表題:深山の草 1巻1章深山の草



  日は天から地から暮れかかる。木枯らしは、いつか細かい雪をまじえていた。その天と地の灰色のあわいを、旅姿の娘が行く。翳った瞳が時おり怯えてふりむく。雪の野面を烏が舞い立つ羽音にも……。 伏見より老の坂を踏み越えて山陰道を西へと故郷に近づきながら、娘の足どりは重い。亀岡(現京都府亀岡市)の城下町も過ぎ、歩みを止めたのは丹波国曽我部村穴太(現亀岡市曽我部町穴太)の古びた小幡橋の上であった。犬飼川が両岸を薄氷にせばめられ、音もなく流れる。指が凍てつく欄干の上をなでる。国訛の人声が近づく。びくっとして、娘は橋を渡り、石段を三つ四つ、続いてまた四つ五つ降って石の鳥居をくぐり、小幡神社の境内に走りこむ。おおいかぶさる森を背に、小さな社殿があった。その正面には向かわず、右手の大桜の幹にかくれてうずくまる。 誰にも言えぬ、娘の身で妊娠などと。死ぬほど恥ずかしい。 伏見の叔父の舟宿に養女に望まれて行ったのは十九の年、まだ都の風にもなじまぬ世祢であった。叔父は伏見一帯の顔役であり、勤皇方の志士たちとのつながりが深かった。 早朝あるいは深夜ひそかに舟宿に集う人々の中に、あの方はおられた。僧衣をまとい、深く頭巾をかぶったお姿だった。叔父は心得たようにすぐ奥座敷へ招じ入れ、接待には世祢一人を申しつけ、他の女たちを寄せつけなかった。叔父も、同志たちも、敬慕と親しみをこめて、あの方を「若宮」とお呼びしていた。若宮が何さまであるかなど、まだ世祢は知らない。けれど二度三度おいでのうちに、あの方はなぜか世祢に目を止められ、名を問われた。 そんなある夜、驚きと恐れにおののきながら、世祢は引き寄せられるまま、固く眼をつぶった。抵抗できる相手ではなかったのだ。それに……それにお名を呼ぶことすらためらわれるあのお方を、いつか待つ心になっていた。雲の上の出来事か妖しい夢のようで、現実とは思えなかった。 幕末から明治へと激動する歴史の流れが、世祢を押しつぶした。 東征大総督宮として江戸へ進軍されるあの方は、もう世祢の手の届かない遠い人。江戸が東京となり、明治と年号が変わり、天皇は京を捨てて東へ行かれる。 虚しい日々が過ぎて一年、若宮凱旋の湧き立つ噂さえ、よそごとに聞かねばならぬ世祢であった。明治二(一八六九)年の正月も過ぎ桜にはまだ早いある朝、何の前触れもなく、あの方は小雨の中を馬を馳せていらした。あわただしい逢瀬であった。言葉もなくただ世祢はむせび泣いた。ここにあの方のお胸があるのが信じられない。 待つだけの世祢のもとに、たび重ねてあの方は京から来られる。帝は京を捨てても、あの方は京に残られた。夏が過ぎ、そして秋――最後の日は忘れもせぬ十月二十七日の晴れた午後。深く思い悩んでおられる御様子が、世祢にも分かった。「これぎりでこれぬ。帝がお呼びになるのじゃ。これ以上逆らうことはできない。東京に住居をもてば妻を迎えねばならぬ。達者で暮らしてくれ、世祢……」 あの方は、いくども世祢を抱きしめ、抱きしめて申された。何も知らなかった田舎娘の世祢にも、あの方のお苦しみがおぼろに分かりかけていた。 京の人々の口さがない噂では、あの方は、帝のおおせで、水戸の徳川の姫と御婚約なさったとか。けれどあの方は、仁孝天皇の皇女、先の帝のお妹にあたる和宮さまが六歳の時からの婚約者であられた。同じ御所うちに育ち、その上父宮幟仁親王さまの元に書道を習いに通われる幼い和宮をいつくしまれつつ御成人を待たれて十年、やっと挙式の日取りも決まる時になって、和宮は公武合体の政略に抗しきれず、贄となられて関東に御降嫁。しかしあの方は、未だに深く宮さまを慕っておられる。二十一歳にして前将軍家茂未亡人静寛院宮と変わられ、江戸におられる薄幸の人を――。 東征大総督として江戸城明け渡しの大任を果たされたあの方は、天皇の叔母君であられる和宮さまを御所に呼び戻し改めて結婚を許されるよう、帝に願い出られたそうな。総督としての官職を捨て臣籍に下りたいとまで嘆願なされたと聞く。帝は、いまだ治まらぬ天下の人心を叡慮され、風評も恐れぬあの方の情熱を許されなかった。その上、亡びた徳川一門の繁姫さまと皇室との御縁を、あの方によって再び結ぼうとなされたのだ。三十五歳になられる今まで、あの方が親王家として前例のない独身で過ごされたのも、ただ和宮さまへの変わらぬ真心であったものを。 東京遷都の美々しい鳳輦御東行のお供も辞し、官名を返上されて、あの方は京に残られた。しかし勅命でお呼び寄せになられれば、どうして逆らうことができよう。 ――うちは、あの方のなんやったんやろ、と世祢は思う。思うそばから、考えまいとふり切った。お淋しいあの方のために、一時の慰めのよすがとなれたら……。 ――ただそれだけで、うちは幸せなんや。 供を一人連れただけのお身軽ないでたちで、あの方は去って行かれた。絶えまなく船が行きかう川べりを駆け抜けていかれる最後の馬上のお姿が、世祢の瞼に焼きついて離れない。懐妊に気づいたのは、極月に入ってからであった。あの方は知らない。東の空の下、帝のお傍で、多忙な公務に明け暮れておられよう。訴えるすべさえわからぬ世祢であった。 ある日、事情に気付いた船宿の朋輩の一人が世祢の様子をうかがい、おどすように忠告した。「有栖川の若宮さまの落胤は、男やったら攫われて殺されるそうどすえ。気いつけやっしゃ」「ちがう。うち、身ごもってまへん」 世祢は強く否定した。にらんだ下から、唇が褪せた。故郷が狼狽する世祢を招いた。 伏見で船宿を営む叔父夫婦には子がなかった。姉の娘である器量よしの世祢を、前から養女に望んでいた。 けれど世祢は、引き止められるのを振り切って、伏見を発った。 思いつめて戻っては来たものの、父母の住むわが家に、すぐにはとびこめない。かじかむ手を合わせ、産土さまにすがりながら、暗くなるまでここにいようと世祢は思った。
「しんどかったら、もう寝なはれ」 宇能は思わしげに娘賀るにいった。貧しい夕餉の半ばである。賀るはうなづき、重たげに椀を置くと、足音も立てず奥の長七畳の間に消える。宇能は夫吉松と眼を見合わせて吐息した。 次女ふさが亀岡町西竪の岩崎家に嫁いだのは二十三歳の春。つづいて十九歳の三女世祢が、養女に望まれて伏見の叔父の船宿へ手伝いがてら行った。それからもう丸二年に近い。家にいる長女賀るは今年三十二歳、とうに婚期を逸した。体が弱く、器量もよいとは言えぬ。 めっきり老いの深い背をまるめて、かさかさと飯をかきこむ吉松。土間の片隅で丹念に磨いた鎌と鍬の、はがねの色が冷たく光る。見まわすあたりはくすんで暗い。時おりはじける囲炉裏の火と背戸の榧の梢を吹きすぎる風のほか、音もない。 宇能は箸をとめて、腰を浮かした。人の気配が動いて、板戸が鳴った。吹きこむ雪にまじって、白い顔がのぞく。「お世祢……」 喜色と不安をつきまぜて宇能は末娘を迎え入れ、肩先につもる雪をはらった。そわそわと肥松を持ち出し、吉松は囲炉裏に明るい炎を上げる。叔父の家でととのえたのか、黒地に紅の細縞の着物。黒繻子にたまのり縮緬の腹あわせ帯がよくうつる。娘らしさがはんなり家中に匂った。「お賀る姉さん、どこおってん」「いま寝たとこや。ぐわい悪いんやろ、起こさんとき」 まだ独身の姉の姿の見えぬことにむしろほっとし、世祢は草鞋をぬぐ。母の出してくれた濯ぎの水が、赤くむけた足の親指の根本に激しくしみる。 こういう時、男親の吉松は出番がなくて落ち着かない。「飯、まだやろ。早う食わせたれ」「いらん」 思いつめた娘の眼つきに、吉松と宇能はどきっとした。世祢の頬も手も青白く冷えて、こわばっている。宇能は熱い番茶をつぎながら、さりげなく聞く。「年の暮れで忙しやろに、よう帰してくれはったなあ」「暇もろうて来たんや」「暇……? お世祢、暇いうもんは、いくら親戚の船宿かて、お前の勝手で願うてもらうもんやない。それともなんぞ落ち度があって……叱られて出されて来たんやないか」 咎めるような母の語気に答えず、世祢はうつむいた。手の中で番茶が揺れ、膝に散った。うっと口元を押え、部屋の隅にいざって背を向ける。「歩き通しでくたびれとんのやろ。ごちゃごちゃ聞かんと、早う寝かしたりいな。話は明日でええやんけえ」 吉松がいたわるように口をはさみ、それが手くせの、賽ころを湯のみの中にほうりこんで、丁と伏せる。 娘の波立つ背をみつめ、宇能は鋭い不安に胸をえぐられた。「もしか……赤ん坊こさえたん違うか」 びくっと細い肩先がふるえる。否定もせず、身をもんで、世祢は筋ばった母の膝に伏した。懐妊に気づいてから、どれだけ思い悩んできたことか。わが身を処する道に窮して、一途に母を求めて帰ってきた。が、母に問いつめられると、世祢は、秘めてきた事柄のあまりの重さに堪えかねてすすり泣いた。宇能は声をおさえた。「おなかの子の父は……その男はついてこなんだんか」「東京へ……もう京へは帰らはらへん。あちらで奥さまを……」「子のでけたん知って、捨てて逃げくさったか」と、吉松は顔色をかえた。「知ってはらへん。母さん、そんなお方やないのや」「あほんだら」 頭から吉松が怒声をあびせかけた。「そんなお方もへったくれもあるけえ。何さまか知らんが、腹の子の父親なら、江戸でも蝦夷でも行って、わしが連れもどしてきちゃるぞ。ええか、お世祢、びすびす泣かんとけ。俺があんじょうしたるわい」 激昂しながら、父も母も姉に聞かせまいと、つとめて声は低い。世祢は高ぶる感情を必死におさえて、涙をはらい、坐り直した。「東京へお移りにならはる前の日に、伏見までお使いがこれを届けてくれはったん……」 風呂敷をとき、母の前に押しやった。白綸子の、目をみはるばかりあでやかな小袖に見慣れぬ横見菊車の紋が一つ。それに……宇能は声をのんだ。錦の袋にくるまるのは、一振りの白木の短剣ではないか。「これは、うちの守り刀にと……それにこの金子も……」 美しい布地で作った巾着にも、小袖と同じ菊の定紋がある。世祢は小袖をすくい上げて胸に抱き、艶やかな絹の手ざわりに頬を染める。その小袖から、はらりとすべり落ちた物があった。吉松がひろって眺め、宇能に手渡す。字は苦手、というより、まったく文盲の父であった。粛として、宇能はそれを見つめる。 見事な筆蹟が匂うような短冊であった。流れる文字に眼をあてて、のどにかすれる声で、宇能は読んだ。   わが恋は深山の奥の草なれや       茂さまされど知る人ぞなき  裏を返して、あっと小さな叫びを上げた。印と花押の上に力強い筆致で記された御名を、宇能は知っている。宇能の叔父中村孝道は高名な言霊学者であり、女ながら、その素養の一端を受けついだ彼女であった。勤皇の志あつい叔父孝道から、幾度もその御名を聞かされていた。 蛤御門の変により、その方は先帝のお咎めを受け、輪王寺の里坊に蟄居の身であられたことがある。そのころ、伏見の弟がその御不自由をお助けするためひそかにお出入りしているのを、宇能はそれとなく察してはいた。 ――でも、その高貴なお方が田舎娘の世祢を……まさか……。  信じられぬ惑いのうちから、宇能の脳裡に鮮烈に浮き上がる光景があった。 昨年、即ち慶応四(一八六八)年の二月十五日、世祢に会いに伏見の弟の船宿を訪ねた翌日であった。京の町々は、錦旗節刀を受けて江戸へ進発する親王を見送らんとする人々で、異様な興奮にわき立っていた。御所宜秋門から下る街道の町なみは、ぎっしり人の波であった。湧き上がる横笛と大太鼓、小太鼓の音が、踊るように響き渡る。   宮さん宮さん  お馬の前に    ひらひらするのは何じゃいな    トコトンヤレトンヤレナ……  街道は、人々の唱和する歌声にうずまった。長州萩藩士の品川弥二郎作詞、井上馨の愛人、祇園の君尾作曲の、この六番からなる、「都風流トコトンヤレ節」は、すでに出陣前から木版でばらまかれ、京の人々の愛唱歌であった。先頭をきるのは、周山に近い山国勤王隊の斥候銃隊。黒い筒袖の軍服に白鉢巻、白腹帯をしめ、赤い赭熊の毛を肩にたらして威風堂々。続く銃隊に守られて錦旗二旒、錦旗奉行二名が騎馬で行く。萌黄緞子十六葉菊の旗一旒。人々のざわめきは一瞬なりを静め、赤地錦の御馬標のもと、二十余名の幕僚、諸大夫を従えた大総督の宮を仰ぎ見た。「ほんまに御立派どすなあ。見とみやす。あの若宮さまが官軍の総大将で江戸へ行かはる。西郷はんを参謀に連れとってどっせ」 白鹿毛の馬上豊かに緋精好地の鎧直垂、烏帽子姿の凛々しい親王は、宇能の眼に眩しいばかりであった。思わず手を合わせ、拝していた。 ――あの時のあのお方が、有栖川宮熾仁親王さまが世祢の子の父。宇能は絶句した。
「どうや、梅吉、上田吉松はんの家、婿を捜しとってんやが、お前、なる気はないけ」 主人の斎藤庄兵衛から不意に縁談を持ち出され、膝小僧をそろえた佐野梅吉はきょろんとした顔色であった。「上田はんも今は貧乏しとってやが、昔はたいしたこっちゃで。家柄かて立派なもんや。さっき、お宇能はんがお須賀に頼みに来やはってのう。」「よい話やんかいさ。うちかて、近所の家を梅吉が継いでくれたら、気心知れた仲やし、なにかと便利やもん……」と、妻女の須賀が口をはさんだ。 ――あんまりや。ぶす(不器量)やし、体かて弱いし、それに俺よりだいぶんと年上やんか。 梅吉は、不満げに横を向いた。「伏見の水で磨きをかけたせいか、えらい垢抜けしてのう、亀岡へ行ったおふやん(次女ふさ)も別嬪やったが、まだ一段と上や。気立てはよし、働き者やし、お前の嬶には過ぎたもんやがのう」「え、誰と……」「何を聞いとるのや。上田吉松の娘お世祢はんとやがな」 梅吉はべそをかいたような顔になった。首筋までかっと熱くなった。鄙にはまれな、といっていい末娘世祢の美しさは、主人に聞かされるまでもなく知っている。二年前、伏見へ去った時、無念がる村の若い衆も多かった。梅吉もその一人だった。 須賀は梅吉が不服とみたのか、突っけんどんな口調になった。「お宇能はんに頼まれて、お前の気持ちを聞いてみたんやけど、別に無理にとは言いまへんで。あの娘なら、婿のなり手はなんぼでもあるさけ……」 なぜ長女の賀るをおいて三女の世祢に婿をとるのか、そんな疑念など湧くひまがなかった。梅吉はあわてて首を横にふり、口ごもり、今度は縦に幾度もうなずいていた。 佐野梅吉二十六歳。この穴太の地から三里北の川辺村字船岡、紺屋の次男坊である。兄弟八人、それぞれに身を固めるが、梅吉に限って十三の年に八木の角屋という醤油屋に丁稚にやられた。幼い頃からの癇癪もちで、すぐ前後の見さかいもなく喧嘩をする。懲戒の意味があった。だが角屋の主人は、梅吉の正直さ、律儀さを買って目をかけてくれた。時にはこらえようもなく癇癪がつのって朋輩と喧嘩することもあったが、まず大過なく十年の年期を勤め上げた。 この斉藤家に奉公してからは二年、牛小屋の二階での一人暮らしであったが、そろそろ妻のほしい年であった。 農閑期のうちにという理由で、挙式はむやみにいそがれた。年が明けて間なしであった。斉藤庄兵衛と妻女須賀が媒酌人となって、ひっそりと盃を交した。何故か重苦しい。はなやかな牡丹のような中の娘ふさが婚家先から帰ってきて三人姉妹がにぎにぎしく揃ったというのに。当然婿を迎えて家を継ぐものと思われていた賀るが、とうに婚期を逸した姿でこの席につらなっているのが、いかにも痛々しかった。座に居ても立ってもつらい立場であろう。 花嫁は始終うつむいて、婿殿を見ようともせぬ。上の姉に気がねしとんのやろと梅吉は思った。 田舎の野放図もなく飲み明かす披露宴のなかばで、花嫁は宇能に手をとられて幾度か席をたった。足もともおぼつかぬほど緊張しきっているのか、世祢の頬は蒼ざめ苦しげにさえ見えた。 新婚生活という甘い雰囲気は、小百姓にははじめから望めない。長七畳・長八畳の二間に、義父母・義姉が雑居した。妻は従順であった。いじらしいばかり気を使う様子が察しられた。けれどどこかに距離を保っていた。日が浅いのだからと梅吉は思い直すが、世祢の身にまつわる孤独な淋しい陰は、日がたっても薄れない。 義父は婿を得て気がゆるんだのか、枕につくことが多くなった。一家の責任はすべて梅吉の肩にのしかかった。上田家は俺が再興してみせると、梅吉は気おい立った。 穴太では、上田・松本・斎藤・小島・丸山の五つの姓を御苗(五苗)といい、顔のよい家柄とされた。御苗以外の家柄を〃平〃と蔑視した。上田姓はさらに北上田・南上田・平上田にわかれる。梅吉のついだ上田家は、北上田であった。 上田家は藤原治郎左衛門正一を中興の祖とし、村の伝承によると、文明年間(一四六九~八七)に大和から落ちて来たとされる。正好・正忠・正武・為正・正輔・正安以上七世は、みな藤原治郎左衛門と称した。正安の代まで、西山の麓高屋という地に高殿を建て、高屋長者といわれて百余年住み、その後は愛宕山(穴太にあり、京都の愛宕山とは別)の小丘に砦をかまえこの一帯を領していたが、明智光秀のために没収されたという。 梅吉より七代前の祖先政右衛門の代になって、上田と改姓した。改姓の理由は、「藤原姓であると、万一誤って藤蔓を切れば家が断絶する」との巫女の妖言を妄信したせいとか。当時五町歩(一万五千坪)の二毛作の上田を所持していたから上田姓になったともいわれる。 上田家の産土である小幡神社所蔵の文書によると、「一巴上田、二巴斎藤、三巴藤原」と家紋のとり決めがされていたが、北上田系の家紋は藤原にちなんで三巴である。 宇能が上田家に嫁入った頃は、家から隣村の天川まで他人の土地を踏まずに行けたという。学者の家に生まれ、女性としては珍しい教養の持主である宇能を吉松が妻にし得たのも、上田家には、それに見あう家柄と財産があったからだ。それを吉松一代で見事に無にし、百五十三坪の宅地と破れ家、買い手のつかぬ三十二坪の悪田一枚残すのみとなった。 酒は飲まぬ。煙草はすわぬ。神経質なぐらい清潔好き、その上、正直で勤勉な吉松である。それでいて一家を貧困に追いやったのは、博奕好きという性癖に起因した。二六時中、賽をはなしたことがない。吉松は農事のひまを一刻も無駄にせず相手を探しては丁半、丁半。夜ふけてもやめぬ。相手がくたびれて眠りこけ、行燈と二人になっても丁半、丁半。強くない証拠に、昨日は一枚の田がとび、今日は一山が移転する。 世に賭事好きは多い。熱中して破産する者も珍しくない。が、変わっているのは吉松の女房宇能への言種である。「心配すなや。お天道さまは空とぶ鳥さえ食わしとってや。魚や獣は明日のたくわえしとらんが、別に餓えて死にもせん。人間かて餓えて死ぬのは千人のうち何人、あとは食い過ぎて死ぬ。人間、四日や五日食わんでも死なんよう、あんじょうできとる。気楽なもんや」「……」「好きばかりでわしが博奕打っとんにゃないで。孫子のためにしょうがなしにや。上田家はこれまで、小作人らの働きで栄耀栄華に暮らしてきた。それだけに罪も深く、たくさんの人の怨みがこびりついとる。わしは先祖代々の深い罪障をとりに生まれてきた。大木はいったん幹から伐らんと良い芽が吹かん。上田家も一度は家屋敷まですっかりなくさんなん」「それはあんたはんのお考えですか」「いんや、産土の神さんのお告げや。博奕をなまけると、覿面に神さんが夢枕に立ってのう、ごつう怒ってんじゃ。そのかわり、わしの孫の代になってみい、きっと世界の幸福者になるわい」 冗談なのか本気なのか、梅吉にはわからぬ。しかし起き上がれぬ身になってまで蒲団の上に賽をころがしている義父をみると、冗談と笑ってばかりはすませぬ執念を感ずるのだった。 世祢の腹の子はひそかに育っていた。五か月に入る前から、晒の腹帯をこっそりとしめた。宇能も手伝って、きつくきつくしめた。恐ろしい秘密は世祢を寡黙にした。 ――有栖川の若宮のお子と知れたら、殺されるかも知れぬ……。 他人をいとい、夫を恐れ、姉の眼をさけて、ただただ一つの目的のために、他はかえり見ぬ覚悟であった。 産む、あの方のお子を。その目的のために、夫を持った。善良な夫をあざむき、世間の目をいつわる苦しみに、身も心も傷だらけになりながら、世祢は出産を待つ。
 世祢が伏見から予告なしに戻った晩より、家の空気が微妙に変わった。その変化を、不安のうちに賀るは意識した。家の空気は賀るだけをよけて流れる。母も妹も賀るの視線をさける。むだに老いていく身を恥じる細い神経の賀るを。その配慮がかえって賀るの神経をささくれだたせるのも知らずに。 あれから何日かした夜、不安ははっきりした形をとって、父から告げられた。世祢に婿を迎えたいと。それは相談のようでいて、その実、とっくに決まっていることであった。無理に笑んで式にも出た。さらでだに望みのうすい賀るの前途は真っ暗になった。孤独と絶望の中で、賀るは姉の存在を抹殺した美しい妹を心ひそかに憎む。が、間なしに妹の秘密を悟った。なんという恥知らずな……誰の子やら……あわてて婿をとった謎もとけて、軽蔑心が賀るの心を和らげた。蜜月にも似ぬ妹の苦しみは当然の酬いと嗜虐的に冷たく眺めていた。 ある日暮れ、沢庵石を持ち上げようとして、肩で息をつく世祢を見た。自分でも思いがけず、賀るは土間に走り降りていた。「どきな。うちが上げたげる」「あきまへん、こんな重い石を……」「そやさけ、うちが……」「何言うてはるの。また熱が出ますで」 仕事を終えて野良から戻った梅吉が、庭先で鍬の泥を落としていた。姉妹の美しい諍いをほほ笑んで聞いた。 賀るが決然と宣言した。「とにかく、沢庵だすのはこれからうちの役目や」「なんで急に……」「あほうやなあ、今が一番大事な時やんか。沢庵ぐらいで赤ちゃんをわやにしてしもたら……」「知ってはったん……姉さん」 世祢はうつむき、堪えきれずに姉にしがみついた。賀るの心は溶けていた。おぶって守りした可愛い妹だった。 ――赤ん坊?  空耳やったんかいな。 梅吉は凝然と腕をこまねく。もしほんまなら、なんで真っ先に俺に打ち明けん。あまり水くさいやないか。怒りがつき上がった。汗を浮かべて、癇癪をこらえた。その夜の臥所で、梅吉は妻の背に震えを帯びた声で言った。「赤ん坊でけたって、ほんまこ?」 不意をつかれて、世祢は全身をこわばらせ、身をすくめた。夫に背を向けたまま、かすかにうなずく。思わず妻の肩をつかんで、荒荒しく己れの方にねじ向けていた。「子がでけたらでけたと、なんですぐ俺にいわん。お、俺の子やないか、俺の……」 見上げる世祢の眼に恐怖があった。それが哀願の色に変わって、涙がふき上がった。告白するなら今――。何もかも打ち明け、ひざまずいて、欺瞞の罪のせめから逃れたい。 だが世祢は歯を食いしばった。言えなかった。告白して何の解決になろう。夫も悩み、自分も苦しみを増すだけである。「すみまへん、まだはっきりしなかったんで……」 妻の涙で、梅吉の心はいくらかやわらいだ。 ――考えてみればまだ二月、世祢かて半信半疑で、よう言い出せなんだんやろ。「泣くな。あほやな。怒ったんやないで。うーん。ほんまなら嬉しのう」 正直に父となる喜びがこみ上げてきた。梅吉は、祈る思いでいった。「無理すなよ。明日から沢庵石はわしが持ち上げる。頼むさけ重い物は持たんといてや」
 七月十二日夕食のさなか、世祢の陣痛がはじまった。 梅吉はうろたえた。「早すぎるやんか、大丈夫け、流産やないけ」「心配おへん。七月たってれば、子は育ちます」と宇能は言い、梅吉に取り上げ婆さんを呼びに行くよう毅然とした態度で命じた。 易々と世祢は男児を産んだ。いかにも小さかった。「七か月やさけ、やっぱりなあ」 皆に聞かすように言い、ふきあふれる歓喜にうるむ眼で、宇能は嬰児を抱き上げた。「月足らずいうても、しっかりしてはる。元気な子やで」と慰めるつもりか、取り上げ婆が言った。「ちびのくせに、どてらい声で泣きくさる。顔も何も皺だらけ、口だらけやのう……」 そのくせ梅吉の顔面もだらしなくゆるみっぱなしだ。 月満ちて生まれた児を「七か月児」と言いなりに、夫は信じてくれるのか。 おずおずと細い手が寄ってきた。大役を乗り越えた後の安らぎと深い感謝をこめた妻のまなざしを、はじめて梅吉は我が物とした。 この騒ぎにほとんど忘れられながら、賀るは、ほとばしる命の産声につき動かされていた。わが子を産みたい、という女性の本能が、切なく賀るを襲った。 一家の喜びをそのまま冠して喜三郎と名づけたのは、祖母宇能である。戸籍による喜三郎の生年月日は、明治四年旧七月十二日。「王仁は祖先が源平であろうと藤橘であろうと、はたまたその源をなんの天皇に発していようと、詮議する必要はない。ただ王仁は日本人であって、畏くも天照大御神さまの御血統の御本流たる天津日嗣天皇さまの臣民であることだけは、動かぬ事実だ。そして王仁の生家は上田家である。(中略)丹波国南桑田郡、曽我部村大字穴太の宮垣内という所に、茅屋は破るるに任せ、檐廂は傾くに委し、壁はこわれて骨あらわれ、床は朽ちて落ちんとする悲惨なる生活に甘んじ、正直男と名をとった水のみ百姓の上田吉松(筆者註=梅吉のこと、吉松を襲名)というのが、王仁の父である」 喜三郎すなわち後年の出口王仁三郎は、《故郷の二十八年》の中で、こう記す。水のみ百姓の伜であるその出生を述べるのに、天津日嗣の天皇までひきあいに出さねばすまぬ彼の胸のうちは、今はふれまい。 喜三郎の生まれ育つ曽我部村穴太は、山陰道の入口に所在する亀岡盆地の中心地、亀岡町から西へ約一里、宮成長者の創立した西国三十三番札所二十一番の穴太寺で知られる。亀岡は以前は亀山と称したが、丹波亀山が伊勢亀山と混同され勝ちのため、明治二(一八六九)年六月、藩主松平信正が藩知事に任命されたのを機に、亀岡と称したものである。 穴太の地名起源説が、豊受大神宮(伊勢外宮)遷座に関して、上田家に伝えられている。雄略天皇の御代、天皇の夢枕に立たれた天照大神のお告げにより、豊受大神を丹波国丹波村比沼真奈比から伊勢の国山田の村に遷す神幸の途次、曽我部郷宮垣内の上田家の地が神輿の旅所に選ばれた。そのおり、祭儀に供えた荒稲の種子が太い欅の樹の穴に落ち、穴から稲の芽が出た。これを育てて瑞穂を得たので、里人は神の許しを得て良田にその種子を蒔きつけ、村内に植えひろめた。以来、この一帯を穴穂の里といい、のち穴太の里になる。小幡神社には、《穴穂の宮》の額が今もかかげられている。 穴太寺には別の縁起が伝わる。大飢饉年、寺に桑の切り株が流れてきた。その株の穴から穂がでており、それを種籾にして良質の米を得た。だから穴太寺の住職は、代々穴穂姓である。 樹の穴から穂が出たという発想はいずれも同工異曲である。それかあらぬかこの地方産出の米は穴太米と称し、良質の美味を誇っている。 小幡神社の北が豪農斎藤源治の大邸宅、そのさらに北隣に喜三郎の生まれた上田家の、吹けばとぶよな藁ぶきの家がある。上田家の自慢は、家は小なりといえ、四方に水を有することであった。北には村道をへだてて小川が流れる。屋敷内の西南には清水の湧き出る久兵衛池が清冽な水をたたえ、それは西へ流れる。さらに東に味のよい深い井戸。家柄の古さをしのばせる年をへた椋、三本の榧の大木などが蒼々と天をおおって、みすぼらしい家をめぐっていた。 明治四(一八七一)年十二月二十七日、祖父吉松は家族の者を枕頭に呼び寄せた。「俺、もうぼつぼつ死ぬで」「……」「けど只一つ、この世に名残りがあるわい」「なんなと言いなはれ。わたしにできることなら……」 宇能は夫の言葉を聞きとろうと、耳を寄せる。「まだあれが残っとるやろ、ほれ、薮のねきの小町田とこの家屋敷のう、うんと精出したつもりやのに、手ばなし損のうた。このまま死んだら、産土さまに会わす顔あれへん」 皆が呆れて眼を見あわせる。吉松は次第に苦しい息の下から、言葉をつぐ。「えげつない男や思うやろ。けどのう、上田家は因果者の寄り合いで、とうに断絶するはずのとこを産土さまのお慈悲で大難を小難にすまさしてもろてる。そんでも宇能や、お前が嫁に来てくれてから、一日半時も安心さして歓ばしたことなかったのう」 宇能はこみ上げる涙を押え、「じき博奕の相手探してきますさけ、冥土の土産に一代限りの勝負して、家屋敷も御先祖はんの罪障もなしにしとくれやす」「そうしてやりたいが、もうあかん。眼がかすんで賽の目も見えへん。けどじきお前の孫に生まれかわって、し残したことの決着はつけるでのう、その時はまた皆の世話になるわい」「わたしの孫に……」 宇能が聞き返すと、吉松ははっきりうなずいた。梅吉夫婦も賀るもうそ寒い顔になる。「それからのう、上田家は、円山応挙はんの出た家柄や。七代目ごとに大物が出ると伝えられてきたが、喜三郎は応挙はんから数えてちょうど七代目、あれは大物になる。どえらい大物になる。けんど上田の家にしばりつけてはおけぬ因縁の子や。大きゅうなったら養子にやれ。喜三郎を頼むで」 世祢は喜三郎をおしやった。そのやわらかい小さな手をにぎって、吉松は気持ちよげに即興のうたを口ずさんだ。   打ちつ打たれつ一代勝負     かわい妻(賽)子にこの世で別れ     賽の河原で賽ひろう     ノンノコ賽々ノンノコ賽々  それが辞世となった。上田吉松享年五十七歳。養子梅吉は襲名し、二代目吉松を名のった。

表題:波涛の図 1巻2章波涛の図



 喜三郎、足も口も遅い方であった。歩き出しても、頭でっかちで重心がとれぬのか、よくころんだ。芋畑の畔の小溝にころげ落ちて目をまわし、父の介抱でやっと息を吹き返したこともある。 物心ついた喜三郎は、長い期間、家族は全部で六人とばかり思いこんでいた。祖母・父・母・伯母・喜三郎・それに小さな爺さん……変わっているのはこの爺さん、いつも茶縞の着物をきて腰を曲げ、喜三郎の後へひょこひょこついてくる。家族の誰もが爺さんを相手にせず、また爺さんも語ろうともせぬ。好きでも嫌いでもなかったし、この影のような存在を不思議とも思わなかった。喜三郎には、そういうボーッとした一面があった。 明治七(一八七四)年の松の内、初めての弟が生まれた。その皺くちゃの顔がこの世にあらわれた時、家族の誰もがぎょっとした。四歳になった喜三郎も、「この赤ちゃん、物言わぬ爺さんと同じ顔や」と思った。次男の名は、祖父・父と伝承した吉松の名の松の字をとり、吉はヨシとも読めるので、由松と命名された。 五歳の年、喜三郎は驚風病(脳膜炎及びこれに類する症状をもつ病気)に見舞われ、重ねて脾肝の病いに侵された。腹ばかりふくれ、手足は針金のように細くなった。未申(西南)の方向に先祖が掘った久兵衛池の祟りだと易者は言った。家族は心配してあちこちの神社仏閣に祈祷を願ったが、病気は悪化するばかりで、なんの効験もなかった。 蟇がよいと人がすすめた。父吉松(旧名梅吉)は山野をかけ廻って蟇がえるをつかまえ、鶏の笹身に似た白い肉を醤油でつけ焼きし、毎日一、二片ずつ食わせようとした。喜三郎が口にしかけると、爺さんが出てきて食うなと睨みつける。父母はごまかせても、爺さんはごまかせなかった。たいていは食った顔をして、すきを狙って雪隠に捨てた。 ある夜、宇能は夢をみた。「喜三に蛙など食わしたらどもならん。あれは神さんの御用する大事な身やでのう。若夫婦が産土さんを敬う道を忘れてくさるさけ、お気づけをいただかんなん。早う喜三を小幡神社に参らせや。よう若夫婦にも教えとくにゃぞ」 亡夫吉松の声である。目ざめても、まだその声ははっきり耳に残った。 明けやらぬ闇の中で、宇能は隣室の若夫婦を揺り起こした。話を聞くなり、世祢は痩せて軽くなった喜三郎を背におい、提燈を持つ夫と連れ立って小幡神社に詣でた。祈願の効あってか、その日を境に喜三郎の病気は快方に向かった。 宇能はくり返し喜三郎に言った。「産土さまを忘れんときなよ。神さまはいっつも喜三を見てなはる。大きゅうなって神さまの御用がでける日を待ってなはる……」
 夏の終わり頃であった。賀るは喜三郎を連れて、近所の斎藤庄兵衛宅へもらい風呂に出かけた。土間の唐臼で米を搗いていた吉松は、風呂上がりの喜三郎を見咎めた。「なんちゅう顔さらしとる。鏡みてみい」 喜三郎の顔は、昼間のいたずらで鼻のあたりを真っ黒にしたなりであった。賀るはもてあましたように言った。「どないしても顔洗わせまへんのや。言い聞かせてやっとくれやす」「喜三公、こっちへこい」 吉松は喜三郎の肩をつかみ、こわい顔をした。「こら、伯母さんのいうこと聞かなあかんやんか。なんで顔を洗わんのや言うてみい」 それでも喜三郎は、泣きべそをかいて黙っている。二度聞いて、三度目には吉松の癇癪が爆発した。「しぶとい餓鬼や。おい、なんで顔洗わんのじゃい」 高声になった。父の癇癪のこわさを知っている喜三郎は、手で頭をかばいながら必死で叫んだ。「人の睾丸洗うた湯で、わしの顔が洗えるかい」 わっと泣き出した。吉松はうなって、世祢にいった。「いっちゃら(一人前)ぬかしよる。義父さんが大物になる言うてなはったが、やっぱり応挙はんの七代目だけあるのう」 宇能は泣きじゃくる喜三郎を裏の井戸に連れて行き、顔を洗ってやりながら、いとしげに囁いた。「ほんまなら、人の汚したあとの湯へ入る身分やないのや。お前はただの子やないのやさけ」 以後風呂は、宇能の主張で近所に特別に頼み、喜三郎だけ先に入れてもらうことになった。持って生まれた天性と祖母の時おり吹きこむ囁きが織りなして、喜三郎の幼い魂に自尊意識がしみこんでいく。
 上田家の古い破れた壁や襖には、祖母の叔父中村孝道の書き残した書などが貼ってある。喜三郎はせがんで、宇能に読んでもらった。金剛寺や穴太寺の碑や額などをじっとみつめている。和尚が出てくると、袂をつかんで歩き、その意味をしつこく聞いた。どこにでも文字さえあればあかず見つめ、だれかれとなく居あわす者に聞く癖があった。しかしこの村で文字を解する者は少なく、ほとんどの者が返答に窮した。「大人に恥かかしよるで」と彼らは苦笑したが、まさかこの幼児に文字を理解する能力があるとは、誰も思わなかった。 明治十(一八七七)年二月、西南戦争が始まった。連日新聞がその模様を伝えた。当時、新聞をとっている家は、村でも一、二軒しかない。戸長の斎藤庄兵衛は、役場から持ち帰った新聞を囲炉裏にあたりながら、しかめっ面で読んでいた。横から邏卒(巡査)がのぞきこみしきりに内容を問いかけるが、庄兵衛にも読めぬ字の方が多くさっぱり意味がつかめない。あきらめて新聞をおき、煙管をくわえた。と、もらい風呂に来ていた喜三郎が、新聞をくい入るように見つめる。いつものことなので、誰も意にかけない。邏卒が声を落とし、秘密めかして戸長にいった。「ごく内緒のこっちゃけどのう、西郷はんとの戦いにどうも官軍の旗色がようない。だいぶ人減りがあるそうですで」「ふうん、そうけ。官軍一万六千、賊は一万五千と昨日の新聞に出とったさけ、兵力はまあ、五分五分やろ。そこに人減りちゅうと……うん……内緒にせんなんちゅうことやのう。こら、危ないぞ」 喜三郎が、大人の会話に口をはさんだ。「そんなもん何が内緒やろかい。ちゃんとこの新聞に出とるもん」「なんやて?……」と、邏卒は言い、相手が涎掛けをはずして間もない六歳の小童と知ると、嗤い出した。だが庄兵衛は、臆せぬ喜三郎の切れ長の眼に出会うと、真顔になった。「待てよ、ほんな喜三公、これなんちゅうて読むねん」と、四号活字の見出しを示す。 喜三郎はすらすらと読む。「天下の嶮田原坂の激戦開始、官軍容易に敵塁を奪取し得ず……」「ほんまにそんなこと書いたるのけ」と、邏卒が疑わしげに庄兵衛の顔を見る。「どうやらそんなふうに書いたるらしいのう。喜三や、その先を読んでみい」 続けて読ませながら、大人二人はしゅんとなった。「どこで字習うたか知らんけど、こら、お見それ申したわい」と、邏卒は脱帽し、「けど、まさか京までは攻め寄せてはこんやろ。こっちには錦のみ旗と親王さまがついてはるさけのう」と、胸を張った。「親王さま言うたら……この人?」 さっきから見つめていた新聞の肖像画を、喜三郎は指さす。「そうや、貫祿あるやろが。その下の字、何ちゅうて書いたる?」「有栖川宮大総督……」「そやそや。つまりトコトンヤレナの宮さんや。この熾仁親王さまが官軍の総大将や」「その歌、知っとる。お婆さんが歌ってくれたことあるもん」と、喜三郎は熾仁親王の肖像画をそっと指先で撫でる。 子供の喜三郎には、音読はできても、意味の不明な部分がある。庄兵衛は、読めぬ文字を喜三郎に読ませると、はっきり内容が理解できる。それからは、戸長はこっそり、数え七歳の喜三郎に新聞を読ませる習わしとなった。正規に習ったこともない文字がなぜ読めたのか、吾ながら不思議だったと、後に喜三郎自身が述懐している。 新聞を読み出した頃から、喜三郎の別の才能が発見された。早朝から井戸掘りしていた近所の衆が、掘れども掘れども水が出ず、閉口していた。さっきから地面に耳をつけていた喜三郎が、やがてたまりかねて言った。「おっちゃん、そんなとこなんぼ掘っても出えへんで。水の筋はここや、ここや」 ふところ手したまま、喜三郎はとんとんと足踏みしてみせた。水が出ず、いいかげん頭にきていた井戸掘り男がどなった。「あほんだら、お前になにわかるけえ。邪魔やさけ、あっち行っとれ」「わしが言うてもどうせ信用せんやろさけ黙っとったけど、あんまり気の毒や思うて教えてやって損した。遊んでこーっと……」 喜三郎が去ってから、ふと気が動いて、男はためしに足踏みした地点を堀り下げてみた。たちまち水が噴き出した。その話が伝わり、以来井戸掘りがあると、小さな喜三郎を連れ出して地底の水音を聞かせ、飴玉をしゃぶらせて水脈の指示を仰いだ。神童、地獄耳という噂が、村の内外にひろまった。 まだ埋火からはなれにくい初春、なんのはずみであったか、喜三郎は囲炉裏に落ちこんだ。小さい爺さんがとび出してきて、火中からひき上げ助けてくれた。その時の大火傷の痕が、死ぬまで左腕にはっきり残った。その爺さんが、やがてさっぱり姿をあらわさなくなった。「物言わん爺さん、どこ行ったんや」と、喜三郎は、宇能に問うた。不思議に思って、宇能は爺さんの様子をくわしく聞き出し、ため息をついた。「やっぱり、あの人はお前を守ってくれてはったんやなあ」 物言わぬ爺さんが死んだ祖父吉松の霊と知ってから、喜三郎はにわかに恐くなり、しばらくは隣家にも一人で行けなかった。 この夏、吉松夫婦と賀るは子らを連れて遊ばせながら、畑の草引きをしていた。喜三郎は木切れで、土に絵をかいて遊び、由松は大人の真似して草を抜いていた。賀るが急に世祢の袖を引き、由松を指さした。吉松も何事かと、由松の無心の所作を眺めた。四歳の由松が草を抜いては口にくわえ、一杯になると畑の外へ行って吐き出した。その動作が祖父と酷似しているではないか。潔癖な祖父は、畑で草を見つけると必ず引き抜いて、口にくわえたなり畝の終わりまで耕していって、野路へ吐き出す。「けったいな癖や」と家族はおかしがったものだ。 祖父を知るはずのない由松が……大人たちが息をつめて見ていると、由松はくるりと振り返り、しわがれ声で叫んだ。「俺がわかったか!……」 祖父の声、祖父の顔であった。先代吉松の再生に違いない。祖父の心残りの仕事、つまり残った僅かの資産をなくすべく、遺言通り生まれかわってきた――大人たちはその予感に怯えた。
 秋も深まったある日、吉松は喜三郎を連れ、久しぶりで川辺村船岡(現京都府船井郡園部町船岡)の佐野家へ里帰りした。目あては翌日の産土神社の秋祭りであった。参詣後、境内の草相撲や道化芝居を楽しんで、親子は、八木の近く吉富村大字雀部の漆さしの家へ立ち寄った。無病息災を願って、喜三郎の腹部へ十数点の漆をさしてもらった。 道々、喜三郎は痒さのあまり掻きむしった。穴太に着いた頃には、体一面に漆がひろがっていた。父や由松と違って、喜三郎の肌はきめが細かく、梅の花びらのような色であったから、あまり丈夫でなかったに違いない。体全体がはれ上がり、瘡になって、ついに身動きできぬほどになった。息災を願う親心が仇になった。 吉松は沢がにや泥鰌をとってきた。宇能が沢がにをすりつぶして体に塗ったり、生きた泥鰌を体熱でぐったりなるまでなすりつけたりしたが、頑固なかぶれは治らない。翌明治十一年春、学齢に達しても小学校へ行くことはできなかった。この時の漆かぶれの痕跡は、生涯腹部から消えぬぐらいひどかった。 明治十二(一八七九)年三月、三男幸吉が生まれた。世祢は弟二人に手をとられ、喜三郎の世話はほとんど祖母宇能にゆだねられた。宇能はつききりで、学校へ行けぬ喜三郎のために仮名から単語篇・小倉百人一首と順次教えこんだ。すでに新聞も読める喜三郎であったが、基礎の書き順から学ぶことに意義があった。記憶力と理解力はすばらしい。一度聞けばきちんと頭に整理され、しまいこまれた。「喜三や、お前はたしかに只者と違う。血は争えんというが、ほんまやなあ」「応挙はんの七代目やろ」と、無邪気に喜三郎は祖母を見返す。宇能は半ばうなずき、半ば否定して、「それだけやない。お前の体には高貴な方の血が……天子さまと同じ血が流れている」「そら……誰かて天子さまの子供やさけ」 打てば響く喜三郎の言葉に、宇能は黙した。それ以上は言えぬ。いつもそこで切れる話題であった。 宇能は喜三郎に独特の教授法を試みていた。孝道から受け継いだ言霊学の知識を傾けて、この非凡な孫にそそぎ入れた。瘡でふくれた面容怪異の体を横たえ、わずかにのぞく糸のような眼を光らせる九歳の孫と六十六歳の白髪の祖母。二人の間にしか通じぬ言葉のやりとりを聞きながら、父吉松は「水のみ百姓の伜にそんなけったいな学問などいるけえ」と宇能の情熱を笑った。百姓は体が丈夫で働けたらよい、なまじ学問など邪魔っけやと吉松は信じこんでいる。やがて宇能の教える知識は底をついた。 近所の同年の友上田和一郎が来て、病床の喜三郎に告げた。「喜三やん、学校てほんま恐いとこやぞ。ちょっとよそ見したらのう、先生がこんなごつい鉄棒でどつきよる」「ほんまけえ。無茶しよるのう」 喜三郎は友の誇張した話に脅え、学校に行くのはかなわんと思った。
 二年余べったり寝て、明治十三(一八八〇)年数え年で十歳の早春、頑固なかぶれも、かさぶたがはがれ落ちて治り、喜三郎本来の白い地肌があらわれた。手も足も長い束縛から放たれ、自由をとり戻していた。 父に連れられて、初めて小学校へ向かった。行く道々は梅花がかおった。肌をなでる風すら春を告げる。喜三郎は踊り上がった。それでも足りず、雪をかぶった愛宕の峰に胸をはって、「アーオー」と喜びの言霊を発射していた。父はあわてて息子の口をふさぎ、いかめしく訓戒を与えねばならない。「ええけ、学校行ったらのう、よそ見したらあかん。小便しとうても我慢せい。居眠り、絶対するやない。いまみたいに変てこな声あげてみい、いっぺんにこれや」 父は拳固を頭上にふり上げてみせる。和一郎の話と思い合わせ、喜三郎の喜びは萎えてしまった。
 当時の曽我部には、明治六年七月より穴太に偕行小学校、寺村に養正小学校があった。穴太・南条・西条・重利の四部落が偕行校、他の五部落が養正校に通った。喜三郎の通った偕行校は穴太寺境内にあった。 その頃の穴太寺は、全国にまたがる西国めぐりの巡礼で賑わっていた。亀岡の殿はんが五万石であるのに、穴太寺は十万石待遇を誇っていた。街道の道筋には、巡礼や参拝めあての白木屋・紅葉屋・河内屋・万屋・伊勢屋など十三軒もの宿屋が並び立ち、穴太口の近く巡礼橋まで客引きが出て、客を奪いあった。 穴太寺裏門前の万屋では、冬期、雪国の青森・山形方面から詣でる客のために、一晩五斗の米を炊いたこともあると言い伝えている。昭和四十四年に米寿を迎えた万屋の隠居斎藤ゆたが十八歳で嫁に来た明治三十二年頃は、まだ紅葉屋・河内屋・万屋の三軒の宿屋があったが、汽車が亀岡を通り、観光バスが寺まで乗りつけてくるようになると営業が成り立たなくなり、昭和二十年の万屋の廃業を最後に、穴太から宿屋は消え去った。 偕行校は、その穴太寺の華麗な多宝塔と向き合う松の木の間の念仏堂を教員室にあて、続いて大きな木製の衝立で仕切った四間の教室をつくり、各学年を収容していた。といっても、全学年を通じて三十人ぐらいの少人数であったらしい。 当時の小学校の制度は満六歳から満十四歳の八か年で、上下二等四年ずつに分け、各自八級から一級に至った。六か月間を一修学期間とし、春秋二季に試験があり、能力に応じて八級から順次一級に進ませる制度で、一級を卒業する時に大試験を行なった。喜三郎は、入学が途中であったためか、初めは下等八級の下の等外であった。同年の子より、三年おくれていた。 校長は亀山旧藩士出口直道、先生はやはり亀山旧藩士吉田有年。他に書記兼小使いの亀やんこと斎藤亀次郎がいた。校長と吉田がかけ持ちで、こちらの教室で読本の一節を読むと、直ちに隣の教室へ走って算術を教えるという調子であった。だから先生の姿が衝立のかげに消えるとすぐ騒ぎがおこり、喧嘩がはじまる。 等外の席にいる喜三郎には、授業が幼稚すぎて苦痛であった。毎日阿呆みたいに片仮名である。つい居眠りが出ては吉田先生にののしられ、指示管で頭をなぐられた。 ――和一郎の話は嘘やなかった。しまいに鉄棒でしばかれるかも知れんぞ。しばかれるのん、親父だけでたくさんや。 鉄棒で吉田先生に頭を割られる幻想が喜三郎の登校の足をすくませた。登校途中で和一郎たち悪友をそそのかし、山へ逃げて遊んだ。退屈で窮屈な席に怯えて坐っているより、山をはね廻り川で魚をとる方が、よほど生甲斐があった。弁当を食べ、下校の時刻をみはからって家へ帰った。習慣になった。 そんなある日、吉松は帰宅したばかりの喜三郎の風呂敷から小学読本を抜き出し、「読んでみい」と言った。吉松はもともと、高い月謝をはらって息子を小学校へやることなど、大反対であった。しかし宇能と世祢が強く主張すると、養子の身でそれ以上はさからえなかった。意に反して小学校への通学という贅沢を許したからには、それだけの効果を性急にたしかめたかった。 喜三郎は、仮名文字ばかりの読本を開いて、生まじめに父の前に立った。決して文字の読めぬ善良な父をだますつもりはなかった。まして恐い父を馬鹿になど……しかし戸長に新聞を読み聞かせる身が、いまさら小学読本でもなかった。どうせ読むなら、退屈な読本より面白い物がええやろう。さて何を……。 その時、喜三郎の頭脳の片隅にたたみこんであった古い読売り瓦版の一頁が、運わるくぱらりと目の前にひらいたのだ。気がついた時には、口はなめらかに先を読んでいた。「お髭ばかして調練させて、薮で狸が腹だいこ……羽根をつく子はひとごとふたご、どこのお髭の嫁ごだろ……金がありゃこそお髭のちりを、はらうつらさも間夫のため……顔のきれいな狐にあえば、鉄砲打つ身もだまされる……恋の重荷を山ほどつんで、色の港へ通い船……」 文字通りの意味しかわからぬ子供である。調子にのって読み上げるのをふんふんと感心して聞いていた吉松は、顔の紐をほどいて笑いかけ、慌ててぐっとこらえた。「もうええ、なかなか上手に読めるようになったのう。続きはまた明日や」 息子を放免したが何やら落ち着かぬ。「こうっと、色の港へ通い船……か」 くり返してみて愕然となった。「こ、こりゃ都々逸やんか。学校では何ちゅうこと教えさらすのや。高い授業料とりくさってからに……」 癇癖の強い吉松である。勢いこんで学校へどなりこみ、吉田有年の胸倉しめ上げた。だがやがて、癇癖を二乗にして走り帰る。読本で風流の道など教えぬこと、喜三郎はさっぱり学校へ顔出さぬことなどを逆に説教され、赤恥かいたのである。帰るやいきなり、喜三郎の額に煙管の雁首をくらわした。「先生ならまだしも、親までだましくさって、こ、この餓鬼め」 二度目が落ちぬ先、喜三郎の体は庭をつっきって道にとび出していた。おでこから流れ出る血を手で押さえながら、つい目と鼻の先の金剛寺へかけこんだ。 金剛寺は臨済宗天竜寺派、本尊仏は釈迦如来。円山応挙が九歳の時にこの寺に入門、仏弟子となったことで有名で、応挙寺とも呼ばれる。天明八年、祖先及び両親の追善供養のために、本堂の襖に寄進画をえがいている。 本堂は黄昏の暗さであった。奥の間にかくれ、しんと鎮まり返った中で、喜三郎は傷の痛みにすすり泣いた。暗さに慣れた目の前に、お釈迦さまが坐している。涙の眼で左を見、右を見て、喜三郎は泣き声を止めた。「金剛寺の奥の間にこわい部屋があってのう、夜半になると物すごい波風の音がするそやぞ」と、村の誰かが言っていた。するとこの部屋が……。 正面の連絡する襖一面の絵から不思議な轟きが湧きおこる。岩をかんでくだけ散る波涛、風が波浪を呼んでうねる。その無音の呼号に息をつめ、喜三郎は祖母のいう言霊を思った。仏壇の向かって左に山水図、対する右にはひょうひょうとした仙人の群が裾をなびかせ、霞の彼方から朱色の口唇で語りかけている。喜三郎はその言葉を聞きとろうと、ひざまずいた。 と、襖がひらいて、仙人ならぬ和尚が入ってきて眼をむいた。「誰じゃ、そこにいるのん」 父吉松に負けぬ怒声であった。和尚栗山禅味、この年五十五歳。「これ、誰の絵や」、と喜三郎が襖をさす。襟首つかんだ禅味は、少年が上田の小伜であることに気がついた。よく境内にいて、顔さえみれば、「これは何」と聞きたがるおかしな奴だ。禅味は言った。「応挙の絵じゃ、円山応挙――」 喜三郎は、絵に眼をすえたまま沈黙した。応挙はん、主水はんと口癖に祖母がいい、家の古長持には応挙の習作が一杯あるが、こんな見事な絵は初めてみる喜三郎だ。「そう言えば、上田の家は応挙の出た筋やてのう」「ふん、七代目がわしや」と、当然のように喜三郎は言った。「絵は好きこ」「好きやけど、