表題:深山の草 1巻1章深山の草



  日は天から地から暮れかかる。木枯らしは、いつか細かい雪をまじえていた。その天と地の灰色のあわいを、旅姿の娘が行く。翳った瞳が時おり怯えてふりむく。雪の野面を烏が舞い立つ羽音にも……。 伏見より老の坂を踏み越えて山陰道を西へと故郷に近づきながら、娘の足どりは重い。亀岡(現京都府亀岡市)の城下町も過ぎ、歩みを止めたのは丹波国曽我部村穴太(現亀岡市曽我部町穴太)の古びた小幡橋の上であった。犬飼川が両岸を薄氷にせばめられ、音もなく流れる。指が凍てつく欄干の上をなでる。国訛の人声が近づく。びくっとして、娘は橋を渡り、石段を三つ四つ、続いてまた四つ五つ降って石の鳥居をくぐり、小幡神社の境内に走りこむ。おおいかぶさる森を背に、小さな社殿があった。その正面には向かわず、右手の大桜の幹にかくれてうずくまる。 誰にも言えぬ、娘の身で妊娠などと。死ぬほど恥ずかしい。 伏見の叔父の舟宿に養女に望まれて行ったのは十九の年、まだ都の風にもなじまぬ世祢であった。叔父は伏見一帯の顔役であり、勤皇方の志士たちとのつながりが深かった。 早朝あるいは深夜ひそかに舟宿に集う人々の中に、あの方はおられた。僧衣をまとい、深く頭巾をかぶったお姿だった。叔父は心得たようにすぐ奥座敷へ招じ入れ、接待には世祢一人を申しつけ、他の女たちを寄せつけなかった。叔父も、同志たちも、敬慕と親しみをこめて、あの方を「若宮」とお呼びしていた。若宮が何さまであるかなど、まだ世祢は知らない。けれど二度三度おいでのうちに、あの方はなぜか世祢に目を止められ、名を問われた。 そんなある夜、驚きと恐れにおののきながら、世祢は引き寄せられるまま、固く眼をつぶった。抵抗できる相手ではなかったのだ。それに……それにお名を呼ぶことすらためらわれるあのお方を、いつか待つ心になっていた。雲の上の出来事か妖しい夢のようで、現実とは思えなかった。 幕末から明治へと激動する歴史の流れが、世祢を押しつぶした。 東征大総督宮として江戸へ進軍されるあの方は、もう世祢の手の届かない遠い人。江戸が東京となり、明治と年号が変わり、天皇は京を捨てて東へ行かれる。 虚しい日々が過ぎて一年、若宮凱旋の湧き立つ噂さえ、よそごとに聞かねばならぬ世祢であった。明治二(一八六九)年の正月も過ぎ桜にはまだ早いある朝、何の前触れもなく、あの方は小雨の中を馬を馳せていらした。あわただしい逢瀬であった。言葉もなくただ世祢はむせび泣いた。ここにあの方のお胸があるのが信じられない。 待つだけの世祢のもとに、たび重ねてあの方は京から来られる。帝は京を捨てても、あの方は京に残られた。夏が過ぎ、そして秋――最後の日は忘れもせぬ十月二十七日の晴れた午後。深く思い悩んでおられる御様子が、世祢にも分かった。「これぎりでこれぬ。帝がお呼びになるのじゃ。これ以上逆らうことはできない。東京に住居をもてば妻を迎えねばならぬ。達者で暮らしてくれ、世祢……」 あの方は、いくども世祢を抱きしめ、抱きしめて申された。何も知らなかった田舎娘の世祢にも、あの方のお苦しみがおぼろに分かりかけていた。 京の人々の口さがない噂では、あの方は、帝のおおせで、水戸の徳川の姫と御婚約なさったとか。けれどあの方は、仁孝天皇の皇女、先の帝のお妹にあたる和宮さまが六歳の時からの婚約者であられた。同じ御所うちに育ち、その上父宮幟仁親王さまの元に書道を習いに通われる幼い和宮をいつくしまれつつ御成人を待たれて十年、やっと挙式の日取りも決まる時になって、和宮は公武合体の政略に抗しきれず、贄となられて関東に御降嫁。しかしあの方は、未だに深く宮さまを慕っておられる。二十一歳にして前将軍家茂未亡人静寛院宮と変わられ、江戸におられる薄幸の人を――。 東征大総督として江戸城明け渡しの大任を果たされたあの方は、天皇の叔母君であられる和宮さまを御所に呼び戻し改めて結婚を許されるよう、帝に願い出られたそうな。総督としての官職を捨て臣籍に下りたいとまで嘆願なされたと聞く。帝は、いまだ治まらぬ天下の人心を叡慮され、風評も恐れぬあの方の情熱を許されなかった。その上、亡びた徳川一門の繁姫さまと皇室との御縁を、あの方によって再び結ぼうとなされたのだ。三十五歳になられる今まで、あの方が親王家として前例のない独身で過ごされたのも、ただ和宮さまへの変わらぬ真心であったものを。 東京遷都の美々しい鳳輦御東行のお供も辞し、官名を返上されて、あの方は京に残られた。しかし勅命でお呼び寄せになられれば、どうして逆らうことができよう。 ――うちは、あの方のなんやったんやろ、と世祢は思う。思うそばから、考えまいとふり切った。お淋しいあの方のために、一時の慰めのよすがとなれたら……。 ――ただそれだけで、うちは幸せなんや。 供を一人連れただけのお身軽ないでたちで、あの方は去って行かれた。絶えまなく船が行きかう川べりを駆け抜けていかれる最後の馬上のお姿が、世祢の瞼に焼きついて離れない。懐妊に気づいたのは、極月に入ってからであった。あの方は知らない。東の空の下、帝のお傍で、多忙な公務に明け暮れておられよう。訴えるすべさえわからぬ世祢であった。 ある日、事情に気付いた船宿の朋輩の一人が世祢の様子をうかがい、おどすように忠告した。「有栖川の若宮さまの落胤は、男やったら攫われて殺されるそうどすえ。気いつけやっしゃ」「ちがう。うち、身ごもってまへん」 世祢は強く否定した。にらんだ下から、唇が褪せた。故郷が狼狽する世祢を招いた。 伏見で船宿を営む叔父夫婦には子がなかった。姉の娘である器量よしの世祢を、前から養女に望んでいた。 けれど世祢は、引き止められるのを振り切って、伏見を発った。 思いつめて戻っては来たものの、父母の住むわが家に、すぐにはとびこめない。かじかむ手を合わせ、産土さまにすがりながら、暗くなるまでここにいようと世祢は思った。
「しんどかったら、もう寝なはれ」 宇能は思わしげに娘賀るにいった。貧しい夕餉の半ばである。賀るはうなづき、重たげに椀を置くと、足音も立てず奥の長七畳の間に消える。宇能は夫吉松と眼を見合わせて吐息した。 次女ふさが亀岡町西竪の岩崎家に嫁いだのは二十三歳の春。つづいて十九歳の三女世祢が、養女に望まれて伏見の叔父の船宿へ手伝いがてら行った。それからもう丸二年に近い。家にいる長女賀るは今年三十二歳、とうに婚期を逸した。体が弱く、器量もよいとは言えぬ。 めっきり老いの深い背をまるめて、かさかさと飯をかきこむ吉松。土間の片隅で丹念に磨いた鎌と鍬の、はがねの色が冷たく光る。見まわすあたりはくすんで暗い。時おりはじける囲炉裏の火と背戸の榧の梢を吹きすぎる風のほか、音もない。 宇能は箸をとめて、腰を浮かした。人の気配が動いて、板戸が鳴った。吹きこむ雪にまじって、白い顔がのぞく。「お世祢……」 喜色と不安をつきまぜて宇能は末娘を迎え入れ、肩先につもる雪をはらった。そわそわと肥松を持ち出し、吉松は囲炉裏に明るい炎を上げる。叔父の家でととのえたのか、黒地に紅の細縞の着物。黒繻子にたまのり縮緬の腹あわせ帯がよくうつる。娘らしさがはんなり家中に匂った。「お賀る姉さん、どこおってん」「いま寝たとこや。ぐわい悪いんやろ、起こさんとき」 まだ独身の姉の姿の見えぬことにむしろほっとし、世祢は草鞋をぬぐ。母の出してくれた濯ぎの水が、赤くむけた足の親指の根本に激しくしみる。 こういう時、男親の吉松は出番がなくて落ち着かない。「飯、まだやろ。早う食わせたれ」「いらん」 思いつめた娘の眼つきに、吉松と宇能はどきっとした。世祢の頬も手も青白く冷えて、こわばっている。宇能は熱い番茶をつぎながら、さりげなく聞く。「年の暮れで忙しやろに、よう帰してくれはったなあ」「暇もろうて来たんや」「暇……? お世祢、暇いうもんは、いくら親戚の船宿かて、お前の勝手で願うてもらうもんやない。それともなんぞ落ち度があって……叱られて出されて来たんやないか」 咎めるような母の語気に答えず、世祢はうつむいた。手の中で番茶が揺れ、膝に散った。うっと口元を押え、部屋の隅にいざって背を向ける。「歩き通しでくたびれとんのやろ。ごちゃごちゃ聞かんと、早う寝かしたりいな。話は明日でええやんけえ」 吉松がいたわるように口をはさみ、それが手くせの、賽ころを湯のみの中にほうりこんで、丁と伏せる。 娘の波立つ背をみつめ、宇能は鋭い不安に胸をえぐられた。「もしか……赤ん坊こさえたん違うか」 びくっと細い肩先がふるえる。否定もせず、身をもんで、世祢は筋ばった母の膝に伏した。懐妊に気づいてから、どれだけ思い悩んできたことか。わが身を処する道に窮して、一途に母を求めて帰ってきた。が、母に問いつめられると、世祢は、秘めてきた事柄のあまりの重さに堪えかねてすすり泣いた。宇能は声をおさえた。「おなかの子の父は……その男はついてこなんだんか」「東京へ……もう京へは帰らはらへん。あちらで奥さまを……」「子のでけたん知って、捨てて逃げくさったか」と、吉松は顔色をかえた。「知ってはらへん。母さん、そんなお方やないのや」「あほんだら」 頭から吉松が怒声をあびせかけた。「そんなお方もへったくれもあるけえ。何さまか知らんが、腹の子の父親なら、江戸でも蝦夷でも行って、わしが連れもどしてきちゃるぞ。ええか、お世祢、びすびす泣かんとけ。俺があんじょうしたるわい」 激昂しながら、父も母も姉に聞かせまいと、つとめて声は低い。世祢は高ぶる感情を必死におさえて、涙をはらい、坐り直した。「東京へお移りにならはる前の日に、伏見までお使いがこれを届けてくれはったん……」 風呂敷をとき、母の前に押しやった。白綸子の、目をみはるばかりあでやかな小袖に見慣れぬ横見菊車の紋が一つ。それに……宇能は声をのんだ。錦の袋にくるまるのは、一振りの白木の短剣ではないか。「これは、うちの守り刀にと……それにこの金子も……」 美しい布地で作った巾着にも、小袖と同じ菊の定紋がある。世祢は小袖をすくい上げて胸に抱き、艶やかな絹の手ざわりに頬を染める。その小袖から、はらりとすべり落ちた物があった。吉松がひろって眺め、宇能に手渡す。字は苦手、というより、まったく文盲の父であった。粛として、宇能はそれを見つめる。 見事な筆蹟が匂うような短冊であった。流れる文字に眼をあてて、のどにかすれる声で、宇能は読んだ。   わが恋は深山の奥の草なれや       茂さまされど知る人ぞなき  裏を返して、あっと小さな叫びを上げた。印と花押の上に力強い筆致で記された御名を、宇能は知っている。宇能の叔父中村孝道は高名な言霊学者であり、女ながら、その素養の一端を受けついだ彼女であった。勤皇の志あつい叔父孝道から、幾度もその御名を聞かされていた。 蛤御門の変により、その方は先帝のお咎めを受け、輪王寺の里坊に蟄居の身であられたことがある。そのころ、伏見の弟がその御不自由をお助けするためひそかにお出入りしているのを、宇能はそれとなく察してはいた。 ――でも、その高貴なお方が田舎娘の世祢を……まさか……。  信じられぬ惑いのうちから、宇能の脳裡に鮮烈に浮き上がる光景があった。 昨年、即ち慶応四(一八六八)年の二月十五日、世祢に会いに伏見の弟の船宿を訪ねた翌日であった。京の町々は、錦旗節刀を受けて江戸へ進発する親王を見送らんとする人々で、異様な興奮にわき立っていた。御所宜秋門から下る街道の町なみは、ぎっしり人の波であった。湧き上がる横笛と大太鼓、小太鼓の音が、踊るように響き渡る。   宮さん宮さん  お馬の前に    ひらひらするのは何じゃいな    トコトンヤレトンヤレナ……  街道は、人々の唱和する歌声にうずまった。長州萩藩士の品川弥二郎作詞、井上馨の愛人、祇園の君尾作曲の、この六番からなる、「都風流トコトンヤレ節」は、すでに出陣前から木版でばらまかれ、京の人々の愛唱歌であった。先頭をきるのは、周山に近い山国勤王隊の斥候銃隊。黒い筒袖の軍服に白鉢巻、白腹帯をしめ、赤い赭熊の毛を肩にたらして威風堂々。続く銃隊に守られて錦旗二旒、錦旗奉行二名が騎馬で行く。萌黄緞子十六葉菊の旗一旒。人々のざわめきは一瞬なりを静め、赤地錦の御馬標のもと、二十余名の幕僚、諸大夫を従えた大総督の宮を仰ぎ見た。「ほんまに御立派どすなあ。見とみやす。あの若宮さまが官軍の総大将で江戸へ行かはる。西郷はんを参謀に連れとってどっせ」 白鹿毛の馬上豊かに緋精好地の鎧直垂、烏帽子姿の凛々しい親王は、宇能の眼に眩しいばかりであった。思わず手を合わせ、拝していた。 ――あの時のあのお方が、有栖川宮熾仁親王さまが世祢の子の父。宇能は絶句した。
「どうや、梅吉、上田吉松はんの家、婿を捜しとってんやが、お前、なる気はないけ」 主人の斎藤庄兵衛から不意に縁談を持ち出され、膝小僧をそろえた佐野梅吉はきょろんとした顔色であった。「上田はんも今は貧乏しとってやが、昔はたいしたこっちゃで。家柄かて立派なもんや。さっき、お宇能はんがお須賀に頼みに来やはってのう。」「よい話やんかいさ。うちかて、近所の家を梅吉が継いでくれたら、気心知れた仲やし、なにかと便利やもん……」と、妻女の須賀が口をはさんだ。 ――あんまりや。ぶす(不器量)やし、体かて弱いし、それに俺よりだいぶんと年上やんか。 梅吉は、不満げに横を向いた。「伏見の水で磨きをかけたせいか、えらい垢抜けしてのう、亀岡へ行ったおふやん(次女ふさ)も別嬪やったが、まだ一段と上や。気立てはよし、働き者やし、お前の嬶には過ぎたもんやがのう」「え、誰と……」「何を聞いとるのや。上田吉松の娘お世祢はんとやがな」 梅吉はべそをかいたような顔になった。首筋までかっと熱くなった。鄙にはまれな、といっていい末娘世祢の美しさは、主人に聞かされるまでもなく知っている。二年前、伏見へ去った時、無念がる村の若い衆も多かった。梅吉もその一人だった。 須賀は梅吉が不服とみたのか、突っけんどんな口調になった。「お宇能はんに頼まれて、お前の気持ちを聞いてみたんやけど、別に無理にとは言いまへんで。あの娘なら、婿のなり手はなんぼでもあるさけ……」 なぜ長女の賀るをおいて三女の世祢に婿をとるのか、そんな疑念など湧くひまがなかった。梅吉はあわてて首を横にふり、口ごもり、今度は縦に幾度もうなずいていた。 佐野梅吉二十六歳。この穴太の地から三里北の川辺村字船岡、紺屋の次男坊である。兄弟八人、それぞれに身を固めるが、梅吉に限って十三の年に八木の角屋という醤油屋に丁稚にやられた。幼い頃からの癇癪もちで、すぐ前後の見さかいもなく喧嘩をする。懲戒の意味があった。だが角屋の主人は、梅吉の正直さ、律儀さを買って目をかけてくれた。時にはこらえようもなく癇癪がつのって朋輩と喧嘩することもあったが、まず大過なく十年の年期を勤め上げた。 この斉藤家に奉公してからは二年、牛小屋の二階での一人暮らしであったが、そろそろ妻のほしい年であった。 農閑期のうちにという理由で、挙式はむやみにいそがれた。年が明けて間なしであった。斉藤庄兵衛と妻女須賀が媒酌人となって、ひっそりと盃を交した。何故か重苦しい。はなやかな牡丹のような中の娘ふさが婚家先から帰ってきて三人姉妹がにぎにぎしく揃ったというのに。当然婿を迎えて家を継ぐものと思われていた賀るが、とうに婚期を逸した姿でこの席につらなっているのが、いかにも痛々しかった。座に居ても立ってもつらい立場であろう。 花嫁は始終うつむいて、婿殿を見ようともせぬ。上の姉に気がねしとんのやろと梅吉は思った。 田舎の野放図もなく飲み明かす披露宴のなかばで、花嫁は宇能に手をとられて幾度か席をたった。足もともおぼつかぬほど緊張しきっているのか、世祢の頬は蒼ざめ苦しげにさえ見えた。 新婚生活という甘い雰囲気は、小百姓にははじめから望めない。長七畳・長八畳の二間に、義父母・義姉が雑居した。妻は従順であった。いじらしいばかり気を使う様子が察しられた。けれどどこかに距離を保っていた。日が浅いのだからと梅吉は思い直すが、世祢の身にまつわる孤独な淋しい陰は、日がたっても薄れない。 義父は婿を得て気がゆるんだのか、枕につくことが多くなった。一家の責任はすべて梅吉の肩にのしかかった。上田家は俺が再興してみせると、梅吉は気おい立った。 穴太では、上田・松本・斎藤・小島・丸山の五つの姓を御苗(五苗)といい、顔のよい家柄とされた。御苗以外の家柄を〃平〃と蔑視した。上田姓はさらに北上田・南上田・平上田にわかれる。梅吉のついだ上田家は、北上田であった。 上田家は藤原治郎左衛門正一を中興の祖とし、村の伝承によると、文明年間(一四六九~八七)に大和から落ちて来たとされる。正好・正忠・正武・為正・正輔・正安以上七世は、みな藤原治郎左衛門と称した。正安の代まで、西山の麓高屋という地に高殿を建て、高屋長者といわれて百余年住み、その後は愛宕山(穴太にあり、京都の愛宕山とは別)の小丘に砦をかまえこの一帯を領していたが、明智光秀のために没収されたという。 梅吉より七代前の祖先政右衛門の代になって、上田と改姓した。改姓の理由は、「藤原姓であると、万一誤って藤蔓を切れば家が断絶する」との巫女の妖言を妄信したせいとか。当時五町歩(一万五千坪)の二毛作の上田を所持していたから上田姓になったともいわれる。 上田家の産土である小幡神社所蔵の文書によると、「一巴上田、二巴斎藤、三巴藤原」と家紋のとり決めがされていたが、北上田系の家紋は藤原にちなんで三巴である。 宇能が上田家に嫁入った頃は、家から隣村の天川まで他人の土地を踏まずに行けたという。学者の家に生まれ、女性としては珍しい教養の持主である宇能を吉松が妻にし得たのも、上田家には、それに見あう家柄と財産があったからだ。それを吉松一代で見事に無にし、百五十三坪の宅地と破れ家、買い手のつかぬ三十二坪の悪田一枚残すのみとなった。 酒は飲まぬ。煙草はすわぬ。神経質なぐらい清潔好き、その上、正直で勤勉な吉松である。それでいて一家を貧困に追いやったのは、博奕好きという性癖に起因した。二六時中、賽をはなしたことがない。吉松は農事のひまを一刻も無駄にせず相手を探しては丁半、丁半。夜ふけてもやめぬ。相手がくたびれて眠りこけ、行燈と二人になっても丁半、丁半。強くない証拠に、昨日は一枚の田がとび、今日は一山が移転する。 世に賭事好きは多い。熱中して破産する者も珍しくない。が、変わっているのは吉松の女房宇能への言種である。「心配すなや。お天道さまは空とぶ鳥さえ食わしとってや。魚や獣は明日のたくわえしとらんが、別に餓えて死にもせん。人間かて餓えて死ぬのは千人のうち何人、あとは食い過ぎて死ぬ。人間、四日や五日食わんでも死なんよう、あんじょうできとる。気楽なもんや」「……」「好きばかりでわしが博奕打っとんにゃないで。孫子のためにしょうがなしにや。上田家はこれまで、小作人らの働きで栄耀栄華に暮らしてきた。それだけに罪も深く、たくさんの人の怨みがこびりついとる。わしは先祖代々の深い罪障をとりに生まれてきた。大木はいったん幹から伐らんと良い芽が吹かん。上田家も一度は家屋敷まですっかりなくさんなん」「それはあんたはんのお考えですか」「いんや、産土の神さんのお告げや。博奕をなまけると、覿面に神さんが夢枕に立ってのう、ごつう怒ってんじゃ。そのかわり、わしの孫の代になってみい、きっと世界の幸福者になるわい」 冗談なのか本気なのか、梅吉にはわからぬ。しかし起き上がれぬ身になってまで蒲団の上に賽をころがしている義父をみると、冗談と笑ってばかりはすませぬ執念を感ずるのだった。 世祢の腹の子はひそかに育っていた。五か月に入る前から、晒の腹帯をこっそりとしめた。宇能も手伝って、きつくきつくしめた。恐ろしい秘密は世祢を寡黙にした。 ――有栖川の若宮のお子と知れたら、殺されるかも知れぬ……。 他人をいとい、夫を恐れ、姉の眼をさけて、ただただ一つの目的のために、他はかえり見ぬ覚悟であった。 産む、あの方のお子を。その目的のために、夫を持った。善良な夫をあざむき、世間の目をいつわる苦しみに、身も心も傷だらけになりながら、世祢は出産を待つ。
 世祢が伏見から予告なしに戻った晩より、家の空気が微妙に変わった。その変化を、不安のうちに賀るは意識した。家の空気は賀るだけをよけて流れる。母も妹も賀るの視線をさける。むだに老いていく身を恥じる細い神経の賀るを。その配慮がかえって賀るの神経をささくれだたせるのも知らずに。 あれから何日かした夜、不安ははっきりした形をとって、父から告げられた。世祢に婿を迎えたいと。それは相談のようでいて、その実、とっくに決まっていることであった。無理に笑んで式にも出た。さらでだに望みのうすい賀るの前途は真っ暗になった。孤独と絶望の中で、賀るは姉の存在を抹殺した美しい妹を心ひそかに憎む。が、間なしに妹の秘密を悟った。なんという恥知らずな……誰の子やら……あわてて婿をとった謎もとけて、軽蔑心が賀るの心を和らげた。蜜月にも似ぬ妹の苦しみは当然の酬いと嗜虐的に冷たく眺めていた。 ある日暮れ、沢庵石を持ち上げようとして、肩で息をつく世祢を見た。自分でも思いがけず、賀るは土間に走り降りていた。「どきな。うちが上げたげる」「あきまへん、こんな重い石を……」「そやさけ、うちが……」「何言うてはるの。また熱が出ますで」 仕事を終えて野良から戻った梅吉が、庭先で鍬の泥を落としていた。姉妹の美しい諍いをほほ笑んで聞いた。 賀るが決然と宣言した。「とにかく、沢庵だすのはこれからうちの役目や」「なんで急に……」「あほうやなあ、今が一番大事な時やんか。沢庵ぐらいで赤ちゃんをわやにしてしもたら……」「知ってはったん……姉さん」 世祢はうつむき、堪えきれずに姉にしがみついた。賀るの心は溶けていた。おぶって守りした可愛い妹だった。 ――赤ん坊?  空耳やったんかいな。 梅吉は凝然と腕をこまねく。もしほんまなら、なんで真っ先に俺に打ち明けん。あまり水くさいやないか。怒りがつき上がった。汗を浮かべて、癇癪をこらえた。その夜の臥所で、梅吉は妻の背に震えを帯びた声で言った。「赤ん坊でけたって、ほんまこ?」 不意をつかれて、世祢は全身をこわばらせ、身をすくめた。夫に背を向けたまま、かすかにうなずく。思わず妻の肩をつかんで、荒荒しく己れの方にねじ向けていた。「子がでけたらでけたと、なんですぐ俺にいわん。お、俺の子やないか、俺の……」 見上げる世祢の眼に恐怖があった。それが哀願の色に変わって、涙がふき上がった。告白するなら今――。何もかも打ち明け、ひざまずいて、欺瞞の罪のせめから逃れたい。 だが世祢は歯を食いしばった。言えなかった。告白して何の解決になろう。夫も悩み、自分も苦しみを増すだけである。「すみまへん、まだはっきりしなかったんで……」 妻の涙で、梅吉の心はいくらかやわらいだ。 ――考えてみればまだ二月、世祢かて半信半疑で、よう言い出せなんだんやろ。「泣くな。あほやな。怒ったんやないで。うーん。ほんまなら嬉しのう」 正直に父となる喜びがこみ上げてきた。梅吉は、祈る思いでいった。「無理すなよ。明日から沢庵石はわしが持ち上げる。頼むさけ重い物は持たんといてや」
 七月十二日夕食のさなか、世祢の陣痛がはじまった。 梅吉はうろたえた。「早すぎるやんか、大丈夫け、流産やないけ」「心配おへん。七月たってれば、子は育ちます」と宇能は言い、梅吉に取り上げ婆さんを呼びに行くよう毅然とした態度で命じた。 易々と世祢は男児を産んだ。いかにも小さかった。「七か月やさけ、やっぱりなあ」 皆に聞かすように言い、ふきあふれる歓喜にうるむ眼で、宇能は嬰児を抱き上げた。「月足らずいうても、しっかりしてはる。元気な子やで」と慰めるつもりか、取り上げ婆が言った。「ちびのくせに、どてらい声で泣きくさる。顔も何も皺だらけ、口だらけやのう……」 そのくせ梅吉の顔面もだらしなくゆるみっぱなしだ。 月満ちて生まれた児を「七か月児」と言いなりに、夫は信じてくれるのか。 おずおずと細い手が寄ってきた。大役を乗り越えた後の安らぎと深い感謝をこめた妻のまなざしを、はじめて梅吉は我が物とした。 この騒ぎにほとんど忘れられながら、賀るは、ほとばしる命の産声につき動かされていた。わが子を産みたい、という女性の本能が、切なく賀るを襲った。 一家の喜びをそのまま冠して喜三郎と名づけたのは、祖母宇能である。戸籍による喜三郎の生年月日は、明治四年旧七月十二日。「王仁は祖先が源平であろうと藤橘であろうと、はたまたその源をなんの天皇に発していようと、詮議する必要はない。ただ王仁は日本人であって、畏くも天照大御神さまの御血統の御本流たる天津日嗣天皇さまの臣民であることだけは、動かぬ事実だ。そして王仁の生家は上田家である。(中略)丹波国南桑田郡、曽我部村大字穴太の宮垣内という所に、茅屋は破るるに任せ、檐廂は傾くに委し、壁はこわれて骨あらわれ、床は朽ちて落ちんとする悲惨なる生活に甘んじ、正直男と名をとった水のみ百姓の上田吉松(筆者註=梅吉のこと、吉松を襲名)というのが、王仁の父である」 喜三郎すなわち後年の出口王仁三郎は、《故郷の二十八年》の中で、こう記す。水のみ百姓の伜であるその出生を述べるのに、天津日嗣の天皇までひきあいに出さねばすまぬ彼の胸のうちは、今はふれまい。 喜三郎の生まれ育つ曽我部村穴太は、山陰道の入口に所在する亀岡盆地の中心地、亀岡町から西へ約一里、宮成長者の創立した西国三十三番札所二十一番の穴太寺で知られる。亀岡は以前は亀山と称したが、丹波亀山が伊勢亀山と混同され勝ちのため、明治二(一八六九)年六月、藩主松平信正が藩知事に任命されたのを機に、亀岡と称したものである。 穴太の地名起源説が、豊受大神宮(伊勢外宮)遷座に関して、上田家に伝えられている。雄略天皇の御代、天皇の夢枕に立たれた天照大神のお告げにより、豊受大神を丹波国丹波村比沼真奈比から伊勢の国山田の村に遷す神幸の途次、曽我部郷宮垣内の上田家の地が神輿の旅所に選ばれた。そのおり、祭儀に供えた荒稲の種子が太い欅の樹の穴に落ち、穴から稲の芽が出た。これを育てて瑞穂を得たので、里人は神の許しを得て良田にその種子を蒔きつけ、村内に植えひろめた。以来、この一帯を穴穂の里といい、のち穴太の里になる。小幡神社には、《穴穂の宮》の額が今もかかげられている。 穴太寺には別の縁起が伝わる。大飢饉年、寺に桑の切り株が流れてきた。その株の穴から穂がでており、それを種籾にして良質の米を得た。だから穴太寺の住職は、代々穴穂姓である。 樹の穴から穂が出たという発想はいずれも同工異曲である。それかあらぬかこの地方産出の米は穴太米と称し、良質の美味を誇っている。 小幡神社の北が豪農斎藤源治の大邸宅、そのさらに北隣に喜三郎の生まれた上田家の、吹けばとぶよな藁ぶきの家がある。上田家の自慢は、家は小なりといえ、四方に水を有することであった。北には村道をへだてて小川が流れる。屋敷内の西南には清水の湧き出る久兵衛池が清冽な水をたたえ、それは西へ流れる。さらに東に味のよい深い井戸。家柄の古さをしのばせる年をへた椋、三本の榧の大木などが蒼々と天をおおって、みすぼらしい家をめぐっていた。 明治四(一八七一)年十二月二十七日、祖父吉松は家族の者を枕頭に呼び寄せた。「俺、もうぼつぼつ死ぬで」「……」「けど只一つ、この世に名残りがあるわい」「なんなと言いなはれ。わたしにできることなら……」 宇能は夫の言葉を聞きとろうと、耳を寄せる。「まだあれが残っとるやろ、ほれ、薮のねきの小町田とこの家屋敷のう、うんと精出したつもりやのに、手ばなし損のうた。このまま死んだら、産土さまに会わす顔あれへん」 皆が呆れて眼を見あわせる。吉松は次第に苦しい息の下から、言葉をつぐ。「えげつない男や思うやろ。けどのう、上田家は因果者の寄り合いで、とうに断絶するはずのとこを産土さまのお慈悲で大難を小難にすまさしてもろてる。そんでも宇能や、お前が嫁に来てくれてから、一日半時も安心さして歓ばしたことなかったのう」 宇能はこみ上げる涙を押え、「じき博奕の相手探してきますさけ、冥土の土産に一代限りの勝負して、家屋敷も御先祖はんの罪障もなしにしとくれやす」「そうしてやりたいが、もうあかん。眼がかすんで賽の目も見えへん。けどじきお前の孫に生まれかわって、し残したことの決着はつけるでのう、その時はまた皆の世話になるわい」「わたしの孫に……」 宇能が聞き返すと、吉松ははっきりうなずいた。梅吉夫婦も賀るもうそ寒い顔になる。「それからのう、上田家は、円山応挙はんの出た家柄や。七代目ごとに大物が出ると伝えられてきたが、喜三郎は応挙はんから数えてちょうど七代目、あれは大物になる。どえらい大物になる。けんど上田の家にしばりつけてはおけぬ因縁の子や。大きゅうなったら養子にやれ。喜三郎を頼むで」 世祢は喜三郎をおしやった。そのやわらかい小さな手をにぎって、吉松は気持ちよげに即興のうたを口ずさんだ。   打ちつ打たれつ一代勝負     かわい妻(賽)子にこの世で別れ     賽の河原で賽ひろう     ノンノコ賽々ノンノコ賽々  それが辞世となった。上田吉松享年五十七歳。養子梅吉は襲名し、二代目吉松を名のった。

表題:波涛の図 1巻2章波涛の図



 喜三郎、足も口も遅い方であった。歩き出しても、頭でっかちで重心がとれぬのか、よくころんだ。芋畑の畔の小溝にころげ落ちて目をまわし、父の介抱でやっと息を吹き返したこともある。 物心ついた喜三郎は、長い期間、家族は全部で六人とばかり思いこんでいた。祖母・父・母・伯母・喜三郎・それに小さな爺さん……変わっているのはこの爺さん、いつも茶縞の着物をきて腰を曲げ、喜三郎の後へひょこひょこついてくる。家族の誰もが爺さんを相手にせず、また爺さんも語ろうともせぬ。好きでも嫌いでもなかったし、この影のような存在を不思議とも思わなかった。喜三郎には、そういうボーッとした一面があった。 明治七(一八七四)年の松の内、初めての弟が生まれた。その皺くちゃの顔がこの世にあらわれた時、家族の誰もがぎょっとした。四歳になった喜三郎も、「この赤ちゃん、物言わぬ爺さんと同じ顔や」と思った。次男の名は、祖父・父と伝承した吉松の名の松の字をとり、吉はヨシとも読めるので、由松と命名された。 五歳の年、喜三郎は驚風病(脳膜炎及びこれに類する症状をもつ病気)に見舞われ、重ねて脾肝の病いに侵された。腹ばかりふくれ、手足は針金のように細くなった。未申(西南)の方向に先祖が掘った久兵衛池の祟りだと易者は言った。家族は心配してあちこちの神社仏閣に祈祷を願ったが、病気は悪化するばかりで、なんの効験もなかった。 蟇がよいと人がすすめた。父吉松(旧名梅吉)は山野をかけ廻って蟇がえるをつかまえ、鶏の笹身に似た白い肉を醤油でつけ焼きし、毎日一、二片ずつ食わせようとした。喜三郎が口にしかけると、爺さんが出てきて食うなと睨みつける。父母はごまかせても、爺さんはごまかせなかった。たいていは食った顔をして、すきを狙って雪隠に捨てた。 ある夜、宇能は夢をみた。「喜三に蛙など食わしたらどもならん。あれは神さんの御用する大事な身やでのう。若夫婦が産土さんを敬う道を忘れてくさるさけ、お気づけをいただかんなん。早う喜三を小幡神社に参らせや。よう若夫婦にも教えとくにゃぞ」 亡夫吉松の声である。目ざめても、まだその声ははっきり耳に残った。 明けやらぬ闇の中で、宇能は隣室の若夫婦を揺り起こした。話を聞くなり、世祢は痩せて軽くなった喜三郎を背におい、提燈を持つ夫と連れ立って小幡神社に詣でた。祈願の効あってか、その日を境に喜三郎の病気は快方に向かった。 宇能はくり返し喜三郎に言った。「産土さまを忘れんときなよ。神さまはいっつも喜三を見てなはる。大きゅうなって神さまの御用がでける日を待ってなはる……」
 夏の終わり頃であった。賀るは喜三郎を連れて、近所の斎藤庄兵衛宅へもらい風呂に出かけた。土間の唐臼で米を搗いていた吉松は、風呂上がりの喜三郎を見咎めた。「なんちゅう顔さらしとる。鏡みてみい」 喜三郎の顔は、昼間のいたずらで鼻のあたりを真っ黒にしたなりであった。賀るはもてあましたように言った。「どないしても顔洗わせまへんのや。言い聞かせてやっとくれやす」「喜三公、こっちへこい」 吉松は喜三郎の肩をつかみ、こわい顔をした。「こら、伯母さんのいうこと聞かなあかんやんか。なんで顔を洗わんのや言うてみい」 それでも喜三郎は、泣きべそをかいて黙っている。二度聞いて、三度目には吉松の癇癪が爆発した。「しぶとい餓鬼や。おい、なんで顔洗わんのじゃい」 高声になった。父の癇癪のこわさを知っている喜三郎は、手で頭をかばいながら必死で叫んだ。「人の睾丸洗うた湯で、わしの顔が洗えるかい」 わっと泣き出した。吉松はうなって、世祢にいった。「いっちゃら(一人前)ぬかしよる。義父さんが大物になる言うてなはったが、やっぱり応挙はんの七代目だけあるのう」 宇能は泣きじゃくる喜三郎を裏の井戸に連れて行き、顔を洗ってやりながら、いとしげに囁いた。「ほんまなら、人の汚したあとの湯へ入る身分やないのや。お前はただの子やないのやさけ」 以後風呂は、宇能の主張で近所に特別に頼み、喜三郎だけ先に入れてもらうことになった。持って生まれた天性と祖母の時おり吹きこむ囁きが織りなして、喜三郎の幼い魂に自尊意識がしみこんでいく。
 上田家の古い破れた壁や襖には、祖母の叔父中村孝道の書き残した書などが貼ってある。喜三郎はせがんで、宇能に読んでもらった。金剛寺や穴太寺の碑や額などをじっとみつめている。和尚が出てくると、袂をつかんで歩き、その意味をしつこく聞いた。どこにでも文字さえあればあかず見つめ、だれかれとなく居あわす者に聞く癖があった。しかしこの村で文字を解する者は少なく、ほとんどの者が返答に窮した。「大人に恥かかしよるで」と彼らは苦笑したが、まさかこの幼児に文字を理解する能力があるとは、誰も思わなかった。 明治十(一八七七)年二月、西南戦争が始まった。連日新聞がその模様を伝えた。当時、新聞をとっている家は、村でも一、二軒しかない。戸長の斎藤庄兵衛は、役場から持ち帰った新聞を囲炉裏にあたりながら、しかめっ面で読んでいた。横から邏卒(巡査)がのぞきこみしきりに内容を問いかけるが、庄兵衛にも読めぬ字の方が多くさっぱり意味がつかめない。あきらめて新聞をおき、煙管をくわえた。と、もらい風呂に来ていた喜三郎が、新聞をくい入るように見つめる。いつものことなので、誰も意にかけない。邏卒が声を落とし、秘密めかして戸長にいった。「ごく内緒のこっちゃけどのう、西郷はんとの戦いにどうも官軍の旗色がようない。だいぶ人減りがあるそうですで」「ふうん、そうけ。官軍一万六千、賊は一万五千と昨日の新聞に出とったさけ、兵力はまあ、五分五分やろ。そこに人減りちゅうと……うん……内緒にせんなんちゅうことやのう。こら、危ないぞ」 喜三郎が、大人の会話に口をはさんだ。「そんなもん何が内緒やろかい。ちゃんとこの新聞に出とるもん」「なんやて?……」と、邏卒は言い、相手が涎掛けをはずして間もない六歳の小童と知ると、嗤い出した。だが庄兵衛は、臆せぬ喜三郎の切れ長の眼に出会うと、真顔になった。「待てよ、ほんな喜三公、これなんちゅうて読むねん」と、四号活字の見出しを示す。 喜三郎はすらすらと読む。「天下の嶮田原坂の激戦開始、官軍容易に敵塁を奪取し得ず……」「ほんまにそんなこと書いたるのけ」と、邏卒が疑わしげに庄兵衛の顔を見る。「どうやらそんなふうに書いたるらしいのう。喜三や、その先を読んでみい」 続けて読ませながら、大人二人はしゅんとなった。「どこで字習うたか知らんけど、こら、お見それ申したわい」と、邏卒は脱帽し、「けど、まさか京までは攻め寄せてはこんやろ。こっちには錦のみ旗と親王さまがついてはるさけのう」と、胸を張った。「親王さま言うたら……この人?」 さっきから見つめていた新聞の肖像画を、喜三郎は指さす。「そうや、貫祿あるやろが。その下の字、何ちゅうて書いたる?」「有栖川宮大総督……」「そやそや。つまりトコトンヤレナの宮さんや。この熾仁親王さまが官軍の総大将や」「その歌、知っとる。お婆さんが歌ってくれたことあるもん」と、喜三郎は熾仁親王の肖像画をそっと指先で撫でる。 子供の喜三郎には、音読はできても、意味の不明な部分がある。庄兵衛は、読めぬ文字を喜三郎に読ませると、はっきり内容が理解できる。それからは、戸長はこっそり、数え七歳の喜三郎に新聞を読ませる習わしとなった。正規に習ったこともない文字がなぜ読めたのか、吾ながら不思議だったと、後に喜三郎自身が述懐している。 新聞を読み出した頃から、喜三郎の別の才能が発見された。早朝から井戸掘りしていた近所の衆が、掘れども掘れども水が出ず、閉口していた。さっきから地面に耳をつけていた喜三郎が、やがてたまりかねて言った。「おっちゃん、そんなとこなんぼ掘っても出えへんで。水の筋はここや、ここや」 ふところ手したまま、喜三郎はとんとんと足踏みしてみせた。水が出ず、いいかげん頭にきていた井戸掘り男がどなった。「あほんだら、お前になにわかるけえ。邪魔やさけ、あっち行っとれ」「わしが言うてもどうせ信用せんやろさけ黙っとったけど、あんまり気の毒や思うて教えてやって損した。遊んでこーっと……」 喜三郎が去ってから、ふと気が動いて、男はためしに足踏みした地点を堀り下げてみた。たちまち水が噴き出した。その話が伝わり、以来井戸掘りがあると、小さな喜三郎を連れ出して地底の水音を聞かせ、飴玉をしゃぶらせて水脈の指示を仰いだ。神童、地獄耳という噂が、村の内外にひろまった。 まだ埋火からはなれにくい初春、なんのはずみであったか、喜三郎は囲炉裏に落ちこんだ。小さい爺さんがとび出してきて、火中からひき上げ助けてくれた。その時の大火傷の痕が、死ぬまで左腕にはっきり残った。その爺さんが、やがてさっぱり姿をあらわさなくなった。「物言わん爺さん、どこ行ったんや」と、喜三郎は、宇能に問うた。不思議に思って、宇能は爺さんの様子をくわしく聞き出し、ため息をついた。「やっぱり、あの人はお前を守ってくれてはったんやなあ」 物言わぬ爺さんが死んだ祖父吉松の霊と知ってから、喜三郎はにわかに恐くなり、しばらくは隣家にも一人で行けなかった。 この夏、吉松夫婦と賀るは子らを連れて遊ばせながら、畑の草引きをしていた。喜三郎は木切れで、土に絵をかいて遊び、由松は大人の真似して草を抜いていた。賀るが急に世祢の袖を引き、由松を指さした。吉松も何事かと、由松の無心の所作を眺めた。四歳の由松が草を抜いては口にくわえ、一杯になると畑の外へ行って吐き出した。その動作が祖父と酷似しているではないか。潔癖な祖父は、畑で草を見つけると必ず引き抜いて、口にくわえたなり畝の終わりまで耕していって、野路へ吐き出す。「けったいな癖や」と家族はおかしがったものだ。 祖父を知るはずのない由松が……大人たちが息をつめて見ていると、由松はくるりと振り返り、しわがれ声で叫んだ。「俺がわかったか!……」 祖父の声、祖父の顔であった。先代吉松の再生に違いない。祖父の心残りの仕事、つまり残った僅かの資産をなくすべく、遺言通り生まれかわってきた――大人たちはその予感に怯えた。
 秋も深まったある日、吉松は喜三郎を連れ、久しぶりで川辺村船岡(現京都府船井郡園部町船岡)の佐野家へ里帰りした。目あては翌日の産土神社の秋祭りであった。参詣後、境内の草相撲や道化芝居を楽しんで、親子は、八木の近く吉富村大字雀部の漆さしの家へ立ち寄った。無病息災を願って、喜三郎の腹部へ十数点の漆をさしてもらった。 道々、喜三郎は痒さのあまり掻きむしった。穴太に着いた頃には、体一面に漆がひろがっていた。父や由松と違って、喜三郎の肌はきめが細かく、梅の花びらのような色であったから、あまり丈夫でなかったに違いない。体全体がはれ上がり、瘡になって、ついに身動きできぬほどになった。息災を願う親心が仇になった。 吉松は沢がにや泥鰌をとってきた。宇能が沢がにをすりつぶして体に塗ったり、生きた泥鰌を体熱でぐったりなるまでなすりつけたりしたが、頑固なかぶれは治らない。翌明治十一年春、学齢に達しても小学校へ行くことはできなかった。この時の漆かぶれの痕跡は、生涯腹部から消えぬぐらいひどかった。 明治十二(一八七九)年三月、三男幸吉が生まれた。世祢は弟二人に手をとられ、喜三郎の世話はほとんど祖母宇能にゆだねられた。宇能はつききりで、学校へ行けぬ喜三郎のために仮名から単語篇・小倉百人一首と順次教えこんだ。すでに新聞も読める喜三郎であったが、基礎の書き順から学ぶことに意義があった。記憶力と理解力はすばらしい。一度聞けばきちんと頭に整理され、しまいこまれた。「喜三や、お前はたしかに只者と違う。血は争えんというが、ほんまやなあ」「応挙はんの七代目やろ」と、無邪気に喜三郎は祖母を見返す。宇能は半ばうなずき、半ば否定して、「それだけやない。お前の体には高貴な方の血が……天子さまと同じ血が流れている」「そら……誰かて天子さまの子供やさけ」 打てば響く喜三郎の言葉に、宇能は黙した。それ以上は言えぬ。いつもそこで切れる話題であった。 宇能は喜三郎に独特の教授法を試みていた。孝道から受け継いだ言霊学の知識を傾けて、この非凡な孫にそそぎ入れた。瘡でふくれた面容怪異の体を横たえ、わずかにのぞく糸のような眼を光らせる九歳の孫と六十六歳の白髪の祖母。二人の間にしか通じぬ言葉のやりとりを聞きながら、父吉松は「水のみ百姓の伜にそんなけったいな学問などいるけえ」と宇能の情熱を笑った。百姓は体が丈夫で働けたらよい、なまじ学問など邪魔っけやと吉松は信じこんでいる。やがて宇能の教える知識は底をついた。 近所の同年の友上田和一郎が来て、病床の喜三郎に告げた。「喜三やん、学校てほんま恐いとこやぞ。ちょっとよそ見したらのう、先生がこんなごつい鉄棒でどつきよる」「ほんまけえ。無茶しよるのう」 喜三郎は友の誇張した話に脅え、学校に行くのはかなわんと思った。
 二年余べったり寝て、明治十三(一八八〇)年数え年で十歳の早春、頑固なかぶれも、かさぶたがはがれ落ちて治り、喜三郎本来の白い地肌があらわれた。手も足も長い束縛から放たれ、自由をとり戻していた。 父に連れられて、初めて小学校へ向かった。行く道々は梅花がかおった。肌をなでる風すら春を告げる。喜三郎は踊り上がった。それでも足りず、雪をかぶった愛宕の峰に胸をはって、「アーオー」と喜びの言霊を発射していた。父はあわてて息子の口をふさぎ、いかめしく訓戒を与えねばならない。「ええけ、学校行ったらのう、よそ見したらあかん。小便しとうても我慢せい。居眠り、絶対するやない。いまみたいに変てこな声あげてみい、いっぺんにこれや」 父は拳固を頭上にふり上げてみせる。和一郎の話と思い合わせ、喜三郎の喜びは萎えてしまった。
 当時の曽我部には、明治六年七月より穴太に偕行小学校、寺村に養正小学校があった。穴太・南条・西条・重利の四部落が偕行校、他の五部落が養正校に通った。喜三郎の通った偕行校は穴太寺境内にあった。 その頃の穴太寺は、全国にまたがる西国めぐりの巡礼で賑わっていた。亀岡の殿はんが五万石であるのに、穴太寺は十万石待遇を誇っていた。街道の道筋には、巡礼や参拝めあての白木屋・紅葉屋・河内屋・万屋・伊勢屋など十三軒もの宿屋が並び立ち、穴太口の近く巡礼橋まで客引きが出て、客を奪いあった。 穴太寺裏門前の万屋では、冬期、雪国の青森・山形方面から詣でる客のために、一晩五斗の米を炊いたこともあると言い伝えている。昭和四十四年に米寿を迎えた万屋の隠居斎藤ゆたが十八歳で嫁に来た明治三十二年頃は、まだ紅葉屋・河内屋・万屋の三軒の宿屋があったが、汽車が亀岡を通り、観光バスが寺まで乗りつけてくるようになると営業が成り立たなくなり、昭和二十年の万屋の廃業を最後に、穴太から宿屋は消え去った。 偕行校は、その穴太寺の華麗な多宝塔と向き合う松の木の間の念仏堂を教員室にあて、続いて大きな木製の衝立で仕切った四間の教室をつくり、各学年を収容していた。といっても、全学年を通じて三十人ぐらいの少人数であったらしい。 当時の小学校の制度は満六歳から満十四歳の八か年で、上下二等四年ずつに分け、各自八級から一級に至った。六か月間を一修学期間とし、春秋二季に試験があり、能力に応じて八級から順次一級に進ませる制度で、一級を卒業する時に大試験を行なった。喜三郎は、入学が途中であったためか、初めは下等八級の下の等外であった。同年の子より、三年おくれていた。 校長は亀山旧藩士出口直道、先生はやはり亀山旧藩士吉田有年。他に書記兼小使いの亀やんこと斎藤亀次郎がいた。校長と吉田がかけ持ちで、こちらの教室で読本の一節を読むと、直ちに隣の教室へ走って算術を教えるという調子であった。だから先生の姿が衝立のかげに消えるとすぐ騒ぎがおこり、喧嘩がはじまる。 等外の席にいる喜三郎には、授業が幼稚すぎて苦痛であった。毎日阿呆みたいに片仮名である。つい居眠りが出ては吉田先生にののしられ、指示管で頭をなぐられた。 ――和一郎の話は嘘やなかった。しまいに鉄棒でしばかれるかも知れんぞ。しばかれるのん、親父だけでたくさんや。 鉄棒で吉田先生に頭を割られる幻想が喜三郎の登校の足をすくませた。登校途中で和一郎たち悪友をそそのかし、山へ逃げて遊んだ。退屈で窮屈な席に怯えて坐っているより、山をはね廻り川で魚をとる方が、よほど生甲斐があった。弁当を食べ、下校の時刻をみはからって家へ帰った。習慣になった。 そんなある日、吉松は帰宅したばかりの喜三郎の風呂敷から小学読本を抜き出し、「読んでみい」と言った。吉松はもともと、高い月謝をはらって息子を小学校へやることなど、大反対であった。しかし宇能と世祢が強く主張すると、養子の身でそれ以上はさからえなかった。意に反して小学校への通学という贅沢を許したからには、それだけの効果を性急にたしかめたかった。 喜三郎は、仮名文字ばかりの読本を開いて、生まじめに父の前に立った。決して文字の読めぬ善良な父をだますつもりはなかった。まして恐い父を馬鹿になど……しかし戸長に新聞を読み聞かせる身が、いまさら小学読本でもなかった。どうせ読むなら、退屈な読本より面白い物がええやろう。さて何を……。 その時、喜三郎の頭脳の片隅にたたみこんであった古い読売り瓦版の一頁が、運わるくぱらりと目の前にひらいたのだ。気がついた時には、口はなめらかに先を読んでいた。「お髭ばかして調練させて、薮で狸が腹だいこ……羽根をつく子はひとごとふたご、どこのお髭の嫁ごだろ……金がありゃこそお髭のちりを、はらうつらさも間夫のため……顔のきれいな狐にあえば、鉄砲打つ身もだまされる……恋の重荷を山ほどつんで、色の港へ通い船……」 文字通りの意味しかわからぬ子供である。調子にのって読み上げるのをふんふんと感心して聞いていた吉松は、顔の紐をほどいて笑いかけ、慌ててぐっとこらえた。「もうええ、なかなか上手に読めるようになったのう。続きはまた明日や」 息子を放免したが何やら落ち着かぬ。「こうっと、色の港へ通い船……か」 くり返してみて愕然となった。「こ、こりゃ都々逸やんか。学校では何ちゅうこと教えさらすのや。高い授業料とりくさってからに……」 癇癖の強い吉松である。勢いこんで学校へどなりこみ、吉田有年の胸倉しめ上げた。だがやがて、癇癖を二乗にして走り帰る。読本で風流の道など教えぬこと、喜三郎はさっぱり学校へ顔出さぬことなどを逆に説教され、赤恥かいたのである。帰るやいきなり、喜三郎の額に煙管の雁首をくらわした。「先生ならまだしも、親までだましくさって、こ、この餓鬼め」 二度目が落ちぬ先、喜三郎の体は庭をつっきって道にとび出していた。おでこから流れ出る血を手で押さえながら、つい目と鼻の先の金剛寺へかけこんだ。 金剛寺は臨済宗天竜寺派、本尊仏は釈迦如来。円山応挙が九歳の時にこの寺に入門、仏弟子となったことで有名で、応挙寺とも呼ばれる。天明八年、祖先及び両親の追善供養のために、本堂の襖に寄進画をえがいている。 本堂は黄昏の暗さであった。奥の間にかくれ、しんと鎮まり返った中で、喜三郎は傷の痛みにすすり泣いた。暗さに慣れた目の前に、お釈迦さまが坐している。涙の眼で左を見、右を見て、喜三郎は泣き声を止めた。「金剛寺の奥の間にこわい部屋があってのう、夜半になると物すごい波風の音がするそやぞ」と、村の誰かが言っていた。するとこの部屋が……。 正面の連絡する襖一面の絵から不思議な轟きが湧きおこる。岩をかんでくだけ散る波涛、風が波浪を呼んでうねる。その無音の呼号に息をつめ、喜三郎は祖母のいう言霊を思った。仏壇の向かって左に山水図、対する右にはひょうひょうとした仙人の群が裾をなびかせ、霞の彼方から朱色の口唇で語りかけている。喜三郎はその言葉を聞きとろうと、ひざまずいた。 と、襖がひらいて、仙人ならぬ和尚が入ってきて眼をむいた。「誰じゃ、そこにいるのん」 父吉松に負けぬ怒声であった。和尚栗山禅味、この年五十五歳。「これ、誰の絵や」、と喜三郎が襖をさす。襟首つかんだ禅味は、少年が上田の小伜であることに気がついた。よく境内にいて、顔さえみれば、「これは何」と聞きたがるおかしな奴だ。禅味は言った。「応挙の絵じゃ、円山応挙――」 喜三郎は、絵に眼をすえたまま沈黙した。応挙はん、主水はんと口癖に祖母がいい、家の古長持には応挙の習作が一杯あるが、こんな見事な絵は初めてみる喜三郎だ。「そう言えば、上田の家は応挙の出た筋やてのう」「ふん、七代目がわしや」と、当然のように喜三郎は言った。「絵は好きこ」「好きやけど、描くと父さんにどつかれる」 喜三郎は悲しい眼になった。絵を描いたり本を読むのを、父は快く思ってくれぬ。「百姓の小伜にいらんこっちゃ。学問して親の雪隠に糞たれんようになったらどもならん」と、父は言う。たまに今日のように、「読め」といったら、結果は煙管の御馳走だ。「や、そのでこちん、血がたれとるやんか」禅味が明るい所へ喜三郎を連れ出し、その訳を問いつめた。事情を聞いた和尚は大笑いし、吉松にかけ合って弟子にしてくれた。喜三郎の神童ぶりを聞き知っていたのだ。「応挙はんもお前ぐらいの年で、この寺に小僧に来やはった。お前も負けんと精出しや」 喜三郎は小学校をやめ、昼は畑仕事を手伝い、夜は金剛寺へ通った。昼間の労働に疲れて居眠りするたび、如意棒がとんだ。懲りずに居眠りながらも、日本外史を空で覚えた。知識は急激に蓄積される。前からいる小僧を追いこし、たちまち引き離した。喜三郎が金剛寺に通い出したこの新学期には、弟由松は学齢に達して偕行校へ入った。 喜三郎の悪戯はやまなかった。溝を止めて魚をあさり、田守りにみつかって頭を打たれた。近所の結婚式をのぞきみようと舌で障子に穴をあけたとたん、舌の先を鋭いもので刺され、大声で泣きわめいた。和尚の留守に友達をひきこみ木魚を叩くやら、須弥檀の阿弥陀さんの口に泥鰌をつっこむやら、あげくのはて帰ってきた和尚にみつかり、襟首つまんでほうり出された。暗い夜道を、夜学の友が幽霊に化けて喜三郎をおどした。恐怖のあまり、がっぷり幽霊の足にかぶりつき、大怪我させたこともある。 六か月後、禅味和尚と父が学校に出かけて復学を頼みこみ、喜三郎は再び偕行校へ逆戻りした。禅味もいたずら小僧をもてあまし、責任を小学校に転嫁したのであろう。いきなり四級とびこえて、下等四級に編入された。 授業は、あい変わらずつまらなかった。下等小学校教科書は、綴字(読み並びに盤上習字)・会話(読み)・書牘(解意並びに盤上習字)・養生法(講義)・体操・習字(字形を主とす)・読本(解意)・文法(解意)・地学大意・唱歌(当分これを欠く)・単語(読み)・修身(解意)・算術(九九数位加減乗除)・理学大意であった〔明治五年公布の小学校教則〕。 しかし何分やさしすぎた。穴太には、古老たちの語り伝えが残っている。村人たちがむずかしい算盤を少年喜三郎に頼む。喜三郎は、「火ひいて灰のこる、灰ひいてくど(かまど)残る、犬がボボしてマラ拭かん」などと口からでまかせいって大人を笑わせながら珠をはじき、一厘の間違いもなかったと。この調子で下等終了まで四年かかるところを二年で終え、明治十五年には、上等八級に進んでいた。しかし喜三郎の本来の生活は、学校の外にあった。
 蓮の葉の生い茂った溜池で友らと遊び、蓮の実をとろうとして落ちこんだ。深い泥が喜三郎を吸いこみ、もがけばもがくほど沈んでいく。子供たちが驚いて逃げ出した。注進を受けた宇能が凄まじい形相でかけつけ、水藻の中に没し消えようとする孫を渾身の力で引き上げた。泥にもがいた感覚は、悪夢のように長く残った。この蓮根池は、いまは水田になっている。 近所の大石文助老人の庭に、棗の木があった。学校の帰り、友の重太郎と庭に忍んで木にのぼり、甘ずっぱい果実をむさぼり食った。と突然、文助のどなり声に仰天し、折り重なって梢から落下した。重太郎は足首をくじき、喜三郎は石に腰を打った。 恥も外聞もなく大声で泣きわめくのは喜三郎の癖である。どなった本人の文助は、丁髷頭をぺこぺこさせ、二人にあやまった。重太郎は足をひきつつ帰ったが、喜三郎は起き上がれない。文助は、涙と鼻汁を振りしぼる喜三郎を背におうた。丁髷は喜三郎の鼻をくすぐる。ついでにそれで鼻をぬぐった。文助は死ぬまで丁髷を切らなかった。 事情を聞いた吉松は、怒って喜三郎の痛む腰をけった。「泥棒に伜を育てた覚えはないぞ。文助はんに合わせる顔があるかい」 文助のとめる手をふりほどき、なおも鉄拳を打ち下ろす。逃げ足早い喜三郎も、いまはただ足腰立たぬ木偶人形、のどの裂けるほど泣きながら、したたか父の制裁を受けねばならなかった。 その腰の痛みも癒えぬうち、ある午後、山へ松葉刈りに追いやられた。山で会った友達とたちまち好きな相撲になる。日の暮れ時も腰の痛みも忘れて熱中し、投げとばされて腰を打った。二重の腰の痛みに刈った松葉も忘れて這うように帰った時は、すでに日は落ちていた。 父が待ちかまえていて、物もいわずに頭をなぐった。暗闇にまぎれて外へ逃げのび、友達の家に隠れた。夜がふけると今度は吉松の方が落ち着かず、家族に内緒で近所の家をたずね歩く。
 秋も深まった日曜日の朝、四、五人の友達と山に入った。村の三文侠客大亀の息子太吉が、土のついた薩摩芋をどこからか抱えてきた。「よう、ええぞ。焼いて食おけえ」 言い出しっぺはいつも喜三郎だ。うきうきして、友らと焚き火の支度をした。風が寒かった。芋を砂地に埋め、その上に枯れ葉や柴を集める。用心のため、まわりの草木をのける。 火は勢いを得て燃え盛り、おりからの風に横に揺れた。危ないと喜三郎はとんで出て、着ている法被で炎を伏せた。が、力及ばず傍の枯れ木が火になった。火は魔性を発揮して、縦横に広がる。火が風を呼ぶ。泣き叫びうろたえながら、子供らが松の枝で叩きまくる。が、火は轟音を上げて松の幹をはいのぼり、爆ぜ、山肌をなめる。 半鐘が鳴り響く。もう見渡す限り火の渦だ。子供たちは、消すより逃げる方に気をとられた。交番巡査や村人たちが、手に手に鎌や棒ぎれを持って群がりのぼってくる。山火事は一山すっくりなめ尽くすまで、消えなかった。 黒こげの焼跡に立って、涙も乾涸びた悪童たちは、村長、校長、巡査らからさんざん油をしぼられた。だがそれは序の口。 吉松は、頭も眉も着物も無惨に焼け焦げた張本人の息子を追い立て追い立て、山を下る。家の庭に入ると、ぎりぎりと後手に背戸の柿の木に縛りつけた。おもしろげにのぞいている弟由松の顔が小癪にさわる。 吉松の顔面は、穴太寺の仁王門の仁王さまよりまだ真っ赤。根が小心なだけに、その癇癪に余裕がない。「火、火あぶりじゃ。柴もってこい。お世祢、つけ木をはよ持ってこい。この餓鬼、灰にしちゃらな、村に顔向けでけんわい」 祖母、伯母、母の涙をもってしても、怒りは治まらなかった。誰も命令を聞かぬので、吉松は狂ったように一人で庭の枯れ葉をかき集めた。 ――焼き殺される。 喜三郎は必死にもがいた。久しく見なかった物言わぬ爺さんがとんできて、縄をほどいた。それが幽霊か幻想か疑ってみるひまもない。自由になった手足を駆使して、めちゃくちゃに走った。この世の果てまで逃げたかった。 村を出はずれると、村の用水道にもぐりこんだ。家々に美しく灯がともる。秋の虫がすだく。流れる涙はひどく塩っぱく苦い。気がつくと、顔中が火傷でひりひりする。手にも脛にも、無数の水ぶくれがあった。水は足もとをちょろちょろ流れるだけであったが、草履をとおしてその冷たさが腹に伝わる。しくしく腹が痛むが、用水道を上がってどこへ逃げるあてもない。 遠くで幾つも提燈が動いた。風に乗って、叫びが聞こえる。「喜三やーい」 悲しみに震える声が用水道の脇道を走って行く。母さん、母さん――出かかる叫びを、涙とともに飲みこんだ。火あぶりの刑の恐怖が、喜三郎ののどをふさいだ。 吉松は、一夜を憑かれたように息子の影を求めて探しまわった。明け方、幽霊のように小幡橋にたたずむ喜三郎をみつけた。その冷え切った小さな体を、つぶれるほど抱きしめていた。涙鼻をすすり上げ、声も出ぬ憔悴しきった親子であった。
 桑の実が黒く熟れた。梅雨のあいまにとび出して、むさぼり食う。食いあきて、和一郎の真っ黒に染んだ唇をみて思いついた。「お前、与市兵衛になれや」「それ、なんじぇい」「秋祭りにみたやんけ。仮名手本忠臣蔵五段目や。わし、仇役の定九郎になる」 手とり足とり、喜三郎は和一郎に芝居の振りつけを始めた。舞台は目前に浮かんでくるし、台詞はとうとうと湧き上がってくる。和一郎の顔をつかまえて、ぐいぐい桑の実で隈取った。和一郎には観客集めに走らせ、喜三郎は小道具集めに走り廻る。 桑畑の中で、莚の緞帳が上がる。見物の子供らから、拍手と歓声がおこる。 与市兵衛の台詞はつっかえつっかえ、定九郎の台詞は流れあふれ出るよう。しまいに定九郎はじれったがり、与市兵衛のせりふまで引き受けて一人二役を演じ出すと、与市兵衛はぽかんと口をあけて立っているだけ。大見得を切った定九郎、刃物を握った右手をさっと与市兵衛の鼻先に突き出した。観客はぎょっとなった。与市兵衛の鼻先から、桑の実の隈取りとは確かに別の、赤い色が筋を引いて落ちる。ぎゃっと叫んで、和一郎は鼻を押えて走り出した。 失敗た。本物の出刃やった。 喜三郎は蒼ざめた。血のついた出刃を投げ出すと、反対の方向へ走り出した。 つい先日、一山焼いたばかりの焼跡に立って、喜三郎は罪の意識に恐れおののいた。 ――なんでわしはこんなやろ。 おいおい泣いた。泣いても泣いても泣ききれぬ。日の落ちた山は、風が吠えて凄まじい。雨がまじってきた。 雨に追われて闇の山道をころげころげ里へ下り、家の軒端にたたずむと、和一郎の父上田幸三郎の高声がわんわん響いてくる。その前に、父と家族全員が平たくなっている気配である。 ――あかん。今度こそ父はんに八つ裂きにされる。 あてもなく夜道を走った。一里の先に亀岡があった。街の東端西竪町の伯母を思い出し、助けを求めた。母のすぐ上の姉ふさは麹屋をしている岩崎庄助に嫁いで、一男二女を産んでいた。従兄の庄太郎は喜三郎より一つ上で、話が合う。喜三郎は、芯まで泥と雨にまみれ、隈取りのはげた顔で芝居の一件を泣き泣き語る。庄太郎は同情してくれたが、伯父は苦い顔をし、伯母は吐息した。「ついこないだ村の山を焼いたばかりやろ。神童や言われるくらい利口な子と思たら、阿呆でもようせんような馬鹿な真似をする。どっちがほんまの喜三郎かいな」「それがわしにもわからん。どっちやと思う、伯母はん」「阿呆かいな」と、伯母は嘆く。「やっぱり阿呆か」と、喜三郎。「馬鹿者。自分の阿呆さかげんも分らんか」と、伯父はどなり出す。「そやから聞いとるのや。いったい、どっちやらほんま、分らへん」 喜三郎はまだこだわっている。伯父は思わず苦笑して、「本人が分らんもんが、わしに分るけえ。おふさ、しゃあないさけ、この馬鹿、穴太まで連れて帰んで一緒に詫びちゃれ」と、吐きすてるように言った。 伯母に連れられて帰ると、父の機嫌は直っていた。医者が、和一郎の傷の浅いことを証明してくれたからである。 だがその傷は和一郎が老いて死ぬまで、横一文字にうっすらと残った。喜三郎は、後年まで親交のあった和一郎と向きあう度に、少年の日のとんだあやまちに心がうずいた。
 綾部近辺の草深い地の家で、不意の客人にもてなす馳走がなかった。「せめて蜂の子飯なりと……」と主人は思いつき、火をつけた麦わらを軒の巣に近づけた。親蜂を追うためである。夢中になるうち、その火が藁ぶき屋根に燃え移り、家が全焼した。(山下良枝著「虫と民族」) 信州では有名だが、貧しい丹波地方でも、蜂の子をよく食った。蜂の子飯はえび飯に似た風味があった。蛹のひげが出かかり、広げる力のないやわ羽の頃がうまい。採る時期に念が入った。 ところで喜三郎と蜂も縁が深い。喜三郎は蜂の子が大好物で、蜂の子採りにはげんだが、蜂からもしばしば報復を受けている。 もっと幼い頃、甲虫を採ろうとして櫟林をあさって蜂に刺されたり、川のそばの茨の室の蜂の巣を知らずに踏んで、顔を刺された。歯くそが効くというので、友達が各自の歯くそをほじくって、泣きわめく喜三郎の顔にぬりつけてくれたものだ。 この頃では、喜三郎の方から蜂を襲った。金剛寺の門の雀蜂の子を採ろうとして、親蜂に刺され、一度は退却した。だが執念深くつけ狙い、夜襲をしかけ、作った袋で親蜂もろとも捕獲に成功。採った蜂の子は黒砂糖と醤油をつけてあぶり焼きした。かんばしい珍味に一巣を平らげ満足したまではよかったが、翌日から全身に腫れ物ができ、身動きならぬ。昼夜苦しみ、全快までに一か月かかった。 治ると、庭の山椒の木の下に巣くう穴蜂を狙った。また刺される。何しろ性懲りがない。ますます戦意を燃やし、穴蜂の穴の三分ばかりの入口に夜火をたいた。親蜂を窒死させ、土中の巣を掘り出す作戦だ。喜三郎の目は輝き、頃はよしと次の行動に移る矢先であった。夜火の照り返しに目ざめた父が立っていた。「この餓鬼め、山火事出しても懲りくさらんと、今度は家まで焼く気か。出て行け、二度と帰るな」 父は手に鍬を持っていた。喜三郎はすっとんで逃げ、その夜は穴太寺の観音堂の床下にもぐって寝た。早朝、体中を薮蚊に刺され、蜘蛛の巣だらけで這い出すと、朝詣でに来たコブ安が驚き、「こ、このド狸め、また人をだまくらかす気やな」と、思うさま杖でぶんなぐった。観音堂の床下は昔から豆狸の巣といわれているのを、喜三郎は忘れていた。 寝ぼけまなこの喜三郎はもの凄い悲鳴を上げ、必死になって小幡神社の裏の殿山に逃げた。 頭が割れそうに痛む。手をやるとべっとり血だ。大声で泣いた。さすが生きていくのがいやになった。細かい霧の粒が流れる。眼下の犬飼川も小幡神社の森も、深い霧の中でけむっている。穴太寺の本堂の薨と多宝塔が雲上に浮いている。ピッキュイ、ピッキュイと鋭く鳥が鳴き渡る。肌も見えぬほど深く苔むした岩のかたわらに、げんのしょうこが桃色の花をひらいている。 仙人になりたいと喜三郎は思った。七代前の応挙はんも、こんな風景を見たに違いない。九つの時に小僧にやられ、わしみたいに山に逃げて、仙人の群を夢みたかも知れない。が、いかに密度の濃い霞を吸っても、喜三郎の腹は減るばかり。風流心もここまでで、再び涙が出てきた。 陽がのぼり霧が薄れてきた頃、小幡神社の脇道から登ってくる人影があった。あわてて薮にもぐり込むと、「飯やでよう、喜三やーん」と、伯母賀るの声だ。 めしの言霊に引き戻されて出る鼻先に、かおり高い青紫蘇で巻いた握り飯が二箇。物も言わずにむさぼった。「喜三やん、父さん好きか」と、賀るが聞いた。 う、うんと、飯をのどに詰まらせた。「父さん恐いか」 う、うんとうなづきかけ、賀るを見上げた。「そうやろなあ……ほんまはお前は……」と、言いかけて、賀るは目頭をおさえた。それから声をひそめ、「伯母さんとよそへ行かへんか」 喜三郎は眼を丸くした。賀るは気弱くうつむき、「やっぱり無理やなあ。こんなこと聞かなんだことにしといてや」 思えば賀るは、四十をとうに過ぎていた。いつも陽のあたらぬ家の隅か、小作田に追われている。誰も邪険にはしない代わり、影のような存在になっていた。「よそって、どこ行ってん」 喜三郎は改めて伯母をみつめた。「どっこも行きとうないのやけど、うちみたいなもんでも嫁に貰てくれてん人があるさけ……」 消え入りそうに、伯母は言った。いかにも心細げであった。 ――伯母はん、一緒に行っちゃる。 衝動的に出かかる言葉を、喜三郎はこらえた。祖母と母の顔が瞼に浮かんだのだ。 それから、四、五日して、賀るはひっそりと嫁入った。嫁入りとも世間にはふれない。千代川の今津まで、喜三郎は両親と共に見送った。
 喜三郎は魚捕りが図抜けてうまかった。学校がひけると川に走った。はや・もろこ・もと・がんつ・しゃりかん・口ぼそ・ふな・こい・ぎぎ・ごり・うなぎ・なまず……水にもぐり浮き上がる時は、きまってどれかを握っていた。捕った魚は鰓から口へと小笹を通して、重そうに腰にぶら下げる。すんなりした股のあたりに、まだぴくぴくはねている魚もある。 通りかかった漁夫の文助熊が羨ましげに言った。「喜三公、ようけ捕ったのう」「お前はどうじぇ」 喜三郎が聞くと、文助熊は恥ずかしげに、自分の魚篭を背にかくした。 狭い穴太に、熊という男が二人いた。この漁夫の熊さんは、前に喜三郎が落ちた棗の木の持主文助爺さんの息子で、別の熊さんと区別するため、文助熊と呼ばれた。親子とも、未練たらしく丁髷を頭に乗せている。「喜三公、それだけ雑魚がとれたら、雑魚とりしても食うに困らんのう。なんぞ骨があるのんけ」 喜三郎はにやっと笑った。「おっさん、雑魚捕りで食うにゃったら、背の輪を下ろしたらええのや」「背の輪?……なんや、それ?……」 手を丸くして仏の光輪を示し、喜三郎はまじめくさって言った。「後光がさしたら、魚がびっくりして逃げよる。仏は生ぐさが嫌いやでのう。そやさけ仏心を捨てて、雑魚と同じ仲間になったらええねん。ほったら魚の方から身をまかしてきよる。これが雑魚捕りの骨や」「ほうかあ」と、文助熊は、分ったような分らぬような顔をした。「よう観とってみい、大川におる魚でも、小川におる魚でも、いっせいに水面に浮かんでくる時がある。この時をはずさんとパッと網を入れたら、大漁まちがいなしやで」「ほんまやのう。ほんなら握りの時はどないするのんじぇ」「魚が頭をもたげて来た時に、頭の方から電光石火的にチャッとつかんだらええのや。そっと狙って捕ろうとするさけ、逃げられてしまう。要するにやな、魚の逃げる時間よか、こっちのつかむ時間が早かったら、捕れるのはあたり前やろ」「そうや、あたり前や。おおきに」 文助熊は手をうった。最後の説明は、ぐんと腹にしみて納得した。 ある日、土淵で、三尺有余の大なまずに抱きつき、格闘のすえ捕えた。友達が珍しがって、「売ってくれ」と口々にせがんだ。だが喜三郎は両親に見せて自慢したいばかりに、大なまずを抱いて、やっこらやっこら持ち帰った。皆は驚き喜三郎の腕前に感心したが、祖母宇能だけは苦い顔をした。「喜三や、このなまずは弁天さまのお使いやで。すぐ元の場所に放してやんな」 だが喜三郎は未練が残り、一晩だけのつもりで盥に入れておいた。大なまずは頭と尻尾がつかえて、背が弓なりである。「弁天さまの使いなら、使いらしゅうもの言えやい」と、喜三郎はなまずの背を撫でるのだった。 翌朝みると、なまずはそのままの形で、微動もしなかった。肌は鼠色に褪せ、さわるとぬれっと剥げそうで醜悪であった。さすが喜三郎も食う気がせず、後悔にうちのめされつつ土中に埋めた。その夜から尻に腫れ物が七、八つも一度にふき出て、痛苦に呻いた。宇能は蒼ざめ、「弁天さまのお使いの祟りやで。喜三は魚を食べることより、捕る面白さで夢中になっとってやろ。それを殺生というのや。もう殺生はやめにせなあかん」と説教すると、急いで氏神さまにお詫びに出かけた。その留守中、文助熊が縁先から不景気な顔を出した。「喜三公、どえらい大なまず捕ったんやてのう。いっぺん拝ましてくれんこ」「あかん、もう死んでもた。それがごつい仇ンしくさってのう」と言い、顔をしかめて寝返ると、「どうや、雑魚捕り、うもうなったけ」「なかなか。つかむよか雑魚の逃げ足の方がやっぱり早いでのう」と、照れたようにつるんと顔をなでる。「そうけ、まあ練習せいや。ところでおっさん、なまず持っとってやないけ」「ちっこいのがあるで」 文助熊の桶には、小さななまずが数匹泳いでいた。「弁天の使いもくそもあるけえ」 値切って、五厘で数匹の小なまずを買った。喜三郎は半ばなまずに復讐し、半ば祖母の迷信に抗する気で、病む身を起こし、こっそり醤油で煮て食った。その夜から二昼夜、激痛のために呻き通し、ようやく腫れ物が破れて痛みは去った。以来、なまずと聞くさえ身震いする。 泥鰌は死ぬまで好きだった。生きたまま呑みこみ、胃の中でくるくる回転しもがく感触も再三知っている。ただし泥鰌の生食は人を驚かしたい茶目気からで、嗜好のためなら、泥鰌汁か柳川に限る。 じょうれん(竹の箕)を持って、しばしば泥鰌捕りをした。溝をあさり、泥の中を手さぐりもした。 ある日、ぬるっと長い物をつかんだ。今夜は鰻飯やと胸を踊らせながら、鰓と胴を持ち上げてキャッと叫んだ。青蛇だった。投げ出すひょうしに後の泥田に尻から落ちた。顔も尻も泥まみれの気味わるさに、そばの古池に着物のまま跳びこんだ。間が悪い時は重なるもの、そのはずみに古杭に尻を打ち、うんと息が止まる。やっとの思いで池から這い上がり、片足ひきひき家へ帰った。 喜三郎の御難を語ればきりがない。今までの悪戯や失敗談すら、わずか十歳から十三歳までの三、四年の出来事だ。これからもよく転び、怪我をし、懲りずに悪戯を繰り返す。これを作者の虚構と疑わないでほしい。すべて喜三郎本人が歌集《故山の夢》等で告白したり、穴太の古老達の語り伝えることであるから。 しかし失敗や悪戯の絶え間ない中にも、喜三郎の心をとらえるのは言霊学である。祖母宇能によって蒔かれた言霊学の芽が、ほどよい土壌を得たように伸びていた。一つ一つの言葉は難解であっても、その大意は理解することができた。絶えず模索していた。 ――この宇宙に満つる天地進展の不断の轟き、森羅万象一切を生成化育する微妙の音声。 鳴り鳴りて鳴り止まざるその言霊を聞こうとして、一人山へ上がった。穴太の山野は、それを聞くに恰好の地であった。 ――いつの日か真の言霊を我が物として風雨雷霆を叱咤し、天地をも動かす力を得よう。 宇宙大旋回の発する生言霊の轟音に合わせて、「アーオーウーエーイー」と思うさま声を上げる。清しく力強く山上から発する少年の五大父音が互いに響き合い、山々にこだまし合って、さらに天に向かって広がりながら吸われていく。 ――火と水を舫い、天と地を与み、男と女と舫い、神と人と与み、万物固成する……。 一人となえつつ、喜三郎は天地剖判の太古を想って胸ふるわせた。「喜三公が山のてっぺんで、一人ぶつぶつ言うとったぞ」「俺がみた時は、ごつい声でわめいとった」「いや、口をぽかんとあけて、いつまでも空を見とった。声をかけても気がつかへん」「ありゃ、たしかどっか足らんのやないか。普通やないでよ」 などと村人たちは噂した。驚くべき記憶力と直感力の「神童」、「地獄耳」の喜三やんは、同時に、どこかが足りぬ、つまり十文には二文ばかし足りぬ「八文喜三」。矛盾する渾名もやむを得ぬ。 幽玄な宇宙に心を吸い奪られる八文喜三にも、また現界の仕組みの不条理に悲憤する若い血がある。収穫前のあわただしい頃であった。田んぼ道で出会った地主に会釈した喜三郎は、急に不機嫌な破れ声を浴びせられた。「小僧、吉松の小伜やな」「そうや」と、喜三郎は顔を上げる。「おまえんとこ、毎日なに食うとる」「ころもん(沢庵)に麦飯や」「贅沢やのう。身分不相応や。乾し菜まぜた薄い粥でもすすれ。吉松やお世祢に言うとけ。吉松が宮相撲なぞさらしよるさけ、わしんとこの大事な田地が留守になるのや。ええか、小作料きちんと払えんようなら、小作田は取りあげる。宮相撲はわしが許さん。よう言うとけよ」 喜三郎が無念の唇をかんで暴言に耐えたのは、あの癇癪もちの父が、日頃、吉松と呼び捨てにされ、見下しにされながら、じっと我慢しているのを知っていたからだ。所有する三十二坪の田だけでは、一家は食いつなげぬ。春に生まれた妹雪と合わせて七人家族。その生命はすべて小作田の耕作につながっている。本を読むな、絵をかくな、相撲をとるな、百姓せいと喜三郎の喜びをことごとく取り上げんとする父を、だから彼は憎めない。 柴を刈り終え、友らと夕暮れの山の尾の上に立って、一面に黄金色に揺れる村を見下ろす。「見てみい。うちの田がよう見えるぞ。あの森の西の田は、そっくりわしんとこの田や」と、直次郎が誇らかに言う。「ほんまや、ようけあるのう」と相槌うつのは、その弟三郎。「俺んとこかてようけあるで。あの山の裾から松の木のねき(そば)まで、ぜーんぶ俺んとこの田やさけ……」と、弥三郎が力を入れる。「喜三やんとこの田みえるけ」と、三郎が言った。  半反に足らぬ上田家の田が、山の上から見えるべくもない。小作人の子は、聞こえぬ振りで横を向く。あの山は誰の物、この薮は誰それの物と熱中している友から離れて、喜三郎は深く息を吸いこんだ。 ――こんな狭い土地の山や田をこまごまと区切って勝手に縄張りを主張し、はみ出た弱い者たちのことは考えぬ。小作たちが地主にしいたげられ、貧しい者が富める者にへいこらせねば生きて行けん。こんな世の中を改めねばならん。けどその方法は?……。  喜三郎はその思いにとらわれて、時を忘れる。「喜三やん、なに呆けとるのや。はよ行こけい」 友らの呼び声に、喜三郎は夢をさまされた。子供の身には、あまりに途方もない夢を。
表題:大岡忠相 1巻3章大岡忠相



  明治十六年、十三歳の喜三郎の身にも、大きな変化があらわれた。 世の中の不合理を感じるにつけ、喜三郎は彼なりにその改革手段の思索に熱中した。誰かがやらねばならぬ。巨大な意志と頭脳と力をもって、この世を根底からあらため、新しく正しく建て直すことを――。 明治維新は、世直しを渇望する大衆の支持を受けた下級武士が、原動力であった。しかし彼らは、維新ののち、貧しい大衆を裏切った。権力を得てみれば一藩一族一身の栄達を賭けて争うばかり。依然として貧しい者は踏みつけにされ、搾取される道具に過ぎぬ。真の改革をなし得る者は、彼らではない。この大地に生まれ、しがみつき、喘ぐ小作人の群の中から立つ。 ――それがわしや。喜三郎や。自力でならぬところは、天の力を借りよう。否、正しい祈りに応じて正しく導きたまう、神の僕となろう。わしは力を得る。神と人と与み、万物を固成する無限の力を。 数え歳十三にしては豊富な語彙、雑多な知識を総動員しても、人生経験の土台に乏しい。現実から遊離して思考は飛躍し、空想は限りなく広がった。それでも頭が熱く痛むまで、自問自答をくり返す。 妹を背に唐臼を踏みながら、食事の呼び声にも答えず、耳元の妹の泣き声にはっと我に返る。長い長い草履を作っていて、由松にあざけられる。学校で吉田先生にあてられても気づかず、鉄拳制裁の痛さでやっと放心からさめた。他から見ると、神経のすりへった半病人か痴呆であった。 家族は心配し、吉松のすぐ下の弟佐野清六に相談した。一度連れてこいと言ってくれた。清六は、船井郡船岡村で妙霊教会の布教師をしていた。 船岡に妙霊教会が入ってきたのは、明治五、六年のことらしい。船岡の隣村高屋村の井上弥兵衛が、妙霊教会本部の布教師岸本勇助を連れて佐野家へ来たのが機縁である。井上弥兵衛は清六の母きんの父で、しかも清六の姉とめは井上弥兵衛の後妻である。清六にとって、弥兵衛は、伯父であり兄であるという、ややこしい関係になる。 清六の妻つやが、まず熱烈な信者になった。船岡における妙霊教会の信者第一号である。清六は妻の信仰に引きずられている形であったが、つやが若くして死ぬと、受けついで急に信仰に熱中し始めた。明治十一年には、後妻に佐野五郎兵衛の長女たつをめとり、家庭は安定した。清六は農事をたつにまかせ、専任の布教師として活躍したので、次第にこの地方にも妙霊教会の教勢が広がりはじめた。 激しい歯痛のために片頬はらしたのを機会に、吉松は苦しむ喜三郎を連れて船岡に行った。神前で清六に拝んでもらって、歯痛はたしかに治まった。「歯痛ぐらいならわしの御祈願でも治せるが、阿呆の気を治すには、御本部まで行かなあかん」と清六は主張して、吉松父子を連れ、兵庫県多紀郡春日江村の妙霊教会本部へ参拝した。篠山盆地の東、小高い峯々に囲まれた六十坪ばかりの瓦ぶき平家である。神殿中央に大神鏡、両わきに大榊を供え、みあかしがともっている。大太鼓の音に合わせて、十数人の信徒たちが、折から一心に「妙々……」と連呼していた。 応対に出た岸本という布教師は、喜三郎の面に眼をすえて離さぬ。やがて膝を叩いて、「妙神!  妙々神!」とうなるように叫んだ。清六が喜三郎の病状を説明すると、言下に岸本は断言した。「そら一種の神がかりやなあ。この子の骨相は只者やない。そこらの百姓の子とは、てんでちごとる。きっとどえらい人物になる。将来、たいした仕事をしなはるで」 岸本は朴訥、飾りけのない老爺だが、霊感の強い人であった。しばしば意表外のことを口にしたが、それがまたよく的中して、信者の信頼を集めていた。父も叔父も驚いて、喜三郎の顔を見直すのだった。 続いて岸本は瞑目すると、まるで眼に見えるように言いはじめる。「上田はんの家の坤(西南)の方向に池があるなあ。裏鬼門を侵しとるさかい代々祟りがあるで。御先祖にも祟りは出とるはずじゃ」 吉松親子は声もなかった。その通りであった。岸本の透視が正確である以上、祟るという不吉な言葉が重くのしかかってくる。 岸本のいう池は、喜三郎の五代前の上田久兵衛が所有地一万五千坪の用水源として掘ったもので、村人は久兵衛池と呼びならわしている。岸本の言うように、久兵衛池は代々女ばかり七名の溺死者を出し、ほかに村内の子女も犠牲になったと言い伝えられている。喜三郎も六歳の年この池に落ち、溺死寸前を祖母に助けられている。まさに祟りの池であった。そこまで見抜いた岸本の霊眼の、よって来る所以を喜三郎は知りたい。 岸本は喜三郎の質問に答え、妙霊教会の沿革を語った。 妙霊教会は法華系の神道を説く一教派で、兵庫県多紀郡春日江村の百姓山内利兵衛により創始された。文久元(一八六一)年、山内は神前に礼拝中、左手に扇、右手に神代に見る聯鈴を持って現われた衣冠正しき老爺より教示を得る。「即ちそれ日月星辰の空にかかり、万古その班列を錯えず、また地上万物無量なりといえどもその化育の誤らざる等、真に至霊妙ならずや。故に人その一物をみては天工の至妙を感徹し、もって心中に妙々と唱え謝するの意を表する時は、すなわち自ら既往の罪状を消滅し、天意人心に合い、大いなる至福あるべし」 老爺の消えた後に残された神鈴は《妙》の一字になり、一字また次第に縮小し、ついに見えなくなった。 山内は心中に妙々と唱え信ずるうち、次第に未来が予見され、また病人を快癒させる霊験が立ち、近隣の評判を得た。彼は篠山藩の干渉や他教団の迫害圧迫に耐えて教勢を拡張し、この時には丹波を中心に多くの信徒を得ていたという。 熱心に聞き終わった喜三郎は、「鬼門とは何?」、「祟り神とは何?」と鋭く問いつめる。奥から教会会長の大久保吉春があらわれて、喜三郎の前に数冊の本を示した。「これで学んでごらん。本屋ではなかなか求められまい。貸して進ぜよう」 喜三郎は、燃える眼を向けておしいただいた。平田篤胤の古今妖魅考・鬼門考などであった。 翌朝、喜三郎は、昨夜岸本から一度聞いたばかりの禊の祓いと大祓いを、そらで神前に朗々と奏上していた。驚いたのは教えた本人の岸本である。「地獄耳の神童と噂されとるそうなが、やっぱりほんまやなあ。ぜひ神主になんなはれ。そしてわしらと一緒に、惟神の道に進もやおへんか」 岸本は熱心にすすめる。喜三郎にその意志はなかったが、惟神の道に進めという暗示は深く心に残った。 春日江村から帰った喜三郎は、借りてきた本を夢中になって読んだ。鬼門や祟り神を避けねばならぬ意は分かったが、しかし喜三郎の追求する鬼門、祟り神の本体、本主が何か、何が原因でそうなったのかまではふれていない。もの足りなかった。質問を重ねようにも、春日江の本部は遠い。 喜三郎は夜中に抜け出して、小幡神社に参詣するようになった。神示を得たかった。祝詞を奏上し、神前にぬかずいたなりまどろんでいて、鶏の声に愕然とする。また時に無念無想となって、無気味なほど澄みきった自分に気づくこともあった。しかし昼間の生活は、喜三郎の思念の世界とは別の、あい変わらぬ痴呆の生徒であった。
 偕行小学校上等四級の教室では、春の進級試験を前に、担任の吉田有年先生が小学修身を教えていた。吉田は熱をこめて、江戸町奉行大岡越前守忠相について語る。 ――講談や落語から仕入れたよいかげんな種ばかりや、と生徒喜三郎は批判し、聞く価値なしとて、大好きな空想に熱中しようとした。だが吉田の耳ざわりな言葉がひっかかって、それを妨げる。大岡越前守忠相の忠相をタダアイと発音することである。幾度目かにたまりかねて、「はい、先生」と、手を上げた。「なんじゃ、小便か」 吉田は話の腰を折られ、不機嫌な顔を向けた。「違う。先生の教え方が違てまんのや」「なんやて」 吉田は威すように、指示管で胸の辺を指した。「どこが違うのや。言うてみい」「大岡越前守は、タダアイやのうて、タダスケがほんまや」「ほう」と、吉田は小馬鹿にしたように鼻で嗤い、「わしはのう、ちゃんと先生になるだけの学校出て、学問つんどるのやで。そのわしに水のみ百姓の伜が間違いを教えてくれるのか。そやさけ、お前は八文喜三といわれるのや。ええか、タダアイはタダアイ、昔からきまっとる」「水のみ百姓の伜が読んだらタダスケで、学問のある士族の先生が読まはったらタダアイですかいな」「ド阿呆」 吉田は怒気を含んだ勢いで、黒板に荒々しく「相」の字を書き、その下に、《ソウ》・《ショウ》・《アイ》と仮名をふった。「よう聞けよ。この《相》ちゅう字は、呉音でソウ、漢音でショウ、訓ならアイと読む。呉音なら一子相伝・手相人相骨相・相場・相続……漢音なら宰相……宰相いうたらのう……」「大臣のことでっしゃろ」「う……それから相器、相門……」「相器は大臣になる器、相門は大臣になる立派な家柄。それから御馳走を相伴するともいいますなあ」「聞きもせんこと、べらべらぬかすな」 吉田は怒りに震えながら、無理に唇をゆがめて嘲笑した。「さて、訓なら相棒、相弟子、相手……なんぼでもある。喜三郎なら相棒はスケボウ、相弟子ならスケデシと読むらしいのう」 生徒がワッと笑った。喜三郎もおかしくなってニヤッとする。そこで頭をかいて折れておればよいものを、そこはまだ子供、相手の立場や面子まで推し量れぬ。「ほんならお聞きしますけど、相撲ちゅう字は、ソウボクとしか読みまへんのけ。これをスモウと読むさけ、日本語はむずかしい。桧山騒動の相馬大作はソウマやけど、ドイツ医学の相良知安はサガラトモヤスでっしゃろ。ソウラシリアン(そら知らん)と読んでもろたらどもならん」 調子にのると止めどなくなる。吉田の額の青筋が怒張しているのも気づかず、雑学の知識を総動員する。「うらみわび干さぬ袖だにあるものを恋に朽ちなん名こそ惜しけれ……有名な百人一首の歌です。この歌の作者は、相模と書いてサガミと読む。よひのまに光にもたぬあわれかな人しずまりてむかふ月影……この歌人は藤原為相、タメアイとは読みまへん。為相は父が為家、母が十六夜日記を書きなはった阿仏尼……」 生徒たちは息をつめて両方の顔をみくらべる。議論の内容は理解できぬが、顔を土色にして教壇で立ち往生する先生の方が旗色がわるそうだ。教室はシーンとなり、本能的に次の先生の出方を恐れた。はたして机上でピシッと指示管が鳴った。「だ、だ、だまれ。生徒の分際で教師に反抗さらすか」 ――しもた、調子に乗り過ぎた、と後悔した時はおそかった。小柄の喜三郎は、襟首つかんで宙に吊り下げられていた。折檻の恐ろしさを思うだに、目の前が真っ暗になった。その時、誰かが言い出した。「タダアイかタダスケか、校長先生に聞いてみたらええがな」「そうじゃ、校長先生に大岡越前守になってもらお。どっちがほんまか裁いてもらお」「そやそや」 生徒たちは立ち上がって、吉田の制止もきかず、校長の名を口々に連呼する。ふだん情け容赦なく制裁を加える先生への反感がこもっていた。「助けてえ――」 教壇に引きずられながら、喜三郎も腹の底から叫んでいた。 この騒ぎに、出口直道校長が両袖に白墨をつけたまま隣室から何事ならんと走りよってきた。吉田先生の虎口を脱した喜三郎は、夢中で校長の胸にくらいついて号泣した。 喜三郎は無性に淋しかった。学校の帰途、小幡神社の境内に入って、石の階段に腰を下ろした。 校長は喜三郎に軍配を上げた。「君も少しは調べて、教壇に立ち給え」と生徒の目の前で校長に説諭され、吉田先生の面目は丸つぶれになった。 いくら先生でも間違うことのあるのは当然だ。鬼の首でもとったように、先生をとっちめた自分が恥ずかしい。つまらぬことで先生と争った自分の気の小ささを思い知った。 忠相の読み方を知らなんだ先生が悪いにゃない。国語そのものが悪いのや。あんなに無数に漢字があり、それぞれ幾通りもの読み方をもつ。複雑怪奇な読み方に気をとられておっては、より肝心な本質的な思考へとのびるべき力を消耗してしまう。生徒たちは、字を読み、書くだけで精一杯や。将来、漢字はどうしても制限せなあかん。それにけったいな仮名づかいは、言霊学にてらしても、外国はガイコク、関東はカントウと発音通りにすべきや。わしが文部大臣になったら、生徒たちのために、もっとわかりやすい国語に変えてこましたる。 喜三郎の心は昼間の事件から離れ、またもや果てしなく発展していくのだった。
 喜三郎は大いに反省したが、生徒の前で恥をかかされた吉田は、喜三郎への憎悪を露骨にあらわした。一字一句でも読み誤ろうものなら、容赦なく鉄拳の雨を降らせた。校長の留守を狙って太い麻縄で後手に縛り上げ、大きな算盤の上に正座させる。今日では考えられぬ虐待をあえてした。それが怖さに学校をさぼると、吉田から直ちに家庭に通知され、親父から折檻されるのは知れている。居眠りもあくびもならず、喜三郎は緊張した授業時間を送るのだった。 早春のある日、吉田は全校生を校庭つまり穴太寺の境内に集めて、体操を教えていた。たまたま隣村天川村の雪駄直しが、学校の前を、「直し、直し……」と呼びながら、とぼとぼと通った。吉田はその後姿を指さして、「ほれ、みい。いま喜三郎のお父上がお通りじゃ」 無心な生徒たちは、吉田の悪どい揶揄を、わけもなくおもしろがった。と、今度は学校の便所をさした。「ほれ、あそこに喜三郎さまの立派なお屋敷があるわい」 上田家の小さくみすぼらしい家は、なるほど学校の便所と比較されても不自然ではなかった。生徒は一層興がって囃し立てた。下級の生徒の中に、唇をかんでうつむいている弟由松の姿をみた。自尊心の人一倍強い喜三郎である。気がついた時は、夢中で学校の外へ走り去っていた。 真っ直ぐ家へ帰るには早すぎる。犬飼川の河原にしゃがんで、葦の茂みに身を避けた。 吉田が揶揄の種にした雪駄直しの爺さんは、天川村という未解放部落の人である。貧富の差については激しい憤りを持つ喜三郎が、もっと本質的な、人間自体に恐ろしい差別がついていること、人の努力をもってしても容易に打ち消せぬ十字架をおうて生きる人々が近くにいることを、いまさらに想った。わが父をそう呼ばれてみて、彼らの深い絶望や烈しい瞋恚の幾分なりと、初めて理解できる思いがした。 士族の優越をかさにきて、彼らを引き合いに出してまで父を侮辱し、私怨を果たそうとする。何たる卑劣。あんな奴を師と仰がねばならん生徒が哀れや。よし、奴にふさわしい返答をしてくれよう。 喜三郎の憤怒には、彼なりの公憤が後押しした。決意すると同時に実行手段がひらめいた。躊躇しなかった。 夕暮れの田舎道を、吉田有年は亀岡の自宅に向かって歩いていた。首を昂然と上げ、村人たちの挨拶には軽くうなずき返すが、子供たちの挨拶は無視した。小生意気な喜三郎が居たたまれず逃げ出したことが、吉田の胸を痛快にしていた。吾が担当の生徒を、いつか対等の位置において憎んでいる愚かしさに気づかない。 急に脇の小笹が動いて、さっとのびてきた棒が頬をかすり、腰のあたりに止まった。 すわ闇討ち――無意識に手をやった腰に刀はなく、べとりとした異様な感触と汚臭が嘔吐をさそった。「ぶ、無礼者――」 青杉垣の中から人糞をぬたくった竹竿片手に立ち上がったのは、喜三郎である。「無礼なんはお前の方やんか。これがお前の根性にふさわしい御馳走や。もっとやったろか」 喜三郎は竹竿を構えて嘲笑した。逆上した吉田は、我を忘れてとびかかった。が、小笹におおわれた溝に片足とられて、ぶざまにひっくり返る。起き直った時、喜三郎の影もなかった。 翌日、吉田先生の訴えで、喜三郎は校長室に呼ばれた。喜三郎の抗弁を聞いて、校長は渋い顔になった。にらみ合う二人を待たせたまま、校長は学務委員の家へ出かけて協議したが、帰ってきて断乎として宣言した。「上田喜三郎はいやしくも師に糞をかましたる罪、言語道断や。退校を命ずる」「当然です」と、吉田はうそぶいた。「次に吉田君だが、本日限り免職とする」「そ、そんな……」とうろたえる吉田に、校長はきびしくなじった。「生徒をここまで追いつめたことは君の責任や。学問上の恨みを学問でへこますならまだしも、生徒の親をいやしめて鬱憤を晴らすなど、教育者の風上にもおけん」「し、しかし……」 喜三郎が横から口を出した。「吉田はん、あきらめなさい。喧嘩両成敗や」 水のみ百姓の小伜が士族と相討ちである。退校もまた嬉しかった。これで幼稚な授業から公然と解放される。 喜三郎は、感謝をこめて校長に頭を下げ、さっさと出ていった。
 退校について、喜三郎は父の叱責をまぬがれた。校長から退校に至る説明があったし、いつも兄にたてつきたがる弟由松が吉田の不法を訴えたからである。吉松は、叱るどころか、一人で悪侍と闘った勇敢な行為をほめ、自分が知っていれば肥桶かついでも応援に行ったのにと言わんばかりの口ぶりであった。三年でも学校へやったのだから十分である。しかも退校になってくれたおかげで、宇能に気がねなく、息子と朝から晩まで野良で働けるのだ。 数日たった。遊びから呼び戻されて帰ってみると、父の前には、校長と学務委員の斎藤弥兵衛が坐っていた。斎藤は、羅宇の煙管をぽんと灰吹きに叩くと、「さて、喜三郎。吉田君がやめて先生が手不足になった。そこで校長から教員の補充を頼まれたんやが、誰彼いうより、いっそお前を代用教員に採用したらと思うのや」「へ?……」「給料は二円。吉田君は三円やったが、君は代用やさけ一円やすい。それでも今まで授業料はろとったんやから、出入り勘定はえらい違いや」 出口校長も笑いながらつけ足した。「そもそもこの事件の発端は、大岡越前守忠相や。そこで学務委員はんに裁いてもろたんやが、喧嘩両成敗で二人を処分した上で、知識の勝る喜三郎を先生に推薦しなはった。大岡裁判以上の名裁判やと思うがのう」「へえ、ほんまですなあ。ありがたいこってす」と吉松は、たわいなく相好をくずして相槌を打つ。斎藤は満足そうに、「どうや、引き受けてくれるか」「へえ、受けます、受けます」と、喜三郎は答えながら、「先生」、「月給」、「立身」といった蠱惑的な言葉に脳髄をくすぐられて、知らずに涙ぐんでいた。 わずか数えで十三歳、小学校中退ですぐに代用教員になることなど現在ではあり得ないが、当時としても稀有の例であった。小学校教員養成のためにはすでに師範学校があり、教員の資格は、「小学校教員は年齢二十歳以上の師範学校または中学校卒業の者、中学校教員は二十五歳以上の大学卒業者をもってあてる」との規定がある。いかに代用とはいえ、勇断のいる処置であった。 学務委員の斎藤弥兵衛はこの年六十四歳。慶応四年の宗旨人別帳によると持高二十三石六斗六升八合六匁、村で有数の豪農である。なかなか奇骨があり、時にこういう皮肉な処置をとる人物であったと言われる。 この時、西条の原田という地主の息子で偕校小学校の優等卒業生が、もう一人の代用教員候補であった。原田の父兄が早くから学校に働きかけていたが、あえて喜三郎の採用に踏み切ったのである。 吉田は月給三円を棒にふり、喜三郎は二円を得た。当時の米価は亀岡で一石三円十二銭、石油一斗二十銭以下、十三歳の喜三郎にとっては非常な高収入である。ちなみに出口校長の月給は五円であったという。
 初めての登校の日、家族は塩いわしの尾頭つきで、喜三郎の門出を祝った。父の古い紋つき羽織を深く肩上げし、これも裾上げした袴をつけたが、それでも大きすぎて珍妙だった。家族全員が門口まで新先生を見送った。宇能は孫の晴れ姿をうっとりと眺め、世祢はもろくも涙ぐんでいた。世祢は両手に幸吉と二歳になった雪の手を引いていた。羽織袴ばかりのような兄の後を、得意げに由松がついて行った。 校長にうながされて登壇すると、生徒たちは自分らと年の違わぬ豆先生の出現に湧き立った。こないだまで席を並べていた喜三やんである。教える方も教わる方も気恥ずかしい。が、やがてそれにも慣れてくると、学校は楽しい学びの庭になった。 喜三郎の授業は生き生きと面白かった。居眠りも脇見もいたずらも忘れて、生徒の視線は熱してくる。恐ろしい先生の代わりに、おもろい先生、気楽になんでも聞ける先生が教壇に立つ。欠席児童も減った。生徒の質問に、豆先生は当意即妙に答えた。その答えぶりがユーモラスでいて、つぼにはまっている。時にむずかしい質問に立ち往生すると、あっさり兜をぬいだ。「そんなこと、わしゃ知らんで。明日調べて教えてあげる」 喜三郎は、背のびしても黒板の中ほどまでしか字が書けぬ。生徒の中には、喜三郎より年上の者も、背丈の高い者も何人かいた。のっぽの一人がすすみ出て、喜三郎に背を貸した。生徒におわれて白字をしるす豆先生は村の評判でもあった。 機織工場の女工たちが通るのを窓越しに見ると、喜三郎は授業を忘れて窓際へ走り寄った。「ええぞ姐ちゃん、よう別嬪――」 女工たちは面白がって手を振る。 天衣無縫の豆先生に生徒たちの人気は集中した。 職員室備えつけの百冊ばかりの図書が自由に読めることは、何にもまさる恩典であった。この特権だけでも、先生になった甲斐がある。古典・歴史・教育学・郷土史・文学・翻訳物もあった。喜三郎は、夢中になって勉強した。職員室の本だけではあき足らず、親に手渡す月給の中から少しずつ引いて、本を買って読んだ。亀岡の宮部貸本屋で講談本なども借りた。 夜は灯油を惜しまねばならぬ。夜の白むのを待って読んだ。時には小幡神社の化け燈篭の灯にかざして、夜を徹して読みあかした。喜三郎にとって、教え学ぶ一刻一刻が矢のように飛び去るかに見えた。
 明治十六年も押しせまったある日、持丸長者と村人に呼ばれる丸山利一が上田家を訪れた。年は三十八、九か、ちぢれ毛の見るからに尊大ぶった男で、ぱりっとした洋服からも上田家の客には似つかぬ。 丸山利一が上田家を訪問したのには、もちろん魂胆があった。「この家には円山応挙の下絵がぎょうさんあるそうやのう。わしも絵が好きやさけ、いっぺん見せてくれや」と利一は切り出した。 吉松は世祢に命じ、古長持ちをあけさせ、誇らしげに収めてあった多くの画を取り出して見せた。利一はそれをさして興味もなさそうにぱらぱらとみて、間もなく辞した。相手の感激を期待していた吉松は、客が帰ってからもしばらく不機嫌であった。 数日後、再び訪れた利一は、卑しい眼で言った。「こんな書き損じの反古、長持ちの底で紙魚に食わせとくのも、考えてみればもったいないのう。なんならわしが全部まとめて買うたってもええけどのう」「……」「五円もありゃ、米が一石五斗も買えるわい。こんな反古で、正月は子供らに餅がたんと食わしてやれる。ええ話やろが……」 吉松はむっとして答えた。「せっかくやけど、売る気はおへんのや」「五円では足らんのかい」 吉松の癇癪は爆発した。「お、俺はのう、御先祖はんの書き残しなはった絵売って餅買うほど、落ちぶれてまへんわい」「そうかてこんな書き損じの反古、お前んとこで持ってても……」「これはのう、金剛寺はんの襖絵の下絵やら習作やら、応挙はん苦心の勉強のあとやそうな。ほ、反古と言われて売るぐらいなら……」「そやから、なんぼで売るのや」「う、う、売るかい。こうするのじゃ」 吉松は応挙の下絵を一つかみすると、囲炉裏に投げこんだ。利一はうろたえて拾い出そうとするが、たちまち炎を上げる。再び吉松がつかみ出そうとすると、小学校から帰宅した喜三郎が、驚いてしがみついた。「どうしたんや、父さん……」「こいつが応挙はんの絵を反古やとぬかしくさって……しかも貧乏人やとあなどって、全部で五円で売れじゃと……」 すべてをのみこめた喜三郎は利一をじっと見た。人の魂まで見すかすような眼であった。「すんまへんけど帰っとくれやす。ここにおってもろたら、大事な応挙はんの絵、みんな灰になってしまう」 利一はぶつくさ言いながら、帰るほかはなかった。だが丸山利一は応挙の絵をあきらめたわけではなかった。それからも応挙の絵を手に入れようと、再三再四、人を介して値を吊り上げてきた。頭からことわると、今度は喜三郎を養子にほしいと言ってきた。大学に入れて絵も勉強させ、応挙はんの立派な跡継ぎにさせてやると言う。うるさくてたまらず、吉松は大喧嘩の末、ついに絶交してしまった。「息子の金一もいるくせに、なんで上田家の長男をほしがるのやろ。持丸長者が水のみ百姓の伜をほしがるのは、なんぞ深い魂胆があってのことに決まっとる。なんせ奴は三百代言(弁護士の蔑称)やさけのう」と吉松は、いぶかしがるのだった。
 明治十七(一八八四)年春、上田幸吉は、数えで六歳。まだ学齢に達しなかったが、二人の兄について小学校へ行きたいと思った。ある朝、喜三郎の袴をにぎって、駄々をこねた。由松が怒って、幸吉を叩いた。叩かれながら唇をへしまげて袴をはなさぬ幸吉を抱き上げて、喜三郎が言った。「学校へ行ったら、兄さんの言うこと、よう聞けるか。おとなしゅう坐っとられるか」「うん、そうする」「よっしゃ。ほな連れてったろ」 喜三郎は幸吉を肩車し、由松の手をひいて登校した。小使い兼書記の亀やんが声をかける。「喜三やん、この子、なんぼや」「六つや」「六つでは学校へこれんのやがなあ」「分っとるけどのう、学校へ来たがってしゃあないにゃ。どうせ椅子もあいとるし、おとなしゅうさせるさけ頼んまっさ。校長はんには、わしからよう頼むしのう」 幸吉は等外の席を与えられ、憧れの眼で兄の豆先生ぶりを見上げるのだった。 喜三郎がうまく学校側に話をつけてくれ、その日から幸吉は人より一年早く通学した。いつも兄の肩車の上であった。雨の降る日も、幸吉は傘をさしかけて肩車してもらう。おかげで由松は兄の本の包みを持たされ、ふくれ面で従うのだった。 九十八歳の長寿を保った幸吉翁は、はるかの昔日をしのんだものである。「兄さんに教わって、いまでも覚えとるのは〃ういまなび〃の一節や。〃人にかしこきものとおろかなるものありき、かしこき者は世にもちいられ、おろかなる者人に捨てられること常ならば、幼児のときよりよく勉強すべし〃。それから習字は〃名頭字〃。近頃もの忘れが多うて、ちょっとは違うかも知らんが確か……源平藤橘・矢善孫・宗彦・右衛門・左衛門・祐上兵衛・幾安正権亀徳格篤……」
 この夏、ころんだ拍子に、喜三郎は額を打った。いかなる生理現象のなせるわざか、その時にできた瘤がむくむく育ってグイ呑みを伏せた形となって、おでこの中央にどっかと治まった。いっかなへっこまなかった。綽名の好きな村人たちは、さっそく瘤喜三先生とか喜三瘤なる名を呈した。生徒たちまで囃したてた。「ヤーイ、ヤイ、喜三やんこけても鼻うたん、でこちん瘤が突っかい棒――」 たかが瘤一つのために、授業中すら気の散ることおびただしい。生徒にすれば親愛の情の披瀝のつもりでも、まだ少年の喜三郎は激しい屈辱を感じた。 帰宅後、喜三郎は鎌を研ぎすまし、恨み重なるわが瘤にあてがい、一気に切り落とした。世界が紅になった。大量に流れる血の中で卒倒している孫を、宇能は見つけた。喜三郎は三日間起きられなかった。 瘤のない喜三郎先生の登場に、生徒は目をみはった。にわかに消えてなくなった瘤の行方は、子供らの関心の的となった。授業も上の空で、豆先生の額の生々しい傷あとに注目し、当て推量に余念ない。もて扱いかねた長い「鼻」を突然平凡な代物にした禅智内供の心境を、喜三郎もまた味わわねばならぬ。 喜三郎の後から就任した坊主上がりの山本先生は、喜三郎の人気を妬んでいた。この時とばかり、瘤取り爺さんの昔話を生徒に聞かせた。 生徒は喜んだ。「ヤーイ、ヤイ、鬼にとられた喜三こぶ、鬼にとられた喜三こぶ」 生徒らに他意のないのを知りながら、同じ年頃の少年喜三郎には我慢ならぬ。声がわりし始めたごつい体の生徒もいる。先生の肩書きがなければ、遮二無二組みついていくところである。それをぐっとこらえて教員室へ戻ると、山本が渋茶をすすりながら声をかけた。「上田君は毎朝小幡神社に参詣しとるそうなのう。ちっとは御利益、もらえるこ」「御利益ほしゅうて拝むにゃない。拝まんとおれんさけ拝むのや」「瘤一つへっこめれんような神さん、拝んだかてしゃあないやんか。結局は自分で除らなあかんわけや」 山本はからんでくる。喜三郎は無視して本を開いた。職員室には校長の姿はなく、小使いの亀やんがのんびり煙草を吸っているだけである。「神道なんて宗教やあらへん。愚昧低俗のやからの迷信に過ぎんわい。どうや、上田君……」「迷信かどうか、ぶつかってみんとわからん。本読んだだけでは納得でけんこともあるし、わしは神さまからじかに教えてもらうつもりや」「神さまなんてこの世にあるかい」「仏教では神霊の存在を認めんさけのう。しかしわしは、ちっちゃい時から、神の存在を魂で感じとる」「駄法螺を吹くな。穴太には金剛寺もあれば穴太寺もある。みな立派な伝統を持つ郷土の文化財や。誇りや。それを忘れて神さんぼけもほどほどにしとけ」「仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代になってからや。けど日本には、もっと古来から惟神の道というもんがある。神道を無視する奴とは、共に国体を語れんわい」「ふん、小学校も卒業できん代用教員のお前に、何が分るい。ええか、日本の文化を生み、日本の精神界を指導してきたのは何や、みんな仏教やないか」「今まではのう。そやさけ日本の国は神を忘れて堕落したんじゃ。けどこれからは違うで。日本古来の神は生き続けて、かげから日本を守護してきた。今までは、その神と一体になり、力を発揮する人物がおらなんだだけや」「これからは、おる、ちゅうのか。ははは……まさか君がそれになるとは……」「なるかも知らん。とにかくわしは、ちんと悟りすました仏になるのは御免じゃ」 穴太は仏教崇拝の盛んな地で、神道信仰といっては殆どない。言霊学者である叔父孝道の流れをくむ宇能に幼少から薫陶を受けた喜三郎は、産土さまを心のよりどころとして育ってきた。妙霊教会本部で受けた印象も忘れがたい。確としたものでなくとも、ムード的に喜三郎は神道派である。一方の山本は、小坊主の頃から仏教になじみ学んできた。二人の論争は、蘇我馬子と物部守屋の衝突を縮小したような険しいものになっていた。 神仏論争となると、神道には仏教ほどの高遠な哲理はない。しかも仏教を専門に学び年輪を重ねた山本相手では、どうしても年少の喜三郎は受け太刀になる。ようやく時間切れ引き分けにしての帰途、生徒たちがみつけて遠くから囃し立てる。「ヘーイ、鬼にとられた喜三こぶ……」 その夜、喜三郎は寝つけなかった。山本との論争はいたずらに議論のための議論に空転し、後味の悪いものであった。自分の内容の空虚さが悔やまれた。今後の山本との間の溝はきっとますます深くなるだろう。瘤のことで生徒に威信を失墜したのも、彼の自尊心を傷つけていた。教員生活にふといやけがさした。 ――このまま一生教員で過ごす気か、と自問自答した。小学校卒の学歴すらない喜三郎には正教員の資格をとることも容易でないし、正教員になってもたかが将来は田舎の校長に過ぎまい。夢はもっと大きいはずだ。何よりの魅力であった教員室の本はもう読みつくしていた。 翌朝、げんこつ覚悟で、父におそるおそる切り出してみた。「父さん、わし、学校やめよと思うとるんやがのう」「また何かやらかしたんか」 吉松は顔をこわばらせた。喜三郎が、切りとった瘤の悩みやら神仏論争のいきさつまで在りのままにぶちまけると、吉松は思いのほかあっさり言った。「何も先生だけがお前に向いた仕事やないやろ。お前の年で人さまに教えるのはまだ無理や。好きなようにせえ」「やめたら月給もらえへんで」「あたり前や。そのかわりお前も気を入れて百姓になるやろ」「うん」「二人で馬力つけて働いてみい、なんとか食うぐらいのことはでけるわい」「よっしゃ、明日辞表出してきたる。父さん、わし、百姓に精出すで」 喜三郎の教員生活は、まる一年余で終わった。
 二円の給料を棒にふった日から、生活の窮乏は押し迫ってきた。わずかの小作田を耕すだけで七人家族の腹は満たぬ。その上、世祢は五番目の子を身ごもっていた。 百姓のかたわら、喜三郎は醤油のふり売りを始めた。東の辻の斎藤作兵衛方で醤油を卸してもらい、それを口丹波の村々に売り歩いた。持ち前の愛矯と機転で、たちまち得意先がふえた。 なんせ台所の主婦相手である。評判の豆先生上がり、まだ少年っぽい外貌に似ぬませた口調で、諧謔は口をついて出る。それに気さくで誠実であった。喜三郎が勝手口から声をかけると、待っていたように戸をあけてくれる。製造元の斎藤作兵衛も「こんなによう売れたら、ごつい身上残すぞ。喜三やんはふり売りの名人やのう」と驚くのだった。 が、困ったことがあった。天は二物を与えずである。喜三郎は才能を発揮して売りまくったが、掛売りが多く、代金の回収がいたって下手であった。下手というよりも、貧しい家の台所具合がみえすくだけに、一銭二銭を押して要求する気になれぬのだ。いくら醤油がさばけても、ただ呉れてやるという結果では――。「父さん、あかん。勘定合って銭足らず言うやっちゃ」 算盤はじきながら、喜三郎は溜め息をつく。非情に銭を取り立てる商人にはなりきれぬ自分を思い知るのだ。


表題:久兵衛池事件 1巻4章久兵衛池事件



  明治十八(一八八五)年、商売をあきらめ、十五歳の喜三郎は南隣の斎藤源治の家に奉公した。いわば下男兼秘書格である。元小学校の先生を雇用して、源治はいささか肩身を広くした。 斎藤家は村で屈指の豪農である。上田家の場合とその持高を比較してみよう。 慶応四(一八六八)年の丹波国桑田郡穴太村宗旨人別帳によると、禅宗金剛寺の檀家の持高が知れる。これによると、金剛寺檀家の高持百姓(検地の上で土地保有が公認された百姓)八十七戸、持高合計約五百四十石に対し、上田家の持高は三斗一升四合。持高一石に満たぬ貧農二十五戸の中に属している。これに対し斎藤源治六十三石、一族の斎藤嘉兵衛六十石。上田家の持高は彼らの二百分の一である。 さらに喜三郎の奉公した当時の地価割・戸数割村費負担額(半年分)は、上田家七銭四厘に対し、斎藤源治は四円五十四銭、六十余倍である。また穴太村の「戸別差別帳」によると、百二十三戸を十三組(七四七〇点)に分けているが、斎藤源治一族が上位三組(二二〇点・全体の約三割)を占め、十二組以下の救助を要する貧民は三十六戸。上田家は底辺のすれすれ十一組に属しているが、この狭い村内でも、貧富の差は歴然である。 穴太寺正門から北に向かってのびる村道を二丁ばかり行くと、犬飼川に斜めにかかる小幡橋にぶつかる。橋を渡ってたもとを下ったところが小幡神社。神社に沿って左に折れると、道に面した右手に白壁の築地をめぐらせた門がある。(現在この門は、奥へ十米ほどひっこんでいる。)これが斎藤源治の屋敷である。喜三郎は、門わきの六畳の一室をあてがわれていた。 門を入って東に五つ間の離れがあり、隠居の直子が住んでいる。その裏手に白壁の土蔵、つづいて納屋。毎年、盆踊りの櫓が立つ広い庭をはさんで西に米蔵が二つ。楠の大木がそびえ立つあたりにやはり築地で仕切った西門がある。西門をとび石づたいに入ると、座敷に面して、根本から裂けたように二つに分かれた肉桂の大木。西の端には、撫子の家紋入りの煉瓦をふいた別棟に香り高い楠造りの湯船をすえた上湯殿、並んで上手水、客用である。 ほかにまだ当家自慢の蔵があった。母屋の北西いぬいの隅に渡り廊下でつないだ明智蔵である。明智光秀の建てた蔵を亀山城からいつの頃か移転したという。めったには開けぬ。一抱えもある幹を丸ごと組んだような梁、うっすらと埃をかぶりながらつややかに底光る床、木目のこまかい見事な材である。 喜三郎は一、二度、主人の供で入ったことがある。分厚く重い二重の土扉をひいて、内側の網戸をあける。薄暗い階下は、足の踏み場もないほどの家具だ。蔵の二階を上がると、ほとんどが書類庫である。代々、当主は庄屋をつとめてきたという。明治以前の村内外の記録・文献・和綴本。それに光秀時代の書きつけというのが束になって虫除けに天井からぶら下がっている。 思わず手を出しかけて、喜三郎は主人の源治にどやされた。「あほう、わしもまだ見せてもろとらんのや。婆さんの許しなしにはのう」 義母の直子がこわいらしく、その声に真剣味があった。それでも源治は、この蔵がよほど自慢とみえて、たかが奉公人に説明の労をいとわぬ。「この蔵にはのう、はめこみの隠し箱がなんぼかあって、昔は小判がつまっとったんやて。まだどこかにあるやろ」 と言いながら、喜三郎に手燭をかざさせ、床のつぎ目を探して這った。北べりの屋根葺きのとき、瓦屋根の下から和紙にくるんだ槍の穂先が出てきた話もしてくれた。金箔が塗ってあって、少しも錆びてはいなかった。文禄二年と彫ってあったそうな。魔よけに刀や槍を棟にひそめる習わしがあったのだろう。 この屋敷は、穴太寺の本堂を建てる時、木材が揃うまで遊んでいた大工が建てたものという。穴太寺は光秀の戦火にかかって焼失以来、四代かかって享保六(一七二一)年に完成した。喜三郎は、改めて斎藤家の家柄の古さを思うのだった。 玄関脇の間口は古風な揚げ戸であった。縄をたぐると、ごろごろとコマの廻る音が家内に響く。冷たい夜明けの空気が土間にとびこむと同時に、喜三郎の一日が始まる。喜三郎の仕事は、農耕のひまに帳簿の整理、手紙の代筆、村の寄合いの代理出席と息つぐ間もない。下男としてより秘書役としてまことに重宝である。が、更に重要な役目があった。他出する源治のお供である。 主人は二人の小女に見送られ、二重廻しに山高帽で門を出る。背がすらっと高いから見ばえがする。その後から、さも用ありげに大きな鞄を持った喜三郎がついて行く。目あては決まっていた。いつでもころぶ達磨芸者を二、三人抱えた亀岡の料亭である。 斎藤源治は養子であった。養母直子と家つき娘たいという煙たい存在があった。嘉永元(一八四八)年、直子は篠村の豪農隅田家から、定紋入りの駕篭に揺られて嫁に来た。その駕篭は今も蔵に保存されている。ほっそりした評判の美人であった。物静かな老婆だが、源治はなんとなく頭が上がらない。一人娘たいは母に似ずぽってり肥えていて、気も強い。お蘭、お栄の娘二人を産んで三十四歳の年増盛り、嫉妬も激しかった。 四十を過ぎてようやく、源治は義母と妻の目をかすめて茶屋酒の味を覚えた。さいわい彼は村役であり、よんどころない宴会に秘書をつれて出る。という口実を得た。喜三郎は、主人の身の潔白を証明すべき貴重な存在となった。 鼻の下をのばして酒盃を傾ける源治の膝の左右にはなじみ芸者が二人、しなだれかかっている。下の帳場では、喜三郎が婆さん仲居相手に、茶をすすりながら歓楽の果てるを待つ。 明け方近く、酔いどれて足もと定まらぬ主人を人力車にかつぎ上げ、尻をはしょって一里の田舎道をひた走る。車に揺られて高鼾の酔っぱらい、その車をひく人力車夫、護衛犬よろしく主人を守って走る下男、世はさまざまだと思う。 斎藤家の門前に車がぴたりとつくと、源治は酔眼をかっと見ひらき、肩を張り、足元を踏み固めつつ門をくぐる。時にはたいが起き出してきて、腫れぼったい瞼を上げて夫の体を調べるようにくまなくかぎ廻る。やっと女房の関門を逃がれて寝間に入るや、源治は再び前後不覚に寝こんでしまう。主人の帯をとき、足袋をぬがせて蒲団に無事収めるのが、喜三郎の最後の仕事となる。 主人と奥方の間にはさまれた喜三郎の立場は微妙である。たいは喜三郎に小遣いをにぎらせ、すかしたりおどしたりして夫の行状を聞き出そうとする。だが主人の信頼を裏切るわけにはいかぬ。なんとかその場をつくろいながらも、濡れた下着をつけるように、後ろめたさがへばりつく。主人に乱行をそれとなくたしなめると、「お前はいつからたいの犬になった」とたちまち機嫌を損じる。一家の実権はたいにあり、直接の主人は源治である。忠ならんとして忠ならぬ主取りの辛さを十五歳にして味わった。 田から上がって牛の飼葉をやり、暮れ方の納屋で藁を打つ。テントンテントン横槌の音が響き渡る。埋めこまれたお供え餅のような丸い石に藁束をあてがい、片手でまわしながら木槌で叩くのだ。と、きまって蘭が入ってくる。 蘭は源治の長女で十二歳、ついこの春までは喜三郎の教え子であった。妹栄は七歳。この姉妹のほかに、馬路村の士族中川左久二の四男与四郎がいて、京都に下宿し、斎藤家の費用で中学校に通っていた。当時、子弟を京都の中学校に通わせるなど、穴太のような小さな農村では大変な出来事であった。まして他人の伜である。が、源治夫婦の腹は、士族の血を引く与四郎に学問させ、ゆくゆく養子にして娘蘭とめあわせ、斎藤家の跡目を相続させることであった。与四郎は喜三郎より一つ年少の十四歳、いかにも坊ちゃん風であった。 親の心子知らず、蘭は喜三郎のそばばかりいたがる。向き合ったもう一つの石の前に座をしめて、蘭も藁を打つ。木槌合奏が冴えて藁の甘いにおいの中、無言で交わし合う瞳が笑んでいる。 夕食後の一時、門脇の下男部屋を、読本片手に蘭が訪問する。殺風景な部屋の隅には蒲団がくるくる丸められ、真ん中の小さな黒塗りの小机の上には、読みかけの分厚い本がのっている。「喜三やん、勉強おしえて」「与四郎はん、休みで帰ったはるにゃろ。中学生やし、あの人に教わったらええがな」と、喜三郎が言う。「いやや。なんぼ中学生かて、学問は喜三やんにかなわん。喜三やんはうちの先生やもん」 それはそうに違いなかった。年より大柄で早熟な蘭は、教え子の頃から豆先生に傾倒していた。「しゃあないな。こっちへおいで」 喜三郎は苦笑して座をずらす。机は可愛いほど小さかったから、行燈の灯に寄せ合った膝がふれる。憧れの先生を独占して、蘭のふっくらした白い頬が上気している。
 明治十九(一八八六)年初春、思いがけぬ難題が上田家を襲った。夜なべ仕事に、喜三郎は土間で草鞋を作っていた。村の有力者が続々と斎藤家に集まってくる。今夜の寄合いは秘書格の喜三郎を必要とせぬのか、源治は何も言ってなかった。 酒が出て献酬の一わたりすんだ頃、村役の斎藤軍吉が口をきった。「さて、例の久兵衛池の一件や。どうでも吉松に埋め立てを中止させんなん。今夜はゆっくり相談にのってもらうで」 喜三郎に筒抜けの傍若無人の高声が、続いて乱れとぶ。相談は容易ならぬ方へ傾いて行く。裏鬼門の久兵衛池は代々上田家に祟ると妙霊教会の岸本勇助が言ったが、喜三郎に続いて、最近になって幸吉まで溺死寸前になった。喜三郎、由松、幸吉の下に五歳の長女雪、昨秋生まれた四男政一がいる。上田家代々七人の女をのんだという魔の久兵衛池が、いつまた雪や政一の小さな生命を奪うかも知れぬ。ついに吉松は久兵衛池の埋め立てを考えたのである。多くの田地があった頃はその用水源として存在価値があったが、わずか三十二坪の田しかない吉松の代には、ほとんど無用の長物であった。 この計画がもれると、村内が騒然となった。寺西平助という男がまず横槍を入れてきた。「この池は村の物や。勝手に埋めたら承知せんぞ」「村の池?」と、吉松は不思議そうな声を出し、「久兵衛池は、この通り上田の屋敷内にある。先祖の久兵衛が、上田家の田に水をやるために掘った池や。それがなんで村の池じゃい?」「そうかも知れんけどのう、日照りの時には、わしらも先祖代々この池から水を引いとった。長いしきたりや。だから上田家の池であっても村の池と同然や。お前の勝手にさせるかい」 吉松は逆上した。「お前ら、代々うちの池の世話になりながら、感謝するどころか、その言種はなんじゃい。他人の田より我が子の生命の方が大事や。埋めるいうたら埋める。かもてくれるな」 吉松の勢いにのまれて引き下がるなり、寺西平助は八田鶴之助、岡本石松その他十人ばかりの同志を集め、村役や地主たちに躍起になって働きかけた。 喜三郎もこの経緯は知っていた。鬼門・裏鬼門について真剣に取り組んだ時もあった。しかし危険な池なら柵で囲むなり他の方法を講ずるなりして、どうでも埋めねばならぬとまでは思っていない。「癇癪もちの父さん、また意地にならはったな」ぐらいに考えていたのだ。が今、草鞋を作りながら聞こえよがしの協議を聞くうち、若い血が憤激に煮えくり返るのだった。「吉松がどうでも池を埋めるぬかすにゃったら、こっちも困らせてやるこっちゃ」「けど、どないするねん」「ど甲斐性なしのくせして、餓鬼ばかりうじゃうじゃこさえて、おまけに年寄もおる。吉松なんてちょろこい、ちょろこい。まず小作田を取り上げてみい、いっぺんに泣きを入れてきよるやろ」「こんなんはどうや。上田家の敷地を実測したら、登記面より二十四、五坪多いそうな。そやさけ、あの池の地所は村の物やったということにしたら……」「ふんふん、そら取り上げるのにええ口実やのう。素寒貧の上田のこっちゃさけ裁判所へよう訴えんやろし、訴えても文字の読めぬ吉松には手も足も出んやろ。たった一畝足らずの池のために、家屋敷まで潰して村から逃げ出すのは目にみえたる」「村中調べたら、あいつに金や物を貸しとるのんも大分あるやろ。その連中にすぐに督促させて、一泡吹かしちゃれ。それでもあかなんだら、いよいよ村八分や」「そやそや。うちとこでも味噌を貸しとる。善はいそげや、手分けして今夜からでも実行にかかろけえ」 千鳥足の上機嫌で帰る彼らの背に、腹にすえかねた喜三郎が門口まで追って出てわめいた。「お前らの悪だくみは全部わしが聞いた。聞き捨てにはせんぞ。こん畜生、わしの尻でもなめくされえ」 下男如きの捨て科白など相手にせんと言わんばかりの高笑いを残して、彼らは遠ざかった。蘭はいきり立つ喜三郎に寄りそい、味方になって智恵を貸すつもりで囁いた。「喜三やん、阿呆やなあ。尻なめえやのうて、言うんやったら尻くらえやで」「そない言うて、ほんまに尻にくらいつきよったら痛うてかなわんやろ。けど嘗められるのやったら、こっちの尻がきれいになるばかりで、損いかへん」「ふーん、ほんまやなあ」 蘭は感動した声を上げる。 源治は興奮する喜三郎を呼びつけて、やんわりと言い聞かせた。「喜三郎、まず落ち着いてよう聞けよ」 源治は喜三郎が秘書役の時は「上田君」、下男役の時は「喜三公」と無意識に呼び分けていた。だが今度の場合、そのどちらでもなかった。「大体の事情は聞いた通りや。吉松は隣のよしみもある。それに息子のお前とは主従の縁も結び、同じ釜の飯を食っとる仲や。どうぞしてお前ら親子の力になっちゃりたいけど、村の衆があの剣幕ではどもこもならん。吉松がこれ以上意地はると村全体が仇ンして、事態はますます悪うなる。吉松は無智な男やけど、お前なら損得がわかるはずや。分別のあるお前が家に帰って、吉松によう得心さしてやってくれへんけ」「へい、長い間お世話はんでした」「それ、どういう意味や」「今夜限り、暇もらいまっさ」「なんやて?  何もわしは、お前を首にする言うてへんで。せっかく親切に忠告したっとるのに……」「おいとくなはれ。村中寄ってたかって弱い者いじめさらす気なら、父さんが折れても、わしがへっこみますかいな。正義を楯に、わしは討ち死するまで戦います」「こら、喜三公。お前、主人の命令が聞けんのか」「暇もろたら主人も家来もおますかいな。斎藤はん、失礼します」 昂然と胸を張って、喜三郎は刃向かった。若いヒロイズムに酔っていた。 門脇の部屋で荷物をまとめていると、蘭が事情を知って、涙をこぼしながら止めに来た。「喜三やん、行ったらいやや。どこへも行かんといて」「行きがかりやもん、しゃあないわい」「うち、喜三やんが好きや」「そやかて、お前の親父が……阿呆、お前、まだ子供やんか」 おでこを一つ軽く小突くと、それ以上蘭の相手になる余裕もなく、風呂敷包み片手に喜三郎は斎藤家をとび出した。 吉松は喜三郎の顔を見るなり、血走った眼を上げた。「喜三、えらいことになった。今度の経緯、お前も聞いたけ」「聞いたさけ、暇もろうて帰ってきた」「え、お前まで暇出されるとはのう」「違うで。こっちから追ん出てやったのじゃ」 怯えている母や弟妹の蒼い顔を見廻して、喜三郎はうそぶいた。 宇能は寝ていた。家族は耳の遠い宇能には事情を説明せず、心配させまいとしていた。 吉松が悲痛な声を出した。「夜になってから、あっちこっちから厭味いうて借金取りにくるし、小作田を取り上げるいうておどしにきよる」「早いこと手え廻しやがったな。父さん、負けたらあかんで」「分かっとるわい。こうなったら、一家乞食してでも池は埋めちゃる」 口では勇ましいが、貧しい小作農の身で村八分になって生きねばならぬ苦しさは、想像に余る。それだけに、思わずもらした呟きには実感がこもっていた。「ほんまに祟りの池やのう」 ものもいえず涙ぐむ母の動揺も察して、喜三郎は居たたまれない。その夜のうちに、亀岡の岩崎家へ援兵を乞いに走った。深夜たたき起こされた伯父も伯母も事情を聞いて憤慨した。「貧乏人やと思うて、なめてけつかるな。ようし、思い切って喧嘩せい。万一の場合は、岩崎家でお前らの骨は拾ってやる」 伯父がはっぱをかけると、伯母ふさは蝋燭をともして庭に下り、小さな稲荷の祠に向かって拝した。「どうぞどうぞ上田家存亡の危急をお救い下さいませ、南無稲荷大明神……」 ふさは岩崎家に嫁いでから、熱心な稲荷信者になっていた。よい機会とばかり稲荷信仰を押しつけられてはたまらぬ。早々にとび出しながらも、八方敵ばかりの中の伯母一家の声援は、喜三郎の胸を熱くしていた。 帰りの道すがら、小幡神社の境内に下り、凍えた石畳にひざまずいた。この時刻にここで幾十度となく祈りをこらしたが、神助を乞う目的のある今、奏上する祝詞の声もはり詰めて夜気をふるわせる。祈り終わって見上げる樹の間に、三つ星が深い輝きを見せていた。 翌夕、久兵衛池埋め立ての件について、金剛寺広間において総寄合いが開かれることになった。その触れがきて間もなく、喜三郎の姿が、穴太からぷいと消えた。「喜三郎はどこ行きくさった。かんじんの寄合いの日に……」 家族の誰も知らなかった。相談相手を失い、吉松がおろおろして聞いて廻った。「とうとう喜三やん、穴太に居たたまれんと逃げ出しよったで」 たちまち村内に噂が広まった。 定刻、金剛寺の広間には、村内百二十余戸に及ぶ戸主が、一人残らず集まった。須弥壇を背にした上座に斎藤軍吉・斎藤源治・上田忠治ら村役・大地主の旦那衆がゆったりと居流れる。二間ほどの空間をへだてて向き合った下座に、吉松が置かれた。日頃は対等に口もきけぬ「偉いさん」に睨まれて吉松は心臆し、蒼ざめた顔をよう上げぬ。小地主や小作人たちは肩をすぼめて詰め合い、あふれて広縁にまでひしめいた。「ぼつぼつ始めよか」 地主たちにとって、結論は決まったようなものである。余裕をみせて斎藤軍吉と亀岡芸者の噂に興じていた源治が、一座を見廻した。吉松は逃げ出したかった。 ――何もこんなに意地張ることなかった。あの時は短気を起こしたが、つらつら考えてみるに、とうていがんばり切れるものやない。そやさかいもう折れよかと思うてた時に、喜三が帰ってわしの尻を叩き、こんな破目に追いこみよった。しかもその張本人はどこかへ雲隠れ。畜生、今度こそあいつは勘当じゃ。 吉松は、自分をいじめる連中より、かえって息子の方が憎くなるのだった。 村役の斎藤軍吉が灰皿代用の茶碗に煙管の雁首を叩きつけ、まず口火を切る。「さて、集まってもろた理由は皆さん知ったはるやろ。まず吉松の言い分きこかい。お互い忙しい身やさけ、あまり厄介かけさせんといてや」 ――どない頑張ってみても、つまり俺は旦那方の言いなりになるやろ。村八分になったら、一家は野たれ死にや。そんなら初めからあやまってしまえ。それで何もかもうまく治まる。 意地も張りもなく頭を下げようとしたとき、小坊主が入ってきて吉松を呼んだ。急用とのことである。 一座にことわりを言い庫裡に行くと、喜三郎が息をはずませて立っていた。どなろうとする吉松の機先を制して喜三郎は明るい声を出した。「ああ、しんど。亀岡から走り続けや」「今頃までどこへ行ってた」「その話は後や。父さん、この寄合いにはわしが出るで」「え、お前が……」 びっくりして喜三郎の顔を見た。いつも村の寄合いには吉松が出て、喜三郎が出たことはない。「お前が出て何になるけえ」「父さんは癇癪持ちやさけ、卒中にでもなったらどもならん。わしに考えがある。ここは任してんか」「子供の出る幕やないわい」「どうせ今夜で話が決まるわけやないがな」 決めるつもりでいたとは息子の前で言いかね、吉松はあいまいに頷いた。「相手の言い分を聞くだけなら、わしかて勤まる。真打ちが出るのは後からや」 ふと吉松の気が動いた。息子に頼りたい気になった。辛いときを一刻でものばしたい。 ――どうせこうなったら、何もあやまり急ぐことはないわい。 気が楽になると、あの旦那衆の前に再び出る勇気は失せていた。「ほな今夜のとこは喜三に任したるわい。けどあまり旦那方を刺戟すなよ。何事も穏便にのう」 そそくさと去る吉松を見送って、喜三郎は広間へ進んだ。思いがけぬ喜三郎の出現に、一座はざわめく。ぶるっと武者ぶるいを覚えた。 上田忠治が威嚇的な声をとばす。「おい、吉松はどうした」「へえ、ちょっと体具合が悪うなったさけ、わしが代理で出さしてもらいます」「こんな大事な寄合いに代理ですむけえ。すぐ呼び戻してこい」「けど、今度の件はわしが一番納得してまへんで。かりに父さんがどんな約束しても、長男のわしが不服となえたら、また面倒なことでっしゃろ。寄合いは一家に一人がきまりですさけ、ほんでわしが父さんから全権を委任されて、代理出席させてもらいました。あきまへんか」「よっしゃ、ほな一人前に扱わしてもらうで」 むかっ腹をたてた斎藤軍吉の一言で、喜三郎の代理出席は認められた。 喜三郎は周囲を見廻した。どの顔も敵に見える。上田家の株内としては、わずかに上田政と上田治郎松がひかえるのみである。 お政後家は喜三郎より十代前に田畑一町歩(三千坪)を貰って分家、治郎松は八代前に田畑八反三畝(二千五百坪)を貰って分家した。お政後家は心情として喜三郎の肩を持ってくれようが、村の有力者たちを敵に廻してまではどうか。治郎松は必ずしも味方とはいえぬ。彼の渾名は「憂い松」といい、彼ほど人の憂いを素直に喜ぶ男はいない。喜三郎の顔を見て、「どえらいことになったのう」と口先では言いながら、その表情は満悦にくずれそうである。しかも地主側の意向を受けて、内側から父母の切り崩しに動いている気配であった。 軍吉は、鼠をいたぶる猫のように舌なめずりした。「初めに確認しておくが、お前の屋敷地が登記面より二十五坪も多いことは承知やな」「そうやそうですなあ」と、喜三郎はきょろんと答える。 軍吉はほくそ笑み、「それを承知なら話が早い。吉松はよそから来た養子やし、字が読めんさけ、そんなことも知らんと無茶ぬかしよるやろ。つまり二十五坪多いちゅうことは、あの池は村の所有で、それを上田家が昔から私しておったちゅうことになるのう」 軍吉はゆっくりあたりを見廻した。左右から「ハハアー」と同調の薄笑いが起こる。斎藤源治が引き継いで鷹揚に言った。「過ちを改むるに憚ることなかれと言うやろ。吉松と違うて、上田君は年少ながら学校の先生までした学者はんや。意地はったら損なぐらい、ようわかっとるのう」と、源治は吉松を呼び捨てにし、喜三郎は君づけで呼んで差別した。 上田忠治がせかせかした口調でいう。「今日のとこは一応帰って、お前の代筆でよいさけ、詫び証文書いてわしんとこへ持ってこいや。悪いようにはせんさけ……」「どない書きますねん」「そやのう……勝手に村の池を埋めようとしたんは、重々不心得でした。水は湧きもんやさけ、今まで通りどうぞ御自由にお使い下さい……どや、こんなもんで」 喜三郎をとりまく小作人や小地主たちは押し黙っている。 が、その中から、誰ともなく静かな呟きが揺れる。「かわいそうや」、「無茶や」、「非道やのう」……が、表立って弁護する勇気はない。小作人の中から「賛成、大賛成」と連呼し、村役に媚を売る男もいた。寺田兼次郎である。 喜三郎は冷静に面を上げた。「ちょっとお尋ねしますけど……」「なんじゃい、喜三公……」 悠々と煙管に刻をつめこんでいた軍吉があわてて見返した。「皆はんも御承知でっしゃろ。久兵衛池は、上田家の先祖の久兵衛が、当時上田家にあった五町余の田畑の灌漑用水として掘ったことは、記録にも明らかです。村の衆も、それを認めた上で、旱魃の時は水を分けてくれるよう、頼みに来やはります。けんど村の敷地に掘らしてもろとったとは、ちっとも知りまへなんだ。それで、村の物という確かな区画図でもありますのやろか」 しんと一座は固唾をのんだ。ややあって居丈高に軍吉はいう。「区画図もへっちゃくれもあるけえ。おい、喜三公、上田の屋敷が登記面より二十五坪も多いことは実測するまでもなく明らかや。この二十五坪はどこから持ってきたんや、村よりほかにあろまい」「ほうでっか。登記より多い分は、村の物でっか」「あたりきじゃ」「おうきに、それさえ聞かしてもろたらよろし。ほんなら村に返さんなりまへん。村の物を長いあいだ横領してたとわかったら、本人は知らんことながら、正直者の父さんはびっくりしますやろ。返すことに文句おへんやろ」「そうや、その通りや。さすがにお前は物分りがよい」 軍吉は満足そうに煙管をくわえる。喜三郎は大きく息を吸いこんで、丹田に力をこめた。「村役はん、ちいと話は違いまっけど……」「まだ何かあるのけ」「わしは今日、朝から登記所に出かけて、旦那はん方の土地台帳を見させてもらいました。村役はんとこの大田は登記では一反きたなか(半)やが、ほんまは二反きたなかあること、小作の皆さんは知ったはります。ほかのぎょうさんの田畑も、みんな昔から縄延びが二、三割増しあるのが常識だんな。山裾に三反歩ばかり、誰かはんの隠し田があるちゅう噂も調べてみんなりまへんのう。山三倍いうことばがありますなあ。もちろん、旦那はん方は正直なお人ばかりやさけ、みな実測で登記したはりまっしゃろ。それでも村役はんみたいに、うっかりしたはることもあるかも知らん。もし登記面積より余分の土地が見つかったら、そいつは村の共有やと考えてよろしおますな」 大地主たちの間から声のない声が上がった。小作人たちは顔見合わせ、真っ赤になってこらえたが、すぐに広間中、吹きとばすような爆笑がはじけた。しかし不機嫌な地主たちの制止に、爆笑は一瞬にして静まり、気まずい沈黙に変わる。誰も上座をまともに見る者はなかった。 縄延びは常識であった。縄延びとは、実際の段別が検地帳に記載されたより多いことをいう。上田家の屋敷にわずかに縄延びがあった如く、多少の縄延びのあるのは日本の農家の常であった。幕藩体制が固まるとともに農民に対する課税はきびしく、検地も厳重を加えたが、地主たちは総力をあげて防衛した。袖の下、飲食物の饗応はもとより、時には小作人の娘たちをも役人にはべらせて課税の軽減をはかった。村中気を合わせ、田畑の測量のとき検地用の縄を短く数えるのである。丸められた役人も気のつかぬふりをする。 例えば一反三畝の田を一反と称して登録する。また山田などの人目につきにくい場所を開田し、無税で耕作する。隠し田と称した。山林などは、ことのほかひどい。山三倍どころか一反歩登記の山林が、実測四反歩、五反歩、一町歩に及ぶことすらある。領主の搾取に対する、地主・農民のせめてもの抵抗であった。この傾向は明治政府になっても受けつがれ、今日もなお引きつがれている。 実測と登記面の差を追求する地主たちの論理は、そのまま彼ら地主にこそ、大きくはね返るべきであった。喜三郎は怒りに耐えながら、相手を十分に引きつけて、一刀のもとに断ち切った。 つい昨日まで、いたずらが過ぎては村人や吉松の折檻に泣いていた小僧に、見事に作戦の裏をかかれたのだ。さすが恥知らずの大人たちもしゅんとなった。思わぬ事態にあわてた地主側は、態勢を立て直すために解散を命じた。 続いて二回ほど会合が持たれた。口うるさいお政後家が近所隣を説得に歩いてくれたのは、この際ありがたかった。輿論は喜三郎に有利に傾いた。旗色の悪くなった地主側が事を収拾すべく妥協しはじめたが、喜三郎ははねつけた。 最後の寄合いで、ついに上田家の主張は全面的に通った。村は久兵衛池を上田家の所有と正式に認め、借り入れを乞うた。池を埋め立てるかわりに村の費用で池のぐるりに柵をつけ、なお池の水使用代として年々玄米一斗五升を上田家に納める契約書をとって、一件は落着した。「本来は、太陽や水などは私すべきやない。世の中全体がよくなるようにみんなで使うべきやと思う。『村のために埋めんといてくれ』の一言でよいところを、地主という権力をかさにきて理を非に曲げようとする奴らの根性が許せん。牛馬のように働くばかりで、食うや食わずの小作人にも五分の魂がある。わしはそれを見せたかったんや」 喜三郎がそう語ったと村の古老は言う。富者の驕りを憎み権力に反抗する気骨は、十六歳のこの時からすでにあらわれていた。 この事件で、村の無法は、見事に少年喜三郎によって叩きつぶされた。並みいる長者、旦那衆も、子供とあなどった喜三郎の気魄と少年と思えぬ論理の前に、手が出なかった。 こうして上田家の名は守られたが、代償として実を失った。小作田は減り喜三郎は職をはなれた。とどのつまり、喜三郎は近くの農家にまた下男奉公に出ねばならない。

表題:多情多恨 1巻5章多情多恨



 斎藤家では秘書八分・下男二分の役割で肉体労働はさほどでもなかったが、今度の奉公先では、農奴といってよいくらい、いわば牛並みの扱いであった。 冬でも仕事は山積している。朝暗いうちに起き、牛小屋にとんでゆく。足音を聞いて和牛は首を出し、白い鼻息を吹きかける。角で壁板をごしごしこすり、蹄で床を蹴り、餌の催促である。「オーラオラ、よしよし、いま作ってやるぞ」 藁をきざみ、麦の粗糠と米糠を飼葉桶に入れ、きれいな水をそそいでかきまぜる。牛の食欲のすさまじさに、しばし見とれる。 肥桶をかついで麦畑にいそぐ。朝日はまだ昇らない。土にへばりついた麦の葉は、霜に覆われてほの白く薄明に浮く。野壷から、肥桶に五分の一ほどよく腐熟した下肥を汲み上げ、うすい霧を巻きながら流れる小川の水を汲み入れて、肥桶一杯にうすめる。「どっこいしょ」 十分に腰を入れ、天秤をかつぐ。調子をとりながら、凍てついた麦の頭から柄杓でかけてゆく。一荷をかけ終わる頃には、体も温まり、汗ばんでくる。針の如き霜柱を踏む凍えた足指も、やがて火照ってくる。 あたりが明るくなる。下肥を浴びた麦はみるみる霜がとけ、青さを増す。川からはさかんに霧が立ちのぼる。「今日も晴天や」と呟きながら、濃い朝霧の中を空桶かついで喜三郎は帰る。 朝霧の深い日は晴れ。ただし昼頃まで霧にすっぽり覆われることもある。珍しく朝日がさす日は午後からきまって曇りか雨。丹波の気候の秋冬の特徴である。 ようやく朝食。冷飯に湯をぶっかけてのどに流しこむ。昼間は腰が曲がるほど激しい野良仕事。つい隣にありながら、わが家を訪ねることも許されない。夏の夕暮れには、犬飼川に牛を引き出して丹念に洗ってやる。仕事のあいまに、主人の機嫌をうかがいながら、そっと金剛寺の塾をのぞく。一日のうち、喜三郎が初めて人間らしく息をつぐ一時である。そして夜は薮蚊をいぶしながら、藁打ち、縄ない、草鞋作り、唐臼ふんで米もつく。 しかし喜三郎、生活が苦しければ苦しいほど、おかしみを求めて脱線する。それがしばしば悪戯へと走った。八田与作という力自慢で少々知能の足らぬ大男があった。丹波与作・阿呆与作とも呼ばれる人気者だ。他家で御馳走になった折、田芋と見間違って梅干しをこんもりと皿にとりわけた。「その梅干し、どうするねん」と主人があきれて注意すると、「ほっといてくれ。わしは梅干しが大好物や」と負け惜しみを言い、顔をしかめ身震いしつつ一皿の梅干しを平らげたと噂される、ひどい近眼の意地っぱりだ。 肉体労働の激しい百姓は食事量が多いものだが、与作は特別の大飯食らいだった。それぞれ米を四、五合ずつ出し合って飯を食う会がある時など、与作はその本領を発揮する。朝から飯を食わずに胃の中を空にしておき、いざ本番となるや二升でも三升でも平げる。翌日は仕事を休んで飯も食わずに一日寝ていた。勘定すると、野良で働くよりその方が得だった。 ある時、皆が「与作に食うだけ食わしたら何升食うか」という話題になった時、与作は「五升は食う」と言いはる。そこで「五升食ったら一円やる」と言うと、与作は「わしは金はいらん。けれど飯を五升も食うとなるとたんとおかずがいるから、こんにゃく・焼き豆腐・小芋をどっさりどっさり炊いて、それから酒を一升用意してくれ」と条件を出した。さて準備ができて与作は食い始めたが、二、三杯でウンウン言い、五杯も食うとウーンウーンとうなり出し腹ばって苦しがる。「この飯には毒が入っとる。おかずにも毒が入っとる」と訴えた。他の連中は気持悪がり、与作に「捨てるわけにもいかんし、よかったら持って帰れ」という。残りを余さず持って帰った与作は「これで寝ていて五日は御馳走が食える」と舌を出した。どちらが阿呆にされたかわからない。 この与作が、喜三郎の悪戯の好餌となった。 主屋の納屋で藁を打っていた喜三郎は、ちょうど顔を出した与作に相撲を挑んだ。力自慢の与作のこと、「おう、一丁もんだるわ」とたちまちその気になる。さいわい、あたりに人影はない。喜三郎は水を飲むふりをして台所に入り、鍋墨を両掌一杯になすりつけた。 与作が仕切ろうとして腰をかがめた途端、喜三郎は張り手に出た。鍋墨だらけの両手が与作の大きな顔にとぶ。「こら、まだ早い早い。ちゃんと仕切らんかい」 与作は真っ黒になった顔をふくらし、仕切り直しを要求する。しかし喜三郎の目的は果たした。第一、仕事中に相撲している所を主人に見つかったら大目玉だ。「もう止めや。いそいで草鞋作らんなんかった」「やりかけで逃げるなんて、卑怯やんけ。けど日の暮れのせいか何やら顔がうっとうしいのう」と、手で墨顔をくるんと撫でた。鍋墨はいっそう広がって黒ん坊だ。「よう、男前――」 喜三郎は、げたげた笑って逃げ出す。自分の手を眼の傍まで近づけてしげしげと眺め、ようやく気がついて憤然とする。すでに喜三郎の姿は門外だ。かっとなると、近視の上にも更に目先が闇になるのか、与作は長い足をけたてて村道に走り出るなり、喜三郎の張った縄に足元すくわれてもんどりうった。「く、くそっ」 片手に縄をひっつかみ、黒鬼の形相で地団太踏む。喜三郎の笑い声が響き渡るが、黄昏の靄の中で、もはや視界はきかぬ。 相撲好き・力自慢は八田与作だけではない。若い頃の父吉松も宮相撲の常連であったし、喜三郎も、飯より相撲が好きであった。間もなく稲刈りが始まるというこの時も、柴刈り途中で友達と相撲をとり、投げとばされて腰を打った。動けぬのを友達にかつぎこまれて主家へ帰ると、道草したのがばれて主人にこっぴどく叱られた。 翌日は腰の痛みで田にも出られず、さりとて寝ているわけにもいかず、越畑の接骨医まで一本の杖を頼りに歩き出した。名医の評判であった。 越畑は京都市右京区のはずれにある。八木を通って山また山の杣道を東に進む。距離にして五里ばかりだが、途中は険しい山道で、杖にすがってよちよち登る足取りはもどかしい。 昼前に村を出ながら、日暮れてまだ目的地に着かぬ。初めての山道、どう踏み迷ったものか、行けども行けども民家はない。森林の裾をおおう一面の熊笹の茂みさえ、夜霧にかすんで見えなくなる。 名も知れぬ夜告げ鳥が、奇異な声で鳴きたてる。ふいに足元を獣が走り抜ける。冷たく夜嵐が吹きすさび、濃い丹波霧は視界を閉ざして立ちこめる。飢え、寒さ、孤独の恐怖、そして無理に歩き続けたせいか、腰が一層耐えがたく疼き出す。歩きながら、喜三郎は泣いていた。歩く力も抜けてしまうと、木の根方にへたりこんで、見る人も聞く人もない気楽さにオイオイと声を上げて泣いた。泣き叫んでいる限り、山犬も猪も襲ってはこれまいという計算もあった。 山々が藍色の輪郭をとり戻し、霧の流れが早まると、やがて白々と夜が明け初める。喜三郎は気を取り直して歩き出した。霧の海の彼方に村がすかして見える。嬉しさに、また泣いた。 村に下り、早起きの農夫に道を聞いた。接骨医のまだ錠のしまった玄関口にたどり着くと、喜三郎は必死でどなった。「先生、急患や、早う開けてんか」 なかなか起きる気配がない。思いきり格子戸を揺さぶって、「大変や、大変や、急患やぞ」 根気よく泣き声で叫び続ける。ようやく戸が開けられて、熊のような体格の男が腫れぼったい顔を出した。「朝っぱらから小うるさいなあ。急患はどこやいな」「ここや、ここや」 喜三郎は、さっと自分の鼻をさす。「小僧、お前か」 霧でずくずくに濡れたみすぼらしい服装を一瞥し、急に内からぴしゃっと戸を閉めた。「あれ、先生、なんで閉めはるのん」「この眠いのに、小僧っこなどにかもとられるかい。これから寝直しや」「そんな薄情な……昨日の昼前に穴太を出て、山道を迷い迷うてやっと着いたんやんか。助けたりいな」「迷うたのは勝手じゃ。診察は十時からときまったる。出直して来い」「殺生やがな。あんたはそれでも医者か。医は仁術言うやんけえ」「仁術より算術の好きな医者もおる。金も持たん餓鬼など、阿呆くそうて相手にでけるかい」「ド阿呆、薮医者、たけのこ医者、人殺しい……わしかて銭ぐらい持っとるわい」 喜三郎は、大声あげて泣き出した。本当に悲しかった。治してもらわねば、恐ろしい一夜を明かしてここまで辿りついた甲斐がない。それより何より、こんな体で寝こんでは食って行くことすらできぬのだ。泣きわめく声は近隣に響き渡った。接骨医はあわてて再び戸を開け、喜三郎の襟首とって引き入れた。「これ、そんな大きな声で泣きなはんな。みっともない。治しちゃる。じき治しちゃるよって、どこが悪いかいうてみい」 涙と鼻をすすり上げ、喜三郎は腰を痛めた顛末を語る。「阿呆んだら、ど百姓の下僕のくせさらして、相撲とるなどけしからん」 腹いせに接骨医は階級的な言辞を弄し、喜三郎を玄関の式台に腹ばいにさせ、腰を責めつける。「う、痛い、痛い」「痛かったら、もう相撲すな」「へえ。どうでっしゃろ、先生、じき治りまっか」「どっちゃにせい、この秋の仕事には、間に合わんのう」「そんな無茶な……どないしてくれてん」「何が無茶や。わしが腰の骨はずしたような言い方すな」 足を引きずりながら夕刻主家に辿りつき、正直に医者の診立てを伝えると、案の定主人はどなり出した。「この猫の手も借りんなん取り入れ時に、なにさらしとる。すぐ田んぼへ出い」 主人は情け容赦なく追いつかった。腰の痛みに歯をくいしばり、稲を刈り、重い荷をおうた。 結局、稲刈りが終わった日に「間に合わぬ」といって追い出され、家へ帰ると、事情を聞いた吉松はかっとなって叫んだ。「百姓仕事もろくにでけんのか。家には置かれん。すぐ出ていけ」 持ち返った風呂敷包みをそのまま手に、喜三郎はあてどもなく歩き出す。小幡橋にたたずんで水の流れをぼんやり眺めていると、不覚にも涙が鼻のわきをすべり落ちる。「とうっ!」 裂帛の気合いとともに不意に足もとをさらわれて、喜三郎はとび上がった。蘭だった。袋に入った長い薙刀を構えて、唇を突き出している。「ま、参った、降参」 喜三郎は頭を抱えこんだ。蘭が薙刀の稽古に亀岡の新町の道場に通い始めたのは村の評判であった。稽古帰りであろう、海老茶の袴をはいている。「喜三やん、何見てはるの。やあ、泣いてはる」 蘭は薙刀を小わきに、びっくりした眼で喜三郎を見上げた。その眼が下に降りて、見覚えのある喜三郎の全財産入りの風呂敷包みを見つけると、「分かった、また追い出されはったんやわ。行くとこないのやろ。わあ、うれし……」 蘭は喜三郎の手を引っぱった。そこへ橋桁を踏みならして吉松が駆けつけ、喜三郎の胸ぐらつかんで引きずった。「このろくでなし、兵六玉、出て行けいわれて本気で出て行く馬鹿があるけえ。お前は上田家の長男いうこと忘れたか」 喜三郎は、胸が一杯になった。「喜三やーん」と泣き声で追いすがる蘭も、引きずる父も好きだ。家の敷居をまたぎ、祖母や母や弟妹の前に頭を下げて、今度こそ一家のための柱になろうと決意した。父に引きずられたせいか、根強い腰痛が忘れたように治っていた。
 明治二十(一八八七)年、喜三郎は数えで十七歳である。 山から切りとった薪や菓子の原料になる種粉を荷車に積み、京都や伏見辺まで運んで賃金を得、家計の助けとした。時には一人で、時には父と一緒に、時には母が後押しして。穴太の田舎から京の伏見まで二十数キロ、暁に発っても、帰りには日が暮れる。真夜中の老の坂峠を越えることもある。雨や雪の日の苦しさは、言語に絶した。しかし喜三郎の楽天的な天性は、どんな苦しみの中にも楽しみを見つけ出すのだった。 喜三郎の特技の一つに放屁がある。あまり自慢できる芸とはいえないが、ここぞという時のタイミングのよい放屁と茶目気は晩年まで衰えなかった。 寝静まった亀岡の町を、重い荷車をきしませながら通りかかる。明かりの洩れている町家があると、わざわざ荷車を止め、間合いよく放屁する。快調だと何連発も。家の中から忍び笑いが聞こえると、高らかに止どめの一発で応えておいて、荷車の梶棒をとる。足を踏んばり踏んばり、思い出し笑いをする。 愚にもつかぬことが、喜三郎にとっては、たまらなく嬉しいのだ。その嬉しさが尾をひいて、次から次へと駄句がとび出す。   俺よりも遥か上手な屁ひり虫     馬が屁を放りながら行く春野かな   大笑い下女の寝言に屁がまじり   姑の屁を喜ぶも家大事   女礼式虫も殺さず屁も殺し   屁を殺しあたり四五人かかり合い   おのが屁を親おやおやと子にかずけ     外で屁をひる雪隠の居催促   風呂の屁で発明したか水雷火   屁をひってもう十二時としゃれている   屁のような理屈に俺も鼻つまみ   炬燵から猫もあきれてとんで出る   ろうそくの火を屁で消した自慢ぶり   よい機嫌便所で謡い屁をひりつ   ぐるぐると腹の中にて模様なし   おとなしゅう見せて踵で屁を殺し   屁を放りに屋根から下りる宮大工   屁の論に泣くもさすがは女なり   屁をひって嫁は雪隠出にくがり   屁をひったより臭いのはおならなり   風呂の中の屁は偶然の軽気球   念仏も唱え屁もひる炬燵かな   屁をひって裾あおぎたる団扇かな   あなただと屁を譲り合うむつまじさ  出るのは屁の句ばかり、聞く者も笑う者もいない道である。しかし喜三郎は、自分で作っては、自分一人でくすくす笑う。どうにもならぬ駄作が多い。だが絶対に作り直しはしない。口からあふれるまま、そのままの出放題である。名句一つをひねくり廻す時間があれば、千句を楽しく作るという主義だ。歌や俳句や詩に至るまで全く推敲しない。これは死ぬまで変わらぬ。記憶力がよすぎるあまり、他人の句やら旧作までまぎれこんでとび出すこともあるが、一向に頓着しない。   屁をこきつ老の坂へと喜三郎  老の坂の難所にかかると、さすがに川柳どころの騒ぎではない。足を踏んばり、体をえびのように曲げて、荷車をひく。下腹に力が入りすぎて思わず放屁する。ふき出すと力が抜けて、ずるずる後退する。あわててまた踏んばる。 松風洞のトンネルをやっと越えると、東の空が白みそめる。茶店はもちろん戸を立てて寝静まっている。松風洞の東はゆるい下り坂が続き、車の轍がやすやすところがる。七本杉のかげで車を休め、霜夜の汗をぬぐう。平坦な道にかかるのを待って書物を取り出し、車をひきながら朝の光で読みはじめる。当時の仲間たちの話では、喜三郎は本を読みつつ車をひき、しばしば店先に並べられた商品をひっかけては文句を言われ、弁償させられたという。 京都への荷車ひきで、老の坂峠には幾多の思い出が残っている。 父が押し、喜三郎が梶をにぎっていて、老の坂の凍てた下り坂に足を滑らし、土橋の上から川底まで荷車もろとも転落した。奇跡的に親子とも微傷さえしなかったが、生活の資の荷車を破壊して途方に暮れた。 荷車一杯の大根を京へ運んだ帰り道、三人組の山賊があらわれた。僅かの利益もろとも汗くさい労働着まで身ぐるみはがされ、褌一つでしょんぼり帰ったこともある。 ある夜、七本杉まで帰ってくると、荒くれ男どもが車座になって、焚き火しながらわいわい騒いでいる。喜三郎は山賊に身ぐるみはがれた苦い経験にこり、財布を懐中から出して筵にくるくる巻いて無造作に車に縛りつけた。鼻唄をうたいつつ男たちの前にくると度胸を決め、「ちょっとあたらしてんか」と声をかける。男たちは探るような目つきで喜三郎を見、無一文だとみて、「まあ、あたっていきな」と席をあけ、賭博をやり出す。「おい、若えの、そこで張り番してくれや」と言われるままに見ているうち、喜三郎は弟由松のことを思う。由松はまだ十四歳、昨年頃から小博奕を打ち出していた。祖父吉松の遺言がまざまざと思い出されるほど、賽ころにかける執念は異様だった。誰の忠告も叱責も耳をかさぬ。祖父の生まれ変わりと信じているせいか、父母の小言も遠慮勝ちである。それだけに、父母の心痛ははかり知れなかった。 勝負に熱中する男たちの浅ましい姿に将来の弟の姿をみて、喜三郎は思わず呟く。「あかん、どうでも止めさせなあかん」「なに――」 険しい顔でふり返った男たち。喜三郎は我に返り、空車にとびついて逃げ出した。
「母さん、伏見に船宿かなんかしとってん叔父さんがいやはるんやて?」 喜三郎は、思い出したように世祢に聞いた。荷車に薪をつみおえて、吐く息も凍えるようなあけ方の雪道を出るところであった。「何ならちょっと寄ってったろか。京橋の辺まで行くさけのう」「ううん、行かんかてよいで……船宿はもう止めて、どこぞへ移ったはるはずや。のんきな人やさけ、どこへ移らはったやら、知らしてきてくれはらへん」「なんや、そうけ。若い頃に母さんが伏見の叔父さんの家に勤めてはったと父さんが言わはるさけ、ちょっとのぞいてみたかったんや……ほんなしゃあないなあ」 雪泥道をふんばりふんばり、重い荷車をひいて出て行く我が子の後姿が、世祢の涙で見えなくなった。 嘘であった。世祢は先年、所用で京へ行った折、内緒で一度寄っていたのだ。船宿はさびれてはいたが、まだあった。その折、「船宿も先が見えとるさけ、今のうちに商売替えせんならんと思うとるのどっせ」と言った叔母の言葉が、とっさに出たのだ。叔父は老いて半ば臥していた。叔母は世祢をみるなりまくしたてた。「お前は阿呆やさかい、運をのがしてしもたなあ。何であの時、うちらの言うこと聞かなんだのや。お前が去んで一年ばかしたった頃の寒い朝どした。大阪から淀川丸にのらはって、若宮さまが伏見へおいでにならはったんどっせ。その夜は屯所にお泊まりやしたが、おしのびでお前を訪ねて来やはったさかい、くにに帰って婿もろうたこと申し上げたら……」 世祢は蒼白になって叔母の口元をみつめた。「『そうか、それはよかった、よかった』と二言。お淋しそうに戻っていかはりましたえ。あの時、世祢がいたら……と、うち、口惜しうてかないまへなんだ」「それで、……東京のお妃さまにお子さまは……」 世祢はやっとの思いでそれを聞いた。「お子さまはおへんはずどっせ。前のお方はん貞子妃は御結婚間なしに亡うならはったし、今の菫子妃にもおできやない」「……」「西南戦争で西郷はんに勝たはって、陸軍大将大勲位をもらわはった。伏見で練兵を見なはった時は、ほんまに御立派どしたえ。先年露国の皇太子に会いに行きなはって、ずっと外国の国々を廻っておいでやしたのどっせ」 うなだれている世祢の掌を開いて、叔母はのぞきこむ。昔もよくそうしたように。「お前のこの天下筋も当てにならなんだなあ。お前が若宮さまのお目に止まった時は、『ほんまに天下筋が当たった。ひょっとすると若宮さまの家女房になって有栖川宮家のお世継ぎ産まんもんでもない』と思うたもんどっせ。それが穴太くんだりの土百姓の嬶なんて、よう言わしてもらわんわ。そやけど確かにまだ天下筋が八本きれいに通ってるなあ」 天下筋は、掌の縦筋が中指の先まで通ったもので、天下取りの相という。世祢の両掌は左右の天下筋ばかりか、小指を除いた残り八本の指にも。世祢は恐れるように手をひっこめた。(著者註――世祢の手形が残っているが、はっきり八本の指の先まで縦筋が通っている) 叔母は、色好みの叔父がその美貌に惚れこみ落籍せた伏見の芸者であった。世の中の価値を、金銭や色恋や手相でしか判断せぬのが癖だ。長々と叔母のぐち話が続くが、世祢は聞いてはいなかった。 世祢の手相は、そっくりそのまま息子喜三郎の掌に受けつがれている。秀吉がそうであったといわれるように、本当に天下筋の持ち主が天下をとるのだろうか。 ――ちがう。うちと喜三郎だけは違う。 宮にお世継ぎがない――そのことは、世祢に大きな衝撃であった。喜三郎がこの叔母に会ったら、叔母は何もかも見抜くであろう。叔母は、あの子の手相を見つけて騒ぎ立てよう。その上、世祢でさえ、折々はっとするほど十七歳の喜三郎にはあの方の面影が宿っている。 喜三郎の行く手に待つあやしい運命の渦をかき消すように、世祢は身をふるわせた。行かせてはならない。喜三郎はうちの子、うちと夫吉松の子でしかないのだ。世祢は、叫び出しそうなのどを押えた。
 梅雨の頃であった。ふり続く長雨に犬飼川は水嵩を増し、夜明け方に警鐘が乱打された。崩れた山からの流木が激しく、小幡橋が危険にさらされたのだ。村人たちは蓑笠に身を固め、懸命になって鳶口で流木をひっかけ、岸に上げた。その中に喜三郎の凛々しい雄姿もあった。 間もなく転び名人の喜三郎、鳶口を流木に打ちこんだまま、足を滑らして濁流にのまれた。青くなった村人たちは、口々に叫びながら急流にそって走った。二丁ほど下手で浮き上がる喜三郎の絆纏に鳶口をひっかけ、危いところを救い上げた。半ば失心しながらも、喜三郎の右手はがっしり鳶口をにぎっている。やっと気がついた喜三郎に、誰かがあきれていった。「阿呆なやっちゃ。鳶口もったまま溺れるやなんて」 紫に変わった唇をふるわせて、喜三郎は答えた。「この鳶口は村用のじゃ。わしの物ならとっくにはなしとるわい」 この話を伝え聞いて、宇能と世祢は顔を見合わせ、深く吐息した。村の鳶口一本と引きかえてよい命かいなと心で叫ぶ。 男衆からこの噂を伝え聞いた蘭は、喜三郎の台詞に感動した。休みで久しぶりに白い顔をして帰ってきた与四郎が腑甲斐なく見え、わけもなくあたり散らした。
 穴太の正月の雑煮は、小餅に頭芋・小芋・輪切り大根を加え、花がつおをふりかけた白味噌仕立てである。暁闇、小幡神社に祈願をこめて帰ると、喜三郎は一人一人書き加えられた箸紙の自分の名の前にかしこまる。家族そろって新年の挨拶をかわし、大福湯(梅干しと昆布に熱湯をさしたもの)を飲み、雑煮餅のお代わりを重ねる。どんなに貧しくてもお元日だけはと、宇能も世祢も心がけ、いそいそとこの朝を祝った。箸紙に宇能が愛情こめて筆をとる家族の名も、年と共にふえていく。二十一年の正月も、世祢の腹は、産み月をひかえて大きかった。 正月三日には、穴太寺の《福給わりえ》(俗に福給り)がある。本堂前に組立てた台の上から、白紙に黒肉の手刷りの御祈祷札三千枚がばらまかれる。その中に三枚の赤札がまじっていて、その札を拾うと長者になると信じられた。むかし、春風にのって赤い札の舞い落ちた家が長者になったという伝説による。村人のみか、近郷近在から集まった群衆が赤札めがけて騒ぐのが楽しい行事になっていた。 正月十四日はお日待ち。各組ごとに宿を決める。宿の主人は代表で愛宕神社へ夜参りする。組の連中は宿へ集まり、主人の帰りを待ちつつ、御馳走を食べて夜を明かす。夜明けには主人は帰ってきて、もらってきた櫁とお札を組の人に配る。翌十五日はどんど焼き。各組ごとに門松・しめ縄・書き初めなどを河原に積んで燃やすのだ。 旧の正月・五月・九月の二十三日は三夜待ち。組ごとに集まって飲みくらい、夜半に出る月を待つ。それぞれに宗教的な意味があろうが、集い寄って楽しむという、娯楽に乏しい田舎での伝統的な行事である。にぎやかな集いの大好きな喜三郎も、他の若者たちとこの日を待つ。娘になった蘭が思いつめたまなざしを喜三郎に送ってくる。若い血の疼きをこらえながら、喜三郎は声高に調子はずれの唄をうたう。
 雪がとけると、村の若者たちは山へ柴刈りに行く。柴をになって数人の若者たちが打越の山の背を談笑しながら歩いていると、突風が襲って一人だけが谷底へ吹きとばされた。それが誰か、言わなくても、もう読者にはわかる。「おーい、喜三やん、無事かあ」 ややあって、しめった声が返ってくる。「無事やないわーい、痛いわーい」「また腰かあ」「もっと下じゃーい」「ほんまかあ、まだ若いのに、使いもんにならんのーう」「あほー、まん中やないわい、右足じゃあ、助けてくれよー」「助けに下りたら、坂がきついさけ、こっちが難儀じゃわーい」「ほんな、どないするのじゃーい」「足が治るまで待っとれよー、わしらもつきおうちゃるぞー」 友達はのんびり腰を下ろし、女の子の噂話に打ち興じる。喜三郎は泣きながら、登ってはずり落ち、ずっては登りして、日の落ちる頃やっと這い上がるのだった。 堂建の山で柴を刈った時である。手負いの大鹿が喜三郎の脇を駆け抜けた。数人の若者たちが、柴を打ち捨てて鹿の後を追う。鹿は、どういうものか手負いになると、里へ里へと逃げ、ついには蒼く澄んだ池や川など水を求めてとびこむ癖があるという。喜三郎らに追われた鹿もまるでそここそ極楽浄土であるかのように、山あいの新池にとびこんだ。若者たちは新池のまわりを取り巻き、悪戦苦闘の末、棒で打ち殺した。 大鹿の四股を棒で縛り、喜三郎を先頭に意気揚々と上田家へかつぎこむと、吉松が真っ赤になってどなった。「こら、喜三」「あかん、逃げよ」 頭を抱えて逃げ出す喜三郎の後から、友達が鹿をかついで追ってくる。「おい、喜三やん、待たんかい。この鹿、どないするねん」「きまったる。煮て食うのや」 父の怒りに喜三郎は激しく反撥していた。「俺が料ってやるわい。憂い松の家へ行こけ。あのおっさん、肉の一片もやったら、喜んで庭先貸してくれるやろ」 憂い松こと上田治郎松は、けちなことでも鳴らした男だ。鹿肉一切れの条件で大喜びで庭先を提供、しかも出刃まで貸してくれた。 一同の見守る中で、喜三郎は生まれて初めて動物の皮をはぐ。父への反撥から始めたものの、生物の内部への興味が、次第に彼を真剣にしていた。淡紅色の肉を開くと、微妙に入り組んだ内臓がある。刃物が腹を引き裂いた時、さすがに喜三郎はたじろいだ。 孕み仔が、か細い足を折り曲げてあらわれたのだ。一年に一つしかふえぬ鹿の命である。痛みに似た悔恨が走った。鼠ほどの大きさでいながら、はやうっすらと肌に斑がみえた。 鹿の孕み仔は親鹿よりも高価であった。孕み仔の黒焼きは、婦人の血の道の妙薬として珍重された。鹿の胎篭りともいい、産後の肥立ちの悪い女性には格別の効き目があった。明治初期、親鹿一頭五十銭か七十銭ぐらいの時、孕み仔は七十五銭から一円にも売れたから、猟師は孕み鹿を血眼で追った。孕み仔は掌にのせて眺めるぐらいの大きさがよく、晩春花が散り尽くした出産間ぎわ、猫ほどに成長すると病気に効果が薄いとされ、価値は半減した。「ほう、孕み鹿け。そうと知ってたら、肉より仔の方もらうにゃったのう。どれ、貸してみい」 治郎松は出刃を受けとり、孕み仔を臓腑からひき出すと、やわらかそうな大きな肉塊をえぐり取った。「さあ、後はお前がやれ。これは貸し賃や」 両手に肉塊をかかえ、治郎松はさっさと家へ引きこんだ。「ちぇっ、大方さらっていきやがった」 舌打ちしながら、喜三郎は残りの肉を切り分けていると、ことわりもなく庭へ踏みこんできた男がある。手に猟銃があった。「おい、わいらあ(お前ら)、わしの射った鹿を盗んで、どないさらす気じゃ」「無茶いうない。わしらが池へ追いつめて、やっとこさ打ち殺したんや。わしらが獲ったんじゃ」「へん、鹿の後肢みてみい、弾の跡があるやんか。まともな鹿がお前らに獲れるけえ」 検べると、確かに銃弾の跡があった。「どや、これで文句ないやろ。鹿の皮、わやにしよった。売り物にならんわい。みい、わしが目えつけた通り孕み鹿や。わいら、めんめに十銭ずつ罰金だせ」 友達の一人がやけくそになって叫んだ。「鹿は持っていね。けど何が罰金や。わしらが獲らなんだら、どうせ逃げられた鹿やんけえ」「ごてごてぬかすな。一発ぶっぱなしてこましたろか」 無気味な眼をすえて、猟師が銃を構えた。本当にぶっぱなしかねぬ凶悪な形相である。蒼くなった。顔見合わしたまま黙りこんだ。「猟師は猟に命をはっとんにゃぞ。わいら土百姓に荒らされてたまるけえ。こうなったら、どいつもこいつも鹿のお供じゃ」「ま、まってくれ」 まず喜三郎が悲鳴を上げた。若者たちは、猟師のいいなりに十銭ずつの罰金をとられた。猟師はそれを胴巻きにしまいこむと、孕み仔と毛皮と肉を残らずまとめて縄でくくり、棒に吊るして引き上げていく。猟師の退場を見はからって、治郎松があから顔に満面の笑みを浮かべてあらわれた。「やあ、御苦労はん。馬車馬みたいに鹿おっかけて、さんざ犬骨おって、銭まではろうて、おまけに獲った鹿は丸ごと渡して……馬鹿さまとは、お前らのこっちゃのう」 猟師は、一度傷つけた獲物はたとえ二日三日かかっても後を追う。そのすさまじい職業意識に呆然と見とれていた喜三郎は、治郎松の憎まれ口に我に返り、にやっとした。「ほんまにわしらは馬鹿や。そこで今夜は、うま(馬)い鹿の肉をしこたま食わしてもらおけえ」「どこに鹿の肉があるねん」と友の一人が情けない声をあげる。「ここや、ここや、三貫匁はあるやろ。なあ、おっさん」と、喜三郎は治郎松を指さす。「あ、あれはわしの肉や。庭の貸し賃やんけ」と、治郎松があわてる。「ほんなおっさんも共犯で、十銭とられはる口やなあ。誰か一走り猟師を呼び戻してこいや」「そんな殺生な……出すわな、出すわな」 その夜、治郎松の庭先で、三貫匁の肉を大鍋にぶちこんで、皆で食った。甘ったるい香は食欲をそそる。肉を一人占めしそこなった腹いせに、治郎松は躍起に頬ばった。若者たちも、負けじとあごの筋肉を動かす。すっかり平らげて動けなくなった。 鹿食った報いはたちまち翌朝あらわれた。天も地も森も水も、何やら黄色い。野良に行く道で治郎松の家をのぞくと、彼は蒲団の中から異様な顔を見せた。「おい、喜三公。お前、どえらい黄色い顔しとるのう」 そういう治郎松の顔も、熟れた真桑瓜のように黄色くみえた。
 五月雨の激しい日に、竹薮の柵外で竹の皮を拾っていて、蝮に足を咬まれたこともある。その場で蝮を手づかみにし、口から引き裂いて傷につけ、事なきを得た。毒には毒をもって制する人間の知恵である。蜂・ぶと・むかで・ひる・蝮と、百姓たちは日夜悩まされねばならない。 穴太中の小作の子は、ぜんぶ喜三郎の友であった。が、どうにもつき合いきれぬ奴がいる。村の侠客大亀の伜太吉である。喜三郎と同年だが、同じ悪戯でも可愛げがない。 竹の子の出盛り時は、竹薮もたぬ喜三郎たちにも楽しみがある。厳重な柵の外の道端に、勢い余って首を出す竹の子があるからだ。朝早く、それを狙って掘るのである。目星をつけ、時期を待って、やっと掘りとった竹の子を道端に積み重ね縄でくくった途端、鳶のようにとびついた太吉がそれを抱えて逃げ出した。何しろ足が早い。太吉の敏捷さに、たちまち引き離される。 奪った竹の子を、太吉は親父の大亀と煮て食い、残ったのは、亀岡の町へ売りに行く。平気で人の竹薮に忍びこんで掘ってもくる。だがもし文句をつけようものなら、「証拠があるけえ。出世前の息子にけちをつけさらして、さあ、どうしてくれる」と、逆に大亀にすごまれる。大亀は、太吉の盗みを咎めるどころか、大いに奨励しているのだ。 夏、小幡川で水を浴びながらひょっと見ると、太吉が河原にしゃがみこんでいる。「何しとるんやい、太吉ィー」 喜三郎が手をふると、「ウーン」としゃがんだまま、へんな返事をする。 河原に上がって甲羅を干している間に、太吉の姿が見えなくなった。さてと着物をひっかけた瞬間、むっと異臭が鼻をつく。それに袂がいやに重たい。片袖ずつ裏返してみると、なんと両袂ともこんもり糞がたれてある。その着物を片手につかんだなり、褌一つで太吉の家に乗りこんだ。 二間きりの家だから、奥まで見通しである。親父の大亀は銀煙管で刻をぷかぷかやりながら、太吉に肩をもませている。「おい、太吉、挨拶にきた。表へ出い」 腹立ちまぎれに喜三郎が上がり框を踏まえてどなると、大亀は印伝の煙草入れに銀煙管を手早くさし入れ、どすをきかした声で言った。「おう、お若えの。ごつう血相変えとってやが、太吉がなんぞしたんけ」「わしの着物や、袂の中までよう見てくれ」と、喜三郎は臭い着物を大亀にほうっておいて、太吉に向う。「太吉、なんでこんな仇ンした」「ほいでも紙がなかったさけ……」と、太吉はにやにやする。「か、紙がなかったら、人の着物に糞たれて、おまけにそれで、け、尻の穴まで拭いてもええのんか」 喜三郎は怒りでくらくらする。大亀は着物をつかんで真面目な顔で匂いをかぎ、「ほんまに臭い。こんな悪さは、なかなか人並みの人間では考えつかんこっちゃわい」「おっさん、太吉をほめとるのけ」「まあ、そういうわけや。さすがに大亀の伜や。太吉、喜三公に顔を貸しちゃれ」「よっしゃ」「男同士の一本勝負じゃ。殺すか殺されるか、思い切ってやってこい。骨はこの大亀がひろちゃるわい」 太吉は押し入れに首を突っこんで、日本刀を取り出した。刃物を持たれては勝ち味がない。くるりと尻を向けて一発、得意の飛び道具を発射し、喜三郎は思いきりよく逃げ帰った。
 盆が近づく。出穂前の稲田をこいで稗抜きを終えた喜三郎は、一人、丁塚の高山にのぼり、音頭の練習にはげむ。「上声だけで歌ってはだめや。腹から声の出る一人前の音頭取りになるには、何度も喉を破らなあかん」という先輩の説を信じて、喜三郎は真剣であった。喉を破って幾度か血を吐いた。高い櫓に立って女子衆の目を集める晴れがましさにあこがれて、ますます励んだ。 盆踊りは毎年、斎藤源治の広い中庭一杯にくり広げられる。櫓の周囲には、紅提燈の丸い灯がずらりとともる。汗臭い野良着から湯上がりの肌を紺の浴衣に着がえた喜三郎は、ようやく櫓台に立たしてもらって、大得意だった。音頭取りが多くて、後輩はなかなかうたわしてもらえぬ。踊りが乗ってきて、自分の一言一句で踊り手が動くように思える時の醍醐味は、格別のものらしい。白い袂をひるがえして科よく踊りながら、可愛い蘭が喜三郎を仰いでいる。 音頭はすべて浄瑠璃くずしである。一の谷嫩軍記の、熊谷が敦盛を扇をもって打ち招く所が、喜三郎はことのほか好きであった。練習も積んでいて、自信がある。「イヤヤットコショ、コラ、ドシタイヤイ」と踊り手は叫ぶ。   ハテ健気なる若武者やエンヤットコセ    逃ぐる敵に目なかけそドッコイ    熊谷これにひかえたりヨーイセーヤットコセ    返せ戻せおういおういと扇を持って打ち招けばヨーイセーヤットコセ    駒のかしらを立て直しエンヤットコセ    波の打ち物二打ち三打ちコラショ    いでや組まんと馬上ながらむんずと組むヨーイセーヤットコセ    両馬があいにどうと落つエンヤーヤットコセ    やあやあなんとその若武者を組み敷いてかドッコイ    さればおん顔をよく見奉ればドッコイ    かね黒々と細眉毛ヨーイセーヤットコセ……  喜三郎は片手をあごにあて、ひざで拍子をとって体を揺すりながら、自分の音頭に陶然となる。彼がうたうと踊り手の手ぶりが微妙に狂うが、そんなことに頓着するぐらいなら、始めから音頭台に上がりはせぬ。   年はいざよう我が子の年ばいドッコイ    定めて双親ましまさんヨーイセーヤットコセ    そのおん嘆きはいかばかりとドッコイ    子を持ったる身の思いのあまり    うわ帯とってちりうちはらいヨーイセーヤットコセ    早落ち給えとすすむれどコラショ    いいや、一旦敵に組み敷かれコラショサア    なに面目にながらえんヨーイセーヤットコセ    はや首とれよ熊谷とコラショサア    その仰せにいとどなお涙は胸にせき上げし……  喜三郎はいつか熊谷の心境に同化し、悲しみに胸が潰れそうになる。彼の頬には止めどなく涙が流れる。「おーい、どしたんじゃい、音頭のないのはから踊り」と踊り手ははやし立てる。   まずこの通り我が子の小次郎ドッコイ    敵に組まれて命や捨てんコラショ    あさましきは武士の……やっとここまで唄って、喜三郎は立ちはだかったまま「オーンオーン」と声を上げて泣き出す。踊り手たちは櫓を見上げて、狐につままれたような顔をするのだった。 八月九日は盂蘭盆、穴太寺へ精霊迎えに、東は老の坂、西は観音峠の広範な地域に住む沢山の参詣人が集まる。門前に鬼灯が売り出され、参詣人は我勝ちに買い求める。鬼灯に仏がついてくると信じられていた。 二十三日は地蔵盆。六地蔵参りといい、早朝から草深い穴太寺に遠近の人たちの列が続く。曽我部の六か寺の地蔵尊を拝んで廻り、最後に穴太寺へ詣って、水塔婆に回向する人の法名を書いてもらい、冥福を祈る。この地蔵盆まで、若者たちは毎晩踊り続ける。 夜遊びもまた盛んであった。和一郎・重太郎らの友が表で口笛を吹く。喜三郎は咳ばらいする。しばらく待ての合図である。次の夜も、また喜三郎は咳ばらいして吉松にさとられ、頭をぶんなぐられる。次の夜から、口笛のかわりに下駄の音を合図にする。吉松はうさんくさげに息子の顔をみるが、喜三郎はすまして草鞋を作っている。目を離したとたん、塵払いを障子の穴から外へ突き出す。〃親父マダ起キテイル、シバラク待テ〃の返信である。 寝静まるのを待ちかねて家を抜け出る。暑くるしい狭い我が家に比べれば、外は涼風が吹きぬけ、夜空には天の川が白く走り、跳びはねたい自由が待っている。暗がりが若者たちを大胆にする。 十八、九の多情多恨の血をもてあまし、吐け口を求めてさまよい歩く。和一郎と重太郎の話は、自然と女に落ちる。「肥えとるのと痩せとるのと、どっちがええもんやろ」「やっぱり女子は、ぽってり肥えとる方が、抱いた時にふわふわ柔こうてええのん違うこ」「わしは反対や。すらっとした柳腰の美人に限る。言うたら、おきわはんみたいな……」「うーん、おきわはんならええなあ。色っぽうて上品やし……浅やんの奴、うまいことやりよったのう」 噂のきわは慶応三(一八六七)年生まれ、彼らより四歳年上の、村では目立つ器量よしである。京都の町家の娘だが、五歳の年に穴太の八田惣五郎に養女に来て、ずっとこの草深い地に育った。若者たちの長く関心の的であったが、斎藤弥兵衛(前述の忠相事件の時の学務委員)の弟浅次郎といつのまにかできていた。格段におとなしい男だったので、村人たちは奇異に思った。この年明治二十二年三月、長女を産み落とす寸前、あわてて浅次郎を婿に迎えたばかりである。年長の女に憧れる年頃の彼らには、恰好の話題であった。 重太郎は大げさに身もだえしてみせる。「畜生、たまらんのう」 続けて和一郎は言う。「誰が先に女子の味しるか競争しよけえ。どや、喜三やん」 だまって星ばかり仰いでいた喜三郎は、立ち止まって嘆息した。「いや、わしにはとうから、心の妻があるんじゃ」「心の妻?」 和一郎も重太郎も一度に声を上げて、喜三郎をはさんだ。「お前、恋しとるのか」「うん」「誰や?」「お蘭はんや。苦しゅうてどもならん」 正直、喜三郎は胸が高鳴って切なかった。教え子という意識が内在したせいか、蘭を小さい頃から妹のように愛してきた。異性として見る目を殺してきた。しかしその自制も、堰が切れようとしている。「うち喜三やんが好きや」と言い放った十二の頃の蘭の告白。清純で可憐なその声音が、ふくよかに花ひらく十六の娘蘭に重なって痛ましく響いてくる。「お蘭ならあかんあかん。喜三やん、あきらめい。士族の息子の与四郎がついとるでのう」「お蘭の薙刀でやられてみい。恰好つかへんぞ」「ほんまや。薙刀ばかりか、剣道やら剣舞やら荒っぽいことの好きな女子や。士族の息子を婿にして二人でチャンバラする気かのう」「薙刀と与四郎さえなけりゃ……おれかて好きや」「わしかてじゃ。けど相手は大地主の娘。小百姓のわいらとは、身分が違うさけのう。ほかの女で我慢しとけや。のう、喜三やん」 二人の親身な友は口々に喜三郎をいさめる。「お前ら、恋いうもん知らんさけ、そんなことぬかすんじゃ。恋は盲目いうてのう、神聖な恋の前には、薙刀も与四郎も地主もへいちゃくれもあるけえ。ただわしの眼にみえるのはお蘭はんただ一人や」 と言っているうち、ほんとうに世の中は蘭のほか何もないと思えてくる。 村内を一巡して小幡神社の脇道を下り、かつての主家斎藤家の築地に沿って歩くと、ふいに華やかな笑い声がして、門内から二人の少女が駆け出してきた。「あれ、喜三やんやで、姉さん」 十歳になる栄が姉蘭を見上げる。喜三郎は何か言おうとしたが、のどが干からびて声にならぬ。日頃は活発な蘭もにわかにうつむいたなり、月光の下に頬をそめる。「姉さん、喜三やんも誘ったげいさ」 栄が言うと、蘭は耐えかねたようにふいに門内に走りこむ。栄が驚いてその後を追う。呆然と見送る喜三郎の背に、しのび笑いが起こった。「ふられたのう、喜三やん」「恋は破れたりや。腹いせに、西瓜畑あらそけ」 喜三郎は、友がいうように単純に「ふられた」とは考えない。年上の与四郎を家来のように扱う蘭がわしを男として意識し出したのだ。つまり乙女のいじらしさやと思う。しかし友と口裏を合わせて叫ぶ。「よっしゃ、やけくそや」 家の畑の西瓜を三人で盗み食った。指で叩いて熟れぐあいを確かめ、地に投げると、西瓜は柘榴のようにはじけ、甘い香をまき散らす。月の光に互いに泣き笑いしながら、「畜生め、畜生め」と夜露に濡れて冷えた西瓜にかぶりつく。早い者勝ちである。種を出す間も惜しんで掴み食った。 翌日、西瓜に腹を痛め、泣き顔を押えて草刈りをする。畑から戻った父は、不機嫌な顔でぼやく。「くそったれ、西瓜を盗まれたわい」 ――盗人をとらえてみれば我が子なりちゅう川柳はうまいことでけたる、と感心しながら、喜三郎は幾度も厠へ通う。 夜が来て友の下駄が鳴り出すと、どういうわけかケロッと腹痛が治って、また抜け出る。調子はずれの歌をがなりながら村中を巡る。蘭の家の前では気どった声で恋歌を歌うが、恋しい蘭には会えぬ。その腹いせに、今度は和一郎の西瓜畑を襲って、翌朝またひどい下痢。 和一郎の父が顔を出し、吉松と西瓜の被害についてぼやき合う。憤慨のあまり互いに被害を誇張して語るのが、聞いている喜三郎にはおかしくてならない。 その夕、腹痛をこらえてべそをかいている喜三郎を吉松は呼びつけた。「おい、喜三、お前、西瓜盗人がどいつか知っとるのやないけ」「知らん……」 言いつつ、喜三郎の声は早くも震えをおびている。「ほな、これはなんじゃい」 吉松は、背にかくしていた浴衣を喜三郎の鼻につきつけた。浴衣の胸から膝へと西瓜の汁が赤くにじみ、とぼけようもない証拠を示している。「父さん、すんまへん」 喜三郎は父の前に両手をついた。覚悟の拳骨はとばず、嘆息が吉松の喉をならした。「西瓜の三つや四つ、可愛い伜の腹に入ったと思ったら、なに惜しかろやい。俺がくやしいのはのう、親をだますお前の不正直や」 喜三郎は身もだえて号泣する。吉松はあきれ、「お前、なんぼになったんや。鼻を拭いてあっちへ行け」 解放されるや、喜三郎はころげるように厠へかけこむ。 厠といえば、小幡神社の祭りの太鼓をかつぎ出し、厠の中でひそかに打って、「この罰あたりめ」と父になぐられた。 墓地に人魂が出る、と村中にデマをとばしておき、夜、のこのこと共同墓地に出かける。墓石の後にしのんで瓦斯燈に青紙を貼り、ボウッとともしてゆらゆらさせる。通行人は悲鳴を上げて逃げ出す。調子にのってやりすぎて、勇敢な奴の投げた石が鼻先に命中、ぎゃっと泣き出したばかりに正体が露見し、村中の笑い者にされたこともある。 実に思い出深い夏の日々である。 秋、寝る間も惜しむ穫り入れがすんでほっとすると、旧十月の亥の日がくる。家々では、収穫した新米で餅を搗き、ぼた餅にする。古くは農生産の神を祀る行事であったらしいが、本来の意義はほとんど念頭にない。関西の亥の子に対し、関東や東北日本には、旧十月十日のトーカンヤ(十日夜)の行事がある。亥の子の日ばかりは、子供たちは羽目をはずして遊ぶ。大方のいたずらも大目にみられる。 いい若者になった喜三郎は依然として子供の時と変わらず、十人ぐらいの仲間と党を作り、「亥の子のぼた餅、祝いまひょ。二つや三つでたりまへん。お櫃に一杯祝いまひょ」と叫びながら、夜おそくまで家々を廻り歩く。藁で作った棒状のもので門前を叩きながら、「何々はんと何々はんと祝いまひょ」とその家の主人と妻女の名を呼ぶ。後家の家なら、「何々はんと鼠と祝いまひょ」とやる。 日頃憎まれている家はこの日をおそれる。何しろいたずら公認の日とあれば、ひと波瀾はまぬがれぬ。荷車を土間に突っこまれてひっくり返される。朝起きると、なみなみ入った肥桶がもたれかかっている。うっかり開けようものなら、朝から臭い騒ぎである。もちろん先導は、いつも喜三郎だ。 いたずらの種は尽きぬ。 つい近くに美馬岩吉という独身男が、一間きりの小屋を建てて住んでいた。通称、ふろ岩とも花岩ともいう。ふろというのは鍬の刃につぐ木の部分だ。そのふろを作っていた。小屋のまわりには、李、棗、柿などの果樹が多く、また片手間に花を作って亀岡まで売り歩き、小金を貯めこんでいるとの評判だ。 亥の子の晩、喜三郎、和一郎、重太郎の三人は、ほかの連中がいたずらにあきて家へ帰ってもまだまだあきていなかった。夜ふけてふろ岩の小屋に忍び寄り、三方から揺すって、「地震や、地震や」とわめく。寝ぼけてころげ出るふろ岩の恰好に、三人は腹をかかえて笑った。 ふろ岩のあわてふためきぶりのおかしさが忘れられなかった。勝手に亥の子の日を延長して、翌朝もふろ岩の小屋に人工地震を起こした。と、内から戸がひらいて、思いきり竹箒がとんできた。間尺にあわぬのはいつも喜三郎だ。悲鳴を上げてとんで逃げたが、友の二人はげらげら笑っている。 ――わしだけどつかれるのは不公平や、と喜三郎は、竹箒をふり上げて友を追いかける。友は花壇の中を逃げ廻る。「やめてくれ、商売物の花が無茶苦茶や」とふろ岩も泣き声上げて、喜三郎を追う。 夜遊びの帰り、家の柿の木にのぼって柿を盗んでいる男をつかまえた。大地主の伜某であった。自分の屋敷には、いやというほど柿が熟れているというのに。あきれながら見逃してやったのも、この頃である。
 柴刈りの友らと山で出会って、力自慢をしあった。つい図にのって、友らの前で、山頂近くの大岩に手をかけ、力まかせに揺さぶった。と、思いもかけず大岩はゆっくり傾き、地響き上げて落下した。危く友が抱き止めねば、喜三郎まで谷底へ岩もろとも落ちこむところである。肩で息をはずませながら谷底を見おろしていると、下からよじ登ってくる老人が、しわがれ声をふりしぼって叫んだ。「阿呆んだら、わいら、わしを殺す気か」 老人は谷間で柴を刈っていたのだ。老人の怒りはいっかな鎮まらなかった。区長にまで訴え出た。区長は喜三郎らを呼び出していきまいた。「岩を元の場所へ戻すか、それとも殺人未遂で牢へぶちこむか」 喜三郎らは、岩を持ち上げようとしたがびくとも動かぬ。彼らは半泣きになって老人と区長の前に合掌し、拝み倒して、ようやく放免してもらった。
 丹波の冬は底冷えがする。草鞋作りの手も荒れて凍える。力をこめて荷車をひく京の雪道の往復に、どうしても三足の草鞋がいった。時には三足目もずくずくに濡れ、鼻緒を切らして捨てねばならぬ。雪泥の上を車をひいてはだしで帰るのは、泣きたいほどつらい。がんばって明日のための四足目の草鞋を編んでいると、例の八田与作が顔を出した。またぞろよい年をして、自分の足の長さを自慢しはじめる。どういうものか、与作の顔さえみれば、喜三郎の悪戯の虫は動き出す。「ほんな与作はん、音やんとこの野井戸、お前の長い臑でまたげるけ」と、喜三郎が聞く。「ふん、ひとまたぎや。臑が余って泣くわい」「そやろか」「よっしゃ、証拠みせたろ。わしについてこい」 寒風吹き荒ぶ野を長身の与作がのっしのっしと行けば、その後を喜三郎はほくそ笑みながらひょこひょこついて行く。目的の野井戸に来ると与作は裾を背まではしょり、「よう見とけよ」と念を押し、足をいっぱいにのばしてまたぐ。瞬間、喜三郎は隠し持った石を井戸の中に投げこんだ。薄氷が割れて水しぶきがふき上がる。与作の褌がびっしょり濡れた。「うーむ、や、やられた」 与作の褌からぼたぼた雫が落ちる。 あとはたそがれの野に、大男と小僧との珍妙な追っかけっこと隠れんぼだ。雪のぐしゃぐしゃ道を必死で走り、農家の庭先に入る。うろたえた眼に、庭の雪隠が入る。いきなり開けてとびこむと、何ものかに鼻がつきあたり、ものすごい金切り声が上がる。婆さんが用足しの最中であった。 婆さんにさんざん嫌味を言われほうほうの態で逃げ出すと、近くの農家の生垣に身をひそめた。ひどい近眼できょろきょろ探す与作を生垣の外にやり過ごすと、不意に後頭部に激しい衝撃を受けた。「この野郎、人の庭にかくれて何さらす気じゃ」 鍬の柄をふり上げてどなるのは、疑い深さとしつこさでは評判の兼やんである。昨年秋、共有山の松の根方で、喜三郎は思いがけず三本の松茸を採ったことがある。柴の荷に松茸を吊るして勇んで帰る途中、兼やんに出会った。兼やんは松茸の出所を疑ってきかず、仕方なく現場へ連れ戻り松の根方の三つの穴に松茸を突っこみ、やっと納得させたこともある。喜三郎があやまり弁解している生垣越しに、与作がのぞきこんで長い舌を出した。 ようやく放免され、和一郎へ不幸な災難を訴えに行く。和一郎は同情して、後頭部の大きなたんこぶに包帯を巻いてくれた。家へ帰るや、吉松に包帯を見咎められ、しおしおと白状した。災難は連続してやってくる。「この阿呆めが……」と、父の拳骨がとんできて、二つめのたんこぶがふくれ上がった。
 雪が深く積もって、京への荷車引きもかなわぬ日である。唐臼踏みと藁仕事に疲れた腰をのばして、喜三郎は庭に出た。ぼたん雪が、久兵衛池の青い面に音もなく吸われていく。雪が落ちた途端に水と同化する何の不思議もない光景なのに、喜三郎の胸はときめく。魅入られたように水面を見つめていた彼は、思いつめて盥を持ち出した。 村でとりつけた木柵を越え、久兵衛池に盥を浮かべると、いそいそと綿入れのまま乗り移った。ゆらゆら揺れる盥の中から、なおも水面に溶け入る雪片を見届けようとする。思わず体を乗り出しすぎて重心を失い、一回転して水の底。 雪をたっぷり含んだ池の水は鼻から脳天へ突き抜けて喜三郎をとらえ、凍らせ、心臓まで止めんばかり。泥を蹴上げてやっと浮き上がり、底を見せている盥にすがったが、水を吸いこんだ綿入れが重くて手足の自由がきかない。池のぐるりは直立した石垣で水苔がぬるつき、凍えた指ではとりつけぬ。泣くにも叫ぶにも声が出なかった。幸吉の呼び声を遠くのように聞きながら、失心寸前の頭の中で、「祟り池や、忘れとった」と思った。 息を吹き返した時は囲炉裏の傍であった。祖母も父母も、怒ったように無言で介抱していた。「盥船、おもしろかったかあ」と弟の由松が、高熱を出しはじめた喜三郎の頭を小突いた。 池や川に落ちこんで溺れかかった思い出は、幼い時から数限りない。よくも命があったものと思うばかりだ。
 いたずら好きでは、村内にまだ喜三郎の上手をいく者があった。ド狸めらである。 喜三郎と狸――なんとなく取り合わせがうつる。八文喜三の異名の通り、何か一つに気を奪われたら最後、他のことは抜けてしまう彼のことだ。すきに乗じて、しばしば狸にからかわれた。 狐狸が化かすといっても、月世界に人類の立つこの時代の若者は信じまい。しかし昔は、狐狸に化かされた話など日常茶飯のことであった。私自身も、そんな話をどれほど聞かされたことかわからない。今でも、田舎で暮らした老人たちに聞いてみれば、きっと真顔で一つや二つ語ってくれよう。月世界に住む兎は否定されても、彼らの頭から、狐狸が化かすという信念が消え去ることはあるまい。 喜三郎は後年(昭和七年八月)、座談会の席でこう語っている。「今はなかなか狐や狸は化かさんが、わしらはよう化かされた。ちょっと人智が進んでくると、化かすことはできん。昔の人は、狸や狐が化かすもんじゃということを、自分が思っとらんでも、腹の中からそういう血を受けているから化かされたんや。先祖代々血液の中にそういう血を受けているのやから。今の人は、そんな馬鹿なことあるもんかい、と思っているから……今(昭和七年頃)の狸や狐は、人の体の中に入って、自分たちのサックにして使っとる。人間も賢うなって、飛行機に乗って空を走ったりするが、狸や狐も人の体をサックに使うのや」 穴太寺の裏門前の旅篭万屋の隠居ゆたは、往時を思い出して語る。ある日、但馬からきた狸とりの客を泊めた。客は猟犬を連れて早朝出て行った。夕食前に帰って来た客は、調理場に数匹の狸をぶら下げてきて、「皮さえあったらよいさけ、肉は料理してんか。足らなんだら、なんぼでもある。狸の肉を食っといたら化かされんさけ、みんなも食いな」といった。その夜は狸のすき焼で舌鼓をうった。鶏肉と変わらぬ美味であった。食った後、下の小屋をのぞいたら、なんと二十八匹の狸がぶら下がっていて、さすがにへどが出そうだったという。当時の穴太には、村民の人口より狸公の数の方が多かったかも知れぬ。 喜三郎が小幡神社の脇道を歩いていると、卒塔婆が目の前に立つ。つかもうとすると、ピョコンピョコンと跳んでいく。「畜生、ド狸め」と立ち止まって眼をすえると、ふっと消える。 このように気がついた時はよい。が狸もさるもの、あの手この手でやってくる。 夏の夜、田水の守りに畦道を歩いていて、喜三郎はどきっとした。上田家の田の前で燈火が揺れ、人声が風にのって聞こえてくる。近づくと、姿や顔形まで浮いている。田の水口をふさいでいる気配。駆け出すとたん、溝に頭からころげこんだ。這い上がると、冴えた月光の下に人影はなく、狸公がゆっくり目の前を横切る。「こ、こいつ、待てい」と追っかけるとまた水の中。泥だらけになって、ようやく家に帰りつく。 何年か前、金剛寺の寺門一面に落書きして見つかり、禅味和尚に破門された。それからはときどき、穴太寺の行仁和尚に漢籍を習っていた。行仁和尚は喜三郎の才智を愛した。夏の宵、喜三郎が庭先に涼んでいると、行仁和尚が入ってきた。「和尚はん、おいでやす」と声をかけると、和尚は裏口へ廻って池のあたりでかき消えた。 翌日その話をすると、和尚は「お前もだまされたかい。わしも昨夜はころっとやられてのう」と苦笑しながら、こう語った。 夜ふけてトントン戸を叩くので開けると、喜三郎が立っている。「また追い出されたな」と言いつつ入れてやると、喜三郎はのこのこ上がって、和尚の蒲団にもぐりこんだ。「しゃあないやっちゃ」と蒲団をまくると、喜三郎の姿が消えている。狸の仕業とは信じられぬほど見事な化けようやったと二人で感心しあった。 穴太寺本堂の縁の下にはたくさんの豆狸がすんでいたと、今でも語りつがれている。ある夕暮れ、喜三郎が犬飼川の河原で感傷にひたっていると、向こう岸に大勢の腕白どもがあらわれて、ワアワア叫んで石を投げる。こっち側からも腕白の群があらわれて応戦する。石合戦だ。喜三郎の耳元をびゅんびゅん石がとびかうので、こらたまらんと逃げ出すと、穴太寺の本堂の床下から、「こっちや、こっちや」と友らの声がする。あわてて喜三郎も床下にもぐりこもうとすると、後からぐっとひっぱられた。「お前、そんなとこにもぐって、どないするのや」 気がつくと、暮れ方の穴太寺はしんと静まり返り、小学校の小使の斎藤亀やんが、疑わしそうな眼で喜三郎をみている。石合戦も友らの声も、すべて豆狸共のいたずらであった。 恨み重なる狸の群に、柴刈り帰りの野原で会った。夕陽をあびて七匹ものんびり昼寝している。鎌をふるって狸の群にとびこみ、二匹までたしかに仕止めた。ふんのびた狸の手足を縛って柴の荷にくくりつけ、意気揚々と引き上げてくると、急にあたりが暗くなり、月が中天にかかった。おやと空を見上げたはずみ、足が空を踏んで、喜三郎はざんぶと山池に落ちこんだ。柴を背にしたまま、やっとの思いで這い上がる。夕陽が山の端に沈むところであった。 急に臆病風に吹かれ、ずぶ濡れのまま穂芒ゆれる道を走った。家にとびこんで荷を下ろしたが、吊るしたはずの二匹の狸はいない。家の者らは笑うばかりで、狸の昼寝も二匹の獲物もぜんぜん信じてはくれなかった。 狸寝入りではないが、狸が死にまねすることは、事実あるらしい。打ち殺した狸を土間に置いて百姓が飯を食っていると、犬がしきりに吠え立てる。見ると、死んでいたはずの狸が頭を持ち上げ、犬を見ている。百姓がエヘンと一つ咳ばらいすると、あわてて眼をつぶり狸寝入りする。しばらくするとまた狸は細眼をあけて様子をうかがう。だから老巧な犬は、狸が死に真似してもなかなか油断しないという。また、背中の皮を半分はがれた狸が、人がちょっと油断しているすきに、起き上がってのそのそ逃げ出したという話もある。 してみると、喜三郎が打ち殺したと信じたあの二匹の狸も?……
  いたずらや失敗の反面、八文喜三は、一方では当時流行の大衆文芸にも頭角をのばしていた。十八の春から、穴太で有志が出している「あほら誌」や「圓圓珍聞」という月刊誌に狂歌・狂句・都々逸・戯文などを毎月欠かさず送りこみ、その刊行を待ちわびた。亀岡で発行の雑誌「公園」や「真砂」の熱心な投書子でもあった。 また村人たちを集めて、軍談・落語・仁輪加などを聞かせて得意になった。おりおりは戸長に頼まれて、村人たちに京都府令を読み聞かせた。そういう意味では、村では重宝な存在であった。 穴太寺で毎月通夜講があったが、喜三郎は選ばれて、参詣者の前で《法華経普門品》と《観音経》の解説をした。その評判が高かったので、本門仏立講からも誘いをかけられていた。しかし喜三郎の気持ちは、仏教よりも神道にひかれた。士族の矢島某に国学を習い、日本書紀、日本外史と短時間に読み進み、日本の国体について思念する時を持った。「渋売って小銭もうける渋い奴」と友らにひやかされながらも、喜三郎は共有林の青柿をもいで渋をとり、町に売りに行った。そのわずかな儲けを貯めては本を買い、むさぼり読んだのもこの頃である。 きりもなくいたずらし失敗する八文喜三、学び考える喜三郎、どちらも真実の喜三郎であった。
表題:安閑坊喜楽 1巻6章
安閑坊喜楽



 明治二十四年、二十一歳の春、喜三郎は徴兵検査を受けた。いわば成人の儀式であった。 喜三郎は身長一・五六メートル(五尺二寸)で乙種予備兵に編入、兵隊には行かなかった。だが二十歳を過ぎてからも身長がのびたらしく、二十五歳の時に刑務所の看守になる検査を受けた時は一・五九メートル(五尺三寸)になっていた。 穴太から四人の適齢者があった。大亀の息子太吉は一・四七メートル(四尺九寸)で丙種、穴太から一人も甲種が出ず、肩身を狭くした。田舎道を四人連れ立って帰りながら、一人丙種の太吉は腕まくりして、「樫は細ても強かろう。山椒は小粒でもぴりりと辛いわい」と負け惜しみ言った。 外側の入れものの大小だけで、生身の人間に優劣のレッテルをはる。これで日本の軍隊は大丈夫なのか、との疑念は、喜三郎にもあった。 ――図体のでかい人間だけが、お国の役に立つわけやない。人間は中身が大事や。国を富ませ、力を充実させるのは、まず優秀な頭脳、精神力。 甲種になれなかったことに、なんのくやしさもなかった。学ばねばならぬことは、あまりにも多い。
 穴太寺の書院から眺める庭にも秋の気配が忍び寄る。静寂を破って鯉がはねた。「それじゃ秋の法会には、お弁を手伝いによこすわ」と言って腰を浮かす八木清之助を、行仁和尚は押し止めた。「まあ待ちいな、兄さん……実は会ってやってほしい男がおる」「ほう、誰やいな」「上田喜三郎ちゅう青年や。阿呆か利口かつかめん男やが、ちょっとおもろい」「その男がわしに何の用があるねん」「兄さんが、度変窟烏峰ちゅう冠句の宗匠してる言うたら、ぜひ会いたいそうな。さっき使いを出したさけ、おっつけくるやろ。まあ熱いお茶でも入れるわ」 火鉢の上で、鉄瓶の湯がたぎっていた。 八木清之助は弘化四(一八四七)年、穴太から一里ばかり北の拝田村に生まれ、当年四十五歳。 万延元(一八六〇)年三月桜田門外の変が起こり、井伊大老が水戸の浪士らに暗殺された年、清之助は十四歳で京へ出て、ある宮家の仲間奉公に住み込み、多感な少年期をめまぐるしい歴史の渦に巻きこまれる。翌文久元(一八六一)年十月十二日早暁、公武合体に決し、泣く泣く関東に降嫁される和宮の供として清之助も江戸へ下り、小石川藩邸に滞在する。 文久二(一八六二)年七月、尊攘激徒は島田左近暗殺を皮切りに体制転覆をはかって乾坤一擲、捨身の行動に出た。つぎつぎと天に代って罪ある者を誅伐すると称して、猛烈なテロの嵐が吹きすさぶ。京都市中をふるえ上がらせたこの天誅の一連の事件を、十六歳の清之助は目撃したまま克明に記録した。 文久三(一八六三)年八月十九日、八・一八政変の翌朝、小雨降る中を落ちていく七卿に従って十七歳の清之助も長州へ。 元治元(一八六四)年七月十九日。六月の池田屋事件に続いて禁門の変起こる。長州から戻った清之助は桂小五郎と連絡。桂(のちの木戸孝允)は十八歳の清之助を頼って京をぬけ、拝田の清之助の家にひそむ。清之助は藁小屋に桂をかくまい、のち八木・園部を経て、但馬・出石へ逃がす。 あの幕末動乱期の波乱に満ちた青春が懐かしい。そのころに冠句も学んだ。 父が病弱のために維新後、郷里の拝田村に帰り、明治三(一八七〇)年に同い年のみつを娶り、翌四年二十五歳で八木家を相続した。以来、百姓のかたわら筆の行商をして生計を立てている。妻みつは三年前に四十二歳で没。みつとの間に一男二女があり、この春、長女さとを馬路の中川家に嫁に出した。女手がなくなったため、京都へ見習い奉公に出していた十七歳の次女弁を呼び戻し、老母と十四歳の長男の丑之助との逼塞した四人暮らし、時おり村の青年を集めて冠句の手ほどきをするぐらいが楽しみであった。 次弟信太郎が穴太の村上三郎兵衛の養子になり、三弟が穴太寺にもらわれて穴穂姓を継いだ行仁和尚である。二人の弟が縁づいているため、行商の往き帰り、清之助はよく穴太に立ち寄る。 行仁和尚と世間話をしながら熱い茶をすすり終わるまでもなく、継ぎはぎだらけの着物をまとった上田喜三郎が現れた。人なつこい邪気のない笑顔が清之助を魅きつける。 行仁和尚が二人を引き合わすと、喜三郎は膝を乗り出した。「わが大日本帝国がかりに軍備や経済力で世界の一流国にのし上がることができても、それは進路を誤まるものやと思います。日本は文化国家を目ざすべきであり、それこそまさに〃光は東方より〃ですわ。そのためには文化を都市の専有物にするのではなく、農村の隅々まで浸透させることが必要です。もちろんわしの言う文化とは鹿鳴館のような西洋の模倣文化とは違う。日本独自の文化です。 そもそもわが穴太の産土神社である延喜式内小幡神社の御祭神が開化天皇であらせられることも、深い神策のあることと思うんですわ。すなわちこの曽我部村穴太の地より真の文化の花を開けとの御神示でっしゃろ。そこで及ばずながらこのわしが、いよいよ大日本帝国の真の文化革命の狼煙を上げてこまっしゃろと――ははは、どうもすんまへん。ところで度変窟烏峰宗匠の御意見を?……」 きょとんとした眼で、清之助を見る。喜三郎の気炎にあおられて清之助が絶句すると、行仁和尚が苦笑いしながら言葉を添えた。「まあそれより、喜三やんの用件を先に言いな」「そうだっか、ほな申し述べさしてもらいますけど、そこで穴太を文化村にするためには何から手をつけるべきかとつらつら思案したんやが、見わたしたところ、穴太の連中ときたら文化とはおよそ縁のない代物ばかりでっしゃろ。行仁和尚がせいぜい漢籍を読むぐらいの素養で……あ、しまった、わしはその和尚から習うたんやった。後は斎藤源治はんところの養子の与四郎はんが中学を出たぐらいのもんや。詩とか和歌とか俳句とかあまり高尚なもんは、彼らの柄やおへん。ところが八木さんが冠句の宗匠やと聞いて、これじゃと閃いた。冠句、うん、冠句なら誰でも作れる。そこで手はじめに穴太に冠句のサークルを作ろうと思い立ったわけですねん」 日本の文化革命と大上段にふりかぶったからには何事ぞと思えば、どうやら穴太に冠句会を作りたいと言うことらしいので、清之助はがくっとつんのめる気分であった。
 冠句については、今日ほとんど知られていないし、参考書も入門書もない現状なので、若干の説明を加えておこう。 冠句は、笠付・烏帽子付・かむり付・かしら付などともいう雑俳の一種だが、戦後、NHKの「とんち教室」で冠づけとして盛んに行なわれたといったら「ハハーン」といわれる方が多いだろう。初期は、俳諧入門の一法として、前句付についで元禄頃から広く利用された。季感も季語も切れ字もない、その自由さが大衆に受けた。 徳川五、六代将軍の頃は、入選者に賞金が出たりして、あちこちの冠句会に出ることを渡世のようにする者が出る始末で、幕府はしばしば禁令を発したという。赤穂浪士大高源吾の「なんのその岩をも通す幸の弓」という冠句も知られている。 しかし文芸的には成熟を見ぬまま次第に衰え、近くは明治・大正年間に地方的に冠句熱を盛り返したが、現在はほとんど行なわれず、わずかに教団「大本」にその伝統を残すのみである。 冠句の形式は、俳句・川柳と同じく、五・七・五の三句からなる。俳句・川柳との大きな差は、前者は「初雪」という題が出れば初雪に関したことを吟ずればいいが、冠句は題そのものを上の句とし、作者は中の句と下の句をつけ加える。題を上にして自分の句をつける姿が冠をいただく風なため冠句、逆に題を下にして上に五・七文字をつければ沓句となる。通常、良い句から順に、天位・地位・人位、これを「天地人三光明」と呼び、ついで軸とする。次に秀調、佳調、月並の句を平調、それ以下は没句とする。選の発表を「巻開き」と称し、天位になることを「巻をとる」という。 八木清之助は喜三郎の意を察して、おもむろに言った。「御趣旨はよう分りました。そこでわしに句会作りの協力せいと言わはるのやな」「いや、それはわし一人でやります。度変窟烏峰宗匠には選をお願いしたいんや」「しかし御承知やと思うが、わしは百姓のかたわら筆の行商をしてどうやら食うとるようなわけで、それに拝田村でも冠句を教えとるさけ、毎月の例会に責任持って顔を出せるかどうかもお約束でけしまへん」「ああ、それは大事おまへん。宗匠の場合は言うたら箔づけのためで、大きな冠句会で年に一、二度選してもろたらええのや。並の句会には朝寝坊閑楽宗匠が選しよりますさかい……」「なんや、そのずぼらな名前の宗匠は?……穴太にそんな宗匠おったかいな」と、行仁和尚がびっくりした声を上げた。「いまんがな、いまんがな、ほれここに……」と喜三郎は自分の鼻の頭を指でさし、「もっとも和尚が御存知ないのも無理はない。この名前はいま思いつきたてのほやほやや」 清之助と和尚は二の句が継げず、自信に満ちた喜三郎の顔を眺めた。ややあって清之助が訊く。「すると何でっか、上田さんは今までに冠句をだいぶやりなはったんですか」「やりまっかいな。そやさけ度変窟烏峰宗匠にお初に弟子入りしますのやがな」「……弟子入りして、すぐに宗匠?……」「よろしやんか。別に家元があるわけやなし、要するに宗匠としての力量が問題や」「そやかて、なんぼなんでも……」と、和尚がこだわる。「会としたら、宗匠の多い方が景気がええ」 行仁和尚はいささか坊主頭に来たらしく、開き直った。「よっしゃ、そんならわしが試しちゃるわい。出題するさけ、一秒以内に答えるのやぞ」「あれ、まだ教わらん先にとは、和尚も気が早い」「うるさいわい。えへん、まず〃女房に〃でどや」「女房にしてから器量わるく見え――」「なるほど、こいつはおもしろい」「おもしろいまっ最中に妻嵐――」「うむ……と〃朝夕に〃はどうじゃ」「朝夕に昼に三度の飯を食い……これでは曲がなさすぎる。やり直しや。朝夕に臭ても便所を訪問し――朝夕に木魚の割れ目で思い出し――朝夕に寝床で木魚たたく僧――どうにも品がようない。けど和尚のことやないで。一般論や」 冠句の巧拙はともかく、湧き出るような作句ぶりに、清之助は舌を巻いた。「分りました。上田はんなら初歩の人の手ほどきぐらい充分できるやろ。そこで朝寝坊閑楽宗匠としての指導方針をうけたまわりたい」「冠句は大衆文芸の上乗なものである。俳句のごとく拘束なく、歌のごとく冗長ならず、しかもきわめて凡俗なるが故に、老人にも子供にも、男にも女にも、学あるも学なきも、誰でも作れるのが味噌ですなあ。その範囲が非常に広いちゅうところが、まだいくらでも進歩発達の余地があるわけや。そこで初代朝寝坊閑楽宗匠の抱負としてはですなあ……」「ちょっと待ち。初代とは、つまり喜三やんのことか」と、和尚が口をはさむ。「わしが初めて朝寝坊閑楽を名乗るのやさけ、わしが初代にきまっとりますがな」「ふーん、まあ続けてくれ」と、和尚は毒気を抜かれて茶をすする。「冠句は、奥さんとか女房とか言うところを、嬶とか嬶村屋とかわざと下品に表現して興がるところがある。それを朝寝坊閑楽が深く掘り下げて芸術にまで向上させようというわけです。たとえば出題も神とか人生とか真理とか……」 きりなくまくし立てようとする喜三郎を、慌てて清之助がさえぎった。「上田さんの芸術論はまたの機会にゆっくりうけたまわることにして、具体的に会を結成するとなると、まとめ役がいりまっしゃろ」「それはもう決まってます。このわしが、つまり安閑坊喜楽が幹事役を引き受けますがな」「安閑坊?……上田はんの号は朝寝坊やないかいな」「ああ、朝寝坊の方は選をする時の仮の名や。投句する時の本来の号は安閑坊喜楽。今後はわしのことは、〃喜楽はん〃と呼んでもらいます」「しかし上田はん……」「喜楽はんと呼んでえな」 清之助は苦笑して、「それじゃ喜楽はん」「はい……」「つまり何ですな、安閑坊喜楽としてあんたが投句しなはった句を朝寝坊閑楽としてあんたが選することになりますなあ」「まあ、そう言うことですわ。せっかく集句しても、巻をとる句がしょうもないんでは物笑いでっしゃろ。やっぱり安閑坊喜楽の名句も入れときたい」「けどそれでは具合悪いことないか」と和尚が言う。「朝寝坊閑楽宗匠としては、たとえ喜楽の句とはいえ、絶対に依怙贔屓しまへん。厳正至直に選するさけ心配ない」「……」「それから会の名前は偕行社。同人のほとんどが偕行小学校出身やさけ、これは文句おへんやろ。月に一ぺん出す句集の名前は〃あほら誌〃でどうでっしゃろ。顧問は行仁和尚、いや、顧問ちゅうても別に仕事せんでもよろし、資金さえ出してくれはったらええのや。どうせ働かんとお布施で食ったはるのやから、ちっとは社会に還元する必要がおますやろ。そや、例会の会場はこの穴太寺や」「おい、待て。顧問のことも会場のことも、わしは初耳やで」と行仁和尚。「わしかて初言いや。未来の文化村穴太の為に、それぐらい貢献した方がよろしやろ」「そらまあなあ……」と釣りこまれて行仁和尚は承諾する。「ほなこれで何もかも本決まりや。これから同人集めせんならん。度変窟烏峰宗匠、どうぞよろしく。ほなごめん」 ぺこんと頭を下げていったん書院を出た喜三郎、再びそそくさと戻ってきて清之助に向い、「大事なことを忘れるとこやった。わしはずっと前から宗匠の弟子やったことにしといとくれなはれ。何しろズブの素人がいきなり朝寝坊閑楽宗匠では仲間が承知しまへんやろ。わしが宗匠、あんたが大宗匠、そや、これで行きまひょ。その代わり、安閑坊喜楽の師として烏峰宗匠の名は後世まで残ることになりまっせ。あれ、話に夢中でお茶飲むのん忘れとった」 冷えきった茶を一息に飲みほすと、あっけにとられる二人を残して喜三郎はとび出して行った。ややあって、清之助が呟いた。「ほんまに阿呆かかしこか分らん男や。ともかく並の神経の持ち主やないのう」
 かくして明治二十四年秋、冠句サークル「偕行社」が結成された。撰者は度変窟烏峰宗匠(八木清之助)・朝寝坊閑楽宗匠(上田喜三郎)。社長に四十がらみの文学青年村上信太郎(八木清之助の次弟)を祭り上げ、幹事は安閑坊喜楽(上田喜三郎)――第一回冠句会は喜三郎が天位を得た。以来、冠句に熱中し、村でも「喜楽はん」が通り名になっていく。
 徴兵検査に乙種であったこと、喜楽はんと呼ばれて文化人気取りで悦にいっていること、ひまさえあれば本を読んでいることなど、すべて吉松には不満の種であった。「本を読むひまがあったら、百姓に励め。学問などして、親の雪隠に糞たれんようになったらどもならん」 吉松の口癖であった。その文句をきく度に、世祢は恐れるように面を伏せ、つらそうに涙ぐんで、おずおずと息子に哀願する。「喜三や、お前は百姓の伜や。上田吉松の息子や。どんなに気ばらはっても蛙の子は蛙。羽をはやして空をとぶような高望みなど、起こさんといてなあ」 宇能だけは違っていた。年老いて耳はひどく遠かったが、夜更けて本を読む喜三郎のために土器に灯油を足してくれたり、人知れず気を配ってくれた。反古紙があれば喜三郎のために大切にとりのけておいてくれた。その裏に、喜三郎はひそかに絵を描く。建築現場で拾った木片をけずって、胸ときめかして彫りつける。だがそれすら、吉松は許さぬ。苦心の絵を引き裂き、未完の彫刻はかまどの火に投げ入れる。「くだらん絵など描きくさって、貧乏所帯がもてるけえ。この極道め」 喜三郎は叫びたかった。 ――父さん、目をこすって、世の中の大勢をちょっとは見てくれ。大日本帝国憲法は発布されたんやで。帝国議会かてひらかれたんやで。これからは全国の草莽が、お国のために立ち上がらんなん時代や。親の雪隠に糞たれるばかりが孝行け。この大事な時を車力と蛙とばしのみみず切り(百姓のこと)で過ごせちゅうのか。 ――泥鰌みたいに泥の中をはいずり廻り、やれ田草とりじゃ、肥料や、水や、害虫やのと身も心もすりへらし、でけた米も大半は地主におさめ、屑米ですら新年までも食いつなぐだけ残りよらん。米を作る百姓が米を買う。米を作らぬ地主は、ぬく袖であり余るだけの米がころがりこんできよる。父さん、ほんまにこれでよいんか。それもこれも、百姓が勉強せんと、地主らの頤使に甘んじてたさけやんか。 しかし理屈で父親に楯ついても、ぶんなぐられるのが落ちであった。
 喜三郎が成人した初めての夏――待ちかねた盆踊りの季節がやってきた。若人の情熱をかきたてる櫓太鼓が鳴り響く。この日のためにとっておいた新しい下駄をおろし、浴衣がけに赤襷、粋に裾をはしょって、胸はわくわく、顔はさも、さりげなさそうに集まってくる。 斎藤家の広い庭の中央に例年どおりこしらえた音頭台には、太鼓のわきに酒が一升、唄い手ののどをうるおす分である。ひやであおって酔いにまかせて声を張り上げる連中の中で、喜三郎だけは饅頭を頬ばり水を飲む。下戸であった。しかし陶然と酔った気分は人一倍だ。 踊りの輪は、三重、四重と熱気をこめた渦になる。ここだけで踊り足らぬ若者たちは、遠近の村々へ移動する。しょせんは異性の香にひかれ渡り歩くのであろう。踊り狂って夜明かしして、朝戻った時はおろしたての下駄がちびてはけなくなっていたという。 騒音防止条例などのない、まことに古きよき時代のことである。 夜ごとの踊りにもさすがに疲れのみえてきた晩夏、八月二十三日の踊りじまいの宵であった。 喜三郎は踊りを抜けて、離れの前にある勝手知った清水の石段を下りた。半間四方ほどの石垣で囲った小さな湧き水のたまりである。手をひたすと、しびれるほど冷たい。疲れたのどをうるおし、清水にかぶさって低く枝のたれた楠の木陰に憩う。 ここにいると、動の世界からふいに静の別天地に踏みこんだ感がする。「妙々々々」と単調なリズムが流れてくる。低くかすかではあるが、若人たちの喧騒とは全く別の、澄み切った声である。離れの間で、斎藤家の隠居直子が毎晩心を澄まし、一万回の妙々を唱えているのだ。「おーい、川原に涼みに行こけえ」「喜楽はーん、どこじゃーい」と友らの呼び声がする。「ここや。先に行っとれよう」と答えながら、妙々に耳を傾け、喜三郎の腰は動かぬ。門を出て行く友らの足音が遠ざかると、白い浴衣の裾が近寄り、木陰の暗がりをのぞきこんだ。「肉桂……肉桂とりに行かはらへん、喜三やん」 はっと顔を上げると、音頭櫓の紅提燈の灯に輪郭だけ淡くにじませた蘭である。「うち、先に行ってる……」 囁くなり、返答も待たずに蘭は去った。すぐには、喜三郎は立てなかった。 源治夫妻の意であろう、年頃になった蘭の身辺には、常に妹の栄がいた。栄と共に与四郎がいた。その上、夜ふけては、庭の踊り場からさえ姿を消した。言葉を交わす隙もなかったのだ。 そうだ、肉桂があった。この家の下男であった十五の時、十二の蘭にせがまれて、よく中庭の奥の肉桂の根を掘ったものだ。二人でしゃぶった肉桂のつんとくる香気と辛みを思い出し、喜三郎は涙ぐんだ。 踊りの輪をすり抜けてそっと西門を押すと、ぎいっときしみながら開く。それを後手で閉め、月明かりの縁と座敷をうかがった。人の気配はなかった。肉桂の大木が庭の半ばを濃いかげでおおっている。つつじの丸い植込みが続き、千両のおい茂った奥の石灯篭の足元に蘭はしゃがんでいた。蘭は無言でとびついてきた。月の光も届かぬ中で、おののきつつ、二人はひそと抱き合った。蘭の肌のぬくみ、髪の香りに魂も空をとびそうである。「うち、毎晩、喜三やんにもろうた松と鷹を彫った煙草盆、抱いて寝てるの」 耳元に甘くかおる息がくすぐったい。「お蘭はん、煙草吸うのか」「うち吸わへんけど、あの煙草盆、喜三やんが一生懸命作ってくれたんやもん……」「そうか。そら、わしにしたら悪い気はせんけど、あれ四角うて固いし、あんなん抱いて寝たら痛いやろに……」「ちょっとぐらい痛うても、喜三やんの代わりや思たら……」「けどあれにはごつい字でわしの名前が彫りつけたるさけ、誰かに気づかれたら……」 と、荒々しく西門が開いて、誰かがあわてたように入ってくる。与四郎だ。二人は息をつめた。互いの心臓の鼓動が雷のように響き渡る。与四郎は気づかず、とび石伝いに庭を廻って明智蔵の方へ消えていく。「与四郎に見つかってもだんない。ここにいて、喜三やん」 蘭は喜三郎の腕にしがみつき、必死になって囁く。が喜三郎は、己の労働のいやしい汗の匂いが急に恥じられて、いたたまれなくなった。蘭がかつての主家の娘であり教え子であったことにも、愕然として気がついた。与四郎の足音が戻ってくる寸前、喜三郎は蘭を突き離してとびのいた。「今夜はあかん。こらえてくれ」 夢中で米蔵の方へ廻り、植込みを踏んづけて逃げた。卑怯者と己れをののしりながら。
 悶々として寝られぬ夜が続いた。あの夜より、蘭は家に閉じこもって姿を見せなかった。さぞ恨んでいよう。突き離して逃げる時、蘭の泣き声を聞いたような気がする。せめて蘭に会って、一言許しを求めたい。恋しているのは自分だ。こんなに激しく狂おしく慕っていながら、身を投げかける蘭を抱き止めることもようせず逃げた、わが胸のうちを訴えたい。 夜中に蘭の家のまわりをさまよった。米蔵の裏から忍び入って、肉桂の幹に抱きついて歯をくいしばった。表立って逢いに行く勇気はなかった。かつての主家の娘であることが、喜三郎の心を縛っていた。いつだったか、恋は盲目と誇らかに友らに宣言した。だがまわりのすべてに眼をつぶって、蘭だけを奪う、そんなことがどうしてできよう。情にまかせて散らすには、蘭はいとしすぎる。奪ったのち、どんな幸せを与え得よう。己れの独力で蘭を養うどんな術があるというのか。二十一歳の小百姓の小伜はふるえて泣く。 ――私は必ず出世する。出世した暁には、あなたを堂々と妻に迎えに行く。それまできっと待っていて下さい。 喜三郎は筆を走らせる。が、水茎の跡の乾かぬ間に破り捨てる。出世? いつ、どうやって? いったい、いつまで待てと蘭に言うのだ。幾度書いても同じこと。絵空事だ。さげすまれても仕方ない。おれは弱虫だ、卑怯者だ、男の中の屑だ。 八文喜三は、また一段と呆けたように空行く雲を眺めていた。稲は重く穂をたれ、悩む一時の間も許さぬ穫り入れの季節がもうやってくる。
 ある日、喜三郎は先祖から伝わる胯矢をとり出し、久兵衛池の真鯉を狙って突き刺した。氏神の祭礼の日のために父が大切に飼っている鯉であった。仕止めた鯉は和一郎の家に持って行き、鯉こくにして共に食った。 明日は祭礼という日、吉松は鯉が一匹足らぬのをみつけて、ぼやき出した。と、和一郎の弟徳やんが顔を出して、ぶちまける。「あんなあ、言うちゃろか。せんに喜三やんが持ってきて、兄さんと一緒に食てもたわ」 聞くなり喜三郎は横っとびに逃げ出し、和一郎の家に隠れた。夜になって、和一郎をなだめ役に先に入れ、喜三郎は軒下にたたずんで、わが家の気配をうかがった。和一郎のしどろもどろの声が聞こえる。さいわい亀岡の伯母岩崎ふさと船岡の叔父佐野清六が祭りのためにきていたので、吉松の怒りはうやむやのうちにおさまった。 翌日の秋祭りには、ぜんざい餅と鯖ずしをつめこみ過ぎて、三、四日はピーピーと鵯の谷渡り(腹下し)である。 谷渡りがすむと、柴刈りだ。快調となった腹の運動に、高らかに一発放屁した。折あしく背後で柴刈っていた爺さんが怒って鎌をふり上げ、帯を切った。切られた帯をつなぎ合わせて帰ると、吉松に気づかれ、わけもいわぬ先に煙管がとんできた。「また下手くそな相撲とりくさって」 喜三郎は弁解しなかった。誤解をとけば、また煙管がとぶばかりだ。おでこのこぶに唾をつけながら、心の中で呟いた。 ――父さんかて、都鳥の四股名で若い頃よう相撲とらはったそうやんか。先祖代々好きな相撲やさけ、わしかてとりたいんや。 ここで喜三郎のため一言つけ加えたい。いまでは、喜三郎の方が父より遥かに体力はすぐれていた。抵抗すれば、拳固や煙管のつぶては軽くさばけたろう。しかしそうすることなど、考えもしなかった。なぐられっぱなしか、さもなくば恐怖や自責のために逃げ出すだけだった。 どんなに叱られても、性懲りがない。屋根裏に行司の団扇が三、四本、くすぼったまま投げ出されていた。上田家は祖父の代まで三、四代、宮相撲の行司役をしていたのだ。喜三郎は行司団扇をそっと取り出し、辻相撲に使った。煤けた団扇を川水で洗うと、もろくも破れた。その部分に紙を貼って墨で黒くよごし、屋根裏に返しておいた。父に見つからぬかと、しばらくは屋根裏をみる度にびくびくしたものだった。
 この秋、また接骨医の世話になった。松葉かきに行き、恋しい蘭の面影を追って歩き、岩の上から足を踏みはずしたのだ。谷に落ち、足の筋を痛め、越畑の名医には懲りていたので、村の接骨医の平助爺さんにかかった。七十に余る爺さんは、年齢に似ぬくそ力で痛めた足をひねり、ますますこじらせてしまった。晩秋の二月余、立てぬまま家で寝た。谷に落ちこむ心配もなく、存分に蘭を抱き空想の羽をのばす。 あれはもう六年前、深夜の斎藤家の下男部屋、松の木に羽を休める一羽の鷹の図柄を自作の煙草盆に彫刻していると、蘭が忍んできて乏しい灯りに油を足してくれた。完成したら蘭にやる約束をした。十二の少女に使い道などないのに、蘭はでき上がった煙草盆を胸に抱きしめ、撫でさすっていとおしんだ。十八になった蘭は、今夜もあれを抱いて寝ているのだろうか。それとも気づかれて取り上げられたろうか――。 多恨の血のたぎりはうっすらと涙になる。こうしてはおれぬ焦燥の思いが、激しく喜三郎の全身をかむ。「おい、兄貴、よい話、教えたろか」 由松がにやにやしながら、喜三郎の枕元にあぐらをかいた。「聞きとないわい」 また嫌がらせにきまっとる、と喜三郎は背を向けた。由松は中腰になって去る気配をみせながら、「お蘭のこっちゃ、聞きたないのけ」「な、なんやて、おい……」 喜三郎は向き直る。「へへっ、顔色が変わったの。お蘭が何しよと兄貴には関係ないやんけ。それとも兄貴、お蘭となんぞあったんこ?」「お蘭はんはそんな娘やないわい」 由松の卑しげな薄笑いに反撥して、喜三郎は断言した。由松の眼がきらっと光る。「やれやれ、そやろ、そやろ……」「由松、はよ言わんかい」 焦れて、喜三郎は痛い足を投げ出したまま、上半身を起こす。「娘十八、番茶も出花や。おっと、番茶どころか、まず村では玉露ちゅうとこや。摘むなら早いが勝ちやった」「お蘭はんが……」「与四郎にいかれてもたわい。もうすぐ結婚式やと。なんで急ぐにゃろと思たら、へへっ、腹ぼてになっとんやて。どや兄貴、おぼえはないか」 由松は兄の顔をのぞきこむ。「もっとも小作の伜、おまけに斎藤家の元下男喜三公では、手も足も出んのう」「あっちへ行け。眠いんじゃ」 喜三郎は頭から蒲団をかぶった。 ――ほんまやろか、お蘭はんが……。 珍しく真剣な由松の眼であった。嘘をついている顔ではない。無念の涙がふき上がる。出世した暁にこそ蘭をと念じていたのに、彼女はすでに成熟していたのだ。盆踊りの最後の一夜が瞼に浮かぶ。蘭を与四郎に突きやったのは、わしではないか。子を、与四郎の子を。いずれはそうなる運命だったのだ。許婚の仲であれば、むしろ祝福してよいではないか。なに咎めることができよう。喜べ、喜んでやれ。己れに命じながら、世の中が急激に光を失っていた。何もかも失って闇となった思いに慟哭した。
 斎藤家の婚礼の賑わいは、寝ている喜三郎の元にまで伝わってくる。蒲団の中で輾転反側した。美しい花嫁姿の蘭、子を宿した蘭の幻影に苦しんだ。「兄貴、よう兄貴……」 また由松だ。「腰抜け兄貴、お蘭を取り戻す気ないのけ」「じゃかましわい」「河原に失恋組が集まっとるぞ。やけ酒やない、やけ醤油の飲みくらべやて。醤油屋の五助が一升持ってくるそうや。一等には一円の賞金がついとるぞ」「……」「式をぶっ潰しに行くか、そやなかったら河原へ行け」「足が痛とうて動けるけえ。それよりお前こそ……」 言いかけて言葉をのんだ。由松の顔に走る痛みを見たのだ。蘭と由松は同い年で、学校でも机を並べていたが、意地悪ばかりする由松を、蘭は嫌っていた。そうか、あいつも好きやったんか――。 喜三郎ははね起き、杖をついて、足を引きずりながら表へ出た。満月が青白く光と影を分かっている。すすきの白い穂をかきわけて、やっと河原に下りる。車座になった人影が五、六……歓声を上げて喜三郎を迎える。由松はいない。どこかでやけ博奕であろう。「よう来れたのう、その足で……」と和一郎は言う。重太郎も嬉しげに、「これで蘭に未練のある奴はみな来よった」「へん、喜三公、心の妻やなんてうまいことぬかしくさって、お蘭の薙刀が与四郎の一本差しに、いかれてしもたやんけ」といまいましげに太吉が嘲ると、他の連中が馬鹿声で笑った。「さあ、飲もけえ。くそ、負けへんぞ」 喜三郎は腹をすえた。弟由松の分も飲まねばならぬ。死んでもいい。一同で出し合った金が一円、車座の中央に置かれた。醤油を茶碗になみなみついで、それぞれに飲みほした。一杯目をむりやりのどに流しこむ。一杯目を何とか飲んだのは、喜三郎のほかは太吉だけであった。二杯目がつらかった。死ぬ苦しみを味わった。あとは他人のことなど分からぬ。夢中であおった。和一郎が喜三郎の手から茶碗をもぎ取り、掌に一円をにぎらせる。五合飲んでいたのだ。 金を捨てて、喜三郎は足をひきずり川辺に走った。すでに太吉たちが景気よく吐いていた。喜三郎は、流れに首を突っこんで、川水をがぶがぶ飲んだ。のどのひりつく痛みと乾きが、飲んでも飲んでも襲った。布袋腹がぼてぼて揺れる。飲むのは苦しく、飲まぬのはもっと苦しい。このまま大蛇になって淵に沈むのではないかと思った。 友達に両脇から抱えられ、げろげろ吐き通しながらやっと裏木戸から入り、這うようにして蒲団にたどりついた。夜中、ひっきりなしに雪隠に通いつめた。恋しい人の婚礼の夜も、いまの喜三郎の頭には遠かった。失恋の悩みも、肉体の苦痛の前にはかすんでいく。 また半月、喜三郎は、病床に呻吟した。半月目に、吉松は醤油飲みの噂を聞きつけ、喜三郎の病因を察して激怒した。病床から追い出された喜三郎に、麦まきが待っていた。由松と並んで、力ない体に鍬をにぎった。三男幸吉はすでに佐伯村に奉公に出て、穴太にはいなかった。
   物ごころさとりはじめて夜遊びに       赤毛布肩にかけて出でたり   毛布裏に小砂利や木の葉の附着せるを        翌朝見出でて顔赤らめつ   夜遊びに毛布かかえて出る奴は        男惣嫁よとわらう友がき  喜三郎自作の歌である。惣嫁というのは路傍で売淫する最下級の売春婦のこと。「ここがええ。ここなら誰にも邪魔されんとラブを語れるし、池の眺めかて最高や」 喜三郎は肩にした赤毛布を地に敷くと、先に坐って女を招く。「かなわんわあ、こんなとこ。虫にさされへんやろか」と女は口では躊躇をみせながら、はち切れそうな肉体で喜三郎にすり寄ってくる。背景はうっそうとした樹々。前面は蓮池。星くずが空一ぱいに広がっている。「あんたへえ、ほんまにうちが好きかいさ」「好きや、好きやさけ、こうして会うてるにゃんか」「ほんまかいさ。嘘いうたら承知せえへんえ」 押しつけてくる女の熱い頬のでこぼこは、いまを盛りのにきびのせいであろう。 和一郎や重太郎や他の友達はとっくに童貞を破っており、金があれば亀岡や京都まで足をのばして曖昧屋に首をつっこんだり、夜這いを敢行したりしていた。喜三郎のみ、彼らの誘いにのらず、臆病者よと笑われながら一人蘭を想って身を清く保っていたのである。 その喜三郎の童貞が誰によって失われたかは明らかではない。恋しい人に会うと物も言えぬうぶな男が、失恋の深傷をおうや一転してドンファンに変わっていた。何事にもせよ、右から左へと振幅の度合いの大きいのが喜三郎の特徴である。 当時の農村、特に穴太では、いざ結婚ともなれば、株とか家柄とか財産とかに束縛されひどくやかましかったが、それはそれとして男女の性生活はまことに解放的であった。日常の普通の会話でも、性器そのものの名前がしきりにあらわれる。「穴太よいとこ女の夜這い、男寝て待て後生楽」この歌は、穴太のかわりに別の地名を入れ替えるだけで、全国各地でうたわれているようである。しかし当時の穴太はまことにこの歌の通り。性の乱れ云々と道学者流にひらき直るほど淫靡なものでなく、娯楽のない農村では、おおらかな青春の捌け口であった。人里をちょっと離れれば、どこにでも男女のひそみ伏す木かげや草むらがあった。意気投合したら昼休みに田の畦ででも寝たもんやと古老は懐かしむ。 穴太の隣村、 田野村大字佐伯村、田野神社の佐伯燈篭祭は、古い歴史を持つ天下の奇祭である。この儀式は深夜に行われるのが特徴であるが、この夜は女をさらってもよいという古くからの習慣があったらしい。八月に入ると、丹波路の話題はこの祭に集中し、穴太の若者たちもこぞって参加、翌日は、ほらもまじえた手柄話に花を咲かせた。 こういう土地柄だから、若者たちの間で、征服した女性の数を誇り合う風潮があった。醤油飲みにも命をかけかねない喜三郎だ。一旦童貞を破っておそまきながらスタートを切ると、この競技に猛然とハッスルした。競技である以上は、個々の美醜を意にしなかった。「人の嬶でも、後家でも、婆でもかまうけえ。穴太中の男以外は全部わしがいてこましたる」と放言、実行にふるい立った。夜這いも盛んであった。「敷居に小便こいて、戸をあける時に音のせぬような配慮をしたんやで」と晩年になっても、喜三郎は当時の苦心談を語り聞かせたものだ。《今業平》と自認し、才智と機転に富む喜三郎が相手選ばずアタックするのだから、征服は容易であったらしい。もっと後になって、喜楽亭なる小屋に一人で寝泊りした夜など、歌の文句そのままに女の方から夜這いに来た。 ある夜、別々にしのんできた女が喜三郎の寝所で鉢合わせし、女同士つかみ合いの喧嘩をおっぱじめた。さすがに喜三郎、頭かかえて逃げ出して、一夜野天で寝たという。その奮迅ぶりと成果の目ざましさに、さすがに村人たちもあきれて、《ボボ喜三》なるまことに直截な綽名を呈するが、喜三郎は女性征服の月桂冠として、むしろ甘受するのだった。   要領を得んと思いてふだんから       不得要領の仮面をかぶる   山に寝ね草に伏しつつ若き日の       人目をしのぶラブ・グロテスク   若き日のラブイズベストをとなうれど       会心の者なき田舎かな   二世ちぎる細し女なきを嘆きつつ       われ若き日はむなしく暮れたり   玉の緒の命のラブはうばいさられ       やむをえずして屑のみ拾う  話がそれている間に、赤毛布の上の喜三郎と屑とうたわれた女の一人があい擁し、熱してくる。と、急に足音がして、背後の繁みがざわついた。二人ははっと離れ、一散に里への道を逃げ出した。 惜しい思いで女と別れると、喜三郎は置き去りにした赤毛布が心に残ってならない。とぼとぼ引き返し元の場所へくると、赤毛布が消えている。梟があざけるように鳴くばかり。「くそったれ、梟まで馬鹿にしくさる」 ふくれて石を池に蹴り込む。ふいに背中を叩かれ、喜三郎はとび上がった。「喜三やん、この毛布、もういらへんのかいさ」「あ、お仙はん」 喜三郎はきゅんと小さくなった。仙の手には、先ほど忘れた赤毛布がある。それは仙のプレゼントであった。「うち、これ返してもらうえ。喜三やんには、お邪魔らしいもん」「そんな……大事やと思えばこそ、わざわざ引き返して赤毛布取りに来たんやないけえ」「にくたらしい。うち、喜三やんほど箸まめな人、知らん。そらなんぼ女を抱かはったかて男はんの甲斐性やさけ、なんにも言わへんえ。それでもこの毛布の上でなんて……これはなあ、うちがあげた真心やのに……」 仙はしくしく泣き出す。平あやまりにあやまる喜三郎。「喜三やんの浮気が直るまで、うち、この毛布あずかっとくえ」 しゃくりあげつつ、仙はしなをつくって横目でにらむ。 ――浮気やなけりゃ、お前らとこんなことせんわい。 思わず言いかけて、喜三郎はあわてて言葉をのんだ。 翌日、穴太寺の庫裡で友達と無駄口を叩きあっていると、和尚に用事があって八田きわが入ってきた。かつて突然に結婚して若者たちに衝撃を与えた美貌の女性である。一女を産んで四年足らずで離婚。ますますつやを加えた独り身の二十六歳。このきわも、いつ渡りをつけたのか、すでに喜三郎との噂は広まっていた。「おい、喜三やん。誰やらが来たぞ。みろやい」 喜三郎ちらとふり向いて、「もっときわ(傍)へこんと分からんわい」 この話は、喜三郎の機転のきく一例として、今でも穴太の年寄りたちの一つ話になっている。 秋が深まると、辻の藁小屋で、夜ごと交代して稲の番がある。里に降りてきて藷を食いあらす猪や、稲掛けの稲を盗む不心得者を防ぐためだ。喜三郎の番のまわってきた夜である。退屈紛れに畦の枝豆を抜いてきて、土堤で火をたきほうりこむ。藁が燃え尽きると、畦豆がはじけたまま焼けて残る。藁灰の中から焦げ豆を選び出して口にほうりこむ。灰だらけの豆をかんでは、黒い唾液をプップッと吐き捨て、何の変哲もない田の面をみわたす。 霜おく夜半になると寒さが身にしみる。藁小屋の藁の中にもぐって頭だけ出し、ついうとうとしていると、番小屋の戸がかたかたと鳴る。眠い眼をこすりこすり、藁戸をあける。「あ、お仙はん、どうしたんや」 仙が赤毛布を抱きしめながら、うなだれている。「喜三やん、かんにん……」「な、な、なんでや」「うちなあ、一人で稲の番してはって、喜三やん、さぞ寒いやろと思うと心配でかなんかった。いけずして毛布とり上げてかんにんやで」「なに寒いことあるけえ。さっきからお仙はんのことばっかし思とったら、胸が熱うて、裸になろうかと思とったぐらいや」 出まかせを言いながらも、仙のやさしい心根にほだされ、本当にいとしくなる。仙を藁小屋に引き入れて、赤毛布を敷く。朝日がすき間からまぶしく洩れ入ると、仙は未練げに藁くずをはらって起き上がる。仙の顔は、喜三郎の口のまわりの藁灰が移動してうす汚れている。笑い合いながらむつまじく小川で顔を洗った。「喜三やん、お願い。これぎりほかの女に心をうつさんといてや。な、指切りしてえさ」「よっしゃ。今日からはお仙はんだけがわしの女子や。一句できた。『いやなれば花としてみむ蕃椒』、どや」「おうきに、うち、喜三やんの女房やなあ」 仙は喜三郎の小指にひしと小指をからませる。あやうく二世をちぎろうとして、喜三郎は口ごもった。赤毛布を女の真心と思えというこの女性を妻として、一生を穴太の土にうずめる気か。幼い頃から夢みてきた大望を捨てて。 急にうろたえ、跪いて、仙を拝まんばかりに言い出した。「嘘や、嘘や、今のは嘘や。わしはまだ、嫁はんもらうことなど考えてへんで。独り立ちでけるまで妻はもらわん。頼む、今の指切りとり消してえな」 そういう時は田舎のドンファンも形なしで、全く情けない、くそまじめな顔になる。「知っとるえ、喜三やんのは遊びや。けど何でか知らん、うち憎めへん。遊びでもよいさけ、お願い、うちのことも思い出したら、たまには抱いてえさ」 仙は赤くなって、目の前にある喜三郎の頭をかき抱く。 こんな放埒な日々を送りながら、当時を回想してぬけぬけと喜三郎はうたっている。   吾わかき時より神の守りけむ       いまだ女難にかかりしことなし  女性への耽溺にかけた息苦しい情熱は、冬がやってくるまでに冷えていた。ちょうど足が泥沼の底にふれたように、急に底を蹴上げて浮き上がり、正反対の清冽なものへと激しく焦がれる。 変わり身の早さは、よしあしを除いて若い日の喜三郎の根を肥やしていく。
 その冬、喜三郎は、村人たちに「迷信家よ」と笑われつつ、夜な夜な産土さまに日参した。   われを世に立たせ給わば百倍の       御恩返しをなすと誓わん いつわらざる喜三郎の心境であった。利をもって神にかけあう。 ――信仰はまだその程度に若かったが、応答を求め神の門戸を叩かねば止まぬ激しさがあった。 ある夜半、長い祈願をこらして面を上げると、大樹の根方を離れて動くものの気配があった。 目を凝らすと、星明かりに人影が――女がにじり寄る。「喜楽はん、喜楽はん……」 喜三郎の冠句の号で呼んで、嬉しげに含み笑った。髪がほぐれて、背の半ばまで散っている。「なに祈らはったか、うち、知っとるえ。女がほしいんやろ、なあ、喜楽はん……」 喜三郎は全身をこわばらせて、後ずさる。女の熱い息がすり寄ってくる。「誰も見とらへんさけ、うちを好きになってもだんないで」 やにわに抱きついてきた。狂女だ。失恋の果てに狂ったという噂の女だ。喜三郎はねばりつく女の腕をふりほどこうと焦る。「くくくく……」 梢に鳴る風の音も、狂女のくぐもる笑いも寒けだつほどいやらしい。「いらん、女はもう卒業したんや、げっぷがでるほどや。はなせ、はなしてくれ」 やっとの思いで突き倒し、社殿の石段を駆け下り、境内をつき抜けて化け燈篭の影にへばりつく。燈篭は油を節して灯はともっていない。「喜楽はん、喜楽はん……」 叫びながら化け燈篭の横の石段を上がりきり、また下りてきて、鼻をならした。「人くさい、ふん、ふん……なんで逃げはるんや」 化け燈篭の向こう側から、白い手がのびる。あやうく身をかわして逃げ、犬飼川の土手を滑り下り、夢中で薄氷のはる川にとびこんだ。やっと対岸にはい上がり、振り向くと、狂女は声を上げて手招いている。ずぶ濡れになって歯をかみ鳴らしつつ、遠まわりして家へ帰った。 次の夜、小幡神社の参道をこわごわのぞく。拝殿の脇に、たしかに昨夜の黒い影が――草むらに伏し、あわただしい黙祷を捧げると足音を忍ばせて戻った。深夜の境内に、狂女があきらめてあらわれなくなるまで、喜三郎は何日も遥拝だけですました。 霜の降るある夜、喜三郎は神前にぬかずいていて、不思議な幻影をみた。駒のひずめのかっかっと冴えた音が近づく。はっと身を起こすと、闇の中に浮き出たのは、白馬にうちまたがった異様な神人であった。神人と白馬はそのまま社殿に吸いこまれるようにかき消えた。喜三郎は畏れてひれ伏した。
 八木、新庄を経て、橋のない大堰川(保津川上流)を船で対岸に渡り、田道を歩いて、三里半の道をしばしば船岡へ通った。船岡は、父の郷里である。叔父佐野清六は、生まじめで篤信の妙霊教会布教師であった。喜三郎が来ると、清六は、同じ家並にある船岡分教会に連れて行った。この年に建ったばかりの教会は、真近にせまった低い山なみと田畑の中に木の香も新しい。喜三郎は、叔父と共にこの分教会を設立した山田甚之助に教義について教えを乞うた。 甚之助は、岸本勇助の導きで若い頃に入信している。母兼が喘息を病んでいたので、ちょうど佐野家に滞在し布教中の岸本に祈祷を求めた。岸本は兼の顔をじっと見て宣した。「あんたの喘息は、わしが拝んでもあかんわ。あんたの息子はんが入信したら、病気はすぐにも治るけどのう」 兼から岸本の言葉を聞いた少年甚之助は、眉唾ものとしか思わなかった。山師の仮面をひっぱがす気で、甚之助は岸本に面会を求めた。しかし岸本に会ってその人柄に打たれ、素直に神に向って「妙々々」と一心に唱えるうち、母のしつこい病気が癒えたという。以来、甚之助は熱心な信者となり、長ずると佐野清六と手をたずさえ、口丹波地方の布教に功績を残した。 甚之助は喜三郎の才能に惚れこみ、叔父とともに、口を酸くしてすすめた。「岸本先生はのう、喜三やんのことを『まれに見る天才で、神に仕えるほか道のない男や』といつも言うてはるで。そやさけ、絶対にこの教会の布教師にならなあかん」 帰途は、大堰川を船で下った。船頭が竿をあやつって早瀬をたくみに乗り切る。そのスリルが喜三郎の何よりの楽しみであった。宇津根の浜に上陸すると、もう穴太までひとっ走りだった。
 世祢が、顔色を変えて身じたくしている。上の姉賀るが病気と知らせが届いたのだ。一里余の千代川村今津まで、世祢は身重の体もいとわずに通い続けた。母と交代で、三日おきに喜三郎も伯母を見舞った。みすぼらしく荒れた家に、賀るは痩せ衰えて一人病みふせっていた。夫は野良へ出ていない。「喜三や、会いとうて夢見てたわ。よう来てくれはったなあ」 賀るは、なつかしげに骨ばかりの手をさしのべる。目尻のしわに涙がたまる。が、起きる気力は失せていた。「伯母はん、どこが悪いねん」と喜三郎が細い手首を握って聞いた。「ここや、ここにお狐さまが入りなはって暴れはるさけ……」と言いながら、そこだけふくれた腹部を苦しげに押える。「ごめんやす」 野太い声の老婆が声と共に上がりこんで、さっと大幣をうち振り、大仰に呪文をとなえ始めた。稲荷下げの祈祷がはじまると、賀るは呻きをあげ、形相凄まじく転げ廻る。棚の上に祀ってある大きな稲荷の祠に気がつき、喜三郎は暗然とした。もだえ狂う伯母を前に、なす術もない。額に油汗をにじませて、ただ伯母の苦痛の軽減を祈るばかりであった。 今津へ行くたび、喜三郎は稲荷下げの老婆に出会った。老婆の自信に満ちあふれた態度に、喜三郎まで伯母から狐が離れる日を半ば信じた。しかし暑い夏を越せず、賀るは死んだ。五十八歳である。 賀るに憑いた狐がその肉体を離れた途端に息が絶えたと、稲荷下げの老婆は主張する。ぺちゃんこになった賀るの腹部を示し、狐はたしかに離したが、入れ代わりに賀るの魂が戻ってこなかったのだと。賀るの夫はその言葉に納得し、老婆をねぎらった。世祢は号泣した。こんな激しい感情をみせる母を、初めて喜三郎は目撃した。「堪忍して。うちが姉さんをこんなにした。うちが悪いのや」 世祢は叫び続ける。腹の子を案ずる吉松に抱きかかえられ、やっと通夜の席から去った。 父に叱られて殿山に逃げた喜三郎に、「一緒によそへ行かへんか」とさそった伯母、四十過ぎてひっそりと心細げに嫁入った伯母……嫁にいってからも子に恵まれず、幸せだったとは思えない。花も実もない伯母の人生を想うと、喜三郎は長姉をさしおいて婿をとった母にもまして、己れの責任かのような苦痛を覚えた。己れの無力を憎んだ。たかが畜生狐のために、伯母の命を――。  無智な農村にはびこる狐狸の類が人を惑わし、つけ入って仇なす力の激しさに、喜三郎は憤然となった。 伯母の死をみつめると、神霊の実在すら疑わしく、虚しく思える。しょせんこの世は自分を信じ、自らの力をたのむ以外にないではないか。夜ごと神助を乞いに通った産土の神に対する燃えるような信仰心まで、はかなく揺れ動くのを感じた。 友と相撲やエロ話に熱中する代わりに、人生について真剣に語り合うことが多くなった。柴を刈り終えて友らと一服しながら、小作の伜貞吉はいまいましげにぼやく。「わてんとこのお袋、また腹ぼてじゃ。兄弟がせんぐり殖えて、その厄介がみな長男のわてにかかる。親の一時の慰みのために――あんまりやと思わんか。おまけにあいつらがごつう(大きく)なりよったら、嫁や婿やとありもせん財産持っていきよるんや」「ほんまやのう、よい年さらして孕みよる親の顔みたら、けったくそ悪いで……」 繁蔵が相槌を打つ。「女いう奴は何であんな仰山孕みたがるんやろ。けったいな動物やで」「一人でも身内が殖えたら、心強うてよいがのう」と喜三郎。「そや。喜楽はんとこのお袋も腹ぼてやんか」 気がついたように和一郎が言った。「そやさけ毎晩、わしは産土さまに安産祈っとる」 世祢は四十五歳、六人目の子をみごもっていた。母の安産ばかりではない。この五月に出産した蘭の時にも、安産を願ってひそかに産土参りを続けていた喜三郎だ。 貞吉がつっかかった。「せんぐり子ができよって貧乏の上塗りするのが、喜楽はん、そんなに好きけ」「貧乏の上塗りしてもかまへん。それより子を産む元気な親が、わしは嬉しいのや」 いっとき、みんなは押し黙った。「喜楽はんの気持ちは分かる。そやけど、人は殖えても田畑は増えん。大地主はよいけどわしら小作百姓はどないなるんや。みなが喰いつめて、飢え死にせんなんじょ」「殖えたら殖えただけ人間は努力する。むざむざ飢え死ぬかい。どんどん農業技術は改良されるやろ。仕事かて、百姓ばかりやない。人手を要する工業が発展する。土地の上に並んで住むのばかりが能やないで。空があいとる。立体的になってくやろ。そのうち丸薬三粒も飲めば腹のふくれるような食糧かて発明されるやろ」「どえらいこと言うで、ふーん。ほんまになるやろか」「なる。日本は確かに狭い国やが、貧しい国やないで。不毛の地というのは、この辺でいう荒地の事やのうて、物を植えてもできん土地のことや。禿げ頭に毛がはえよらんやろ。耕してみても、植えてみても、一向植物が成長せん土地や。砂漠いうてなあ、一年に二、三度よか雨が降らん。土はのうて乾いた砂ばかりじゃ。日本全体がすっぽり入るような砂漠が世界にはなんぼもある。シベリヤのツンドラ地帯かてそうや。一年中、寒うて植物が育たん。苔みたいなもんが生えとるだけや。中央アジアやヨーロッパ、アメリカ大陸などの高原地帯かてろくな作物はでけん。そんな国は、どんなに広うても富んだ国とは言えんのや。けど日本をみい。雨は適当に降ってくれる。一年中作物は育つ。おまけにすばらしい四季の移り変わりや。どんなとこでも草木は繁茂しとるやろ。海岸線も長い。つまり入りくんだ凹凸が多いさけ、海の幸も多いわけや。山の幸かて同じやで。山岳の多い国もまた広い富める国といえる。山岳を平面積に直してみい、日本はずっと広くなるやろ。それだけ産出物も増えんなんのや。豊かな海、広い山々を領する緑の国日本は、ちっぽけにみえとってその実、なかなかの広い国、底力を有する国ちゅうことになる」「ふうん、けどなんぼ先生しとったかって、喜楽はんはわてらと同じ穴太のぐるりよりほか見たことないやろ。なんで日本や外国のことまで分かるんやろ」「そら本読んで世の中を見渡してみいや。誰かて分かるこっちゃ」「それならわしらは何でこんなに貧乏なんじゃい」「富の偏在が第一や。穴太村をみい、百二十三戸あるが、三十六戸はその日が暮らせん貧農や。大地主の斎藤一族だけで穴太の財産の三分の一を占めてるやないけ。わしらかて、その日が暮らせん三十六戸とちょぼちょぼや。若うて元気やさけ、何んとかその日かせぎで食ってるだけや。富が少数のもんに独占されとるのは穴太だけやない。日本中がそうや」「ほんまやなあ」 貞吉が手を叩く。「それから、せっかくの日本の地勢も十分にまだ生かされとらん」「わてらにどうせい言うのや」「親が子ふやすのぼやいとるだけではあかん。優秀なる子孫を産み殖やしてどんどん学問させる。人間のみる夢ならすべて実現は可能じゃ」「……」「わしはよう夢をみるで。例えばやのう。海底の鉱脈を掘り起こすのや」 貞吉があきれてさえぎった。「お前、山師とちがうんこ?  夢は夢、現実は現実や。穴太かて、わてらの子供の頃から今までちっとも変わらへん。親父や爺さんがやっとった通り、泥田に這いつくばるばかりの小百姓やんか」「もうちっと待てい。わしが穴太の農業、いや、日本の農業を変えちゃる」 喜三郎は決然と言いはなった。
 九月、母は六番目の子、次女君を産んだ。その元気な産声を聞くや、喜三郎は産土さまへとんで行き、嬉しげに感謝の祝詞を捧げるのだった。 たわいないいたずらに熱中していた十代をぬけて、初恋に破れるや女あそびに憂身をやつし、信仰にほうけ、今は一転して農事改良家――その時、それぞれに喜三郎は夢中になる。友達に大きな口をきいた手前ばかりでなく、牛馬にも似た激しい百姓の労働は、自分のためにも軽減せねばならぬ。まず農具の改良発明こそ焦眉の急と信じた。喜三郎は労働のあいまに頭をしぼった。 鍬の幅が狭すぎはしないか。もしこれが倍の幅であれば、一打ちで倍の土が耕せる。振り上げる鍬の重さはいく分増えようが、倍仕事がはかどれば、半分の労力で済むはずである。小学生でもできる算術だ。百姓は慣習から抜けきれないから、これほど簡単な考案さえようせぬ。 思いつくと待ったなしだ。父の妹小石が嫁いでいる隣村の田野村柿花の鍛冶屋西田へ走り、首をかしげる西田にかまわず、新案の鍬二十丁ばかりを後金で注文した。でき上がった鍬はやたらに幅の広い代物だった。喜三郎は《上田式能率鍬》と称して村中を売り歩いた。結果は散々であった。振り上げるには重すぎたし、深く土中にささった鍬は抜くのに手間がかかる。こぜて起こすと、鍬の柄は元から折れてしまう。すぐに廃物となってしまった。 鍬にこりずに、次の考案にかかった。上田式米搗き機である。子供の頃から喜三郎は、家の土間にうめ込まれた唐臼の米を踏んで精白し、その足のだるさに泣いてきた。もし前後に唐臼と杵を置けば、一度の労力で二度搗ける道理だ。喜三郎は村人を集めて、上田式米搗き機の説明会を開いた。なるほど理屈はそうでも、ただでさえ重い杵を踏むのに前後に力を入れたのでは、体力は倍を要した。結果は失笑を買い、《米喜三》という綽名をたちまち追加される羽目となった。「楽して働こうちゅう了簡で百姓できるかい。この恥さらしめ」と父は怒った。   このほかに二三の農機具の発明を       考案したれどいずれも失敗  どうもわしは理化学的な頭脳はもちあわせていないらしいと喜三郎は悟った。農事の改良はあっさり他に任せることにして、兄弟が殖えれば心から喜びあえる社会、働くものが働いただけに見合う収入を得る世の中にするために社会制度の改革を考える方が適任と、素早く頭を切りかえる。 天下国家について思案しながら秋田に麦まきし、後を見ずに一丈余の高土堤から山田に落下した。またしてもの失敗に恥じ、痛む腰を隠して働いたのがいけなかった。三日後、吉松に発見された時には、腫れあがって熱をもち、動けなかった。吉松は蒼くなり、叱ることを忘れて赤熊(現亀岡市東本梅町赤熊)の外科医を呼びに走った。外科医は往診に来て、無情にも宣言した。「こらあかん。手おくれや。一生治らんのう」「簡単に言うてくれてや。あんまりや。何とかしてえな。尻が割れるように痛いんや」「尻は初めから割れとるわい」「冗談やないで。いずれ国家の大改革を計らんなん身や。わしを動けんようにしてみい。人類の大損失やで」「人類か猿類かわしゃ知らんけどのう、この腰ばかりは手にあわんわい。まあ、あきらめて、寝て暮らしな」 思えば、幾度崖から落ち、相撲でこけて、この腰を痛めたことだろう。とうとうわやになってしもた。喜三郎はさすがに声をあげて泣いた。 宇能は仏壇からもぐさをとり出してきて、いやがる喜三郎を観念させ、一心に灸をすえた。三週間一日も欠かさず続けた。灸のため、不治と宣告された腰の痛みが消えた。だが起き出して初冬の寒空で麦をふんでいると、またぞろ腰が冷えてうずき出す。続いて腹水病を発した。「津の国の草山村にうまい灸の先生がいる」と聞いてきた世祢が、祖母と二人で灸点をつけてもらうことを熱心にすすめた。灸の効果を認めた喜三郎は、握り飯をぶら下げ、夜中発ちして摂津へと向かった。 昼下がり、草山村の灸師の家をたずねあてた。灸師はかなりよぼよぼしていた。今年で八十だという。しかしさすがに経験豊かで、灸点をつけながら体の部位を押し、懇切に「これは何々のつぼ」などと教えてくれた。 ふいに戸があいて、警官が踏みこんできた。半裸で寝そべっている喜三郎をうながして起たせ、灸師の胸ぐらつかんでわめき始めた。「無免許で患者を治療したには覚悟があろう。警察まで同行せよ」 警察の口ぶりでは、これまで幾度か現行犯でつかまっているようだ。灸師の免許がいつからどうなったかは知らぬが、灸師が学んだ昔はそんな法律はなかったのだろう。切りかわる制度についていける年ならよい。この温厚な老爺が、その熟練した技でもって人を助け、現に患者が治っており、その結果の礼によって生活の資を得ているものを何で禁ぜねばならぬのか。 喜三郎は義憤を感じ、罪人なみに引き立てられる老人を見捨てられずに、地黄の警察までのこのこついて行った。「この先生がいややというのを、わしが無理に頼んで灸点をすえてもらいましたんや。悪いのはわしの方やさけ、どうぞ許してあげとくれやす」 喜三郎は灸師に代わり過料金二十五銭、懐はたいて支払った。
 その十ばかりの女の子に出会ったのは明治二十五年の晩秋であった。伏見へ米の粉を届けた帰り道、空車を引いて老の坂を越え、王子のくらがりの宮に来かかると、二足目の草鞋の緒がすり切れてぬけた。空は晴れていたが、寒風はきびしく、三足目の草鞋を結ぶ指先がかじかむ。結び終わって顔を上げると、街道の脇を流れる小溝につかって、ふるえながら四つん這いになっている子を見つけた。女の子にはちがいないが、髪がひどく赤くそそけている。「おい、冷たいやろ。寒蜆でもとっとるんけ」 気になって思わず声をかけた。 女の子はふり向いたが、唇を一文字に結んだなり、また眼は真剣に水にかえる。行き過ぎかけて喜三郎、おせっかいなたちなのか、のこのこと車をおいて戻ってきた。「まず上がれやい。凍えそうで見とれんさけのう」 腕をのばしてひょいと抱き上げ、その軽さに胸がつまった。親のない子だろう、この寒さに破れ単衣で膝から下の濡れた素足が真っ赤に腫れている。女の子はバタバタ足をふってもがいた。「あほ。邪魔せんときい」「何で冷たい水に入るのじゃ」「お金落としたんや。お使いに早よ行かんと叱られる」「何ぼや」「一銭。この溝こに、転げこんでしもたん」「よしよし、一銭くらいわしが……」 言いかけて見上げた女の子の瞳に、ふっとたじろいだ。身なりに似合わぬ清らかな面ざしに、双眸が澄んで力があった。「いらんで。うち、落とした一銭が大事なんや」 紫色にふるえる小さな唇をきっと噛んで、喜三郎をふり切って溝に入る。「よっしゃ。一緒に探したる」 喜三郎は悔いていた。つい風体を哀れみ、乞食にでもくれるように安易に金を与えようとした己れを。ぴしりと小気味よくそれを拒んだこの少女に恥ずかしい。 どうでも一銭を探し出さねば気の済まぬ思いで四つん這いになった。真剣でなければ、切られるような水の冷たさには堪え得ない。 間もなく石の下に沈んでいる一銭玉をみつけ出し、喜三郎はか細い少女の掌に握らせた。「おおきに。おっちゃん、ありがとう」 嬉しかったのであろう。愛らしいえくぼをちらと片頬にみせて、女の子はあたふたとお使いに走っていく。 ――おっちゃんか……まあしゃない。 喜三郎は苦笑して、車の梶を取った。少女の印象的な瞳と笑顔は、道々喜三郎の心を暖めたが、抱き上げた時のあまりの軽さと粗衣が、痛く心にささっていた。 この小さな出来ごとは、やがて意識の底に沈んでいく。そして数奇な運命をたどる幾星霜の後も、喜三郎の体内に消えず残っている。なぜなら因縁の糸は、この時すでに、すれちがう二人に投げかけられていたことを、のちのち思い知る時がくるのだから。
 度変窟烏峰宗匠こと八木清之助は、千代川村拝田の静かな隠居所で、少年の頃から一日も欠かしたことのない日記の筆をとる。細長く綴じた二つ折りの和紙に、小筆の細字で丹念に書き込んでいく。 ――癸未、先負五黄……四月十六日日曜降雨……雨天につき、本日朝より藁仕事……。 清之助は筆を止めて、ふと娘のことを思った。長女さとは一昨年嫁していて、すでに父親の手をはなれている。気になるのはこの雨中もいとわず、いそいそと穴太へ向かった次女弁のこと。五年前妻みつが死んで以来、男手一つで育てて早や年頃の十九になった。春頃からにわかに娘らしくなり、近頃どこか、物おもわしげにみえる。時期を失せぬうち縁付けせねばならぬ。 弁は祖母すまをせかしせかし、待ちかねていた穴太寺の春の法会の手伝いに連れ立って出かけたのだ。残ったのは二度目の婚家先も不縁になって戻っている妹なをと、長男丑之助。法会は十九日から一週間続くので十日やそこらは留守になる。筆をもち直し、清之助は要点のみ書き加えていく。 ▽母、弁、雨中穴太寺へ。金竜飛蘭六本立て一鉢、右は本日八木丁子屋より頂戴する。 今夜石屋にて沐浴す。
 四月十九日の弁は、穴太寺の春の無縁経法要の手伝いで一日忙しかった。 本堂では、朝から回向が行われていた。叔父の行仁権大僧正が導主として、紫衣に緋紋白の袈裟をつけて中央に座し、左右に八人の僧が居並んで経をあげる。常行三昧または法華三昧。本堂には、善男善女があふれんばかりである。経が終わると和尚の説教、また経、説教、入れ替わりの参詣者のために、夕方まで繰り返される。 それは四月二十六日まで一週間続く。しかし弁は、ほとんど本堂をのぞき見る暇がなく、庫裡で立ち働いていた。村の有力者などを、陣屋造りの本坊で接待するためである。 本坊は延宝年間(一六七三~八一)、穴太寺が光秀の戦火に焼かれた折、日光輪王寺から火災見舞としてはるばる牛車で運ばれ、琵琶湖に筏に組んで流したと伝えられる。室内欄間彫刻は、日光の影響を受けたものだ。 法要が終わると京都の天台宗の寺から来られた坊さんたちに風呂をすすめ、般若湯(酒)をふるまう。顔を赤くした坊さんたちが寝室に引きとっても、食器の後片づけが山ほど残っている。拝田村から一緒に来た祖母は寺が混雑するので先に叔父村上信太郎の家に帰っている。 手は休みなく動いていても、弁の心はそこになかった。弁は三年ほど京都に奉公に行っていたが、二年前暇をとって故郷へ帰った。それからは、穴太寺に何か行事がある度、叔父行仁に頼まれ手伝いに来た。この春の彼岸の施餓鬼法要の時に、一人の若者と出会った。二言、三言何げない言葉を交わしただけなのに、その人はたちまち弁の心をとらえた。一目惚れである。父の冠句の弟子という。粗末な服装でいながら、弁の眼には衣冠束帯をつければいかにも似合いそうな品のよさに映る。 以来弁は、その人上田喜三郎の噂を注意して聞くようになった。天才、八文喜三、女たらし、神さまぼけ、村人の評価はまちまちでしかもそれぞれ矛盾していた。分からないところが、一層、喜三郎の人柄の奥行きの深さを思わせた。それになによりも、喜三郎の容貌は、弁の好みにぴったりであった。 ――京都にも、あんな賢そうなきれいな男はん、いやはらへん。 初めて会った時、喜三郎が照れくさそうな表情でいった。「春の法会にも、来はりまっか」 弁は、いそいで、強くうなずいた。「またその時――」と喜三郎は、口の中でぼそぼそ呟いたように思った。はっきりと約束したとはいえない。けれど弁は、その時から、ずっとこの日を待ちこがれた。法会に着て行く着物、髪かたち、かくし化粧、娘らしく気を配りながら、頼りなげな思いに吐息する。 ――穴太にかて、別嬪さんはたんといてはるやろ。その女たちも喜三郎はんをほっといてやないやろ。 穴太と拝田村との間にある一里の空間が恨めしかった。手伝いに来てみれば、仕事に追われ、喜三郎が本堂に来てるかどうかさえ確かめる暇はない。一週間、毎日このようであろうか。なんのためにこの法会を待ちこがれたか分からない。無縁の法会に有縁を願う弁、けれど心の中ではどんなに燃えても、何人かいる手伝いの女たちにことわりを言って抜け出す勇気はない。「代わったげる。ちょっと呼んではるえ」 驚いてみると、弁より七、八つも年上の美しい女だ。「……」 小声になって、彼女はささやいた。「喜楽はんや。お弁はんに用があると……」 八田きわであった。度々寺に来るので、弁は見知っていた。一度結婚したが夫と別れ、子をかかえての独身暮らしである。喜三郎の女の一人、と弁は聞いたことがある。喜三郎よりも年上であり、さばさばしているので、同年配の女性に感じる対等の競争心も、嫉妬もなかった。 赤くなって返事もできぬ弁の背を押して、きわは言った。「中庭の築山のねきで待っとってや。後片づけもあらかた済んださけ、後はうちがちゃんとしとく。村上はんの家まで送ってもらいいさ」 奥の書院で襷をはずし、急いで身づくろった。 渡り廊下から中庭に下り、蓮池にそって足を忍ばせる。四日月が出ていた。桃山時代の様式を残すという名ある庭である。築山の西の老いた五葉の松も、池を取巻く美しい護岸石も、水の底に沈んだようにおぼろだ。池の中程にすうっすうっと六尺余の直線をひいて群がり立つ太藺の陰に、喜三郎の姿があった。大きな庭石に腰かけ、貧しい身なりにも頓着なげに、無心に池の面に見入っている。 弁は、恋しい男をみつめた。野の風にさらされ、百姓仕事や車力に追われて日を過ごす身分卑しい若者にはそぐうべくもない古式優雅な書院。豪奢な庭の雰囲気。けれど恋する女の直感は見抜いていた。喜三郎のきめこまかな白い肌、くっきりした目鼻立、細長い指、そしてあたりに気おされぬ品位が、しっくりと庭にとけあって漂うのを。弁は息をつめ、おそれるようにたたずんだ。 喜三郎は清水の湧き出る音を聞いていた。鯉がはねる。池の面に沈む多宝塔の影がくだける。と、そこに揺れて女の影が……顔を上げ、微笑した。自然石の橋を渡って弁に近づきながら、喜三郎の胸は、喜びに激しく高鳴る。「呼び出してすんません」 もっとロマンチックな一言をとあせりながら、ついぺこりと頭を下げた。 弁は言葉もなく、固くうつむいている。素直な黒髪を紅絹で後に束ねている。そんな素朴な髪形を可愛いと、喜三郎は思った。ふっくらした唇、衿元から頬にかけての初々しい線もたまらなく好きだ。引きよせて抱きしめたい。だがあふれるような想いも、まるで怒っていて全身で拒む風な弁の前には言葉にならぬ。穴太中の女をものにしてみせると豪語し、実行しかけた喜三郎も、恋した相手にははなはだ意気地がない。うぶな少年と変わらなかった。 喜三郎は困惑して、ためらい勝ちに手を伸ばした。弁の細い手は、何の抵抗もなく熱い喜三郎の掌に。ほてる面をそらし、はずむ息を押え、ふるえてくる全身と弁は戦っていた。恋しい人の胸に――と願う心が、一時も早く突きのけて逃げたい衝動と入りまじる。「お弁はん、好きや」 押ししぼるような、かすれた声が、耳もとでした。弁は激しくおののくと、耐え切れなくなって、手を振りもいだ。 ――いけない、逃げては。 自分の胸に叫ぶ。なのに、足は勝手に怯えて走る。「好きや」といってくれた一言を抱きしめるように、胸もとを両手でおおって暗い露地を抜け、犬飼川に沿う小道を夢中で走った。 弁のかけこんだ村上家の軒下に、喜三郎はたたずんだ。もう一言、「本気」で恋していることをつけ加えたかった。弁が自分を嫌いならあきらめもしよう。けれど好いてくれているなら……知りたい、弁の心を。「どうしたんや。真っ青な顔やで」 伯母えんの声だ。喜三郎はかたずをのみ、返答を待つ。やがて、「道が暗うて恐かったし、うち……走ってきたん、動悸が……」と、弁がふるえ声で答える。「遅うなるんやったら、明日から迎えに行かんなんのう。嫁入り前の娘やさけ、村の男衆にでも悪戯されたらえらいことやし」「いいえ、伯母はん、うち大丈夫。一人で帰ります。……もう恐いことあらしまへん」 弁はうろたえて伯母をさえぎる。喜三郎は、思わずのび上がって、櫺子窓に耳をすり寄せた。あとの会話は聞きとれぬ。が、喜三郎の体は喜びに熱くなった。 ――嫌いなわけやない。わしと会うのを、かなんがっとらへん。 やがてランプが消える。   屋内にパッと消えたる洋燈に       われあきらめて家路に帰る 明治二十六年春のこの時点、穴太でもぼつぼつ行燈からランプに切りかわっていたらしい。拝田にいる弁の父八木清之助も、この日より二日前の四月十七日、日誌にこう書きとめている。「八木に買物に行く。八百新氏方にてカレイ三十枚買う。代十銭五厘払う。中川氏方にてランプを買う。代四銭払う……」 気が高ぶってなかなか寝つかれなかった。夜が白みはじめた頃、ようやく現実と夢路のさかいがぼやけてきた。赤毛布の上に、たくさんの女がうごめいていた。女たちの間におし込められて喜三郎はもがいた。「遊びや、喜三やんのは遊びや」と、仙が弁にささやく。弁が泣いている。伯母おえんが、大きな体で弁を連れ去ろうと引っぱる。「待ってくれ。お弁はん、お弁はん」 走っても走っても赤毛布の上だ。無数の女の手が喜三郎にからみつく。「お弁はん――」 はりさけるばかりの声で喜三郎は叫び、自分の声に驚いて目覚めた。汗が喜三郎の全身をぬらしていた。夢と知ってからも、絶望感が喜三郎をうちのめした。 井戸端で寝不足のはれぼったい顔を洗っていると、父吉松が声をかけた。「喜三、お弁て、どこの娘や」「え」「かくさんとけや。お弁、お弁いうて寝言いうとったやろ。お前ももう年頃や。好きなら嫁にもらえ。身分違いやなかったら父さんが掛け合うてきちゃる」 喜三郎はてれて首を振った。逃げるように外へとび出し、丁塚山(高熊山)の峠を眺め、大きく深呼吸した。 弁の父度変窟烏峰宗匠も上田家と同じ小百姓、そして筆の行商で生計を立てている。百姓で食えず、車力に出ている上田家とどっこいだ。 ――ようし、わしが一人前になったら、弁を嫁にしてこましたる。と、喜三郎は、心ひそかに誓った。                          
表題:亀山城 1巻7章亀山城



  亀山は蓬莱島か霧の海
 松永貞徳門下の高弟野々口立圃が、京から生まれ在所丹波の本目谷へ帰る途中、老の坂辺から亀岡を一望して思わず発した句であろう。霧の海に浮き上がる亀山城の美しさ。緑に映える五重の天守閣が夢幻の波にけむっている。亀山城は、天正年間、明智光秀により内丸の小高い丘を選んで築城された。天守閣の白壁には六角と円形の銃眼が交互に配置され、遠く四囲を睥睨していた。 天守閣は、光秀時代に三重であったが、《亀山御城之由来》によると、小早川秀秋が亀山城主であった時に五重になった。光秀滅亡後、一時秀吉の所管となった亀山城は、羽柴秀勝・小早川秀秋・前田玄以と城主が交替、ついで城代に北条安房守・権田小三郎を挟み岡部長盛が領した。元和七(一六二一)年に岡部が福知山に転封後、松平氏(大給)二代十四年・菅沼氏二代十七年・松平氏(藤井)三代三十年・久世氏一代十一年・青山氏二代三十二年と転々として城主は代わる。寛延二(一七四九)年、青山因幡守忠知に代わり、松平紀伊守信岑(形原松平)が篠山から亀山へ移封され、以来、八代百二十四年間、形原松平氏は亀山を支配した。 亀山城の最後の城主、松平信正は、大名育ちで下情にはうとかったらしい。明治二(一八六九)年六月より四年七月まで藩知事としての役職につくが、その後は、さほど彼を必要とする仕事はなかった。よく元家来たちの家を尋ね歩き、火鉢の前で一時間も二時間も黙って正座していた。少しも足をくずさなかった。ある家臣の家で信正が鼻紙を要求した。家人は塵紙では失礼だと思い、半紙を一折さし出すと、信正はそのままチンと鼻をかみ捨てた。見かねて、家人が忠告した。「殿さま、あまりにも、もったいのうございます。そもそも鼻をかむには二、三枚でことたります。余った紙は、懐紙にでも利用されますよう」「さようか」と信正は驚いたような顔をし、以後は素直に実行したという。 このような世事にうとい大名らしい大名であるから、莫大な負債をかかえた松平家は、維新後、たちまち困窮した。城の修理もままならぬ。しかし町自体も亀山城を引き受けるだけの財力がなく、ついに城買い商人に入札させることにした。入札には、数人の商人が参加した。 明治中期、亀岡警察署の小使いをしていた稲田の仙やんの父親は、むかし亀山城の土木関係の修理係をしていた。彼も負けじと一城の主を夢みて入札に加わったが、その時に彼がつけた値は、なんと一円であったという。「かりそめにも天下の名城を一円やなんて」と、これを伝え聞いた町の人たちは呆然とし、元士族たちは暗涙にむせんだ。結局、三百円という安値で、ある商人の手に落ちた。 中矢田の寺川河畔にあった処刑場(俗称首切り地蔵)で最後の処刑があったのは、明治七年であった。 その頃、二十二、三歳であった今西とめは、こわごわ首切り見物に出かけた。処刑された男は国太郎といい、亀山藩の所領であった備中玉島で伯母を殺した上、金を奪って捕縛され、亀山まで護送された。いよいよ首をはねられる寸前、男は叫んだ。「大罪を犯したのだから斬られても恨みはせん。だが、加賀か尾張の大藩の殿さんに斬られるならあきらめもつくが、亀山の殿さんごときに斬られるとは残念――」と亀山の小藩なるを嘲笑した。首が落ちた時はりめぐらされた幕にざっと血がとび散った。 城が心ない商人の手に渡り、無惨にも破壊されていくのを見て、地元では旧城保存の声も起こったが、貧窮の町財政ではいかんともできなかった。数年後、町の有力者、多額納税者の衆議院議員田中源太郎が購入したので、町ではようやく愁眉を開いた。しかし時代の波は旧城を押し流した。 私設鉄道論を唱え、京都―亀岡間を結ぶ京都鉄道会社を設立した田中源太郎らは、鉄道敷設のために亀山城の資材を利用し、また多くの遺構を分割売りした。千引岩を積み重ねた堀の石垣もくだかれ、城内に引き入れた大八車で、珍石なども盛んに運び出された。老の坂の目鏡橋も城の石で築かれた。旧士族たちによって結成されていた士族団は、ただ切歯扼腕、無念の涙をのむばかり。 最後の城主松平信正の家臣、三河藩士の子孫である士族たちは、明治初期、故郷三河の形原町にある氏神の御霊を遷し、城のほとり新町に形原神社を建てて昔を偲んでいた。 明治二十六(一八九三)年春、士族団は崩れ行く城を惜しみ、せめてもの形見にと堀の巨石を何日もかかって形原神社に運びこみ、涙石と名づけて安置した。重さ五トン、縦二・一メートル、横二・五メートル、幅〇・六メートルの衝立のような石であった。社殿屋根の桧皮を葺き代えるため、一時矢田の鍬山神社に遷されていた祭神がこの涙石を得て、形原神社に戻った。その正遷宮式の日は一般に旧城内を開放し、また形原神社境内では余興に武術が演じられた。 遷宮式に参拝し、旧士族らの武術に興じた喜三郎は一人、天守閣あとにのぼった。幾匹かの大蛇が住まい、狐狸の巣窟となって打ち捨てられたまま瓦礫と雑草に深く没したこの高台までは、人も恐れて近寄らぬ。眼下には半ば朽ちた角櫓が一棟淋しく残っている。変わらぬものはただ一つ。光秀の手植えと伝えられ、天守閣の東にそびえ立つ大銀杏である。ただしこの大銀杏、光秀時代よりもっと古いという植物学者もある。あるいは、光秀の移植したものかも知れぬ。喜三郎は、移りゆく栄枯をその肌に染ませているであろう無言の幹を抱いた。 この大銀杏は、幼い時からなじんだ、懐かしい喜三郎の友であった。昔日の老武者ででもあるかのように、幾度喜三郎は銀杏を抱き、語りかけ、涙したことであろう。 大銀杏の伝説について、喜三郎は、古老から幾度も聞かされていた。天守閣を作る時、基礎からくずれるのでお姫さまを築城の時の人柱として生き埋めにしたところ、その場所に銀杏が生えたという(光秀手植えの銀杏の伝説とは矛盾する)。従って枝を切るとお姫さまがあらわれ、その姿をみたものは死ぬといわれる。また枝を切ると大蛇があらわれるともいう。実際に大蛇を見たとまじめに語る人たちも、現に存在した。 眼下にみえる堀には、鯰の伝説があった。白鯰は怒ると堀一杯に大きくなり、付近を水びたしにし、小さくなると針の穴にも入る。この白鯰は、大工の棟梁が五重の天守閣をつくる時、何回建て直しても五重目が曲がるので、責任を感じて鑿を口にくわえて堀にとびこんだ化身だとか。五重の天守閣の構造の秘密を守るため、大工の棟梁が殺されたという意味にもとれる。 亀山城にまつわる歴史や伝説は、荒れた城址と共に、喜三郎の幼い胸にどれほどの夢と陰影をきざみこんできたかしれないのだ。これまでも亀岡の西竪町の伯母ふさを訪ねる度に、喜三郎は忍んでこの高台にのぼっていた。   いとけなき頃は雲間に天守閣       白壁映えしをなつかしみける   旧城址落ちたる瓦の片あつめ       城のかたちをつくりて遊びぬ   待てしばし昔の城にかえさんと       雄たけびしたる若き日の吾  父も伯父伯母も朽ちた城址にのぼる危険を説いておどしたが、幼い喜三郎はきかなかった。「父さん、見とってや。今にわし、あの天守閣あとに城のような屋敷たてちゃるで」と思わず口走ったばかりに、「あほう」とげんこつ一つくらったこともあった。絵にも描きたい程の老松が次々と無惨に伐り払われていく。喜三郎は高台にかけ上り、銀杏にしがみついて叫ぶ。「お前だけは伐らさへんで。わしが生命にかえても守っちゃる」 故里の誇りも旧城址の風致もただ金にかえてかえりみぬ奴ら。櫟林の陰に立つ稲荷の祠に地団太踏み、やれきれぬ憤りをぶつけたこともあった。「お前も神ならば、しっかり眼をあけてみい。お前の眼の前で城が荒らされて行くのを、指しゃぶって見逃がしてよいのけえ。この役立たずのこんこんちき奴」 いま喜三郎は、青年となって大銀杏のそばに立っている。どんなえらい空想も、夢も、少年の故に許された年頃は過ぎた。彼は依然として土百姓、車引きの伜である。過酷な現実の前には夢みることさえ恥じねばならない。しかし喜三郎は変わらなかった。ここに立って銀杏にふれれば、昔の住家に帰ったような懐かしさに心がなごむ。智将光秀を偲んで彼は見はるかす山々に目を放った。 東に竜王岳・三郎ヶ岳・牛松山、南に明神岳・黒柄岳・湯谷ヶ岳・鴻応山、西にかけて雲仙ヶ岳・丁塚山・朝日山、さらに西に小和田山・半国山、ほとんどが五、六百メートルの高さであろう。東は年谷川、北に保津川、西に雑水川が自然のままに外堀をなす。更に内堀が深い水をたたえて城をめぐる。 年谷川に沿って約五丁、田んぼの中に美しい松並木が見える。この松並木は、光秀が築城と同時に亀岡と旧篠村の境界を流れる年谷川に沿って約五百メートルにわたり千本の松を植えて、自然の防壁をなしたという。千本松と言いならわしている。 時世とともにあるいは伐られ、あるいは枯れて、いまは一本も残っていない。俳人野楊もこの松並木に足を止め、濃霧に浮き出た松並木を陸の天の橋立に見立て、野橋立と呼んだとか。このあたりの保津川の水を塞き止めれば、亀山盆地はたちまち湖水となり、亀山城は不落の浮き城と化す。攻めるに京に近く、守るに老の坂の難所あり、この広大な天然の要害を選び定めた光秀の慧眼に、さてこそとうなずく。「貴殿は旧藩にゆかりの人かのう」 ふり向くと、いつの間にのぼったのか、白髪の老爺が杖にすがってたたずんでいる。「旧藩には特にゆかりはおへん、けどこの城址はわしの心の故山です」「そうじゃ、わしにとってもここは第二の故郷じゃ。いや骨を埋めんなん墓地でもある」 老人は目をしばたたいた。「わしは百姓の伜じゃが、お爺さんはむかし侍ですか」「さよう、二百石を頂戴しておった。ふがいないことよ。長う生き恥さらしとうないもんじゃ」 天守閣あとを見渡す老いの眼は赤く、涙がにじんでいる。折から石垣の巨石を割る石工の槌音が強く胸に響いた。喜三郎は老人の胸のうちを察する余り、のこのこ近づいて、その骨ばかりの肩をたたいた。「あの槌音はのう、今は破壊の音でしかおへんやろ。けどもう十年いや十五年長生きして待ちなはれ。建設の喜びの槌音が起こります。巨石も買い戻してつくり直します。わしが昔の城の姿にきっと戻しますさけ」「わしらもそう思うて一度は団結したが、それも夢のまた夢じゃ」「算盤を持ったことも土をいじったこともない士族ではあきまへん。わしを信じていて下はれ」「貴殿が――」 老人は、確かめるように、ゆっくりと貧しげなみなりの青年をみつめ直した。自負をこめたまなざしが、それを受けてたじろがぬ。
 亀山城でみた夢に心暖めながら、喜三郎は穴太のわが家に戻って釣瓶を汲み上げ顔や足を洗っていると、中から賑やかな笑声が聞こえる。聞いたような声だと思いながら土間に入った。「よう、喜三やん」 男は待ち構えていたのかちょこまかと土間に降り立ち、肥った体を仰向けて喜三郎の肩に手をかけた。「せんど(だいぶ)見んまに、ごつうなりよったのう」 喜三郎は苦笑した。大きくなったとほめられる年齢ではない。もう二十三歳の若者だ。が、相手の言い草に実感があるのは、五、六年前に会った時は同じ年頃の子らに比べてチビであった印象が強かったのだろう。確かに喜三郎は伸び方もおく手であった。それにしても相手の背が低すぎる。「いつ来たんや、猶はん」 喜三郎は年上の従兄を見下ろす恰好にとまどって、上がり框に腰をおろした。「夕飯前や。御馳走になってのう。話がある。まあ、上がれや」と、井上猶吉は自分の家のような気やすさで言い、先に上がって吉松や世祢に向かった。「そら伯父さんや伯母はんが長男を離しともない気持ちは、よう分かりまっせ。そやけどなあ、ほんまに息子の将来のことを考えてみたりいな、幼い時から神童と称され、一度は十三歳で先生までしなはったこれだけの有為の青年をあたら穴太村の野に埋もれさすのは、国家の一大損失やおへんか。百姓さすなら、まだ下に三人も男の子のおるこっちゃし」「わかった、わかった。喜三郎にまかすわい」 吉松は先ほどから猶吉の雄弁にまくしたてられ、手を上げていた。「なんの話やねん、猶はん」 喜三郎は猶吉の横にあぐらをかき、ついでにお茶うけの沢庵を口にほうりこんだ。猶吉は喜三郎と向き合い、鼻と鼻をくっつけるように近づけた。「おれとお前は、そもそもなんやったいのう」「従兄や。まだほかに何かあるのんこ」「ふん、まだ他にもなんやらあったでえ。ともかく血肉を分けた兄弟以上に親しい従兄にまちがいないのや」 喜三郎は、これまで猶吉にさほど親しい愛情を感じていなかった。もともと長い間会ったこともない従兄のことなど、思い出すひまはなかった。それだけに、猶吉がこれほど親愛感を示すとなると、わしはよほど水臭いんかいのうと、ちょっと不安になった。 ここで喜三郎と猶吉の関係について、簡単に述べておく必要がある。喜三郎の父吉松(旧名梅吉)は、先代佐野清六の次男である。妙霊教会の布教師をしている佐野清六は、先代清六の三男で、佐野家を継いでいる。吉松、清六の姉、つまり先代清六の長女とめは、井上弥兵衛の後妻である。猶吉は弥兵衛の先妻の子で、喜三郎にとって、八歳年上の従兄となる。従兄という関係では血はつながらぬが、喜三郎の父方の祖母にあたる先代清六の妻きんは、猶吉の伯母、つまり井上弥兵衛の次女である。しかし、それも、喜三郎の弟妹にはあてはまっても、喜三郎に限って父吉松方の親族とは血はつながらぬ。むろん喜三郎自身は知らぬことだが。 こういうややこしい関係を、改めて頭に思い浮かべている間に、猶吉は口早にしゃべる。「わしは、天下の麒麟児をやな、こんな穴太あたりでくすべとくのが無念でかなんかった。けんどわしには力がのうて、これまでどないもしてやれなんだけど、喜んでくれ、喜三やん。わしも今では、名医と噂される医者の端くれになったぞ」 名医と医者の端くれでは語感がなじまぬが、さして能力のある男と思わなかった猶吉が医者になったと聞いただけで、喜三郎は正直に驚いた。「へえ、猶はん、端くれでも名医になったんこ」 猶吉は、大きな鼻孔をふくらまし、「そうや、そこで喜三やんもわしの下でしばらく修行して、名医といわれる医者の端くれにさせてやりたいと思いついたちゅうわけや」「へえ、おおきに……医学の勉強さしてもらえるんなら、わしは端くれよかド真ん中になる……父さんや母さんが病気になったかて、わしが治してやれるし……」 吉松があわてて口をはさんだ。「おい、喜三郎、勘違いすなよ。猶はんは医者は医者でも、牛や馬専門やで……」「なんや、獣医か」 あきれて猶吉の顔を見たが、猶吉は平然たるものである。「どっちも生物の生命を守ることは、おんなじやさけのう。牛や馬の薬かて、たいていの人間にあいよるで……ええか、喜三やん、ここがかんじんのとこやで、よう覚えとけよ。この井上猶吉は、かの有名な駒場農学校の獣医科卒業生じゃ」 とたん、喜三郎の脳裡に撲殺した孕み鹿の姿がよこぎった。親鹿と孕み仔の二匹の命を絶った悔いは、潜在意識の中に常にひっかかっていて、思いもかけぬ時に胸に錐で突いたような痛みを感じる。猶吉のすすめが、二匹の鹿の贖罪を神から求められたような気がした。「獣医学を教えてやる上に、月給は毎月三円やる。どや、よい話やないか。わしがこんなに一生懸命にすすめるのも、喜三やんに立派な獣医になってもろて、多くの動物たちの命を救ってやってほしいさけや。な、わしといっしょに園部に行こけえ」 猶吉の真意を憶測する前に、喜三郎の心はすでに園部行きを決していた。
 早苗も根づいて勢いよく天に伸び始めた明治二十六(一八九三)年七月初旬、喜三郎は青雲の志を抱いて園部へ向った。多くの動物に福音を与える神の使徒のような使命感に燃え立っていた。   小北山南おもては恋うる人の       うからやからの住める里なり  喜三郎の足は千代川小学校の先でちょっとためらい、意を決したように街道を左に折れる。北の庄に向う村道から細々とした拝田峠に続く小道に入る。小北山の南面千代川村拝田の里には、度変窟烏峰宗匠とその家族、つまりわが恋うる弁が住む。 無縁経法要の一夜は言葉を交し合う勇気もない二人だったが、次の夜からはぼつぼつ口がほぐれた。一週間の法要が終わって祖母に連れられ拝田に帰る弁をひそかに見送った時は、わが分身をもぎとられる痛みを感じた。園部に行けば、会う機会もあるまい。よそながら別れを告げて行きたかった。それに烏峰宗匠に報告せねばならぬこともある。 行く手に俗称八つ岩がせまる。石のごろごろした固い岩地に、やや白っぽい小さなコロ松茸がよく採れる。味が良いので有名だ。そこから西に続く家老ヶ岳の間を、小北山と喜三郎は詠んでいる。 八つ岩の裏側は城山、八木の城址が残っている。野良の農夫に聞くと八木清之助の家はすぐに分かった。十数軒わら屋根の点在する拝田の村落の中程に、ひときわ老樹のおい茂った一郭を指さした。 四間ばかりのわらぶきの母屋、右手前に藁小屋、左奥に小さな離れ屋がある。前庭も家のぐるりも、手入れの行きとどいた植木があり、鉢植えの名も知らぬ蘭や、季節の花々が咲いている。離れの前の二かかえに余る老松の幹に太い蔦が無数に這いのぼっている。裏手の崖にも松・杉の大樹がそそり立って背後を守っている。 案内を乞うと、十四、五歳の少年が出てきた。「あの、姉さん……いや烏峰先生、いやはりまっか。上田喜三郎です」 四角ばっていた。 初めての訪問で家の事情が分からない。声を聞きつけて、すぐに弁が出てきた。喜三郎を見るなりはっと頬を上気させ、膝をついたまま声も出ない。少年が下駄をつっかけて離れの方へ走った。「おう、喜楽はんか、珍しい」 烏峰が離れから出てきて声を上げる。「園部へ獣医学研究に行く途中なんで、ちょっと御挨拶に上がりました」 本当はお弁はんに会いに来たんやと出かかるのをこらえて、弁に目を走らす。「まあ、狭い家やが上がっておくれ」と烏峰は機嫌よく言い、座敷に通すと、茶を捧げてきた弁を見返った。「この人は穴太の上田喜楽はんいうてなあ、偕行社の幹事してはったんや。今日はゆっくりしてもらうさけ、晩飯に御馳走つくったげてや」 今さら「知ってます」とは言いかね、二人は初対面らしく頭を下げ合った。「ところで偕行社の方はお盛んかな。わしが最後の選をしたのは、たしか創立一周年の小幡神社奉額冠句集の時でした」「あの節はどうも。わしの句を三点取ってもろうた。かりてきた智恵ではいかぬ椅子の論、栄え行く悪魔しりぞく慈悲ごころ、信あれば幸いの風ひとり福……せっかく隆々と発展しつつあった偕行社ですが、実は先月、解散することになったんです。それでその御報告もあって寄ったわけです」「ほう、それはどうして……」「あんまりわしが巻を取り過ぎるもんやさけ、ほかの連中が〃これではおもしろくない、ああ、あほらし〃ちゅうて『あほら誌』は廃刊、偕行社は解散……」「実力のある者が巻をようけ取るのはやむを得んことでっしゃろ。そやからちゅうて解散するのは納得できまへんな。それで喜楽はんはなんぼ巻を取らはったんや」「四十八冊ですわ」「それはまあようけ……。それで何回の冠句会で?……」「四十八回ですわ。いろは四十八文字やさかい、四十八回で〃ん〃の止めをさして解散ちゅうのも、神の摂理かも知れまへん。その後で園部行きの話も転げこんできたわけやし……」「つまり四十八回の冠句会で四十八冊、喜楽はん一人が巻を……」「早う言うたら、そう言うことになりますな」「いそがしゅうて、わしは五回しか選ができなんだが、すると後の四十三回は朝寝坊閑楽宗匠、つまりあんたが選をして、自分の句をいつも天位に……うーむ」「そう言うことですな。朝寝坊宗匠として、厳正至直に選をし過ぎたんがあかんかったわけです。時には他人の句も取りたいと思うんですけど、どう考えても安閑坊喜楽の句がずば抜けて良う見えるさけ……天才は常に孤独ですなあ」 淡々として語る喜三郎の顔を眺めながら、清之助は他の連中が「ああ、あほらし」と偕行社を解散した理由がやっと呑みこめた。それにしてもこの男のこの自信は……。 夜飯には酒が出たが、喜三郎はのめなかった。長男丑之助がとってきたという川雑魚が、骨まで柔らかく煮つけて出された。茄子と紫蘇の葉の天婦羅も、心がこもっていた。弁の給仕のせいか、ことのほかうまい。烏峰宗匠は一人で晩酌をやりながら、喜三郎の健啖ぶりを楽しげに眺めた。 期待した夜が来た。 しかし烏峰宗匠は、喜三郎を自分の客と勘違いしていた。まずたくさんの蘭の素描をみせて、蒐集した蘭の種類の説明から始めた。それから丹波地方の文化の遅れていること、語るに足る人物のいないことを酔いにまかせて慨嘆した。手頃な話相手の少ない片田舎では、詩歌の語れる客の到来が嬉しいのか、喜三郎をそばへ引きつけて離さない。台所にいるはずの弁のことが気になって、喜三郎は落ち着かぬ。 ようやく弁が茶菓を入れてきて、そのまま座談に加わろうとした。だが烏峰宗匠は、こともなげに宣言した。「名前の通り喜楽なお客さんやさけ、お前は失礼して寝かしてもらいな。それより丑之助に来るように言うとくれ。わしがこれから、若い頃のとっときの思い出話を喜楽はんにお聞かせする。ちょうどよいさけ、ついでに丑之助にも聞かしておこう」「はい」 仕方なく弁は立った。 ――ああ、この親父、男女の情の分らぬ木石に冠句の撰などできるかい、と喜三郎は不満だ。 去りぎわに振りむいて、弁は、涙ぐんだ目差しを喜三郎に投げた。四畳半一間の藁ぶきの離れに移って、障子をあけ放す。涼風が、酔いにほてった烏峰の感興を一層つのらせる。 丑之助も加わって男三人、幕末の風雲急な時代に息づく少年清之助(烏峰)の実話に時の移るのも忘れていった。 心きいた仲間であったのだろう。子供の身で、否、子供であったからこそ、危うく重い数々の仕事を負わされたに違いない。 四十七歳になる烏峰宗匠の熱気を含んだ話しぶりに、喜三郎はぐいぐい引きずられていた。 興が乗ったのか、清之助は和綴じの小冊子を持ち出してきた。表紙には「京都天誅録」とあり、次の添え書きがある。
   余弱冠之砌在京中屡此惨状ヲ目撃而老後之話題トシテ写之置               文久三年  七月某日  八木清之助  天誅があったと聞くや清之助はその現場にとび、刻明にその状況を絵にし、板面罪科状を写しとった。 土佐庄内の浪人本間精三郎の頭蓋を割られた首。槍の穂先が左眼に突き出した宇佐玄蕃の首。長野義言と結んで安政の大獄で活躍した島田左近のさらし首。長野義言の妾の村山可寿江の縄目の姿。安政の大獄で志士の逮捕に活躍した男、串三本突き刺された陰物の目立つ目明し文吉の全裸死体。渡辺金三郎・森練六・大河原十蔵の三つ並べた首。いずれも竹に髪をくくりつけてぶら下げてある。センベ屋半玄康と平野屋寿三郎の生晒し、小西直記の死体は両肩かけて見事な切口をみせる。口から血をたらす多田帯刀の首。床上に置かれた深尾式部の首。高台寺前で袈裟がけに切られた町人体の男。背筋十文字に切込ある文助の死骸。左右の耳をそぎとられた儒者池内大学の首。公卿千種家の家臣、賀川肇の首と両手のない惨殺死体。三方にのせられたその首。千種家出入りの百姓惣助の首なし死体と土佐藩邸の塀にかかげられたその首。足利尊氏・義詮・義満三代の木像の首と位牌が賀茂川原にさらされた場景――。 喜三郎は、目の前に開かれた少年烏峰の筆になる和綴じの小冊子から目をそらした。あまりに生々しくむごい。気がつけば、もう夜は明けかけていた。喜三郎は、一人になって蒲団に仰臥した。眼をつぶると首、首、首……。  その首が訴えてくる。天誅とは何……。尊攘派から見れば天地容れざる逆徒でも、佐幕派から見れば忠臣の首ではないか。人と人とが殺戮し憎み合うむごたらしさに、慄然となる。国のため、君のため、主義のため、親のため――その美名に酔って、人々は本質を見まいとする。人を殺すのは悪。断じて悪。たとえどんな理由で飾ってもだ。 陽がかなり昇ってから、寝不足の目で喜三郎は起きた。裏の冷たい泉で顔を洗う。手拭いをもって後に弁が立っている。つかのま、二人は抱きあった。 泉の脇に擬宝珠が大きな葉の間から白い花首をのばしていた。花蓼が桃色のつぶつぶを束ねてゆれている。 裏手の崖上に上がると、中程から二またに分かれた老松と杉林の間、四角く並んだ二ヶの石台の上、擬宝珠の形に似た丸いおだやかな石がのっている。何の銘もない。弁に聞くと、和宮の墓だという。遺骨のはずはないから、遺品でも納まっているのであろうか。弁が毎朝供えるという小さな椀から、あたたかい飯の湯気がたっている。墓の脇に古びた稲荷のほこら、少しはなれて二十余りの地蔵群、その向こうは山裾にかけて一面みどりの池。 朝食を終えて別れを告げる喜三郎に、烏峰は言った。「丑之助に送らせましょう。桂さんの通った道を行きなさい。八木へぬける道じゃ」 喜三郎は感謝して、拝田峠への細道をのぼった。振りかえると、崖上の地蔵さんの傍で手を振っている弁が小さくみえる。峠を越えれば眼下は八木。園部はま近い。
表題:園部殖牛社 1巻8章園部殖牛社



 八木の北部鳥羽で大堰川(保津川)は支流の園部川を合流させる。この園部川に沿って開けた小盆地の中心地が、喜三郎の青春の一時期を埋没させる園部である。亀岡から五里ばかり西の地点だ。 園部は、元和元(一六一九)年、小出吉親が封地の中心と定め小出氏三万石の城下町を作り上げるまでは、無住の荒野であったといわれる。小出氏十代、三百年の封建治政の間、なだらかな低い山脈に囲まれた園部は、山陰街道の宿場町として、静かにつつましやかに息づいてきた。 亀山藩と園部藩との性格の差を比較してみよう。 亀山藩の所領五万五千石の内訳は、亀山城を取巻く実質の禄高三万石余、あとは氷上郡に一万石、備中玉島に一万二千石と散在していた。二万何千石かの飛地支配には、奉行・代官・同心二人というわずかな人員ですんだ。全体の五分の二の所得を最低の人件費で得られるのだから、その利益は大きい。それは亀山城下の繁栄にもつながり、富裕な商人も多く散在した。 一方、園部藩三万石はすべて園部中心であった。三万石だけで切り盛りするには、「万事質素に、質素に」と、城主以下耐乏生活を余儀なくされた。 この両藩の優劣の差は維新によって逆転する。版籍奉還に伴う領主の還元により、飛地を多く支配する大名の城下町は不景気になった。亀山もその例に洩れず、飛地からの収入が絶え、急激に衰亡に向う。 一方園部は飛地がないためにさほどの影響を受けず、むしろ逆に活況を呈し出すのである。 喜三郎が滞在した頃の園部は、北桑田・南桑田・船井三郡を含む口丹波の中心としての役割をにない、諸官庁・諸役所が集まっていた。たとえば税務署・裁判所・郡役所・土木工営所・畜産所などの多くの官公庁が蝟集していた。特に土木工営所で入札する土建業者などが集まり、芸者置屋・やとな置屋・料理屋などは約五十軒に及び、日夜歓楽を尽くした。大きな料理屋では三亀・木虎・わた儀・魚福・石川屋などがあった。喜三郎は解放された気分を満喫できたであろう。 井上猶吉の生家は園部の東約一里の高屋村にあったが、獣医の開業に不便なので、当時、周囲が田ばかりの園部袋町(現在美園町)に小さな家を一軒借り受け、一人で暮らしていた。喜三郎を迎えて、猶吉は二間しかない奥の間へ通した。庭はすなわち他家の畑で、白く乾いた土に下肥のかすがこびりつき、そこはかとない匂いを送る。「喜三やんよう、こういうことは初めが大事なさけ、今後のことをはっきり取りきめしといた方がええ」「そらそうや」「まず井上猶吉と上田喜三郎は従兄弟同士である」「そんなこと決まったる」「けんど往々にして、こういうことは忘れ勝ちなもんやさけのう。そこで喜三やんは従弟の愛情で、わしが万一困った時には、親身になってわしを助けてくれなあかん。つまりわしが喜三やんの将来を案じて、園部に引っぱったようにや」「そうや、持ちつ持たれついうわけや」「しかし喜三郎は獣医を志して、井上猶吉の下へ弟子入りしてきた。ここで新しく師弟の関係が生じた。わが大事な従弟である以上、喜三やんには立派な名医に成長してほしいと心から願う。そのためには一にも二にも修業じゃ。わかるか」 猶吉は眼をむいた。さっきからもっともなことばかり言われて、喜三郎も、もっともな答えをした。「そら、そのつもりで穴太から出て来たんやさけ……」「よろしい。そこで修業に邪魔になるのは、従兄弟という血族意識や。それがあると、すぐ甘ったれたくなる。だから涙をのんで、わしは従兄弟という意識を今限り捨てる。喜三やんにもそれを望みたい」「ええこっちゃのう、猶はん」「ほら、それがいかん。わしは喜三やんの師やさけ、先生と呼ぶのや。わしも君を上田君と呼ぶことにする。わかったけ、上田君」「へい、わかりました、先生」「よっしゃ。そこで良き獣医となるためには、まず動物の生態をくわしく知らなあかん。そのためには願ってもない研究材料がある。ついてきたまえ」 猶吉はふんぞり返って前を進む。田の畦道を通って百米足らずの地、天神山に連なる小高い丘に、藁ぶき屋根の白崖山南陽寺があった。「由緒ありげな寺やなあ」 喜三郎は畦道に立ち止まって、石垣の上にどっしり構えた山門の左脇、若々しい緑の枝をいっぱいに張った大榧の樹に目を奪われた。その榧は肌色のつややかな幹を抱き寄せていた。細っそりとやさしく枝をたれ、その先に淡紅色の可憐な花房を開き始めた百日紅だ。 一瞬、喜三郎は、弁と寄り添った陶酔の束の間を思い起こした。「おーい、上田君、はよう来んかい」 思いもかけぬ連想から我に帰ると、猶吉が、南陽寺の南、丘の下の木柵にもたれて、手招きしている。柵の中には、白黒まだらの二頭の乳牛が、のんびり草をかんでいた。乳牛は、この地方のこの頃では、非常に珍しい。猶吉は、誇らしげに柵で囲った土地を指さした。「これがわが井上猶吉の経営する、園部殖牛社や」「へえ、牧場もやったはりますのか」「そうや。もっとも先端を行く事業やろ。南陽寺の和尚から境内の土地を借りて、最近にはじめた。二頭の牛から乳しぼって、お得意さんに配達しとる」「誰が?」「おれがや」「へえ、獣医はんがでっか」「しょうがないやないけえ、今まで人がなかったさけ。けんどこれからは、上田君の役目になる。ゆくゆくは牛も増やし、人も増やし、園部殖牛社の牧場に築き上げる。どうや、豪快な夢やろ、わっはっはっはっ……」 井上は腹を揺すって、豪傑笑いをして見せた。「けんど、わしは獣医の勉強に……」「そやさけ、牛の生態から研究するのや。良き獣医たるには良き牧夫たれ。わしは何しろ獣医と兼業で、猫の手も借りたいほど忙しいのや」と最後の方で本音を洩らす。 牛馬を治す医者が牛の乳をしぼるために猫の手も借りたいという。一体これはどないなっとるのやと喜三郎は面くらう。しかし猶吉はあくまでまじめで、「さて、上田君との契約は月給三円いうこっちゃったのう。けど若い者が持ちつけん金持つと、つい身を持ちくずす元になる。そやさけ一円だけは小づかいに渡すが、あとの二円は、わしが責任持って積み立てといちゃる。もちろん、その中から食費なり、日常の費用は差し引くけどのう。まあ、四、五年もまじめに勤めてみいや。獣医開業の資金ぐらい、楽にできる寸法や」と立板に水の雄弁で喋るや、喜三郎に反問のすきを与えず、ぽんと肩を叩いた。「今夜は盛大に上田喜三郎君の歓迎会をせなあかんのう」「わし、酒の方はからきしや」「心配すな。修業中の身に酒飲ますかい。今朝しぼりたての牛乳が余っとるさけ、二人で牛飲しよやないか」「今朝しぼりたてかて、飲むのは夜やろ」「暑い折やさけ、ちょっと匂いがするかも知れんけど、なあに、大丈夫やろ。なんしろ腐っても牛乳で、栄養ちゅうもんがたっぷりあるさけのう」「いつもそんなに牛乳があまるのけ」「なんせい、牛は生き物やさけのう、その日の調子で、乳の出る多少はある。おまけにその日にことわる客もあれば、急病人があるさけ分けてくれ言う臨時の客かてある。そうそう、これは牧場経営者の心得として大事なこっちゃが、もし乳が不足の場合、上田君ならどうする」 猶吉は、テストするように喜三郎の顔をのぞきこむ。さほど困難な質問とは思えぬので、すぐに答える。「丁寧にお断わりしたらええのや」「あかん、そんなもったいないことしたら罰があたるわい。頭を働かせ、頭を。五粒しかない豆を六人に分けるのはちと厄介なが、牛乳は水もんや。そんな時は米のとぎ汁で薄めて間に合わせい」「ほいでも薄うて客が気がつきまっしゃろ」「よんべ牛に水を飲ませ過ぎたとでも言うとけ。万一ばれたかて、園部界隈に井上牧場一軒よりあらへん。独占事業の強みや。次に今日のように牛乳が余った時はどうするか」 喜三郎は自信を持って答える。「前に薄めた時の埋め合せに、量をようする……」「お前はよくよく阿呆や。八文喜三いわれただけのことあるのう」 穴太で天下の麒麟児などとおだてたことなど、忘れた顔で首をひねる。「点数つけたら零点の答、経営者失格ちゅう奴や。そこでやな、余った時こそ、腐らんうちにわしらでがぶ飲みする。そして一食抜く。それで飯代が浮く勘定や。栄養学的にいうたら、二、三食抜いてもお釣が来る。人間、何事も抜け目のう、辻褄合わせんなんとこは機転をきかす。どや、分かったら仕事や。まず晩げの乳しぼりから教えたるさけ、明日からは一人でするにゃぞ」 猶吉はいうなり、颯爽と先に立って歩き出した。 牛舎は申しわけに雨露を妨げる程度のバラック建てで、天神山を背に東向きに立っていた。その脇に大鍋をのせた竈のある作業場、一間半の納屋が並ぶ。作業場で湯を沸かすと、猶吉は乳しぼり用の前掛けと低い木の椅子、木桶を持ち出し、太い棒くいにつないだ乳牛のそばへ寄った。「よう聞いとけよ、二度とは言わすなよ。お前も神童たら言われた男やろうが」「分かっとるわい……へい、分かっとります先生」「うむ、まず搾乳時間は五時と五時、つまり十二時間おきにきっかりや。ちょっとでもおくれてみい、モーモーきつう鳴きたてよる。一年三百六十五日、日に二度の搾乳のうち、一ぺんかて休んだらえらいこっちゃで。乳房を石みたいカンカンにこらしよって、たちまち乳房炎になる」「うっかりさぼれんのう」「あったり前じゃ。それからまだある。わしゃあ獣医じゃ。つまり、その点、牛もちゃんと心得とって尊敬しよるけどのう、お前二文ばか足りんとこあるやろ。牛になめられて蹴っとばされるなよ。よいか、ここが大事や。乳がようけ出る、出んは、牧夫の愛情と技術一つで決まるんや。なめられてみい、ねき(そば)に寄るなり蹴っとばされんなん。しぼったかと思たとたん桶は蹴ころばされる、一日の乳の配達量わやにしてしもたらどもならん。それもこれもすべて牧夫の責任にかかっとる」「けどえらい痩せて落ちつかん牛でんなあ」「あほう。上等のホルスタイン種や。もっともちっとは雑種もかかっとる。痩せとるなら太らすのが、これからの上田君の仕事やんけ。明日はまず夜中起きして、草刈りするにゃぞ。たいていの農家には黒牛(農耕牛)がおるさけ、田のあぜの草無断で刈ったらどやされんなん。刈ってよいのは園部校の土堤草とあとは天神山の笹やすすき。昼寝する間があったら、夏のうちに冬中の干し草づくりに励めよ。草寄せを怠けとったら冬泣かんなん。飼料は野草が主じゃ。金だして買うほど餌代の予算はないさけのう」 二頭の牛は、頭をふり向け、ちろちろ落ちつかぬ目で二人を見くらべている。牛の右脇から腹の下に入って、低い椅子に座った猶吉は、生ぬるい湯で乳頭をふきながら、喜三郎にどなった。「おう、ぼんやり見とらんと、この桶おさえとらんかい。今日は新米の見慣れん奴がきよった関係上、牛はん、だいぶ荒れとるで」 言っている間に後足をガンと前に蹴上げて、桶がころがった。「ほら見い、言わんこっちゃない」「こらほんまに癖がわるいのう」 喜三郎があわてて拾ってきて、おさえこむ。猶吉は顔を赤くして、しゅっしゅっと白い乳汁をしぼり始めた。 その夜、乳をしぼっていて牛に腹を蹴られる夢をみて眼をさますと、現実にも腹のあたりをぼんぼん蹴る者がある。手さぐりで物体をさぐると、隣の蒲団からのびている毛臑である。「猶はん……やない、先生、寝相が悪いぞ」「なんかして(何ぬかして)けつかるねん。お前を起こしとるのや」「足ででっか、えらい乱暴や」「ええから、はよ起きんかい」「先生、まだ暗いで」「暗いうちから仕事にかからんと、間に合うけえ。ちゃんと昨日いうた手順通りにやっとくにゃぞ」「先生はどないするのや」「わしは頭を使う獣医やさけ、よう睡眠をとっとかんなん。先生に起こされる弟子があるけえ。ぐずぐず言わんと、起きさらせ」 言うなり猶吉は高鼾である。仕方なく、喜三郎はもそもそ起き出し、手探りで服を着る。さすがに気になるのか、しばらくして猶吉の鼾が止まり、「おい、起きよ」と寝言を言っている。 喜三郎は篭をかつぎ、教えられた通り園部高等小学校の土堤に草刈りにいく。 園部高等小学校は、園部城址に建てられていた。園部城郭も、版籍奉還後、大きく変転した。城は取り毀され、城門と角櫓(たつみ櫓)のみが残って、そのまま校門となっている。 土堤のつゆ草を山盛り刈り取って、寝静まった城南町を通り抜け、天神町の牧場に行く。 百姓たちは、草に露がこぼれるほどついている早朝の草に養分があると昔から信じてきた。また露のあるうちは鎌がよく切れる。したがって能率も上がる。こうして代々、早起きしては草刈りに励み、牛の大事な飼料とし、そして最も大切な厩肥を作って田畑を肥やし、作物を養ってきたのである。 暁の光まぶしい中で、刈りたての柔らかいつゆ草をどっさり投げ入れて餌をやる。それから牛を牧場に出し、おぼつかぬ手つきで乳をしぼる。一頭からの搾乳量は一回に三、四升がやっとである。しぼった乳を絹布に濾す。牛の毛やらふけが濾し残されて真っ白になる。一度煮沸消毒した乳を、口先のとんがった五合杓子で一升罐にとり分ける。 それから昨日のうちに頭に入れておいた得意先を、配達名簿片手に配り歩く。一升入りの牛乳罐から、一合ずつ量を売るのだ。園部と周辺の村々に毎日朝夕二回ずつ。 配達から戻ると、やっと目ざめた猶吉と自分のために、朝食の支度である。飯のたき方もこの時初めて覚えた。飯に残りの牛乳をぶっかけてかきこむ。 台所のあと片づけを済ませ、牧場にとんで行って、今度は牛糞さらえ。牛舎や牧場を清潔に保つためには、一日四、五回の場内外の清掃である。午後からは干し草づくりに笹を求めて山を刈り歩く。会計事務に集金、得意先の新規獲得もせねばならぬ。喜三郎の頭はくるくるまわった。仕事に慣れ、乳牛になじむまでは、とにかく体をはって覚えることだ。 園部について三日目、弁から追っかけるように手紙がきた。「せっかく立ち寄って下さったのに、気のきかぬ父のためにろくにお話もできず、くやしくてなりません。盂蘭盆の日は穴太寺へ手伝いに参ります。もしお忘れなくば、ぜひ穴太までお帰り下さいませ。つもる話がしとうございます」という意味が書いてある。その日までの一月余が待ち遠しくてならなかった。 十日ばかり過ぎた。「お早よう、上田君。入ってもよいけえ」 聞き慣れぬ透き通った声に、驚いて頭を上げる。朝霧の中から笑いかけているのは、いつも牧場の柵に寄って、黙って牛を眺めている十歳ばかりの少年だ。少年のそばには、大きな犬が従っていた。「困るのう。これから乳しぼりや。牛は慣れんもんがねきにおると、驚いて蹴りよるさけのう」「わしなら大丈夫や。この牛とは友達やもん」 少年は素早く柵をくぐって、牛の角をつかみ、顔をすり寄せる。「モー……」 牛は甘えた声をあげ、べろべろと少年の顔をなめた。「上田君もこの牛好きやろ。わし、見とったら分かるんや」「そうけ。なんで分かる?」「猶はんとちごて、上田君は目がきれいや。やさしう澄んどる。それに牛に話しかけてん声で分かる。畜生やのうて、友達にいうのと同じ言い方しとる」「ふうん、なかなか観察が鋭いのう。けど、『上田君……』言うのは止めてくれへんけ」「それでも上田君やろが」「お前みたいな子供に君づけされると、なんやけったいな気がしてのう」「ほんな何ちゅうて呼ぶねん」「兄さん、でもなし、まあ喜三やんでよいわ」「よっしゃ、ほな喜三やんでいこ。わし岡田和厚」「偉そうな名前やのう」「わしの責任やない。親が勝手につけたんじゃ。南陽寺の坊主の息子や」「お寺の子か。なんちゅうて呼ぼ」「ワコにしとけ。友達になろけえ」「よっしゃ」と、喜三郎は苦笑する。「わしは、人を選んで友達にするのや」「へえ、わしがなんで友達にしてもらえるのや」「喜三やんが来てから、ずっと黙って観察しとったが、喜三やんは牛が悪い癖だしても、決してどつかん(なぐらぬ)。猶はんと違うてのう」「猶はんかて、先生かてやな、獣医はんやさけ、牛なぐるような真似はせんやろ」「ははは……」と少年はのど首をそらして笑った。しゃべりながら乳房にたれた四つの乳頭を湯で拭っていた喜三郎は、手をふって少年を制止した。「牛が驚く。静かにせんけえ」 洋犬が激しく吠え立てた。少年が「お黙り」と声をかけると、犬はおとなしくお坐りして見上げる。「ほう、賢い犬や。そいつはワコの犬か」と喜三郎は乳をしぼりながら、振り返って訊く。「違う。父さんの犬や。父さんはものすごう犬好きやさけ」「何ちゅう名や」「ペス」「へえ、ハイカラな名やのう」 少年はしゃがんで喜三郎の手つきを見ながら、真面目な口調で言った。「猶はんは喜三やんの先生やけど、わし嫌いや。喜三やんをだますさけ。この牛が悪戯して蹴るようになったんは、猶はんのせいじゃ。牛は猶はんがこわい。初めに蠅や虻がたかってつい足を上げたら、乳しぼりの桶がひっくり返ったんや。その時、猶はんはドえらい声でどなりよって、いきなり坐っとった椅子で横腹どつきくさった。棍棒でしばき(なぐり)よったこともある。わし見てたけど、恐いさけ、口出しようせんかった」 少年は鳶色の切長の目を口惜し涙ににじませている。「牛はもの言えんさけ、乳しぼられるたび、びくびくする。またどつかれへんかと怯えて足上げる。それが癖になって、桶をころがす。牛に悪気はあらへん」 だまって聞きながら、喜三郎の手はしなやかに動く。小指ぐらいの細長いふにゃふにゃの乳頭が固くしこってくると、四つのうち前の左右を軽くにぎって、交互に引くようにする。十日ほどの習練で、こつは自然と身についていた。白い乳汁がほとばしり、五、六分のうちに桶にいっぱいたまってくる。乳の出が五升近くにも増えていた。 口を止めて見守っていた少年も、歓声をもらす。「やっぱりちごう。ちょっとの間に、猶はんの時よりぐんと乳の出が増えとる。うれしいからようけ食うし、乳も出すのや」「そう猶はん猶はんいうて比べたら、怒られるで」 喜三郎はたしなめながら、この感情の激しい子を好きになっていた。 少年岡田和厚はこの時十歳、利発な子であった。和厚も友がなかったのか、二人は牛を中にして兄弟のように親しんだ。牧場では、喜三郎の仕事を手伝いつつ、二人の明るい話し声や笑いがはずむ。時には、喜三郎と一緒に牧場に泊まりこむほどの親密さである。 ある時、喜三郎は寸暇を得て和厚に案内され、隣りの南陽寺の境内を逍遥してみた。 南陽寺は古い由緒のある寺である。元和五(一六一九)年但馬国出石から園部に移封された小出伊勢守は、小向山にあった生身天神を現在の地に遷しかえ、小向山山麓の霞ヶ平に築城した。その頃、南陽寺の前身草月庵は、遷ってきた生身天神を見下ろす地(俗称二本松)にあったが、天神さんの上に寺があると具合がわるいというので、現在の地に遷したという。 初めて見た時は四分咲きほどだった門脇の百日紅が見事に咲き満ちていて、寄りそって立つ大榧の樹の枝々は青い実がいっぱいだった。山門の右には形のいい鐘撞堂、書院、本堂、本堂横の小さな藁ぶきの一棟をさして、喜三郎は聞いた。「これは何に使うのや」「雲水(行脚僧)のたまり場や。衆寮ともいうとる」 衆寮とは大衆(若い僧)の寮のことである。喜三郎は中をのぞいた。八畳と六畳の二間、壁一面の本棚に古事記はじめ多くの和漢書が並んでいる。喜三郎の眼が書籍の山に貪婪に輝く。「ようけ(沢山)の本やのう。誰のや」「お爺ちゃんの本や。お爺ちゃん、偉いのやで」「へえ、有名な坊さんか」「坊主やない。岡田惟平いう国学者や。夜はここで塾をひらいてこの辺の青年たちに教えとってやし、月に一回は歌会もある」「そうか、塾があるんか」 時間がほしかった。好きな国学書をむさぼり読んでみたかった。だが肝心の獣医学の研究さえ、昼間の労働で疲れきって、夜一人になって行燈に向かっても、ぼーっとして頭に入らない。なんとかして仕事の能率を上げ、時間をひねり出したいと思うのだった。「ちょっと、和厚、そのお方、こちらに来ていただけよ」 その声に振り向くと、寺の和尚と並んで背の高い痩せた品のよい老人が、広縁に正坐して手招きしている。その傍にペスが番犬然とひかえていた。「あ、お爺ちゃんや」と和厚は声を上げる。 喜三郎が近寄ると、岡田惟平は軽く目礼して、やさしい声でしゃべった。「お呼びたてして失礼。孫の和厚がいかいお世話になります。あれは無口で気むずかしい子でのう、今まで気に入った友達をつくれなんだのです。それがこの頃、牛と上田君、やない、喜三やんの話でもち切りですのじゃ」 いかにも孫に目のない好々爺ぶりである。「穴太の百姓の伜上田喜三郎です。よろしゅう」 初対面の挨拶のあと、惟平は手で引き止めて、喜三郎の顔をじっと凝視する。惟平の白いあご髭が風に揺れる。 眼のやり場に困り、喜三郎は惟平と和尚の顔を等分に眺める。惟平と和尚が、年齢の差と髭のあるなしだけで瓜二つというほど似ていることに驚いた。耳は俗にいう福耳で、彫りの深い顔立ちである。誰が見ても親子だと分かる。 惟平はほっと溜息をつき、「上田さん、学問はお好きですか」と問いかける。「はい、時間さえ作れれば、師事させていただきたいんですが」「不思議だ。あなたはただの百姓や牧夫で終わる人物ではない。そればかりか高貴の相すらある。将来世にいでて非常な傑物になりなさる。しかし一歩誤ると堕落して、兇党界に落ちるおそれがありますぞ。道をあやまらぬよう心がけて学問せねばなりませぬ」「へえ、兇党界とはなんでっしゃろ」 和尚が横から口をはさんだ。「父は耳がまるで聞こえへん。兇党界というのはなあ、仏教でいうたら地獄界のことらしい」「ふーん、天に昇るか地の果てに堕るかや」 喜三郎は独りごちて唇をかんだ。「時々、遊びに来なされ。学問を得ればあなたの前途は洋々。波瀾は免れまいが恐れず進みなされ。夜は若者たちが大勢学びに来ておりますぞ」 岡田惟平は文政四(一八二一)年、兵庫県川辺郡西冬村大原野に生まれた。この年七十三歳。かつて宮中御歌所の寄人に推薦されたが、健康の都合で辞退し、終始民間にあって国学の教育にあたっていた。一定の居所を構えず、転々と渡り歩いていた。四十歳頃から耳が遠くなり、相手は筆で意を示さねばならなかったが、それもすべて文法にかなうことを要求し、仮名づかいも特にやかましかった。惟平自身も、「ありませぬ」、「存じませぬ」といった叮嚀な言葉づかいであった。佐々木信綱が惟平の遺稿をみて、「まれに見る仮名つかいの大家である。数多の原稿の中で一字の間違いもなかった」と語ったという。 和尚の岡田楚玉は安政元(一八五四)年、惟平の次男として出生、惟平は、親交のあった園部町福泉寺住職祖苗和尚に小僧として楚玉を預ける。祖苗はのち南陽寺住職となり、楚玉も従ったが、明治十一年の祖苗の死により、楚玉が南陽寺住職となる。喜三郎が会ったこの頃は、息子楚玉を頼って、惟平は南陽寺衆寮に一時食客として住んでいたのである。
 岡田惟平に会って国学への意欲をかき立てられ、喜三郎は興奮して牧場に帰った。しかし思念する暇もなかった。喜三郎の足音を聞きつけるや、甘えた牛の呼び声が鳴きたてる。餌をやる時間が迫っていた。「今日は少し遠出の水浴びとしゃれこもうけえ。お前も町を見たいやろ」 喜三郎は牛を一匹連れ出して、その上にひょいとまたがった。残された牛がモーと鳴く。「よしよし、交代や。待っとんなよ」 牧場の三十米ばかり先に細い天神川が流れている。いつもの水浴びの場所だがどうにも狭い。その川にかかっているひとまたぎの天満橋を渡り、喜三郎は得意満面で町を行く。本人は得意でも、馬と違って牛は胴が広い。膝で強くしめるわけにはいかない。どうしても上半身をぐらぐら揺すって、重心をとるはめになる。衿はゆるんではだけ、口は半ば開きっぱなしだ。ぐたぐたと町を行けば、すれちがう人々は呆れた顔で振りかえる。本町の大きな薬屋の前に来ると、塀越しに内から呼びかける男がある。「こらこら、牛に乗った男――」「わしのことけ」 喜三郎は、のんびりした顔で牛の背から見下ろす。「あたりまえじゃ、牛に乗った男が、そうそこらにおるかい」「わしになんぞ用だっか」「お前、柄杓持っとるかい」「柄杓?」「そうや。牛の尻のあたり見てみい。痩せてへっこんどるやろ。雨が降ったら水がたまる。それで、かい出す柄杓を持っとるかと言うのや」「なるほど、あいにくと良い天気やさけ、用意してまへんわ」「こいつ、あほかい。ぴんとこん奴やな。待てまて、いま麦を一俵持たしたる」「麦を一俵?  なんでやね」「とぼけるな。この藤坂薬店の前を痩せ牛ひいて通る奴には、麦一俵、牛の餌にくれてやることにしとるんじゃ。もろうた奴は、痩せ牛ひいては二度とこの家の前を通らんわい。この牛は井上んとこのやろ」「へえ」「前にも井上がこの牛ひいて通りくさったさけ、麦一俵持たしてやった。さすがに井上の奴、恥ずかしゅうて代わりの男を寄越しやがったな。一頭の牛に、二俵の麦とられるのは、はじめてじゃ」「わし、麦なんていりまへんで」「お前にやるんやない。痩せ牛にくれるんじゃ」「牛は、モウ結構、言うてますで。急ぎますさけ、ごめんやっしゃ」 喜三郎は、牛に「モウ行こけえ」と呼びかける。牛はのたりと歩み出す。男はくぐり戸をあけて追って来て、牛の鼻環を押えてどなり出す。低い背をのばし見上げながら、町中もかまわぬ大声だ。「こら、貴様、恥を知らぬか。痩せた牛にまたがってこの藤坂の目前を横切るとは。返せ、戻せい」「おせっかいな男やな。わし、園部川で、牛ゆっくり水浴びさせるんや。この痩せ牛ともう一頭、あと一月も見とっとくれやす。丸々ふとらしてお目にかけまっさ」「どあほ。それなら何で今までこんなに痩せさせた――」「わし、傭われて来たばっかしですねん」「そうか、新米か。道理で見ん顔や思うた」と言いながら、急に静かな声になり、「一月で牛を肥らす言うたのう。しかしあの猿食わず柿の井上なら、餌代も渋ってよう出さんやろ」「渋ちんやから猿食わず柿か。うまいこと言わはるのう」「へんなこと感心すな。それよりどうやって肥らす?」「牛が肥るも肥らんも愛情次第でっせ。金かけたら肥るちゅうもんやない。あんたは、家の前を通る痩せ牛には麦一俵やる言わはったのう。けど痩せ牛の主人はもともと牛への愛情が不足しとるんや。愛情があったら、一時間早う起きて、牛の好きな草をどっさり探してやればよい。冬の飼料が不足せんよう、夏のうちから十分に乾草つくって貯めとくことかてできる。麦一俵は欲深か主人を喜ばすだけや。麦の分、草へらされては、牛にとってはちっとも有難いことおまへんわ、どうどう」 牛をせかして行きかけると、男は後を追ってきてまた叫んだ。「どうやらわしの負けやのう。お前はよい牧夫になるやろのう。丸々肥えたお前の牛見るのが楽しみじゃわい」 喜三郎は牛を止め、振返っていった。「わし、いつまでも牧夫してまへん。これは牛の生態研究のためで、本来は獣医志望や。そのために井上先生に弟子入りしましたんや」「ほうか、獣医志望か。よし、牛が肥えたら家へ遊びに来なはれ。獣医学のはないけど、薬学の本なら、少しは参考になるのがあるかも知れんで」「ほんまでっか。薬学の本、そら麦十俵よりなんぼかうれし。ほな藤坂はん失礼します」 でくでくと牛に揺られて、喜三郎は去っていった。 この男は、藤坂惣三郎(のち総寿と改名)。安政二(一八五五)年生まれ、この年三十九歳になる。藤坂家は昔は大きな酒屋で、代々、園部の殿さまに御膳酒の御用を承っていたが、惣三郎の代になって薬屋をはじめた。喜三郎との出会いで見るように無類の世話好きで、肥汲みの人に草履を与えたり、乞食を傭い入れて末に須知に支店を持たせるなどの逸話を残した。
 八月九日、盂蘭盆会の夜がきた。五時の乳しぼり、配達を済ますと、ひそかに園部をぬけ出て五里の道をとぶように穴太へ向かった。深夜の穴太寺にはまだ参詣人が群れている。盆踊りの太鼓も懐かしく響いている。 明々とした本坊の庫裡には襷掛けの女達が立ち働いていた。弁をさがしてのび上がってみると、横から出てきて喜三郎の前に立ちはだかった大女がある。あっ、と喜三郎は目をつぶった。弁の叔母えんであった。 えんは無言で喜三郎の袖をひき、庫裡の外へ連れ出した。「誰を探しとるか知っとるえ。どうもお弁がそわそわ落ちつかん、外にばかり行きたがる、と思うとったら、相手は喜三やんやな。この女たらし……」 えんは腕を組み、ぽってり太った腹をつき出した。「わし、何も……ちょっと庫裡に用事があって……」 喜三郎は苦手のおえんに威嚇され、どきまぎして答える。「へん、男が庫裡に何の用事があるのや。言うてみい。あかん、あかん、うちの眼はごまかされへんえ。ボボ喜三が穴太に居んようになって、やれやれ静かになった思たとこやのに、また生娘の匂いかぎつけて戻ってきたな」「それ言わんとけや。わし、宗旨がえして、今は神聖な恋愛に身を入れてんねん。好きなんはお弁はん一人。ほんまや、嫁にほしいぐらいじゃ」「嫁に? あほうぬかせ。誰がお前に嫁なぞやるけ。弁はここの権大僧正の姪でっせ。何ぼでも、金持ちや良い家柄から縁談がおます」「おばはんはお弁はんを金と結婚させる気こ。お弁はんが好きなんはこのわしや。相思相愛やで。女が幸せになるならんは、好いた男と一緒になれるかどうかで決まるのや。お弁はんが可愛ないのんけ」「弁が可愛けりゃこそ忠告してやるわいな。色男金と力はなかりけり、や。昔の人はうまいこと言うとってや。好いた男かどや知らんが、一生水呑み百姓で腹へらすより、力のある男はんに嫁いで、安楽に暮らす方が幸せにきまっとる」 喜三郎は唇をかんだ。えんの言うことは、もっともであった。「わしには今すぐお弁はんを幸せにする力はあらへん。けど長い目で見とって。わし、きっと一城の主になってみせちゃる。楽させちゃる。なんせい、冠句の号を喜楽というのやさけ……」「そのうまい口車にのせて、何人女をだましたんや。ふん、そんなことで、このおえんがだませるかいさ。うだうだ言わんと園部へ帰んな。牝牛がお乳はらして待っとるわ。弁にはうちから引導渡しとく」 突然、泣き声が起こった。渡り廊下の端の暗やみから弁が走り寄って、叔母の背にしがみついた。「うち、幸せになんかならんかてかましまへん。ただ喜三郎はんについて行きたいん。一緒に居れたら、それでもう嬉しのや」「お弁はん……」 喜三郎が涙声で叫ぶ。が、おえんは動じなかった。弁を背に、ぐっと喜三郎をにらんで言い切った。「お前はのぼせとって前後のみさかいつかへん。こういう時こそ、お前を守るのがうちの役目や。弁の死んだ母親代わりやさけ、うちの目の黒いうちは絶対に許さしませんえ。乳しぼりの分際で、よう弁を嫁にくれなどと厚かましいこと言えたもんや」 盆踊りのさんざめきが夜気をふるわす道を、喜三郎は面をかくして走りぬけた。誰にも顔をみられたくはない。一人になって思うさま泣きたかった。往きのはずむような足どりと変わって、絶望によろめく足は重い。だが五里の向こうで牛たちが待っている。搾乳の時間に間にあわねば一大事であった。園部に近づくにつれ、おえんの痛罵が、明け方の光の中にはっきりした形をとっていった。 ――そうや、くやしいけど、おえんはんの言うた通りやった。人に雇われとる身分で女房など……わしが甘かったんや。今日かぎりきっぱり諦めちゃる。仕事や、勉強や、今に見とれい。口だけやない。今に天下をとってみせたるわい。 喜三郎は脇目もふらずに仕事に没頭した。使用人の領域をはみ出して力を注いだ。 二頭の牛は見違えるように肥えた。搾乳量もぐんと増した。喜三郎が牛乳の販売先を拡張に廻ると、得意客は面白いようにふえた。すると猶吉はほくほく顔で、新しく蹴り牛を買ってくる。 蹴り牛というのは、蹴り癖のついた牛のことである。搾乳の時に何かに怯えて牛が蹴上げる。愛情のない飼主だと、牛を打ってますます怯えさせる。怯えて蹴上げる。癖がつくと、乳牛はダメである。乳の量まで激減する。結局、飼主は半値で手放す。 蹴り牛を見分けるのは容易だから、猶吉は半値以下に買いたたくのだ。二頭が、三頭に、味をしめて四頭にと牛はふえる。安価な蹴り牛が喜三郎の手しおにかかって回復すると、なみの牛以上に良い乳を豊富に出すことを猶吉は知ったのだ。可愛い牛どもの草寄せに、喜三郎は必死になってとびまわった。 牛はふえるし、一人で刈り取れる草の量にも限度がある。猶吉は、根が吝嗇のたちで、牛の飼料を極度に惜しんだ。喜三郎の働きをいいことにして、資本入らずの野草だけで間に合わそうとする。が、冬が近づくにつれ、覿面に搾乳量は減ってくる。獣医である以上、猶吉だって、牛にも適度な栄養の必要なことくらいの知識はある。が、なんせ、いざとなると出費が惜しい。餌いらずの牛はないものか。 ある日、喜三郎が真剣な顔で提案してきた。「先生、牛は金の玉子を産む鶏とは違いまっせ。春までには、牛は栄養失調で死ぬかも知れまへん」「よう太っとるやんけ」「今はのう、けど春までは保証できまへんで」 猶吉はどきんとした眼の色になり、やがて疑い深い顔つきで、「お前、餌をさぼって、やらんのやないこ」「無茶言いなはんな。考えてもみなはれ。わし一人で炊事洗濯、牛舎の清掃、搾乳から配達、帳面づけ、おまけに牛はどんどんふえる。この上、野草刈りまで手が廻りますかいな。このままでは、牛より先にわしの方がくたばってしまうわ。せめて先生に嫁はんなともろて、牧場の方も手伝わしてもらわなかなん」「嫁はんは飯食うさけのう」「あたり前や。飯も食えば糞もたれますわな。その代わり給料いらしまへん」「給料いらん?  そうやなあ、嫁もらうか」と言いかけて、身ぶるいした。「やっぱりあかん。女房もろたら子がでけるわい」「ほんなら誰か一人、雇っとくれやすな」 猶吉はしぶる。何度も掛け合った。このままでは手が廻りかね元も子もなくなること、それより多少の出費は覚悟しても牧場の管理をしっかりした方が長い目でみればずっと利益であること。実は議論の余地なく、頭では猶吉自身も喜三郎と同意見であった。ついに猶吉は、銭惜しみの本性に打ち克って、牛の飼料の予算をとるのと人を雇うことに同意した。 猶吉がどこからか連れて来たのは、文助という六十がらみの独身爺さんである。まさに猶吉の提示した報酬に見合うような男であった。年寄りのくせに宵っぱりの朝寝坊。さて労働となると、ときどき同情をひくように人前でよたよたしてみせる。煙草がむやみと好きであった。煙草好きということは一服好きと同様で、ちょっと働いては石の上であろうが土の上であろうがへたりこみ、煙と一緒にぶつぶつ愚痴をこぼしていた。しかしこんな老人でも、手がないよりはよほどましだ。喜三郎も少しは息つく時を得た。 その寸暇を藤坂薬店に通い、薬学の研究をした。産科学、生殖、生理の勉強は、ことのほか若い喜三郎には興味深い。井上から借りた馬の解剖書や馬の生殖器に没頭していて、飯に火をつけていたのを忘れ、釜の三分の一まで炭化させたこともある。こういう失敗が連日で、ついに猶吉は焦げ飯のために腹をこわし、朝寝坊の文助老人に炊飯をとってかわらせた。 南陽寺のしまい風呂を時々もらった。生まれてこの方、人の家のもらい湯ばかりで、いつも気がねであった。牛の乳と糞にまみれた毎日に、さすが体じゅう牛臭くてたまらぬ。一度は町の銭湯なるものへ入って、のびのびと垢を落としたかった。 ある日、身銭を切って本町の銭湯ののれんをくぐり、広々とした浴槽に身を沈めた。体を洗うにも、遠慮なく湯を使えることが嬉しかった。人の入った湯で顔を洗わぬ主義の喜三郎だが、町風呂には上がり湯がある。久しぶりで丹念に顔を洗ってやれと思った。隣の人を見ると、ぶつぶつとあばたのできた石で、踵をこすっていた。なんと便利な物があるわいと感心した。同じような石が喜三郎の前にも転がっている。びっくりするほど軽い。手にとって顔をこすった。ちょっと痛かったが、それだけこびりついた垢が落ちるようで爽快であった。痛みをこらえて更にごしごしこすった。 湯上がりに火照る身を秋風に快く吹かれながら、喜三郎は良い機嫌で井上家に顔を出した。渋ちんの猶吉はおそらく近所のもらい風呂にしか行ったことはあるまい。ちょっぴり自慢してみたかった。 猶吉は、喜三郎の顔を見るなり頓狂な声を出した。「あれ、上田君、どうした。喧嘩でもしたんけ」「いんや」「それとも猫にひっかかれたこ」「ちょっとはひりひりするけど、いまのう、町の銭湯へ行ってきた帰りや。よい気持ちやったぞ」「けれどその顔、血だらけやんけえ」 驚いて顔に手をやると、掌に薄く血がついてくる。顔はところどころすりむけて、血がにじみ出ていた。あばた石で洗ったことを告白した。「ははは……それは軽石いうて、足の踵を洗うもんや。もっとも面の皮が厚いさけ、軽石が手頃やったやろ……人間の顔ならたいがい石鹸で洗うけどのう。ひっひっひ……」 その失敗談がよほど気に入ったのか、猶吉は人を見る度に大げさに吹聴する。あげくに、喜三郎のことを、「軽石」としか呼ばなくなった。 ――全く人を軽うみとる。 喜三郎は憤然となった。腹にすえかねた喜三郎は、土のついたままの二十貫余りの大石を持ち上げ、座敷の真ん中にどかんとすえた。往診から帰って来た猶吉が、その有様をみて憤怒した。「こら軽石、何さらすねん。こ、このどでかい石をどけんかい」 喜三郎は大あぐらかいてうそぶいた。「ようどけんわい。軽石か重石か見せたったんじゃ。分かったか、猶吉……」「な、なにお、先生に向かって……」「先生と言ってほしかったら、宣り直せやい。お前はわしを上田君と呼び、わしが先生というのは、初めからの約束やないけ」「か、軽石の分際で……石をどけさらせ」「いやじゃ。どけたかったら勝手にどけ。わしは見物しとっちゃるわい」 喜三郎は床の間に腰かけ、頬杖をつく。猶吉は小さな体で石にすがりつくが、一、二寸何とか持ち上げても、それ以上は手に合わぬ。悪戦苦闘の末、ついにへなへなと坐りこんだ。「えらい重い物、持ちこみよった。こら軽石、何とかせいやい」「いやじゃ。軽石に重いもん持てる道理はないやろ。取り消さなんだら絶対に石を下ろさへんぞ」「ちぇっ、この阿呆。取り消したるわい。上田君、頼む、下ろしてくれ」「よっしゃ、もう二度とぬかすなよ」 喜三郎は、双肌ぬぎになって、石に両手をかけた。穴太にいた当時は二十貫の五斗俵米を楽々と持ち上げたものだ。二十貫の米と二十貫の石では、同じ重さでも手ごたえが違うようだ。運び上げた時は猶吉の鼻を明かしたい一心であったが、どけるとなるといやに重い。うんうんうめいて歩き出したが、敷居の手前でつんのめり、手がすべった。 ――ばっしーん、大石は虫の食った床板をへし折り、畳を逆立ててごろんとばかり床下にめりこんだ。こうなると足場は悪いし、押せども引けども石は動かぬ。「ひやー、家ぶっこわしよった。えらいこっちゃ、誰かきてくれえ」 猶吉は泣き声たててどなりまくる。やり過ぎたと後悔していた喜三郎、大工を呼びに外へ飛び出す。 大工の常さんが床板を張るのを眺めながら、猶吉はつくづく考えた。 ついに喜三郎の奴、反乱を企てよった。あんな無茶野郎いつまでも置いといたら、しまいにどもこもならんようになるやろ。というて、いま追い出しては牧場は立ち行かんし、すぐに代わりを見つけなあかん。 さて誰をとなると、なかなか条件通りの男はなかった。誠実で、働き者で、丈夫で、主人に対して無私の愛を抱き、頭もようなけらあかんし、しかも無給で……。 急に猶吉の顔が輝いた。 ――あった。あった。あまり身内すぎて気がつかなんだが、高屋村で母と共に住む一番下の弟徳三郎だ。次の弟弥二郎は百姓をしているが、徳三郎はただ手伝うとるのに過ぎぬ。もう十七歳、労働者として一人前だ。弟だから、給料など水臭いことはよも言うまい。その代わり牧畜でも獣医学でも親身になって教えてやるし、また教え甲斐もある。徳三郎を連れて来て半年も喜三公につけておけば、やがてあいつの仕事もすっかり覚えこむだろう。 床板の損害を忘れて、猶吉は一人でほくそ笑んだ。
 数日後、にきびだらけの若い男が連れられてきた。猶吉は、いつになく愛想よく喜三郎に話しかけた。「上田君、紹介します。これ徳三郎いうて、わしの弟や。いずれ上田君には立派な獣医になってもらわんならんが、そのためには上田君の代わりに早く牧場を世話する者が必要や。つまり上田君のために、高屋から引っぱって来たようなものや」「おおきに。そんなら徳やんもわしの従弟になるわけや。仲良うやりましょかいな」「お願いします」と徳三郎は頭を下げる。 猶吉は好もしそうに弟を見て、「こいつは小さい時から病気一つしたことのない丈夫な男でのう。喜三やんも獣医学を勉強したかったら、思いきりきびしゅう仕込んだってや。はよ一人前になれるようにな」 猶吉が去るや、徳三郎はごろんとひっくり返った。「あんた、床板をぶち抜かはったんやてなあ。へっへっ、やるのう」 あまりの豹変ぶりに、喜三郎はあきれて、「兄貴の前で猫かぶっとったな。お前、本気で牧畜習う気こ」「なかなか。百姓がかなんさけ、ちょい息抜きに来ただけや。高屋よか園部の方がおもろいさけのう。あほらしい、牛の乳しぼるぐらいなら、娘の乳しぼるわい」「ませたるなあ。お前、女を知っとるのこ」「あたりき車力、けつの穴ぶりきじゃ。それより今夜は乞食芝居あるいうて、ふれが出とったぞ。行こけ」「そら結構ですなあ。ぜひお供しましょ」 文助爺さんは相好をくずしてのり出した。「爺さん、頭が痛うて、乳しぼりもでけなんだん忘れたか」「それはさっきのことやな。四百四病は気から出るのや。『乳しぼり、いややなあ』と思うたら頭が痛うなるし、芝居見れる思たら気が晴れて頭痛が治る。自在なもんや」 文助と徳はたちまち意気投合した。 その夜、町の小屋に三人連れ立って芝居見物に出かけた。園部は遊ぶにはかっこうな町であった。若松町、俗にいう裏町の夜は、官公吏をはじめ土木業者や遠近の男衆を集めて活気だっていた。赤提燈の飲み屋が軒を並べるあたり、通りすがりの男を招く不見転女も多かった。味をしめると宵ともなれば落ちつかない。喜三郎の読書の夜も、文助と徳は出かけていった。猶吉はそれに気づくと、「喜三公の奴、わしの弟を誘惑して悪い癖つけやがったのう」とぼやくことしきりだ。六つも年長なのに止めなかったのは事実なので、喜三郎はただ笑って頭をかいた。
 乳牛は十頭になっていた。可愛い仔牛も生まれた。牧夫三人、頭かずはそろった。喜三郎は初志を貫くために、牧畜の暇をぬって勉強にはげんだ。井上の所持する家畜医範十六冊五千頁を残らず浄写しようと、深夜まで灯の下に筆を走らせる。年の暮れまでには、浄写が終わった部分の大略を暗記していた。 手に入る解剖書もむさぼり読む。だが草を噛む牛の筋肉の動き、張ってくる乳房の生理、猶吉に手伝ってこの目でみた牛のお産。皮におおわれた下の熱い血汐の通った内部の営みが、解剖書の死んだ図解とはちがった迫力をもって迫ってくる。霊妙なる生命のからくりのすべてを実地にのぞきみる術があったら――。「よんべの女子のう、大きな声でよがり泣きしよったで。帰ったらいや言うて離しよらへん。……おう、喜三やん、何ぼんやり見とるねん」 徳三郎が、話半ばで反応のない喜三郎の顔をのぞきこむ。牧場の午後の陽だまりには親牛が立ったまま目をつぶっている。棒杭につながれて、母牛と離された仔牛が哀れに鳴き立てている。「獣医の学校ではのう、実際に生きものの腹を割って教えてくれる。手術の実地訓練かてある。けんど、独学で書物読んだり解剖図解を眺めて勉強するだけでは、ほんまに、いざという時の役に立つかのう」「何、兄貴だってやっとるこっちゃ。心臓が強いさけ、学校もそこそこ出たぐらいで、ろくすっぽ勉強せんでも、うまいことごまかしよる。要領のええ奴が勝ちや」「その代わりいつまでたっても薮医者やんけ。わしはもぐりにはなりとうない。堂々と試験を受けて資格もとる」「ほんなら、喜三やんかて、解剖したらええやんか」「それがでけるぐらいなら苦労するけえ。第一、解剖する家畜がおらん」「あほやなあ、だいぶ足らんのとちゃうか。あれ見い、材料がごろごろしとる」「え?」 徳三郎が指さす彼方の小道には、大きな野犬が寝そべっていた。「そうか、野良犬か。うーん」「すきさえあれば牛舎に入って乳なめよるし、こないだは一升罐ぶちまけおって、兄貴もカンカンや。一度野良犬狩りせなあかん、いうとったとこやさけ、一石二鳥やんけ」「うーむ」「ちぇっ。何もたもた思案しとるんじゃい。犬に飽いたら野良猫、鼬、狸退治……材料にことかかんばかりか、村人には感謝される」「けど、つかまるこ?」「牛乳で釣るのや。やるなら、手え貸しちゃるぞ。喜三やんは兄貴んとこからメスとってこい」「お前、若いくせに知恵がまわるのう」「あたりきや。思いたったが吉日、早いとこやろけ」 徳がまだ寝そべっている野良犬にあごをしゃくると、「よし、やったる」と喜三郎も意を決して立った。 牛乳で野犬をおびき寄せて、樫の木刀の一撃。犬はくるくると廻って、声もたてずに死んだ。牛小屋の陰へ犬の死骸を運んで、メスを構える。うぶ毛の生えた鹿の孕み仔の姿が脳裡にちらつく。多くの家畜を救うための止むを得ぬ犠牲やと自分に言いきかせ、まだ生温かい犬の死体を解き剖く。一度メスを入れてしまえば、すでに知識の鬼である。解剖図解を徳に開けさせて見較べ、臓腑を子細にしらべる。徳も息をはずませながら興味深く見つめる。 藁小屋で昼寝していた文助が体をかきかき出て来て、眼の色を変えた。「おっ、赤犬やんけ。うまそうやのう」 二人が呆れて見上げると、文助老人は涎の落ちそうな顔で肉に見入っている。「おっさん、これ食うのか」 喜三郎の問いに、怪訝な表情で、「食うために料理しとるん違うのけ」「忘れとった。赤犬がうまいと聞いたことがある。解剖して見るだけではおもろない。ほんまもんの獣医になるんやったら、舌でも試して研究せなあかんわ」と徳が文助の尻馬にのってけしかける。「あったり前やで、喜三やん。まさかこの肉、土に埋めて蛆虫に食わす気やないやろのう」「そや、蛆虫にやるよか、人間さまの腹におさめてやった方が成仏するやろ」 相談はたちまち一決する。鍋に肉を投げこみ、砂糖と醤油でぐつぐつ煮る。すき焼きのにおいが空腹にしみ入る。待ちかねたように文助と徳が箸でつまんで食い、「うまい」と嘆声をもらせば、喜三郎もおずおず箸を出す。粗食で脂肪の欠乏している彼らには、久しぶりの動物性蛋白質だ。肉体が求めるのか、とろけんばかりうまかった。たらふく食っても、肉はまだ残った。「そうや、和厚も呼んでやろ。そこらの子供ら集めて食わしたれや」と、喜三郎が提案する。「ただし牛肉いわんと、気がわるいで」「よっしゃ」 徳は走って行き、たちまち悪童連を集めてくる。子供たちは牛肉と聞いてわっと歓声をあげ、がつがつむさぼり食う。「一石三鳥やった――」と、喜三郎はつぶやいた。 和厚は誘ってもこなかった。文助と徳三郎が牧場に来て、喜三郎が獣医学に没頭しだしてからは、めったに顔をみせなくなっていた。好き嫌いの激しい彼である。また遠くからただ眺めるだけになった。 ――もっとも和厚は寺の子や。生臭さは喰わんやろ、と喜三郎は気にもしなかった。 その夜、更けるのも忘れて、ていねいに野犬の骨にまといつく肉をこそげ落とした。余分なものを洗い清めて骨格だけにし、木箱の上に飾った。満足であった。平板な解剖図では理解しにくかった部分も、目で見、手でさぐって、立体的に頭脳に収めた。興奮して寝つけぬまま、ランプの灯にゆれ動く白い骸骨を写生した。何べんも書き直し、気に入るまで骨組みを正確に写しとった時には夜が明けていた。 一睡もせず、草刈り篭を背に冬の野に出る。小笹を求めて刈りながら、目は笹の根の小穴を探る。犬を知ると、猫を極めたい。ついでに小動物の鼠、小鳥……土龍でもよかった。獲物のある日は活々としてとんで帰った。 肉は食らい、子供らにも食わせた。自慢の骸骨は大小その数を増していった。かつて、京都天誅録に面をそむけた喜三郎が、己れの殺した生きものの臓腑や骸骨やしゃれこうべの図を分厚く綴じた解剖図に夢中になった。   四つ足で食わないものは炬燵ばかりと       得意になって鼻うごめかす  始末に困るのは皮であった。うまくなめすことも出来ず、半乾きのまま積んである。燃やせば臭いし、埋めるには嵩ばる。閉口して、ある夜、皮を抱えて小屋を出た。いい月夜であった。どこかに放かそかとうろうろすると、野犬が見咎めて吠え立てる。ふり向いてにらむと、きゃんと悲鳴を上げて、尾を股にはさんで逃げていく。かつて野犬はたいていは喜三郎の友であった。尾をふって慕い寄ってきたのに。
 農家の外便所に手燭の灯が動いている。むらむらといたずらの虫がふくれ上がる。死ななきゃ直らぬやっかいな虫である。皮をかぶって近寄ると、あけっ放しの汲み取り口へどぶんと大きな石を放りこんだ。 きゃっと若い女の悲鳴が上がった。喜三郎は手を叩いて大笑いすると、ずり落ちた皮を抱え、逃げ出した。あまり面白かったので二、三軒、雪隠に人の入るのをねらって繰り返した。 本町通りは表戸を閉ざして寝しずまっていた。 ――そや、藤坂はんに親愛の情を披露せんなん。 喜三郎は、藤坂邸の塀越しにどさっと生皮を投げこんだ。ついでに裏へ廻って、便所に入る運のわるい奴を根気よく待って、大きな石を――。 翌日、何くわぬ顔で藤坂薬局をのぞいた。主人の惣三郎、ぎろりと上目使いに喜三郎をみる。「どや、獣医学進んどるけ」「うん、ぼつぼつや」「解剖の腕もたいしたもんやてのう」「あれ、知ったはったか」「犬や猫さばいて、始末はどないするねん」「食うとる。四つ足で食わんもんは炬燵ばかりや」「肉は食うても、皮は歯がたたん。それで深夜のお土産か」「そやさけ……う、ばれたか」「このドあほう。皮投げこむばかりか、わしの尻まで糞まみれにしよって……」「ただ石ほかしただけやんけ。あとのことは知らんでえ」「お、お前は馬鹿か利口か……牛を舐めるように可愛がるかと思うと、動物を見さかいなく殺しよる。何とも調子のとれん奴っちゃ」「そやけどのう、生剥ぎ・逆剥ぎ・けものたおし・糞屁ここたくの罪は、わしがし始めやないで。まわりを糞して廻ったり生皮投げこむのんは、須佐之男命はんがちゃんと手本示してくれたはるわい」「それがいたずらの弁解かい。このやんちゃ野郎、とうとう祝詞から古事記までひっぱり出しよった」「もしかしたらわし、須佐之男命はんの生まれ変わりとちゃうやろか」「言わしとけば……うーむ待てい。頭から水ぶっかけちゃるわい」「やれやれ、神退いに退われるか」 尻たたきながら喜三郎、愛する藤坂惣三郎の前を退散した。
 解剖のためであろう、喜三郎の臨床術は、知らぬ間にかなり進歩していた。それがたまたま、妙な事件で実証された。 和厚少年もペスも寄りつかなくなって、久しくその姿を見なかったのだが、ある日、楚玉和尚が前足を引きずり苦しそうに喘ぐペスを猶吉の所へ連れてきて、心配そうに診断を乞うた。猶吉は聴診器や検温器を取り出し、聴診・望診・打診・按診などの結果、重々しく発表した。「気管支炎らしくもみえるが、つまるところ、関節炎リュウマチスやな。うん、間違いない」 それ以来、毎日、猶吉が投薬していたが、一向に良くならぬ。だんだん痩せ細り、足の引きずりかたもひどくなる。独学が進むにつれ、喜三郎はその診断に疑問を感じた。家畜医範と照らし会わせると、露出粘膜の乾燥している点、呼吸の逼迫の度合い、脈拍の頻数なる点、足の運びぐあいから見て、胸部に疾患があるのではないか。喜三郎は病名に思いあたった。 ――えらいこっちゃ、ほっといたらペスは死んでしまう。 心配のあまり、喜三郎は猶吉に申し出た。「先生、あれはどうも関節炎リュウマチやのうて、心臓糸状虫やと思います。一度、虫薬飲ましてやったらどうでっしゃろ」 猶吉は鼻で笑った。「ふん、臨床の素人が何ぬかすねん。家畜医範かじって解剖ごっこしたくらいで、よい気なもんや。お前みたいな素人に分かるぐらいなら誰も獣医に診断を頼みはせんわい。ええか、わしは痩せても枯れても駒場農学校の獣医科卒業やぞ」「そうやなあ。何しろ先生は名医と噂される医者の端くれやさけ」 猶吉は皮肉られたとも知らず機嫌を直した。 犬は発病後百日余で斃死し、南陽寺境内の墓地に手厚く葬られた。和厚の悲嘆は喜三郎の心をうずかせる。何と言われようと虫薬をやるべきではなかったか。 どうでも己れの診断を確かめねば落ちつけなかった。その夜、喜三郎は真っ白な解剖服をそっとまとい、青、赤、紫のガラスで囲ったカンテラ片手に南陽寺の庭を横切り、竹やぶの脇の石段を山に向かってのぼっていった。山の中腹は一面南陽寺の墓地であった。カンテラを樹の股にひっかけて、鍬で犬の新墓を掘り起こす。犬の硬直した死骸にメスをふるう。心臓を目がけて解剖刀を突きさすと、思わず背筋が寒気だった。死臭にむせながら心臓を開く。切り口にカンテラを近寄せのぞきみると、糸状虫が玉になってうようよしている。「勝った、わしが勝った」 血ぬれるメスを片手に思わずにたりと笑った。と、突然悲鳴。楚玉和尚が便所からころげ出して、いざるように本坊へかけ込んでいく。カンテラに映し出された喜三郎の笑顔が、墓をあばいた人食い鬼にでも見えたのか。あわてて犬の死骸を埋め、墓標を元のように立て直し、切り取った心臓を紙にくるんで逃げた。 翌日、朝の仕事が一段落するや、喜三郎は紙包みを持って猶吉の前に坐りこんだ。「先生、見てんか。ここにうようよしとる虫、何でっしゃろ」 血だらけの肉塊をのぞいて、猶吉は顔色を変えた。「ど、どこから持ってきよった。ひ、ひどい糸状虫や」「そうでっか、ほなやっぱり糸状虫やな。これは南陽寺の死んだペスの心臓でっせ」「こ、この野郎……師匠をなめくさって」 師匠の体面を潰された猶吉は、逆上して棍棒をふり上げる。「ま、まった、暴力はいかん。話し合いでいこけえ……」 喜三郎はじりじり後退する。「従弟や思て可愛がってやったら、貴様の図にのった態度はどうや。そやさけ、弟の徳までわしをなめくさりよる。お、お前のせいや」 狭い部屋を逃げ廻る。追いかける猶吉。縁から庭に飛び下りた喜三郎はぶざまにひっくり返った。その脳天目がけて力一杯振ってくる棍棒を、喜三郎は必死で大豆の桶で受け止めた。桶はふっとんで一斗の大豆が庭に散った。「豆が、えらいこっちゃ、豆が……」 ドけちの猶吉は、散乱する豆をみて、怒りを忘れた。棍棒を投げ捨て、四つん這いになって豆を拾い出したが、にやにやしながら眺めている喜三郎に気がつき、「おい、上田君、豆や豆、豆を拾わんか」「拾たら、もう、どつかんこ」「どつかん、どつかん。早う拾わな、鳥がかぎつけて食いに来よるわい」「ほな手伝いまっけどな」と、言って喜三郎も豆を拾いながら、「大体、こんどの事件は、先生が悪いんや。診察違いしやはったん、そもそも先生の方や」「わかった、わかった。ほれ、豆を踏んづけとるぞ」「わしの言い方もようなかったけど、あた恐ろしい、真夜中の墓場まで行って犬の心臓切りとってきたんは、真実を知りたかったことが一つ……」「そやそや。一粒でも拾い落とすなや」「もう一つは、先生も間違いを気がついて謙虚に反省してくれはったら、今後の臨床にも役立つ、そう思いましたんやで。診察違いは誰かてある。けれどそれをよい経験として次の診察に役立ててこそ名医になる」「とにかく暗うなるまでに拾わんと、見えんようになるぞ。もぐらや野鼠がようけいよるさけのう」 豆を拾い終わるまで何をいっても猶吉の耳に入らぬ、と気がつくと、喜三郎は馬鹿らしくなって黙りこんだ。 翌朝、何食わぬ顔で寺をのぞき、掃除している雛僧に声をかけた。「和尚はん、どうしたはる?」 雛僧は声をひそめて言う。「それが上田はん、昨日の夜中、墓から恐ろしい怪物が出てきてなあ、それを見た和尚はん、腰抜かして寝とってじゃ。いつも和尚はんは、世の中に幽霊や化け物はないちゅうて、わしらに教えてはったのに・……」 遠くから喜三郎の足音を聞きつけて、牛は甘えて啼きだす。乳しぼりの支度をして寄ると、いっせいにぴたりと啼きやむ。安心して、ゆったりと自分の乳しぼりの番がくるのを待つ。喜三郎を信じ、喜び、まかせきった牛たちであった。 それが近頃、変わってきた。近寄ると牛はピクリとし、耳をそばだて目をそむける。刈った草を抱えてゆくと、腕の中に首をつっ込んで食べ始めたものが、鼻息荒げて後退さり、すぐには口にせぬ。 搾乳量も減ってきた。新入りの文助や徳の荒っぽい仕種や怒声に怯えただけではない。喜三郎自身の変化、その身辺に漂う殺伐たる気配に、誰よりも敏感なのは牛たちであった。草食動物の本能であろう、血なまぐさい匂い、その手にこびりつく血と脂に警戒する。 洗っても拭っても落ちぬ汚臭となって、知らぬ間に体内にしみ入ったのか。喜三郎は両掌を開いて鼻を近づけ、悄然と肩を落とした。小屋に帰って寝ころぶと、うつろな眼窩の骸骨が並ぶ。 死臭漂う小屋をとび出し、南陽寺山門を力なく登った。夏中、弁の面影を想い起こさせ、喜三郎の血を波立たせた百日紅も、すっかり葉を落としている。 ――弁は嫁いだろうか。 淋しさが、身にしみて、堪えがたかった。 喜三郎の変わりようをみつめているのは、牧場の牛たちだけではなかった。山門右脇の鐘撞堂に昇って、足をぶらぶらさせながら、唇をへの字に結んで見下ろしている子供がいた。「和厚――」 気がついて喜三郎が声をかける。返事はなかった。和厚は、空を向いている。にじんでくる口惜し涙を、こぼすまいとしている。「何で怒っとるんや、和厚。この頃は、口もきいてくれへんやんか」 気弱く、喜三郎が言った。「お前は、いつから墓あばきになりよった。わしのペスまであばきくさって……どんな気持ちやったか言うてみい」「……」「犬殺しの墓あばきなぞ、わし、友達にしたおぼえないぞ。気やすう呼ばんといてくれ」「堪忍してくれ、和厚、もう解剖はせん。前みたいに友達になろけえ」「嘘つけ。犬や猫の肉喰らいよった奴なぞ……もう元に戻るけえ。けがらわしい、寄るな」 叫びざま和厚はとび上がって、鐘撞堂の撞木に激しくぶら下がった。ごおうーんと時ならぬ鐘が鳴る。喜三郎が駈けのぼり、ゆれる和厚の体を抱きとめる。「喜三郎はん、先生が呼んどらはるで」 寺の雛僧が出てきてどなった。和厚の体を下ろし、雛僧に従って、本堂脇の衆寮に入った。岡田惟平翁がにこやかに喜三郎を招く。 臥床中なのか、和尚の姿はない。「和厚がすねとりますようじゃ。子供のこと、生一本で幅がありませんでのう。しかし子供というのは恐ろしい。それだけによう見抜きます」 言いさして惟平は、ひたと喜三郎の面に見入った。「無理をされとるようじゃ。人にはそれぞれ持前の本性がある。本性に逆ろうてことをなせば、いつかは、無理を生じて破れます。上田さん、兇党界の霊にまどわされてはいけません。獣医学はあなたには向かぬ。身を立てるに急くあまり、器を小そうせばめてはなりませぬ」 喜三郎は、無言で深く頭を垂れた。穏やかな物言いながら、肺腑をつく鋭さがあった。「人には生まれてきて成さねばならぬ使命がありましょう。一身一家をしかみることの出来ぬ常のお人とは、あなたはちごう。それを悟りなさることじゃ。わたしに及ぶかぎりの道の手ほどきをして進ぜよう。今のあなたには、それが必要なようじゃ」 翁はやわらかい声で質問する。「和歌、すなわち敷島の道を御存じかな」 喜三郎は筆をとって、耳の全く聞こえぬ翁のために、すらすらと返答をしたためる。「存じませぬ。冠句、狂歌、都々逸は好きでつくりましたが」「霊ちはう神代の道を問わまくば古事記をひらきてぞ見よ。これは私の歌ですけれど、敷島の道を学ぶためには、先ず国体を知らねばなりませぬ。和歌の発祥は神々の御因縁にまでさかのぼりますのじゃ。八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を。どなたのお歌かご存じかの」「須佐之男命が八岐大蛇を退治されて櫛名田姫を得られ、新しく出雲の須賀に宮をつくられた時のお歌です」 喜三郎の筆はよどみない。そして口に出してつぶやいてみる。   八雲立つ出雲八重垣妻ごみに       八重垣つくるその八重垣を  「この神歌が和歌の始まりですのじゃ。解釈は昔から様々ありますがのう、『八重に雲の立ち昇る出雲の国に、私は宮を建てるのだが、私と妻をとじこめるように雲は八重の玉垣をつくっている。ああ、雲は八重の玉垣をつくっているよ』というのが、一般的解釈でありましょう。しかし私は、別の解釈をしております。出雲八重垣の出雲はいずくも、八重垣は、行く手をはばむ多くの垣、妻は日本の国、秀妻の国のこと。『伊邪那岐尊からお任せいただいたこの大海原、即ち地上世界を治しめすのに、どの国にもむら雲がわき立っている。八岐大蛇つまり出雲地方の賊は退治したものの、更に八重に閉じこめてくるさまざまな垣。その八重垣をこそ、取り払わねばならぬ』との密意と信じます。尊の御心情を慰めはげますために、姫は桶を伏せた上に弓をゆわえつけ、その弓弦を梅の小枝で打たれた。それが古代楽器弓太鼓のいわれですのじゃ」 喜三郎の心は、弓弦のように張りつめていた。 その弦を翁に打たれて、底深く鳴り響く思いがする。 血なまぐさい世界から、ふいに明るい故郷の森や泉に舞い戻ったように、むすぼれた胸の解き放たれる喜びが満ちた。 喜三郎はもどかしく筆を走らす。「古典にある『歌垣の中に立たせ給う』の意、御教示下さい」 幾人かの国学者に聞いても判らなかったのだ。翁は目を光らせてうなずいた。「あなたは打てば響くお人じゃ。喜んで、私の長年の研究をあなたに伝えましょう。歌垣こそ、須佐之男命の御神歌、あの八雲たつの歌の密意を伝える祭りですのじゃ」「……」「まず御神歌をうつした短冊を霊降木として、そのまわりをそれぞれ歌をかいた八枚の色紙で囲む。そのまわりを、また八重に色紙の歌でとり巻きます。この歌垣を中心にして、昔は年にいっぺんずつ村々で歌祭りをしました。平素からの村人間のもめごと、怨み妬みもいざこざもすべて歌に宣り上げ、その歌の色紙で形どった八重垣を一枚一枚とり除いていく。一切の罪を水に流して村人の心を和し、神意をなごめる平和な祭りでありました。歌の中には、素朴な相聞歌も多かったのです。昔は自由結婚でしたからのう。男から想う女に歌いかける。女から返歌があれば、一切はそれで決まって生涯の妻となります。歌のことばは言霊であり、真言でございます。うそは許されぬ。この言霊をもって、四方の八重垣をうち払い、喜びもまたうたい上げる、ゆかしいみ祭りでしたのじゃ」 翁は言葉を切って、昔を偲ぶまなざしになる。「この歌祭りも、源頼朝が鎌倉に幕府を開き武家の世になってからは、絶えてしもうた。藤原定家卿が、小倉山の二尊院で歌祭りをされたのが、おそらく最後でしたろう。今はわずか宮中に歌会として残っているくらいですわい」 喜三郎は膝をすすめ、思わず大声で言った。「その歌垣を今の世にうつしましょう。須佐之男命の御神歌の真言は、そのままこの世に生きはります。すたれたままで埋もらすことはでけしまへん」 翁は笑んで、手を耳にかざされる。赤くなって、喜三郎は筆をとり直し、気負い込んだ字で、太く書き示した。「わたしが歌祭りを復興してみせます。いつの日か必ず」「それでこそあなたじゃ」 見交わす目に、年齢を越えた共感がきらめく。 これに似た情景があった。荒れ果てた亀山城址の大銀杏の下。 ――昔の城の姿に戻したる…… そううそぶいた日があった。 翁と別れてからも、幻影は一つにとけてからみあう。月光に映ゆる天守閣、緑の老松を背に、あかあかと燃ゆるかがり火。歌垣の八重の献詠歌を前に坐して、喜三郎は出雲神歌をうたい上げる。力強く打ち鳴らす弓太鼓の響き、冴えた琴の音、舞いかざす天女の袖。 ぽっかりと口をあけて宙をみつめる喜三郎のそばに、いつか和厚がより添っている。
表題:愛おとめ 1巻9章愛おとめ  



 明治二十六年も押し詰まって、園部殖牛社では、牛乳の掛け取りに忙殺されていた。本町の藤坂薬局の集金をすませ、喜三郎は、筋向かいの内藤菓子店に顔を出す。「ごめんやっしゃ。牛乳のお代おくれやす」 奥に声をかけると、いつもの手代に代わって、主人が現れた。気むつかしげな男で、特に言葉を交すこともなかったが、今日は珍しく声をかけてきた。「牛乳屋はん、ちょい頼むわ」「なんでっしゃろ」「十六貫匁の砂糖袋やけど、かつげるけ」「十六貫なら、わけおへん。軽い軽い」「ほなすまんけど、あれ、蔵まで運んでくれへんけ。情けない言うたら、店の者は一人でよう持ちよらん」「へい、お安い御用です」 主人のしゃくったあごの先、店の前に、荷馬車で届いたばかりの大きな砂糖袋が数個、積み重ねてあった。「うちの奴らは、みなちょろこてのう」と主人はぼやき、奥の仕事場にどなった。「牛乳屋はんに砂糖袋を運んでもらうさけ、お前ら後学のためによう見とけ」 番頭をはじめ、四人の職人、それに、十四、五歳ぐらいの息子まで面白そうに寄ってくる。「あほらし、穴太では、二十貫の五斗俵米ぐらい、百姓なら誰かて楽にかつぎまっせ。ま、見とってや」 喜三郎は、砂糖袋に手をかけ、自信満々ぐいと――持ち上がらぬ。「しばらく百姓仕事せんからのう、体がなまっとる」と、弁解の独り言を言いつつ、双肌ぬぎになって、本腰入れて力む。 白い肌がみるみる紅潮してくる。うーむと担ぎ上げ、ひょろひょろしながら、裏の蔵へ運び込む。ずしんと下ろした途端、尻もちついて、へたりこんだ。物好きな連中、そこまで見とどけて、手を叩いて笑った。喜三郎は苦笑して、「だらしないこっちゃ。腰が抜けそうや。けどなんでやろ、十六貫いうても、砂糖と米では、えらい重みが違いまんなあ」「どや、もう一袋運んでくれる元気あるかい」「ついでや、あまり自信ないけど、やってみまっさ」 店先に戻ると、主人は言った。「白状しとくわ。この砂糖、ほんまは十六貫の倍、三十二貫あるねんで」「え、三十二貫?……まさか……」「ほんまやで。三十二貫や」と、息子が叫んだ。職人たちも真顔になって証言した。「三十二貫、それをお前が担いだんやど。どえらいもんや。もういっぺん試してみんけい」「担げるわけないで。ひょう、三十二貫と思たら……」 喜三郎は、ぶつぶつ言いながらも、も一度砂糖袋に取り組む。腰までやっとこさ持ち上げるなり、投げ出してしまった。主人は、一同を見廻し、「どうや面白かったやろ。牛乳屋はんかて、三十二貫と知っとったら、持ち上げることはでけん。初めに十六貫やと信じとったさけ、『何くそ、できぬわけあるけえ』と日頃にない底力が湧いたのや」「そうか、火事場でも思わぬ糞力が出る言うさけ」と喜三郎がうなずく。「お前らもよい勉強になったやろ。さ、分かったら、ぼやぼやしとらんと、砂糖を蔵へ運ばんかい」 職人たちは、二、三人ずつ力を合わせて砂糖袋を運び出す。「作りたてのあんころ餅など御馳走しよう。ま、入っておくれ」 主人は、遠慮する喜三郎を庭から奥の離れに案内し、改めてきちんと頭を下げた。「無礼を許してもらいたい。実は上田はん、岡田惟平先生から、あんたの噂を聞いとった」「へえ、知ったはりましたんかいな」「あんたはんは、牛飼いしながらも、国学をよう学んだはるそうな。惟平先生は、あんたは十二分の才能を持ちながらまだよう自分を開発しとってない、と惜しんではった。よけいなことやが、わしが一つの実験をして、上田はんの隠れた力を見せたげたのや。あれは信ずる力と肉体上の結びつきやが、それだけやないで。あんたには自分を信ずる気力さえあれば、どこまで力が出るか分からん。底知れんものがあるみたいや。自分の力を見限ったらあかんで」 さっきの息子が、あんころ餅と茶を運んできて、喜三郎の横に膝を揃えて坐る。「わしの父は、もと園部藩で禄を頂戴しとった。鳥目に触れたこともなく、米の値段を知らぬのを誇りに思うとる武士やさけ、にわかに禄をはなれて、途方にくれた。わしにしても、この息子ぐらいの年頃までヤットウの稽古や四書五経で育ったさけ、頭が固い。父を助けようにも、口すぎの法さえ思い浮かばぬ。あれこれ迷って何度も失敗したあげく、刀の代わりに算盤もった。こうと覚悟をきめてからは、自分の知らなんだ思わぬ力が引き出せたのや。年をつんでこうしてどうにか職人おいた店にまでなった。わしには上田はんのような奥深い頭脳の持ち合わせはない。けどあんたよりだいぶんと年だけは食っとる。思案に余ったら、いつでも相談に来てくれ。これは長男の栄次、和厚君のように指導してやって頂きたい」 栄次は、嬉しそうに頭を下げた。 菓子屋の主人は内藤半吾といった。この時四十一歳。息子の栄次は十四歳、喜三郎二十三歳。彼らは年齢の差を離れて、心を許した友となる。また内藤菓子店の職人の一人、八木清太郎は、穴太の近く太田の出身なので、親しい交友を続けた。故郷をはなれた園部にも、南陽寺、藤坂家、内藤家と喜三郎を育てる知己があった。
   詔 勅  朕、帝国憲法第七条に依り、衆議院の解散を命ず    御名御璽     明治二十六年十二月三十日
  衆議院は停会中に突如解散、《青菜に塩の晦日代議士》の狼狽ぶりを某紙は報じる。「五十嵐力助は銭湯の帰りにそれを聞き、あわてて家に馳せ帰り、俥を急がせていずこともなく出て行く。藤野政高は来客と碁の対抗中に知り、『驚一驚、エッと叫び』盤面傾斜碁子粉落、また行く所を知らず。佐藤運宣は初めて衆議院に上り、七日間にして解散、人その短命を弔する。小磯忠之は選まれて院に来る。議長の紹介で議席に坐して二時間、たちまち停会、たちまち解散、あまりといえば気の毒。楠本議長は十二月十五日をもって議長に勅任され有卦に入ったが、その三十日をもってたちまち無卦に入る。ただし議長のお祝いとして奢っただけの費用は十分償って余りあり。安部井副議長は披露をしたその日停会、翌日解散、『副議長としての余命何んぞ短き、安んぞ弔せざるを得んや』と」
「あほらし、立憲政治もまだまだや」 喜三郎は、藤坂薬店から借りてきた元旦の新聞を投げ出した。明治二十七年、数えで二十四歳を迎えた喜三郎にとって、国会解散も総選挙も無関心ではあり得ぬ。といって、明治二十二年に制定された衆議院選挙法第六条による選挙人の資格は、日本臣民の男子にして年齢満二十四歳以上の者、しかも満一年以上その府県内に於て直接国税十五円(ほぼ二町歩の土地に対する税額)以上を納める者とあるから、総人口の一パーセント程度である地主や資産家のみの特権であって、どっちみち貧乏人には手のとどかぬ世界であった。 夜な夜な精魂こめて浄写した家畜医範は、十六冊五千頁のこらず完成していた。その大略も暗記出来ている。喜三郎は手をのばして棚の上から自作の解剖録をとり、行燈の灯にぱらぱらとめくった。 血なまぐさい臭いが昇るようであった。あわてて伏せる。喜三郎手製の骸骨たちは、暮に南陽寺の裏にうずめて、和厚と共に弔った。和厚の祖父岡田惟平翁や、内藤半吾の言葉が浮かんでくる。大志を抱き、国学を究める――それはもとより望むところである。が、生活という現実は、一日もなおざりにはできぬ。己れの口ばかりではなく、上田家の長男として、早急にも祖母・父母・五人の弟妹を負うて歩まねばならぬ身であった。片手間な学問ぐらいで、どうして養いきれるものか。 穴太へ帰って小作百姓と車力で食わずの一生を送るのがいやならば、何とか打開の道、つまり金儲けの技を身につけねばならぬ。心にそまぬながら、やはり獣医の資格をとって、両親にも一応の安心をさせるのが道ではないか。 麦の芽が青々とのびてきて、雲雀が巣づくりに懸命だ。「温なりこぐち、寒なりこぐちの季節の変わり目に風邪をひく。牛も人間さまなみや。忙して、わしは風邪ひく間もあれへんけどのう」 井上獣医は、口ではこぼしつつ、相好を崩さんばかり御機嫌である。春の訪れと共に村々をおそった牛馬の流行性感冒のため、あちこち引っ張りだこなのだ。「先生、うちのハナ子も今朝から鼻水出し始めてますで、ちょっと診とくれやす」「なんかしてけつかる。わしゃ他人さまの牛診て金とるのが商売じゃ。鼻水ぐらい、解剖学やら薬学やらで腕を上げた上田君に治せんことあるけえ。とにかく、わが殖牛社の牛は、ぜーんぶお前の責任や」 朝食を済ませるなり、猶吉はふくらんだ鞄を片手にいそいそと往診に出ていく。 喜三郎は薬局まがいの小部屋で井上の古びた白い獣医服をつけ、規那末・芒硝・重曹・酒石酸を手早く調合し、薬包をつくった。ハナ子は食慾がなかった。目脂をためて、うすい鼻水をたらしている。 喜三郎が声をかけると、弱々しい目を上げて首を寄せてきた。牧場の中では一番の老牛であった。角の根元が冷たく、体は熱っぽい。 確かに風邪の兆候である。喜三郎は、竹を斜めにそいで切口をまるくけずった筒に薬を溶いた水を入れ、鼻輪のひもを天井に結んで口を開かせた。牛の前歯は下側だけにあって、上歯はない。その唇に手をかけて、奥歯との中間のすき間に横から竹筒をさし入れ、薬水を流し込む。それからふすまの袋を切りさいて、二本の角の根元を〃8の字〃にくるんでやった。 風の当たらぬ陽だまりにつないで、ハナ子の背をさすっていると、「先生」とやさしい娘の声が呼んだ。「へ?  わしのことかいな」 喜三郎はふり向いて白い獣医服に気づき、照れくさげに弁解した。「井上獣医はんなら、いま往診中でっせ。この服はちょこっと借りとるだけや。井上先生に用事け」 娘は首をすくめて、いたずらっぽく舌を出す。十七、八くらいの目の大きな娘だ。表情が活き活きしている。「留守なん知ってます。でも喜楽はんに、牛の風邪薬だけでももらえへんやろかと思って……」「あれ、わしの冠句の名、知ったはるのか」「うちらの仲間で、喜楽はんいうたら評判やもん」「へえ、わしの評判なら、たいがい見当はつくのう。まず犬殺しに墓あばき、それからと……」「そんなやさしげな顔しとって、解剖した犬の肉食べはったて……ほんまかいさ。うち、信じられへんわ」「もう改心したんや。思い出させんといてくれや」「かんにん。けど和歌や冠句つくらはる喜楽はんなら、うち大好きです」「おおきに。薬、わしの調合でよかったら、いま作りたてがあるけどのう。鼻水に咳やろ」「ふうん。ゴホウ、ゴホウいうへんな咳するのんえ。あの牛、何で鉢巻しとるんです」「やはり感冒や。熱があるなしを見わけるには、角のねきをさわってみいや。根元から一寸ばかりは神経も血も通うとるさけ、平熱なら温い。けど熱があればかえって冷となっとる。牛は平熱で三十七、八度やから、四十度にはなっとるはずや。応急手当てとして角に布まいとくこっちゃな。先生が帰ったら診に行ってもらおか」「ううん、喜楽先生に来てもらいたいん」「無茶いわんといて。わしは牧夫や。そんなことどもしたら、先生にどつかれんなん」「あかんのん。くやしなあ。ほな、夜、遊びに来てもかまへんか」「そらええけど……」「うれし。そいで薬代は?……」「そやのう。三日分で十銭ももろとこか」「前に井上先生にもろた時は、三日分で十五銭やったえ」「一日分五銭か。そらちょっとぼりすぎやのう」「そやさけ喜楽はん好き。うち、お鈴。忘れんといてへえ」 かげろうゆれる麦畑の脇道を、娘は走り去った。かすりの着物の裾にちらちらする赤い蹴出しが、白いふくらはぎにまといついて眼に残る。「おい、ぼけーとさらすな。麦畑に何ぞ出たんこ?」 我に帰ると、井上猶吉であった。「お前、いつから先生になったんじぇい、わ、わしの服、着よってからに……」「あ、すんまへん。いま風邪薬買いに人が来たさけ、これ借りて三日分の薬調合してやったとこですねん」「早よ脱がんかい。それで銭はどこや」「服のポケットに入っとりますやろ」 猶吉は脱がせた獣医服のポケットを探って十銭とり出すと、あわてて地面を這いまわった。「先生、どないしたん」「五銭、五銭足りんのや。その辺に落ちとらへんこ」「なんぼあったんや」「十銭しかあらへん」「三日分で十銭もろたさけ、それで勘定合うてるがな。あきまへんか」「ば、ば、ばかもん。この野郎、わしに五銭も損かけくさって……うーむ」「元は二銭足らずや。八銭もうけたら、損どこやあらへん」「薬九層倍いう言葉があるわい。九層倍なら二・九の十八やろ。ほんまなら十八銭は欲しところをやな、たったの十銭でくれてやるとは……くそ」 五銭の損失が、猶吉には田の一枚も失ったほどの大損害に思えてくる。顔を紫色にさせて、そばにあった棍棒に手をのばした。それより早く、ひらりと喜三郎は牧場の柵をとび越えていた。「九層倍ぼるような薬屋のまねはせんときや。先生は名医といわれる医者の端くれやんけい」「だ、だまれ、無礼者」 続けてとび越えようとして猶吉は短い足を上げたが、柵はまたげぬ。くぐった方が早いと気がついて、腹這いに首をつっこんだ。自慢の獣医服が柵の釘にひっかかり、ピリッと心臓を引き裂くような音をたてる。「や、先生、カギ裂きこさえて……」 破れてたれ下がった片袖をみるや、怒りで猶吉の目先は真っ暗になった。「や、八つ裂きじゃあ」 起き直って棍棒ふり上げる。はねとんだ喜三郎、尻を叩いて麦畑に逃げこんだ。追いつ追われつ麦を蹴散らすうち、喜三郎はつまずいてころがった。しめたと棍棒をふりかぶる猶吉に、乾いた畑の土をぱっと投げる。目潰しに打たれて猶吉は悲鳴を上げ、しゃがみこんだ。「先生、大丈夫け? 水汲んでくるさけ待っとんなよ」 牧場に駈け戻って手桶に清水を運んではきたものの、そばへ寄れば危険なのは分かっている。「ここや、ここや。先生、水ここにおくで」「眼、眼が見えん。ど、どこじゃ」 目かくし鬼の恰好で両手を開げたところへ、頬かむりの百姓がやってきた。「ありゃ、何したはるねん。獣医はん、おれんとこの牛、はやり風邪にかかりくさった。来てもらいたいけど、眼え見えへんのけ?」「ど、どこの牛やて」「和知や。わしとこばかりやないで。村中大流行で困っとんや。五里もあるさけ、早よ来てくれなんだら、日暮れまでに帰れへんわな」 とたんに猶吉、パッと眼をむいてどなった。「そら急がんなん。往復十里も行かんなんさけ、靴ァ減るし腹も減るやろ。ちょっと往診料高こつくでえ。鞄、鞄どこや」「先生、眼どないしはった」「眼えなんぞに、かまっとられるけえ」 猶吉はふんぞりかえって、手桶の水を蹴とばし出ていった。 この頃、獣医は非常に少なくて、一郡に一人とか二郡に一人ぐらいしかおらず、従って流行性の家畜の病気ともなると遠方からも迎えに来て、繁忙を極めたものである。まして交通機関の発達していない時代なので、往診に半日や一日費やすことも珍しくなく、喜三郎のような代診による治療も多かったという。 日暮れと共に牛たちも寝しずまり、徳次郎と文助老人は相変わらず夜遊びに出ていった。猶吉は和知からまだ帰ってこない。牛舎脇の納屋を片づけただけの喜三郎の小屋に、行燈の灯がともる。好きな国学書を読みさしのまま、喜三郎は天井むいて寝ころんだ。何をしても心が落ちつかぬ。思念を凝らそうと一点をみつめると、ちらちら赤い蹴出しが目先をよぎる。「うち、お鈴。忘れんといて……」 昼間のあの娘だ。はっと起き直って耳をすますが、隣りの牛舎から時おり板壁にぶつかる牛の物音が聞こえるばかり。鈴という娘の幻をむりに追いやると、代わって初恋の蘭が薙刀を構えて下唇をつき出した。可憐な蘭が胸をこがす。 ――与四郎の子の母親や。もう手えとどかへん。 すると入れかえに、いとしいお弁が叫ぶ。幸せにならんかてかましまへん、喜三郎はんのそばにいられるだけでうち嬉しいん……弁のすすり泣きも、叔母おえんの、ののしりにかき消されていく。あとは夫と別れた年上のおきわ、仙、赤毛布の上で交わした束の間の女、女、女……。「あかん、まるで色気違いや」 万年床のふとんをすっぽりかぶって邪念を鎮めんと、古事記の創世期を誦し始める。「……ここに其の妹伊邪那美命に汝が身いかに成れると問い給えば、吾が身は成り成りて成り合わざるところ一処あり、と答曰し給いき。ここに伊邪那岐命詔り給わく。吾が身は成り成りて成り余れるところ一処あり。故この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わざる処にさし塞ぎて国土生成さんと為うはいかに、とのり給えば、伊邪那美命、しか善けむと答曰し給いき。ここに伊邪那岐命、然らば吾と汝と、この天の御柱を行きめぐりあいて美斗能麻具波比なせむ……」 日頃の高尚なる言霊学的解釈もどこへやら、荘重無比なるべき国土うみの神話まで、男女のなまなましい姿態となって写ってくる。喜三郎は目をつぶり、耳をふさいで輾転反側した。 くっくっと忍び笑いがする。蒲団をはねのけて思わず古事記の言葉がとび出した。「あなにやし愛おとめを」「ウヮー、びっくりした」「あっ、お鈴はんか」「今晩は。いま寝ぼけて何いわはったん」「うーん、そうや。『ああ、なんといとしいひとよ』と言うたんじゃい」「おおきに、うれしわあ」 鈴は両袖を胸にあてて、喜三郎のそばまでにじり寄った。「けどこの部屋、なんや牛臭うて、ごたごた本ばかり積んだって、寒いわあ」「寒かったら温めちゃろ、ここへ入んな」 横になったまま、喜三郎は手招きする。鈴はためらいもなく嬉しげにすべり込み、喜三郎の胸に抱かれる。「お前、年なんぼや」「十六歳」「な、なんや、まだ子供やんけ。こんな夜おそく外へ出て、叱られへんのけ」「ふうん、内緒やもん。うち、喜楽はんのお嫁になりたいん」 無邪気すぎるのか、ませているのか、判断に迷った。が、より添ってくる健康な女体は、息づまるばかりに喜三郎を圧倒する。といって、鈴の感じは決して不潔ではなかった。結婚してもいいととっさに思った。ともかく、喜三郎の若い体は、女体を慾して切なく疼いているのだ。 その時、猶吉の声である。「おい上田君、今帰ったぞ。茶漬けでも喰わしてんか、腹ぺこぺこや」 喜三郎は、あわてて鈴もろとも頭から蒲団をかぶった。戸が開いて、無遠慮に猶吉が上がり込み、蒲団をひっぱる。「狸寝入りさらすな。こら起きんかい」「あ、先生、お帰り」 仕方なく、喜三郎は首をつき出す。「けったいな。まだ何ぞ動いとるやんけ」 無理に蒲団を引きはぐと、丸くちぢこまった女が現われた。「こ、これは何や。うーむ、先生が汗水たらして稼いどるいう時に、おなご引きずり込んでいちゃついとるとは……」 猶吉はかっとのぼせ上がった。「だって寒かったんやもん」と、けろんと鈴が起き直る。「良かったら、先生もわしの横へ入りい」 しゃあしゃあとして、喜三郎は猶吉を手招く。「ふ、ふざけやがんない。お前みたい厚かましい奴、み、見たことないわい、で、出て失せい」「そうや、喜楽はん、出て行こ。ちょうどよいさけ、うちの婿はんになってえさ」 鈴は喜三郎にしなだれかかる。「よっしゃ。追い出されて、のめのめおるよな男かい」 勢いにのって啖呵をきるなり、喜三郎も立ち上がった。「ど、どこに出て行くんや」と、猶吉。「きまったる。うちの家に行くのやさ」と、鈴。 猶吉は驚いて聞き返す。「お前んとこって、どこやいな」 それは喜三郎とてまだ知らぬ。興味深く鈴の口もとを見つめる。「木崎の矢野です。母さんは松」「ふふーん、矢野のお松後家の一人娘か。そや、お前んとこ牛がおったのう。あんばいはどうやい」 たちまち猶吉、商売意識が頭をもたげる。「おっきに。今夜から喜楽はんに、うちも牛もあんばいよう見てもらいますで。さいなら」 手をとらんばかりにして二人が消え去るのを、ぽかんと猶吉は見送った。 不意に寝惚けたのか、牛が啼いた。どきりと猶吉の胸が鳴る。そうや、あの牛のお産も近い。明日からの十頭の牛の世話・搾乳・配達・帳面づけ・野草刈り、冗談やない。徳も文助も夜遊びばかりは達者だが、仕事となると喜三郎の三分の一、任せられたもんやない。早速、明日の朝からがさしつかえる。ちと早まったか、と猶吉はうろたえた。 木崎の矢野家は小さな藁ぶきの農家であった。牛舎がその横についている。月あかりに牛舎をのぞくと、牛が桃色の布で鉢巻をしたまま寝入っている。「母さん、よい人連れてきたえ」と、お鈴が戸口から喜三郎を押しやった。「あれ、寝たと思とったらお前……いつのまに抜け出したんや。この人、誰やいな」 囲炉裏の傍で針仕事をしていた母親が尖った声をあげた。「ふうん、うちのええ人や。今日から家にきてもろたんや。母さんと二人きりやったら夜は淋しやろ。獣医はんやし、牛の病気かてうまいこと診てくれはるえ。喜楽はん、はよおいでえさ」「おじゃまします。今晩は、お義母さん、婿の上田喜楽です。よろしゅう」 調子よく膝を折って頭を下げる喜三郎を、鈴は隣室に引っぱり込む。「お義母さんやて?……えらい気楽そうにいうてくれてや。鈴、お鈴や。お前、この男はん、どうする気いえ」「眠たいもん、話は明日にして。喜楽はん、はよ寝よいさ」「ほなお休み、お義母さん、失礼します。あまり遅うまで仕事して体こわさんように……」 そこに敷いてあった一組の蒲団に二人はもぐりこんだ。母親はあきれてうろうろし、「もう一組、蒲団あるさけ、あんたはん、こっちで寝とくれやす」「気にしてもらわんかてかまへん。煎餅蒲団でも、抱きおうて寝たら温とてよい気持ちや」「煎餅蒲団ですみまへなんだなあ」 母親はふうっとふくれる。喜三郎は鈴に抱きつき、から鼾をかき始めた。「ほんまに手に合わぬ、やんちゃな男や」 ぶつぶつ言いながらも、母親はもう一枚掛け蒲団を運んできて二人に着せかけ、蒲団の四隅をたたいてくれる。しめたと甘い歓びに身内を熱くした途端、荒々しい靴音が近づいて、がらっと表戸が鳴った。「今晩は、上田君が来とりまっしゃろ」 またしても、猶吉のどら声だ。「へえ、獣医はんが上がりこんで、娘と一緒に寝てますのや」「獣医やて?  何言うとるねん。あいつ、うちの牧夫や、ただの乳しぼりや。あ、あいつ、一人前にもなりくさらんうちから、ここの娘はんをころっとだましくさって。ど、どこにおるのや?」 母親は声をひそめて、指で隣室をさし示す。「こら手遅れになったらどもならん。出てこい、上田……」 ぐうぐうと急に鼾が高くなり出した。「えい、めんどうだ。起きろ」 猶吉は勢いこんで襖を引きあけ、喜三郎の襟首つかんで引きずり出す。「いやや、うちの婿はんや。母さん、止めてえさ」 鈴が喜三郎にすがって、わっと泣き出した。またまた猶吉に邪魔されて、喜三郎はむかっ腹を立てる。「こら、猶吉、お鈴はんが泣いとる。無茶や、どないするねん」「無茶なんはお前じゃ。けけっ、そのでれっとした面つき、ともかくすぐ帰れやい」「追い出したんはお前やんけ」「それはなあ、勉強しなくてはならぬ年頃の身でちと心得い、いう意味や。憎うて追い出したんやない。さ、分かったら、早よ帰のけい」 こう邪魔が入っては今夜はあきらめねばなるまい。喜三郎は泣きじゃくる鈴を母親に渡して、しぶしぶと外へ出た。 道々、猶吉は考えた。自分もいつの間にかもう三十一歳である。青二才の喜三郎すら、でれっと若い娘を抱きくさって脂さがっとるではないか。今をときめく名医のわしが、いつまでも独りもんでは恰好つかへん。第一、弟の徳や弟子どもにあなどられるのもそのためや。何でもっと早ようにその事に気づかなんだんやろ。しっかりした女房もてば、喜三郎なんぞ追い出したかて、立派にやっていけるわい。そうや、高屋から蚕もろてきて女房に飼わせたろ。食費ぐらい出るやろ。こら一石二鳥や。おまけに冬の夜でも嫁はんかかえて寝たら、温うて炬燵いらへん。ぐんと経済的や――。 その実、喜三郎と鈴の同衾をみせつけられて触発されたとは気づかない。にやりにやりとゆるみ始めた猶吉の顔面を、喜三郎が首をひねってのぞきこんでいる。 その夜半、隣の牛小舎の気配が異様であった。苦しげな啼き声が断続する。 ――なんやろ。しろの声やが……。夢の中の重苦しさを押しのけるように、喜三郎は頭をもたげた。訴えと恐れをつきまぜた呻きが、低く長く突き刺さってくる。 ――あ、陣痛や。 はね起きた。 喜三郎が《しろ》と命名した孕み牛は、一週間も前から尾根の両側がくぼんできていた。腹部のふくらみも下がっている。鈴との出会いにのぼせて、さし迫ったしろの出産を忘れていた。あるだけのカンテラをともして、臨月の牛をのぞく。しろは寝そべったままもがき、救けを求めてうめく。「よし、待っとれよ。先生呼んできたるぞ」 月は小さく白っぽく早や西空に傾いている。暗い畦道を走って猶吉の家にとび込み、「先生、しろのお産や、すぐ来てんか」と、揺り起こした。「うーむ、うるさい。眠いわい」「昨年、逆児で往生した奴でっせ。下手したら生命とりや」「ほっとけ、うちの牛はお前の責任や言うたる。わしゃ知らん」 猶吉は頭から蒲団をかぶった。ぐずぐずはしていられない。「徳、起きろ。仔牛が産まれるんや、手伝うてくれ」 隣室の徳次郎の蒲団を引っぱると、「こら、夜中まで働かせる気か、ひ、人殺しい」と悲鳴をあげ、牡蠣みたいに蒲団にひっついてくる。「餓鬼やのう、頼まんわい」 喜三郎は土間の木桶とぼろ布をかかえて、一人牧場に舞い戻った。前に二、三度猶吉に手伝って、お産は見ていた。産科学の獣医書も頭に入っている。考えてみれば、獣医の腕を実地に試すチャンスである。助手がほしいところだが、仕方がない。よしと心に決めて、手早く準備にかかる。 乳牛は使役の和牛と違って、繋いだなりの運動不足のためか、自然分娩は困難だった。藁を細かめに刻んで、たっぷり敷いてやる。下着のボロを引き出してくる。出産の時、胎児にかけて引っ張る二ひろの縄を二本つくる。そうこうするうち横にふせった牛の後肢の間から、いきみにつれて子袋がのぞく。強い陣痛とともに飛び出す破水を木桶で受ける。「ようし、わしがついとる。安心して産めやい」 やさしく励ます。 やがて第二の破水と共に、前肢が二本、揃って出てくる。鼻が出、頭が抜ける。しろのいきみに自分も力をこめる。寝巻の浴衣は脱ぎ捨てていた。白い喜三郎の肌が上気し汗ばんでくる。 二本の縄を手早く胎児の前肢にくくりつけ、余った縄を自分の肩から腰にかけて垂らし、右手にしっかり巻きつける。左手はやさしく胎児の頭にかけながら、しろのいきみに合わせて、両足を踏んばる。 しろが低くうなるたび、粘液にぬれた胎児の胴体が喜三郎の引き出す力につれて現われる。陣痛の自然に逆らわず、母牛になった気持ちで緩急息を合わせる。 難関は一番太い腰骨であった。ひっかかって、どうにも抜けなくなる。木桶に入れた二度の破水の粘液を、産道と胎児に流す。そして、産道の肉と胎児の産毛がまきついて動きのとれぬあたりを、全力こめて引き離していく。 苦しみうめく母牛とぐったりした胎児をいたわりながら、喜三郎の全身が汗で光る。ざっと羊水が流れ落ち、腰と後肢二本がぬけて出る。「やった、生まれた」 産声こそなかったが、瞬間、涙がこみ上げた。喜三郎は、ただちに仔牛の鼻と口をぼろで拭い、自分の口を仔牛の鼻孔につけて粘液を吸い出し、呼吸を楽にしてやる。後産につながる臍の緒を絹糸でくりくり括りつけ、一尺五寸ばかりのところを手でちぎった。 どれだけ時がたったのだろう、気がつくと、東の空が白んでいる。母牛が疲れきった頭をめぐらして長いざらざらの舌をのばし、生まれたばかりの仔牛をなめ始める。「がんばったのう。ようやった」 母牛の鼻面をなで、一緒になって、藁のはかまやボロ布でぬるぬるの仔牛を拭った。黒白まだらの仔牛は、藁の上に横たわったまま、長いまつげをあげた。ぬれた毛が乾いてくると、細い四肢を動かして立とうともがく。 後始末を終わって、喜三郎はカンテラの灯りを吹き消した。やわらかい暁の光が、産みの苦しみを乗り越えたばかりの母牛仔牛をくるんでいる。 仔牛は雄であった。幾日もなく洋食屋に売られて、食肉となる運命なのだ。母牛は、ただ乳を出し人間の滋養とするためにのみ、妊娠し、出産せねばならぬ。 喜三郎は悲惨な牛の運命に暗然としながらも、生命の誕生の厳粛さを知覚した。そのためだけにでも、新生児の誕生を祝いたかった。 温かい味噌汁を作って、疲れた母牛にやった。自分は、とっときの一升徳利を茶碗に移して、乾いたのどに流す。飲めぬ酒だが、いまはうまい。しろが酒の香によだれを流す。呑みかけの酒を突き出すと、長い舌を出して舐め始める。陶然とした眼つきになる。徳利にまで首をのばしてくる。「しろはえらい酒好きやのう。わしは茶碗の半分もよう呑まんのに、お前は徳利ごとほしいのか。まあ良いわい。大役のあと、また可愛い子と別れんなんお前や。ぜーんぶ奢ったろ。けど呑み過ぎて、牛が虎になるなよ」 しろは、たて続けに茶碗酒を呑み乾した。「まだついとってやりたいけど、草刈りに行かんなんのや。とびきりうまい露草刈ってきたるさけ、おとなしゅう待っとれよ」 背中いっぱいの草を刈って帰ると、文助が眠たげにあくびしながら起きてきたところだった。草をかかえて母牛にどっさり投げ与える。仔牛は、ひょろひょろ腰をふらつかせて歩き出している。「見ろや、昨夜わしが産ませた仔牛やで」「へえー、喜三やん、いっかどの獣医やんけ」「仔牛を離さんなん。小舎つくるさけ、藁切ってくれや」 やっと顔を出した徳次郎にも手伝わせて、板で仕切りを打ちつけ、藁を敷いた小さな小屋に仔牛を抱いて移した。母牛の乳首の味を知らぬうちに隔離され、人手で育てられるのが、乳牛の仔の運命である。牛乳を求める人間の客がいるかぎり、できるだけ乳は倹約して飲ませねばならぬ。配達はどうでも一定量必要なのだ。 日に三升と、猶吉は仔牛に許す乳の量を決めている。だから、もう一匹いる生まれて二か月目の雌の仔牛は、痩せて餓えていた。与えればきりなく飲んで太るのに。育ち盛りの三月間は、乳だけが仔牛の生命の糧のすべてなのに。 喜三郎は、一休みした母牛から凝って固い乳房をもみほぐしつつ、初乳をしぼった。黄色くどろどろした脂肪のきつい乳が出る。 初乳は売りものにはならない。一日目は、沸かすとじきカステラみたいに固まる。三、四日目は豆腐くらいになり、五日目には絹ごし豆腐の固さになる。客に配達できるのは、固まらなくなった一週間を過ぎてからだ。 小さな手桶に初乳を入れて、喜三郎は仔牛小舎に入った。乳の臭いを嗅ぎながら、仔牛はとまどっている。桶を股にはさんで、喜三郎は初乳の中に手を浸し、指を二本つき出した。「おらよ、飲めやい」 仔牛はその指をしゃぶった。二本の指がストロー代わりだ。指の間から乳を吸い上げる。やわらかく舌をからませて。半時間もかけてゆっくり吸い切ると、仔牛はまだ喜三郎の指をなめまわし、透き通った藍色の大きな瞳で見上げる。 仔牛は目に見えて大きくなった。足もしっかりしてきて、喜三郎さえ見ればとび跳ねてくる。手桶半分の乳なら、喜三郎の指を伝って、あっという間に飲み干すほどになった。 指は喜三郎でなければならない。他人では嫌って後ずさる。産みの母牛にさえ、仔牛は恐れて近づかない。喜三郎が母である。喜三郎が傍に来ると、甘えてすり寄り、指をしゃぶりたがる。 仔牛をかかえて、喜三郎は言いきかせる。「まちがえるなや、お前のお母さんはわしやないぞ。わしは、お前の乳を搾取する側や。こらえてくれよ」 明日には猶吉の命でこの仔牛を屠殺場へ曳かねばならぬ。雄の仔牛は母乳が売りものになる一週間後に殺されるのが慣習であった。無駄飯は食わされぬ。
 陽春四月吉日、南陽寺住職岡田楚玉、てる夫妻の媒酌で、井上猶吉は京都府摩気村(現園部町竹井)の西本万次郎長女縫と結婚。仲人の住職夫妻、高屋の猶吉の母、縫の父の他、喜三郎、徳次郎、文助のごく内輪だけ、費用を節した簡略な式であった。 新婚の二日間ばかりは上機嫌に過ごした。 三日目の早朝、猶吉は牧場に寄るなり、世にも情けない顔をして呻くように叫んだ。「ち、畜生め、屑物つかましよった。南陽寺の和尚奴が」「何をつかまはったんや?」 喜三郎が、乳しぼりの手を止めずに聞きかえす。「縫のことじゃ。こ、これから南陽寺まで、ねじ込み談判に行くとこじゃい」「ほう、はやばやと夫婦喧嘩か」「そんなどこかいな。あいつ追い出したる。上田君、聞いとくれい。今朝寝床の中であいつの面みたら、壁みたいな化粧のはげたとこから、真っ黒な痣が出とるがな。気色わるて逃げてきたんや。ああ、腹が立つ。もこもこ腹が立ってきよった。畜生め、だ、だましよって、わしに屑物つかましよってからに……上田君、頼むさけ一緒に行って抗議してくれいや」 喜三郎は桶にいっぱいの牛乳を下げて、牛の腹の下から出てきた。「先生、それはちと手おくれちゃうこ。三日も寝てしもた後やろ。痣は生まれた時からちゃんとついとったはずや。調べもせんと、働き者いうだけで、それごとそっくりもろてしもたんや。おまけに結納金も値切り倒したことやし、まあ辛抱しときいな。痣ぐらい、あってものうても、天下の形勢にかかわりあらへん」「ひ、人ごとやと思て、気やすうぬかしくさる。お、覚えとれ、うぬの世話にはならんわい」 かっかしながら、猶吉は隣りの南陽寺裏門の石段を駈け上がって行った。 矢野鈴は、あれなり姿も見せぬ。牛乳配達の途中、木崎の矢野家をそっとのぞくと、あわてて母親がぴしっと戸を閉める。早くもあの翌日、猶吉が出向いて行って、喜三郎の人格に関して、猶吉なりの解釈と評価をたっぷり母親に陳べてきたらしい。その結果、娘に大甘な母親も、必死になって鈴を浮気男の魔手から守ろうと、閉じ込めているのだろう。 堰かれてみると、よけい募るのが恋心である。さぞ鈴もわしに会いたかろう、とそこは良い気な喜三郎、相手の立場にもなって同情する。 十日もたったある夕暮、牛乳配達に行く喜三郎を、鈴の母親松が困惑した表情で待ち受けていた。「ちょこっと上田はん、寄ってくれはらへんか。うちのん病気で困ってますのや」「お門違いでっしゃろ。わしはただの牧夫で、しょうもない牛乳配達の身や。この通り暗うならんうち、乳くばらんなりまへん。急ぎますさけ、井上獣医はん呼んどくれやす」 あわてた松は喜三郎を押しとどめ、嘆願し始めた。「獣医はんではどもならん。牛やないのや、病気は娘のお鈴ですんや。すんまへんけど、顔見せてやってえな」「そない言うたかて……わしは獣医でもなけら、まして医者でもありまへん。ほな道筋やさけ、人間のお医者はん頼んできたげますわ」「そこらの医者で治るくらいなら、なにあんたを呼びますかいな。冷たいこといわんと、お鈴に会うてえさ。もう三日も飯喰わんと、喜楽はん喜楽はんと呼び通しやさけ……」「ははあん、するてえと、恋わずらいちゅう……へえ、あのお鈴はんが」「あのお鈴でわるおしたな」 さも意外そうな顔の喜三郎を、憎さげににらみつける。「けどお鈴はんに似合わん古めかしい病や。黒髪丈なす王朝の姫君がはかない恋に身をこがす風情やんか。もっとも恋いわたるお相手が、今業平の君ゆえのう」「へえ、今業平って誰のこっちゃいな」「決まったる、このわしや。お鈴はんが惚れこむのも無理はないやろ」 母親は真面目くさった喜三郎の面をうち眺め、何ともいわずに嘆息する。   てれくさいながらも女に会いたさに       いやそうな顔してついて行きたり「喜楽はんが来てくれはったえ。お鈴、しっかりしいや」 喜楽と聞いて、鈴は重たげに瞼を開いた。焦点の定まらぬ瞳をひそめて喜三郎を探し当てるや、涙をこぼしつつ手をさしのべた。「母さん、おっきに。あっちに行って、喜楽はんと二人にしてえな」「喜楽はん、ほなちょっとの間でっせ。なんせ病人やさけ……」 哀訴の眼差しを送って母親が消えると、鈴は喜三郎にむしゃぶりつき、ふところを顔でぐいぐい押した。背が痙攣し、激しい嗚咽がもれる。いじらしさに、喜三郎もひしと抱きしめる。ふいに顔を仰向けて、鈴は長い舌を出した。苦しげに笑いをかみ殺している顔であった。「な、なんじゃい。どうしたんや」と喜三郎。「上手やろ、うちの芝居。けどまるきり嘘ばかりやないで。さっき喜楽はんの顔みた時は、ほんまに嬉して涙出たのえ」「三日、飯食うとらん言うとったで」「そらそうや、そうでもせんと、母さん、家から出してくれはらへんもん。井上のあほ獣医が喜楽はんの悪口、母さんに告げはるねんもん。けど見ていさ、食べて寝てばかりいたらこんなに太ってしもた。いややわあ」 鈴は袖をまくって、むっちりした二の腕をかざしてみせる。ついでに蒲団の中から、ふかし藷をとり出した。「友達の差し入れや。毎日、見舞いにきてくれはる」 またしても、くっくっと笑いころげる。全く屈託がない。さすがの喜三郎も毒気をぬかれていると、母親お松が番茶を入れておずおず入ってきた。「あれま、現金な娘や。惚れた男の顔みたら、こんなに元気になってしもて。上田はん、あんた、真実お鈴を好きかいさ」「へえ……そらまあ、好きは好きや」「なんや頼りない返事やが、ほんまに遊びごとやありまへんな」「お鈴はんの方はどうやろ」「恋わずらいしとるくらいの純な娘やで。聞かんかて、分かってますがな」 鈴がちかちかと片目をつぶってみせる。「わし、本気です。愛してます」 喜三郎は苦しげに答える。たたみかけて、ここぞと母親は力を入れた。「ほんなしやない、許したげまひょ。けどやなあ、あんたはんはいま修業の身やさけ、ちゃんとした獣医はんになってから式を挙げなはれ。それまでは、誰が何て言うたかて、うちの娘には指一本触れさせしまへんえ。井上獣医はんにも、ようようお頼み申しときますわ」 恐れ入って、喜三郎は引き下がった。牛乳配達の途中でもあった。 その後、幾度か矢野家に立ち寄ったが、松はどうしても鈴に会わせてくれない。鈴の本心をも一度確かめてみねば、娘心が分からぬ思いであった。喜三郎のようなろくでなしはとても獣医にはなりきれまいと、松は踏んでいるのであろう。それならそれで押して出る程の情熱もなく、足が遠のくうち、鈴が別の男と親しくなった噂を聞いた。喜三郎は、何故かしら、ほっと心を軽くした。 文助や徳の誘いにのって、久しぶりに園部の若松町の飲み屋街をはしごし、夜っぴて飲みさわいだ。酒など飲めぬくせに酔ったふりして騒ぎまわり、日頃のもやもやを発散して帰ると、もう夜は明けはなれていた。「牛めらが腹空かせとるやろ。ちと遊び過ぎたわい」 後悔しながら牧場に入ると、牛舎の閂がはずれていて、十頭の乳牛の影もない。別棟に堰かれた仔牛が哀れに啼くばかり。蒼ざめた顔を見合わせた時、表で甲高い声が叫んだ。「喜三やん、大変や。ここの乳牛たち、寺裏の麦畑に逃げとるで。早ようつかまえな、出かけたばかりの麦の穂、ぐいぐい食うとるわ」 南陽寺の息子岡田和厚少年だ。一同あわてて駆けつけた時には、牛どもは一反の麦の穂をほとんど食い荒らし、天神山に逃げこんでいた。「今朝の配達は止めや。得意先まわってあやまってくるさけ、牛探しといてくれよ」 一刻も猶予ならぬ。喜三郎は町から村々を走りまわった。麦畑の所有主にもあやまって、牛の食った損害賠償として、三月分余の自分の給料を当てる約束をした。天神山にかけ戻って、徳と文助と和厚と共に十頭の牛を探し出し、ようやく引きつれて牧場に帰ったのは、もう日暮れ時であった。 徹夜で飲んだあげく朝から物も食わずに一日山野をかけずり廻って、四人とも汗と泥まみれ、足はがくがくする。牛たちは、もうもう啼きたてる。そのはずだ。朝夕二回の搾乳時を、乳もしぼらずに過ぎたのだから。湯を沸かし、興奮して啼き騒ぐ牛たちを棒杭につないで、汚れた乳房を湯で拭った。「えらいこっちゃ。乳房炎起こしとる」「こっちもや。かんかんに痼っとるぞ。始末におえんわい」 乳は石みたいに凝ってぬるぬるになり、しぼっても出てこない。牛は痛がって叫び、蹴り上げる。ほっておいたら、乳房は紫色に腫れ上がって腐ってしまう。「しやない。和厚、仔牛放してくれ」 喜三郎が叫んだ。朝から啼きたてて、声も涸れ腹も空かしきっている仔牛は、柵を出されてとんでくる。生まれて初めて、じかに母親の乳房に触れるのだ。誰に教わるでもなく、仔牛は痼りきった乳房を下から口でつき上げつき上げしごきつつ、たちまちもみほぐして吸いついている。ほぐれた乳房から搾乳しながら、次々と石のような乳房を仔牛にあてがう。 文助が乳を漉し、徳次郎が近隣の配達にあたふたと出ていった。痛みが去ったのだろう、母牛たちは満足そうに目を細めて、仔牛の背をなめている。 喜三郎は胸がつまった。この和やかな自然の母子の愛に逆らい割り入って、子に与うべき豊かな乳を横どりする。それが自分の仕事であり、商売なのだ。許しを乞いたい思いにかられて仔牛の首を抱きしめた時、猶吉が荒々しく牧場に入ってきた。「何さらしとった、朝から搾乳もせんと、牛みんな天神山に放しとったちゅうやないか。あ、もったいない。こ、仔牛に乳しゃぶらせおって……き、喜三、お前ちゅう奴は……」 猶吉の怒号をみなまで聞かず、和厚が喜三郎の手をひっぱった。「逃げよ、喜三やん……」「待てい……逃がすけ」 南陽寺に逃げこむ二人の後を追って、猶吉は、むちゃくちゃに石つぶてを投げつけた。


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