表題:唐行き 5巻1章唐行き



「姉さん、久姉さん、あけてくれやい、母さん連れて来たでよ」 表戸を叩く音にまじって、絶え絶えに人の声――。「伝吉兄さんの声や。母さんが来ちゃった」 澄ははじかれたように起き直った。奥の間でまだ寝ずにいた福島寅之助も久も立ち上がった。 真っ暗な帳場にはだしでとび下り、澄は手探りで表戸の心張棒をはずした。闇夜で小雨が降っていた。表戸の開くのを待ちかねたように、黒い人影が固まってよろめき入る。久が手燭をかざすと、伝吉が、額に脂汗を浮かベ萎え坐りこむ母をやっと支えていた。 寅之助が直を抱き上げ、澄が泥にまみれた母の草履をぬがせる。久は着替えを出してきて、雨と泥にぐっしょり濡れた直の単衣を脱がせ、手早く着せかえて蒲団に寝かせた。 ものが言えぬほど直は弱っていた。日頃の労働で日に焼け節くれ立っていた直の手足も、別人のように蒼白かった。澄も久も言葉をのんで母を見つめた。 明治二十六年六月二日――家屋敷いっさい失った代償に座敷牢を解放され、綾部から八木へと十五里の道のりを、半ば伝吉の背に負われて辿りついた直であった。汗と共に疲労がふきこぼれるかのようであった。こんなふうに憔悴しきった母を見るのは、久にしても初めてである。嵐の朝も、吹雪の夜も、いつもしっかりと大地を踏みしめ、重い荷を背負って歩き続けてきた母が――。 伝吉は、姉夫婦や妹澄に鋭く問われるまま、母の四十日もの入牢生活を言葉少なに語った。物心ついた時には《父さん》と呼んでいた大槻鹿蔵が、実は姉米の夫であり、自分とは血のつながらぬ養父であることを、十七歳になった伝吉はもちろん知っている。しかし世間の人々に恐れられ憎まれる無法者の養父鹿蔵に、なぜか伝吉は逆らえなかった。養母である姉米が、狂いつつも結局は夫鹿蔵の庇護のもとにしか生きられぬように、伝吉にも、やはり父と呼ぶ人は彼のほかにない。時に憎み、恥じつつも、鹿蔵への世間の悪罵を自分の身に痛く受けとめて大きくなった。 拒む母を無理に背負って、渾身の力をふりしぼってここまで連れて来たのも、鹿蔵が直を牢に押しこめ、あげくに家屋敷まで売り払ったむごい仕打ちを、ひそかに償いたかったのだ。 翌朝、母を八木に頂けたまま、伝吉は重い足を綾部へ返していた。
 梅雨期であった。寅之助も久も、三反の小作田の植えつけの準備で朝早いうちから苗取りである。農繁期のあわただしい空気が村中にみなぎっていた。数えで十一歳の澄が、半歳になる久の次女いとを背にくくって、昼の握り飯と土瓶を両手に下げ、母へ笑顔を残して小雨の中を出ていった。 八木に引き取られた澄は、近所のあちこちに子守りに雇われていた。当時はべったりと子守りを雇う家は少く、忙しい時だけ二十日とか五十日とか臨時に雇う。澄は魚屋、宿屋、酒屋、そして隣の彦兵衛の家にも奉公して歩いた。今はちょうど農繁期で、澄は福島家の農事の手伝いに帰っていたのだ。 直は気丈にも起き出して、床を上げた。まだ出口家へ入る前、叔母ゆりの死霊に怯えて四十日も生死の境をさまよった時以来、寝込んだ覚えのない直であった。生きている限り働き続けねば、晏如の心は得られぬ。身を清めて神前に座し、祈りを捧げ終わると、台所の片づけに土間に下りた。 福島家の苦しい暮らしを見ると、うかうかした日は過ごせない。まだ体力の回復せぬ十日後には、直は北の庄など八木近在の村々を廻って糸引きし、自分と澄の食い扶持だけは稼ぎ出そうとする。しかし四十日の座敷牢生活で体がなまり、労働が苦しかった。 七月に入りようやく体力が回復した。しばらく治まっていた直の発動が始まる。また途方もないことを叫び出して、町を彷徨した。「来年春から、唐(支那)と日本の戦いがあるぞよ。この戦は勝ち戦、神がかげから経綸いたしてあるぞよ。神が表にあらわれて手柄いたさすぞよ。露国からはじまりて、もうひと戦あるぞよ。あとは世界の大戦いで、これからだんだんわかりてくるぞよ。この世は神国、世界を一つにまるめて、一つの王でおさめるぞよ」 春には直の透視に驚いた人々まで、「なに今ごろ、戦争などあってたまろうやい。へえ、唐やら露国やらとやて。ははは……これは、なんぼお直婆さんかて、あたるもんけい」と言って嘲笑いあった。 無理もない。まだ日本は、戦争と名づけるほどの本格的な外国との戦いを知らなかった。この時期、いかに日清戦争の危機を叫んでも、民衆には噴飯でしかなかった。 京都では、二年後の第四回内国博覧会の京都開催をひかえていた。第一回から第三回まで東京に独占されていたのに、恒武帝平安奠都千百年を機に、ついに京都岡崎に決まったのである。九月には内国博と奠都千百年の記念事業の一つ、「大極殿」造営の地鎮祭がおこなわれる。「記念祭じゃ、奠都、奠都……」と京都市のお祭り気分は、丹波にも波及していた。現に久まで、内国博の人出をあてこんで、山陰街道筋に茶店を出すことを真剣に考えていた頃である。 直は、八木の本郷にある、屋号を北宗という秋田宗之助の家で糸引きをしたことがあった。 その近所で育った少年波部理一郎は、ある夜、糸引きを終った直が井戸端で野菜を洗っているのを何気なく見ていた。 直は理一郎にやさしい声で語りかけた。「ぼんよ、ぼんよ、もうすぐ日本と支那の戦いがあるで、日本が勝つように神さまにお願いせんならんから、なまぜん(神饌物)を用意しておりますのや」「ほんまか、支那と戦争が、へえ?……」 直はりんと眼を見はったままうなずく。理一郎の驚きは強烈だった。子供心にもこの時の直の言葉が脳裡に鮮やかに焼きついて終生忘れなかったという。 福島夫婦にとっては、直の予言に驚いたり笑ったりではすまされない。半信半疑のうちに夫婦は相談し、日頃信ずる金光教の大先生に調べてもらうことにした。 八月二十六日、福島寅之助は、直を連れて京都島原の金光教へ向かう。教会長の杉田政治郎は日清戦争の予言を聞き、一笑に付した。一時は予言の実現を信じかけていた寅之助も、それ以来、直に対して急に警戒気分を強めた。「母さんに憑いとってん神さんも、よいかげんなものやなあ」と久はこぼした。 近くの鹿草で質屋と壷屋(丹波焼き)をしている秋田兵右衛門の妻かなが近ごろ生き神とあがめられ、信者を集めて得意顔なのに引きかえ、愚にもつかぬ予言をふりまく母が、久にはくやしくってならぬ。 昨年の夏、直が亀岡の井づ源へ糸引きに行く途中、八木に立ち寄った時のことである。質屋の女房秋田かなが直の神憑りを羨望して言った。「うちんとこもなあ、ちょっと稲荷さまに因縁ある家柄なんえ。ほれでお祭りもして拝んどるのやけど、ちっとも憑ってくれはらへん。お直はんみたいに、うちの体に憑ってもらうのん、どないしたらええのやろ」「そうですなあ。金神さまは因縁なしにはお憑りやないが、稲荷さまならちいと熱心に信心なさったら、じっきに憑りなさると思いますがなあ」「ほな熱心に信心してみるさけ、ちょいとすまんが、いつ頃稲荷さま憑ってくれてか、金神さまにお伺いしてえな」 真剣な口調である。直は仕方なく目を閉じる。この頃は、心に念ずるだけで、ふっと瞼に映じるものがあった。「来年の一月頃には稲荷さまが下りなさるで」 直の予言通り、今年の一月中頃に、かなの肉体に稲荷が憑った。おそるおそる伺いをたてるとぴたりとあたる。となると商売は主人まかせ、にわかに装束をつけての生き神さま、半月たつやたたずで稲荷の教導職の資格を受け、伺いにくるものがひきもきらない。 顔つきまでお狐さまに似てきたかなが、久に会う度に誇らしげに言うのである。「あんたの母さん、どないや。せんど前から艮の金神はんたらが憑っとってやのに、まだ先生にもようならんと、ぼやぼやしとってんかいな。金神はんて力ないなあ。うちはお直はんより大分あとじゃか知らんけど、いまではお装束きて、お式に立つようになったんやで」「そうですか。わたしの母さんは、装束きてお式に立つことを喜ぶ人とは、ちと違うような気がしますわな。今度、八木に来ましたら、母さん連れて参拝させてもらいますで」 久の皮肉も、有頂天のかなには通じた気配もなかった。「そうや、それがええわ。うちが見判けたげるさけ」
 未だに着たきりの貧しいみなりで出稼ぎに歩き、唐がどうじゃの改心せいじゃのと所きらわず叫びまわる母を見ると、久はつくづく情けなくなる。「まだ先生にもようならん」と言うかなの言葉が思い出される。かなのいう通り、母に憑いた神はそこらの稲荷より低級な力しかないのかしらんと思われてくる。 久は思いきって母に言った。「母さん、質屋のかなさんなあ、母さんの言うちゃったみたいに、いまはお稲荷さんの偉い先生になっとってやで」「そうやげななあ」「お伺いがよう当たるんやって。信者はんがえっとできとってやわな。いっぺん参拝しちゃらへんか。わたし、お供させてもらいますさかい」「なにが都合になるやら知れん。そんならお参りさしてもらおかなあ」 秋田家は、久や澄が一時奉公した旅館桝屋の先、山陰街道に面した六間間口の町家風の大きな家である。土間の暗い通り庭を過ぎ広い裏庭に出ると、赤い鳥居と立派な稲荷の祠がある。そのそばの六畳二間ほどの離れ座敷には、入りきれぬほどの参拝客が賑わっていた。直と久はその背後にそっとひかえる。正面の一段高い台に坐り、白装束に緋の袴をつけた秋田かなは、身を震わして伺いを立てていた。しばらく合わぬ間に、大柄なかなが一層大きくなったかに見えた。 参拝者の方に向き直ったかなは、荘重な口調で託宣を伝え始めた。が、直と目が会うなりしどろもどろになり、せわしく両手を振って一同に宣した。「お稲荷さまは急用を思い出しなはって、いまから旅に出てんや。どなたはんも参拝だけして、今日は帰んどくれやっしゃ」 久は中腰になって抗議した。「おかなはん、あんたが母さん連れてこい言うてくれちゃったさかい、今日は糸引き休んで参拝さしてもらいましたんやで。どうぞちょっとでよいさかい、母さんの神さんが何神さまかだけ、伺うて見とくれなはれ」「無茶言わんといて。お稲荷さんはもう遠くへ行っちゃったわな。今から呼び返そうにも、声が届くかいさ」とかなはそそくさと奥へ行きかける。直はすっと立ち上がるや、腹に響く声で大喝した。「稲荷どん。下がらっしゃれい」 かなは腰が抜けたのか、這いずって逃げこむ。参拝者は度肝を抜かれて立ちすくんだ。 この事件は、久の口から、すぐ夫寅之助に報じられた。「やっぱり稲荷はんより、金神さんの方が、なんぼか力があるようですで」 寅之助は腕こまねいて考えこむのだった。 その夜、寅之助は、箪笥の奥から古びた銀側の懐中時計を大切そうに取り出し、直の前に置いた。「義母さん、この時計みとくれえな」 直はいぶかしげに時計を手にする。「ほう、古ぼけた時計やなあ」「もともと質流れを安うで買うたもんやさけ、何べん時計直しにやっても、じきに止まっちまいよる。神さまのお力で直りまへんか」 神を試すつもりであった。直は静かな眼で見返し、「それはやすいことじゃ。その時計、神棚へ乗せときなされ。そのかわり、わたしにもお願いがあるのやが……」「へえ、わしのでけることやったら、なんでもやらしてもらいまっせ」「鹿蔵の家に、天照皇大神宮の掛け軸と神さまからいただいた刀が預けてあるのや。それを鹿蔵いうたら、ごみ屑と一緒くたにして、えろう粗末に扱うてござる。それで何とか取り戻して、八木で大事に預かっておくれ」「お安いご用や。さっそく手紙書いてやりますわ」 寅之助はまず時計を神棚にのせ、久に筆紙を用意させ、その場で手紙を書き始めた。と、神経のせいかどうも神棚の上からカチカチ音がする。筆を投げ出し、時計を手にとる。右の耳にあて、今度は左の耳にあて、秒を刻む音を確かめる。久も同じ仕種をくり返し、眼をまるくした。「なしたことだっしゃいな。あんた、動いてますで、ほんまに動いてますで」「ほんまや、ほんまや。時計は神棚に上げたままやで、誰も手え触れてはおらんのう。待てよ、さっきまで、ほんまに針は止まっとったかいな」と寅之助は時計をいじくり廻しながら、首をひねる。 直の透視力を信じている夫妻にも、今度の驚きは直を通して神の力を認めた驚きで、全く異質のものであった。「こんなあらたかなお方、気違いにしてはもったいない」 この日以来、福島夫婦の直に対する態度は一変した。母としてより、神を宿した人として、畏れ敬うようになった。信徒第一号といってよかった。「それきり、もうあの時計は狂いませんでした」と後になって久は当時の光景を追懐する。「わたしどもがご神力の激しさに気がついたのは、まずこれなどが初めでございました」 寅之助から鹿蔵への手紙の応答はついにない。寅之助は憤慨した。「こんなこってはどもならん。八月の盆休みには綾部まで出かけて改心させ、刀と掛け軸は取り返してきますわい」 できれば直は、福島夫婦や澄と共に、このまま慎ましく生きていたかった。だが貧しいながらも、澄と共に暮らせる平和な日々は短い。「直よ、澄を連れて早う帰ね」 神は、しばしの親子の平安も許さぬように、激しくせかされる。
 九月十三日、神命のままに、直は澄をともない三月ぶりに綾部へ向かった。帰ったとて、住む家はなかった。どんなに邪魔にされようと、行く先は大槻家より他にない。 直の重い心も知らず、澄は嬉々として母との道中を楽しんでいる。和知に入ると、大きな丹波栗が点々と山道に落ちていた。歓声あげて、澄が走り寄る。「やめな、お澄、持ち主があるかも知れんでなあ」 たしなめる直の声はやさしかった。「はい」と答えて手にした栗をはなし、澄はまぶしげに栗の木の梢を仰いだ。半ばはじけた毬の中から、つややかな栗が幾つも幾つも今にもこぼれそうにのぞいていた。 大槻家に帰ると、米はまだ座敷牢の人であった。鹿蔵は、手足の指がどうしたわけか縮こまったまま、苦痛に顔を歪めていた。「八木からわざわざ言うてやったのに、刀とお掛け軸を粗未にするさかいや」と直は言い、床の間を清めて水を供え、伏し拝んだ。「このお下がりの御神水いただきなされ。三日目には治るで」 二日目になっても激しい痛みは去らず、指は曲がったなりである。鹿蔵は眼をむいて、直にくってかかった。「こんな阿呆げたことは、もう止めじゃ。水のんだぐらいで、なに治ろうやい。もちっとましな薬買うてこんかい」 澄が粥を口元まで運んでやったが、肘ではねとばして泣きわめく。「どいつもこいつも失せてしまえやい」 三日目の夕方から、鹿蔵はぐっすり眠った。痛みも消えたのであろう。指はかなり伸びていたが、ちょっとのところで真っ直ぐにまで伸びずじまいであった。「せっかく神さまがお霊験をやろうとなさったのに、疑うたばかりに、もらえるお霊験をようとらんと……」 直は憐れむように言ったが、耳の遠い鹿蔵に聞こえたかどうか。
 澄は鹿蔵や狂った姉米の身の廻りの世話に追われ、近くの四方家にいる姉龍を訪ねるひまもなかった。伝吉は福井へ転出した友人の四方鹿造を頼って機織りの修業に行き、もう大槻家にはいなかった。 直は元のようにぼろ買いや糸引きに歩いたが、その実、人助けが主であった。病人の治癒を祈り、悩みを聞くというふうで、おのれ一人口は養えても、澄の食費代まで稼ぐことはできない。 大槻家は、「綾部一」とはやされた豪勢な暮らしも昔の夢となり、今はただ食うことにすら汲々としている。大槻家に移って間もなく、直はまた、澄の奉公先を探さねばならなかった。 やがて四方源之助の仲立ちで、澄は妻三津恵の実家、本宮から一里半ばかり西の福知山との中間辺にある私市の豪農、大嶋万右衛門宅に奉公することになった。 公孫樹の黄金色の葉がしきりに舞い落ちる。稲刈り前の田んぼには、雀の群を横眼でにらみ両手を広げた案山子が傾いでいる。この先の澄の行を思いやれば、滅入りこみそうな淋しさに沈む。その心を無理に引き立て、快活をよそおいながら、直は澄の手を引き、歩く。 鳥ケ坪にさしかかると、顔馴染の茶店の主人岡某が声をかけた。「お直はん、どこ行ってんじゃいな。休んでおいき」「へい、よいお天気さんでして。娘を私市へ奉公にやりますんで、ここまで送って来ましたんじゃな」「そんな小さな子をかいな。まだ私市までやっとあるさかい、一服しなはれ。ほっこりするで」「ご親切さんに、ありがとはんでございます。そんならちょっと店先お借りして、足腰休ませてもらいますわなあ」 母子は、うす暗いひんやりした土間で、主人の好意の番茶をすすった。王子以来、澄はこうした街道の店先に立って、旅人が休んでいるのを見るのが楽しみだった。が、今は見る側ではなく、ちゃんと店に坐って――それも母さんと並んで坐って茶を飲んでいる。澄はその喜びで足をぶらぶらさせながら、たったいま近所の友だちの誰かが通りかかりこの光景を見ていてくれぬのが、残念でならなかった。 子供が一人店先に走りこみ、「ヘーい、どんぐりおくれい」と叫んで、おあしを置いた。 澄の目は一点に集中して動かなくなった。子供は、どんぐりという、その名に形の似た大きな飴玉を口に入れる。一度になめきってしまうのが惜しいのか、舌で飴を半分口の外へ押し出し、またふっと吸いこむ。のどをつまらせて噎せながらも、楽しげにその動作を反復する。暗い口腔から半分外へ出た飴玉は、唾にぬれ、澄明な秋の光にふれて、鼈甲色にすき透っていた。 同じ仕種を、王子のいしや平太郎がしていた。只の一度も腹を満たしたことのない、王子での澄の目前で。とびかかって奪いたい、激しい衝動を堪えてきた。姉琴の鋭い視線に身を縮めて。けれど、ずたずたに引き裂かれ、血のにじむ心で、澄は何度叫んだろう。 ――あの飴玉一つ口に入れられたら、どんなに打たれてもかまへん。 子供が走り去ると、澄は引きつけられるように店先の一文菓子箱のそばへ行った。 茶店の主人の世間話を聞き終わって、直は娘を目で探しあて、はっと全身をこわばらせた。澄が、直のかつて知らぬ餓えた性悪な目つきをして、一瞬の間に菓子箱の飴玉一つつかみ出し、さっと表へ走り出たではないか。 直はとっさに主人に向かって、「おおきに、えろう御馳走はんになりましてございます。子供が飴玉を一つよばれましたさかいに、お代をここにおかしてもらいますで」 ――盗みや、今うちがしたんは……。 澄は血がすうっと引くのを覚えた。母の声が遠くでしたが、その顔を仰ぎ見ることはできなかった。どんぐりは甘く口中にひろがっていた。けど、その味すら、今は恐ろしく厭わしい。 ――どうしよう。 やみくもに走って逃げたかった。すくむ足を歩一歩やっとのこと歩ませた。「藁すべ一本でも、他人さまの物に手をかけてはなりませぬぞ」と幼い頃から母にきびしく言い聞かされてきた澄であった。 鳥ケ坪を過ぎて少し行くと、母は追いついて、やさしく澄の背に声をかけた。「お前に飴玉一つ買うてやろうとせなんだ母さんがわるかった。こらえとくれよ」 澄はふり向きざま、飴玉を吐きすてて母の胸にとびついた。 ――わるいのは母さんやない。うちや。もうせん、もうせんさかいこらえて。 言葉にならぬ鳴咽に噎んで、しがみついた。「神さまはどこにいても見てござるでのう」 祈りをこめて、直はふるえている澄の背をなでた。娘は幾度もこっくりとうなずいた。 ――あれでよかったのじゃろうか。もっときびしく叱らいでもよかったのじゃろうか。 私市への岐路に立って、去り行く娘の小さな後姿を見送りながら、直の心は激しく揺れた。潔癖すぎるばかりの直である。以前なら、どんなにきびしく叱りつけたであろう。だが今の直にはそれができぬ。王子での暮らしが、天真な幼な心を曇らせたのであろう。純な子供の心は逆境にもみくちゃにされ、知らぬまにおかされ、荒んでいく。それと知りつつ、娘を手ばなす。 せめて奉公先まで送り届け、主人によく頼みたかった。だが神は、それを許されぬ。福知山へ初めて奉公にやった時、数えでわずか七つの澄の手首に住所を書いた紙片をくくりつけ、一人で行かせた。あの時も、そして八木へも、王子へも、直はついて行くことを許されなかった。神さまは、どこまでも澄一人で歩かせようとなさる。小柄とはいえ澄はもう十一歳。まだあの子の苦労は足らぬのか。わたしの苦労で補うことはできぬのか。 澄の前途を神にゆだねて、ただ神に縋るほかはない直であった。
 この年の冬から翌二十七年春にかけて、綾部近在では、直に病気を治してもらい、その力を信ずる人が多くなった。「この方は病気治しの神ではないぞよ。なれど今のうちは病気も治してやらぬと、この神をよう見分けまい。病人は拝んでやれ、お霊験はやるぞよ」 どの教団の歴史をふり返っても、開教期は病気治しや商売繁盛などの現世利益で多くの信者をひきつけたようである。発展のためにはやむをえぬ開教期の教団の宿命であろうか。艮の金神はそれが不満であったのか、「この方は病気治しなどのちっぽけな神ではないぞよ」としばしばことわりながらも、現世利益のお神徳がたっていった。 そしておそらくこの時期から、筆先が直によって書かれている。明治二十六年の五月、座敷牢の中にあって神命のままに柱に釘で書いたのが筆先の濫觴であったが、実際に筆を持って紙に書いたのは、八木から帰った二十六年秋以降と推定される。八木にいる期間に筆先を書いたという資料はない。年月日が記入された現存する最も古い筆先の写しは、明治二十七年旧四月八日の物で、それ以前の筆先は内容によって年月を推定するばかりである。 筆先の始まる前後の経緯について、直の語った言葉を、明治三十三年入信の田中善吉が書きとめているが、それには無学文盲の老女が、自分でも判読できぬ文字を神命のまま自動書記的に筆記した模様が述べられている。「わたしは何も知らぬので、どうしたらよいやろと思うておると、『直よ、紙と筆と墨を買うてくれい。わしが書くから、お前の手を借るだけじゃ。……紙一折二銭と筆一本二銭、墨一本三銭……』と言われるゆえ買うてきましたら、墨をすれと言われ、筆を持てと言われるゆえ持ちましたら、紙の上にひとりでに字が書けて、わたしは読めませんから人さまに読んでもらうなれど、誰もわからんと言うてろくに見てくれもせず、読んでくれる人もない。けれどただ腹の中から、『直よ、筆先を書けい』と申されるから、わけもわからず書いておるうちに、ぼつぼつわかりかけてきたから……」 組頭四方源之助と妻三津恵は、筆先を見ながら小首をかしげた。「これはどうやら字らしいのう。お直はんなら、こないだまで代筆を頼みに来とっちゃったのに、急にいっかど字みたいな物を書き出しちゃったでよ。妙なこっちゃ」 直の無筆について語る人は多い。明治十六年前後、直と一緒に味方へ糸引きに通った四方石平の語り残した話によれば、「その頃、青野から一人、上野から一人、わしとお直はんと四人、同じ所へ糸引きに通ったもんやでよ。行きも戻りも、よう連れどうて歩いた。これぞというて感心したことも、また悪い行ないしちゃったんも見たことない、ごくふつうの人の良い女やったで。ほれでもふんとに無学とみえて、糸枠の一、二、三の符号もよう読んでやなかったわな」 このように、神憑り以前の直は、ひっそりとまことに目立たぬ存在であった。 大川下の位田の村上藤吉という百姓が生糸屋をしており、直はそこへも糸引きに通った。その村上の分家為八の娘お粂もまた、四方と似たようなことを語り伝えた。「藤吉はんが、『糸枠を持ってきて見せい』と働いてる女に言うてんことあるんですわ。糸枠には、めいめいの名と席順が書いてあって、糸にも小さく書いたるのや。けどお直はんは、その糸枠の見分けもつかなんだで……」 筆先を書き始めてから、直の激しい発動は静まった。しかし神霊が感応すれば、昼夜の別なく筆をとらされる。初めの頃は紙も自由に買えず、四女龍が裏の竹薮で拾い集めた竹の皮を金にして買った紙や、皺をのばした反古紙などに書きとめていたものらしい。 明治二十六(一八九三)年より直が数え年八十三歳で昇天する大正七(一九一八)年までの二十五年間にわたり書き続けた筆先は、実に半紙十万枚以上に及ぶ膨大なものとなる。 文字は平仮名が主体で、他に「五(ご)」・「九(く)」・「(ぐ)」・「十(じゅう)」などの数字が平仮名の代わりに使われているが、漢字は使用されない。また句読点もない。筆跡は独特の書体で読みにくいが、字体が初期も後期も活字で印刷したように変わりなく、文字の特色さえのみこめば、すベての筆先が読みこなせる。だから文字を知らなかった直でさえ、後には筆先の文字なら読めるのである。 われわれの目には稚拙としか言いようのない文字も、書家の中には、「六朝体に似た一種の風格を備え、凡人の筆蹟ではない」と賛嘆する者もある。また十万枚に及ぶ筆先のうち、書きなおしの個所が一つも見あたらぬのも特徴といえよう。 筆先の内容は、神の経綸、神々の因縁、大本出現の由来と使命、天地の創造、神と人との関係、日本民族の使命、人類への予言と警告など広範囲の間題について触れられているが、初期から晩年まで一貫して変わらぬのは、三千世界の立替え立直しの主張である。 直は机の前に端座して、きびしい表情で、「ぞよ」という強い助詞で終わる断定的な筆先を、蚕が糸をはき出すように書き続ける。初期の頃の筆先を抜粋しておこう(原文はすべて平仮名)。「三千世界いちどにひらく梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅でひらいて松でおさめる神国の世になりたぞよ」「この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。世界は獣の世になりておるぞよ。悪神に化かされて、まだ目がさめん暗がりの世になりておるぞよ。これでは世は立ちてはゆかんから、神が表にあらわれて、三千世界の立替え立直しをいたすぞよ。用意をなされよ。この世はさっぱり新つにいたしてしまうぞよ。三千世界の大せんたく、大そうじをいたして、天下太平に世をおさめて、万劫末代つづく神国の世にいたすぞよ」「神の申したことは、一分一厘ちがわんぞよ。毛すじの横はばほども、ちがいはないぞよ。これが違うたら、神はこの世におらんぞよ」「いずれの教会も先ばしり、とどめに艮の金神があらわれて、世の立替えをいたすぞよ。世の立替えのあるということは、どの神柱にもわかりておれど、どうしたら出来るということは、わかりておらんぞよ。九分九厘までは知らしてあるが、もう一りんの肝心のことは、わかりておらんぞよ」「根に葉の出るは虎耳草、うえもしたも花咲かねば、この世はおさまらぬ。うえばかりよくてもゆけぬ世、したばかりよくても、この世はおさまらぬぞよ」「世界くにぐに、ところどころに、世の立替えを知らす神柱は、たくさん現われるぞよ。みな艮の金神の経綸で世界へ知らしてあるぞよ」「谷々の小川の水も大河へ、末で一つになる仕組み。ここは世のもと、まことの神の住まいどころ」
 明治二十七年五月八日、朝鮮で東学党の乱がおこった。全羅道の農民が郡守の虐政に耐えかねて、革命的反乱を起こしたのだ。反政府を高唱する朝鮮の民族宗教である東学党の幹部全臻準はその先頭に立って、四方に檄をとばした。かねて李朝の悪政、外国人、特に日本人の横暴に憤懣やるかたなかった農民たちはいっせいに蜂起、槍と粗末な火縄銃を武器に、米人教官の訓育を受けた最新装備の政府軍部隊を破りつつ、いっきょに北上する。朝鮮政府はあわてて清国へ出兵を求めた。 五月三十日、日本国内では、衆議院で対外硬六派の政府弾劾不信任上奏案が可決、政府は絶体絶命の窮地に立たされていた。その二日後の六月一日、朝鮮政府が清国に救援を求めたとの急報を得、翌日ただちに出兵を決定、衆議院を解散した。まさに僥倖というべきである。都下の新聞論調も一夜で急変、対外硬は対清硬に切りかわる。 六月四日、海兵数百と一混成旅団を派遣する。かくて朝鮮という好餌を前に、日清両国はきばをむいて対峙した。 一年前には、直は「唐と日本の戦があるぞよ」と八木の町をふれ歩き嘲罵を浴びたものだが、まさに現実になろうとしている。 五月十一日(旧四月八日)、まだ東学党の乱の報さえ伝わらぬ前に、日清戦争を既定の事実として、直は筆先に日本の勝利を予言する。「この戦はかち戦、かみが出て働きて、日本へ手柄いたさすぞよ。ごあんしんなされよ」 六月になって、「直よ、五月八日(旧)に唐へ行ってくれい」と神命があった。この神示は昨年からあり、「種まきて、苗が立ちたら出て行くぞよ。刈りこみになりたら、手がらをさして元へもどすぞよ」と言われていたので、予期せぬことではなかったが、ついにその時が来たのである。「ほう、そらおもろい。唐なと天竺なと、どこなと好きなとこ行っちゃったらよいわな」 大槻鹿蔵は、直の無謀な旅立ちを聞いても、止めようとしなかった。これで厄介払いができるとむしろ喜んだ。 直に病気を癒されて以来、親しい友であり、信奉者の一人となった口上林村十倉の川端由五郎の妻ときが唐行きを聞いて、同行を申し出た。「お前はんのお供なら、天竺(インド)までもついて行くわいな。どうぞ連れてっとくんされ」「よいで。それでも神さまは、五月八日(旧暦)発ちせい言いなさるが、その日に一緒に出られますかい」「そらなんぼなんでも無理ですわな。いんま田植えがせわしないし、子供の始末もつけて行かんなんし、どこかで待っとってくれちゃったら、後から追いかけるさかい」「そんなら八日発ちは変えられぬさかい、わたしは先に出て、八木で待っとりますで」「きっとやで。わしを置いて、一人で唐へ行かんといとくれなはれや」 六月十一日(旧五月八日)、やっと工面した旅費五円を懐に、直は単身綾部を出発する。見送る者とてなかった。唐がどの方角にあり、どんな国で、いかに遠いかなど、直にわかるわけがない。ただ、「ほのぼのと出てゆけば、心さむしく思うなよ。力になる人、用意がしてあるぞよ」という神言が唯一のたよりである。力になる人とは、純朴な農婦川端ときのことか、あるいは全く別人か知るべくもない。とにかく出立しさえすれば必ず唐へ行きつくことを信じきっている。 それにしても、神に対するこの徹底した純真さを愚かと笑えようか。綾部周辺を歩いて病める者を助け、神力を次第に自覚してきた直であったが、この頃には神意を毫末も疑ってみようとさえせぬのである。 翌六月十二日、日本の韓国派遣混成旅団の先頭部隊は仁川港に到着、風雲ようやく急を告げんとしていた。 八木で川端ときを待って一月、神は、「六月八日(旧暦)に発てい」と命じる。明日は出立するという直に、福島久が怒り出した。「母さん、なんちゅう阿呆げたこと言うてんやいな。唐いうたら、清吉のおる東京よりまだまだ遠いげなで。なんせい海の向こうの外国やで。そんな遠方へ言葉もわからん母さんが行っちゃったところで、どんのいにもなりますかいな」「さあ、それでも神さまが言いなさることやさかい。唐には大事な御用があるじゃろうと思うのや」「そんなとはつ(常識はずれ)な。唐は日本の何層倍も大きな国やげな。もし戦争があったとしても、母さんみたいな年寄一人、どのい頑張っちゃっても、どうなるもんでもありまへん」「わたし一人やない、神さまと二人です」「二人でも三人でも、鉄砲も打てん者が幾ら行ったかて、えろう変わりはしまへん。どんなことあっても、わたしは反対やで」 寅之助は、まくしたてる妻を制し、思案深げにいった。「お久の心配もわからんではないが、そこをもうちょっと考えてみい。昨年の春頃、母さんが『唐と日本の戦争がある』言うて叫んじゃった時分、みなは馬鹿にしくさって、わしら世間狭したもんじゃわい。それが今日び、誰が笑うかい。きっと戦争はあるやろ。神さんの言葉に嘘あらへん。そやさけ、母さんは糸引きみたいなしょうもないことしてるより、唐でも天竺でも神さんの言うてん通り、行かはったらええやんか。もし母さんの白髪頭に鳶やら烏やらが下りてきて、どえらい光で照らしてみい。敵軍はまばゆて眼があけとられんさけ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出すわい。お国のためじゃ、こらどうでも母さんに唐まで行ってもらわんなん」 寅之助は自分の言葉に昂奮して顔を真っ赤にし、双眸を輝かせていた。 久はただ大きく吐息して、「そんな、あんたまで夢みたいなこと……せめておときはんが来るまで、もうちっと待ちなはれ」 子供がいて出にくいならこちらで預かるから早く来るようにと、寅之助が催促の手紙を出したばかりだ。久はなんとか言葉を尽くして、母の決意をひるがえさせようとする。「神さまが行かせようとなさったら、お前がどんなに反対しても行かせてやで。それに清吉が戦場に立つ前に……早よう戦が終わってほしい」 直はそう呟き、恥じ入るように目を伏せる。寅之助は息まいて、「それやったら心配あらへん。清吉なら近衛兵じゃもん、天子さまが動かはるまで大丈夫や。けれど八日発ちは縁起がよろしいで。八という字は末広がりで、結果のよいのはきまったる。なあ、お久、ここは人間心出さんと、母さんの門出を祝ったげよやないか」 翌七月九日(旧六月八日)、直は神示のままに八木を出発、亀岡の金光教会に立ち寄り、大橋亀吉と向き合っていた。大橋との最初の出会いは、明治二十三年の久の産後の発病の時である。明治二十五年夏、直が亀岡西町の井づ源や糸屋金助に来ていた折は、ひまがあれば教会へ参拝、教会長の大橋とはかなり昵懇になっていたのである。「わたし、これから外国へ行きますもんで、お別れにお参りさせてもらいに来たんですわな」と直が言うと、大橋は怪訝な顔をして、「へえ、そらなんでまた……外国というてもようけあるが……」「神さまは、唐へ行けい言いなさる故、どうでも唐へ行くことになるじゃろなあ」「唐といえば清のこっちゃ。清は物騒な最中やさけ、なんぼ神さまの言葉かて、今あわてて行かいでもよかろう。この暑いのに、とことこ歩いてなど……お直はんはようお霊験が立つそうなで、綾部へ帰んで人助けでもしてなはれ。どうや、あれからなんぼか人助けがでけたかいな」「はい、四十人ばかりになりますわな。屑買いのあいまに困ってる方があると拝ましてもらいますのやが、金神さまのおかげで、一ぺんきりで皆よう治ってですで」 にこやかな大橋の笑顔が消えた。目尻の無数の小皺がのびて、急に真剣な眼つきになった。この実直な老婆が法螺吹きなどでないというぐらいは、一昨年来のつき合いで承知している。屑買いのひまに真実四十人もの病気を癒したとなると、かなりな霊力の持ち主とみねばならぬ。 ――唐へ行くなど途方もないこと言うて、どこぞの教会へでも引っぱりこまれてしもてはどもならん。発展期のこの教会にとって、わしの手元におさえといて損のない婆さんに違いない。 大橋は、急に熱意をもって直の唐行きを引き止めようと努めた。しかしどんなに説得されても直は頑としてきかず、金光教を辞して、王子の栗山家にいとま乞いに急ぐのだった。
 七月十日(旧六月九日)夕方、待ちかねた川端ときが栗山家を訪ねてきた。ときは草鞋をぬぐ間ももどかしげに、土間から声高に話しかける。「ひっさお待たせしてしもてえ。やっと出てこれましたわな」「子たちがおってやで、大変でしたやろなあ。お達者でしたかい」「へえ、おうきに。あんたまあ、むさくさ(どうにかこうにか)しておりましたで」「唐行きの用意はできましたかい」「へえ、いつ眼えつぶってもだんないようにしてきたさかい。外国へ行くちゅうと、水盃やの何やので、せわしないこってしたわな」「刈りこみになりたら手柄さして帰すと神さまが言うてなさるで、稲刈りには間に合いますじゃろ」「それ聞いてますさかい、心丈夫にしとりますのや。行くなら早いがよろしな」「それなら神さまにお伺いしてみますで」 直とときは慎んで神前にぬかずく。青葉をわたる風が合掌した直の鬢を吹きぬける。やおらして直は振り向き、「もうじき日本と唐の戦争が始まるから夜半発ちして行けと神さまがおっしゃってですわい」「船に乗るんやなあ。わし、まだ海を見たことござへんのや」 はしゃぐ川端ときに、栗山琴が白い目をむけて言った。「それでおときはん、外国行きになんぼ旅費もって来ちゃったん」「神さんのお供やさかい、旅費などというもん、一文もいりまへんやろ。それでもせっかく唐天竺まで行くもんで、なんぞ値打ちな土産物など買うてこようと思うて……そんな物まで神さんに心配してもらうのも気ずつないし……」「それでなんぼ持っとってんです」「へえ、かき集めて一円ばかり……」「母さんが五円で、おときはんが一円、二人あわせて米一石買えしまへんなあ」 ――阿呆らしゅうて話にならんと、琴はぷいと席を立つのだった。 翌十二日未明、直とときは連れだって京都へ向かった。昼過ぎには京都に着き、ときの知り合いの天理教の教師宅をたずね、そこで一泊する。翌日、その教師と連れだって、天理教河原町分教会に行った。ときは直と知り合う以前から天理教に帰依し、教会にはたびたび出入りしていたのだ。 河原町分教会は、明治二十二年、深谷源次郎(一八四三~一九二三)の手で京都河原町二条下ルの地に設立される。深谷は《丹源》という鍛治屋であったが、明治十四年九月、八坂神社のお千度の日、近所の鋳物屋富川久吉に「匂いがけ」を受け、天理教に入信する。 翌十五年三月、箱火鉢の縁を作っている時、焼けたかねが右眼にとびこみ突き刺さった。深谷は二階へかけ上がり、灼熱する痛みをこらえて神前に座し、天理王に談判した。「天川屋理兵衛が男なら、深谷源次郎も男でござる。助けてくれはったら、あなたのために命を賭して働きます。どうでも助けて下はれ、ささ、治して下はれ」 すると、目を押えている指の間から涼しい風が吹きつけ、痛みが次第にやわらいでくる。神力にふれた彼は、直ちに二人引きの車で丹波市町のお地場へかけつける。熱心な祈りの効あってか、旬日にして全快、彼は天理教の布教に熱中するのである。 直とときは七十二畳敷きの大広間に通された。そこには六人の先生がいて、興味深げに唐へ行くという二人の女を取り囲んだ。ここぞと直が艮の金神について語っていると、教会長の深谷源次郎が奥から出てきた。「ちょっとそのお筆先を見せとくれ」 深谷は半紙に書かれた筆あとを読みづらそうに眺めていたが、読めたのかどうか。それを直に戻しながら、こともなげに言った。「ふん、これは天理教の教祖さま(中山美伎)のお筆先によう似とるようなが、まあ、こんなことはようあるこっちゃ」 いかにも、「天理教祖の真似ごとや」と言いたげであった。天理教の熱心な信者にとって、教祖以外の筆先を亜流とさげすむのも当然であったろう。ときはあふんとした表情をしたが、直はにこにこ笑っている。 深谷はどことなし気品のある老婆が気になるのか、試すように言った。「お筆先だけではようわからんで、神さまに下がってもらえるかい」「はい」と答え、直は広間の東側にある井戸端に下り、水垢離すると、再び広間へ戻ってきた。七人の先生が声をのむほど、直の帰神は厳しく激しかった。参拝の信者たちや通行人まで物珍しげに集まってくる。先生たちは相談して、おそるおそる申し出る。「ここでは人だかりするで、二階へ上がっとくれやすな」「おう」 直は答えて先に立ち、二階ヘ上がる。直の憑依神と天理教の先生たちとの間で交された問答の内容について、残された資料はない。 帰神の去った直を中にして、彼らはいろいろと憑依神の判断について意見を交したが、その結論を深谷が代表して宣告した。「どうやら狐や狸などとは違うような。けどまあ狗賓さんの類いじゃろ」 いまの直は達観した心境で、人の言に左右されることもなかった。しかしお供の川端ときはそうはいかない。天理教の信者でいながら、直にかかる神に病気を癒され、激しく直に傾いていったのだ。が、天理教の七人の立派な先生方にとりまかれて、狗賓つまり天狗さまと審神されると、たちまち日暮れの影法師みたいにげんなりとなった。「神さまかと思うたら、つまらん天狗さんじゃとは……ほんならわしは烏天狗かいな」とぶつぶつ独り言を言うのだった。 その夜は分教会にほど近い宿屋に泊まった。翌朝、ときがむっつりして蒲団をたたみかけていると、直の様子が一変して帰神になり、激しい叫びが口をついて出た。「世が変わるぞよ。この戦おさまりたら、天も地も世界じゅう桝かけひいた如くにいたすぞよ。神も仏事も人民も勇んで暮らす世になるぞよ」 駆けつけた宿の主人も客も、魂消たようにひとかたまりになってこの様子をのぞきみた。 発動がおさまるや、直はときに命じて紙を出させ、墨のすり上がりを持ちきれぬように筆をとった。無造作に筆が走る。何を書いたのか、この時点の直には読めない。「この筆先を宿に残して帰れ」と神は言った。 撫然として直は言い返す。「帰れとはあんまりやござへんか。せっかく唐まで渡るつもりでここまで来ましたものを……」「直よ、それでよいのじゃ。その筆先をここに残して、今よりすぐ帰れ」 重ねていわれると、もう神命には逆らえぬ直であった。直は素直になって、まだ墨の香のする筆先をとり上げ、「神さまが宿に置けいと言われなさるで、どうぞ大事にしとくれなはれ」と、ものも言えずにいる主人の手に残した。 京を出はずれたあたりで、直は蕎麦屋に入り、かけそば一杯一銭二厘なりの昼食をときにふるまった。「やいのやいのと手紙でせかしてやで、水盃までして綾部から出てきたのに、あたぶさいがわるうて(恰好わるくて)、どんな顔して帰ったらよいんやいな。せめて京見物ぐらいさせてくれちゃったらよいのに……」とふくれていたときはようやく機嫌をとり戻し、山陰街道の片側に立ち並ぶ店に首をつっこみ、きょろきょろしたがる。それをうながしうながし老の坂峠を下った頃、神が声をかけた。「直よ、唐ヘ行けいと申したが、まこと行こうと思うたか」「はい、唐天竺までも……」ときっぱり答えると、腹の底が熱してきて、唸るような声が上がった。「うーむ、偉いものだ。実は直が行くか行かぬか、この方が気をひいてみたのであるぞよ」 神と直の自問自答に慣れている川端ときは、背後でそれを聞き、口をとがらした。「そんならわしらあ、あんばよう、ちょうさいぼう(なぶり者)にされとったんかいな」「そういうことになるなあ。ようころっと騙されますで」 直は苦っぽく笑って言い足した。「それでも何ぞの型をさせられてますのやろ。騙したり、すかしたり……神さまもお人がわるい」 亀岡でときと別れた直はそのまま綾部へ帰るのも残念でならず、保津方面で糸引きをして廻った。病人にあえば心から神にその加護を念じつつ、日を送った。綾部へ帰ろうにも、待つ子もなく、住む家もなかったのである。

表題:初めの広前 5巻2章初めの広前



 明治二十七(一八九四)年七月二十五日、ついに豊島沖の海戦で日清戦争が劾発、八月一日、日本は清国に宣戦布告する。 九月十三日、大元帥陛下は新橋駅より御料の汽車にて広島大本営へ御進発あらせらる。翌十四日、二十一発の煙火のうちを京都御通過、十五日、広島御着輦。警部両名相並びて先駆し、次に儀仗兵、次に徳大寺侍従長御陪乗し奉り、陛下には竜顔殊の外麗しく、歓迎の人々を左右に御覧遊ばされ、鳳駕の響き滑らかに御進みあらせらる。その次には侍従武官乗馬にて扈従し奉り、次に参謀総長有栖川宮熾仁親王殿下の馬車、次に宮内大臣、侍従の馬車、次に広島県知事。警部二名各々乗馬にて警衛し、列外には大山陸軍大臣、西郷海軍大臣、馬車にて随行したり。かくて陛下は京橋筋より練兵場を経、元第五師団司令部なる行在所楼上に入御あらせられたり。時に百一発の祝砲大空に響き渡る……。 この昂揚した空気を、直は多くの糸引き仲間たちと、うだるような暑さの中で座繰を廻しながら感じとっていた。 やがて糸引きを終わった直は綾部へ帰り、大槻鹿蔵に邪慳にされながら屑買いをする。 九月十日の筆先には、次の言葉がみえる。「いまでは支那がちと強き、これは山子であるぞよ。とどめは鬼門の金神がうつりて、日本へ手柄をさすのであるぞよ。神ぶつじが手伝うて、日本へ手柄をさすぞよ」 九月十七日、わが連合艦隊は清国北洋艦隊と黄海で会戦、制海権を獲得。この黄海大海戦勝利の報が内地へとどくや、各地に万歳が湧きたった。園部では国旗をかかげて二日間勝祝いのため休日とし、福知山では御霊神社で奉祝会、そして直のいる綾部でも、町の軒ごとに丸く小さなほおずき提燈が飾りつけられ、花街は夜半まで祝い酒に浮き立った。 国旗をかかげる家もなく、提燈も祝い酒もない直は、この日もただ屑買いに軒々をまわり歩いていた。唐と日本の戦いの予言は確かに直の体内からほとばしり出たものであったのに、もはや、その実体は遠く直の手の届かぬ彼方であった。 ある日、直は足をのばして、何鹿郡山家村一帯を屑買いに廻り歩いた。山家村字西原の西村文右衛門の家を訪れると、女房のみねが襤褸を売ったついでに、思い余ったように語りかけてきた。「うちの主人いうたらなあ、ひっさ病気で、どんのいにも難渋しとるのや。あんた、病