話して下さるように願います」昭和一六年四月一八日

 澄は六一人の被告人中ただ一人の女性として、未決の独房生活を強いられた。「気を強く広く大きくこまやかにあたたかみある人になりたき」 これは澄の歌であるが、澄の人柄そのままをあらわしてもいた。長い未決の独房にいても、その人柄はつゆほども損なわれてはいない。京都の中京区刑務支所の独房は畳一畳に一畳の板の間がつき、手の届かぬ所に二尺角の窓が一つ。洗面も排便もこの鉄格子の檻の中ですます。司法省から刑事局長一行の未決監視察があったときのこと、彼らは四、五人で廊下を渡りながら大本被告の監房をのぞいていった。

 澄の独房をのぞいた時、思いもかけず中から声をかけられた。「あんた、そんなところから目ばかり出しておっても話ができしまへんで。まあ、ここへ入って、ゆっくりいっぷくおしやす」。彼らは思わずにっこり会釈を返し、あわてて澄の独房を離れた。帰京した局長は林弁護士に「この前、関西で偉い人に会ってきたよ。大本の二代教主という女、あれは傑物だね」と述懐した。

 独房で一番恐ろしいのは孤独である。窓越しに見えるのはただ一本の桐の木。この桐だけが生き物であり、澄の喜びを汲み上げる心の友となった。春の角芽のやわらかなときめき、茂り合う夏の葉のたくましい命、やがて散り落ちて知る秋、冬の裸木のいたいたしい枝先…コンクリートのわずかな窓枠ごしにひねもす見つめあい、語りあう。夏の初め、桐は幼いセミをとまらせ、鳴かせてくれた。桐もセミもいじらしく、可愛くて、涙がにじむ。そこには、日を浴びて万物が愛し合い、生かされる姿があった。 ある日、不意の訪問客に驚かされる。一羽のスズメが窓枠に止まり、澄をのぞきこんでいるのだ。「ああ、お前はスズメやないか。どこのスズメやいな」と語りかけると、たちまち仲間が集まってきて、にぎやかに合唱する。次の日、差入れ弁当をへずってスズメのために御飯を残し、高い窓枠においた。スズメは毎日毎日遊びにきて澄の御飯をわけあって食べる。独房が変わっても、スズメたちはちゃんと澄を探しあてて集まった。今度の窓枠にはどうしたものかキビがはえていて、秋になると穂をつける。そのキピにスズメが止まって、楽しげにゆれながらついばんでいる。その喜びが、自然の姿の美しさが澄の胸を深くひたしてくるのだった。

 ある朝、澄は手のとどくところに、思いがけぬ友を見つけ出す。「まあ、ありがたい。お前はどこから来たんじゃ。ここは虫一匹くる所じゃないのに」と、澄は喜びのあまり、大声をあげた。それは二匹の、ぼっかぶりである。両手を膝の上に行儀よくそろえて首を傾け、黒い顔で澄を見上げる。夫婦らしい。ぼっかぶりというと愛らしいイメージだが、これは綾部地方の方言で、つまりきらわれもののゴキブリだ。ぼっかぶり夫婦はたいへん律儀者で、毎朝八時になるときまってあらわれ、洗面の水たまりで遊んでゆく。

 初めははにかんでうつむいていたぼっかぶりも、だんだん澄に慣れなじみ、頭に登ったり、ひざの上でいっぷくしたりである。そんなとき、よく歌をうたって聞かせた。夫婦はいつかすましこんで、頭をちょっと傾けて聞きいる。そのきまじめな様子がおかしくて、笑いころげたこともある。 澄の与える餌を、夫婦仲よく上品に分けあってたべていた。ある朝一匹で現われたぼっかぶりが、いかにも元気なく歩みよってくる。「お前の嫁さん、今日はどうしたんやいな」と問いかけても、しょぼしょぼするばかり。次の臼も次の日も一匹だけ。たまりかねて澄は、担当の看守に「黒い小さな虫を見かけなかったか」と聞いてみた。「なんという虫か知らんが、この房の前を二匹の虫が通っていて、一匹をうっかりして踏みつぶしてしまった」。

 しかたがない。交通事故である。澄はやもめの虫にいい聞かせる。「お前は虫やでな、ちょっとも遠慮はいらんさかい、のちぞいを連れてきて、見せておくれよ」、それでも、ぼっかぶりは寂しげに一匹できた。こうした交遊が八、九ヵ月もつづいたある日、いつにない威勢のよい歩きぶりで、ぼっかぶりがシュッシュッとやってくる。その後に恥ずかしげな花嫁を従えて。「お前さん、カカアもらったのかい。よかったなあ、ははは」と澄は祝ってやった。新夫婦はなぜか夜ふけでも帰らず、澄の夜具の中にもぐりこんでくるようになった。

 ぼっかぶりの離れがたそうな気配から、保釈の日が近いのではないかと予感する。間もなく弁護士から、保釈の知らせがあったが、こみ上げる喜びと共に、澄は「ああ、この虫を置いてゆくのはかなわん」と真実とまどう。しかし保釈は中止になり、再び向じ独房にぼっかぶりと暮らすことになる。

 獄中にいる信者の着物を洗濯させてほしいと澄は看守に頼みこみ、毎日、一〇本ほどの手拭を洗っていた。娘たちの面会にくるうれしい日、澄は歯ミガキ粉を念いりに顔にはたいて会う。獄中で患った丹毒の跡を隠すためであった。「いつもいうように、私のところに〈面会に〉くるよりも、父さま(王仁三郎)と息子(獄中にいる婿養子たち〉の方に行く方が嬉しいです。私はなんとなく、ここへはいらしてもらった方が気持がいいのです。私のことは心配せいでもよろしいです。 一一の時から今までの修行よりも、こちらへ来てからの方が悟りが開けたような気がして、とても嬉しいです。お前たちに勝手に会えぬのはかなわんなれど、その他は結構な修行であると思っています。〈八重野あての手紙、原文ひらがなのみ〉

 住之江あて便りの末尾には「ありがたいありがたいのでありがたいありがたいより言葉ないなり」と書き添えている。小学生の私は、母に連れられて何度も大阪の裁判所にいった。子供だから法廷内にいれてもらえない。廊下を通る祖父母や父を一目眺めるためだ。祖父は茶目つけたっぷり、父は謹厳そのもの、祖母は片手で網笠を上げて信者たちに笑いかけるが、千両役者のように堂々としていた。

 中京区刑務所の女看守平井ツルは澄の人柄を慕うようになり、ひそかに黒砂糖や巻ずしやうどんまで与えてくれたという。ある時など、こっそり火をつけた煙草をいれてくれた。「これは神さまが『この事件はどうなるだろう』と心配している私に謎で教えて下さったのだ。この事件は煙になって消えてしまうということに違いない。こんなところにはいることのない者がはいったのゃから、これは煙になるということを神さまがいうて下さったのである…そう思いながら、私は煙草を喫うていました。この時の煙草ほど、おいしい嬉しい味というものはあるものではありません。煙草は喫えば減る、喫わずと、おいても減ってゆく、喫んでも惜しい、喫まずとも惜しいで、一本の煙草を心ゆくまで楽しみました」

 ツルの澄に対して示した規則破りは仲間に密告され、宮津に転勤になる。正直者のツルは宮津の転勤をことわり、辞職して家庭の人となった。ツルの父親は山科刑務所で王仁三郎の担当になり親切にしてくれたと、澄は伝えている。保釈後も、ツルは懐かしさに再三、澄を亀岡に訪ねてきていた。京都の未決に四年、澄は大阪拘置所の五畳ほどの雑一房に移される。ぼっかぶりとの、お別れだ。「ほしくらに三とせなじみしぼっかぶりに 別るる今日はつらく思うも/なが月日 われとなじみし、ぼっかぶり 仲よく暮らせよ妻を迎えて/四年を慣れなじんだる、ぼっかぶり妻はまめなか子らはふえたか」

 大阪では、四、五人の女囚の入れかわり立ちかわりの雑居生活で話し相手に不自由せず、にぎやかで楽しかったという。飯とおかずを半分ずつ、かわるがわる皆に与えた。人買いや盗人、前科何犯という彼女らが澄の肩をもんだり、たたいたり、そして過ぎこしかたのさまざまを語る。「おばあちゃんの側にいたら、もう外に出たくない」といい出すものもあった。 古川教誨(きょうかい)師は澄が獄中で歌った詩を書きとめている。「浮き世離れしひとやのすまい 寝るも起きるも歩むも立つも 狭いへやうち心は広く 今日も一日良寛さまの 本を読んだりお話ししたり 可愛いスズメをからかってもみたり すてた草花をもう一度ひろうて 水に映してたてよこ眺めりゃ いけた菖蒲のいとしおらしく 今日のひと日のよき友よ 明日は娘がくるとの便り あれもいいたいこれも聞きたいと 紙を結んで菖蒲にくくりゃ 二つ三つ四つ五つ六つ むつかしの世にうき世離れしひとやのすまい 寝るも起きるも歩むも立つも 狭い部屋うち心は広く」『おさながたり』「オツルさん」

 

治安維持法違反は無罪

 昭和一七年七月三一日、第二審判決の日がきた。大阪控訴院第三号法廷は、全国からひそかに集まった二〇〇人の傍騒者であふれでいた。思い返せば、実に長く険しい道のりであった。清瀬一郎、林逸郎、高山義三、前田亀千代、田代三郎ら一流弁護士一八人からなる大弁護団が結成されてから公判だけでも第一審で一〇五回、第二審で一二〇回、さらに上告審と民事事件をも含めて一〇年間にわたる弁護活動をおこなうのだから、裁判に要する費用は莫大であり、弁護事務にも多数の人が必要であった。膨大な大本の動産、不動産いっさいは捨て値同然で処分させられたから、この資金源は当局の計算通り、第一審ですでに枯渇した。その何倍もの資金が信者の地下活動によってまかなわれてゆく。

 大本を信じたばかりに村八分にされ、社会的地位をはぎ取られ、非国民よとさげずまれ、非情な世間の迫害に耐えながらなおひるまずに支えつづける名もない人々。信者同士の会合はいっさい許されぬ。時には刑事の尾行を振りきっての募金活動は、血のにじむ苦しさであった。弁護費用を献金しただけで検束される者も続出した。それでも日々の乏しい家計のやりくりから、仕立物の賃仕事の中から、土方をしたわずかな日銭から、信者たちの誠心が集められ、裁判費用に消えていった。

 「のどの乾きに 水欲る如く金ほしき 思い一途なり路あるく間も」と弁護費用のない悲しさを直日はうたうが、事件前まではリンゴの皮もむけなかった梅野まで、昭和一三年二月の厳寒の満州へひそかに募金に渡っている。

 「神わざをなすのが原の玉草は 踏まれにじられながら花咲く」 王仁三郎のこの歌は、いわば「かくれ大本」たちへの賛歌だ。苦しければ苦しいほど、その信仰を浄化させる。くじけでてはならない。大本を立直せば日本が立直るのだから。暗黙のうちに彼らの胸に流れるのは、開教以来脈々と生きつづける型の信念であったろう。午前九時、王仁三郎ほか四八人の被告、弁護団一向が入廷すると、裁判長、判事、検事が着席。息づまる静寂のうちに響き透る高野綱雄裁判長の判決文。「被告人王仁三郎を懲役五年… 澄、伊佐男…を無罪とす…」王仁三郎以下八人の不敬罪こそ残ったが、弾圧の主目的である治安維持法違反はすべて無罪。逆賊の汚名で大本を地上から抹殺しようとした国家の重圧をはねのけての、勇敢で峻烈な高野裁判長の判決であった。被告人も、弁護人も、傍聴の信者たちも、思わず嗚咽をかみしめていた。弁護士の一人が法廷外にとび出し、つめかける信者に無罪を知らせる。

 もう声をしのばせる必要のない信徒たちは声をあげ、肩をたたきあい、抱きあって嬉し泣きに泣いた。次々に全国の信徒へ電報がとぶ。この間にも、二時間半にわたっての判決の朗読はつづく。これに反して、おもしろおかしく連日大本の悪口を書きたてた新聞各紙は、その片すみに小さく第二審の判決を伝えただけ。しかも治安維持法違反無罪の重大事実よりも、「大本教の判決/不敬罪で処断」といった見出しで有罪を印象づけた。この頃の全国新聞は記事に対する検問も強まり、紙面は圧縮されて連日戦争一色の記事でうずまっていたのである。

 八月二日、不敬罪その他で有罪とされた王仁三郎以下九人は大審院へ上告の手続きをし、翌三日には検事側も治安維持法違反で無罪になった被告全員にたいし、上告の手続きをする。八月七日、王仁三郎(七二歳)、宇知麿(三九歳)は六年八ヵ月ぶり、澄(六O歳)は六年四ヵ月ぶりに保釈出所する。かけつけた弁護士、信者らに迎えられ、真砂町のさぬき屋旅館で休息、朝日、毎日の記者と会見して王仁三郎は怪気炎をあげる。

 「おもしろかったでよ。予審判事が『お前は世界の独裁君主になるつもりだったろう』というからわしは『こんな狭くるしい世界の王さまになど頼んだってなってやるもんか。まあ、三千世界の王さまにでもなってくれと頼むなら、ひょっとすればなってやらぬでもない』とな。そしたら『法律上ではこの世界以上は通用せんわい』と値切りよった。それでわしは『判事さん、あんたはえらい安うこのわしを買うんじゃな』といってやったわい。ははは…女房のお澄は日本の刑務所はじまって以来、これぐらいほがらかな未決囚は今日までなかったそうや。伊佐男のまじめさも刑務所はじまって以来やそうじゃし、わしのはまた、これぐらいズポラな未決囚はなかったそうじゃわい。三人が三人とも日本一じゃでなあ。

 わしはあんな窮屈な場所でまじめくさっておれん。それで一計を案じて『痛い、痛い』と大声をあげてやった。そしたら看守がきて『お前のはニセ病だ』というから、『仮病でこんな声がだせるか』というて、死声をだしてやった。刑務所の医者がこれまた仮病というので、『今日の医学では神経痛が本病か仮病か鑑定できるのか』と一本かまして、『本人のわしが一番よう知っとる』というてやった。そしたらその医者が『嘘じゃと思うけれど、理屈にはかなわん』と、私を病監へまわしてくれた。わしは七年間、病監で布団を敷いて、へそを上に向けて寝ておったんや」

 横から、澄が口をはさむ。「私も先生にはあきれたことがあったのやで。女の看守が私のところへきて、『奥さん、あなたの御主人は玩具がないいうて、珍宝を玩具にして遊んでおられるという話ですよ』というていましたが、先生、ほんまですかいな」「刑務所というところは玩具の一つもないところで、日がたたんわい。いろいろ探してみたところ、敵は本能寺にあり、手もとに塚原ト伝の一刀があったわい。ははは…刑務所に入っている者は、みな明けても暮れても心配ばかりしている。わしはもうこれで何年も入っている、自分の身の上は一体どうなるだろう、家族はどうしているじゃろうかと心配ばかりして、自分で自分の命を削っとる。わしらはそんな心配などせん。過ぎ去ったことを悔んでみたり、まだ来ぬ日のこ とをいくら心配してみたところで、決して思うようにはならぬ世の中だ。人間の自由になるのはこの瞬間だけだ。今というこの瞬間をいかに楽しく、いかに有効に送るかだけ考えて、あとはいっさい、神さまにお任せしておけばよいのじゃ。ははは」

 まったく王仁三郎は天衣無縫、おおいにだだをこね、わがままいっぱいに係官を手こずらせた。澄は天真爛漫、ころころ笑い声を立てる人なつっこさで愛矯をふりまく。警察署長でも、監房の看守長でも「うちの人」と思っており、行く先々にそれぞれ楽しみがあり「住めば都」の言葉通り「ここも天国じゃなあ」と毎日暮らしていたので、差入屋の弁当だけでかえって太った。夜もよく眠れて不思議なほど体の調子もよかったという。宇知麿はまじめ一方、就寝の時以外はきちんと正座して、読書ざんまいにふけっていた。「心ゆくまで勉強できて、ほんとにありがたかった」と父は私に諮っていた。

 監房生活を神から与えられた修行と考え、自分の忍耐力を試す覚情であったらしい。だからヒョウソにかかったときは麻酔をことわり、平然と手術を受けて医者を驚かせた。

 小学校の六年間、私を悩ませ苦しめつづけた国賊出口王仁三郎をこの目で確かめる日であった。祖父の存在に占められた私の頭に、祖母や父まで入りこむゆとりはなかった。その昼、私はまた何故、祖父に食わしたくて、好物だと聞く小魚やどじょうを川へとりに行ったのだろう。王仁三郎、澄、宇知麿が中矢田農園の熊野館に帰りついたのは、午後七時前後だったろうか。二〇何貫の太った体で廊下をきしませながら、澄はほがらかに笑った。「ああ、よい修行をさせてもろうたでよ。私の生涯の中で、一番楽でけっこうな修行じゃった。こんな修行なら、なんぼでも辛抱できます」 けれど王仁三郎はいい放つ。「あほぬかせ、もうこりごりじゃわい。どえらい無茶さらしくさって。もう二度とあんなとこ、入ってやるかい。わしを出したこの日から、日本は負け始めじゃ」

 私は自の前がまっ暗になった。悔悟の一言葉を、祖父の口からじかに聞きたかったのに。必勝の信念と愛国心に燃えている私は、ついに王仁三郎の逆械のしっぽをつかんでしまった。絶対に友らに聞かれてはならない言葉で。

 当時、出口日出麿は看護の人たちと穴太〈現亀岡市曽我部町穴太〉の長久館に往んでいたが、狂態はつのる一方であった。保釈出所した王仁三郎は、八月一七日、富士山と松をえがいた色紙の裏に一文をしたため、日出麿に届けさせた。「長年幽閉不自由の身もようやく暗雲靖れて無事出所したり。御安心ありたし。元男日出麿どのも長らくの困苦と荒修行をなし、ついに大本事件は無罪の判決に晴天白日を迎え欣喜にたえす。もはや元男の荒業も効を奏し、この上続行するのはかえって天授の心身を破るおそれあり。本日より荒業を絶ち、飲食を一二分に採り、心身の回復を祈られたし。先は右の由承知ありたく、幸便に託しわが意を伝え候也。五月闇、晴れて天地の光かな」

 だが日出麿の魂は光を受けようとせぬ。王仁三郎は看護の人たちに「日に三度、霊界物語を読んでやるように」と命じたが、『物語』の声を恐れて逃げ回った。看護の坂田三郎が頭から蒲団をかぶる日出麿の面上あたりで読み聞かせると動けなくなり、顔も手足も赤くふくれあがったという。澄は「拷問でひどく衰弱したときに副守護神に肉体を占領され、日出麿は人三化七になった」と嘆いた。
 戦火の予言が人々を救う獄中でも、王仁三郎はわずかな機会をつかまえては日本の将来を暗示しつづけたが、保釈後は監視つきとはいえ予言はいっそう大胆に具体的となる。隠れ忍んで面会にくる人々の口を通じて、王仁三郎の吐く人言が国内ばかりか台湾、朝鮮、中国にまで波紋を描いて広がっていく。「よきにつけ悪きにつけて世に響く わが言の葉にみずから恐るる」と歌うように、王仁三郎は早くから日本、および独、伊の敗北を確言、その言葉はほとんど全国の信者たちにゆき渡っていた。根室から来た信者には「千島列島がなくなる」と語り、「台湾がうしなわれる」とも伝えていた。いよいよ戦局が激化した昭和一八年には、次のように語っている。「神論に未と申とが腹を減らして、むごたらしい酉あいが始まるぞよ』とあるが、今年は未の年で日照りが続き、飢饉になる。羊は下にいて草ばかり食う動物であるから、下級の国民が苦しむ。来年は申年で、猿は木に住むから中流の人が苦しみ、国民の心が動揺してくる。再来年は酉年で、いよいよ上流の人が困り、むごたらしい奪い合いが始まる。また戦争には病気がつきもので、疾病が流行する。大峠は三年後だ」「いったんは日本は米国の支配下におかれるが、それもしばらくの間や」「日本の敗戦後は米ソ二大陣営の対立…」

 空襲については、「東京は空襲されるから、疎開するように」「大阪も焼け野原になる」「広島と長崎はだめ」「九州は空襲だ」、反対に「京都は安全」「金沢は空襲を受けない」と教え、伊勢空襲をも示す。昭和一九年頃には「全国おもな都市は.灰になる」と警告した。これらを信じた者はすべて救われ、大難を小難に、小難を無難に大峠を越えている。王仁三郎は「今は悪魔と悪魔との人殺しの戦争だから、カの強い方が勝つ」といい、戦争に協力しないよう信者を指導した。「すすんであぶない所へ行かぬように」とさとし、「鉄砲は空に向けて打て」と教えた。それらの雰囲気を身をもって体験した私だった。

 「日本は負けても世界の鏡になるのやで。これから、どんなにこわいことがあっても、神さまにすがって、おればよい。カンナガラタマチハエマセといえば、神さまにつながる。『月鏡』の中の悪魔の世界とある所を読んでおけ」「大本が弾圧を受けたので、戦争に協力しないですんでいるのだ。こ れが将来に大きな証明になるのや」と信者たちにもらしてもいた。 第一線に立つ出征兵士には「今度の戦争は生き残ることが第一の神徳だから、お守りをやる」といい、「我敵大勝利」と書いて与えた。「これが官憲に知れては危ない」と人に注意されて、ちょっと考え横に「米英の号外」と書き加える。東条英機内閣の時には、「東条が英機(良い気)になって、神風は頼むなといっているから、神風は吹かん」と教える。大本事件前、王仁三郎は築地の料亭常盤で、東条英機と二、三度会っている。秘書の大国以都雄が陪席した。「軍部があまり強く出ては国をつぶす。軍部の考えは十年以上早過ぎる」と王仁三郎がさとしたところ、「宗教家のくせに何をぬかすか」と東条が腹を立てた。「その考えが国を誤るのや。わしには先が見える。分かっているから注意するのだ」とかさねての王仁三郎の言葉にも、彼は応じなかったという。

 昭和一九年七月一八日、東条内閣が総辞職し、小磯国昭内閣(小磯・米内内閣)にかわる。王仁三郎は「小磯(こいそ)がしゅうて米内(ようない)なあ」「ソ口モン戦からソロソロ負けて、小磯つたいに米内に入る」「小磯米内(ようない)国昭(くにあけ)わたす」といい、昭和二〇年四月五日に小磯内閣が総辞職して鈴木貫太郎内閣になると「これが日本のバドリオ(ムッソリーニ失脚後、イタリアの首相兼外相になり、ファシスタ党を解党して連合国に降伏)や。お筆先にも『長うはつづかんだろう』とあるように、長くは鈴木貫太郎(つづかんだろう)と語る。さらに「火の雨が降る。火の雨とは焼夷弾だけではない。火の雨は火の雨だ」「新兵器の戦いや」「東洋に一つ落としても、東洋が火の海となるような大きなものを考えている」   昭和一九年に面会にきた広島の信者には、「戦争は日本の負けだ。広島は最後に一番ひどい自にあう。それで戦争は終りだ。帰ったらすぐ疎開せよ」といそがせ、あるいは「広島は戦争終末期に最大の被害を受け、火の海と化す。 その後、水で洗われるんや。きれいにしてもらえるんや」ともいった。

 広島は昭和二〇年八月に原爆を受け、九月には二度も大水害に見まわれた。敗戦に対しても、昭和一八年には長野の信者に「二〇年八月一五日に留意せよ。皆神山は安全地帯でB29の不安はない」と語り、一九年には「昭和二O年葉月(八月)なかば、世界平和の緒につく」と聞かされた信者もいる。昭和一八年一一月に満州の部隊に入隊する信者の子弟には三六もの栂印を押した腹帯を与え、「日本は負ける。ソ連が出て一週間もしたら、大連まで赤旗が立つ。そしたらすぐ道院へ行け」と指示した。

 東満総省長の三谷清の元へは、信者を通じて「今、日本は必死になって南の方ばかり見て戦っているが、不意に後から白猿に両眼を掻き回される」という王仁三郎の言葉が伝えられる。直日一家は熊野館(王仁三郎命名)に住んでいたが、王仁三郎夫妻は同居をさけ、隣の有悲関(日出麿命名)の二階二間に入る。独房で足を痛めていた王仁三郎夫妻に、二階暮らしは不自由だったようである。

 昭和一八年六月に直日一家が側近の日向良弘(ひゅうがよしひろ)とともに但島の竹田町に移転する。二ヵ月遅れて日出麿も穴太から竹田へ。保釈出所してきてせっかく親子姉妹同じ農園に住みながらなぜ遠くはなれた竹田に移ったのか、最近ふしぎに患ってその理由を母に聞いてみたが、「さあ、なんでやったのやろなあ」と首をかしげるだけである。事件が解決に向いかけたこの時点で、一族のわずらわしさから逃れ、一家でひっそりと暮らしたかったのだろうか。

 直日が去ったあとの熊野館に王仁三郎夫妻が移り、私たち一家が同居する。私は祖父母の居間の隣室に寝起きして、いやおうなくその言動に接した。どうひいき自に見ても、忠良なる臣民とは思えない。

 だが日を重ねるにつれ、私は明けっぴろげでなにものにもこだわらない祖父の魅力にぐいぐい引きずりこまれてゆく。国賊だけど、くやしいけど、やっぱり父よりも母よりも誰よりも大好きな祖父である。

 王仁三郎の指示によって、熊野館の庭が拡張された。北側に富士山をかたどった築山。西北隅に小池が掘られ、鏡池と命名された。富士と鳴戸になぞらえたもので、これをヒナ型として、のち綾部に月山富士と金龍海が造られる。 

 二〇年四月二八日、直日の長女直美と家口栄二、梅野の長女操と角田光平の二組の合同結婚式が熊野館神前でおこなわれた。栄二も光平も共に婿養子。新郎は国防色の国民服、花嫁は白無垢の着物であった。二人のいとこは私より一つ年長の一七歳、お下げ髪の女学生の結婚などこちらがてれて、心ないひやかしようをした。二人は怒って、泣きながらとびついてくる。私は熊野館の長いまわり廊下を真剣に逃げ回った。

 出口直は、かねがね「自分が死ねば、こっそり直日のお腹に入って生まれ代わってくる」といっていた。直美が出口直の生まれ代わりであり、神の定めた大本四代の世継ぎとは、王仁三郎も澄も書き残している。当然、直美の婿は将来、四代を補佐する重責をになうのだ。昭和四年七月三O日直美誕生、王仁三郎は『日月日記』の中で、その喜びを歌に示す。

 「女児と予知し直美と名付けたる言の葉 間に合う今日ぞ嬉しき/三代の長女の直美の生(あ)れしより大本四代の基礎固まれり/ 久方の天津国より降りたる嬰児は教祖の更生なりけり/四代なる直美の生れし今日よりは 蘇生(よみがえ)るなり大本の内外/厳御魂教祖の神は分身を 吾大本に降し給えり」

 八月一五日、私の満一五歳の誕生日であった。祝いに集まってくれた家族やいとこたちとともに、祖父母をかこんで玉音放送を開いた。王仁三郎は「マッカーサ(負かさ)れた」と笑い出すが、私はぷいと立って家をとび出し、近くの寺川の水にもぐりこんで一人泣いた。国賊王仁三郎の子の涙など誰にも見られたくなかった。出口栄二は「…その日の夕刻、王仁三郎は『こうならぬと、この神は世に出られぬ』ともらしたが、その翌日、自宅の離れにくつろぎ煙草をふかしながら、『王仁は興奮して眠れんのじゃ。筆先に陣引とあるやろ』と側近に語った」(『大本教事件』)と述べている。

 マッカーサーが日本に進駐してくると、王仁三郎はその意義を家の大掃除にたとえて説き明かす。「世界を一軒の家にたとえると、日本は家の中の神床にあたる。ところがその神床が非常に汚れ塵埃がたまっているので掃除せねばならぬが、日本の神床を日本人自身にやらせると、血で血を洗う騒ぎをくり返すばかりでできはせぬ。そこで神はマ元師という外国出身の荒男を連れてきて、掃除をさせられるのや。ところが神床はもともと神聖な所なので、掃除をするにしても絹の片でこしらえたハタキとか紙製のきれいなハタキとか使って掃除せねばならぬ性質のものだが、そこは外国出身の荒武者のことだから、竹の荒ボウキを持って神床を掃除するような時もおころう。神床のゴミをはたくと次は座敷の掃除が順序じゃな。世界の座敷はどこかというと、朝鮮、支那になる。そして掃除は座敷をもって終るものじゃない。庭先の掃除が必要になってくる。世界の庭先とは、ソ速や米国にあたる」

 

わしは花咲爺じゃわい

 昭和二〇年九月八日、終戦直後のあわただしい変動の中、焼け残った小石川の国民学校にうつされていた大審院の法廷で判決があった。「上告はいずれも棄却す」 理由はいわず、主文だけ。開廷わずか五分でいいわたしがおわる。起訴された六一人の中には老齢者が多く、御田村竜吉の当時七一歳をはじめ五〇歳以上は三二人をかぞえた。それから一〇年、拘禁生活が被告の心身に与える影響ははかり知れず、保釈後に死亡する者があいついだ。この日の大審院判決時の被告は約三分の二の四〇人〈死亡一六人、公判停止一、応召により控訴棄却問〉にへっていた。

 一方、綾部、亀岡の土地返還の民事訴訟も進められていた。「この訴訟が、長引けば、日本が外国に占領されていつまでも取り返しのつかぬ型になる」という王仁三郎の獄中からの指示によって、昭和一三年(一九三八)年五月から戦われてきたものである。弁護団は、土地売買の委任や売り渡しがすべて警察と町当局の合作であるとし、強迫と詐欺、文書偽造と印鑑盗用による不法と職権乱用の事実を次々とあばいていく。刑事事件が二審で逆転し権力側に不利になると、判事は突然判決を延期した。そして京都地方裁判所長は、二〇年六月になって大本側に民事和解を申し入れてきた。しかしその内容が聖地を寸断して再起の地盤を欠こうとする権カ側の意図と見抜いた大本は、「一坪といえども神の聖地を失うことはできぬ」として和解をける。

 敗戦により大審院が上告を棄却すると、権力側の態度は一変した。一〇月一五日には山崎警察署長の勧告で、町議会が土地の無条件返還を可決する。山崎は宇知麿や住之江を取調べた係官で、昭和一九年二月から亀岡警察署長に選任していた。また綾部町からも、一一月二日、土地返還の申し入れがあり、大本はこれを受け入れた。一〇月一八日には亀岡、一一月一五日には綾部の土地移転登記を完了、ついに大本は神の意思をつらぬいてすべての神苑をとりもどした。

 大本事件が勝訴になった以上、残る課題は国家に対する損害賠償請求であった。綾部、亀岡両聖地の破壊は法律でもなければ命令でもない明治五年の大蔵省通達第一一八号「無願社寺創立禁制の件」に違反したというにすぎない。しかも破壊費用まで大本に押しつけるという、法治国家とは思えぬ暴挙の限りを犯したのである。神殿だけならまだしも個人の住宅までとりこわし、国賊のもちものは神州日本の汚れになるとして、王仁三郎、澄らの作品、所有物はいっさい処分したのだ。事件による自殺、獄死、狂人化、はかりしれぬ犠牲者たち、それらをあがなうべき額は、当時の金で数億円が計上されるはずであった。熊野館に集まった弁護士たちの協議中の部屋をひょいとのぞいた王仁三郎は、わけを聞いてこともなげにいう。 「そんなけちなことをするな。敗戦後の政府に賠償を請求しても、それはみんな、苦しんでいる国民の税金からとることになる。そんなことができるもんやない。今度の事件を、わしは神さまの摂理だと思うとる」 

一〇月一日、林逸郎弁護士が熊野館を訪れた時、迎えた王仁三郎は人なつっこい自を輝かしてさとす。「間違った者をとがめてはなりまへん。それよりも先生には大きな御用が待っていますから、はよう東京に、お帰りなさい」 林を待っていた大きな御用とは、それから四年近くもかかった東京裁判である。王仁三郎の愛と誇りに満ちた一言で、大本はいっさいの賠償要求権利を放棄した。そのため、冤罪をそそぐ機会も長く失ったままになる。

 一〇月一七日、天皇の名による大赦令で、国事犯、政治犯のすべてを赦免。支配権力を支えていた弾圧機構はくずれおち、大本の不敬事件もまた自然消滅した。一二月八日、事件から満一〇年自のこの日、壊滅したかと思われた大本は再びよみがえった。「大本事件解決奉告祭」のことを伝え聞いた一五〇〇名もの信者たちが、全国各地から、敗戦に打ちひしがれた荒廃の中を、食料をかかえ、汽車を乗りつぎ、幾日もかけて次々と綾部にたどり着いた。そしてありし日の面影もない弾圧の廃墟に立ち、この一〇年禁じられていた天津祝詞を王仁三郎先達によって天にもとどけよと声高らかに奏上する。

 続いて事件の犠牲者たちの慰霊祭が、澄の先達で行なわれる。深い祈りに伏したままの澄と共に、万感胸にせまった人々は泣きむせぶ。その群の中にまじった私は、もう誰に気がねもなく、まぶしい冬の太陽を見上げた。宇知麿が王仁三郎、澄に代わって挨拶に立ち事件をかえりみるとともに、「近く亀岡を根拠とし、愛善苑という、世界平和を目標とする人類愛善運動を起こされることになったのであります」と今後の大本の方針を表明した。

 本宮山神殿破壊のあとには清掃して焼いた山のような灰が残されていた。この灰は事件の唯一の記念として信者に分けられる。「わしは花咲爺じやわい」とうそぶく七五歳の王仁三郎には、敗戦後の冬枯れの日本の地に残されたこの灰から花を咲かせようという、底知れない愛と情熱がみなぎっていた。

 奉告祭をすました翌々日の一二月一〇日から翌年の一月六日まで、王仁三郎は鳥取の吉岡温泉に清遊した。私もまた、冬休みの何日かを祖父とともに温泉ですごす。このとき、大阪朝日新聞の記者が王仁三郎をたずね、敗戦日本の現状についての感想、神道の変革や信教の自由についての見解を求めた。この談話が一月三〇日付同紙に「予言的中『火の雨が降るぞよ』― 新しき神道を説く出口王仁三郎」の見出しで掲載される。

 「自分は文那事変から第二次世界大戦の終るまで囚われの身となり、綾部の本部をはじめ全国四千にのぼった教会を全部たたき壊されてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけてきたので、すでに大本は再建せずして再建されている。…自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、そのため弾圧を受けた。『火の雨が降るぞよ』のお告げも実際となって日本は負けた。これからは神道の考え方が変わってくるだろう。国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない。ただ本当の存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが日本を誤らせた。殊に日本の官国幣社の祭神が神さまでなく、唯の人間を配っていることが、間違いの根本だった。しかし大和民族は絶対に滅びるものではない。日本の敗戦の苦しみはこれからで、年ごとに困難が加わり、寅年の昭和二五年までは駄目だ。いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときにはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある」

 ここにはいくつかの重大な問題が示されている。国家権力がたとえいかなる方法で神殿や施設を破壊しても、教義が残り、信者がそれを信じている限り、その宗教を滅ぼすことはできない。日本が大きく進路を誤ったのは、天皇はじめ神でない人を神とあがめたことにあるというのは、今日の靖国問題を考える上での重大なポイントであろう。日本の敗戦の苦しみが昭和二五年まではどうすることもできぬと述べたのは、それまで占領が続く予言か。また日本の軍備放棄は世界平和の先駆者としての使命があるからだとし、世界の軍備撤廃を理想としていることである。

 二一年一月一日、天皇の人間宣言が行なわれる。「爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず」 天皇を絶対の現人神としてその上の主神の存在すら許さなかった悪夢の過去は消えたのである。不敬罪のゆえに罪なくして拷問に命を縮めた幾多の犠牲者は、この宣言をどう開くであろうか。

 

大本は世界のかがみ

 筆先はしばしば、「大本は世界のかがみ」と示す。「かがみ」という言葉には、二通りの解釈ができよう。物の像を写す意味の受動的な「鏡」と、手本・模範・雛型を出すという能動的な「鑑」である。「この世界が乱れてこういうことになりておるということを、大本にしてみせてあるぞよ。なにもわかりてくるぞよ」 明治三四年旧一二月一九日

 これは、世界のさまざまが大本に映るという、受動的な鏡である。大本が一信仰者の集団であれば、その本部に行けば、さぞかし立派な人たちが集まっているだろうと思うのは、とんでもない錯覚だ。世の中の善も悪も、すべてが大本に写る。今の世界が乱れているから、大本本部もまさにその通り、百鬼夜行の有様である。「世界へ善と悪とのかがみを出す大本であるぞよ。いままでは日本だけのことでありたが、これからは三千世界のかがみになる大本といたすぞよ」明治三二年旧九月一九日

 これは大本の中にヒナ型を作り、それを日本へ、世界へと波及させる能動的な「鑑」である。この「鑑」すなわち「型」は、予言と強くかかわる。予言が言葉で示す前ぶれとすれば、「型」は形で示す予告であろう。世界の出来事は一種のモデル・ケースあるいはサンプルとして、まず最初に具体的な組織や人間関係や出来事の上で大本に仕組まれる。それがやがて日本へ、世界へと波及する。大本という池に投じられる一石が、やがて世界の岸へと波紋を広げるように。この信仰を「型」として、大本では重視する。明治三六、七年代、立替え迫るを信じる人たちが続々と綾部に集まり、大きな藁葺きの広前に何家族も同居し、共同炊事をはじめた。

 立替えの時期待ち、いわば非常時だから誰もまともな職業につかず、日雇いや内職などをして日銭をえ、それで筆先の紙を買った。米の節約のため、ドングリから豆の葉、食べられる草なら、なんでもカユにした。カユといっても、菜をつまみ上げると悲しげに飯粒がぱらぱらとついてくるぐらいなもの…「必ずこんな時がくる」と直はいっていたが、戦前、戦中派の人ならば、誰しもこれに似た体験をさせられている。明治四一年三月二四日、のちに大本の大幹部になる湯浅仁斎が初めて綾部を訪れた時、直は彼のたっつけ姿に自をとめてにっこりした。「龍宮の眷族さんがはいていなさったのは、これやったでよ。袴でもなし、股引きでもなし、このお姿で海からぞろぞろ上がってこられましたのや」 

 やがて大本の男女がきそってまねだし、湯浅のたっつけは郷里京都府船井郡宇津村から大本へ移した形になった。それを参拝する全国の信者たちが地方へ持ち帰る。昭和の年代になって、たっつけは「もんペ」と呼ばれ、戦時中、津々浦々で見られるようになる。もちろん、この程度の実例なら偶然でかたづけられよう。笑いとばしてもすむわけである。だがどうでも信じざるを得ない型がやがて日本と大本の間に出てくるのだが、第二次大本事件の主な出来事は日時から場所、状況にいたるまで、ぴったり六年後に第二次世界大戦となって移されてくる。

 昭和六年元日、王仁三郎は「本年は西暦一九三一年で『戦争(いくさ)のはじめ』であり、皇紀では二五九一年で地獄のはじめ』である」と不気味な予言をする。同年九月八日、王仁三郎は第一次大本事件での本宮山山頂の神殿の破壊あとに三つの石碑を建てた。中央の神声碑には「三千世界一度にひら九うめのはな…」の筆先が、右側には「大本教旨」、左側には「盛んなりしみやゐ(宮居)のあとのつる山に やまほととぎす昼よるを啼く」 「よしやみは蒙古のあらのに朽るとも やまと男子の品は落さじ」の王仁三郎の和歌二首がきざまれた。「つる山」とは「本宮山」の別称だが、四年後の第二次大本事件におけるすさまじい破壊を暗示するような不吉な歌だ。後の歌は王仁三郎がパインタラで死に直面した時の辞世の歌で、やはり、おめでたいとはいえない。そしてこの建立式の時、王仁三郎は「これから一〇日後に大きな事件が起き、世界的に発展する」と語った。

 はたして九月一八日に満州事変が勃発、日本が中国大陸を侵略する最初の契機となり、世界大戦へと発展してゆく。昭和九年七月二二日、大本は東京九段の軍人会館で昭和神聖会の発会式を上げた。統監の出口王仁三郎は、副統監に日本右翼運動の草分けであり黒竜会の創始者内田良平をすえる。国内の革新を目ざす国民精神運動図体として発足したが、これが大衆の共感を呼び、みるみる大きな勢力に育つ。その膨大なエネルギーは次第に右翼化して倒閣現状打破へと傾き、当局を刺激して第二次大本事件の端緒をつくる。

 六年後の昭和一五(一八四O)年七月二二日、第二次近衛内閣が組閣される。近衛文麿は陸相に東条英機をすえ、新体制運動を推進するため、国民統制組織である大政翼賛会を創立する。その大政翼賛会の発会式が昭和神嬰会と場所も同じ九段の軍人会館で開かれ、その形式、その後の活動状況までそっくり。

 昭和一〇年一二月八日未明、第二次大本事件がおこり、決死の特高隊は水盃して松江の「宍道湖」付近、赤山の高台にある島根別院に滞泊中の大本の「首領」王仁三郎を奇襲攻撃した。六年後の昭和一六年一二月八日未明、第二次世界大戦が起こる。決死の特攻隊は水杯をしてハワイの「真珠湾」に停泊中のアメリカ太平洋艦隊「主力」に奇襲攻撃を加える。

 第二次大本事件と第二次世界大戦のおこった一二月八日未明は、むかし釈迦が菩提樹の下で暁天の明星を仰いで大覚成道したという、いわば仏教の誕生の日にあたる。昭和一一年三月一三日金曜日、林司法大臣の決済があり、即日、在京の徳永地方検事正から起訴命令が発せられ、ついに大本、人類愛善会、昭和神聖会の解散となって、王仁三郎は重い十字架をおわされる。この三月一三日金曜日は、むかしキリストがゴルゴダで十字架を負った日といわれる。

 昭和一一年四月一八日に綾部、亀岡両聖地はその所有権が綾部、亀岡町に移り、やがて両本部はもとより全国にわたる施設は残るくまなく破壊される。六年後の昭和一七年四月一八日は米機一六機が東京、名古屋、神戸などを初空襲、やがて日本は米機によって破壊焼尽される。伊勢皇大神宮、宮城すら例外ではなかった。

 昭和一七年八月七日、王仁三郎が保釈されるや「わしが出た今日から日本が負け始めじゃ」と責付出獄の身でしょうとりもなく放言するが、ちょうどこの日、米海兵一個師団がソロモン群島のツラギ及びガダルカナル島に上陸、翌八日第一次ソロモン海戦が行なわれ米軍の本格的反撃が開始された。昭和二O年九月八日大審院において上告はいずれも棄却され、第二次大本事件はようやく幕となる。この日、マッカーサー元師が騎兵八千その他計一万五千の兵をひきいて入京し、日本全土が建国以来初めて外国箪の占領下に入る。

 六年後の昭和二六年九月八日、サンフランシスコにおいて講和条約が結ばれ、第二次世界大戦の幕を閉じた。王仁三郎が獄中に囚われていた期間は、事件のおきた昭和一〇年一二月八日より昭和一七年八月七日の保釈出所までまる六年八ヵ月、日本が連合軍の占領下にあったのは、昭和二〇年八月二八日に連合軍先発隊が厚木飛行場に到着してより日米講和条約発効前日の昭和二七年四月二七日までまる六年八ヵ月、いずれも閏年が二回入って二千四百三五日、ぴったり一日として狂わない。

 そのうえ大本事件は昭和一〇年一二月八日に始まり、昭和二〇年九月八日の大審院判決で解決、第二次世界大戦もまた昭和一六年一二月八日に始まり昭和二六年九月八日のサンフランシスコ講和条約によって終る。この期間も共に九年九ヵ月。

 王仁三郎はみずから損害賠償請求を放棄したが、連合国もすすんで賠償権を放築した。綾部、亀岡の両聖地は大本に無条件で返還されたが、日本の本土も連合国による分割占領の危機をのりこえ、無併合に終った。

 さて、これらをいったいどう考えていいのだろう。単なる偶然と笑えぬのは、直や王仁三郎が「大本は日本の型」と宣言したうえで、予言通りに日本が動いていることだ。どうやって、誰が、こんなに辻つまを合わせたのか。超能力者としての王仁三郎が六年後に起こる第二次世界大戦をかりに初めから終りまで霊視していたとしても、それを事前にまねて型を造れるだろうか。どんなに大本信者を使ってがんばってみても、事件の始まりから終結まで一日も狂わせずに一人でぎゅうじるわけにはいかない。いやいや、彼はその問、彼のいう「へそを上に向けて」地のオリオン星座(監獄)に囚われていただけなのである。

 では誰が、他に誰が…「神の申したことは、一分一厘ちがわんぞよ。毛すじの横はばほども、まちがいはないぞよ。これが違うたら、神はこの世におらんぞよ」『初発の神論』


第二編 第一次大本事件 

地獄の釜の焦げ起こし

 第三次大本事件は、第一次、第二次事件の延長線上にあるとともに、大本歴史との関連なしには、説明できない。大本はまさに神々の活きる世界であり、奇なる事実の宝庫である。開教いらい今日まで、大本を舞台に常に霊的たたかいが演じつづけられてきた。主に霊的裏面をふくめての大本の歴史を概観してみよう。

 『筆先』に「三人世の元」という言葉がある。大本の元は開祖 出口直、聖師出口王仁三郎、その妻 二代出口澄の異質の個性のからみあいで定まった。直は白湯、王仁三郎は茶、澄は水を好んだが、嗜好の相違にまで三人三様。舞扇にたとえれば、直は骨、王仁三郎は華麗な地紙、澄はかなめで、どれ一つ欠けても今日の大本はない。出口直は、天保七(一八三六〉年一二月一六日、福知山(現京都府福知山市)の桐村五郎三郎・そよ・の長女として生まれた。時に天保の大飢饉の最中で家も貧しく、両親が減児(へしご)(赤子の鼻と口を手やぬれ紙でおおい窒息死させる〉するつもりでいたが、祖母の猛反対で助けられたのである。

 弘化三(一八四六)年、桐村五郎三郎は四五歳の生涯を終え、祖母たけ、母そよ、兄清兵衛〈一四歳〉、直〈一一歳)、妹りよ〈七歳)の女子供だけが残された。そよの手内職で食えるわけがなく、兄清兵衛、直は口減らしのために奉公に出される。寺小屋に行けず文字などまったく知らぬまま六年がすぎ、一七歳で老祖母、母の元へ戻る。奉公時代の直は主人に誠をつくし、親に孝養をかさねる。働きもので、柔順で、つつましい、けなげな娘であった。それは当時の権力側の求める理想的な民の姿であったろう。安政二(一八五五)年二月三日、直〈二〇歳)は綾部に住む叔母出口ゆりの養女になり、養子婿政五郎(二九歳)と結婚。政五郎は腕の立つ大工棟梁であったが名人かたぎでまるで物欲のない男。一代で三百軒の棟上げをしたといわれながら、うけおっては損ばかり、酒と芝居と冗談が飯より好き、家の暮らしむきなど気にかけぬ。そのうえ悪質な高利の金を貸しつけられて、手もなく裸にされる。

 明治五〈一八七二)年には一七年間住みなれた出口家の屡敷を売り払う。直は借家で煮売り屋を開き、また鰻頭を作って小さい子供に行商させる。明治九年、安い家賃の支払いにも困り、わずかに持ちこたえた新宮坪の内の四八坪の土地に、家族で山から木を切りだし、川から石を運んで、二間だけの小さな家を建てる。一一人の子を生み八人が育つが、その子らを口減らしのために次々奉公に出さねばならなかった。末の子の澄は明治一六(一八八三)年二月三日、節分に生まれるが、数え七歳の時から早くも奉公に出される。明治一八年、政五郎は中風にかかり、寝たきりになる。心をきめて直は元手の少ない屑買いになり、わずかな日銭で病人や幼い子らを養う。
 貧苦のどん底にあえぐ直に、次々と苦難がのしかかる。明治一九年一〇月半ば、直の長男竹蔵は大工の見習い奉公先で鑿(のみ)で喉を突き首を吊るが、縄が切れて死ねない。血みどろのまま親方に発見されて命をとり止め、出口家にかつぎこまれる。せまい一室に寝たきりの夫と長男が並ぶ。大工としてのカ量も意欲もなく、長男としての重荷にたえかねる竹蔵に直が与えた親心は、「竹蔵、兄弟はたくさんあれど、お前にはやっかいかけんから、よくなりたら働きに行てこい」という、長男としての責任免除であり、家からの解放であった。

 傷がなおった竹蔵は蒸発し、一七年間行方不明になる。四歳だった澄はこの事件を記憶しており、晩年「その時に夢のように覚えておるが、籠に乗りて帰りたのをほのかに覚えております。教祖さん(出口直)がこたつにもたれて泣き、『わしはなんという業人であろう、地獄の釜の焦げ起こしじゃなあ』とひとりごというていられたのを、子供心に悲しかりた」『かめおかの巻』と書いている。

 「地獄の釜の焦げ起こし」という表現は、苦難にであうおりふし、直のロからもれでた。「地獄の釜焦げ」という俗語は普からあり、「生前に悪事をはたらいた人は焦熱地獄に落ち、釜の中でぐつぐつ煮られ、焦げと化すまで焼かれる 極悪人またはその深い罪業」を意味するが、「地獄の釜の焦げ起し」という言葉はどの辞書にもない。丹波地方の方言でもない。とすると直独特の造語らしい。では「焦げ起こしい」は何か。「わしはなんという業人であろう」との直のつぶやきは、悲観的な嘆きばかりではあるまい。現世での苦難を仏教的民衆意識の悪業の投影として受け入れ耐えぬくことによって、釜焦げの一つ一つを起こし清めていかねばならないという、したたかな意味あいをふくんでいるのではないか。

 明治二〇年二月、政五郎の病状は悪化し、末期の酒を妻にねだる。商売道具のはかりを質に、それをはたす直であった。三月一日、直に手厚く見守られて、政五郎は逝く。享年六一歳。

 

福島久と米の神がかり

 出口直の三女久はかぞえ六歳の年からまんじゅうの行商をし、一二歳で奉公にでて母を助けた親孝行な娘であったが、明治二二年八月、京都府船井郡八木町の人力車夫福島寅之助に嫁いだ。翌年八月久は月みちて女児を出産した。何やら異常な気配だ。産婆が去り寅之助がとびだすと、久は赤子の体を確かめる。小指のわきに鬼歯のように生えている六本目の指。久は俎板と出刃包丁を下げて子のそばに戻り、余分の指を切り落とした。もう一本の指を調べると一本足りぬ。いかに気丈な久でも、いたましいこの初産の衝撃ははかり知れないものがあったろう。悲しい宿命を持ったこの女の子はふじと命名された。

 出産より二〇日後の八月三一日夜半、それは夢とも現ともつかなかった。久が高い山頂に立って見おろすと下界はまさに世の終りで、餓鬼道地獄にもがく人々が久に向い、大声で救いを求めている。「世界の、これほど大勢の人を一人して助けえというようなことはようせん」と久がいうと、どこからともなく「どうしても助けえ」と声がした。久の手記には、「いっそ、こういうこと(世界の人を救う)に誰一人相談にのってくれる人はなし、これより忍んで出て行って、川にはまりて死んでしまおうと思いまして」とある。

 この夜、寅之助はふじを抱いて寝ていた。久は裏口から抜け出し、一町と離れていない大堰川畔の深い淵にとびこんだ。苦しさに水底をけり上げると、水面に顔が浮かび出る。すると空中に現われた四〇がらみ、黒い羽織を着た美しい男神に説諭され、自殺を思いとどまる。帰宅後の様子を久は記す。「…黙りて入りて着物を着かえておりますと、若い時でありますから髪の毛が沢山ありますので、非常に水が沢山ふくんでおりますのを大逆さまになりまして髪の毛をしぼっておりますと、主人の自がさめまして『これ、お前はなにをしておる』と申されますから、『私はなにか知らん死にとうてかないませんから死のうと思うて川へはまりに行きましたら、神さまか知らんが、きれいなお方が、早く帰ね、いま帰んだら内の主も知らぬなれど、ぐずぐずしておりたら皆の者が大騒動いたすから早く帰れといわれましたから、いまここへ帰りましたところであります』と申しましたら、みな家内中が心配をしてくださいまして、さ、それから『産後ののぼせでそんなこといたすのであるから、早く医者を頼みにゆけ』とおのおの手分けをしてくださいまして、医者がきてくださいましたら大変それが荒くなりまして、『わしは医者に診てもらうような病人と違うのざ。先にあること、この肉体に知らして御用に使うのざ』というが早いか、なにも知らぬ罪もないお医者さまの首筋つかんで高塀の外へつかんでほうり出しましたら、『これはどえらい気違いでありますから、医者の手にはあいませんから、神さまにおすがりしてお助けをいただきなさい』というて、腹を立てずに帰られました」『日之出神論』大正七年四月九日

 狂乱の久は、急造の座敷牢に閉じこめられた。久が寝ていると、耳もとで不思議な声がする。「…そなたに申しておかねばならぬことがある。そなたは赤ん坊があるから、そなたの肉体はやはり元にしてやるから、そなたが元気になると主人に大変難行がかかるから、ひととおりの働きはいたさなならんから、今ある金は一厘のお金もなくなりて、どうしようもこうしようもならぬとこまで落として、そなた二人の度胸を見るが…そなたはこの世の始まりのことから何一つ知らぬことはないというように神が知らしてやるから、この先では三千世界を開かねばならぬ時節が参るから、そのおりはそなた夫婦が先頭で三千世界を開くお役であるから、よほどしっかり腹帯を締めておらんと、取りそこないをいたしたら、神が困るのでない、その人に困ることができるから、よほど気をつけるがよい」『日之出神論』

 久は静かに神の姿を見、神の声に耳を傾けているつもりだが、現実的にはその間も狂乱状態にあったらしい。身内の者や近所の人たちも集まり、癲狂院(てんきょういん)に送る相談をしている。綾部からかけつけた直の必死の看病によっても治まらない。一〇日目、姉の栗山琴が金光教の教会長大橋亀吉を同道して訪ねてきた。大橋は座敷牢の前に座って、病気の取り次ぎを始める。大橋のとなえる天照皇大神、日の大神、月の大神の神名を聞いた久は、それがかねて見た神であったかとびっくりしたとたん、平静に復した。直はその霊験に驚き、剣先(洗米を剣先型の半紙に包んだもの)を綾部に持ちかえって祭った。これが直の金光教との出会いである。

 その後も、のしかかる苦難が久を待ち受けていた。「そなたが元になると大変な難行がかかる」の神の予告通り、久の正気と入れ代わりに寅之助がちょうど百日の問、病床に苦しむ。ちびちびと夫婦で稼ぎためた金もたちまち使いはたし、一家は窮乏のどん底におちいる。しかしこの苦しみがかえって福島夫婦を熱烈な信仰へと傾斜させ、八木で初めての金光教の広前を作る機運をかもしていく。直の長女米は小さい頃からよく働き気立てのやさしい娘であったが『明治一O年ごろ侠客の大槻鹿蔵と結婚した。鹿蔵は天保一〇年生まれ、米より一七も年上で母直とは三歳しか違わない。鹿蔵の極道ぶりは並のものではなかった。

 野につながれていた生き馬の肉を包了でえぐり取り、なまのまま食べたという話も残っている。何にでもからんで因縁をつけ金をおどしとるので、「因鹿」または「丹波鹿」とあだ名されていた。鹿蔵夫婦は、北西町(現綾部市北西町)で綾部最初の牛肉店「今盛屋」を開き、繁盛した。おちぶれる一方の出口家に比して大機家は急速にのし上がり、「今や綾部一の金持は今盛屋じゃろ」と噂されるぐらいになっていた。鹿蔵との生活が長くなるにつれ米の性格が変わっていき、なぜか母に激しい反発を抱くようになる。たまに出口家にくると、米は自ぼしい物を持ち出し、何もない時には怒って商品の饅頭をつぶしたという。

 異常としかいいようのない母への憎悪だ。直は「お米もうちにいた頃はおだやかな良い子であったが、鹿蔵の所へ行ってからは手荒い子になってしもうた」と嘆く。また「鬼と狐がよう心が合うて商売しよるわや」と怒りをこめていったという。幼い澄にまで、直はよくいい聞かせた。「親の首に縄をかけるというのは、あれのことじゃ。お前は大きゅうなっても、あれの真似をすることはならぬ」 

 澄は何のことやら分からぬままにうなずく。これが開教以前の直、米母娘の葛藤であり、のちに澄はこれを「霊魂の因縁」として受け取っている。

 明治二五年一月二七日(旧一二月二八日)、旧正月も間近というこの日、大槻家で暮の餅つきがおこなわれた。子分衆や近所の人たちまで集まって餅つきの最中、水取りをしていた米が突然逆上、店の大火鉢をひっくり返す、皿や鉢などを投げとばしてわめき始めた。か弱いはずの米の腕力は狂乱時の久のように超人的でさえあった。取り押えようとする男たちを左右にはね飛ばし、けころがす。出口澄は、長姉米狂乱の有様を幼い自でとらえている。「米の神がかりはとてもとても荒うございまして、手にも足にも及びませぬ。親類近所総がかりでございます。とうてい手に合わぬので、しまいは白木綿をもって体を柱にくくりつけてありました。酒桶に伏せたりありとあらゆることをして、大勢の男がかかりておりました。私、忘れませぬが、行きましたら髪をさばき、お歯黒をつけて黒塗りの下駄をはき、蛇の自の傘をさして、座敷の上を大変なる勢いで『三七歳の辰の年の女、病気全快なさしめ給え。南無妙見大菩薩、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経』と申して、座敷の上をどんどん走り回っています。あの恐ろしさは忘れることはできません」『出口澄の上申書』

 鹿蔵は米を連れて加持祈祷してもらったり、お稲荷さんへ二週間もいっしょにこもったりしたが、出費がかさむばかりで少しの効果もない。こんな状態なので店をあけても客が寄りつかず、やむなく家財道具の売り食いを始めねばならなかった。

 

三千世界の立替え立直し

 明治二五(一八九二)年一月三〇日は旧正月の元旦である。その夜、直は、気高い神に招かれて天界にあそび一条の光を額から吹きこまれる夢を見る。それが前ぶれで同じ夢を夜ごと見続け、神の放つ白金の炎が日ましに腹中に燃えうつり、息吹くのを感じた。

 直の最初の発動は、二月初旬、まだ旧正月の鏡餅のあった頃と伝えられる。神床に向って端坐していた直の姿勢がそり身になり上体がゆるやかに震動、膝が交互に上下する。腹の底から玉のような熱いかたまりがこみ上げ、胸を通り、喉元まで浮揚する。歯をくいしばってこらえるのを、内からこじあけて唇が開き、おたけびが吹き上がる。それは末女澄の表現を借りれば、「お大将」のような声であった。「この方は艮の金神であるぞよ。これより直の肉体を御用に使うぞよ」 

 たしかにその声は直の口から出た。だが直の意志でもなく、声でもない。つつしみ深い直がわれを忘れて抗議する。「やめてくだされ。退いておくれなはれ。そのように大きな声を出されては…」 だが腹中の神はかまわず叫びつづける。一つののどを男声の神とやさしい女声の直自身が使いわける。外見上は自問自答に見えても、直の意識のほかの途方もない言葉ばかりである。直は裏庭の井戸端に走り、頭から水を浴びた。何杯も何杯も。この夜のうちに水行は七度。いてつく井戸端には、氷が七層をなす。

 八度目に「直よ、もうよいぞよ」と神の制止があったがかまわず浴びると、水は頭上で四散し、身に一滴もかからなかった。いったい良の金神は、直の口を借りて、何を主張したいのか。「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅でひらいて松でおさめる神国の世になりたぞよ。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。いまは強いものがちの、悪魔ばかりの世であるぞよ。世界は獣の世に、なりておるぞよ。これでは世はたちてゆかんから、神が表にあらわれて三千世界の立替え立直しをいたすぞよ。用意をなされよ。この世は、さっぱり新つにいたしてしまうぞよ。三千世界の大せんたく、大そうじをいたして、天下太平に世をおさめて、万劫末代つづく神国の世にいたすぞよ。これが違うたら神はこの世におらんぞよ。いずれの教会も先ばしり、とどめに艮の金神があらわれて、世の立替えをいたすぞよ。世の立替えのあるということは、どの神柱にもわかりておれど、どうしたら出来るということは、わかりておらんぞよ。

 九分九厘までは知らしてあるが、もう一りんの肝心のことは、わかりておらんぞよ。かみとなれば、すみずみまでも気をつけるがかみの役。かみばかりよくてもゆけぬ、かみしもそろわねば世はおさまらんぞよ。不公平(むちゃ)ではおさまらん、かみしもそろえて人民を安心させて、末代つぶれぬ神間の世にいたすぞよ。あしもとから鳥がたつぞよ」明治二五年

 三千世界とはこの現実界ばかりではなく、神界、幽界をも含めた大宇宙。その大掃除大洗濯だ。その用意をせいと神はせかす。かつてこれほどの大宣言が、神の名によって発せられたことがあるだろうか。この艮の金神とは何ものか。「あんなものが、こんなものになりたと、世界の人民に改心いたさせる仕組であるから、ちと大もうであれども、成就いたさして、天地の大神へおん自にかけるから、艮の金神は唐天竺までも鼻がとどくぞよ」(明治三二年間七月一日)

 「この神は、小さいことはきらいな神であるぞよ。大きなことをいたすぞよ。月日大神さまのおんさしずで、三千世界を自由にいたすぞよ」(明治二七年)「艮の金神があらわれると須弥仙山(しゅみせんざん)に腰をかけ、青雲笠で耳がかくれんというような、大きな経綸がしてあるから、人民では見当がとれんのはもっともであるぞよ」〈明治三七年旧三月三日)

「だんごにいたそうと、餅にいたそうと、四角にいたそうと、三角にいたそうと、世界を自由にいたす神であるぞよ。どんなカも出る神であるぞよ」〈明治二九年旧二月一五日)

 出口直にかかって大言壮語を吐くのは、こともあろうに人の忌み嫌う艮の鬼門の金神なのだ。艮とは古く中国から日本に入った陰陽道の言葉だ。艮は丑・寅、すなわち東北の方位をさす。東北は陰の気のきわまり集まる百鬼出入の鬼門とよぶ。反対に坤すなわち西南の方位が裏鬼門だ。鬼門、裏鬼門は方位家相の問題の中で、古来よりはなはだ恐れられている。だから艮の金神といえば、方位家相にこる当時の人たちは震えあがった。直の当惑はいうまでもない。だが艮の金神は強引であった。金神の生宮たるにふさわしく、直の肉体の改造に着手する。一三日間の絶食と七五日間の寝ずの水行だ。この行は、五七歳の老躯にとってどんなにむごいものか。しかし直はすべての試練に耐えぬき、身にいささかの衰えもみせなかった。 明治二六年、綾部では正月から火事がつづいた。いづれも不審火で放火の嫌疑は濃厚なのだが犯人があがらない。材木商の森家が全焼したのは四月一九日の夜半である。そのころ、直は発動すると激しく欝告する。「今のうちに改心をいたさねば、どこに飛び火がいたそうかも知れんぞよ。あまり改心いたさぬと、千田町の森殿がよいみせしめじゃ。改心改心と神が一点ばりに知らすなれど、まだ敵とうてくる者はかわいそうなものじゃ」 警察は早速この情報にとびつく。四月二一日夜は署長の取調べを受けた後、新庁舎の留置場に入れられる。夜っぴて直の発動はつづいた。警察が直の処置に困っているとき真犯人が逮捕され、一連の犯行を自白した。

 直は無罪放免だが、狂人では保護者がいる。署長は大槻鹿蔵を呼び、直の監視を命じる。そこで出口家の屋敷の艮の隅におよそ一坪余の急造の牢を用意し、直を閉じこめた。食事は一日一食。毎朝運ばれる粥の弁当だけだ。日墳から食の細い直も、さすがに空腹にたまりかねることがあった。すると神の声がする。「直よ、掌をねぶれ」 いわれるままに掌をねぶると、不思議にひもじさの感覚が遠のき、気力がわいてくるのだった。

 座敷牢の暮らしが長びくにつれて、神への不信の念がつのってくる。神命を素直に守れば守るほど町中のさらしものになり、あげくは座敷牢に入れられて「一日暮れるが一年ほどに覚える」思いをさせられる。直は死を決意し、単衣の襟をほどいて首にかければ「直よ、死にたらこの中におるのと同じことであるぞよ。こうしておりてくれねばならんのだ」と神がいう。死をあきらめた直は腹中の神に頼んで、大声でわめかすことだけはやめてもらう。

「それでは筆を持てい」と神が命じ、手にふれた古釘を直が持っと、牢の柱に何やら文字のようなものを彫りつける。これが筆先の濫觴だ。五月三〇日夜は鹿蔵の意のまま、最後の砦である家を手放すことを条件に四〇日ぶりに牢を出る。座敷牢を出てからはもう大声で叫び回ることもなく、神意の伝達法は文字に切りかわった。心霊研究上の用語でいう「自動書記」だ。古い信者の田中善吉が直の言葉を書きとめている。

 「私は何も知らぬので、どうしたらよいやろうと思うておると、(神が〉『直よ、紙と筆と墨を賢うてくれい。わしが書くから、お前の手を借るだけじゃ。紙一折二銭と筆一本二銭、墨一本三銭…』といわれるゆえ買うてきましたら、『墨をすれ』といわれ、『筆をもて』といわれるゆえ持ちましたら、紙の上にひとりでに字が書けて、私は読めませんから人さまに読んでもらうなれど、誰も『わからん』というてろくに見てくれもせず、読んでくれる人もない。けれどただ腹の中から『直よ、筆先を書けい』と申されるから、わけもわからずに書いておるうちに、ぼつ、ほつわかりかけてきたから・・・・・・」

 筆先は明治二六年から直の昇天する大正七年まで二五年間にわたって書きつづけられ、半紙一〇万枚にわたる膨大なものとなる。文字はひらがなと数字ばかり、「五」(ご)、「九」(く)、「九゛」〈ぐ)、「十」の数字もひらがながわりに使われる。また行かえも句読点もないのが特長だ。この筆先に後年、漢字をあて、行をかえ、勾読点をつけて発表したものを『大本神論』という。

 たとえば次のようである。筆先「せかい十のことであるからなにほどちえやが九がありてもじんみんではわからんことであるぞよこのし九゛みわかりではならずわからねばならず、わからぬのでかいしんがでけずよのたてかえのまつだいにいちどのし九゛みであるからさっぱりが九やちえをすててしもうてうまれあか五のこころにたちかえらんとけんとうがとれんむつかしいし九゛みであるぞよ」大本神諭

 「世界中のことであるから、なにほど知恵や学がありても、人民では分からんことであるぞよ。この経論わかりてはならず、わからねばならず、わからぬので改信(改心、改神)がでけず、世の立替えの、末代にいちどの経綸であるから、さっぱり学や知恵をすててしもうて、うまれ赤子の心にたちかえらんと、見当がとれん、むつかしい経論であるぞよ」

 書体は独特だが二五年間活字で印刷したようにかわりなく、文字の特色さえのみこめばすべての筆先が読みこなせる。私たちの自には稚拙としかいいようもない文字も、書家の中には「六朝体に似た一種の風格を備え凡人の筆跡ではない」と賛嘆する者もある。また十万枚の筆先のうち、書き直しの個所が一つも見あたらぬのも特長だ。

 筆先の内容は神の経綸、神々の因縁、大本出現の由来と使命、天地の創造、神と人との関係、日本民族の使命と将来など広範にわたり、その中に一本つらぬいている太い筋は立替え立直しの主張である。だが筆先が世人の注目をひいたのは、その内容よりも、むしろ人類に対する予言と警告であった。この年「来年になると、唐と日本のいくさがある。これは日本の勝ちいくさ」と告げて歩くが、唐がどこか、支那がどこか、直にはかいもくわからない。日清戦争が勝利に終ると、「こんどは露国からはじまりて、もう一いくさ。それからは世界の大たたかい、出口の口と手で知らしたこ と、みな出てくるぞよ」と筆先に示す。

 また艮の金神は「この方は病気直しの神ではないぞよ。心直しの神であるぞよ。しかし病気も直してやらねば、人がついてこんでのう。直よ、拝んでやれ、おかげはやるぞよ」という。事実、直が拝むと、おかげはめざましかった。

 直の優れた霊力に自をつけたのが、金光教である。金光教は岡山県浅口郡金光にある教派神道の一つで、教勢が急速に拡大しつつある最中であった。金光教では布教師奥村定次郎を綾部に派遣、直を利用して広前の設立を意図した。自分の住む家さえ持たぬ直のこと、艮の金神を表に出せさえすればどの教会でもよかった。

 明治二七年一一月一二日、新宮(現綾部市新宮町〉の大島景僕宅の裏座敷の六畳を借りて、金光教の神と艮の金神をあわせ祭った。役員信者は、直によって病気を治してもらった人が大半であった。直の徳によって集まる信者は祭ごとにふえ、広前は広い場所を求めて次々と移転する。奥村はその発展を自分の力と錯覚し直を使用人扱いし、筆先もそまつにした。艮の金神は「金光の下になるような神ではない。世界の神じゃ。この神の身上わけい」と迫るが、奥村はかえって直を邪魔にする。明治二八年六月、直はついに愛想つかして綾部を離れ、糸引きの出稼ぎにゆく。

 翌年四月、還暦を迎えた直は綾部に戻り裏町(現綾部市若松町)の倉を借りて住み、おりおりに広前に参拝に出かけたが、春の大祭で祭られているのは金光大神のご神体だけであった。

 直に懸かる神は告げる。「金光殿のお世話にならいでも、艮の金神一筋で開いてみせる」

 直はふたたび糸引きに出る。直がいなくなると誰も広前に寄りつかぬ。維持費に窮したばかりか借金もたまり、五六日目についに奥村は夜逃げする。翌七月二〇日、瓢然と直は綾部に戻ってきた。直がいればおのずと信者は集まる。だが綾部警察署では「金光教の布教師のいない教会は金光教と認められぬから、許可を受けずに人を集めてはならん」ときびしく横槍を入れてくる。そこへ金光教は新たに布教師足立正信を綾部に派遣してきた。

 直は、表面的には金光教の看板で広前を維持することに同意する。だが足立もまた直を下女のようにしか扱わぬ。布教にも不熱心で、奥村の時と同様に直との激しい対立がつづく。明治三〇年四月四日、ついに直は金光教と離れて、裏町の梅原伊助の倉に一人で艮の金神を祭った。ここでも人が集まると警察がきびしく干渉するため、ほとんど個人的信仰にとどまり、教団といえものではなかった。直の示す霊験と予言の的中にひかれて直を慕う者はふえていたが、誰一人艮の金神のいう立替え立直しの真意義を理解する者はない。

 じれにじれつつ「この神を判ける者は東から現れるぞよ」の神言を頼みに直は「東からくる人」を待ちこがれる。

 

多情多恨の安閑坊喜楽

 明治四 (一八七一)年旧七月一二日、上田喜三郎(後年の出口王仁三郎〉は丹波国曽我部村穴太の小作農 上田吉松、世祢の長男として生まれた。サイコロを振りつづけ一代で上田家の財産〈山林田畑〉を無にした祖父先代吉松は、臨終の床で家族に告げる。「上田家は円山応挙はん(本名上田主水(もんど))の出た血筋で、喜三郎はその七代目。あれは大物になる。上田家に縛りつけずに、大きくなったら養子にやれ」

 喜三郎は幼時より祖母字能から独特の教授法で言霊学の手ほどきを受けた。字能は言霊学中興の祖といわれた中村孝道の姪であり、その素養の一端を受け継いでいたのだ。また天賦の霊感少年でもあった。神童、地獄耳などと呼ばれ、大地に耳をつけて地底の水音を探り、たびたび大人に井戸を掘る場所を指示している。

「私は七歳の時から神懸かり状態で、突然に体が中空にとび上がったり、人の病気を直したり、人の知らぬことを知ったり、里人から『不思議な子供じゃ、神つきじゃ』とか『神童じゃ』とかいわれたものでありました。私の郷里の老人連中に、お聞きになれば事実がわかります」(神霊界大正八年一月一日号)と王仁三郎はのべるが、反面、口をぽかんとあけていつまでも空行く雲を眺めているので、十文に二文足らぬ「八文喜三」という不名誉な異名もつけられる。

 彼の幼い魂は現界のわくを逃れて、どこまで翼を広げていたのだろう。父からは「水呑み百姓の倅に学問などいらん。本読むな、絵かくな、百姓手伝え」と追いたてられこづかれる。

 明治一六年、一三歳の喜三郎は小学校担任教師との論争がこじれて紛糾し、あげくに教師はクビ、喜三郎は退学処分。喧嘩両成敗だ。ところが間もなく、クピになった教師の穴うめに代用教員に採用されたのが、なんと当の喜三郎。授業料を払っていた生徒からいちやく月給二円の豆先生に。当持でも異例のことであった。一年余で代用教員をやめ、隣の村役の家に秘書兼下男奉公。翌年、上田家の屋敷内にある久兵衛池(用水池)の所有権をめぐる事件がおζり、一五歳の喜三郎は村全体を相手に戦い、勝利をおさめる。

 富者の奢侈りを憎み権力に反抗する気骨は、この時すでに現われていた。青春期はまさに多情多恨、安閑坊喜楽と名乗り文芸活動に熱中。かと思えば、初恋にやぶれて泣いた純情膏年が一転してドン・ファンに。

 『穴太じゅうの男以外は全部いてこましたる」と宣言して、赤毛布をかかえ美醜を関わずアタックする。いたずらも遊びも友らの先陣を切れば、勉学にもわれを忘れる。薪や種子を山と積んだ荷車を引いて京都へ運ぶ道すがらも本を読む。読みつつ引く事の端で店先の商品をひっかけこわし、弁償させられたこともしばしばだ。

 明治二六年、園部(現京都府船井郡園部町)に移り牧場で働きつつ獣医学を研究、また国学を学ぶ。ラムネの製造販売に手を出して損をする。一獲千金をねらったマンガン鉱探しもくたびれ儲け。貧農の長男としてからみつく束縛を逃れ、生きる術を得ようともがくが次々と失敗、重なる失恋、村人からは嘲笑のまとになる。

 明治二九年、正月穴太で精乳館を発足、牛を飼い、牛乳を配達する。ようやく事業は順調にすべり出した。翌年七月父吉松が死去。弟由松がばくちの金に乳牛を売りとばしたことから賭場にふみこみ、やくざと激突する。父をなくした自棄も手伝い、人生の矛盾に悩む喜三郎は、強きをくじき弱きを助ける侠客を志す。

 

過去、現在、未来を霊界で見聞

 明治三一年二月二八日夜、村の青年たちで浄瑠璃の温習会が開かれた。二八歳の上田喜三郎、「太閤記十段目」のさわりを語りかけた時、やにわに五人の暴漢が舞台にかけ上がり、喜三郎をひっさらって場外へ走り去る。やがて近くの桑畑から友人たちに助け出されたものの翌日は商売の乳しぼりも牛乳配達も休み、割木でなぐられ袋だたきにされた全身の痛みに呻吟する。昨年冬からすでに八回、弱きを助け強きをくじきそこねては半殺しの自にあい、今度で九度目だった。見かねた祖母宇能(八五歳)は、傷つき血迷う喜三郎の枕元で、こんこんと意見する。

 このおりの宇能の言葉は喜三郎を打ちのめす。喜三郎が深く異次元の世界に入りこむのは、この三月一日〈旧二月九日〉夜が境になるのだ。 

 錯乱の末、一人迎えた放心の夜である。自分の名を呼ぶ声にはっと我に返ると、見知らぬ一人の男が立っている。男は富士浅間神社の祭神、木の花咲耶姫の神使松岡芙蓉仙人と名乗る。松岡神使は、「これからお前を富士山頂に連れて行く」と告げ、勇んで書置きをしたため終った喜三郎の魂を抱いて天かける。恍惚の時がたちふと気がつくと、喜三郎の身は半里の先、高熊山の岩窟に坐していた。この時より一週間にわたって荒行はつづく。むろん喜三郎の意志でなく、神がしかけ、導き、強制的にさせたものであった。それは二時間の現界修行ののち一時間の霊界修行という比率でくり返された。

 霊界修行は脱魂、つまり幽体離脱して、富士山、皆神山などの霊山のほか、あらゆる霊界を見聞することだ。現界修行は凍てつく寒中、じゅばん一枚で水一滴飲まず、何も口にせず岩の上に無一言で静座する。だが二時間の現界修行よりも一時間の霊界修行の方が遥かに苦しかったという。「(高熊山修行によって)過去、現在、未来に透徹し、神界の秘奥を窺知しうるとともに、現界の出来事などは、数百年、数千年の後まで知悉しえられたのである。しかしながらすべていっさい神秘に属し、今日これを詳細に発表できないのを遺憾とする」『物語』一巻一章「霊山修業」

 行方をたって一週間目の三月七日、問題の男喜三郎は生家に戻ってきた。つめかけた村人や家族の質問には「神さまに連れられて修行に行ってきた」と答えたまま後は無言で麦飯かきこみ、ぶっ倒れるように破れ畳に眠る。

 翌日午後二時頃に目ざめ、産土の小幡神社へまいる。その足で山伝いに父の墓へ行き、根引きの松を供える。九日朝、彼の肉体は床に寝たまま四肢から硬直をはじめ、口も舌もこわばってピクとも身動きできぬ。だが聴覚だけは健在だ。その間にも喜三郎の精霊は離脱し、霊界を見聞する。またときどきは現界に戻り、肉体のまわりの騒ぎを聞く。これもまた神からさせられた床縛りの行である。

 はじめは修行の疲れからぐっすり寝こんでいるぐらいに思っていた家族も、四日目にはあわてて医者を呼ぶ。医者は「たいへんな痙攣で、この硬直状態が今夜の十二時ごろまでつづくと命はない。体音があるから死んだのではなくて、いわば仮死状態だ。とにかく不思議な病気だ」と首をかしげる。「医者がだめなら神仏の力で」と、天理教の先生が二人の弟子を連れて祈祷にくる。法華教信者のばあさんがお題目を唱えながら数珠で体を打つ、こする。京都からきた祈祷僧には妙見山の狐が憑依して奇妙な託宣をはじめる。何をやっても効果がないから、親戚の男が「ドブ狸がついている」と主張し、喜三郎の体からいぶし出そうという。火鉢に火をおとし、唐がらしと青松葉をくすべだす。生命の危機を感じた喜三郎、なんとか起き上がろうとするが動けない。

 団扇で煙を鼻の先に扇ぎ込もうとする男の手を母が泣きながら払いのけた瞬間、上の方から一筋の金色の網が下がってきて手早く握りしめたと思うと、喜三郎の体は自由になる。七日目の三月一五日のことだ。

 一度死んで生きかえる、すなわちニア・デス〈近似死体験)を一週間にわたって多くの人たちが目撃するのだから、きわめて珍しい例である。王仁三郎は「私は五、六度死んだことがあるが、生き返ってから後も二週間ぐらいはひどく疲れたものである」『月鏡』「有りがたき現界」と語っている。喜三郎の高熊山修行はこの明治三一年三月だけではない。同年五月には第二回、明治三五年初夏の頃には第三回目の修行があり、そのたびに霊界の見聞は広がり深まった。

 その後の喜三郎は手さぐりで神人感合法を研究した。喜三郎が審神者(憑霊の正邪を見わける者)となり村人の有志を神主〈憑霊のかかる台)として、幾度かの失敗を重ねながらも、ついにその方法を会得する。明治三一年四月末、喜三郎は静岡県安倍郡不二見村の稲荷講社総本部に長沢雄楯を訪問する。長沢は講社の総理で神職をかね、国学者の本田親徳の教えをついで鎮魂帰神法を行なっていた。独学の喜三郎は、その道の先輩である長沢からさらに実地を学んだ。

 翌年五月にも再び訪ね、喜三郎が神主になり、長沢の審神を受ける。この時、長沢により、男山八幡宮の眷族小松林命の高等神がかりと鑑定されている。小松林命は喜三郎が神の道を究めるための専属コーチであり、この先あらゆる手段で試練を与える。喜三郎の幽体離脱と憑霊現象のあらましを述べたが、このような超物理現象はなかなか信じがたいことであろう。

 幽体離脱して霊界を旅するというのは現在少ないらしく、イギリスの学者C・ブラッカー著『あずさ弓―日本におけるシャーマン的行為』(岩波書店)では、「この経験は今日では比較的稀にしか起きないもののようである。出口王仁三郎の場合が新宗教の伝記の中では唯一の例である」として、『霊界物語』の第一巻目の要約をのせている。

 

上田喜三郎の綾部入り

 出口直の三女福島久は「この神を判ける者は東から現われるぞよ」の筆先を信じ、京都府船井郡八木町の入口、大堰川の清流をひいた虎天堰(とらてんいね)に茶店を出して、山陰街道を西へ下る旅人を待つ。それから三年目の明治三一年旧六月、異様な風体の若い旅の男がこの茶店の床几に腰をおろした。久の問いに「職業は神を審神する者」といい、「一日も早く西北の方をさして行け。お前のくるのを待っている人があるとの神のお告げで旅に出た」とつけ加えた。

 久は気おいこみ、母の筆先を持ち出す。ちょうど一年前の日づけである。「綾部大望ができるによりて、まことの者を神が綱をかけておるから、魂をみがきて神の御用を聞いて下されよ。今では何もわからぬが、もう一年いたしたら結構がわかるぞよ」(明治三〇年旧六月二七日〉

 これが出口直と上田喜三郎を結びつける機縁であった。しばらくは園部の人々に引きとめられて病人をいやしたり霊学の普及につとめていた喜三郎が、十余里の山坂を越えた綾部を訪ねたのは、その年の十月八日のことである。直は裏町に小さな倉を借りて、一人で艮の金神を祭っていた。

 直は喜三郎のまだ子供じみた若さに自をみはる。これが艮の金神を見わける人とは思えなかった。さらに稲荷講社に所属していると聞いて、「お稲荷さんでは」と不安が先にたった。喜三郎も直の高い品格にうたれながら、直をとりまく無知な役員信者の露骨な反発に失望し、艮の金神のかけた網をふりほどき、三日滞在しただけで綾部を去る。その翌日、喜三郎の後を追うようにして出た筆先が、直を驚かせた。「お直のそばへは正真のお方がおいであそばすから、来た人を粗末なあしらいいたすではないぞよ。お直はいたさねども、足立どの(当時の役員)は男子のことであるし、我も出るし、いまではわからねども、もうすぐなにごともわかるぞよ。」 明治三一年旧八月二七日「神の経綸してあることであるから、上田と申すものが出てきたなれば、そこをあんばいようとりもちて、腹をあわしていたさぬと、金光どのにもたれておりたら、ものごとがおそくなりて間にあわぬぞよ」明治三一年旧九月三〇日

 つぎつぎと筆先が、喜三郎を求めて発せられた。明治三二年七月初め、役員たちの妨害をふりきり、直はひそかに迎えの使者四方平蔵を園部に派遣する。喜三郎が綾部入りしたのは、七月三日である。直が喜三郎を迎え入れたことは、直をとりまく信者間に大きな波紋を投げかけた。

 喜三郎は、金光教の影響力の下でしか信者が集会できぬ現状の打破を急務とみた。民の金神を表に出すためにはまず公認の手続きをとり、宣教活動の合法化をはからねばならぬ。喜三郎の打つ手は早い。さっそく裏町の倉に世話人を集め、組織作りに着手する。ほとんどが綾部周辺の素朴な農民たちであった。早くも二日後には、本町の中村竹吉〈通称竹蔵)の家を借りて広前とし、裏町の倉から移転する。教会の名称は、艮の金神の金の字を頭にとり、日の大神、月の大神の日月を合わせて金明会とする。

 七月一〇日には遷座祭が行なわれたが、祭典用に注文していた高張提燈の紋が指定したものと違っている。今まで使用していた九曜の神紋がどう間違ったか、十曜になっているのだ。当惑する役員たちの前にさっそく筆先が示される。「上田喜三郎どの、よう大もうな御用をしてくださりたぞよ。そなたが綾部へまいりたのは、神の仕組がいたしてあること、なにごとがでけるのも、みな天であらためがいたしてあることであるぞよ。九曜の紋を一つふやしたのは、都合のあることであるぞよ。いまはいわれぬ。このこと成就いたしたら、おん礼に結構をいたすぞよ。艮の金神の初まりの世話をいたしてくださるのは、まことの人が出てこねば、おさまらぬと申してあるが、この人が神のまことの世話をいたして下さるのざぞよ」(明治三二年旧六月) 

 この時から、大本の神紋は十曜の紋と定まり、のちに裏紋は○に十と定められた。さらに喜三郎は、霊学会を組織して、鎮魂帰神を持ちこんだ。 初めて目撃する神人感合の法は信者たちの心をとらえる。八月一日には金明会と霊学会を合体させて金明霊学会をつくり、公認結社である稲荷講社の分会という便法をとる。

 その頃の大本は、出口直を中心にした筆先絶対の素朴な熱狂的集団であった。無学な彼らは筆先の真意を悟るより、文字通りま四角にしか受けとれない。「この世はくらがりであるぞよ」の筆先が出れば白昼でもちょうちんをつけて歩き、「道のまん中をあるいて下されよ」とあれば車道の中央をまかり通る。馬車がこようが人力車がこようが神の権威にかけて道をゆずらず、相手がよければ「見たか、神力を」とそっくり返る。

 「この世は逆さまになりておるぞよ」とあるから、逆立ちして得意になる。非常識が常識でまかり通る世界であった。筆先には「いろは四十八文字で開いて下されよ」とある。むづかしい小理屈はやめてやさしく神の道を説けということだが、彼らには理解できぬ。漢字、横文字は目の仇、なにがなんでも排斥だ。喜三郎愛読の書籍類は引きさき、ふみつける。その上、徹夜でひそかに書きためていた膨大な原稿ですら山と積み上げて火を放ち、「外国身魂を征伐した」と狂喜する。

 原稿の中にある神という文字だけはさすがに切り抜いて燃やしたから、神の字ばかりみかん箱に三杯残ったという。役員信者たちは喜三郎の霊力にこそ威怖したものの、あたたかい目では見ない。質素端正こ の上ない直の一挙手一投足こそがまさに大和魂の規範であり、好きすっぽう自にあまる喜三郎の行動は、どうでも改心させねばすまぬ外国魂のやり方なのだ。厳寒の朝夕、直は一度たりとも水行をかかさず、人類の危難を「大難を小難に、小難を無難に」と祈念し、その後に従って信者は水行をきそう。それを尻自に、喜三郎は「わしは蛙の生まれ代わりやないわい」と蒲団をかぶって朝寝する、昼寝する、宵寝する。それでも水行を強いると「水より湯の方がぬくうて、体の垢もとれるわい」とうそぶき、首まで湯につかつて鼻歌を歌う。

 どんな厳冬でも直は小さな手あぶりにちょっと手をかざすだけ。だが喜三郎は衆自の中でまた火鉢、「いろは四十八番目、とどめの尻むすびのンの言霊を聞かしたる」と信者たちを側に寄せ、「うん」と力んで大砲一発、灰かぐらを舞い上げる。神前に正座して直が祝詞を奏上し一同がそれに和する長い長い間、喜三郎はひれ伏したまま頭を上げぬ。殊勝に何を祈っているかと思えば、聞こえてくる高いびき。

 出口直が善の型の象徴とするなら、喜三郎は悪の型。信者から見れば、神罰があたらないのが不思議なくらいだ。ところが「直の御世継ぎは末子のお澄どのであるぞよ。因縁ありて上田喜三郎、大もうな御用いたさすぞよ」と筆先は示す。四人の姉をさしおき末娘の澄が大本の世継ぎと定まったが、何やら喜三郎もそれに関連ありそう。

 「これからは出口直に取次はもうさせんから、上田どのに御用きかして、先で御世継といたすぞよ」「これから出口直と上田喜三郎どのの二人に、世のあらためをいたさすぞよ。直と上田、神が御用に立てるぞよ。艮の金持、よろずの神、出口直と上田に神懸りてまいるぞよ」

 澄は一七歳、底知れぬ野生のカを秘めた清らかな瞳と恐れを知らぬ肝玉、七歳の年から他家へ転々と奉公、他人の飯粒にひそむトゲを思い知らされた。狂った姉や神がかりの母を持つきちがい筋と白い自でみられ、さまざまな苦労をなめながらも、無垢でおおらかな明るさを失わぬ。

 年頃となった澄に恋いこがれる男たちは多かった。なのに神は、喜三郎と澄を結んで大本の世継ぎにと…。明治三三(一九〇〇)年一月三一日(旧正月一日)神約のままに喜三郎〈以後王仁三郎と記す〉は澄と結婚の式をあげ、出口家に入る。

 

大気違いと大化物

「綾部の大本には出口直の大気違いがあらわれて、化かして御用がいたさしてあるから、見当はとれんなれど、もう一人の大化物をあらわせて、神界の御用をいたさすぞよ。この大化物は東からきておるぞよ。この大化物があらわれてこんと、何もわからんぞよ」

 結婚間なしの筆先である。どうやら西の大気違い直と東の大化物 王仁三郎、神の綱をかけられた二横綱が、綾部大本の土俵上に引っぱりあげられた感じだ。神がこの世に聖なる教えを開こうとするのだ。もっともらしそうな、ありがたそうな神名で現われたらよさそうなもの、なのに大本の神は、ことさら人の忌む鬼門の金神、裏鬼門の金神として現われ、それも大気違い、大化物を御用に使うという。さらに「金神はこの世のえん魔であるぞよ。むかしの神代から、かげにおりてどんなことでも見ておるぞよ」と、ご念のいったことである。

 しかしこれを大本を舞台にしての三千世界の大芝居とみた時、立役者出口直、王仁三郎にかかる神を意外な演出手法で登場させ、最初から観客のド肝を抜いて魅きつける心にくい技法ではあろう。しかもこれには大きなどんでん返しが用意されている。筆先によって次第に神は芝居の粗筋を示し、さらに『霊界物語』(以下『物語』と略)で脚本としてきめこまかに明かしていく。

 「艮の金神は悪神でありたか、善の神でありたかと申すことが、明白にわかりでくるぞよ。いまのうちは、世間からカいっぱい悪く言わしておくぞよ。艮の金神の道は、いまの悪のやり方いたす人民からは悪く申すが、もうしばらくの間であるぞよ。悪くいわれな、この大もうはとうてい成就いたさんから、悪くいわれるほど、この大本はよくなりてくるぞよ」

 善悪は相対的なものであり、悪のやり方をする今の人民からは艮の金神は悪神にみえるが、いずれは善神の証が立つという。明治憲法下での大本の主張や行動は国賊とみえ、二度までも国家権力による大弾圧が下されるが、憲法が変われば、大本の叫びは救世の思いのほとばしりであったことが、世人に理解されてくるのだ。

 『筆先』と『物語』の説き示す、大本独自の神話を紹介しよう。むろんここでいう神話は文学的観点に立つものではなく、手ぎわよく論理化された思想のたぐいでもない。だが大本の教えは、この神話を踏まえて成り立つ。「良の金神は、昔からこの世をこしらえた神であるから、世界すみずみのこと、なにも知りておるぞよ。あまり世がのぼりて、さっぱり世が乱れてしもうで、これだけこの世に運否がありては、かわいそうで見ておれんぞよ」とのべる艮の金神とは、のちに『筆先』が明かすように、くにとこたちのみこと(国常立尊)のこと。大本では天地剖判の初めより宇宙をつくりかため大地の世界を開いた祖神として、国祖と称える。

 国祖くにとこたちは、神に代わって地上を治めるものを必要とした。そこで有限の肉体の器に無限の火水の霊魂を満たして霊止(人)とし、男女二人の始祖を地上に下す。神代の昔は神と人ともに自立して霊と体を統べ、まつりあわせて、善美の世界を楽しんでいた。人類は生まれ、増え、やがて地上に満ちる。しかし燃える炎の末からもかすかに立ちのぼるススがあるように、体的欲望が霊を押えて邪気を発し時とともに地上界は混濁していく。神の生宮として創られた人間も人智にたけ、情はねじけ、私利私欲のために争うことをはばからぬ。邪気は邪気を呼んで天地問に立ちふさがり、神界よりの水火をはばんで、もはや神と人、天と地のまつりは断絶した。

 この乱れに乱れた神界、地上界を持ち直すため、国祖は肝胆を砕いて天地の律法を定め、まず地上神界から実行して天下万民に広めようとする。しかし邪気に侵された八百万の神々にとって天地の律法は窮屈でならず、その戒律を厳としてゆるめぬ国祖が邪魔になってならぬ。そこで神々は天の大神に国祖の非をならして、直訴した。「みろくの世の持ち方でやらねばいかんと艮の金神がよろずの神に申したら、そのようなやり方では他の神がようつとめんと皆がもくろみて大神さまへおん願いをなされば、大勢と一人はかえられん、艮の金神おしこめいと大神さまのご命令で、この方は艮におしこめられて陰から守護いたしておりたなれど、この方が申した世がまいりきて、いまのていさい」

 彼らの激しい不満は天の大神といえども制止しきれず、国祖に向って「すこしゆるやかな神政をしてはどうか」と説得したり、国祖の妻神とよくもぬのみこと(豊雲野尊)も「時代にあった神政を」と涙とともにいさめた。だがまちがったことの許せぬ国組は、「いったん制定した律法をかるがるしく改変すべきではない」として聞き入れない。天の大神は国祖の主張を当然としながらも、「万神に一神は代えられず」と涙をのんで穏退を命じられた。天の大神のつらい心情を察し、国祖は根底の国へ落ちゆく決意をする。天の大神は国祖にひそかに約束する。「神も時節には勝てぬから今はどうすることもできぬ。貴神が隠退すれば地上神界の乱れはつのり、やがて泥海となって滅びるような事態に至ろう。その時こそ貴神を再び地上神界の主権神に任じ、三千世界を立替えて元の神代に立直そう。貴神だけに苦労はさせぬ。時いたらば吾もまた天より下って貴神の神業を補佐しよう」 

 ここに国祖は神議に議(はか)られ、残酷な処刑を甘んじて受け、節分の日に艮の地(日本)に押しこめられてしまった。万神は国祖の威霊が再び出現することを恐れ、封じこめた地にしめ縄を張りめぐらし「煎豆に花が咲くまで出てくるな」と呪いの言葉を投げかけた。とよくもぬのは大神に殉じてみずから坤へ引退する。国祖に従い天地の律法を守った正しい神々たちは弾劾されて世に落ち、長い星霜をさすらう身になる。いわゆる国津神である。

 押しこめた側の神々はくにとこたちを艮の金神、とよくもぬのを坤の金神と呼び、二神を鬼門、裏鬼門の悪神、崇り神として世人にいい伝え、それでもたりずに調伏の犠式は今日までつづく。「炒り豆が生えたら出してあげると申して、三千年あまりで押しこめられておりたなれど、この神を世に出すことはせんつもりで、叩きつぶしてはらわたは正月の雑煮にいたし、骨は二十日の骨正月に焼いてくわれ、からだの筋は盆にそうめんにたとえてゆでて食われたぞよ」「年越しの夜に煎豆をいたして、鬼は外、福は内と申して鬼神にいたしてこの方を押しこめなされたのが、時節がまいりて煎豆に花が咲く世がまいりたぞよ」「正月の三ケ日の雑煮の名をかえさすぞよ。この艮の金神を鬼神といたして、鬼は家へは入れんと申して、十四日のどんどにも、鬼の目はじきと申して、竹を割りて家のぐるりに立てであろうがな。そこまでしられた艮の金神」

 こうして古代から日本の人民は上下こぞって国祖を呪誼し、その身魂の再現を恐れてきたのだ。押しこめた側の支配する天下は神なきものとして、形ばかりの宮は荒れ、祭りを怠り、律法は遠く忘れ去られた。われよしと強い者勝ちの地上世界は、弱肉強食がまかり通って、このままでは人類は殺し合わなくても、神々や人類の生み出した邪気で天地は汚濁し、滅亡してしまうことになる。

 天運はめぐり明治二五年節分の日、天の大神の命によって、くにとこたちが因縁の身魂出口直の肉体を媒介として再び出現し、三千世界の立替え立直しを遂行することになった。大本では、艮の金神が押しこめられたのも再現したのも節分の日であることから、節分の大祭にとりわけ深い意義を感じ、厳粛に祭典を執行する。豆撒きの行事も「福は内、鬼(艮の金神)も内」ととなえ、煎豆の代わりに生豆をまく。拾った人はその生豆を大地にまいて花をさかせ、天地の恵みに感謝するならわしである。ばかばかしいと思われる読者もあろう。私たちは近代合理主義の思考法に慣らされて、神話の真髄を見失っている。

 哲学者ヤスパースは「暗号解説」という言葉で神話を読み解く方法を示したが、私はこの大本神話の中に深い意味が秘められていると思う。

 

火と水の戦いはじまる

 本来なら、王仁三郎は坤の金神のかかる台として大切に扱われるべき存在だ。だが現在の王仁三郎にはやんちゃ神小松林が占領していて、ことごとに直にたてつく。「小松林の守護の間はみなが心配をいたすなれど、すさのおの尊の分身魂で、すさのおの尊の役で、二度目の天の岩戸を閉める敵たうおん役ざぞよ」「こんどの大本の男子、女子の御用は二度目の天の岩戸を女子が閉めるおん役であるからつらい役、小松林がすさのおの尊のおん役ざ」

 ここらあたりで、読者は大本という迷宮に入りこんでしまうだろう。小松林、すさのお、男子、女子、変性男子、変性女子、二度自の天の岩戸開き…わけがわかるまい。そのためには、ぐんとさかのぼって、『古事記』の神話時代をふり返らねばならない。いざなぎ(伊耶那岐大神)は三柱のみ子を生まれ、あまてらす(天照大神〉には高天原を、つきよみ〈月読命〉には月世界を、すさのお〈素蓋鳴尊〉には海原(陸を含んだ全地球、地上現界)を治めるように命じた。すさのおは、父いざなぎに命じられた地上世界を治めきれずに泣いていた。そのため地上にはよろずのわざわいが、おこり、父神の問うところとなる。

 すさのおは何の弁明もせず、「母の国にいきたい」と答える。父神は「そなたはこの国に住むな」と怒り、追放する。母の国へ去る前に姉神あまてらすにことの次第をつげようと、すさのおは高天原をめざす。そのまいのぼる勢いが激しかったので姉神は驚き、「弟神が高天原を奪りにくる」と疑って戦いの支度をして待ちうけ、「何しにきたか」と詰問する。 すさのおは謀叛の心がないのを証すために、誓約(それぞれの子を生み霊魂をしらべる)をすることになる。ここに二神は天の安河を中にして誓約する。まずあまてらすが弟神の十拳剣(とつかのつるぎ)をとって三つに折り、天の真奈井にすすいでかみ砕いて吹くと、その息から生まれたのは三柱の女神であった。次にすさのおが姉神の髪にまいた「みすまるの珠」や左右の手にまかれた珠をとって同じようにかみ、吹き放つと、生まれたのは五柱の男神。あまてらすはいう。「後に生まれた五柱の男神は、私の持っている珠から生まれたから吾が子。先に生まれた三柱の女神はそなたの剣から生まれたから、そなたの子です」と。

 王仁三郎の説くところにでは、この霊魂調べの結果、あまてらすの霊魂は五つの御霊、すなわち厳(いづ)の身魂であり、女体に男霊を宿すから、変性男子という。またすさのおの霊魂は三つの御霊、すなわち瑞の御魂であり、男体に女霊を宿すから、変性女子という。

 変性男子、変性女子は大本独特の用語だ。神界の都合でくにとこたちの霊魂を女体に宿した直を変性男子、逆にとよくもぬのの霊魂を男体に宿した王仁三郎を変性女子といい、出口直は厳の身魂、出口王仁三郎は瑞の身魂という。したがって筆先で男子といえば直、女子といえば王仁三郎を指すから、ややこしい。

 さて、警約の結果、すさのおの心はやさしい女神であり、これによって邪心のないことが証明された。するとすさのおは「私の心は清く潔白だ。私の勝ちです」といって、勝った勢いでさまざまの乱暴をする。あまりのことにあまてらすは天の岩戸にこもってしまう。高天原は闇となり、いろいろの災いがおこってきた。困りはてた神々は知恵者おもいかね(思金神)に知恵を傾けさせ、岩戸を開く方法を実行した。まず長鳴(ながなき)鳥を鳴かせて夜明けを告げさせ、祭の用意をととのえ太祝詞を奏上する。うずめ〈天宇受女命(あめのうずめのみこと))が伏せた桶の上で足を踏みとどろかし、乳もあらわに踊り狂ったので、神々は高天原がゆれるほどに笑った。

 あまてらすは不思議に思い、岩戸を細めに開いて声をかける。「私がこもったので高天原は暗いはずなのに、なぜうずめは遊び、神々は笑うのか」「あなたよりもっと尊い神がこられたので、喜んで遊んでいます」 すかさず鏡を近づける。鏡に写ったご自身の姿に驚きあやしみ、少し戸から出てのぞいたとき、戸のかげに隠れていたたぢからお(手力男命〉が手をとって引きだし、その後にふとだま(布刀玉命)がしめ縄を張って「もうこれより中へ入らないで下さい」と申し上げた。

 あまてらすが岩戸から出られたので、この世界は明るく照りわたった。八百万の神々はともに議って岩戸がくれの原因をすさのお一神にきせ、そのあがないのためにひげを切り、手足の爪をはいで、高天原から追い出してし支った。地上神界では国祖を艮に封じ、地上現界では司神たるすさのおを追放して、永久にめんどうなものは退治した。

 さて、これでめでたしめでたし、何の疑問も抱かず、ここまで時は流れてきたのだ。ところが当時の岩戸の開き方が第一気に入らないと、筆先はずばり指摘する。「まえの天照大神宮どののおり、岩戸へおはいりになりたのを、だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸開くのが嘘を申してだまして無理にひっぱり出して、この世は勇みたらよいものと、それからはあめのうずめどのの嘘がてがらとなりて、この世は嘘でつくねた世であるから、神にまことがないゆえに、人民が悪くなるばかり」

  神代のむかし、万神は嘘やいつわりであまてらすをだましたうえ、カまかせに岩戸からひっぱり出し、それをてがらとして自分たちの行為をかえりみなかった。神がこうだから、神にまことがないため、それが地上世界に写って人民が悪くなる。目的さえよければ手段をえらばぬいまの人民のやり方が、どれだけ世を乱してきたことか。たしかに岩戸開きの神話は日本国民によって批判なく受け入れられてきたが、この世は出発点からあやまった。その悪の原点が天の岩戸びらきにあると、天皇制絶対下の当時、さすが至厳至直をもって鳴る艮の金神が、大胆にもはっきり告げる。         いま、世界はまさに岩戸の閉められた状態に向っている。二度目の岩戸開きの時は、一度目と同じ過ちをくり返してはならぬ。今度こそ嘘とカで外からこじあけるのではなく、誠によって内から開かれ、この暗黒の世に真の光を投げかけるものでくなくてはならない。第二の岩戸開きは立替え立直しと共通項でくくられるものであり、それが相互に内的関連性をもっているといえよう。

 役員信者の目から見れば、王仁三郎の野放図な言動は、筆先に裏打ちされた二度目の岩戸をしめる悪神小松林のしわざにちがいない。だが厄介なのは、けしからんからといって追い出すわけには参らぬことだ。悪いのは直にはむかう小松林であり、それさえ追い出せば、いずれ坤の金神のかかるかけがえのない王仁三郎の肉体なのだ。王仁三郎が筆先の正しい解釈に立ち、役員信者たちの頑迷固陋と戦い、教義の具体的な開明化をはかろうとすればするほど、彼らはそれを小松林命の悪の仕組と断じ、まごころ一途に妨害する。王仁三郎の肉体から小松林がどかぬなら自分の腹をかき切ろうとまで、本気で迫るのだ。

 人間心で心配した直が神に問うと、神は笑って答える。「この者でなければできぬわいや。御苦労ながらこの御用、わざと化かしてあるわいや」 ところが王仁三郎と役員信者との対立の間はまだよかったのだ。

 「元伊勢のうぶだらいとうぶ釜のお水は、昔からそばへも行かれん尊い清きうぶ水でありたなれど、こんどの世の立替えについて、綾部の大本から因縁ある身魂に大もうな御用さして、世界を立直すのに、むかしの水晶の変わらん水を汲りにやらしてあるぞよ。艮の金神の指図でないと、この水はめったに汲りに行けんのであるぞよ。この神が許したら、どこからも指一本触る者もないぞよ。こんどの元伊勢の御用は、世界を一つにいたす経輸の御用であるぞよ。もう一度出雲へ行きてくだされたら、出雲の御用を出来(しゅったい)さして、天も地も世界を均(なら)すぞよ。この御用をすましてくださらんと、こんどの大もうな御用は分かりかけがいたさんぞよ。世の立替えは、水の守護と火の守護とでいたすぞよ」明治三四年旧三月七日
 明治三四年四月二六日、直、王仁三郎、澄ら一行三六人は、神命により丹後の元伊勢(現京都府加佐郡大江町)へ参拝する。伊勢神宮の元宮であり、わが国神社神道の発祥の聖地、あまてらすを祭るいわば天津神の故郷である。そこには汲み取り禁制のお水があり、一日中見はっている。その水を禁をおかして持ち帰る。神前に供えた竹筒の水はとり分けて少しずつまわし呑みし、因縁ある三ケ所の井戸にもそそがれた。これを「元伊勢水の御用」という。

 続いて七月一日、直、王仁三郎、澄ら一行一五名は神示に従って国津神の本拠地、すさのおに因縁深い出雲へ旅立つ。徒歩と船の長途の旅だ。目的は出雲大社の消えずの神火をいただくことである。檜皮(ひわだ)製の火縄に点火された火を一行が捧持して綾部へ持ち帰り、神前に百日間ともしつづけた後、一五本のろうそくに移してともしきり、天へかえした。これを「出雲火の御用」という。

 無意味とも思える水の御用、火の御用に、神はどのような意志をこめたのか。あまてらすとすさのお、天津神と国津神、火と水、征服者と被征服者、上に立つ神と世に落としめられた神…その両者の霊魂をそれぞれ因縁の地から迎えたのだ。けがれきったこの世を元の水晶のみ世に洗い清めるためには、もっとも強い霊威、清浄力を持つとされる火と水、それも神火、神水が必要と神はいう。

 出雲の神火をささげての帰途から、早くも霊威が現われたか、直と王仁三郎の間に激しい対立がきざし、綾部に帰るとそれはいっそう熾烈になった。神話の世界の中でしか生きていないはずのあまてらすが直に、すさのおが王仁三郎にかかって、髪はさかだち、家をゆるがせて四肢をふみ、たがいにおたけびあう激しい葛藤を演じるのだ。神霊同士のぶつかりあいだから、火水の戦いとよぶ。大方の読者は信じられまいが、それが大本の活歴史なのだ。

 

機の仕組の特異な発想

 これをドラマとみたてた場合、ヒーロー、ヒロインともいうべき王仁三郎と直が互いに相手にかかる神を悪神と判じて改心をせまりあうなど、類のないおもしろさではないか。しかも見る者は、どちらが善か悪か、幕が閉まるまで分からない。だがなぜ丹波の一教団が三千世界の立替え立直しなどできるのか。なぜ王仁三郎が改心しなければ世界がよくならないのか。艮の金神は、いうことをきかぬやんちゃな王仁三郎を、こうまで苦労して大本に引き止める必要があったのか。

 もし型の思想を知らなければ、読者の頭には、疑問がいっぱいであろう。「むかしからこの世くるのは知れておるぞよ。この世のかわりめに、神がなにごとも知らせなならぬから、むかしから変わらぬ精霊(みたま)を天にひとり、地にひとり、この世にお役にたてる精霊を一人おとしてありたぞよ。この世になれば、艮の金神の取次といたして、三千世界を神国の世に開くぞよ。めずらしきことがでけるぞよ」明治二九年旧一二月一五日 直、王仁三郎を立替えの主役に仕立てるために、神は三千年間、天に一人、地に一人、血を選抜いてきたという。だからおいそれと代役を立てることはできぬ。大本の役員信者たちは思う。世界が悪いのは王仁三郎にすさのおがかかり、艮の金神にたてついて悪のヒナ型を示しているからだ。改心すればそれが反映して世界がよくなる。王仁三郎の改心いかんは、たんに教団だけの問題にとどまらず、世界の明暗を分ける重大問題なのだ。それも王仁三郎が悪いわけではない。なぜなら神代の昔、一度目の岩戸開きを嘘とカで開いたため、いまこそやり直さねばならぬ。二度目の岩戸を開くには、まず前段階として岩戸を閉める役者がいる。その悪役を、すさのおのかかる王仁三郎が演じる。だから王仁三郎もまた神に使われるご苦労なお役というわけだ。

 何という奇想天外な発想であろう。『筆先』は「王仁三郎はこうして反対しもって錦の機を織るのであるから」というが、これは「大本は機の仕組」という神示による。「錦の機の下ごしらえであるから、よほどむつかしきぞよ。この中におりよると、魂が磨けるぞよ。磨けるほど、この中は静かになるぞよ。機の仕組であるから、機が織れてしまうまでは、なにかそこらが騒がしいぞよ。錦の機であるから、そう早うは織れんなれど、そろうて御霊が磨けたら、機はぬしがでに(一人でに〉織れて行くぞよ」明治三三年旧八月四日

 錦の機とは綾錦を織ることを指すが、みろくの世にいたるまでの道程をさまざまに織りなして行く人々の苦節を色糸にたとえ、象徴的にいったものであろう。機は経糸と緯糸で織りなされるが、直と王仁三郎の二つの魂の要素ともいうべきものが、経と緯との関係になる。

出口直 経糸 艮の金神国常立尊 あまてらす大神 変性男子 厳身魂

出口王仁三郎 坤の金神豊雲野尊 すさのおの尊 変性女子 瑞身魂

 

 神から大気違い、大化物と示された二つの際だった個性が対立し、ぶつかりあい、からみあう生きざまの鮮やかな対象がいつのまにやらそのまま組みこまれ、大本の歴史を作ってゆく。直による神の証しと王仁三郎にかかる神の教えが火と水、男子と女子、父と母、天と地、小乗と大乗、ナショナルとインタナショナルというように、まったくあい反しつつ経糸、緯糸となって錦の機が完成する。「古き世の根本のみろくさまの教えをいたさなならん世がまいりきて、錦の機のたとえにいたすは変性男子〈直)のお役は経のお役で、初発からいつになりてもちっとも違わせることのできん、つらい御用であるぞよ。変性女子(王仁三郎)は機の緯の御用であるから、さとくが落ちたり、糸が切れたり、いろいろと竣のかげんが違うたりいたして、何かのことがここまでくるのには、人民では見当のとれん経織がいたしてあるから、機織る人が織りもってどんな模様がでけておるかわからん経論がいたしてあるから、でき上がりてしまわんとまことの経論がわからんから、みな御苦労であるぞよ」

 この筆先には経緯の役目の相違がはっきり示されている。経糸はいったんピンと張りおわると、後はびくとも動くことはできぬ。国祖がたとえ天の大神の言葉であろうとも、がんとして緩和的神政をしなかったのは、経糸の厳の御霊の役目だからだ。もし国祖が妥協していれば経の役目ははたせぬ。それが経糸のつらいところ、だが張りおわってしまえば後は緯糸の役目。緯糸は、張りつめた経糸の間をくぐり抜けるたびにオサで打たれながら、さとくが落ちたり、糸が切れたり、俊のかげんが違ったりしつつ、錦の機の完成まで休みなく動きつづける。これまたいっそうつらい役。「機の緯織る身魂こそ苦しけれ 一つ通せば三つも打たれつ」 

 この経糸と緯糸とをたくみに織り上げるのが筆先的表現をすれば経論であり、人間はその一筋の糸として参加するためにこの世に生まれてきたということになる。人間が創造したとされる文化にしても、人間がおのがむきむきにやっているようで、実は機の模様として織りこまれているのだ。短い糸をつなぎ合わせ、より合わせて、いつか時代の流れの色模様が染め上げられてゆく。

 大本の中で織られる機は日本の、世界のヒナ型であるべきみろくの教え、錦の機でなければならぬ。

 

水晶の世にする種

 明治三五年三月七日、王仁三郎の長女直日が生まれ、大本の中はわき立った。この子はただの子ではない。三代のご世継ぎになるみ子である。前年の火の御用の帰途、澄の懐妊が判り、同時に火水の戦いが勃発するのである。大本では、理想世界について、弥勒の世、松の世、神国の世、日の出の守護などと表現する。またこの泥の世を澄みきらせて「水晶の世」を迎えるという。直は孫の直日に夢をたくし、「水晶の世」にするための「水晶の種」とした。信者にとって、直の言葉は絶対である。彼らは、直日の生きている間に水晶の世が実現すると信じた。大本が世界の型であるうえは、直日をこの世の泥にまみれさせることなく清く正しく育てあげる。それがひいては世界のためと信じた。直日誕生の秋、役場から種痘の通知がきた。「水晶のお種をつらぬかねばならんさかい、血をまぜこぜにはできぬ。灸もすえることはならんで」と直はいいはる。

 しかたなく澄は母に内密で二〇銭の罰金を工面するため、箪笥(たんす)の中身が質屋に移動した。翌三六年春にも王仁三郎はそっと罰金を払っている。「この子に疱瘡をうえたら、世界はいったん泥海になる。もしそんなことになったら、私は申しわけに自害してもおっつかんのやで」とは、神命より国の法律を優先させようとする王仁三郎夫妻への、直の深い嘆きだった。

 いきさつを知らぬ信者は「さすがに役場や警察も、水晶の身魂の直日さんには牛の種よううえん」と鼻息荒い。王仁三郎は世間の誤解を恐れ、罰金を支払ったことを打ち明けた。彼らの顔色が変わった。蓑笠をつけた役員たちは団体で警察や役場へ押しかけ、「支払った罰金を返せ」と座りこみの強談判をはじめる。「銭おしみでいうのやない。この濁りきった世界にただ一粒神より授けられた水晶の種、まじりけなしのあの子にだけは、種痘はさせられん。だからといって罰金を出せば、日本が外国に頭を下げて負けた型になる。日本のためにも罰金を返せ。法律できまっているというなら、悪法を改めよ」 

 相手にされぬと、福知山の検事局まで押しかける。手こずった検事局が「国法を無視してそんなわけのわからぬことをいうと、軍隊をさしむけて大本をたたきつぶすぞ」とおどせば、日頃おとなしい役員の四方平蔵までが痩せ腕をまくり上げ「やあ、おもしろい。軍隊が大本を叩きつぶせるものかどうか、神力と軍隊のカくらべをしよう。何万人でもさし向けてみろ」と力み返る。何ヵ月もごたごたしたあげく、国の権力には勝てず、泣き寝入りになった。

 これからの毎年、王仁三郎は役員には極秘に罰金を納めて切り抜けてきた。王仁三郎は、直日の種痘ぐらいのことで教団の存否にかかわる問題にまでこじらせたくはない。だが直や役員たちがこうまでして直日の純潔を保とうとする気持は、笑い捨て去れぬ。世の中は何もかもごちゃごちゃになろうとしている時世に、まざりけなしをつらぬき通そうという意志は尊い。もし直日に種痘を強行していれば、直や役員信者たちの誇りは切りさかれよう。そして純潔に対して、彼らの心は免疫になる。だが問題は、種痘をしたことで本当に血が汚れるのか。主仁三郎はそうは考えていなかった。この問題の中にも、宗教のもつすばらしさも恐ろしさも同居しているように思える。

 明治四四年、もう逃げ切れぬと観念した澄は、小学四年の直日にいい聞かす。「直日さん、日本の国には法律いうもんがあってなあ、日本に住む限り、誰でも種痘するように決められている。天子さまかて、しとってや。お前が種痘せなんだら、今年こそ、お婆さんも、お父さんも、お母さんも、みなお前のために縛られて、牢に入れられんなんのやで」 

 だが直日はぐいと口を引き結んだままだ。種痘すれば大好きな祖母が神さまのおわびのために自害する、そう思いこんでいる。古川医師が大本へきて、直に種痘の必要性を根気よく説いた。だが直の心は動かず、逆にカソリックの熱心な信者である古川は、その信仰の深さにうたれ、動かされる。古川の知恵で、微量の直の血が採られ、その血で直日のふくらはぎに真似だけの種痘がされた。その傷口を、直は念入りに塩で清める。傷はあとかたも残らなかった。こうして永年続いた種痘問題もようやく決着がつく。

 これらをことさらのべたのは、直日の幼年期、少女期を通じて彼女の性格形成に大きく影響したと思われるからである。もの心つく以前から自分だけは特別だという自意識は、いやおうなく植えつけきざられた。同時に父や母に、不信の念が兆さなかったろうか。直日にとって、祖母は絶対である。それに逆らいがちな父母への批判の芽は年をへて育ち、根を張り、晩年の三代の世を形づくる。

 水晶の種直日とともにもう一人、大本には希望の星があった。直の次男出口清吉である。清吉は明治五年生まれ、親孝行で男らしく気っ風もよかった。兄竹蔵が行方不明となってから、事実上の長男としての重荷をおってきたが、明治二五年東京の近衛師団に入隊する。明治二七年八月、直の予言通りに日清戦争が勃発し、翌二八年四月、日本の勝利でおわるが、この結果、植民地として台湾の領有が決まる。日本は軍事抵抗を予想して近衛師団を台湾に派遣したが、その一兵の中に清吉がいた。五月二九日近衛師団は台湾に上陸、抵抗らしい抵抗もなく台北に無血入城、一〇月一九日、抗日軍は降伏して、近衛師団は台南に入城する。

 その頃(旧九月〉出口清吉が戦死したという不吉な噂がどこからともなく綾部の町に広がった。直が神にうかがうと「清吉は死んでおらんぞよ」との答えが返ってくる。役場から軍隊に問問い合わせたが、清吉の入った隊に戦死者は一人もいないとのこと。なんども問いあわせた結果、「清吉は戦死したから骨を取りにこい」という役場の通知がくる。直は骨壷と対面して思わずかっとし、「こら艮の金神、嘘ぬかした」と叫び、「もういうことは聞いてやらん」とまで反抗する。それでも艮の金神になだめられ、清吉の遺骨ではないと思いこむようになる。

 戸籍に記された清吉の死は明治二八年八月一八日だ。日本軍の兵力は二個師団半、人数にして五万人、その中で戦死者はわずかに一六四人、もし清吉が戦死したとするなら二五〇分の一の貧之くじを引きあてたこ とになるのだろうか。やがて国から戦死者弔慰金まで出されるが、それでも筆先には、「清吉は死んでおらんぞよ。神が借りておるぞよ。清吉どのとお直どのがこの世のはじまりの世界の鏡」と示す。

 だがついに直のもとへ清吉は帰ることはなかった。これをどう理解すればいいのか。筆先は平仮名と数字が主体で、句読点がない。だから片仮名ばかりの電報がしばしば誤読されるように、判断に迷うことがある。たとえば「かみ」とあっても、神、紙、髪、上、守などといろいろある。さらに句読点のつけようで、意味がまるで変わってしまう。「ものさしはかります」という看板は「物差計ります」と読みたくなるが、実は「物差、秤、桝」という計量器の看板だったりする。筆先の「清吉は死んでおらんぞよ」にしても、「死んではいない」なら「生きている」わけで、直はじめほとんどの大本信者はこの希望的解釈をしていた。ところがもし「死んで、おらん」とすれば「死んで、もういない」で、全く正反対の意味をもつ。句読点のあるなしは神のみぞ知るだ。あるいはまた、折衷的なときかたもできる。肉体は死んでいるが、魂は生きて活動しているというように。

 ではなぜ清吉の生死が重要かというと、筆先に清吉の御霊の因縁が「日の出神」と示されているからだ。筆先に現われる神々の中では一番魅力あるスター、闇の世の夜明けを告げる日の出神が清吉。だからこそ清吉の生死にこだわるのは当然だし、日の出神問題は第三次大本事件にも重要な影響を与えている。世間から気遣い集団としかみられぬ当時の大本である。どんなに自負はあっても、世間の蔑視はこたえたであろう。しかし彼らにはそれをはね返すだけの期待があった。日の出神としての清吉が、今にも外国から大手柄をたてて帰ってくる。その時こそ待ちに待った「日の出の守護」の世になる。彼らにとって、清吉はまさしく救世の大英雄であった。

 ではこれに対して、王仁三郎はどのように考えていたのだろうか。火水の戦いたけなわの明治三七年一〇月三〇日、神示によって『道の栞』に書き記す。「日の出神は変性女子に引き添いて高天原へ現われ給えども、誰知るものなし。生魂の如何なるものか誰知らず。憐れなり。死んで居らぬ肉体にも、言いよう説きようによりて、生身ともなり死身にもなるべし。生身と生魂の区別を能くわきまえて不覚を取るなかれ。そのままの肉体にて使われるものと、肉体を代えて使われる生魂とあり。肉体代わるとも生魂の働きあるものは、その者の肉体生きたるも同じきなり。この世の救い主は、天より下りて御稜威たかく輝き、龍宮館に現われ給えり」

 王仁三郎のいいたいのは、出口清吉にかかる日の出神の生魂は、肉体を代えて自分にかかり救い主としてすでに現われているのに、直をはじめ誰も知らない。なぜ清吉の肉体だけを求めるのかということだ。もちろん、悪神と非難されているこの時点、ひそかに書き置くだけである。

 明治三八年の筆先には「小松林は上田喜三郎のおりのご用でありたのざぞよ。出口王仁三郎になりたなら坤の金神となりて、夫婦そろうておんな役をさすのざぞよ」と示され、直と王仁三郎にかかる神々の対立がおだやかになった。しかし直にとって、王仁三郎に坤の金神がかかったとしても、妻神すなわち補佐役になったに過ぎない。それよりも、天の大神さまがいつ地に降ちてお手助けして下さるのかと待ちわびるのであった。

 筆先の予言通り、日露戦争も日本の勝利におわった。しかし役員信者が待ちかねていたような大本神のはなばなしい出番はなかったし、世界の立替えにも直接つながらなかった。熱狂から冷めると、彼らはそれぞれの暮らしに戻っていった。

 明治三九年九月、王仁三郎は綾部を離れ、三六歳で京都の皇典講究所教育部本科二年に編入する。四一年、金明霊学会を再編成し大日本修斎会と改める。この年の末、皇典講究所を卒業して神宮の資格を得た王仁三郎は、建勲神社や御獄教などで教団運営の実地を学ぶ。綾部に帰るなり、ふところの全財産五〇銭銀貨一つを役員に握らせ、大広間を立て増す古家を探してこいと命ずる。後の金などどうにでもなる、たとえ無一文でも仕事さえすれば金の方で追っかけてくるというのが、彼の信念だ。

 王仁三郎は腕をふるって教団の立替えをはじめた。すでに教義はできていた。祭式をととのえ、組織を充実させる。四二年二月には機関誌『直霊軍』を創刊して、出版活動に乗り出す。五月五日大広間上棟式、さらに神苑を買い広めて秋には開教以来の念顕であった神殿も完成する。教勢は日に日に発展し、カある新しい役員たちが王仁三郎を支えて、大祭は年ごとに賑わってくる。

 

大槻米、福島久についた金毛八尾の狐

 大槻鹿蔵・米夫婦のことを直は「鬼と大蛇の霊魂の夫婦」といい、「大本は善と悪の二つの型を出すところだが、他人の子には傷がつけられんから直の血筋に悪のお役をさせてある」と教えていた。その鹿蔵の晩年はみじめで、明治四五年三月、狂った妻を残し七四歳で没した。大槻の家は三〇円の借金の抵当にとられ、家を失った米は本宮山の麓に造られた頑丈な座敷牢に入れられていた。大正四年一月末、八木の福島久は座敷牢に姉を見舞った。この寒中、米は腰巻一枚の裸であった。狂った米は、腰巻以外のいっさいをずたずたに引き裂く癖があった。

 着物を入れてもすぐに細かく裂いて三つ編みにし、天弁から下げて火縄にしてしまう。そのくせ、どんなに寒くても風邪ひとつひかない。初めの頃、近所の人が「なんぼ気違いでも、裸にむいとくのはけしからん」と憤慨し、大本に交渉して一組の浦団を座敷牢に差入れたが、翌朝のぞくと布はきれいな幾つかの糸玉になり、中身の綿は無残にも引きちぎられ窓の格子から一面に外へ散っていた。そのくせ糠で顔を洗い、花いかだ〈白粉下〉をはたく、おしゃれは怠らない。子を生んだことのない乳房はたるまず、六O歳という年では信じられぬほど若い。

 たらいで行水させると、いかなる現象か湯が乳のように白濁したという。牢にいながら、世間のことはなんでも見通しであった。人の運命の予言もあたった。妊婦には「なんぼ離れていても『お米さん、頼むで』というたら、必ず守って安産させてあげるで」といい、一部からは安産の守り神のように崇拝されてもいた。

 久は、薄暗い牢の中に裸でいる姉を見て、思わず神に祈る。「米姉さんを助けとくれなはれ。どうぞ、どうぞ、姉さんの苦しみの半分なりと私の肉体が引き受けますさかい、姉さんを楽にしてやって下され」

 それから一週間ほどした二月三日夜半、久は異様な感覚でふと目ざめた。初産のあとの神がかり体験から、再び憑霊現象が起ころうとしていることを知った。だがそう意識できたのはつかの間、久は完全に別のものに支配され、荒れ狂っていた。その荒い神がかりが次第にしずまると、立居振舞い、足さばきまで自分と思えぬほどおっとりと媛美になる。よほど立派な神さまがうつられたかと、久はほっとする。だがもし邪神であったら取り返しがつかぬ。夫寅之助と相談し、大本の八木支部の役員を招集して審神(さにわ)してもらう。

 神前に進み出る久の足取りは、十二単衣の裾をひく姫君でもあるかのような気品に満ちていた。役員らは高貴な神がうつったものと思った。五日朝になって念のために自己審神をしてみると、少し怪しい点が発見された。一途な久のこ と、ただちに全裸になり、素足で雪庭にとびだし自分の憑霊にむかって激しく問いつめる。その勢いに、憑霊はついに口走った。「ああ、残念しごく、いままであまり悪事を働いてこの世を自由にいたしてきたが、もうこれから先の世は悪ではちょっとも行くことができんから、お血筋の肉体に忍びこみ元の名を隠して善の道を働こうと思うたなれど、こう天地から責め立てられてはかなわぬ。やっぱり本国へ帰ろうかのう」

 いうなり久の肉体から幽体がするりと抜けて、空中を北へ向かって飛んでゆく。それは八つの尾を持つ巨大な蛇体であった。驚いた久は、井戸に走って、井戸の底が空になるまで水を浴びた。そして家に入るや、娘に体が痛くなるまで塩で清めさせ、神前でひたすら神に祈った。するとまた憑霊が現われて、「大本へお参りに連れて行って下されば、正体を現わして大神さま(直のこと)に、お詫びいたします」と頼む。

 久は夫と支部の役員二人に連れられてつき添われて綾部へ参拝、大暴れして醜態を演じる。その夜は綾部で泊まるが、午前三時頃、憑霊の幽体が現われ「お約束通り、正体を現わします」という。たちまち色彩があふれ出し、まばゆいばかりに豪華絢爛たる裳裾が八畳の間も狭いばかりに広がった。憑霊は久にわび「あなたの、おっしゃることなら、どんなことでもいたします」という。「その装束を脱いで丸裸で便所の掃除をしてこい」と久は命じる。素直に憑霊は裸になって出て行ったが、やがて息せき切って帰ってきて、「下の便所の掃除をすませ、今度は開祖さまの便所の掃除をしようとちょっとお部屋をのぞきましたら、開祖さまのえらい御威光に身がすくんでどうしても行けんので、とんで逃げて帰りました」と告げた。

 翌日、綾部釈に向う途中、後から何者かがついてくる気配にふり向くと、久の霊眼に憑霊の正体がはっきり映る。全身、夜でも光り輝くような金色の毛を持ち、八つに分れた尾の先には金色の玉のついた狐である。憑霊は「今までこの尾で世界中をだましてきました。世の中の人間の九分までは私の子分が憑いているので気をつけて下さい」といい、これまでしてきた企みを懺悔し、久を驚かせた。八木に帰った久に激しい試練が待っていた。「いよいよ八木の自宅に帰りました。サアそうするといよいよ夫婦度胸定めの一段、一生懸命の舞台となりました。一番に私は主人にくってかかり手をひとかぶりかぶってとってしまうやら、主人の胸倉をつかみ『殺してやろう』と申して非常な乱暴をして主人の度胸を見ましたら、なかなかよく度絢がすわっておりますから主人はびくともせず、『なにその方ぐらいが百人千人束になってきたとて驚くものか』というなり即座に私の手足をひっくくり、柱にくくりつけてしまいました。それが二月の七日でありましたが、二八日まで一つも御飯は食べずに竹の根節の高い柄のさいはらいがササラになるところまで打たれまして、顔一面紫色に死んでしまうところまで一生懸命の度胸定めをしられました。

 その間に私の霊魂は宇宙にあらん限り一昼夜の間に外国へ行ってきたり、また日本国中をかけ歩きましたが…」『神霊界』大正七年三月号「顕幽出入談」

 二二日間、久は柱にくくられたまま、飲まず食わずの荒行をさせられ、霊魂は幽体離脱して地獄界を見聞する。寅之助初め役員たちは、これだけ飯も水も口に入れねば命はないものと覚悟していた。ところが久は、突然正気にかえり、みなを驚かす。この異様な体験によって、福島久に救世の激しい使命感が燃えあがる。その結果、久は狂熱的な宣教活動を行ない、横須賀海軍機関学校の英語教官浅野和三郎らを信仰に導き、軍人や知識人らの大量入信の導火線になる。澄は『上申書』で「教祖は『〈久には〉どうもこうもならぬ神が守護しておる。あの方の系統の霊にはこの神さまは御苦労しておられるのじゃ』といわれました。

 話かわりまして大槻鹿蔵、米。鹿蔵は八頭、米は八尾、綾部の大本をつぶさんと永い苦労をしましたがかなわず、乗り替えて八木の久子に、これからさまざまの活動をいたすのでございます」とのべるが、米にかかった霊が久に移ったためか、この年の五月七日、米は誰も知らぬうちに座敷牢の中で静かに息を引きとっていた。
 王仁三郎にかかる霊はみろくの大神だった大正五〈一九二八)年四月二二日、本格的宣教体制をととのえおわり、「皇道大本」と改称する。六月二五日未明、一行六三名が三隻の船に分乗、高砂港から神島に向う。一行中わけても目だつのは王仁三郎の女装と直日の男装だ。大きく髷をゆい残った黒髪を背と肩に流した王仁三郎、裾模様をかさね着して前結びの帯、長万を握っている。直日は髪を束ね、白の剣道着に横縞の袴を短くはき、脇差をさした武者少女の姿。左手に「木の花直澄(このはななおずみ)」(直日の雅号)と書いた笠を持つ。「一つ島、一つ松」の神示のまま探し求めた神島(上島)は、播磨の高砂沖合い三里にうかぶ丸みをおびた小さな無人島。 ここに三千年汐浴みながら隠退しておられた坤の金神の神霊を、綾部に迎えるための行事であった。島の山頂より潮風に向い、王仁三郎は石笛を吹き鳴らす。女竹をきって弓矢を作り、えびづるのしなやかな茎で弓づるを張ると、一同の合掌の中、この世の邪気を射放つ型を四方に示す。持参した宮に坤の金神の鎮坐を願い、山頂の式典が行なわれた。

 帰途の船中で王仁三郎は男装に戻る。二八日午後、綾部に帰着した王仁三郎は再び女神姿になり、教祖室の襖を開いた。直は驚いて身じまいを正し、声をあげる。

 「坤の金神さま…」 この日をどれだけ待っていたろう。直にかかる艮の金神と王仁三郎にかかる坤の金神が世に落とされて、永の年月、絶えて久しい再会なのだ。夫婦対面の神霊の喜びをこめて、その夜、祝いの杯をかわした。一〇月四日午後四時、三度目の神島参りに出発する。このたびは直が加わった。出口家親戚一統、役員信者たち計八一名。神島参りを終った出口家一族はその夜、大阪松島の谷前貞義方に宿泊した。

 直は神島から捧持した宮のそばで筆先を書いていた。その部屋の前を通りかかった澄は、母の背に異様なたかぶりを感じる。宮の前に顔をふせ震えている。戸をかけると、ふりむいた直の顔に血の気がない。しばらく息をつめ、思い決したように「先生がのう…先生がみろくさまやったでよ。先生はみろくの大神さまじゃと神さまがおっしゃる。何度お聞きしても同じことや。私は今の今までどえらい思い違いをしていたのやで」と一気にいい、いま書いたばかりの筆先を澄に渡した。

 「みろくさまの霊はみな神島へ落ちておられて、坤の金神どの、すさのおの尊と小松林命の霊がみろくの神の身魂で、結構な御用がさしてありたぞよ。みろくさまが根本の天の御先組さまであるぞよ。くにとこたちの尊は地の先祖であるぞよ。二度目の世の立替えについては、天地の先祖がここまで苦労いたさんと、ものごと成就いたさんから、永い間みな苦労させたなれど、ここまでに世界中が混乱(なる)ことが、世の元から分かりておりてのしぐみでありたぞよ。…なにかの時節が参りたから、これから変性女子の身魂を表に出して、実地のしぐみを成就いたさして、三千世界の総方さまへお自にかけるが近よりたぞよ。出口直八一歳の時のしるし」大正五年旧九月九日

 みずから書いた筆先で、直は肝たまがでんぐり返るような衝撃をおぼえたであろう。神命によって澄の婿にはしたものの、人間心では常に批判せずにはおれなかった男 王仁三郎。彼にかかる小松林を悪神と信じ、どこどこまでも追いつめ追い落とさずにおれなかった。王仁三郎にすさのおがかかった時も、岩戸を閉めた元凶として激しく戦った。しかも神は、王仁三郎を経糸に対する緯糸、厳に対する瑞、変性男子に対する変性女子とし、みろく神業には欠かせぬものと規定した。

 直は悩みぬき、ついに王仁三郎こそ坤の金神の御用という動かぬ認識に立つが、あくまで直にかかる艮の金神の補佐神としてであったのだ。自分が主で王仁三郎が従、だから直は、神約による天の大神さまの御加勢をひたすら待ちつづけた。ついに神は、ここに至って真栢を明かした。坤の金神も、すさのおも、直があれほど非難した小松林もみろくさまの霊であり、みろくさまこそ根本の天の御先祖さまだと示された。すでに天の大神さまは上田喜三郎の肉体にかかって明治三二年からお手伝い下さっていたのに、それに気づかずに一八年がうかうか過ぎたのだ。大本の活歴史はまさしく神の仕組んだ勇壮なドラマであり、登場する役者たちは神の網に引き寄せられ、縦横にあやつられてきた。そのあげくのみごとな逆転劇である。

 大本でいう「立替え立直し」とは、すべての価値観の転換でもあろう。悪神祟り神として押し込められていた艮の金神、坤の金神がこの世を造りかため、すべてを生成化育してきた人群万類の祖神であると認識することは、第一に天地のひっくりかえるような神観の根本的転換でなければならない。第二に、みろくの神の出現によって大本の内側におこった認識の転換である。王仁三郎にかかる神霊は、実は艮の金神に再出現を命じた天の主体者であり、大化物として変化(へぐ)れに変化れ、直と対立するように見せながら実は直の神業を助けてきた。すでに大正五年旧七月二八日の筆先で「みろくさまの、お出ましになる時節がまいりてきて、天と地の御先祖が表になりて、三千世界の世の立直しをいたすぞよ」と予告し、「大事の経綸は今の今まで申さんということが、筆先で気をつけであろうがな」と注意もあった。この神島開きの筆先は、大本のいままでの神観にたいして大きく修正を命じるものである。

 「これから変性女子を表に出して、実地のしぐみを成就いたさして…」の神示が出て初めて、今まで絶対に許されなかった筆先の選択や添削、漢字の使用が王仁三郎によって晴れて可能になり、『大本神論』として世間に広く呼びかける発火点になる。王仁三郎の肉体に「みろくの大神」がかかったなどといえば、「だから王仁三郎は大ボラ吹きの大山師だ」と不快に思う人や仏教でいう弥勒菩薩を勝手に借りてきたと疑う人もあろう。たしかに王仁三郎が自分でいいだしたのならだ。しかしこれは出口直がおのれの意思とかかわりなく書かされたものだ。

 この筆先がでた時、なろうことなら直は破り捨ててしまいたい衝動を感じたであろう。筆先を絶対と信じる直ゆえに「我」を折った。わが手で書いた筆先で改心させられたのである。直と王仁三郎の血みどろの火水の戦い。その相互審神の結果、王仁三郎にかかる坤の金神〈すさのおや小松林も含めて〉こそみろくの大神であると直の筆先は実証する。いわば大本的弁証法がここにみられる。

 『霊界物語』「第七巻総説」では、出口直が王仁三郎の神格をみろくの大神と認識した大正五年の神島以後を見真実(真実を見る)に入ったといい、それ以前を未見真実(未だ真実を見ず)の境遇にあったとする。また別の観点に立てば、直に神格を認めさせたことで王仁三郎は顕真実(真実を顕わす)になったといい、まだ認めさせられなかった時代を未顕真実(未だ真実を顕わさず)という。

 直が「見真実」の境域に達したのは、ようやく昇天の二年前であった。大本信仰的にいっても、王仁三郎の神格(肉体ではない)を天の大神と信じられない時点は未見真実の信仰であり、当然、見真実への飛躍が求められる。また見真実の信仰に入ったとしても、それを自分の内なる信仰にとどめて外に顕わさぬあいだは、やはり未顕真実の信仰といえよう。現在、大本教団の執行部諸氏は未見真実、未顕真実の信仰であるばかりか、王仁三郎の神格を、ひいては神島の筆先をも否定しようとしており、それが第三次事件をひきおこす要因となった。直の「見真実」により、大本の役員信者のあいだにどれだけの意識の変化があったかといえば、ほとんどその効果はあらわれていない。彼らは公然と直を「大神さま」と呼ぶ生神信仰にとらわれ、瑞霊(王仁三郎の霊)否定は王仁三郎の大本入り以来、常に教団内に根強く存在しつづけた。

 大正六年一二月一九日、福島久が二人の信者と共に岩戸(金龍海の大八洲にあった幽斎修行場)で拝礼していると、久に弟出口清吉と称する霊がかかってきて物語り始める。清吉は台湾で軍隊を脱走して苦労のあげく、大正四年に誰にもみとられず外国で病死した。そこでこれより久にかかって、日の出神としての働きを示したいという。久は清吉と名乗る霊の言を信じて勇みたち「清吉の霊はいよいよ義理天上日の出神として自分の肉体におさまった」と宣言、「日の出神論」という筆先をあふれるように書き綴る。

 その骨子の一つは、王仁三郎の霊は神代の昔、天地の規則を破った元凶のあまてるひこ (天照彦)であり、わかひめぎみ(出口直の霊)はあまてるひこの罪をおうて神代一代苦労させられた。だから王仁三郎を早く隠退させて三代直日の世にならぬと、水晶の世はこないという。久は直や王仁三郎夫婦にもそれを認めさせようとして、懸命に働きかける。出口直の三女であり二代澄の姉であるうえ、人一倍熱情的、シャーマン的な久の影響力は大きく、それが教団の中に隠然とした勢力を作ってゆく。

 彼らは瑞霊封じをもって神業かのように確信する。王仁三郎は『物語』の中で、久の霊的働きを、ウラナイ教の教主高姫というユニークな人物の言動を通して活写している。

 

立替えに魅せられた浅野和三郎

 大正四年暮、横須賀海軍機関学校の英語教官であり、英文学者として著名な浅野和三郎は、福島久と海軍予備機関中佐飯森正芳に出会っていらい、丹波の大本への興味をかき立てられた。二度綾部を訪ねて直や王仁三郎にあい、また横須賀の自宅に王仁三郎を招いて鎮魂帰神や筆先を研究し、ついにいっさいを精算して神の網に身をまかせる決意をした。大正五年一二月、一家を上げて綾部に移る。早速、王仁三郎の依頼で機関誌の主筆兼編集長を引き受けた。

 浅野は旬刊『敷島新報』を『神霊界』と改題、紙面を通して立替え立直しを広く世に訴える。三千世界の立替え立直しの神約は大本に生命を吹きこみ、他教団との違いをきわ立たせる。これを忘れた大本ならば単なる一宗派に堕してしまい、存在意義は薄れる。しかしこの大予言はいわば両刃の剣で、ときとして鋭く大本自身を傷つけもした。

 大本の歴史をふり返る時、慢心や筆先のとりちがいからくる役員信者の独走を制御しきれなかった苦い錯誤につきあたる。浅野和三郎もまた、立替えに魅せられて大本に入り、その真意をとりちがえて大本を刺し、みずからも傷ついた。浅野和三郎を迷わせたのは、『神霊界』大正六年七月号に掲載された「裏の神論」(直の表の神論に対して、玉仁三郎の筆先を裏の神論といった)である。「…今一度、変性女子の身魂を連れ出す土産に世界のことをあらまし書き残しておくから、大切にいたして保存しておくがよいぞよ。明治五〇年を真ん中として、前後一〇年が世の立替えの正念場であるぞよ。明治五五年の三月三日、五月五日はまことに結構な日であるから、それまでは大本の中はつらいぞよ」明治三七年七月一二日

 筆先は一種の警告書であって、このままで世界が進めば泥海にかえるほかはない、そうなってはならぬから「神も人民も改心せよ」と訴えるのが主旨である以上、人民の改心いかんでは世の終末は回避できよう。ところが日露戦争の最中に出されたこの筆先は警告どころか、はっきり時期の指し示された予言ではないか。一九一二年度は明治四五年と大正元年にまたがるから、この年を二年と数えるか一年とするかで、明治五〇年は大正五年とも六年ともとれる。

 その前後一〇年なら、立替えの初めは大正元年か二年、大本の基礎が固まった頃であり、明治から大正へと移り代わる境目である。立替えの完成は大正一〇年もしくは一一年。

 大正一〇年といえば教祖八六歳、これ以上のびては、教祖生存中に立替えはできぬ。「三〇年で世を切り替えるぞよ」の筆先により、大本では三〇年をひとくぎりとして大きな変り目が訪れると信じられている。開教の明治二五年から三〇年がちょうど明治五五年。三月三日は立替えの決着の日であり、五月五日は立直しの完成の日ではあるまいか。

 世界の現状を眺めまわしても、筆先の指摘通りに進行している。世をもつ神が態神であって、改心のできぬ国は次々上下にひっくり返っていく。「王天下は永うはつづかんぞよ。外国にはひどいことがせんぐりあると申して知らしたことが、実地になりてくるぞよ」と明治三六年に神はすでに宣言しているが、まさにそのとおり、清国の王天下がくつがえった。露国のロマノフ王朝は滅び去り革命は野火のごとく広がる。

 目まぐるしく世界の小国は独立する。丹波の山奥にありながら、艮の金神の眼光は世界の隅々まで見通しなのだ。大地を打つ槌がはずれても、この立替えの時期だけは間違わぬ。これが浅野のえた結論であった。

 それから半年たっても、王仁三郎は明治五五年立替え説について肯定も否定もしない。たまりかねて浅野がただすと、王仁三郎は「さあ、そういう考えもできますかなあ。何しろ神界の経論やから、わしには分かりませんなあ」ととぼけるだけだ。

 浅野は態度をはっきりせぬ王仁三郎の立場を勝手におしはかる。大本の重要人物であり卓越した預言者王仁三郎がいったんそれを肯定すれば、すくなくとも信者間には確言としてまかりとおる。否定すればしたで、「筆先の預言を信じぬ外国魂」と反王仁三郎派のいっせい攻撃をくうであろう。王仁三郎の立場で立替えの時期を明かせぬとあれば、証文の出し遅れとならぬために、誰かがかわって発表せねばなるまい。それも教団の相当の役職者の一言でなければ証文の価値もなくなる。自分が十字架をおう。万々一誤った時に浅野の放言とすれば、大本にも王仁三郎にも直接の攻めはかかるまい。その第一声は、大正七年六月末、浅野、友清天行らによって、松江の講演で発せられる。

 敵にむかつて宣戦布告をやってのけるような浅野の激烈な調子に聴衆は呆然自失。数人の新聞記者が浅野をとりまき「浅野さん、あなたは正気か」とつめ寄ると、「ともかくもあと千余日で立替えがくるのさ。書くならせい、ぜい今のうちだよ、君」と倣然といい放つ。浅野の危機意識は、つかまえどころのない王仁三郎を除いて、大本全部のものになっていく。そのあいだにも、全国的宣教活動は「立替え立直しの時期の切迫」という預言に裏づけされ、強力に展開されていた。

 大本は機関誌『神霊界』ばかりではなく、大正六年一二月には旬刊誌『綾部新聞』を創刊、全国の市町村役場や学校関係、実業関係などの各方面に毎号贈呈した。大正一〇年立替え説の文書宣教による第一弾は『綾部新聞』の大正七年八月号に発表された「一葉落ちて知る天下の秋」と題する論文だ。論文は友清天行(間もなく王仁三郎にそむき、後に神道天行居を創始〉の執筆になるもの。

「大正一〇年頃、欧州大戦に引きつづき、日本対世界の戦争を機会に天災地変も同時におこり、一人のまぐれ死にもまぐれ助かりもない」とし、「今から一千日ばかりの間にそれらのすべての騒動がおこって、そして解決し静まって、大正一一、二年頃はこ の世界は暴風雨の後のような静かな世になって、生き残った人たちが神勅のまにまに新理想世界の経営に着手している時であります」と時期の切迫を断定した大胆な宣言であった。

 記事の掲載された『綾部新聞』は各地で申し込みが続出して、異例の増刷刊行となる。この論文は大正七年一二月に『神と人との世界改造運動』と改題されて出版、翌年四月までの間に七版を重ねる。大正七年七月二五日、直は書き終った筆先を王仁三郎に渡し「筆先はもう書かいでよいと神さまがいわれる。立替えの筆先は終った。後の立直しは先生のお役目、私の御用もすんだようですで」といってさびしく笑った。

 直の天に召される時が迫っている。直と王仁三郎だけがそれを予知している。雑多な階級、雑多な思想の持主たちを包含しつつ急速にふくれてきた大本は、ただ教祖出口直の存在によってのみ結束が保たれていた。直の生存中に立替えがおこるものと誰もが信じている。直の昇天は大本を四分五裂にする時でもあった。第一次世界大戦を契機に日本は空前の大戦景気を招来した。輪出が急増し世界有数の資本主義国に発展した日本には成金が続出するが、貧民もまた激増した。物価は高騰しても賃金の延びは追いつかぬ。国は富み、人民は飢えに泣いた。「飢えて死ぬより監獄へ」と米屋へ押しかけた越中女一揆に始まる米騒動は全国民運動に発展し、労働者、農民を主とする大衆が米屋、富豪邸、警察、などを襲撃、これらを報じる新聞記事はさし止められ、軍隊が鎮圧に出動する事態にいたる。

 同じころ、マドリッドからおこったスペイン風邪は世界的に広まり、日本での死者三九万人と報ぜられる。この異常な時、王仁三郎はみずから宣言して、心身の大修放のため七五日の床縛りの行に入る。八月一八日、王仁三郎四八歳の誕生白から始まって一〇月三一日に終る予定だ。行中は面会謝絶、行の半ば頃から本格的な苦しみが襲ってきて高熱を発し、のたうちまわる。

 『神霊界』一〇月一日号の「編集室より」には「出口教主の御病気(床縛りの行)は神界の御都合で七五日間ということに、なっておりますから、一〇月の末には全快されるはずです」と発表、予告どおり床を上げた。

 一一月五日の深夜から翌朝にかけて、本宮山、和知川を中心に陸軍の大演習があった。六日朝、直は福島久に手を引かれて手洗いに立ち廊下をもどる途中、意識を失う。この時、ひっきりなしに聞こえていた鉄砲の音がやんだ。攻撃軍が敗退し、防衛軍が本宮山で勝利を占めた瞬間であった。急を聞いて王仁三郎、澄、直日、役員らが駆けつけたが、あまり楽そうな顔なので、これが直の臨終の姿だとは誰も悟れなかった。一一月六日(旧一〇月三日)午後一〇時三〇分、出口直は静かに息を引く。卒年八三歳。

 その苦難の生涯にふさわしく、天保の大飢饉の最中、悪病の流行した天保七年(一八三六)に生を受け、米騒動とスペイン風邪に動乱する大正七(一九一八〉年に没したことも、奇しき因縁というべきか。

 この時の王仁三郎の号泣はかたり草になっている。直の昇天した一一月六日のこの日、五年にわたる第一次世界大戦は実質上、ほこをおさめた日となった、まるでその朝の本宮山攻防戦がそのヒナ型を演じてくれたように。五年間ドンドンガンガン騒ぎ散らした欧州戦場が急に鳴り物(銃砲声)を禁止したのは、直の死にたいして世界が謹慎哀悼の意を表したかのようである。昇天の五日後の一一日、ドイツと連合国の休戦協定が調印され、第一次世界大戦が終る。そして大本には、第一次大本事件の危機が迫りつつあった。

 『神霊界』一一月一一日号「編集室より」に「世界の悪神の首領は露国の王を捨ててカイゼル(ドイツ皇帝)にかかって荒びまわっておりましたが、過ぐる三日〈著者註・次号で一一月一日と訂正)からウィルソン(著者註・米大統領〉にかかりました」と今後の世界情勢を示唆する記事がかかげられた。

 

第一次大本事件勃発

 開祖出口直の在世中、王仁三郎は実質的に教主としていっさいを統理していたが、あくまで直が表で王仁三郎は裏であった。直の昇天によって、王仁三郎が名実ともに教主の地位に立つ。生前、直は幾つかの筆先を一つの箱に秘め、側近の四方与平に預けて「私の死後、つぎの教主に渡すように」と命じていた。与平は箱に鍵をかけ大切に保管していたが、直の昇天後、遺言通り王仁三郎に渡す。「変性男子の後のご用継ぎは、明治二五年に初発に、出口直の筆先に一度書かしたことに違いはいたさん。何事も出口直の後の二代の御用を勤めさすのは末子のお澄が定めてあるなり。三代の御用いたすのが、出口澄の総領の直日に渡る経綸に定まりてあるぞよ。この三代の直日が世の元の水晶の胤であるぞよ。綾部の大本のご世継は末代肉体が女であるぞよ」明治四三年旧四月一八日

 だが直昇天の混乱期をのりこえるために、王仁三郎はしばらくは教主の地位にとどまる。そして大正八年一一月二五日(旧一〇月三日)の開祖昇天一年祭を期に教主を二代澄にゆずり、みずからは教主輔の地位につく。王仁三郎の教主輔は二代教主の後見だが、実質的には代行役であり、大本の場合、「輔」の字は王仁三郎にのみ使い、他は「補」の字を用いる。こうして直から王仁三郎へ、王仁三郎から澄へと、世継ぎは神定のままに継承されていった。

 直昇天後も講演と文書による猛烈な全国的キャンペーンはとどまらぬ。国内外の不安な情勢を背景に、大本の叫びは思想的に動揺する国民各層の間にしみとおる。むろん大本を邪教視する中傷や批判攻撃の声も高まる一方だ。ついに大正八年二月、京都府警察部長藤沼庄平と中村保安課長が綾部に調査のため乗りとむ。その当局に挑戦するかのように、王仁三郎は次々と刺激的な手をうつ。一一月一八日、王仁三郎は明智光秀の旧居城亀山城跡一万三千五百坪の買収契約を即日、電光石火的に完了する。この亀山城跡はやがて王仁三郎によって天恩郷と命名され、宣教の拠点となる。 教勢が加速度的に拡大するにつれ、新聞、雑誌はきそって大本批判の記事をのせ波紋は波紋をよぶが、さらにもう一波乱、あっと驚かせたのは大正日日新聞社の買収とその経営であった。  

 大正日日は大正八年二月、大阪梅田に創立された新聞社で資本金二百万円(当時の朝日新開社の資本金百五〇万円)、規模と内容は大阪朝日、大阪毎日と比肩され、当時の一流ジャーナリストが参加していた。しかし朝日、毎日の強国な販売網は容易に破れず経営は行きづまり、一年たらずで身売りとなる。大正九年八月、大本は大正日日新聞社を五〇万円で質収、社主出口王仁三郎、社長には浅野和三郎が就任した。一宗教団体が時事新聞を発行するなど世界的にも珍しく、もちろん日本では前例を見ない。しかも朝、夕刊発行の全国紙である。大本の手になる『大正日日新聞』復刊第一号は九月二五日、発行紙数四八万部、朝日、毎日のそれを上回っていた。

 かねてから「新聞で知らせて下されよ」の筆先の命ずるままに立替え立直しの論陣を張り、合せて大正日日新聞社主催の講演会を全国各地で開催、全教団あげて危険な断崖へと突進していく。朝日、毎日その他の各新聞社は結束して大正日日新開社の切りくずしをはかる。買収前の旧社員がターゲットにされて七〇人が引き抜かれ、わずかに一O数人を残すだけ。 呼応して、官憲が新聞の購読調査の名を借りて読者にいやがらせする。そのため発行部数が三ヵ月後には二〇万部に減少し経営も苦しくなる。

 大正一〇年一月、浅野社長が退陣、王仁三郎がかわって梅田の本社社長室に起居し、陣頭指揮にあたった。大正一〇(一九二一)年二月二一日、原敬内閣の手によって第一次大本弾圧が行なわれる。天皇制国家の栄光を傷つけぬため、ことさら紀元節の翌日が選ばれた。当局は戒厳令さながらに武装警官二〇〇人を動員し、大本本部ほか数カ所の徹底的な家宅捜査をして多数の証拠品を押収した。当日、王仁三郎は大正日日新聞社社長室で筆をとっていたが、当直の者に「ちょっと行ってくる。誰もこなくてよい」とおだやかに検挙されていった。

 この日を予知した彼は、血気にはやる青年たちが警官に抵抗せぬよう、綾部を抜け出して大阪で検挙を待ったのである。浅野和三郎もまた、京都検事局に連行される。大本が比較的平静であったのは、すでに『神霊界』に発表された『神論』や王仁三郎の言葉の中に弾圧を暗示するものがあり、神の経綸の一段階と受けとめたからだ。たとえば井上教務局長は「今度の事件は出口大先生や浅野顧問が司法当局に直接取調べを受けまして、教理の真髄を国家に対してせん明する機会が到来しましたので、これもまったく神さまのおぼしめしと喜んでおります」『大阪時事』といい、大本草わけの四方平蔵は「今度のことはつとにお筆先に啓示されたことであります。教祖さまも私らに『警察から調べてもらわんと疑いが晴れぬから、神の仕組が成就せぬから』とよくおっしゃったものでした。私は刑事がたに『神さまの仕組が一O年も遅れたから待ちかねていました』と快く迎えました」『大正日日』とのべ、出口澄も「これもみな神さまのお仕組でございます。かえって大本の真相が世間に知れるであろうと喜んでおりますので…」『大阪毎日』と語る。

 五月一〇日の午前九時、予審の終結と同時に大本事件の記事掲載の禁がとかれた。全国の各新聞は飢えた狼のようにこの時を待ち四頁ないし二頁大の号外を発行、大本は表面皇室中心主義を装いながら正体は国家転覆の意図を抱き、内乱を準備し、反逆と僣上の団体であるという意味の記事をかきたてた。

 三文の値打ちもない大本教、その内幕は王仁三郎の口から、マッ正直に自白された、世間をあざむき信者を愚弄しいたる、手品の種はことごとく暴露された」(『大阪毎日』号外)「戦慄すべき大陰謀を企てた、大本教は奇怪な正体を暴露した、四箇月にわたる検事局の活動とその収穫、出口、浅野以下幹部信者の喚問、三百余名の多きにのぼる、見よその真相!見よその内面を!」(『大阪朝日』号外)といった派手な見出しだ。

 また「命がけで地下の秘密を探る、動かぬ黒い影は死人か? 咄怪物!」「竹槍十万本の陰謀団」「十人生き埋めの秘密あばかれる」「伏魔殿の正体暴露」など怪奇にみちたまったく事実無根の捏造記事でうめた。

 翌一一日、京都地方裁判所が「予審決定」の全文を発表、さらに一二日、京都府警察部高等課は、王仁三郎が予審にさしだしたという「大本教改良の意見」を非公式で発表した。要約すれば、これまでの大本のあり方と教典の神論を否定し、筆先を焼却、皇道の二字を廃し、立替え立直しの主張をひっこめ、祭神まで改めるというのである。むろん教団を混乱させるための治安当局の権謀術数の一つであったが、狙い通り教団内に深刻な影響を与えた。

 

教団の内部矛盾の露呈

 当時の大本には旧新二派の対立があった。旧派は明治時代に入信し筆先への素朴な信仰によって結集している「開祖派」信者グループ、福島久を中心とした「八木派」信者グループである。みずからを日の出神と信じる福島久の言動とカリスマ性は、熱狂的に信者たちを魅きつけ、久の血筋は、「開祖派」にも強い影響力を及ぼした。新派は、王仁三郎、浅野和三郎を中心とする信者グループだ。だがその新派もまた複雑な連合軍であった。王仁三郎を無条件で信じる「大先生派」と浅野を支持する知識層の信者および浅野の兄、海軍中将浅野正恭が代表する軍人組らの「浅野派」、軍人組でありながら「反浅野派」で熱烈な天皇絶対論者 石井弥四郎らの「石井派」に分れていた。

 彼らは、天皇に対する考え方も、筆先や立替え立直しの時期に対する受け取り方もさまざまであったが、それが表面化しなかったのは、ともかく新派を中心におし進める宣教が現実的に教団の大発展をもたらしていたからだ。だが事件で頓座し、王仁三郎の『大本教改良の意見』が出るにおよんで、教団の内部矛盾が一挙に露呈したのである。

 福島久は「先生がお筆先を焼くという起誓をしたというのは、もってのほかです。お筆先を焼くというのは大事件です。そんなことをしようものなら、訴訟を起こすほかはありません。身命をかけても争います」『大阪朝日』といい、出口澄も「大先生にいかなる事情があってしかくいわれたかはよくわかりませんが、私は大本を代表する現教主として、だんじて焼却などは許しませぬ。ただ現行法にふれるような、すなわち予審決定書に示されたもののごときは、今後決して用いさせぬことにします」『大正日日』と決意を語る。

 石井弥四郎らの「皇道擁護団」は「筆先は神の真理であるが、卑近の比喩を用いてあるために真意を理解することが困難となり、誤った解釈をおこなった結果、事件がおきた。その責任は修斎会にある」と主張し大日本修斎会幹部の排除を申し入れたが、澄が「邪神はもちろん虫けらまでも助けるのが大本の教えである」と断固拒否したため教団から離脱した。

 比較的動揺の少なかったのは大先生派の信者たちで、「大先生は大化物だから、どこにどんな真意があるか分からない」と静観の立場をとった。澄は役員信者をみろく殿に集めて、注意を与えている。「私が最近受けとった大先生からの手紙によると、獄中でしたためたあの告白書(改良意見書)なるものは全然、検事局の威圧的事情の下にあって余儀なくしたためたものであるから、決して信用すべきものではないとありますから、さようご承知おき下さい」『大阪朝日』

 六月一七日午後一〇時過ぎ、王仁三郎と浅野和三郎が予告もなく責付出獄し、二一六日の獄中生活にかかわらず元気な姿で帰綾、みろく殿神前において参集した信者たちに報告をする。「改良意見は当局の圧迫に対応し小松林命の神がかりで書いた方便、予審を長びかせず、保釈をかちとるためのもの」という弁明は多くの信者に受け入れられ、教団はふたたび王仁三郎の運営にゆだねられた。だが反主仁三郎勢力が影をひそめたわけではない。九月一六日、大本事件の第一審公判が京都地方裁判所で開廷され、二七日に終了。一〇月五日に判決があり、王仁三郎に不敬罪、新聞紙法違反の最高刑である懲役五年、浅野和三郎には不敬罪で一〇ヶ月、名義上の『神霊界』の発行、編集、印刷人であった吉田祐定は禁固三ヵ月。開廷から判決まで二〇日、事実審理はわずか二日という権力側の一方的裁判を不服として即日控訴、検事側も浅野和三郎の量刑を不服として控訴し、公判の戦いは大阪控訴践にもちこされる。

 大正一〇年一〇月八日(旧九月八日)、王仁三郎に「かねてから開示して、おいた霊界の消息を発表せよ」との神命が下った。ところが裁判所に出頭したり、目を痛めたり、その上、一一日には京都府庁に呼びだされ、本宮山神殿の破壊を命じられる。法律でもないたんなる明治五年の太政官達をかざしての神殿破壊命令である。天皇絶対をかさにきる当局の高圧的な無法の前には、受諾するより方法がない。信者の手でこわすことはしのびないという理由で、官憲の手で破壊することを依頼した。

 すがすがしい神明造りの神殿はこの年の七月二七日、拝殿は八月に完成したばかりで、ともに木の香もかおる真新しさなのである。建築費三九万、地ならし、付帯設備もふくめ六O万円という巨額の出費は、信徒たちの神にささげた真心の結晶であった。

 それにしても事件が起こった二月には本宮山拝殿はまだ上棟式後二ヵ月をへたばかり、なぜ営々と築き上げるのを横自に見ながら、完成を待って破壊するのか。信徒らは国家権力の悪意と狂暴に悲憤の一棋をのむばかり。教団は最悪の事態に追いこまれた。

 一〇月一三日、修斎会の役員、幹部は責任をとって総辞職、二代教主澄、教主輔王仁三郎は引退し、代わって三代直日(二〇歳)が教主、大二(一九歳〉が教主補に就任した。大二は吉田竜治郎三男で、澄の熱望により大正三年九月、出口家の養子にもらわれていた。将来、直日との結婚が予定されていたのである。また「皇道大本」は単に「大本」と改称され、教団の組織や人事の大幅な立替えがおこなわれた。これらの切迫した状況のため、神命とはいえ『霊界物語』執筆の時間が生み出せない。気に病みながら九日がすぎた。

 すると一七日の夜半、出口直の霊が王仁三郎の枕元にあらわれ、馬にむち打つように指示桿で一二、四回畳をたたく。霊界物語発表の催促だと気づいた王仁三郎は「明日から口述に着手しますから、御安心下さい」と答える。直はうなずき、にっこり笑って姿を消した。そして翌一八日〈旧九月一八日)朝から口述が始まる。同じ日、三代教主直日が祭主になり、全国には連絡がとれぬまま綾部在住の役員信者だけが参列して神殿告別式と昇神祭が涙のうちに行なわれる。

「おろがむも今しばしぞと本宮山の 峰をあおげば月はくまなき」

天地のしじまの中に虫の声 わがすすり泣き川のせせらぎ」と直日は歌う。二日後の一〇月二〇日〈旧九月二〇日)、警察当局によって本宮山の神殿破壊が開始された。午前中は瑞垣を、午後一時からは手垢一つついていない神殿を。実は王仁三郎、本宮山の神殿破壊を、その日時まで予知していた。『神霊界』大正一〇年一月号「掃き寄せ集」で切紙宣伝(半紙一枚を一定の方式に折り一はさみで切り離すと九枚の小片ができ、これを組みあわせて文字を作り大本の権威を証明する方法)の紹介をし、「さて、この二大勢力(官憲と大本?)が衝突するのはいつかと見ると、明らかに大正一〇年旧九月二O日午後一時と出る」とさりげなく結ぶ。

 破壊の一〇ヵ月前にきっちりこの日、この時を発表しているのだ。しかも神殿に鎮坐されたご神体は神籬だけであった。

 破壊は一週間にわたって続く。その間、警官隊が厳重な警戒にあたったばかりか、第一日目は何鹿郡から総動員された三五〇〇人の在郷軍人が本宮山下の小学校に集合し、行進ラッパを吹いて付近を練り歩き威圧した。第三日自には篠山歩兵第七〇連隊の武装した一個中隊が見学と称して現場に休憩し、その後、神苑内を示威的に行進、ほかの一個中隊や福知山歩兵連隊の一個中隊もやってきた。
『霊界物語』の口述開始

「本宮の神殿毀(こぼ)つ冬の日を われは麓に神書あらわす/祥雲閣にわれは霊界物語 述べつつ宮居を毅つ音きく」と歌う王仁三郎、行進ラッパやおびただしい軍靴の響き、神殿破壊の異様なもの音を背景に、王仁三郎は新教典の口述を精力的に開始する。破壊と建設を同時進行させるなど、彼ならではの底知れぬエネルギーである。

 王仁三郎は口述の始まる前に三O分ぐらいいびきをかいて寝ることが多かった。ほとんどは蒲団に横臥したまま一冊の参考書もメモももたずに語りだすのを、何人かの筆録者が原稿用紙に書きとめてゆく。最初のころの筆録者の一人には、後に「生長の家」を創った谷口雅春もいた。

 ひとくぎりがつくと筆録者が読み上げ、あやまりがあればその場で王仁三郎が訂正する。語り始めるやいい直しもよどみもなく、朝から夕方さらに夜におよぶこともしばしばだ。時には口述しながらいびきをかく。物語の舞台が寒帯地方なら寒がって夏でもこたつを入れる。熱帯地方なら、冬でも蒲団をはずしてうちわを使う。登場人物が苦痛を受ければ、王仁三郎も共に苦しむ。こういった霊感状態のまま口述がつづけられた。『物語』の一巻は百字つめ原稿用紙千二百枚、一字一字原稿用紙のますめをうめていくのだから、ピッチはあがらない。筆録者の書く速さに応じて王仁三郎がしゃべる。

 初めのうちは筆録者の不慣れで一巻の口述に一O日前後かかった。慣れるに従って速度が上がりほとんど三日に一巻のペース、四六巻などは二日間で完成する。多忙な仕事のあいまをぬっての口述だから人間業とは思えぬ。

 大正一〇年は一〇月末から始めて四巻、一一年は四二巻、二一年は七月までに九巻、この年は蒙古入りと入獄をはさんで中断、その後はぼつぼつ出し、昭和九年までに八一巻八三冊の出版が終る。内容は宇宙創造から主神の神格、三大邪霊団の発生と言霊戦、神と人との関係、霊界の真相、世界観から人生観、宗教、政治、経済、思想、教育、芸術などのあらゆる問題をふくみ、「いくたびも繰り返し見よ物語神秘の鍵はかくされてあり」とあるように、いたる所に密意がちりばめられている。大予言書として読みとこうとする者、人生の指針として、また魂の糧として読む人もある。浅く読めば浅く、深く読みとれば底なしに深い不思議な本だ。文章は肩のとらぬ小説スタイルで読みやすく、随所に滑稽諧謔あり、既成の教典という概念に囚われて読むと馬鹿にされた気のする人もあろう。

 「霊界の消息に通ぜざる人士は、私の『霊界物語』を読んで子供だましのおとぎ話と笑われるでしょう。ドンキホーテ式の滑稽な物語と噺る方もありましょう。中には一篇の夢物語として顧みない方もあるでしょう。また偶意的教訓談と思う方もありましょう。しかし私は何と批判されてもよろしい」『物語』二巻「序」

「宇宙の外に身をおいて/五十六億七千万歳/年さかのぼり霊界の/奇しき神代の物語/赤道直下に雪が降り/太平洋のまん中に/縦が二千と七百浬/横が三千二百浬/黄泉の島や竜宮城/わけの分からぬことばかり/羽根の生えたる人間や/角の生えたる人が出る/夢か現か誠か嘘か/嘘じゃあるまい誠じゃなかろ/ほんにわからぬ物語」『物語』九巻「総説歌」

 『物語』の中には特にいろんな聖者の一言がことわりもなく採用される。発表当時でも剽窃(ひょうせつ)だと息まく者があったのだから、著作権のうるさい今ならさぞ大変であろう。だが王仁三郎は少しも意に介さない。無限にある世の中の物事すべてをとき明かすために、神が先駆者としてつかわされたキリストや釈迦や孔子やその他の先哲の名言を活かして使うのだ。それが真理なら、ひねくり廻して使う必要はない。小心なことをいってくれるなという。『物語』は浅野ら当時の幹部たちの根強い抵抗をはねのけて刊行された。

 発表当時それを理解する者はごくわずか、特に帝大出のインテリ幹部たちは大本の恥とばかり自の敵にした。教典を作るといいながら横に立って、つまり寝ころびながら口述するなど、ヵチカチの幹部には神への胃潰とも思えた。だが王仁三郎はこだわらない。一人でも多くの信者に読ませようといろいろな方法を試みる。時には神殿に入を集めて三味線入り、声色使って読み聞かせた。それがまた不謹慎だと不評を買う。晩年の王仁三郎は、誰かに『物語』を読ませ、それを寝ころんで、聞くのが楽しみだった。おかしなところでは、大口あけて笑い、時には子守り歌かわりにもした。私はそんな王仁三郎を見ながら、自分の作品をあきずに聞く神経を疑ったものだ。

 王仁三郎は「五十六億七千万の年を経て弥勒胎蔵経を説くなり この神書もし無かりせば地の上に 弥勒の神世は開けざらまし」と示すが、今ごろにして私も、そのすばらしさがようやく理解できるのである。第一次事件の影響が内部に最初にふきだす徴候は、大正一〇年七月二九日の「大正日日新聞」に掲載された「宣言書」にうかがわれる。浅野和三郎、岸一太らが発起人になって発したもので、要約すれば、一大方向転換して立替えの時期待ち信仰を改め、現実社会に復帰するというのだ。取調べにあたって浅野は、筆先にある「上に立つ神」「大将」伏字「〇〇」などを「天皇」と自白させるべく迫る訊問に、「王候、君主、その中には天皇も含まれるが、正しき神への信仰に立つ自分は、国祖の神示を不敬とは思わない」とひるまず答えてきた。だが実兄海軍中将浅野正恭までを巻きこんで天皇への「不敬」の熔印をおされ、知人、縁者から迫害される彼の苦悩ははかり知れぬものがあったろう。

 彼が信念を吐露して叫び続けた人類三分になる立替えはこず、逆にわが身が立替えられようとは。彼の内部から立替えの側面がぬけ落ちると、あとは急速に冷めていった。教団財政も危機にひんしていた。切迫する立替えに心奪われて経営面を配慮しなかった大正日日新聞社は、莫大な負債をかかえこんでいる。加えて『物語』刊行などに対する王仁三郎との意見の食い違い。彼に残るのは、鎮魂帰神によってえた心霊世界へのしたたかな手応えだ。これを学者らしく科学的見地から裏づけて、世界の神霊科学者たちと手を握っていこう。これが浅野の煩悶の末にえた結論であった。

 大正一二年四月、日本心霊科学研究会を創立した浅野は、鳥取で『物語』を口述中の王仁三郎の留守の間に、家族を引き連れてこっそりと綾部を去る。運命は皮肉というべきか、東京に落ちつく浅野一家を待っていたように関東大震災が襲う。昭和一二年に没するまで、彼は心霊研究一筋にうちこんでいる。生長の家を創立した谷口正治(雅春)も、立替え切迫を信じた一人であり、浅野の直系として、理論的活動を展開した。「大本教祖の筆先と仏説弥勃下生経と基督教の聖書を相並べて最後の審判の日を研究していた私は、周囲の神懸りたちの興奮した雰囲気と自分自身の研究とに巻込まれて、やはり最後の審判の生念場は大正一一年三月三日、五月五日と思えるのであった。(生命の実相六巻)とのちに回想する谷口だが、彼もまた大本を去る。聖書にも造詣の深い浅野や谷口らが「その日その時を知る者なし、天の使いたちも知らず子も知らず、ただ父のみ知り給う」(マタイ伝二四章二六節)という語句や筆先の「このこと(天機に属すること〉は直にも知らさぬぞよ」の語句をもっと謙虚に含味して、立替えは天機に属し、人の憶測のおよばぬことを知っていれば、また別の道が開けたと思われる。

「天災がないというてのえらい御不足、天災が早うありたらどうするつもりざ。世界はつぶれても、世界の人民がみななくなりても、我さえよけらよいという精神。改心いたすが遅くなりて救かる者も総ぞこないになることになるぞよと申してあるが、いろいろ焦るよりも、松心でおりてこの方の申すようにしておりて、仕組通りの御用いたせば、世界へ早う分かりで、この中もこれだけ苦しみいたさずに、ものごとが勇みてでけるぞよ」 明治三八年旧三月九日、浅野、谷口らを狂奔させる糸口となった明治三七年七月一二日の筆先の「明治五五年の三月三日、五月五日は変性女子にとりてけっこうな日柄である云々」について、大正一一年旧五月二日、王仁三郎は『物語』第二二巻総説でのべている。「いよいよ大正一〇年九月八日に神命下り、一〇日間の斎戒体浴をおわって、同一八日より口述をはじめ、大正一一年壬戊の旧三月三日までに、五六七の神に因みたる五六七章を述べおえ、つづいて五月五日までに瑞月王仁に因みたる七一二章(王仁三郎の出生日の旧七月一二日)を惟神的に述べおわりたるも、また神界の御経綸の豪も違算なきに驚嘆する次第であります…」

 浅野らの宣言書に前後して、多くの者が信仰を捨て去るか疎遠になるかして、教団の中は去るべき者が去っていく。


王仁三郎、豪古へ密出国

 大正一二年六月一八日、直日(二二歳)は吉田大ニ(二一歳)と結婚の式をあげる。国家権力の弾圧は、踏まれても叩かれても立ち直る不屈の者のみを選びぬき、大本を大きく脱皮させる。新教典『物語』の刊行もそうだが、大正一二年六月には王仁三郎は国際補助語エスペラントを大本に採用、一一月にはみずから『記憶便法エス和作歌辞典』を即興的に作り上げるなど、その普及に大きな役割りをはたす。当時の中国に道院という新宗教団体があり、華北から満洲及び中国全土にかけて多くの信者を有していた。大正一二年九月一日に関東大震災がおこると、道院では使者三人を東京に派遣、白米二千石と銀二万元を贈った。

 彼らにはもう一つの使命があった。「日本に行けば道院と合同すべき教団がある」との神示を奉じてきたのだ。探しもとめて一一月三目、綾部を訪れ王仁三郎と出あう。いらい大本との提携が成立する。大正一三年二月三日、王仁三郎三女八重野(一六歳)は佐賀伊佐男(二二歳、大本名宇知麿)と結婚の式をあげる。二月一三日、責付出獄の身で、王仁三郎は植芝盛平(のちの合気道創始者〉ら三名を従えて日本を脱出、蒙古にわたる。宇知麿に後事を託するため手渡した『錦の土産』(和紙八八枚)に、王仁三郎は「東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算(つもり)なり。事の成否は天の時なり、煩慮を要せずー王仁三郎三〇年の夢今や正に醒めんとす」とのべている。

 満蒙独立を夢みる満洲浪人や盧占魁将軍(チャハル・綏遠地方に勢力をもつ軍閥のひとり)のひきいる馬賊らがぞくぞくと王仁三郎の傘下に加わる。王仁三郎の発揮する霊力や奇跡的な出来事がつたわり、声望が高まるにつれ、蒙古平原に馬を進める一行はふくれ上がっていく。軍閥とラマ教の搾取に苦しむ民衆の中には、「大活仏」の出現として歓喜し迎える者が多かった。それが第二次奉直戦争に備えて兵力を必要とした張作霖を刺激し、疑惑を招く。ついに張作霖は軍を動かし一行をパインタラ(現・通遼)に追いこみ、六月二一日夜、盧占魁将軍をはじめ一三七人の将兵を銃殺した。王仁三郎ら日本人六名も捕えられて銃殺を宣告された。彼らは盧の将兵たちの死体の散らばる市内を引き回された上、銃口の前に横一列に立たされる。だが発射の瞬間、射手が機関銃の反動で後方に倒れ一時執行を中断。その間に王仁三郎は次々と辞世の歌を詠む。

 「身はたとえ蒙古の野辺にさらすとも 日本男児(やまとおのこ)の品は落とさじ」「いざさらば天津御国にかけ上り日の本のみか世界をまもらん」「日の本を遠く離れて我は今 蒙古の空に神となりけむ」 

 さらに他の五人の辞世の歌まで代作してやり、余分に「我を待つ天津御国のわかひめを いざしに行かん敵のなかうどに」と茶目な歌までとび出す。思わぬ射手の不覚(銃の不発か)でもたつき不吉と判じたせいか、その日の銃殺は中止になり、六名はパインタラ公署の監獄に投ぜられる。手かせ、足かせをはめ二人ずつつないだ上に一組の麻縄でしぼるという、死刑囚の扱いだった。翌朝、日本人がこれに気づき日本領事館に通報、土屋書記官が通遼公署に急行して知事に面会し、王仁三郎一行の引き渡しを要求した。

 交渉は難航し、パインタラから足かせをはめられたまま護送されたのは六月三〇日であった。あやうく死線を越えた王仁三郎一行は七月一三日、門司に到着、そのまま大阪の未決監送りになるのだが、一二年前には不敬漢あつかいにした王仁三郎を、民衆は凱旋将軍のように喝采で迎えた。筆先にいう「悪くいわれてよくなる仕組」だ。

 

第一次大本事件の解決

 大本事件控訴審は王仁三郎入蒙中に開廷されたが、大阪控訴院は王仁三郎に対し責付取消しを通知し、七月二一日、王仁三郎不在のまま判決がいいわたされる。王仁三郎懲役五年、浅野同一〇ヵ月、吉田は禁固一ヵ月及び罰金五〇円。これに対し、弁護団はただちに上告の手続きをする。

 外部からの圧迫だけではない。大正二二年九月八日には、綾部町並松の熊野神社において、二代直日擁立派による「王仁弾劾排斥信者大会」が開かれている。まさに内憂外患である。しかし一一月一日、九八日間の獄中の生活を終って保釈出所してきた王仁三郎は、ちぢこまってなどいない。入蒙体験は、王仁三郎にアジアばかりか全世界の宗教協力の必要性を痛感させていた。一四年五月、王仁三郎は世界宗教連盟を結成し、総本部を北京、東洋本部を亀岡の大本本部におく。つづいて六月九日、人類愛善会を創立、一〇月一日には人類愛善の大義にもとづく世界は一つの思想と国際的な思想混迷の打開をうたって『人類愛善新聞』を創刊、パリでは「国際大本』を発刊する。あい前後して支部、朝鮮、蒙古、ドイツ、チベット、インド、タタールなどから国際人の来訪がたえぬ。

 大正一三年、入営の出口大二は翌年一二月、除隊とともに直日との結婚を解消、実質のともなわぬ短い夫婦生活であった。大審院における公判は大正一四年三月二七日にはじまり、七月一〇日「被告人王仁三郎に対する原判決には事実の誤認を疑うに足るべき顕著なる事自存することを認むるをもって」破棄され、あらためて事実審理からのやりなおしとなる。だが昭和二年大正天皇の崩御による大赦令が発せられ、五月一七日大審院で「原判決を破棄し免訴とす」との判決がでる。これによって七年にわたる第一次大本事件は終る。

 第一次事件の経過については、すでに王仁三郎の予言するところであった。たとえば大正七年には「三年先になりたらよほど気をつけて下さらんと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛の酉の年は、変性女子に取りては、後にも前にもないような変りたことができてくるから、前に気をつけておくぞよ」(大正七年二一月二二日〉と大正一〇年事件の勃発を暗示し、さらに具体的には「辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替え立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組」(大正八年一月二七日)と示している。辛の酉は大正一〇年、その紀元節に拘引状が発せられ、翌一二日に検挙、ドエライ悪魔に魅を入れられた。

 「四四十六の花の春」は大正一六年、すなわち昭和二年五月一七日に免訴、事件が解消して大本は花の春を迎える。「凡夫の耳も菊〈開く〉の年」は全国のマスコミが事件をおもしろおかしく大々的に扱い立替えの予言は万人の耳目をそばだたしめたこと。旧九月八日には王仁三郎に対し、「神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ」との神示が出て、大本の根本教典である『物語』の口述が示唆された。

 昭和三年二月一日、直日は高見元男〈二七歳)と再婚、元男は大本名日出麿と名づけられる。三の数字の三つ並ぶ昭和三年三月三日、桃の節句の日、大本では「みろく大祭」を執行した。「昭和三年こそ、この世始まって以来、五十六億七千万年に相当する年である」と王仁三郎は宣言する。釈迦が入滅してから五十六億七千万年にして弥戦菩薩が下生するという、仏典の謎に因縁ある数だ。大本では五六七と書き「みろく」と読む。王仁三郎の生誕は明治四(一八七一)年旧七月一二日、昭和三〈一九二八)年三月三日は旧の二月一二日であり、はからずも王仁三郎が五六歳七ヵ月を完了する日となる。

 「三月三日は変性女子にとって因縁の日」と筆先にもしばしば現われている。また王仁三郎は「筆先に三千世界の大化物が現われて云々というこがあるが、ともかく大化物が満五六歳七ヵ月に成った暁をみておればよいのである」(神霊界大正八年八月一五日号随筆)、「変性女子の三〇年の神業成就は大正一七年二月九日である」〈物語第一巻総説)とのべている。

 大本の役員、信者たちは大正一七年すなわち昭和三年の旧二月九日、あるいは王仁三郎の五六歳七ヵ月のときこそ、神業の大きな転換があると期待していたのである。この「みろく大祭」は大本歴史の大きな節目になる。この日は第一次大本事件の総決算の日でもあり、第二次大本事件の事実上の発火点になる。検察側は、この日の大祭において王仁三郎が国体変革を目的とする結社を組織したとし、みろく大祭が第二次事件裁判の争点に浮かびあがる。

 当日、二代教主澄以外、王仁三郎はじめいっさいの役職員は無役となり、翌日王仁三郎によって改めて新人事が発表された。この思いきった改革は、王仁三郎が弥動菩誕の顕現として現界的に活動することを意義づけたものであり、以後、王仁三郎の統率の下に大本の諸活動が積極的に展開していく。