表題:世祢の証言  12巻1章世祢の証言



 浅野和三郎が父元斎危篤の電報に接したのは、九月五日早朝のことである。仲の良い夫婦は後を追うと言うが、父は母より一つ上の七十四歳、気丈なようでも母の死が応えぬはずはない、と内心びくびくしていた処だった。 今度もまた駄目かも知れぬと諦めつつ、金龍殿で祈願した。ただ神のまにまに……癒るかどうかの伺いはもう立てなかった。 帰りに管長室ヘ報告に寄ると、王仁三郎は執筆を止めて迎えた。「月のうち三度も東へ行くとは、きびしいのう。何時の汽車で行きなはる」「京都から夜行で、綾部発は四時の汽車にするつもりです」「そうか、まだ時間がある。まあ、一服つけなはれ」 自分も敷島をくわえ、浅野にもすすめる。「病気について、わしはこうみるのやが……この世界は、霊界と物質界から成立し、人間もまた霊と体の結合からできている。病気の原因も霊的・精神的にくるものと、体的にくるものとの両面がある。治療法も、当然両面なければならん。 霊的・精神的な病気の治療法には、昔から祈祷・禁圧・心療などがある。大本でするお取次もそれや。また体的な不摂生、不衛生、過労などからくる病気の治療法には、医薬・物療などがある。その病因がどちらにあるかを確かめようともせず、霊的治療法だけで一切を解決しようとするのも、体的治療法だけでよしとするのも、いずれも一面の真理だけに固執する、いわば迷信にすぎん。 病気と病体とは違う。病気は、文字通り気を病んでいるので、病体は体を病んでいることや。だから病気の大半は、忘れる時に全治する。病体には、むろん時をかけて、医術の必要がある。だが十中の八、九は病気だと思っていい。お父さんも、女房に先立たれたのが病因なら、おそらく病気の方でっしゃろ。真剣にお取次したげなはれ。病人の前ではできるだけ明るく振るもうてなあ」 浅野の顔色が先ず明るくなった。 同時にもう一足突っ込んだ手がかりが欲しくなった。「あの……人間の寿命の見当はつけられませんでしょうかね」「神のみぞ知るや。が、霊衣を見れば、ある程度の予測はつくで」「霊衣……」「霊身をまとう衣、それが霊衣や。現界の人間も肉体とほぼ同形の霊衣を持っておる。けど、生霊と死霊のちがいは、その霊衣を見たら分かる。生者の霊身は円味のある霊衣を体一面にかぶっているが、死者の霊身は頭部が山形に尖った三角形の短い霊衣をまとっている。腰から下は霊衣がない。『幽霊に足がない』と言われるのも、そのためや」「生者の霊衣はみな同じですか、それとも個人差が……」「みな違うとるわ。徳高い者の霊衣ほど、厚く大きく光沢が強い。神や仏の後に描く光背や後光、あれが霊衣やで。それだけの霊衣があれば、人を統御する能力が備わる。傍にいるだけで気持ちが温とうなる、慕わしゅうなると言うのは、霊衣がその者をも抱擁するくらい広いからや。現代では、それだけの霊衣の持主もおらんから、人物もまた少ないのや」「信仰の徳によって霊衣を厚くさせ、光を増させることができますでしょうか」「できる。しかし、寿命だけは人の力ではどうしようもない……。わしはのう、病人を見舞う時は、霊眼で、その霊衣の厚薄と円形の程度を確かめ、回復かどうかの判断を下すが、はずれたことがない。それができれば、寿命の切れた病人を、小沢のように命がけで請け合うようなヘマはせんのや。名医が匙を投げた大病人でも、霊衣さえ厚く光があれば、必ず本復する。これに反して、天下の名医が請け合うた病人でも、霊衣が紙のように薄く三角形になりかけていたり、ぎざぎざに裂けていたりしたのでは、どうしても助からん。 以前に佐藤忠三郎の兄貴が危篤の時、『救けてやってくれ』と無理を言われた。けれどあれは初参綾の時から死期は見えとった。霊衣が薄くなっておれば、もうどうにもならんわい。少しでも神業に参加させ、霊性を高めて霊界の幸を祈ってやれるだけやった。浅野はん、では気をつけてな」 並松の自宅に戻って旅行の準備をしていると、あたふたと入ってきたのは、篠原国彦であった。「只今、ぼくに神がかりがあって、お父さんの病気のことを教えられました。もっとも例の通り、どこまでが本当かあてになりませんが……」 篠原自身が自分の守護霊を信用していないのだから、頼りないことおびただしい。「わざわざどうも……で、どんなことを教えてくれました?」「変でしたよ。浅野のお父さんの病気をお前の体に移して見せてやると言いまして、おかげで苦しい目をさせられたの何の……」「どう苦しいんです」「どうも吐き気の止まらん病気らしい。まず九分九厘むつかしいと言うのですが、この前もまるきり嘘を教えられたのだから、あべこベかも知れませんよ」 慰めているつもりか知れんが、浅野にとっては、迷いが深くなるばかりだ。試みに篠原に鎮魂して父の病気の再現をしてもらったが、背を丸めて、しめ殺されそうな声を出し嘔吐する様子に、どうやら本当らしいとあわてぬわけにはいかなかった。 翌日、郷里ヘ着いた。兄の浅野正恭は、二、三時間遅れて呉から到着した。母の危篤の時には臨終に間に合わなかったので、大事をとって早目に知らせてくれたらしい。 老父は一日に何回となく発作的に半身の痙攣を起こし、二十分ばかり続いては止み、止んではまた起こる。医者の診断は、中風の一種と言うことであった。 ――篠原の龍神め、また嘘を教えやがったと、浅野は内心舌打ちした。 後日、綾部に戻ってから、篠原を鎮魂して発動させ、そのことを詰問した。篠原の守護神はしゃあしゃあと言ってのけたものだ。「あれは私の知ったことじゃありませんよ。あなたの守護神に頼まれてやったことですからね。ああして見せたら、浅野がどんなあわて方をするか試して見ろ、なんて言うんですから、あなたの守護神もひとが悪い……」 浅野は兄正恭と相談したが、大本について懐疑的な兄も、老齢の父の病気が医薬で治る限度を越えたことだけは同意見であった。残るは神頼みしかない。浅野は父の病床で真剣に鎮魂にかかった。心気を澄まして数分、やつれた父のまわりにうっすらと淡い輪郭が浮き出ているのに気がついた。 ――あっ、これが霊衣ではないのか。 目を疑らすと、次第にその輪郭がはっきりと映じる。他と比較したわけではないが、霊衣もさほど薄いようにも見えず、頭部も丸味を帯びている。――大丈夫、助かる、その確信を持った時、一週間で治ると言う閃きがあった。 鎮魂が終わると、浅野は背水の陣を布いて、「病気は大体一週間で治る」と断言した。ものものしく閉ざした室内を明るく開放させ、家人にもできるだけ明るく振舞うように命じた。 鎮魂の効果は顕著だった。一日数十回もあった痙攣が翌日は八回、その翌日は五回と数が減り、痙攣時間も短縮され、一週間後には、ついに一度も起こらなくなった。この霊験に、父も兄もようやく大本の信仰に目ざめ始めた。 父の回復を見て心も軽く帰綾したのは、九月十三日である。すぐ大本ヘお礼に参り、久し振りで編集室へ戻った。 宮飼が、机の引き出しから一枚の紙をとり出した。「ま、ま、待っていたんですよ。どうぞこれを、み、み、見て下さい」 辞職願いであった。「どうしたんかね。これは……何か不満でもあるの」「ま、そ、そ、それは言わないことにしましょう。こ、ここは苦痛の量が快楽の量より多すぎますからね。要するに、辞めさせて頂ければ、よ、よいんです」「辞めたいと言うものを止めても仕方あるまいが……もう一度考え直してみたら……後梅するよ。それにすぐ職業と言っても見つかるまい」「東京スバル社からさ、さ、誘いのて、て、手紙が来ています。宮武外骨氏の……」「よかったね。それでいつから……」と、浅野は、かすれた声で言った。 虚勢的に、宮飼は胸を張る。「今日、綾部を、た、た、立ちます。あ、あなたの帰りを、ま、待っていたんですよ。留守中にいなくなるのも、な、なんだと思って……では……」 父の病状を訊こうともせぬ無神経さや、仕事の引き継ぎさえ気にせず立ち去る無責任さにも、腹が立たなかった。水と油は永久に混ざらない。ただ無性に淋しかった。 宮飼が去りがけに、吃りもせずに呟いた「解放!」という一語が、耳の底にざらざらと残った。
 綾部には珍しい三階建てが上町の四つ角に新築され、人目を引いた。大本黒門からは斜め向かいあたりの近さである。三階は三畳ぐらいの一部屋だが、二方に大きなガラスが入っており、綾部の街々が見はるかせる。この三階を展望台と人は呼んだ。一階は店舗、紺の香も真新しいのれんには、「金龍餅の本宮屋」と染め出されてある。 出口慶太郎と結婚以来十四年目、長い貧苦を切り抜け、夫を希むままに本部奉仕に出して、龍の一途の努力が実らせた店であった。 新築祝いの九月十九日、娘や孫たちに囲まれた嬉しげな直の姿があった。
 この頃では、教祖出口直、教主出口王仁三郎の位置は確立していたが、王仁三郎は相変わらずおよそ教主らしくない尻軽さで、どう欲目に見ても、偉そうにも、有難そうにも思えない。「困ったことやで、何とかせな……」 出口慶太郎と田中善臣が役員たちを代表し、澄の応援を求めて現われた。王仁三郎の一番の苦手は、澄だからである。 澄は七人目の子を懐胎していて、もう六ヵ月、いささか腹が目立っていた。「先生、今日はどうでも聞いてもらわねばなりまへん。大本もだんだん教団らしく大きくなる。外部からは軍人さん、学者はん、貴族はんもどしどしきとってや。それなのに、先生は、いつまでたっても、ちっとも教主らしない。これではいくらお筆先で『天のみろくさま』と出ちゃっても、こう貫録がないと、恥ずかしゅうて人には言えん……なあ、あんたら、こう言うたらよいんやろ」 澄は、無邪気な声で慶太郎と田中善臣をふり返る。二人は、間がわるそうにうなずいた。 王仁三郎はにやにや笑った。「すると、これはお澄の意見ではなくて、役員たちの口うつしか」「まあそうですけど、役員さんに言われてみると、なるほどと思いますわな。教祖さまは筆先どおりに何でも信じなはる。うちは、すまんけど、亭主が天のみろくさまやなんて、なんぼ筆先かて阿呆らしゅうてよう信じまへん。今のままでは……ですで。それに八木の姉さんかて信じとってやなし……」「具体的に言うてみい、わしのどこがお前らの気に食わんのや」「たとえば、大本の教主さまはどこへでも気軽に顔出してじゃが、それでは教主としての威厳が保てん。細かいことは役員が代わって、どこまででも行くさかい、先生は教主らしく、でんと大本の中にいて、教祖はんと並んで御神書を勉強して下され……なあ、そうやったなあ」と、また二人を振り返り、「まだようけあったけど、何やったかいな……」 観念して、田中が進み出、くぼんだ目をしばしばさせる。「教主さん、全国から求道者が集まってくるようになったんですさかい、その……みんなの意見としてどすが、教主らしく、もっと人前をちゃっとわきまえておくれやす。羽織袴をきちんとお着やして、近侍を傍へおいて、日常の用事は近侍や役員たちに言いつけてもらいたいんどす」 慶太郎が続けた。「教主さんはわしら俗人とは達います。天のみろくさまですさかい、俗事に耳をかさず、もっとおっとりかまえとっておくなはれ。教主が信者にじかに面会なさるのも、あまり安っぽうていけまヘん。天のみろくさまらしゅう、何とか威勢をつけんなりまへん。もう鍬を振り上げたり、金龍海工事の土方したり、柴刈ったり、そうや、裸で雑魚とりもあきまへん。教主さんには似合いまヘんわな。頼まれもせんのにこっちから宣教に出て行きなはるのも、考えもんでっしゃろ。どうぞ、落ち着いて一枚でも多くお筆先をいただいておくれなはれ。お願いです」 さらに田中が、語調を強める。「やむを得ぬご神業の場合、教主が旅行おしやすのは、まあ仕方がないとして、随行役員・近侍はじめ信者の送り迎えはできるだけ重々しくさしてもらわんと、神界ヘ対して、われわれのお役目はつとまりまへん」 澄が面白そうに口を出した。「そうや、思い出した。役員さんらは、もっとかんじんなことをこぼしとっちゃったでよ。先生のお行儀ですわな。あれはなんとかならんじゃろかと言うて。そら先生のは昔からですさかい、うちらは見慣れとりますけどなあ、よそから来やはったお人は、ほんまかないまへんで。暑くなれば平気で素っ裸で歩き回ってじゃし、所かまわずおならを出してやし……」 勢いを得て、田中が言った。「大宮守子はんが初めてお越しやした時の不細工なこと、初対面が丸裸やったそうどすなあ。何ぼ何でも高貴な御婦人が、いきなり男はんの裸、それも教主の……よう怒って帰ってやなかったもんどす。話聞いただけで、わしらまで顔から火が出ますわな」「はっはっはっ……そうやった、そうやった」「笑いごとやおへん」 田中の怒り声に、王仁三郎は首を縮める。「ほれ、今でも、ちらっと出とるやおへんか。ちゃんとしまっときなはれ」 澄に叱られ、あぐらではだけた裾前を直し、王仁三郎は楽しげに三人の顔を眺めた。「育ちやさけ、時ならず息子がしゃしゃり出る。わしもこいつには迷惑しとんのや。この息子はなかなかの変わりもんやで。偉くもないのに髭生やし、牛でもないのに乳を出し、亀でもないのに首もたげ、竹でもないのに節だらけ、年でもないのに皺があり、蛇口もないのに水が出て、ゴムでもないのに伸び縮み……」 澄が手を叩いて笑う。田中と慶太郎は、苦虫をかみつぶした顔で、王仁三郎夫婦を眺める。 王仁三郎は、神妙に頭を下げた。「ほんまに隅から隅まで行き届いた親切でありがたい」「ほんなら分かってくれはりましたか」 田中と慶太郎がほっとした表情になると、すかさず王仁三郎は言う。「その御親切には感謝するとしてやな……箱根山で馬ひくように『はいはい、へいへい』とお前らの言う通りにしてやりたいが、そうはいかんのじゃ。あいにく役員たちの言うことは、ぜーんぶ神慮と正反対やさけ、困ってしまうのう」「何が正反対どす」と田中が気色ばむ。「味噌の味噌くさいのに上等の味噌があるかい。よいか、宗教家が宗教家らしく、政治家が政治家らしく、教育家が教育家らしくすましこんどるのは、真の宗教・政治・教育を解しとらんからや。 わしは教法家、済世家としてここ二十年、一身を捧げて活躍してきたが、役員たちは、わしをみろくの石仏にでも仕立てようと一生懸命らしいのう。ところが、『らしく』では、神さまのお気に入らんのじゃ。釈迦は道を求めるために王家を捨て、妻子を捨て、世間を捨てて山に入ったが、しかし道を伝えるためにまた世間に帰った。釈迦の出山はすなわち釈迦の還俗じゃ。還俗の必要がなけら、山から出てくるに及ばん。釈迦が還俗せずに山にいつまでもおってみい、今日の仏教も八万四千の法門も世に伝わらん」「……」「わしが金龍殿の奥深くひそんで神理ばかり研究しておって、実際に天下を済度する大業ができるかい。『教主でござる』とわしが御廉のうちにおさまり返れば、役員は役員らしくとお前らは御廉の前にふんぞり返るやろ。それでお前らは居心地よいか知らんが、大本もまた既成宗教の誤りを辿ることになる。『取次ぎは青畳の上に坐って神の真似をいたして偉そうに申しておるが、真の艮の金神はまだ床下で働いておるぞよ』と言う筆先を、よく味わってみるベきや。大本がやや世間の人にわかりかけてきたのも、わしらが汗みどろになって宣教してきたからこそやないか」「……」 王仁三郎は、語調を強める。「お前らに今後の世界の見通しがあるか。これからの二十年先、五十年先、百年先を知ったらどんな心地がするか、お前らに分かるか。 わしが御廉の中で筆先を拝読しておれば、天災地変でも起こって、ひとりでに世界が立替え立直しできるとでも思っておるのやろ。よい加減にしてくれや。今後の世界の混乱は、今の世界大戦の比やないぞ。天の岩戸隠れの惨状が必ず再現する。日本も西欧の戦乱を対岸の火災視しておれぬ時が来る。たとえ一時はこの戦争が治まっても、必ずある時機に再燃してきて、敵は海に空に我が国めがけて攻め寄せてくるのやで。 それを、日本の国の現状はどうや。上下こぞって、今さえよけりゃ後は野となれ山となれの利己主義根性……。天下の済世を神より命ぜられておるわしが、この命とりの根性をねじ直さずに大名然とおさまり返っていて、申しわけが立つと思うか。『頭が回らねば尻尾が回らぬ』と言う通りや。誰がなんと言おうと、わしはこれまで通りどんどんやるさけ、尻尾は目え回さんようについてくるのや」 紅味をさした夫の頬につい見惚れていた澄は向きを変え、義兄慶太郎と田中をみやった。「よいか、聞いちゃった通りや。長いこと先生と一緒にいて、それぐらいのことが分からんのかいな、阿呆やな、あんたらは……」 二人は顔を見合わせ、「それでも……」と田中が、哀願の表情になった。「他は仕方おへんとしても、そのお行儀の一件だけは考えといておくれやす。役員信者一同の……」 王仁三郎は、大口あけて笑いとばした。「そうや、そうや、こいつが悪い。……これだけはどうにもならん。けれど人を導くのは、裃やないで。裸や。裸と裸のつき合いや」「女房のうちがあきらめとるのやさかい、あんたらも我慢しとくなはれ」 澄は、いとも満足げに言い足した。
 時事新報(大正六年三月十七日) 《露国革命勃発》 〔桑港合同通信社十五日発〕 倫敦よりの報道に曰く、露国に革命勃発せり。露帝は或は退位し皇太子即位するやも知れず、下院及び陸軍の主要分子は親独派の官吏を駆逐せんとて政府を顛覆せり。三日間に亘り主として露都及びモスコーに於て間歇的戦闘行はれ、多数の家屋焼払はれたり。倫敦に達したる露都電報に拠れば、若干の大臣捕へられたるが、前首相スチュルメル氏及び現内相プロポポクフ氏は次いで釈放せられたり。一説に拠れば、露都及びモスコーに於ける政府委員によりて一の仮政府設立せられたりとのことにて、露都を守備せる三万の軍隊は革命に後援せりと。――後略。 《露国の革命は成功》 〔紐育ロイテル特電十五日発〕 倫敦よりの報道に曰く、露都来報は露都並に莫斯科に於けりとの前々の情報に裏書す。下院は陸軍側の後援を得て形勢を掌握すといふ。前総理大臣スチュルメル氏其他若干名拘禁せられたりと。 《露国皇帝摂政》 〔紐育ロイテル特電十六日発〕 倫敦より軍報道に曰く、露国皇帝ミカエル・アレクサンドロウィッチ大公殿下摂政となる。
 大正六年二月一日、ドイツは潜水艦による船舶無制限無警告撃沈を宣言。三日、米国大統領は対独国交断絶を声明。ヨーロッパの戦闘に参加しなかった日本も、二月には特務艦隊を編成して地中海に派還、四月六日、米国はドイツに宣戦布告――。 世界大戦がさらに拡大し続けるさなかの三月十二日(露暦二月二十三日)、労働者のストライキを契機として、ロシアで革命が起こり、国会の指導権を持つ資本家勢力が、ソビエト(評議会)を足場とするメンシェヴィキや社会革命党と提携して、臨時政府を作った。十五日、皇帝ニコライ二世が退位しロマノフ王朝が断絶、専制主義の化け物のようなツァーリズムが崩壊した。二月革命という。 臨時政府の閣僚は、ケレンスキーをのぞき資本家の代表で、戦争の継続をのぞんでいた。けれど戦争の続行は、連敗のロシアの危機がさらに深まるばかりである。 この頃、レーニンはスイスに亡命中であった。大正五年に『帝国主義論』を完成、帝国主義の時代は社会主義革命の前夜であることを強調したレーニンも、革命が早晩ロシアに起こる可能性を信じてはいなかったようだ。 大正六年一月二十二日、チューリッヒ軍人民ホールで講演した四十八歳の彼は、次の一句で結んでいる。「われわれ老人は、もしかすると、この革命の決定的戦闘まで生きのびられないかも知れない」 そのレーニンがロシアの革命を知り、四月十六日、亡命地スイスから封印列車でペトログラードに帰ってきた。首都に入ったレーニンは四月テーゼを発表し、議会主義的共和国でなく、全国的なすべての労働者・農業労働者・農民代表からなるソビエト共和国樹立を提唱し、「いっさいの権力をソビエトへ」のスローガンをかかげた。レーニンらボルシェヴィキの方針は、メンシェヴィキや社会革命党の主張と根本的に対立した。 七月初めにロシア軍の大攻勢が失敗すると、七月十六、十七日、約五十万の労働者は「戦争反対」「権力をソビエトヘ」などボルシェヴィキのスローガンをかかげて街頭に進出したが、社会革命党のケレンスキーを首相とする内閣は、軍隊を戦線から呼び戻して弾圧、指導者は逮捕され、レーニンも一時フィンランドに亡命した。 この七月事件ののち、軍の上層部は、立憲民主党や資本家たちの援助のもとに公然と反革命の道を進み、九月には最高指令官のコロニコフが叛乱を起こした。危地に立ったケレンスキーは、ぺトログラード・ソビエトとボルシェヴィキの援助を求めて叛乱軍を打ち破った。 これによって党勢が急激に伸張したボルシェヴィキは、ぺトログラードとモスクワのソビエトを掌握し、十一月六日に武装蜂起し、翌七日(露暦十月二十五日)にはソビエト政権が樹立された。十月革命という。ケレンスキーは身をもって逃れ、他の閣僚全員が逮捕された。 ロシアは「ソビエト社会主義共和国連邦」と名を変え、レーニンは総理兼議長となり、閣僚の選任が行なわれたが、二十九歳のスターリンは民族事務相として、閣僚の末席に名をつらねている。十一月九日は、ケレンスキーがコザック兵に守られて首都近郊のガッチナまで押しよせたという飛報に、ぺトログラードは動揺した。
 大阪朝日新聞号外(大正六年十一月十三日) 《ケレンスキー露都占領》                          〔鳥港特電十二日発〕 ケレンスキー軍はぺトログラードを占領し、市街戦行はれつつあり。電話局は政府軍の手に帰せり。ケレンスキーは軍隊と共にぺトログラードに近づきつつあり。莫斯科に於ては、一般機関は過激党の手に帰し、新聞紙は発刊せず。
 しかし一夜明ければ、その情報は逆になった。一夜づくりの赤衛軍が士官学校生やコザックを撃滅し、ケレンスキーはただ一人女装して、駅馬車で逃亡した。このアレクサンドル・ケレンスキーの父は田舎の中学校校長フョードル・ケレンスキーで、レーニンの中学校の頃の校長であった。フョードルの息子がロマノフ王朝末期で総理大臣になり、その息子から教え子が政権を奪取してソビエト政府の大指導者になるという、皮肉なめぐり合わせである。 ――世がかわりて、下が上になるぞよ。(明治二十九年旧八月二十六日) ――いままでは上よくて、下のいけぬ世でありたぞよ。さらたまりて世をかえして、世界中均すぞよ。あまりこの世に運否がありて、神が見ておれぬから、神おもてにあらわれて、よき世といたすぞよ。(明治二十九年旧十一月二十四日) ――神が世をかえて、法律、やり方を改えてしまうから、上に立ちておる人民、了簡がみな違うことがでけてくるから、にわかに、どさくらなならんようになるぞよ。……あまり上へあがりて栄耀をいたしておりた人民、世が上下へかえるから、上に立つ者ほど苦しまねばならんようになるぞよ。罰があたりて、逆さまに歩くとたとえに申すが、下の人民を苦しめたものは、そのとおりになりて、恥さらさなならんぞよ。(明治三十六年旧正月三十日) ――ここまでは、とんとん拍子に面白いほど昇れた、悪の輪止りとなりて、世界中の、大きな難渋であるぞよ。上へあがりておる身魂の、利己主義のやり方で、われの系統ばかりを大事にして、悪で末代立てて行こうとの目的なれど、悪の世の切り替で、世界中の混雑となりて、何も一度に来るから……。(大正四年旧七月十二日)
 天皇・皇后両陛下が秋の陸軍大演習統率のため入洛されたのは、大正六年十一月六日である。十八日まで京都にご滞在、先帝の山陵にご参拝になったりして、天皇は十四日から十六日まで彦根の演習場に行幸になり、皇后は府立高等女学校ご参観の日程などが組まれていた。 それより一月ほど前の十月十三日、綾部警察署長より郡是製糸株式会社ヘ「事によれば皇后陛下が行啓遊ばされるかも知れぬから、御座所、ご台覧に供すべき工場、周囲建物の平面図、その他を至急取調べさし出すよう」との内命があった。寝耳に水である。十五日には宮内官が出張検分する通知があり、十八日には三室戸皇后宮主事が来社、十一月十六日行啓の日取りを知らされた。皇后は宮中紅葉山に養蚕所を設けられており、養蚕についてのご関心が深かった。 社長波多野鶴吉以下社員は感激おくあたわず、さっそくお迎えの準備に忙殺された。 明治二十九年創立以来二十年、丹波の片田舎綾部に生まれた郡是製糸も今や資本金二百万円(創立当初資本金九万八千円)、工場総数は京都・兵庫・岡山にわたり十四を数え、従業員四千七百三十人という大会社に成長していた。直たちが季節ごとに出稼ぎに歩いた座繰りの糸引きなど、大資本に押されて成り立たぬのか、もうどこにも見えぬ。 郡是の所在する綾部町、特に行啓の道筋にあたる本町は、この突然の知らせに驚き、狂奔した。本町では官民合同の奉迎委員会を編成、駅前に大アーチを作り、広小路・西新町・北西町通りの下水には急造のコンクリート製の蓋をする。北西町から郡是に至る道路が屈曲していたので、全力あげて改修にかかり、いわゆる行啓道路とした。田町の大手坂を切り下げたのも、この時である。 皇后の行啓は、今や全町民の話題と興奮を呼んでいた。
 カラートントン、カラートントン。 澄は機を織る。その音の中に包まれている時、澄は幸せであった。 せわしく手も足も動かしながら、澄の心には湧き立つように美しい縞模様が浮かんでくる。「大本は錦の機を織る仕組」と筆先の言う錦の機とはどんなだろう。生涯かけてもきっと織ってみせたい。二十歳の秋、破れ裃をほどいてつないだ糸玉で、見よう見まねに織り始めてから、ずっとその夢を抱き続けていた。 澄はもう三十四歳、どんな苦しい出来事が重なっても、機への愛着だけは、澄を裏切らない。機への愛着だけが、苦しい時の澄を支え、慰めてくれたのだった。 機場には数台の機を置き、女子奉仕者たちが機を織っている。「二代さん、あんまり根つめなはったら、体にさわりますえ」 隣の台で織っていた湯浅小久が声をかけた。澄の妊娠の身を気づかっているのだ。「大事ない。これで七人目、わたしの体は、よほど安産型にできとるのやろ」「それでもお産は女の大役ですさかい、油断はなりまヘんどっせ。こないだ、主人と話してましたんですが、直日さんから来年生まれるお子さんまで、上手に間合いあけて産んどってですなあ。けど梅野さんと八重野さんの間だけは、えらいはなれとってや。なんでどす」「そらそうやな、産んだらおかしいで。先生がおってやなかったもの」「あ、ほんまに……」 澄が大きな声でけろっと答えたので、機の手を休めて聞いていた女たちが明るく笑った。 明治三十五年直日・三十七年梅野・四十二年八重野・四十四年一二三・大正二年六合大(没)・大正四年尚江、そして腹の子は来年、大正七年出産予定である。どの子も二、三年間隔できちっと生まれているが、梅野と八重野の間に五年の開きがある。その歳月は、直と王仁三郎との火水の戦い、王仁三郎の皇典講究所・建勲神社・御嶽教と外にあっての苦闘時代であったのだ。小久だけは、それを思って笑えなかった。 王仁三郎と結婚してから、十七年の歳月が立つ。錦の機がどんなものかつかみ得ないのと同様に、澄は未だに王仁三郎がつかみ得ない。「この男、阿呆かいな」と思うこともしばしば、「なるほど」と思わせられる理屈もしばしばである。けれど、しばらくすると、うまく言いくるめられたような気がしてくる。 あれから夫は、またどこやらに宣教にとび出して行ったきりだ。間のびした顔で、今頃は旅の空でも眺めているかも知れない。言いくるめられたのではないか、と思うそばから、つい口元までゆるんでくる。 ――けったいな男やが、なんやうち、憎めへん。 湯浅仁斎が外から顔をのぞかせた。「二代さん、ちょっと……」 澄が機を下りて戸口に行くと、外には、竹原房太郎も待っている。「すんまへん。お訊きしたいことがあるのですが、よろしおすか」「かまへんで。何やいな」「ここではぐあい悪い」と竹原が言った。 澄は、先に立って、王仁三郎不在の統務閣へ行く。二人が席を占めると、湯浅が思いつめた声で言った。「二代さんにだけは言いとうないとわしは思っとりましたが、こう噂が広がっては、いずれ誰ぞからお耳に入りまっしゃろ。それならいっそわしから……」「何や、たいそうななあ」「知ったはりますか。教主はんがある高貴なお方のご落胤ちゅう噂を……」「へえ、何のことや思たら……好かんこっちゃな。……先生は穴太の上田吉松の総領息子、水呑み百姓の伜じゃで。高貴か何か知らんが、阿呆な言い方したら笑われますで」「けど今度ばかりは冗談とも思えまへんのや。この春、大宮守子さんが初めてお参りに来ちゃった時、わしは教主はんの口からじかに聞きましたし……」「阿呆やなあ。また先生にかつがれちゃったんやろ。悪さが好きな男やさかい……」 笑みこぼれる澄の可愛いばかりの口元を睨んで、竹原房太郎が、頑丈そうな握りこぶしを膝で揃えた。「いえ、教主はんの口からばかりではござヘん。大宮さんにも、聞いた者があるんですわな。よう似ておられる。お体付きまでがそのままですと言うて……」「よう言うてくれてや。女房のうちさえ知らんのに、そんな阿呆げたことがあるかいな。……それで、誰の御落胤じゃって?」 竹原が力んで言った。「有栖川宮熾仁親王……」「もう二十二年前におかくれになった宮さまや」と湯浅が声をひそめた。 澄は陽気に笑い出した。「まあまた、どこからひっつけたんやろ、有栖川宮はんのご落胤なんて、ようまあ……」「二代さん、あの大宮さんが、下手すれば首のとぶような話、わざわざ作って言いまっしゃろか。あの方は有栖川宮さまを小さい頃からよう知っておられるそうどっせ」と竹原。 水鼻をこすり上げ、その手でたっつけの腰のあたりを撫でまわす癖を連発しながら、湯浅は早口になった。「わしも、それを教主はんから聞いた時は疑いました。腹も立った。天地がひっくり返っても、教主はん、直日はんの血だけは純粋でのうてはかなわん……と。それで夢中になって筆先を読み返してみたんどす」「艮の金神さんの筆先にそんないやらしいこと……」「いいや、あります。ちゃんと書いたりますのや。それも、教主はんが初めて、教祖さんと御対面された直後の明治三十一年旧九月二十四日の筆先に『昔からこの世のくるは知れておるから、じきじきの身魂、天にお一人、地に一人、この世に落してありたぞよ』……明治三十五年旧十一月十三日には『天にひとり地にひとり、かわらん身魂の性来のやまと魂のたねが、一粒かくしてありたのを、世に上げて、二度目のたねにいたすは、たれもこの世に知らんこと、世に出ておいでなさるかみにもご存じのなきこと』……かみとは、神さまのことかも知れんが、お上の意味かも知れまへん。何故教主はんが天のみろくさまか、わしは分かりました。天にお一人のたねが有栖川宮。地にお一人は教祖さま、たねは地におちて育ったんどす。天と地のたねを合わせて水晶の直日さんを生んだんどす。『三千世界の大本にする出口の入口、龍門館はめずらしきとこであるぞよ』、二十年前から書いたりまっしゃないか」 竹原も顔を真っ赤にして言い出した。「わしも信じてます。教主はんの五人の弟妹をみな知ってますが、こう言っちゃ悪いが、誰一人教主はんに似ている人はおってない。顔も姿もそうやが、能力や性格の違いをみてみなはれ、雲泥の差やおヘんか。どうしても同じ胤から出たとは、思われしまへん」「そりゃほかの弟妹から比べたら出来過ぎじゃけど、そんなこともあるわいな」 澄は軽く受け流して立とうとする。 押しとどめようとして、思わず湯浅は、澄の袂を握りしめていた。「もうすぐ皇后さまが、綾部へ来られる。二代さん、この好機をどうしなはります」「何がいな」「皇后陛下のご行啓が……」「うちらと関係あらへん。遠くから頭下げたらすむわな」「二代さん、考えとくれなはれ。大本には皇后さまの叔母さんがおってでっしゃないか。電報一つ打てば、あの方はとんできてくれてです」「大宮さんから働きかけてもろて、どこぞで、ちらとでも皇后陛下と教主とのご対面を願うたらどうどっしゃろ」「皇后さまが大本を信じなはったら、天皇陛下も動かさはりまっしゃろし、宮中はたちまち立直るに違いござへんでなあ。まず世に立つ上の守護神のみたまさんからお立替え願わんと……」 二人のこもごも訴える目色の激しさに、澄も坐り直した。笑い捨てにできる問題ではなさそうだ。夫の留守中に、彼らがどんな途方もない手段に出るか分からなかった。「あんたら、ちょっと頭冷やしたらどうやいな。かりにもそんなことが警察の耳に入ってみなはれ、えらいことじゃでよ」「それでも、ほんまはほんまどす。有栖川宮の御落胤なら、有栖川家の血筋が絶えていることじゃし、皇后さまかて喜んでいただけるのと違いますか……」 まだ言おうとする竹原へ、澄はきびしく言った。「教祖はんや女房のうちが知らんことや。あのいたずらもんの出まかせにのって騒いでもろて、それであんたら役員がつとまりますかい。大宮はんも、どうかしとってや。あの男が帰ってきちゃったら、みんなの前で首しめてでも白状させてやりますわな」 澄の権幕も恐れずに、湯浅は踏み込んできた。「もう一つ、真実を知る手はありますわい。穴太のお義母さんなら、自分が生んだんじゃさかい、誰よりも知っとってやろ。いや、本当のことを知ってござるのは、世界中に穴太のお義母さんただ一人しかないわけじゃ。二代はん、穴太へ行ってお義母さんからじかに聞かはったらどうでっしゃろ」 竹原も膝を乗り出した。「そうしとくれなはれ、お世祢はんの口から聞いたのなら、これほど確かなことはございまヘん」 澄は唇を噛んだ。――穴太へ行こう、行かねばならない。なしたこっちゃいな。 怒った目のまま、澄は立った。「よっしゃ。教祖はんには黙って出ます。先生が戻っちゃったら、穴太へお見舞いにとだけ言うてよ。あとのこと頼みます」
 王仁三郎の生母上田世祢は七十歳の高齢である。 十月四日に急病を発し、出口澄・小竹政一・西田雪・吉田龍治郎・湯浅仁斎・出口慶太郎らがかわるがわる穴太まで見舞いに行った。生来の頑健さのためであろう、今ではすっかり健康を回復しているという。 王仁三郎の次弟上田由松は先妻小ちえと離別後、幼い惣次を抱えて穴太で不自由な生活を送っていたが、大正二年に南桑田郡千代川村の田中兵助三女とめを後妻にもらった。とめは十七歳の時リュウマチをわずらって手術をし、右太ももにこぶしが入るぐらいの大きな穴が残ったため、歩行が不自由であった。 世祢は田中家へ行ってかけ合い、三十六歳のとめを由松の後妻として頼みこんでもらってきた。博奕好きの治まらぬ由松は、金さえあればたちまち博奕に賭けて裸になるので、ほかに後妻のあてもなかったのだ。世祢は、幼い孫の母親を求めたのであろう。 とめは気性の激しい女で、由松とは激しい者同士、夫婦喧嘩の絶え間がなかった。 大正四年になって、王仁三郎が遠慮げに澄に相談した。「ちょっと穴太のことでわがまま言いたいんやけどのう……」 上田家戸主を三弟幸吉にゆずった時から、由松にはいつかこの償いをしたいと思っていた。由松が先妻小ちえと哀れな別れ方をしたのを聞いて、今度嫁をもらう時には力になってやろうと、王仁三郎は誓った。その頃は大本はまだ神殿一つ建っていない有様だったので、何もしてやれなかったのだ。 しかし今は違う。神殿も昨年建設され、神苑内もどうにか整備されてきた。ここで由松に小さな家を建ててやりたい。大本教主としてではなく、生活能力もろくにない弟由松に老母の養いを押しつけた王仁三郎の、上田家長男としてのせめてもの心遣りであった。 王仁三郎の養子意識は際立っていた。自分の生家上田家のことに関しては、貧しい弟妹に小遣い銭をやるのでさえ、ひどく気がねした。 焼け残りの六畳と土間続きの三畳だけ、わずかその二間のうちに、世祢と由松夫婦・先妻の子の惣次、そしてすでに後妻とめとの間に善三郎が出来ていての五人暮らしである。由松夫婦の喧嘩も、狭い家での母との同居に原因がないとは言えない。 澄は、自分の迂濶さを恥じた。七十になって、一人の身をくつろぐ場さえ持てぬ母を思う王仁三郎の胸のうちは、どんなであったろう。 澄の同意を求め、直の許しを得て、王仁三郎は穴太へとんだ。上田家の建築は私ごとであって、大本の役員信者にはかる筋合ではない。建築費の工面は、すべて王仁三郎の私費のやりくり算段であった。大工はどこの誰それが安い、材木はどこの山から伐り出せと、王仁三郎は細かい指示をした。 四畳半・三畳・三畳に土間のある小さな由松の家ができ上がったのは昨年である。由松は土間に醤油・みそ等、申しわけに並べたような小商いの店を出したが、それとて生活を支えるすべとはならず、老母やとめの百姓仕事や手内職で、細々と子供を養っていた。由松の綾部への無心も重なるばかりであった。 幸吉は丹後の元伊勢比沼真奈井神社の神主をしているが、天狗さんが憑いた時は別として、特に秀れた能力はない。小竹家に養子に行った末弟政一は綾部に移住し、大本の布教に従事しているが、平凡な人柄と言ってよかった。西田元教の妻になった妹雪は癇性で、ときどき元教を困らしているらしい。小西家に嫁いだ末の妹君は、きかん気の働き者だが、姑や夫に気に入られる才覚はなかった。「兄さんがうちらの知恵とってしもたさけ、うちらはみーんな阿呆なんや」と君がよくこぼしたが、冗談にもせよ、澄は笑えない。 五人の弟妹は、まぎれもなく穴太の土から芽吹き育ち、親の雪隠に糞を垂れて終わるにふさわしかった。竹原に言われるまでもなく、他の弟妹たちとすべてにおいて隔絶している王仁三郎を、澄とて不思議に思わぬではない。 王仁三郎が有栖川宮の御落胤……否、万々一にもそれだけは嫌。乞食の胤であった方がまだましやと、澄は思う。 小さい頃から、寝物語にさえ、澄は母から聞かされている。「昔の神代は、けっこうな、おだやかな世じゃった。この天地を産みなされ御守護下さる親神さまを、途中の鼻高神どもが天の神さまに讒言して、よってたかって艮へ押し込めてしもうた。それからは悪い世、共食いばかりの末法の世じゃ。正しい神々は、世に落ちなされて、ちりぢりにさすらうばかり……鬼じゃ、悪じゃと叩きつぶされながら三千年をこらえこらえて陰から守護なされてきたのやで」「親神さまを艮へ押し込めたんは誰やいな」 小さな澄が、きっと目を上げて問う。「上に立つ神々やで。われさえよけら、ひとの難儀はかまわんやり方、強いものがちの、世に出ておいでる守護神やでよ」 その澄が、こともあろうに、親神さまを艮に押し込め、悪とうな世を持ち続けてきた上に立つ神の血統の男と結婚し、三代の世を継ぐ直日を産んだ。そう思うことは足元の大地が揺らぐほどの怖れであった。 水晶の御魂と筆先に出ている直日が、すでに生まれる前から汚れていた(澄の感覚はそう受け取る)とするなら、神が澄をあざむいたのか、王仁三郎が神々の目をくらましたのか。そんなことはない。あるはずがない。ゆらめきたつ天地に向かって、澄は叫びたかった。 亀岡駅から小一里の道を歩いて、穴太の上田家に着く。 庭に筵を敷いて大豆を乾していた世祢が、嬉しげに迎えた。七十の歳で重い病を切り抜けた世祢は、老いながらもまだ仄かに昔の色香を残していた。 全快の祝いを述べ、世間話をしながら、澄はさりげなく問題に切り込んでいた。「火のない所に煙は立たぬと言いますがなあ、火のない所に煙が立つこともありまっしゃろか。お姑さん、この頃妙な噂が……先生が有栖川宮さんのご落胤じゃという噂が流れとるんですわな」 世祢の目が澄からそれ、膝に向かった。品の良い口元が、かすかに喘いでいる。 澄の動悸は高鳴った。「そんな阿呆げたと思いますやろ。それがなあ、鶴殿さんという皇室に関係のあるお人が、宮さんと先生と生き写しじゃと言うとってんげなで、噂が余計本当らしゅう見えますわな」「……」 なぜ来たんやろ、来なんだらよかったのに……澄の目は逃げ場を求めて、庭へ。 熟した柿の実が明るい秋の日に照り映えて眩しい。私市に奉公していた子供の頃、稲むらに烏が隠した熟柿を見つけてむさぼり食った。舌もとろけるばかりのあの甘さを、故もなく澄は思い浮べる。のどが乾き切っていた。 身じろぎして、世祢は面を上げる。「喜三は……先生は、どう言うてでした」「おってやないもん。聞いてしまヘん。そんな、よいころかげんな嘘や、嘘に決まってます」 言いつつ、澄の胸を激しく怒りがこがしていった。「お澄さん、あんたはんにも教祖はんにも、お詫びせななりまヘん。喜三は熾仁親王さまの御子……証拠の品はうちが、あの火事にも焼かんと守りましたのえ」 世祢は立ち上がり、押入れの戸を開け、古い柳行李を引きずり出した。畑仕事にささくれ、節くれ立った世祢の指が、四十七年前、初めて胸に抱いた白い紋綸子の小袖に触れた時、澄の姿はもうそこになかった。
「気がついた時は二条駅やった。白い小袖の端をちらと見ただけで、頭に血がのぼってしもうて、何が何やら分からなんだんやな」 後年、澄は二、三人にそう語り伝えている。肝玉の太い澄が、それほど動転していた。 綾部とは反対の京都行き列車にとび乗ったのは、少しでも王仁三郎や穴太から離れたかったのか。二条駅に降りた時、もう綾部になど帰るまいと、澄は思いつめていた。ただ無性に直日に会いたかった。直日の汚れのない瞳を見たかった。 駅前で客待ちしている人力俥夫に声をかけた。「すみまへんが、娘のとこへやっとくなはれ。梅田信之さんの家にあずけてありますのや」「ヘい、おおきに、京都のどこです」「二条駅で下り、ちょっと行ったあたりやったで。門に松のある家言うたら、この前は見つけてくれちゃったがなあ」 澄は、しょうこりもなく、まだ梅田家の住所を覚えていなかった。初めて梅田家を訪ねた時は、長い間かかって門に松のある家を探し出したが、探し出せたことがよほどの幸運であったらしい。それ以後、いつも誰かと一緒で、一人で来たことはなかった。 日の落ちた京都の町を、軒なみにのぞいて走った。いくら行っても、見覚えのある松にぶつからぬ。老年の俥夫が、とうとう根負けして梶棒を下ろした。「お客さん、もう降りとくれやす。これでは一晩中走っても、きりありまヘん。どこか宿屋ヘでも連れて行ってあげますわ」「すみまヘんけど、もうちょっとさがしとくれなはれな。うちの娘は変わった子でなあ、女子に生まれたのが悲しゅうて、男の着物に男袴、男下駄はいて、木剣さして歩いとるんですわな」「へえ、なんや、その娘はんどすか。それならわしら俥夫仲間は、みんな知ってますで。毎日竹刀かついで北野の武徳殿へ通っとってどす」 俥夫は梶棒をにぎり直して、たちまち梅田家の前に下ろしてくれた。白虎隊員らの奏上する若々しい祝詞が門外にまで流れていた。 澄は新しく涙が滲むのを急いで指で払った。
 大正六年十一月十六日、綾部の行啓の道筋は、奉迎の人波でふくれ上がった。京都から廻されたお召馬車はすでに横づけとなっている。細かい雨が降り続く秋冷の駅頭には、奉迎の有力者のための署名場が設けられ、物見高い人たちが集まっていた。 山高帽に八字髭、いかめしい大礼服姿の男が、颯爽と人波をかき分けて、署名台に近づいた。男は筆太に「浅野和三郎」と署名した。 小学校の生徒たちは、道が狭いので、上野の蚕業試験場の前の溝の中に入りこんで、頭だけ出してお迎えすることになっていた。本来なら最敬礼する所だが、それでは溝につかえてせっかくの鳳輦が拝めぬ。恐れながら上目づかいに国母さまを拝ましていただくようにと、先生から特別の指示があった。 お召馬車はかつかつと馬蹄をひびかせて蚕業試験場へ進む。同場をご台覧の皇后陛下は、やがて郡是製糸へと向かわれる。 沿道を埋ずめる群衆の中に、呑気な顔の王仁三郎があった。夫により添って、その腰帯を、緊張した澄がしっかり握っている。湯浅と竹原が、梅田家まで出向き、澄をなだめすかして連れ戻してきたのは数日前であった。
 並松の浅野家南隣に新住民が越してきた。糸満盛良大尉夫妻と女児である。琉球出身の糸満は、海軍機関学校教官時代の浅野の教え子であった。後、分隊長として軍艦「吾妻」に乗組み舞鶴から参綾、浅野の鎮魂を受けた。秋山真之の離脱以来、海軍部内に流れた悪評をも恐れず、一途にとび込んできたのだ。 糸満一家と前後して、浅野家の真下の二階家に引移ったのは篠原国彦大尉と千代夫人、三人の娘たちだ。 気の荒い守護霊に急所をにぎられたまま、有無を言わせず単身引きずられてきた篠原は、永引く病のため綾部脱出をあきらめて妻子を呼び寄せたのだ。 篠原の性格は、いわば破滅型、ものにこだわらぬ楽天的なのはよいとして、俸給を丸ごと痛飲、あとの暮らしは風まかせの積み重ねが、すでに首のまわらぬだけの借金をつくり上げていた。かてて加えての奇病である。腫れ上がった睾丸はぽつぽつと穴だらけ、医者なら首を傾げて除去手術を勧めるのがおちという難物だ。借金と病いに攻めつけられ惨憺たる修行のあげくこの秋破産、他方では休職の命を受けた。残るはただ病いだけ……。 どん底にたち至って、篠原は初めて神の前に我を折った。寝たきりの床で、大本神諭を熟読した。 ある日、篠原は真剣にこう祈った。「神の慈悲によって罪穢を除いていただく最中の私の身ですから、病気平癒のお願いなどは致しませぬ。ただ場所が場所で働こうにもいささか困ります。体のどこか、もう少し、見よいところに、この病いを移して下され」 祈りは達したのか、一夜で革命が起こった。つまり、睾丸はけろっと全治して、代わりに左腕上部が抉れ出し、腐蝕して血膿の噴火口と化したのだ。 王仁三郎は浅野と共に見舞いに出向いた。見るからに痛ましい腕の傷にも負けず、篠原は意気軒昂である。「やあ教主さん、大本は型を出すところ、地の高天原にあったことは必ず世界に映る。やっぱり筆先はありがたい。いや、たいしたもんですなあ」「なんのことや」と王仁三郎。「気がつきなさらんか、煙草ですよ、煙草……今年の一月に『敷島新報』が改題して『神霊界』になり、一ケ月十銭の誌代が十二銭に値上げ……それがどうです、今年も末の十二月一日、煙草まで真似して一割七分の値上げ。朝日十銭、バット六銭はよいとして、ほれ、教主さん愛煙のその敷島が十銭から十二銭に……こわいもんですなあ大本は……しかし、遺憾なのは敷島煙草の名称が変わらんことです。何故《神霊煙草》と改称されんか、それが分からん」 大まじめな篠原の怪気炎に、浅野は二の句がつげず、王仁三郎もまた撫然として敷島の煙にまかれていた。
表題:三兄弟 12巻2章三兄弟



 丹波の夜霧は深い。晩秋の寒気が衣服を通して忍びいる。山上花代は、かき寄せた襟巻に隠して、生あくびをかみ殺した。「子の刻までもうじきやで、眠たかろうけどね、まあ辛抱しなよ」 森慶三郎(四十三歳)はやさしく囁く。「ちょっと寒おまんねん」と鼻声になるのを、「宿ヘ帰ったら、熱いのでキューとやろかいな。何しろ、こんな大神事に、偶然にも参列できるのやして……こっち来いよ、始まるまで火にあたろか」 花代の肩を抱いて、森慶三郎は人波をかきわける。金龍海のみぎわは、池水に照り映える十五ヶ所の篝火と無数の神燈で、まばゆいばかり明るかった。 大正六年十一月二十八日の深夜である。金龍海の小島の一つ神島には、岩戸の上に新しく建立された大八洲神社が舞い散る火の粉に千木を染めている。「どちらからお参りどす」 松明係の森津由松の傍で、顔を篝火の炎に赤らめ手をあぶっていた田中善臣が、声をかけた。商人らしく、森は背を屈めて愛想よく答える。「へえ、大阪から参拝させてもらいました」「言葉が違いますなあ」「和歌山で生まれて和歌山で育ちましたんや。けどなんですなあ、綾の高天原やと聞いとりましたが、さすがに神々しい別天地ですなあ」「初めてどすか」「二度目ですわ。九月の末に一遍参らしてもろたんですわ。それが今夜は大八洲神社の遷宮式など、ちょっとも知らんと来合わせたので有難いです。そやけどえらい人出ですなあ。どこからこんなに出てきやはるのやろ」「京・大阪・福知山・中国・山陰・四国……東京からは岸一太博士はんやら静岡からは長沢雄楯先生御夫妻もみえてます。これは内密やが、皇后さまの叔母さまいうお方もおしのびできてはるはずどっせ」「金龍殿のあたりに軍人がようけあったのし」「あれは舞鶴の軍艦〃吾妻〃から御参拝のおなじみの海軍さんたちや。松本少佐・立花大尉・糸満大尉・佐伯少尉……京都からは福中機関中佐はんもみえとってどす」「しかし、大本というのは、変わったとこですのう」「そりゃ普通の所とは大変わりどすで。けどあんたはんの見られるところ、どう変わってます」「まず初めて大本さんへお参りした初っ端からや。黒門の近くまで来たら、前を歩いていた男女の参詣人が急に四つん這いになった。まるで小さい穴でも通り抜けるふうに、腹ばうて、ぬたぬた手をついてくぐっていてしもた。あんまり妙やから、黒門の外から呼んでみたのや。『もし、ここは這うて通らんならんのけ』すると二人は立ち上がってきょとんとしている。すうと通りぬけて、わしも黒門を見上げました。何のことはない、高い高いただの門やった……」「ああ、そんなこともようあるんや」と森津由松が口を出した。「どうしてもあの黒門がくぐれんと、荷物も何もほり出して逃げてかえるお人もあるんどす。別に何のしかけもござへんのになあ」 田中が説明口調になる。「なんでや知らんが、あの入口でまず身魂相応の形がさせられるんどすなあ。這うて入った人たちは、たいてい鎮魂で憑きもんの正体をあばかれ、体から追い出されます。それで帰りにはちゃんと歩いて黒門出て行かはるんどす。恐いもんどっせ」 森は話し続ける。「変わっとるのはそれだけやなかった。黒門をくぐって、受付へ顔を出して見た。長髪をひっくくって後に垂らした粗末な着物の男が、雑誌の帯封書きをしていた。わしが声をかけると、その男が見るなり、咎めるような声で言うのや。『待っとったで。あんたはん、えらい来ようが遅いやないか……』びっくりしてよ、何か人違いしてるのやろと思て、教主さんに会わしてほしいと頼みました。すると二度びっくり、その男が出口王仁三郎先生であった。まさか教主はんが受付で帯封書きしてはると、思わなかった。 教主はんは言うのんや。『わししか帯封書きする者があらへん。これがどんな大事な仕事か知りくさらんと、阿呆どもが鎮魂ばかりに呆けさらして、しょうもない奴らじゃ』、それからにやっと笑って、『もっとも帯封書きだけで坐っとるのやないで。どういうものか、大本の人間は、初対面の人を怒らせるのがうまい。だから因縁のある人が来ると神さまから教えられた時には、わしが受付でこうやって網を張っとる。どや、受付は大事な所やろう』 初めての時は一泊で帰ったですが、大阪ヘ帰ってからも、妙に出口先生に呼びつけられる気がして落ち着かなんだ。商売の都合つけてそこそこに出て来てみれば、なんと、こんな結構なお祭の宵でっしゃろ。お花、寒ないか」 喋りながらも、連れを気にしている。 田中の目も、ちらちらとそちらを観察していた。「えらい粋な奥さんどんなあ」と田中は、察していながら訊いてみた。「いや、違いますのや。女房は大阪に置いてますのん」 真顔で答えながら、森は肩をすくめた。「お筆先みとると、大本の神さんは男女の道は厳しいなあ。こんなお祭があると知ったら、連れてくるんじゃなかった。鬼門の金神さんに怒られたら、わややなあ」「旦那はん、御心配やったら、わて、先に宿へ帰なしてもらいますわ。別に頼んでついて来たんやおへんさかい……」 唇を突き出して、花代がすねた。森はうろたえて機嫌をとり始めた。 気の毒になって、田中はなだめかける。「まあまあ、あんたはん、ちょっとあの梅の木の傍を見とおみやす。ほれ、女の人が二人、立ってまっしゃろ」 田中の示す指の先、池のほとりに姉妹のように寄り添っているのは、梅田安子と坪川あい、二人とも揃いの髪型、揃いの無地の着物である。「あの二人、本妻とお妾はんどっせ。背の高い本妻の方は、あての姪どすけどな。その旦那が梅田信之いうて、今日の大事な祭典の副斎主をつとめとってどす。そうや、おまけに念の入ったことには、祭典の八雲琴を弾く伶人の一人はまきというて、本妻の妹、今は福本の嫁になっとるが、やっぱり梅田はんと子までなした仲どす」「おお、おとろしいね、それでも罰があたらんのやろうか」 花代は、興味ありげに訊いた。「それが、どうも罰あたらんのどすわ。あても、ほんまのとこ、さっぱり分からん。教主はんは、そんなこと関係なしに梅田はんを大事にしてなはるし、三代さまの教育係にまで任じとってや。あんたはんらも、たいてい神さんが大目に見てくれてはるのと違いますか」 その時、金龍殿から午前零時の合図の太鼓が鳴り響く。人波が割れて、この日の斎主、衣冠束帯の出口王仁三郎、附添の出口大二、副斎主浅野和三郎、同梅田信之、神饌長吉田龍治郎、副神饌長牧寛次郎、祓戸主湯浅仁斎その他七人の祭官が随い、北側広場に設けられた大祓の斎場に着席する。池畔の一方から六人の伶人の弾く八雲琴の幽幻な音色が鳴り渡り、人々を神代の昔に誘うようである。 ふいに数えるほどの雨滴が顔を打つと思う間もなく、元の冴えた月夜に返る。「龍神さんの潔めの雨どす」と、田中が森に囁いた。 夜空に浮き出る松の緑、ゆらめく火明かり、純白の衣装もすがしい祭官たち、大八洲神社の十曜の金章が燦然として金龍海の清波に輝いている。大阪の煤煙の中で暮らす森には、信じられぬ厳粛さ美しさである。 金龍殿に安置された神籬が唐櫃のまま池畔の小舟「日の出丸」に移される。斎主、副斎主が神霊に添い奉り、祭官たちは二隻の小舟に分乗し供をする。霧は白く水面を這い、舟はさながら雲上をかき分けて行くようである。 八雲琴の調べに送られて金龍海の島々をゆるゆると一周、と、頭上の空のみさっと時雨れて、雨滴が一瞬池の面に細波をうつ。「龍神さんもこの祭典には参加しとってやなあ」 あたりは感嘆の声で揺れ動いた。 小舟は神島に横づけされ、唐櫃は社頭に安置された。斎主・斎主附添は外陣に、浅野・梅田副斎主は殿上に、その他の祭官は階下斎場に席が決まると、篝火の火が一時に消される。十四夜の月は雲を払って、水色に下界を浸す。神籬は円陣に移され、斎主出口王仁三郎によって御神霊鎮めの儀が行なわれる。扉を通して、内からは王仁三郎の奏上する祝詞の声がかすかに洩れる。 三十分の後、外陣の扉がさっと八文字に開かれ、八百万の天津神国津神に向かって宣詞が宣り上げられた。 この時王仁三郎には豊雲野尊の和霊賢和田姫命が降られて、容貌・音声・振舞ともに優雅を極める。続いて賢和田姫命の神がかりによる和歌三首を女声で高唱、終わると社頭に下り、祭官を率いて神嘉言、太祝詞を唱える。 再び篝火が点火され、神饌・玉串奉奠、最後に傍仕の任に当たった豊本景介、岸一太、福中鉄三郎の挨拶があった。 祭官一同、小舟に乗って神島の霊域を離れる。時まさに四時、大八洲のしじまを破って雉の鳴く音が長く尾を引き夜明けを告げる、奇瑞があった。この秋、湯浅仁斎が宇津の里で見つけてきたつがいの雉で、長い見事な尾のあまりの美しさに持ち帰ったところ、「この鳥や、今度の祭典に必要なのは……」と王仁三郎は喜んで大八洲の岩戸に養わせていたもの。 少しは心を洗われた気味の花代と無言で暁の道を帰りながら、森は自分の胸の底から噴き上げる、あの雉にも似た感動の叫びを、懸命にこらえていた。 森慶三郎は旧和歌山藩の生まれ、七人の男兄弟の三番目である。父森儀三郎は、廃藩後も武士気質を捨てられず、利殖の道を計れなかったため、大勢の家族を抱えて座食した。貧窮のどん底に陥ったあげく、森家七人兄弟は離れ離れに散る他なかった。 慶三郎は二十一歳で湊屋町の北野家の婿養子となり、妻まさとの間に四人の子をなした。北野家は養父の代からの商家であり、万雑貨の店の他、和歌山産出のネル地を関西一円に卸す仕事も手がけていた。 まさは人のよい女であったが、商売にかけては男まさりの働き者、若い夫妻が助け合って家業に打ちこむのを見て、「おまさは日本一の婿はんもろうた」と北野の父は喜んだ。子供らにとっても、慶三郎は心やさしい申し分のない父親であった。 ところがこの日本一の婿さん、貧しいうちはよかったが、金さえ握れば、とことん使わずにおれぬという困った性分が出てきたのだ。殿さま並みの茶屋遊びに一夜で有金をはたき尽くして、ひょうひょうと帰ってくる。 お家大事のつましい商家にとって、これは大問題であった。とんでもない婿はんや、先が思いやられると、北野家では青くなって騒ぎ立てた。 明治末年、三十七歳の折、大阪に養子に行った次弟嘉門文蔵からメリヤス輸出の仕事を手伝ってほしいとの話が出た。自分から北野家の籍を抜いた慶三郎は、妻と四人の子供を和歌山に残し、単身大阪へ走った。 慶三郎はメリヤスの製造工場を起こし、弟文蔵の輸出業の顧問格ともなって縦横に腕をふるった。事業はとんとん拍子に発展した。 メリヤスの卸しに朝鮮へ渡って、慶三郎はそこで思いがけぬ恋をした。釜山の業者に招待された酒宴の席で出会った花代である。同い年であるからとうに盛りを過ぎた大年増ながら、そのあだっぽさ、奔放さの中に滲むいい知れぬ情感に心そそられ、酔い痴れる。 当時、花代には朝鮮銀行の頭取という、ひどく羽振りの良い旦那がついていた。 慶三郎が思いあきらめて帰国したあと、花代は、実の妹と旦那との情交をつきとめ、逆上した。「そんなに欲しいのなら、くれてやる」 叫びざま、力にまかせ持っていた煙管を妹の顔面に叩きつけた。煙管は折れて飛び、雁首だけが妹の額深くめり込んでいた。花代は、旦那と妹と実の母親に絶交を宣言し、そのまま釜山を飛び出して一人日本ヘ帰った。 大阪で花代と再会した慶三郎は、妻も子も忘れて、たちまち二人の愛の巣に溺れこんでいった。 大正五年正月元旦、慶三郎・文蔵兄弟は、思い立って同じ大阪に養子に来ている次兄小笠原義之宅を訪れた。 三人とも父に似ず商才に恵まれていたのか、小笠原家の看板業も手びろく順調に伸び、かなりの資産ができていた。心うれしい元旦であった。 祝い酒を飲み交わすうち、「人としてこの世に生をうけた以上、何か国家に功労をたてるか、記念すべき建造物でも残したいものだ」と言う話になった。さて、それには何がよいか、で三人は意見をたたかわした。ほんの座興のつもりであったが、だんだん真剣になってきて、ようやく三人の見解が束ねられた。 近来、わが国民の頭から敬神の念が薄らぎつつあり、国体の如何をすら解せない者の多いのは、実に嘆かわしい次第である。尊皇というも、愛国というも、その淵源はことごとく敬神より発する。この際、直接間接に敬神の念を鼓吹するには、神社を建設して一般に敬神の範を示してはどうか。それこそわれら三兄弟の心意気を顕わす記念の建造物となるであろう。 そう熱を吹く小笠原は、酒の上でのはずみではなかった。彼はもう十年以上前から神に憧れ、前年の十月にも大峯山から鞍馬山ヘ登って、一人で修行していたのだ。 その場で実行方法の具体策まで練った。神社の建設地が、まず小笠原に一任された。 商売はそっちのけで、小笠原は場所探しに走り回った。約半月後、京都嵯峨の奥、俗に言う空也の滝を候補地に決め、三人で実地踏査に出かける。空也念仏の祖、阿弥陀聖と言われた空也上人が行をしたという因縁の霊地である。天然の屏風を立てたような岩が三方を囲み、中央正面には愛宕山から落ちてくる三丈余の滝が水煙を上げ、いかにも霊場にふさわしい。一も二もなく決定し、直ちに建築に着手することにした。 小笠原は力説する。「いやしくも神霊の御降臨を仰ぐお宮を造営するんやね。それなら、石垣一つ築くにしても、世間並みに予算を立て金銭に制限をつけることはしたくない」「つまり金に糸目はつけんということやろ。よし、分かった」 弟たちもすぐに応じる。 大正五年三月着工、同年十月、神殿・拝殿・社務所等が落成、参道の急勾配には百六の石段を刻み、石の大鳥居を打ち立てる。総工費二万五千円、道楽の域を越える巨費である。三兄弟の私財をほとんど傾け尽くすほどであったが、悔いはなかった。 ところが奇妙なことに、宮はでき上がったものの、肝腎の祭神が決まっていないことに気がついた。三人はあわてて相談し、三人で協力して造ったのだから三種の神宝に象って御神体とすることにした。小笠原義之は鏡、慶三郎は劔、嘉門文蔵は曲玉を調えた。神紋も三人の兄弟に因んで三つ巴とし、社名を八百万神社とした。日本のどんな高貴の神々さまでも御降臨願おうという、欲ばった心算である。 竣工祭を十月十五日と決めてから、さて神主の選択に困った。これだけ兄弟の誠意を傾けて神社を作った限り、祭典の神主もそれにふさわしい高潔な人格の持主を選びたい。しかし見渡す限り、世間の神官で世俗にまみれぬ人はありそうに思えぬ。とりあえず愛宕山の神官の野間某という七十歳を越えた老人に頼み、祭典をすませる。 以後は三兄弟が一人ずつ奉公人を出し、交替で社務所に宿泊お給仕をさせた。 嵯峨に弁財天を祀る小さな祠があり、菱田という行者がお守りをしていた。菱田行者の心願は、弁財天の祠を立派に普請したい、ということであった。嵯峨の奥に神社を建立した奇特な三兄弟の噂を伝え聞いて、行者は小笠原の家に訪ねてきた。「弁財天さまの御普請をしとくれやす。実は、私と弁財天さまとの約束があります。普請ができたなら、何でも一つの望みを叶えてやると、おっしゃるのどす。もしあなた方でしとくれやしたら、代わりに何でも一つだけ望みを叶えてもろうたげます」 普請することは引き受けたが、望みの方は即答できない。早速二人の弟を呼び寄せて、弁財天に何を註文するか相談した。智恵を集めた結果、こうまとまった。昔、一国の政治を執るには、天津神算木の法によったと伝えられる。この法が復活されたら、世の中が無事大平に治まるであろう。その上、現今の新暦では農作物その他すベてに不便であり、旧暦はあるが用いることを禁じられている。今一つ宇宙の運行から割り出した恒天暦というものがあると聞く。これと神算木の法を教えてもらおう。 小笠原が代表して行者と交渉した所、お伺いしておくと言うことであった。 二、三日して聞きに行くと、「御神託がありました。天下広しと言えど、天津神算木の法を知るものはない。必ず教えてやるから、すぐ神殿造営に着手せよ、と言うことどす」 上嵯峨村に敷地を定め、普請が進行するにつれ、行者を通じて、神算木の法に必要な建築物の格好からその他色々の器具を造る図面が示された。いずれも風変わりな物で、なるほどと思わせる。兄弟三人、ますます勇気が湧いてきた。「もしこれが完全にわれわれに伝えられたら、決して私すべきものやない。それこそ国家のために陛下に捧げるべしやしよ」と誓い合った。 指図通り天心台と地心台を作り、弁財天の祠も完成した。小笠原は、行者について霊覚を得、天心台の運用を学ぼうと、専心修行に励んだ。そのために商売を廃め、一家を引き連れて嵯峨に移住、八百万神社の神官になる熱狂ぶりである。慶三郎も嘉門も月のうち何回となく通って行に励む。三兄弟の心は尽忠報国の赤誠に燃えていた。 小笠原は弟たちに言う。「人には無常ということがある。神算木の法を知り国に捧げるという大望を持った以上、万一わしの倒れることがあったら、お前たちが必ずその意志を継いで完成してくれよ」 この頃になって、慶三郎は、和歌山においてきた北野まさと三人の子供を呼び寄せた。北野家の籍を抜いたとは言え、慶三郎が子供たちの父であることに変わりはない。大阪に嫁いだ長女秀子の結婚式で一度家族と会っただけ、離別してから五年たつ。神社を建立し神に仕える身で妻子を捨てておくのはいけないと自分も省み、兄弟にも忠告された結果であった。 まさはまさで、「夫婦がそんなに長う別れとってはあかん」と人から注意されて好きな店を閉め、夫を追う気になった。それに下の男の子二人も、女手一つで育てるにはむつかしい年頃であった。 故郷を離れて大阪の都に来てみれば、何もかも驚くことばかりである。話に聞くよりは大がかりなメリヤス工場、大勢の職人、女中たちに囲まれて夫は一まわりも二まわりも大きく逞しくなっていた。すみ子、孝一、もう抱き上げるには重すぎる末の子安蔵、涙ぐんで子らの頭を撫でまわす夫を見て、やはり家族は一緒に住まねばだめやと、まさは思った。 夫が巨額の金を投げ出し、神社建設のために狂奔していることを、まさは知った。「森家の罪滅ぼしのためや」と夫は言った。茶屋あそびよりましかも知れんと、まさは思った。 大阪ヘ来ても、まさは故郷にいた時と変わらない。家つき娘で、家を守ろうとする意識のこびりついているまさは、無駄が何より気になった。自分が来たのだからと夫に願って、まず女中の数を減らし、なりふりかまわず働き出した。こまごました夫の身のまわりの気づかいよりも、店に出て働いている方が性に合っていた。 そのうち、夫の外泊の多さに、いやでもまさは気づかねばならない。花代の存在を店員から知らされても、それほど衝撃を感じなかった。四人の子までなしたという重みが、まさを落ち着かせていた。「日本一の婿はんもろうた」と早とちりして喜んだ気のよい父の言葉は、まだまさの胸に残っている。妾を持つのは男の甲斐性という男の側の一方的な言い分も、やっぱりそんなもんやわなあと夫に照らして、自分を納得させた。まさには、仕事に追われる楽しみがあったから、それに子供たちをかまうだけで手一杯であったから、夫の浮気という思案に余る難題と正面から取組むのは、できるだけ避けたかった。 大阪の辻本家に嫁している長女秀子が訪ねて来て、夜はほとんど家にいない父の行状を知り、憤激した。新妻の潔癖さで、そうした父を許しているふうな母の態度にまで食ってかかる。かえってまさは、夫の側に立った。「もうお父さんも若くはなし、子供たちも大きなる。どうせそのうち別れるやろ。それにのう、商売を懶けなさるわけじゃなし……」「母さんはすぐそれやから……父さん奪られてしもても、うち知らん」 秀子は、ぷんぷんして帰ってしまった。 大正六年九月初め、慶三郎は、ふとその年の正月に大阪平野町の島田という盆景屋で見た図柄が胸に浮かんで離れなくなる。弁財天女が岩上に腰をかけ琵琶を弾じている前に、白蛇が耳をそばだてて聞き入っている盆景である。急に欲しくてたまらなくなり、妾宅へ寄って花代を誘い、さっそく島田ヘ行った。その盆景を説明し、さらに弁財天女の腰かける岩の傍に鶴を、波打ち際に龍を配した図柄を注文した。 店主は慶三郎の顔をじっと見つめた。「且那はん、その絵柄はどなたはんが考えなはりましたん」「誰と言って……なんとなし、わしがそんな図柄を欲しゅうなったのよ」「へえ、そうだっか。けど不思議だんなあ。旦那はんの言わはる図景は、丹波の大本はんにあるのんと同じだっせ」「大本?……それ、なんやね」 店主は奥ヘ引っ込んで、二、三冊の『神霊界』を持ってきた。「明治二十五年から世の立替え立直しを叫んどる宗教だす。これを読んで見なはれ」 手にとってパラパラと見ただけで、容易ならぬ記事が目につく。あるだけの『神霊界』を借り受け、なお初号から取り寄せてほしいと金を預けて頼んだ。 妾宅へ戻ったが、この夜ばかりは花代の甘え声にも耳をかさず、『神霊界』に読みふけって夜を明かした。すると綾部ヘ参りたい気持ちが押え切れず、九月下旬に第一回の参綾を果たした。 商用や天心台の修行の都合を片寄せて、今宵、花代を連れ、二度目の参綾となった。期せずして大八洲神社の遷宮式に列し、理屈より先にその壮厳さに感動した。八百万神社を大本に献納したい。燃え上がるように森慶三郎は思った。 思いつくと、矢も楯もたまらなくなる。しかしそのためには、どうしても兄弟の賛成を得ねばならない。「一つ電報で呼び寄せるか」 思わず声に出していた。並んで歩いていた花代が、どしんと体ごとぶつかってきた。「御寮さん呼び寄せてどないしなはりまんねん。ほならわて、こんなり大阪へ帰なしてもらいます」
 遷宮式のすんだ二十九日午後一時から大八洲神社初祭が執行される。森も花代も参列した。斎主吉田龍治郎によって初発祝詞が奏上されると、教祖出口直は、教主王仁三郎・二代澄・三代直日・教嗣大二・教統梅田信之・教監豊本景介・浅野多慶・牧八重野・豊本夫人・星田悦子らを随え、神島に渡る。 前夜の遷宮式には高齢のためか参加しなかった教祖直の姿を、森は初めて目前にした。八十一歳という直の神々しさ、奏上する祝詞の声の玉をころがすばかりの美しさに魅了される。 その直は、神前に伏したまま、激しい神人感合の域に入っていた。同時に王仁三郎には賢和田姫命の神がかりがあり、一首の長歌が高らかに詠まれたが、事があまり急であり、また長いので、聞き入る参拝者たちの中でも全部を記憶する者はなかった。 祭典が終わってからも、直の感合は去らず、拝跪三十分に及んだ。 どうやら森は亀嘉旅館に腰を据えてしまったようである。大本の講座を受けに金龍殿へ日参し、鎮魂を受け、夜は夜で筆先に憑かれていて、いっこう綾部を動く気配を見せなかった。 花代は先に大阪へ帰ってもよかった。森ほど信仰に陶酔できなかったのだから。それに都会生活に慣れた彼女には、綾部の生活は単調に過ぎた。それでも帰れなかったのは、森慶三郎という男をまさと共有しているからである。ちょっとゆるみを見せれば、子供をたくさん産ませたまさの方に、男の心が傾かぬでもない。そうさせてはならなかった。 この世もあの世も、人間には初めから二種類しかないのだ。男と女――どうしてこの二種類が、数もそこそこ同じにあるのか、花代には分からない。分かるのは、ただ男と女が結び合うためにこの世には戦いがあるということ。だから花代は、熾烈に戦い抜いてきた。 花代は愛媛県温泉郡三津浜町に生まれ、貧しさゆえに母に連れられて朝鮮に流れた。妹と共に芸者として育てられ、何人かの男の持物になった。 大半の女は、男を一人独占して妻の座に安住し、ともかくもその生涯を終わるのだ。なのに男を共有することで満足せねばならぬ自分の運命が、花代には我慢できない。本妻との戦いの武器はただ一つ、長い色町の暮らしでみがいた手練手管である。 何人か旦那を代え、朝鮮銀行の頭取の妾になった時、花代は、これで男から男への浮草のような人生の終着駅に達したかに思った。本妻は日本にいたので、花代はほとんど自分の立場を忘れ、独占の喜びに酔うことができた。 花代の幸福は、うかつにも気を許した妹によって奪いとられた。男との戦いの前には、血を分けた母も妹も憎い敵と、骨身にしみて悟った。 今の森慶三郎は、四十三歳というこの年になって、残り香のすべてをかけて掴んだ男、今度こそはどうでも自分のものとして死ぬまでしがみつかねばならぬ。 花代は、森のようには、大本に関心が持てなかった。それよりも、遷宮式の時に見かけた梅田信之をめぐる妻と妾の関係にこそ興味があった。表面上であれ、どうしてあれほど仇同士の間に平和を保ち得るのか、周囲もそれを許しておくのか、その理由が知りたかった。 人見知りしない花代は、まだ綾部に滞在中の梅田安子や坪川あいと友達になった。同じ花柳界育ちだけに、話の通じるのは早い。 あいを見て、花代は、梅田が夢中になる理由が分かる気がした。あいのすべては梅田に向かって開いている。梅田の喜びを喜び、言いなりにいそいそと動く。技巧ではなく、天性のものらしかった。誰に対しても、疑うことのない無邪気な目を向けた。 いつも梅田の傍に寄り添っているので、あいとは語り合う機会は少なかった。 安子は花代の誘いにのって、亀嘉旅館にも遊びに来た。炬燵に入って、互いの過去を語り合った。安子は三十八歳、五つ年下だが、男のことでは花代と同様かなり苦労をしているらしかった。もっとも安子は妻として一人の男で苦労を重ね、花代は何人かの男の二号として苦労する違いはあったが。「これだけ信心していてもなあ、ひょっとおあいさんの首をしめとる夢を見るんどっせ」 告白するように安子が言った時、花代は、何か救われたような気がしたものだ。「本妻さんにはお子たちがたんとおってんどしたら、あんたはんは、なんで対抗おしやす。色香どすか。そんなものは、いつかは色褪せます。旦那はんの好きなものを一緒に好きになっておみやす。旦那はんは、今何を考えとっておいやすか……」「あの人やったら、いま大本の神さんに夢中だすさかい」「そうどっしゃろ。あんたはんも大本の神さんを熱心に信仰おしやす。ここに引き寄せられたのは偶然やおへんえ。みんな深い神さんのお仕組の糸や。信仰だけが、旦那はんとあんたはんをつなぎ止める強い糸どっせ」と安子は言った。 信仰が旦那と妾の関係をつなぎ止めるという論理も奇妙であったし、妻の座を脅かされている安子が妾の側に立った物言いもおかしかったが、花代はパッと目の前が明るくなった。そうや、わても旦那はんが信仰してなはる間は負けずに信心しよ。 安子が帰った後、花代は寝そべって、『神霊界』に発表された総ルビつきの筆先を読みはじめた。一節でも暗誦して森を驚かしてやりたかった。 十二月四日、森慶三郎の手紙と電報で、兄小笠原義之が来綾した。弟の嘉門は商用で大阪を出られず、小笠原に一任するということであった。 森は毎日浅野から鎮魂を受けていたが、一度も発動しなかった。小笠原は一度の鎮魂で発動し、深く感ずる所があったらしい。三兄弟が夢中になって知りたがった天津神算木の法も恒天暦もすでに王仁三郎に伝わっていると浅野に聞き、さらに驚きが加わった。 だから、森が八百万神社献納の話を持ち出すと、小笠原は即座に賛成した。とにかく思いきりのよい、よく気の合う兄弟である。 翌日、王仁三郎に面会を申し込み、兄弟は統務閣の教主室に通された。 王仁三郎は梅田信之と何か楽しげに話し合っていたが、例のあけっぴろげな態度で二人を招じ入れた。兄弟はかわるがわる八百万神社の建設の話をし、大本に寄附したいと申し出た。 話のなかばから王仁三郎は目を閉じたり開けたりしていたが、突然、妙なことを言い出した。「その神社の檜皮葺の屋根は、誰に請け負わせなはった」「あれは確か……京都大宮の渡辺と言う人やね」と小笠原が答えた。「渡辺信朝はんやな」「へえ」 王仁三郎は、かたわらの梅田をつついた。「どうや、梅田はん、何か思い当たることがあるやろ。大きな仕事を請け負うたから資金を用立ててほしいと、渡辺はんに頼まれたことが……」「あっ……」と梅田は声を上げた。「あります、あります。確か昨年の夏の初め頃、用立ててあげたことがおます。それ以来、商売がえろう良うなったと、渡辺はんは喜んではった」 王仁三郎は満足そうにうなずいて、兄弟を見た。「あんたらが屋根を請け負わした渡辺はんは、大本の京都大宮支部長や。小笠原兄弟三人は三つ(瑞)の身魂の代表や。梅田・渡辺両氏を加えて五つ(厳)の身魂となる。お互いにそれとも知らずに御用に使われておる。また奇なりと言うべし」 梅田が感にたえぬ顔で、筆先の一節を暗誦した。「――水晶魂を選り抜いて、神の御用に使うぞよ。この経綸は、後にならねば分からぬ仕組であるぞよ。誠の者に神がかかりて、誠の御用をいたさすぞよ。われがしておると思うておるが、みな神にさせられておるのであるぞよ。この神は、ちっとでも身魂に曇りがありたら、かんじんの御用には使わんぞえ。後になりたら、こんなことでありたかと申して喜ぶ仕組がいたしてあるぞよ」 王仁三郎は、目を細め、「宮の紋は三つ巴じゃのう。これは霊力体の表現で、素盞嗚尊の神紋であり、わしの出た上田家の定紋でもある。梅田・渡辺両氏は八坂神社・祭神素盞嗚尊の氏子やろう。これもまた不思議や。それに八百万神社の祭神が今もって確定しておらぬのも、初めから大本に納められる仕組やった。まことに御苦労でした」 感激屋の小笠原は涙を浮かべて手をついている。 森も嬉しいに違いないのだが、さっき梅田の誦えた筆先の文句が胸につかえていた。 ――梅田はんもわても、妾をもっている。神さんの目から見れば汚れきった体や。それなのにわてらが選り抜きの水晶身魂やとなると、はて、大本という所は、世間並みの善悪の規準は通用せん所らしいわい。 来春早々、八百万神社に参拝するとの王仁三郎の約束をもって、小笠原兄弟と花代が退綾したのは、十二月十六日であった。その間に東岩戸内で三日間言霊の修行をしたり、教理を研究したりして、兄弟は心底、大本信者になりきっていた。

表題:義理天上 12巻3章
義理天上



 衰えた蜂が足を垂れ、木枯らしにそよぐ枯れ薄の株間に這い込んだ。十二月も半ばの凍てついた地肌に敷くひなたくさい枯葉のしとね、そこを安楽な死場所と決めたのであろう、なえた足をのばして動かぬ。 そこは八木駅を下りて少し歩き、切り立った崖ふちと大堰川にせばめられた旧街道に添う鉄路を越えて、小笹と枯れ薄の茂る小道へ踏み入ったところ。二十年前、福島久が上田喜三郎青年(後の出口王仁三郎)綾部入りのきっかけをつくった寅天堰の茶店の旧蹟、と聞いたあたりだ。 星田悦子(五十歳)は、蜂の姿から目が離せなかった。 大阪北堀江の茶屋「田中屋」の女将として、遊廓きっての男まさりと人にも言われ、定まった亭主も持たず、子も産まず、ただがむしゃらに稼ぎ貯めた。 大正二年、人生の斜陽に立ってふと振り返り、すり切れ、老いた我が肉体と女たちの憎しみや涙でかちとった財産のすべてに、たまらぬ嫌悪を感じた。気も狂わんばかりに孤独で、虚しかった。 あの時、岡崎直子によって大本を知り、導かれていなかったら……と星田は思う。この孤独な足なえ蜂ほどの静かな死すら望めはしなかったにちがいない。今頃は狂うか、自殺か、あるいは三途の川の脱衣婆みたいに、老いさらばえた手で、人の着衣まではぎ取るような暮らしを続けていたかも知れぬ。 大本は、全く考えも及ばなかった異質の人たちの集団であった。教祖出口直の、その粗末な綿服にも包みきれぬ人格の高潔な輝きにうたれた。直の本霊が稚姫君尊といい、神代の昔、地上霊界を司どる神でありながら、色の道を違えて地に落とされ、苦労艱難をなめられたと聞き、わが生業を省みて慄然とした。 教主出口王仁三郎も、男を見る眼識を自負していた星田をとまどわせた。星田は知っている、磊落な男を、臆面のない野放図な男を、自信を持って生きる強い男を。けれど王仁三郎は、それらの規準では律しきれぬほど、すべてが度外れていた。 人前かまわず裸になり、野卑であけすけな王仁三郎が、初めはおぞましかった。女癖の悪さも幾度か聞いた。 噂の当の女たち自身が、それを匂わせるような口ぶりや態度で自己宣伝しているのに、やがて星田は気づいた。虚実いずれかは分からぬながら、女にそうさせずにはおれぬほど、王仁三郎の魅力は底深いのだと言えるかも知れぬ。誰とどんな噂が流れようと、王仁三郎の口から、ついぞ弁解など聞いたことはなかった。 ある真昼時、神苑内を歩いていた某女の背後から、いきなり王仁三郎が抱きつき、羽交いじめにした。某女が驚いて声を上げたため、近くにいた信者たちが飛び出して、ことなきを得た。 某女は激しく泣き出し、王仁三郎は照れたようににやっとして引き揚げたと言う。 目撃者たちは、腹に据えかね、教主の責任を問うといきまいていた。 星田はあきれた。この大本こそは、情欲の泥沼のような汚れきった遊廓とは最も遠い、純で清らかな聖地と信じたればこそ、己れの過去を捨てる気で憧れてきたのだ。それなのに教主ともあろう男が……それではまるで痴漢ではないか。 幻滅と悲憤に気負い立って、星田は王仁三郎にぶつかろうとした。その前に某女にあって、直接真偽を確かめておかねばならぬ。 星田は、その女を訪ねた。一人暮らしの佗び住居というより、もっとさびれた街はずれの陰気な家であった。そこで意外な事実を知った。相手は、涙を流して語り始めたのだ。 十数年前、女の夫は、妻と子を捨てて去った。子供が死に、ただ一人になって彼女は生きてきた。生きるというよりは、ただ死におくれていたと言った方がよかった。夜ごと夫を呪い、世間を恨んで泣いた。何度も自殺しかけたが死に切れず、この日、ふと聞いた街の噂で、大本に来てみる気になった。 信者たちの後に坐って教主さまに面会したが、特別に声をかけてもらえたわけでもなかった。 ――神さまなんてあるわけはない。やっぱり死んだ方が利口や。 後悔しながら、とぼとぼと帰りかけた時であった。ふいに後からふわっと誰かに抱きすくめられた。大きな強い手が肩をつかんで引き寄せ、広い胸に包みこまれて、無言で頬ずりされた。幼い時、もしかしたらお父さんにあんな抱かれ方をされたかも知れない……一瞬そう思ったほど、それは暖かい、やさしい抱擁だった。 その人が今面会してきたばかりの教主さまと知った時、思わず驚きの叫びを上げてしまった。人が来て、それきりであった。その場にへたりこんで、ただおいおい泣いた。人がいなければ、教主さまの膝にすがって泣きたかった。恨みも呪いも解けてしまって、凍えきっていた体中の血が、熱く流れ始めていた。「あの時、長い間背中にヘばりついていた死神が離れたのでっしゃろ、胸がすうっと軽うなって、空の青いのにしみじみ気づいたぐらいです。あのことは、うち一生忘れしまへん」 涙の中から、彼女は嬉しそうに笑った。 愛に餓えた孤独の暮らしがどんなものか、吾がことのように分かるだけ、星田には彼女の心境が実感できる。どんなありがたい説教やむずかしい理屈より、ただ瞬間の抱擁一つが、この女を救ったのだ。教主の身で、人目や誤解もおじずに、それを出来る男が王仁三郎の他にあろうか。王仁三郎こそ、肉を越えた途方もなく広い愛の持ち主なのかも知れない。 星田は、のめり込むようなめまいを感じた。自分も、そんな風に男に抱かれたことがあったろうか。 星田の前に新しい人生が開けた。夢中になって一団に加わり、信仰に打ちこんだ。 大正五年十一月、北堀江の自宅は養女エイ(二十六歳)にゆだね、身一つで綾部に移ってきた。金龍海工事の土運びもした。泥と汗にまみれて、奉仕者たちと共に味わう一服の茶菓の楽しさ。千万金を投じても、こうした心の充足など購えはしない。 しかし、その星田にも、信仰に深入りするにつれて、苦しみがつきまとい始めてきた。この八木への道を通うたび、星田の心は苦悩にゆれる。 綾部と八木――対立する王仁三郎と福島久が、星田の心を二つに引き裂きそうであった。何故なのだろう。 星田は動かぬ蜂から目を上げて、寅天堰の運命の出会いの跡を振り向いた。 久と王仁三郎のからみ合いが神にあやつられた因縁ごとであるならば、二人の間の板ばさみに苦しむ自分も、やはり、太古からの不思議な糸に結ばれているのだろうか。 今年の初め頃、星田は直に折入って頼まれている。「お米の霊をお久が引き受けてしもうてなあ、あれには、どうもこうもならぬ神が守護しておりますのじゃ。あの方の系統の霊には、大本の神さまは大変なご苦労をしておりなさる。八木の久の御用もまた、それだけにつらかろう。お久にかかる守護神は先生のやり方が気に食わず、先生はお久の言い分に耳をかしなさらん。お久も一途でこうとなったら少しも譲らぬ子じゃさかい、この先まだまだ長い戦いが続きますやろ。善と言い、悪と言うても、お互い変化れ者同士、すべてはお役の上でのことやでなあ。 星田はん、あんたはどうぞ、八木へもできるだけ顔を出して久の力となり、綾部との仲を和合させるようとりもってやっておくれなされ」 それ以来、星田は、どんなに異端視されようと、教祖直の命による久の介添え役として、一歩もひかぬ覚悟であった。 今年の十一月十二日、久が神がかりして、その言葉を星田に筆写させた。 ――昔、昔、さる昔、まだも昔のその昔、いかにもたこにも足八つ、蛙はくちから、ハハア、フフン、そうか、元を正せば皆一つというたとえがあるが、そのことか、なんとあきれたことじゃなあ。 十五夜の片割月があるものか、雲にかくれてここに半分。月のかたちの御簾のうち、日に日に変わる大本の様子、世の立替えの太柱、変性男子・変性女子。八つ頭と八つ尾とで世を乱らし、その悪の元をつかんだのは福島久子。 恋しくば訪ね来てみよ、谷底の木を分けてみよ、花のありかを。三千世界の世の立替え、どんなことでもまことの誠心なれば、説いて聞かせる世界の大本、切れてばらばら扇のかなめ、風もたよりもない世界。(原文は平仮名のみ) この判じ物のような文章を持って、久と星田は綾部に行き、直に見せた。直は目をつむって何かうかがっていたが、やがて静かに言った。「えらいことを書かしていただいておるが、今お久が何ほど書いても、まだ誰もまことにいたさぬ。何が書けようと、書き放題に書いておきなされ。時節がめぐり来たら、その方が書いたものを見なならんことになろうでよ」 直の言葉は、久ばかりか、星田をも喜ばせた。この文句、幾度も繰り返し暗誦するうち、わけがわからぬながら、深い密意がこめられているように思えてくる。久への傾倒は、天のみろくさまという教主王仁三郎への背反につながることを悲しみながら、星田はこの道深く踏みこんでいく。 一またぎほどの古びた虫食いだらけの木橋に橋の名が彫られていた。指でなぞってみると、「日の出橋」――今まで見過ごしにしていたこんな橋に日の出なぞ、誰が名付けたものか。日の出橋の先はただ福島家への一本道、銀ねず色の霜柱が、針を植えたように続いていた。 福島家の玄関に立った星田を、久は抱きかかえるようにして迎え入れた。いつ来ても、心から歓待してくれる様子であった。久の熱誠を理解してくれる者は少ない。この人も本当は孤独なのだと、星田は思う。福島寅之助は外出中だし、子供たちも遊びに出ていて、二人きりであった。 この日(大正六年十二月十五日)、久はことのほか激していた。 王仁三郎の日頃の行動を罵ったり、世の乱れを慨歎したが、ふいに目を宙空に止め、しばし絶句、急にいざるようにして神前に進み、甲高い声で祝詞を奏上する。星田もあわてて、それに習った。 祈り終えて振り返った久は、明らかに神がかり状態である。「義理天上、今より福島久の肉の宮にかかる。これ吉久姫、現世では星田悦子、そなたの夫義理天上である」 神前に伏していた星田は、はっと頭を上げる。何がなし魂の底から震えるような感動を覚えて、思わずにじり寄った。 神前を背に、久の口から迸り出る男声には、無限の情がこもっている。「懐かしや吉久姫、そなたが来るのを、待ちかねていたわいやい」 吉久姫とは初めて耳にする名であったが、自分の本霊の名であることを、星田は素直に受け止めた。「義理天上はあちらこちらに義理を立てぬき、この世のくるまで霊で働き、耐ばり耐ばりてこの二度目の立替え、待ちに待ったるほととぎす。親のためそなたと添い遂げられず、くやし残念であったわい。 そなたは世に出ておりてまた良きこともあれど、この方はあちらこちらの義理を立て抜いたわやい。その方をもってこの度のご用をさせたさに、曇り曇りしこの世の中、そなたをこれまでに落とすのではなかったなれど、いろいろさまざまのことおこなわせしは、心の行にさせたのじゃ。これまでそなたにつき添いてさせたのじゃ。 義理天上、なおこの後もそなたにつき添いて、二度目の天の岩戸開きのご用、あっぱれ立てつらぬかさす。女の一心岩をも通すなり。つらぬけよ。つらぬかさす。そなたは大神変性男子さまのお傍を離れずつき添うて、よいか、腹帯しめて、つらぬけよ。つらぬかさす……」 答えもできず、あふれ出る涙のままに、星田はうなずくばかり。生まれてこの方、夫と思う男を持ったことのない星田であったが、それも道理、かつて前世で義理天上という霊魂の夫があったからにちがいない。 神がかりの去った久は、驚いた目を星田と見交わした。「なんと星田さん、あなたとは浅からぬ因縁があると感じていたが……いや、待て待て、わたしとあなたとは神界では昔、夫婦であり親子であり、二重の因縁の糸のからんだ仲じゃでよ」「なんでです。親のため添いとげられなかったというそのわけは……」 久は自分でも頭を整理しながら、星田のために説明する。 国常立尊がまだ艮へご隠退にならぬ前、一の番頭佐田彦命(福島寅之助の本霊)・その妻佐田子姫、二の番頭八王大陣・その妻黄龍姫、三の番頭王能大陣・その妻王龍姫、四の番頭同情吉則・その妻事足姫命、五の番頭大広木正宗(同情吉則の長男)、次に十道行成(同情吉則の次男)、六の番頭桃上彦命・その妻津上姫命の補佐によって、地は立派に治まっていた。 ところが八王大陣の妻神黄竜姫の編み出した遊芸が世の乱れる元になり、八百万の神々は国常立尊の厳格な政治に不平を鳴らし出した。 そこへ腹黒い重億道神(盤古大神)という神が、黄龍姫に、「国常立尊にご退隠願うようすすめてくれ」と申し出る。 八王大陣と黄龍姫は重億道神をなだめるが、重億道神は八百万の神々を煽動して世は乱れるばかり。 思い余った黄龍姫は、佐田彦命の妻神に、「国常立尊さまに御退隠いただくよう夫神さまにお伝え下さいませ」と頼む。 仕方なく、佐田子姫は夫神佐田彦命に伝える。佐田彦命は下々の不平不満をなだめるのに長い間苦労していたが、佐田子姫から重億道神の申し出を聞くに及んでついに辞職を決意、無情にも妻佐田子姫を地に置いたまま、吉久姫・朝彦姫・申彦姫の三人の娘を連れて天ヘ昇ってしまった。 佐田子姫が福島久の本霊であり、吉久姫が星田の本霊となると、久と星田は霊的に母娘の関係となる。吉久姫は王能大陣の長男義理天上と結婚していたが、父佐田彦命に連れられて天へ昇る時、やむなく義理天上と涙の別れをせねばならなかった。その義理天上が久にかかれば、久と星田は霊的に夫婦でもあることになる。 話の途中で、久は胸をそらせ、宙空に目を止める。再び佐田子姫が神がかりして語り出した。「懐かしや吉久姫、そなたの母佐田子姫でござるぞ。妹二人はそなた引き受け、よく心を合わせい。よいか、頼むぞや」 星田は思わず身を乗り出し、母なる佐田子姫の霊に向かって高く叫んだ。「妹二人が……わたしの妹二人がこの現世に生まれておるのですか。それはどなた……」「朝彦姫はこの世では岡崎直子、申彦姫は斎藤こうであるぞえ」「あ……」 岡崎直子は星田を大本に導いた人、大阪で支部を開いた草分けの熱心な信者であり、斎藤こうはすでに嫁入った久の四女である。「それにつけても、黄龍姫は板ばさみ、実にかわいそうな。黄龍は重億道神にウントコセーと尻を押されたわいのう。悪魔の大将は重億道神、自分は雪隠で饅頭、高みの見物そ知らぬ顔……」「重億道神は、あの……いま現世ではどなたでございます」「さあ、それは……」 星田の質問に、佐田子姫は言いよどみ、小声で別の神と話し出す様子ながら、よく聞きとれぬ。別の神から重億道神の現世での名を聞かされたのか、佐田子姫は「エーッ」と驚き独り言。「なんと驚いた、まあ……なんとあきれたものじゃ」 五本の指を折り、「鳥類・畜類・餓鬼・仏・虫けらまでも世に上げて、無間の鐘も放りだす。なんとまあ、はかりにかけて綿と鉄、うむ、山より高き、海より深きというは今度のことか。おそれいったものじゃなあ」 それから七分間ほど無言、まだ神がかりが去っていないことは、充血した頬、血走った目、荒い息づかいで知れる。 たまりかねて、星田が再び訊く。「重億道神はどなたでしょう。どうぞ明かして下さい」「さあ、重億道神か、それはなあ……」 佐田子姫は困りはて、別の神に教えてよいかどうか訊いている様子、やがて承諾を得たらしく、舌で唇を湿し、肩肘はって力んだ。「よいか、そのな、重億道神は、吉田龍治郎じゃわいのう。その大の悪魔の腹にお世継を授けるとは、うむ、なんと大神さまの深き厚き思し召し、あきれたものじゃなあ。しかし、しかし……」 佐田子姫は息を呑み、小首をかしげてまた独り言。「……この仕組、ちっとで変わらねばよいがなあ、途中で変わらねばよいがなあ……」 それから気をとり直した風に星田に向き、「なんとしても三代の世継ぎに大二殿を――吉久姫、そなた、しっかり頼むぞや」 神がかりが去ってから、久と星田は、この意外な名を中心に、昂奮して語り合った。 吉田龍治郎が大本に入信したきっかけは、宇津の小西松元に「北桑田郡の周山村矢代にひどい悪霊がいて、自分の手におえぬから助太刀に来てくれ」と頼まれ、王仁三郎が乗り出したことに始まる。 龍治郎は長男一の足の難病が綾部へ来て治ってから信仰が一層深まっていた。次男大二は弥仙山で直の杯を受け、出口家の養子となった。将来、三代直日の婿と決められている。そればかりか長男一をも、教祖の次女梅野にめあわせて出口家に置こうと、直は望んでいるのだ。「兄弟の親が重億道神であるということは、二人を我が子としてこの大本に生かし、大悪魔を改心させて、悪の根源を一気に絶とうという大神さまの深い思し召しに違いない。三代の世になれば必ず神代の因縁もほぐれだし、水晶の世に返るであろう」と久は言った。 十八日、福島久・牧寛次郎(吉田龍治郎長女八重野の夫)・星田悦子の三人は、綾部に行き、金龍海の岩戸に参る。岩戸に神饌物を供え神政成就を祈願すると、たちまち久に義理天上がかかる。「牧・星田両名、生証文をとれよ。この方の申すこと、一言残らず書き写せよ」 神霊の指示に従い、すでに小机と筆記具が用意してある。牧と星田は、神妙に筆をとった。小雪まじりの風は指をひきちぎるほど冷たいが、生証文をとる使命の重さに熱していた。「ウーム、ここまで尊き国を、ようもようもこうまで乱したなあ。この方が龍宮さまと引き添うて一粒万倍の力を受け、覚えなくては申されず、しかし我の働きを先へ申し上げるよりも、畏れながら天を造り地を造りなされた御艱難を知らぬも道理と言いながら、あまりのことで、ウム、畏れ多くも……天の親さまミロクさま、いかな悪魔も気になさらぬ。鉄の棒が針になるまでの御艱難を、悪を悪ともなさらぬ。鳥類・畜類・餓鬼.仏・虫けらまでも世に出して、無間の鐘も放り出して、助けてやろうとの思し召し。何とお礼を申そうぞ、ウム」「……」「諺に『親の恩、山より高く海より深し』、天に貫き、地は十万道の底までも、何ともありがたき思し召し。言葉に出すも畏れ多い……しかししかし、天の親さま、地の親さまになりかわり、あなたさまのご艱難を……ウム、まず申し述べようが、何としよ両人……」 牧と星田が声を揃える。「なにとぞ……」 久は再び岩戸に向かい祝詞を奏上し終わり、両人を厳しい目で見つめた。「何も知らぬ蛆虫同然が外国魂にだまされて、吾も吾もと学にこり、ウム……中途にこしらえたこの世界、きたなや、きたなや。ハープ」 久の唾が横にとんだ。「承知はしながら、末法の末の世、餓鬼やら仏やら、きたなや、こういうことになるのは、神代から知りてはいたれど……両人、よく聞けよ。写しとれよ。畏れ多くもミロクの大神(月の大神)、畏れ多くも日の大神、つきつき(側近)の荒神も、畏れ多くも、体と申せば二丈の回り、丈と申せば畏れ多きことなれど……」 また神前に進み、「お気にさわりは致しませぬか」と神意を問う。承諾を得たらしく、再び二人の方に向き直る。「お丈と申せば百丈のお頭なれば、片端に(角が)八本、両方で十六本。股にまたがる日の大神、月の大神さまのお光は、蛇体のお光で輝いておるのじゃ。天を造るその時は、元は元の泥の世界の海住まい。日の大神とミロクの神のお二方、一番初発に現われなされて、お二方が御夫婦になられた暁に、御両人さまは天の御守護。日の大神さまは火の龍なり、月の大神さまは水の龍なり。それが揃うて天へ昇りなされ、その御夫婦が天で三度のきりきり舞い、御夫婦揃うてイキをおかけなされたら、天が一度に固まりて、プー」「……」「地の世界は、大国常立尊が荒の神・雨の神・岩の神・地震の神・風の神の五柱の神、龍宮の乙姫さまをお使いなされて一方ならぬお働き……。ウンウン、平一面のその世界を、海から岩を持ち上げて、彼方へ配り此方ヘ配り、目配り心配りなされてとうとう海山造ったが、それについては、この世の末になれば金銀も持ち出さねばならぬから、海の底から持ち出し、山に埋けこみ、その上は山々々にこの大国常立尊さまのおイキをおかけなされて、プー、こうなされたが種となり、プー、そのイキで草木ができたのであるぞよ。よいか、一番初発が畏れ多くも女松、つぎにミロクさまがおイキを坤の金神さまにおかけなさると男松ができ、いろいろと変化れなされて草木もでき、それについてはしばらく、神のしばらくは、しばらくと申しても、人間の幾億万年もの間のことであるぞよ」「……」「次は、しばらくする後は、木の葉を食物にいたし、土を固めて団子にいたし、そうして地の世界はようやく造ったが、それから天の父さま母さま、地の世界を御覧になり、やはりその姿(龍体)をもっていては、十分の思うようにこの方はないから、天から両人が手伝いをいたすから、伜の大国常立尊さまに御命令を下しなされ、人民と申すものを造り与えて、地の世界をもたす者を作らねば安心ということができんから、どうぞ人民というものを産み出し、ところどころ国々にそれをまくばりおいて、地の世界を平らかに万劫末代の世を治めてやり、人民を喜ばし、嬉し嬉しの花咲かし喜ばしてやりたいのが神の一念。 どういうことにいたしたら、この人民というものが数ふえて世界を賑々しく喜ばしてやるようになるのであろうかと、天の父母さまの御相談。フムフム、パプー」「……」「まずそれから地の命令が下り、大国常立尊さまがお受けなされた御返答に『父母さま、人民と申しますものを作りますには、この方の思うままにいたしてしかるべきでしょうか』と天へお伺い申す暁に、命令が下り、『この方両人は、天から地の世界を守護いたすから、地の世界は、そなたの力十分に、守護神に目配り心配りいたさし、如才のなきように開けよ』と命令を頂載いたし、されば人民と申するものは、どうするとよいかと永い思案が一思案、ははは……ささ、これから先に人民というものを造るには、ウム……」「……」「両人、よく聞けよ。お土の中に細き溝をつけ、そこヘ親さまの水のおん徳、母さまの日の御神徳、そこへこの方が蒔きおいて、はっとのどから『たん』を出し、それがお土とお水とお日さまの御神徳で日に日にそのたんが固まり、それが八つ足の蛸となり、また龍宮の乙姫さまが、またそのでんで(たんを出したことか?)ムシわかし、その虫は龍宮さまのイキじゃぞや。 それからその虫をいったんわき出し、その虫の中から出てきたのが蛙となり、その蛙は殿さま蛙。それ(蛙)が蛸と夫婦となり、その蛸は男なり。女男に変化れる蛙が女となり、その蛸のイキを蛙が受け、その蛙が何億万年数知れず艱難をいたして蛙が十分成長いたした暁、それが狐となり、そのまた狐の姿が変化れたのが猿となり、その猿の変化れが人となる。それが人間の元であるなり。 その人間の五体を作っていただいた暁も、永の間の苦労艱難、悔しきをこばりこばりたその暁、人間となれば、元の親さまとは行いが違うて、もはや木の実を食べるのはイヤじゃ。木の葉を食べるのもイヤじゃなり」「……」「それから大神さまが、よほど人の形ができたかと、地の世界を眺めになりて、また大国常立尊さまに御命令を下しなされ、『この方が地の世界に向けて一つ種を落とすから、しっかり受けよ』との御命令。その頂載なされたのが、天へお昇りなされる時に、蛇体の頭の角の中にお土をしっかり入れこんで、それをミロクさまの御夫婦がイキをかけなされて、『そのお土をしっかり受けよ』と天からお下しなされたのを粉にして蒔きおけば、それが蕎麦という物の品となり、それが食物の始まりじゃぞや」「……」「それを変化れなされた初発のお肉体が行をなされた御場所が八木の御殿のあのお山。あれがお肉体の大切なお山なれど、中の初発の世に悪神が日本ヘ入りこんで、この畏れ多くも下津岩根の御場所もたたき払いにしてしもうて、それじゃによって、八木のお山も滅ぼして、みな悪神が神のまねいたして押しこんでしまい、われが世界を横領して、罪なき者に罪をきせ、我は知らん顔して雪隠で饅頭。 年を申せば数知れず、悪なき者まで悪をきせ、この方からは善・悪の様態を眺め、居ても立ってもおられんなれど、世の元からの艱難を何としょう。大勢と一人、この憂さ晴らさいで世の元からの艱難を気張りこらえて蓄えた、生花咲かして輝かす、松の緑で艮めさすぞよ。外国魂にだまされて、今の日本の、ええ……申しわけなき一日が、この方は焦るなれども、親さまがいかに悪魔にしられてもそれを悪を悪となされず、御了見のよいお二方さま、何と短気が起こされようか。ええ、善と悪とを真釣り合わせ、秤にかけて綿と鉄玉、え……うむ……いやもう憎いと思うか、この方の悟りが開けぬから、え…… これほど艱難さしおいて、悪は好きすっぽうのし放題、我さえよけらよいやり方。早くこの悪魔を改心させ、無間の鐘もほり出す親神さまの御用立ち。一日も早くいたしてお詫びをいたさねば、千騎一騎のこの場所で、どう許しが頂けましょ」 目を宙空に据え、止め度もなく喋り続ける久、一言も書き洩らすまいと筆を走らせ続ける星田と牧。岩屋のあたりは小鳥さえはばかって姿を見せず、ただ松籟のみが久の震えを帯びた声を時おり攫い去った。 久の声は一段と激する。「なる勘忍は誰もする、ならぬ勘忍なさる親さま。その親さまの厚き深き思し召し、あやかりまして大望なる御用、不調法のなきように、共々に意志を立て貫かして下さいませ。海にも山にも言葉にも申し上げようもござりませぬ。え……むう、まず言いたいことは山々あれど、それだけで止めておいて下され。後々申したきこと数あれど、日に増し、月に増し、年に増し知らして、そなたに徳をつけよう。 ちと早いなれど、日の出神と龍宮が現われて、新の岩戸の天びらき、地の世界の十万道の大門開いてやり、仏で葬る餓鬼仏、救い出して仕立てて見せよう。福島久子にかかりて申す。御苦労千万……」
 チチッ、チッ…… 和知の河原に寒千鳥の鳴く夜更けである。ふと目ざめた。細く開いた雨戸から廊下を伝って、一筋の月光が流れている。そのうす青い光の中に直が坐っていた。「おばあさん……」 直日は身を起こした。いつもの神がかりの時の祖母ではない。その細い背は小さく淋しく、銀の髪は濡れたようであった。 衿をかき合わせ、直日は祖母の傍に寄った。「あの灯をごらん、直日さん」 少しふるえる、すきとおった声で直が言った。黒々と沈んだ山ふところに、ぽちりと一つ灯がまたたいている。和知川の東岸、松のこんもり茂る味方平の山裾であろう。「兵隊さんはかわいそうじゃ。あそこにはなあ、戦争に行って死んだ兵隊さんのお墓があるそうな。夕方になると、いつもあそこに灯がともるのや。もう十何年にもなるじゃろう、夜ごとその死んだ兵隊さんの母親が、墓に灯をともしに行くんやげなで。『母さんの生きとる間は灯を絶やさんようにしてやるでなあ』言うて……」 直は息をつぎ、苦しげに吐いた。「今夜も灯がともったさかい、あのお母さんは生きてなさる。目も足も弱って……ずい分年が寄って……あと幾夜、あの灯がともるじゃろ」 耐えがたい悲しみが、直日の胸にもしみ渡っていた。 直日が生まれた時には、もうとうに死んだとされていた清吉伯父さん、祖母が一番頼りにし、可愛がった清吉伯父さんが、近衛兵として台湾に出兵してから、もう二十二年が過ぎている。「……直日さん、お前はどない思うてや、清吉は帰ると思うてかい。……死んだ思わんか。わたしは死んどると思うんやがなあ、どうしてもそう思えるのやが……」 激しい思いにあふれた言い方であった。「おばあさん、死んでいないって、生きて帰るって、お筆先に出てるやないの……」と直日は力をこめる。「神さまは、わたしが年をとっとるのでかわいそうやと思うておっしゃるのやと思うのじゃがなあ、『日の出神が外国から龍宮の乙姫と引きそうて、日本へ手柄を持ち帰る』とのう。清吉はまだ元気で外国で働いてござると、信じた時もあったわな。けれど今では、清吉はもう帰ってはこんような気がしてならんのじゃな」 直日は、それ以上押しては言わなかった。こんな風に神さまを疑い、迷い、身もだえる祖母を見るのは初めてであった。「千鳥が鳴いてる……おばあさん……」 夜空に冴え渡るその鳴き声に、いっとき二人は耳を澄ました。「……寒いやろ、お前は早うお休み」 いつもの静けさに返って、直がいたわった。それでも自分は、月の光の中から動こうとしない。 ――神さま、どうぞおばあさんに早く清吉伯父さんを返してあげて下さいませ……。 直日は、心の中で手を合わせた。
 久の神がかりの言葉は十八日だけでは写し切れず、翌十九日も早暁から岩戸の前で筆写が続行された。 二の番頭の八王大陣が現界での浅野和三郎、三の番頭王能大陣夫妻は現界では医学博士岸一太夫妻、そして王能大陣の長男義理天上の本霊が出口清吉、次男青森雪成の本霊の一の枝が大槻伝吉、二の枝が牧寛次郎。三男春咲梅成の本霊が出口竹蔵・出口慶太郎の系統であることなどが、久にかかった義理天上によって語られた。 直の次男、出口清吉については、昔から大本の解けぬ謎であった。日清戦争終結直後の明治二十八(一八九五)年五月、清吉は北白川宮能久親王の率いる近衛師団の一兵卒として台湾に上陸、武装蜂起の鎮圧にあたった。やがて出口清吉戦死の報が綾部に届けられたが、戦死の模様は一切不明であった。 役場から軍隊に問い合わせると、清吉のいた隊には一人の戦死者もないと言う回答である。清吉の戦友を探し出して訊くと、ある者は「隊を脱走して、支那の方へ渡ったらしい」と言い、ある者は「海に身を投じたのを見た」と言う。直が憤然として艮の金神に不満を訴えると、「清吉は死んでおらぬ」と繰り返し筆先に示された。 この短い一句の三様の解釈について、以来信者たちは堂々めぐりを続けていた。筆先の原文は、いっさい句読点がない。希望的解釈をとって、「生きている」とする者。「死んで」と「おらぬ」の間に句読点をいれ、「死んで、この世におらぬ」と反対の意味にとる者。また両方の解釈を折衷して、肉体としては死んでいるが霊魂としては生きて活躍していると判ずる者たち。 二十二年を経た今でも、清吉の生死が問題になるのは、単に教祖の期待する子供であるからと言うばかりではなかった。戦死の報が入って以後も、次々と清吉の重大な役割が筆先に示されるからである。 ――日の出神はこんどご用に立てるために、出口のおん子と天からさずけたおん子ざぞよ。この日の出神がめずらしきことをいたして、三千世界の手がらものにいたすのざぞよ。(明治三十二年旧十二月二十五日) ――この経綸いたした神と、日の出神の働きを見せてやりたら、いかな悪人でも改心いたすぞよ。大化物が現われたら結構になるぞよ。(明治三十三年旧八月二十四日) ――明治三十六年の旧四月二十八日に、岩戸開きと相定まりて、けっこうに変性男子と女子との和合がでけて金勝要の大神は澄子に守護いたすなり、龍宮さまが日の出神にご守護あそばすなり、四魂そろうての守護いたさねば、こんどの世の立替えは、上下そろわんとでけはいたさんぞよ。(明治三十六年旧四月三十日) ――大出口のおん子の五人目の肉体の名は、大出口の清吉と申すぞよ。大神さまからいただいておる名は、日の出神と申すのであるぞよ。申の年、直も申の年。(大正五年旧八月二十三日) 日の出神は、二度目の天の岩戸開きには、なくてはならぬお方である。艮の金神・坤の金神・金勝要の大神がかかる現身は、筆先に示してある通り、直・王仁三郎・澄であるが、日の出神とされる清吉の肉体だけがない。清吉戦死の報ののち、いまだに四魂そろわぬと立替えができぬとあるのは、どう解すべきか。 明治三十七年十月三十日、王仁三郎の筆になる『道の栞』の一部。(大正十四年八月発行)一、暗き世をてらして日の出の光をあらはし給ふは、日の出神なり。日の出神は、男子の身魂によりて弥仙のみ山にあらはれ給ひ、いや高き稜威をあらはし給へども、燈台下暗くして女子よりほかに知るものはなし。神の大御心は、心の中清まらざれば覚ることあたはじ。一、日の出神は、変性女子に引き添いて、高天原へあらはれ給へども、誰知る者なし。生魂のいかなるものかを誰知らず、憐れなり。一、死んで居らぬ肉体にも、言ひよう説きやうによりて、生身ともなり、死身にもなるべし。生身と生魂の区別をよくわきまえて、不覚をとるなかれ。一、そのままの肉体にて使はれるものと、肉体を代へて使はれる生魂とあり、肉体代はるとも、生魂の働きあるものは、その者の肉体生きたるも同じきなり。 王仁三郎は、弥仙山の岩戸開き以来、日の出神は変性女子である自分にかかっている、と自覚しているのだが、大正六年のこの時点でも、一般に発表されていない。 役員信者の多くは、出口清吉が外国から帰ってきて、日の出神としての不思譲な大活動を展開し、みろくの神政を成就させると期待していた。けれど清吉の生死の知れぬことは、何とも不安であった。                        それがこの日、義理天上は声も改め、久に呼びかけてきた。「姉上……姉上さまお久しう。清吉でござります……」 牧と星田は驚愕した。 星田悦子は、夢中になって清吉の霊に問いかける。「あなたが清吉さまなら、おたずねします。東京へお立ちになったのは、何年何月何日でござりましょう」 男の声が久の口を通して答える。「姉上さまにいとま乞いにいった時は、秋(稲刈り)をなされて、収穫の最中であったが、姉上が身持ち(妊娠)で確かにあったと言うたが、それから忙しいから手伝うて『一日泊まってくれ』と申され、確かに二晩泊まったと思うが、故郷を発って行くその時は、二十八年の十一月の二十八日じゃと心得るなれど、なんと言うてもあまり苦労が長いので、どまぐれた(まぎれて忘れたの意か)。 東京へ行った時は第一連隊の第二中隊で、近衛兵で行たわいやい。三度目の戦いであったか、もうこれでよいと思うた。戦争中の所の名は、そうじゃ、ナミノセキと言う所である。そのつぎチリシマと確かに思うたが、その次はトタボと言う国。三度目に抜けた(脱走?)。 それからも忍びおったのである。浜より町、それにしばらく忍ぶ。それより北へ変化れて、それからは情けなや○○○(三字伏せ)となり、国と国々見とどけて、その暁に肉体を持ち帰り、母上さまに御安心を与えたいと思う心がいっぱいの一心で、妻も持たずに、一昨年一月二十五日であったわやい、ついに病気にかかり国替えいたしたのじゃわい。 これについてはわけあれど……その所の名はどこと言うて名前のついておらぬ所じゃ。ひどい所であるわいやい。その所に五年か六年でもいたであろ。その名はスズの町に十三年は暮らしたが、商いは青物やら乾物やらしてみたが、召使に誠がなきゆえ、やめました。その前にしばらく山ごもりもしてみたこともあります。いろいろ艱難したわやい。……このたびの大望なご用をさしていただくのも、みな神のおめぐみ、仕合わせとしておいて下され。 ……人数か。一人まし一人まして三十五、六人の時もありた。末は八十人ばかり暮らしたなれども、こんなこと申すのはいやじゃなれど、してきたことは申さにゃならぬ。いつわりなく申さにゃならず、名も姿も変えたわい。行く先々で名は変えたわやい……」 久は岩戸奥に進みより、二度三度神前に拝礼し、男声にて呟く。「わずかな間、泥の世界でけがしましたが、そのけがしましたる罪を、お許しなされて下されませ……はあ……ありがたくおん礼申し上げまする。なる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍なさる有難さ。感謝いたします。親神さまのお恵み、ありがとう存じまする」 再び牧・星田に向き直った時、声は涙で曇っていた。「両人、よく聞いてくれ。なんと申しても血は血じゃなとは、なんということじゃ。両人、信じてくれ、わかったか。大切なきこと、何事も皆、みつかなごと(?)と申すことがあろうがな。よくよく変性女子さまと添う役をして、頼むぞや」 この記緑の末尾に星田は付記している。 ――いやなことは書き残してくれなとのお願いなり。国替えなさることについてはいろいろわけあり。日本の国を御出立の時のあわれなお話もあれど、書き止めずにおく。
 出口清吉が帰ってきた。すでに肉体は外地で病没したが、その霊魂は姉久にかかり、いよいよ義理天上日の出神としての働きを現わすために帰ってきた。このことを、一刻も早く母直に知らせ、共に喜び安心させたい。「さあこれで役者はそろうた。今にもみろくの世が来まっしゃろ」 星田の声も、はずみ切っていた。 金龍海は結氷して、久にとっては姪になる八重野や一二三、尚江を始め、信者の子たちが氷すべりにはしゃいでいる。 金龍殿で声を揃えて神言を奏上した後、久と牧は、そのまま統務閣の教祖室へ行く。星田は、王仁三郎に報告する役目を受けていた。自分が煙たがられていることが分かっているので、久はその役目を星田一人にまかせたのである。 金龍殿で参拝者にお取次ぎしていた四方平蔵に訊くと、教主は書斎で執筆中とのこと。そのまま臥龍亭へ行く。 大杉の火鉢に手をあぶりながら、袍姿の王仁三郎が目を上げた。二つ年下の王仁三郎だが、久とは違って、いつもほっこりくつろぐ気分を星田は感じる。しかし今日の星田はにこりともせぬ。「どうした、ひどう競い立っとるのう」「そらそうだす。今日は大事なお話があります。教主さん、どうでも聞いてもらわねばなりまへん」 思わずじりっと膝をすすめる。「やれやれ、だんだん八木(久のこと)に似てきよるわい」と王仁三郎。「冗談やありまへん。出口清吉はんがお久さんにかかりなさって、義理天上日の出神となってわたしたちの霊魂の因縁をすっかり明かしなはった。清吉はんが帰っておいでやしたんだっせ」 昂奮した語調で、それでも雄弁に星田は経緯を説き、牧と二人、生き証人になって、書き記した記録をとり出した。 和紙に写された星田の特徴のあるきれいな筆跡をみつめて、王仁三郎の頬も厳しく引き締まっていた。やがて敷島に火を吸いつけ、少しの黙考のあと、王仁三郎は言った。「お久はんにかかった霊がはたして本物の清吉はんかどうか、即断はできん。妙やないか。清吉はんが故郷を発ったのは明治二十八年じゃと書いとるが、第一これがあやしい。わしが聞いたのでは、明治二十五年の暮のはずじゃ。もっとも故郷と故国と勘違いしたのかも知れんがのう……いや、清吉はんらしい所もないではない。星田はん、わしもつい先日、夢を見た。清吉はんが、広い大陸の荒野に馬を駆っている姿をのう……死んではおらん、生きとる。わしはそう直感した」「……」「でたらめやと思うか。しかし、わしはいずれその事実を確かめに、シべリアまでも渡るつもりや。満蒙百里の曠野を駆け抜けねばならんのや。わしの夢も、あんたの書いた生き証文と同様、証拠は一つもないけどのう」 星田は負けず嫌いの眉を上げた。「先生がなんと言いなはっても、わたしはお久さんを信じます。信じんわけにはいきまヘん」「信じるのは勝手やが、清吉さんの生死がはっきりするまで人には言わんでくれ」 後は話にのってこない。教祖に会いに行った久の方も気になるので、星田は仕方なく王仁三郎の書斎を辞した。 ――義理天上日の出神か。厄介な難問を押しつけくさる……。 王仁三郎は、煙草の輪を吐いた。 久に清吉がかかってきたという話など、今は意識の外ヘほうり投げておきたかった。しかし、いずれは、まともにぶつからねばならぬ。時さえ来れば、命を捨て幾多の屍を踏みこえても行かねばならぬ。それが自分の宿命であろう。なぜなら十六年前、高熊山の岩窟で、すでに上田喜三郎は、その自分の姿を霊視ているのだから……。 ものぐさげに体をずらし、王仁三郎は、分厚い書籍の間から黄変した古い一枚の新聞切抜きを取り出した。 明治三十三年八月十三日日曜日「日の出新聞」二面と朱書してある。三十三年といえば王仁三郎・澄の結婚した年。見出しは、小さな活字で「軍事探偵王文泰」とあるだけ。署名はない。「去る十日太沽より入港の朝顔丸にて帰朝せし従軍記者某、語って曰く。軍事探偵王文泰のことはすでに内地にも伝はって居ませうが、丁度天津城陥落後のことでした。私が居留地のある処に行きましたら三十歳前後の元気のよい一人のチャンが、巧みな日本語でしきりに話をして居ました。その話し振りの上手なことは内国人でも叶はぬ程ですから、彼人はなんだ、とそこらの人に尋ねた所が、彼人こそ軍事探偵王文泰よ、と答へた。 そこで私は直ぐ名刺を取り次いでもらって、面会して話をしましたが、至って快濶な人で、十数年来南清から北清と四百余州を股にかけて跋渉したもので、清国内地の状況や言語にはよほど精通し、服装言語の如きもまるで支那人としか見えず、歩き様に至るまで支那人そのままであるから、誰が見ても支那人に違ひはない。その筈です。支那人すらも他国の人だとは見分けをしない、といふことです。弁髪や清装したのは内地人に多くありますが、歩き様から体のこなしに至るまで支那人そのままを真似するものはありません。 本名は云へぬが、何でも土佐人といふことで、その外のことは憚るところがあるので、ただ王文泰とは世を忍ぶかりの名である、といふことだけに御承知を願っておきます。 この人は以前余程の無頼漢であったさうですが、かかる人であったから支那内地の跋渉もできたのでせう。太沽砲台から白河沿岸及び天津城の偵察を遂げて連合軍にすくなからざる利益を与へたのは、この非戦闘員の王文泰です。軍事探偵には、かの王文泰に譲らぬ人がもう一人居りますが、今頃は二人とも進発して居るさうです。ところが今回の軍事探偵は外国人ではできないので是非とも日本人に依らなければならぬゆゑ、列国軍はこの点に於て困難を感ずるのであるから、王文泰に対しては列国とも大いに報いるところがあって宣からう云々」 この新聞記事を発見した時、王仁三郎には、ひらめく霊感があった。王文泰こそ出口清吉なり、と。 霊感と言うより神示と言うべきかも知れない。この記事から、王文泰が出口清吉であると断定する何ものもないのだから。むしろ、十数年来南清から北清を股にかけて跋渉した(清吉なら五年ばかり)とか、土佐人とか言うことは、別人を示しているかである。 しかしそんなことは気にならなかった。軍事探偵が本国の記者に経歴や生国をまともに明かす方が不思議ではないか。 年の頃三十前後という観察は、ぴったりである。清吉なら明治三十三年で二十九歳になるはず。それよりも、軍事探偵という仕事は、噂に聞いた清吉の利かん気で機転のきいた肝の太い性格にいかにもふさわしい。さすが、軍隊の目は、一介の応召兵である彼の資質を見抜いたのであろう。 幸か不幸か、非情の手で彼は不必要なすべてをはぎ取られ、抹殺され、密偵としてのあらゆる訓練を身につけて変身したのだ。 そう考えてくれば、これまでの謎が一時に解ける思いがする。清吉のいた隊に一人の戦死者もないのに戦死が伝えられ、しかも戦死の情況を誰一人知る者がないのは、軍隊による何らかの方法をもって先ず生きながら戦死とされたためだ。 出口清吉は死に、清国に王文泰が生まれた。まさに「死んでおらぬ」と言う筆先の字句通り、相矛盾する三様の解釈は、それぞれがそのままあてはまるではないか。 王文泰は、ひそかに大陸に渡り、変化れに変化れて活躍を始める。唖となり、阿呆ともなって、智略縦横、敵地に奥深く浸入したこともあろう。幾度死地をくぐり抜けたことであろう。北清事変から日露戦争へと、捨て身の謀報活動を通じて日本のために人に知られぬ多大の貢献をしたという王文泰清吉――。 新聞を見て以来十七年間、この推理と霊感は王仁三郎の胸一つに暖められてきた。否、ただ一人を除いては。 その一人――矢野海軍中佐は深く驚き、機会をみてひそかに調べましょうと言った。軍隊の機密に属する事柄だけに、期待はできない。あれからもう一年半ばの歳月がたっているのだ。が王仁三郎は度々見る霊夢によって、清吉生存の望みを捨ててはいなかった。 久にかかった霊が清吉だと言う星田の主張を一概に否定しきれぬのは、王仁三郎の推理と符合する部分があるからだ。「三度目の戦いに抜けた、北に変化れて」、「情けなや○○○となった」、「国の国々見とどけた」、「妻も持たず」、「いろいろ艱難した」、「末は八十人ばかり暮らした」、「名も姿も変えた。行く先々で名を変えた」、いずれも軍事探偵であることを指し示しているかである。 天皇のお傍を守る近衛兵として征で立った息子が、命令とはいえ、他国の秘事を盗み出すスパイであると知れば、直は、おそらく耐え切れぬ悲しみであろう。血と泥に汚され、間諜とさげすまれて、どこの地の果に屍をさらすか分からぬ己れの存在を、親思いの清吉が知らせることなどできなかった。 そうでなくても、軍隊がある限り、死んだはずの清吉が生きて綾部へ帰れぬことは、当然なのだ。久の憑霊が言うように、清吉の肉体はすでに病没してこの世にないのだろうか。死なねば……生魂一つになって清まらねば、恋しい故郷に帰れぬ清吉なのかも知れない。 迷いたつ心を鎮めるように、王仁三郎は目を細めた。 金龍殿から統務閣へと急ぐ長廊下の途中で、星田悦子は福島久と牧寛治郎に出会った。「星田さん、すぐ八木へ帰りまひょ」 久の激しい口調から、面白くないことがあったと察しられた。「そうですか。ではちょっと教祖さまにご面会して、すぐ追いかけますよってに……」 そうことわって、星田はすれ違った。 教祖室の隣室で、澄が一人考えこんでいた。「お久さんがご面会にこられましたやろ、何かいけないことでもあったんどすか」 星田が小声で聞くと、澄はにこっとして、「別になんでもないで。八木の姉さんがなあ、清吉兄さんのことが分かった言うて、もの凄い勢いで喋り始めたんじゃな。教祖さんは黙って聞いとっちゃったが、姉さんが『苦労の苦労のかたまりのこの福島久に、いよいよ義理天上日の出神がかかられて……』と言うたら、『そなたのぐらいの苦労どま……』と教祖さんの大きな声。姉さんは顔色変えてなあ、それですぐに丁寧にご挨拶して、出て行っちゃったんじゃな」 星田には、久の無念さがよく分かった。星田の知る限り、久ほど神を思い教祖を思う人はなく、久ほど何もかも投げ捨てて神業に尽くしている人はない。とぶようにして来た久の心中を察すれば、多少昂った語調になるくらい仕方ないではないか。それを「そなたのぐらいの苦労どま……」とぴしゃり叩かれては、久の立つ瀬があるまい……。 その言葉が王仁三郎の口から吐かれたのなら、久はどんなにでも食ってかかったろうが、母なればこそ一言も弁明しないで去ったのだ。お可哀そうなお久さま……。 神界では義理天上という夫であり、また母である久のことを、妻として娘としての感情でいつか思いやっている星田であった。「あんた、どう思うてや。清吉兄さんはこれから久姉さんにかかって、ほんまに日の出神として大働きしてんじゃろうか。うちは、ほんまやろうと思うんじゃがええ」 人の感情にはこだわりなく、澄の目は期待に輝いている。 心せくままに教祖室の襖を細目に開くと、直はたそがれた部屋の中で、端然と坐っていた。直のまわりだけが、何故かほの明るく見える。清吉と久と……二重の感情のもつれに耐えながら、何者かをはねのけるような厳しさをみなぎらせて、直は居る。 言葉をかけるのも恐れて星田は平伏し、襖を閉じて、小走りに久を追った。
「……佐田子姫、龍宮島の地獄の釜の焦げ起こしいたしましたるその永年のくやし残念めぐり来て、現世では星田悦子、神界ではわたしの一番総領娘吉久姫。現世では牧寛治郎、神界では青森雪成。二人に生き証文を書かせる今日の日柄、なにとぞなにとぞこの上ながら……悪魔の業とは言いながら、今までこれほど艱難しても、これなら十分と神のお恵みでこの世にあらわれ、まだその上に(直に)疑われ、どうして立ってゆくのじゃいな。ようもようもこれほどに、ようも曇れば曇るもの……。生き証文をしっかり渡そう」 久は神前で泣きくずれ、星田はもらい泣きする。牧も筆を止め、身もだえる久をいたましそうに眺めた。綾部から戻った翌二十日朝八時である。 いつの間にか、憑霊は佐田子姫から義理天上の清吉に代わり、久と清吉の芝居がかった問答に移っている。「姉上、姉上、義理天上も立っても居てもいられません。お察しをいたします。姉上さま、お嘆きはごもっとも、わたくしとてもその通り、昔々のさる昔、まだも昔のその昔、くやし残念耐ばりきて、ここで親さまに御安心を与えようと二人の艱難、それほど互いに艱難苦労して……」 久はただ泣きむせぶ。ややあって、「弟義理天上、よく聞きや。あの尊い岩戸のその中で生き証文を渡す時、なぜどまぐれた。弟、そなたはどうするじゃいのう。この大切な生き証文を渡す時、そなたはなぜ、なんと心得て、三カ年も御国のために尽くしておいて、二十五年に出立していながら、二十八年に出たとなぜどまぐれた。二十五年に故里をたちいで東京に行き、二十八年に戦争に向こうたであろうがな」「お許しなされて下さりませ……。神の代から義理天上でつらぬいて……しばらく、この泥の世界へあらわれて、とりわけ泥につかりこみ残念至極、肉体で汚れを受けましたから、肉体をもって帰られずと肉体を泥に返し、やはり霊魂で……」 久は首を一振り、まだ男の声のまま。「ウム、姉上、御安心、変性男子の変化れ武者、一粒万倍に変化れて見しょ。先を見ていて下されよ」「弟、でかしゃった、それでならこそこの方の弟、しっかりしっかり、腹帯をぐっとしめこんで、七王も八王も平げて、日本の国の日の本の大和魂の生枠を仕立ていでおこうか。弟、手を取り引き添うて……。 この方は元は長袖であったなれど、この度の立替えについては、元の長袖ではおれぬから、天を駆けり地を駆けり、千騎一騎のこの場合、働かいでおこうか。その方は宇宙で働き、この方は地で龍宮さまと引き添うて現幽統一、片腕働いて、日の出の守護で止め刺す。しっかり弟」「姉上さま、姉弟引き添うて、大神さま(直のこと)の御艱難、御苦労を世界に輝かさでおくべきか」「弟、しっかり……」「姉上、しっかり」「この方は、黄龍姫がいつも先へ出られる故、いつも控えておりたなれど、もう控えてはおれぬ。大神さまにお願い、弟の不調法のなきように佐田子姫一心のお願い、どうぞお聞き届け下さいませ」「外国の今の有様、変化れ変化れてちっとも早う外国ヘ、そうじゃ、そうじゃ、姉上さらば……」 義理天上が昇霊して、あとは佐田子姫だけがめんめんと訴える。「……腹さきて産み出したる大八洲、世の元からの艱難をきばりこらえて貯えた生花咲かして喜ばす。一日も早く天の岩戸を押し開き、皆の者に安心与えたさ、吾が身の苦労を打ち忘れ、肉体にては福島久に宿りきて、幼少な六つの時から餡餅の臼取りいたし、臼の丈もないような小さな者が臼にのぼりつき、母さまがお饅頭をしてお売りなされるを手伝い、それを朝からと昼からと箱に二杯ずつ売ってこねば暮らしができぬ故、『それをさばいてきたならば遊ばしてやろう』との母さまの御命令、勇んで売りに出て行く。 帰りて産土さまの権現さまへ行き、御神前で遊ぶのが何よりの楽しみ。日々、権現さまの御神前に向かい子供心で悪さをいたし遊んでおったら、権現さまの御神体、烏帽子直垂をお召しなされ、わたしの前に立てりなされた。それで突然びっくりいたし、早く宅へとんで帰り、母上さまに御容体を申し上げたなら、母上さまのおおせには、『そら神さまのお姿じゃ。そなたは神さまに近い霊魂じゃ。神さまのおん前に出て悪さをしてはお気ざわりになる故、これからは御神前では遊ぶでない』と申された故、それから後は産土さまの御殿には恐れて参りませなんだ。 それからここまで来る道中の苦しさは、エエ……母上さまの昨日のお言葉には、『そなたのくらいの苦労どま』と大声で叱りつけ度胸定めをしられましたが、決して決して腹立つどころか残念とも思いません。 八千八声のほととぎす血を吐くよりもつら……いや、ウ―ム、八千八声のほととぎす、姿かくして声高く、涙もいでず叫びたり。まだこの上は、しばらくほととぎすの型となり、しばらく姿は忍びまする。わたくしの姿見えずとも、きっと安心を与えまする。このみ光は出しまする。母上さまに御安心を与えまするが、このわたくしの両腕、そなた両人のお役目、日の出神と引き添うて忍んで行をいたしまする。 たとえ肉体はしばらくは御面会(直に)はいたしませぬなれど、くわしきことはきっと手紙に。悪魔の中に抱きこまれる如き、必ずそんな卑怯なことはいたしませぬ。御安心あられませ。きっと覚えがござりまする。覚えなくては申されぬ。三千世界の世の立替えの世の元の生粋の大和魂の差し添えなれば、悪神ぐらいにひっかかり、めったに引き落とされはいたしませぬ。 両人、『お疑いには及びませぬ』としっかり書きこんで下されや。なんと言うてもお肉体が御老体、この上にわたしが心配をかけましては、天地に申しわけがござりませぬ。必ず必ず取越し苦労をなさらぬよう、解釈をして下され。日の出神の御様子もしっかり書きこんで下されや。まずそれで山々申すことあれど、また忍びの参上で、後のところは推量して下され……」 佐田子姫とも、久の肉体ともつかぬ嘆きを追って、星田も牧も、憑かれたように、筆をとり続けていた。


表題:是は誰か 12巻4章是は誰か                                    


 大正六年も暮れる頃、久しぶりで梅田安子は教祖直により添っていた。苔庭に水を打ったような侘びたゆかしさが、かさかさに乾いた安子の心をしっとりとうるおしてくれる。この夕べ、何気なく直は安子に語りかけている。「来年は直日さんが十七になるさかい……三代が十七の時には世をゆずるのや、と神さまがおっしゃるでなあ。そう思うときなはれよ、お安さん」「また、何のことどっしゃろ」 ふにおちぬ安子のために、直は説明する。「古うなった着物はほころびをぬい、破れはつづくろうて着せてもろてます。けど、つぎはぎもきかんようになったら、いっぺん脱いで、きがえんなりまへんやろ。人間の体も同じこと。わたしの体がきかんようになったら、お安さん、わたしはこそっと直日のおなかへ入るでなあ……」「直日さんのおなかに……」 少し笑んだ眼元で、直はうなずいた。「それでもお安さん、先生の御用は今度だけ、一代限りで天へ帰られる。天のみろくさまの身代わりはもうないのやで……」「……」「二代の世は短い。二代の御用ではこの世はまだあかん。わたしは三代の腹から生まれてくるで、覚えといておくれなされ」 その直日は、大二、梅田夫妻と共に、正月を綾部で過ごすため、直の手元に戻っていた。
 大正七(一九一八)年正月一日、出口直八十三歳、王仁三郎四十八歳、澄三十六歳、直日十七歳。 出口家、信者一統、そろって神代餅を祝った席で、王仁三郎は安子に耳打ちした。「お安さん、教祖はんのお体は今年中や。びっくりすなよ」 安子の体が震えた。抗議したくても、満座の前である。直も澄も、すぐ脇で、にこやかに箸を動かしているのだ。こわばる視線を振り向けると、もう王仁三郎は五女尚江を抱き上げ、席を立っていた。 翌二日早朝、直は統務閣の南の広縁にたたずんでいた。たっぷりと水を含んで滲んだような薄墨色の稜線が南から西へかかっている。こまかい霧のつぶては、直の髪に、袖にふりかかる。「教祖さま。冷とうござります。はよ、おこたヘお入りやす」 部屋の内側から安子が気をもんで呼びかける。「今年の暮れにはなあ、お安さん、わたしはあそこへ行くで」 直の指は、山の尾根の一角にはっきりさし向けられている。「……下に池のある、あそこやで」 それから低い寂しい声で直はつぶやいた。「ほんまはなあ、わたしの体は静かな松の木陰へ、目立たんように埋けてもらいたいのや……」 悲しみに胸を熱くして、安子は叫んだ。「教祖さまは生き通しどす。そんな……そんなこと……」 涙声になる安子を押えて、直は言った。「古びた体のことやでなあ、お安さん」
 澄は妊娠七ケ月、腹が臨月ほどにも大きくなっていた。「お澄は八人の子を産まねばならぬでなあ」とかねがね直は言っていたが、この春、七人目の子を産み落としても、まだ後一人産まねばならぬのかと思うと、呑気な澄も少々うんざりである。 この日午前八時、西岩戸の頂上の積雪を排除し、四方拝を挙行した。
 一月三日、王仁三郎は谷高国徳を随行に、京都本部の新年会に出席した。 翌四日午後一時、王仁三郎は牧寛次郎・星田悦子・谷高国徳を加えて、森慶三郎の案内で八百万神社へ向かう。 人力車を走らせて、嵯峨の小笠原義之の家で少憩、ここからは徒歩で清滝の雪道を踏み越える。途中、清滝の料亭「鍵庄」の離れ座敷で川の瀬音を聞き、美しい雪の眺めを嘆賞しながら、小笠原兄弟の茶菓の饗応を受ける。 明治三十五年、空也の滝を訪れ、御嶽教の行者杉本慧や大阪の侠客団熊たちに出会った思い出話を面白おかしくして、王仁三郎はしきりに昔を懐かしむ。さては十数年以前より、王仁三郎によってこの地に神縁がつながれていたかと、兄弟は感慨深げである。「鍵庄」を出て、清滝川にかかる猿橋を渡り、川に添う愛宕参道を半道たどり、更に折れて空也の滝ヘの細道を登りつめる。午後五時、石の大鳥居をくぐった。百六の石段は曲がり曲がって、うっそうとした森林の奥深く這い上がっている。清らかに千木そびえ立つ神殿の金字扁額は宮内大臣波多野敬直の自筆である。 王仁三郎が拝殿に着するや、瑞の霊魂の神がかりがあり、一首の神歌を詠み上げる。続いて豊国主尊・素盞鳴尊の神霊鎮座の幽式を執行する。 社務所で休息の上、夕闇の中を半町足らずの距離にある空也の滝に降りた。深山幽谷から流れ落ちるこの瀑布の高さは三丈三尺、その瀑声に王仁三郎の心耳は一種の神韻を聞きとる。あるいは琴を弾ずる如く、笛を吹くが如く、天女が美妙の音楽を奏でるようである。何千何万筋とも知れぬ水の細糸に一々水の玉が散る。俗称は「空也の滝」だが、正式の名称はないと言う。王仁三郎は「琴玉の滝」と命名した。 一行を待たし、王仁三郎は滝の左側の断崖絶壁をよじ登り、瀑上の岩窟を探検する。森が大本を知って参綾したあと、菱田行者は神約の天津神算木を放り捨てて、いつの間にやら行方をくらましていたのだ。岩壁の中には菱田行者が最近まで住んでいたらしい形跡が歴然と残っている。「一つの望み」を行者に持ち出された時、三兄弟の心に、一ぺんの私欲も動かなかったことが、悪霊の誘いを未然に防ぎ、神の試練を切り抜け得た証しとなったのであろうか。岩窟の傍の松の枝に、行者の遣留品らしい白衣が汚れてひっかかっていた。 社務所に戻り、神勅を仰いで王仁三郎は八百万神社を「皇道大本八重垣神社」、社務所を「皇道大本琴玉出張所」と命名、小笠原三兄弟を神社の主管者に命じた。
『神霊界』の大正六年十二月号、翌七年一月号、二月号誌上に王仁三郎は、瑞の霊魂の神がかりによって一気に筆を走らせた一連の作を発表した。たくさんの飾り言葉で真意をかくし、婉曲な言いまわしでぼかしてはいるが、それは決して文芸的にこねたものではなかった。 言論弾圧の厳しい最中、政府への迎合にも心を遣いつつ、真綿にくるんだ針のように、チカッチカッと未来の日本と世界の動向を指し示したのだろう。これだけ発表するにも大変な勇気と決断がいった。
 大本神歌(大正六年十二月一日記)     (一)東雲の空に輝く天津日の、豊栄昇る神の国、四方に周らす和田の原、外国軍の攻め難き、神の造りし細矛、千足の国と称へしは、昔の夢と成りにけり。今の世界の国々は、御国に勝りて軍器を、海の底にも大空も、地上地中の選み無く、備へ足らはし間配りつ、やがては降らす雨利加の、数より多き迦具槌に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民の、行く末深く憐れみて、明治の二十五年より、露の玉散る刃にも、向ひて勝ちを取らせつつ、猶外国の襲来を、戒め諭し様々と、神の出口の口開き、詔らせ給へど常暗の、心の空の仇曇り、磯吹く風と聞流し、今の今まで馬の耳、風吹くごとき人心、アア如にせん戌の、午の春夏秋に懸け、心落ち居ぬ荒浪の、中に漂ふ苦しみは、神ならぬ身の知る由も、なく泣く縋る神の前、水底潜る仇艦と、御空に轟く鳥船の、醜の荒びに悩まされ、皆散り散りに散り惑ふ、木の葉の末ぞ哀れなる。     (二)連合の国の味方と今迄は、成りて竭せしカラ国の、悪魔邪神が九分九厘、モウ一厘の瀬戸際に、旗を反すと白露の、その振舞ひの非義非道は、すべての計画を狂はせて、勝つ可き戦争の負け始め、永びき渡る西の空、黒雲晴るる暇も無く、独り気侭の仕放題、印度の海も掠め取り、ここにも深き経綸為し、続いて浦塩日本海、我物顔に跳梁し、トントン拍子に乗り出して、神の御国を脅迫し、モウ一息と鳴戸灘、渦巻き猛る荒浪に、大艦小船残りなく、底の藻屑と亡ぶるも、綾の高天にいと高く、空に聳えし言霊閣、天火水地と結びたる、五重の殿に駈け登り、力の限り声限り、鳴る言霊の勲功に、醜の鳥船軍艦、水底潜る仇艇も、皆それぞれに亡び失せ、影をも止めぬ惨状に、曲津軍も慄きて、従へ仕ヘ来る世を、松と梅との大本に、世界を救ふ艮の、神の稜威ぞ尊とけれ。     (三)綾の高天に顕はれし、国常立の大神の、神諭畏こみ謹みて、厳の御魂と現はれし、教御親の神勅に、日清間の戦ひは、演劇に譬へて一番叟、日露戦争が二番叟、三番叟はこの度の、五年に亘りし世界戦、竜虎相打つ戊の、午の年より本舞台、いよいよ初段と相成れば、西伯利亜線を花道と、定めて攻め来る曲津神。力の限り手を尽くし、工夫を凝らし神国を、併呑せんと寄せ来り、天の鳥船天を蔽ひ、東の空に舞ひ狂ひ、ここに二段目幕が開く。三段いよいよ開く時、三千余年の昔より、国の御祖の選まれし、身魂集まる大本の、神に仕へし神人が、御祖の神の給ひたる、日本心を振り起こし、厳の雄猛び踏み猛び、厳の身魂を元帥に、瑞の身魂を指揮官に、直日の身魂を楯となし、何の猶予も荒魂、爆裂弾の勇ぎ能く、神の軍の奇魂、奇しき勲功は言霊の、天照る国の幸魂、言平和す和魂、魂の助けの著るく、轟く御代を松の代の、四十有八の生御魂、言霊閣に鎮まりて、四方の国々天の下、治めてここに千早振、神代ながらの祭政一致、開き始めて日の本の、現津御神に奉る、常磐の御代ぞ楽しけれ。     (四)カラ国の天に漲る叢雲も、砲烟弾雨も晴れ渡り、日の出の守護と成るなれば、こよ無き御国の幸なれど、十重に二十重に累なりし、糸のもつれのいや繁く、解くる由なき小田巻の、繰り返しつつ行く程に、東の空にもつれ来て、退くに退かれぬ破目と成り、いよいよ出師と成る時は、五十余億の軍資をば、一年経たぬ束の間に、烟散霧消の大惨事、巨萬の生霊土と化し、農工商の国本も、次第次第に衰へて、青菜に塩のその如く、彼方此方に溜息を、吐く吐く思案に暮の鐘、進退ここに谷まりて、天を拝し地に伏し、狼狽へさわぐ弱虫の、カラの身魂は自ら、現はれ狂ふ憐れさよ。されど日本は千早振、神の守りし常磐国、国の真秀国珍の国、神が表面に現れまして、御国を守り給ひつつ、世界を救ひ玉へども、まだまだ心許されぬ。一つの国の御空より、降る雨里迦の一時雨、木枯さへも加はりて、山の尾の上の紅葉も、はかなく散りて小男鹿の、泣く声四方に竜田山、神のまにまに四つの尾の、山の麓の龍館、集まり居ます神々の、厚き恵みに照り返す、紅の楓葉の、元の姿ぞ目出度けれ。
 いろは歌(抜粋) り う球につづく台湾澎湖島、御国に遠きこの島に、心を配れ日本人、外国魂のここかしこ、国売る曲の多くして、主人の留守の間鍋たき、柱を崩すカミばかり、ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを防ぐ由なし。 を に大蛇狼よりも恐ろしき、異国魂の奸計は、口に蜜をば含みつつ、尻に剣持つ蜂の如、大砲小銃の兵器を、残らず反古の紙と為し、尻の穴まで見すまして、時待つ時の火車を、御国の空に轟かし、掠め取らんと曲津神、企みは実にも良けれども、日本の国は昔より、神の御幸の強き国、人は三分に減るとても、神の身魂は永遠に、続く常磐の神国ぞ。異国魂の世の末と、成り定まりし幽世の、神の経綸も白人の、世の終りこそ憐れなれ。 れ ん合の国の軍は強くとも、心は割れて四つ五つ、いつか勝負の果もなく、力は既にイングリス、艮に以太利て雨リカの、フランス跡に地固めの、望みもついてカイゼルの、甲斐なき終り世の終り、金も兵糧も尽き果てて、互に臍をかみながら、なお懲りずまに向きを替へ、良き支那物を奪はんと、命限りに寄せ来る、その時こそは面白き、ここに仁義の神の国、豊葦原の足に掛け、蹴え放ららかし息の根を、絶ちて悪魔を絶滅し、世界一つに統べ守り、祭政一致の神政を、天地と共に楽しまむ。 ね の国に落ち行く霊魂を救はむと、厳の御魂の大御神、瑞の御魂と諸共に、綾の高天に現はれて、竜宮館の渡し場に、救世の船を浮かべつつ、待たせ給へど烏羽玉の、暗に迷へる人草は、取りつく島も荒塩の、塩の八百路の八塩路の、浪に漂ひ迷ひつつ、沖の彼方へ走せ行くを、救ひの船に掉さして、呼べど叫べど不知火の、浪のまにまに隠れつつ、海の藻屑と鳴戸灘、危ふき渦に近寄りて、行衛も波の底の国、流れ行くこそ悲しけれ。 お ちこちの寺の金仏金道具、釣鐘までも鋳潰して、御国を守る海陸の、軍の備へに宛つる世は、今眼のあたり迫り来て、多具理に成ります金山の、彦の命の御代と化り、下国民の持物も、金気の物は金火鉢、西洋釘の折れまでも、御国を守る物の具と、造り代へても足らぬまで、迫り来るこそ歎てけれ。 く に挙り上は五十路の老人より、下は三五の若者が、男女の別ち無く、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず、遠津御神の造らしし、御国を守る兵ものと、日本心を振り起こし、伊都の雄猛び踏み健び、厳のころびを起こしつつ、海往かば水潜くかばね山往かば、草生す屍大君の、御為に死なむ徒らに、閑には死なじ一足も、顧みせじと弥進み、いや迫りつつ山の尾に、追ひ伏せ散らし川の瀬に、追ひ払ひつつ仇軍、服従へ和して浦安の、御国を守れ秋津人、現津御神と大八洲、国知食す天皇の、高き恵みに酬へかし、日本島根の神の御子。(大正六年十一月三日) ろ こくばかりか亜米利加までが、末に日本を奪る企画。金と便利に任しつつ。 に しに亜米利加北には露西亜、前と後に敵ひかへ、四方海なる日本国。(明治三十六年九月十日)
 これを発表した時点の大正七年(戊の午年)から、この神歌を発火点として、大本は一層時機の切迫を意識することになる。大本神歌を丸暗誦する信者たちすら出てくる。寄るとさわると、その噂である。「いよいよ本舞台ですなあ。西伯利亜線を花道に攻めてくるという初段はまあ分かるとして、『天の鳥船天蔽ひ、東の空に舞ひ狂ひ、ここに二段目幕があく』からすぐ三段目が開いてしまう。この間は何も書いてない。どうもここらが臭いのやが……」「三段目がそれ以後の予言やろう。最後に残って勝つのは、われわれ大本神軍じゃ。けど、その前に大峠がありそうななあ」「二段目から三段目にかけて、もう少しくわしく発表してもらおうやないか……」 気の早い連中は、王仁三郎にお伺いを立てる。「わしのは予言やのうて確言じゃわい。しかしこれ以上書いたら首があぶない。お前ら、いろは歌と合わしてよう判断せい。……二段目か、うーむ、こらえてくれや、むごたらし過ぎて書けるかい」 それでも、いろは歌のおやくの項ではかなり日本の劣勢を予言し、りの項では「降る雨リカを防ぐ由なし」と断じ、その上琉球、台湾、澎湖島が何やらあやしい気配である。 今から考えれば、たとえば大本神歌の(三)は、初段の「西伯利亜線を花道」が満州事変、二段目が第二次世界大戦、三段目がそれ以後の予言ではないか、と思い当たる。つまり王仁三郎が筆先の正しい認識に立ち、日本及び世界の今後の動向を長期にわたって示そうとしたものだが、浅野和三郎初め役員信者たちは、本舞台が戊の午の年とある所から、大正七年より、三、四年でばたばたと立替え立直しが行なわれるものと、いろめき立っていた。 この頃から海軍に続いて陸軍軍人の入信者が多くなったが、彼らは、もう少し現実的な受け取り方をした。「今まで日本は露国だけが敵だと一方的に目を向けとったが、どうやら本当の敵は米国らしい。これからは常に米国を仮想敵国として考え直さねばならぬ」 この結論は、軍部ヘ意見具申され、日本の戦争準備は、米国に対して大きく方向づけられるようになったという。「時機切迫」の意識に徹した大本は、大正六年十二月二十一日に旬刊紙『綾部新聞』を創刊、全国の市町村役場や学校関係、実業関係などの各方面に毎号贈呈を続けた。 大正七年二月四日には皇道普及会を創立、綾部新聞(一部一銭、郵税五厘)の無料配布は、その手に引き継がれた。無料配布の財源は信者や有志の寄附に求めたが、応じる共鳴者は多かった。 さらに月刊紙『神霊界』も三月から月二回と改められ、文書による猛烈な全国的キャンぺーンが展開される。 国内外の不安な情勢を背景として、こうした大本の宣教は、思想的に動揺する国民各層の間に浸透の輪を広げてゆく。
 大正七年一月十四日、木原鬼仏(四十五歳)は、松江発午後八時二十五分大阪行の二等車に乗っていた。待望の参綾の機会を得て、年甲斐もなく、昂奮していた。 木原の鞄の中には、「至急来られてはいかが」という、今朝着いたばかりの出口王仁三郎からの手紙が入っていた。それを踏ん切りにして、むりやり都合つけて出てきた。場合によっては、浅野和三郎と霊術くらべをしてやろう。何と言ってもまだこの道二年ちょっとぐらいの浅野に比べて、わしには十余年の経歴があるのだ。霊力については自信があった。 木原鬼仏は本名通徳、明治六(一八七三)年、伊予の波止浜で生まれた。今の木原は頭はつるはげ、鼻下に黒い髭をたくわえ、赭顔で豊頬、福徳円満の人相であるが、十八歳の年には右肺をやられ広島病院へ入院、二十歳で全治したものの、徴兵検査は体重十貫五百匁、丁種で撥ねられるほど病弱な体格であった。 二十二歳で結婚、父の仕事の製塩業を継ぐが、根が坊ちゃん育ちの夢想家、何か為になることをして国家に尽くしたい、と常々考えていた。 感ずる所があって船底塗斜の研究を始めた。当時、日本ではまだ船底塗料は外国からの輸入に頼っており、万一国際問題が起こって輸入が杜絶した場合、日本の軍艦の船底は半年もすれば牡蛎殻だらけになる。船底塗斜の研究は国民として焦眉の急だ、と考えたのである。 しかし人の良い彼は技師にだまされて特許が取れず、事業も失敗して大金を失った。 さらに明治三十三年、北清事変の際、支那革命の仕事に首をつっこんで、親の財産まで費消した。熊本の九州新聞社へ入社して記者生活をしながら、今度は心霊研究に手をつけた。その以前から催眠術を井上円了について学んでいた。明治三十四年に郷里で海南新聞の支局を受けもち、翌年には大阪の特派員になり、かたわら催眠術研究会を主宰した。 明治三十八年、放浪の旅に出る決意をし、一家分散を宣言した。妻せつとの間に、十一歳の長女を頭に生まれたばかりの三男まで五人の子をなしたが、その養育は妻に押しつけることにして、乏しくなった財産を分け与えた。 自分を必要とする土地がきっとどこかにある。家庭に束縛されて本来の使命を放棄できるかと三十三歳の木原の夢はふくれ上がる。 アメリカ行きを計画し、まず足ならしにハワイ渡航を考えた。ある友人がその計面に賛同し旅費調達を引き受けてくれたので、送別金をもらって郷里を出発、旅券までとって神戸へ行った。ところが友人の金策が失敗、いまさら郷里へ舞い戻れず、神戸で精神療法による病気治しをして暮らしを立てていた。そのうち、病気を治してやったのが動機で、その人の郷里徳島へ行く。だが世話してくれる筈の彼が心変わりして知らん顔、宿屋の二階に篭城するはめになる。 途方に暮れ、六里ばかり離れた瀧へ行って、二週間の行をした。満願の日、瀧壺から上がると、神霊があらわれ宣示した。「まだ修行の完成の時機ではない。いつか銀蛇が現われて、汝の口に霊薬を与えることがある。その時こそ、汝の修行の一段階だ。それがすめば次に金蛇が現われるから、その時機を待て」 幻覚ではないかと思い目を閉じたが、依然としてその姿が見え、その声が耳の底に残った。 明治三十九年、神戸市北長狭三丁目に一家を構え、神霊治療を始めたが、いつの間にか霊力が強くなっていて、支那人だけで千八百人ほどの治療を試み、好結果をあげた。この機を逸せず、支那人を利用して南清へ乗り出そうと計画した。けれど同棲していた女良子が心臓病をわずらい、動きがとれず、挫折した。 同年八月、山陰を旅行して、宍道湖を背景とした自然の景観に魅せられ、急に松江に移住することに決めた。 十一月に松江市寺町九九(宍道湖東岸)に一戸を構え、神霊治療をやった。殿町に三井という女将があり、梅毒性神経痛で足を切断したが非常に痛むと言うので、治療を頼まれた。三十分後に俥で往診すると、さっき治療してもらって痛みが軽くなったと、礼を言われた。自分の霊が先に来て治療していたのだ。女将は四日後には、快気祝いをした。 木原は、神通自在の霊力が備わったことに気がついた。脳の悪い人に自分の帽子を貸してかぶらせただけで三十分ぐらいで治ったり、担架でかつぎこまれた病人が二回の治療で本復したり、不思議なほどよく治る。人気は高まる、患者は押しかける、門人は増える。 三十九年から四十年にかけては、まさに得意絶頂時代であった。神戸から連れてきた良子との間に、俊子という娘までできた。金が千円できたら東京へ出て大活動しようと、野心に燃えた。四十年の暮れには、すでに六百円の貯金ができていた。 明治四十一年一月一日、霊夢を見せられた。本年二月十八日から大病にかかる、という夢である。翌二日、門人十八人に向かって、その旨を宣した。 霊夢は、そのまま実現した。二月十八日に発熱して腸チフスと診断され、避病院へ隔離される。それからは、腸出血・膀胱炎・脳膜炎・腹膜炎とそれからそれへとわずらい通し、十八人の医者にかかり、不思議な患者として研究材料になった。妙に十八という数字がつきまとった。一時は生死を危ぶまれながら、七月三十日に全快して医者を驚かせる。 この騒ぎで、東京行きどころか、せっかくの貯金も使い果たした上、四、五百円の借金まで背負い込んだ。夜逃げでもするだろうと近所の人に噂されるぐらい、さんざんの体たらくであった。良子の心臓病が重くなり、死亡したのもその頃である。 妻や子に手足を引かれることを拒みながら、やはり孤独には耐えかねて、女弟子の一人隆子を家に入れる。明治四十五年に女の子、大正三年に男の子をもうけた、俊子も二人の子も、本妻せつの子として籍に入れた。せつには無断である。子供たちを庶子として届けるのがかわいそうだからで、せつの感情を思いやることはなかった。それほどの悪気ではなく、自分が妻の立場になってもそれを許すだろう、たんに籍だけのことだから、という自己本位の大らかな気持ちからであった。 妻と正式に離別しないのも、同様に妻との間の子を片親にしてはかわいそう、という善意からである。 大正四年四月、十歳になった娘俊子を連れて城山ヘ花見に行き、帰りに臨済の禅学に熱中している友人を訪ねた。友人は俊子に向かって試みに禅の姿勢をとることをすすめた。娘が言われるままに正坐し瞑目する間、傍で見ていた木原が無意識に筆をとり、紙に片仮名のキの字の下の曲がったような図を書いた。俊子は瞑目したまま、「お父さん、いま変な字を書かしゃったなあ。キでもなくってモでもない……何ちゅう字だら」 驚いた木原は、友人と一緒にあれこれ実験してみて、俊子に的確な透視能力が備わったことを確信した。金庫の中の物まで透視する。大評判になった。 当時、松江に『彗星』(発行所、松江市北堀町三十六、彗星社)という大正元年創刊の雑誌があり、政治・実業・教育・宗教等の他に神霊問題にも多くの紙面を割き、全国的に持殊な読者を有していた。その『彗星』に俊子の透視が記事になり、一層評判が高まる。 木原はその雑誌を一部、東京にいる友人、伊予出身の井上為一に送ると、折り返し返事が来た。「娘さんに御褒美の品を送った。どんな品物か透視してごらん」という文面である。娘は静坐瞑目し、やがて「品物は三越の浴衣地で色は紫とすすき色、模様は桜」と答えた。木原はすぐにその旨を井上に書き送った。翌夕、到着した小包を開くと、まさに寸分違わぬ品物であった。 当時、裁判事件に関係して、知り合いの弁護士に証拠品の隠し場所の透視を頼まれ、ある家の押入れを探り当てて、起訴された人の無実を証したこともあった。病巣の場所の透視も確かだ。千里眼を専門に研究している福来友吉博士も東京からしばしば訪ねて来て俊子を研究し、その正しさを証明した。 大正四年十月八日の晩、木原は夢をみた。銀龍が現われて自分の口中に霊薬を三滴垂らしたのだ。夢がさめてから一週間は薬のにおいで口中が臭かった。それ以米、八のつく日は必ず大熱が出て、翌年の八月までその状態が続いた。 霊夢を見た日から、木原は枕木山の薬師堂へ篭った。弁慶がいたと言われる寺で、沢山の人たちがお篭りしていた。 十月十二日、突然霊動が起こりどんどん跳び上がると、今度は大きく跳躍し、薬師堂に篭っていた六十人ばかりの人の頭上をとび越し、向こう側ヘシャンと坐る。またとび戻って、こちら側へシャンと坐る。 十月二十日、黒門をくぐり、白木の檜造りの神殿や池やその他の建物をはっきり夢見、起きてからもその印象はこびりついていた。 十二月、原田玄龍という白髪の老人が訪ねてきた、禅にこり、仏典の一節からヒントを得て、耳根円通法なる治療法を考案していた。その法を伝えるから木原に継いでくれ、との依頼である。 病気の原因は、頭の中に陀那という滓がたまるからだ。それを除去するためには、正坐して耳を動かす訓練をすればいい、というのが基本である。かなり効果を上げていた。耳根円通法を老人一代で絶やすのが惜しく、木原は大正六年からその通信講義録を出すことにした。 当時、大阪朝日新聞の新刊批評欄に『神霊界』紹介の記事が載っていたが、木原は誌名だけを記憶した。八月、心霊哲学会を主宰、機関雑誌『心霊界』を創刊することになって、誌名の似ている『神霊界』を思い出し、綾部から取り寄せた。理解しにくい所が多く、もっぱら筆先だけに興味をもって読んだ。 たまたま雑誌『彗星』の主幹岡田建文が遊びに来た。岡田とは娘の記事が『彗星』に掲載されて以来、交遊があった。岡田に『神霊界』を見せ、互いに大本という変わった団体を研究してみようじゃないかと約束した。 木原は八月に綾部へ出かける予定であったが、機会を失し、岡田に先を越されてしまった。 岡田建文は大正六年十二月二十四日参綾、王仁三郎・浅野らと会い、鎮魂を受け、一泊する。松江から大本ヘ来た第一号であり、島根の地に芽生える最初の一粒の種となった。「君、君、太平な顔して耳根円通などしとる時節やないがね。世の立替えがあって、天地がひっくり返るそうや。教主さんには、あんたのこと話しておいた。早く綾部へ行きなはいね」 帰松した岡田は木原を煽り立てただけではすまず、早速『彗星』に「皇道大本」と題する紹介記事を連載し始める。それは後の大本弾圧の嵐をくぐり抜けてなお継続される。 木原の参綾は、正月四日に親の死にあい、四十九日の喪に服するため延期となった。ところが一月十三日、故人が夢枕に現われ、「これ以上喪に服するに及ばない。今日で忌みが明く」と伝えた。そして翌十四日、王仁三郎からの手紙を受け取ると、何もかも放擲して車中の人となったのである。 夜行列車は夜の日本海の漁火を左に見ながら東へ東へと進み、安来、米子を過ぎる頃には夢路に分け入る者が多くなった。立替え立直しには驚いたが、大本の鎮魂帰神ぐらいなら自分の霊術の方が上だろう、という自負は揺るぎなかった。 淀江駅へ着いた時、向かいの席に坐っている洋服を着た紳士の顔を見ていると、天狗の顔に見えてくる。おやおやと思って隣の席で眠っている男の顔を眺めると、これは確かに狸。背伸びして車中の人の顔を一々点検すると、狸・孤……一人として満足な者はおらぬ。目をつぶっても、やはり判然と見えるから不思議だ。どうやら肉眼で見ているのではないらしい。 鳥取駅に着いたのは夜中の十二時前で、台湾へ行くという役人らしい一家族が乗りこんできた。男の子と女の子の小さな子供だけは満足な人間の顔であるが、後はやはり人間というよりは獣に近い。 胸苦しくなって木原は手にしていた『神霊界』を開き、目をおとした。 ――いまの世界の人民は、みなりばかりを立派にかざりて、うえから見ればけっこうな人民で、神もかなわんように見えるなれど、世のもとを創造たまことの神の目からみれば、さっぱり邪霊の守護となりておるから、頭に角がはえたり、尻に尾がでけたり、むやみに鼻ばかり高い化物のはばる暗黒の世になりておるぞよ。 虎や狼は、われの食物さえありたら、まことにおとなしいなれど、人民は虎狼よりも悪がつよいから、欲に限りがないから、なんぼ物質がありても満足ということをいたさん。むごい精神になりてしもうて、鬼か大蛇のこころになりて、他の国をとったり、他のものを無理して強奪くりたがる。悪道な世になりておるぞよ。これもみな、悪神の霊のしわざであるぞよ。 明治三十二年旧五月五日の筆先である。 これから北清事変・日露戦争、やがては韓国併合と、欲望には限りのない人間同士が、弱い餌を求めては奪い合い、噛み合う、まさに筆先どおりの獣の世が実現しつつあるではないか。参綾するための精神的準備として人間の霊性を霊視させられたのだとすれば、よほど大変な神さんらしいと、自戒する気になった。 和田山駅着午前三時十九分、ここでかなりの人が下車した。向かいの天狗紳士も下車したので、足をのばして姿勢を楽にすることができた。福知山駅着午前四時十分、厳寒の待合室で待って五時三十七分発京都行に乗りこむ。初めてうとうと寝たかと思うと、すばらしい宮殿のような大停車場に着いた夢を見、はっと目ざめれば綾部駅であった。綾部着一月十五日午前六時。 何か昔来たことのあるような気がして黒門をくぐった。受付でいくら大声を張り上げても、寂として音なしである。木原ばかりでなく、初参綾の多くの人々が体験することであった。 うんざりして、やけっぱちのように玄関の式台に腰かけていると、ひどく小柄な人物が出てきて、「やあ、いらっしゃい。教主はんが玄関に人が来たからお連れせいとのことです。……やっぱり大将は耳がいい」 初めて対面した大本人がこの豊本景介であった。 豊本に案内されて、かなり奥まった部屋で王仁三郎に面会した。初対面から言霊学のわけの分からぬ話を聞かされて面くらった。 金龍海、その他神苑内の景色を見て一驚した。黒門も含めて霊夢で見せられた景色そのままである。 金龍殿で浅野和三郎から鎮魂を受ける時、薬師堂でのことを思い出し、木原は注文をつけた。「私は発動するとかなり派手に飛びますから、金龍殿の真ん中でやって下さい」 けれど浅野は、木原の要望を無視してわざわざ神殿の隅へ坐らせ鎮魂を始めた。一回目、二回目、木原は飛び上がりもせず、良い気分に誘われただけで、いささかあっけなかった。催眠術の一種ではないかと、木原はまず疑った。三回目は浅野家でしたが、鎮魂中、るり色の海に緑の島、次々に島が近づいて寝殿造りの社と朱塗りの大鳥居が目前となった。「あっ、どこで見た景色だったろう、あれは確か……」 ふっと場面がかき消えて、木原が目を開くと、「どうです、安芸の宮島さんが見えたでしょう」と、浅野が笑った。「そうや。あれは宮島……だけど、どうして……」「いや、ただぼくは、宮島さんの景色を見せてやって下さいと、あなたの守護神に頼んだだけですよ」 この時、木原の、鎮魂帰神が催眠術の一種でないかという疑念が消しとんだ。妖怪学博士と言われた井上円了から催眠術を直伝され、催眠術にかけては「いろは」の初歩から最高等に至るまで知り尽くしているつもりである。 浅野は一切暗示をかけなかった。暗示がなくても、潜在意識によって、宮島の景色を見ることはできる。しかし、宮島の景色を被術者が見たということを、どうして施術者が知り得るのか、鎮魂帰神と催眠術の違いは実にここだと、木原は思った。 十七日には岡田建文が二度目の参綾をし、十九日に帰松したが、木原は山積する仕事がありながら綾部を動く気にはなれなかった。大八洲神社の下の岩戸で三日間、無言の修行をした時、三日目に二神の霊体をありありと見た。二十二日には、金龍殿で鎮魂の自修中、一方から銀蛇、一方から金蛇が玉を持って現われるのを霊視し、かねての神示はこれだと、感激にうち震えた。 思わず尻を落ちつけてしまった十日間をきりにして二十四日、綾部発午後十一時の夜汽車で帰途についた。 福知山発午前零時四十五分大社行に乗り換える。綾部の滞在中、うまい物に飢えていた。城崎温泉で一泊して大いに御馳走を食ってやれ、という魂胆であった。 和田山まで来ると、体が上から押しつけられ、下半身が汽車の腰掛けに吸いついて動けない。自分で自分の体が自由にならぬ筈がない、と考えて力を入れてみるが、びくとも動かぬ。それでも腹は刻々空いてくる。仕方がないので城崎下車を断念し、豊岡で上半身だけねじ曲げて、汽車弁を買った。 真先に好物の牛肉の甘煮を一切れ食うと、何かがぐっと突き上げてきて、パッと吐き出してしまう。妙だと思ってまた食うと、吐く。三遍食って三遍吐き出し、断念して牛肉をよけて食った。 城崎駅へ着いても、腰は依然として動かない。汽車が城崎のホ―ムを離れたら、すっと忘れたように自由になった。豊岡で、すでに城崎下車を思い止まっていたのだから、城崎へ着く前に腰が立ってもよさそうなものだが、この食い意地の張った奴のことだ、万一決心を変更しては、とでも思われたのだろう。自分はよほど守護神から信用されておらぬらしいと、吾ながら情けなかった。
 松江へ帰って三日目、振り上げた虫網に虫の方からとびこんだ具合に、小原禎次郎(五十一歳)が訪問してきた。朝日新聞社の山陰道の営業面を担当している男である。 まず隆子、娘の俊子に徹底的に大本の信仰を叩きこんで、さて次はと煮えたぎる宣教の情熱をそそぐべき相手を物色していた矢先であるから、木原は、円満の相をさらに崩して喜んだ。「よかった、よかった、よく間に合った。時機は切迫しとる。君は幸運な男や」 あっけにとられる小原に、木原は、畳みかけた。「三千世界の立替え立直しという大経綸にとっくんでいる大本という聖なる団体がある。近いうちにその時が来て、人民は三分になる、と言うのや。どうや、君、入信するか、しないか」「そげん急に言われたって、入信ちゅうことは大問題や」「よし、まだるっこいが、わしの参綾ほやほやの体験談を語ってやろう。驚くなよ」 小原は熱心に聞いた。小原が心霊哲学会の会員であり、自分でも数々の霊的体験を経ていなければ、荒唐無稽とも思える木原の話で大本研究を思い立つことなどなかったであろう。 小原が十八年間の軍隊生活を切り上げ、上京してお門違いの日本銀行に勤めたのは、明治二十二年、三十二歳の時であった。神田の本屋で、井上円了博士の書いた狐狗狸の本を手に入れた。狐狗狸の現象は、精神作用と物理作用による、というのが博士の結論である。早速道具建てて実験して見ると、狐狗狸さんはばかに調子づいて面白く動き出す。ためしに三本棒から指を離してみても、その活動は変わらない。 小原は考えた。いくら学者が物理作用といっても、どうも納得できない。日本での精神方面の研究は、まだ幼稚なものだ。一つ、自分もやってみるか。 それが小原の心霊研究の動機であった。精神は物体を動かし得る、という仮説を立て、糸の先にボールを吊って一週間毎日にらめっこし、精神統一を計った。弟から狂人扱いされた上、ボールは念力を以てしても動かなかったが、思わぬ副産物があった。いつのまにか病気治しの霊力が備わっていたのである。隣家の巡査の歯痛や近所の俥屋の娘の脳病は、にらみつけて指で押しただけで全治した。下宿屋の細君が足を挫いたのも難なく治り、翌日下駄ばきで四谷から麻布まで歩いても平気であった。 明治三十九年に辞職して郷里の米子ヘ帰り、悠々自適の生活を送りつつ、かたわら霊的研究に没頭、各種の霊能者を歴訪した。 大正二年に朝日新聞社に入社し松江に移住してからは、同好の士として木原との親交を厚くしていた。 木原の話を聞いて間もなく、朝日本社からの命で、姫路へ迂回して用事をすませ上阪するため、木原の利用した同じ夜行列車で出発した。乗り替え駅の和田山の一つ前の駅まで記憶しているが、つい寝こんで乗り越し、福知山駅で気がついて、あわてて下車した。乗り越しついでに例の大本を見物してみるかと思い立ったのは、この時である。 大本では王仁三郎に面会した後、小原は浅野和三郎を並松の家へ訪ねた。ここで浅野から人には誰しも生まれた時から神性、即ち正守護神がついていること、同時に肉体保全の働きとしての獣性、即ち副守護神もついていて両者の間に激しい対立葛藤があること、現代人の多くは副守護神の思いのままに引きまわされているなどの説明を聞き、今までの疑問が氷解した。 鎮魂を受けると、体が前後に揺れ出し、頭がだんだん下がる。二、三度抵抗したが、ついにはどうしても頭が上がらなくなり、大磐石で押えつけられたようになって平伏した。自分以外のあるものの力があると確信すると、もう余計な説明は必要なかった。「分かった、分かった、すっかり分かりました」 その場で小原は入信を誓い、目的の大阪へ向かった。綾部滞在わずか三時間である。大阪の帰途、鳥取に途中下車し、友人の平木正二・山下三平に大本を宣伝し、大本修行の機縁を作っている。 松江へ帰ると、小原禎次郎は、『神霊界』大正六年度の合本を持って、奥村芳夫(三十七歳)を訪ねた、奥村は京町で大きな文具店「積善堂」を経営し、かたわら朝日新聞の販売店も兼ねていた。小原は熱心に大本を語った。 その夜、奥村は小原から借りた『神霊界』を徹夜で読んだ。筆先はよく分からぬので、浅野和三郎の「皇道大本概説」を特に精読した。その中の「……ぐずぐず遠方から小理屈を並べても仕方がない。ドーしても面と向き合って、各人の宿る所の神霊を発動せしめて、内部からその人に覚醒を与へるより外に適当の道がない。異論や疑義のある方は、ぜひ一、二度綾部へ来て貰ひ度い。諸君自身の神霊をして、諸君自身の異論や疑義を晴らさしてあげる。霊界の事は、真理の形骸を説く事は筆でできるが、真理を覚らせる事は筆ではできない」の一節が非常に印象的で、急に大本ヘ行って見たくなった。 二月十一日、奥村は松江を朝六時半に発ち、綾部に夕方六時頃に着いた。大本の受付で数回呼ぶと、長髪の少年が出て来た。「浅野さんか出口さんに会わせて下さい」 名刺を通じると、やがて受付の隣室にあたる大広間の障子を開けて、中年の婦人が顔を出した。妊娠らしく腹がはち切れそうに大きかった。後で知ったが、この婦人が出口澄であった。「ようお越し、こちらへおいで」 気さくに声をかけて、澄は先に立つ。せまくるしい台所を通り抜け、西石宮前の二間続きの座敷ヘ案内される。吊りランプの下に置炬燵があり、王仁三郎が執筆の筆を止めて迎えた。よほど根をつめたものか、顔がむくんでいた。「浅野さんですか、出口さんですか」 見物客のつもりなので、平気でぶしつけな質問をした。「出口です。寒かったやろ、お入り」 王仁三郎が炬燵蒲団の裾をまくってすすめてくれる。遠慮なく炬燵に入り話を訊いたが、その時、思いつきで奥村は言った。「もし松江で出口さんの講演会を開いたら、来てござっさりますか」「松江か、そうやなあ、久しぶりで出雲大社にも参拝したいし、二、三十名も人が集まれば行かしてもろてもよいで」 大本で一泊して浅野からも話を聞き、神苑内を見学して帰松した奥村は、すぐに岡田・木原・小原らと連絡し、講演会準備に奔走した。鎮魂では発動しなかったし、神の実在を確信したわけではなかったのに、腹の底から勇み立つものがあって、そうせずにはおれなかった。 二十日には奥村は有志を集め、自宅で大本講演会を行なっている。
 森慶三郎の信仰熱は、燃えさかる一方であった。一月二十八日、森家の什宝七福神神遊楽の像一組、二月二日、苦心して蒐集していた銘刀二百余口を大本へ献納、大阪での実業をふり捨てて、妻と三人の子と共に雪積む綾部ヘ移住してきた。 二月三日には大本教監に任じられ、王仁三郎から森良仁と名をもらった。 森良仁の妻まさは、商売を止め綾部にひき移る決意を夫から聞かされた時、さすがに動転した。大本というところはどんな役員であろうと給料と名のつくものは出ない、純然たる奉仕生活だという。地方宣教ヘ出るにも、旅費まで自分で工面せねばならぬ時もあるらしい。恩給で食える者はともかく、そうでない者が自活の道をつけながら奉仕することは、なまなかな覚悟ではできなかった。しかも軌道に乗りきった事業まで放棄して。 信仰のないまさがそれでも夫の言いなりになったのは、丹波の山奥に移住すればもう山上花代は追ってこまい、貧乏になれば自然、夫との手が切れよう、それから新しい暮らしを始めればいい、と思ったからである。 あわただしく並松に家を買い、まだ引越荷物の整理のすまぬうちに、山上花代が訪ねてきて、まさを驚かせた。「大本さんの近くのこんにゃく屋の二階に間借りしましてん。大阪の時よかずうっと近うなりましたさかい、よろしゅうに」「えっ、なんでこんなところに来たのよ、おまはん……」「わても大本はんの信者ですねん。退屈で困ってますのやわ。奥さん、なんぞお手伝いすることおまへんか」 愛想よく言われて返事に困り、雑巾がけの濡れ手を前掛けで拭きながらおたおたしているうちに、夫が奥からとんで出、「何言うてんのや。手伝いなんかせいでもええ。お前の方こそ一人宿替えするの、えらかったろの。後で手伝いにいてやろと思ったけど、もうすんだんかよ」「荷物は三味線一つどっせ。あっちでみんな売って来て、さばさばしてます。箪笥一つおへんえ。後で一緒に買物に行っとくれやすか」「よっしゃ、よっしゃ、まあ上がんなよ……おまさ、お茶いれんかよ。金龍餅があったやろうが……」 何もかもが目の前で崩れるのを、まさは知った。 自分にはかつて一度も聞かせたことのない、夫の甘ったるい声が聞こえてくる。 第一日目に玄関先できびしく花代を追い返すべきであった。一度家へ入れてしまえば二度、三度、あとは当然といった顔でしげしげと花代は訪ねて来た。お茶一杯出すまいと腹をたてながら、いざとなると渋茶の一杯、煎餅の二、三枚も出してしまう。花代が訪ねて来ない時は夫の方がこんにゃく屋の二階へ出張するらしい。それならまだしもこの茶の間の方がと、花代を見れば、いつからかまさは愛想笑いをするようになった。 その愚痴を、大阪の秀子に書いてやった。 三月初めの寒い日、生まれて半年ばかりの長男をおぶって、辻本秀子が並松の家へやって来た。「お父さんどこにおんのよ」 秀子は、たけだけしい目付きで家中をみまわす。久し振りで見る初孫を抱きとって、まさは相好を崩しながら、「おじいちゃんは大本にいてるのよ。早よ見たいやろなあ」 こわばった顔のまま、秀子は言った。「お母さん、辻本でうち、何と言われたと思うかね。『お前の母さんは日本一の婿さんもろうて喜んどったが、紀州でネル商売しとる思たら亭主を悪い女に寝とられたそうななあ』やて。お母さん、口惜しいやないか。あいつ、追いかけて来とるんやと? あたい、決心して来たのやで。これからお花の家に乗りこんで、お父さんときっぱり手を切らせてやろうと思うのや。お父さんのおかげで、なんであたいまで辻本にこんな肩身のせばい思いせんならんのや。さあ、こんにゃく屋どこやろな。案内しておくれよ」 まさは娘にこぼしたことを後悔し、おろおろとなだめにかかる。「秀子、そんなこと言わんといておくれ。あの手紙はなあ、何もそんなつもりで……お父さんはお花はんと確かにつき合うているけれど、あの人はなあ、賑やかで面白いさけえね。別に変な関係はないと思うのやで」「……思うのやでって、お母さん、なんでそんなこと分かるのよ。男と女の仲やものな。殊にあの女はなあ、流れもんの玄人やさけえ、大阪にいてた時から、妙な関係があったんやろかいな」「大阪とここは違うさけね。ここは神さんのお膝元やから、あの人もお花はんも神さん信じているさけ、今までのように間違うたことはせんはずや。大本の神さんは色の道は厳しいそうやでな……」「阿呆らしやないか。あたいが神さんやったらね、お父さんとお花に天罰当ててやるね。お母さんが甘すぎるさかいよ、神さんにまでなめられとるのやな」 まさは手を合わせて、「そうや、そうや、わしが悪いんや。そうやさかい、わしが手紙書いたの、お父さんに言わんとき。孫を見せてお父さん喜ばして……」 せっかくの意気ごみも萎えてしまって、秀子はぶすっと尻を下ろした。 使いにやった子供と共に、森が大本から急いで帰ってきた。四十四歳の若いおじいさんは初孫を抱いて大はしゃぎである。秀子は思わず涙ぐんだ。どんな思い出一つをとり出してみても、やさしく男らしい、情の深い父、四人の子供たちの自慢の父であった。けれど母にしてみれば、こんなに憎い勝手な夫はあるまい。そう思うそばから、父の他愛ない笑顔に溶かされて、秀子は突っかかる牙を失った。 森は娘と孫を大本へ連れて行き、王仁三郎に会わせた。「教主はん、これがわしの初孫です。可愛いもんでしょう。男の子ですわ」 いかつい大きな顔をすり寄せて赤ん坊と共につき出しながら、森は孫自慢をする。「お前、わしより四つも年下のくせに、もう孫こしらえたんか。よしよし、こら、日本一のゴンタになれよ」 王仁三郎も目を細めて赤ん坊の頭を撫でる。男の子ならどんな子でも羨ましい王仁三郎であった。 秀子は、初志をまげて、その日のうちに大阪へ帰った。
 三月中旬、その男は短身ながら精悍な体躯を羽織袴に包んで現われた。「おう、矢野さんが……。すぐここへお通しせい。お前らしばらく遠慮してくれ」 珍しく人払いを命じて、王仁三郎は統務閣奥の間に客と対座する。 その男、海軍中佐矢野祐太郎は、大きな二皮目をぎらりと光らせ、声を落とした。「ようやく支那へ回航する機会をつかみましてね。扶桑で台湾の馬公を発したのは二月二十七日、三月三日には佐世保帰着ですから、なんしろ時間がない。しかし、運がよかった。約束の土産、手に入れましたよ。早く持参したくて、これでもやっと抜けてきたんです」 約束の土産とは、一葉の写真と、書類の写しである。軍律を破らねば入手できぬはずの秘密文書にちがいなかった。一読して王仁三郎はうめいた。「うん、やはり生きている……」「生きています。少なくも彼がシベリアで大正七年の正月を越したことは確実と言えます。もっとも、彼らの明日の生命の保証はないが……」 文書の内容を頭に畳み込んで、王仁三郎はそれを手あぶりの火にくべた。「写真はもろておいて、よろしいか」「差し上げましょう。言うまでもないが、出所と写真の人物が何者であるかは伏せて下さい」「分かっています。矢野さん、ちょっと待っとくれやす」 王仁三郎は出て行って、急いで戻ってきた。「お澄が持っとる出口清吉の写真です。写真といっては、これ一枚あるだけや」「なるほど、うーむ……」 二葉の写真を畳に並べて、二人は熱っぽく見比べる。 片方は近衛兵の軍服・軍帽・背嚢を負い右手に銃剣をついて立った清吉、入隊当時の二十一歳、田舎育ちの子供っぽさと、ぎこちなさが、まだ全身に残っている。入隊は十二月であったから、長靴がふまえているのは雪らしい。もう片方は矢野の支那土産、王文泰の半身像である。きりりと引きしまった端正な面ざしの三十前後の青年将校……複写のせいだろう、金ボタンに折衿、肩章などがおぼろで、日本人とも支那人ともみわけはつかぬ。無帽の額は広く、利かぬ気の一文字の眉と口元、すきのない鋭い目には眼鏡が光っている。「この二つ、同一人物と断定するのはむずかしいが、年輪の差と、もみ抜かれた後天的な変貌とを加算すれば、多分にうなずけますなあ」と矢野が言った。「顔や姿はつとめて変えたやろう。この眼鏡も変装用か知れん。しかしごまかせんところもある。この肩の線、男としてはかなりなで肩やが、清吉はんとも共通しとるようや。あごの線、口元、耳の感じ、やっぱり同じや。それに、どことなくお澄に似とる……」 その声には、妻澄の兄、年こそ一つ下ではあるが、まだ見ぬ義兄清吉に寄せる情愛がこもっていた。 矢野は形を改め、「今度は私の方からのお願いがあります。私ごとですが、妻と三人の子供を綾部へ置きたいんです。子供を日本人らしい日本人に育てるのは、今やここしかない。妻子を大本にあずけて、後顧の憂いなく存分に働きたいのです。私なりに考えたあげくです」「それはよいが、あなたはどうしやはる……」「私は東京を離れるわけにはいかない。築地の末寺に厄介になるあてがあります。独身生活はかえってさばさばするでしょう。年末ごとには帰れると思います」「よっしゃ、あずかりましょう。篠原はんが、この春福知山に移ります。陸軍将校連が福知山支部に道を求めて来はじめている。それに対処できる現代式教育のある指導者がほしいと、福知山の稲次支部長から注文があった。『おれが行く』と、篠原はんは張り切ってはる。篠原一家が越したあとの家が空く。並松の浅野はんの隣りで、二階一間、階下二間くらいの小さい家やが、和知川に面していて環境は最高ですわい」「そこにしましょう。東京に戻り次第、早々に家族を連れて移ってきます。ではこれで……」「浅野はんにお会いなさらんか。つい先日、浅野正恭さんが、横須賀から木佐木少将と見えたところや」 矢野は帰りを急いでいた。「残念ですが、今日は折り返さんなりません。浅野さんには家族移住のお願いにちょっと立ち寄ったとだけ、お伝え願います」 あわただしく立っていく矢野を見送ったその足で、王仁三郎は、印刷所にまわった。「おう、熊はん、『神霊界』の四月号は組み終わったかな」「はい、今刷り始めるところです」 四方平蔵の長男熊太郎が、生まじめな面を上げた。「待った。ちょっと組替えせい。どこかにこの写真、ほり込んどくれや」「はあ……」 インクで汚れた手を拭って、熊太郎は写真を受けた。「あっ、これ誰やろ。どの記事に使たらよいんです」「どこでもよいわい。『南郷国松の冥途の通信』いう記事があったなあ。その尻にでもどうや」「はい、やってみます。写真説明は……」「そうやなあ、『是は誰か』」「……『是は誰か』……言うたら誰でっしゃろ」 若い熊太郎の目が、まっ直ぐ王仁三郎をみつめる。「それでよいのや。『是は誰か』が説明や。答えはいらん」「でも……聞かれたら……」「知らんと言うとけ。誰かは誰も分からんのや。それでええ。何十年かのちの世界に残す。誰かが分かってくれる時がくるのや」「はい、そうします」 こんなことには慣れていた。絶対服従を当然としていた。 素直に写真版の手配にかかる熊太郎を好もしそうに見やって、王仁三郎は念を押した。「写真は使ったら、まっすぐわしの手に返してくれ。この古ぼけた機械では無理やろうが、できるだけ鮮明に刷ってくれよ」 西門の脇に小さな家を建てて、星田悦子が一人住んでいる。今日も筆先の筆写に余念がない。 突然王仁三郎が入ってきて、星田に筆と和紙一枚を借り受けた。星田の見守る玄関先で、さらさらと筆を走らせ、王仁三郎が言う。「これをあんたに預ける。他言してはならんぞ。後日の証拠のためにとっといてくれれば、それでよいのや」 まだ墨のかわかぬ文字を手に、凝然と星田はみた。 ――実地は、清印は清国在、偽名王文泰、馬賊七十五名之頭目也。西伯利亜トムチックという小村落に生存せり。「清印……これ、まさか」「清吉はんや。わしの夢のお告げやが、確かに生きている」 星田はゆっくり首を左右に振った。「そんな夢信じられまへん。馬賊やなんて。清吉さんは大正四年に霊魂になって、義理天上日の出の神として、お久はんに……」「そう信ずるのも、信じぬのも、あんたの自由、ただわしは事実を残しておくまでや。いつかは分かる日がくるでなあ。さて……」 来た時と同じように、王仁三郎は唐突に出ていった。
 矢野祐太郎は明治十四(一八八一)年東京築地に生まれた。父矢野源次郎は鉄道技師であり、明治天皇のお召列車運転に奉仕した人である。築地中学、海軍兵学校を経て、海軍大学を卒業した。 日本海海戦では旗艦三笠に乗り組んで、炸裂した敵弾の破片で負傷した。この海戦で日本軍の砲弾に不発弾が多かったのを疑問とし、進んで海軍砲術練習所学生となって学び、呉海軍工廠検査官として信管改良研究に没頭した。 次いで艦政本部に転じ、大正二年五月、特別任務を帯び、大使館附武官として英国へ出張、スコットランドの某造船所で英海軍が秘密裡に建造中の異形マストの軍艦構造を探索した。一方、世界的な某秘密結社本部に潜入して日本包囲覆滅計画という重大情報を手に入れるなどの任務を果たし、大正四年三月に帰朝している。 言わばこのスパイ活動を通じて、矢野は変わっていった。欧州より帰った直後、彼は妻シンに言っている。「神には二通りある。日本を救う神と、潰す神と。この二大神系は目には見えんところで葛藤している。俺の後半生はそれをつきとめることに捧げたい」 思いこんだら熱中せずにはおれぬ男であった。中学時代から好きであった記・紀・上記に加えて、天津金木・竹内古文書・新旧約聖書・八宗の仏教教理などにとり組んだ思索の日々となった。 翌大正五年暮近くであった。江田島の兵学校時代の恩師である浅野正恭少将と出会った時、正恭は折入って矢野に私ごとを頼んだ。「遥が、横須賀の弟のところで例の大本教の出口王仁三郎にあったらしい。すっかり傾倒しおって、中学二年で止めて綾部へとび出してしまった。親の俺の言うことなぞまるで聞かんのじゃ。綾部には弟一家も移住してしまったが、君ひとつ、綾部へ行って、何とか遥だけでも説得して連れ帰ってくれんか」 弱り果てた正恭の様子に同情……というより、この頃海軍部内に評判の大本なるものをこの目で確かめたい興味から、即日矢野は綾部へ向かった。 正恭の弟和三郎と会って話を交わし、筆先の写しを見せられた。その夜から一週間、矢野は綾部市田町の急坂にある旅館小西屋に閉じこもって、徹夜に等しい不眠の努力を重ねて筆先と取り組んだ。 一週間目に矢野は遥に会い、その意志を確かめた。「ぼく帰らない。綾部に暮らします」「そうか、それもよいだろう。御両親にはぼくからそう伝えましょう」 あっさりと矢野は帰京し、遥をあきらめるよう、逆に正恭を説得した。 矢野は神床に大本神をまつり、朝夕一人で礼拝し、お筆先研究を続行していた。 大正七年の春、突如として矢野は妻シンに宣言した。「お前は子供たちを連れて、すぐ綾部ヘ越してくれ。家は決めてきた。大本に入って、子供たちを日本人らしく育ててくれ」 親戚中は猛反対であったが、そんなことに頓着する夫ではない。馬鹿げたことをと、シンも不満であったが、口答えはできなかった。 矢野の家族が、並松の浅野和三郎の隣りに引越してきたのは、神苑にほととぎすの鳴き渡る初夏であった。 四方平蔵に案内されて、シンは初めて教祖直に会った。廊下に坐ってご挨拶すると、「東京のお方、こちらへお入りなされ」とやさしい声がした。 気品の高い方と、シンは驚いて教祖を見た。東京では、かなり上流の人々と交際していたので、驚くことなど少なかったのに。 教祖は、じいっとシンを見つめて、こう言った。「神の道はつろうござりますで……」「はあ……」 頭を下げると、もう一度同じ言葉をくり返す。シンは少々逆らいたかった。――つらかったらやめたらよいのに……。 その時、教祖は、三度、同じことを言った。「神の道はつらい……つろうござります」 シンは腹の底まで太い釘を打ちこまれたような衝動に青ざめた。思えばこの時、直に矢野の運命を予見されていたのかも知れない。 矢野の王仁三郎への傾斜は激しく、かなり軍機を王仁三郎に洩らしていたふしがある。それが第一次大本事件により露見して、大正十年五月四日付で懲罰を言い渡されてさえいる。 懲罰言渡書 海軍大佐矢野祐太郎 其ノ官ハ海軍艦政本部部員兼造兵監督官海軍大学校教官ノ職ニ在リ艦政本部第一部ニ於テ勤務中一、大正九年十二月回覧ニ附セラレタル秘密海諜報第二五五九号中ヨリ重要部分ヲ写取リ同月二十一日之ヲ大本教主出口王仁三郎ニ送付シ二、大正十年一月同シク回覧ニ附セラレタル秘書海軍軍令部次長宛米国在勤帝国大使館附武官発電報訳文中其ノ一部ヲ抜萃シ之ヲ同月六日出口王仁三郎ニ送付シタリ 右二通ノ文書ニ於ケル記載事項其ノモノハ重要ナル機密事項ニ非スト雖書類ノ性質上機密ノ取扱ヲ為スへキ指定アルニ拘ラス擅ニ之ヲ他人ニ漏示シタル所為ハ共ニ海軍懲罰令第九条第二十二号ニ該当ス仍テ同令第十一条第十二条及第二十四条ニ依リ第一行為第二行為ニ付各謹慎七日ニ処ス 大正十年五月四日 海軍艦政本部長 岡田啓介 大正十二年、矢野は四十一歳で、望んで予備役となった。裸になって、神の道の究明にとびこんだ。第一次大本事件で保釈中の王仁三郎を蒙古ヘ脱出させる工作も計り、夫人シンと共に身を挺した。 入蒙ののち、矢野は王仁三郎を離れて八木の福島久に近づき、久の筆先研究に没入する。 昭和七年、矢野は神がかりのまま『神霊密書』を口述した。シンの霊媒力に負うところも多かった。謄写刷りにしたこの密書と図表は各宮家に献上、のち、矢野が浄書して皇后の御手を通じ天皇に献上された。 昭和十年の第二次大本事件、十一年の二・二六事件についで、検察当局は矢野を拘引した。十二年、『神霊密書』は不敬罪にかけられ、巣鴨に拘置されたまま、矢野は国体と皇室に関する信念を吐露しつづけた。 思想転向の勧告に頑として応じぬ矢野に手をやいて、当局は最後の手段に出た。渡された風邪薬を毒と知りつつ呷って、矢野は獄中に急死する。 ――神の道はつろうござります。 シンの胸には直の言葉が生きつづけていた。  短句の御筆先(梅田信之の手書中より) 
燈火の消る世の中今なるぞ さし添へ致す種ぞ恋しき長き世に落ちぶれて淋しきぞ よを待ちかねた蛍むし 恋に焦れて水に住む日くらしのなく声聞けば月の夜に なるは淋しき日の出をぞ待つ朝雨の心勇まし春の花 この行く先は広き世になる福知の町は船づくり 舳先が下で水に苦労を致す町 明智の屋敷通りなる大本の大橋越へてまだ先へ 行衛分らぬあと戻り 慢心すると其の通り大本の仕組は長くかかりたものじゃ 仕組た神の世になりたぞよ世が変れば小唄の一つも唄う心 心勇めば世も勇む女嶋男嶋の荒浪を 龍宮様の御守護で 松の心で勇み行くはるばると女嶋をさして水の上 男嶋の名所を御覧じよ恋にこがれた五月水 秋田になればフラレ水 なるみは本の水の恩松の世の大本は水晶玉のよりぬき許り よりぬきのみ魂でないと神のきかんに叶はんぞよ東の国へはるばると 都に致す心淋しき 東の国はもとの芒の野になるぞよほのぼのと出て行けば 心さびしく思ふなよ 力になる人用意がしてあるぞよ長きよに落ちぶれて淋しきぞ 跡を見かへす夢なるぞ本の種吟味致すは大本で 種がよければ末代の種春さきの人の心は勇ましき 秋は霜さき心淋しきもとの宮大本にいたして 錦の機を織らすから 錦の旗はひまがいるぞよ長くかかりた機の仕組がしてあるから 緯の御用になりたら分るが早いぞよ

表題:明治五十五年 12巻6章明治五十五年



 六月二十五日午前十時半、綾部発大社行下り列車に、五人の大本人が乗り込んでいた。浅野和三郎・小笠原義之・横須賀三浦屋の女主人成川浅子・友清九吾・松江支部役員の引野礼太郎である。目的は二十九日に予定の大社参拝とその前後にかけての布教伝道だ。 長い汽車旅に倦んで居眠りする人たちが目立つが、彼らの席だけは活気がみなぎり、熱っぽい空気が支配している。 友清九吾は、からみつくような視線を浅野の顔から離さず、静かなくせに脅迫的な響きのある声で言い続ける。「……いたずらに立替えの危機を叫んでも、時期を明示しなくては、世間は動かせませんよ。立替えが起こった後で、実は大本では二十何年も前から知っちょったと言うたところで、証文の出しおくれですよ。いや、知っていたのになぜ知らしてくれんかったと、逆にうらまれるのが落ちですな。ねえ成川さん、そうは思いませんか」 成川浅子は扇子で浅野に風を送る手を止めた。「何しろあまり重大なことなので、わたしの口からなぞ申し上げるのはどうも……でももし松江で立替えの時期を発表なさったとしたらですよ、そこに何か深い御神意を感じますわ」「ほう、それはどういうことです。私はまだ入信のほやほやで、大本の歴史や、まして出雲地方とのつながりなど、くわしく知っちょらんのですよ」と友清は脂肪気のない髪をかく。 成川は歯切れよい口調で説明する。「大本にゆかりの深い出雲神歌の発祥の地でございますよ。明治三十四年には、教祖さまや二代さま、教主さまの御一行が出雲へ火の御用に行かれています。教祖さまが宍道湖をお渡りの時、『このあたりは神さまがお仕組されている』と梅の枝でお示しになったそうじゃありませんか。松江の異常な発展ぶりも、神さまのお仕組としか言いようがありません」 王仁三郎は一週間の松江滞在後、次の布教地の米子へ出発した。ところが奥村・岡田・木原・小原たちは、重大なことを失念していた。鎮魂を受けて発動した者のうち、まだ治まりきらぬ人たちがいたのだ。さて、その始末をどうしてよいか聞き忘れていたのである。 家族の者は心配する。木原鬼仏の霊力でも押えきれない。あわてて本部へ問い合わせると、四月二十日、返事の代わりに西谷正康が乗り込んできた。西谷は三十四歳、すでに兵庫県美方郡兎塚村から綾部町本宮村に移住していた。「発動した者はすぐ治めますが、御神前でなければ鎮魂はできん。どこかに神さまを仮奉斎して下さい」 そう言われれば、松江で大本神を奉斎している家は、まだ一軒もなかった。そこでとりあえず、駅前通りの奥村芳夫の弟宅の二階に大神さまを臨時奉斎して、鎮魂を始めた。発動していた者は簡単に治まり、平常に復した。「支部を作って、正式に神さまを奉斎せねばいけまヘんな」と西谷は言い出した。 誰にも異論はなかった。早速、材木町に恰好な家を見つけて借り受け、大日本修斎会支部の看板をかかげる。五月五日には発会式を行なう。王仁三郎の松江巡教後一ヵ月余で支部設置というスピ―ドぶりである。 支部には日夜数十名の会員の来訪があり、鎮魂を希望するので、西谷一人では処理しきれなかった。五月には奥村芳夫、六月には佐々木晴蔵が綾部で十日ばかり修行、即成審神者の資格を王仁三郎からもらって、ようやくさばいている状態、正式の会員もすでに五百名を突破している。成川浅子の言う通り、まさに異常な発展途上にある。 しかし当然その反撥も激しかった。地元の松陽新報は「大本では狐を飼って会員に憑ける」などの滑稽な捏造記事さえ掲載し、連日のように大本攻撃が猛烈をきわめていた。警察も目をつけ始める。役員は何度か出頭を命ぜられ、警察官が支部へ来て調査したりしていた。 その事情を参綾した引野から聞いて、友清が勇み立った。この男は敵が見つかると幸福を感じるらしい。「地方の有力新聞と警察が相手では、こんな面白い喧嘩はないではありませんか。いやでも世間の耳目はわれわれの松江入りに向けられちょります。毒をもって毒を制す。この機会に大本の予言をぶっつけてやりましょう。願ってもない宣伝の好機じゃ。但し、立替え立直しの時期を明示する必要がある。なあに、警察や新聞屋の方なら、ぼくが一人で引き受けますよ」と、さっきから友清がしきりに主張するのである。 立替えの時期については、浅野には確固たる信念があった。大正十年もしくは十一年、今から三年乃至四年後である。その根拠は、鎮魂による憑霊の言などではない。浅野が絶対と信奉する大本神諭にある。 ――今度の戦いで何も彼もらちがついて、二、三年の後には天下泰平に世が治まるように申してえらい力みようであるが、そんな心やすいことでこの世の立替えは出来いたさんぞよ。今の大本の中に只の一人でも神世になりた折に間に合うものがあるか、取違いにも己惚れにも程があるぞよ。 まだまだ世界はこれからだんだんに迫りて来て、ちょっとも動きのとれんようなことが出来るのであるから、その覚悟でおらんと後でアフンといたすぞよ。 今一度変性女子の身魂を連れ出す土産に前のことをあらまし書き残さしておくから、大切にいたして保存しておくがよいぞよ。明治五十年を真中として、前後十年の間が世の立替えの正念場であるぞよ。それまでに神の経綸がせけるから、なんと申しても今度は止めて下さるなよ。明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるから、それまでは大本の中は辛いぞよ。(明治三十七年七月十二日) 去年の七月号の神霊界にのせる神諭の原稿が王仁三郎からまわってきた時、浅野は心臓が停止するほど驚いた。筆先は一種の警告書であるから、いずれも時期は明示されていない。このままで世界がすすめばこうなる、こうなってはならぬから、人民よ、目をさませと訴えているのであり、人民の改心いかんでは世の終末は回避できよう。けれどこの神諭は、明らかに大胆な予言である。 一九一二年は明治四十五年と大正元年にまたがる。この年を二年と数えるか、一年と数えるかで、明治五十年は大正五年とも六年ともとれる。前後十年と言えば、立替えの初めは大正元年もしくは二年、大本は大日本修斎会の基礎が固まった頃であり、国内的には明治から大正へと世の移り変わり、世界的には清朝が廃止されて中華民国成立、バルカン戦争、世界大戦と世界は激動する時期である。 立替えの完成は大正十年もしくは十一年。「三十年で世を切り替えるぞよ」という筆先の言葉によって、大本では、三十年を一節として、大きな変わり目がおとずれると信じている。明治二十五年の開教から三十年目が、ちょうど明治五十五年に相当するではないか。 三月三日は立替えの決着であり、五月五日は立直しの完成の日ではあるまいか。世界の現状を眺め回しても、まさに筆先の指摘通りに進行している。大地を打つ槌がはずれても、明治五十五年に立替え立直しが行なわれることは間違いない。 ――明治二十五年から三十年の世の立替えと申してあるが、かんじんの取次が改心が後れるだけは経綸がのびるから、また神が嘘を申したと不足をいわねばならぬぞよ……。神が違わすのではないぞよ。取次の改心が遅れるから、神もやむを得ず遅らさねば仕様がないのであるぞよ。(明治三十一年七月十六日) 取次の改心如何で経綸がのびるというこの古い筆先は、六年後の筆先によって正されたと考えてよかろう。 明治五十五年立替え説を信じ出した信者は多い。予言については、宮沢理学士の時、秋山少将の時と二度にわたって、浅野にはにがい苦しい思い出がある。そのにが味を決して忘れてはいなかった。しかしこれは大本神諭だ。大本信者として、大本神諭の言を信じなければ一体何を信じればいいのか。大正十年と言えば教祖八十六歳、これ以上延びてはもう御存命中に立替えができぬではないか。 ただ一抹の不安は、王仁三郎が明治五十五年説を肯定も否定もしないことである。浅野がそれを持ち出すと、「さあ、そういう考えもできますかな。何しろ神界の経綸やから、わしには分かりませんなあ」ととぼけている。 誰も王仁三郎の口から、明治五十五年立替えの言葉を聞いたものはない。それでも浅野には、態度をはっきりできぬ王仁三郎の立場が分かる気がした。皇道大本の教主であり、卓越した予言者、王仁三郎がいったん明治五十五年立替え説を肯定すれば、少なくとも信者間には確言としてまかり通る。影響力が強すぎる。否定すれば、「筆先の予言を信じぬ外国魂」と反王仁三郎派の一せい攻撃を食うであろう。 めいめいで悟れ、と言わんばかりに、王仁三郎の発表した「大本神歌」の中には、「龍虎相打つ戌の午の年より本舞台、いよいよ初段と相成れば、西伯利亜線を花道と……」とある。 戌の午の年とは今年、しかもシベリア出兵がいまや国民の関心の焦点である。昨年十一月七日の十月革命によって、ロシアにソヴィエト政権が樹立された。日・英・米・仏は、その直後から、革命に干渉し始めた。 日本にとっては、北隣に社会主義国が生まれたのだ。革命の波及を防ぐためには、東シべリアに日本の勢力下にある緩衝国を作ろうという画策が、外務省や陸軍によってもたれた。イギリスとフランスは日本とアメリカに出兵を要請していた。しかしアメリカは、日本の出兵に反対であった。干渉の成果を日本に独占されたくはないのだ。 国内では、自主出兵論と対米協調出兵論が対立し、大阪朝日新聞や東洋経済新報などは、出兵そのものに反対する論陣をはっていた。 このことについて、浅野が王仁三郎に訊くと、言下に答えた。「近いうちにシべリア出兵があります」 シべリア出兵は、「西伯利亜線を花道に」の初段であろう。続いて二段目の幕があき、三段目が開ける。時期が明示してないのは先の理由から当然であり、王仁三郎もまた立替え立直しの時期近しと判断しているに相違あるまい。 しかし内部ならともかく、もし外部に発表して万々一違えば、発展途上にある大本にどれほど打撃を与えるか知れない。そのことが、友清のしつこい説得にも、なお浅野を逡巡させているのである。「出口先生がこのことについて一言もおっしゃらんのに、いくらなんでもわれわれが発表するわけにはいかんですよ」 粘っこい視線をはね返すように、浅野が友清を眼鏡の底からにらみつけて言った。 沈黙を守っていた小笠原が、重い声で呟いた。「むしろ教主さんは、それを望んでいられるかも知らんなあ」 その一言が、浅野の胸にずしんと響いた。確かにそうかも知れない。王仁三郎の立場でそれを口にできぬとあれば、誰かが代わって発表する必要がある。証文の出しおくれにならんために。 教団のそれ相当の役職の者が発表するのでなければ、ただの放言としか受け取られまい。自分しかないのだ。自分が十字架を負おう。浅野が勝手に言ったのだとすれば、王仁三郎に直接の責任はかからぬ。そのためには、綾部より松江を発表の舞台に選ぶことが神の仕組かも知れぬ。 それでもなお、浅野は「もうちょっと考えさせてほしい」と言って座席の背に身をもたせ、目をつむった。 夕刻一行が松江駅へ到着すると、駅頭には数十名の役員信者たちが出迎えていた。すぐ木原鬼仏の家に行った。その夜は講演や鎮魂で夜が明け、翌二十六日も早朝からの訪問客引きも切らず、石笛の鳴り止む隙もなかった。 午後四時頃、公開会場の臨水亭に向かう。臨水亭は宍道湖畔にある松江で一、二を争う料亭、見晴らしのよい階上大広間には三百名を越える聴衆がぎっしり埋まっている。高等小学校長河井勝三郎・陸軍の山村少将・勝田大尉・鎌田大尉、警察署長・官吏・実業家らの顔があった。 奥村の開会挨拶に次いで友清が登壇、皇道大本の主義主張、大日本帝国と国民の使命について一時間の熱弁を振るう。科学的見地からの説明も加え、聴衆を納得させるに十分であった。 最後に宍道湖畔を流れる風に長髪をなびかせつつ、浅野和三郎が壇上に立つ。「……過去二千年、日本は東洋の孤立する一小島国として、のんきに世界の文物の吸収に没頭することを許されてきました。いわば静かな勉強部屋を与えられて、誰にも妨害されず、ひたすら勉学する時間を与えられていました。 われわれの先祖は、まず支那の文物を吸収し、次に印度の思想哲学を吸収し、次に欧州の学問文芸の吸収をして今日に及んでいます。 世界の文物は、これで品切れだ。諸君、活眼を開いて世界を見回し給え。東西両洋にまたがれる形而上、形而下のあらゆる文物を二千年がかりで吸収し得た国民が、どこにおるか。 固陋尊大な支那人はようやく留学生などを海外に派出するようになったが、一通りの初歩を修めたに過ぎぬ。印度人や朝鮮人らは物の数に入らぬ。欧米人士は世界の先進、先覚をもって任じているが、実ははなはだしい己惚に過ぎぬ。彼らは、ただ自己の国土内に発達した学問文芸の修業者というにとどまり、印度・支那、なかんずく日本の国土内に起こった霊妙深奥な学問文芸に対しては、まるで無智ではないか。 全世界の国民に対する理解と知識と同情のない者が、どうして全世界を統治し、指導する資格がありましょう。真正の資格が完備しているのは、ひとり日本国民あるのみです。日本国民は、従来ごうも気づかず、地上における一山百文の人類だぐらいに思っていたが、実にわれわれ日本国民にこそ、世界人類の主人公、世界経綸の指導者たるべき責任がかかっているのです」 浅野の顔は、日本人たるの誇りに輝いている。聴衆もまた、声もなく聴き入る。「日本国民の勉学時代は、他国民よりはるかに長く、その必修科目も他のいずれの国民よりも複雑多種でした。 けれどいよいよ日本国民の修業時代も終わりに近づいた。いくら従来通り引っ込み思案でいたくても、いくら世界列強の仲間入りぐらいで満足していようとも、いくら親のすねかじりで満足していたくても、そうはまいらぬ。ひしひしと四方八方から押し寄せてくる世界の大勢が許さない。 目下の欧州の戦乱はかなり落着したとしても、社会の奥底、人心の根本から揺るぎ出した世界の大動揺ですから、動き切るまではどうしても動く。戦争・疫病・内乱・飢餓、一波は万波を生み、一事は万事を生み、動揺を起こすべき材料の全滅するまでは決してやみません。これは、いわば天地の創造の際から規定された、約束の大動揺なのですから。 欧州も本気に動き出すが、東洋方面も無論これから本当に動く。北米の動き方に至りては、なおさら真剣だ。この中にあって、日本がひとり悟りすましておるわけにはいかん。日本も動く。動いて動いて、動ききるでしょう。 諸君、真実を申せば、今次の世界動揺の責任は、すべて日本にあるのです。世界に大動乱が起こって日本がその渦中に巻きこまれたのではない、日本が全世界を動揺渦中に巻き込んだのです。張本人なのです。従って、これを鎮定する責任もかかって日本にある」 胸をそらして、満堂の聴衆を睥睨する。蒼白い額には、吹き込む夕風もさらいきれぬ汗の玉粒が光る。「諸君は、今、いぶかしげな顔で私を見る。諸君の頭の中では『日本はそんな責任などあるものか』と否定する材料がはみ出しそうなほど押しくら饅頭しているに違いない。それでよいのです。なぜならば、諸君は、神人両界の関係も知らず、世界における日本の地位と使命を御存知ないのだから。 これを十分に説明し、実証し、適切なる指導訓練を与えるのが綾部の皇道大本です。綾部以外に、徹底的にこのことが分かる所は、地球上どこにもない。綾部はことごとく神界の中央政府から直接神勅を仰ぎ、之に拠って世界の一切の問題を解決し、実行する『地の高天原』なのであります。綾部を予言でもする所だぐらいに思う方、はなはだしき勘違いですぞ。予言ではなく、実言だ、確言だ。世界のことはすべてここで決議され、計画され、遂行される。 遂行に先立ち、神界の決議計画の一部が、あらかじめ警告的に人間界に発表されることもあります。それはむしろ、神界としては臨機の手段です。神界はあくまで沈黙のうちに実行にかかられる。現に私がここで諸君に神界の秘奥の一部を洩らそうとするのも、諸君がここにこうしているのも、神界の御用に使われる幸運な人たちへ神が綱を投げかけられているからです。綱にすがって救われるも結構、ふりほどいて滅亡の淵にとびこむも結構、機会は与えられた。選択は諸君の自由であります」 既成観念を根本から破壊するような浅野の論旨に、聴衆は度胆を抜かれっぱなしだ。そこへ皇道大本出現の意義・教義・使命・大正維新論と、浅野の弁論は、すりむけた傷口に芥子を塗りつけたように、しみこんでいく。 浅野はちょっと言葉を途切らせ、聴衆の反応を確かめると、卓上のグラスの水でのどを湿らせた。「天之御中主大神は、言語道断の人間界の混乱から、大々的整理を施して神人両界の大成を期せられることにより、明治二十五年をもって御神勅がまず国祖国常立尊に降りました。それより二十有七年、国祖の御経綸は神人両界にまたがり、少しの齟齬も遅滞もなく進んでいます。大本神諭を示された大本開祖出口直刀自は、先にも述べたように、丹波の片田舎に生まれ、常に逆境に沈倫し、文筆の技を磨く余暇のないどころか、まるきり無筆の人でありました。神諭に現われる辞句は、いかにも粗末です。極度に深遠奥妙な字宙の大事を、極度に鄙俗で平凡な文字に托した文章は、古今にその例を見ません。たとえばぼろ布に包めるが如く、粗末なあばら屋に貴人の宿れるが如く、誰でも最初は見当がつきにくい。 自分もまた、初めて神諭に接した時、実に面くらったことを思い出します。自分の霊覚の鈍かったことを弁護するわけではないが、ずいぶん人間の視聴をくらますようにできた神諭であります。実に非当世向きの骨頂、客引きの下手なこと、否、これを無視すること、実に極端に近い。 しかしながら、外形外観の巧拙美醜はほとんどなんらの軽重を及ぼすに足らんほど、大本神諭の内容は豊富であり、尊貴なのです。造化の世界を代表して、全責任をもって三千世界の修理固成にあたられる大国常立尊が、世界の守護神ならびに人間一般に下されるまじりない筆先なのです。 いったんその間の消息が分かりかけると、ほんの片言隻句でも、もったいなく、ありがたく、決して聴き漏らせぬことばかりです。へぼ紳士やへぼ大将の下らぬ命令でさえ、鶴の一声などとまで崇め奉る卑屈人士の多い今日、これはまた花はなけれど実の多い、とうとうとして尽きることない千万言、巻数積んで実に一万巻になんなんとする。 諸君、これほどの大教典が、実に明治二十五年から、日本人たるわれわれの前に与えられていたのですよ。どうか腹の中の醜い物をすっかり吐き出して、大本神諭に対し給え。拝読百千回、大正維新の真相は、ほうふつとして心眼に映じてきましょう。霊の高い人は高く、霊の低い人は低く、身魂相応の信仰が得られます。宇宙間独一真信仰を与えうるものは、大本神諭をおいてほかに絶無であると、断言してはばかりませぬ」 食い入るように見つめる聴衆の反応を確かめ、浅野は意識的に少しく声を低める。が、満員の会場は静寂そのもので、針の落ちる音でも彼らは聴き逃さなかったろう。「大本神諭は、その内容からして、およそ三つに大別できます。第一は天地経綸の組織脈絡、神人両界の因縁関係等、宇宙剖判からの真相を語るものであります。第二は守護神人民に対する教訓で、反覆丁寧、噛んで含めるように説き尽くしてある。第三は神政成就に導く神算神策の大本の警告で、普通の言葉で言えば、一種の予言であります。ただし一般のいわゆる予言というものとは、はなはだしく性質を異にしている。決して、あて推量や聞きかじりではない。大神が洩らして差しつかえないだけを洩らされるので、洩らして差し支えのある箇所は寸毫も語られぬ。 大本において、何年何月何日に何が起こるなどと言うことは出てきません。それは当然でしょう。至大至重の責任をもって神人両界にのぞまれる大神が、そんな軽率な挙に出られるわけはない。もし人民や守護神が素直に神の声に耳を傾けるならば、大本神諭の中から、この警告的な言葉は省かれたでありましょう。いかんせん、国常立尊が明治二十五年をもって表面的活動に移られた時、ただ一人の守護神も人民も神命を奉じるものはなかったのです。そこで万やむを得ず、未来に関する警告を発表なされた。 かくて月を重ね、年を閲して、その警告通りのことが着々と実現してきました。日清戦争しかり、日露戦争しかり、今次の欧州の大戦乱しかり、初めて目のさめる者はさめ、帰順する者は帰順しました。 しかし警告中もっとも重大なのは、来るべき今後数年間にあります。さめる者もさめぬ者も、帰順する者もせぬ者も、おしなべて世界はこの時を限りとし、即ち身魂を立て分けられねばならない。わたくしが神界の秘奥の一部を洩らすと申し上げたのはこのことです」 浅野は、目をつむって呼吸を整えた。ここで今、言語を発する。それがいかに重責あることか、誰よりも浅野自身が知っている。総身から冷たい汗が吹き出していた。 今が今、神がこの口を封ぜんと欲するならば、雷よ、わが頭上を砕け。 青ざめた浅野の面に、聴衆もまた息をのんでいる。「わたしは言わねばならない。三、四年後には世界の大峠が来て、このままで行けば人類三分になる危機がおとずれる。そうさせたくはないと、国祖の大神があれほど叫び続けられるお気持ちを思えば、たとえこの身は八つ裂きにされようとも、わたしは言わねばならぬ。自分は今、警鐘を乱打します。これからも呼吸の続く限り、乱打し続けます。時間は切迫しているのだ。この警鐘を聞いて、一人でも半人でも目ざめるがいい」「……」「明治二十五年からかぞえての三十年、その三十年の最後の三年が本舞台です。五年越しの欧州の戦乱の如きは前奏曲、真の大変動は今後に起こる。地震・雷・大洪水・火の雨・火の柱、このままでいけば汚れたる地上は泥海となりましょう。 しかし、この大掃除、大洗濯をこえれば、地上の汚濁は澄みきり、初めて神の前に新しい世が開けるのです。神界の奥の奥まで、天地日月星辰の状態まで一変する。世界は神のもとに一つの王で治まり、貧富の差のない、万民和楽のみろくの世が現出する。それが皇道大本の大正維新、二度目の世の立替え立直しの真意義です。これに比べれば、従来の維新だの、革命だのは、いずれも姑息で、不徹底で、児戯に近いものです。そしてそれは……」「……」「よろしいか。大正十年乃至は十一年に訪れる。特に三月三日、五月五日は人類にとって銘記すベき日になる。 それでも疑う人がおられるならば、三年先とはいわず、現時点での神示を告げよう。日本のシベリア出兵はあと一ヵ月余で決定する。この政界の模様から、そんなばかなことがと腹の中で嘲笑している人、その人たちは八月の初めには笑いをひっこめ、改めて立替え立直しの予言の真実性に思い至るでしょう。 私は何も喝采を博したくて申し上げているのではない。大本神諭の権威を実証し、一人でも多く、一刻でも早く改心して、この度の大神業に参加してほしい。諸君らのために……」 呆然自失、聴衆はただ、揺るぎない信念の権化、傲岸でしかも崇高でさえある男の口元を眺めやった。「待ちに待たれた天地の大転換期、大完成時代に到着したのです。天之御中主大神の大神業に、ようやく目鼻のつく時なのです。悠久の昔より、神も人も天も地も、この大神業を完成せんがために準備しておかれたのです。 神は不滅だが、人の肉体は百年もむつかしい。吾々が今日、この際、この大神業完成の局面に当たり得るというのは、ああ、なんたる幸福でしょう。今、この大地の上に生を受け、一身をもって新旧転換期、波瀾曲折の両界にまたがり得るというのは、ああ、何たる特権でしょう。 最後に言う、眼を開いてみよ。立替えの大波は諸君の足元まで寄せている。一刻、一分、一秒もむだにしてはならない時にさし迫っているのです」 一時間半の講演が終わって、浅野と友清が控え室へ戻ると、数人の新聞記者が駆けこんできた。「浅野さん、あなたは正気ですか」「こんなこと、書いていいんですかね」 無遠慮な彼らの質問に腹を立て、浅野は傲然と言い放った。「ともかく、あと千日余で立替えが来るのさ。富士山は大爆発する。君らが毎日見上げている大山も爆発する。それがどんなものか……君らも得意の筆をふるいたかろうが、どうかな。その有様を君らに見せてやりたくても、その時に君らはこの世におれるかな。書くならせいぜい今のうちだよ」 あっけにとられる記者たちに、闘争的な目を輝かして友清が言った。「君たちは遠慮なく皇道大本の悪口を書き給え。それがそのまま大神業を妨害した記録として、神界の帳面につけ止められるだろう」 講演会場は晩餐会の席に代えられ、有志数十名が参加して九時頃まで会談、終わって木原邸で講話。 翌二十七日、午後四時から臨水亭で公開講演、立錐の余地もない聴衆に、浅野はさらに立替えの時期の切迫を訴える。 二日にわたる講演は、山陰の静かな城下町松江に大きな波紋を投げかけた。まき餌は終わった。その夜から、早くも新材木町の大本松江支部は危機意識を持った人たちであふれる。 浅野を助けて、小笠原・友清・支部の役員がつめかける求道者たちに鎮魂修行の指導、その間を替わりあってのべつ幕なしに講話が続けられ、連日午前二時に及ぶ。成川浅子もまた婦人部の指導や家庭の訪問で汗みどろの活躍だ。 二十九日だけは予定通り大社参拝を果たし、七月三日、ようやく多くの人たちに見送られて松江を発つ。米子、鳥取と巡教して各地で問題を投げかけつつ帰綾したのは、二週間ぶりの七月九日であった。
 松江で浅野ら一行のとった行動は、すでに松江支部から本部へ報告されていた。敵に向かって宣戦布告でもしたような、悲壮なる筆致である。浅野の講演要旨も書き添えてあった。 こういう事態がいずれ起こるのは、問題の大本神諭の原稿を編集ヘ回す時から、王仁三郎は覚悟していた。来るべきものが来たに過ぎぬ。帰綾した浅野ら一行を迎える王仁三郎の態度は変わらなかった。 浅野の口から立替えの時期を公表したことについて、何らの弁明もなかった。知らぬ顔で王仁三郎も一行をねぎらう。「卸苦労でした。これで島根にも大本信仰の基礎がでけた……」「いよいよ……ですなあ」 たかまる思いを互いに伏せて、その夜は別れる。 浅野の背を、王仁三郎はいたましげに眺めた。 大本では、変性男子出口直の直筆を筆先といい、王仁三郎が神示に従って大量の筆先群から選択し整理したものを大本神諭という。整理とは、理解しやすいように漢字をあて、加筆し、添削すること。神島開きによって、その精霊が「天のみろくさま」と筆先に示された、出口王仁三郎のみに許された特権である。 別に裏の神諭が明治三十年代より書かれており、この頃から発表されている。それは変性女子出口王仁三郎が神がかりによって書き表わした筆先であり、直を通しての大本神諭と区別する。 大正六年七月号の『神霊界』に掲載され、浅野をして明治五十五年の立替え説に突進させた問題の大本神諭は、実は直の手になった筆先ではなく、王仁三郎によって示された裏の神諭にほかならない。 ――今度、変性女子を連れ出す土産に……。 ――明治五十年を真中として、後先十年間が世の立替えの正念場であるぞよ。 ――明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるから、それまでは大本の中は辛いぞよ。 直の筆先には、時期を月日まで明確にした予言はない。おのずとその語彙も限られている。この筆先は王仁三郎の誕生日の七月十二日に書かれ、しかも直の語彙の中にあるとは受け取れぬ用語が多く含まれる。 検討すれば分かるであろうそれらの疑問すら思い浮かばぬほど、彼らは予言の箇所にとらわれてしまったのか。ただ裏の神諭としての明示がなかったというそれだけのことで。 何故、王仁三郎は裏の神諭としてこれを正当に発表せず、彼らの誤解にまかせて放置したのか。それは、教団における王仁三郎の位置が理解されねば分からぬ。 直がみろくの神としての王仁三郎を認識した後も、役員信者の観方は、あくまで出口直が主であり、王仁三郎が従である。大本神諭は絶対的に信じるが、裏の神諭は疑わしいと言う信者が、いまだに多かった。出口直がキリスト出現のためのヨハネであったという認識に立つ者など、一人としていないのだ。 王仁三郎にかかる神がその意志を役員信者に徹底させるには、表の神諭とまぎらわしい発表の仕方をするのが、一番得策だったのであろう。 直は、明治二十五年から大正五年旧九月八日までの前後二十五年間、王仁三郎にかかる神の正体を見破ることができなかった。小松林命・素盞嗚尊・坤の金神が一連の天のみろくの神霊の御働きであることを知らず、いわば未見真実の境遇に立たされて、神政成就の基本の神業の先駆を務めた。その間の筆先は、だから御修行時代の産物なのだ。 王仁三郎の入道は明治三十一年の高熊山修行であるが、未見真実の神業は明治三十二年で終わり、その後は見真実の神業だと神は申される。霊的に言うなれば、王仁三郎は、直より十八年さきがけて見真実の境域に進んでいる。未見真実時代の筆先への遠慮のない加筆、取捨按配も、仕組のためにする利用も、天のみろく神なればこそであった。 しかし、当時の大本の情勢下ではそう受け止めるのはごくわずか。かちかちの教祖絶対派がいる、王仁三郎を押しのけて三代直日、大二に期待をかける八木派がいる、そして浅野を頂点とする実力一派も自然にできつつあった。 浅野の大本入りによって、事実教団は飛躍的発展を遂げた。役員信者たちが問題をかかえて王仁三郎に訊きに行くと、「さあ、わしには分からんのう。浅野はんは学者やさけ、あっちに聞いてくれ」「鎮魂なら浅野はんにまかせとる。あっちで指導してもろてくれ」と何かにつけて浅野を立てる。 縦横に腕をふるう舞台を浅野に与え、教団における彼の位置を急速に高めたのは王仁三郎といえる。 浅野は、『神霊界』の大正六年五月号から「浅野和迩三郎」のぺンネームを使用し始めていた。大本の中に「ワニ三郎」が二人いるかの印象を与えるが、これが浅野の心の動きを如実に示しているかである。 問題の神諭にしても、浅野は、その前半に何故心が至らなかったのか。 ――そんな心やすいことで、この世の立替えは出来いたさんぞよ。今の大本の中に、只一人でも神世になりた折に間に合うものがあるか。取り違いにも己惚にも程があるぞよ。 この一句は、この筆先の出た明治三十七年当時の役員ヘの訓誡であって自分らとは関係ないとして無視し、予言の部分にのみ関心を奪われる。そこにすでに浅野の高ぶりがみえはしないか。いわば仕かけられたワナに自らとびこむ素地はできていたのだ。 ワナ……王仁三郎は一人になって、自分をみつめる。あの裏の神諭のために、浅野が、ひいては大本が抜きさしならぬところまで暴走しはじめるであろうことは見えていた。その結果すらも……。 明治五十五年までに立替えられるのは三千世界ではなくて、大本自身だ。ひどい目にあうのは他人ではなく己れ、外ではない内。それを知りつつ、なぜ浅野に教えてやらぬ。危険きわまる暴走をなぜ防ぎ止めぬ。今からなら、まだ宣り直しもできよう。責任のすべてはわしにあるのだ。 しかし、王仁三郎の見つめねばならぬのは、己れにかかる神のしぐみであった ――神の方はいつ何時にでもかかるから、いったん新聞を出しておかんと、新聞であらわれるということを、日本へだけなりと見せておかねば、神の役がすまんから、新聞屋をせりたててくだされよ。神はもうその方へみなかかるから、計画とは早うなろうも知れんぞよ。 明治三十三年から「新聞を通して、せめて日本へだけなりと大本の出現を知らせてくれ」と、神はせかされる。知らせておかねば神の役がすまんと、言われる。丹波の田舎からいかに『神霊界』を出し続けても、その普及範囲はごくごく知れたものであろう。立替えの予言という非常手段を打つことで世間を騒がせ、他の新聞が急き立てられたように大本への悪口を書き出す。そう仕向けられるのが、神の経綸ではないか。 ――悪く言われてよくなるしぐみ……だとすれば、浅野ならではの御苦労なお役と目をつむろう。それに……せまりくる教祖直の死、信者たちの不安動揺をくい止めるには、足元にうち寄せる危機意識こそ、強い支えとなろう。信者たちの真の試練はその後にくる。 信者たちの誠と利己とが、きびしく立てわけられる時、わしは内を出て、外に曳かれる。世の終わりまで悪魔、地獄行きのにせ予言者奴と、痛罵されつつ…… 荒れよ、吹き荒れよ、それが神意であるなら……浅野よ許せ。渦巻き始める風の最初の一吹きに嘯きながら、せきあげる鳴咽を押えかねる心弱い王仁三郎でもあった。
 金龍海畔の樹々に吸いつき鳴き立てる蝉の声が、とりわけ険しくなったとは思えぬ。池の面に浮かぶ鴛鴦もむつまじく平和である。本宮山の緑はますます濃さを増し、和知川の流れは水遊びの子供たちを孕んで清い。 しかし浅野らの松江での言動は、神界の風雲が日に日に急を告げているという実態を、教団内部に植えつけずにはいなかった。 友清は天行道人のぺンネームで綾部新聞八月号に「綾部だより」の筆を執る。 ……秋来ぬと眼にはさやかに見えねども、風の音に驚く人は驚き、気のつく人は気がついて参りました。梅田教統・浅野統務・豊本・湯浅・桑原の各教監その他各方面の役員も漸く東奔西馳、見る人の心次第に時勢の趨向を知ることができませう。本部では森教監その他が大汗で活動して居られます。研究修行者は各地から続々として押しかけて参ります。出口教主は例に依て忙しいのやら忙しくないのやら分らぬ様な風で落着き払って居られます。 ……雑誌『神霊界』に近来の御神諭が出ないがどういふワケかと聞き合せられる方がありますが、実は近来の神諭は内容が余り劇しいことが多いので、これを公刊物に発表するには、大方みな○○にして戦時の号外のやうなものになりますから、教主が容易に発表の手続きをせられないのでありますが、そのうちにまた発表して差支への無い様なものは発表になることだらうと信じます。 ……また世の中は忙しい様でも随分色々の心配をする人があるもので、いかに大本の人達でも、三井や岩崎の親族ばかりでも有るまいし、また霞を吸ひ風を喫して生きて居るワケでもあるまいに、それに建築なんぞドンドンやるが金はどうするのか。役員も何も無報酬無給で働くと云ふのが訳が分らぬ。この世にそんな馬鹿な事があるものか、裏には裏が有らうと云ふものがある。大本の裏には薮があるばかりだから、徒らに遠方から世話を焼かぬでも、実地に大本へやって来て研究せられるに限る。何も彼も実際は想像以上である。「この頃の世にそんな馬鹿な事」が現在あるのだから仕方が無い。研究して実地に見聞して行く間には、鬼のやうな人でも涙の出るやうな事実に逢着します。ここに至っては、いかなる不真面目な人でも真面目にならざるを得ませぬ。今まで世の中で自分がやって来た事が正当だと思って居た人でも省みて深く恥ぢざるを得ませぬ。全く現代の人類は相当の学識あり、人格あり、徳望ある人でも、その根底が体主霊従になり切ってゐるから、本当の正確なる判断ができないのであります。あたかも曇った鏡のやうなもので、花を写してもその花の色が正確には写りませぬ。現代人が皇道大本を批評するのは、色盲が花の色を批評するやうなものです。 ……大本の信者には貴族もあれば平民もあり、大官連もあれば職工もあり、学者もあれば農業者もあり、僧侶もあれば神官もあり、新聞記者もあれば美術家もあり、学校教員もあれば学生もあり、金持もあれば貧乏人もあり、千差万別いろいろさまざまでありますが、わけても従来海軍将校なぞが多数でありましたが、近来またボツボツ陸軍方面に火が移って、陸軍方面の異彩ある人物が次第に引寄せられ始めました。実はまだ発表することが出来ないけれども、世人が皇道大本の存在を知ってる者が少ない少ないと言ってる間に、某々方面には現在わが国家の中堅たるべき有力者が多数に入信して、時期の到来を待って居られます。 御神諭にある通り、事が有り出したら早いから、その時になって慌てない様に、前もって教えておきます。いよいよの時の改心は間に合はぬと云ふ事も繰返し繰返し神諭に出て居ります。一概には申されませぬけれど、旗取り競争のやうなもので、因縁のある人は一日も早くお越しになる方がお徳です。大本に立ててある旗の数は次第に減って行きますから、早く取りにお出でなさい、歓んでお渡し申します。出発の合図の鐘は、さう際々鳴るものではありませぬ。 さらに同じ号で「一葉落ちて知る天下の秋」の大見出し、「世界立替の日は愈々迫る次世界はドンナ世界乎」の小見出しで、友清天行の手になる激しい警告が全紙面を埋める。 ……戦ひの来るのは戦ひ来るの日に来るのではない、事の成るは成るの日に成るのでないのと同様であります。暑くなった今が夏の真っ盛りだと思ふ時には、すでに地底には秋の気が旺んに張り裂けるばかりに満ち充て居るのであります。明日も太陽は東から出るから明日も平和であらう。今年も平和であったから明年も先づこんなものであらう、無論活きた世の中だから多少の変動はあらうけれど、大本に於て先づこんなものであらうとは、百人の中の九十九人がさう思って居る処であります。 ……普通の人間から言へば天災地変、又は人間社会の一波瀾に過ぎないと思ってるで有りませうが、世の中に偶然の出来事なるものは一つもありませぬ。善い事にあれ、悪い事にあれ、何れも皆ことごとく神慮の発現ならざるはありませぬ。 ……ここに於てか、昔の人でも少し気の利いた連中は「一葉落ちて知る天下の秋」なぞと云って、煙の立つを見てすでに火のあることを悟りました。 ……今や何千年来の御計画実現の時節が到来して、因縁の身魂たる出口開祖にかかられ、いよいよこの悪の世を善一筋の世に立替へる大経綸に着手されたのであります。所謂建設の前の破壊で、この現状世界が木っ端に打ち砕かれる時期が眼前に迫りました。それはこの欧州戦争に引続いておこる日本対世界の戦争を機会として、所謂天災地変も同時に起こり世界の大洗濯が行はれるので、この大洗濯には死すべきものが死し、生くべきものが生くるので、一人のまぐれ死も一人のまぐれ助かりも無いのであります。 ……そんなら日本対世界の戦争はいつから始まるかと云ふと、それは今から僅か一二ケ年経つか経たぬ間に端を啓きます。皇道大本の云ふたことで千百中只の一つも、毛筋の巾ほども間違ったことはありませぬ。日清戦争も日露戦争も、この度の欧州戦争も、みな大本神の、世界の立替への準備行為のやうなものでありまして、従ってその計画実行の中府=神と人との集合所たる皇道大本では、いづれも明治二十五年から分明に前知されてあったのみならず、事情の許す限り、堂々と前もって発表してあります。この度の欧州戦争は実に突発的に起こったもので、その一日前まではこのやうな騒動が起こらうとは誰一人夢想もする人は無かったが、皇道大本教主出口王仁三郎先生はその約一ケ月前に公開の席上で、今すぐ世界的大戦争が欧州に起こる、と云ふことを発表してしまはれました。 去る六月二十五日から七月九日まで松江・米子・鳥取方面を巡講された皇道大本の浅野総務は、至る所で日本のシベリア出兵は最近に決定すると云ふ事を言明して歩かれたので、智識階級の頑迷な部分に属する連中は、当時の政界の模様から観測して、そんな馬鹿なことがあるものかと嘲笑していたが、それから十数日を経過すると出兵決定の号外が出た。 ……綾部の皇道大本は世界の鏡で、何も彼も世界のことが大本へ反映ることになって居りますので、大本内部の一木一草、いかなる人の一挙手一投足にも深い意味のあることで、霊活の心眼をもって見れば、大本内部を見ているだけでも少しは解るはずです。この頃いろいろ重要にして最も神聖なる使命を有する建築物等が相次いで竣工せんとしてをりますが、大本では不必要な時機に不必要なものは一つもできませぬから、世界は何かのことがよほど迫ってきた事が分りませう。もう少し突っこんで書いて知らせて上げたいけれど、それは出来ませぬ。神さまの目が光って居ります。 ……この節しきりに米が高いと愚痴を並べてをりますが、まだこれどころではありませぬ。今から半年もすればウンと高くなります。いよいよ日本対世界の戦争になって、少し日が経って難局に陥りますと、一昨年の露国ぐらいなことではありませぬ。露都で米が一升が二円もすると云って驚いたけれども、いよいよとなると日本は小さい嶋国でありますから経済界の神経は一層過敏で、日本が絶対の孤立となりますと、一升二円出しても十円出しても米は買ふことが出きぬやうになります。その時は政府は非常手段を講じて、名義はどう云ふ風にしても事実上食糧品の私有を許さず、一切国家が直接に保管して配給する様な政策を執るのでありませうが、もって経済社会の混乱は想像することができませう。 武器の如きも無論不足欠乏しますから、寺院の釣鐘も鋳潰されるし、民間では五寸釘の折れまで取り上げられる事になり、老若男女を問はずどうかこうか動けるものは挙って国防の事に当らなければならぬ様になります。 ……桑を植えて養蚕をして居ても、生糸なぞは買手がなくなります。本当を言へば今は猫の額ほどの土地にも、芋でも何でも食糧品を植付けて、それを数年を保存し得る様に澱粉にても製造して置くべき時なのです。 ……この世界の立替の大芝居は神界に於てチャンと筋書ができて居るので、一時は日本国もどうもかうも足も出ぬ処まで行き詰まります。その筋の当路者や軍人の中にも終にはきはめて劣等の考へを抱く奴が出て来て、○○○○されて了ふ様な醜態も演じます。敵の艦隊は△△や△△を根拠地にするまでに進んで参ります。某某某地点から次第に上陸して、日本も一時は○分の○を○○されるさうですから、日本人は今から確乎と胴腰を据えてをらぬと、今のハイカラなチョロコイ考えでは、目の玉を飛び出して睾丸を釣り上げてクタバッて了ふより外はありません。 敵の上陸に依つて行はれる惨状は実に眼も当てられぬもので、白耳義あたりに行はれたものよりも幾層倍惨酷を極めたものですが、日本人でその敵の毒牙にかかるものはその因縁を有する人たちで、その時になってはどうともすることが出来ませぬ。 そして愈々と云ふ時に、普通の人間から云へば天災地変ですが、霊活偉大荘厳を極めたる神力の大発現がありまして、大地震・大津波・大暴風雨・火の雨等によって解決されるのですが、その時死滅すべき因縁の者はみな死滅してしまひます。現在の建築物の如きも木っ端に砕かれたり、焼かれたりします。そこで初めてこの世の大洗濯ができるので、その大惨状・大混乱の光景は過去の歴史にかつてまだ無い処のものでありますから、想像も及びませぬ。 神があるの無いのと云ふ理屈も、アーメンが真理だとか、念仏に限るとか、法華経の霊威とか云って見たところで、何も彼も事実の前には如何ともすることができませぬ。事実は鉄の如く冷やかで有ります。 ……そもそも神国に生れて神を無視するのは、日本天皇陛下の国に生れさして頂いて天皇陛下を無視されますのと同じで、現界神界両様の罪を免がれざる賊徒である。いかにその日常の行為が道徳的であっても、男子らしい聖人らしい人であっても、根本の大義名分が分らねば気の毒でもこの度は黒血を吐いて滅び、幽界に入りては永久無限の責罰を受くベきこと断じて確実で、如何ともすることはできぬ。救ひか滅びか、貴下はその最後の岐れ道に立って居られます。繰返して申します。時期は日に日に刻々と切迫して参りました。もう抜きさしならぬところまで参りました。眼の醒める人は今のうちに醒めて頂かねばなりませぬ。 ……日の経つのは夢のやうですが、今から一千日ばかりの間にそれらの総ての騒動が起って、そして解決して静まって、大正十一、二年頃はこの世界は暴風雨の後のやうな静かな世になって、生き残った人達が神勅のまにまに新理想世界の経営に着手している時であります。 ここで大正維新論が展開され、早く綾部に来て大神業に参加することを呼びかけ、「今日に於て貴下に最も必要なるものは只決心の二字であります」と結ぶ。 王仁三郎は「脅迫宗教はいかん」と常々言っていたが、この文章はまさに脅迫的言辞に満ちていた。友清は大本神歌や王仁三郎の断片的に洩らす言辞と「明治五十年を真中として……」の大本神諭を合わせてこの大胆な文章を発表したのだが、その予言した状況は、実現の時期こそ大幅にずれるが、大東亜戦争末期の日本の現状と驚くほど類似する。この記事の掲載された綾部新聞は宣教用に各地で申し込みが続出して品切れ、異例の増刷刊行をしている。 大本が全教団あげて危険な断崖に向かって驀進していくのを知るのは、それらの切迫した空気とは融け合わぬほど呑気な顔の王仁三郎だけであった。
 ――この出口には、どんな夢も見せてあるぞよ。出口の屋敷に蜂が土手になりて囲みた夢みせてあろうがな。天に夜行きて、天にのぼりたちてありたことあろうがな。天につまりておろうがな。これは正真で、広島を立ちて戻りたことあろうがな。唐土の鳥がわたらん先に、やれやれ帰りたと申したことあろうがな。みな都合の夢でありたぞよ。はやく世の立替えをいたして、やまと魂にもどさんと、日本の国がなくなるぞよ。これだけ苦労いたしてこしらえた世界一という国を、外国人に自由にしられて、残念なぞよ。 明治三十三年旧十一月十七日の筆先であり、王仁三郎の胸にはすでに焼き付いている。 表の神諭には、経歴の神諭(直の経歴を書き止めたもの)以外、現われる地名は限られている。綾部以外は八木・福知山・舞鶴・京都・大阪・東京などの直の熟知する地名がごく稀に出るぐらいで、直と関係のありそうもない広島という地名の出てくるのが印象的であった。 ――唐土の鳥が、今に日本に渡りて来るぞよ。毒を空から降らして、日本の人民を絶やす仕組を昔から致しておる事が、よく神には分かりておるから、ながらく知らしたのでありたぞよ。(大正六年旧十一月二十三日) 筆先は、くどいほど、日本の危機をくりかえしてきた。つい、昨日まで。その昨日、大正七年七月二十五日(旧六月十八日)、直は最後の筆先をしたためると、王仁三郎に手渡した。 ――これより知らせることはもうないから、このうえは人民の心で神徳をとるのざぞよ。もう知らせることはないぞよ。綾部の大本の信神は、われのことは思わずと、初発から神に心をまかしてしもうて……うぶの心に心をもちかえて、神心になりておると、なにごとも神力で思うようにいきだすから、汚ない心を放り出して大河へ流してしまうがよいぞよ。大出口直八十三歳のおりのおん筆先であるぞよ。善と悪とのかわりめのおりぞよ。「筆先はもう書かいでもよいと神さまは言われますのや。立替えの筆先は終わった。あとの立直しは先生のお役目、わたしの御用もすんだような……」 直の笑顔に淋しさがまじっていた。 王仁三郎が三つ組の朱塗りの盃にお神酒を注ぐと、直は上の盃をとって押しいただき飲み干した。「盃ごとみたいやのう」と照れながら、王仁三郎もつづいて飲む。思えば二十六年間の昼夜をわかたず、ただ一筋に神命のまま生きてきた直であった。なんとしてでもねぎらわねばすまぬ。親孝行のまねごとなりともしたい王仁三郎なのだ。 盃を置くなり、王仁三郎は背を向けて、直の前にしゃがんだ。「教祖はん、ちょこっとこの背につかまりなはれ」 そよ風みたいなはにかみが吹き過ぎると、直は細い体を王仁三郎の背に寄せかけた。誰も見てはいなかった。現身の別れの予感の鋭さが、互いのぬくみの中に通いあう。 直を背負ったまま、王仁三郎はたそがれの神苑に出た。鴛鴦の浮かぶ金龍海上に、細波をたてて涼風が渡る。神苑拡張・整備・建設の活気が、神苑のすみずみにまでぴいんとみなぎっていた。 労務を終えて食堂に急ぐ奉仕者たちのうち、王仁三郎とその背の直に気づいて、声をあげる者もあった。昨年の十一月末、大八洲神社初祭りの時に教祖直の姿を見て以来、久しく会わぬ信者たちが多かったのだ。 足の弱りもあってか、統務閣の神前にこもりきっていた直にとって、日に日に変わる神苑のたくましい成長ぶりは、むしろ息苦しいばかりであったろう。 王仁三郎は金龍殿南側の池畔に立って、四方に水をめぐらした広い敷地内に建設中の教祖殿、その西隣りに築く予定の華麗な三層の言霊閣について説明した。それから池を左右に区切る小道を通って本宮橋を渡り、蝸牛亭脇の石段を昇る。ここいらは一面の薮であった。今は清々しい小松林と化している。その東方は池に面して東石の宮、手前には新築中の幽斎修行場。「教祖はん、見とくなはれ。本宮下のこのあたり一帯はもう手に入れました。来年中には、ここに、五百六十七畳敷きのみろく殿を建てます。本宮山も買収して、その頂きに天の御三体の大神さまのお宮を建てる。綾部は天国の移写、祭祀を司る所、それができたら霊国を地上へ移します。わしの故郷、亀岡の明智光秀の城跡、そこを買いとって宣教の拠点とします。教祖はんの奥津城はこの向こう……」 王仁三郎の指さす先に深くうなずく直。「田野町才ケ首、通称天王平一の瀬、去年の春からもう買ってありますのや」「天王平……よう、わたしもあそこには柴刈りに行きました。お澄も七、八つの頃から一の瀬山で檜葉や朴葉を拾うたものや。あの下の池にお澄が柴を負うたまま沈んで……北西町に澄をあずけてわたしは栗柄へ糸引きに行っていた留守の間のことやったがなあ……」 直は深く吐息し、それきりだまりこんだ。黙っていても背の直の心の動きは、一つの体のように王仁三郎に響いてくる。 この本宮村の出口家に養女に来て、政五郎という夫を持ったのは六十三年前のこと。紅殻塗りの小さな家、中風で寝たきりの夫、屑買い、自殺未遂の傷を負うて戸板で運ばれてきた竹蔵、狂った米、清吉の戦死、五十七歳での帰神、放火犯人、気違いとして押しこめられた座敷牢……苦しかった一こま一こまの思い出が、今鮮やかに直の胸を浸しているにちがいない。 ――この村は、人民の住まいいたす村ではないぞよ。神の住まいいたす村、宮屋敷であるぞよ。村の者よ、改心いたされよ。大島殿、家売って下されよ。四方殿、神の御用に使うから家屋敷売って下されよ。金助殿、家持って立ちのいて下されよ。この本宮村は因縁ある土地、ここに神の宮を建てるぞよ。 そう直の腹中の神が叫んだ時のこのあたり一帯は、綾部の吹きだまり、貧家の点在する陰気な村落でしかなかった。 夜な夜な、幼い澄が、神の命じるままに塩や水、お土を撤いて穢れを清めた、その土地が、今は見渡す限りの神苑、水清く、松のみどりも豊かな宮屋敷となりつつある。 老いた寡婦一人の発想で、力で、出来ることであったろうか。しかし、神の御意志は、すでに直を越え、清濁合わせ呑んで、奔流のようにあふれ始めている。 王仁三郎の分厚い肩につかまり、果てしなく拡がる構想を聞きながら、直は今、自分が一個の枯れた媼となるのを感ずる。 気がつくと、もう足元は暗かった。 提灯の灯が二つ急いで近づいてくる。梅田安子と四方平蔵であった。「先生に負うてもろてなあ、もう、見ることもあるまいと思うた神苑をまわって、見せてもらいましたのやで」 直は嬉しげに言った。「教祖さまがなあ……」 つうんと鼻柱を刺しこみあげてくる涙に、平蔵はとまどった。この直の姿を、死んだ中村竹吉や、去っていった村上房之助らに見せてやりたい。火と水、経と緯と、ことごとに対立し、争った二人……そのためにかけずりまわり、ひきまわされて、信仰すら落としていった者たちに……。 けれど平蔵の苦い涙は、すぐそのまま喜びの甘さに変わった。とうとう、この日まで、ついてきた。この目で艮坤二神の和合のお姿を仰ぎ得たのだ……理屈では言えぬ感動に、年甲斐もなく平蔵はおどり歩きたかった。 王仁三郎と別れて居室に戻ってから、直は梅田安子に本心を洩らしている。「先生はやさしいでなあ。わたしを喜ばそうと思うてくれてじゃが、お安さん。ほんとうは立派な建物が、たくさんできることよりも、わたしには誠の者が一人でもできる方が、どんなにか嬉しいのやが……先生には言わんといてよ……」相生の松



 三月十八日夕刻、王仁三郎は村野龍洲・森良仁(旧名慶三郎)を連れて、松江駅に降り立った。鳥取からは、平木正二も同乗して一行に加わる。迎えに出た奥村とともに、人力車をつらねて末次本町の繁華街にある朝日新聞販売店へ安着。 人力車をとりまいた近所の子供らが「相撲取りがきた」とはしゃいだ。王仁三郎は長髪を後で束ね、その裾が背で扇のように拡がっている。十曜の紋のついた木綿無地の羽織袴、草鞋ばきであった。村野も長髪、鼻髭と長いあご髭を垂らし、王仁三郎に負けぬ堂々たる貫録である。森良仁の頭髪は伸ばしたてでどうにも格好のとれぬ段階ながら、上背のあるがっしりした体躯は、やはり相撲取りといってもおかしくなかった。 挨拶に出た奥村の妻よしのは、王仁三郎と村野のどちらが教主か分からず、割子そばを持ったまましばし迷った。髭のある方が偉い人かと思った。が、髭のある方が受取ったそばを、髭のない人の前に先に置いたので、やっと分かった。出された割子そばを、髭のない教主さまは本当にうまそうに食べてくれた。 小憩後、人参方の木原鬼仏の家に行き、木原や岡田らとさらにくわしい打ち合わせをした。日程は翌十九日から二十二日までの四日間、講演と宿泊は木原邸、人集めは岡田が担当していた。 木原鬼仏は王仁三郎の松江初巡教を記念し、自分の主宰する『心霊界』から特集「大本記念号」を発刊し、発行日をこの日三月十八日とした。 刷り上がった記念号を手にとって、王仁三郎は嬉しそうであった。 欧州大戦後半期頃から、ヨーロッパには心霊主義の思想が勢いを増していた。大戦によって多くの死者を出したヨーロッパの人々は、「死と死後の世界」の問題に直面し、既成宗教に解決を求めたが、満足すべき解答は得られなかった。いきおい、心霊研究の形において、一種の心霊主義思想が起ってきた。 一八四八年、アメリカのニューヨーク州ハイズビイル村で起こった霊的一事件が、世界の耳目を驚かした。この事件を契機に、科学的に霊魂の存在を研究しようという近世交霊術が起こり、それが欧州列国に飛火して多くの科学者・哲学者・医学者らが参加した。 ジョン・D・フォックス家では、この年の三月から家の中で起こる不可解な怪音に悩まされていた。ある時十一歳の末娘ケートが指でテーブルを叩きながら、「こうやってごらん、パチパチさん」と、呼びかけると、怪音が応えるように起こった。十四歳の姉娘マーガレットが、続けて三つ叩けば三つ、五つ叩けば五つと叩音が応える。 母親が、三つの時に死んだ子供の年齢を試みに聞いてみると、正確に三つ叩いてくる。いろいろ質問したが、明らかに何者かがその意志を叩音でもって表現しようとしている。 母親は隣近所の人々に集まってもらって、イエスなら二つ、ノウなら一つ叩いてもらう約束を決め、何者かに向かって怪音の原因を問いただしていった。次第に恐ろしい事実が分かってきた。 怪音の主は「人間」、「男」、「この家にもと住んでいた男に」、「五年前」、「殺された」、「肉切包丁で」、「金を奪われて」、「死体は今ここにある」、「地下」……これらのことからチャールズ・D・ロスマという行商の男の亡霊と知り、叩音に導かれて地下を掘った。指示された個所から、骨や毛髪が発見され、やがて遠隔の地に隠れていた犯人までも捕まり、大々的に新聞に報道された。 事件を研究の結果、こうした怪音を起こす物理的心霊現象は、エネルギー即ち放出霊質(白色のガス体)を提供する霊媒が必要で、その役を、フォックス家の小さい姉妹がつとめたことが分かった。交霊会には次々と優れた霊媒が育った。 一八八二年英国に心霊研究協会が学会の承認を受けて設立され、ケンブリッジ大学教授のへンリー・シジュイックが初代会長に、続いてイギリス首相となり哲学者でもあるアーサー・バルフォア、医学者・哲学者であるアメリカのウィリアム・ゼームス、バーミンガム大学総長で「電気は線なくしても、またよく通じ得べきもの」と論じ科学者を驚かせた無線電信の原理の発見者オリバー・ロッジ、フランスの哲学者アンリ・べルグソンらが歴代会長をつとめた。 一八八五年にはアメリカに、ついで欧米諸国に心霊研究会が起こった。 一九一二年には、人間の肉体的五官をこえた予知能力、世間でいう第六感とか虫の知らせと言った超感覚的能力を、改めて考えさせられる出来事が起こっている。 海難史上有名なイギリスの客船タイタニック号は、明治四十五年四月十五日未明、ニューヨークに向かって大西洋上を処女航海中、氷山に激突沈没し、一五一三名の生命を海に散らせた。 当時世界一といわれたこの汽船の切符を予約しながら、出航一週間前に切符を払い戻した男がいた。彼が乗船を中止したのは二夜続けてみた夢のせいであった。この船がひっくり返って、そのまわりを旅客や船員たちが必死に泳いでいる夢なのだ。乗船を取り消した時、彼は妻や友人たちに、夢の話を打ちあけていた。一週間後、タイタニック号は出航した。彼の夢そのままに海底のもくずと消え去る運命をたどって――。 アメリカのデューク大学で、J・B・ライン教授らが超心理学研究のため、人間の予知能力などについて、大々的実験を行なうのはこの事件の少し後になる。 明治末年頃から大正期にかけて多くの霊学書が日本に渡って邦訳されている。スウェーデンの科学者であり哲学者でもあるスウェーデンボルグの『天国と地獄』・『天道密意』などの霊界見聞録、『青い鳥』の著者メーテルリンクの『死後は如何』・『万有の神秘』、イギリスのデゼルチスの『心霊学講話』、物理学者オリバー・ロッジの『死後の生存』、エドワード・カーぺンターの『愛の死』、ケンブリッジ大学教授S・M・ワードの『死後の世界』などである。 日本でも社会の矛盾と不安を背景に、既成の諸宗教に対する期待が失われ、自分の魂を深く見つめようとする人たちがいた。神を求め、霊魂を探り、死後の世界の問題をつきつめていって、心霊主義的な方向に傾いていく者も増えていた。 木原鬼仏の娘俊子を研究に度々松江まで足を運んでいた心理学者福来友吉博士が千里眼研究の問題で東大を追われ、この頃日本最初の心霊研究会をつくっていた。 木原鬼仏の『心霊界』を発行している心霊哲学会の支部は、大正七年三月の時点で、東京・長野・京都・熊本の四市、富山・三重・山形・千葉・愛知・岩手・佐賀の七県にあり、投稿者も青森・徳島・大分・沖縄などに及ぶ。また毎号大本記事を連載している『彗星』は、『心霊界』よりさらに多くの読者を持った。 その主宰者である木原や岡田の言動が全国の心霊主義者に与えた影響は計り知れず、特に山陰地方における教勢の発展には先駆的役割を果たしている。 当日は百名ぐらいの人たちが集まって、さしも広壮な木原邸も満員である。 この中には、有名な湯川貫一(四十三歳)の姿もあった。湯川は松江商業学校の国語担任の先生に過ぎないが、作詞に鬼才を発揮した。この学校の校歌も湯川の作詞で、生徒たちに愛唱されたが、わけても彼の名を高からしめたのは、大正天皇の御即位奉祝歌に一等入選したことである。三等入選は八束郡秋鹿村小学校長奥原碧雲で、一、三等を島根で占め、県下には号外まで出た。   天地のむたきはみなき あまつ日つぎの御位に わが大君ののぼります けふ   のみのりのたふとさよ   たりほのいねの大御饌に 白酒くろきをとりそへて 皇御神にささげます お   ほみまつりのかしこさよ   大き正しき君が代の おほみいはひにとつくにの つかはし人もつらなりて    ともにことほぐめでたさよ この歌は小学校・中学校でうたわれ、松江では湯川貫一の名を知らぬ者はないぐらいである。 霊学や皇典古事記の真解についての王仁三郎の講演は、言霊学上より解説された。多くの聴衆はその新解釈の大胆さ突飛さにあっけにとられたが、湯川は深い古典の造詣から荒唐無稽の説でないことを信じた。 村野は信仰雑話を行なった。 終わって午後、鎮魂帰神の実習に入る。村野龍洲が鎮魂の方法を説明し、王仁三郎の審神者によって、希望者が一どきに鎮魂を受けた。 王仁三郎を前に二列の半円陣に並び、型の如く瞑目正座する。ウンと王仁三郎が一言発するや、そこここに発動が起こり、広間は大荒れに荒れた。王仁三郎の激しい霊波をあびて、潜在する副守護押(憑霊)が浮き上がってくるのだ。ほとんどが手を組んで坐ったまま、一尺くらいとびはねた。状態はさまざまながら、大なり小なりみな発動した。首を前後に振り両手で畳をかく者、夢中でしゃべり出す者、這う者、転がる者、どなる者、障子は倒れ、床が下がる。人参方一帯は異様な空気が支配した。鎮魂が終わると同時に騒ぎはぴたりと治まった。 自己の意志の外に自分の体をあやつる存在のあることを、参加者は、もはや誰一人疑うことはできなかった。 三日目の夕方、どしゃ降りの雨となった。広間では王仁三郎に代わって村野や森の審神者で鎮魂が続行されており、騒ぎをよそに別室では王仁三郎と木原、岡田・平木が閑談していた。 激しい雨音に耳を傾けた王仁三郎は、そばの岡田に言った。「そろそろ皆が帰る時刻やのう」「はあ。昼間のうちゃあ天気がよかったから、誰も雨具なんか持てきておらんがね。困りましたなあ」「雨止みを祈願してみよう。雨がやんだら、みな急いで帰るように……」 王仁三郎の言葉は、村野に伝えられる。 鎮魂を中止し、参集者一同に村野は雨止み祈願を発表した。一同耳を澄ますうちに、別室から王仁三郎の神歌を唱える声が流れる。それだけであった。王仁三郎はまた平生のように座談を続けた。 玄関の方で人の帰る気配が騒がしい。気がついて窓外を見れば、軒先からは大雨の止んだ名残りの雫が落ちている。「偶然かも知れんが、偶然にしてはでき過ぎちょるなあ」 岡田が木原に囁いた。王仁三郎は知らぬ顔で喋り続ける。 灯がともり、一時間ほどたった頃、王仁三郎は思い出したように訊いた。「どうじゃ、遠い所の者でも、もう帰んだ頃かのう」 後から座談に加わった奥村が答えた。「そうです、一番遠くの人でも、もう帰んでおる頃でしょう」「うん、そうか。よし」 語尾に力がこもった。 王仁三郎は煙草に火をつける。瞬時、大地に叩きつける豪雨の音、疾風が窓をゆする。座にいる者は、恐いものを見るように、鼻孔を広げて白い煙を吐く王仁三郎の顔を眺めた。この大雨は、翌朝まで続いた。
 一対一の鎮魂などもう昔のこと、金龍殿ではつめかける訪問者、修行者たちを五重、六重に並ばせておいて審神者の浅野和三郎は壇上、四方平蔵・湯浅仁斎らが介添役となっていっぺんにやる。壮観であった。「山口県出身、三十一歳、友清九吾、号は黙山」と名乗り、横柄な態度で鎮魂の列に加わった男が、誰よりも激しく発動した。かかっていたのは天狗霊、しかし鎮魂が終わると、彼は人が変わったようにおとなしくなり、審神者の前に進み出た。「できればこのまま私を大本に奉仕させてくれちゃないですか」 浅野は友清九吾を別室に連れて行き、順序として来歴を聞く。「私の過去を語れと言われますと、つまりは懺悔になる。正直に告白してその結果、こんな乱暴者は迷惑と思うてなら、神の綱がかからなかったものとして、あきらめましょう。どうぞ、はっきり言うて下さい」 彼の話しぶりは、山口なまりが抜け切れぬが、さわやかで人を魅了するものがあった。「私は少年時代病弱で、性格も女性的でした。趣味も文学・哲学、多少は宗教くさいものもかじってみました。世間をのぞくようになると、弱肉強食的社会の仕組みにひどく腹立てて、政治や経済の研究に没頭しはじめましてな。昔は社会を動かすのに刀槍弓箭が解決の鍵を握っていたが、今日の時代では何か。私はそれは言論だと気がついて、演説や新聞雑誌に興味を抱くようになったんです。 興味の変化につれて、体も健康になったし、性格も男性的に変わりました。いや、自分の心身の状態が変化したから興味が変わったのか、どっちがどうとも言えんけどが……」「なるほどね。出口先生は、悪霊を打つのはまことの言霊だと、教えておられますよ」「大正の初めに、私は東京のある雑誌社の編集に関係しちょりました。大正二年の春でしたが、内閣不信任案を提出された第三次桂内閣が、帝国議会を三度も停会したことがあったでしょうが」「激昂した民衆が、政府系の新聞社や警察、交番を襲撃しましたね。あの時は軍隊まで出動して、東京中は大混乱でした」「私は、ある政治的青年団の首謀者と目されて、警視庁の湯池官房主事から茶菓子で体裁のええ抑留をされましたよ。それがぼくの政治的権力に反抗する第一歩でした」「ふん、それで……」「それから奸商等の米価釣り上げの時、奸商征伐と称して回向院や本郷会堂で演説をぶった。警察力が身辺を迫害すればするだけ反抗心ちゅう奴が出て、角袖に尾行される修業も積んだです。 その年の七月、佐々木照山氏と下関市で『六連報』ちゅう日刊新聞を発行したんです。主たる目的は支那問題の解決に尽くすことだったんですが、たまたま下関築港問題が起きました。 下関築港については、明治二十年頃から問題が持ち上がって二十九年には一応の成案ができたんですが、実施の機運が熟せず、そのままになっちょりました。第八代の小林重威市長は明治四十三年秋から三年間その職にあったんですが、その間じゅう築港問題に終始したようなもんじゃなあ。四十四年にも市長は計画案を作ったが、国庫補助の困難に加えて内閣の更迭などで実現せんじゃったです。大正元年十一月の市会に第二案を提出して、やっと可決になった。つまり大正二年度から四年度までの三カ年継続事業として、唐戸湾に商港、竹崎に漁港を建設するちゅうわけですな」「ほう……」「ところが、築港ができると物品問屋筋の営業に支障ができるので、市民の間に反対の声が起こって、市会も両論に分かれたんです。『六連報』も反対して、いよいよ民論の中堅として横暴な官憲どもと力戦する羽目んなると、政府当局からはまるで謀叛人扱いじゃ。 こっちも負けちゃおれん。『六連報』は連日官憲攻撃の記事を満載し、火の出るような演説会を開き、とうとう市会の議決していた築港案を撤回させたんです。市民側でも騒擾罪で投獄されるもんが二十余名、東京の各政党本部からはいずれも数名の視察代議士を派遣してくるし、山口県の警察部は幹部を下関に移して応援巡査数百名を他府県から召集する始末、おまけにその筋では威力と金力に物を言わせて無頼漢数百名を刈り集めて『六連報』社を包囲させるちゅう騒ぎです。 私は主筆というてもまだ二十六歳の青書生、編集内閣は大部分早稲田系統の、それも三十歳未満の若者たちばっかりでしたから、弾圧されればされるほど張り切る。新聞はほとんど毎日のように発売禁止になってしもうた。新聞紙法違反、侮辱罪、騒擾罪で連日起訴されるんで、どの事件がどうなっちょるんやらごっちゃになって分からんぐあいです。しまいにゃあ一人の記者を法律事件係に専任させました」「なかなかやりますな」「そうでしょう。『六連報』の奮闘は地方民の一大驚異じゃったと見えましてな、今までサーべルの威力で泣き寝入りしちょった地方の諸問題が急に復活して、次々と解決を頼みに来るようになりました。そうなるとこちらは文明的幡随院気取りで、地方へ出張っては警察攻撃の火の手をあげる。筆であばく。山口と福岡の警察界からは、親の仇のように恨まれましたです」「……」「奴らは、このままでは官憲の威信に関するというんで、私どもに罠をしかけたんです。特に犠牲となる警官をこしらえて一芝居打ったりで、十分用意はしていましたが、それでも何度も法廷に引っぱり出されました。口惜しかったのは、行きつけの料理屋で騒ぎ回っている時、無銭飲食だとでっち上げられたことでした。山口県警務長の命令で、料理屋には手が回っていたんです」「彼らのやりそうなことだ」と、浅野が憤然と言う。「それから、届書の手続きを怠って、新聞紙法違反でやられました。 もう一つ、下関弁天座の演説会が終わって帰る時、腕車(人力車)の上のぼくに、聴衆が黒山のように寄せてきて万歳を浴びせよる。ただ万歳を叫んでるだけじゃのに、武装した沢山の巡査がかけつけて無茶に押しのけよるんです。私は側に居た下関署司法警部にくってかかって、腹が立って、俥上から『ばかやろう』と大喝した。これが官吏侮辱罪で科料十五円。じゃから私は、前科三犯ちゅうことになっとるです。 後の二つの事件はともかくも、無銭飲食罪だけは心外に耐えんので、大正二年十一月何日かの『六連報』へ《吾輩の前科及後禍、友清黙山》と題して全紙面を埋め、官憲の横暴、司法権独立の危機を絶叫しましたが、要するに筆墨で鬱憤を晴らしただけのことじゃった。いかに無実の罪に泣く者が多いかちゅうことを、私は身をもって知ったんです」「まさにお筆先にある末法の世、強いもの勝ちの世、餓鬼と鬼との世だねえ」「そうです。だから筆先の一言一句が腹にしみましたよ。大正二年十一月十八日から、私は予戒令を執行されました。角袖の尾行には慣れちょりましたが、これ以後、制服巡査が二人ずつ随行して全くの大臣待遇でな。時には煙草を買いにやらしたりの便利もあったけど、銭湯へ行くにも尾いてくるのにゃ閉口でした」「ははは……」「大正三年の二月かにこの蛮法の予戒令は撤回されたんで、私が最後の予戒令を受けたんじゃないかなあ。この頃から、裁判所の方でもいろいろな事実を発見したんでしょう、警察の報告が信用できんことを悟って主に憲兵隊の報告を採用するようになったんで、私どもは大いに活動しやすくなったんです。そのために下関署長が続けて二人までクビになったほどです。 その年の春から夏へとだんだん生活が常識的になりましたが、それでも太田海軍大佐と海軍革正の演説をやり、九州から中国、京阪地方、山陰道は城崎へも来ました。 大正四年春の総選挙に同志佐々木照山氏を当選させると同時に彼と不和になり、私は血涙をのんで『六連報』を退社しました。その夏には、六連報社は発行を中止したちゅうことです。 私はそれから肥後の山中、炭焼き小屋で、兵法と易の研究を始めました。民衆を離れて個人の殻にこもる。全然逆の人生に踏みこんだわけですが、鳥獣の声相手の黙念の生活もまんざらでもなかったもんです。 大正五年六月には山を下り、支那問題に奔走しちょった水野秀君と二人で東亜協会なるものを起こし、また門司では雑誌『東亜評論』を発行しました。 去年春の総選挙にはある友達を助け、たまたまかつての同志佐々木照山氏とほとんど地盤を同じにして接戦することになり、両方共倒れになったんです。この時の全国の開票結果を見て現代の政治心理に疑問を感じて、全く政治を断念してしまいました」「授業料は高かったが、いい勉強をしたわけだ」「そうでしょうね。それからは東亜の安定・日本国の運命は神仏の冥助によるほかはないと思い、参考になりそうなもんを手当たり次第に読んだり、いろんな人を訪問したりしました。弘法大師の十住心論を読んで真言密教に及ぶものなしと思い、密教を調べて行くうち、密教は教相だけを調べても事相を研修せんにゃあ無意味じゃと知って心あたりを訪ねたり、近頃流行のいろいろな霊術を一通りやってみましたが、結局はみな失望です。 低級な、むしろばかげきったものばかりで、愛想つかして高野山へ行きましたが、教相の学者はいても事相のできる者はおらん。京都から醍醐あたりの密僧も訪ねましたが、いずれも飯食い坊主ばかりで、とうとう大和の山中である高僧に師事しました。 ある日、大峰颪の吹雪に吹かれて大師堂で黙座していると、一種の霊感にうたれて、急に綾部へ来てみたくなったんです。それが今、私がここに坐っている経緯です」「そういうことでしたか」「私は、常に弱者の味方として奮闘してきた自分の経歴が、何より自慢でした。でも今ここで先生の鎮魂を受けているうち、一人で強がっていた何かが抜けていった感じがして、何だか急に過去の一つ一つに冷汗をかく思いです。浅野先生、どうぞぼくを大本の立替え立直し軍の一兵卒に加えて下さい」 浅野の前に膝を揃える友清は、髪の毛の少し縮れた神経質そうな細面の長身の男。この男がそんな過去を持っていると聞かされても、鎮魂前の肩をそびやかしたふうな態度を見ていなければ、信じられなかったろう。 多忙な浅野が、友清の静かな物言いにひきこまれて、最後まで聞いてしまった。この男なら使えると、浅野は惚れこんだ。大本に必要なのは、どんな権力にでも抵抗できる反骨精神なのだ。『神霊界』にも筆の立つ男がぜひ欲しい。「その前に教主さんに紹介しましょう。ちょうど山陰宣教から帰られたばかりです」 浅野は友清九吾を王仁三郎の前に連れて行き、自分でもおかしいほど肩入れのした紹介をした。「そうか、そうか」 王仁三郎は聞くだけ聞いて、あとは当たりさわりのない雑談に移っていった。 部屋を辞するまで、王仁三郎は友清に特別の言葉をかけなかった。友清の顔に期待はずれの色が浮かぶのも無理はないと、浅野は思った。 二人が去ってから、王仁三郎は大儀そうに横になった。 ――来る者は拒まず、去る者は追わず、これがわしの方針やから仕方がないが……わしは大将志願はいらん、兵隊がほしいのや。浅野も大将、岸一太も大将、福島久も大将、そして友清もまた大将志願か。おまけにあいつは由井正雪や。やれやれ、どうなるかのう。
 三月の中頃から、いつにもないことに、澄は疲れてすぐ横になった。けれど寝ることも一種の行であった。ちょっとどっちか向くと、腹の中に石を抱いているようにゴロンと動く。大きく突き出た腹で体を支える形になるので、横になることもできない。両脇を枕や蒲団で支えねばならなかった。妊娠がこれほど辛いものとは思わなかった。「教祖さんはわたしが八人も子を産むと言うてじゃが、こんなにしんどい思いをもういっぺんするのではかなわん。いっそ双児でも産まれたら、埒があいてよいのに……」 澄は湯浅小久らにぼやいた。 春の大祭(四月三日)の前夜から、澄は張り切っていた。「今日は女の節句や。よし、今日産んでやろ」 この地方では、「四月三日」といって四月三日が女の節句とされ、この日に産まれた女の子は幸福な生涯を送るといわれる。 朝食後間もなく陣痛になり、急いで産婆が呼ばれた。直は金龍殿の神前に坐って安産祈願をしていた。今度の出産は心配らしく、その祈願は長かった。 そこへ王仁三郎が昂奮した高声で報告にきた。「教祖さん、とうとう生まれました。ちょうど正午です」「元気ですか」 振り返って、直は祈るように王仁三郎の答えを待った。 はずんだ息を整えて、王仁三郎は誇らしげだ。「母子ともに元気です」「どちらやいな」「それが分かりまへんか? 男、今度こそ男ができましたで」 直は意外そうな顔になったが、すぐ嬉しげに、「そらよかったなあ」「それに女も産まれました」 直は厳しい顔になり、「先生、お産は女の大役です。冗談もほどほどにしとくれなはれ。ほんまはどっちです」「ほんまや。男も女も両方産まれたんや」「双児……そらめでたいことや。はよう顔みたいさかい、神さまのお礼は後でさせてもらいます」 相好をくずして、直は産室ヘ急いだ。澄は色つやのよい顔で母を迎えた。「双児やなんて、ほんまにびっくりするわな。やっと産んだと思たら、産婆さんが言うてでっしゃろ。『もうひと気ばりしとくれやす』、『へえ?……』、『お腹の中にもう一人入っとってんや』、『そうかいな、ほんならもうひと気ばりしてみますわ』……気ばりついでに気ばったら、男の子と女の子とは、まあなあ……」 産後すぐとは思えぬ快活な澄のおしゃべりをたしなめながら、直はいとおしげに男女の孫を眺めた。双児とは言いながら、さほど似ているとは思えなかった。 この日、折りよく高砂支部から相生の松が献木された。一本の幹の根元から二つに分かれて、雄松と雌松が生えていた。王仁三郎は双児の誕生記念に、相生の松を金龍海正面に植樹し、男の子の名を相生とつけた。スケナリと呼ぶのが本当だが、アイオイが通称になった。女の子は八人の予定数に達したので、澄が八番目の子で「すみ」とつけられたように、すみの二字を含めて住の江と名づけた。
 双児出生の報は春の大祭に集まった信者たちに口から口へと伝わり、喜びに沸き立った。 八木から参拝していた福島夫婦は、星田悦子から聞かされた。星田は、息をはずませて報告する。「春の大祭当日、尉と姥の型を出してめでたいと、先生が喜んでなさいました。それにちょうどその日、不思議に高砂から相生の松が届きましてなあ」「ほう、それはおめでたい。すぐお祝いに行こけい」 福島寅之助が人のよい顔をほころばせると、久は焦らだった。「ふん、あほらしい。双児でもたいていは男ばかりか女ばかりが産まれるものや。男と女の双児が生まれると、昔から畜生腹と言うたもんじゃわな。先生がいつまでも改心できんさかい、そんなお気づけがあったんじゃろ。大本の中に何か不吉なことが起こるかも知れんでよ」 久の言葉もまた参拝者の中にひそひそと伝わり、一部に不安な気持を与えた。 教祖出口直は生神として尊崇せぬ者はなかったが、王仁三郎を批判する声は、大本内部でも伝統的と言ってよいぐらい強かった。直が筆先によって「天のみろくさま」と認めても、王仁三郎の奔放自在な言動に顰蹙する者は多く、王仁三郎批判の受け入れられる素地は十分にあった。 久は大正七年に入ってからしきりに筆先を書き始めるようになっており、また家庭をかえりみず精力的に地方宣教ヘととび回っていた。久の一身を忘れた行動と、その神がかり的な説話はかなり信者を魅了し、久を日の出神のかかる肉体と信ずる者は増えていた。
 相生・住の江が生まれて間もなく、直のたっての願いで、直日は武術修業を中止して京都から引き揚げてきた。直日を綾部に呼び戻したのは、単に肉親の情ばかりではなかったらしい。梅田信之夫妻と妾のあいに送られて不服げに戻ってきた直日に、直は姿勢を改めて言った。「直日さん、お前には大事な御用をしてもらわねばならぬでのう。これからは直日さんも御神号を書くようにと、神さまがおっしゃるさかい……」「わたしにはそんなこわいことはできません」 真剣に拒む孫に、直は諄々と説きさとした。「わたしもお筆先を書くように神さまに言われた時、一字も知らんわたしに、神さんもあんまりやと思うた。さんざ御辞退申したらなあ、『この方が書かすのであるから、我を捨てて素直に筆を執って下され』と言いなさる。それで持つだけならと筆を執ったら、これまでたくさんのお筆先を書かしていただいた。神さまの申されたことはなんでも素直にさしていただくのが一番じゃでよ」 その言葉が心にしみたのか、直日は逆らわず、祖母の傍でおひねりの御用をすることになった。 直日を送り届けた梅田信之とあいは教主室で楽しげに王仁三郎と談笑していたが、安子はちょっと挨拶しただけで、澄の部屋に出産祝いに行った。 住の江に乳を含ませながら、澄は直日が二年半も世話になった礼を述べた。安子が知った頃の澄は新婚早々で痛々しいほど痩せていたが、今見る澄の胸のあたりは産後の衰えも見せずつややかに脂肪がついている。目立って太ったようであった。 横に寝かされている相生の小さな額にぺったり墨が塗りつけてあった。「あれ、なんのお呪いどす」 不審に思って問うと、澄は答えた。「乳飲んだしるしやな」「へえ、なんでどす」「うちは一人の子でも育てるのがやっとやのに、一遍に二人もできたやろ。すぐまごつくんやな。一人におっぱい飲まして、ヤレほっとすると、急に用事を思いついたりしてなあ、さて、もう一人に乳をやらんならんと思うても、どっちに飲ませたか思い出せへん。それで間違えんように、先に飲ました子に墨をつけとくんやな」 よい思いつきと言わんばかりの澄に、安子は吹き出した。 相生はお公家さんのように整った目鼻立ちで、住の江はあまり器量がよくなかった。双児とはいえ間違えるほど似ているわけではない。それにどうせ印をつけるなら、公家眉のようにぽっちり可愛くつければよいのに。 寝ぼけた澄が赤ん坊の直日を逆さに抱いて乳を飲まそうとした有名な話を思い出して、安子はよけいおかしかった。「なにが面白いんや」「いいえ、羨ましいんどす、あては……」 笑い納めて、安子は心から言った。貧苦のどん底に生まれ、幼い時から父母と離れて他人の飯で育った澄は、ちっちゃくいじけ、ひねこびていてもよかった。結婚してからも夫と母の霊的葛藤や夫と役員間の軋轢に絶え間なくはさまれて、苦しんできた。これほど教団が発展してさえ、出口家の内実は貧しくて、未だにこっそり質屋通いしていることを、安子は知っている。 王仁三郎は神業一筋で、家庭のことはすべて澄が任されていた。と言っても、澄は賢母とは言えない。子供の教育は殊に苦手らしく、「子供は放任主義でのびのび育てるがいい」と言う夫の持論をよいことに、まったく野放しであった。 九歳の八重野が腹痛で食事を止められていた時、空腹のあまり生のさつま芋をかじった。どうしたわけか、それきり腹痛も下痢も治った。「お母さん、生のさつま芋は腹痛によう効くで」と八重野が言う。「そうかい、そら妙なことやなあ」と澄が応じる。「それからは、腹痛の薬はさつま芋と、八重野はんは信じこんどってや」と中村こまがあきれて、安子に語ったことがある。 子供たちが学校でどんな成績をとっても、「ようできたなあ。あまり気張って勉強せいでよいでよ」と言った調子。級でも最高の成績だった梅野も、張り合いがなくなって次第にどうでもよくなってくる。雨だから、雪だからと、学校をずる休みして遊んでいても、誰一人怒ろうともしない。「ゴンタせーよ、よう遊べよ」と、これも王仁三郎の口ぐせだし……。もっとも学校軽視は澄ばかりではなく、大本の役員信者たちに共通する傾向であった。 それでも、澄を頼って、個人的な悩み事や相談まで持ちかける信者たちは多い。例えば亭主の浮気にしめついた愚痴を並べたてるのへ、「いっぺん、パーンとド頭張り倒してやってみい、あんた、すっきりするで」とこうだ。安子から見ればまことに無造作とも乱暴ともとれる解答を与えるが、それで結構みな希望の道を見つけ出すらしい。安子自身も、澄のこだわりのない笑顔で、どれほど陰気な胸を慰められたか知れない。王仁三郎があれだけ奔放な活躍ができるのも、背後にどっしりと、おおらかな澄がひかえていればこそであろう。 澄は苦労の善い面ばかり身につけて、悪い面はきれいに選り分けて捨て去る特殊な術を知っているのであろうか。茨の人生を踏み越えて来て貧しさへの深い同情と激しい正義感を身につけながら、生来の天真爛漫さを少しも失わないのを、安子は奇蹟にさえ思えるのだった。 澄と世間話に興じていると、福島久が入ってきた。挨拶もそこそこに、久は高飛車な物言いで迫る。「お澄さん、わたしが日の出神の肉宮じゃということ、分かってくれちゃったかい」「分かってますがな。もう耳がたこになるほど、聞かしてもろてますわな」 迷惑げに、澄は答えた。「あんたが分かっていると言うのは、口先だけじゃろ。へぐれ(変化)のへぐれのヘぐれ武者、義理天上日の出大神がこの福島久じゃということ、ぐんと腹の底から悟らねば、ものごとはおそくなるばかり……、さあ、この日の出神が、さる昔からの因縁を解いて聞かせる……」 久は目を吊って坐り込む。 昨年の暮れの神がかり以来、久はしきりに綾部に来て、自分が日の出神の生き宮であることを認めさせようとした。それはもう執念であろうか、朝であろうが夜中であろうが、寝ている直を起こして必死で叫ぶ。「教祖さま、福島久こそ義理天上日の出神じゃと認めておくれなはれ。そうでないと、いつまでたっても、みろくの世は参りまへん」「そなたには悪霊がついておる。大本の仕組を狙う悪霊にだまされているのじゃ」 蒲団の上に起き直り、直は強く叱咤する。ふだんは母には口ごたえ一つせぬ久が、血相変えて言いつのる。異様な妖気が久のまわりにたちこめているのだ。直と一緒に寝ている梅野は、怯えて澄の床へ逃げこんでくる。この頃では子供たちは伯母久を恐れ、姿さえ見ればわっと逃げ散るほどであった。 王仁三郎の所へも、久は筆先を持って、押しかける。どんな来客があろうと、おかまいなしである。「こら、また来やがった」 顔を見るなり王仁三郎は罵倒するが、久は平気である。「さあさあ、こんな日の出神さまの筆先が出ましたさかい、いただいておくれなはれ」 王仁三郎はぱらぱらと目を通し、ぽんと投げ出す。「なんや、こんなもの書きやがって」 面白いはずがない。みな王仁三郎の悪口であり、改心を求めることばかりである。久は畳を叩く。「なんちゅう罰当たりな。わたしが書いたのではござヘん。日の出大神が書かせなさるのじゃ。それではまだまだ改心できん」「うるさい、出て行け」「よろしいか、変性男子さまの筆先と変性女子さまの筆先とこの日の出神の筆先がきちりと合わぬことには、世界の統一ということは、いつになりてもでけはいたしませんぞや。変性女子の肉体に世の元からの因縁が胴身にしみこんだ暁でないと、世の開きかけはできぬ。先生の改心は世界の改心、さあ、改心するか、どうじゃ、どうじゃ」 にじり寄って荒い息を吹きかけ、王仁三郎の胸倉につかみかかる。久の着物の裾を握るなり、王仁三郎は凄い勢いで部屋の中を二、三度ひきずり回し、廊下へ投げ出す。こうなれば両者神がかり的で、誰が止めても止まらない。 これだけひどい目にあわされたら来んでもよいのにと誰しもが思うのだが、久は懲りずに何度でもやってきては繰り返した。 その点、澄は、肉親の姉を悪霊憑きと即断することはできなかった。自分よりはるかに信仰熱心で、ひたむきで、親おもいで、まじめな働き者の久姉。幼い頃、誰よりもやさしく母や澄を守ってくれた八木の姉夫婦の人柄を、澄は信じる。 だから澄は、不安であった。母と夫の戦いの型がやれすんだと思えば、今度は夫と姉、どちらかを悪神と決めつけねばならぬなど、もうごめんである。 澄と安子が糸をつむいでいるところへ、久は乗りこんできて、煩わしげに持病の鼻を鳴らしながら、はや、神がかり口調であった。「そうじゃ、お安さんもよう聞きや。福島久が今こそ説いて聞かせる、日の出神の因縁を……」「姉さん、もうそれは聞きましたわな」「聞いて分からな、分かるまで説いてきかせる。今に清吉が肉体を持って外国から帰ると申しておるような、盲つんぼが何千人集まりておりても、何の役にも立ちはいたさぬ。国の米食う蛆虫じゃ。よいか、綾部が日本なら八木は外国、外国の型ですで。八木という字を一つに合わせば、米国の米の字になる」「こめって、どんな字書くんやいな」 澄が安子に聞く。安子はしなやかな指先で畳に米の字を書いて説明する。満足そうにそれを眺め、久は一膝進める。「どうじゃ、ぐんと納得がいきまっしゃろ。『直よ、唐へ行ってくれい』と神さまに言われて明治二十七年に旅立ちなされた教祖さまは、八木で一月滞在遊ばされて、京都まで行きなさると『もうよいから帰れ』と神さまに言われて引き返しなされた。八木で滞在なされたら、それでもうよい。ちゃんと外国へ行く型を果たされたのじゃという、深い意味を悟って下されよ。 日の出神が外国から手柄を立てて帰ってくるというお示しは、蛆虫どもがなんぼ頭をひねっても分かりはせん。福島久はお米姉さんの龍宮の乙姫のかかる生き宮、そして佐田子姫、元の名は常世姫の霊の宿りておる肉体、その肉宮にわが弟出口清吉がかかったのじゃ。『龍宮の乙姫が日の出神とひきそうて』の筆先の謎が解けようがな。『外国から手柄を立てて帰ってくる』というのは、八木の福島久がみろく神業にあっぱれ大手柄を立て綾の聖地ヘ戻ること、さあ、このお仕組が分からぬか」 八木が外国の型であるというのは、久の新説ではなく、直の筆先にも示されていた。日の出神は変化れに変化れるというのも、久の行動にふさわしく思えてくる。飯森海軍中佐と結んで全国宣教に歩きまわり海軍軍人に大本の存在を知らせたのも、横須賀で浅野和三郎に入信の機縁を作ったのも、久の功績が大きい。彼らの入信が、急激に大本を発展させる一因となったことも否定できない。 支離滅裂のようでありながら、妙に説得力のある熱弁、身命を賭した活動、熱誠あふれる言動は、敵もつくる反面、情熱的に信奉する人も少なくない。今後も、勢いにのって因縁の人をどれほど導き、どんな大手柄をするか知れなかった。安子もうなずきながら聞いている。久の雄弁は、つのる。「昔々のさる昔、まだも昔のその昔、この世の元を編み出し下された生粋の神、国常立尊さまを世に落とした神が天照彦命と申して、天の規則を破ったり破らしたりした悪の大統領、この世を持ち荒らした神じゃ。こんなことをわが口から申しとうはないなれど、それが二代の婿の王仁三郎、変性女子にかかりておる霊魂の性来やでよ」「……」「稚姫君尊さまのお育て遊ばした八人のお子の名は、男神では義理天上・現世では出口清吉、青森白木上命・現世では出口竹蔵、天地尋常命・現世では大槻伝吉。女神では常世姫命・現世では福島久、金龍姫命・現世では出口澄、大足姫命・現世では大槻米、金山姫命・現世では出口龍、琴女姫命・現世では栗山琴。金龍姫命は元は金勝要神と申して、親神さまが天地をお開き遊ばした折りに大変な大働きをなされた大地の神でありて、あまり働きが立派だから、天から金龍姫というお名前をいただいた神であるぞえ」「ふうん、うちの霊魂の因縁ちゅうたら、どえらいもんじゃなあ」「ついでに言えば、金龍姫の姉神の常世姫は、元は佐田子姫と申して、この世一切何一つ知らぬと言うことはならぬお役目、女ながらに男勝りの大の活動家でありたから、常世姫と天からお名前が下りたのであるぞえ」「それが姉さんの因縁……」「そう、そこが大事じゃぞえ。さて、天照彦命はえらく女を好む神でありて、天のお許しがないうちに、稚姫君尊さまの五人の姫神の中でも一番美人神の金龍姫をだまして抱きこみ、天の規則破りをいたしたのじゃ」「そこが姉さん、分からんのやな。変性男子と変性女子は大本の機の仕組にとって、なくてはならぬ人やろ。その肝心の変性女子の肉体に、世の元の乱れを作った天照彦命がかかるなんて、なんでそれを大神さまがお許しなさるのやろ」 澄が心に湧いた疑問を口に出すと、久は得たりと、「そこそこ、よう訊きなはった。敵の神を敵ともなさらず、変性女子の肉体をお使い遊ばして和光同塵策をおとらしなされて、罪人の罪をお除り遊ばし、良きことさしてやりて良き名前を残さしてやろうとの大神さまの深い深い思し召し。かたじけなや、稚姫君尊さまは、天照彦命の天の規則破りの罪を身に受け地に落ちなされてござるのに、そのことが分からなならぬ肝心の肉体が分からぬ故に事がおくれて世界中のこの混乱、罪なき者まで泥水飲まねばならぬことになろうぞや」「……そんなこと言うちゃっても、わたしは知らんで」「知らんとは言わさん。『出口の神と日の出神とが、三千世界の元になるのざぞよ。出口澄と上田どのが、かわりをいたさすぞよ。お世継と相定まりたぞよ』と筆先に出て神さまからお許しが出とるのに、結婚の日まで待ち切れず、天照彦は金龍姫の肉体に手をつけた」「あれ、姉さん、なんで知っとってん」 澄は思わず口にして、はっとなった。安子が愕然とした顔になる。 久はいやらしくにたりと笑う。「やはりそうかいな。この方の神さまは、何でもお見通しじゃぞえ。霊魂の因縁とは恐ろしいもの、神代で犯した過ちを現界でもまた犯す。そのためのこの世の乱れ、ああ、情けなや」「そんなこと言うちゃったかて……」「それはまあ、この日の出神が見て見ぬふり。しかしなあ、二代の夫婦が、世の元のでき上がりから、天の規則の破れたことから、どの神の霊統がどうであるかということまで、何一つ知らぬことのないようにならぬと、あまりにも大きな間違いがでける。世の替わり目であるから、猫に追われた鼠のような気の毒な目にあわねばならぬでよ。それを見ておるのがつらさに、どんなにいやがられようが謗られようが、この日の出神の肉宮が説いて聞かせるのが分からぬかい」 久は涙さえ浮かベ、二代夫婦の行く末を案じる真情をみなぎらせる。「稚姫君尊さまと八人のお子、この九人の神さまは大国常立尊さまの差し添えとなりて働いた大和魂の生粋であるから、叩きつぶしてもつぶれはいたさず、火に焼いても焼けはいたさぬ強い霊魂であるから、親神さまが世に落ち遊ばす折に共に落とされてありたなれど、親神さまが世に現われなさる御時節が来て、共に世に出て、ありがたや末代しおれぬ生き花が咲く時節がめぐり来た。けれど現実はまだまだ……。 この大本をずれっと眺め回して見なはれ。今はまだ天照彦命の系統が主に集めてあるさかい、みな濡れ手で粟をつかむように思うておる者、都合よくば勤めもするが都合悪くば帰るというような水くさい者ばかりであるから、ちっとも気許しはできんぞえ」「……」「大本が盛んになるほど敵が多うなる。大本の仕組は、敵を滅ぼすようなちっぽけな仕組はしてござらん。その敵をも喜び従わせる仕組であるから、いよいよとなれば敵ほど味方になりて三千世界が統一いたすのである。そのためには、まず二代夫婦の改心改心……」 たまりかねて、澄は言い返した。「それでも姉さん、姉さんはわたしたち夫婦がこの世の乱れの元やなんて悪う言うてじゃが、先生から見れば姉さんにかかる霊こそ、この世の乱れの元の金毛九尾、悪の系統や。わたしみたいな阿呆には、わけが分からん。どっちを信じたらよいのやいな」 高らかに、唄うように、久は言った。「たとえて申せば、善悪は陰陽のようなものでござる。悪の働きによりて善が尊く、陰ありて陽が尊い。『悪のおん働きも御苦労さまでありましたと申して、皆ひとところに寄りて大笑いいたすのざ』と教祖さまの筆先にあるが、善じゃ悪じゃというような時期は早うすまさなならぬ。それには天照彦の改心、改心、改心第一……」 久が去ってからも、毒気にあてられたように、澄と安子は動かなかった。 ややあって、澄は大きな溜息をついた。「正直なこと言うとなあ、お安さん、八木の話を聞く度に、だんだん本当のことに思えてくるのじゃが……」 安子はうつむいた。安子もまた、王仁三郎と久のどちらの言い分が正しいか、判断に迷うのだ。ただ教祖さまだけはどんなことがあっても信じきれる。それさえあれば、他のことはそんなに苦にならぬ。それが安子の救いであった。「お安さん、覚えとってよ……わたしはなあ……」 強い目で安子を見て、澄は一語一語宣言した。「もし先生がこの世の乱れの悪神の元なら、それがはっきり見きわめついた時は、お安さん、よう覚えとってよ。わたしはこの手で先生を刺し殺して、わたしも死んじゃる」 澄の唇は小さく青ざめ、涙の惨む目尻が裂けるばかりに吊り上がっている。「なにをお言いやす。いけまへん。先生と二代さんがそんなことになったら……」「後には水晶の霊魂、三代直日と大二がおるわな」 乳呑児に目をやる澄の頬には、もうゆったりと笑みがもどっていた。
 澄の部屋を辞して、安子は教主室へ行く。梅田とあいはまだ王仁三郎と談笑中で、部屋の外まで明るい声が洩れていた。こだわりなくその空気の中にとけこむ気になれなかった。安子は廊下をとって返して庭に下りる。 金龍海には、十番の鴛鴦が仲良く群れ遊んでいた。この鴛鴦は今年の一月十五日に信者が寄付して放したものだとか。片時も離れまいとするように、夫婦は同じ方向に寄り添って泳いでいる。信之と安子というより、信之とあいの姿の方にあの鴛鴦は似ていると、安子は思った。 ふと山上花代の顔が見たくなった。心ひそかに妾を憎む本妻が、ひとの妾の家に遊びに行く。おかしな話だが、なんとなく気が合うのだから仕方がない。 黒門を出て、金龍餅屋の手前の路地を西へ曲がると、花代の間借りしているこんにゃく屋である。花代は、喜んで安子を二階へ招じ入れた。 なんとなくお茶屋の一室を感じさせる色っぽい部屋で、道具はみな新しい。床の間には三味線が立てかけられ、壁には男物の着物がぶら下がっている。小机には読みさしの『神霊界』が開いたままだ。 長火鉢に向かい合って坐ると、安子はまず訊いてみた。「どうどす、お筆先読んで大本の神さん信じる気におなりやしたか」「それがさっぱり……」 花代は首を横に振った。四十を越しているはずなのに、白粉けのない花代の細面はまだ衰えず、ちょっと険のある美人である。 長煙管に刻みをつめて安子に渡し、自分も別の煙管をくわえた。「何がありがたいねやろ。森が尊敬してはる教主さんにしても、あれでどこが偉いねやろ。こないだなあ、教主さんが縁先からわてを呼ばはるさかい、傍ヘ行って見たんだっせ。そしたら『かゆうてかなん。髪を梳いてくれ』だっしゃろ。いやとも言えんさかい、あのもじゃもじゃ髪を梳いたげたら、新聞紙の上に虱がパラパラや。なんちゅう汚い男かいな。おしゃれな森が、なんであんな人に夢中になんねやろ……」「先生は大化物どすさかい、あてかて偉いのやらどうやら、さっぱり見当とれしまへん。けれど大神(出口直)さまは別どす」「生神さん言わはりまんのやろ。わても一度だけ、遠くから見ましたで。何やしらん恐い感じで、そうありがたいとは思いまへん。どうせ、鰯の頭も信心からの口だっしゃろ」「そんな……大神さまの御日常を拝ましてもらえば、誰だって生神さまやと思います」 花代は白い煙を安子に吐きつけ、はすっぱに声を上げて笑った。「わても、お安さんみたいに、早うありがたがってみたいわ。なんでわてはこんな綾部みたいな田舎でぼやぼやしてんねんやろと、ときどき阿呆らしいて……」「そんなこというて、森さんに怒られしまへんどすか」「そんなこと、けぶりにも見せますかいな。『お花はかちかちの信者や。可愛いやっちゃ。綾部へ来てから、朝の金龍殿のお礼も欠かしたことない。おまさなんぞめったにお参りもせえへんのに。お花が朝起きして、神さん拝んでいじらしくお筆先を写しとるとこ、おまさに見せてやりたい』と、こうわてばっかりほめてくれはりまんねん。ほんまはお筆先なんかさっぱり分かれへんねん。退屈しのぎだす。言うたらあきまへんで」 花代は赤い舌をちろりと出した。まさの立場にこそ、もっと同情してやってよい安子なのに、そんな花代の悪たれが不快でなかった。幸福そうな本妻を見ると、無意識のうちに妬み心が働くのか。あても業の深い女やと、安子は思う。 花代は、森の噂に移った。「わてと森とどっちがやきもち妬きやと思わはりまっか、お安さん」「さあ、そら、お花はんの方が気がもめまっしゃろ……」「わても妬きます。でも森はわて以上や。外から帰ってきはったら、部屋の中を見回して『この灰皿の吸殻は誰のや。この湯呑みは誰が呑んだ』で先ず一騒ぎ……」 半分はのろけと知りつつ、豪放で思い切りのよい森の意外な半面に安子は驚いた。 花柳界の生活が長いだけに、興が乗ると、安子が赤くなるようなきわどいことまで花代は喋る。「こないだなあ、おもしろいことがおましてん。朝鮮時代のわての旦那はんがなあ、手紙よこしはったんだす。『京都まで来たから久しぶりで会いたい、嵯峨のある料亭で待っている』というんだす。嫌いで別れたん違うよってに、綾部の生活もくさくさするさかい、一遍羽根のばしとうなって、森に『やっとくなはれ』とせがんだんだす。けどあのやきもち妬き、すんなり聞いてくれはらしまへんねん。わて、半日すねてやったら、森は二つの条件つきでやっと承知してくれはった。一つは帰宅する時間のこと。あと一つが何や思いなはる」「そうやなあ、浮気せんと約束すること……」「お安さん、そんな口約束ぐらいであきますかいな」 花代は生き生きした口ぶりでしゃべりだした。「森は自分で猿股を買うてきはったんだす。わてにはかすためにだっせ。わてらは小さい時から腰巻一つや。猿股なんて初めてはいたさかい、その気色わるいこと。 森は真剣になって、猿股の上を紐でぐるぐるくくって、手のこんだ変な結び目を作るんだす。『この紐は神かけて、絶対にほどいたらいかん。紐のくくり目は、わししか知らんのやさかい、もし帰って来て紐の結び目が違てたら絶対に許さんで』とこうだっしゃろ。貞操紐をつけたまんまで、嵯峨まで会いに行きました。 あこまで汽車で二時間近くかかりまっしゃろ。昔なじみや、なつかしい思い出話が出る。積もる話のあれこれに、お酒も重なる。久し振りの御馳走で舌鼓は打たんならん。入れるものは入れたし、時間はたったしで、今度は出す番や。 その時になって、気いついたんだす。出す方のこと、すっかり忘れてましてん。あほやなあ。初めは我慢してましてんけど、我慢にも限度がおまっさかい。とうとうやけくそで、憚りに行って猿股の上からしてしもたんだす。 もうべとべとで、気色悪うて辛抱できるもんやおまへん。仲居さんから乾いた手拭借りて、猿股にあてては何遍もしぼりとりましてん。『どうしたんやお花、顔色が悪いで。ちょっと横になるか』と手を引く旦那を振り切って、とんで汽車に乗りました。もう早う脱がしてもらいとうて、森が恋しいて……。 綾部まで帰ってくるなり、前を広げてなあ、威張って言うてやりましてん。『この通り、見とくなはれ、旦那はん』その時の小気味良かったこと。『お花、えらかった、えらかった……』森は涙を流して喜んで、紐をほどいてくれましてん。わては、そんな森が、やっぱり好きだんねん」 安子は笑い転げながら、こぼれる涙に気づいた。四十を過ぎてもこれだけの情熱をそそぎ合える男女の仲を、ふと美しいと思った。自分には生涯与えられぬことだけれど。
「ようし、今度こそ迷いは断ち切るぞ。神さま、力をお与え下さい」 千々に砕ける胸をそらして、森は落日に叫んだ。追いつめられ、逃げるようにして、この本宮山へ駈け登ってきたのだ。男一匹、何というざまであろう。意気に感ずれば死をも恐れぬ勇者のつもりが、その泣き所は女、不惑の年を越してから知った花代には、特に弱かった。 信仰に一生を捧げる決意で綾部へ移住した時、信仰人としての自覚から、いったんは離別した妻子を引き寄せ、自分をよき父、よき夫たらんとした。もっとも花代と別れることだけは意識さえしなかったが。 それがいつのまにか、花代と暮らす時間の方が長くなった。いや、まったくこんにゃく屋の二階に入り浸って帰らず、小さい子供に呼びに来られて、十日にいっぺんくらい気まずく戻るといった風に――。 今日、二代さんに呼びつけられた。何事かと龍門館に急いでみれば、澄の横に、まさが小さくなってうつむいている。ふだんは大本へ参拝にも来ぬくせに、かなわぬ時の神頼みで、澄に直訴に及んだのであろう。 丸出しの和歌山弁で何を訴えたのか、澄の頬は紅潮し、凄い目で森を射すくめた。「こんな良い奥さんを泣かして、子を捨てて、それであんたは大本の教監かいな。神さんの前へ出て、恥ずかしゅうはないかっ」 その叱咤で龍門館は家鳴り震動せんばかり。澄の体が三倍ほどの大きさになって迫ってくる。胆っ玉の太いつもりの森が、畳にうつ伏したなりがたがたと胴を震わせた。「さあ顔を上げい、返答せい」 髪がぐいっと掴み上げられ、森はまともに澄の焼きこげるばかり強烈な眼光を浴びた。「さあ、あの女を追い出すか、そなたが大本を出るか」 澄は、伸びかけの森の髪をつかんだまま引きずり回す。四つ這いになって部屋中を這いながら、森は悲鳴を上げた。「痛いっ、お許しをっ、追い出します、追い出します」 王仁三郎がとんできて、ヘっぴり腰で助け船を出す。「お澄、手え離せ。無茶すない。森さんは大本にとって大事な人じゃ。出してもろたら、わしが困る」「こんな体主霊従の男が大事なら、先生も一緒について出たらよろし。なした男たちやいな」 澄は森の髪を放して、王仁三郎に向かった。「逃げい、森……」と王仁三郎。 聞くより早く、森はとび出していた。すぐには並松の自宅にも、花代の元にも行けない。じりじりと痛みつづけ熱し切った頭と心を冷やすために、本宮山頂で風に吹かれていたのである。 考えて見れば、二代さんが怒るのも無理はない。森は、金龍殿で修行者相手に講話を受け持っていた。適切な筆先の引用で、その講話は、修行者の評判がよかった。 口に筆先をいただく森が妻子をおいて妾にうつつを抜かしているのでは、確かに格好もつくまい。森のふしだらな女性関係は、狭い綾部の町中でも噂になっていた。自分の身辺をまずきれいにせずして、どうして三千世界の立替え立直しを叫ぶ資格があろう。 充分に自分を責め、省みたあげく、こんにゃく屋の二階に行った。 森は花代に今日の出来事を正直に語り、沈痛な声で引導を渡した。「そういうわけで、頼ま、お花、今限りわしと別れてくれよ」「そうだっか」 花代は冷静に答えた。「旦那はんにそんなに御迷惑がかかっているのなら、おっしゃる通りにさせてもらいます。長いことお世話さまになりました」 花代はしおらしく頭を下げる。 一悶着予測していた森は、あまりのあっけなさに拍子抜けて、ほっそりした花代の襟足に目を落とした。「旦那はん、今晩だけはここにおいとくれやす。明日の朝は、荷物をまとめて大阪へ帰りますよって」「ああ、今からすぐいうても、もう夜や。けどわしは今夜は子供らのとこへ行かよ」「そうしたげとくなはれ。わて、自分のことばっかり考えていて、あんなええ御寮さんやお子たちを苦しめてしまいました。悪いのはわてだっせ……。二代さんが怒らはんねやったら、わての髪つかんで、引きずり回してくれはったらよかった。旦那はん、痛おまっしゃろ」「ああ、もうどうもあれへん……」 花代は膝をすり寄せて、「最後の宵だんなあ。そうや、思い出に一つ、唄わしとくれやす」「そうやなあ、お前ののども聞きおさめやのう……」 床の間の三味をとって構えた花代が、熱っぽい目で訴える。「しらふでは声が出えへんさかい、一杯、旦那はん、冷やでついどくなはれ」 森は杯をさしてやった。たて続けに五、六杯、花代は流しこんで唄い出す。酔うて爪弾き歌う花代のあだっぽさは、朝鮮での出会いの頃と変わらなかった。憎くて別れるのではない。心の琴線深くかき立ててくるその音色に耐えようとして、森は手酌の冷や酒をあおった。「旦那はん、もうお帰りやしとくれやす。酔うてしもたら、わて、もうよう放しまへんさかい……」「うん、うん、去なよ。お花、元気でなあ」「どうぞ御寮さんと共白髪まで添いとげたげとくなはれ。わてはあの世で……」「えっ、お花」 顔色を変える森に、花代は淋しい笑顔になった。「死んだら、霊魂は霊魂相応の所へ行くという、教主さんの話を聞きましてん。同じ程度の霊魂同士が一団になって仲よう暮らすのやそうだんなあ。この世では旦那はんは御寮さんのもの、けどあの世では分からしまへんで。あの世で添うのは、旦那はんの心と同じ深さの信仰のある人だっしゃろ。わてはなあ、このまま別れても、旦那はんに負けんように信仰つんで、お筆先よんで、旦那はんと同じ霊界に行くつもりだっせ。その時は、わてを忘れんといとくれやっしゃ」 ――なんちゅういじらしいことを。 森は、こみ上げるいとしさにくらくらした。気がつくと、花代は森にしなだれかかっている。はねのけようとしながら、思わず引き寄せてしまった。「旦那はん、この世の女房と、霊魂の女房と、どっちが可愛おますねん」「阿呆、きまっちゃはるやないか。お前が可愛い、お花が可愛い……お花、眠うなった。早う蒲団敷いてくらよ」
 あれから二日、森はこんにゃく屋の二階に閉じこもった。息子が探しに来たが、非情にも居留守を使って会わなかった。二階の窓ガラスに顔をすり寄せて、しょんぼりうなだれて帰る息子の後ろ姿を、歯をくいしばって見送った。いくらなんでも澄の顔を見るのがうしろめたくて、大本へ行く勇気はなかった。仕方なく、筆先に明け暮れた。 突如、森は大声で叫び、とび上がった。「あった、あった、大変な筆先を見つけたぞ」 筆先の写しを持ち、森は狭い部屋の中をとびはねている。「何がおましたん」 着物のほころびを繕っていた花代が、驚いて見上げた。「お花、坐り直してよう聞きなあよ。これはまこと疑いなしの筆先や、神の言葉やしよ」 森は立ちはだかり、大声で読み上げた。 ――金勝要の大神さまをお願い申せば、そいたい縁ならそわしてやるぞ、いやな縁なら切らしてやるぞよ。「お花、聞いたか。どうな、ありがたい筆先やしよ」 森は、花代の手を握りしめた。「ほんまに、ほんまに結構なお筆先だんなあ」 気の強い花代が、森に手をあずけたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。作り涙ではなかった。今までどんな筆先を読んでもちっともありがたいと身にしみはしなかったのに、この一節だけは鬼神の胸奥にあたたかい涙のあることを花代に伝えた。「お嬶んと別れてお花と添いたい、これが天地神明にかけても偽りのないわしの本心や。大本の神さんは、そうさしてやると請け合うてなさる」「なんちゅう尊い神さんやろ……。金勝要の神さんてどんな神さんだす」「大地の金神……そうよ、二代さんの守護神さんよ」「えっ、二代さん、添いたいわてと別れて、添いともない奥さんと添いとげろと言わはる、あの二代さんの神さんが……」「いや、待てよ、これには何か意味があるぞ」 考えこんだ森は、やがて手を打って勇み立った。「分かった、わしが髪をつかまれて引きずり回されたんは、今までの罪滅ぼしのためやしよ。これで罪を帳消しにしてくれたさけに、後はいよいよ……うーん、そうか、お花、ちょっと行ってくら。待ってなよ」 森はすごい勢いでとび出して行った。 筆先は受けとる人相応の解釈ができるとされるが、折も折、苦しまぎれに都合のいい文句を見つけ出したものである。 最高に都合のいい解釈をして、森は妻の元に現われた。 想像もできなかったほど激しい澄の怒りと、夫へのいためつけようを見ただけで、まさもまた震え上がっていた。子供を楯にとってのごまかしで、もう夫婦のきずなをつなぎとめるのは無理と知った。まさは森の説得で離別を承知した。あれだけの二代さんの叱責を受けてさえ腰のくだけぬ夫の真剣さに、もうどうにもならないものとあきらめたのだ。 明治四十四年和歌山を去る時、すでに森は北野家の籍を抜いている。再び一緒になってからは多忙なまま入籍してなかったので、法律的手続きは必要なかった。 森は妻と子供を連れて、妻の郷里ヘ帰った。子供たちは父との永久の別れになるとは知らず、一家揃っての初めての旅にはしゃぎきっていた。 余談になるが、この離婚話は、その後もしばらくくすぶり続けた。なぜならば、家族を和歌山へ送り届けたその夜、森は森らしくも情にほだされて同衾し、見事にまさを妊娠させていたのである。 森良仁が正式に花代と結婚したのは大正九年十一月、幾度か喧嘩別れし、その都度派手な話題をふりまきながらも、花代は二度の大本事件をくぐって信仰に生涯を捧げ、共白髪まで添いとげる。

表題:相生の松 12巻5章相生の松



 三月十八日夕刻、王仁三郎は村野龍洲・森良仁(旧名慶三郎)を連れて、松江駅に降り立った。鳥取からは、平木正二も同乗して一行に加わる。迎えに出た奥村とともに、人力車をつらねて末次本町の繁華街にある朝日新聞販売店へ安着。 人力車をとりまいた近所の子供らが「相撲取りがきた」とはしゃいだ。王仁三郎は長髪を後で束ね、その裾が背で扇のように拡がっている。十曜の紋のついた木綿無地の羽織袴、草鞋ばきであった。村野も長髪、鼻髭と長いあご髭を垂らし、王仁三郎に負けぬ堂々たる貫録である。森良仁の頭髪は伸ばしたてでどうにも格好のとれぬ段階ながら、上背のあるがっしりした体躯は、やはり相撲取りといってもおかしくなかった。 挨拶に出た奥村の妻よしのは、王仁三郎と村野のどちらが教主か分からず、割子そばを持ったまましばし迷った。髭のある方が偉い人かと思った。が、髭のある方が受取ったそばを、髭のない人の前に先に置いたので、やっと分かった。出された割子そばを、髭のない教主さまは本当にうまそうに食べてくれた。 小憩後、人参方の木原鬼仏の家に行き、木原や岡田らとさらにくわしい打ち合わせをした。日程は翌十九日から二十二日までの四日間、講演と宿泊は木原邸、人集めは岡田が担当していた。 木原鬼仏は王仁三郎の松江初巡教を記念し、自分の主宰する『心霊界』から特集「大本記念号」を発刊し、発行日をこの日三月十八日とした。 刷り上がった記念号を手にとって、王仁三郎は嬉しそうであった。 欧州大戦後半期頃から、ヨーロッパには心霊主義の思想が勢いを増していた。大戦によって多くの死者を出したヨーロッパの人々は、「死と死後の世界」の問題に直面し、既成宗教に解決を求めたが、満足すべき解答は得られなかった。いきおい、心霊研究の形において、一種の心霊主義思想が起ってきた。 一八四八年、アメリカのニューヨーク州ハイズビイル村で起こった霊的一事件が、世界の耳目を驚かした。この事件を契機に、科学的に霊魂の存在を研究しようという近世交霊術が起こり、それが欧州列国に飛火して多くの科学者・哲学者・医学者らが参加した。 ジョン・D・フォックス家では、この年の三月から家の中で起こる不可解な怪音に悩まされていた。ある時十一歳の末娘ケートが指でテーブルを叩きながら、「こうやってごらん、パチパチさん」と、呼びかけると、怪音が応えるように起こった。十四歳の姉娘マーガレットが、続けて三つ叩けば三つ、五つ叩けば五つと叩音が応える。 母親が、三つの時に死んだ子供の年齢を試みに聞いてみると、正確に三つ叩いてくる。いろいろ質問したが、明らかに何者かがその意志を叩音でもって表現しようとしている。 母親は隣近所の人々に集まってもらって、イエスなら二つ、ノウなら一つ叩いてもらう約束を決め、何者かに向かって怪音の原因を問いただしていった。次第に恐ろしい事実が分かってきた。 怪音の主は「人間」、「男」、「この家にもと住んでいた男に」、「五年前」、「殺された」、「肉切包丁で」、「金を奪われて」、「死体は今ここにある」、「地下」……これらのことからチャールズ・D・ロスマという行商の男の亡霊と知り、叩音に導かれて地下を掘った。指示された個所から、骨や毛髪が発見され、やがて遠隔の地に隠れていた犯人までも捕まり、大々的に新聞に報道された。 事件を研究の結果、こうした怪音を起こす物理的心霊現象は、エネルギー即ち放出霊質(白色のガス体)を提供する霊媒が必要で、その役を、フォックス家の小さい姉妹がつとめたことが分かった。交霊会には次々と優れた霊媒が育った。 一八八二年英国に心霊研究協会が学会の承認を受けて設立され、ケンブリッジ大学教授のへンリー・シジュイックが初代会長に、続いてイギリス首相となり哲学者でもあるアーサー・バルフォア、医学者・哲学者であるアメリカのウィリアム・ゼームス、バーミンガム大学総長で「電気は線なくしても、またよく通じ得べきもの」と論じ科学者を驚かせた無線電信の原理の発見者オリバー・ロッジ、フランスの哲学者アンリ・べルグソンらが歴代会長をつとめた。 一八八五年にはアメリカに、ついで欧米諸国に心霊研究会が起こった。 一九一二年には、人間の肉体的五官をこえた予知能力、世間でいう第六感とか虫の知らせと言った超感覚的能力を、改めて考えさせられる出来事が起こっている。 海難史上有名なイギリスの客船タイタニック号は、明治四十五年四月十五日未明、ニューヨークに向かって大西洋上を処女航海中、氷山に激突沈没し、一五一三名の生命を海に散らせた。 当時世界一といわれたこの汽船の切符を予約しながら、出航一週間前に切符を払い戻した男がいた。彼が乗船を中止したのは二夜続けてみた夢のせいであった。この船がひっくり返って、そのまわりを旅客や船員たちが必死に泳いでいる夢なのだ。乗船を取り消した時、彼は妻や友人たちに、夢の話を打ちあけていた。一週間後、タイタニック号は出航した。彼の夢そのままに海底のもくずと消え去る運命をたどって――。 アメリカのデューク大学で、J・B・ライン教授らが超心理学研究のため、人間の予知能力などについて、大々的実験を行なうのはこの事件の少し後になる。 明治末年頃から大正期にかけて多くの霊学書が日本に渡って邦訳されている。スウェーデンの科学者であり哲学者でもあるスウェーデンボルグの『天国と地獄』・『天道密意』などの霊界見聞録、『青い鳥』の著者メーテルリンクの『死後は如何』・『万有の神秘』、イギリスのデゼルチスの『心霊学講話』、物理学者オリバー・ロッジの『死後の生存』、エドワード・カーぺンターの『愛の死』、ケンブリッジ大学教授S・M・ワードの『死後の世界』などである。 日本でも社会の矛盾と不安を背景に、既成の諸宗教に対する期待が失われ、自分の魂を深く見つめようとする人たちがいた。神を求め、霊魂を探り、死後の世界の問題をつきつめていって、心霊主義的な方向に傾いていく者も増えていた。 木原鬼仏の娘俊子を研究に度々松江まで足を運んでいた心理学者福来友吉博士が千里眼研究の問題で東大を追われ、この頃日本最初の心霊研究会をつくっていた。 木原鬼仏の『心霊界』を発行している心霊哲学会の支部は、大正七年三月の時点で、東京・長野・京都・熊本の四市、富山・三重・山形・千葉・愛知・岩手・佐賀の七県にあり、投稿者も青森・徳島・大分・沖縄などに及ぶ。また毎号大本記事を連載している『彗星』は、『心霊界』よりさらに多くの読者を持った。 その主宰者である木原や岡田の言動が全国の心霊主義者に与えた影響は計り知れず、特に山陰地方における教勢の発展には先駆的役割を果たしている。 当日は百名ぐらいの人たちが集まって、さしも広壮な木原邸も満員である。 この中には、有名な湯川貫一(四十三歳)の姿もあった。湯川は松江商業学校の国語担任の先生に過ぎないが、作詞に鬼才を発揮した。この学校の校歌も湯川の作詞で、生徒たちに愛唱されたが、わけても彼の名を高からしめたのは、大正天皇の御即位奉祝歌に一等入選したことである。三等入選は八束郡秋鹿村小学校長奥原碧雲で、一、三等を島根で占め、県下には号外まで出た。   天地のむたきはみなき あまつ日つぎの御位に わが大君ののぼります けふ   のみのりのたふとさよ   たりほのいねの大御饌に 白酒くろきをとりそへて 皇御神にささげます お   ほみまつりのかしこさよ   大き正しき君が代の おほみいはひにとつくにの つかはし人もつらなりて    ともにことほぐめでたさよ この歌は小学校・中学校でうたわれ、松江では湯川貫一の名を知らぬ者はないぐらいである。 霊学や皇典古事記の真解についての王仁三郎の講演は、言霊学上より解説された。多くの聴衆はその新解釈の大胆さ突飛さにあっけにとられたが、湯川は深い古典の造詣から荒唐無稽の説でないことを信じた。 村野は信仰雑話を行なった。 終わって午後、鎮魂帰神の実習に入る。村野龍洲が鎮魂の方法を説明し、王仁三郎の審神者によって、希望者が一どきに鎮魂を受けた。 王仁三郎を前に二列の半円陣に並び、型の如く瞑目正座する。ウンと王仁三郎が一言発するや、そこここに発動が起こり、広間は大荒れに荒れた。王仁三郎の激しい霊波をあびて、潜在する副守護押(憑霊)が浮き上がってくるのだ。ほとんどが手を組んで坐ったまま、一尺くらいとびはねた。状態はさまざまながら、大なり小なりみな発動した。首を前後に振り両手で畳をかく者、夢中でしゃべり出す者、這う者、転がる者、どなる者、障子は倒れ、床が下がる。人参方一帯は異様な空気が支配した。鎮魂が終わると同時に騒ぎはぴたりと治まった。 自己の意志の外に自分の体をあやつる存在のあることを、参加者は、もはや誰一人疑うことはできなかった。 三日目の夕方、どしゃ降りの雨となった。広間では王仁三郎に代わって村野や森の審神者で鎮魂が続行されており、騒ぎをよそに別室では王仁三郎と木原、岡田・平木が閑談していた。 激しい雨音に耳を傾けた王仁三郎は、そばの岡田に言った。「そろそろ皆が帰る時刻やのう」「はあ。昼間のうちゃあ天気がよかったから、誰も雨具なんか持てきておらんがね。困りましたなあ」「雨止みを祈願してみよう。雨がやんだら、みな急いで帰るように……」 王仁三郎の言葉は、村野に伝えられる。 鎮魂を中止し、参集者一同に村野は雨止み祈願を発表した。一同耳を澄ますうちに、別室から王仁三郎の神歌を唱える声が流れる。それだけであった。王仁三郎はまた平生のように座談を続けた。 玄関の方で人の帰る気配が騒がしい。気がついて窓外を見れば、軒先からは大雨の止んだ名残りの雫が落ちている。「偶然かも知れんが、偶然にしてはでき過ぎちょるなあ」 岡田が木原に囁いた。王仁三郎は知らぬ顔で喋り続ける。 灯がともり、一時間ほどたった頃、王仁三郎は思い出したように訊いた。「どうじゃ、遠い所の者でも、もう帰んだ頃かのう」 後から座談に加わった奥村が答えた。「そうです、一番遠くの人でも、もう帰んでおる頃でしょう」「うん、そうか。よし」 語尾に力がこもった。 王仁三郎は煙草に火をつける。瞬時、大地に叩きつける豪雨の音、疾風が窓をゆする。座にいる者は、恐いものを見るように、鼻孔を広げて白い煙を吐く王仁三郎の顔を眺めた。この大雨は、翌朝まで続いた。
 一対一の鎮魂などもう昔のこと、金龍殿ではつめかける訪問者、修行者たちを五重、六重に並ばせておいて審神者の浅野和三郎は壇上、四方平蔵・湯浅仁斎らが介添役となっていっぺんにやる。壮観であった。「山口県出身、三十一歳、友清九吾、号は黙山」と名乗り、横柄な態度で鎮魂の列に加わった男が、誰よりも激しく発動した。かかっていたのは天狗霊、しかし鎮魂が終わると、彼は人が変わったようにおとなしくなり、審神者の前に進み出た。「できればこのまま私を大本に奉仕させてくれちゃないですか」 浅野は友清九吾を別室に連れて行き、順序として来歴を聞く。「私の過去を語れと言われますと、つまりは懺悔になる。正直に告白してその結果、こんな乱暴者は迷惑と思うてなら、神の綱がかからなかったものとして、あきらめましょう。どうぞ、はっきり言うて下さい」 彼の話しぶりは、山口なまりが抜け切れぬが、さわやかで人を魅了するものがあった。「私は少年時代病弱で、性格も女性的でした。趣味も文学・哲学、多少は宗教くさいものもかじってみました。世間をのぞくようになると、弱肉強食的社会の仕組みにひどく腹立てて、政治や経済の研究に没頭しはじめましてな。昔は社会を動かすのに刀槍弓箭が解決の鍵を握っていたが、今日の時代では何か。私はそれは言論だと気がついて、演説や新聞雑誌に興味を抱くようになったんです。 興味の変化につれて、体も健康になったし、性格も男性的に変わりました。いや、自分の心身の状態が変化したから興味が変わったのか、どっちがどうとも言えんけどが……」「なるほどね。出口先生は、悪霊を打つのはまことの言霊だと、教えておられますよ」「大正の初めに、私は東京のある雑誌社の編集に関係しちょりました。大正二年の春でしたが、内閣不信任案を提出された第三次桂内閣が、帝国議会を三度も停会したことがあったでしょうが」「激昂した民衆が、政府系の新聞社や警察、交番を襲撃しましたね。あの時は軍隊まで出動して、東京中は大混乱でした」「私は、ある政治的青年団の首謀者と目されて、警視庁の湯池官房主事から茶菓子で体裁のええ抑留をされましたよ。それがぼくの政治的権力に反抗する第一歩でした」「ふん、それで……」「それから奸商等の米価釣り上げの時、奸商征伐と称して回向院や本郷会堂で演説をぶった。警察力が身辺を迫害すればするだけ反抗心ちゅう奴が出て、角袖に尾行される修業も積んだです。 その年の七月、佐々木照山氏と下関市で『六連報』ちゅう日刊新聞を発行したんです。主たる目的は支那問題の解決に尽くすことだったんですが、たまたま下関築港問題が起きました。 下関築港については、明治二十年頃から問題が持ち上がって二十九年には一応の成案ができたんですが、実施の機運が熟せず、そのままになっちょりました。第八代の小林重威市長は明治四十三年秋から三年間その職にあったんですが、その間じゅう築港問題に終始したようなもんじゃなあ。四十四年にも市長は計画案を作ったが、国庫補助の困難に加えて内閣の更迭などで実現せんじゃったです。大正元年十一月の市会に第二案を提出して、やっと可決になった。つまり大正二年度から四年度までの三カ年継続事業として、唐戸湾に商港、竹崎に漁港を建設するちゅうわけですな」「ほう……」「ところが、築港ができると物品問屋筋の営業に支障ができるので、市民の間に反対の声が起こって、市会も両論に分かれたんです。『六連報』も反対して、いよいよ民論の中堅として横暴な官憲どもと力戦する羽目んなると、政府当局からはまるで謀叛人扱いじゃ。 こっちも負けちゃおれん。『六連報』は連日官憲攻撃の記事を満載し、火の出るような演説会を開き、とうとう市会の議決していた築港案を撤回させたんです。市民側でも騒擾罪で投獄されるもんが二十余名、東京の各政党本部からはいずれも数名の視察代議士を派遣してくるし、山口県の警察部は幹部を下関に移して応援巡査数百名を他府県から召集する始末、おまけにその筋では威力と金力に物を言わせて無頼漢数百名を刈り集めて『六連報』社を包囲させるちゅう騒ぎです。 私は主筆というてもまだ二十六歳の青書生、編集内閣は大部分早稲田系統の、それも三十歳未満の若者たちばっかりでしたから、弾圧されればされるほど張り切る。新聞はほとんど毎日のように発売禁止になってしもうた。新聞紙法違反、侮辱罪、騒擾罪で連日起訴されるんで、どの事件がどうなっちょるんやらごっちゃになって分からんぐあいです。しまいにゃあ一人の記者を法律事件係に専任させました」「なかなかやりますな」「そうでしょう。『六連報』の奮闘は地方民の一大驚異じゃったと見えましてな、今までサーべルの威力で泣き寝入りしちょった地方の諸問題が急に復活して、次々と解決を頼みに来るようになりました。そうなるとこちらは文明的幡随院気取りで、地方へ出張っては警察攻撃の火の手をあげる。筆であばく。山口と福岡の警察界からは、親の仇のように恨まれましたです」「……」「奴らは、このままでは官憲の威信に関するというんで、私どもに罠をしかけたんです。特に犠牲となる警官をこしらえて一芝居打ったりで、十分用意はしていましたが、それでも何度も法廷に引っぱり出されました。口惜しかったのは、行きつけの料理屋で騒ぎ回っている時、無銭飲食だとでっち上げられたことでした。山口県警務長の命令で、料理屋には手が回っていたんです」「彼らのやりそうなことだ」と、浅野が憤然と言う。「それから、届書の手続きを怠って、新聞紙法違反でやられました。 もう一つ、下関弁天座の演説会が終わって帰る時、腕車(人力車)の上のぼくに、聴衆が黒山のように寄せてきて万歳を浴びせよる。ただ万歳を叫んでるだけじゃのに、武装した沢山の巡査がかけつけて無茶に押しのけよるんです。私は側に居た下関署司法警部にくってかかって、腹が立って、俥上から『ばかやろう』と大喝した。これが官吏侮辱罪で科料十五円。じゃから私は、前科三犯ちゅうことになっとるです。 後の二つの事件はともかくも、無銭飲食罪だけは心外に耐えんので、大正二年十一月何日かの『六連報』へ《吾輩の前科及後禍、友清黙山》と題して全紙面を埋め、官憲の横暴、司法権独立の危機を絶叫しましたが、要するに筆墨で鬱憤を晴らしただけのことじゃった。いかに無実の罪に泣く者が多いかちゅうことを、私は身をもって知ったんです」「まさにお筆先にある末法の世、強いもの勝ちの世、餓鬼と鬼との世だねえ」「そうです。だから筆先の一言一句が腹にしみましたよ。大正二年十一月十八日から、私は予戒令を執行されました。角袖の尾行には慣れちょりましたが、これ以後、制服巡査が二人ずつ随行して全くの大臣待遇でな。時には煙草を買いにやらしたりの便利もあったけど、銭湯へ行くにも尾いてくるのにゃ閉口でした」「ははは……」「大正三年の二月かにこの蛮法の予戒令は撤回されたんで、私が最後の予戒令を受けたんじゃないかなあ。この頃から、裁判所の方でもいろいろな事実を発見したんでしょう、警察の報告が信用できんことを悟って主に憲兵隊の報告を採用するようになったんで、私どもは大いに活動しやすくなったんです。そのために下関署長が続けて二人までクビになったほどです。 その年の春から夏へとだんだん生活が常識的になりましたが、それでも太田海軍大佐と海軍革正の演説をやり、九州から中国、京阪地方、山陰道は城崎へも来ました。 大正四年春の総選挙に同志佐々木照山氏を当選させると同時に彼と不和になり、私は血涙をのんで『六連報』を退社しました。その夏には、六連報社は発行を中止したちゅうことです。 私はそれから肥後の山中、炭焼き小屋で、兵法と易の研究を始めました。民衆を離れて個人の殻にこもる。全然逆の人生に踏みこんだわけですが、鳥獣の声相手の黙念の生活もまんざらでもなかったもんです。 大正五年六月には山を下り、支那問題に奔走しちょった水野秀君と二人で東亜協会なるものを起こし、また門司では雑誌『東亜評論』を発行しました。 去年春の総選挙にはある友達を助け、たまたまかつての同志佐々木照山氏とほとんど地盤を同じにして接戦することになり、両方共倒れになったんです。この時の全国の開票結果を見て現代の政治心理に疑問を感じて、全く政治を断念してしまいました」「授業料は高かったが、いい勉強をしたわけだ」「そうでしょうね。それからは東亜の安定・日本国の運命は神仏の冥助によるほかはないと思い、参考になりそうなもんを手当たり次第に読んだり、いろんな人を訪問したりしました。弘法大師の十住心論を読んで真言密教に及ぶものなしと思い、密教を調べて行くうち、密教は教相だけを調べても事相を研修せんにゃあ無意味じゃと知って心あたりを訪ねたり、近頃流行のいろいろな霊術を一通りやってみましたが、結局はみな失望です。 低級な、むしろばかげきったものばかりで、愛想つかして高野山へ行きましたが、教相の学者はいても事相のできる者はおらん。京都から醍醐あたりの密僧も訪ねましたが、いずれも飯食い坊主ばかりで、とうとう大和の山中である高僧に師事しました。 ある日、大峰颪の吹雪に吹かれて大師堂で黙座していると、一種の霊感にうたれて、急に綾部へ来てみたくなったんです。それが今、私がここに坐っている経緯です」「そういうことでしたか」「私は、常に弱者の味方として奮闘してきた自分の経歴が、何より自慢でした。でも今ここで先生の鎮魂を受けているうち、一人で強がっていた何かが抜けていった感じがして、何だか急に過去の一つ一つに冷汗をかく思いです。浅野先生、どうぞぼくを大本の立替え立直し軍の一兵卒に加えて下さい」 浅野の前に膝を揃える友清は、髪の毛の少し縮れた神経質そうな細面の長身の男。この男がそんな過去を持っていると聞かされても、鎮魂前の肩をそびやかしたふうな態度を見ていなければ、信じられなかったろう。 多忙な浅野が、友清の静かな物言いにひきこまれて、最後まで聞いてしまった。この男なら使えると、浅野は惚れこんだ。大本に必要なのは、どんな権力にでも抵抗できる反骨精神なのだ。『神霊界』にも筆の立つ男がぜひ欲しい。「その前に教主さんに紹介しましょう。ちょうど山陰宣教から帰られたばかりです」 浅野は友清九吾を王仁三郎の前に連れて行き、自分でもおかしいほど肩入れのした紹介をした。「そうか、そうか」 王仁三郎は聞くだけ聞いて、あとは当たりさわりのない雑談に移っていった。 部屋を辞するまで、王仁三郎は友清に特別の言葉をかけなかった。友清の顔に期待はずれの色が浮かぶのも無理はないと、浅野は思った。 二人が去ってから、王仁三郎は大儀そうに横になった。 ――来る者は拒まず、去る者は追わず、これがわしの方針やから仕方がないが……わしは大将志願はいらん、兵隊がほしいのや。浅野も大将、岸一太も大将、福島久も大将、そして友清もまた大将志願か。おまけにあいつは由井正雪や。やれやれ、どうなるかのう。
 三月の中頃から、いつにもないことに、澄は疲れてすぐ横になった。けれど寝ることも一種の行であった。ちょっとどっちか向くと、腹の中に石を抱いているようにゴロンと動く。大きく突き出た腹で体を支える形になるので、横になることもできない。両脇を枕や蒲団で支えねばならなかった。妊娠がこれほど辛いものとは思わなかった。「教祖さんはわたしが八人も子を産むと言うてじゃが、こんなにしんどい思いをもういっぺんするのではかなわん。いっそ双児でも産まれたら、埒があいてよいのに……」 澄は湯浅小久らにぼやいた。 春の大祭(四月三日)の前夜から、澄は張り切っていた。「今日は女の節句や。よし、今日産んでやろ」 この地方では、「四月三日」といって四月三日が女の節句とされ、この日に産まれた女の子は幸福な生涯を送るといわれる。 朝食後間もなく陣痛になり、急いで産婆が呼ばれた。直は金龍殿の神前に坐って安産祈願をしていた。今度の出産は心配らしく、その祈願は長かった。 そこへ王仁三郎が昂奮した高声で報告にきた。「教祖さん、とうとう生まれました。ちょうど正午です」「元気ですか」 振り返って、直は祈るように王仁三郎の答えを待った。 はずんだ息を整えて、王仁三郎は誇らしげだ。「母子ともに元気です」「どちらやいな」「それが分かりまへんか? 男、今度こそ男ができましたで」 直は意外そうな顔になったが、すぐ嬉しげに、「そらよかったなあ」「それに女も産まれました」 直は厳しい顔になり、「先生、お産は女の大役です。冗談もほどほどにしとくれなはれ。ほんまはどっちです」「ほんまや。男も女も両方産まれたんや」「双児……そらめでたいことや。はよう顔みたいさかい、神さまのお礼は後でさせてもらいます」 相好をくずして、直は産室ヘ急いだ。澄は色つやのよい顔で母を迎えた。「双児やなんて、ほんまにびっくりするわな。やっと産んだと思たら、産婆さんが言うてでっしゃろ。『もうひと気ばりしとくれやす』、『へえ?……』、『お腹の中にもう一人入っとってんや』、『そうかいな、ほんならもうひと気ばりしてみますわ』……気ばりついでに気ばったら、男の子と女の子とは、まあなあ……」 産後すぐとは思えぬ快活な澄のおしゃべりをたしなめながら、直はいとおしげに男女の孫を眺めた。双児とは言いながら、さほど似ているとは思えなかった。 この日、折りよく高砂支部から相生の松が献木された。一本の幹の根元から二つに分かれて、雄松と雌松が生えていた。王仁三郎は双児の誕生記念に、相生の松を金龍海正面に植樹し、男の子の名を相生とつけた。スケナリと呼ぶのが本当だが、アイオイが通称になった。女の子は八人の予定数に達したので、澄が八番目の子で「すみ」とつけられたように、すみの二字を含めて住の江と名づけた。
 双児出生の報は春の大祭に集まった信者たちに口から口へと伝わり、喜びに沸き立った。 八木から参拝していた福島夫婦は、星田悦子から聞かされた。星田は、息をはずませて報告する。「春の大祭当日、尉と姥の型を出してめでたいと、先生が喜んでなさいました。それにちょうどその日、不思議に高砂から相生の松が届きましてなあ」「ほう、それはおめでたい。すぐお祝いに行こけい」 福島寅之助が人のよい顔をほころばせると、久は焦らだった。「ふん、あほらしい。双児でもたいていは男ばかりか女ばかりが産まれるものや。男と女の双児が生まれると、昔から畜生腹と言うたもんじゃわな。先生がいつまでも改心できんさかい、そんなお気づけがあったんじゃろ。大本の中に何か不吉なことが起こるかも知れんでよ」 久の言葉もまた参拝者の中にひそひそと伝わり、一部に不安な気持を与えた。 教祖出口直は生神として尊崇せぬ者はなかったが、王仁三郎を批判する声は、大本内部でも伝統的と言ってよいぐらい強かった。直が筆先によって「天のみろくさま」と認めても、王仁三郎の奔放自在な言動に顰蹙する者は多く、王仁三郎批判の受け入れられる素地は十分にあった。 久は大正七年に入ってからしきりに筆先を書き始めるようになっており、また家庭をかえりみず精力的に地方宣教ヘととび回っていた。久の一身を忘れた行動と、その神がかり的な説話はかなり信者を魅了し、久を日の出神のかかる肉体と信ずる者は増えていた。
 相生・住の江が生まれて間もなく、直のたっての願いで、直日は武術修業を中止して京都から引き揚げてきた。直日を綾部に呼び戻したのは、単に肉親の情ばかりではなかったらしい。梅田信之夫妻と妾のあいに送られて不服げに戻ってきた直日に、直は姿勢を改めて言った。「直日さん、お前には大事な御用をしてもらわねばならぬでのう。これからは直日さんも御神号を書くようにと、神さまがおっしゃるさかい……」「わたしにはそんなこわいことはできません」 真剣に拒む孫に、直は諄々と説きさとした。「わたしもお筆先を書くように神さまに言われた時、一字も知らんわたしに、神さんもあんまりやと思うた。さんざ御辞退申したらなあ、『この方が書かすのであるから、我を捨てて素直に筆を執って下され』と言いなさる。それで持つだけならと筆を執ったら、これまでたくさんのお筆先を書かしていただいた。神さまの申されたことはなんでも素直にさしていただくのが一番じゃでよ」 その言葉が心にしみたのか、直日は逆らわず、祖母の傍でおひねりの御用をすることになった。 直日を送り届けた梅田信之とあいは教主室で楽しげに王仁三郎と談笑していたが、安子はちょっと挨拶しただけで、澄の部屋に出産祝いに行った。 住の江に乳を含ませながら、澄は直日が二年半も世話になった礼を述べた。安子が知った頃の澄は新婚早々で痛々しいほど痩せていたが、今見る澄の胸のあたりは産後の衰えも見せずつややかに脂肪がついている。目立って太ったようであった。 横に寝かされている相生の小さな額にぺったり墨が塗りつけてあった。「あれ、なんのお呪いどす」 不審に思って問うと、澄は答えた。「乳飲んだしるしやな」「へえ、なんでどす」「うちは一人の子でも育てるのがやっとやのに、一遍に二人もできたやろ。すぐまごつくんやな。一人におっぱい飲まして、ヤレほっとすると、急に用事を思いついたりしてなあ、さて、もう一人に乳をやらんならんと思うても、どっちに飲ませたか思い出せへん。それで間違えんように、先に飲ました子に墨をつけとくんやな」 よい思いつきと言わんばかりの澄に、安子は吹き出した。 相生はお公家さんのように整った目鼻立ちで、住の江はあまり器量がよくなかった。双児とはいえ間違えるほど似ているわけではない。それにどうせ印をつけるなら、公家眉のようにぽっちり可愛くつければよいのに。 寝ぼけた澄が赤ん坊の直日を逆さに抱いて乳を飲まそうとした有名な話を思い出して、安子はよけいおかしかった。「なにが面白いんや」「いいえ、羨ましいんどす、あては……」 笑い納めて、安子は心から言った。貧苦のどん底に生まれ、幼い時から父母と離れて他人の飯で育った澄は、ちっちゃくいじけ、ひねこびていてもよかった。結婚してからも夫と母の霊的葛藤や夫と役員間の軋轢に絶え間なくはさまれて、苦しんできた。これほど教団が発展してさえ、出口家の内実は貧しくて、未だにこっそり質屋通いしていることを、安子は知っている。 王仁三郎は神業一筋で、家庭のことはすべて澄が任されていた。と言っても、澄は賢母とは言えない。子供の教育は殊に苦手らしく、「子供は放任主義でのびのび育てるがいい」と言う夫の持論をよいことに、まったく野放しであった。 九歳の八重野が腹痛で食事を止められていた時、空腹のあまり生のさつま芋をかじった。どうしたわけか、それきり腹痛も下痢も治った。「お母さん、生のさつま芋は腹痛によう効くで」と八重野が言う。「そうかい、そら妙なことやなあ」と澄が応じる。「それからは、腹痛の薬はさつま芋と、八重野はんは信じこんどってや」と中村こまがあきれて、安子に語ったことがある。 子供たちが学校でどんな成績をとっても、「ようできたなあ。あまり気張って勉強せいでよいでよ」と言った調子。級でも最高の成績だった梅野も、張り合いがなくなって次第にどうでもよくなってくる。雨だから、雪だからと、学校をずる休みして遊んでいても、誰一人怒ろうともしない。「ゴンタせーよ、よう遊べよ」と、これも王仁三郎の口ぐせだし……。もっとも学校軽視は澄ばかりではなく、大本の役員信者たちに共通する傾向であった。 それでも、澄を頼って、個人的な悩み事や相談まで持ちかける信者たちは多い。例えば亭主の浮気にしめついた愚痴を並べたてるのへ、「いっぺん、パーンとド頭張り倒してやってみい、あんた、すっきりするで」とこうだ。安子から見ればまことに無造作とも乱暴ともとれる解答を与えるが、それで結構みな希望の道を見つけ出すらしい。安子自身も、澄のこだわりのない笑顔で、どれほど陰気な胸を慰められたか知れない。王仁三郎があれだけ奔放な活躍ができるのも、背後にどっしりと、おおらかな澄がひかえていればこそであろう。 澄は苦労の善い面ばかり身につけて、悪い面はきれいに選り分けて捨て去る特殊な術を知っているのであろうか。茨の人生を踏み越えて来て貧しさへの深い同情と激しい正義感を身につけながら、生来の天真爛漫さを少しも失わないのを、安子は奇蹟にさえ思えるのだった。 澄と世間話に興じていると、福島久が入ってきた。挨拶もそこそこに、久は高飛車な物言いで迫る。「お澄さん、わたしが日の出神の肉宮じゃということ、分かってくれちゃったかい」「分かってますがな。もう耳がたこになるほど、聞かしてもろてますわな」 迷惑げに、澄は答えた。「あんたが分かっていると言うのは、口先だけじゃろ。へぐれ(変化)のへぐれのヘぐれ武者、義理天上日の出大神がこの福島久じゃということ、ぐんと腹の底から悟らねば、ものごとはおそくなるばかり……、さあ、この日の出神が、さる昔からの因縁を解いて聞かせる……」 久は目を吊って坐り込む。 昨年の暮れの神がかり以来、久はしきりに綾部に来て、自分が日の出神の生き宮であることを認めさせようとした。それはもう執念であろうか、朝であろうが夜中であろうが、寝ている直を起こして必死で叫ぶ。「教祖さま、福島久こそ義理天上日の出神じゃと認めておくれなはれ。そうでないと、いつまでたっても、みろくの世は参りまへん」「そなたには悪霊がついておる。大本の仕組を狙う悪霊にだまされているのじゃ」 蒲団の上に起き直り、直は強く叱咤する。ふだんは母には口ごたえ一つせぬ久が、血相変えて言いつのる。異様な妖気が久のまわりにたちこめているのだ。直と一緒に寝ている梅野は、怯えて澄の床へ逃げこんでくる。この頃では子供たちは伯母久を恐れ、姿さえ見ればわっと逃げ散るほどであった。 王仁三郎の所へも、久は筆先を持って、押しかける。どんな来客があろうと、おかまいなしである。「こら、また来やがった」 顔を見るなり王仁三郎は罵倒するが、久は平気である。「さあさあ、こんな日の出神さまの筆先が出ましたさかい、いただいておくれなはれ」 王仁三郎はぱらぱらと目を通し、ぽんと投げ出す。「なんや、こんなもの書きやがって」 面白いはずがない。みな王仁三郎の悪口であり、改心を求めることばかりである。久は畳を叩く。「なんちゅう罰当たりな。わたしが書いたのではござヘん。日の出大神が書かせなさるのじゃ。それではまだまだ改心できん」「うるさい、出て行け」「よろしいか、変性男子さまの筆先と変性女子さまの筆先とこの日の出神の筆先がきちりと合わぬことには、世界の統一ということは、いつになりてもでけはいたしませんぞや。変性女子の肉体に世の元からの因縁が胴身にしみこんだ暁でないと、世の開きかけはできぬ。先生の改心は世界の改心、さあ、改心するか、どうじゃ、どうじゃ」 にじり寄って荒い息を吹きかけ、王仁三郎の胸倉につかみかかる。久の着物の裾を握るなり、王仁三郎は凄い勢いで部屋の中を二、三度ひきずり回し、廊下へ投げ出す。こうなれば両者神がかり的で、誰が止めても止まらない。 これだけひどい目にあわされたら来んでもよいのにと誰しもが思うのだが、久は懲りずに何度でもやってきては繰り返した。 その点、澄は、肉親の姉を悪霊憑きと即断することはできなかった。自分よりはるかに信仰熱心で、ひたむきで、親おもいで、まじめな働き者の久姉。幼い頃、誰よりもやさしく母や澄を守ってくれた八木の姉夫婦の人柄を、澄は信じる。 だから澄は、不安であった。母と夫の戦いの型がやれすんだと思えば、今度は夫と姉、どちらかを悪神と決めつけねばならぬなど、もうごめんである。 澄と安子が糸をつむいでいるところへ、久は乗りこんできて、煩わしげに持病の鼻を鳴らしながら、はや、神がかり口調であった。「そうじゃ、お安さんもよう聞きや。福島久が今こそ説いて聞かせる、日の出神の因縁を……」「姉さん、もうそれは聞きましたわな」「聞いて分からな、分かるまで説いてきかせる。今に清吉が肉体を持って外国から帰ると申しておるような、盲つんぼが何千人集まりておりても、何の役にも立ちはいたさぬ。国の米食う蛆虫じゃ。よいか、綾部が日本なら八木は外国、外国の型ですで。八木という字を一つに合わせば、米国の米の字になる」「こめって、どんな字書くんやいな」 澄が安子に聞く。安子はしなやかな指先で畳に米の字を書いて説明する。満足そうにそれを眺め、久は一膝進める。「どうじゃ、ぐんと納得がいきまっしゃろ。『直よ、唐へ行ってくれい』と神さまに言われて明治二十七年に旅立ちなされた教祖さまは、八木で一月滞在遊ばされて、京都まで行きなさると『もうよいから帰れ』と神さまに言われて引き返しなされた。八木で滞在なされたら、それでもうよい。ちゃんと外国へ行く型を果たされたのじゃという、深い意味を悟って下されよ。 日の出神が外国から手柄を立てて帰ってくるというお示しは、蛆虫どもがなんぼ頭をひねっても分かりはせん。福島久はお米姉さんの龍宮の乙姫のかかる生き宮、そして佐田子姫、元の名は常世姫の霊の宿りておる肉体、その肉宮にわが弟出口清吉がかかったのじゃ。『龍宮の乙姫が日の出神とひきそうて』の筆先の謎が解けようがな。『外国から手柄を立てて帰ってくる』というのは、八木の福島久がみろく神業にあっぱれ大手柄を立て綾の聖地ヘ戻ること、さあ、このお仕組が分からぬか」 八木が外国の型であるというのは、久の新説ではなく、直の筆先にも示されていた。日の出神は変化れに変化れるというのも、久の行動にふさわしく思えてくる。飯森海軍中佐と結んで全国宣教に歩きまわり海軍軍人に大本の存在を知らせたのも、横須賀で浅野和三郎に入信の機縁を作ったのも、久の功績が大きい。彼らの入信が、急激に大本を発展させる一因となったことも否定できない。 支離滅裂のようでありながら、妙に説得力のある熱弁、身命を賭した活動、熱誠あふれる言動は、敵もつくる反面、情熱的に信奉する人も少なくない。今後も、勢いにのって因縁の人をどれほど導き、どんな大手柄をするか知れなかった。安子もうなずきながら聞いている。久の雄弁は、つのる。「昔々のさる昔、まだも昔のその昔、この世の元を編み出し下された生粋の神、国常立尊さまを世に落とした神が天照彦命と申して、天の規則を破ったり破らしたりした悪の大統領、この世を持ち荒らした神じゃ。こんなことをわが口から申しとうはないなれど、それが二代の婿の王仁三郎、変性女子にかかりておる霊魂の性来やでよ」「……」「稚姫君尊さまのお育て遊ばした八人のお子の名は、男神では義理天上・現世では出口清吉、青森白木上命・現世では出口竹蔵、天地尋常命・現世では大槻伝吉。女神では常世姫命・現世では福島久、金龍姫命・現世では出口澄、大足姫命・現世では大槻米、金山姫命・現世では出口龍、琴女姫命・現世では栗山琴。金龍姫命は元は金勝要神と申して、親神さまが天地をお開き遊ばした折りに大変な大働きをなされた大地の神でありて、あまり働きが立派だから、天から金龍姫というお名前をいただいた神であるぞえ」「ふうん、うちの霊魂の因縁ちゅうたら、どえらいもんじゃなあ」「ついでに言えば、金龍姫の姉神の常世姫は、元は佐田子姫と申して、この世一切何一つ知らぬと言うことはならぬお役目、女ながらに男勝りの大の活動家でありたから、常世姫と天からお名前が下りたのであるぞえ」「それが姉さんの因縁……」「そう、そこが大事じゃぞえ。さて、天照彦命はえらく女を好む神でありて、天のお許しがないうちに、稚姫君尊さまの五人の姫神の中でも一番美人神の金龍姫をだまして抱きこみ、天の規則破りをいたしたのじゃ」「そこが姉さん、分からんのやな。変性男子と変性女子は大本の機の仕組にとって、なくてはならぬ人やろ。その肝心の変性女子の肉体に、世の元の乱れを作った天照彦命がかかるなんて、なんでそれを大神さまがお許しなさるのやろ」 澄が心に湧いた疑問を口に出すと、久は得たりと、「そこそこ、よう訊きなはった。敵の神を敵ともなさらず、変性女子の肉体をお使い遊ばして和光同塵策をおとらしなされて、罪人の罪をお除り遊ばし、良きことさしてやりて良き名前を残さしてやろうとの大神さまの深い深い思し召し。かたじけなや、稚姫君尊さまは、天照彦命の天の規則破りの罪を身に受け地に落ちなされてござるのに、そのことが分からなならぬ肝心の肉体が分からぬ故に事がおくれて世界中のこの混乱、罪なき者まで泥水飲まねばならぬことになろうぞや」「……そんなこと言うちゃっても、わたしは知らんで」「知らんとは言わさん。『出口の神と日の出神とが、三千世界の元になるのざぞよ。出口澄と上田どのが、かわりをいたさすぞよ。お世継と相定まりたぞよ』と筆先に出て神さまからお許しが出とるのに、結婚の日まで待ち切れず、天照彦は金龍姫の肉体に手をつけた」「あれ、姉さん、なんで知っとってん」 澄は思わず口にして、はっとなった。安子が愕然とした顔になる。 久はいやらしくにたりと笑う。「やはりそうかいな。この方の神さまは、何でもお見通しじゃぞえ。霊魂の因縁とは恐ろしいもの、神代で犯した過ちを現界でもまた犯す。そのためのこの世の乱れ、ああ、情けなや」「そんなこと言うちゃったかて……」「それはまあ、この日の出神が見て見ぬふり。しかしなあ、二代の夫婦が、世の元のでき上がりから、天の規則の破れたことから、どの神の霊統がどうであるかということまで、何一つ知らぬことのないようにならぬと、あまりにも大きな間違いがでける。世の替わり目であるから、猫に追われた鼠のような気の毒な目にあわねばならぬでよ。それを見ておるのがつらさに、どんなにいやがられようが謗られようが、この日の出神の肉宮が説いて聞かせるのが分からぬかい」 久は涙さえ浮かベ、二代夫婦の行く末を案じる真情をみなぎらせる。「稚姫君尊さまと八人のお子、この九人の神さまは大国常立尊さまの差し添えとなりて働いた大和魂の生粋であるから、叩きつぶしてもつぶれはいたさず、火に焼いても焼けはいたさぬ強い霊魂であるから、親神さまが世に落ち遊ばす折に共に落とされてありたなれど、親神さまが世に現われなさる御時節が来て、共に世に出て、ありがたや末代しおれぬ生き花が咲く時節がめぐり来た。けれど現実はまだまだ……。 この大本をずれっと眺め回して見なはれ。今はまだ天照彦命の系統が主に集めてあるさかい、みな濡れ手で粟をつかむように思うておる者、都合よくば勤めもするが都合悪くば帰るというような水くさい者ばかりであるから、ちっとも気許しはできんぞえ」「……」「大本が盛んになるほど敵が多うなる。大本の仕組は、敵を滅ぼすようなちっぽけな仕組はしてござらん。その敵をも喜び従わせる仕組であるから、いよいよとなれば敵ほど味方になりて三千世界が統一いたすのである。そのためには、まず二代夫婦の改心改心……」 たまりかねて、澄は言い返した。「それでも姉さん、姉さんはわたしたち夫婦がこの世の乱れの元やなんて悪う言うてじゃが、先生から見れば姉さんにかかる霊こそ、この世の乱れの元の金毛九尾、悪の系統や。わたしみたいな阿呆には、わけが分からん。どっちを信じたらよいのやいな」 高らかに、唄うように、久は言った。「たとえて申せば、善悪は陰陽のようなものでござる。悪の働きによりて善が尊く、陰ありて陽が尊い。『悪のおん働きも御苦労さまでありましたと申して、皆ひとところに寄りて大笑いいたすのざ』と教祖さまの筆先にあるが、善じゃ悪じゃというような時期は早うすまさなならぬ。それには天照彦の改心、改心、改心第一……」 久が去ってからも、毒気にあてられたように、澄と安子は動かなかった。 ややあって、澄は大きな溜息をついた。「正直なこと言うとなあ、お安さん、八木の話を聞く度に、だんだん本当のことに思えてくるのじゃが……」 安子はうつむいた。安子もまた、王仁三郎と久のどちらの言い分が正しいか、判断に迷うのだ。ただ教祖さまだけはどんなことがあっても信じきれる。それさえあれば、他のことはそんなに苦にならぬ。それが安子の救いであった。「お安さん、覚えとってよ……わたしはなあ……」 強い目で安子を見て、澄は一語一語宣言した。「もし先生がこの世の乱れの悪神の元なら、それがはっきり見きわめついた時は、お安さん、よう覚えとってよ。わたしはこの手で先生を刺し殺して、わたしも死んじゃる」 澄の唇は小さく青ざめ、涙の惨む目尻が裂けるばかりに吊り上がっている。「なにをお言いやす。いけまへん。先生と二代さんがそんなことになったら……」「後には水晶の霊魂、三代直日と大二がおるわな」 乳呑児に目をやる澄の頬には、もうゆったりと笑みがもどっていた。
 澄の部屋を辞して、安子は教主室へ行く。梅田とあいはまだ王仁三郎と談笑中で、部屋の外まで明るい声が洩れていた。こだわりなくその空気の中にとけこむ気になれなかった。安子は廊下をとって返して庭に下りる。 金龍海には、十番の鴛鴦が仲良く群れ遊んでいた。この鴛鴦は今年の一月十五日に信者が寄付して放したものだとか。片時も離れまいとするように、夫婦は同じ方向に寄り添って泳いでいる。信之と安子というより、信之とあいの姿の方にあの鴛鴦は似ていると、安子は思った。 ふと山上花代の顔が見たくなった。心ひそかに妾を憎む本妻が、ひとの妾の家に遊びに行く。おかしな話だが、なんとなく気が合うのだから仕方がない。 黒門を出て、金龍餅屋の手前の路地を西へ曲がると、花代の間借りしているこんにゃく屋である。花代は、喜んで安子を二階へ招じ入れた。 なんとなくお茶屋の一室を感じさせる色っぽい部屋で、道具はみな新しい。床の間には三味線が立てかけられ、壁には男物の着物がぶら下がっている。小机には読みさしの『神霊界』が開いたままだ。 長火鉢に向かい合って坐ると、安子はまず訊いてみた。「どうどす、お筆先読んで大本の神さん信じる気におなりやしたか」「それがさっぱり……」 花代は首を横に振った。四十を越しているはずなのに、白粉けのない花代の細面はまだ衰えず、ちょっと険のある美人である。 長煙管に刻みをつめて安子に渡し、自分も別の煙管をくわえた。「何がありがたいねやろ。森が尊敬してはる教主さんにしても、あれでどこが偉いねやろ。こないだなあ、教主さんが縁先からわてを呼ばはるさかい、傍ヘ行って見たんだっせ。そしたら『かゆうてかなん。髪を梳いてくれ』だっしゃろ。いやとも言えんさかい、あのもじゃもじゃ髪を梳いたげたら、新聞紙の上に虱がパラパラや。なんちゅう汚い男かいな。おしゃれな森が、なんであんな人に夢中になんねやろ……」「先生は大化物どすさかい、あてかて偉いのやらどうやら、さっぱり見当とれしまへん。けれど大神(出口直)さまは別どす」「生神さん言わはりまんのやろ。わても一度だけ、遠くから見ましたで。何やしらん恐い感じで、そうありがたいとは思いまへん。どうせ、鰯の頭も信心からの口だっしゃろ」「そんな……大神さまの御日常を拝ましてもらえば、誰だって生神さまやと思います」 花代は白い煙を安子に吐きつけ、はすっぱに声を上げて笑った。「わても、お安さんみたいに、早うありがたがってみたいわ。なんでわてはこんな綾部みたいな田舎でぼやぼやしてんねんやろと、ときどき阿呆らしいて……」「そんなこというて、森さんに怒られしまへんどすか」「そんなこと、けぶりにも見せますかいな。『お花はかちかちの信者や。可愛いやっちゃ。綾部へ来てから、朝の金龍殿のお礼も欠かしたことない。おまさなんぞめったにお参りもせえへんのに。お花が朝起きして、神さん拝んでいじらしくお筆先を写しとるとこ、おまさに見せてやりたい』と、こうわてばっかりほめてくれはりまんねん。ほんまはお筆先なんかさっぱり分かれへんねん。退屈しのぎだす。言うたらあきまへんで」 花代は赤い舌をちろりと出した。まさの立場にこそ、もっと同情してやってよい安子なのに、そんな花代の悪たれが不快でなかった。幸福そうな本妻を見ると、無意識のうちに妬み心が働くのか。あても業の深い女やと、安子は思う。 花代は、森の噂に移った。「わてと森とどっちがやきもち妬きやと思わはりまっか、お安さん」「さあ、そら、お花はんの方が気がもめまっしゃろ……」「わても妬きます。でも森はわて以上や。外から帰ってきはったら、部屋の中を見回して『この灰皿の吸殻は誰のや。この湯呑みは誰が呑んだ』で先ず一騒ぎ……」 半分はのろけと知りつつ、豪放で思い切りのよい森の意外な半面に安子は驚いた。 花柳界の生活が長いだけに、興が乗ると、安子が赤くなるようなきわどいことまで花代は喋る。「こないだなあ、おもしろいことがおましてん。朝鮮時代のわての旦那はんがなあ、手紙よこしはったんだす。『京都まで来たから久しぶりで会いたい、嵯峨のある料亭で待っている』というんだす。嫌いで別れたん違うよってに、綾部の生活もくさくさするさかい、一遍羽根のばしとうなって、森に『やっとくなはれ』とせがんだんだす。けどあのやきもち妬き、すんなり聞いてくれはらしまへんねん。わて、半日すねてやったら、森は二つの条件つきでやっと承知してくれはった。一つは帰宅する時間のこと。あと一つが何や思いなはる」「そうやなあ、浮気せんと約束すること……」「お安さん、そんな口約束ぐらいであきますかいな」 花代は生き生きした口ぶりでしゃべりだした。「森は自分で猿股を買うてきはったんだす。わてにはかすためにだっせ。わてらは小さい時から腰巻一つや。猿股なんて初めてはいたさかい、その気色わるいこと。 森は真剣になって、猿股の上を紐でぐるぐるくくって、手のこんだ変な結び目を作るんだす。『この紐は神かけて、絶対にほどいたらいかん。紐のくくり目は、わししか知らんのやさかい、もし帰って来て紐の結び目が違てたら絶対に許さんで』とこうだっしゃろ。貞操紐をつけたまんまで、嵯峨まで会いに行きました。 あこまで汽車で二時間近くかかりまっしゃろ。昔なじみや、なつかしい思い出話が出る。積もる話のあれこれに、お酒も重なる。久し振りの御馳走で舌鼓は打たんならん。入れるものは入れたし、時間はたったしで、今度は出す番や。 その時になって、気いついたんだす。出す方のこと、すっかり忘れてましてん。あほやなあ。初めは我慢してましてんけど、我慢にも限度がおまっさかい。とうとうやけくそで、憚りに行って猿股の上からしてしもたんだす。 もうべとべとで、気色悪うて辛抱できるもんやおまへん。仲居さんから乾いた手拭借りて、猿股にあてては何遍もしぼりとりましてん。『どうしたんやお花、顔色が悪いで。ちょっと横になるか』と手を引く旦那を振り切って、とんで汽車に乗りました。もう早う脱がしてもらいとうて、森が恋しいて……。 綾部まで帰ってくるなり、前を広げてなあ、威張って言うてやりましてん。『この通り、見とくなはれ、旦那はん』その時の小気味良かったこと。『お花、えらかった、えらかった……』森は涙を流して喜んで、紐をほどいてくれましてん。わては、そんな森が、やっぱり好きだんねん」 安子は笑い転げながら、こぼれる涙に気づいた。四十を過ぎてもこれだけの情熱をそそぎ合える男女の仲を、ふと美しいと思った。自分には生涯与えられぬことだけれど。
「ようし、今度こそ迷いは断ち切るぞ。神さま、力をお与え下さい」 千々に砕ける胸をそらして、森は落日に叫んだ。追いつめられ、逃げるようにして、この本宮山へ駈け登ってきたのだ。男一匹、何というざまであろう。意気に感ずれば死をも恐れぬ勇者のつもりが、その泣き所は女、不惑の年を越してから知った花代には、特に弱かった。 信仰に一生を捧げる決意で綾部へ移住した時、信仰人としての自覚から、いったんは離別した妻子を引き寄せ、自分をよき父、よき夫たらんとした。もっとも花代と別れることだけは意識さえしなかったが。 それがいつのまにか、花代と暮らす時間の方が長くなった。いや、まったくこんにゃく屋の二階に入り浸って帰らず、小さい子供に呼びに来られて、十日にいっぺんくらい気まずく戻るといった風に――。 今日、二代さんに呼びつけられた。何事かと龍門館に急いでみれば、澄の横に、まさが小さくなってうつむいている。ふだんは大本へ参拝にも来ぬくせに、かなわぬ時の神頼みで、澄に直訴に及んだのであろう。 丸出しの和歌山弁で何を訴えたのか、澄の頬は紅潮し、凄い目で森を射すくめた。「こんな良い奥さんを泣かして、子を捨てて、それであんたは大本の教監かいな。神さんの前へ出て、恥ずかしゅうはないかっ」 その叱咤で龍門館は家鳴り震動せんばかり。澄の体が三倍ほどの大きさになって迫ってくる。胆っ玉の太いつもりの森が、畳にうつ伏したなりがたがたと胴を震わせた。「さあ顔を上げい、返答せい」 髪がぐいっと掴み上げられ、森はまともに澄の焼きこげるばかり強烈な眼光を浴びた。「さあ、あの女を追い出すか、そなたが大本を出るか」 澄は、伸びかけの森の髪をつかんだまま引きずり回す。四つ這いになって部屋中を這いながら、森は悲鳴を上げた。「痛いっ、お許しをっ、追い出します、追い出します」 王仁三郎がとんできて、ヘっぴり腰で助け船を出す。「お澄、手え離せ。無茶すない。森さんは大本にとって大事な人じゃ。出してもろたら、わしが困る」「こんな体主霊従の男が大事なら、先生も一緒について出たらよろし。なした男たちやいな」 澄は森の髪を放して、王仁三郎に向かった。「逃げい、森……」と王仁三郎。 聞くより早く、森はとび出していた。すぐには並松の自宅にも、花代の元にも行けない。じりじりと痛みつづけ熱し切った頭と心を冷やすために、本宮山頂で風に吹かれていたのである。 考えて見れば、二代さんが怒るのも無理はない。森は、金龍殿で修行者相手に講話を受け持っていた。適切な筆先の引用で、その講話は、修行者の評判がよかった。 口に筆先をいただく森が妻子をおいて妾にうつつを抜かしているのでは、確かに格好もつくまい。森のふしだらな女性関係は、狭い綾部の町中でも噂になっていた。自分の身辺をまずきれいにせずして、どうして三千世界の立替え立直しを叫ぶ資格があろう。 充分に自分を責め、省みたあげく、こんにゃく屋の二階に行った。 森は花代に今日の出来事を正直に語り、沈痛な声で引導を渡した。「そういうわけで、頼ま、お花、今限りわしと別れてくれよ」「そうだっか」 花代は冷静に答えた。「旦那はんにそんなに御迷惑がかかっているのなら、おっしゃる通りにさせてもらいます。長いことお世話さまになりました」 花代はしおらしく頭を下げる。 一悶着予測していた森は、あまりのあっけなさに拍子抜けて、ほっそりした花代の襟足に目を落とした。「旦那はん、今晩だけはここにおいとくれやす。明日の朝は、荷物をまとめて大阪へ帰りますよって」「ああ、今からすぐいうても、もう夜や。けどわしは今夜は子供らのとこへ行かよ」「そうしたげとくなはれ。わて、自分のことばっかり考えていて、あんなええ御寮さんやお子たちを苦しめてしまいました。悪いのはわてだっせ……。二代さんが怒らはんねやったら、わての髪つかんで、引きずり回してくれはったらよかった。旦那はん、痛おまっしゃろ」「ああ、もうどうもあれへん……」 花代は膝をすり寄せて、「最後の宵だんなあ。そうや、思い出に一つ、唄わしとくれやす」「そうやなあ、お前ののども聞きおさめやのう……」 床の間の三味をとって構えた花代が、熱っぽい目で訴える。「しらふでは声が出えへんさかい、一杯、旦那はん、冷やでついどくなはれ」 森は杯をさしてやった。たて続けに五、六杯、花代は流しこんで唄い出す。酔うて爪弾き歌う花代のあだっぽさは、朝鮮での出会いの頃と変わらなかった。憎くて別れるのではない。心の琴線深くかき立ててくるその音色に耐えようとして、森は手酌の冷や酒をあおった。「旦那はん、もうお帰りやしとくれやす。酔うてしもたら、わて、もうよう放しまへんさかい……」「うん、うん、去なよ。お花、元気でなあ」「どうぞ御寮さんと共白髪まで添いとげたげとくなはれ。わてはあの世で……」「えっ、お花」 顔色を変える森に、花代は淋しい笑顔になった。「死んだら、霊魂は霊魂相応の所へ行くという、教主さんの話を聞きましてん。同じ程度の霊魂同士が一団になって仲よう暮らすのやそうだんなあ。この世では旦那はんは御寮さんのもの、けどあの世では分からしまへんで。あの世で添うのは、旦那はんの心と同じ深さの信仰のある人だっしゃろ。わてはなあ、このまま別れても、旦那はんに負けんように信仰つんで、お筆先よんで、旦那はんと同じ霊界に行くつもりだっせ。その時は、わてを忘れんといとくれやっしゃ」 ――なんちゅういじらしいことを。 森は、こみ上げるいとしさにくらくらした。気がつくと、花代は森にしなだれかかっている。はねのけようとしながら、思わず引き寄せてしまった。「旦那はん、この世の女房と、霊魂の女房と、どっちが可愛おますねん」「阿呆、きまっちゃはるやないか。お前が可愛い、お花が可愛い……お花、眠うなった。早う蒲団敷いてくらよ」
 あれから二日、森はこんにゃく屋の二階に閉じこもった。息子が探しに来たが、非情にも居留守を使って会わなかった。二階の窓ガラスに顔をすり寄せて、しょんぼりうなだれて帰る息子の後ろ姿を、歯をくいしばって見送った。いくらなんでも澄の顔を見るのがうしろめたくて、大本へ行く勇気はなかった。仕方なく、筆先に明け暮れた。 突如、森は大声で叫び、とび上がった。「あった、あった、大変な筆先を見つけたぞ」 筆先の写しを持ち、森は狭い部屋の中をとびはねている。「何がおましたん」 着物のほころびを繕っていた花代が、驚いて見上げた。「お花、坐り直してよう聞きなあよ。これはまこと疑いなしの筆先や、神の言葉やしよ」 森は立ちはだかり、大声で読み上げた。 ――金勝要の大神さまをお願い申せば、そいたい縁ならそわしてやるぞ、いやな縁なら切らしてやるぞよ。「お花、聞いたか。どうな、ありがたい筆先やしよ」 森は、花代の手を握りしめた。「ほんまに、ほんまに結構なお筆先だんなあ」 気の強い花代が、森に手をあずけたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。作り涙ではなかった。今までどんな筆先を読んでもちっともありがたいと身にしみはしなかったのに、この一節だけは鬼神の胸奥にあたたかい涙のあることを花代に伝えた。「お嬶んと別れてお花と添いたい、これが天地神明にかけても偽りのないわしの本心や。大本の神さんは、そうさしてやると請け合うてなさる」「なんちゅう尊い神さんやろ……。金勝要の神さんてどんな神さんだす」「大地の金神……そうよ、二代さんの守護神さんよ」「えっ、二代さん、添いたいわてと別れて、添いともない奥さんと添いとげろと言わはる、あの二代さんの神さんが……」「いや、待てよ、これには何か意味があるぞ」 考えこんだ森は、やがて手を打って勇み立った。「分かった、わしが髪をつかまれて引きずり回されたんは、今までの罪滅ぼしのためやしよ。これで罪を帳消しにしてくれたさけに、後はいよいよ……うーん、そうか、お花、ちょっと行ってくら。待ってなよ」 森はすごい勢いでとび出して行った。 筆先は受けとる人相応の解釈ができるとされるが、折も折、苦しまぎれに都合のいい文句を見つけ出したものである。 最高に都合のいい解釈をして、森は妻の元に現われた。 想像もできなかったほど激しい澄の怒りと、夫へのいためつけようを見ただけで、まさもまた震え上がっていた。子供を楯にとってのごまかしで、もう夫婦のきずなをつなぎとめるのは無理と知った。まさは森の説得で離別を承知した。あれだけの二代さんの叱責を受けてさえ腰のくだけぬ夫の真剣さに、もうどうにもならないものとあきらめたのだ。 明治四十四年和歌山を去る時、すでに森は北野家の籍を抜いている。再び一緒になってからは多忙なまま入籍してなかったので、法律的手続きは必要なかった。 森は妻と子供を連れて、妻の郷里ヘ帰った。子供たちは父との永久の別れになるとは知らず、一家揃っての初めての旅にはしゃぎきっていた。 余談になるが、この離婚話は、その後もしばらくくすぶり続けた。なぜならば、家族を和歌山へ送り届けたその夜、森は森らしくも情にほだされて同衾し、見事にまさを妊娠させていたのである。 森良仁が正式に花代と結婚したのは大正九年十一月、幾度か喧嘩別れし、その都度派手な話題をふりまきながらも、花代は二度の大本事件をくぐって信仰に生涯を捧げ、共白髪まで添いとげる。

表題:七十五日の行 12巻7章七十五日の行



 大正七(一九一八)年七月二十二日夜、富山県下新川郡魚津町で、漁民村落の女房たちが「夏の不漁期に向かうのに、米価は上がりっぱなしでやり切れない。明日は他国への米の積み出しをやめてもらおう」と話し合った。翌二十三日朝、女房たちは海岸に続々集まり、集団で資産家や町役場に救済を哀願、不穏な動きを示して警察に解散させられる。 八月三日午前七時頃、中新川郡西水橋町の海辺に漁民の女房たち三百余名が集結し、三隊に分かれて資産家や米屋に押しかけた。「このままでは飢え死にしてしまう。米を移出せず、安売りしてくれ」と言い、中には「もし他へ移出したら焼き打ちするぞ」と過激な言葉を吐く者もあった。 この町の大多数が北海道や樺太などへの出稼ぎ漁夫であり、出稼ぎ先で不漁で帰る旅費すらなく、逆に女房に送金を依頼してくる現状だ。しかも女房たちの副業の米の船積みの下働きが一日十銭から二十銭、米価が一升四十銭するこの頃では、まさに死活の問題であった。この事件は越中女一揆として、全国に報じられた。 日露戦争後の入超継続と外債利払い負担によって正貨が流出し、恐慌状態にあった日本が、第一次世界大戦を契機に、空前の大戦景気を招来した。輸出が急増し、債務国から一転して債権国となり、世界有数の資本主義国に発展した。しかし輸出超過は国内商品の欠乏となり、正貨の入超は通価激増をもたらし、貨幣の価値が下落して、物価はどんどん高騰した。 賃金の伸びは、物価の高騰に比して至って低調である。成金は続出したが、貧民もまた激増した。国家は富んで、国民は飢餓と対面せねばならなかった。資本家と労働者、地主と小作人という階級対立も深刻となり、社会の矛盾と不安が鮮明に浮かび出た。 大正三年に暴落した米価は、その後三年近くも物価の上昇にそっぽを向いていたが、大正六年になると、それを取り戻すように急上昇し始めた。それは、生活に苦しむ民衆に止めを刺すようなものであった。米価は上がるべくして上がった。大戦の好景気で、農村の労働人口は、鉱工業へと吸い込まれる。農家は、養蚕などの収入増加で、麦や稗のかわりに米食するようになる。酒造米の消費量も増加する。大戦のために外国米の輸入が大幅に減った上に、大正四年から多量の内地米が輸出され、さらに大正六、七年には農村労働力の不足から内地米の収穫高が激減し、内地在庫米が底をついてきた。米の不足が見こまれると、売り惜しみや買い占めによって、米価の暴騰を引き起こす準備が整った。 大正六年九月、政府は暴利取締令を公布したが効果なく、大正七年四月末に外米管理令を公布した。外国米・植民地米の輸移入を三井物産・鈴木商店など指定商社七社にやらせ、そのために生じた損失は政府が補償するというのである。政府は外米を多量に買いつけさせたが米価の引き下げに成功せず、政商たちに利益をおさめさせたばかりであった。 大阪堂島の米市場の中米(玄米)の価格を例にとると、大正六年一月に初めて一石十五円となり、以後は六月に二十円、七月十七日には三十円台にのぼり、八月一日には三十六円十銭と四十円台に肉迫する。越中女一揆は「飢えて死ぬより監獄へ」とばかり、いよいよ猛り立つ。 八月七日の大阪朝日によると、◆富山県中新川郡東西両水橋町の細民家族は三、四、五の三日にわたり一大暴動を惹起し白米小売商その他を襲ひ町当局に幾分の覚醒を促しやや成功せし模様なるが、この険悪なる風潮はその隣接せる同郡滑川町に移れり。即ち六日午前零時頃かねて牒し合せしものの如く、同町漁師町の細民家庭は期せずして裏浜に集合し、直ちに手分を為し各戸を叩き起こし「お嬶、出ぬか」と家族の出動を連呼しつつ全町を戸ごとに訪づれたれば、たちまち三百余名の一大集団を形づくりたり。◆午前零時三十五分頃に至り、この一団の女軍は裏町通りを練廻りたる後、同町の素封家にして地所持たる斎藤仁左衛門方に赴き家人を叩き起し、一同その屋外に土下座し、あたかも乞食の如く現今の窮状を訴へ、米の割安販売を乞ひ、更にこれと同じく二三有志者を訪ひ、夫より本町通りに出て下小泉町なる米穀肥料商金川宗左衛門方に至らんとせしに、急報に接したる滑川署より署長以下十数名の巡査現場に駆けつけ解散を命じたるも、彼等は容易に耳を籍さず手古摺らせ「あなた方は食はれる身分なれば家に帰りて寝て居るがよい」などと却て警官隊に食って懸り事態容易ならず、署長は夜明けを待ちて町役場と交渉し何等か救済の方法を講ずべしと達示し、女群は漸く納得し午前五時過ぎ無事解散せり。(高岡電話) 八月五日には米価は四十円五十銭に上がった。六日には東西水橋と滑川町の町民千余名が米の積み出しを実力で阻止し、町当局に時価より五銭安の一升三十五銭で、町税三分以下の負担者に米の廉売をさせた。九日には米価は五十円を越え、八月十日には越中に起った米騒動が名古屋と京都に飛び火した。名古屋では九日夜、「鶴舞公園で米価に関する大演説会を開催する」という風説が流れ、四、五百名の者が鶴舞公園に集まって一騒ぎしたが、十日夜には日没頃より続々と公園に押しかけ、一万を越える大群衆となった。学生・労働者・商店員らがかわるがわる奏楽堂に立ち「暴利をむさぼる奸商を膺懲せよ、施政方針を誤れる寺内内閣を倒せ」などと演説し、群衆の一部は巡査派出所などに投石しながら米屋町に押しかけようとして、警官隊に食い止められた。翌十一日、名古屋市ではサイゴン米一升二十銭、一日一人一回につき一升乃至五合を限りとして、各区役所で分売することに決定した。 期せずして、京都でも十日夜から米騒動が起こった。下京区柳原の町民約四百余名が、怨みの的にしていた米の大商店に押しかけ表戸などをこわし、警官の斡旋で一升五銭の値下げを承認させた。途中で市民を加えて約八百余名にふくれた群衆は数隊に分かれ各所の米屋を脅かし「白米一升三十銭で売ります」という貼り紙を出させた。警察では十八人を逮捕したが、群衆はそれを奪回するために七条署を包囲し、憲兵隊まで出動して午前二時頃にやっとおさまった。翌十一日も京都は朝から不穏であったが、夜になるとどこからともなく二万余の市民が集まり、十余カ所の米屋が襲われた。知事の要請で米騒動に初めて軍隊が出動して警戒に当たった。 民衆が米屋に押しかけて実力で強請し、きかねば打ちこわしをするとおどせば米の値下げが実現するということを体験すると、十一日には東海・近畿・中国・四国の各地で騒動が起こり、十三日には東京でも日比谷公園の市民大会に集まった群衆から騒動がはじまって関東各地に波及し、「米よこせ」の声は全国大中都市を席捲した。大阪の騒動は十三日の夜など数十万の民衆が街頭にあふれ、全国最大の騒動になり、二十個中隊にのぼる軍隊が出動してようやく鎮圧した。 神戸では、外米輸入の指定商社である鈴木商店が焼打ちされるが、大阪朝日新聞はその模様を生々しく報じる。◆神戸市にては十二日夜も不穏ならんと気遣はれたるに、果せるかな日没頃より湊川遊園地を指して押掛け来るもの数千、午後七時頃には既に喊声を挙げて殺気刻々に迫り来れり。……それより民衆は東川崎町四丁目鈴木商店を襲ひたるが、これよりさき警官隊は鈴木商店の危険を慮り多数の制服巡査を派し警戒中なりしが、午後八時頃同店門前へ多数の群衆押寄せ来り、瓦礫を投じ硝子窓を滅茶々々に破壊し、時々ワーワーと鬨の声を揚げつつありしが、かかる間に一人の身軽な男猿の如く雨樋を伝ひて二階に上り硝子をことごとく打ち壊して屋内に闖入して群衆を招き入れたれば、ドッと鬨の声を揚げつつ一同流れこみ手当り次第に帳簿諸道具を投げ散らしたる後、裏と表と二箇所に火を放ち一時に燃え上りたれば所轄相生橋署にては直ちに消防隊をくり出し、消防に尽力中なるも、同家屋はもとミカド・ホテルの宏荘なる三階造にて炎々と燃え拡がり、柱や棟木の倒れ落つる毎に群衆は喊声をあげて打ち囃せり。同商店附近は三菱銀行・神戸銀行集会所・神戸電話局・神戸商業会議所等の大建築物あり、その混雑名状すべからず…… 新聞は各地の米騒動の記事で連日紙面を埋め、民衆の要求を無視してきた寺内内閣の専制政治が騒動を招いたとして政府の責任を追求した。 一方、政府は、騒動の拡大は新聞が誇大に報道するからだとして、八月七日に「高岡新報」を発売禁止にしたのを皮切りに言論圧迫を強め、十四日深夜には「米価に関する各地騒擾に関係ある記事、及び大阪の騒擾に関する号外を発行すること」すなわち米騒動に関する一切の記事の掲載を禁止し、十五日の新聞は紙型をつぶしたままの紙面で発行された。 当局者の弁明を聴こう。(水野内務大臣談)「米価暴騰に対する各地の一揆――一揆というのはすでに語弊があるが、かかる騒擾を見るに至ったのは痛歎この上もない。しかしながらかかる騒擾の性質上とかく一波よく万波を起こして無意識に伝播する恐れがある。なかんずく昨今の新聞記事はいかにも煽動的で、いたずらに民衆をそそる懸念がある。関西に起こりつつ騒擾は漸次に関東にも及んで来た。新聞記事によって治安維持の妨害あるものと認めた次第である。内務大臣たる私の立場として治安妨害は断じて仮借するを得ない。さきに富山に起こった漁民の女の騒ぎは、当時一地方の小事実として新聞記事に対しても看過してきた。しかし今日の騒擾は決して同日の比ではない。たとい新聞は誇張的でなく扇動的にわたらざるとして事実ありのままを報じても、今日の事実はすでに事実そのものが治安の妨害になる。私みずからは新聞を理解し同情の念を持っているが、安寧秩序を破り民衆を動かす導火線となるにおいては、涙をふるって馬謖を斬る……」(永田警保局長はさらに説明して曰く)「煽動的ということは具体的にどうかというと、微細の点にわたって種々の考えも標準もあるが、とにかく日々の新聞の中には内容がそれほどでもない事件に標題が非常に大きい、大活字を濫用する針小棒大の傾きがあって、あれでは民衆の心をそそるのは明らかである。騒擾の記事を掲載するは一切禁止すると共に、それに関連して起こった出来事の記事の掲載もよくない。またそれを大体推定し得べき○○を用いる記事についても、当局者としては容赦なく手段を講ずることとする。従来地方長官から報告された騒擾事件の公表も、考えれば、実は当局として各新聞に発表させたのは手ぬかりであった。記事差止めの意見は早くから考えていたが、各新聞に対してお気の毒であるから、今日まで考慮躊躇していた……」 東京諸新聞社の幹部で結成された春秋会では、十六日午後三時までと期限をつけ、政府に掲載禁止の取消しを強く要求、水野内相もついに折れて内務省発表の公報を基礎とした事実の記載のみ認めた。春秋会ではさらに抗議を続けて、事実上この命令を取消させた。 十七日以降には、米騒動は地方の町や村へと波及していった。この十七日には山口県宇部の沖の山炭坑と福岡県の峰地炭坑で坑夫の賃上げ要求が暴動化した。宇部では坑夫に貧民を加えた数千名が炭坑主の本邸・別邸を壊し、米屋・酒屋を壊し、遊廓にも放火。翌十八日に出動した軍隊にもダイナマイトで抵抗して死者十三名、重傷者十六名を算する。 さらに米騒動は山口県と北九州の炭坑ヘとひろがり、十カ所が暴動となった。 新聞社は言論報道自由擁護と内閣弾劾のために立ち上がった。十七日、大阪市中之島の大阪ホテルで近畿新聞社通信社大会、十八日には横浜・福井・石川の各記者大会、二十四日には福岡の九州記者大会、そして二十五日には関西新聞社通信社大会が大阪ホテルで開かれた。この大会には東は名古屋から西は鹿児島まで、北陸・山陰にわたる六十八社百六十六人の新聞人が集まった。 大阪朝日社長村山龍平を座長とし、「国民の安寧福祉を顧みず、秕政百出、信を国民に失して一世の怨府となり……陛下軫念遽かに還幸し民の疾苦を問ひ給ふも、閣臣未だ罪を闕下に謝したる跡なく……」と宣言し、「寺内内閣は失政の責任を負ひ速かに処決すべし」と決議した。 その模様を、八月二十六日夕刊の紙面で大きく報じた大阪朝日新聞の記事が、ついに弾圧の口実を与えた。 ――各社代表者の演説が始まった。大阪毎日の高石真五郎氏、大阪時事の上杉弥一郎氏、名古屋新聞の小林橘川氏を始め代り代り壇に立つ。十数名の口を開く所、舌の動く所、内閣の暴政を罵らざるはない。舌端火を発する熱弁は彼等をして遂に気死せしめずんばやまざるの慨を示した。終って食堂の開かれたるは一時に近い頃であった。食卓に着いた来会者の人々は、肉の味、酒の香に落ちつくことは出来なかった。金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は、今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいてゐるのではなからうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が、黙々として肉叉を動かしている人々の頭に雷のやうに閃く……。 デモクラシー運動の発展のうえに指導的役割を演じていた朝日の言説をにがにがしく思っていた寺内内閣は、内務省の意を体してうの目たかの目で監視していた警察の連絡により『白虹日を貫けり』の一語をとらえ、この夕刊を発売禁止処分にした。『白虹貫レ日』とは『史記鄒陽伝』の中の言葉、白色に見える虹が太陽をつらぬくことで、精誠が天に感応して現われるの意。中国で昔、兵乱の前兆とされた。ところが、日とは天子を意味すると、難くせをつけてきたのである。 内務省は「朝日をつぶすのは今だ」と秘密示達を出すとともに、九月九日には新聞紙法にいう皇室の尊厳冒涜・政体変革・朝憲紊乱事項記載のかどで、大阪区裁検事局に大阪朝日新聞社を告発した。 米騒動は九月十二日、三池炭坑の騒動を最後に、五十日間にわたって全国を揺さぶり続け、一道三府三十七県合計二百六十八地点にわたり、街頭の騒動に参加したもの百万を越えたろうといわれる。また別に鉱山暴動二十九ヵ所に及び、群衆発生などの不穏地点は数知れぬ。軍隊の出動人員五万七千以上、出兵地点百七ヵ所に達した。司法当局は厳罰方針をもってのぞみ、検挙人員数万、起訴七千七百八、死刑宣告二名以上。 この騒動は統一的な指導者があったわけでなく、新聞記事や事件の噂が窮迫した民衆を刺激して拡大させた自然発生的なものといえるが、その原因は民衆の生活難・成金ヘの反感、また前年に起こったロシア革命の影響も見逃せない。 寺内軍閥内閣の専制政治に対する世論の攻撃はますます高まり、ついに九月二十一日、内閣を総辞職に追いこんだ。二十九日、政友会総裁原敬による日本で最初の政党内閣が誕生した。爵位を持たない衆議院議員が政党の党首という資格だけで首相に任命されたのはこれが最初、原は「平民宰相」と呼ばれて国民に歓迎された。 一方、寺内内閣の総辞職寸前の九月十八日、筆禍事件で右翼から攻撃を受けていた朝日新聞社長村山龍平が、黒竜会の池田弘寿らに白昼の中之島公園で襲撃された。襲撃者は村山を燈篭に縛りつけ、「国賊村山龍平を天に代って誅す」という紙旗を立てた。 右翼の巨頭の頭山満・内田良平・佐々木安五郎らは「非国民『大阪朝日新聞』膺懲、国体擁護運動」にのり出した。 白虹事件の公判廷では、検事は大阪朝日の全面的発行禁止を要求しておどかした。 この頃の大阪朝日の紙面には、本社人事の記事が目立つ。 本社社長村山龍平氏は今回社長を辞任し、上野理一氏代って本社社長に就任せり(十月十五日) 本社編集局長鳥居赫雄氏(著者註――鳥居素川)は今回本社を退社せられたり(十月十六日) 本社社員長谷川万次郎氏(著者註――長谷川如是閑)今回退社せられたり(十月十八日) 本社記者大山郁夫、丸山幹治、花田大五郎の三氏は今回都合により退社せられたり(十月二十二日) 河上肇や佐々木惣一も客員をやめた。そして十二月一日の紙面には「本紙の違反事件を報じ併せて我社の本領を宣明す」と題する全四段抜きの社告を一面トップに掲載した。いわば「わび証文」である。 この三日後の十二月四日、判決が下り、新聞紙法の安寧秩序紊乱の罪で、編集人兼発行人の山口信雄と原稿担当者の大西利夫が、それぞれ禁錮二カ月の刑を宣告された。 検事の要求した発行停止は認められなかったが、司法当局は「わび証文」を認めて、検事控訴をとりやめようとした。ところが原首相(法相兼任)はまだ不安であった。 十二月八日の原敬日記にしるす。「前内閣の時代に於て大阪朝日新聞が朝憲を紊乱するの記事を掲げ発行禁止の起訴あり、審理の末去四日記者発行人の処罰に止りたる判決ありたり。同社は右起訴後村山龍平退社して上野理一社長となりて改革し、去一日の紙上に全く方針を一変する旨並に改革の次第も記載して世上に告白したれば、此上発行禁止の為め検事より控訴するも如何あらんと大阪地方裁判所検事正より請訓ありて控訴に及ばざるベしと司法次官・検事総長も協議回訓したりと次官より申出たるも政府として只紙上の告白を見たるのみにては足れりとせず、重大なる事件なるにより、社長を呼出して其真意を慥かむるを適当なりと認め、一昨日至急面会を望む旨電信せしに昨夜着、今朝来訪に付鈴木司法次官立会にて余より上野理一に其決意を尋ねたるに、曽て村山等に屡々忠告せしに行はれずして今回の出来事あり、遂に村山悔悟し彼の父の遺志にも戻りて恐懼に耐へざる次第を物語り、遂に上野に社長を譲りたる顛末より村山は社を解散せんと云ふも数千の者の運命にも関すれば之を思止らしめたる事、並に方針を一変し、其一変したる方針は自分等老年なれば万一の後にも相違せざる様に定款等にも明記すべく随て向後決して如此過失を再びせざる事、又今回寛大なる判決に付ては体刑に付ては社命に従ふ限にあらずと主張する者あるも慰撫して服罪せしめ、決して控訴をなさざる事、要するに去一日の紙上に於て発表したる精神は飽まで貫徹すベき旨陳述したり。但余は其大要を聞取り外交調査会に臨席の為め尚ほ次官に聴取らしめたり。是れにて朝日新聞問題も落着と見るべし」「平民宰相」原敬も急進的な言論をおさえる点では寺内内閣の方針を踏襲しており、二年余の後には彼の政権下で大本が大弾圧を受ける。 朝日新聞は「わび証文」によって一時筆剣をくじき、翌大正八年の普選運動では普選を時期尚早とする政府の選挙権拡張案に賛成して、政府への忠誠を披瀝した。しかし翌九年には一転して普選即行を主張、また軍備拡張計画に反対して、当時の世界的風潮であった軍備制限論を展開し、その姿勢を正した。 白虹事件によって大阪朝日を退社した人たちは、大阪の商人勝本忠兵衛の出資で大正日日新聞社を創立。それにこもって言論の砦にしようとした。社長は貴族院議員藤村義朗男爵、編集陣は主筆兼編集局長に鳥居素川、大阪朝日の退社組の花田大五郎・丸山幹治・室伏高信・青野季吉・鈴木茂三郎ら当時一流のジャーナリストである。資本金二百万円というから、同時点での大阪朝日の百五十万円、大阪毎日の百二十万円を上まわり、その発足と活動は両社の強敵になるものと思われた。 世人の注目のうち、大正八年十一月二十五日創刊号発刊、しかし朝日・毎日の販売網は容易に破れず、経営が次第に困窮し、一年足らずで身売りせねばならなくなる。 この大正日日新聞社を丸ごと買収したのが、出口王仁三郎であった。宗教教団が朝・夕刊発行の時事新聞を持つなど、世界的にも珍しく、日本では前例を見ない。しかも白虹事件の鳥居素川ら錚々たるグループが大本陣営に加わって、立替え立直しの大論陣を張り、筆先による警鐘を乱打し始めるのだ。世間は驚愕する。原敬内閣にも深刻な影響を与える。こうして第一次大本事件へと突入する物語は、想を練って後日筆を執ることにしたい。
 全国に米騒動の吹き荒れる八月十七日午後である。湯浅仁斎相手に褌一枚の王仁三郎が馬鹿話に興じていると、浅野和三郎と友清天行が入ってきた。自分の発した駄酒落に自分でおかしがり、王仁三郎の馬鹿話は容易におさまらぬ。友清がじれったそうに切り出した。「先生、お話し中ですが、急いで御了解を得たい件がありますので……よろしいですか。実は綾部新聞の「一葉落ちて知る天下の秋」がすごい評判なんです。同じ号の「綾部だより」もですが、何しろあれが出て二週間目に早くも米騒動ですからね。この時期を失せず、『神霊界』の九月一日号にあれを転載して読者の要望に応えたいんですが……」 綾部ヘ移住して間もない友清は、『神霊界』九月号から本格的に編集主住となっていた。「一葉落ちて知る天下の秋」の一文で、教団内には、友清天行の名は早くも知れ渡っていた。「浅野はんの意見は……」「賛成してもらっちょります」 浅野をさしおいて、友清自身が答えた。「そうか。浅野はんがよいと言うなら、それでよいやろ」 面倒くさそうに答えて、王仁三郎はまだ馬鹿話の続きに戻りたそうである。「あ、それから……」 浅野がすかさず口をはさんだ。「大本神諭の原稿ですが、まだもらえませんか。早く出していただかんと、九月一日号に間に合いません」「ああ、忘れとった。そうやなあ、今度は掲載中止や。浅野はんの《大祓祝詞解》を巻頭に持っていったらええやろ。それに友清はんの例の文章を転載するなら、紙面は充分埋まる」 不快な表情を、浅野と友清は穏さなかった。立替え立直し迫ると信じる彼らの目から見れば、日本のシベリア出兵・米騒動・政局の混乱動揺のさまは、まさに天下の断末魔といった状態である。 この危急存亡の時にあたって、役員たちは寸刻を惜しんで走り回っているのだ。教主だからと言って、気楽そうな馬鹿話など許されるものではない。まして大本神諭の発表は、この際何を置いてもなされねばならぬ。それを忘れていたで、すむか、すまぬか。 眼鏡の奥を光らせながら、それでも浅野は、つとめてさりげなく言う。「大本神諭の掲載を休むことはどうも……まだ二、三日中なら間に合わせます。紙面をあけて待たせますが……」「それがあかんのじゃ。明日からわしは、七十五日の床縛りの行に入る」「ほう、どんな行です」と湯浅が期待した声で訊く。 煙草の煙をうまそうに吐きながら、王仁三郎は答えた。「部屋に蒲団を敷いてのう、七十五日間、朝も寝る、昼も寝る、夜も寝る」「それが行ですか」とあきれ声の浅野に、王仁三郎はいたずらっぽい顔を向けた。「そらそうやで。あんた、この暑い最中、どこも悪うもない人間が七十五日間も夜昼蒲団の中で寝とってみい、体が腐りかねんでよ」 湯浅がうなった。「うーん、そらそうでっしゃろなあ」「その間は部屋の外にも出んわい。お前らとも面会謝絶やぞ」「しかし、この大事な時期に、そんな行をする必要があるのかしら。先生ほど修行を積んだ方が今さら床縛りなど……」と、これは浅野の本心である。「曇りのかかった身魂ではこれから先の大峠は越せんでのう。わしの三度目の身魂の大洗濯にとりかかるのや」「三度目?」「そうじゃ。二十八歳の年、わしは高熊山の一週間の修行で最初の身魂の大洗濯を終え、綾部へ引き寄せられた。それから改めて神さまから十年の修行を命ぜられ、身魂を水晶に洗ってぼつぼつ神界の経綸に使われた。綾部に本格的に腰落ちつけたのが、わしが三十八歳の年やった。この時、十年目の弟子として神さまから授けられたのが、湯浅はん、あんたやったのう」「そうでした。伏見の御嶽教で……早いものや、あれからもう、十年になりますかなあ」 師弟は、感慨深げに顔見合わせる。 その後、王仁三郎は数多くの得がたい弟子を得た。ここにいる浅野や友清たち。けれど本当の心許した弟子、思うさま叱りとばしていて安心なのは、今でも湯浅一人ではないか。梅田信之にしてさえが男同士の友情は熱いほど通い合いながら、教祖直を絶対として、王仁三郎の価値をそれ以上には認識しようとしない。 それぞれが自分の眼鏡で王仁三郎を眺め、自分の尺度を王仁三郎に当てがうだけだ。眼鏡も、物差しも捨てて、ただ赤子の心でついてくる湯浅を得てから十年目、新しい弟子出現の待望に王仁三郎の心は餓えていた。 浅野には古い師弟の感慨など伝わらない。「行をなさるにしても、何も明日からでなくても、大本神諭の原稿を回して下さってから……」「明日はわしの四十八歳の誕生日や。この日から三度目の身魂の洗濯にかかれと神さまが言われる」 明日は旧七月十二日(八月十八日)、確かに王仁三郎の誕生日であった。それに思い至らなかった迂濶さに、浅野は頬を赤らめたが、かまわず王仁三郎は続けた。「床縛りの行といっても、寝ころんどるのは体だけや。その間に大変な神界のご用がある……」「……」「今度の戦争で死んだ連中で救われぬ霊が、うようよ教祖さんのまわりヘ押しかけてきとる。ご老体の教祖さんにそんなご苦労までかけられんやないか。わしが一手でそれを引き受ける。くたくたに疲れるから、肉体は寝とらなしやないやろ」「……」 王仁三郎は声を低めた。「そればかりやない。金毛九尾の悪狐どもが、この時とばかり教祖はんを狙って押しかけてくる。教祖はんの霊魂を取りこめばまだまだ世が持てるさかい、虎視たんたんじゃ。あいつは本来、女の長にしか憑きたがらん癖があるのや。そこを逆手にとって金毛九尾をひっつかまえ、わしのころがしとる体の中に無理矢理押し込めてやるのや」「それでどうもなりまヘんか。お留守中の肉体を、あいつに自由にされたら……」「そらしんどいわい。入った奴も入られた肉体もともに苦しむ。奴のことやで大暴れに暴れよるやろ。そやさけ、体を床縛りにしとくんやないかい」「なるほど、うーん、いよいよ金毛九尾を改心させなはる時期が来ましたなあ……」 湯浅がはずんだ声になった。「いや、あいつをそれしきのことで改心などさせられるもんか。今は世界も日本もくたびれ切ってしもとる。このまま長びけば金毛九尾に完全にやられてしまうやろ。わしの体にしばらく奴を封じこめて世界を一休みさせるのが目的や。身魂の洗い上がりができたら、いよいよわしは、百千万億の敵でも百千万億の悪魔でも恐れん身魂になるぞ」「なんと、この暑いのにご苦労はんなこってすなあ」 湯浅が改めて真顔で頭を下げる。 あまりに現実離れした話に、友清と浅野は白けた顔を見合わせた。これはさっきの馬鹿話の続きであって、湯浅と二人、今にも笑いころげるのか知らんと、王仁三郎の顔色を見る。が、王仁三郎は涼しい顔で紫煙をくゆらすばかり。 深い溜息のあと、浅野が言った。「それでは七十五日のご修行の間、及ばずながら懸命の努力はします。けれど、その間三回にもわたって大本神諭を中止することは、いかにも残念で……」「今度は仕方がないとして、次の号から浅野はんがお筆先の中から選んだらよいやろ」「え……」 こともなげに言う王仁三郎の言葉に、浅野は絶句した。 膨大な筆先群からその時期に最も適切な筆先を選び出す権利、その平仮名ばかりの筆先を解読して適当する漢字をあてはめる権利、これは今日まで教主出口王仁三郎にだけ与えられた特権なのだ。それを代行せよとは。「尻ごみすることはない。浅野はんなら、わしよりうまくやる。ただし、わしの七十五日の行の間だけやぞ」 それは、浅野の文学士としての自負をくすぐった。たとえは「かみとなれば、すみずみまでも、きをつけるのがかみのやく」という一句をとらえても、それにあてはめた漢字によって、文意は幾様にも 解釈できるのだ。「かみ」という語ならば、「神」・「上」・「守」・「髪」・「長官」などがあり、拡大解釈すれば、「守護神」・「天使」・「新聞紙」・「主人」・「天皇」・「総理大臣」などという漢字をあてはめることもできる。「やく」は、「役」・「厄」・「薬」・「焼」・「訳」・「益」・「疫」・「易」・「約」・「妬く」、拡大解釈すれば「役目」・「役職」・「約束」・「災厄」、さらに「すみずみ」、「き」などの漢字の組合わせによって千変万化の意味を生じる。つまり読む人の読解力によって深浅の差ができるわけで、だからこそ永遠の神典となり得る。 しかし『神霊界』に一度大本神諭として漢字をあてはめて発表した以上、善良なる信者はそれ以外の解釈をしないはずである。それだけに責任は重大なのだ。 王仁三郎に言われてみれば、今までにも自分ならもっと別の漢字をあてはめるのにと思う所がないでもなかった。『神霊界』は大正七年二月一日号以後、時期の切迫感によって月刊から半月刊へと発行回数が倍加していた。七十五日の間にめぐってくる数度の機会こそ後世に残すべき神の言葉が、浅野の手の内にゆだねられる貴重な日となろう。 浅野の心はその期待に熱してくる。 湯浅が思いついたように言った。「それはそれとして、秋の大祭はどうさしてもらいましょう」「八月十八日から行に入ると、ちょうど十月二十一日で七十五日の行が終わる。秋の大祭は十一月の初めとする。『神界の都合により延期する』とでも広告を出しといてくれ。どれ、神苑内をしばらくの見納めに散歩してくるか」と王仁三郎は立ち上がった。
 この夜八時、王仁三郎は金龍海に棹さして神島に渡った。供はただ一人、前日に松江から初参綾した井上留五郎(四十四歳)医師である。 大八洲神社に祈願をこめた後、王仁三郎は自ら船をあやつって夜の金龍海上をゆるゆると巡る。柔和な細面、頬からあごへ垂れる髭。大学帽をかぶれば、ちょうど大学目薬の広告の男そのままと思える井上は、礼儀正しく船上に座し、王仁三郎を仰ぐ。 影と月光とが互いに刻みあげた巨大な塑像のように、王仁三郎は立っていた。船はあきずに水をわけ、沈黙の二人を乗せてすべり続ける。「明日から七十五日、わしは寝込むのや。これは神界から命じられた行やさけ、わしの体の心配はいらん。しかし、とばっちりを受けてやられる者がまわりにできるやろ。しばらく、井上はんにおってもらいたいのやが……」 思いがけない王仁三郎の頼みであった。直ちに井上は、東京へ立ち寄る予定を捨てて答えた。「はい、今月末頃までは……けれどとばっちりとは何のことです」「風邪や。悪い風邪が世界中に流行っておる。何十万と死者が出る。日本にもこれからどんどん広がるで。霊的に言えばドえらい力を持った悪霊群が襲ってくることになる。わしはその邪霊の親玉をつかまえて、わしの体に封じこめねばならんのや。 けれど奴らの眷属はバイ菌をふりまいて暴れよるやろ。井上はん。悪質の伝染性の病気いうもんはなあ、現象面だけを退治してみても、一向に衰えさすことはできんのや。体の原因である霊を何とかせなならん。つまりバイ菌を殺すことだけに躍起になっておっても、本当の完治はできん。恐ろしい流行をせき止めるにはまずつけ入ってくる邪霊群を潔める必要がある。 邪霊いうてもなあ、今度の戦いで死んだ者がほとんどやさけ、救うてやらねばならんのや。それがわしの行となる……」 去年の六月下旬、浅野和三郎一行松江宣教以前の井上であったなら、この王仁三郎の話に吹き出していたかも知れない。 九歳の時、留五郎は重いジフテリアにかかり、九死に一生を得た。その折、留五郎の父は出雲大社や八幡村の武内神社に願をかけ、この子が助かれば一生人を救うような職業に従事させますと誓ったのだ。 そのためもあって留五郎は苦学の末、医術試験に及第して、二十三歳の時に医師の免状を得た。東京のドイツ語学校に学ぶかたわら順天堂病院で研究、二十五歳で医科大学選科に入学し、卒業後郷里の松江に帰って、井上内科病院を開設した。 急患には馬に乗って田舎の奥地にまで駈けつけるので、「あれ、旦那さんが駈けて行きなさる」と町の人たちが指さした。新智識を持った医者として、患者の信頼は厚かった。 皇道大本を知ったのは、松江で発行している雑誌『彗星』と『心霊界』の記事からで、例の浅野和三郎の松江講演は、宅診の多忙のために聞けなかった。しかし、代わりに聴かせにやった陰陽博士の資格を持つ藤井という男が、易学上の見地からも共鳴し、ひどく感嘆する。 ついに翌日松江支部を訪ねて、井上は浅野和三郎に面会した。支部には井上の患者も四、五人来ていて、「先生、あなたも……」と驚かれ、冷汗が流れた。 そんなきまりわるさも、浅野の鎮魂を受けるに及んで吹きとんでしまった。医者として催眠術は心得ており、ある時期、盛んに患者に応用していたくらいであったから、鎮魂の催眠術に非ざるのは一回で悟った。連日約十日間、井上は夜ごと押しかけて、浅野和三郎らの繰り広げる新しい世界に没入した。 つめかける患者をどうにかさばいて代診にまかせ、逃げるように列車に乗って参綾したのは昨日、今朝は教祖直に拝顔し、感動もいっそう新たであった。今の井上には、ものみなの深奥に実在する見えない世界の力をどうして否定し得よう。「私も年々大日本医学会を機として東京大学に学んでいますが、欧州戦乱の起こる前までは、日本の医学も東洋のドイツとして世界に誇るに足ると信じていました。しかし、二十一年間臨床医家として患者に接してきましたが、告白すればその後半期は、医学の微力をしみじみ感じるばかりです。私の浅学にもよるのでしょうが、医学が絶対に病気を治し得たと思う場合は希で、考えれば考えるほど、自然療能の力が主役なのです。医師はただ、最善を尽くしてその自然を助けるまでであることを深く感じます。 自然療能とは人間に備わる力であって、それは神とか仏とか、ともかく人間以外の威力を有するあるものにつながる。おぼろげながらそんな想像をしていました。今度の世界的流行の風邪にしても、たしかに医術の限界を感じます。体主霊従的方法だけでは防ぎきれぬものを……」 王仁三郎は、専門分野にわたって、細かい治療上の指示を井上に与えた。それより西門近くに修行中の小牧斧助陸軍大佐と三人、夜の更けるのも忘れて語り合った。記録によると午前一時まで。
 翌八月十八日、つまり旧七月十二日の四十八歳の誕生日から、王仁三郎は、予告通りに床縛りの行に入った。旧神殿と廊下でへだてられた元教祖室の二間つづきの奥の間に床を敷かせ、食事もとらず、面会謝絶でこもり切ったのである。もっとも大阪の岡崎直子や星田悦子など気のおけない人たちの見舞いは受けた。 澄の目にも、床の中の王仁三郎は、実際に苦しそうであった。顔を真っ赤にして、時々うんうんとうなり声さえ上げた。 六日目の二十三日の夕方、相生を抱いた澄が襖の外に立ったまま、声をかけた。「先生、佐々木おもんさんが来てでしたで。『先生は誰にも会いなさらん』と言うたんじゃがええ、『四国からはるばる因縁の人を連れて来たんじゃさかい、どうしても面会してやってほしい』と頼んでんですわな」 まともに受付を通したんでは断わられるが、彼らは家族のように勝手に王仁三郎や澄の部屋に顔を出す。 佐々木もん(四十七歳)は愛媛県大洲の生まれ、大阪の松島遊廓の牛すき屋「いろは」で仲居をしていたが、一時精神に異常を来たした時、岡崎直子に大本へ連れてこられて全快した。それ以来、熱心な信仰に入っていたのである。 王仁三郎は起き上がって、蒲団の上にあぐらをかいた。「おう、連れてきたか、おもん狐が……。よし、通してくれ」 そんな綽名で、王仁三郎はおもんを親しげに呼んでいた。「それでもおもんさんが連れて来ちゃったんは、ほんのまだ子供ですで」 それには答えず、王仁三郎は手を出して、澄から相生を抱きとった。「住の江はどうしとる」「まだ寝とりますわな」「そうか、よしよし……」 とろけるような笑顔で相生を眺め、指でやわらかい頬をつついてあやす。相生・住の江の双生児は七月十九日に食べ初めをして、その後、順調に育っている。 澄も立ち去りがたく、天使のような子の笑顔を夫婦で誰に遠慮もなくほめ合った。 王仁三郎にせかされて、澄は佐々木もんと少年を連れて引き返して来た。「佐賀伊佐男です」 かしこまって辞儀をする少年に、王仁三郎は機嫌よく声をかけた。「佐賀はんの息子はこの子か。よう来た、よう来た。いくつや」「十六歳です」 横合いから、もんが自慢げに口を出す。「かしこい子でなあ、八幡浜の商業学校でも級長をしとられますで」 痩せてひ弱そうな体、玉子に目鼻といった、どちらかといえばのっぺり型の美少年だが、目は利発そうに輝いていた。 王仁三郎の横に坐った澄は、気さくな調子で道中のことなどを訊く。緊張している少年の心を緩和しようとする配慮であろう。もんが引き取って、饒舌に喋った。 二人が去ると、王仁三郎は寝入った相生を澄に返し、煙草に火をつけた。「お澄、今日はどういう日か知っとるか」「八月二十三日ですなあ、さあ、どういう日やろ」「明治三十一年旧八月二十三日、わしははじめて綾部に来て、裏町の伊助の倉に教祖はんを訪ねた。新と旧とこそ違え二十年前の今日や。不思議な縁やのう」「何が不思議なんです」「あの子や。湯浅仁斎以来ようやく十年目に授かる新弟子や」「ヘえ、あの子供が……」 急に襖が開いて、福島久が顔を出した。「先生、だいぶ前からかげんが悪ござすそうななあ。ぼんくら役員どもが今頃になって八木へ知らせて来たさかい、びっくりして飛んで来たんですで。大阪に帰っとる星田はんにも電報で知らせておいたが……それでも、御飯も食べとってないわりには元気そうじゃなあ」「ちょっと気分が良くなったような気がして起き上がってみたが、やっぱりいかん。頭がずきずき痛む。あ、いたた……」 王仁三郎は、あわてて蒲団にもぐる。「米騒動で世間が騒いどると思うたら、今度は悪い風邪がひどうあちこちで流行りだしたげな。先生のも流行りの厄病神にやられたんでっしゃろ。情けない大本の教主ともあろう男が……これも神さまのお気付けじゃと素直に省みななりまへんで。 お澄さん、立たんでもよろし、この際、義理天上日の出神、肉体は常世姫の宿りておる福島久が、世の元の元からの因縁を説いて聞かせる。どんと腹へ入れて、厄病神を追い出しなされ」 澄は袂をつかまえられて、しょうことなしに王仁三郎の枕元に坐った。
 西石の宮から細い道を西へ少し行くと、森良仁と山上花代が愛の巣を営んでいるこんにゃく屋がある。その奥が西田元教の鍛冶屋であった。佐々木もんは元教を師とする関係で、今夜の宿をここに決めている。 六畳二間の他、土間には鍛冶の道具類が置いてあった。元教の妻雪は王仁三郎の妹と聞いていたが、平凡でちょっと癇性そうな中年の婦人であった。 紀州なまりの強い元教の信仰談を聞き、その夜、伊佐男は元教と枕を並べる。固い煎餅蒲団にくるまって目をつむると、ようやくここまで来たという感慨が湧き上がってくる。 伊佐男は、明治三十六年一月十五日、愛媛県大洲村常磐町の漁商、佐賀亀吉・シナヨの長男として生まれた。八歳で父に死別。母シナヨは十二歳の姉トモエと伊佐男を女手一つで育てねばならなかった。 亀吉は世話好きで、産土神社の氏子総代やお寺の総代、消防組頭などをし、当時としては珍しかった敬老会を催したりで町のために出費を惜しまなかったため、死後、かなりの借金が残された。町の人達の同情で頼母子講がつくられ、シナヨは小さい宿屋と仕出し屋を兼業した。女中はおかず、忙しい時だけ近所の手を借りた。懸命な母の働きで、その後大洲で初めてという三階建てを増築し、積極的経営に転じていた。 こうした家庭の事情から、伊佐男は中学ヘの進学をあきらめ、小学校の高等科一年に通っていた。体が丈夫でないせいもあって、二十歳までは生きられないという意識が、いつか伊佐男の心をとらえていた。だからこそ、生きている間に少しでも早く母の力になりたかった。 ある日、担任の先生が言った。「郡出身の峰という満洲の実業家が、郡内の優秀な子供を五人ほど推薦してほしいと言うてきた。商業学校から高等商業にも行かせ、将来満洲の実業界に雄飛させたいそうや。佐賀を推薦したいが、考えてみなさい」「ぼく、早く学校を出たいんです」と伊佐男が言った。「いや将来を考えてみい。お母さんとも よく相談するのや」と先生は押し返した。 その夕、ただの噂話くらいに伝えると、母は真剣に受け止めた。「イーちゃん(伊佐男の愛称)、よい話じゃないの。わたしもまだまだ一人でやっていけるから、思い切ってその峰さんというお方のお世話になってみたら……」 母の熱意を知ると、もう進学への希望が堰を切っていた。ずっと級長を続けており、全校の模範生として表彰されていたので、校長や町の有力者の推薦を受け、八幡浜商業学校に入学した。 伊佐男参綾の機縁は、父亀吉在世中の明治四十年にさかのぼらねばならぬ。産土である総社大明神社の社務所で、祭礼のあと、世話方たちが集まって酒を飲んだ。宴の途中、亀吉は裏の竹薮に行って小便をすませ、ひょいと脇を見ると、竹の根元に妙な物が見えた。小さな白蛇がとぐろを巻いて頭をもたげたままミイラ化している。白蛇のミイラを半紙にのせて社務所に戻った。「これは龍神さまじゃ」とみなが口々に言い、欲しがった。 大洲の梶田に辰巳という貧乏な醤油屋があった。ある日、塩の中から亀吉が拾ったような龍神さんが出てきて、それを祀って以来栄えたという風説もあったからだ。「お宮の敷地にあったのだから、お宮のものや」と神主まで所有権を主張した。 無欲な亀吉が、この時だけは譲らなかった。「あんたら何人も小便にあそこに行ったのに気がつかず、最後に行ったわしが見つけたんじゃもの、やっぱりわしが神さまから授かったんじゃ」 龍神を家へ持ち帰ったものの、亀吉は祀り方が分からず、桐の箱に納めて麻の緒でくくり、二階奥の間の床に上げておいた。その後三年たって亀吉は死んだ。 大正四年、大洲の若宮に住むシナヨの妹が遊びに来て、耳よりな話を伝えた。「大阪に働きにいっておる佐々木もんという人が熱心な大本信者になって、今大洲ヘ大本の宣伝に帰っていなさる。若宮のあたりでは、だいぶ信者はんもできとるそうな。おもんさんはお祀りの仕方がくわしいさかい、一度来てもろうて龍神さんを祀ってもろうたらどうや」 夫が早死したのは龍神をちゃんと祀っていないせいではないかと内心恐れていたので、シナヨは早速佐々木もんに来てもらった。 もんは家へ入るなり、「水、水をおくれ、おう喉がひりつく」と叫んで、床の間の龍神さんの前に坐りこんだ。 神がかり状態で、もんは独り言を言い始め、その間にも、シナヨの運ぶ水を茶碗で何杯かお代わりし、ついには丼でがぶがぶ飲んだ。 神がかりが去ってから、もんはシナヨに訊いた。「龍神さんに一度もお水をお供えしとってないな」「はあ、祀り方が分からんので、お水も何もあげたりしていません」「それはいけん。お庭に池を掘ってお宮を作り、龍神さんをお祀りさしてもらいなさい」 言われる通りに小池をつくり、龍神を祀った。 もんはさらに綾部の金神さんへお詣りすることをすすめた。ちょうど亀吉の先妻の娘が夫が死んで帰ってきていたので、留守番はあった。ふと気が動いた。ついでに実家の甥の大森清もさそって、もんに連れられ初参綾した。大正四年の五月のことである。 龍門館で二人を待たせ、もんは、「先生はどこにおられるか訊いてくる」と言って奥へ去った。 シナヨと大森が心細く立っていると、銀髪の下げ髪、生壁色の羽織に白衣の老婦人が別荘の渡り廊下に出てきた。すぐひっこんだが、気になるふうに三度も姿を現わした。 大本のことはまだほとんど知らぬシナヨは、教祖が男だと思っていたので、「あの上品なお婆さんはきっと教祖はんの奥さんじゃろうで」と甥に囁いた。 もんが戻ってきたのでその話をすると、驚いて言った。「それはあんた、もったいない、教祖さまじゃが……」 そこへまた直が出て来て、恐縮するもんに語りかけた。「今日は何か知らん嬉しゅうて嬉しゅうて、じっとしておられんですわいな。そこのお人、どこからお参りなされた」「はい、わたしの郷里の伊予の大洲という所です。海を渡って、ここから三百里も離れております」と、もんが代わって言う。「それは遠方からようこそ。先生はいま大阪へ行っとってじゃさかい、帰りには大阪ヘ寄って、是非先生にお会いなされ。それからなあ、そうや、先生もおいでなさらんさかい、今夜はここにお泊まり下され。お澄に言うときますで……」 佐々木もんは龍門館ヘ泊めてもらうのは初めてだと、その夜しきりに有難がっていた。 帰りは大阪の岡崎直子の家に王仁三郎を訪ねた。 どうしたことかもんは、王仁三郎に頼んでいる。「佐賀さんの家には、なかなか良い息子さんがいます。どうそ大本でお世話を願います」「よしよし、いつでもよこせ。わしが世話してやる」と、王仁三郎が気軽に答える。 横で聞いていてシナヨは不快であった。伊佐男は大切な一人息子なのに、いらんことを言う人じゃと、もんの独断にむかむかした。 そのことは別にして、シナヨは、初めての旅でもあり、直や澄に親切にしてもらい、単純に大本に惚れこんだ。 大洲に掃るなり、シナヨは子供たちに言った。「大本さんはとても良い所じゃから、イーちゃんは先に、トモエは女じゃから後でおもんさんに連れて行ってもらいなさい」 もんの都合があって、三年後の大正七年の夏休みになってようやく念願がかなった。伊佐男は筆先を拝読しつつこの日を待っていたのだ。 八月二十二日未明、馬車で大洲を出発、長浜まで二時間半、早朝船で長浜を発ち瀬戸内海を一昼夜航海、翌二十三日朝、大阪港着、京都を経て綾部に着いたのが午後二時前、面会謝絶の王仁三郎に会うことができたのである。 房々と長い髪を無造作に後ろで束ね、あぐらの上に赤子を抱いた浴衣がけの教主さまはとてもがっしりと大きく見えた。こうやって目をつぶっている間もあたたかく脳裡にこびりついて離れない。これで母のときのように教祖さまのお姿をちょっとでも拝することができれば、と伊佐男は思いつめていた。
 八月二十四日午前二時頃、滞綾中の松江の医師井上留五郎は、中村こまによって叩き起こされた。「二代さんが病気です。すぐ来とくれなはれ」 井上が駈けつけた時、澄は王仁三郎の病室の次の間で苦悶していた。直は澄の腹部を撫でつつ、一心に霊を送っており、ねじり鉢巻の王仁三郎は、自分が苦しんでいるような表情でのぞきこんでいる。 すでに急を聞いて駈けつけた多くの見舞いの人たちが部屋にあふれていた。 井上は王仁三郎の傍にそっと坐ったが、重い胃痙攣らしいと診てとった。 やがて麗朗たる神言が、直の口をついて奏上される。居合わせた人たちは思わず合唱しかけたが、王仁三郎に制止され、あとは澄み切った直の声のみ響き渡る。天籟静かに地籟また寂たる中に綿々嫋々として絶えざる波調を帯びながら、その清冽さに心底まで洗われる思いで、井上は直の祝詞に聞き惚れる。 神言が二回奏上されると、顔色を取り戻した澄が目を開き、井上に気づいて笑みかけた。深夜の金龍海上で王仁三郎に明かされていた通り、早くも澄が悪霊群のとばっちりを受けたというのか。 井上が澄の診療を終え快方に向かったのを確認したのは、夜明けに近かった。 奥の間から王仁三郎の声がかかる。やはりねじり鉢巻で、さも苦しげに肩で息をついている姿が、芝居じみていてふとおかしかった。王仁三郎は絶対に医者にかからぬと聞いていたので、診察する気はなかった。 王仁三郎が言った。「あんたはあの、世にも美しい教祖さんの神言を聞けて結構やったのう。あの声が純粋無垢の天人のみ声や。ただちに祈りは天界へ達し、天地に広がる。わしがあの時、皆の合唱を制してその厚意をことわったのも、あの珍の言霊の邪魔をさせたくなかったからや」 それからしばらく天井を眺め、静かな声で教えた。「祝詞はのう、井上はん、神明の心をやわらげ天地人の調和をきたす結構な言霊じゃ。だから何でも唱えたらよいというものやない。その言霊が円満清朗であってはじめて、一切の汚濁と邪悪を払拭できるが、悪魔の口から唱える時はかえって世の中がますます混乱悪化する。悪魔の使う言霊には世界を清める力がないばかりか、慾心、嫉妬、憎悪、羨望、憤怒などで濁っておるさけ、かえって天地神明のみ心を損うことになる。日本は言霊の幸う国というが、身も魂も本当に清浄になった人がその言霊を使ってこそ、はじめて世の中を清めることができるのや」
 星田悦子が福島久から王仁三郎病気(実は床縛りの行)の急報を受けたのは、八月二十三日夜であった。すぐ飛んで行きたい思いだが、もうこの時間では汽車はない。 翌朝、大阪発六時三十分の汽車で綾部に向かう。その日は澄がまだ病気静養中であり、王仁三郎にも面会を許されず、福島久と神徳談をして送る。そして翌二十五日午前中、ようやく星田は病室に通され、面会がかなう。 この二十五日、朝から機嫌の悪かった相生が、昼近くぐったり元気を失なった。井上留五郎医師が駆けつけ手当てをしたが、昼過ぎに引きつけがきて容態が急変、午後一時、昇天した。相生の松にちなんで長寿をと祈りをこめた親の願いもむなしく、五ケ月に充たぬはかない命であった。 双生児のために母乳が足らず、澄は、不足分を水飴を溶かして飲ましていた。「水飴はやり過ぎぬようにな」と直からかねがね注意されていたのに、やはり原因は水飴のやり過ぎだったらしい。 井上は主治医として力の至らなかったことを詫びたが、逆に直は、悲しみのうちにも毅然として慰めるのであった。「相生の国替えのことは、神界より三日前に知らせがありましたから、覚悟しておりました。あなたが心を痛めなさるには及びません」 王仁三郎は相生の死顔を食入るように見つめると、後は「床縛りの行中」と称して自室に篭ってしまう。が、例によって悲しみに打ちひしがれた王仁三郎のすすり泣きが、室外に漏れてくる。 小さな屍を中に、澄・久・龍・星田はいつまでも動かなかった。彼女たちの顔には、止めどなく涙が伝い落ちる。他の者たちは通夜の準備に忙しそうに立ち働いていた。 涙を拭った久が澄に向かって、叩きつけるように言った。「どうやいな、お澄はん、六合大殿といい、相生殿といい、男の子は跡継げぬというお筆先の通りになったでよ。実に実に不思議ではないかいな。気の毒に、相生殿の国替えは親の身代わりじゃ。このことをよくよく心得て、いいかげんに改心しなはれ」 星田は感じ入ったように大きくうなずく。が、澄と龍は、むっとした顔で横を向く。気まずい沈黙が続いた。 午後四時頃、久は立ち上がった。「今夜は夜通し相生殿の側についていてやりたいさかい、今のうちにちょっと休んどきます。星田はんもそうしてないかい」 久と星田は別室に下がって、畳の上に横になる。すぐに久は寝ついたようで、軽いいびきをかき始めた。と思うやいなや、突然、「何者」と激しく叫んで、はね起きた。「どうしなはった?」 星田が驚いて声をかける。肩で息をしながら一点を見つめていた久は、ややあって語り出す。「今なあ、男が現われてなあ……」「どんな男ですい?」「それが……頭も姿も芝居で見る定九郎のような三十ぐらいの男や」「夢でも見なはったんでっしゃろ。いびきをかいてなはったさかい……」「夢かもしらんが、あまりに鮮やかな……何かを物申したげじゃった。これはぜひとも神さまにお伺いしてみねばならん」 久は星田を従えて、金龍殿の神前に進む。すぐ神がかりして、しきりに問答していたが、終って振り向いた久の顔は、興奮で紅潮していた。「星田はん、どえらい御神託があった」「……」「わしの見た男の姿はなあ、三たび生まれ代わった相生殿の姿じゃげな」「それはどういう意味ですいな」「さあ、この仕組み、言うてはならず、言わねば分からず……どうしたものかのう」「どうぞ明かしておくれなはれ」「他言無用やで。いずれの日か、先生が相生殿をつれて隠居なさる。その後、知恵をつける者があり、相生殿は『坊ち、坊ち』とおだてられ、ついに謀叛が起こり、大本の中は派が二つ、教えが二つになりゆく」「何と情けない」「はて、そうかなあ。このままでは、天照彦の憑いた先生は改心できまい。二代の世が続く限り、大本はいつまでも水晶にはなれん。相生殿が再生するのは親の改心のためで、その時こそ義理天上日の出神が表に現われて、汚れたものを押しのけて、まことの大本をおったてる。相生殿は三度この世へ出たにつき、御霊は神と成りおさまるなり。嘆くでない。めでたいことである。この深い仕組み、人民ではなかなか分かることやないでよ」「ほんに、奥の奥にはまた奥が……大本の中に派が二つに、教えが二つに……ほんにほんに、ありがたいことですなあ」「さあ、改めてお礼申そうぞ」 二人は、涙を流しながら、いつまでも神前にぬかずく。

表題:土だるま 12巻8章土だるま



 『神霊界』九月一日号には、綾部新聞に掲載された「綾部だより」、「一葉落ちて知る天下の秋」が転載され、さらに友清天行は「一信者の手帖から(一)」と題してご丁寧に「いよいよの時の為」とこまごました注意を載せ、読者に一層深刻な影響を与えた。 ……いよいよの時はいつくるか。いずれにしてもあまり遠き将来でない。前月末大本内部には種々の大変動が起伏しつつあるが、大本の中にあったことは、何も彼も世界に現われてくるのであるから心ある人は今日より眼精を換却し、去って看一看し来るを要します。いよいよの時には、もとより何も彼も神力によって解決されます。けれど神力にのみ依頼して、人間としての用意努力を怠ってはなりませぬ。人間としても相当に働けるだけの体力・心力を神さまから賦与されているのでありますから、人間としても充分の用意するところがなくてはなりません。 ……裏の神諭には「尽くすベき手段を尽くさず、ただただ神のみに祈りて利益を得んとする者は、かへって災害の種を蒔く者なり」とあります。身軍籍にある者は在郷軍人として何時にても蹶起従軍し得べき物心両様の準備用意あるべきは申すまでもないことですが、ここには軍籍にあらざる大本一信者としての用意について、取越苦労かも知れぬが一片の婆心を披瀝しておきたいと思ふ。 ……服装その他については、いずれそのうち大本の方からあるひは期を見て何等かの内達があるかも知れないけれど、大体に於て高杉晋作の奇兵隊の如きに準じ、すべて国風にのっとり、かつ時世の利器を応用して、自分自分に考案工夫するが可からうが、一例を示すならば短き筒袖に武者修行風の野袴のモット工夫したもの、手甲装・脚絆・頑固なる足袋・草鞋若干・白木綿一反(何彼の用意のため)・帯・手拭・紐・畳糸・針金・鋏・毛抜・アルミ製食器一組・防雨衣・発火器・油紙・袋・風呂敷・地図・食糧若干・手帳・鉛筆・白紙・小刀ぐらいのものは、用意あって然るべきであらう。いくら神力神力といっても、扇子一本持って砲烟弾雨の中に出るのはむしろ滑稽で、日本刀一腰はぜひ必要である。抜く抜かぬは別問題だ。射撃の心得あるものは、銃器弾薬の用意も結構であらう。大神さまの「お守り」と神典の大切なところを小本に立てて所持するのも結構、また大本信者たる標章の様なものはそのうち何とか神界からの命令があることであらう。すべて獣皮獣毛類を避く可きは申すまでもなく、かついづれも軽快にして耐久力のある材料を選ばなければならぬから、材料のあまり高くならぬ間に買込んでおくが可からう。服装の如きは、そのうち大本からどう云ふ風に内示があるか知らぬけれど仕立てずに材料だけ用意しておけば可からう。しかしそんな準備よりも体力心力の準備が第一であることは大本信者としてこと改めて言うまでもなからう。
 福知山連隊から毎日のように修行に通って来ていた福知山工兵第十六大隊長小牧斧助陸軍大佐が予備役となってこの九月に入信、教監として大本内に腰を据えた。 以来海軍将校に混じって陸軍色が際立ってきた。篠山連隊の某中佐が来綾、更に同連隊の中佐を同行して再綾、そこへ福岡連隊の某大佐が来る。伊勢から馬場中佐、松江から丹羽中佐、篠山からは三たび目に一中隊の兵士を引率して中隊長が参拝、翌日又他の中隊長が部下一行を引きつれてザクザクとやってくる。 海軍関係では蔵住中佐・矢野中佐・牧主計大監・大津少佐・伊藤大尉・武田中尉・橋本中尉・新庄造船中監らが来綾。 同じ九月に神戸新聞営業部長桑原道喜が、前後して神戸新聞主筆今井梅軒が、共に一家をあげて綾部へ移住。続いて三井物産台湾支店長を十一年間勤め上げ東京本社へ帰っていた岩田久太郎(琥珀洞鳴球、子規十哲の一人)が社を辞任して綾部へ移り、それぞれ大本教監として新たに加わる。 九月に来綾入信した男がもう一人いた。岡田建文の『彗星』を読んで、神戸から出てきた谷口正治(二十六歳)だ。文筆の才が認められて、やがて『神霊界』の編集に加わる。後に「生長の家」総裁となる谷口雅春である。 岩田と共に台湾の実力者である明治製糖会社重役高木鉄男(岡山生まれ、東大法科政治学科卒)はこの夏、雑誌『新台湾』で大本を知り、十月初め参綾して入信した。この年の暮れ、大本へ活版印刷機一台を献納する。高木の綾部移住は翌八年二月になるが、この岩田・高木入信を機として台湾全土に大本旋風が吹き荒れるのである。 秦陸軍中佐(のちの憲兵司令官)は参謀本部から欧州の戦場へ戦況視察のために派遣されていたが、帰朝後間もなく大本を知って参綾、王仁三郎と面談して入信する。秦は世界覆滅の陰謀に関する「シオン議定書」という文書を王仁三郎に手渡し、滞欧四年で得た結論と大本の所説の合致に感動、こう語っている。「今や欧州各国の人々は実は戦争の惨禍をしみじみ痛感して、この地上から、戦争を根絶せしむべく、偉大なる統一者の出現せんことを衷心から渇望しています。その統一者は何者であるか解らぬが、とにかく、ある超越的威力が現われて世界を統治してくれればよいと熱望しているのです」 大正六年以来急速にふくれ上がった教団の悲しさで、無学で実力のない古い役員たちでは全国からつめかける求道者たちを統制しきれず、祭務方面にばかりまわされていく。 運営面の実権は新しい役員たちによって握られた。彼らは世間でも相当の地位があり、学力も財力も経験もまた豊かであった。大本の中にはこれと言った言論統制などないから、それぞれが好き勝手な熱を吹いている。いわば群雄割拠時代なのだ。中でも教団内外の浅野和三郎の名声は大きく、ともすれば王仁三郎をしのぐものがあった。 七十五日の床縛りの行の期間中、王仁三郎が教団の仕事から一切手を抜くと、浅野・友清ら明治五十五年立替え説を信じる連中は、一せいに拍車をかけて走り回った。福島久・星田悦子・牧寛次郎ら八木派の連中は、この大事な時期に情けなくも病臥している教主夫妻に対し種々の非難をふれ回り、教主批判の芽をさらに育てた。 王仁三郎の教主らしくない奔放な日常は、役員・信者たちにはどうも理解しにくいらしく、『神霊界』九月十五日号には、王仁三郎の人間性について弁解とも解説ともつかぬ友清の一文を載せた。 友清はこの時点では王仁三郎の弁護側に立って書いているものの、半年後に反大本側に回ると、同じ材料が同じ人によってたちまち攻撃の材料に焼き直されるのだが……。 ……大本そのものがすでに一大スフィンクス、謎の世界であるから、その経緯の二大神柱の一たる瑞の身魂・変性女子・出口教主がドンナ人であるか、いよいよの真骨髄はとても今から見当のとれるものではない。いはゆる聖眼見る能はず、賢口語るベからざるものである。とりわけ私共のやうな日の浅い信者が彼れ此れ言ふのは寧ろ滑稽に近い感があって、あたかも群盲の大象を評するが如くではあるが、しかしカントは生前百里を出ずして批判哲学を大成し、徳川時代の某は父兄たらずして父兄訓を著はし、大隈候は一度も洋行せずして何時も外国の風物を談論するから、私も一寸その群盲の仲間入りさせてもらひたいのである。 ……宗教でなくても、教会でなくても、これだけの規模の精神的団体の管長とか教主とか言はれる人なら、品をよくして簾の奥にでも収まってをられさうなものであるけれど、いつも粗服でめったに袴も着けずに色々な仕事をしてをられる。来客の応接やら原稿の執筆、建築の設計やら印刷部の世話やら、時には神霊界の帯封を書いたりしてをられる。しかしそれは普通の人の目に映ずるところで、別に神界の御用が忙しいこと無論である。 どうかすると玄関にでも出かけて来て煙草をふかしながら言霊学の説明から義太夫を唸り出したりせられるので、はじめての訪問者などは呆れ返ってしまふことがある。月明の夜なぞ独り金龍海に船を浮べて舷端を叩きながら何だか唸ってをられるやうなこともあるし、性来は仁愛の結晶であるけれど、何か気に入らぬことがあるととんだところへ大雷が落下したりする。先づ誰が見てもどこにも神さまらしいところも、鹿爪らしいところも、何らの彩色もない。無色透明な人と言ったら、幾らかその面影を髣髴せしめることになるかも知れない。 ……世界の光景がみな大本へ映り、大本にあったことがみな世界へ出てくることは大本本来の因縁であるが、大本内には近来種々の出来事が起伏しつつある。せんだっては今春生まれられた相生さまが帰幽されるし、教主は一ケ月ほど前から病床に臥してをられる。その他いろいろの波瀾が重畳してきている。教主は生来ほとんど病気らしい病気をせられたことはなく、タマに御不快でも十日でも寝られると直ぐに治ったさうであるが、今度は空前にしておそらく絶後の現象であらう。とにかく大修祓であるから、世界にも何彼のことが近づいたことは蔽ふべからざる処である。 ……教主は座談の時には警句百出、いかに苦虫をかみつぶしたやうな人でも抱腹絶倒するぐらいだからすこぶる気楽に見えるし、物事を苦にせられないやうに見える。いや見えるばかりではない、確かに左うであるに違ひないが、それかと言って決して涙のない人ではない。熱涙は満腔にみなぎっていても、多くの場合それを色に出されない迄のことらしい。せんだって相生さまの帰幽の如き、いかに経綸とは云っても教主もマサカ嬉しいわけでもあるまいが、辞色平然たるには挨拶に出た人が困るぐらいであった。『英雄涙無きに非ず、別離の時に濺がず』といった風な調子であらう。 病床に見舞に行っても格別な談話は少しもされない。普通の聖賢とか何とかいはれる人なら、斯う云ふ場合には必ず来訪者の感心するやうな訓誨めいたことや、悟り澄したやうなことを並べるに相場は定っているが、教主のは虱の話や屁の話ぐらいである。訪問客も有難い次第である。 ……しかし何も彼も化けてばかりもをれぬものと見えて、食物なぞはまた思ひ切って真面目を通り越して、病中だからと云っても世間のいわゆる滋養品の類は全く用ひられない。ことさらに用ひられないのでなくして嫌ひなのである。粥と野菜の漬物と梨の汁ぐらいなもの、日によると粥も用ひられないで、麦紛ばかりですましてゐられる。いつか風呂の中で我慢してうどんを二杯平らげられた奇談もあるが、これなぞは特筆大書するに足る出来事かも知れない。病中でなくても平生でも色んなものは用ひられない。獣肉なぞは申すまでもなく、魚肉もほとんどやられない。鮎が好きと言はれても、一匹食はれたことはない。一箸つけられるだけである。生物に対する同情から自然に左うなられたものであらう。 仏教の高僧とか何とか言はれる連中が、戒律でことさらに肉食を禁じてあるなぞの亜流でも何でもない。酒もお神酒を頂かれるのが一生懸命ぐらいだから、物質的にこの人生に於て享楽せられるところは淡泊極まるものである。御魂の性来はもとよりのこと、人間としても苦楽を衆と共にする性質で、四海と春風に坐し、天下と明月を分つと云ふやうな気分の人であるが、その物質的享楽まで共にさせられては此方で願ひ下げにして頂きたいぐらいの教主の生活ぶりである。 ……教主は弓は日本一の強弓、絵も書かれる、書も書かれる、何でもやられる。昨年の春まで、暇さへあれば土まぶれになって労働もやってをられた。いや実際に人間としての教主は、宗教めいたことでなくても、政治界にでも実業界にでもいかなる方面に活動されても大業を成し遂げらるる偉人物であることは、少しでも活眼をもって接近すれば誰にでも解るはずである。大本信者の中には教主の一指の動くところ、水火もいとはず馬前に死を誓ふものがドレだけあるか知れない。もとより神縁の然らしむる処ではあるけれど、人間としての出口先生のある偉大なる力によることも争へない事実であらう……。
 相生を失った衝撃で神経がおかしくなったのかも知れない。澄は、どこからか絶えず見つめてくる恐ろしい目を感じて、落ち着けなかった。目は一対ではなく、前後左右、時にはまわり中に群をなしている。 ――龍神さんや。お池の龍神さんが、うちをにらみつけとってじゃ。 こわいもの知らずの澄の全身が寒気立つ。あまりの恐さに、思わず押入れの戸を引きあけ夢中で逃げこもうとして、思い返した。大本の二代が龍神を恐れたと言われては恥ずかしい。 負けん気の澄は、病床の夫にも誰にも、この異常な幻想を語らなかったし、その怯えを見せまいとしていた。 気弱くなっている澄を敏感にかぎとってか、久はつきまとって吹きこむ。「相生殿が死んだのは二代夫婦の罪の贖いのためじゃということを、わたしは神さまから見せられている。王仁殿が改心できねば、相生殿は三度生まれ代わってきて、大本の教えを二つに引き裂いてしまうのじゃ。分からなならぬ肝心の肉体に実地のことが分からぬと、事が遅れて世界中に困ることがでけるから早く知らせようと、日の出神のこの思い。それやのに王仁殿はわたしの言うことをちっとも本気で聞かんさかい、いや、王仁殿にかかる悪霊が聞かそまいとして邪魔するさかい世界のこの混乱、そのためにはまず澄殿の改心が第一……」「姉さん、改心改心と言いなさるが、わたしはこれといって悪いことなどした覚えはなし、どう改心すればよいんじゃな」「悪いことなどしたことがないと言うのが、すでに大きな慢心の罪じゃ。この福島久が義理天上日の出神の肉宮じゃということ、二度目の世の立替えは一切のことが八木が初めであるということを、二代夫婦は認めようとなさらん。これほど大きな罪はないわいな」「認めろと言うちゃっても、そんな夢みたいなこと、信じる方が無理ですわな」「またそのようなことを言うてや。大正四年の二月の三日から日の出神が福島久の肉体にかかり一生懸命知らせるのに、あろうことか『この肉体に悪魔がかかり大本さまのお仕組をさぐりにきた』くらいにほか思わんから、神はあきれて二の句がつげんぞや」「……」「去る七月十二日の夜でありたが、この肉宮が親子ともども涼みておりたら、北山から火の龍がご夫婦さまでお登りなされて、後から四斗樽ほどの火の玉がお登りなされ、その玉が火の龍の後を追うて乾の方面に向けてお下りなされたから、その様子を拝みておりてじっとはしておられぬ。そこで綾の高天原へお伺いに参りた。 教祖さまが申されたわな。『何事も人それぞれのお役があるが、わたしはまだそんな様子を拝ましてもろたことはない。お久はよくそんなことを言うてじゃなあ』、『教相さま、おそれいりますが、あなたさまから神さまに何のことか伺うてみて下され』、『わたしがお伺いしてもよいが、お前が拝んだのじゃから、お前がお伺いしてみなされ』……そこでご神前に向かってお伺いしたら、なんとなんと……『日の出神は肉体持って外国で働いておりて、世の代わり目であるから外国で大手柄して帰るというようなちょろこい考え方を皆しておるが、日の出神はこの勢いで大足姫殿(大槻米)と神界では荒働きである、大望なご用をいたすその方に実地に見せたのである』とのお指図でありたから、その通りを教祖さまに申し上げたわな。 その時の教祖さまのお顔つきというたら、今でもはっきり思い出します。神々しいというか、凄いというか、思わず震えたほどじゃ。そして申しなさるには『そなたがご用いたすということは承知しておりたなれど、そんな大望なご用するとは知らなんだ』……。 大本は世界のことが映る鏡、綾部を元とすれば八木は外国の型やわな。八木という字を合わせれば、米国の米の字になろうがな。福島久が外国の型の八木に住まいして大本へ手柄を持ち帰るという謎がなぜ解けぬ。下山の辺のあばら屋、この福島久の住む家のそばの小橋が昔から日の出橋というのも、何かの因縁であるわいな」「そういえば、ほんに、あの橋を日の出橋というたなあ」 十歳の澄が久の長女ふじをおぶって、日の出橋の上から小鮒のたわむれ遊ぶのをけなるく(うらやましく)眺めたことを思い出す。正直で働き者で私心のない姉であった。この姉が嘘をつくような人柄でないことだけは、澄は信じる。だから……そうなれば、久の言うことは真実でなければならぬ……。 混乱する澄に、久はここぞと喋りまくる。「この度の立替えの大望は、明治二十三年から始まりておる。明治二十三年の福島久の神がかりから二十四年のお米姉さんの神がかり、二十五年の教祖さまの神がかりへと続いていくわな。教祖さまが神がかりなされて誰一人審判ける者もなく皆が気違い扱いしてござる時、八木から福島寅之助と久がお見舞いに参りて、寅之助が申し上げたわいな。『鬼門の金神さまに間違いありませぬから、何とぞお鎮まり下さいませ。この福島寅之助がわけてお願いいたします』、その一言で『おお、この方の身上がわかりたか。この方を審判けたのはその方であるから、その方にお札を申す』と教祖さまが申された」「ほんに、そんなことがあったげななあ」「教祖さまの神格を審判けたのも八木がはじまり。教祖さまが八木で百三十日の荒行を遊ばしたなり、澄殿は一年半の修行をなさったな。明治三十一年、日本と外国の境にたとえてある神政松の麓、寅天堰に常世姫(久)が茶屋を出し、変性女子(王仁三郎)を道引きしたのが王仁殿の大本入りの初め。近くは飯森殿と久が浅野殿を大本ヘ引っぱって、それが海軍関係の続々の大本入信となり、これほど開けて参ったではござらぬか。何事も八木が初まりであるのに、綾部と八木とは別であると申すような、いやな汚き心を持っている者が多いから、本当のことが分かりはせぬ」「姉さん、そんなにやいのやいの言うちゃっても、なかなか人に分かりはしませんわな」「神さまがせつきなされておるのじゃ、澄殿。だからこそ、わたしはご飯も日に一度、それもいただいたりいただかなんだり、六年の暮れから筆先は出るなれど肉体が落ちついておれぬため心の底がおさまらず、何彼のことを世を持ち荒らした守護神に申し聞かさなならんなり、悪に返りておりた守護神にも申しつけなならんなり、早く経綸を分からそうとこんなに骨身をけずって苦しんでおるのに、フンフン、高天原(綾部の大本)のド役員たちは疑いのいやな顔して色眼鏡で見て、わたしのことを何とぬかしておる。『世が世であるから、悪の守護神が名を騙りて化けておるのじゃ』と」「……」「大正四年に根の国底の国の十万道の成敗におうてきて、その苦しみがこの肉宮の胴身にしみ渡りておるために、高天原に見出されて重いお役に当たりた神(役員)がやりぞこないいたしたら、それが二度目の規則破りとなるのであるからたまらぬと思うてとんでくると、高天原の主に立つ神はどのい言う。『阿呆らしい、なんのその、八木の者が何程あせりて見た所で蠅虫が立っておるか、蝉が大木に止まりておるように思うておる』と取り上げては下さらず……それ、あちらの居間には呑気そうに八雲琴が鳴り続け、こんなことで三千世界が救えるものやら……」 久は涙さえ浮かべて身もだえる。 久にかかる神が善か悪か、澄には分からぬ。けれどその熱誠が痛いほど伝わるだけに、澄も思わず涙ぐむ。「よいか、お澄殿、ここの所をよう聞きわけて下され。綾部というも八木というも、別ではない。みな大本の中のもの、変性男子と変性女子とこの日の出神の筆先がぴたりと合わぬことには、世界の統一がでけはいたさぬのじゃ。けれど変性女子の王仁殿には天照彦という霊がかかりておって、瑞の霊魂を曇らせておる。天照彦のために、このように天も曇り、地も曇りておるのじゃ」「天照彦いうたら、そんなに悪い神さんやろか」「世の元をあみ出しなされた生粋の神を世に落とし、天の規則を破りたり破らしたりいたしてこの世を持ち荒らしてきた神……何も分からん役員どもが『開けた、開けた』と喜んでおるのも、今の所はまだ天照彦の霊統がおもに集めてあるゆえ……。 大本さまの今の様子は、一たん天の規則が破れてしもうて、世を持たれぬ神の天照彦が名を変えて十分に吾の思いの達した型が写りておるのじゃ。みな筆先の取り違いばかりいたしておると、世界から変性女子の肉体を引き裂きにくる。大本に攻めにくる」「そうすると、この世界の乱れは、先生とわたしの改心のできぬためと言うてんじゃな」「つづめて言えば、そのようになる。一人の規則破りの神がでけたがために、元から末まで総ぞこないのこの世の乱れ……」「もし先生の改心ができぬ時は……」「三代夫婦の御代を待ち焦がれる。王仁殿のやり方では、胴体なしのいか昇りで上下に目が届かぬ。空ばかりあお向いておるから、地の世界は真暗がりで、いま逆とんぶり打つのも分からぬわな。 このままでは気の毒ながら王仁殿は、神の恵みと罪の計量器にかけられて、十万道に逆落としじゃ。ほれ、よい証拠に、この暑い最中に働き盛りの大の男が蒲団をかぶってうんうん寝てござる。神さまの罰が当たっておるのにいまだに気づかぬ」「ほんまに、なしたこっちゃいな」「この春の四月十七日、義理天上日の出神が久にかかって書かされた筆先にどう出ている。『――いつまでも天のおん規則(直の筆先)が頂けると思うて気を許していつものように思うておると、いつ掌が返りてお傍へ寄りつくことができぬようになるか知れぬから、主だちた役員から気をつけて下されよ』…… 悲しや、この頃は教祖さまは筆先もお出しなさらぬ。変性男子さまと申す生神さまのお成り立ちは、あまりご了見がよ過ぎて天照彦のために大変な千座のお気の毒(置戸)の罪を負いなされて、天より高く咲く花を地獄の釜の焦げ起こし、神代一代ご苦労遊ばして、まだご苦労があまりて産みの子に着せてあるから、八人の子供は一通りや二通りの苦労ではないわいな。 それでもあまり分からぬと、変性男子さまもいつ根がつきて、天へお帰り遊ばさぬとも知れぬでよ」 こんなことをひっきりなしに聞かされるうち、澄も次第に久の考え方に感化されていく。 艮の金神を押しこめ天地を吾が物にした上に立つ神の血統という、王仁三郎の出生の秘密にいやでも思い至る。久の言うように、夫の改心ができぬためにこの世が乱れているとすれば、妻である自分はどうすればいいのか。 ――もとより夫は大事、けれど三千年の長い間押しこめられていなさった艮の金神のご苦労、人民の苦しみを思えば、そんなことなど言ってはおれぬ。この日頃、龍神さまが恐い目でにらみつけていなさるのも、わたしの不決断を責めておられるからではないか。 そうだ。夫を殺してわたしも死のう。あとには三代夫婦がひかえている。『三代が後を継げば水晶の世になる』とおっしゃる神様の言葉が真実ならば、わたしたち夫婦の存在そのものがみろくの世の招来のさまたげになるではないか。 久が八木へ帰ってからも、澄はそのことを思い続けていた。 追い詰められるように台所の土間に下り、さりげない様子で出刃庖丁を研ぐ、鋭く鋭く研ぐことによって、決断をも研ぎすましたかった。「二代さん、何しとってんです」 驚いて振り返ると、四方平蔵が不自由な目をそばめ、澄の背後の一点を凝視している。「庖丁が切れんさかい、研いでますのやな。平蔵はんこそ、どこ見とってん」「二代はん、気をつけておくれなはれ。あんたはんの後ろに変な男が立っていましたで」「そんな……誰もおってやないわな」と澄は見回す。 平蔵は言いにくそうに口ごもった。「生身の人間やござへん。それが……」「いやらし、誰やいな。はっきり言うとくれ」「それが、どうも死んだ中村竹吉みたいじゃった。中村がいまだに大本の二代はんを執念深く狙っておるのや。二代はん、気を許したらあきまへんでよ」 心配げに澄の顔色をのぞきこみ、痩せ尖った肩を張って去る平蔵。 澄は身震いした。 その夜、澄は王仁三郎の横に蒲団を並べて敷きながら、敷蒲団の下にそっと研ぎすました出刃庖丁を忍ばせる。 むし暑い夜で、王仁三郎は苦しげに幾度も寝返りを打つ。 この男の妻となってからの二十年、数知れぬ思い出をつくった。楽しいと言うより、血の滲むばかり苦しい思い出を。 人間としては、これほど暖かく思いやりの深い人はないと思う。役員たちの目を逃れて、乳呑み児の直日を連れ、夫と質山ヘ柴刈りに抜け出したあの時が、思えば一番楽しかった。 あわてて澄は楽しい思い出から心をそらし、小松林や天照彦の自由放埒、勝手気ままな日頃の行為を数えたてる。 確かに久姉の言う通り、王仁三郎にお道の妨害をさせているのは、出生の秘密の血につながる神々の系統であろう。血は争われぬという。夫のある限り、艮の金神の世がこぬとすれば、他に仕方はないのだ。一度は、畳針を呑み下して、自分を死の淵に立たせた澄であった。あの時は「生きよ」と神が命じたのだ。今、「死ね」と言われれば、命を捨てるくらい何であろう。 わたしもお詫びに後を追うさかい、許して……。 規則正しい夫の寝息が聞こえ出すと、澄はゆっくり千まで数えて待った。もう千、さらに千……ランプの淡い光が、夫の憔悴した顔を映している。 澄は身を起こして、蒲団の下から出刃の柄を掴み出す。 ふいに、王仁三郎が、はっきりした声でどなった。「こら、わしの髪つかんで何さらすんじゃい。よい気になりやがって……」 はっと澄は出刃をかくし、息をつめる。腋の下に気味悪い冷や汗が噴き出てくる。 王仁三郎は薄目をあけて、澄を見た。「何やお前か。まだ起きとったのかい。今けったいな夢を見たぞ。死んだ中村の奴がわしの髪つかんで、腹に出刃包丁をつきつけくさった」「そんな阿呆なこと、わたしがついてますわな。体が弱ってなさるさかい、そんな妙な夢を見てんでっしゃろ」 澄は震え声で言い返したが、王仁三郎はもう寝息を立てている。 この人は夢の中でも人の心が見透しなのか、それにしても中村竹吉が……夕方、四方平蔵に言われた言葉と思い合わせれば、空恐ろしかった。 どうしよう、どうしようと思い惑い、悶えるうち、澄は夢とも現ともなく、神の声を聞いた。「今度の世の立替えをいたす者は、髪の毛が長う枝毛になっておるぞよ。決して疑うてはならぬ」 はっとはね起き、王仁三郎の髪をつかんだ。夫が目ざめる心配などけし飛んでいた。早く実証を得たい一念で、ランプを引き寄せる。 技毛は、普通それから先、成長が止まるものである。だのにどうだ、王仁三郎の髪はどれも根本近くから二つ、三つ、四つ、五つと枝毛に別れ、そのどれもが普通の髪のように長くのびきっている。王仁三郎の髪が常人より遥かに豊かに房々としている理由がこれで解ける。 ――この人は生神さんや。神さまは間違うてへん。 ほろほろと涙のこぼれる頬を、澄は夫の髪にすり寄せる。 翌朝、住の江に乳を飲ませていると、四方平蔵が声をかけた。「二代さん、今日は何かよい事でもござったかいな。昨夜と違うて、あんたはんの後ろに光がさしているようや」「平蔵はん、よう見とくなはれ。わたしの後ろにまだ中村はんの霊がおってですかい」「おらん、おらん、二代さんの神力で、中村も逃げ出してしもたんじゃろ」 平蔵は、満足そうにうなずいた。 明治二十七年に入信以来二十四年間、時には中村と組み王仁三郎に楯つきながらも、四方平蔵は艮の金神への信仰を微塵も揺るぎなく持ち続けた。今では大本の最長老である。澄に対しても肉親に近い愛情を抱いていた。 平蔵の老いた顔には喜びが揺れる。「平蔵はん、先生はやっぱり生神さんやなあ……」「この大本には生神さんは二人おってや。厳瑞二霊、もう一体のように溶け合うておられますわい」 気がつくと、いつの間にか龍神の目は、澄のまわりから消えていた。「あの時、中村はんの霊がわたしに憑いて、隙あらばと先生を狙っていたのや。龍神さんがわたしの回りに押しかけて守っていてくれちゃったんじゃろなあ」と後に澄は語っている。
 流行性感冒の世界的流行は何度かくり返されたが、大正七年から十二年までの五年間にわたって日本を占有したそれは、その規模の大きさ、死亡率の高さに於て有史以来のものであった。 大正七年五月、スペインのマドリッドで発生、世界に蔓延したので「スぺインかぜ」と呼ばれ、インフルエンザの名もこの時から用いられた。日本では早くもこの年の八月に発生しているが、王仁三郎が掴まえた(?)のは九月も半ば頃であった。流行性感冒と断定発表されたのはようやく十月に入ってからである。 全国の新聞は米騒動に続いて流行性感冒の猖獗をしきりに報じ、まさに悪魔の襲来を思わせた。全世界の発病者推定六億人、死者二千百二十九万人、日本では発病者二千二百八十万人、死者三十九万人を算している。 大阪朝日の大正七年十一月十一日夕刊でも、市内各所の火葬場が満員で、一週間余も焼きおくれ、死体の始末に困って、汽車や船で続々と郷里へ運ぶ騒ぎを報じている。 このスぺインかぜ以後の流行性感冒は一般に軽症で、死亡率もきわめて低いのは、病原菌の性状が変化したためではないかと学界では推測される。 七十五日の行中の王仁三郎に、やがて本格的な苦しみが襲ってきた。痛いの熱いのとわめき散らし、のたうちまわるばかりで、医者もいっさい寄せつけない。「また大袈裟な人やさかい、ほんまの病気やらどうやら分からへんわな」 澄は持て余したが、直の心配は一通りではない。摺鉢に一杯のお土を練って、王仁三郎を丸裸にさせると、手ずから高熱を発する全身にくまなく塗り出した。「教祖はん、そんなことをして、いやじゃい、いやじゃい」と言って、王仁三郎は駄々をこねる。直はかまわず真剣な顔で頭から顔、腹へとお土を塗り続ける。あまり「いやじゃ、いやじゃ」と言ってころころ転げ回るので、たまりかねて傍の役員たちに命じた。「みんなで来て、先生を押えとっておくれなされ」 役員や澄に手足を押えつけさせ、直はとうとう足の爪先まで一面に塗りつけ、さらしでくるんですっぽり蒲団をかぶせた。「皆さんに頼んでおきますが、先生が何と言われても、このお土が乾いたら、わたしが今つけたようにしてべったりお土を塗っておくれなされよ」 直の言葉に、王仁三郎は半泣きの顔を出し、三つ児が甘えるように訴える。「教祖はん、あんまりや。これ見なはれ。まるきり土だるまや、かなわんわい」「先生、しばらくの間でありますで、今度はこうしてお神徳をもらいなされよ。わたしはいつ国替えしても、もうだんないけれど、あんたやお澄がどうぞありたら、どうもならぬ。これからが大望でありますで、『わたしは寿命を縮めてでも』と言うて神さまに願うております」「そんなのいやじゃい、そんなのいやじゃわい」 王仁三郎の駄々は一層高まり、泥まみれの顔をくしゃくしゃにしてどうやらすすり上げている。 ――わたしは教祖さんがこんなに大事にしとられる先生を殺してしまうとこやった。なんということじゃいな。 そう思うとこの場に居たたまれず、澄は空の摺鉢を持って立ち上がった。
 綾部よりの帰途、海上で八月には珍しい暴風雨に遭い、佐賀伊佐男はこのまま死ぬのではないかと考えた。二十歳までは生きられぬという予感が的中したと思った。その前に聖地の土を踏み、教祖や教主の姿を拝せたことが嬉しかった。船はどうにか坂出に難を避け沈没をまぬがれた。もしあの時死んでいればと思うと、一層大本への憧れが強くなった。 学校が始まっても、伊佐男は母に王仁三郎の言葉を伝え、「綾部へ行きたい」と主張して、寄宿舎へ帰ろうとはしなかった。 母は「神さまの傍ヘ行くんじゃから悪いことにはなるまいし、徴兵検査までという約束なら好きなようにしなさい。今まで出してもらった学資はわたしが何とか返すから、その代わりしっかりやるんぞ」と言ってくれたが、周囲の状況はそれを許さなかった。学校へ入るのに町の有力者・校長など各方面に推薦その他で世話になった。実業家への恩もある。連日のように不心得を説諭された。 姉トモエが愛媛県喜多郡天神村の橋本運光と婚約し間もなく結婚することになっており、伊佐男が綾部へ行けば母一人残されるという、悪条件も重なった。結局、無理矢理に学校の寄宿舎へ追いやられた。 半月ほどして、伊佐男はにこにこしながら帰ってきた。「学校に二ヵ月の休学届けを出してきた。お母さん、ぼくは綾部へ行く」 向かいの医者に診察を受け「神経衰弱で勉強できない。静養するなら気持ちの安らぐ所がよいから、綾部へ行かせてほしい」と申し出て、二ヵ月の静養を要するとの診断書を書いてもらったのだ。綾部へさえ行ってしまえば帰る気はないから、自然に退学できるという腹であった。 母は息子の綾部行きを承諾したものの、やはり気になるのか近所の観相や易でみてもらい、「この子は佐賀の跡を継ぐ子ではない。この子を望んでいる場所がこの子の進む方向だ」と言われて、大いに力づけられた。 トモエは、嬉しそうに荷造りしている弟に、良い顔はできなかった。「イーちゃん、情けない、あんたは綾部へ行って、太夫さん(神主の方言)で一代終わるの」「いや、太夫さんになんかならん。それより姉さん、破れて継いである古シャツやズボン、全部荷物の中へ入れてよ」「そんなもの、何するんぜ」「綾部へ行ったら、みなが土運びしていた。ぼく、それがしたいんだ」 あきれて、トモエは脆弱な弟の姿を見つめた。 姉の結婚式に参列した後、伊佐男が念願の綾部生活に入ったのは十月十日であった。まず大日本修斎会の印刷部に回された。当時の印刷部は十人足らずの少年たちであった。粗末な足踏みの印刷機一台で『神霊界』月二回、『綾部新聞』月一回を印刷していた。徹夜が続くこともしばしばであったが、四方熊太郎(二十歳)を中心に誰もが神の声を全国に配布するという使命感に燃えていた。 そのグループの中に溶けこみながら、自分の選んだ道は間違ってなかったと、伊佐男は十六歳の魂をふるい立たせた。
 福島久の目には、王仁三郎の床縛りがまさに世の立替えの前兆かに思えた。「この度の世の立替えは、三代の夫帰(出口直日、大二)に一寸でも濁りがさしたら、末代の汚れになるから、よくよく三代のご養子の父親母親ご両人さま(吉田龍治郎夫妻)に育て上げていただくように、きつく(星田悦子)を連れて北桑田(周山)へぬけつ隠れつお頼み申しに行ったでありたが、この方は何もほかに望みはない、世の元に生粋で働いた神は、世に落とされてくやしきことを気張りこらえたおん徳で元の神世がめぐり来て、共に力を打ち合わそうと思うて、あちらへ駈けり、こちらへ駈けりいたして……」と後(大正八年三月二十二日)に書いているように、久は席の暖まるひまはなかった。 十月十七日に参綾して挨拶に行くと、直が訊いた。「お久や、先生はまだお前のことを疑うていらっしゃるかい」「はい、頭から疑うてござらっしゃるさかい、これだけ長い間になりますが、先生と膝つき合わせて腹の中まで見せ合って話したことはまだ一度もござりません」「そうかい。けれどそれでは事が遅れて仕方がないなあ。今日にもじっくり話し合って見なされ」 その言葉に勇気を得て、久は澄の部屋ヘ行く。この前別れた時、澄はかなり久の言葉を信じてくれたので、会うのが楽しみであった。 澄の顔を見るなり、久は勢い込んで母の言葉を伝える。 案に相違して、澄はけんもほろろに言い切った。「お姉さん、あなたの方こそ慢心しとりなさるわいな。あなたは先生とわたしを誤解しとってじゃ。姉さんに気をもんでもらわいでもかまいません」「……」「姉さんの言葉を真にうけて、わたしも先生を疑うてかかりました。もしや教祖さんのことをだしにして吾の勝手にするのではないか、そんなことなら刺し殺してやろと思いましたわいな。でも夢で神さまのお告げがあって、『今度の世の立替えをする者は、髪が枝毛になっている』と教えられたさかい、じきに先生の髪を調べましたら、間違いなくどえらい枝毛です。姉さんは、先生とわたしのことを見損うておってじゃ。先生は生神さんや。姉さんが先生のことをどのい言うちゃってもわたしは信じんさかい、もう聞かさんといとくなはれ」 久の鼻息が荒くなった。金龍姫(澄のこと)も天照彦に丸めこまれてしもうたかという腹立たしさが、胸をかきむしる。「それなら聞きます。フンフン、先生が生神さんなら、フン、世の元からのことなぞ、何一つ知らぬことはないやろなあ」「そうや、聞いてみなはれ、先生は何一つ知らぬことなぞないわいな」 自信に満ちて言い放つ澄の態度に、久は気押されて黙った。 翌十八日、星田悦子も王仁三郎に忠告しているらしいことは、星田日記に見える。「……この夜、話いろいろあって、(王仁三郎が)『これまではわしも悪かった故、いま神どのが(王仁三郎の肉体から)お留守なれど、体は洗い替えにかかっておるなり。今度良くなりたら、慎しむなり。人に会うにも羽織着て行儀を正しくして行ないを変えさせなさるから安心してくれ』と申し下されて、こんな嬉しいことはありませぬ。この前の時も、慎むと申すことは申し下されて嬉しかったです」 行儀を正しくすると言って星田を喜ばせているが、これは王仁三郎の常套手段と言ってよかった。 王仁三郎が非難される一つの理由は、人によってその人の霊魂相応の言葉を吐き満足を与えることである。だから同じ問題について、AとBとに与える言葉は、白と黒ほど違う場合すら生じる。王仁三郎嫌いの人は、それを不純とも腹黒いとも決めつけるが、逆にそこに真の宗教家としての王仁三郎の面目を見る人もある。 一人孤高を守って慕い寄る者にのみ高い真理を与えるのではなく、まず相手の足元にまで降りて行って同調し、喜ばせるのだ。それによって富者も貧者も智者も愚者も救おうとする。だから右も左もそれぞれが自分たちの陣営と思いこみ、王仁三郎の周囲に集まった。 しかし王仁三郎の八方美人的な言動には当時の役員たちも悩まされたらしく、『神霊界』十月十五日号の友清の一文にもうかがえる。
 甲氏は曰く、「大本に於ては誰も彼も修行中で、修行のでき上がった人はないから、誰の言はれることでも仮に百中の九十九信じられる人があっても、百が百みな信ずるのは危険である。早い話が、いはゆる幹部の人々でも意見がことごとく同一ではないがそんならと言ってある人の言はれるのを信じて他の人の説をことごとく否認するわけにも行かず、全く迷はざるを得ない。そこで何事についても、開祖さまは別として、教主の言はれたことをそのまま信じ切ってをる外に方法はない」 乙氏曰く、「教主は人間としては決して嘘を言はれる人ではないが、必要に応じていはゆる応病施薬の方便で機に応じて法を説かれるのであるから、ある一人が教主より聞いたことだけが事実で、それに矛盾することはみな間違ひであるとは言はれない。これは教理上、または語学上の問題ばかりではなく、いかなる問題に対しても然りで、これを世俗的に悪く解けば、教主にかかってござる神は人を統御するに巧妙無比で、ツマリ対者の気の向くやうに言はれるのだから、教主から自分が直接聞いたからと云ってそれのみ固執して幾通りの道を知らずに居ると、多くの場合それが慢心の種となったり、取違ひの材料となることがあるから、気をつけねばいけない」 こんなことはチョイチョイ耳にしたことであるが、私をもってこれを観れば、甲氏の言はれることも、乙氏の言はれることも、共に同感であると言ひたい。甲氏の説と乙氏の所見とは正反対の如くであるが、実は一貫不動の基点より出発してゐることを悟らねばならぬ。しかしその理由は到底言葉をもって説明し得られるものではない。ある程度までは説明し得られるかも知れぬが、読者をして諒解せしめる量よりも、誤解せしむる量が多からうと思ふから説明は試みぬが、斯う云ふやうな所が大本の大本たる、迷宮の迷宮たる点で、神諭にもある通り教主が大化物である点で、またいはゆる錦の機を織りつつその模様が分からぬやうにしてある点で、またために百千の引っかけ戻しの公案がここらあたりから簇出する点である。いや、なんと言っても、大本ぐらい解らぬ処はない。この大なる謎を解くの鍵はお筆先があるばかりであるが、そのお筆先がまた解らぬのだから、どうにも斯うにも手が付けられない。ここに於て神徳を落とすものは落とし、淘汰されるものは淘汰されて(著者註――翌年春には友清自身が反旗をひるがえすのだ)、身魂の洗練を経させられるわけである。 丙氏は曰く、「今度の経綸の中堅となるべきいろは四十八の身魂はほとんど引き寄せてあって、モ少しするとみな揃ふことになってをる、といふやうな意味を教主が洩らされた」 丁氏曰く、「いろは四十八の身魂はまだほとんど集まってをらぬ、これからいよいよの太柱が引き寄せられる順序となるのだ、といふやうな意味を教主か洩らされた」 さあ、ここにもまた一つの大きな謎がある。上山の路はこれ下山の路だ。さあ、どう思はれる、どう返事をいたされるか、答へ得るも三十棒、答へざるも三十棒だ……実は正直なところをいふと、何も彼も解ってゐるやうな顔してこんなことを書いてゐるけれど、天行道人にもそんなことは何も解ってはをらぬ。
 王仁三郎はそれらの批判を十分承知しながら、一向に気にした様子もなかった。七十五日間の行は、日本刀が研師によって砥石にかけられている期間やと、王仁三郎は思う。研師は大神、日本刀は王仁三郎。砥石は金毛九尾。砥石で磨かれている時はどろどろの汚物が出、刀そのものも汚物に汚れて全く光を失う。だが磨き上がって研師がさっと水をかけると、三尺の秋水、明こうこうとして鉄をも断つべき名剣となる。そうなったとて、神は抜かれはすまい。人知れず鞘におさめておかれよう。 問題は、七十五日の行の終わった時である。教祖直が天に召される時が迫っている。雑多な階級・雑多な思想の持主たちを包含しつつ急速に膨張してきた大本は、ただ出口直の存在によってのみ結束が保たれている。 彼らの大半は、直の生存中に立替えが起こり、王仁三郎によって立直しが行なわれるものと信じている。直の昇天は、大本が四分五裂する危険に直面する時となろう。そうさせぬためには……すでに打つベき手は打ったのだ。後は神に祈るのみ、王仁三郎は泥だるまの体をごろりと寝返った。
 浅野遥が単身横須賀からやってきて、龍門館に住みついたのは二年前、梅野の六年生の秋である。海軍中将浅野正恭を養父に持つ遥は、育ちのよい都会的で端正な容姿の心やさしい少年であったから、ことに梅野は兄妹のように馴染んでいた。小学校ヘの行き帰り、よく送り迎えしてくれた。雨の降る日、遥の傘に入って寄り添って帰る途中、悪童連にひやかされ、梅野ははじめて甘ずっぱい恥ずかしさを知った。 冬の寒い日は金龍殿の広間に大きな火鉢が入る。かじかんだ手を火にかざしていると、遥が暖まった自分の手ですっぽり梅野の冷たい手を包みこみ、霜やけのふくれたところをさすってくれた。 ある日のままごとに、遥は言った。「大きくなったら、ほんとうのお嫁さんになってくれる、ぼくの……」「なってあげる」と梅野がこっくりする。「やっぱりいけない。……君には一さんがいるもの」 投げ出すように遥が言った。「知らない、そんなこと……」 梅野がつんとする。「どうして。だって教祖さまが決めなさったんだから……」「うち嫌い、一さんはかなわん……」 泣きそうに梅野の唇がゆがんでくる。「じゃあほんとうにいいの、約束だよ、指切りげんまん」 遥のさし出す小指に、梅野は真剣に小指をからませる。 その梅野も十五、遥は十八になった。遥への幻の慕情が、淡い初恋に育つにつれ、梅野は変わっていった。かつての鬼娘のごんた振りは影をひそめ、繊細で夢みがちな美しい娘となった。お筆先に名づけられた「ひめこ姫」という名はいかにも梅野にふさわしかった。 ごんたといえば、この頃、鬼娘のお株をすっかりさらっているのが十歳の三女八重野である。泣き虫で、わがままで、怒りんぼう。ある時、どう思ったものか、八重野はこう言って父母を吹き出させた。「おかあちゃん、うちはおいしいものが好きな性やでなあ」 小さい妹のその言葉を、何とも言えん不思議な思いで直日は味わった。そんな発想がいったいどんなところから生まれてよいのだろう。神さま、教祖さま、お筆先絶対の直日にとって、自分の頭でものを考え、解釈するなど思ってもみぬだけに、新鮮な驚きですらあった。 そんな直日であるから、十三歳の時、大二と共に直の盃を受け、二人を並べて三代と総称されることも、神命としてただ素直に受けとめてきた。今、直日は十七、大二は一つ年下の十六、そして大二の兄吉田一は二十歳になった。 京都の梅田家を引き揚げた直日、大二ら白虎隊士は、本丸である龍門館別荘(元臥龍亭)の一つの部屋に毎晩のように集まっていた。頭領の一を中心に、行燈の下で筆先を写したり、談論に熱中する。また、和歌や漢詩をつくって謄写刷りの『暁の鐘』という白虎隊機関紙を発行していた。 ある宵、『暁の鐘』に投稿する歌を持って本丸に来た直日は、誰もいない机上にひろげて置かれた吉田一の日記をかいまみた。まだ水茎のあともかわかぬ和歌一首。   小夜ふけて想ひうたてき文机に       心をさそふ庭の松風 烙印のように、この歌は直日の心に残った。その前の文章にさりげなく書かれた梅野の名と無関係には思えなかった。 頭領殿は梅野を想うて、苦しんどってや……一の苦悩が、直日の心にどうと流れ入ってくる気がする。 よろめく思いで直日は部屋を出た。それは直日の感傷に過ぎないのだろうか。わたしも頭領殿も同じなのだと、直日は思う。ただ神命のままに、夫を妻を持たねばならない。吉田家の兄弟と出口家の姉妹との組合わせが兄と妹、弟と姉と定められたのは何故か分からぬ神界の御都合であって、悲しいけれども仕方ないこと。 教祖さま絶対のあの人は、神に許された心の妻として、ひそかに梅野の成長をいとおしんできたであろう。けれど梅野は遥さんと……。 それは直日の目にも明らかであった。遥を見つめる梅野の初々しい表情、一と急いですれ違う時の梅野の、そむけた顔。まだ十五の子供の仕打ちとはいえ、それが一の胸に暗く響かぬはずはない。 さびしがりの梅野は、小さい頃から陰気な気分を何よりひどく嫌った。だから吉田一が、あの恐ろしい化膿性骨髄炎という病に冒され、長い年月、龍門館で血と膿との苦闘にあけくれていた時、姉と妹とではその見る目もちがっていたのだ。 医者に切断を告げられた両足を守り抜き、とうとう立つに至った一の忍耐と信仰を、いたましくも美しいと感動をこめて仰いだ直日。けれど、小さかった梅野の目には、ただ血膿の匂いただよう異様なギプスや病床が、身震いするほどこわい嫌わしい印象として抜きがたく染みついているのであろう。 純粋で、寡黙で、無骨で、坂本龍馬の風格を偲ばせる頭領殿の好もしさが、何で梅野に分からへんのやろと、一のために、直日は口惜しいのだ。もしこの先、梅野が神命を破ることがあったら、頭領殿はどうなさろう。吉田家は、教祖さまは、そしてわたしは……。 不吉な予感に、直日の心は千々に砕ける。
 大阪の信者であり、浄瑠璃界の重鎮、二代目竹本春子太夫(本名福井清吉、大阪生まれ、五十二歳)が、「ぜひとも教祖さまに浄瑠璃を奉納させていただきたい」と申し出てきた。「ああそうか、神さまがわたしに、浄瑠瑠を聞かせなさるのですかい」 珍しく直はそう言って、この申し出を快く受けた。 澄は不思議な気がした。直の夫政五郎は無類の芝居好き、というより、旅芝居の一座に呆けてついてまわり、請け負いの大工仕事をほうり出して二十日も一と月も帰らぬような芝居気違いであった。 そのくせ直は、ついぞ自分では見たこともない。「芝居を見いでも、この大本の中に大芝居がでけておるではないか。世界の大芝居である。どんなけっこうも聞かしてもろうし、見せてもろう。人のつくりものなど見いでもよい」 芝居好きの澄までがよう叱られたのに。ともかく嬉しいことと、澄は役員たちにその準備を命じた。 十月三十日、小雨降る寒い宵であった。春子太夫一行来るの報で、金龍殿には続々と奉仕者や在住信者たちが集まってきた。若い時から浄瑠璃には凝っていた「ねぶか太夫」(節がない、ねぎの意)こと王仁三郎まで、七十五日の床縛り上げの前日というのに、杖をついて、ひょろり、ひょろりやってきた。直日・大二・吉田一ら少年白虎隊士や娘子軍、青龍隊士の若い仲間たちも舞台前面に陣どっている。 はしゃいだ八重野が、前に坐った少年たちの頭を一つずつこづきまわり、最後に振り向いた新顔の佐賀伊佐男に、イーとべろを出した。 舞台脇の統務閣に通ずる廊下際に小さな衝立を置いて、その陰にひっそりと直が坐った。「お澄や、この座ぶとんを先生に敷かして上げてくれい」と直は敷いているのをよけて、澄に持たせる。王仁三郎に渡そうとすると、「教祖さんにあげてくれ。今夜は冷えるで」と押し返す。 困って直に戻すと、「先生の体が冷えたら、どもならぬでなあ」と直は憂わしげにつぶやいた。 数番の前語りが済んだ後、いよいよ相三味線の豊沢新佐衛門の絃で、春子太夫は語り出した。語り物は「国誉倭桜木」と題する新脚色の乃木将軍伝。昔の艶やかさは減じて、代わりに渋みが加わり、心憎いばかり円熟の境に達している。 直は謹厳な態度で一心に耳を傾けた。 話なかばで澄は咳こみ、止まらなくなった。衝立にかくれてそっと席をはずし、統務閣の居間に下がる。 床をとって休んでいると、しばらくして直が顔を出した。「お澄、お前えらい咳が出るが……」「いいえ、もう大丈夫ですわな」 心配させまいと起き上がったが、咳は意地悪くとび出して来る。直は自分で煎じたお松と一房の葡萄をもって来てくれた。葡萄は吉田龍治郎から贈られたものである。 直は澄の枕元に坐った。「教祖さん、今日の浄瑠璃、分かりなさったですかい」 澄が葡萄の露を吸いながら聞くと、直は微笑んだ。「よう分からしてもらいましたで」「へえ……」「今日の浄瑠璃は日本一の芸であるげなが、わたしにはどんなとこが上手か、何を語りておるのか、さっぱり分からなんだわいな」「なーんや、それでも今、分かったと……」 不満げな澄に、直はしんみりと言った。「わたしが分かったと言うのはなあ、ちょうどわたしがあの日本一の浄瑠璃が分からなんだように、神さまが世界の人民にこの結構を口も涸れるほどよばって聞かせなさっても、ねっから人民には分からぬというわけが、今、ようやく分からしてもらいましたんじゃな」 翌十月三十一日は行の上がりの日で、王仁三郎は予定通り床を上げ、居間から統務閣へ移って誰かと喋っていた。 澄は呼ばれて教祖室へ行く。「お澄や、ここへ坐りなされ。お前に言いおきたいことがあるのや。わたしは明治二十五年から大神さまの言われることを一遍もそむかず、お筆先を書かしてもろうた。お筆先には、この世の一切のことが書いてある。これからは、女子(王仁三郎)さまが人民に分かるように説いて下さるお役じゃ。なかなかご苦労なお役じゃから、お前は先生に腹立てさせぬようにしてくれなされよ」「そんなこと言うちゃっても、あんなやんちゃ者、ヘイヘイハイハイ言うとったら、何しでかすやら……」 直の顔が、厳しく改まった。「お前は私を肉体の親じゃと思うて口応えしなさるが、わたしが言うのではない、神さまが言わせなさるのじゃで。神さまの言われることは、我を出さずに素直に聞きなされ。神さまのお経綸はなあ、この世の始まりから後にも先にもないどえらいことができるのじゃげな。『神界の一厘の仕組は人に言うことはできぬ。直にも言えぬ。この経綸を言うてやりたら、直でも気違いになるぞ』と神さまはおっしゃる。『大本のことは、世界から分けに来る。何事も時節じゃ、時節には神もかなわぬ。経綸が成就してから、ああ、このことでありたか、と分かるのじゃ』と言いなさる。お前は我を折って、先生に従えばよいのじゃ」 その夜、澄が教祖室へ行くと、直が息をはずませていた。「今なあ、廊下の方からきれいな娘が参りて、障子の隙からポイと入って『おばあさま』と言うてお辞儀したのじゃ。『はい……』と返事してよく見ると、それはどいらい狐でなあ……『おのれ、ド狐が……』とどなってやったら、びっくりして宙を立ちて逃げて行ったわいな。あの狐が世界中わるさをしてかき回しとるのやが、あの霊を退治てやらぬとどうにもならぬ」 ――どえらい奴を腹にいれとると先生が言うちゃったが、それやろか。行の上がりで今夜は出てきたのかも知れんと澄が思っていると、直が続けた。「天地のご先祖さまが何もかも万劫末代のことを天地の規則として書き残してあるから、もうどのような悪さをしにきても水も洩らさぬようにしてある。けれど九分九厘まで大本と同じようなことを言うて血統を抱きこみにくるから、おまえは迷うでないぞ。お澄はよっぽどしっかりしてもらわねばなりませんで」
 十一月の一日か二日のことであった。吉田一は不自由な足をひいて教祖室へ行くと、直は火鉢の脇にしゃがむようにして、じっと何かに耐えていた。日常の直をよく知っている一だが、そんな姿なぞついぞ見たことはなかった。いつもと変わった神がかり状態だなあと思いながら、「お邪魔をしました」と頭を下げて退いた。 翌日も同じような姿を見た。顔をうつむきかげんにして、両手で腹部を押えていた。あの時は苦痛をこらえていられたのだと思い当たったのは、ずっと後である。 綾部の町は、各戸かぜに冒されざるはなしという状態であった。浅野和三郎も岩田鳴球も半月程前から流行性感冒で寝こんでいた。出口慶太郎の妻龍も病床にあったし、澄も赤い顔をして唸っていた。直も軽い咳をした。 いつの年のお祭でも、直はお守りのご用が忙しくて沢山書いたが、不思議に一体として余分も不足もなかった。けれど大正七年の年だけは、筆先のご用が止まっても、忙しそうに「ご神体」と「お守り」と「おひねり」を朝早くから日暮れまで書き続け、夜は行燈をともして筆を執っていた。 いっこうにかぜの回復のはかどらぬ澄は、けだるい体を運んで直のために炬燵を暖かくしてやり、声をかけた。「神さまにごめんこうむって、早うお休みなされ」 いつもの直なら、「そんな所かい」と厳しい言葉を返してくるのに、その日に限って「はいはい……」と言って澄の傍へ寄り、行燈で身を支えて、ほっとしたように呟くのであった。「さあ、これでわたしの御用はすんだ、すんだ。お澄の言う通りにするわなあ」
表題:開祖昇天 12巻9章開祖昇天



 大正七(一九一八)年十一月三日、「神界の都合により」と称して延期されていた秋の大祭が執行される。前日来の雨は大祭前にきれいに晴れ上がって、洗い立てのような青空を見せた。 金龍殿内も縁側も庭も身動きならぬほど、人で埋まった。旅館も大祭の前後は空前の繁盛で、町の一等旅館の亀嘉など、奥も裏も部屋という部屋はすべて参拝者で占められ、「ようやく亀嘉も妖魅を追い払われて、立派な鎮魂ができたわい」と、宿泊者が妙な感心をした。『神霊界』十月一日号の「出口教主の病気は神界の御都合で七十五日間ということになっておりますから、十月の末には全快されるはずです。むろん十一月三日の秋季大祭には、斎主を司られることでしょう」という奇妙な予告通り、金龍殿で王仁三郎が斎主をつとめた。直は「そなたは式に出いでもよいと神さまが申し下さるゆえ、休ませてもらいます」と言って、式典には参列しなかった。 この日、大阪の岡崎直子から白蛇が献納された。身長五尺、全身純白の鱗があり、二つの耳が生え、時に金色の光明を放つ。岡崎が香具師より買い受けたものだが、その白蛇を捕えて香具師に売った人は、たちまち両眼失明したとか。 大祭後、王仁三郎が箱に入れた白蛇を捧げ持ち、梅田信之教統以下各教監が金龍海に浮かぶ新造の屋形舟に乗りこみ、大八洲神社に参詣した。 今まで微動もしなかった白蛇がしきりに動き出し、王仁三郎が岩戸の入口に箱を向けると勢いよく飛び出して、岩戸の奥深く身を隠す。この白蛇に因み、新造の屋形舟は白龍丸と命名された。 四日午前中は祖霊社の祭典と篠原国彦の講演があった。篠原の赤裸々な神がかり体験談は、聴衆を抱腹絶倒させた。午後は湯浅仁斎の講演、夕方は福島久が霊験談で手振り足振りの熱弁を奮った。この日、一日中晴天。 五日、曇り。午前中、信徒大会が開催され、王仁三郎の講演があった。それがすむと参拝者たちはそれぞれ帰途につき、神苑内は次第に静かになっていく。 その日の午後、福島久が直のそばで喋っていると、岡崎直子・八木の福島つま子・斉藤こう(久四女)・福島国太郎(久長男)が退綾の挨拶にきた。「またというのも大層なさかい、皆、もう一晩泊まって明日に帰りなされ」と、直が別れ惜しげに何度もすすめた。 困った顔の一同を見て、久が助け舟を出す。「汽車という便利なもののある世の中やさかい、いつでもお参りできますわな。また出直してお蔭をいただくとして、あまり家を明けてもおれんじゃろうし、やっぱり今日はお帰りなはれ」 彼らはそのまま綾部駅へ向ったが、国太郎だけは途中で引き返した。「またというのも……」と、すぐにでも綾部へ戻らねばならぬような直の言葉が気になり、もう一晩だけ泊まる決心をしたのである。 大正四年、久の三十日の度胸定めの行の時、母の両眼にこびりついた目脂を舌でなめとった国太郎は、今は十七才の逞しい若者に育っていた。 午後四待頃、神苑脇の自宅で筆先を拝読していた星田悦子は、なぜだか直に会いたくてたまらなくなり、教祖室ヘ急いだ。珍しく蒲団が敷かれ、その傍に櫓炬燵があった。けれど直は、蒲団からも炬燵からも少し離れ、人待ち顔で独りぽつねんと坐っている。 星田はあわてて言った。「そこではお体が冷えますよって、どうぞお蒲団の上ヘお移りなさいませ」「いえ、ここで大事ござヘん。お澄がなあ、わたしの体を案じて、無理に床をとっていったのですわな。あなたの来なさるのを待っていたんですで。今日は夜が明けるまでゆっくり、話しておきたい。今が峠じゃし……」 直は「今が峠」という言葉を何度か口にしたが、星田にはその意味が解せなかった。寡黙な直が、今夜はいつになく多弁であった。 大正天皇のこと、王仁三郎・澄・三代のことなどをくわしく喋ったが、星田はその内容を秘して記録していない。「綾部と八木との仲取持ち御苦労ながら頼む」と直はくどいほど念を押した。 奥の神前の間で物音がする。「誰じゃろう。見て下され」 星田が隣室の襖を開けると、四方与平が神さまのお給仕をしていた。人に聞かせたくない話らしく、直は声をひそめる。また廊下にひそかに音がして、話がとぎれる。「神さまがなあ、わたしに『今日はお礼をせいでもよい』と言いなさる。明日からは代わりに先生がなされます」 従来どんなことがあっても礼拝を代行させたことのない直であった。 中村こまが食膳を運んできて、星田がお相伴する。直は粥を一口すすって箸を置いた。 星田が食の細いことを案じると、直は口辺に娘のような羞じらいの微笑を浮かべた。「わたしはなあ、昔、三世相を見てもらったことがあります。わたしのような食運の強い者はないげな。けれどさっぱり逼塞してしもうて、自分の子供らにも話されんような恥ずかしい目をして、おなか一杯食べたこともなく、胃袋が小そうなったと思うぐらいでも、誰も察してはくれんじゃろ。わたしはなした阿呆じゃろと思うて、神さまに不足言うたこともあります。そしたら神さまがなあ、『そなたは世界中の者に腹一杯食べさすようにせなならんから、それでそなたの食を取り上げて食わせんのじゃ』と申された。それじゃとしたら、何と結構な御用……」 福知山支部長の稲次要蔵が挨拶にくる。直は話題をかえて機嫌よく喋る。いろいろ有難い話があり、「今が峠や。腹帯しめねばならん時じゃで頼みますで」と繰り返した。そこへ竹安芳太郎と塩見じゅんが入ってきて、仲間に加わる。稲次はそれをしおに、汽車の時間があるので辞去する。 塩見じゅんは四方平蔵とともにもっとも古い信者の一人で毎日のように顔を出していた。じゅんの来ようが遅いと、「じゅんさんはまだかいな」と、直の機嫌が悪いぐらいであった。 夜がふけるにつれて冷えこみが激しくなり、竹安が気を使って、直に炬燵に入るようすすめる。けれどどんな時でも、直は炬燵に入ったまま来客に接したことはなかった。「そうじゃ、今夜は夜が明けるまででも、どうしても話したいことがござる。わたしは炬燵にあたらしてもらうさかい、皆さんも炬燵にお入りなされ」 その思いつきが気に入ったのか、直は星田の手を引っぱる。竹安がそっと星田の膝に触れ、御遠慮せよと合図する。星田も畏れ多い思いで、直の言葉に従う気にはなれなかった。 じゅんが見かねて囁く。「星田はん、もったいないけど、お傍に入らしてもらっちゃったらええのに。遠慮のし過ぎはかえって御無礼になるかもしれんでよ」 炬燵にあたりながら、満足げに直はうなずく。覚悟を決めて、星田は身を固くし炬燵に膝をすべらせたが、心は感激に震えていた。 いつもなら直日は祖母と梅野の三人で床を並べて一緒に寝るのだが、この日は客がいつまでも帰らず、それに直日もまた風邪気味で先に別室で寝ていた。梅野はまだどこかで遊んでいるらしい。 竹安とじゅんもまたすすめられるまま炬燵により、四方山話にふけった。 星田はだんだん腹が立ってきた。今夜はわたしと大事な話がしたいと言われるのに、二人の者が邪魔するから肝心のお話はされないだろう。けれどこの調子ではいつ帰るとも知れず、あまり遅くなってはお体にさわる。仕方がない。今夜はおいとまして、明朝早くうかがおう。「教祖さま、もう遅うなりますさかい、これから帰ってお筆先をいただきます。お筆先をいただいておれば、お傍におるのも同じでございますし……」 直の残り惜しげな顔を見ながら、星田は去りたくもない炬燵から抜け出た。星田が帰ったのは、午後十時頃。 風邪気味の母が気がかりで、澄が熱っぽい体を起こして様子を見に現われた。竹安はすでに帰った後で、直とじゅんが語り合っていた。「教祖さんのお体がようないのに、なんとお尻の長い人や。よいころかげんに去んだらよかりそうなものや」と澄は思いながら、二人の様子があまり睦まじそうなので、注意しそびれて自室へひっこんだ。 入れ違いぐらいに、宵っぱりの梅野がいとこの福島国太郎と一緒にやってきた。八木に帰ったものと思っていた国太郎がいるので、直は嬉しそうであった。若者たちの不遠慮な会話にさえぎられて離れたくない思いをようやく打ち切り、じゅんが腰を上げた。梅野も「あっちで寝るわ」と言って飛び出した。「国太郎、もう遅いさかい、あんたはここでお休み……」 直に言われるまま、国太郎は炬燵に足をつっこむと、あっというまに眠る。 久は、火の気のない神武館で、牧寛次郎と時の立つのを忘れて語り合っていた。気がつくと、深夜の十一時を過ぎている。統務閣に戻り、足音を忍ばせて教祖室をうかがった。 直が一人、褥の上にきちんと坐っている。「お久かい。じゅんさんや星田さんが来てござったが、みな去になさったとこですで。遅うまで御苦労さん、もうお休みなされ」「はい、そうさせてもらいます。なんと国太郎が……」 炬燵には、八木へ帰ったはずの息子がおそれげもなく高いびきで眠っている。自分も母と国太郎の横でぬくぬくと寝てしまいたい。 激しく久はそう思った。久がそうすると言えば、人恋しげな今夜の直はきっと喜ぶに違いない。けれどもしここで国太郎と寝てしまったら、他人はどう言おう。「教祖と血がつながっているばかりに、また偉そうに親子が慢心いたして高い所に上がって寝てござる」と蔭口を叩かれては残念だ。ひがみっぽくなっている久であった。 と、急に太平楽に寝ている息子に腹が立った。「寝かしておきなはれ、お久……」と直が止めるのも聞かず、久は邪険に叩き起こした。「なした厚かましい子やいな、この子は。神武館に床がとってあるさかい、早う下がって寝なはれ」 寝ぼけまなこの国太郎は、泳ぐような手つきをしながら出て行った。 久は炬燵の火を調べる。朝起きて直が炬燵にあたる時、ちょうど良い温度にしておきたい。ちょっと迷った。いま炭をついでは朝まで熱くなり過ぎるし、つがねば朝まで持ちそうにない。そうだ、朝早く炭をつぎに参ろうと思いついて、久は教祖室を下りた。 この夜半から早朝にかけて、本宮山・和知川を中心に陸軍の大演習がある。和知川には攻撃軍が陣取り、本宮山には防衛軍が立てこもる。敵味方、本宮山をめぐる攻防戦を繰り返すという設定であった。 午前一時頃から、金龍海辺では演習の鉄砲の音が激しくなった。星田悦子はランプの下で襟をかき合わせ、筆先を筆写しつつ、その鉄砲の音を聞いていた。筆先通り日本と世界の戦争になれば、鉄砲の弾も尽き果て、人がばたばた倒れていこう。九分九厘駄目になった時、いよいよ教祖さまがお立ち上がりになって大神力を……。 夜の白々明けまで、星田は筆先を写し続けた。一時間でも休んでおかねば肉体が持たぬと寝床に横になったが、直の「今が峠」という言葉と昨夜の話し明かしたそうな様子が気になって寝つかれぬ。あきらめて起き出し、着物を着かえて神苑へ出かけた。七時であった。 本宮山のまわりに、演習中の兵隊が走り回っている。いつもなら金龍海の池畔から大神さまを遥拝するのに、足は自然に直の居間ヘ急いでいた。庭から入って統務閣の縁側の傍にひざまずき、障子越しに教祖室の神前を拝して小声で祝詞を奏上する。 その頃、久は炭をつぎに教祖室へ行き、そのまま褥の裾へ回って、そっと直の足をさすった。「誰じゃ」と直の静かな声。「お久ですわな」「はばかりながら、お水をおくれなはれ」 久が湯呑みに水を運んでくると、直はうまそうに飲み干し、もう一杯所望する。二杯目も半分まで飲んだ。水でさえ「もったいない」と言ってむさぼらず、ほんの喉を湿す程度の直であるのに。「教祖はん、えらいことお水をいただかれはりますなあ」と久が驚いた。「はい、えっと喉が乾いていたので、大変おいしかったわいな。神さまのお恵みを心ゆくまでいただいて、もったいないことじゃった」「足をおさすりしますさかい、どうぞまた横になっとくれなはれ」「おおきに、その前に手水に行かせてもらおかいな」 久は直の手を引いて、厠に供した。この時、ひっきりなしに聞こえていた鉄砲の音がやんだ。攻撃軍が敗退し、防衛軍が本宮山を守って勝利を占めた瞬間であった。 廊下を戻る途中、直は空えずきし、久の腕にもたれかかるとみる間にくず折れた。半ば抱き止めつつ、久が叫びを上げる。 縁の外に膝まずいて祈っていた星田が、驚いて駆け上がった。 星田は王仁三郎に急を知らせようかと思ったが、心せくまま金龍殿に走りこみ、宿直の四方与平を探すが見つからぬ。神さまにお詫びしつつ、神前の御神水とおひねりを無断でいただき、走り戻って久に手渡す。直は拝むようにして飲み干した。 まず一安心と後を久に任せ、星田は王仁三郎の部屋に走る。朝拝の後、苑内の見回りにでも出たのか、王仁三郎は見えず、ほかに誰の姿もない。 急いで元の所ヘ戻ると、直が廊下の柱にもたれ、「ああ、しんど……」と呟き、うとうとと眠りかけた。途方に暮れる久に、星田は声を励ます。「こんな所に休まれていては、お体にさわる。お久さま、お寝間に運びましょ」 星田が直の頭の下に手を入れ、片方の手で胴をしっかり支え、「さあ、お久さま、おみ足の方を……」とうながす。 震えながら、二人で抱え上げた。直は目をあけ、ほやっと笑み何か二言ほど語りかけたが、そのまま意識を失った。 熟睡していた直日は、鉄砲の音で目ざめた。 ――ひどい音や。お祖母さん、あの音聞いてびっくりしちゃったらどないしょ。お祖母さん、死んでやないやろか。 後で思い返すと、骨格のしっかりした芯の強い祖母であるのに、なぜあんなに危っかしく感じたか解らない。鉄砲の音で祖母の死を思うなど……色の白い生肌のきれいな人なので、この日頃、ことに弱々しく思えたのかも知れぬ。 鉄砲の音が遠のいたのでほっと起き上がると、教祖の異常を知らせる誰かの声がした。 王仁三郎、澄、直日、役員信者たちが前後して駆けつけてきた。あまり楽そうな直の寝顔なので、これが臨終に近づきつつある姿だと悟った者は、誰一人いなかった。ただ王仁三郎を除いては――。「きっと艮の金神さまがちょっとの間、御肉体からお出ましになったのじゃ。そのうちお帰りになろうでよ」 誰かが子細ありげに言うと、皆が素直に納得した。これまでも、これに似た状態が時々あった。「神さまがいろんな所へ連れて行って下さる。居ながら諸国漫遊さしてもろてます」と直は嬉しげに語っていたものだ。 そうには違いないけれど、それにしても早くお戻り願わねばと、久は隣室の神前で祈願した。と、久の目に、いつも直が筆先を書く机に向って直日が筆を取る幻影が映る。かねがね「直日さんが十七になりたら世を譲ります」と言っていた直の言葉をとっさに思い出した。 そう言えば半年程前、「旧九月の末になりたら変わりたことがあるから、腹帯をしっかりとしめておくのやで」とも言っていた。今日は十一月六日、旧ならば十月二日、三日ほど遅れたが、もしかしたら御昇天の予言ではないか。そう思うと、久は震えが止まらなかった。 居間に戻るなり、久は王仁三郎に聞いた。「もしかしたら、これは……御危篤では……」「そうでもないやろが……」と半ば慰めるように呟き、王仁三郎は複雑な顔をする。「教祖はん、教祖はん……」 直の耳に口をあて、王仁三郎は呼んでみる。直の安らかな表情は変わらない。 王仁三郎は顔を上げ、「お久はん、あんたの方が声がよう透る。あんたが呼んでみてくれ」 久が代わって懸命に呼び続ける。ついに諦めて、久は血走った目で皆を見渡した。「わたしが三十日の度胸定めで十万道(地獄)へ参った時、祝詞の声が聞こえると無理にも高天原へ舞い上る気がしたものじゃ。ぼやぼやしとらんと、ほれ、皆で祝詞を奏上しなはれ」 昏睡の直を囲んで、祝詞の声が湧き上がった。 午後になっても、その状態は変わらず続いた。王仁三郎はしぶる役員たちの尻を叩いて、各地に教祖危篤の電報を打たせた。 その夜、佐藤忠三郎は、王仁三郎と梅田信之が言い争っているのを聞いている。梅田は京都から妻安子・妾あい・息子伊都雄の家族全員を連れて秋の大祭に参拝していたが、「今から京都へ帰る」と言い出したのだ。それを王仁三郎が必死で止めている。「ほんまに今夜が危いんじゃ。頼むさけ、もう一晩泊まってくれ」「やめとくれやす、もうそんな阿呆なこと聞きとうおへん。教祖さんが昇天されるちゅうなら、お筆先はみんな嘘になりまっしゃないか。阿呆な、阿呆な、けったくその悪い。絶対そんなことあるかい。お安、何ぼけっとしとる、早よ支度せんかい」 梅田は講話に出る度に、「教祖さまの御生存中に、立替えは起こる。もしその前にお亡くなりになることがあれば、わては殉死してみせる」と断言していた。だから王仁三郎が危篤の電報を打たせたことも、死を見越しているかのような言動も、何も彼も癪の種であった。 これ以上、教祖の尊厳を侮辱されていいものか。肉体のお疲れのため神さまがしばらく休養させていられるものを。うろたえ廻るな、阿呆どもと、王仁三郎さえいなければ、わめき散らしたかった。京都に用事があったわけではない。意地であり、王仁三郎ヘの面当てであった。 直の傍に坐りこむ安子やあいを叱りつけ、梅田はぷりぷりして汽車に乗った。 波が間断なく打ち寄せるように、祝詞は朝から休みなく続けられていた。久と星田は、直の枕元を一歩も離れなかった。 不意に星田が宙に目を据えて叫んだ。「あっあっ、教祖さまが……」 天上より薄い緋色の紐が幾筋も下ったと見るや、直の肉体が仰臥したまま引き上げられそうになる。そうはさせまいと、星田は必死に直にすがり、声を張り上げて祝詞を奏上した。久は久で、直の手を握りしめている王仁三郎に叫んだ。「天照皇大神宮殿が迎えにこられたのじゃろう。今そんなことされてはどもならん。先生、お祈りして下され」 王仁三郎と久が、神前に向って祈願をこらす。 午後九時半頃のことであった。霊気が居問の内外にみなぎり、星をちりばめたような絢爛たる瓔珞が天上よリ舞い降りてくる。それが畳二枚いっぱいぐらいの大きさに近づくと、直の肉体から十二単衣を召した二十七、八才ほどの美しい姫が浮き上がった。そのお姿は王仁三郎と久だけでなく、四方平蔵も稲次要蔵もまた霊眼で拝している。「ああ、稚姫君命が天へお昇りなさる」 王仁三郎の悲痛な声とともに、神言を奏上していた人たちは、ふっと自分の体が天へ吊り上げられるような感覚を味わった。 久はたちまち神がかりして、「義理天上日の出神であるぞ。申し聞かすことがある。星田と牧はこれへ」と叫ぶ。星田と牧寛次郎があわてて直の枕辺を離れ、久の前に進み寄る。 この時の問答を、星田日記は記述する。「久『さ、ここじゃ、かねて申し聞かせし生証文にいたすは、その方両人なり。二代殿に取違いなきように、三代殿を立派に仕立て申し上げねばならぬ。もしやこの御用をしとげずば、生首抜くぞよ、必ず、よいか……』、星田『いま一度、大神殿(直のこと)を戻して下され』と願い候へば、牧『皆の和合ができたらと申されたが、とても和合の間に合わぬ、いさい承知いたします。まずおん鎮まり下されたく……』とお鎮め申し上げた。大神殿は稚姫君命となりて、ついに天へ昇りなされた。かかる不思議なことは実におそれ入りて、口にも筆にも尽くされず。この時なりと先生に、牧殿・久子殿、星田とかたくお話いたしました」 直の霊魂の昇天が午後九時半頃とすれば、直の肉体の死は約一時間後、静かに安らかに息を引いていった。 乾いた声で王仁三郎が最後を告げ、ふいに部屋を出て行った。誰もが理不尽な宣告を聞いたように黙っていた。ややあって一人のすすり泣きが漏れるや、それが大きな波のうねりとなって神苑内を押し包んでいく。 やがて犬の遠吠えのように、間を置いてオーオーと長く尾を曳く泣き声が廊下を流れてきた。まるで今夜の悲しみを独り占めしたかのような派手さである。 統務閣に詰めかけた人たちは、顔見合わせてうなずいた。泣き声の主は言わずもがな王仁三郎だ。こういう時の教主の手放しの泣き様は、すでに六合大の死で知れ渡っていた。気がすむまで、泣き涸れるまで、何が何でも泣く気だろう。 誰も遠慮して、王仁三郎の部屋に近づこうとはしない。 急に襖が開いて、澄が立ちはだかった。大の字に畳に伏して号泣中の王仁三郎を見下ろし、激しい調子でどやしつける。「この男、何しとってんじゃいな。そんなどこかいな、今は。なした男やい、この男は……」 王仁三郎はびくっとして坐り直し、涙と水鼻でだらしなく汚した顔を歪めてしゃくり上げる。「もう止まらへんわい、お澄、泣かしてくれやい」「ど阿呆が。先生が立ち上がらんで、この大本はどないなる」 澄の勢いに押されて、王仁三郎は立ち上がった。 女房を押しのけ大股で教祖室へ向う夫を見て、澄は身を支え切れずに柱にもたれ、ずるずるとしゃがみこんだ。谷間の木蔭の岩肌が滲み出る水滴に自ら濡れて黒く光る……そんな澄の涙であった。 廊下に足音が近づく。振り向く間もなく、誰かがいきなり澄にしがみついて泣き出した。スぺイン風邪で長く臥していた姉の出口龍である。あわてて起き出してきたせいか、髪から病人くさい匂いがした。 この姉と二人で、屑買いから戻る母を待ち切れずに空腹のまま子犬のように抱き合って眠った幼い日々……澄は泣きじゃくる龍の背を突き放し、頓狂な声を上げた。「あれ、姉さん、おかしいでよ。あんまりびっくりしたもんで、わたしの風邪、ヘこんでしもうた。あの咳、どこヘ逃げ出してしもたんやろ」「ほんに、そう言うたら、わたしもひどい咳じゃったのに、まあっ……」 龍もつられて微笑した。 大正七年十一月六日(旧十月二日)午後十時三十分、享年八十三才。直はその苦難の生涯にふさわしく、未曽有の飢饉年であり悪病の猖獗した天保七年に生を受け、米騒動とスぺイン風邪に動乱する大正七年に没したことも、奇しき因縁と言うべきか。昇天のこの日は、五年にわたる世界の戦さが実質上矛をおさめた日となった。まるで今朝の本宮山攻防戦が、その雛型を演じてくれたように――五日後の十一日、ドイツと連合国の間で休戦協定が調印され、第一次世界大戦は終る。 午前零時、王仁三郎によって金龍殿で昇天奉告祭を執行、終っても帰る者はなく、一同、直の霊前で夜を明かした。 誰もが忘れ得ぬ思い出を持っていた。 出口慶太郎が悔やんでいる。「この春、金龍餅で電話を引いたんですわな。そこで初めて梅田お安さんと電話で話しました。そのことを教祖さまに申し上げたら、『綾部と京都で話ができるのですかい』ととても不思議がっちゃってなあ、『このぐらい便利でなければ、三千世界の立替えはできまいのう。わたしも一度聞いてみたい』言いなさる。その頃、大本ではまだ電話取りつけの申しこみ中でな、やっとこのお盆に取りつけられたというのに、忙してそのままになってしもて……ああ、一度でよいさかい、電話の教祖さまのお声が聞きたい」 古い役員の田中善臣が語る。「今の長楽座(明治三十四年に出来、大正十一年焼失)ができる前、あそこには『馬場の常小屋』という小さな芝居小屋があったんどす。年に二、三回も芝居がかかったかいな。ある時、『忠臣蔵』がくるというので、なかなかの前景気どした。木戸銭はただの四銭やったが、大本は貧乏時代で誰も金など持ってへん。何かの用で大神さまのところへおうかがいすると、神床から二銭持ってこられて、『田中はん、二銭ほど持ってじゃないか』と聞きなはる。あては一銭もなかったけど、まあ何とかなるやろと思うて『ヘえ、それぐらいなら』とお答えしたんや。そしたら大神さまが『二銭は後でできたら上げるから、これを持って忠臣蔵を観てきなはれ』とこうどっしゃろ」「ヘえ、大神さまがなあ」と誰かが意外そうな声を出した。「入信前のあては道楽者どしたよって、しょぼくれとるの見てかわいそうに思われたんかも知れんなあ。それとも芝居好きの政五郎はんのことを思い出されたんかも……。 芝居観た翌日、大神さまに御挨拶に行くと、待ちかねたように大神さまは言うてんどす。『忠臣蔵はどんな所まであったかいなあ』、『へえ、序盤から大切りまでありました』、『浅野内匠頭が切腹なさる時、何と言うたのや』、『予は残念であるぞよとだけしか言うてまへん』、『それそれ、その一言を聞いただけで、大石内蔵助という人はあれだけの苦労をし、四十七士にも苦労をさせたんじゃろ。艮の金神さまが三千年も押し込められていなさった無念さ、くやしさ、それを思えばどんな苦労でも耐えられます。内蔵助という人はあれだけよくできた人じゃけれど、吉良を改心させずに殺してしもうたのは、ほんとに惜しいことじゃ。あれではまだまだ本当の忠義ではない。艮の金神さまに忠義を尽くすということはのう、敵も歓び、味方も歓び、世界の者がみんな歓ぶ世界を造ること。人間だけやござへんで。獣も鳥も虫も草も木も石ころまでも……そのためには、大本の役員信者は、みな内蔵助より以上の至誠を貫かねば、神さまに本当の忠義を尽くしたとは言えんでなあ』、そのお言葉は、あての胸にぐんと泌みましたで」 しんとした沈黙が通夜の席を支配し、虫のすだく声のみかしましい。 田中はくぼんだ目をしばたたきながら、言葉を続ける。「ある時、ある人がとしとくけどな、大神さまのお傍へ来て言わはったんどすわ。『わたしは、この御神苑の掃除番でもしたいのどす』、『それは結構なお考えじゃ』と大神さまは答えなはった。けどどっせ、その人が帰りなはってから、大神さまは悲しげに洩らしてどした。『何というもったいないことを言うてん人じゃろ。なかなか見抜いた人でなけら、箒一本持たすことのでけぬ尊いところじゃのに……それでもそんなことを言うていては、誰も寄ってこんでのう』あてはこのお言葉を思い出すたびに、自分のことを言われているようで……」 田中はうつむき、涙をすする。直の筆先を信じ、だからこそ王仁三郎を小松林の悪神と思いこみ、現教主に徹底的に楯ついてきた田中であった。 王仁三郎に敵対してきた古くからの仲間たちはすでにみな大本を去るか死んでしまい、残るは田中のみである。 大正五年の神島開きによって王仁三郎にかかる霊が天のみろくさまと明らかにされ、今、直の死によって王仁三郎に道統は継承されようとする。箒さえうかとは持てぬほど尊い大本で、王仁三郎の書きためた山のような原稿まで灰にした自分は、もう取り返しのつかぬ過失を犯していたのであろうか。と思うと、直という寄り処を失った田中は、地底に陥ちこむほどの絶望感に襲われた。
 スぺイン風邪で並松の自宅に臥床中の浅野和三郎は、何日も前から食事も受けつけず、熱も四十度に近かった。 妻多慶から教祖帰幽の報を受けた時、浅野は譫言のように呟いた。「そんなことがあるはずはないさ。それは君、何かの間違いだよ」 それほど直の死は、浅野にとって、突飛も突飛、意外も意外であったのだ。教祖在世中の立替えを信じ、明治五十五年立替えを雄叫びした狂奔の過去――それが幻想に過ぎなかったと知る時の責任の重さに、押し潰されそうになる。 けれどその衝撃も最低限に受け止め得たのは、高熱によって神経が麻痺していたせいであろう。「違う、約束が違う」 昇天したという直の後を追って、そうなじりたかった。八十三才という高齢を除けば、何一つ直の死を思わせるものはなかったではないか。その年齢にしても、確か一昨年、神さまが「直よ、そなたの年を十五ほど若くしてやる」とおっしゃった。それからの教祖は健康状態もますます良く、血色・気分ともに若々しい。だから百歳近くまでは生きられると信じていたのに。 空転する浅野の思考に、ふとひっかかりができた。 ――あれ、待てよ。「十五歳ほど若くする」ということと、「十五歳ほど命を延ばす」ということは、まるきり別の問題ではないのか。永く「生きてほしい」という念願が、それを一つのものと錯覚させてしまったのではないのか。 黒雲の中に一条の光がさすように、浅野の頭脳が冴えてきた。 最近の御神諭の中には、「もう立替えについての筆先は出し尽くした。これからは立直しの筆先を出さねばならん」としばしば現われている。立直しの分担は変性女子であることを百も承知していながら、立直しの筆先も教祖直によって出されるであろうと、心待ちに待った。 けれど今にして思えば、立替えの筆先の終結は、現世における教祖の寿命の終結を告げるものであったのだ。これで立替えの準備が終り、いよいよ実行に入る段階なのだ。 そうか、いよいよ日本も大本も最後の本舞台に入ったのだな。直の昇天が、むしろ明治五十五年立替え説を一層裏づけるかに思えてきた。 浅野はさらに熱中して考え続ける。 今年は大本の中にしばしば重要な出来事が起こったが、中でも重要なのは、教主出口王仁三郎の心身の大修祓ではなかったか。七十五日にわたる大修祓・大潔斎と教祖の御昇天は密接不離の関係、たとえば車の両輪・鳥の双翼の関係にあるようだ。 王仁三郎にかかる神も従来多数の筆先を出したが、直が表の神諭を出す間はいわゆる裏の神諭であり、あくまで副の位置、補助の立場であった。純粋無垢の瑞の御霊の御神諭が出るためには、王仁三郎の心身の一層の清浄化を必要とした。だからこその七十五日。何しろ三千世界の立直しという大使命を持つ唯一無二の身魂だから、その準備もまた一通りではない。一方に教主の準備の大成ということは、他方において教祖の任務の完結を意味するのだ。 ぼくが今、こうして心身の修祓をさせられているのも、大神業をお手伝いすべきよほどの任務が与えられているからではないか。 それに思い至った時、浅野は、スぺイン風邪で消耗し尽したと思った体力・気力がまだまだ涸れ切っていないのを自覚した。 直の帰幽と第一次世界大戦の終結が軌を一にしたと知るや、浅野の確信は一層強まった。 浅野には、大本教祖の帰幽に対して、五年間ドンドンガンガン騒ぎ散らした欧州戦場が急に休戦条約を締結し、世界の鳴物を禁止して謹慎哀悼の意を表したかに思えた。世界の現状が大本内部と歩調を合わせて急変しつつあるのは、いかに神の摂理とはいえ、なんとも奇妙不可思議なことよ。 ――王天下は永う続かんということが、これまでの筆先に書いて知らしてあろうがな。何かの時節が参りて、何事も一度に出てくるぞよ。善きことも悪きこともみな一度に現われて、外国には惨酷ことがしばしばあると申して知らしたことが、実地になりてくるぞよ……。 明治二十六年にすでに「王天下は永う続かん」と神は宣言した。それが昨年旧九月に再び神は念を押されているのだ。恐ろしい断言であった。 古くは仏国から始まって、近代では葡国が共和国になり、支那の王天下は一朝にして覆った。近くは露帝ニコライ二世の悲惨な最後、そしてロマノフ王朝は滅び去り、革命は野火の如く広がる。目まぐるしく世界の小国は独立する。今度の休戦にともなってドイツ皇帝の退位、続いて墺国皇帝カールの退位、ハプスブルク朝は露と散った。まさに古き世界は崩壊し去り、新しき世界が生まれるのだ。 病床に臥す浅野の耳にも、新旧世界の立替えの足掻と軋みが遠雷のように鳴り響いてくる。 この間見舞いに来た友清から、浅野はまた怪情報を得ていた。「世界の悪神の首領八頭八尾の大蛇は露国の王を捨ててカイゼルに憑って荒び廻っていたが、十一月一日から米国のウイルソンに憑りかえた」と教主が誰かにしゃべったという。そう言えば最近の筆先にこんなのがあった。 ――露国に上りておる守護神が、も一つ向うの国へ渡りて、向うの国の頭を自由自在に至して、世界を悪の世に致すつもりであるが、それでいかねば手をかえ、品をかえ、どこまでも悪の目的を立てようといたすぞよ。 十一月一日といえば、教主七十五日の行の上がった翌日である。そのこととはたして因果関係があるのか。あったとすれば、それは何を意味するのか。そして五日後には教祖直の帰幽。 とにかく大正七年十一月六日という日は、世界史上でも何たる重要無比の転換期日であろう。大本教祖の現肉体としての任務、即ち世界の守護神や人間に警告と教訓を与えるべき世の立替えの準備行動はこの時を境として終わりを告げ、何の未練もなく大本教主のためにその位置を譲った。 いよいよこれから世の立替えの実行期に入る。これから百日ぐらいは教祖の葬儀やら服喪やらで大本の活動も中止しようし、それを型として世界もまた一時休戦期の安逸をむさぼろう。これは大活動・大飛躍にかかるまでの煙草一服であり、教祖の喪期の明ける頃から大本も世界も果たしていかなる方向に進み行くであろうか。
 十一月八日深夜、舟入式(納棺式)。九日午後四時、柩を居間より金龍殿に移す。役員信者が全国より参集し、さしもに広い金龍殿が人であふれる。直に「神政開祖(惟神真道弥広)大出口国直霊主命」の諡名がおくられる。 墓地(奥都城)は、王仁三郎が昨年の春買収しておいた綾部市田野町才ケ首、通称「天王平一の瀬」と決定した。神苑を西南に去る約二キロ、直と因縁深い弥仙山を真正面遥かに仰ぎ、本宮山と相対する山腹だ。 十二日より大規模な、お山開きの工事が始まった。直を慕う多くの役員信者らの献労により、玉砂利を敷きつめた奥都城が築造される。 十一月二十七日午後四時、金龍殿で遷柩の式を執行。終わった頃には日は暮れかかり、冷たい雨がしとど降り出した。霊柩を奉持して天王平へ供する者たちは、そぼ濡るることを覚悟し、白衣の衿をかき合わせる。王仁三郎は統務閣前に据えた霊石の傍に歩み寄り何事かを念じるや高らかに一声、「水分の神、雨やみたまえ」 それが雨やみの言霊と知って、一同、暗夜の雨空を見上げる。と、風が吹き初めて雨を散らし、雲の切れ間から星明りがさしそめる。思わず感嘆の声が湧き、いっせいに合掌する。 五時半、霊柩はしずしずと発する。柩が大きいので、西門の横の垣をこわして新しい道が造られていた。かがり火と松明の灯に導かれて一行は進む。天王平に到着した頃には半分ほどは雲がなく、星空が初冬の気に冴え渡る。まだ奥都城の工事は仮に整えられたばかり、なまなましい土の匂いが悲しみをそそるのか、あちこちですすり泣きが洩れる。 仮埋葬の儀。王仁三郎が従者の持つ剣をとって抜き放ち四方を祓うや、星は燦然と輝きを増し、松吹く風の音さえやみ、霊光の気が全山に満ち満ちた。 十二月二日、艮の金神が王仁三郎にかかって筆先が出る。 ――変性女子の身魂を明治三十二年の六月二十三日に龍宮館の高天原へ引き寄して、いろいろと気苦労をさして、身魂の荒研きをいたさしたが、女子もあまり、我が強かりたので、改心さすのに十年かかりたが、明治四十二年の七月十二日から坤の守護にいたして、大本の経綸の御用を命してきたぞよ。それでもまだ世の立直しの御用さすにはあまり混りがありて間に合はぬから、大正七年の七月十二日女子の肉体の誕生日から、この世の荒衣を脱がすために、七十五日の肉体と霊魂の大洗濯をいたさしたぞよ。 出口直は十三日の間食物を取り上げたなれど、女子の肉体はあまり曇りが激しいから、四十八日の間食物を取り上げて身魂に苦労をさして、二度目の世の立直しの御用に使うのであるぞよ。何事もみな神から命令でさせられるのであるぞよ。 変性女子の身魂を〆木にかけて汚い分子を吐き出さしておいて、五十日目から国常立尊が坤の金神と引っ添うて、女子の霊魂を世界中連れ回りて世の立直しの守護がさしてあるぞよ。 七十五日の床縛りが済みて二日の間肉体を休まして、三日目には大本変性男子の肉体の最後の大祭をいたさせ、四日目は祖霊社の祭を済まさせ、五日目には変性女子の口を借りて大本の立直しの厳しきを教え、大本の役員信者に申し聞かしてあるから、チットも間違いの無いように、これからこの大本の中は心配りをいたして下さらぬと、肝腎の仕組みが遅れるから、天地の神々様に申し訳のない事になりてしまうぞよ。 明けて六日目、旧十月の三日、新の十一月六日の五つ時(午前八時)、神界の経綸が成就いたして、今度の世界の大戦争をちょっと止めさしておいて、その晩の四つ時(午後十時)に天からのお迎えで、出口直は稚姫君尊の御魂と引き添うて天ヘ上りたぞよ。 これからは天の様子も明白に判り出すぞよ。いったん出口直は天ヘ上りたなれど、直の御魂は三代の直霊に憑りて地の御用をいたさすぞよ。 直の御魂は、天にありては国常立尊と引き添うて大国常立尊大出口神となりて、世界の守護をいたすなり、地に降りては、変性女子の身魂に国常立尊が憑りて、立直しの筆先を書かすなり。出口直の御魂は、木花咲耶姫殿の宿りた身魂の三代直霊に憑りて直霊主尊となりて、地の神界の御用をいたさす経綸が成就いたしたから、これからの大本の中はこれまでとは大変わりがいたすぞよ。 直昇天一カ月後の十二月六日(旧十一月三日)、本葬が盛大に行われた。役付の者だけで三百数十人にのぼり、二キロの道程はほとんど会葬者で埋められた。斎主は梅田信之、副斎主は田中善臣がつとめた。 直の臨終の時、梅田は引き止める王仁三郎の手を振り切って京都へ帰り、追いかけて直の死亡通知を受けたが、初めは嘘っ八だと笑って取り合わなかった。けれどそれが冷厳な事実と否応なく分かるや、「だまされた、だまされた、『直は死んでも死なんぞよ』と、あんなに約束したやないかい」 畳をかきむしり、転げ回って、梅田は泣き狂った。「旦那はん、だまされたんやおへんえ。『死んでも死なんぞよ』というお筆先は、『死んでも、死なん』で、やっぱりお肉体は死ぬことどっしゃろ。お肉体の命はなくなっても、それでも霊は死なんぞよと……」と、安子も必死でさからった。「そんな馬鹿な、ばか、ばかっ」 わめきつつ梅田は起き直り、真っ赤に腫れた目を天井に据える。 なるほど、お安の言う通りかも知らぬと、思い返した。 ――種まきて、苗が立ちたら出てゆくぞよ。刈りこみになりたら、手柄さして元へもどすぞよ。 日頃愛誦している明治二十七年旧五月の筆先が、この時、梅田の脳裡に浮かび上がった。種は蒔き、苗が立った。後は刈り込みを待つばかり……。 この筆先は日清戦争当時の唐行きのことと思っていたが、そうか、これこそ教祖御昇天の予言ではないか。苗が立った今、教祖直はこの世から出て行かれる。 銀の鈴のような直のやさしい声が、信之の体にしみ通る。 ――ほのぼのと出て行けば、心淋しく思うなよ。力になる人が用意してあるぞよ。「お安、綾部ヘ行こう。早よ行こ。教主さまにお会いするのや」 梅田は激しく安子の肩をつかんでいた。 蔭で「梅田はんはいつ殉死してんやろ」と囁く信者もいたが、梅田はもう気にならなかった。神が用意し給う「力になる人」、男が男として惚れこんだ出口王仁三郎は、今ここに大地を踏みしめて立っている。 斎主梅田信之は涙を払って、永遠に生き続ける直の霊魂を奥都城深く鎮めまつる。 ぶすっとふくれ顔で、直日は、小山のように土を盛られた墓を見つめていた。「わたしが死んだらなあ、静かな松の木かげの小さな墓に、目立たぬように埋めてもらいたいんじゃがなあ」 梅田安子にも語った直のひそやかな願いを、直日もまた祖母の口からじかに聞かされていた。そんなお墓を瞼に描いて、直日は子供心に「よいなあ、しゃれてるなあ」と思った。だのに祖母の願いは、教祖であるばかりに、死んでからもかなえられぬものであろうか。あまりに大きく立派過ぎる墓が、祖母の高潔な人格にひどくそぐわぬものに思え、無念でならなかった。 本葬を終り、この時まで消されずに燃え続けていた霊前の神火が持ち帰られ、教主出口王仁三郎と澄に、古式にのっとった道統継承の「火継ぎの神事」が行なわれた。
 鵲橋を渡って、直日は言霊閣の石垣を登る。土台造り半ばの石垣は、それでもかなり高かった。三月ほど前、父が祖母を負うて立っていたというその場所から、ぽってりとした鵯がはすかいに飛んだ。同じ場所に自分を置いて、男袴の裾を踏んばって立つ。南の眼路の果て天王平一の瀬の奥都城は、もう冷めたい夕闇に閉ざされていた。暮れなずむ山も野も薮も片端から淡く溶かして、霧は押し渡ってくる。 すべてはこの葛湯色の丹波霧が生みなした幻想ではなかったろうか。 父王仁三郎は暖い人柄ながらへんに気が弱く、そのくせ粗野で大袈娑で傍若無人なところがあり、直日の感覚ではついていけない。いや、時には生理的な嫌悪感すら抱くことがある。母澄は強靭でおおらかな翳のない人、それでも繊細な直日の神経とは、どこかで行き違うことが多かった。直日にとって、祖母こそは人間のあるべき理想の姿であった。現実とは受けとれぬ祖母の死が、一人になった今、耐えがたいせつなさで直日の胸を熱してくる。 艮の金神がこの大地を生みなされたまことの母であるならば、澄みきり澄みきる水晶の世の到来まで、その大経綸が終焉することはあるまい。教祖さまのお体は天王平の土と朽ちようとも、その霊魂は人々の心の奥底に消ゆることのない燈火となって燃え続けよう。救いの道はここに、永久に残されている。 そうは思っても、ほろほろとあふれ落ちる涙をどうしよう。女々しいと拳で拭って、直日は木刀の柄をぐいと握りしめる。ふと仰ぐ味方平の上空に、はやオリオン星座が煌き始めていた。
 直の昇天以来、連日のように王仁三郎の手になる筆先が発表されていた。 神が出口直の手を通して示した筆先を「表の神諭」、直の昇天までに王仁三郎の手を通して示した筆先を「裏の神諭」、そして直の昇天後、王仁三郎の筆で神意の伝達されたものを「伊都能売神諭」と通称される。 ――艮の金神国常立尊が、明治二十五年から永らく出口直の体内を借りて、稚姫君尊と引添ふて変性男子と成りて、三千世界の世の立替えの経綸を、筆先に書かして知らしたなれど、後の立直しの筆先は未だかかして無いから、変性女子の体内を籍りて是から時節に応じて書かすぞよ。(大正七年十二月二日) 右の筆先の示すように、「伊都能売神諭」は「後の立直しの筆先」として、「表の神諭」と明らかに性格を異にする。 十二月二十七日も王仁三郎は帰神状態になり筆先を書く。筆先が出ているとあって、誰も入室を許されない。だが龍宮館全体から緊張した緻密な空気が立ちこめ、知らずとも近寄るのをはばかるものがあった。 どれほどの時がたったろう、筆が止まると同時に王仁三郎の体が弛緩し、紅潮した頬の色が薄らいだ。ほっと吐息し、厚く積まれた『神霊界』用の原稿用紙を手にとり、ぱらぱらと眺めやる。最近出る筆先は、どれも激しいものばかりであった。 ――艮の金神国常立尊が、龍宮館の高天原に現はれて、世の立替え立直しの筆先を書きおくぞよ。三千世界の立替えの御用いたさすために、変性男子の身魂大出口直に長らく苦労をさしてあるぞよ。 天保七年十二月十六日、天照皇大神宮殿の御誕生日にこの世へ出してから二十七年の間、直は結構に気楽に暮さしてあるぞよ。さう申しても世間並の気楽さではないぞよ。なかなかいろいろと肉体について人に変りたことがさしてありたぞよ。二十八才の冬から五十七才まで三十年の間、人民界では誰もよう堪らん艱難苦労をさして、現世の衣を脱がして御用に立てたぞよ。五十七才の正月元旦から、艮の金神の体内に這入りて、今年で二十七年の間、神界の経綸で筆先を書かせ、口で世の立替えを知らしたぞよ。 何時も三十年で世の立替えといたすと申して知らしたことが、モウ一分になりて、跡三年残りたなれど、水も漏らさぬ仕組であるから、三年の間は変性女子の手を借りて立替え立直しの御用をいたすから、これからは一日ましに世界から判りて来るから、何程の鼻高でも成程と往生をいたすようになりて了ふぞよ。 変性女子は神界の経綸で明治四年の七月の十二日にこの世へ出して、二十七年の間はこれも普通の人民ではできぬ苦労をいたさせ、二十八才の二月九日から、神が高熊山へ連れ参りて、身魂を研かして、世の立直しの御用の経綸がいたしてあるぞよ。二十八の歳からこの大本へ引寄して、有るにあられん気苦労をいたさして、いよいよ身魂が研がきかけたから、三十九才からボツボツと大本の経綸にかからしてあるが、この先まだ十年の気苦労をいたさすから、そのつもりでおりて下されよ。 三年先になりたらよほど気をつけて下さらぬと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛の酉の年は、変性女子に取りては、後にも前にも無いような変りたことが出来てくるから、前に気をつけておくぞよ。(大正七年十二月二十二日) ――いよいよ来るか。おののきが我知らず背を走る。 三年先の辛の酉といえば大正十年、次々に襲いかかり爪をむいてひっさらう猛禽群がまっ黒に天をおおうのが、王仁三郎には見える。前兆はすでにひしひしと身に迫っていた。 教勢が加速度的に拡大するにつれ、世間の大本攻撃も劣らず激化した。新聞・雑誌は競って大本批判の記事を載せる。警察当局の目も鋭く大本の動きにそそがれる。飢えた狼の如き警察をそそのかすこの筆先……。 王仁三郎はみずからの手で国家の大弾圧を招き寄せる口実を作り出しているのだ。 現に最近の筆先の中からでも、警察がその気になってほじくれば、不敬罪の種は随所にあろう。 ――外国人に自由自在にいたされ、眉毛の数まで読まれておりてもまだ気がつかず、ケツのケまで抜かれて了ふておりながら、まだ眼尻を下げて歓こんでいるといふ、今の日本の○○○○の体裁、開いた口がふさがらぬと申すのは、ここのことであるぞよ。今に脚下から唐土の鳥(ふりがなは原文通り)がたつが判ろまいがな。○○の○○と申しても余りでないか。一日も早く○○いたして下されよ。梅で開いて松で治める、竹は外国の守護といたして、万古末代世界中を泰平に治める経綸のいたしてある、神国の○○と人民が何も判らぬとは、惨いことに曇りきりたものであるぞよ。(大正七年十二月二十二日) ――艮の金神元の国常立尊変性男子の御霊が下津岩根の高天原に現はれて、世界のことを書き知らすぞよ。 東の国は一晴れの実のりのいたさぬ薄の○○、実のりいたさな国は栄えぬぞよと申して、今までの筆先に毎度繰り返し繰り返し知らしてありたことの、実地が近うなりてきたぞよ。○○の天津御空には黒雲ふさがり、地には泥水溢(ふりがなは原文通り)れて、人民の憂瀬に沈み苦しむ者は数知れず、餓鬼畜生の今の有様、誠の神ならこれをじっとして高見から見物いたしてはおれんはずなれど、今の世に出ておれる方の守護神にも誠の日本魂の臭いもないから、その日暮らしの今の世の持ち方、これでも日本神国の神と申されようか。 力量がないと申しても、無経綸と申しても、あまりではないか。一日前の世界の出来事も判らぬような暗い御魂では、世界どころか、小さい日本の国だけでも治めることはできぬではないか。何もかも一切万事が行き詰りて了ふて、進も退りもならぬようになりておりても、まだ心が賤しいから、大事に抱ヘてよう放さん厄介な守護神ばかりであるが、外国にあれだけの見せ示がしてありても、まだ気がつかぬか。岩を抱へて海ヘ這入るやうなことばかりいたしておるが、神界の誠の生神の目からは危険うて見ておれんぞよ。 日本の国の上の守護神よ、しっかりいたさんとハラが今に破れて、三千世界の恥さらしにならねばならぬようなことが、内と外から持ち上がるぞよ。根本から曇りきった鏡には神の申す誠の姿は映ろまいなれど、どこまでも神は人民を助けたさにクドウ知らしてやるぞよ。これで聞かねばモウこの先に何事が突発てきても知らんから、神と出口に後で不足は申して下さるなよ。モウ何も知らんぞよ。ナヅナ七草の用意を早くいたしておかぬと、今に唐土の鳥が渡りてくるぞよ。唐土の鳥が羽が強ふて口嘴が長くて鋭いぞよ。脚も長いし、数も沢山にあるぞよ。日本の鳥は余程しっかりと神力がないと、天空から蹴り落されるようなことが出来いたすぞよ。 鵲の橋が落ちかけるから、神が守護はいたしておれど、日本の守護神の改心が遅れたら、一旦はどうなろうやも知れんから、神が心を苦しみて、日夜の守護をいたしておれど、日本の神にも守護神にも今ではチットも気がつかんぞよ。 五十鈴の滝が濁ってきたぞよ。川下の人民がこれからは可愛相であるぞよ。時節参りて綾部の大本龍宮館の高天原から水の御魂が現はれて、濁り水を澄まして、水晶の流れにつけかえて、世界の人民を泥から助けて、誠の神の身魂に清めて助けるぞよ。じゃと申して心の直らぬ人民は、助けるといふことはできんぞよ。 世界の難儀を幸ひにいたして、膨れた袋鳥は袋が破れ、腹が引裂け、夜食に外づれてアフンといたして開いた口は閉さがらず、六ケ敷をいたして泡をくうのは、今目の前に出てくるぞよ。欲に迷ふて慢心いたすとその通り、誠に気の毒なれど、各自の心からであるから仕様はないぞよ。今にせっかく造りた立派な巣を潰すやうになるぞよ。上から下まで大きな間違いができてくるぞよ。 天が地になり、地が天になるぞよ。天災地妖が続いて起るぞよ。目も鼻も口も開かぬやうなことが来るぞよ。餓鬼がだんだん殖えるぞよ。思はぬ国替いたす人民も沢山あるぞよ。だんだん人気が悪るなるばかりであるぞよ。医者と坊主と葬式屋の豊年は続くぞよ。米はだんだん騰貴るばかりで、何ほど金銀出しても手に入らぬことになるぞよ。用意が肝心であるぞよ。日本の上の守護神に気をつけておくぞよ。大きなものは、一時にバタバタと潰れてしまふぞよ。 広い城の馬場で俄の天狗風が吹き出すと、合羽干の爺さんもハラをもむなれど、とうてい人民力では治まらんぞよ。狼狽え騒いだその上ケ句の果が、堀りヘ落込み土左衛門となるのが定まった道筋、どこに一つも重い押えがないから、ドウにもこうにも始末がつかんやうになりてくるぞよ。神が構ふてやらねば、治まりはつきはいたさんぞよ。比日谷ケ原ヘなにほど糞蛙の盲目虫が集まって喧ましう鳴き立てても、この天狗風は防げんぞよ。目のない千鳥、彼方へヒョロヒョロ此方らへヒョロヒョロ、兵糧尽まわってトコトンの果は、手の鳴る方ヘ頼らねばならんことになるぞよ。手の鳴る方は、神の大前ぞよ。神は天地をこしらえた肉体の、今にそのまま生きている元の生神、国常立尊であるぞよ。(大正七年十二月二十五日冬至の日、変性女子の手を借りてしるす) ――大出口の神と現はれて天からこの世を見渡せば、何処も同じ秋の夕暮、霜先の激しき状態、口で言ふやうなことではないぞよ。○○○今の○○○の行状を見れば、奥山の谷の奥深き人民の能ふ行かぬ所で、四ツ足と一つになりてジャレておりて、国が立うが立つまいがチットも念頭にないといふやうなことで、ドウしてこの神国は治まりて行くと思ふか、神は残念なぞよ。 今の中に守護神肉体が改心して神国の一の行ひいたして下されば結構なれど、何時までも四ツ足の自由にいたされるやうなことなら、神は是非なく一限りにいたして、新つの松の世にいたさうより仕様はないぞよ。 千里万里の奥山に住む山の神の精神が悪いから、雌鶏の時を告げる世であるから、世界に誠のことは一つも出来いたさんぞよ。何ほど守護神に気をつけても改心いたしてくれねば、神界から止むを得ず処置をつけることにいたさなならんから、どうなりても神を恨めて下さるなよ。日本の一の守護神にくれぐれも気をつけるぞよ。(大正七年十二月二十四日・陰暦十一月二十二日)「何と、神さんもよう言うてや。こんなこと発表したら、わしの命一つで足りるけい」 ほっと溜息をつき、王仁三郎はつぶやく。辛い運命を予知しながら避けては通れぬ予言者の悲しみであった。多くの人が王仁三郎に唾して捨て去り、ユダが続出しよう。「ここぞ」と排斥運動を強める人々の顔、顔……世間からは悪魔のようにののしられ、虐げられる。それに耐え、どれだけの人がわしを信じ踏み止どまってくれるか。 信者たちは、出口直を「大神」とたたえ、信じていた。確かに、目に見えぬ神に信仰を捧げるより、手応えのある肉身を持つ人を生神とする方が安易であり、充実感があろう。 だがその肉体信仰は、曇りガラスを通しては真の象が把握できぬように、主神への主一無適の信仰をいかに妨げてきたか。低俗な肉体信仰に生きる者の多くは、直の死につきあたった時点で神を見失い、「裏切られ」て大本を去る。 それでも去りかねた人たちは、懲りずに次なる肉体神を求める。その対象が王仁三郎であった。 しかし肉体信仰を愚劣として駆逐できぬところに、組織者としての王仁三郎の弱みがある。教団エネルギーの大半は、三千世界の立替え立直しが生神の指揮によって行なわれるという、盲信から発しているからだ。今、教団はものすごい勢いでふくれ上がっている。だがそれは、いったん衝撃が加われば、風船玉がしぼむようにはかないものであることを、王仁三郎は知っていた。 次々と――こうして容赦なく篩にかけられながら、誠の神の子が選り分けられていく。 知れたことではあるが、この日本こそ、天照大神の天孫知食す生神の国、日本人一人残らずが「現人神天皇」の信者、ただなびき伏すべき民草なのだ。 王仁三郎の背中には黒子が三つ、まるで墨で描いたように、等間隔で縦に印されている。かつて湯浅に語ったように、おのが宿命の星はオリオン星座の三つ星だと、王仁三郎は信じる。巨大な囚の字型に四隅を封じこめられた形の三つ星こそ、天の囚獄オリオン星座で瑞(三つ)の御霊が千座の置戸を負って立つ姿。その宿命の極印を背に生きねばならぬ王仁三郎。 オリオンは、ギリシャ神話の最高神ゼウスの弟で大海原を治めるポセイドンの子、海上を自由に歩ける狩の好きな美しい巨人であった。太陽神アポロンの妹・月の女神アルテミスに愛されたが、アルテミスは兄神アポロンにあざむかれ、海中を歩くオリオンを射殺する。気がついたアルテミスは、嘆きのあまりその死体を天の星の中に閉じこめてしまった。 オリオンが海を治める神の子で月の女神を愛し太陽神と争って星に囚われるなど、王仁二郎にかかる素盞嗚尊の宿業を暗示させるではないか。「素盞嗚尊が地の高天原を奪りにまいりた」と直にかかって雄叫んだ天照大神。 ぎいっと髪が逆立ち天井まで体ごと舞い上がった素盞嗚尊の激しい降霊を、昨日のことのように王仁三郎は思い出す。 その疑いが晴れぬ限り、火水の戦いは時を超え、舞台を変えて続くのか。 これから始まるであろう過酷な弾圧も神々の誓約。 二度、三度、雛型は日本へ写り、世界へ広がる。それが神の経綸とあれば、せいいっぱい体を張って受けるだけや。「どれ、こいつを編集に回すか」 王仁三郎は伏字だらけの筆先の束をつかみ、ちょっと首をすくめて立ち上がった。
 大正七年十二月三十一日、つまり大晦日の午後、袴の股立ちとった馬上の男が一頭の馬を曳き、質山峠を下ってくる。男を乗せた馬は栗毛、曳かれる方は茶で、たてがみと尾が漆黒。二頭とも外国産の駿馬であろう、道行く人が足を止めて見惚れるほどの見事さだ。 が、それにも増して人目を魅くのは、木洩日を浴びる馬上の男、目鼻立ちの派手づくりな、一種の妖気さえただよう美貌だった。 眼下に開けた綾部の町を見はるかし、芝居口調もはずんで、男は一人ごつ。「親分、深町孝之亮、只今参上つかまつる」 王仁三郎に初めて会った時の強烈な印象は、今なお新鮮である。 ――わしとしたことが、あの瞬間から、自分の運命を王仁三郎というどえらい男につかまれてしもた。 深町孝之亮、明治十六年、神戸で生まる。どう見ても年よりぐんと若いが、実際は人生も半ばの三十六才。戸籍では敏雄・とくの長男となっているが、妾の子だとか、歌舞伎の尾上菊五郎の兄弟だとか、おせっかいにも知らせる奴がいた。だがそんなことは気にしない。木の股から生まれたのでないことだけは確かだから。 少年時代からやんちゃで名を売ったが、長じてもその性格は矯められず、今日まで自由奔放に人生をつっ走ってきた。 明治四十一年、二十六才で鈴と結婚、二人の娘が生まれた。大阪市南区清水町で電気銅(電気精錬によって得た銅、電線などに使用)を扱う深町商会を設立する。 大正の初め、父の持ち山である伊豆の土肥金山を義兄から受け継ぐと、これが面白いようにあたって、急に多量の金が採掘され出した。よほど運が強いのか、米相場もやる度に勝った。 男っぷりは良し、金はうなるほどあり、女どもはむらがり寄る。望むがままに次々女を征服し、何人かに子を生ませ、金で解決した。だが山田広子だけは別だった。 広子は元は梅勇という売れっ子芸者で、舞いの名手であった。深町は広子を落籍せ、神戸に愛の巣をかまえる。明治四十四年十一月には、武一という男の子も授かった。広子には本気だった。 広子の父は文楽で日本一の三味線弾きといわれた鶴沢道八、本名を浅野浩司という。鶴沢から大本の噂を聞かされた深町は、十二月五日、広子と八つになった武一を連れて初参綾した。 ひとまず亀嘉旅館に宿をとり、大本へ行く。 金龍海の畔で、すでに面識のある海軍大佐矢野祐太郎と出会った。 深町は、誰とでもやたら握手する癖があった。知らぬ土地でひょっこり知人に出会うのは、とりわけ嬉しい。握手する手に力がこもった。「知らなんだ、矢野さんが大本信者とは……」「古くはないがね。僕は東京住まいだが、この春から、妻子は綾部に移転させた」「へえ、こいつは驚きや。それで休暇だすか」「明日は出口開祖の本葬だから、特別に休暇をとったのさ。家が狭いから、僕だけ亀甲屋に投宿中だがね。やれやれ、さすがの豪傑も、とうとう大本の虜になったか」 矢野は愉快そうに肩を叩く。「なに、ひやかしの見物だす。開祖はんの葬式があるちゅのも、ここへ来て初めて知ったぐらいだァ。最近世間を騒がしとる大本とはどんなとこか、この目で確かめよう思て。それにこいつの親父が大本にかんかんやさけ……」 広子は深町の背越しに、色っぽく頭を下げた。武一は池の鴛鴦に夢中で戯れている。「はて、この美人は奥さんじゃなさそうだし……」「ははは、わしの御側室や。こいつの親父が、ほれ、三味線弾きの鶴沢道八……」「そうか、鶴沢さんの……愛人同伴、けっこうけっこう」と矢野は冷やかす。「大本が食わせ物なら、鶴沢のためにも、わしが化けの皮をひんむいてやるつもりだす」「あい変わらず元気がいいね。大本は偽物じゃない、正真正銘の本物だよ、君。わしが保証する」「信者になった者から保証されても、信用なりまっかいな」「そりゃそうだ」と矢野は頭をかき、「しかしせっかく来たんだから、鎮魂帰神を受けてみんかね」「おう、願うところや。それのうまい奴、誰かいまっか」 矢野は苦笑し、「おいおい、ここではもう少し言葉を慎め。ところで神戸新聞の主筆をしとった今井梅軒という男、知ってるかね」「名前だけなら……なかなか切れ者ちゅう噂や」「うん、たいした男だよ。その今井さんが、九月に一家を上げて綾部に移住してきた」「ほう、あの男までが……大本ちゅうところは、いったん綱がかかると、なかなか抜けられんようだすなあ」「今井さんは覚えたての鎮魂に夢中だ。審神者としての筋はいいらしい。彼にやらしてみよう。連れてくるから、宿で待っててくれ給え」 宿で広子に耳の穴を掃除させながら待った。深町の両耳の穴からは、毛がもみ上げまではみ出して伸びている。その長い耳毛も自慢の一つ、丁寧に手入れさせた。 やがて矢野が今井を連れてきた。 今井は胡麻塩頭、金ぶち眼鏡、細面に白い支那髭を生やした小柄でほっそりした男。深町が水もしたたるいい男なら、一方は絵で見る仙人をひん曲げたような貧弱さだ。 ところがどうして、対座するなり静かで丁寧な言葉つきながら、ぐんぐん人を圧する何かがある。なるほど、こいつは大物やと、深町は舌を巻いた。 今井が審神者、深町が神主になって鎮魂が始まる。今井の指先から何かしら熱いものが発射されるのを感じる。こいつはけったいな、けど負けてたまるか。腹に力を入れ、ぐりっと目をむいた。 と、不思議な現象が起こった。神主の深町が平然としているのに、審神者の今井の頭が次第に垂れ下がり、額から脂汗がにじみ出した。ついには畳に頭をすりつける。深町が力を抜くと、今井は荒い息を吐きながら面を上げ、眼鏡をはずして額の汗を拭く。「おかしいなあ。抵抗できん何かの強い力が僕の頭をぐんぐん押えつける。新米審神者の僕には不可解な現象です。ちょっと待って下さい。先輩の浅野先生にお願いしてみましょう」 飛び出していった今井は、ほどなく浅野和三郎と陸軍大佐小牧斧助を引っぱってきた。 小牧は五十三才、鹿児島県人、頭が禿上がり、丸顔ででっぷり太った大男だ。福知山工兵第十大隊長として福知山に赴在、稲次要蔵の導きで大本に入信、予備役となったのを機会にこの九月、綾部に移住してきた。海軍関係の入信者は多かったが、陸軍関係では、この小牧をもって嚆矢とする。 一同の注目する中、浅野の審神者で鎮魂が始まった。五分、十分、今井の時と同じ現象が起こり、浅野も激しい抵抗を示しながら、ついに頭を畳にすりつけた。「うーん、わけが分からん」と浅野は嘆息した。「わしにはよっぽど強力な霊がかかっとるみたいやなあ。どうりで昔からわしの頭を押える奴がおらなんだわけや」 深町は鼻翼をふくらませ、顎をしゃくってにんまりと笑ってみせる。その威張りようが子供っぽくて、憎めぬ感じだ。広子は頬を紅潮させ、惚れ惚れと深町を眺める。「いや参った参った、形なしだ。審神者が神主に頭を押えつけられたんでは、初から鎮魂にならんよ。後は出口先生しかない」 浅野は兜を脱いで、教主・王仁三郎に面会をすすめた。 王仁三郎は神苑北側の湯浅仁斎家の近くで、小屋の建築工事を監督中であった。深町の顔を見るなり、底抜けに明るい声をかけてくる。「よう来たのう、待っとった、待っとった」 教主はん、誰かと人違いしてはると、深町は思った。 浅野の紹介を待たず、深町は大声で言った。「神戸から来た深町だす。初めまして」 ちょっとうなずいただけで、王仁三郎は、広子の手につかまっている武一の頭を撫でた。「この坊は、わしみたいに目鼻立ちの整った美男やのう」「武一です。ほれ、御挨拶おしやす」 広子に言われてぺこんと頭を下げる武一に、王仁三郎は目を細める。「おう、よい子や、よい子や。坊、役者になれよ」 隠された自分の血を指されたようで、深町はどきっとした。 これが予言なら、わしの血ばかりか邦楽の鶴沢の血まで受け継ぐこの子は、一世をなびかせる名優になるかもしれん。 浅野は先刻からの経緯を正直に語る。 王仁三郎は大口あけて、朗らかに笑った。「そやろのう、深町はんにかかっとるのは、あんたらの手に合う霊やない。良くも悪くも強い龍神が守護しとる。追い出すことはできるが、そうしたら深町はんはただの極道や。まあ、気長につき合うことじゃ。浅野はん、御苦労はん、後はわしが引き受ける」 納得いかぬ顔で浅野は引き上げる。 王仁三郎は建築用材の丸太に腰かけ、「おい、深町」と手招きした。本来なら、初対面で呼びつけにされて黙っておれるはずがない。が、どうしたことか、「はい」と思わず答えていた。「ええか、よう覚えとけよ。お前は世間のしがらみという杭から綱をふりほどいて暴れ狂う放れ駒じゃ。このままではどこへ飛び出し、どこへ鼻面ぶっつけるか。危い、危い。どうや、わしを乗せてみんか。わしの手綱さばきに任せてみんか」「へえ、こんなじゃじゃ馬でも乗っとくれやすか」 これが気合い負けというものか、考える間もなく、ぐいと頭を下げてしまった。 ――こんな阿呆な。今井や浅野にすら、頭を下げさせたわしやのに。 じーんと涙が湧いてきた。口惜し涙ではない。魂が暖かくやわらかく大きなものにくるまったような安心感。今まで体験したことがないが、これがきっと嬉し涙というやつだ。 武一が驚いた目で父をみつめた。 王仁三郎は満足そうにうなずき、「ところでこの小屋は何やと思う」と柱だけ立つ土間を指さす。「さあ……」 深町は、まだ夢見心地だった。「分からんか。これは馬小屋や。神馬を入れる」「神馬いうたら……はあ、さよか、先生を乗せるわしのことで?……」「まさか。ほんまの馬を入れる。それも二頭。そのために建築を急がせとる。御用してくれ」 あっと声を呑んだ。 ――わしが競馬馬を六頭持っとるのを、この人は知ったはる。かりに誰かから聞いたとしても、気まぐれ者のわしが綾部に来るかどうか、それも大事な馬など奉納するかどうか、誰が知ろう。なのに既定の事実として馬小屋を。どうなっとるんや、この男は……。「そらまあ、先生の命令なら喜んで御用させてもらいまっせ。けどわしは、馬を六頭持ってます。どれにするか、神戸まで見に来てくれはりますか」「その必要はない。神さまの使わはる神馬は天馬やさけ、太陽と月にちなんで名前をつけといたぞ。金龍と銀龍、どや、思いあたるやろ」「ヘえ、その二頭なら確かにわしが……アメリカ産の栗毛の名がサン、つまり金色の太陽や。イギリス産のがムーン、月やさけ銀……」「それや、それや、金龍と銀龍は……後はいらんぞ」「おおきに。それでいつ連れてきたらよろしおっしゃろ」 自分の言葉に驚きながら、深町は喜びが熱く突き上げるのをこらえている。「来年は馬のいななきで初春を迎えたい。そうじゃ、大晦日の午後がよいのう」 歌うように王仁三郎は続ける。「機の始まり丹波の綾部、あやの神戸にあるわいな……知っとるか、こんな歌を。いよいよ神戸から神の戸を開いて神馬が来ると、神さまがお喜びじゃよ」「ほんなら何だすか、先生が待ったはったんは、馬だすか、わしだすか」と、深町がふくれる。「ははは、馬に乗った男とその馬じゃ。どっちもや。見とれ、金龍と銀龍は立役者、それに乗ってこれからおもろい働きをするぞ」 翌日、開祖の本葬に参列して神戸に帰るや、深町はさっそく六頭いた持馬のうち四頭を売り、ついでに金山まで未練気もなく手放してこの日を待った。 神戸から綾部への道は初めてだった。だが王仁三郎の「心配いらん。馬が教えてくれるわい」という言葉を信じて、岐路に立つと手綱を放した。すると馬が勝手に方角を決めて歩き出し、深い山道を一度も迷わずにここまで来たのだ。 このちっぽけな盆地の中に、わしを生かす親分がいる。神さんなど二の次だった。大きく息を吸い込むと、二頭の馬は高くいななき、とっとと峠を下る。待ちかねたように、天から粉雪が落ちてきた。
 ついこないだまで神苑を赤く彩っていた紅葉はあとなく散り、裸木に粉雪が吹きつけ初めた。しびれるような寒さもいとわず、王仁三郎は新築なった馬小屋をあきず眺める。「先生、またここにおっちゃったんですか。早う御飯を食べなはれ」と、澄が呼びに来た。「待て、お澄、もうすぐ金龍と銀龍がやってくる」「そんなこと、分かるかいな」「わしには分かる。遠くから馬のいななきと蹄の音が聞こえとるのや」「今度は馬道楽かいな。うちは好かん。立替え立直しが迫っとるのに、馬どころですか。それに深町という男、人の噂では、権太くれでしょうもない女たらしやげな」「まあ、そう言うな。そうそう、深町はお澄と同い年やそうじゃ」「ごまかしなはんな。年なんて関係ござへん」「そらまあ、ないない」 細く華奢だった澄は最近ふっくら肥え出して、貫録がついてきた。 王仁三郎はますます澄に弱い。機嫌とるように語り出した。「お澄、日に日に変わる大本やが、時期的にはそれぞれ段階があるやろ。浅野はんが来て神霊界を発刊し、開祖はんが昇天になり、続くこれからの三年……浅野和三郎も岸一太も友清天行も谷口正治も……そして深町孝之亮もまた、濁酒時代を作るに必要な男や」「またわけの分からんこというて……人を煙にまこうとしてじゃ。濁酒時代って何のことやいな」「濁酒……滓を漉し取らぬ白く濁った粗製のあれや。この大本で醸造した濁酒を天下に売り出したら、上戸も下戸も先を争ってこれを呑む。呑んだ酒なら酔わなきゃ損じゃ。酔えば管巻く奴もあり、喜び勇んで踊るもあり、笑うか泣くか反吐吐くか、転んで頭を打つ奴か。酔うた酒ならいつかは醒める」「なに寝言を言うとるのやろ、昼間っから……ほな、濁酒時代の次は何どす」「いよいよ神の醸した清酒を売り出す。銘柄は大江山の鬼殺し、世界の鬼を退治して心の鬼も殺す珍無類の清酒や。この清酒をほどよく燗して適当に飲み、五臓六腑に染みこませたら、まさに天国に遊ぶ気分になる」「その……清酒って何ですいな」「教えじゃ。神素盞嗚大神のまことの教えじゃ」「ふーん」と、澄はまだ納得いかない。「明日から大正は八の年、八は弥の年いよいよの年や。お澄は三十七、わしは四十九か。早いものやのう、お前と結婚して十八年になる」「いろいろなことがござしたなあ」「ほんまやのう。わしはこれから天馬空を行く。オリオン星座の中にも飛びこまなならん。わしの留守中、大本をしっかり守るのは、お前の役目やぞ」「よう言うてくれてや。留守なら、すまんが先生の顔忘れるほどしてきましたわな」と澄がにらむ。「待て、その話は後や。深町が、ほれ、あの橋を渡ってきよる、きよるわい」 王仁三郎の指さす方角から、粉雪を蹴って二頭の駿馬が駆けてくる。「よう、待ちかねとったぞ」と王仁三郎が迎えに立つ。 馬の背を飛び降りる深町のはずんだ姿から、子供のような喜びがこぼれ落ちる。 王仁三郎は二頭の馬の首に代わる代わる抱きつき、嬉しげに頬ずりした。 深町は報告する。「こいつら、偉いもんで、本能的に親分の……いや、新しい主人の居場所を知ってるんどすなあ。誰にも聞かんと、ちゃんとここまで辿りつきましたで」「そやろ、そやろ、けど妙なもんじゃのう。大正七年は午の年、この年に御昇天になった開祖は、神馬にまたがって天地を駆け巡り世界の御守護しなはる。待ちに松たる鶴の首じゃ。そこで午年のこの大晦日は、馬で納めて綾部と神戸の機の仕組みも織り上げた」「それで明日からの未年は?……」と深町が問う。「おう、よう聞いてくれた。来年には未の生まれのこの王仁三郎、めでたく坤の姫神と現われて、百千万の敵をも恐れず、いよいよ晴れの舞台に登るのや。 わしの名前はオニ三郎やが、百済の王仁博士のおかげで世間じゃワニさんと呼びくさる。それで結構。わしは鬼にもなれば、鰐にもなるわい。 丹波の国の山奥に角のない鬼が現われて、摺鉢峠の鉄棒で世界の権力亡者、金力亡者どもを片っ端から打ち懲らし改心させる。また和知の流れに引き添うて大きな鰐が首もたげ、世界の知者、学者どもを食い殺し呑みこんで、この世の害を除くつもりや。 お前は鱶やが、小鰐になってついてこい。深町が楽屋入りせんことには、芝居の幕が上がらんのじゃい」 吹きたい放題の親分の大ぼらに、深町まで大口あけて笑っていた。わけがわからんくせに、心が勇んでならなかった。「阿呆かいな、濁酒時代のこの男たちは……」と澄はいまいましげにつぶやいた。だがなぜだか腹が立たぬ。 澄が王仁三郎と連れ添う限り、これからも苦難は絶えまい。直の死によって母と夫の火水の戦いは終わりを告げたが、それを雛型にしたようなどえらい戦いが……国を向うにまわした戦いがいつ起こるか知れぬ予感は澄にもある。 それが神の仕組んだ立替えなら、笑って耐えもしよう。男どもの濁した酒なら、漉して澄ませるのが、わたしの役。天馬空を行くのが夫なら、その急所をぐっと握って、うちは大地を踏みしめて立つ。 ゆく年のすべてをかき消しつつ、粉雪は天と地を白く閉じていく。 ――明日はまたどんな大芝居の幕が開くじゃろ。
(了