表題:龍宮の乙姫 9巻1章龍宮の乙姫




直一行が沓島へ発った翌五月十五日、龍は北西町の大槻家を訪ね、姉米への用事をすませて帰りかけると、奥の間から鹿蔵が出て来て、懐手したまま睨みつけた。「おい、お龍、伝吉を明日中に連れ戻せやい」「そんなこと言うちゃっても、無理ですわな。連絡のしようもない海の無人島じゃし……」「そんな連絡のつかんとこへ、誰にことわって、わしの大事な息子を連れ出した」「わたしに言うてもろても知りまへんわな。教祖はんかて、神さまの御用で……」「何を。婆とお前は親子やないか。知らんちゅうことがあるかい」「お米姉さんとも伝吉兄さんとも親子ですわな」「何ぬかす。わしらは因縁から言うたら、敵の間柄や。お前の亭主の慶太郎にでも迎えに行かせい。明日中に連れ帰って伝吉の顔見せなんだら、わしにも覚悟があるぞ。龍門館の奴等にそう伝えとけ」 龍は鹿蔵に重なる恨みがある。子供の頃に大槻家に預けられた。自分たちはさんざ白い飯を食べていても、幼い澄と龍のひもじさなど思いやってもくれなかった。母直を座敷牢に入れたのも鹿蔵。その母に会いに行って鹿蔵に折檻され、悔しさに死のうとした。母に鎌を差し入れ牢を破り、つかまった時、その鎌で鹿蔵を殺そうとしたことすらあった。出口家の屋敷を鹿蔵に売り払われ、親子姉妹ちりぢりに、母の居所さえも知らずに暮らさねばならなかった。 それからだって、どれだけ理不尽な言いがかりに苦しめられてきたことか。 忘れようとしていた長い長い間の恨みが一度によみがえり、龍は鹿蔵をきっと睨み返した。「そんなに大事な息子なら、柱にくくりつけても止めちゃったらよかったのに。義兄さんが止められなんだものを、わたしらが連れ戻せるものですか。それに、留守の間の養いは渡してあるげな。無理を言うにもほどがあります」「なんじゃて、あんな端金で養いを渡したつもりか。こいつ、さんざわしに恩を受けとりながら、そんな立派な口がきけた義理か。お前のような犬畜生は殺してやる」 鹿蔵が怒りにまかせてなぐりかかる。「お龍、逃げい」 米の叫びを皆まで聞かず、龍ははだしで飛び出していた。
 その夜の八時頃であった。神経痛でうなっていた王仁三郎がようやくまどろんだと思う頃、激しく蒲団が引きはがされた。はね起きて寝ぼけまなこで見ると、大槻鹿蔵が鉄棒を突き出して、立ちはだかっている。「おい、会長はん、話がある」「痛っ、う、うーむ、どんな話や知らんが、寝とる病人叩き起こしてえらい乱暴な挨拶や。話なら母屋へ行こ」 足を引きずりつつ、渡り廊下を通って七畳半の部屋へ行く。澄に茶を入れさせて、鹿蔵の話を促した。 俺お前の仲の鹿蔵が切り口上になった。「会長はん、わしんとこの後継ぎをどこへやってくれたんや。金明霊学会では、会長の命令で他人の息子をどこなと連れ出してもよい規則がござるのか」「さあ、とにかく沓島を目指したことは確からしいが、それから先のことはわしにも分からん」 鹿蔵の声が荒れた。「分からんやと……お前はん、責任ある会長が、知らん顔の半兵衛でわしをあしらうつもりかいや、さあ、どうしてくれる」「鹿はん、わしが名前だけの会長やちゅうことも、一たん、こうと決め込んだら人の言うことなど聞く教祖はんやないことも、あんたが一番よう知っとるやんか。まあ、お茶でも飲みなはれ」「そんなことで、茶を濁そうと思うて……」 鹿蔵はややおとなしくなり、茶受けの沢庵をかじり、澄のいれた茶をすする。「玉露ほか飲まん口やが、たまに番茶の出ばなもうまいわい」 やれ、これで収まったかとほっとすると、鹿蔵はやおら声を張り上げた。「一昨日の晩、お直婆さんは、わしのことを露国身魂の大江山の酒呑童子じゃとぬかしくさった。婆さんは吾一人の力で足らぬので、わが産んだ子をおびき出して、親子腹を合わしてこのわしを呪い殺すつもりじゃろう。道理でわしは頭がくらくらするし、膝ががくがくして急に弱ってきた。もしわしがぽっくり死んだら殺人じゃし、死ないでも殺人未遂じゃ。しかもわしの子をかどわかして行方知れずや。誘拐罪でもかまへん。警察に訴えちゃるがどうじゃ」 あまりの屁理屈に、王仁三郎はふき出した。「大槻はん、そら苦しい言いがかりやのう。呪われんでも、あんたかて年が年や、いつぽっくりいくや分からん。それにあんたの大声はみな聞いとるさけ、反対に脅迫罪でやられるで」 鹿蔵は横を向いて咳込んだ。 澄の入れかえた茶をすすり、鹿蔵は陣容を立て直す。「さて、わしがここへ来た本当の要件は、お龍のことやでよ。お龍の奴、わしが息子をとられた悲しさに、ちょっと老いの愚痴をこぼしたと思え。そしたらお龍がどう口を返したと思う。『留守中の養いはたっぷりもろとるくせに……』それも大声で近所中に言いふらしくさった」「ちょっと待て、大槻はん、わしもお龍さんからそれは聞いとる。ただあんたにちょっと言い返しただけやないか」「阿呆ぬかせ。わしは自慢やないが若い時から耳が遠い。そのわしの鼓膜が破れんばかりにわめきよった。近所中に聞こえん筈がない。たった一日五合ずつの米代ぐらいで、養いが聞いてあきれるわい。まるでわしがゆすりたかりをしとるみたいや。三合や五合の米代なんか、何ほしかろやい。さあ、龍を出してもらお。返答次第では打ちのめしてやろうと思て、この鉄棒を下げて来たんじゃ。さあ出せ、龍を出せ」「お龍はんかて生きた人間や。打たれると思って出てくる馬鹿はない。それに相手はたかが弱い女やないか。それも妹相手にいばったかて、大槻鹿蔵の名はあがらんやろ」「え、なになに……」 都合が悪くなると、耳に手を寄せ聞こえぬふりをする。さすが因鹿、若い頃の凄味はなくなったが、あの手この手で粘ってくる。 この調子で居据わられたら、坐っているだけでも大儀な王仁三郎、いい加減神経がまいる。かと行って、義兄を放り出すわけにもいかぬ。その弱みを承知の上、じわじわと持久戦に出るつもりだからたまらない。金をやれば立ち去ることは分かっているが、いったん折れれば際限なくたかってくるのだ。 また鹿蔵が大声でわめく。「よし、分かった。ここの奴らは、ぐるになって龍を隠しとるのじゃ。そっちがその気なら、龍を成敗するまで、二十日でも三十日でもここ動かぬわい」「ともかく大将の留守中やさけ、帰ってくるまで待ってくれや」「今すぐ、婆を呼び出せ」「用があるなら、あんたが会いに行ったらどうや」「え、なになに……」と、耳に手を寄せる。同じことを何度も繰り返す。 夜半に米が迎えに来て、悪態つきながらようやく帰って行く。
 五月十六日、沓島へ渡島前に舞鶴から発した王仁三郎宛の直の手紙が届いた。「二十日たったら小船を出して迎えにくるように。もし姿が見えねばさらに二十日後に」と。「ば、ばかな」と王仁三郎は手紙を握りしめる。
 夜ごと鹿蔵は龍門館へ押しかけた。その度に、龍は恐れて隠れ回る。 王仁三郎ではどうも調子がとれぬらしく、今度は役員たち相手に因縁をつけ始めた。役員たちにしてみれば、七十近い老人だ。しかも教祖の女婿、手荒には扱えぬ。下手に喧嘩を買ってもしはずみに傷でもつければ、博奕宿をしている鹿蔵のこと、落ちぶれたとはいえ恩を売っている若い者の四人や五人はあろう、後の祟りが恐ろしい。 信仰のためなら警察も軍隊も向こうにまわして恐れぬ役員たちも、ほとほと困り抜いた。 五月十八日の夕方、龍は向かいの安藤金助に呼び止められた。「お龍はん、あんた鹿蔵はんに何しちゃったんやいな。横町の風呂屋でみんなに言いふらしとるでよ。『毎晩、大本へ行って責めとるのや。みなが出て来てべんちゃらしくさる。甘い玉露は出しよる。なかなかこわもてにもてて、気持ちがすいすいする。龍が姿を見せるまでは毎晩行っちゃる。この拳固をくらわして、龍の息の根とめちゃる。とにかく、わしが新聞にのるような大事件を起こしたるさかい、楽しみに待っとれ』言うて、どえらい剣幕じゃわな。どんなことしちゃったか知らんが、用心せなあかんでよ」 怒りで震える両手を握りしめ、龍は帰るなり叫んだ。「お澄さん、わたし、もう覚悟ができた。殺されてもかまわんさかい、今晩こそ鹿蔵の前にでてはっきり決着つけます」 澄の眼がきらめいた。「そうや。ばちっとしばいたろ。うち一人でもやっちゃろと思とったとこや。先生が『穏便に、穏便に……』言うて止めてやさかい舐められる。あっちが鉄棒でなぐる気いなら、こっちはあの手や」 龍が驚いて聞いた。「あの手って……何するつもりやいな」 久し振りに母でも妻でもない喧嘩八兵衛の昔にかえって、澄は生き生きと言った。「男はなあ、誰でもあそこが弱いんや。ばーんと急所蹴とばすのが一番こたえよるで」「お澄さん、わたし、鹿蔵となぐり合いするつもりやない。逃げ隠れするのはもういややさかい、はっきり話し合うて決着つけたいだけじゃ」「そんなことぐらいで納得する鹿蔵やないわな。どっちでもよいけど、先生には言わんときなはれや。すぐ止めてじゃさかい……」 雨模様のまだ宵のうちから、鹿蔵がやって来た。下の四畳半で、四方平蔵、森津由松相手に、例によってからみ始める。 二階の神前では、教祖一行が出発して以来、役員が交代して絶えず大望成就を祈っていた。地方の支部でもそれに習った。ちょうど中村竹吉と伏見から移住してきた小島寅吉が祈念している最中であった。 王仁三郎は、隣室で寝ていた。この頃の不穏な空気に教祖の留守中何かあってはと、わざわざ臥龍亭から床を移していたのだ。 出口慶太郎と龍夫婦が外から入ってきた。「義兄さん、おいでなはれ」 龍はさりげなく挨拶する。「はい、お帰り」 物わかりのいい隠居のように、鹿蔵は短く刈った頭を下げ手招きした。龍は素直に前へ坐る。と、鹿蔵は龍の袖をつかんで片膝立て、「こら、お龍、わしがいつ大本から扶持もろた。さあ、返答せい」「わたしは、そんなこと言うた覚えはございまへん。伝吉さんの養いをもろてる言うただけですわな。それが悪いのやったら、今夜は逃げも隠れもせえしまへん。ゆっくり話を聞かせてもらいます」「おのれ、生意気な」 言いもはてず、鹿蔵は思うさま龍の鼻の下をなぐりつける。ぎゃっと鋭い悲鳴。 夫慶太郎がとび込んで鹿蔵のこぶしを押え、平蔵が背に組みつき、森津由松が腰にぶら下がる。 三畳の間で機を織っていた澄が飛び出すなり、小気味よい音を響かせて鹿蔵の頬を平手打ち。なぐられて我を忘れた龍も、こぶしを振るって鹿蔵にとびつく。「やめい、お前ら……止せ、澄」 澄独特の表現を借りれば、この時、王仁三郎は「病床からぬたくり這って」来て澄を引き倒し、馬乗りになったという。 獣のように吠えながら、鹿蔵は暴れて行燈を蹴倒した。あたりはまっ暗になる。 階段を駆け下りて誰かがとんできた。闇の中に恐ろしい絶叫が上がる。続いて鈍い打撃の音。それらはまったくの一瞬だった。 生ぬるいものが四辺にとび散る。 慶太郎が鹿蔵の腕をはなして、またも襲いかかる男の右膝を蹴り上げた。転倒する男。誰が誰やら分からぬ怒号と悲鳴。倒れた男が起き上がって、階段を駆け上がる音。「警察や、森津、巡査を呼べ」と、王仁三郎の声。「畜生、殺しちゃる。鉄棒を持って来い」とわめくのは鹿蔵。「灯をつけい。誰か行燈を……」 暴れる鹿蔵に引きずられつつ、王仁三郎が叫ぶ。 澄が火打石を打ち、ようやく行燈がつけられた。見ると鹿蔵の額が割れ、鮮血がほとばしり出ている。 龍が晒を引き裂き、王仁三郎がその布片で鹿蔵の血を拭ってやろうとすると、「さわるな、ひいーっ」と泣きながら鹿蔵は布片をひったくり捨てて、両手でべたべたと血を顔中に塗りひろめる。 それから双肌ぬぎになってしなびた弁天の入れ墨を出し、部屋の真ん中に大あぐら。まだしたたる血潮を畳になすりつけ、しゃくり上げつつ啖呵を切る。「さあ、殺せ、切るなと突くなと、どうなといたせ。大勢寄ってたかって、この年寄り一人を手篭めにあわしよった。うーん、もう堪忍ならぬわい」 中村竹吉と小島寅吉が二階から下りてきた。 中村は、気づかわしげに鹿蔵の傍に寄った。「どうしちゃったい。あれ、えらい血や。これはすぐ医者を呼ばんと大変じゃわな」 一同は白け切った顔を見合わせた。行燈の灯こそ消えていたが、鳥眼の平蔵は別として、二階から下りて鹿蔵を打った男が二人のうちのどちらかぐらい、誰もがはっきり感じていたのだ。気づかぬのは、逆上した鹿蔵だけである。 隣の牛田巡査が駆け付けて、一目で事情を察したらしい。慣れた手つきで鹿蔵の血を拭き傷口を調べて、おもむろに言った。「大槻はん、どうしてや」「あたりきや。訴えたる。警察でも裁判所でも訴え出たるわいな。こ、この傷見ちゃったじゃろ。こいつら、ぐるになってわしを殺すとこや……」「訴えるなら訴えてもよいで。けどなあ、あんた、毎晩お龍はんいじめに来とる噂を近所から聞いとったんじゃでよ。脅迫罪で何とかせなと思とった矢先じゃ。一体どっちから手を出したんじゃいな」「鹿蔵さんがわたしをなぐったのが最初です」 龍が冷静に言った。「ふむ、まず大槻はんが女をなぐる。この鉄棒はあんたのやろ。立派な凶器持ち込んどるやないか」「……」「それで、このあんたのおでこを割ったんは誰やいな」「お龍や。この女がわしを木槌みたいなもんでなぐりつけくさったんや」「ほんまか、お龍はん」 龍がうなずいた。 一同が何か言いかけるのを、王仁三郎は眼で押える。この場合、犯人を女にしておいた方が有利だと、とっさに考えたのだ。「凶器を見せなはれ」 巡査の言葉に、一同の眼は龍からいっせいに中村竹吉に移った。中村はそ知らぬ風に天井を見上げる。 牛田巡査は困ったように言った。「ともかく凶器だけは、後日のために預かっておきますで。お龍はん、どこへ隠しちゃった」「あ、あれです。土間に……あそこに投げ捨てた下駄ですわな」 お龍が指差したところに、男下駄が片方ころがっている。森津由松が拾い上げ、巡査に渡す。下駄の角のあたりは確かに血に濡れ、鼻緒のあたりまで飛び散っている。 澄が声を張り上げた。「なぐったのは、うちがお龍姉さんより先やで。義兄さんのド頭ぴしゃぴしゃ叩いてやったんや。もっとどつくつもりやったけど、先生が引き転ばして止めちゃったさかい、まだすっきりせんわいな」 牛田巡査が急いで口をはさんだ。「すると、こうやな。大槻はんが今夜も鉄棒もって、お龍はん責めに来た。うーん、何日ぐらい来とったわけや」「今夜で四日目ですわな」と龍。「原因は何やい」「誘拐罪や。ここの婆あがわしの後継ぎの伝吉連れて龍宮とかに行きおった。あとの養い料ちいっとばかりよこしたぐらいで、このあまっちょが……」 言い募る鹿蔵に、牛田巡査が苦笑した。「つまりは親子喧嘩に兄弟喧嘩や。しかし四晩もおどしたあげく、妹のお龍はんをなぐっとる。そこで、お澄はんとお龍はんが、かっとしてなぐり返した。まあ、言うたら女の身で、正当防衛というわけや」「……」「お龍はんが訴え出れば脅迫罪も成り立つでよ。裁判になったらどっちが勝つやら分からんわな。まあ、今夜は帰って傷の手当てをして、ゆっくり考えたらどうや。わしが送ってやるわいな」 どうも不利と鹿蔵は判断したらしい。鉄棒とこうもり傘を杖について、わざとよろよろしょぼ振る雨の中を出て行った。
 翌日、王仁三郎は負傷見舞いの品をみつくろって、北西町を訪ねた。表からは繭を煮る匂いが流れ、女たちが糸を引いている。裏口から入って米に昨夜の詫びを言い、奥の間をのぞいた。 耳の遠い鹿蔵は、王仁三郎の呼びかけも聞こえぬらしく、熱心に何かしている。見れば神床をひっくりかえして、筆先やら守札をとり出し、一つ一つ鼻をかんだり痰を吐いたり。悪態吐きつつ神号の軸までひきおろして、その後に伊勢皇大神宮の守札をはりつけた。「やれ、これですいっとしたわい」 振り向いて、王仁三郎と鼻つき合わせ、ぎょっとした。「やあ、会長はん、見とったか……」「どっちなとあんたの心次第やが、この神床は、教祖はんがお米はんの九年間の病気を鎮めた時に祀りなさったものや。気違いが治ったというのは、憑いていた霊を肉体から切り離したこと。けど霊はすきさえあればまた古巣へもぐろうとしよる。怖い神さんをあんたが除けてしまえば、喜ぶのは元の憑霊……」「五年間もあれからたっとる。くそ婆あの神さんよりか、ずっと上等の、皇大神宮さんのお札はったんや。何こわかろう」 当の米が茶を入れて持ってきた。「お米はん、こんなことさして、よいのかい」「好きにしちゃったらよろしいわな」 米は涼しい顔で言い、汚れた筆先を庭先に投げ出し、後片付けにかかる。 役員たちの稼ぎでもおっつかぬほど、直は筆先を量産する。腹の虫の居所が悪い時は、王仁三郎も直のことを「紙食い虫」と憎まれ口をたたく。あまり人のことを言えた義理ではない。 気をとり直して、鹿蔵の額を見た。「怪我はどうです。痛みますかい」 鹿蔵は急に頭をかかえて坐り込んだ。「うーん、痛い痛い痛い……さっきまで寝とったんや。疼いてたまらんわい。医者に行くにも、まず薬代を貰わにゃならぬ。女の分際で男の面体を傷つけるなど、ふらち千万な奴。これから警察へ行って白い黒いを分けてもろて、臭い飯を一年も食わしてやらねば腹いせできぬわい。下手人の龍を連れてこい」 鹿蔵のいきり立ちようは激しく、このまますみそうもない。帰って役員たちと前後策を議した。 龍が言う。「母さんの留守中に、役員に傷をつけては気の毒です。私が罪をかぶります」 慶太郎が妻をかばって、中村を睨んだ。「いや、お龍はなぐられて打ち返しはしたが、下駄で叩いたのは中村はんです。そうでっしゃろ。ちゃんとこの眼で見ましたで」 他の居合わせた人々もうなずいた。中村は、顔をこわばらせてうそぶいた。「知らんでよ。決して覚えはありまへん」「それでは仕方ない、お龍さんに罪をきてもらうほかはないのう」 試みに王仁三郎が言えば、中村は頬をゆるめ、「身魂の御因縁で御苦労さまでございます」「偽善者と狂人、愚者は救いがたしや」 王仁三郎は席を立った。けなげなお龍。それにひきかえ、教祖や教祖の子らのためなら命もいらぬと広言している中村の、この卑劣さは見るに耐えなかった。 鹿蔵、中村のやりきれぬ狂態、沓島へ行ったなり消息の知れぬ直と市太郎と伝吉。三人の神業成就のため徹夜の祈願をこめる役員たち。 王仁三郎は次第にふくれあがる不安に身悶えた。「教祖一行は一週間か二週間で帰ってくる」と小松林命は言ったが、それも信じきれなくなってくる。小松林だって、時には騙し、時には間違うことだってあるのだから。 両艦隊の激突を目前にしたただならぬ日本海上である。水もない岩ばかりの沓島で、どうやって堪えているだろう。もし邪神に魅入られて龍宮城へといざなわれれば、喜んで直は海にも入ろう。沓島の海域に溺れてただよう三人の死体が眼にちらつきさえする。何故、三人を止めきれなかったのだ。 痛恨にうちのめされつつ、痛む足腰を引き、王仁三郎は夜の本宮山上にのぼった。 五月十九日、ふり仰ぐ空には、十五夜の月がみずみずしく青い光を下界に投げかけている。沓島の三人も、この同じ光に濡れているだろうか。 久し振りで愛用の石笛をとり出し、りょうりょうと吹き鳴らした。お歯黒をつけ、打裂羽織に鞄一つ、自負に燃えて綾部入りした七年前のおのれの姿が浮かんでくる。 ――この者でなけらいかぬ。かけがえのない身魂であるぞというその舌の先から、艮の金神はこの長い年月、王仁三郎を苦しめ続けてきた。「悪の鑑の御苦労なお役」「小松林のやり方は害国の守護、まねはできぬ」などと言い、その上、沓島篭りを前についに隠居役を申し渡して、働き盛りの王仁三郎の活動を封じた。もっともその時、王仁三郎の審神もまた、直を悪魔・偽予言者と断じていたのだ。けれどそのそばから淋しさ、苦しさが湧き立ってくる。 沓島の海で直が死ぬなら、自分も身を投げて死んでしまいたい。 身も魂も病んで、吹きならす石笛の音さえ震える。無音の声が空を伝って響き渡った。 ――そなたの血統、みたまの因縁が負わねばならぬ辛いお役であるぞよ。世を持ちここまで乱らかした神々の罪をあがのうて、千座の置戸を負わねばならぬのが、その方の役。素盞嗚尊の宿業なのじゃ。 はっと王仁三郎は石笛をおく。わしの血統が……そうか。母世祢とわししか知らぬ父の血を、艮の金神は見抜いていたのだ。 実の父にも知られず、ひそかに生み落とされた喜三郎……。権謀術数渦まく雲の上から、血統の一粒の種を地に降し、野におい立たせ、やがて悪の鑑となし、神意にそむいて体主霊従の世を開いた人類の罪を負わす。ああ、もしかしたら、初めから贖い主としてわしを拵えた。……艮の金神の仕組んだ芝居なのか。 無茶苦茶や。教祖はんが人形なら、わしも人形か。神さん同志の間で勝手に善悪の烙印を押した玩具にされるのはごめんや。水呑百姓の伜として、わしは充分にがい水を呑んで育った。この上、何が悲しゅうて他人の罪まで……。 何者かに食ってかかりながらも、王仁三郎は気づいていた。確か明治十五(一八八二)年、亡き有栖川宮熾仁親王は、天皇の名代として、露国の皇帝アレクサンドル三世の即位礼典に渡露、太子(皇帝ニコライ二世)に大勲位菊花大綬章を贈っている。また皇帝よりはアレクサンドル・ラウスキー勲章を受けたと、当時の古新聞をひっくりかえして読んだ覚えがあった。 つまり、筆先でいう露国の極悪神の血統と父の家とは、人民を支配する世に立つ側として、艮の金神の眼からは同列なのだ。立替えられるべき筆頭なのだ。 神は世界の雛型を日本に、日本の雛型を丹波の片田舎の大本に仕組んで、その中で善悪を立て分けようとする。会長の改心が一日おくれたらそれだけ長く世界の人民が苦しむなど、あまりのばかばかしさにむかっ腹を立て、直や役員らの迷信ぶりをあざ笑ってきた。けれど神は、王仁三郎の中にうつる世界の悪と、はびこる支配者たちの利己の心を見抜いたのではないか。 今かりにその雛型として悪の役割を受け入れるとして、では艮の金神は悪の血統の王仁三郎をどう扱いたいのか。年をへた悪の根を一挙にうち切り、おびただしい血を流して滅ぼしたいのか。立替えとは何だろう。贖いとは……。 王仁三郎の心は初めて素直に筆先に向かった。 その一節一節を思い浮かべようと、冴え渡る月に眼を移す。と、月面をかすめて黄金色に光る雲が走った。同時に南空の果てに湧き上がった黒雲の一塊がみるみる凄まじい邪気をはらんで頭をもたげ、爪をのばし、火焔を発して月に迫る。すうとのびた黄金色の雲は、一瞬くっきりと龍の姿を現わし、襲いかかる黒雲に組みついてゆく。月は立ちのぼる黒煙に没して、あたりは闇となった。が、王仁三郎の霊眼は、邪気となり、大蛇となり、八尾の悪狐とも変じた黒雲が黄金色の龍ともつれあう、恐ろしい死闘を見る。月光が黒雲を射て光を増すや、雲は形を崩して北へ走る。身をくねらせて龍が追う。やがてすべての雲は形を失い、山の果てに消えていった。 王仁三郎は肩の力を抜いた。我知らず全霊の力をふりしぼって、組んだ指を空にふり向けていたのだ。わずか数秒間の出来ごとだったに違いない。今はこともなく澄んだ月、夜空であった。
 翌日、王仁三郎は役員たちを集めた。「まず、嬉しいことを報告しておく。『近日中に日本海で大海戦があり、バルチック艦隊が全滅する』と神さまから見せられた。このことはそれぞれの胸に秘めて、世間に言いふらさぬように。さて、教祖さんらが沓島に篭って、もう六日目になる。音信はないが、さぞかし飲食に困り、体も衰えとってやろ。なんぼ神さまの御命令か知らんが、わしらとしては、あんな水のない無人島に四十日間も捨てておくことはできん。いわば人道上の問題や。すぐに船を出して、無理にも連れ帰りたい。体がしゃんとしたさけ、迎えにはわしが行ってもよい」 中村竹吉が、王仁三郎の提案を一蹴した。「バルチック艦隊が全滅するちゅうような、そんな阿呆げたことはござらん。そうなると、大本のお仕組みが嘘になる。きっと小松林の悪神に騙されとるんじゃろ。今度こそ、日本ももうかなわんというところまで行くわいな。丹後の宮津へも攻めかけるに違いない。沓島の艮の金神、変性男子稚姫君命出口の神とあらわれて、それに雨の神・風の神・岩の神・荒の神・地震の神・残らずの金神・世の立替えのわかりた神さんがお手伝い遊ばして、いっぺんにくれんとひっくり返しなさる仕組みじゃ。今度三人さんがおいでになったのは、正真の艮めの御用でござる。食う物や飲み物で困ってござるようなチョロこいことではないわい。生神さまの教祖さまがおいでになってござるのじゃから、人間心を出さず、二十日たったところで迎えに行けばよいのじゃ。会長さんは、どだい肝が小さい。しじみ貝で海をかい上げるようなことを思うてござるが、三千世界の立替えの大本に坐る人がそんなことでは……ははは……」 中村の豪傑笑いに王仁三郎も思わずふき出し、あきれて言葉がない。 四方平蔵がしたり顔でつけ加える。「日本の大臣らが『さあ、かなわん』と言うようになったら、仕方なしに大本の高天原へ訪ねてくる。そこで三千世界の立替えのことを教えてやる。法律も変えさす。天皇陛下の洋服も和服に改めさして、角文字を廃止させて『いろは四十八文字』に立替えさして、世界の物はみな出口の神の物にして、その上改心ができたらいっぺんにくれんと返して、日本の国を助ける仕組みですわな。お筆先を真剣に何度も読んでみたら、その仕組みがわかります。出口の神の筆先にあらわれたら、それが天の規則やろ、間違いござへん」 他の役員たちは、中村・四方大幹部の迷論に、うっとりと聞き惚れた。 田中善吉がまじめな顔で言う。「むかしのまことの神々さまは、お姿はみな長物やそうですなあ。天照皇大神さまも、月の大神さまも、龍宮の乙姫さまも、お姿はみな大蛇ということや。そうでなければ、とても三千世界の立替えはでけまへん。大蛇がいっぺんすーっと通ったら、世界がいっぺんに泥海になるということどす。今度の世の立替えには、世に出てござる神さんや苦労なしの安神では間に合わん。艮の金神出口の神の御威徳で、世界がいよいよ良うなりまっしゃろなあ」                                       潮騒のとどろく沓島の磯で、直は一心に筆先を書き続けていた。 ――艮の金神国常立尊、出口の神と現われて二度目の天の岩戸開きをいたすについては、昔の世の元からこしらえてある因縁の身魂をこの大本に引き寄して、それぞれに御用申しつけるぞよ。昔の天照皇大神宮どのの折の世の立替えよりは、何かのことに骨が折れるのであるぞよ。 明治二十五年から出口直の体内に入りて、世界にあることを知らしたが、今に続いて知らしておるが、三千世界の世の立替えと申すのは世界の人民の霊魂の立替えのことであるぞよ。世界の霊魂がみな総ぐもりになりてしもうて、言いきかした位には改心の出来る霊魂はないようになりておるから初発に出口直は神に意見をいたさなならんおん役であるということが口と手とで知らしてあるが、むかしのみろくの世は結構でありたなれどくれていきよるとくもりがでけてきて、天照皇大神宮どのの折にも世の立替えを致したでありたが、天照皇大神宮どのの折はここまでもなかりたなれど、今度の二度目の世の立替えは骨が折れるというものは、この世をこしらえた元の世界をこしらえた生神を世に落としておいて、(この世をこしらえた生神には)この世が来るのがよく分かりておりたから、みろくの世のやり方でやらねばいかんと艮の金神が八百万の神に申したら、そのようなやり方では他の神がようつとめんと、皆がもくろみて大神さまへお願いなされば、大勢と一人は代えられん、艮へ押込めいと大神さまの御命令でこの方は艮へ押込められて、我の強い霊魂は皆押込められて、陰からの守護いたしておりたなれど、この方が申しておりた世がまいりてきて今の体裁。 先の見える元こしらえたこの方を押込めておいて、露国の極悪神のたくみは、この地の出来んこの世が泥海の折にたくみておることを、大神さまは御存知であるゆえに、いったんはこの世がこうなることは御存知であるから、日本の国には深い仕組みがしてありてのことであるぞよ。 この世をこしらえて、ここまで開くのは一通りの霊魂ではこの世界をこしらえるということは出来はいたさんぞよ。前の天照皇大神宮どのの折の世の立替えは、今度のような苦労はなかりたなれど、前の岩戸開くのが間違うておりたぞよ。あまり素盞嗚尊が御姉上さまの世をもちなさるのが残念なと申して、あれほど天照皇大神宮どのに敵対うて、堪忍袋が切れて岩戸へお入りになりたでありたのざ。だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸開くのが嘘を申してだまして無理に引っ張り出して、この世は神となりたら勇みたらよいものと、途中に出来た神やら、苦労知らずの守護神が嘘を申して引っ張り出して、それからは、天宇受売命どののうそが手柄となりて、この世がうそでつくねた世であるから、神に誠がないゆえに、人民が悪うなるばかり。 この世の来るのは大神様が泥海にまします折からよくわかりておるのであるから、素盞嗚尊の霊魂は、この世は持たせられん霊魂であるのに、大神さまの御分霊であるから、御姉上さまを敵対うて外国へ落とされたのでありたなれど、日本の大神さまの御血筋であるから、露国の悪神がうまいことに抱き込んで、学を持ってきて、日本では表へ出されん霊魂を上へあげて、この世を、日本の国を学でさっぱり神徳のないことにしてしもうて今の体裁。 日本の国は、神力でいかねばならん国を、学さえありたら、上へあがれると申して、ここまで学がはびこりたのであるぞよ。学では日本の国は神力を失うから、何かの時節が参りてきて世がくれてここまで開けたなれど、開けたのではない。この世はばらけてしもうて、このままでおいたならもう一寸も先へは行けんことになりて、この世へ出て、この世を守護しておれる神には、ちっとも神力ということがなくなりて、二度目の世の立替えをいたさねば、このままでおいたなら、今度艮の金神が世を受け取りて、世をかまわなんだら、どちらの国もつぶれてしまのざぞよ。 国をつぶしてはならんから、日本の国は昔から深い仕組みがしてありて、明治二十五年から出口直にうつりて、今の世が来るから、ひとから見るとまる気違いでありたなれど、人民の知らんことであるから知らせたのでありて、今に筆先で知らしておりても、まだまことにはいたさんが、今度沓島へ参りたのは何かの時節がまいりきて、世界のこと知らしてあるのが日ましに出てくるから、今度変性男子が沓島へ三十三年から三年の六月の八日に冠島へ参拝、七月八日には沓島開きにまいりて、(三十)四年の四月十日に沓島に参りて。 今度明治三十八年の四月の十日に参りたのは、変性男子が現われる時節が参りて来て、今度出口直・後野市太郎・出口直の実子の伝吉と沓島へ来たのは沓島が龍宮であるということを現わしに連れゆきたのでありたぞよ。龍宮の乙姫どののおすまいどころはここという事を現わしに連れ参りたのでありたから、三人の行はだいぶ厳しき行でありたが、沓島の淋しきとこへ押し込まれておりたら、艮の金神変性男子の霊魂が稚姫君命の霊魂であるから、今度の沓島の荒海で行の上がりでありたゆえに御苦労でありたなれど、沓島へ落ちておりた元の生神龍宮の乙姫どのが表になりて、艮の金神の片腕に女でもなれる改心は結構なものであるぞよ。 日の出の神をお使いなされて三千世界を動かすのは、今度沓島へ落とされておりた元をこしらえた艮の金神稚姫君命出口の神となりて綾部の龍宮館の高天原におさまる時節が参りたから、何事も時節が参りたぞよ。ぬしがでになりてくるぞよ。岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神、金神の中にもより抜いて行ないの出来ん金神は御用が出来んぞよ。 変性男子の身魂はどんな行をもさしてあるなれど、今度の二人は御苦労であるぞよ。 沓島はおん水のないとこであるから、人民の住いは出来んとこであるなれど、けっこうなお水を見つけて、乙姫さまが、ここにあるということをお知らせなさりた。誠というものはけっこうであるぞよ。この世には、水と火がなくては、人民は一日もしのげんであろうがな。
 人間とは妙なものである。伝吉はあれほど夢中ですすった海猫の卵が、すぐに大味で水くさいことに気がついた。種油を岩の窪にうつして点火し、麦粉の入っていた空缶を鍋の代用とし、海水で卵を茹でた。うまかった。 市太郎も目を細めて食い、おそるおそる直にすすめた。「教祖さま、茹で卵、一ついかがですい。おいしいですで」「わたしはいりませんで」 直は涼やかな目元で答えた。 その午後、市太郎は思いがけず小松を見つけて神さまに供えようと、小枝を折ってきた。直は嬉しげに押しいただき神号の前に供えて祈願をこめたあと、針のような葉をむしって三人で食べた。しぶく青くさかったが、慣れるとおいしい。 心から幸福そうに直は洩らした。「お水もお松も何もかもお恵み下さってもったいないことやなあ」 直は常々、清らかなお土とお松とお水があればたいがいの病気は治ると信者に教えていた。事実、てきめんに治った。風邪や熱のある病気は、御神前に供えた雌松を煎じて飲めばすぐ熱がひく。白く、粘っこいお土は切傷・火傷・打身・腫物などに塗布し、また水にとかして上ずみを飲むと万病に効く。水もまた万病の薬である。水道の水はくたびれているが、天然の湧き水は精気をもたらす。そう直は教える。一本の松の葉からさえ、直は限りない生命の泉を吸い取っているようであった。 足るにまかして事足らず、また伝吉には不満が出てきた。いくら卵を食っても、五穀が一食小さじ三杯では、どうにも力が出ないのだ。体は自然に衰弱しているらしく、歩行も苦しい。一日三度の水行も、ひどくものうい。市太郎も同じなのか、笑い声も芝居の幽霊の笑い方のように力ない。 こんなことでは、この先どうなるやら、またしても不安が高まってきた。直の方は、終始一貫、たゆまず水行・礼拝・筆先を繰り返している。食べ物も食べぬくせに、小憎らしいばかりに衰えた気配はないのだ。 伝吉は直の前に出て駄々をこねた。「教祖はん、腹が頼りのうてわしはかなんさかい、もう帰なしてもらいますわ」 直はあきれて、しげしげとわが子のふくれ面を見た。「お前はなにを言うてんのじゃいな。そんなら『帰にな』と言うたら、お前、一人で帰んでかい。船はなし、人はなし、便りはできず、どうして舞鶴まで渡る気や。いま帰ぬどころか、神さまのお迎えさえあれば、海の底へでも行かんなんのやで。二十日たって船が来るまで帰ねんと分かっとるのやさかい、ぐずぐず言わんと気持よう辛抱しなはれ。めったにない尊い行をさせていただいているのじゃと思えば、こんな結構なことはござらぬ。わたしは、ありがとうて、神さまにどうお礼申してよいか分からぬ気持ちで暮らしておるのやで。伝吉も心持ちを変えてみなはれ。そうや、腹が頼りないなら、わたしの分を二人で分けてお食べ。わたしはお水をいただいておればよいさかい……」 直の食べる小さじ三杯分を市太郎と分けて食べたところで、腹の足しにはならぬ。伝吉はうつむいて引き下がった。直の気持ちが嬉しいやら哀しいやら胸につまり、グウの音も出なかった。 五月二十三日の夕方、即ち沓島へ渡って九日目、またも伝吉は愚痴をこぼした。「心の持ち方を変えい言うちゃったけど、わしには無理ですわな。どだい、わしと教祖はんはできが違うのや。言うても駄目なことはよう分かっていますで。分かっとるけど、こらえきれんさかい、もうこれからは何遍でも言わしとくれ。帰なしてくれ、帰なしてくれ、帰なしとくなはれ。わしには女房や可愛い子が待っとるのや。どうぞ神さまに帰ねるようにお願いしとくれなはれ」 伝吉はほんとうに狂い立って叫んでいた。本音を吐いてしまえば、もうこらえ性など吹っとんでいる。その背後で、市太郎が辛そうに身をもんでいた。 直はほっと溜息をついた。「ほんに困った者を連れて来てしもうた。わたし一人なら十分の行をさしてもらうのじゃが、それでも神さまはほぼ御用もすんだように言いなさるさかい、二、三日したら帰なしてもらおかなあ」「そ、そんなこと言うちゃっても……どうやって……」 伝吉は目の色を変えた。「神さまにお願いするのやな。伝吉が本気で帰りたいのなら、心の底からお願いしてみな」 直の先達で祝詞が始まった。伝吉は生まれて初めて本真剣に祈った。岩に食い込む足の痛みも、絶え間ない空腹も意識の外であった。 祝詞の最中から暗雲がたれこめてきて、激しい風雨となった。沓島へ渡って、あれほど願った初めての雨であり烈風だった。伝吉は体が浮き上がり海へ飛ばされそうになって、岩角に抱きついた。髪から着物からたちまち雨が流れ出す。 祝詞の声はちぎれ吹きとんでも、直は止めようとしない。根が生えたように正座したまま、凛乎と空を仰ぐ直。その白髪が解けて、さっと耳のはたに舞い立った。 海は轟き逆巻いて、地は鳴動する。激浪が立ち上がり、かぶるばかりに押し寄せてきた。どどどっと島が震えた。恐れていたことがやってきたのだ。沓島は沈む。否、島ごと龍体と化して荒海を突っ走り出したのだ。 そう伝吉は思った。ひしと市太郎と抱き合って目を閉じ、歯をくいしばる。 その時であった。「御苦労!」 直の裂帛の気合いがとんで、風雨がぴたっとやんだ。「どうしちゃったんか!」 伝吉と市太郎は恐る恐る頭を上げ、あたりを見まわした。黒雲は走り去り、光の筋が幾千となく海上に降りそそいでいた。波のうねりは大きくゆるく、次第に波涛をおさめていく。 二人は直の横顔を見た。直は濡れた頬を白髪になぶらせ、きっと唇を引き結んでいる。力を尽くしきったあとの恍惚とした双眸から、新しい涙があふれ落ちていた。 市太郎がしゃくり上げ、わけもなく伝吉まで嗚咽した。二人ともこんなふうに泣いている直を見るのは初めてなのだ。突然襲い、そして去った風雨は、三人の魂をもかき乱したかであった。 ややあって、伝吉が訊いた。「……さっき『御苦労』と言うちゃったんは、なんですいな」「お前たち、今のが分からなんだかい」「……」「いま、龍宮の乙姫さまが御挨拶に、ありありとお姿をあらわしなさったのやで。日本を攻める異国の船がたくさん参ったからこれからお手伝いに参ると、言うてじゃった」「へえ、いよいよ大戦ですな。それでも……お姿はさっぱり見えませなんだわ。何やら恐ろしうて、目も何もあいとられますかいな。市太郎さんはどうやった」 市太郎も無念そうに首を振った。「どんなお姿しとってでしたい」 伝吉は聞きたがる。直はくわしくその容姿を語った。と、伝吉の目に、龍宮の乙姫の姿が髣髴と映じてくる。「よいか、伝吉や。その姿をはっきり頭に刻みつけとくのやで。龍宮の乙姫さまは、泥海の昔ながらの恐ろしい黄金色の御龍体のままでおられるが、あまりみぐるしい故、それを恥じて、美しい姫のお姿に変じてあらわれなさった。綾部に帰んだら、末代までの証に、お前が絵にして書き残すのやで」 それから立って、いつもの筆先の座につく。市太郎が、岩の窪みの間から油紙に包んで風雨をまぬがれた紙と筆をとり出した。待っていたように、雲間から月が出た。筆先を記すのに、燈明はいらぬげであった。淡い種油の光と十九夜の月光で、ためらいもなく筆を進める。 市太郎は、出たばかりの筆先を燈明に近づけて、天地の神霊よ聞けとばかり、大声をはり上げて拝読する。 ――龍宮の乙姫が上がるおり、出口直どのの手を借りて、いっさいのことを書き残すぞえ。世に出ておれる神、世界の霊魂に知らすぞえ。この方は、欲の深い神でありて、あまりに我が強いため、昔の元からの肉体のまま、姿は大蛇というようなみぐるしき神でありて、長らくの間、冠島、沓島の淋しき海の底のすまい。何ほどの宝を抱いたとて、海の底では何一色光の出るということはないゆえに、こんど艮の金神さま・稚姫君命どのが正真にお出ましになり、世を立替えなさるには、乙姫も初発に我を折り改心いたして、龍宮の宝をみな渡し申すのであるぞえ。 乙姫は綾部の高天原に上げてもろうたら満足であるから、あまりうれしくて、龍宮はさっぱり明け渡すから、この世へうずもれておるものは、陸の龍宮へみな上がりてくるぞよ。 坤の金神さまと世界の地の大神さま(艮の金神)とを、弥仙山の中の宮彦火々出見命どのと頂上の木の花咲耶姫命どのとが和合させなさる御用であるから、和合の守護を乙姫も頼むぞえ。 無間の鐘もほり投げる時節が参り来て、三千世界の世の立替えをなさるについて、龍宮の乙姫が女であれども片腕となりてお手伝いを申すぞよ。沓島さえもあの淋しきところ、鬼でも蛇でも改心いたさな、世に出ておれる神々眷属、邪魔いたしたり、お聞き入れのない守護神は、海の底に落とされて、待ちこがれておりた松の世が参るについて、乙姫から気をつけるぞよ。今のうち一日も改心がはやくないと、世界の地の大神さまの御守護がありだすと、霊魂の立てわけをはじめなさるゆえ、今度ばかりは間に合わぬぞよ。
 一夜あけた五月二十四日未明。市太郎が大声で言った。「大槻さん、人の声がするでー」 伝吉は耳を澄ましたが、聞えなかった。「神経や。帰にたいと思いこんどったさかい、そんな気がしただけやろ。市太郎さんの耳に人の声と聞こえたのは、ありゃ海猫の鳴き声やろかい」「いーや、海猫やござへん。確かに人の声やでよ」 市太郎は海に突き出た岩の一端に走って、見渡した。日の出前の島影に、ぼんやり十二、三隻の船が浮かんでいる。「やっぱり本当や。沢山の舟が来とるでよ」 伝吉ははね起きて、市太郎の傍に駆け寄った。二人はおどり上がり、手招きし、狂喜のように叫ぶ。「おーい、おーい」 漁師たちはいっせいに二人を眺めたが、何故かあわてて逃れるように移動を始めた。一隻残らず島影に隠れていく。「しまった……今あれを逃してしもたら……」 二人は岩の突端から身をのり出し、声をふり絞って絶叫し続ける。やがてへなへなと岩に腰を落とした。二人の漁師の乗った一隻の舟が決意したようにあらわれ、勢いよく漕ぎつけてくる。「おーい、お前ら、どこのもんやーい」と、漁師がどなった。「綾部の者じゃーい」「神さまの御用で来たんじゃな」 二人は漕ぐ手を止めて、どうやら疑っている様子。「そんなら北西町の岩吉知っとるかいや」 伝吉は勢いよく答えた。「おう、そりゃ隣の者で、相変わらず博奕打ったるわーい」 疑いは解けたらしく、彼らは舟を岸へつけてきた。「頼むでよ。わしを舞鶴まで連れて帰んでくれい」と伝吉。漁師は日焼けした顔でうなずいた。「ええでよ。でも今日はあかん。栄螺をとりながら鏡岩に上り、鯖鳥の卵をとるんじゃ。今夜は鏡岩に寝て、明日の朝には迎えに来てやるわな」 鏡岩は水行場よりかなり離れた冠島側に臨む海中に屹立した岩。沓島の中でここだけに鯖鳥が棲息している。漁師は二人の顔を見ながら言った。「やっぱりお前たちのことやな。沓島に露西亜人と日本人が隠れとるいうので、うちの在所で大騒ぎしたんじゃでよ」 漁師はその事情を語った。 何日か前に別の漁師が来て、直たちを遠くから発見したらしい。バルチック艦隊近づくで国内が騒然としている時であるから、白髪で色白の直をロシア人と見誤った。さては露探(ロシアのスパイ)と早合点し、彼らは帰って駐在所に通報、巡査は驚いて舞鶴の海兵団に電話し、「ロシア人と屈強の日本人二人が沓島に隠れている」と報告した。海兵団では大騒ぎ、三人の逮捕のために舟を出す噂がやかましくとんだという。しかしこの漁師たちは知らなかったが、綾部を商売の得意先としていた舞鶴の魚屋真右衛門がこの噂を聞きつけ、いち早く海兵団に連絡している。「沓島にこもっとる人たちは、綾部の金神さんのお婆さんにちがいない」 そのため逮捕は見合わせて、双眼鏡で挙動を監視することになった。その結果、直が沓島の行場で水行と礼拝を余念なくしていることを認め、当時の地方紙の一部にも報道されたという。 漁師が鏡岩に向かって舟を漕ぎ去るのを見送り、伝吉と市太郎は喜び勇んでその旨を直に報告した。「神さまのおっしゃることは、一分一厘違うまいがな。明日は帰れますで」 三人は岩壁の神号に対して、感謝の祝詞を捧げた。それでも伝吉は、明日が待ちきれなくなった。はたして船頭が明日間違いなく迎えに来るかどうか、口約束が頼りなく心配でならぬ。市太郎にぼやき出した。「あいつらうまいこと言うといて、まさかまた逃げたんやないやろなあ。念のため、もう一度船賃の入金しておこかい」「神さまが明日帰れる言うてなさるさかい……」 そう言いつつも、市太郎の面に不安が走った。 彼らは直に内緒で海岸つたいにほとんど島を半周、鏡岩の上に出た。下は絶壁で栄螺をあさる二人の漁師の姿が小さく見える。一つ足を踏みはずせば、海底へまっ逆さまだ。伝吉は足が震えて降りることができず、岩にしがみついた。 市太郎は必死になってつたい降りる。鏡岩の水際に立った。漁師のいる岩まで行こうとすれば、鏡岩を向こうへ突き抜ける小さな洞穴を通らねばならなかった。市太郎はためらった。紫紺の淀みが吸い込まれそうに不気味なのだ。その洞穴の向こうに、漁師の姿は見え隠れしている。打ち寄せる波に膝まで没し、全身しぶきに濡れながら、岩肌を手さぐって、ようやくくぐり抜けた。 漁師は市太郎に気がついて、大声を張り上げた。「お前はあの穴を抜けてきたのかい。あきれた奴ちゃのう。あの穴は鰐の巣窟じゃ。在所では命知らずと綽名をとったわしらでさえ、まだくぐり抜けたことはないわいな」 けれど市太郎は、約束を確かめることを焦っていた。「今朝約束したんじゃが、明日間違いのうわしらを連れて帰んでくれてかい。船賃の入金しとこうと思うのやが……」「そんな物いらんわい。請負うたら嘘は言わん。ちゃんと迎えに行くわいな」 怒ったように漁師は言う。市太郎は疑ったことを恥じた。帰途を気づかう漁師に見守られ、また洞穴をくぐった。帰りは恐怖に手足が強張った。「艮の金神さま・龍宮の乙姫さま、お許し下さい、お守り下さい」と、心で叫んだ。 五月二十五日朝九時頃、約束通り迎えの舟が来た。直は漁師を待たして最後の礼拝をする。漁師二人は三人の寝所であった椿の枝を組んだ地点に立って、首をひねった。「お前たち、ほんまにここへ寝とったのかい。ここは始終波が打ち上げる所やでよ。よう寝とる間に波に浚われなんだこっちゃ。十何日も寝とってなんでもなかったのは、やはり神さんが守ってくれたんやろのう」 海上はまれに見る凪。遠ざかる沓島に手を合わせて感慨に沈む三人を乗せ、船は滑るように進む。直の命で、残った煎米は残らず漁師に与えた。「婆さん、バルチック艦隊はほんまに攻めてくるじゃろか」 あまりに穏やかな海をみつめながら、漁師が問う。「二日たったら来ますで。もう日本は大丈夫やでなあ。けれど、神さまは、どちらの国も傷つけとうないのや。露国の悪神の改心を待っておられますのやで」 船が舞鶴に着いたのは、日の暮れであった。直が沓島の方に向かって礼拝している間に、伝吉は大丹生屋のお内儀に注文していた。「温飯と魚で、すぐうまい夜飯を食わしておくれい」 湯気の立つ飯と小鯵の煮つけで夜飯にかかったが、伝吉も市太郎も見ただけで胸がいっぱいになり、二口三口でもう箸が出なかった。 小憩して出発、真倉の後野市太郎の家で一泊した。体が衰弱している時は急に固い物を食べてはいけないと、朝は萵苣の粥が出た。伝吉は暖かい椀を両の掌で包みながら、ゆるぎない大地の上に安住し、火と水とお土を豊かに受ける日頃の恩を思ってもみないで暮らしてきた自分の過去を省みていた。
 その頃であった。連合艦隊司令長官東郷大将の幕僚秋山真之中佐は連日連夜の参謀会議に身も心も疲れ果て、ふとまどろんでいた。作戦地図上を続々と動いてゆく影――単縦隊をなし、白く波を蹴り立ててそれは対馬東水道を北上する。「おう、敵艦隊じゃ」 自分の叫びに、秋山ははっと我に帰った。あまりにも生々しい幻影に、しばし息を呑む。夢ではない。まさしく神のお告げだ。秋山は固くそう信じた。 かねて対馬海峡説を支持していた東郷司令長官は、秋山参謀の進言を入れ、すべての迷いをふっ切って、作戦はここに定まった。
 五月二十七日午前三時半、哨艦信濃丸はバルチック艦隊の大隊列を海上はるかに望見、ただちに打電。 ――敵艦見ゆ、敵は東水道へ向かうものの如し。 鎮海湾に待機していた連合艦隊司令長官東郷平八郎は、大本営に第一報を発する。 ――敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し。 晴れていれば敵艦を捕捉しやすく、波高ければ長途の旅の敵艦隊より迎え撃つ連合艦隊に有利であろう。 午後一時四十五分、連合艦隊主力隊は南方数海浬、初めて現実の敵影をとらえていた。
「お上、お上、言上し奉る……」 侍従長の声は震え、目は涙で曇る。日本海海戦の第一勝報を伝える大本営あて東郷司令長官からの電報なのだ。だが陛下は御昏睡のまま何の御返答もない。枕元には、皇后陛下と有栖川宮威仁親王が蒼ざめて看護に侍せられている。もう意識は通じぬかも知れぬと思いながらも、大声で言上せずにはおれなかった。 陛下は侍従長の奏上にかすかにまぶたを動かせられた。「海戦は大勝利でございます。お上――」「勝利か、おう……」 むっくり起き直られようとする背を、威仁親王が支えた。
 王仁三郎は、『道の大本』の和綴じの末尾に書き加える。 本書十巻誌し了るや、日本海大海戦あり、バルチック艦隊全滅、敵の司令長官以下捕虜数千名ありとの快報、新聞号外をもって伝へ来れり。 明治三十八年五月二十九日 大本教学部主教 上田王仁三郎――。 筆を置いて、王仁三郎は臥龍亭の外を見た。道の大本十巻を脱稿した喜びはなかった。出来れば火の中にでも投じて、この世から抹殺してしまいたい。しかし王仁三郎は信じている。いったん放った言霊がかえらぬように、歌も詩も文章もいっさい筆にした以上は推敲せぬ己れの主義のように、直と筆先に疑惑を抱いてさからってきたこの長い年月は帰らぬのだ。疑い、ののしり、争う心のままにしたためた今となっては悔い多きこの記録も、あるがままの自分の姿として後の世に残しておこう。 きっちり十巻を重ねてくくり、さりげない新聞包みにして、役員等の目の届かぬ天井裏にしまった。もろもろの恨み、ちりあくたの十巻を終わって片付けると、もう生まれ変わったように心は晴れていた。 王仁三郎は、直が沓島から持ち帰った分厚い筆先を押しいただいて、真剣にむさぼるように読み始めた。 ――明治三十四年の四月十日に産水を投じに沓島へまいりた。 筆先の日付はすべて旧暦だから、明治三十四年旧四月十日を新暦に改めると五月二十七日、出口直はこの日沓島の釣鐘岩の上に立ち、元伊勢の神水を激浪逆巻く龍宮海上目がけて投じ、こう宣言したのだ。「この水、三年で世界へ回るぞよ、世界が動き出すぞよ」 それから三年目にして日露戦争が起こった。露国の極悪神は軍隊をもって、日本のみかペテルブルグで無抵抗の自国の民衆に向け発砲、すさまじい流血の日曜日がロシア革命の発端となる。飢えた民衆は誰が敵であるのかその目で見た。世はまさに動き出したのだ。そしてまる四年目の旧四月十日、直は龍宮を開きに沓島へ行き、帰って二日目に日本海海戦が……それが新暦五月二十七日。 はっと王仁三郎は気づいた。偶然か、神意か、日本海に産水を投じた四年後の同じ日ではないか。おもな役員たちも気づかぬその事実に、王仁三郎は目をみはった。 王仁三郎は、沓島の行場で書かれた筆先に真剣な眼指しをむける。 ――今度の御用は因縁なくてはつとまらんぞよ。先になりたら金銀は降るごとくに寄りてくるから、そうなりたらわれもわしもと金もって、ご用さして下されと申して出て来るなれど、因縁なき身魂には、なにほど結構に申しても、一文も使うことはでけんぞよ。これから先になると金銀を積んで神の御用を致さして欲しいと頼みに来る者ばかりであれど、一々神にうかがい致してからでないと、受け取ることはならんぞよ。この大本は金銀に目をかけることはあいならんから、何ほど辛くても、今のうちは木の葉なりと草なりと食べてでも、しのぎて御用をいたしておりて下さりたら、神が性念を見届けた上では、何事も思うように、金の心配もいたさいでもよきように、守護がいたしてあるぞよ。今が金輪際のかなわん辛いところであるから、ここをひとつこばりてまことを立てぬきて下さりたら、神がこれでよいというようになりたら、楽にご用がでけるように、ちゃんと仕組みてあるから、罪穢のある金は神のご用にはたてられんぞよ。 いつも筆先で気をつけてあるが、この大本は艮の金神の筆先で世を開く処であるから、あまり霊学ばかりに凝ると、筆先が粗略になりて、まことがかえって分からんようになりて、神の神慮に叶わんから、筆先を七分にして、霊学を三分で開いて下されよ。神がかりばかりこると、はじめは人がめずらしがりて寄りてくるなれど、あまりろくな神は出てこんから、終には山子師・飯綱使い・悪魔使いといわれて、一代思わくは立たんぞよ。思わく立たんばかりか、神の経綸を取りちがいいたす人民がでけてきて、このまことの正味の教えをわやにいたすから、ながらく変性女子に気をつけて知らしたなれど、今に霊学が結構じゃ、筆先ども何になると申して、一寸も聞き入れぬが、どうしても聞かな聞くようにして改心さしてみせるぞよ。 神の申すことを叛いて何なりとやりて見よれ、足元から鳥がたつようなビックリが出て来るぞよ。世間からは悪く申され神には気障りとなるから何も成就いたさずに大きな気の毒が出来るのが見え透いておるから、それを見るのがかわいそうなから、毎度出口の手で神が知らせば、肉体で出口直が書くのじゃと申してござるが、ここしばらく見ておりたらわかりてきて頭を逆さまにして歩かんならん事が出来するぞよ。 変性女子は神憑りで開きたいのが病気であるから一番にこの病気をなおしてやるぞよ。心から発根をなおせばよいなれど、如何しても聞かねば激しき事をして見せて目を開けさしてやるぞよ。狐狸野天狗なぞの霊魂に弄びにしられてそれで神国の御用が出来ると思ふのか。それでも神国の人民じゃと思ふておるのか。畜生の容器にしられてそれを結構と思うのか。神界の大罪人となりても満足なのか。わけがわからんと申しても余りであるぞよ。 こうは言うものの、女子の霊魂は、いつも申すとおり、世界いっさいのことがうつるのであるから、この大本へ立ちよる人民は、女子のやり方をみて、世界はこんな事になりておるのかと改心をするように神から女子の身魂が拵えてあるのであるからとりちがいを致さぬようにおかげをとりて下されよ。 他人が悪い悪いと思うておると、全部自分のことが鏡にうつりておるのであるから、他人が悪う見えるのは自己に悪い所や霊魂に雲がかかりておるからであるから、鏡をみて、自己の霊魂から改心いたさすように、この世の元から変性女子の霊魂がこしらえてありての二度目の天の岩戸開きであるから、ちょっとやそっとではわかるような浅い経綸でないから、改心いたして身魂をみがくのが一等であるぞよ。 世の元のまことの生神は、今まではものを言わなんだぞよ。世のかわり目に神がうつりて、世界のことを知らせねばならぬから、出口直は因縁ある霊魂であるから、憑りて何事も知らせるぞよ。世がおさまりたら神は何も申さんぞよ。狐狸や天狗ぐらいはいつでも誰にでも憑るが、この金神は禰宜や巫子には憑らんぞよ。 何ほど神憑りに骨を折りたとて、まことの神は肝腎の時でないとうつらんぞよ。何も分からん神がうつりてまいりて、知った顔をいたして、いろいろと口走りて、かんじんの仕組みも分からずに世の立替えの邪魔をいたすから、一寸の油断もでけんから、よほど審神者がしっかりいたさんと、大きな不首尾が出来するから、いやがられても世界中が大事であるから、不調法のないように気を付けてやるのを、野蛮神が何を吐す位により取りてくれんから、誠に神も出口直も苦労をいたすぞよ。 神憑りでなにもかも世界中のことが分かるように思うておると、さっぱり了簡がちがうぞよ。神の申すうちに聞いておかんと世間へ顔出しが出来んような、恥かしき事が出来いたすぞよ。 この神一言申したら、何時になりても一分一厘まちがいはないぞよ。髪の毛一本程でもまちがうようなことでは、三千年かかりて仕組みたことが水の泡になるから、そんな下手な経綸は世の元から、元の生神はいたしてないから、素直に神の申すことを聞いて下されよ。世界の神・仏事・人民を助けたさの、ながらくの神は苦労であるぞよ。誰に因らず慢心ととりちがいが大けがの元となるぞよ。(明治三十八年旧四月十六日)
 日露戦争は大詰めを迎えて戦勝気分に沸き立っていたが、戦費にくわれる国民のふところは貧しくて、不景気を反映してか、京・大阪の人造精乳の売上げは落ちていた。 この夏、王仁三郎は平仮名ばかりで弟へ便りをしたためている。――上田幸吉どのへ、うしとらのこんじんさんのおふでさきは、いちぶいちりんもちがわんことをわたしはきがついた。せいにうもあんまりふかいのぞみはないようなから、すへの百より今五十といふことをわすれぬようになされそうろ。……いっぺん、でぐちきようそと、やくいんへあつさみまいのてがみおだしなされそうろ。いろはばかりでかいておくりなされそうろ。……おふでさきのたいもうも、じっちがだんだんでてくるゆへ、かいしんしてくだされそうろ。くわしきことはまたあとから――。

表題:金鵄勲章  9巻2章金鵄勲章



 今日もまた、中村竹吉は、北西町の大槻家に足を向けてしまう。 あの事件以来、不安が影法師になった。行くまいと思っても、鹿蔵の様子を確かめずにはいられぬ。犯人が現場に立ち戻る心理と似ていた。 鹿蔵は、伝吉が無事に沓島から帰っても、眉間の傷を種にして因縁つけに通ってきた。老いたりとはいえ因鹿としての名を惜しむように、龍門館への脅迫はねつっこい執念をむき出している。龍の無実をうすうす感じとってか、鹿蔵は、真犯人の探索に躍起になっていた。 中村が庭からのぞくと、鹿蔵は米に三里の灸をすえさせながら愛想よく迎えた。大江山の酒呑童子と敵視していた中村が機嫌を取るようになったので、気をよくしていた。傷は治っている筈なのに、鹿蔵は額にこれ見よがしの大きな絆創膏を貼っている。 中村は縁先に腰掛けて、梅の青い実をぼんやり眺めた。頭上で風鈴が鳴っている。「中村はん、わしの頭をどつきやがった餓鬼、どこのどいつかまだ分からんか」 鹿蔵の話題は、いつもそこに落ちる。「さあ……」 鹿蔵が中村を疑っている気配はなかった。「とにかくわしは知らんでよ。わしが知らんのやさかいに、わしやないわな。つまりわし以外の誰かちゅうわけやろ」 あの時、中村は四方平蔵・森津由松と交代して、龍門館の神前で教祖一行の大望成就を祈念していた。しかし中村の心には不満が渦巻いていて、あまり祈願に熱中できない。 明治三十三年の冠島開き・沓島開きの時も、中村は供を許されなかった。いや、沓島開きでは、冠島までは許されながら老人島神社の鳥糞の掃除を命ぜられて、沓島へは渡れずじまい。鞍馬山出修の折も供からはずれ、福林安之助輩が待ち伏せて強引に割りこんだ。元伊勢水の御用は三十六人衆の一人として参加はしたが、かんじんの産水取りは木下らの手柄となり、御用の真意を中村は知らされなかった。出雲火の御用の十五名の中にも入れず、弥仙山岩戸篭りの時にも中村の役割はなかった。 大本の実権を握る筆頭幹部であり、信仰の強さに於ては誰にも負けぬと自他ともに認めていながら、大切な神の御用にはいつもすてんと主役からはずされる。決めるのは艮の金神の筆先だから、誰に文句のつけようもない。これこそ正念場というとっときの大神業のためにこのわしを除けとかはるのやろと自分に言い聞かし、お筆先を千遍も読んで身魂磨きに励んで来たのだ。 今度の龍宮の乙姫さまの宝受取りの御用こそ、生粋の日本魂であるこの中村をおいて誰あろう。教祖の脇にへばりつき、胸を轟ろかせてお声がかりを待った。 直は哀しそうにこう言った。「今度は留守番がたいへんじゃそうやげなで、中村はん、どうぞ間違いのないように……」 中村は返事もできなかった。 何故わしに肝腎の御用が廻ってこんのじゃろ。もしかしたら艮の金神さんはわしのことを忘れとってじゃなかろかと疑いが吹き出しはじめた時、廊下で悲鳴が起こった。だから中村は、どうかしてたのだ。自分の役割も忘れて階段を駆け降りてしまった。後のことは、ほんとうに覚えていない。 何者も恐れぬ竹吉だが、警察だけは大の苦手であった。入信前、「播磨屋の竹はん」と言えば、ちょっとえげつない古物商で知られていた。安物に細工しては時代をつけ、高価に見せかけて売ったりもした。別に悪いことをしているつもりはなかった。それが古道具屋の腕やと思いこんでいた。当時、警察にはちょくちょく呼び出され、油をしぼられた。だから巡査には、本能的に嘘をつく。訊問された時、つい空とぼけた。 自分のした行為をはっきり覚えていないのは本当ながら、あとでみた両手には血がこびりついていたし、にぶい不快な響きが今も感覚として残っている。だから自分の手が鹿蔵を打ったか知らんが、自分の本霊は預り知らぬことだ。龍がすすんで寃罪をかぶってくれたのは、中村を捨てて慶太郎と結婚した不実のつぐないではないか。それなのに、周囲の眼が急によそよそしくなる。それに対抗して白を切り続けた。 教祖一行の帰綾にも、かつてのように歓喜では迎えられなかった。誰よりも教祖の眼が怖い。ついこの間まで希望に張りつめた胸を張って街道のド真ん中を歩いていた中村が、龍門館の中でさえ急に影が薄く、ひがんだように直の眼のとどかぬ隅をえらぶようになった。「中村はん、お茶が入りましたで。上がって飲みなはれ」 鹿蔵の灸を終えて、米が長火鉢にもたれて煙草を吸っていた。中村が上がると、鹿蔵はまだあきらめわるく、さっきの続きを聞きたがる。「いろいろ考えて見たのじゃが、やっぱり犯人は四方平蔵しかないと思うのじゃがええ。鷹栖の帰り道に味方橋あたりで待ち伏せて闇打ちしてやらな、気がすまんわいな」「違う。平蔵はんやないで」「ほんな誰やいな。あんた、やっぱり知っとるんか」 中村が乗り出してきた。「……ほんまの犯人はやなあ、多分……小島寅吉や。下で騒動が起きると、小島はんは急にいなくなって、しばらくしてから息を切らして上がって来ちゃった。そやさかい、きっと……」「うん、そうか。あいつならやりそうなこっちゃ、畜生……」 鳥目で、あまり丈夫でない平蔵が闇打ちにあっては命が危ない。いわば、とっさについた善意の嘘である。ところが間の悪いときは仕方ないもの、日頃は顔も出さぬ噂の主の小島寅吉が、のこのことこの場にやってきた。 鹿蔵はやにわに床の間の鉄棒をつかんで、ものも言わずになぐりかかる。「爺い。何ちゅう挨拶やい」 小島は伏見で名うての暴れ者、不意打ちぐらいでびくつく男ではない。あっけなく鉄棒を奪って、反対に鹿蔵を追いつめる。「この老いぼれめ、せっかく人が親切に見舞いに来てやったのに、その返礼がこれかい。日頃おとなしゅうして神さんの前やさかい辛抱しとりゃ、ごてごてとゆすりに来やがって、つけ上がるにも程がある。やい、その極悪霊魂の性根を叩き直しちゃるわい」 鹿蔵は壁にへばりつき、血の気も失せた唇をあふあふさせた。「殺す気か。おう、殺せ、殺したらお前にとりついて祟っちゃる。人のでこちんをぶっ叩いといて、よう厚かましゅう見舞いに来くさった。」「なに、わしがお前のでこちんをなぐった? どういう意味じゃい」「知らんと思うかい。ちゃんと今、中村はんが証言してくれたわい」 小島の前に中村は身を投げた。ただ身悶えて泣いた。 小島はあっけにとられて眺めていたが、怒りも忘れて坐り込んだ。「中村はん、みんながあんたかぼうて、誰一人教祖さまにも、まして鹿蔵はんにも告げ口した者はないんやで。あっさり鹿蔵はんに謝ったらすむこっちゃろ」「お、おい、中村はんが何でわしに……」 混乱した頭を振って、鹿蔵がうめいた。「うーむ、そうか、中村が……何すもうやい、中村が犯人とは知らなんだ。おのれ、よう今までわしをだまして……」 また鉄棒をとり上げる鹿蔵の手を、小島がひねる。その隙に中村は外へ走り去った。 その後も、鹿蔵は「中村を告訴する」と言って龍門館へ押しかけたが、やがてぷっつり来なくなった。王仁三郎と澄があるだけの着物をのこらず質に入れて金を工面し、こっそり示談にしたのだ。後になって中村は大槻米から聞かされた。 中村竹吉の教団内での威信は、この事件で失墜した。 九月五日、日露講和条約が調印され、平和がよみがえった。期待した立替えは来なかった。「今年こそ」と派手な立替え説をぶって役員信者たちを引っ張って来た中村の立場は、一層おかしくなった。 沓島篭り以来、直の小松林攻撃の筆先はふっつり止まり、直と王仁三郎がうれしそうに談笑する姿がしばしば見られた。これで和合の型ができたと狂喜するはずの中村は、取り残されたような淋しさを感じた。 この頃になって中村は、自分からあの事件を吹聴しだしていた。「大槻鹿蔵はロシアの極悪神、酒呑童子の霊魂でござる。だから生粋の日本魂の霊魂の中村が鹿蔵に正義の打撃を加え、日本の勝つ型を演じてみせたのだ。下駄で叩いたのも、考えて見れば意味がある。下駄は二本の刃、つまりは日本の刃や。日本の正義の刃をふりかざして、ロシアを打つ。偉いものや、神さんのお仕組みは。そのためにバルチック艦隊は全滅したのやさかいなあ」 びっくりして何も言えぬ相手の反応が痛快だった。中村は本気で信じこんでいた。
「おーえんたのむ、元吉」と元教が義兄王仁三郎宛に電報みたいな葉書を書き終えたのは、もう夜中の十二時に近かった。宇治の茨木清次郎宅の神前である。西田元教にとって、この冬のみじめな出来事を思い返せば、今日の隆盛が夢のように思える。 三年前、西田元教は宇津村の小西松元(旧名庄太郎)の長年にわたるリュウマチを取次で治した。その後、酒好きの小西は、元教の忠告をきかずほろ酔い機嫌で大堰川へ篭り魚を取りに行って淵に落ちた。病気は再発し、手足が萎え、うめき通しに苦しんだ。元教の取次ぎでも今度は立てぬ。結局、元教に宇津まで引っ張り出された王仁三郎の三度の鎮魂で、小西の病気は全治した。 小西のあくの強い人柄もうまく使えば役に立つと見抜いたのか、王仁三郎は小西に松元の名と共に霊力を授け、元教と協力して、宇津を中心にした北桑田一帯の宣教を命じた。 小西松元の祈祷によっておかげが良く立ち信者が増え出すと、狭苦しい小西の家ではどうにもならず、松元が宮守りをしている村社八幡宮の社務所を借りて広間を作った。綾部では衰退していた大本の教勢が、宇津を拠点に急速にのびていく。 王仁三郎は西田元教・雪夫妻を派遣し、宇津の広間の指導を任せた。 小西の一人息子増吉は明治三十五年に徴兵され、歩兵第二十連隊第十中隊に入隊、三年の義務年限の終わりに日露戦争勃発のため戦場へかり出されていた。戦局たけなわの頃、北桑田郡役所には次々と郡内の戦死者の公報が入ってくる。 増吉戦死の報が届いた日、小西松元と妻すえが、蒼白になって西田元教を難詰した。「おい、元やん、これは一体どういうことや、あんまりやないけ。お前は何いうた。『信心さえしとったら増吉は戦死する気遣いない、ない。それどころか金鵄勲章もたして返しちゃる』……へん、ようぬかしやがったのう、人を喜ばしといて……さ、増吉を返してもらおうけい。金鵄勲章はいらんさけ、息子を返してくれ」「うちは昔から法華信者やのに、綾部のド狸に騙されてやくざ神を祀ったさかい、このざまや。上田が大狸なら、お前は豆狸や。こら、豆狸、早う出て行きさらせ」 悲しみに狂い立って、ひどい吹雪の夜、小西夫妻は元教を追い出した。 もう二度と宇津へなど行ってやるかと呪いつつ、人の尾峠を登りつめた。吹雪に巻かれて五、六尺もの吹き寄せに動けなくなり、泣きながら一夜を明かす。 凍え死をまぬがれた元教夫妻は必死に雪をかき分け、ようやく宇治の鍜冶屋、南郷国松の家にころげこんだ。寝食を忘れて病気治しに打ち込むと、おかげはどんどん立った。やがて南郷の家では狭くなり、茨木清次郎宅に大神を奉斎するが、早朝から夜遅くまで休む間もない忙しさである。この活況を綾部に押し込められてくさくさしているであろう王仁三郎に見てもらいたかった。 九月の中頃、西田から葉書を受け取った王仁三郎は、未明に鞄一つでとび出した。須知山峠を登ったところで日の出を拝む。 園部支部に立ち寄り、信者の才幸太郎を供にする。山陰線沿いに歩いて小山支部長の田井儀兵の家で一服していると、京都方面から地響き立てて入ってくる汽車。「あ、誰か轢かれる」 いやな予感に、王仁三郎が息を呑む。「あの汽笛や。こら轢死やぞ」「いかにも、いつもと違う激しい音やなあ」 田井は腰を浮かした。才幸太郎が外へ飛び出して行く。 先を急ぐ旅とてそのまま田井家を辞した。田んぼ一つへだてた向こうに汽車が立ち往生し、蒸気が喘ぐように黒い車体の下から吐き出される。野良に出ていた人々が走る。熟れた田んぼ道を王仁三郎も駆け出した。線路脇に、胴から二つに切断された男が、五、六間引きずられ血まみれで転がっている。こちらを向いた蒼い小さな顔。「えらいこっちゃ、西田やで。あいつがわしを迎えに来て……」「ま、まさか……やっぱり違いますで。元吉はんに似とるだけや」 ついてきた田井が首を振った。一瞬の錯覚が、王仁三郎の心臓を凍らせた。別人と分かっても、無惨な死にざまは正視に耐えぬ。才がひざまずき、最後の痙攣を終えた死顔を確かめている。 巡査が来て調べ出す頃には、いっぱいの人だかりであった。王仁三郎は、動かぬ才をせかして現場を離れた。 むっつりとふさぎこんでついてくる才幸太郎の顔が、蒼く小さく轢死者の面影と二重写しになる。気色悪いのを我慢し、才に荷物を持たせて旅を続ける。八木で一泊し、翌日は亀岡・王子を越え、沓掛から道を右にとる。伏見に着いた時には日没だ。 信者の瓦屋・安田荘次の家をのぞく。竃に火を入れかけていた安田が、王仁三郎を見るなり、がみがみかみついた。「なんで綾部でじっとしとってないんどす。またほっつき病がおこったんどすか。会長はんのしてんことはぜーんぶ後戻りばかりじゃと教祖はんが言うとってやのに、まだうろつかはるつもりどすか。さあ、すぐに綾部に帰になはれ。ま、一晩だけなら、うちへ泊めてあげてもよろしおっせ。竃に火を入れ終わったら、ゆっくりと道理を説いて聞かせてあげますよって」 安田は中村竹吉の追随者だが、いいかげん目がさめたかと期待して寄ってみたのだ。少しも変わっていない。行く先も告げず、王仁三郎は才を連れて安田家を飛び出す。 伏見の豊後橋を渡り、宇治川の長い土堤をさかのぼり、夜の八時頃に宇治の茨木清次郎宅に到着する。 西田元教夫婦が抱きつくようにして迎えた。異郷で見る妹雪のやつれように、王仁三郎は胸がつまる。茨木家ではちょうど月次祭の最中で、茨木清次郎・岡田熊次郎・長谷川仙吉そのほか七、八人の世話人や多数の参詣者があふれている。彼らは会長の来訪に心から喜んだ。王仁三郎をこの地に迎えるのは昨夏以来である。西田が独力で開いただけに、会長排斥の綾部からの司令は届いていない。汚染されない無菌地帯だ。 王仁三郎の出現で、いっそう参詣者が増えた。毎日五十人から百人ぐらいの病人がつめかけ、それぞれおかげをいただく。金明霊学会の評価は高まる一方で、医者と坊主を除けば、宇治の町の住人はみな信者になるほどの勢いだった。 園部から連れてきた才幸太郎がときどき激しい瘧を発して苦しむようになった。王仁三郎の審神で、才が口を切る。「わ、わしはのう、八木の新庄村の……お、おざきや。こいつが一番先にわしの顔を見たさけ、憑いてやった」「やっぱりお前やな。何で死んだ。新聞に書いたったように、自殺やな」「わ、わからん。覚えとらんわいな。一円五十銭……旦那の銭を使い込んで、園部の親類に借りに行ったんじゃ。だ、だれも貸してくれず……冷たいもんや。帰りに線路の上を歩いとったら……う、ぎゃあっ……」 才は絶叫し転がる。おざきの死霊は轢死の瞬間の苦悶から、才にしがみついていっかな離れぬ。摺鉢を才の頭に載せ、一つかみの艾を入れて神文をとなえつつ、火をつけた。艾の匂いがいやなのか熱さに耐えかねたのか、死霊はようやく脱して全快した。 ほっとすると、急に宇津の小西松元の広間が気にかかり出した。「西田、宇津の雲行きがおかしい。わしがここを離れるわけにはいかんさけ、代わりに様子を見てきてくれ」「いやや。なんぼ兄貴の頼みかて、吾は小西の顔など二度と見る気はせん」 いやがる西田を強引に説得し、元気になった才幸太郎をつけて宇津村へ視察に派遣した。西田と才は宇津の八幡神社の社務所を借りた広間へ行く。参拝者でたいへんな盛況だ。 小西松元は西田の顔を見るなり、神前を背にふんぞり返って迎えた。「よう、西田、来たか。感心にここを忘れなんだのう。まあ、祈祷が終わるまで、そこでひかえていなさい」 腹の虫を押え、西田は参拝者にまじって小西の祈祷を眺める。小西は神憑りになって、つぎつぎと託宣している。が、どうも様子がおかしい。ひそかに審神してみると、明らかに狸の憑依だ。社務所の押入れをあけてみた。手のとれた古い仏像が五つ、六つ、無造作に突っ込んである。西田は小用に立った小西をつかまえて、耳うちした。「小西はん、こんな虫の食た仏像は川へ流せ。この仏像に狸が守護して、お前に憑って託宣させるから、放っておいたらえらいことになる。吾は悪いこと言わん」 小西は激怒した。「何ぬかす。お前こそ、上田喜楽狐の尻尾の先で使われる小狐やないか。げんに増吉は金鵄勲章もろて帰ってくるぬかしながら、戦死してもたやないか。ようもしゃあしゃあと顔見せられたもんじゃ」 多くの参拝者の前もかまわず、声高に王仁三郎まで罵倒する。西田もかんかんに怒り、「もう二度と来たるかい」とこの冬と同じ啖呵を切り、才をせかして飛び出した。 宇津から帰った翌日、西田元教は高熱を発し、真蒼になって震え出した。才と同じ症状の、いわゆる瘧である。王仁三郎の審神で、西田が口を切る。「俺は宇津の八幡さまの社務所にある仏像を守護しとる狸じゃ。この男が俺の大切なご本尊を川へ流せとぬかしやがったから、みせしめにこいつの命を奪ってやる」 西田は苦悶にのたうった。その様子を眺めながら、王仁三郎はひそかに安堵していた。西田の肉体について小西から離れた狸がのこのここっちへ来てくれたので、宇津村へ出掛ける手間がはぶける。これで宇津の広間も小康を得よう。 狸と一口に言っても、狐や狸らの幽体を容器に使った強烈な邪霊群の作用もあるから、馬鹿にはならない。言向け和しても応じぬ場合は、やむを得ず非常手段を用いる。才の時と同じように、王仁三郎は摺鉢を西田の頭上に載せ、艾を入れて灸をすえる。「熱い、苦しい」と悶えながら、ついに狸は落ちた。 三日目の同じ時刻、西田は「また来やがったな、何くそっ」と目をむいて気張る。が、狸の憑霊は猛烈な勢いで襲いかかり、西田を七転八倒させる。皆に西田を押えさせ、今度は彼の頭に濡れ手拭を敷いた上に摺鉢を載せ、百匁ばかりの艾に火をつけ、扇で煽ぎながら鎮魂し、ようやく憑霊を退散させた。その後、二、三度こんなことがあったが、やがて全くかからなくなる。 十一月に入り、才幸太郎を園部へ帰して間もなく、伏見の御簾屋・御牧治三郎が茨木家の王仁三郎をふいに訪ねてきた。王仁三郎の評判が伏見まで伝わったのだ。 御牧は中村竹吉の子分であり、中村に居所を通報されればまたぞろどんな妨害されるかも分からぬと、王仁三郎は不吉な予感を抱く。 御牧は宇治の教勢の拡大を目のあたりに見て、本気で驚いた。「どうぞ先生のお手伝いさせとくれやす」と、真剣に頼む。来る者は拒まず去る者は追わず主義の王仁三郎、ことわることはできなかった。それに信者が増えると各家の月次祭・鎮座祭・祖霊祭などに出張せねばならず、現実に西田一人では手が回りかねた。 宇治の橋本熊吉、通称橋熊という顔役が入信し、子分たちの家ごとの祖霊祭を頼んできた。王仁三郎は西田と御牧にそれを担当させた。 御牧が加わってから、ときどき不思議な現象がおこり始めた。祖霊祭の途中、祖霊箱が踊り出したり、供物の生魚の方に「かたっ」と向き直ったり、八足台をぽんと降りたりするのだ。驚嘆する信者たちに、御牧は得意気に告げる。「この家の祖霊はんが喜んではる証拠どっせ。狭い祖霊箱に押し合いへし合い入らはるさかいなあ」 ありがたがって一同伏し拝み、「なんと西田はんや御牧はんはすごい霊力やで」と評判が高まる。子分たちはわれ先にと祖霊祭を依頼してくる。 橋熊は「わしんとこの祖霊祭だけは、西田や御牧の先生の会長はんにやってもらう」と親分の沽券にかけてきかぬ。仕方なく王仁三郎が出張し厳粛に祖霊祭をすませた。橋熊はずんぐりした肩を怒らせ、祭典の始めから終りまで祖霊箱に気を取られっぱなしだ。王仁三郎が霊界の存在や祭の意義をこと細かに説けば説くほど上の空で、「先生、そんなしちむずかしげなこと、どうでもよろし。それよかうちの祖霊さまはまだ納まらんのどすか。よその祖霊さんはみな喜んで動かはるのに、何でうちだけ嬉しないのやろ。先生は御牧はんらより霊が効きなはらんのか」 祖霊箱の動くのは豆狸のいたずらだと明かすのは簡単だが、それでは営々と築き上げてきた西田の信用を落とさせ、御牧もまた敵に回さねばならぬ。その上、せっかく信仰の戸口についたばかりの彼らを、失望と怒りから、元のやくざの世界へ逆戻りさせては元も子もない。王仁三郎はさじを投げ、苦笑して答える。「わしは祖霊祭は素人やさけ、勝手が分からん。西田はんか御牧はんにやってもろとくれやす」 橋熊は改めて西田に頼むが、彼一人では祖霊箱は動かぬ。御牧を呼んで祖霊祭をやり直すと、注文通り激しく動き出した。田舎者の西田より、あか抜けた長身の御牧の斎主ぶりは、誰の目にも立ち勝って見える。「動いた、動いた」と手を打って喜ぶ親分子分らは、御牧を囲んで酒宴に気勢を上げた。橋熊一家の御牧に対する評価が俄然高まり、王仁三郎や西田を見下し、その信用に翳りがさし始めた。 そこへ警察の干渉が加わる。茨木家の布教所に警官が来て、「許可なく神を祀って人を集めるのは不穏当だ」となじる。「日本人が日本の神を祀って何が悪い」と抗弁しても警官は無視し、参拝者に解散を命じる。恐れをなした参拝者は、一人残らず立ち去った。 王仁三郎と西田は大久保警察署へ行き、署長に面会を求めた。信教の自由を説くが、署長は鼻で嗤って「ともかくも官許を受けて布教せい」の一点張りで日が暮れる。 翌朝からは警官数名が茨木家の前に立ち番して、執拗に参拝者を散らす。 布教所にいても手持ちぶさたなので、王仁三郎は郷の口村(現綴喜郡田辺町大字郷の口)の酒造屋・浅田安治の家に行くことにした。浅田の妹つるが癲癇で、その治療を頼まれたのである。鎮魂でつるの病気が本復し、噂を聞いて人々が集まる。王仁三郎は浅田の家を郷の口会合所にし、弟の小竹政一を呼んで所長に任じ、布教させた。この時、初めて「感謝祈願」の祝詞を印刷し、宇治と郷の口の信徒に朝夕唱えさせている。 王仁三郎が宇治の南郷国松の家を根城に布教していると、郷の口会合所から小竹を通じて来援の依頼があった。村の二十歳になる娘で永年足腰の立たぬ病人を治してほしいというのだ。王仁三郎は手のあいた御牧治三郎を派遣する。 御牧が鎮魂してみると、娘が発動し、しゃがれた声で口を切った。「おらー、おらは三年前に死んだここの婆じゃがのう、生前にあちこちと内緒で貸した銭がそのままになっとる。それを返してもらわねば浮かばれんのじゃ」 驚いた親や娘の兄が問いただしたところ、多くの村人の名と貸したという少額の金を述べたてる。それでも合わせれば千円ばかりにもなる。娘の兄がそこら中を歩いて、「うちの死んだ婆さんがお前に金を貸したというから返してくれ」とねじこんだ。借りた覚えのない連中が怒り出し、「いったい誰がそんなこと言うたか」と悶着がおこる。巡査まで出向いて調べ出し、御牧の鎮魂の結果だというので苦情が郷の口会合所に持ち込まれる。おまけに一ヵ月ぐらい癲癇のおさまっていた浅田の妹つるが、酒倉の中でまたも病気が再発し、浅田一家の王仁三郎に対する疑問が広がってくる。 小竹からの急報で、王仁三郎自身が郷の口へ出かけた。足の立たぬ娘は、王仁三郎が鎮魂しても、婆さんの声色で「どうしても誰それにいくら貸した」と言い張る。もて余している御牧と小竹をひとまず宇治に帰し、その夜泊って家の様子を霊視した。 翌朝、主人から日本刀を借り、娘の部屋を明け放って鎮魂を始める。祝詞の途中、裂帛の気合いと共に日本刀でやにわに空を切った。「ぎゃあっ」と娘が悲鳴をあげ、部屋の隅まで飛んで逃げて、母親の膝にしがみつく。刹那、昼の真中に箪笥の横から豆狸が七匹飛び出し、あわててぶつかり合い、ころげながら逃げ去った。 豆狸は今では伝説的動物などと言われるが、当時の丹波・京・大阪一帯に、人間と深くかかわりつつ無数に棲んでいると信じられていた。灘の酒造倉などでは、豆狸が棲んでいないと良い酒ができぬと言われたぐらいだ。「これでよしと。ほれ、足が立ったやないか」と、笑いかける王仁三郎。 寝たきりの娘が歩いたというのに、家族の者は王仁三郎に礼を言うどころか、逆に白い眼を向け食ってかかる。「お前さんが御牧のような弟子を使って娘に豆狸を憑け、村中を騒動させたのや。おかげで村の者に顔向けでけんことになった。狸憑けはとっとと出て行け」 郷の口を叩き出され、王仁三郎は涙を呑んで山坂道をとぼとぼと宇治に向かう。 鎮魂や病気治しによる宣教は目に見えて効果的であり、信者もおもしろいほど増える。だが、何か事あれば風に散る浮き草のようなもの、そんな信者をどれほど作ってみても、はたして神から課せられた救世の神業とつながるものだろうか。 ――えらい道のほうは、はじまりは辛いなれど、えらい坂を越し、また山道をこして行きよると、さきへ行くほど広き道になりて、楽になるぞよ。(明治三十六年旧正月十八日) わしは神霊の実在を知らせようとして安易な道を選び過ぎたんやないかという悔恨が、胸を打つ。綾部の役員信者のように立替えを指折り数えて待つ時期待ち信仰は断じて間違いだが、鎮魂や病気治し主体の宣教も正しいとはいえぬ。八方壁にぶちあたり、ようやく気付いた。神の道を正しく悟り、教えを地道に実践する神柱を作ることこそ、まず自分がなさねばならぬ急務ではないのか。そういう意味では、まだ一人として誠の信者を作っていない。改めて神の道の勉強をし直したい思いがこみ上げる。 よほどのことがない限り、もう病気治しや鎮魂はごめんだと、王仁三郎は自戒した。 木枯らしがやけに冷たかった。
 綾部に王仁三郎がいないと、きまって信者の参詣が絶える。役員たちは立替え熱も冷め、妙に虚脱し弛緩した顔になっていた。すぐに立替えが来ぬとなると、生活がせわしくなる。それぞれの稼ぎに熱中しだした。 出口竹蔵は妻ちょうと和知へ出稼ぎに行き、筏を組む仕事をみつけていた。収入もよく、仕事も性に合ったらしい。九月に長男松太郎が生まれると、和知川の傍に掘立小屋を立て、家族三人定着してしまった。 出口龍は大槻鹿蔵とのいざこざで綾部暮らしに嫌気がさしたらしく、夫慶太郎を説きつけて、「世間に出て働きたい」と言いだした。直は許さぬ。大槻伝吉の取りなしでようやく龍門館を越していったのは九月も末。義父鹿蔵の事が一因となっているだけに、伝吉は彼らの移転にあたっては心を砕いた。出口慶太郎夫婦は軍港として時の脚光を浴びている東舞鶴の海軍工廠に勤めて共稼ぎした。 秋風が立つように、龍門館は淋しかった。それに引き替え、宇治地方では王仁三郎を迎えて活気立っているらしい。その情報が伝わるや、中村竹吉は反射的に行動する。伏見の御牧治三郎らに司令して、例の如く王仁三郎の行動を妨害させた。地方ではまだ中村の威信は十分通用した。お道のためという意識は、このとき中村にはなかった。教祖には内緒のうしろめたい気分であった。
 明治三十九年(一九〇六)年、直七十一歳、王仁三郎三十六歳、澄二十四歳である。 この元旦を、王仁三郎は、宇治町の茨木清次郎方で迎えた。気の重い朝であった。昨日、大晦日というのに、御牧治三郎や南郷国松が役員会を開き、王仁三郎の帰綾を迫ったのだ。その前に十分の根回しはできていた。西田元教ですら、会議の趨勢から黙するよりなかった。「綾部におらねばならぬ会長はんが、いつまでも地方に腰据えてはっては肝心のお仕組みが遅れます。教祖はんの元にいとくなはれ」と、中村からの司令を受けた御牧が言葉たくみに主張し、一同が賛意を表した。体のいい追放である。 百日ばかり寝食を忘れた宣教で日増しに教勢がひろがり、もう少し梃入れすれば、立派な大本の拠点になり得る大切な時であった。しかし、地方役員の意志を無視してとどまることはできない。 元旦の午後、王仁三郎は西田に後事を託し、思いを残しつつ、無一文で宇治を発つ。途中、小山支部の田井方に二夜を過ごす。井上昌三、才幸太郎他信者たちが集まって喜んでくれ、四、五円の小遣いまでできた。それを持って綾部に帰ったのは三日。直は嬉しげに迎え、直日はまとわりついて離れない。よちよち歩きの梅野は、三月余の留守で父を忘れたか、王仁三郎の痛いばかりの頬ずりに泣き出した。 王仁三郎の帰綾を聞いて集まってきた役員信者たちで、龍門館は久し振りに賑やかだった。中村竹吉は、抱きつきたいほどに懐かしい思いを殺して、例の古びた説教だけは言わずにおれぬ。「神さまが何処へも行くなと言うてじゃのに大橋越えて行くさかい、ろくなことはありまへんやろ。第一、四つ足身魂の会長はんに布教ができてたまりますかい」「因果とわしは布教が病気や。こいつは死んでも治らんわい」 王仁三郎は笑って取り合わぬ。中村は躍起になった。「わしなど見なはれ。どこへ行かいでも、世界を動かすだけの大きな御用をしとる。バルチック艦隊を退治したのは誰のおかげやと思うてや、会長はん。わしがあの時……」 四方平蔵が言いにくそうに中村をさえぎった。「あんたの誠心はよう分かっとるでよ、中村はん。わしなど、どない気張ってもあんたの熱心さには追いつかん。けどなあ、大槻はんの件だけは、あんまり人に言わんほうがよいと思うのじゃがええ……」「なんでやいな」 中村は平蔵に開き直った。平蔵は、眼をしょぼしょぼさせた。「確かに大槻はんは、教祖さまの言うてん通り、ロシアの極悪身魂の御用じゃろう。それでも肉体は、教祖さまの長女お米はんの旦那はんや。あんたが下駄で叩いたのはその大槻はんの肉体で、霊魂やござらん」 居合わせた人たちは、いっせいに平蔵の言葉に耳を傾ける。「鹿蔵はんの霊魂が悪いのなら、なぜ神徳で叩いてやんなさらん。お筆先をあれだけとなえてなはる中村さんとも思えぬやり方ですわな。世界へ善と悪とのかがみを出す大本であるぞよ。この大本にありたことは、みな世界の型になるから……と神さまは口を酸っぽうして言うてなはる。叩かれて叩き返すのは世間のやり方じゃ。綾部の大本は、まことを天地へつらぬきて、まことで鬼でも蛇でも改心をさしてみせるやり方。かんじんのあんたがお筆先の言葉を忘れなさったか。バルチック艦隊はへこましたか知らんが、世界に悪の型を出してしもた。鹿蔵はんの改心はまだまだですわな」 中村の顔から脂汗がふき出す。信ずるお筆先でぴしりとやりこめられたのが、中村の致命傷だったかも知れぬ。己れの非を改めようとするだけの心のゆとりはなかった。「……わしが悪の型を出したやて……ははは、ほんなら世界中はいまに叩き合いになるで。鹿蔵のみたまで世界はいっぱいやさかい、わしはまた下駄や……」 中村は、異様な笑いを浮かべて、羽根つきでもする風に空を打った。 二、三日、王仁三郎は直日と梅野をなめるように可愛がって、またぷいと宣教にとび出して行った。どれほど失敗しても意に介さず宣教にとび出す王仁三郎を、もう役員たちはあきらめたように止めなかった。
 宇治では、王仁三郎の帰綾した半月後の一月十五日、御牧や南郷らの画策によって、西田元教夫婦も裸一貫で追い出される。意地っぱりの西田は策謀の根元地である綾部へ帰るのをいさぎよしとせず、夫婦で伏見に移って小さな借家に住む。王仁三郎の感化で鎮魂による病気治しにいや気がさし始めていたから、西田は按摩を習って業とし、女房雪は撚糸工場の女工となって細々と布教をしながら、再起の時を待つ。
 龍門館をとび出した王仁三郎は桧山の坂原巳之助宅を訪れて一泊、支部の信者相手に語り明かす。翌日、坂原を連れて質美村(現瑞穂町字質美)の信者大西次郎兵衛を訪問する。大西は一家上げて歓迎した。ちょうどそこへ、質美村長大西秀吉急病の知らせが入る。秀吉は次郎兵衛の弟で、造り酒屋であった。病気治しはしたくないと思いながらも、現実に病人にぶつかれば放っておかれぬ。次郎兵衛の乞いを受けて、秀吉の急病を治す。するともう一つ、次郎兵衛から難問題が持ち込まれた。 大西秀吉は先妻を失い、次郎兵衛の仲介で紅井村の富豪の娘お光を後妻にもらったが、「あんな女は気に入らぬ」と言って、いつまでたっても同衾しようとしない。そういえば、お光はどこか抜けて見える。 気の毒なので、次郎兵衛はお光を自分の家へ連れ帰った。すると秀吉は、水呑み百姓の出戻り娘まさ江をその後に入れた。お光の実家からは、顔役を通して、「この始末をどうつけてくれる」と媒酌人の次郎兵衛に強談判だ。次郎兵衛からの、困りはてての相談であった。 神の道を開こうとすれば、よろずの悩みごとを引き受けねばならない。 王仁三郎は上谷の四方甚之丞にお光を紹介する。王仁三郎の仲立ちとあって、甚之丞は一も二もなくお光を妻に迎え一件落着となる。 後日談だが、二人の仲はむつまじく、五人の子に恵まれる。一方、大西秀吉がめとったまさ江は美人だが贅沢で経済的観念に乏しく、やがて破産したという。 鎮魂や病気治しによる宣教は避けたいと願っても、周囲がそれを許さぬ。強く乞われるまま京都に行く。神泉苑町の中川弥吉宅、三条高瀬川の売卜者中島九馬蔵宅、三条大宮の中村保次郎宅と居を移して宣教する。 中村家に滞在している王仁三郎の元へ、大槻米急病の電報が届いた。急ぎ旅装を整えて二条駅から汽車に飛び乗り園部駅で下車、後は徒歩で綾部に帰る。龍門館はひっそりと人気もなく、奥の別荘に伺うと、直が「よく帰ってくれなさりました」と、微笑で迎えた。王仁三郎は一時に胸が熱くなる。 直は淡々とした口調で頼む。「お米がまた病気になりましてなあ、お澄まで北西町へ出掛けておるのですわな。御苦労さまですけど、すぐに行ってやっておくれなはれ」 大槻家は役員たちや近所の人々でいっぱいであった。旅装束も解かぬ王仁三郎の手を、大槻鹿蔵が引っ張り上げた。見舞い客にまじって、梅野を抱いた澄が笑顔を見せた。意識不明のまま、米は死人のように横たわっていた。 すぐさま枕頭に坐し、鎮魂にかかる。やつれ果てた米がかっと吊り上がった眼をみひらき、起き直ってからからと笑い出した。「鹿蔵がいつまでも改心せぬから、女房の米を苦しめてみせしめにしてやるのじゃ。ははは、いい気味、いい気味……」「その方は何者」と、王仁三郎が鋭く向かう。「われこそは四つ堂のお狐さまであるぞ。会長ごときが何しにきおった。下がれ下がれやい」「待て待て、野狐、今からお前の好きなものをくれてやる」 言いつつ、王仁三郎は天の数歌を奏上する。米は歯ぎしりし苦悶し出すが、突然、「ぎゃーっ」と絶叫し、倒れ伏した。「お米はん、もうよいで、お米はん……」 王仁三郎の呼び声に、米ははっと気づき、起き出す。「誰か煙草をおくれなはらんか」 鹿蔵のさし出す煙管に煙草をつめ一服吸い終わり、「ああ、お腹がすいた。茶漬けなと食べてこよかいな」と独り言を呟く。まるで日常生活の続きのように台所に行き、茶漬けを食い始めた。人々はあっけにとられ、言葉もなく見詰める。 鹿蔵は躍り上がって喜び、神前に坐して両手を合わせ、祝詞らしきものをとなえている。こんな神妙な鹿蔵の姿を見たことはなかった。 感謝の祈りを終えた鹿蔵は役員たちをにらみ廻し、大声でどなる。「やっぱり会長はんはたいしたもんやでよ。綾部に会長はんがおってもらわんと、がらくた役員ばかりでは屁のつっぱりにもならんわい。お前らもちっとは改心して、会長はんをあがめまつらんかい」 役員たちが鼻白む。へんに影の薄くなった感じの中村竹吉がいつの間にかいない。 王仁三郎は澄や梅野と共に龍門館に帰り、直に報告した。直はすぐさま神前に行き、神に感謝を捧げる。その祝詞の声を打ち消すように、二階の小机に坐った中村が、小松林命攻撃の筆先を甲走った高声で拝読するのだった。
「さあ、ちゃっちゃっと支度せい。川関へ行くのや」 こまは松の内に里帰りしたかったのに、中村が許さなかった。それが夫の方から言い出したのだ。 風向きが変わらぬうちにと大急ぎで身支度をすませ、夫と共に綾部を発った。「何でそんなにせきなはる、苦しいですわな」 こまが抗議するほど、中村の足は追われるようにせいていた。「急げ、鹿蔵が来る」 中村は低く妻を叱った。びっくりして後を振り返ってみたが、追ってくるような人影はない。 こまの実家は千代川村川関(現亀岡市千代川町川関)、八木の福島寅之助の家と近かった。 実家へ着くと、中村はようやく落ち着きを取り戻した。こまは綾部にいる頃から体の変調に気づいていた。いよいよ間違ないと分かってから、いつ言い出そうかと迷っていた。初めての子である。嬉しさよりも不安が先だった。 立替えしか頭にないような夫が、果たしてどんな顔をするのか、それが怖い。「あんた、とうとう子供が生まれますで」 実家に帰っている心強さで打ち明けると、中村は雀踊りして喜んだ。三十六歳になって初めて赤ん坊を授かるのだ。中村の心は急激に母親となる年上の妻に傾斜する。「そうや、暮らし向きのことも考えなんだらあかんなあ」などと、しんみり言った。 三、四日の滞在中、夫は妻をいたわってくれた。こまは幸せだった。 帰途、こまの実家からもらった土産の蜜柑を三つ、紐でくくって棒の先にぶら下げ、中村は機嫌よく肩にかついだ。子供みたいに蜜柑の揺れるのを楽しんだ。蜜柑など口に入れられぬ龍門館や東四辻の住人たちに自慢し、一房ずつでも食わしてやりたかった。 未明に出発して、行きとは逆に、こまの身を案じ、ゆっくりと雪道を歩いた。観音峠へかかる手前で、こまは道をはずれ、雪の積もった草かげで小用を足した。道に戻ると、待っているはずの夫の姿が見えぬ。先にぶらぶら歩いているのだろうと思って、急いで追いかけた。 新道と旧道の別れ道で、はて、夫はどっちの道を行ったかと思案する。筆先気違いの夫のことだから楽な新道より、でこぼこ道の旧道を選ぶだろう。そう判断してまがりくねった旧道を急ぎ、見通しのきくところまで出た。白い雪の一本道には人っ子ひとり見えぬ。 ああ、そうや、妊娠のうちの身を案じて広い新道を通ってくれたのやと思い直し、こまはその心遣いに身をあたためながら元の別れ道まで戻った。無駄足をふんだ分だけ夫は先に行っているだろう。行き交う人ごとにこまは根気よく訊いたが、見かけた人はなかった。 喘ぎ喘ぎ、暗くなって、こまは一人で綾部に着いた。中村は帰っていなかった。 川関の実家では、その夜、こまの兄八木駒次郎が軒下の柴をとりに外へ出た。凍てつく寒夜だった。藁小屋の中からうなり声が聞こえる。女房に提燈をもってこさせ、棍棒片手におそるおそるのぞくと、藁の中に褌一つの大きな男がもぐっている。今朝綾部へ帰ったはずの中村竹吉ではないか。「どうしたんじゃい、中村はん。おこまはどこや」 家に引き入れて震えている中村に褞袍を着せかけ、囲炉裏の火で暖めてやると、ようやく我に返って口をききだした。 こまの小用を待ちつつ、ぶらぶら行くと、四、五匹の親子連れの狸や狐がついてきた。「棒にぶら下がっとるのん、何じゃいな」と子狸が聞いた。「これは甘うて酸っぱい蜜柑という果物じゃでよ」と、中村が答える。「あの揺れとるの一つ、くれやい」と子狸がねだった。仕方なく一つくれてやるとたちまち奪りあいで食べてしまい、「もっと、もっと」とねだる。蜜柑がなくなると、「寒いから着物を着たい」と狐が言いだした。着ている物を一枚脱いで一匹に着せる。「おれも、おれもおくれい」とみんな手を突き出す。すっかり脱いでやった。「そんな恰好で町なかを歩いとると、駐在につかまるで」と道行く人が声をかけて、古い肌襦袢を着せてくれた。「駐在所につかまってはかなわんさけ、もうお前らには、やれへんぞ」と叫んで、肌襦袢をぎっしり押え、駆け出した。「狸や狐どもが追っかけてきて、後からその肌襦袢まで引っ張るんや。駆けて駆けて駆けてきたんや」と、呆けた力ない目つきで語った。「おおかた観音峠あたりのド狸やろ。あそこらの奴らはほんまにしゃあないいたずらもんや。よう化かされるんじゃ。正月の晴着ぜーんぶとりやがるなんて、性わるにもほどがあるわい。それでも中村はんがだまされるとはのう……」 駒次郎夫妻は怒ったり笑ったり。「こまが心配しとるやろ。朝になったら電報打ってやるわな」と、慰めて寝た。 翌朝、中村の姿はなかった。蒲団に入った形跡もなかった。中村は、八木の町々を丸裸で歩き回っていた。八木の福島寅之助宅に入って、戸障子を破って暴れ回った。戸棚を勝手にあけて黒豆を手づかみでむしゃむしゃ食い出す。「これは結構な荒神さまがおかかりじゃ」と有難がって眺めていた寅之助も、しまいには、「ド狸め、出てうせろ」と怒り出した。 久の急報で、八木駒次郎が現われた。狂態がひどくなる一方の中村に、発狂間違いなしとようやく断定した。寅之助の鎮魂も通じない。 駒次郎ら数人が荒れ狂う中村をつかまえて、綾部へ向かった。観音峠を越えて、桧山町にかかると、「こわい、鹿蔵が殺しにくる……」と口走りだす。とうとう中村は彼らの手を振り切って山の中に逃げ入った。 谷川にかくれて震えている中村を探し出し、護送団はようやくの思いで山坂を越え、深夜、東四辻まで送り届けた。
 米の全快を見届け、直日や梅野と遊ぶ無心の数日を過ごした王仁三郎は、またぷいと消えた。が、青葉の候、綾部へ引き戻される。中村竹吉発狂の報が届いたからだ。 旅姿のまま東四辻に立ち寄って、変わり果てた中村竹吉を見た。麦わら葺きの大きな宿舎の軒下につくられた牢の中で、獣のようにうめいていた。それでも王仁三郎を見るや、うれしそうに笑って格子から両手を突き出す。 その手を握ってやりながら、王仁三郎は涙をこぼした。「ほら、やっぱり大橋越えて行ってもろくなことないやろ。だから外国へは行くやないと止めとるんや。会長はん、わし見とくれ。どえらい型を出したでよ」 牢の隅へいざってゆき、再び王仁三郎に向き直った時には、中村の痩せこけた裸の胸に、こんもり盛り上がったものがのっている。人糞であった。「どうやい、驚いたか。天皇陛下から金鵄勲章もろたでよ。バルチック艦隊撃滅御苦労なりちゅうてのう。まてまて。功一級菊花大勲章ももろとる」 喜々として牢の隅にいざる中村を、もう王仁三郎は正視できなかった。中村の裸体のまわりを銀蝿がうるさくつきまとっている。「あればっかり言うとってんですわ」 いつの間にか、後ろに澄が立っていた。「中村はんいうたら、お粥をあげたらお粥を顔になすりつけて磨いてやし、自分が出した物を身体になすりつけては『出世した。黄金みたまになった』言うて喜んどってんですわな。気の毒で、辛うて、見舞いに行きとうても……」 強気の澄が、横を向いて涙をこらえている。「すまん、中村はんにもお前にも……留守にしとったわしが悪かった」 慙愧の念に耐えがたかった。「先生、得意の鎮魂で、お米はんの時みたいにエイヤッーと治してあげられんもんじゃろか」 澄が医者の診断を乞うように聞いた。王仁三郎は沈痛に唇を歪める。「憑霊がついて病気になったんでものう、その憑霊を追い出したら治るというもんやない。純粋な肉体の病気は医者の領分やし……」「先生、そんなこと言わんと助けておくなはれ。おこまはんはもう臨月ですで。中村はんもいくらか正気の時があってなあ、おこまはんが顔見せちゃったら、牢から手出して頼んでんですわな。おこま、坊抱かしてくれや。わしの坊、ちょっとでよいさけ、早う抱かしてくれや……」 王仁三郎は背を向けて歩き出した。澄が追い掛けて袂をつかんだ。「先生、見捨ててんか。中村はんが、ひどう先生の妨害しちゃったんは知ってます。先生には、いっぱいいっぱい恨みがあるやろ、ざまあ見ろいう気持ちかてあるやろ。けど可哀そうやありまへんか。先生、昔のことは忘れて拝んでやっとくれなはれ」 それでも足を早める夫に、澄は憤然となった。「待っとくれなはれ先生、そんな気の狭いことで、神さまのお道を説く資格がありますのか」 東四辻を出はずれて、ようやく王仁三郎は澄を見かえった。「お澄、くやしいけど、わしには中村はんを助けてやるだけの力はないのや。教祖はんにしても、中村を助けられはせんやろ」「それでも万一ということだってありますわな。教祖はんができんでも、先生でできることだってありますやろ。お米はんは治せても、中村はんはあかんのかいな」「中村はんはなあ、もう四魂そろうて戻ってはこん。今ついとる霊を完全に追い出してやるのはやさしい。けどそのあとで、中村はんの本霊が肉体にかえらなんだらどうなるんやい……冷たい骸になるだけや」「……」「こうなるまでに、くり返し、くり返し、中村はんには神さんからのお気づけがあったはずや。わしも去年の春には中村が狂うた夢を見せられとる」「それ、ほんまですかい、その夢の話、中村はんにしてあげなはったか……」「言いにくかったけど、言うたでよ。わしの言葉など、なに聞いてくれようわい。歌も書いてやった。立直しやれ立替えとかしましくさえずる百舌の声ぞ忌々しき、立替えを松野ヶ原の鈴虫の……」「冬の霜先あわれなるかな……うちもあれ見ましたわな。けどそんなこというたら、今の役員信者らは、みんな松(待つ)野ヶ原の鈴虫ですわな」「わしらはみな神さんの人形や。自由意志を与えられてはおるが、もがいてもどうにもならん業みたいのをしょわされとる。因縁いう古めかしい仏教ことばは嫌やがのう、大本は因縁のあるもんばかしが引き寄せられて善と悪との両面の型をさせられとるんやで」「あれ、先生……」 澄があきれたようにまじまじと夫を見上げた。「いつの間に、先生はお筆先に降参しちゃったんや。うち、ちょっとも知らなんだ」 王仁三郎が、にやっとした。「お澄もそろそろ改心せいよ。筆先によると、わしより半年おくれて、二代も改心せんならんそうな」 澄は真顔になって夫を引き止めた。「ほんなら中村竹吉はんの因縁いうたら何でっしゃろ。あれは何の型させられとってんです」「中村はんの因縁性来はわしにも分からん。けど、よう振り返って考えてみい。中村はんの性格とやり方を……」 澄が思案深げにつぶやいた。「教祖はんのためには火にも水にもとび込む生粋の日本魂やと、いつも自分で言うとっちゃった。水行かて、筆先を空でとなえるのかて、ほんまに誰もかなわん。教祖はんの沓島篭りの時、中村はんが露国身魂の鹿蔵さん叩いちゃったんは、やっぱし日本の型じゃろか」「中村はんは日本軍隊の型を見せたかも知れんのう。巧妙手柄をあせるあまりに、してはならん型を出してしもた。あれだけ筆先を教祖はんに叩きこまれておりながら、本当の改心がでけなんだ。あせって暴力を振るってしもたんや。平蔵はんがいみじくも言うた。この大本で出しとうない悪の型やったと……」「中村はんが鹿蔵さんの頭なぐったことかいな。そんなら鹿蔵兄さんは、やっぱ露国の極悪の……」「さあ、そんなこと人に言うたら笑われるさけ、ここだけの話やがのう。けど鹿蔵はんのあのでこちんの傷、よう見てみい。何かを思い出さへんか」「何じゃろ。うち、分からん」「大津事件をお澄は覚えてへんか」「ああ、うちの子供のころの事件やなあ。みんな、大騒ぎしとっちゃったん、覚えてます」
 明治二十四(一八九一)年、露国皇太子ニコライ二世が東洋巡航の途中に訪日するため、有栖川宮熾仁親王の弟威仁親王がその接伴役を命ぜられた。また皇太子滞京中の宿は霞ヶ関の熾仁親王邸をあてられることになり、熾仁親王は借邸の芝離宮に移り、訪日を待つ。 四月二十七日、ニコライ二世一行は長崎着、迎えた威仁親王の随伴で鹿児島・神戸を経て五月九日、京都に着く。十一日、琵琶湖の巡覧を終わり大津市唐崎町にさしかかった時、この事件は起こった。警衛巡査の一人津田三蔵がやにわに抜刀してニコライ二世に切りかかり、その前額部に負傷させたのだ。凶行の原因は、露国皇太子来朝の目的を日本侵略の調査のためと誤解し、それに対する怒りにあった。大津事件、または湖南事件という。 接伴役の威仁親王はただちに東京宮城に打電、明治天皇に至急京都への行幸を乞い、皇太子を常盤ホテルに運んで療養を尽くす。さらに露国皇帝にあて熾仁親王と連名で慰問の電報を発す。一方、東京にあって急報に接した熾仁親王は、天機奉伺のためただちに参内する。天皇の諮問に応じ、前後処置につき奏上したものであろう。 十二日早朝、天皇は臨時列車で西下、熾仁親王も午前十一時四十分新橋駅を発し、翌十三日午前五時京都着、威仁親王の宿舎常盤別邸に投宿する。 この日午前中、天皇と熾仁親王は常盤ホテルの露国皇太子を御慰問になる。夕刻、熾仁親王は、威仁・能久親王と共に皇太子を神戸碇泊中の乗艦パミアット・アゾバーに移し、天皇も波止場まで見送る。 十五日、露国皇帝アレクサンドル三世より熾仁・威仁親王に答謝の返電がある。十九日、天皇は熾仁親王を従えてニコライ二世の乗る軍艦に臨御、午餐会の後、この日帰国する皇太子に告別のお言葉がある。二十九日、熾仁親王は露国公使夫妻を霞ヶ関本邸に招き、午餐を供する。 大津事件の発生は、対応を誤れば、露国の報復と日露国交の危機を招くに十分であった。元老及び松方正義内閣はその惧れに狼狽し、犯人に対して刑法第百十六条の大逆罪を擬して死刑に処する方針を定め、大審院長児島惟謙に申し入れた。児島は政府の圧力をはねのけ、普通謀殺未遂罪を適用して無期徒刑の判決を下す。この判決は司法権の独立を守ったものとして、高く評価される。 この時の露国皇太子ニコライ二世が十三年後、日露戦争の主役として登場、大津事件は有栖川宮熾仁親王が深く関与されただけに、王仁三郎は無関心ではいられなかったのである。
「妙なことに、鹿蔵のおでこの傷は巡査津田三蔵が露国の皇太子のおでこにつけた傷とそっくりなんや」「その巡査も下駄で叩いちゃったんですかい」「いや、刀や。日本刀やが……下駄には二本の歯がある。二本の歯、日本の刃、日本刀……津田も中村もいうたら無学な気違いやが、日本のためと一心に思いつめとった点は同じじゃ」「えらいこってしたなあ……」「傷はたいしたことはないが跡は残った。心の傷も残っとるやろ」「今度の日露戦争は、ほんなら露国の仇討ちじゃろか」「表立っては天皇陛下はじめ有栖川の宮はん、大臣、みな礼を尽くし、形にも出して詫びとる。大津事件も一歩間違うと国際紛争になるとこやったし、あの欧打事件も下手すると刑事事件になる。鹿蔵はんは執念深いでのう」「先生はお金こしらえて、鹿蔵さんとこ詫びにいっちゃったなあ」 わしの親父の熾仁親王かてニコライ二世に詫びに行ったわいと言いたいのをこらえ、王仁三郎はため息をついた。「お前もさんざ噛みついたり、なぐったりしたさけなあ」「うちかて、お龍はんかて、鹿蔵はんには長い長いつもりつもった恨みがあったさかい……悪い型出してしもたんやろか」「そこやで、龍門館から体主霊従・力主体霊の恨みを力ではらすような型出してもたら、露国はどうなるやろ。戦いに負けたぐらいではおさまらんぞ」「先生、なぐってしもうたうちやお龍はんの型は何やいな」「長いことしいたげられ、苦しんでいた人民やろ。露国には、流血の立て替えが起こっとるわな」「……やっぱり下駄で殴った中村はんが軍隊か。なんで軍隊が牢の中で狂わんなりまへん」「力主体霊の末路を神さんが見せなはったと思わんか。日本の軍隊も自分の手柄をあせって、あやまれば狂人に刃物となる。怖いことやのう」 澄は大きく息を引いた。「もう止めや。こんな阿呆げた話、気がへんになりますわな。先生、久方ぶりで帰っちゃったんやさかい、今夜はなんぞ御馳走して、おこまさんにも振舞ったげましょ」 澄が屈託を吹きとばすように言った。
 八月十一日昼前、中村竹吉は、誰知らぬ間に、牢の中でひっそりと死んだ。蝉時雨だった。臨月の腹を抱えたこまは、うつろな目で物体となった夫を眺めていた。 間もなく、こまは、中村の忘れがたみ市松を生む。

表題:皇典講究所  9巻3章皇典講究所



「秋海棠の花が咲いてますなあ」 生垣の向こうから突然声をかけられて、盆栽の手入れをしていた阿和知安彦が振り返った。声の主を見れば、維新前の浪士みたいな、総髪を首筋のところで結んだ風変わりな男だ。そばには野菜を積んだ大八車を置いている。 なんだ、野菜売りか……。 男の法被姿を見て、阿和知はそう思った。 男はぴょこっと頭を下げ、垣根からのぞき込む。「口をつむんだ桜貝みたいなつつしみぶかい蕾もいじらしげなし、ぽうっと開いたとこなど、また恥じらい深げでよいもんですなあ。ほっそりした花首まで紅に染めとる。あれ、見てみなはれ、茎の節々が腰のあたりまで薄紅色ににじんどるのう……」 とみこうみして、歓声を上げてしゃべる。今度は、相手にならずに手入れを続ける阿和知の手元を、男はのぞき込んだ。「ははあ、やってなさるのう。せっかくまっすぐ育とうとする木を針金でしばったり曲げたり、そんなに小そういじけさせては木が泣きますわい。盆栽はむごたらしゅうてわしは嫌いじゃ。人間もああして盆栽教育したもんは、観賞用にはよいか知らんが、ものの役には立ちまへん。けど先生、花のある庭ほど、幸福ではんなりした気分に浸れるものはありまへんなあ」 怒るわけにもいかず、阿和知はだまって手を動かす。「先生、えーと阿和知先生でっしゃろ。ちょっとお願いがあります。わし、丹波は穴太産の百姓の出です。今は野菜売りじゃが……」「失礼だが君、台所のことなら、家内に言うてくれ給え。大体、私はそういうことに関知せん主義だ」「野菜売りに来たんと違いまっせ。自己紹介させてもらえば、わしの名前は出口王仁三郎――」 阿和知は、野菜売りにしては偉そうな名前だと思った。むこうはこっちをよく知っているようだが、遠縁か知人に出口姓はあったろうか。ちょっと思い出せぬ。 遠慮勝ちに聞き返すことにした。「出口王仁三郎さんといわれると、えーと、どなたでしたかい」「旧名は上田喜三郎です。御存知ないやろと思いますが、綾部の出口家に養子に行って、出口姓こそ名乗ってますが、わしは上田家の戸主やさかい、戸籍では、まだ上田王仁三郎ですけどな」 なんだ、やっぱり知らん男や。ただの野菜売りやと、阿和知はおかしくなった。「ついでに言うときますけど、わしは今、三条大橋傍の中村保次郎という焼芋屋に厄介になってます。中村はんは御嶽教の行者で友禅染めの職工ですけど、細君は焼芋を焼いてます。それでわしは、午前中は深草の百姓家から野菜を仕入れて売り歩き、午後は焼芋を売り歩くことにしたんですわ」「ちょっと待ってくれ、盆栽の手入れをしてしまいたいんや。焼芋のことなら、やっぱり家内に……」「ここからではどうも、話が遠うてあきまへんな。ぜひ先生にお願いがありますのやが……いま、そっちへ行きますわ」 大八車を道端に寄せ、大根一杷をぶら下げてのこのこ木戸をあけて入ってきた。「やっぱり冬大根やないと、水気がのうてうまないけど……」 縁の端にそっと置いたのは、名刺代わりのつもりか。先に縁側に腰掛けておいて、阿和知を手招きした。 神職の家に生まれ固苦しい教育を受けてきちんと育った阿和知には、人見知りもせぬこんな野放図な男には、どう対応してよいか分からぬ。渋い面で縁にかけた。王仁三郎の草鞋の足は泥まみれだ。「それで、私に何の用事があるんです」「隣の皇典講究所分所に入学させてもらおうと思って」「えっ……誰が」「わしに決まってますわな」 阿和知は、あっけにとられて王仁三郎の顔を見た。「皇典講究所分所規則」第一章第三条には、「生徒は満十五年以上二十五年以下性行善良にして小学校卒業以上の学力あるものより之を挙ぐ」とあり、まず年齢制限にひっかかりそうだ。頭からことわるつもりになった。「お年はいくつです」「三十六歳」「学歴は……」「小学校だけ、それもおしまいまで出てまへん。つまり退学処分ですわ」 阿和知は、この男、どこかおかしいんやないかと思ってみたが、笑みを含んだ目元は涼しくて、百姓然としながら、どこか品位もある。 阿和知安彦の家は京都府皇典講究所分所(現京都市烏丸通り一条)の隣だ。阿和知は建勲神社の神職であり、皇典講究所分所の主事として平田神道の講義を受け持っていた。「君、皇典講究所はどんな学校か知っとるかね」「はあ、知ってます。昨年の春も入学しようと思って規則書を手に入れました。ある事情で中断しましたけどな。皇典講究所は明治十五年に東京に設立されて、初代総裁は有栖川宮幟仁親王でっしゃろ。つまり熾仁親王のお父さんや。『凡て学問の道は本を立てるより大なるは莫し、故に国体を講明し、以って立国の基礎を鞏くし、徳性を涵養して、以って人生の本分を尽くすは、百世易うべからざる典則なり……』との幟仁親王の令旨を暗誦しとります。ここの分所ができたんは明治三十二年九月。来年春には、京都で初めての神職養成機関として、国史・国文科は教育部と改称されるそうですな」「くわしいな。けど君、どうしてそんなに皇典講究所に入りたいんかね」 ――わしの爺さん、誰やと思うとる。ここの初代総裁やないか。だから孫のわしが志を継ぐんや。当たり前でっしゃないか。 と心で叫ぶ。だがのんびりした語調も表情も変わらなかった。「わしの養母が、綾部で金明霊学会という宗教の教祖をしてます。というても公認されとらん宗教やさけ、警察の干渉がうるそてかないまへんのや。それでわしだけでも神職の資格をとっといた方が、何かにつけて便利やさけ……つまり方便ですわい。ははは……」 阿和知は、このあけすけな男に興味を持った。女房を呼んで茶を入れさせる。「分所規則によると、資格は二十五歳まで。まあ、これは特例を認めるとして、学歴もちょっとさわる。小学校出とらんということやと、講義についていくのがしんどかろう。古文が分かるかね」「はあ、おおよそ。今から試験受けさせてもろて、明日からでも入学させてもらいとおすのや、でけたら本科二年に……」「え、初等科をとばしてか。君、生徒募集は毎年、新学期の初めということになっとるが……」「そやさけこうして頼みに来たんです。初めに言うたように、わしは一年も二年も学校に通っとる経済的余裕がありまへん。焼芋屋の二階に居候して野菜を売り歩いとるのも、入学金の一円を稼ぐためです。それに授業料と校費が年十四円でっしゃろ。ようよう、半年分ぐらいためましたさけ、すぐに入りたい。今から高等科に編入してもろたら、来年の春には卒業です。その時は教育部に名称が変わっとるさけ、教育部第一期卒業生、要するに神職の資格をもらえますやろ。こんなとこ、半年通ったら十分ですわ」 当時の皇典講究所は普通科と高等科合わせて正規に行けば二年で卒業、毎週二十四時間、午後三時から八時までが授業時間であった。普通科終了と同等以上の学力があると認めれば、すぐに高等科に入学できる制度はあった。 しかし、高等科も二学期の途中から入って半年で資格をとろうとは、いくらなんでも厚かましい。いや、要領がよすぎる。ためしに二、三の質問をして見ると、古典に対する王仁三郎の該博な知識がはねかえってくる。 阿和知は真面目な顔になった。別にとりたてて試験をしなくても、主事である阿和知が実力を認めれば入学させることができる。「よし、明日から来たまえ。午前中に入学の手続きを取っておこう」と、阿和知は答えていた。 翌日、正確には明治三十九(一九〇六)年九月二十日から王仁三郎は皇典講究所分所の国史・国文科の高等科へ編入し、毎日午前中には野菜の行商、午後から休みなく通学した。高等科の授業科目は古事記(上記・中記)、万葉、日本紀職原抄、宣命、古語拾遺、祝詞、祝詞作文、玉襷、文典、平家物語、大鏡、文学史、制度、祭式、十八史略・孟子、日本外史であった。 ところが学校の方が不規則で、講師の都合により休講という日が多い。そんな時、王仁三郎は隣の阿和知家にもぐり込むらしい。阿和知は、いつの間にか家族の一員のように妻や子供たちと談笑している王仁三郎に気がつく。「王仁さん、王仁さん」 阿和知まで子供らといっしょにそう愛称するようになっていた。 後日談になるが、大正五(一九一六)年に阿和知が伊勢神宮に転勤となり家族を連れて赴任の途中、大阪毎日新聞を読んでいた。その中に大本の記事があり、王仁三郎の写真が大きく掲載されている。あまり大物になっているため、野菜売りしていた王仁さんとはどうしても思えなかった。子供たちに見せると、「王仁さんや、王仁さんや」と、大喜びで証明したので、やっと納得した。阿和知夫人の話では、子供らのうち四女は、後に王仁三郎から毎月送金してもらって、東京の学校を卒業したという。 生徒たちは、二学期に、しかも中途から仲間に加わった王仁三郎に驚いた。大八車を校門傍におき、色あせた法被、股引、草鞋ばきで平気で授業を受ける。机の下から、売れ残りの大根や南瓜がころげ出たりする。この野菜は、阿和知家の他にも、学校の近くにある二、三の先生の家を訪ねて、そっと台所に置く。ついでに上がりこんで先生から特別に知識を吸収し、お返しには議論を吹きかける。時には子守り、留守番もするので、「王仁さん」はどこの家庭にも親しみ迎えられた。 初めはくすくす笑って仲間に入れなかった生徒たちも、王仁さんのまわりに集まってきた。堅苦しい神職の子弟である彼らは、丹波農村直輸入の野卑な冗談に、顎をはずして笑いこける。たとえばこんな調子である。「お前ら、金玉の七不思議知っとるかい。一、年が若うても皺がある。二、金はあっても使われず、三、玉はあれども光なし、四、縫目はあれどほころびず、五、日陰にあれど色黒く、六、ぶらぶらすれど落ちもせず、七、わけも知らずに口たたく……変幻自在のいわば如意宝珠や。いざという時に金玉がちぢこまっとるような男では金玉(貯)らんぞ」 同級生は全部で十一人、みな王仁三郎より遥かに若い連中ばかりだ。たちまち物分かりのいい、面倒見のいい、おもろい兄貴として信望を得る。入学して二ヶ月後には、国史、国文科内の生徒間で組織されていた文芸クラブ秋津会の幹事に推され、月刊雑誌『このみち』の主幹となって書きなぐった。この頃は印刷物が唯一のマスコミといってよく、新聞、雑誌が思想伝達の主役を演じていた。王仁三郎は『このみち』を通して、大本の教えを世に広めるため、まず印刷物の刊行が先決やと心に期した。 文芸活動だけではもの足りなかったので、同級生に働きかけて弁論研究部を設け、育成に熱中する。校内だけでは足らずに校外へ遠征、時には荷車に風呂敷包みの衣類を入れておいて、百姓から書生へと早がわりする。木綿の着物に縦縞の短い小倉袴、長髪をなびかせ、朴歯の下駄をからから鳴らして都大路を横行濶歩。数多い寺の門前や人々の集まる辻に立つと、太いステッキをふりまわして大獅子吼した。 仏教の腐敗堕落、売僧の攻撃を寺の門前でわめくのだから、たちまち人だかりがする。寺から坊主がとんで出て、棍棒ふり上げ打ちかかる。逃げ出すのも早いが、性こりもなくまた来る。既成仏教教団の職業化が腹の底から憤ろしくてたまらなかった。 小さな教団に閉じこめられ、くだらぬ役員との軋轢で精力をすりへらしていた王仁三郎は、束縛されぬ環境におかれて、まさに若虎が野に放たれた感じ。三十六歳にして、初めて開放された自由な学生気分を味わった。 王仁三郎が皇典講究所に入学を決意した時、学問を攻撃する直の猛烈な反対を予想した。けれど、直は笑って言った。「神さまは、『この大本は、いったんは三人になるところまで淋しくなる。こんどは神さまのふるいで、誠と偽者にふるい分ける』と言いなさる。今のうちに、どうぞ先生は神さまの勉強を十分にしておくれなはれ」 直から許されて勉強に打ち込めるなど思ってもみなかった王仁三郎は、今、ほんとうに幸せであった。 この頃、王仁三郎がよく訪問したのは、下御霊神社(京都市中京区丸太町寺町下ル)宮司で講師の出雲路敬通家であった。 出雲路家は御所に出入りする千年以上の古い家柄であった。敬通の祖父定信は京都修学院時代に院長をし、明治元年五月の太政官令により殉国の志士を祀る招魂社(現護国神社)が設けられた際の初代の宮司であった。父の興通も、敬通も、二代続いて下御霊神社の宮司となる。 王仁三郎は出雲路家に来ると、もっぱら興通に教えを乞う。さもなくば書生たち相手に口角泡をとばして議論をした。 当時五歳であった敬通の次男敬和には、王仁三郎の印象が鮮烈であった。王仁さんは、下御霊神社の前を流れる中川の石橋を渡って大鳥居をくぐる。本殿正面で高らかに大祓祝詞、それから下駄の音を響かせて石畳を踏み、左手の社務所に入ってくる。敬和はその特徴のある高い下駄の音でとんで出て、祝詞の終わる王仁さんを待ち受ける。王仁さんは必ずうまい菓子折を持参して来るのを知っていたから。 その日、下御霊神社入口の高さ八メートルにもなる大鳥居には、いつになく梯子が立て掛けてあった。鳥居の金具を取り替えて、まだそのままになっていたのだ。 あたりに作業員はいなかったので、敬和は梯子に手をかけ、高い高い鳥居を見上げた。のぼってみたいなあと、憧れるように思った。その時、ひょいと体が持ち上げられて、肩車をされた。 あ、王仁さんやと嬉しくなった。足元には下駄がぬいであり、その上に、いつもの菓子折がのっている。でも、それからが大変だった。王仁さんは敬和を肩車したまま、とんとんと梯子に身軽くのぼり始めたのだ。笠木(鳥居の上の横木)の上に立つと、まるで軽業師みたいにおどけて往ったり来たり。「こわい……こわい」 敬和はあまりの高さにおびえて、王仁さんのおでこにしがみついた。王仁さんは笠木の上で立ち止まってやさしく言った。「坊よ、坊よ。眼え押えたら見えんがな。あかん、あかん」 当時、下御霊神社の前の寺町通りをチンチン電車が通っていた。その電車が急停車し、運転手や満員の乗客が身を乗り出して手を振った。電車が止まったのが、幼い敬和には忘れられぬ記憶となった。 この頃、王仁三郎は、日本キリスト教団の京都洛陽教会(寺町丸太町上ル)にもよく説教を聞きに行った。洛陽教会では、説教をしていた青年牧師、のちの同志社総長牧野虎次と知り合ったが、これが晩年までの親交につながる。 この楽しい学生時代の半年は、王仁三郎にとって充実した毎日であった。それでも煩わしいことがないでもなかった。毎夜おそくまで勉強して中村の焼芋屋の二階でぐっすり寝ている王仁三郎の床を囲んで、病人がつめかける。御嶽教の行者として王仁三郎の霊力をかいま見た中村保次郎が驚嘆のあまり、夫婦して頼みもせぬのにふれ歩くせいである。王仁三郎が行商に出掛ける前に、つかまえておかねばならぬのだ。「先生、起きなはれ、もうぎょうさん待ったはるやおへんか。気の毒なさかい、ちょこっと治したげとくれやすな」と、中村の妻しまが揺り起こす。「こらえてくれ、わしは医者やないわい」「分かってます。それでも……」「ついでに言うとくが、稲荷下げでも拝み屋でもないぞ」 この頃、王仁三郎は病気治しがますますいやになっていた。これまで誠心こめてどれほど多くの病人たちのために走り回り、妨害の下をくぐっては治したか知らぬ。治った病人たちは、一時は喜んで信仰の道に入るのだが、すぐに踏み迷って元の木阿弥になる。現世利益で入った信仰は、ちょっと苦しいことがあるとすぐ駄目になる。 信者をつくるには病気治しはたしかに手っとり早いが、できた信者は陽にとける淡雪のように頼りない。「筆先七分、霊学三分にして下されよ」とか、「この方は病気治しをするようなちょろこい神ではないぞよ、心治しの神であるぞよ」という筆先の警告が、腹にこたえるようになっていたのだ。 真の大本人をつくるには、大本神の意志を正しく理解させ、信じさせる以外にはない。そのためには、直の筆先の神髄を経と貫き、王仁三郎が受けた神示を緯として、早急に教義を整理せねばならぬ。 だからこそ、勉強である。わずかで貴重な睡眠を割いてまで、病気治しにかかずらう暇が惜しい。だが中村夫妻に王仁三郎の心情など理解できぬ。「ほれほれ、腹が病めてどもならん人もおる。可哀そうに歯が痛うて泣いてる子も待っとるやおへんか」 うるさくいうしまに、蒲団から寝呆け顔出して王仁三郎が叫ぶ。「しゃない。バケツに水入れて、火吹竹でもかまわんさけ、何ぞ持ってこい」 しまがあたふたと階下へ降りていく隙に、またぐっと一眠り。「用意できましたで」と、しまが蒲団を引っぺがす。 起き直って眠い目をこすりこすり部屋の中にぎっしり詰めかけた連中を眺める。あそこにもここにも丸い眼をみはり口をとがらせた狸や狐。火吹竹をバケツに突っ込んで水を吸い上げ、王仁三郎はぷーっと水を吹く。「きゃーっ」と叫ぶ病人たち。かまわず全員に浴びせかける。「よっしゃ、治った。もう起こすなよ」 言うなり蒲団にもぐり込んで一眠りだ。瞬時のあいだ熟睡して目覚めると、病気を治してもらった連中が謝礼に勝手に置いていった金包みが束ねてある。治そうと思わぬのに勝手に治るから皮肉だ。彼らの置いていった金は気がとがめて、学資や食いものに使う気が起こらぬ。ましてや、直や妻に使わせたくなかった。別にのけておいて、貯まると友達を連れ、祇園の乙部あたりへ行ってお茶をひいている芸者を総上げする。 酒を呑めぬ王仁三郎だが誰よりも騒ぎ、歌い、踊る。出てくる芸者に憑いている狐や狸がまる見えだ。王仁三郎はくるっと裸になって、尻のところからぼたぼた銭を落として歩く。「ほらよ、お前らの好きな黄金の糞や。くれたるで」 時おり澄から、好きすっぽうの筆法で平仮名の手紙が届いた。澄の手紙はいつも、「きょうそさんもなおひもうめのもげんき。なにもしんぱいありません。こちらはけっこうや、けっこうや」 そんな文面ばかりだ。 天衣無縫な文字を惚れ惚れと眺めて、王仁三郎は感傷的な詩を詠み上げる。
     在学中、妻の書状を見て詠める   汝が身の上を打案じ   雪のあけぼの雨の宵   魂は都にかよひつつ   主に恙があらたふと   産土神社へ一向に    はこぶ歩みは我胸に   燃ゆる思のほそ煙り   女のよわき腕一とつ   老ひしはゝ上幼児を   朝ナ夕ナにかばい筒   ぬしの卒業を楽みと   送り越したる若草の   妻の玉章見るにつけ   感謝のなみだ袖の雨   ふるさとの空打眺め   暫し言葉も泣ばかり   アヽ忘れじな汝が心   杖よ柱とたよりつゝ   学びの庭に勤しみて   早く成業の旗を挙げ   雄々しく汝が真情に   報ひ返さんあまつ神   われを直霊に導きて   勇気を振せ智を啓き   太じき功を建しめて   親しき人に愛魂の   幸を広らに垂れ給ひ   綾部に錦かざらせて   一日もはやく本宮の   神の祭りの神庭まで   帰させたまえ太元の   出口教祖の御傍まで
 芸者を総上げしたり、相変わらず寝ざめの床で火吹竹を吹いたり、呑気そうに甘ったるい詩などつくって陶然となっている王仁三郎にひきかえて、澄は生活苦のどん底にいた。 王仁三郎が遊学してから、信者の足はふっつり絶えた。日傭いをしている四方与平が朝夕の神さまのお給仕に来るだけ。月次祭に集まる顔ぶれも、ごく淋しい。 直と二人の子供の生活は、澄の双肩にかかってきた。直が「商売をしてはいかん」と言うので、少しばかりの畑に青物を作って売ったり、縄ないに励んで日銭を稼いだ。桑摘みにも出掛けた。どこかで生垣の手入れをしていると、夜分に出掛けてこっそり枝屑をもらってきて焚き物にした。それでも最後には家の道具はみな売り尽くした。一重ねの蒲団に、直と澄と二人の子供を間にして抱き合って寝た。 質屋通いの種もつきた。上町の吉田鹿次郎質店とは、澄はすっかり馴染みであった。曲がった火箸まで持ち込んで、質屋の主人を苦笑させた。 眠がりの澄が、水をかぶってまで深夜の縄ないをした。何束できたら支那米何升、麦なら何升と計算しておいて、その余りが三十銭でも五十銭でもできたら、一枚ずつ質置の着物を出したり利子を入れたりした。質屋では、澄をすっかり信用して、自由に質蔵へ入れて持ち出させた。 直に心配かけさせまいとして、澄は常に米櫃に支那米を入れて置くことに苦労した。時々直がこっそり台所へ来て米櫃をのぞくのを知っていたからだ。 直は感心しきって言う。「お澄はえらいのう。どんな芸当をして手に入れるのか、いつでも米櫃に米があるなあ」 質屋へ持ち出すから、押入れや長持はからからだった。それを母に見せまいとして、長持や押入にいろんな物をかぶせたりつっかえ棒をして、開けられないようにした。 澄は母ばかりでなく、この芸当を役員、信者たちには絶対に見せなかった。王仁三郎の皇典講究所行きが決まった時、直は機嫌よく許してくれたのに、役員たちが、「今に見てみや。神主どころか吠え面かいて戻ってくるわい」と嘲笑っているのを耳にしたからである。 ――学校を落第したらどもならん。どんなことがあっても、先生を立派な神主さんにしてみせると、その時、心に誓った。それ以来、澄は産土の熊野神社にひそかに日参した。「先生が無事に学校を卒業でけますように、どうぞ力をつけてやっとくれなはれ。もしこの願いが成就しましたら、先へ行って、お守役を一人付けきりにして、お給仕やら境内のお掃除をさせますさかい……」 自分の家の神前に大本の神が祀ってあるのに、それを忘れて産土参りをするのは、いかにも澄らしい。 役員、信者たちには、王仁三郎の送金のおかげで暮らしていると思わせようとした。澄の意地であった。 うちが苦しい時はあの人も苦しいのやと、苦学の夫を想像してこらえる。夫が出立の時の印象が、あまりにも強かったからだ。 旅立ちの前夜、部屋中をかきまわしていた夫が、不思議そうに言った。「お澄、あれ知らんか、ほれ、牛の証文じゃ」「へーえ、牛のなんて知りまへんわな」「押入れの隅の行李の底にあったろうが、これぐらいの大きさの十行ぐらいに書いてある……」「ああ、あの支那文字のえっとまじった黄色っぽい紙ですかいな」「そうや、それや、お澄、どこにしまった」「あ、そうや、今思い出した。昨年やったかいな、中村はんらが、支那文字は外国の守護やさかい燃やさな立替えはできんと言うとっちゃった。そうかいな、ほな何でも焼いてしまわないかんのかいなと思うて、うち、何かないかいなと行李の底まで探してみたんや」「それで、あったんか」「へえ」「それからどうした」「役員さんのとこへ持っていって、燃やしてもろた」と、澄はけろんと答える。「あ、あ、あんまり阿呆にもほどがある――」 この時ばかりは、王仁三郎の顔色が変わった。澄は、生まれて初めて夫の痛烈な一撃を頬にくらった。夫はそのあともじもじして、「精乳館に預けといた乳牛の期限が切れたさかい、金がもらえるとこやったんじゃ……」と、弁解がましく言った。 王仁三郎は、それきり証文の意味も、大切さも、愚痴も言わなかったが、それだけに澄は心が痛んだ。 きっと何年も行李の底にしもうて、いざの時の頼みにしとっちゃったんや。今度の学資になるとこやったのに……。 自分の阿呆さかげんに涙がこぼれた。夫になぐられた口惜し涙なんかではない。もっともっとなぐってほしいくらいや。そう言いたかったが、ほろほろ落ちた澄の涙に、夫はあわてて立って行った。 出立の朝、澄が駆けずり回って工面できた金は、わずか五銭であった。その五銭だけを懐中に、王仁三郎は遊学の途に出た。澄は直日の手を引き、梅野を負って須知山峠まで送った。その茶店で澄が止めるのもきかず、王仁三郎は五銭の中から二銭をさいて駄菓子を買った。それを三つに等分して直日と梅野の口に入れてやり最後の一つを、「お澄、口あけや」と言って、妻に食わした。 苦しい時は、いつもそれを思い出して、澄は胸をあたためてきた。 ――人間とは何でこうも食わんならんのやろ。 今日も澄は、その思いに胸がふさがれる。一日三回、きりなく繰り返される思案にあぐねて表を歩いていると、肩を叩かれた。福島寅之助が笑って立っている。「あ、義兄さん」 懐かしい思いより先に頬がこわばった。一日中、山坂をのぼりくだりして遠く八木から来たのだから、寅之助はどんなにか腹が空いていよう。夫が旅先では立ち寄って御馳走になることもあるだろう。何とか固い飯を炊いてやりたい。どうしよう、どうしよう。 なすすべもなく家に戻った。二階から、直と寅之助の話し声が和やかに流れてくる。日は傾いて、そろそろ梅野の眼がねむた気にふさがってくる。 せっぱつまって、ようやく閃く考えがあった。 夫がせんに大阪から一円三十銭で買ってきた羽織の紐である。紐があってもとうに羽織は手離したので、そのままにしまってあるはずだ。 夫の持物から探し出して、近所へ行った。「この羽織の紐、買って来たんやけど、ちょっと羽織とうつらんさかい、金を足して、もっとええのを買おうと思うのや。安うしとくで、買うてくれてないか」「ほんに、こらええ紐やが、うちは間に合うとるさかい……」「ほんな、他へ行って見ますわな」 別の家へ行くと、主婦が言った。「もろときますわ。もう遅いで銀行はしまっとるさかい、お金は明日でもよろしやろ」 そう言うと、羽織の紐を持って入ってしまった。――ちょっとでも余計に金にしたいばかりに売りに行ったが、こんなことなら幾ら安うても質屋へ持って行くんやった。 買いつけの米屋には二度も借りがたまっている。頼めば貸してくれようが、澄の性分では、三度は借りかねた。別の米屋へ行き、「ちょっと贈り物をしたいんやが、米を五升ほど貸してくれてないか」と思い切って頼んだが、「さあ、家ではなあ……」と冷たい顔だ。いつも買っていないので、無理はない。 ぐずっていた背中の梅野は夜飯も待てずに寝たらしい。すっかり暗くなった道を手ぶらで帰って、泣きたい思いであたりを見渡す。天井裏に吊ってある袋が目に止まった。明治三十四年、立替えにそなえて直が作っておいた乾飯である。一度蒸してから乾燥したもので、三升ほどあった。「ああ、神さまが助けてくれちゃった……」と澄は感謝した。それでもまさか、そのまま膳に出すわけにはいかない。湯につけて炊いてみたが、ぼろぼろに崩れて土のような御飯になった。 素知らぬ顔でよそって、食卓に出した。寅之助はもしゃりもしゃりと食べていたが、箸を置くとじっと澄の顔をみつめた。「負けん気の澄がこれを食わすのは、よくよくやろ」 寅之助の独り言に、澄は泣きそうな顔で笑った。 翌朝、寅之助の帰ったあと、台所の棚に一円が包んで置いてあった。八木の暮らしの苦しさを知っているだけに、いっそう澄は悲しかった。「毎日こんなことではかないまへんなあ。ああ、くしゃくしゃするわ」 澄が思わず言った。直はにべもない。「これぐらいの行が辛いようで、どうして大望が成就しますかいな。食物がなければお土を食べます。お水はたんとあるやないかい。神さんは殺しはなさらん。これが忍べんようで、二代の御用はつとまらんで」 ――信者が寄りつかんのに、大望もあるもんか。小さな娘が二人もいて土を食えとは、何ちゅうひどい親もあるもんや。 腹立ちまぎれに、筆先を蹴とばしたこともあった。そう言えば、筆先の出ようも、この頃はずいぶんと少なくなった。筆先が出ても、紙を買う金がなかった。 ――察しのよい金神さんやと、澄は心で皮肉った。  明治四十年(一九〇七)年、直七十二歳、王仁三郎三十七歳、澄二十五歳である。『大本行事日記』によると、この年の旧正月元旦の供え物は、「御神饌一台」とあるのみだ。 三月三日の雛祭が来た。よその家では、どこでも節句といえば寿司や御馳走を作るもの。子供たちに「お雛祭には寿司を作ってやるでよ」とすかしすかし辛抱させてここまで来たので、澄はどうしても作ってやりたかった。 財布には五銭あったが、この年、五銭では米は三合しか買えぬ。三合余りの米を買いに行くのは、恥ずかしくてならなかった。知恵をしぼって、うまい口実を見付けた。「今日はお寿司を作ろうと思うのやけどええ、家の米が黒いので、白い米をまぜて使おうと思うのですわな。ちょっとあればよいさかい、五銭がとこ分けとくなはれ」 無事、五銭で米は手に入ったが、澄が食べる分まで作れぬ。具は畑の物や野草を工夫して使い、やっと少量のばら寿司を作った。 直日が本町の亀甲屋へ遊びに行っているので呼びに行くと、内儀さんがやさしく言った。「お澄さん、今日はお節句やで、たまには上がって遊んで行きないな」「ほんな、ちょっとだけ……」 茶の間へ上がると、内儀さんが細切り卵の載ったうまそうな寿司を持ってきた。「お澄さん、あんたの家でも作っちゃったやろけど、たまにはよその味もよいさかい、一口食べてみなはれ」 ふだんならこだわりなく喜んで食べるところだが、米を買うのにさんざ苦労した後だけに、素直に好意が受けられなかった。 ぺったんこの腹を押えて、澄は大げさに言った。「いま、お腹いっぱい食べてきたとこですわな。なんぼ食いしんぼでも、もう食べられまへん」 直日の手を引いて家へ帰る。寿司を前にはしゃぎ回る子供たちに、たら腹食わせてやりたかった。「うちは亀甲屋はんでよばれてきたさかい、心配せんとたんとお食べ」 子供たちにまで二重の嘘をついて、空腹のまま子供たちや直と一つ蒲団で寝る。細切り卵の黄色が目にちらついて寝つけなかった。 けれども澄には希望があった。もうすぐ夫は皇典講究所を卒業して神主になる。神主になったら月十円ずつ送ってやると、手紙の度に書いてきた。月三円あれば米代だけは足りるのだ。十円もあればどないしょ。今から大財産家になったつもりで、胸がわくわくする。


表題:幣帛供進使 9巻4章
幣帛供進使



 明治四十年三月三十一日、王仁三郎は計算通り半年で皇典講究所教育部を卒業。卒業試験一円四十銭、証書料一円も、働いた金で払った。ようやく官幣社の禰宜主典になる資格を得たのだ。 しかし官幣社の数が少ないので、なかなかお鉢が回ってこない。そこで四月八日から三日間にわたる京都府庁の神職尋常試験を受験、一番で合格し、四月十五日には第一号証書を下付された。 五月三日、京都府から別格官幣社建勲神社の主典に補せられ、年手当金三十円給与の通知がきた。月給は二十数円、初めてしっかりと定収入のある身となった。 建勲神社は織田信長を祀り、京都市北区の大徳寺の南、船岡山にある。船岡山は京都の北西、赤松が一面に生えた標高百十二メートルの見るからにおとなしい小山。西の双ヶ岡とならんで、京都特有の優美な稜線を見せている。平安朝の昔から若菜摘み・蕨とりなどの春の遊びに、また躑躅の名所として都人の心を慰めた。 応仁の乱(一四六七~七七)には、この山が激戦の中心になった。西軍の総大将山名宗全がここに砦を築いて必勝を期したが、東軍の総大将細川勝元の夜襲で潰滅し、山全体が焼けただれた歴史もある。 王仁三郎が奉職した頃の船岡山は、春には蕨、秋には沢山の松茸が生えた。付近の人たちの語り草によれば、「一人は米屋へ、一人は醤油屋へ、そしてひとりは船岡山へ行け」と言ったものだという。つまり米屋と醤油屋と船岡山へ行けば松茸飯ができるという意味で、それほど松茸がよく採れた。狸や狐も出没した。 当時の社殿は山腹(現在は山頂)にあり、朝日をいっぱいに浴びる方向で、真正面に比叡山・東山連峰が眺められた。 社殿の右脇に四畳半ほどの小さな社務所があり、昼間は主典が平机を並べて坐っていた。夜になると、宿直が机を片付け、蒲団を敷いて寝る。 建勲神社の奉職者は、宮司一名、禰宜一名、主典四名、出仕四名の計十名。宮司は国が任命し奏任官待遇、総責任者で全員を監督し、神主を務めた。禰宜と主典は宮司の推薦によって府知事が任命し、判任官待遇であった。禰宜は宮司を補佐し、主典を監督した。 王仁三郎が任ぜられた主典の業務は、朝の清掃、御神酒と御神水の御給仕、日中は宮司の意にそって手紙の処理、営繕の仕事をし、夕方の礼拝を終え、一切の業務が終わるのが午後六時半。 宮司初め全員が自宅や下宿から通っていたが、禰宜と主典は五日に一度ずつ宿直があった。宿直は夜中に狐狸の横行する境内の巡視を命ぜられていた。 王仁三郎は主典になったが、要するに神社では下っ端の新米である。一般にはそれが大変な出世に思えるらしく、とたんに弟由松に狙われた。 由松は穴太での母との生活が気づまりでならず、妻子を置いたまま、油小路三条上ルの岡村醤油屋に奉公していた。博奕はする、酒は呑む、金があればあるだけ使う。金がたまるわけもない。そこへ悪友たちがけしかける。「お前みたいなよい兄さんがおったら、なんぼでも借りれるはずや。わしらの兄貴は甲斐性なしやさかいあかんけど、兄さんはきれいな服着て神さん拝んどったらなんぼでも賽銭が入るのやさかい、無心言うたりいな」 兄貴をほめられ、おだてられて、由松は得たりと金借りにくる。「貸してくれ」ではなく、「貸して……くれ」の方である。一度だって返した例がない。しかも穴太から綾部へゆすりに通った頃とは違って、同じ京都市内だから旅費はかからない。実に気楽に借りにくる。断わると、例の調子で、場所柄もわきまえず何やらかすか分からない。 あまりしげしげなので、一度嫌な顔をした。と、由松は賽銭箱をさして無茶を言う。「これは何やい。この中になんぼでも銭が入っとるやろ。さあ、あけてみい」 由松は、兄貴にたかるだけではなかった。弟幸吉にも、しばしば借金している。 幸吉は広島の人造精乳修生社広島支店にいたが、不景気で事業が思わしくなく、王仁三郎のすすめもあって見切りをつけた。その後、日露戦争で軍需景気に沸く呉の軍港にあこがれ、呉の海軍工廠の職工になった。夜番と昼番があって、合わせて三万人も勤めていた。故郷で鍜冶屋の手伝いをしていたのでその経験が役立った。 明治四十年代に由松が弟幸吉に出した一連の借金依頼状がふるっている。八方破れの由松の性格がよく出ていよう。弟にさえこの調子だから、兄王仁三郎には推して知るべしである。
(五月二日出) 拝啓、私こと無事に働きおり候えども、先日より足を怪我して、足が一本八、九分ほどちぎれて取れんばかり。すぐに山田先生に診察にあずかり治療なし下され候ところ、うずいてうずいてうずいてうずいて夜も昼も寝られず、四十日ばかり治らんあんばい、足はちょっとも立たず、穴太へ帰ることもできず困っておる故、君もたくわえはないかしらんけど、この葉書付き次第、金五、六円心配して貸してくれ、頼む。(五月十四日) 手紙をもって申し上げ候。先日は葉書にて御依頼申し上げ候えども、今になんの返事もござなく、小生ことは足を怪我して今におり泣き暮らし。足は立たず、大便小便は寝床より外へはうずいて出られません。お医者さまへ行くにも車賃がいるし、寝とっても家賃がいる。食わんならんし、金は一厘もないし、こんな困ったことはない。また来月にならんと小便もしに行くことはできん。右の次第にて困っておるから、この手紙付き次第、金を十円ばかり貸して下され。(五月二十三日) 穴太の母に「(足が)悪いのはほんまやろか」と言うてもらうのが残念。先日のお手紙では、本月の末でないと少しも金を送ることができないように拝見いたし、小生は待っております故に、末には間違いなくお送り下されたくお頼み申し上げ候。 さて、くわしく話をいたさんことには分かりませんけども、小生は本月二日午前九時頃に、二、三百匁もあらんと思う鉄に左の親指をはさまれて、骨も九分ほどちぎれ、下の方が一、二分ほどひっついたままぶらりと下がり、それと見るより、小生が、ぶら下がりた指を柄の如く勝手につなぎました。(著者注 五月二日付では足がちぎれそうに書いてある)けれども骨まで切れ物でずぼりと切れたのと違いまして、鉄と鉄とではそまれ(挟まれ)てちぎれちぎれに切れましたこと故、我がひっつけたのではあきません故に、さっそく大学病院の東、山田キンリン病院へ参り、その傷を見せてひっつけて縫うてもらいました。 その後が夜昼痛みづめ、ちょうど二十日間というもの実に苦しみ候えども、そのひっつけて縫うた足がつかなんだなり、痛むなり。いつ行ても、いつ行ても、おいおい痛むばかり。 しょがない故、ちょうど二十日目に山田病院へ行た時、小生は治るとも治らんとも、長らく二十日ばかりも車で通わして治すどころかよけ痛む故、今日よりは痛まんようにするかどうかのらんぱん(談判)をしてやろうという勢いにて山田院長に面会いたし、「由松でございます。さっそくながら院長さまに面会申したく候につき、お頼み申します」と言うて、ズーンと料理場(治療場?)へ参り候えば、院長すぐに参り、山田院長「これはこれは……少しよろしか」と申して参り候につき、小生「先生、申し上げます。私、今日でちょうど二十日になりますが、毎日々々、日ましに痛んでたまりませんが、どおど今日一日だけなりとも痛み、うずきのないように頼みます」と院長に立腹らしく申し上げたら、院長「たいていならつけてやりたいと思うてつけてやったけれども、つかなんだ故に、今日より痛みのないようにしてやろ」と言うて足の包帯をほどいて、つきどこのあてある所へ簪で継手をついて、また簪に布を巻いて、足の痛いことろ(所)を摺り鉢にて味噌をするが如くにいたし、小生は今日よりは楽になることと思うて気張っておりました。 して「先生、大変痛ございます。ちょっと待ち下され」と申したら、ちょっと待ってくれて、「もうこれでよろしいのか」と言うたら、「このつかなんだところを切る」と言う故に、小生「切ってどうする。縫うてひっつけると言うたじゃないか。切るならちょっと待って下され。さいぜんから痛うてつらかった故に、一息息をつかねば、続けには辛抱がでけん故に、ちょっと一息つくまで待ってくれ」と言うたら、「まだまだ切らへん」と言うて奥へ入ったと思たのに、来やがって足をしっかとつかまえて切ろうとする故、小生をだまして寝さしておいて騙し切りに切りやがると思て、にわかにとびおき、「こりゃ、医者、しばらく、しばらく、しばらく、しばらく待ってくれ」と言うて医者をしかと睨めたら、その勢いに医者、手を離してくれましたから、「私は前もって頼んでおります。ちょと一服してからと言うのに……」と言うたら、医者「まだ切りゃせん」と言うて奥へ入った。 小生「やれちょっとまあ、今のうちの息をついでおこ」と思うておるまもなしにまた来やがって、今度は足をしっかと押えて、木鋏にてギシリギシリギシリギシリギシリパチパチパチパチと氷屋か散髪屋のように長いことかかって、「痛い、待て待て」と言うのもかまわず切ってしもた。 その切った時の痛さと言うものは、実に火箸を焼いて骨の中へもみこむと言おうか、なんと言うかわからん痛さを気張らし、小生はあんまり気張ったので、かざら(体)中ずくたんぼ。それからと言うものは、今までの痛さとはまた違て、どないにしてもどないにしても、どうもこうも仕方なく、今日までというものは困難いたし候えども、おかげさまにて大痛みだけちょっと止まりました。まるでちょうど二十二日というものは、ひっつけたのがつかなんだために、いらん苦しみをいたしました。それがためにかざらが弱ってしょうがございません。 今日で二十二日になるのに大便も小便も寝床でたれ流し。一時も早く足が立つようになったらと神さまを一心に頼みおり候えども立つことができず、こんな困ったことないと日々くやんでおる。また金があれば心配もないけれども金はなし、米はなし、たきぎはなしで、毎日家内、親子三人が二合のほどの米では粥にもできず、煎じるようにして暮らしており候。 実に哀れと思うなら、本月の末には、間違いなく少々なりともお送り下されたく、くれぐれもお頼み申し上げ候。書きたいことは山々あれど、手紙の目方が重なる故にひかえておきます。五円だけでもよろしいさけに、貸して下され。(五月三十日) 拝啓のぶれば、金子三円お送り下され、お礼申し上げ候。小生も今に足が立てず、小便にも行けません。なにぶん傷と腫れとが治らんことには立てません。けれど、ま一月も休んだらいけるやろと思います。おかげさまで大いたみは休んでおりますけれども、小いたみ通しで困っております。
 こんな調子の手紙が、王仁三郎にもひんぴんと届く。由松の手紙にはまいりつつも、いつもらっても吹き出さずにはおられない。兄弟泣かせの困り者だが、王仁三郎にはやはり憎めぬ弟だった。
 この初夏、王仁三郎が無事に学校を卒業して神主になったという知らせが届いた。その日以来、澄は郵便屋の来るのを、恋人のように待ち焦がれた。夫からの約束の十円を運んでくれる人だから。 とうとうその日はやってきた。 澄は夫のなつかしい、やさしい筆になる手紙をふところに、はずんではずんで裏隣の田中の女房つね子のところまで持って行った。「うち、よう読まんさかい、すまんけどあんた、開けて読んでおくれい」 一人で開けるのは実にもったいなかった。夫の平仮名なら十分読めるはずだけれど、つい口走った。 十円もの大金が夫から着いた。夫がちゃんと神主に出世したのだ。つねはんがどんな顔して驚くやろ。 いったん封書を渡しておきながら、つね子のまだるっこしい手から引ったくっても先に読みたい衝動を澄はこらえる。「……ようやく俸給をもらいましたが、お雪が先月に手を患うて京都の病院に来ておるので、金がいると思い、金二十円也送ってやりました。それから由松が例のように無心にきたので、少しばかり小遣いをくれてやりました。おかげで私の手元は淋しいものです。今月の約束の十円はそんなわけで駄目になりました。それでも綾部の方は結構にやっているそうで、神さまとお澄のおかげと何より安心しています……」 澄はだまって手紙を受け取った。足は雲の上を踏むように頼りなかった。それでもどうにか帰ってくると、押入れから蒲団を引き出してもぐり込んだ。世の中のすべてが澄の前に崩れていくようだった。『けっこうや、けっこうや』と書いてやったのが仇になるとは……。女房の気持ちが分からんというても、あんまりやないか。男というものは、ひどいもんや。ひどいもんや……。
 冬の日――寂かな夕やみが雪庭に漲る。 まっ白い雪の面にさしそう暮れどきの陰影の美しさに幼い心を奪われて、直日は縁にかがんでいた。と、にこにこと笑いつつ父が現われるや、突然、耳元でヒューと空気を引き裂く音がする。すみれ色の空から、はたはたと何かが落ちてくる気配……。 それからどのくらいの時間があったのだろう。次に父に頬張らされたもののあまりのおいしさ、香ばしさ、生まれて初めて味わったその味覚は、冷たい暮れ方の雪庭に見た匂うばかりの色彩の美と溶けあって、直日の魂深く忘れられぬ灯をともした。「あれは何やったん」 いつか直日は母澄に訊いた。「それはお前、寒雀の焼鳥やな。お父さんはお前がどんなに可愛いのやろ、よう飛礫を投げて寒雀を落としては、お前に食べさしとっちゃったでなあ……」 夏の日――直日は父に手を引かれて、和知川の川土手を下りた。村の子供らの群れ遊ぶ中に入り、父は川原の石を起こして沢蟹をとってくれた。はさみを振り上げてもがく蟹を、むっつり眺めている直日。と、父は沢蟹をつまんでひらひらさせ、「これを見い」と言うなり、大口あけて生きた蟹を食べはじめた。カリカリ、カリカリ……。 子供らが父をとり巻き、眼をみはる。丸ごと食べ終わって「ほら、もうない」というように、父はおどけて喉の奥まで見せる。 わっと子供らが囃し立て、笑い合った。けれど直日は笑わない。その情景を、恐いとも異様とも何ともいえぬ気持ちでみつめつつ、いっそう黙りこくる直日だった。 同じ夏の日、父はまた直日を連れ出す。潅水用の溝川にかかる土橋の上に足を投げ出し、直日は父のしぐさをじっと眺めていた。 藍色の流れが、きらきらと陽に波うって父の胸まで浸していた。父は直日に向かって両手を高くさし上げ、カラカラと笑う。その掌の中で、捕えられた魚の尾がはねる。 父につきそってビクを持つ子供らが手を叩く。うつむいては魚をつかみ、さし上げ、父が笑うたび、幾度となく、手づかみの魚が、はね躍った。 ――一つ、一つ、大切に記憶の底からとり出しながら、直日は童話の絵本をめくるように父をしのぶ。質山峠の茶店で、アメ玉を買うて直日に握らせたまま、お日さまの出る方へ向かって去っていった父。それからもう半年余りが過ぎた。「うち、来年は一年生になるんやで」 同い年のアイちゃんが得意げに言った。「うちら、二年生になるんや」 とっさに直日が応じた。一年をとばして二年になれるわけはなし、その区別もわきまえぬのに、二年生という、何か尻上がりの語調の華やかな感じが気に入っていた。 とにかく、もう一つお正月を迎えれば、家の傍道を通る学童たちのように、自分も小学校に入る。 ――でも、父さんは帰ってきてやろか。 父のいない家を出て、一人で小学校へ行くことを思えば、心細く淋しかった。「お勉強たんとして、えらい人になって、いっぱいお土産もって、いまに父さん、帰って来てやでよ」と母は、くり返し言い聞かせている。 今日も直日は、記憶の小箱の中から父をとり出しつつ質山峠の彼方の空を見る。
 明治四十年七月一日午前九時三十分、緑濃い船岡山の山裾、打ち水も清々しい参道を、今しも二台の幌馬車がやってくる。等間隔にひらいた三人の護衛官が直立不動の姿勢をとった。白衣に青袴、白紙を藁草履の鼻緒に巻きつけた建勲神社禰宜、主典らの面にも、さっと緊張感がみなぎる。 馬車は轍をきしませて、大鳥居の下、出迎えの神職の並び立つ前に正確に停止する。曇天、雲は南に動いていた。汗ばんだ馬のなまぬるい鼻息が、荒々しく主典の一人・上田王仁三郎の顔面を吹き過ぎる。 シルクハットをかぶった馭者が軽やかにとび下り、うやうやしく幌をあけた。いっせいに頭を下げる神職たち。いや、中に一人、白衣の袖でものぐさそうに頭を拭いている奴がある。幌から下りかけた随員の眼が怒った。 府庁役員数人、青色の衣冠姿の随員二人、最後に鮮やかな赤色の衣冠をつけた幣帛供進使、時の京都府知事大森鐘一が下り立つ。ようやく顔を撫で終わった王仁三郎と、かちりと眼を交わした。「馬車乗り入れ禁ず」の大鳥居をくぐって、先輩の主典が先導、幣帛供進使一行、それに従う神職たちは、ゆるい勾配の岡を登る。一行は中腹の貴賓室に小憩、茶菓を饗応される。 王仁三郎は本殿に向かって歩きながらつぶやく。 ――何かが間違うとる。このままでいったらどうなるか。 明日の、その先を感知するように王仁三郎の触覚はその何かを探りあてていた。 幣帛供進使は、神社の官祭に幣帛を供進する使者のことで、明治八年の神社祭式により官幣社の例祭には、地方長官またはその代理が参向することと決められている。 幣帛は昔は白絹赤絹一疋であったが、この頃は、のし紙に包んだ定額の神饌幣帛料であったろう。 別格官幣社建勲神社の官祭は、二月十七日の新年祭、七月一日の例祭、十一月二十三日の新甞祭で、船岡大祭と呼ばれる春秋の大祭は一般参詣者で賑うが、官祭でないから供進使は来ない。 内務省神社局とつながるので、供進使は神社関係者にとっては絶対の権力があった。府知事じきじきのお出ましの今日、神職たちが極度に緊張するのも仕方ない。宮司以下全員、前日から神社に泊り込み、神社で煮たきした物だけを食して斎戒につとめていた。 時刻至って、供進使一行は貴賓室から祭場へと参進、石段下で手水の儀を行なう。主典は杓をさし出し、手・口・手の順で清め終わると拭紙をすすめる。 この日のために、三方に幕を張って作られた幄舎の右側に供進使一行、左側に神職一同が相引に腰掛けて居並ぶ。庭には代表として選ばれた三、四十名の崇敬者が紋付き羽織袴、中にはモーニング姿で参列する者もあった。 午前十時、祭典は修祓をもって始まった。禰宜の祓いの祝詞の後、主典の一人が左右左と大麻を振って祓い清める。 宮司がしずしずと昇殿、禰宜の警蹕の声につれて本殿の扉を開く。 王仁三郎は吹き出しそうになって、あわてて頭を下げた。その背が笑いをこらえるために激しく波立っている。警蹕のオーの声がいかにも上図っていたのだ。いつもとは違う。こちこちに上がっている先輩たちがおかしさを越して腹立たしい。 次の献饌には王仁三郎も加わった。腹立たしさが、いたずらの虫となってむずむず動く。 最古参の岩松主典が膳部をつとめ、形を整えた神饌物を手長に渡す。 手長とは、神饌物を神前の案上(机)まで運ぶ中継役で、古い者ほど本殿の近くに立つ。祭式の規模によって数は一定しないが、この時の手長は主典三人であった。 新米の王仁三郎は、膳部の岩松主典から受けた神饌物を次の白井主典に渡す役目だ。禰宜は陪膳となり、手長によって次々三方に盛られて運ばれてくる海河山野の神饌物を型通りに案上に配していく。 見事な活鯉が濡れた白紙で眼をおおわれ、麻紐で尾から歯、背びれへと弓なりにくくられ、形よく三方に載せられている。目通りに捧げると、鯉の口があえぎ、三方を通して痙攣が手に伝わってくる。贄となる覚悟か、はねもせずに――。 一歩、二歩、鯉を捧げ持つ王仁三郎の白足袋が進み、はたと止まった。三方は胸の辺まで下がり、ゆっくりと空を見上げる。 異変を感じて、参列者一同の眼が王仁三郎にそそがれた。鼻孔が広がり、ぴくついて、思いきり大きくはくしょん、しぶきを浴びた鯉が、はずみで躍った。 王仁三郎は指で鯉の位置を無造作に直し、何事もなかったように目の高さに捧げ、しずしず進み寄った。受け取る白井主典の手が震えている。 本来なら汚れた神饌物はすぐさま下げ、失態を犯した手長も恐懼して引き下がるべきである。が、祭典の支障を恐れてか、誰一人咎めなかった。見て見ぬふりのまま、献饌は続く。 大きな西瓜を載せた三方を重たげに捧げて、王仁三郎の足がぐっと止まる。 またくしゃみか、西瓜はどうなる。 手打ち寸前のように、ひやっと神職たちは首をすくめた。 と、今度はふぁー。思うさま阿呆口開けてゆったりと大あくび。ころげそうになった西瓜をかかえ上げて、のどかに歩を進める。 参列者は動揺し、神職は狼狽した。くしゃみなら、新米主典の緊張感のあまりの出物腫物として、まだしも容赦できよう。しかし……しかしあの大あくびは。供進使参向の厳粛きわまる官祭に、前代未聞の不祥事である。 失神せんばかり棒立ちとなった白井主典が気の毒、小心でごく善良な友なのだ。勇気づけるように、王仁三郎は片目で笑った。 やがて菅宮司の祝詞、続いて供進使が一同平伏する中を宮司の上座に坐る。随員が大奉書紙で上包みし紅白の水引をかけた御幣物を唐櫃から出し、雲脚台のまま仮案上に置く。宮司がそれを奉持して神前に供え、再拝拍手。献饌の珍事がこびりついて祭場の雰囲気は上ずり、神職ばかりか、続く供進使の祝詞奏上までぎこちない。 玉串奉奠が始まって、供進使・随員・宮司・禰宜・主典・崇敬者代表と順に神前に進み拝礼、撤饌、閉扉。 祭典はどうにか終わって、不機嫌をかくさぬ供進使一行は足音も荒く貴賓室へ退出する。宮司、禰宜らの懸命の接待で、海幸山幸の直会となっても、胸がつかえたように座ははずまなかった。 一行は衣冠のまま府庁へ帰着せねばならないので、十分酒を楽しむゆとりはない。その分のうめあわせに、豪華な折詰や酒は馬車の中にそっと運びこんでおく。馭者や護衛警官にも洩れなく行き届いていた。 いつもより早々に切り上げる二台の幌馬車を見送るや、菅宮司は長身痩躯を疲労にうちのめされたふうに運んで、言葉もなく社務所へ入る。 境内の幄舎をとり片付けている王仁三郎のところへ岩松四郎主典(五十四歳)が上がってきて、ものものしく告げた。「宮司さんが呼んどられる。上田君、自業自得や、覚悟しとけよ」「心配せんでもよいわい」 気軽く岩松の肩を叩いて、王仁三郎は石段を下りていった。 締め切ったせまい社務所は、日中の暑さにむれていた。王仁三郎は宮司と対座する。 宮司菅貞男は三十四歳、王仁三郎より三つも若い。しかし伊勢の神宮皇学館卒ということは、学閥に左右される神職の世界にあって、いわばエリートコースであった。郷里愛媛県の国幣大社大山祇神社の主典を二年余でやめて後、愛媛県今治高等女学校助教諭をつとめた。建勲神社宮司に任官したのは明治三十九年暮れ。 無口で温厚な彼が声を荒げて怒るのは、よほどのことであろう。それでも菅宮司は蒼白な面を引きしめ、感情を和らげようと努めていた。「上田、今日の、あの態度は……単に偶然とは思われん。なにか、わ、わけがあったら聞かせてくれ……」 王仁三郎は言った。「野育ちですさけのう、おかしなったらふき出しもします。阿呆らし時はくしゃみも出るし、退屈な時はあくびをよう押えまへんわ。別に魂胆があったわけやない」「お前は……お前は今日の祭典を阿呆らして、退屈やと……そ、それでも神職か」 さすが丈夫な勘忍袋もこれまでである。新米主典の一人になめられて、幣帛供進使、言うなら陛下のお膝元から送られた御使いを前に大赤恥をかかされ、神聖なるべき大祭をふみつけにされ、ぶちこわされ……その言い訳が退屈――。 別格官幣社宮司ともあろうものが、絶対服従を旨とすべき主典の教育一つできぬとあっては、今後どの面下げて府庁に出入りできよう。馬鹿にするにもほどがある。 が、思うさま罵声を張り上げることに、菅宮司は慣れていなかった。激怒にうち震える菅宮司に、昂然と王仁三郎は反駁した。「そやけど、いくら野育ち無礼者のわしかて、神に対するうぶうぶしい心、敬虔さは誰にも負けずに持っとりますで。だから神職にもなり、祭式の法も学びました。けど、今日のあれは、誰に対する祭でっしゃろ。幾日も前の準備の段階から、あなた方の心は神を忘れて、供進使一点に向いた。宮司以下神職が心を奪われて、形ばかり尊厳ぶって何になります。無礼というならこれ以上の神に対する非礼はありまへんやろ。御神殿は空や。あの祝詞で、あの警蹕で降りられる安っぽい神さんなどおられますかい。それがおかして、退屈で思わず大あくびが出たのが無理でっしゃろか」「……」「神社法令は神職をがんじがらめに縛ってしもうた。法令をかさに神社を支配し、変質させようとする圧力に、宮司さんかて内心強い反発を感じとるはずでっしゃろ。それやのに、いざとなったらあのざまや。僧侶が仏を忘れる。神職が神を忘れて幣帛を拝む。日本の宗教界には神も仏もありまへんのか。おるのは飼い慣らされた月給泥棒に過ぎまへんのか……」 動かぬ宮司を置いて、王仁三郎は外へ出た。悲憤にまかせて、口が過ぎたことを省みていた。 胸を焼くこの怒りは、決して菅宮司以下同僚たちへ向けられたものではない。神職一般、否、神職を歪めさせずにはおかぬ底深い時の流れ――神道を神霊から切り離し、国家権力の支配下に組み入れて扶持を与える。その企図するところそのものへ叩きつけるべきなのだ。 明治四(一八七一)年、政府は社格を定め、官、国幣社などをつくったが、翌年になって新たに別格官幣社を設けた。国家に特別顕著なる功労のあった人臣を祭神としてである。楠木正成を祀る湊川神社はじめ名和長年の名和神社、徳川家康の東照宮、ここ織田信長の建勲神社等々二十数社。 忠臣、愛国の士を拝ませて国家への忠誠心を強いる。その道具に過ぎぬ人社に何でまことの信仰などあるものか。 ――この世へ出て、この世を守護しておれる神には、ちっとも神力ということがなくなりて……。 筆先の警句が恐ろしい実感となって王仁三郎にせまってくる。 松と夏草のしげみをわけて、暮れなずむ船岡山へのぼった。残照に尾根を染めた比叡山、大文字、続く東山連峰がゆるやかに千年の古都を抱いている。烏丸今出川まで電車はきていたが、町並みもそこまでであった。 王仁三郎の目は坦々たる田野を越えて、その先、暗紫色にひろがる深い御所の森の一角に注がれて動かない。京の中心であり、日本の源泉でもあった一天万乗の君のおわせしところ。けれど王仁三郎にとって、御所はただそれだけでしかなかったろうか。禁裏の内側にあるという猿ヶ辻の黒御門……そこは、かつての有栖川宮本邸なのだ。 御所の西側に接する烏丸一条通りの皇典講究所学生時代、王仁三郎は有栖川宮家について、それとなく知識を求めていた。 有栖川宮は、寛永二(一六二五)年、後陽成天皇の皇子好仁親王が一家を立て、高松宮と称したのが始祖である。後水尾天皇の皇子良仁親王(後の後西天皇)が継いだが、皇位に即いたため、以来、十四年の空白ののち第二皇子幸仁親王が三代を継承、有栖川宮と改称する。 のち、正仁、職仁、織仁、韶仁、幟仁各親王を立て、九代熾仁親王となる。貞子妃(徳川斉昭第十一女)、菫子妃にも実の御子なく、明治二十八(一八九五)年薨去され、今十代を異母弟威仁親王が継承されている。 徳川末期は天皇家の貧しさ同様、有栖川宮も宮家とは名ばかりの所領わずか一千石、葛野郡太秦村の狭い土地であった。 天保六(一八三五)年二月十九日、熾仁親王は幟仁親王の第一皇子として御所に生まれた。生母は家女房佐伯祐子、京都若宮八幡宮神主佐伯丹波守祐条の第一女である。通称可那、のち局名を亀岡と賜った。 天保十二(一八四一)年、七歳の秋、熾仁親王はやさしい生母(二十九歳)と死別、九歳の夏、たて続けに三人の弟妹を失った。 天皇家にしても十五人もの御子のうち次々と夭折して、残ったのは御病弱な敏宮(淑子内親王)と孝明天皇、そして幼い和宮のお三人にすぎない。 熾仁親王十四歳、鉄漿始の儀、十五歳で元服し、大宰帥、三品を宣下される。十七歳の時、孝明天皇の内旨によって和宮と婚約、和宮はこの時六歳、仁孝天皇崩御ののち四ヶ月めに生まれた父を知らぬ皇女であった。 熾仁親王は少年期から防州徳山藩士飯田忠彦(『野史』二百九十一巻などの著者)を侍臣として深い薫陶を受け、尊皇攘夷の志に若い夢をかけていた。 安政四(一八五七)年、ハリスは江戸に入って日米通商条約締結をせまり、幕府をゆさぶった。血気盛んな二十三歳の熾仁親王は飯田らと謀り、自ら一通の建白書を認めて、激しく幕府を攻撃した。 安政五(一八五八)年、勅許を待たずに条約を結んだ井伊大老は、更に将軍継嗣をめぐって、候補の一橋慶喜を押し切り、十三歳の徳川家茂を立てる。 慶喜は前水戸藩主徳川斉昭の第七子、母は熾仁親王の大叔母にあたる有栖川登美宮吉子女王である。しかも現水戸藩主徳川慶篤の室は、熾仁親王の妹有栖川線宮幟子女王であった。井伊大老に抗して慶喜を立てた徳川斉昭は慶篤と共に処罰され、条約調印と相まって孝明天皇の激怒をかった。 勅諚は直接水戸藩に下って、大老を怒らせた。井伊大老は京都における反幕勢力の一掃を決して、天皇のお膝元の公卿たち、関係諸大名、尊皇攘夷派の志士約二百人を検挙、かつてない悲惨な安政の大獄へと発展していく。 水戸家とは深い親戚関係をもつ熾仁親王が、幕府方に睨まれぬはずはなかった。しかも例の激越な調子で幕府をせめた建白書である。けれど幕府も、天皇にとっては一番近い皇族であり、皇妹和宮の婚約者である熾仁親王の身には、手を下せなかった。その代わりに、建白書加筆の罪で家臣飯田忠彦、豊島泰盛を召喚、忠彦は百日の謹慎ですんだが、吉田松陰、頼三樹三郎らは死罪となり、小塚原に若い命を散らした。 万延元(一八六〇)年三月、水戸を脱藩した浪士たちは、主君の仇、死んだ同志の恨みをはらし幕府の変革を願って井伊大老を襲い、首をあげた。この桜田門外の変に嫌疑を受け、有栖川宮家から再び飯田忠彦が捕えられる。水戸家とのつながりのために、浪士の背後とでも見られたのか。伏見奉行所に於ける苛烈な取調に憤り、忠彦は自ら六十三歳の命を断った。 幕府は熾仁親王から精神的支柱ともいうべき飯田忠彦を奪い、翌年、最愛の人和宮を奪った。安政の大獄の大弾圧を行なう頃から井伊大老の胸にあったのは、公武合体工作である。将軍家茂の正室に皇女を迎えて天皇家の権威を利用し、崩れかかる幕政の威信をつくろおうとしたのだ。 初め天皇は、熾仁親王という婚約者のある妹和宮の身をいたわって、幕府の申し出をはねつけた。しかし、侍従岩倉具視ら朝臣の中にも和宮降嫁に賛同する者がいた。岩倉は、妹の右衛門典侍(堀河紀子)や千種有文の妹右衛門少将(今城重子)が天皇の寵妃であることをよいことに、叡慮を傾けさせようと策をこうじる。公武合体派運動は強引にねばった。 建春門前の橋本家で育った和宮は、同じ御所のうちの猿ヶ辻の有栖川宮家へ熾仁親王の父幟仁親王の書道教授を受けに通っていた。六歳の時からの十年間、熾仁親王への愛を育ててきた和宮だった。この秋結婚するための準備すら整えていた。和宮はもとより降嫁を固辞したが、幕府の圧力は生家橋本家へものびて天下のためにと承諾を強いる。 有栖川宮家へは九条関白が来て父宮を説得、表面上は熾仁親王から婚約辞退を奏請させようとした。熱涙をのんで有栖川宮家は、御新殿増築不可能を理由に結婚延引を願い出たのだ。 孝明天皇は念願の攘夷決行を幕府に誓約させるため、引きかえに和宮降嫁を勅許した。文久元年十月二十日、和宮の行列は京を発った。
   惜しまじな君と民とのためならば       身は武蔵野の露と消ゆとも   落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の       人なつかしくこがれこそすれ 十六歳の和宮が遠い関東への道中に詠んだのであろう。京の人々の同情は和宮に集まった。皇妹を人質にする気かと憤激した志士たちは、和宮奪回を策したが果たさず、やがて急進論者は幕府打倒の方向に移っていった。 寺田屋事件の血の弾圧が、逆に尊皇攘夷派の猛烈な「天誅」となってはねかえった。安政の大獄で幕府の手先になったものや和宮降嫁にかかわった公卿関係者らが血祭りにされ、人目にさらされた数々の事件は、王仁三郎もかつて、恋人弁の父、八木清之助の筆になる『京都天誅録』で見せられている。 和宮との悲恋に耐えて、熾仁親王は維新前夜の嵐の渦中に身を投じていく。 慶応三(一八六七)年十二月、王政復古の大詔渙発と共に、「万機ヲ総ベ一切ノ事務ヲ裁決」すべき総裁に任じられた熾仁親王は、十七歳の明治天皇をたすけて日本の立直しの最初の方向を決し得べき地歩に立った。 更に明治元(一八六八)年二月、東征大総督として官軍を率い、江戸に進撃。 思えば禁門の変に連座して勅勘をこうむり、父幟仁と共に邸に幽閉された苦悩の二年半――。   望月の夜も曇れこの頃は       よし眺めむもこころ晴れねばと詠じた熾仁親王であった。 討つべき賊は、激しい動乱の中ですでに形を変えていた。前将軍家茂未亡人静寛院宮となった和宮は、侍女を遣わして婚家徳川氏と江戸市民のために救済を乞い、江戸進撃中止をくりかえし嘆願。慶喜助命を訴える者ひきもきらない。熾仁親王の心境は複雑だったに違いない。 熾仁親王が無血のうちに江戸城明渡しの大任を果たし東征の長旅から凱旋した時、天皇の下には輔相岩倉具視、三条実美を頂点とする太政官の官僚独裁体制が全ての実権を握っていた。江戸は東京となり、天皇に先立って太政官が移っていく。 東京遷都の美々しい鳳輦が京を発つ日、東下の御沙汰を辞して、熾仁親王はひっそりと残った。七月には官職返上を奏請、ひたすら学問の世界に戻ろうとしている。何故に――。 勅命に抗しきれず、ついに東京移住を決するまでのこの京での最後の一年間、親王の心の底に渦まいていたものは何か。三百年の徳川政権を打ち倒す象徴となった錦旗のように、「宮さん、宮さん」と歌い囃し民心を引き付けたあの歌のように、皇族としての熾仁親王も、官軍のかついだ飾りものに過ぎなかったのではないか。 いったん天下を握れば、維新の土台となって命を捧げた草莽や下級武士、下々の民の世直しの期待を非情に振り捨てていったあのやり方で、飾りものはもはや不要なのだ。いや、自由にならぬ飾りものなら、むしろ切り捨てたい存在ではなかったか。 新政府のあり方への激しい不満と抵抗を、王仁三郎はこの時期の親王の中に見出そうとしていた。華々しい歴史の表より、日影にかくされた真実の心を、苦悶を、王仁三郎は知りたい。なぜなら、母世祢を信じるならば、この年の暮れ、母は、かりそめの愛に抱かれて生命を宿した。思えば今、王仁三郎は、自分を生んだ時の父熾仁親王の年輪に達したのだ。 こみ上げる感傷を払いのけて、王仁三郎は闇にとけ入る御所のあたりを見た。 権勢を示す飾りものは、天皇・皇族ばかりか、やがて神に向かった。「神祇ヲ尊ビ祭祀ヲ重ンズルハ皇国ノ大典、政教ノ基本ナリ……」 祭政一致・神道国教化の線が高く打ち出されて、神社の格付けが始まった。官・国幣社は現人神たる天皇の神的権威を誇示する機関と化していく。 神職というのは、天下の大事に我関せず、ただただ社前に慎み畏み、朝に日供を献撤し、夕に賽銭を数えて一定の俸給にありつき、能事終われりとする。形さえ整えば、信仰心の有無など問題ではないのだ。 明治の御一新で、形だけは確かに変わった。が、その変化は本質的には前と変わらぬ絶対支配の下に人民を組み敷くためであった。下々は昔のまま、働いても働いてもなお貧しい。 ――学と金さえありたら上にあがりて栄耀のしほうだい、身なりは絹布で飾りたてて、われさえよけら他の事ならなんともない、今日食べることがでけんような人民が多数ありても、下に落ちておる人民には何も言わせん、強いもののはばる世であるから見ておざれよ、この世には運否のなきことにいたすぞよ。上も下も花咲かねば、この世は治まらんぞよ。 十年にわたって楯ついた筆先が、今は王仁三郎の心に深く滲み入っていた。艮の金神の側に立ってみれば、まさに父は、この世を持ち、ここまで乱らかした神々の側であろう。たとえわずかの間にもせよ、日本の立直しの最初の総裁は父であり、晩年、伊勢神宮の神官斎主をもつとめていた。最初の神祇教導職総裁として神道普及の先鋒を切ったのは、王仁三郎の祖父有栖川中務卿・幟仁親王であった。 今日、王仁三郎が幣帛供進使を前にして放った悪たれは、とりも直さず天のわが祖父や父に向かって放つ唾なのだ。 面上にはね帰る飛沫を感じながら、はっきりと王仁三郎は己れの変化を知った。十年の修行の行きつくところを見た、と思った。 四、五日たって、王仁三郎は下御霊神社の宮司出雲路敬通を訪れた。待ち受けていたように、敬通・興通父子は王仁三郎をはさんで声をひそめた。「建勲神社の新米神主に凄い奴がおるいう噂が広がっとる……上田はん、どうなってるんです」「へえ、どう凄いんです」「とにかく府庁の神社局あたりではかんかんに怒っとった。『献饌中、幣帛供進使の目前で大あくびなどしようと思っても出来るもんやない。明らかに不敬不逞の意図あって、わざとしてみせたんや。上田を即刻辞めさせい』と強硬に言い張る者もいるそうやが……」「わしはただ、飯の種に神職しとるのにあきあきしただけですわ。社前に候う狛犬の真似などようせんさけ、こっちから願うて辞めるつもりです」 王仁三郎のおだやかな笑顔に、興通は嘆息した。「王仁さんの気持ちは、同じ神職のわしにはよう分かります。神職には自由がない。法令は王仁さんのように神霊の実在を信じ、一つの道を布教しようと思うものの手足を縛るだけです。熱情ある者にはつとまりません……」 自嘲をこめて、敬通が言った。さらに、「しかし、事実が公になれば、困るのは献饌の不祥事を見逃した神社側であり、黙視した供進使の落度にもはね返る。心を痛めるのは菅宮司さんでしょう。とんでもない主典をかかえこんじまったもんだと。まあ急がず成り行きをみていなされ」
 宇津の小西松元から建勲神社の王仁三郎のもとへ手紙が来た。「北桑田郡の周山村矢代にひどい悪霊がおって、自分の手に合わんから助太刀に来て下され」 詳しく書かれていないのが、かえって意味ありげである。 ――傲岸な小西めが音を上げてくるとは……。 王仁三郎は、久しく訪ねていない北桑田宣教の根城宇津に思いをめぐらす。 明治三十九(一九〇六)年二月四日、小西松元の一人息子増吉は、福知山屯営から帰郷旅費一円七十八銭をもらって意気揚々帰還してきた。戦死は誤報だったのだ。 明治三十七(一九〇四)年五月十日、独立第十師団の指揮下に入った増吉は、神戸港を出帆、十九日、清国盛京省南光上陸、軍旗護衛兵として分水嶺・盤嶺通路付近から折木城東南方高地、遼陽付近、沙河付近、奉天付近、陽木林子付近と血みどろの激戦地を戦い抜いてきた。 しかも、西田の予言は的中した。凱旋後の四月一日、三十七、八年戦役の功により、小西増吉は勲八等功七級に叙せられ、白色桐葉章及び金鵄勲章をもらった。宇津村で金鵄勲章受章者が出るのは初めてのこと、小西家は目のくらむような喜びに有頂天となった。 増吉は信者とはいえなかったが、父の松元を通して大本教祖出口直のお肌守りをもらい、戦闘中つねに肌身からはなさなかった。宇津とは山一つ向こうだが、同じ二十連隊にいて肌守りをつけていた大本信者の子、世木村字天若の小畑貞吉も右足に負傷こそしたが、奉天の激戦地を奇跡的に生きのびて凱旋した。 評判が高まって、村での小西家の株はぐんと上がる。 さすがにこのままでは寝ざめが悪かったか、小西松元は二度も追い出した西田元教に葉書を出して増吉凱旋の事情を告げ、己れの非をわびて、もう一度一緒に道をひらきたいと申し入れてきた。 元教は再び八幡宮の社務所に現われたが、その協力体制も長くは続かなかった。息子のおかげで小西家は誉れの家になる。西田元教、小西松元の病気治しの霊験もあらたかで、祈祷料はたんまり入る。松元はすっかり慢心し、地金を現わして朝から酒をのんだくれ、信者の女性にも手を出す始末で、元教の忠告などに耳も貸さない。直情径行な元教は松元と喧嘩し、三度、飛び出してしまった。「もう二度と宇津へはいかん」と元教は、重ねて王仁三郎に告げた。それ以来、宇津の噂は聞かない。 気になっていたところへ今度の手紙である。神職は神社に奉仕する以外の活動を禁じられている。説教、病気治しなどの違反をおかして、前に宮司や禰宜から叱責されたことがあった。にらまれついでに、王仁三郎は公務をくり合わして出掛けることにした。 明け方立って、幾峠を越え、昼間に宇津へ入る。汗と埃にまみれてやっと小西松元の家にたどりつくと、女房のすえが暗い台所から顔を出した。 すえは無愛想に言った。「会長はん、来なはったんですかいな。いま先生は八幡さまでご祈祷中どすえ」「先生とは小西はんのことか、ほんならそっちへ回ってみるわ」「行っても忙して会えしまへん。もうじき昼御飯に帰って来まっしゃろ。縁にでも寝そべって待ちなはれ」 小西松元が先生――若いころから大酒のみの女道楽の怠け者、得手の魚取りぐらいでは四人の子供を養いかねて、村から八幡宮社の宮守りの仕事を与えられ、補助を受けて暮らしていた。だから女房にも頭が上がらないでいた男が、大病を患って治されたあげく一夜にして霊力を得、以来、その祈祷料の効果であるにせよ、女房までが先生とたてまつる。 それにしては、その大病を治し霊力を授けた小西の師である王仁三郎に対して、いけぞんざいなすえのあしらいである。 王仁三郎は、台所の水がめから山水を杓ですくって飲んだ。しびれるばかり冷たくてうまい。 宇津の家々は豊かな水に恵まれている。各戸に井戸を掘っているほか、竹の樋が山から台所を通って小川にまで続いているから、家の中を常に清冽な山水が走り抜けることになる。 二間しかない奥の六畳の縁先に言われた通りごろ寝しながら、王仁三郎は、台所を走るせせらぎの音に聞き入った。 大本の教えを宣布する人材がほしい、手足がほしい、切実に王仁三郎は神に願った。どれほど道を説き、弟子を作っても、真の力になってくれる人物はいまだにできぬ。 義弟の西田元教は我欲のない誠実で生一本な男だが、ひら仮名をようやく読める程度の自称無学博士だ。学のない悲しさで、何といっても視野がせまい。無類の頑固者で喧嘩っ早いのも困る。霊的素質は確かに優れている小西松元にしても、人間的な欠陥があまりにも多すぎる。 大望を抱きながら、三十七歳にしてこれはと思う弟子ひとり持てぬ己れを、淋しく省みた。「やあ、会長はん……」 庭先から若い声がかかる。松元の息子増吉が魚篭を下げて立っていた。父親ゆずりか、増吉も魚取りの名人という評判で、その五体には五年の軍隊生活と実戦で鍛えられた精悍さが自信となって滲み出ている。「どうや、とれたか、見せてみい」 増吉がさし出す魚篭の中には、あぶらののり切った鮎が銀鱗を踊らせて重なり合っている。「ようけとったのう、これでなんぼで売れるのや」「たいしたことないが……」 増吉は、黒革の軍隊手帳を開いて太い指でさし示した。余白の頁に鉛筆で書き付けてある。 七月十日大鮎七十七匹・小鮎九匹、十四円八十三銭 七月十一日大鮎六十四匹・小鮎十八匹、十二円六銭 七月十二日大鮎二十二匹・小鮎二十二匹、四円二銭……「たいへんな日収やのう。二、三日でわしの月給分稼ぎよるわい」「鮎は季節もんやさかい、稼げる日は短いでなあ」 言いつつ、増吉の日に焼けた頬にまんざらでもない笑みがこぼれる。 王仁三郎も漁にかけては増吉にひけをとらぬ自負がある。人類救済などという大それた夢を追わず、田舎へ引き込んで魚取りや百姓で家族を養えたら、どんなに気楽で幸福だろう。 人類救済という願望の重みに打ちひしがれそうになり、ふと増吉を羨んでいた。「お、いらっしゃい」 でっぷりした体を運んで社務所から帰った白衣の小西は、王仁三郎の前にあぐらをかいた。「忙しさかいどうやろと思たんですが、すぐとんで来てくれはったんやな、結構、結構……実は来てもろたんはほかでもない、ここから二里ほど東の周山村矢代に、吉田龍治郎ちゅう大金持ちがおるんですわ。その嫁はんが二度ほど来て頼みよる。『主人がどうしても博奕やめんさかい、祈祷で博奕嫌いにしてくれ』ちゅうわけや。ほいで神さんに伺うてみたら『どえらい曲津が巣食うとるさかい、お前ではちょっと無理や。会長はんにお願いせい』とこうですねん。増吉に案内させますさけ、ご面倒でも行ってやっとくれやす」 言葉は一応丁寧だが、態度にはどことなし若造を使うてやる風な横柄さがある。足腰を立たしてもらって驚喜し、王仁三郎を神のようにあがめた小西庄太郎はそこにはない。 茶漬けをよばれて、休む間もなく宇津村を立つ。道々、増吉は吉田家についてのあれこれをぽつんぽつんと語った。 吉田家は「吉田の殿さま」と村人に呼ばれる古い由緒ある家柄で、何十町歩かの山林と五町歩の田畑を所有している。西南戦争の頃、先代の兵助が博奕で負け続けて高利貸から莫大な金を借りた。米の収入だけでは返済しきれず親戚の井尻酒店から借金、さしもの家運も衰えかけていた。息子の龍治郎が十五歳で家を継いでみごとに家運を盛り返した。村の手まり唄にも「息子一番龍さんで、二朱や三朱の千両箱」とうたわれている。しかし一方、思案が長く、話下手で、口やかましくぶつぶついうため、「ぶとくりの龍さん」というかんばしからぬ綽名も献上されている。 龍治郎は、明治三十年頃に早くも自転車を乗り回して評判になった。助役・村長を歴任、教育関係にも力を入れ、学校敷地、お宮関係など寄付も多い。ただし縁起かつぎで、方位にこったりする弱点もある。現在四十歳、二男二女があり、男衆三人、女衆二人を使っている。 ところが龍治郎は最近急に博奕にこり出した。山が深いから他に楽しみもない村人たちは、雨や雪をよいことに集まって手なぐさみを始めるのだ。龍治郎は深入りして、胴元までつとめるようになっていた。先代の例もあるので、それが家族の頭痛の種という。 まだ日が高いうちに、狭い山あいの周山村(現北桑田郡京北町周山)に着いた。細谷川に沿って貧しげな家の並ぶ細い道をしばらく行くと、小山を背にして高い石垣の上に築地をめぐらした宏壮な屋敷にぶつかる。目的の吉田家だ。 大きな門を入ると正面に松の大木、根元に苔むした石灯篭、潅木の植込みをぬって大小の石が起伏している。右手は露地門にさえぎられている。 二間間口の表玄関で案内を乞うと、女中が出て来て訓練された物腰で三つ指つく。とまどう増吉に代わって、王仁三郎が来意を告げた。一度ひっこんだ女中がまた出てきて告げた。「旦那さまはお出掛けどすけど、奥さまがお目にかかります。どうぞ」 三段の式台を上がり、八畳二間を通って奥の客間に案内される。「すぐ参りますさかい、ごゆっくり……」 女中が去ると、王仁三郎は珍しげに室内を見渡した。王仁三郎の過ごした半生は、金持ちとは縁がなかった。少年時代奉公した斎藤源治の家も穴太では財産家だが、吉田家の規模とはくらぶべくもない。桧皮葺の高い屋根、よりすぐった桧材。家の構えから察しても、どれぐらいの間数があるか、想像もつかぬ。 吉田家について知った風な説明をしてくれた増吉にしても、家の中に通されたのは初めてらしく、きょろきょろ眺め回している。 正面に一間の床、その右が一間の書見台、庭に対する壁面の違い棚には名も知らぬ大輪の花が活けてある。欄間には翁と松のすかし彫り、四枚続きの襖には老松と虎の墨絵。一間幅の回り縁に立つと、手入れの行き届いた庭が展開する。 ――この家にしてもたかだか周山村の金持ち、日本全国から見れば数の中にもはいらんやろ。 一方では、東四辻の雑居家族のみすぼらしい様子が目に浮かぶ。富の偏在が実感として迫ってくる。 間もなく妻女つるがあらわれて、王仁三郎と初対面の挨拶をかわす。ふっくりと美しい女で、大家の妻女らしく物腰もおだやかである。主人の不在をわび、夫がこの頃急に博奕にこり出して心配でならぬと訴えた。「小西先生にお聞きしたら、この家には大変な曲津神が住んでいて夫を迷わすちゅうことどす。ほんまにそんな曲津神がおりまっしゃろか」 つるは声を低め、怯えた目になった。 王仁三郎は正直に答えた。「いや、なんにもそんなもんはおりまへん。安心しなはれ」「そんなはずが……小西先生は霊眼のようきくお人どすさかい……」 つるが不満そうに口ごもる。重病人だと信じていたのに「たいしたことはない」といなされた患者の心理に共通するものであろうか。王仁三郎にしても、意気込んで京都から出てきたのに、拍子抜けしていた。「小西はんがそう言うたんなら、確かに曲津の奴、いたんやろうなあ。けどわしが来るのをかぎつけて、これはかなわんと手際よう逃げ出したんやろ。気のきいた曲津なら無駄な抵抗はせんやろし……」「そうどっしゃろか……」「まあ見とんなはれ、ご主人が帰って来やはったら、すっかり博奕嫌いになっとってやで。ははは……」 頼りない先生、ほんまやろかと、つるの顔に書いてある。 老女が茶菓を捧げてきて、紫檀の机に並べる。茶菓を馳走になり、もの足らぬげなつるのために天津祝詞を奏上して、さっさと引きあげた。お礼にくれた包み紙には、二円入っていた。 この時以来、吉田龍治郎の博奕は忘れたように止んだので、つるの喜びようはたいへんだった。これが機縁となって、王仁三郎は幾度か矢代に遊びに行く。 龍治郎の長女八重野は京都府立第一女学校に在学中であった。夏休みで帰郷すると異様な空気が家中を圧している。明け放たれた襖からのぞくと、五、六人の男たちが指を組んで正座していた。父龍治郎は酒に酔ったように上体をゆらめかせ、丸橋という村人など、白い歯をむき出してうなり、体を左右に激しく振っていた。王仁三郎の審神者で幽斎修行中だったのだろう。なんと面白いことするもんやと、びっくりしたという。
「天が破れたか」と思うほどすさまじい雨であった。 前々日からの台風に由良川の水位も綾部標識で八尺七寸を示していたが、八月二十五日朝には五尺に減水し、やれやれと警戒も解かれていた。それが午後三時頃、にわかにこの豪雨である。それもいっかな勢いを弱めない。午後九時には、水標は九尺に達した。「堤防はいつ決潰するか知れん。男衆は莚、畳を持って大橋のところまで出てくれ。女子供は万一の用意せいよ」 風雨にかき消されつつ切れ切れの声がとぶ。「手に持つ松明の炎は水煙に乱れ、人々の叱咤する声、岸辺にくだける波浪の音は交錯して、身の毛もよだつ有様になった」と、記録に残されている。 男たちが治水に走ったあと、東四辻の老人や婦女子は龍門館にかたまっていた。直は自室にこもったまま。王仁三郎のいない龍門館では、澄が留守大将だ。女たちを指揮して、炊き出しに夢中になっていた。忙しく手を動かしながらも、人々は口々に祝詞を忘れぬ。 固い地をえぐる雨の勢いは衰えず、二十六日を迎える。 午前三時頃、時田金太郎が濡れ鼠になってとびこみ、蓑笠から、そして特徴のある頬のこぶから水を滴らせつつ、悲痛に叫んだ。「青野や郡是製糸も危ないでよ。由良川の水位も二十尺を越えそうじゃ。綾部大橋の欄干の上を流れてきた木がぐれんぐれんと飛び越えとる。さあとなったら、教祖さまを守って、本宮山へ逃げるのやぞ」 松明をつけ直して、またとび出していく。位田から家族ぐるみ押しかけていた四方与平(五十二歳)は、揺れ動く行燈の灯で、妻とみ(五十三歳)を見る。「なした雨じゃろ。二十九年の大雨より凄いでよ。あの時はずいぶん死んだ者がおったが……とうとう艮の金神さまは、立替えを始めなさるのじゃろうか」 とみは孫の実之助(九歳)を膝に抱き上げながら、「そうなったら、この龍門館はどうなりまっしゃろ」「教祖さまがここにおいでる限りは心配するな。たとえ本宮山が沈んでも、このお館だけは浮いとる。さしぞえのわしらが世に残らなんだら、艮の金神さまの証しができんわな」「ようまあ、今まで信仰を捨てんと来たもんですなあ」 必死の防備もむなしく綾部井堰の樋の口より堤防百三十五間が決潰。続いて午前五時半、ついに綾部大橋流失。その下の白瀬橋、以久田橋も持ちこたえられなかった。 ようやく雨が止んだ朝、四方源之助は膝までつかる濁水をわけて外へ出た。綾部周辺の村々は一面濁水の大湖であった。豊かに実らせていた稲は湖底に没し、肥え太った桑も姿を見せぬ。舞鶴線の傾いた鉄橋から鉄路がぶら下がり、枕木が肋骨のように付いたまま、滔々たる濁流に洗われていた。 四方源之助は呆然自失、荒れ狂う水を眺めていた。当時、彼は材木業を営んでいたが、並松の淀みにつないでいた無数の材木が一本も見えぬ。 明治三十四年の銀行取付けで手痛い損失を受け、さらに今度の打撃である。四十九歳の厄年、再び立ち直るには年をとり過ぎていた。本宮一の資産を誇った四方家も、崩壊は目前であった。「家売って下されよ。家持って立ち退いて下されよ」 河畔の濃い霧の中から、狂奔する汚濁の流れから、かつて帰神の直の叫び続けていた言葉が不吉によみがえり、源之助の鼓膜を打った。 王仁三郎は水見舞いに帰綾して無事な一同の姿を喜び、一泊して京へ戻って行く。
 十一月三日(旧九月二十八日)は、龍宮の乙姫の祭りの日である。 明治二十五(一八九二)年旧正月二十八日、帰神の直が氏神の熊野神社に参詣した時、真先に龍宮の乙姫の霊が現われて、「この度の御祝儀おめでとうございます」と挨拶した。この日が二十八日であることから、大本では旧二十八日を乙姫の月例日として、祭典を執行する慣習になっていた。 祭典の参列者は出口直、澄、直日、梅野、親戚から大槻伝吉、そして役員信者は田中善吉、時田金太郎、塩見じゅんの僅か三人にすぎぬ。王仁三郎が在綾の当時の祭典の盛況を知る者には、寂しさ限りない。 龍門館の神前に二十八燈を献じて礼拝する。終わって、直が言った。「お澄、すぐこのお燈明を由良川へ流してきておくれなはれ」「またなしてそんな面倒いことを……夜ですで」澄は眠っている梅野を抱き上げた。 直は目を伏せ、はにかんだように言う。「夜の由良川に流したらさぞ美しかろう……お米にはなあ、龍宮の乙姫さまの一番見苦しかった頃の分霊がついているのやでよ。改心せぬ前の乙姫さまは賑やかなことがお好きじゃった。由良川の水は舞鶴の港、その沖の沓島に通じる。燈火を点じて華やかにしてあげれば、ちょっとでも霊が慰められると思うでのう」 一同はしんとしてうなずいた。直の気持ちが痛いほど通じた、特に米を義母に持つ大槻伝吉には。 先月の十月十四日、数年間常人に復していた米(五十二歳)が、再び発狂した。知らせで、和知で筏組みをしていた出口竹蔵が見舞いに来た。時田や田中も、代わり合って大槻家で泊まり番をした。六十九歳の鹿蔵は、おろおろするばかりでさっぱり頼りにならぬからだ。 鹿蔵は直の沓島篭りの留守中、自宅の神床をひっくり返し、神号の軸をひきおろし、代わりに伊勢皇大神宮の守り札を貼った。その時に王仁三郎の言った言葉を思い出していた。「……この神床は、教祖さんがお米はんの九年の病気を鎮めた時に祀りなさったものや。気違いが治ったというのは、憑いていた霊を肉体から切り離したこと。けど、すきさえあれば、また古巣へもぐろうとしよる。怖い神さんをあんたがのけてしまえば、喜ぶのは元の憑霊……」 せせら嗤って意にもかけなかった鹿蔵だが、この時に及んであわてて大本の神を祀り直した。が、米の狂態はつのる一方、ついにこのほど大槻家に座敷牢を作って、米を幽閉したばかりである。 ふだん愚痴一つ口に出さぬ直が、内心では米の身をいかに案じ、苦しんでいることか。 一時間後、澄、大槻伝吉と三人の信者たちは、夜の並松の由良川河畔に立っていた。 台風で綾部大橋が流れて以来、まだ仮橋さえなかったが、由良の河水はそんなことも知らぬげに澄みきり、満天の星をちりばめて流れている。板切れに釘を打ってロウソクを立て、風に消えぬように油紙でまわりを囲った燈篭は、そっと由良川の水辺に浮かぶ。二十八日の月例日にちなむ二十八本の燈火は、足元の川波を淡く照らしてゆらゆらと流れる。 岸辺の一同は思わず合掌、米の救いを祈りつつ、うっとりと夢幻の世界にひき入れられる。 河畔からこの光景を眺めていた人たちもいたのであろう、やがてこれが今も残る由良川の万燈流しのきっかけとなった。
 供進使の参向する十一月二十三日の新甞祭当日、王仁三郎は宮司から大阪出張を命ぜられていた。大事な祭典の日に緊急でもない要件を言い付けられるのは、明らかに王仁三郎のまたしてもの突飛な行為を危惧したからであろう。あるいは府の神社局から内々の差金があったのかも知れない。夏の例祭でのことは公には罰せられなかっただけに、まだどこかでぶすぶすいぶり続けているのだろう。 建勲神社では、前日から泊まりがけの神職全員が、今日の祭典準備にかかりきっている。王仁三郎が大阪行きの支度を終えて外に出ると、本殿前で神職たちが騒いでいた。 同僚の主典が、王仁三郎を見て大声を上げた。「上田はん、えらいこっちゃ。本殿の鍵前こわさんならん。鍵がない……」「鍵をどうしたのや」「それが阿呆らしい、今神殿の掃除終えたさかい、禰宜さんが扉閉めて、かっちり鍵おろした。おろしてしもてから、鍵を中へ置き忘れてしもたことにひょいと気がついた」「やれやれ……」「笑うとる場合やないぞ。あと二時間のうちにはどうでも扉を開けんならんのや。合鍵はないし、つくるいうても今の今、間に合わん。叩きこわしとうてもこれだけ頑丈な鍵前やさかい、わしらの手にはどうもならん。何ぞ知恵かしてくれんか」 ふだんの日は本殿にがっしりした鍵前がかかっていて、祭典の時にだけあける。幣帛供進使を前に、厳かに開扉せねばならぬのだ。鍵がなくては、どうごまかしようがあるものか。 王仁三郎はこともなげに言った。「つまり扉があきさえすればよいのやろ」「あたり前や。よけいなこと聞くな」 禰宜はいらいらしながら叫んだ。菅宮司の顔も蒼白である。「よっしゃ。わしがあけてみてやろ」 王仁三郎は素手のまま扉の前に進み出て、鎮魂の姿勢をとった。 つとめて霊力をあらわすことを控えている王仁三郎だった。神に仕えながら、神力を知らず超自然現象を信じようともせぬ彼らにそれを見せることは、いたずらに警戒心をおこさせるだけである。しかし、宮司や同僚たちの狼狽を見過ごしにはできなかった。 一同の見守る中で、念力を一点に集中した。かっとかすかな響きがあった。 王仁三郎は、鍵前に手をのばしてすっとはずし、扉を開ける。禰宜が神殿の中から問題の鍵を取り出してきた。 あっけにとられる彼らに、王仁三郎は頭を下げた。「ほんなこれから大阪へ行かしてもらいますわ」 禰宜が、その王仁三郎の背に叫んだ。「待て、上田君、鍵に手もかけずに、どうやってあけた」「別に……ただ神さまにお願いしただけです」「馬鹿な……正法に不思議なしやで」「本居宣長はこう詠んでましたなあ、あやしきをあらじというは世の中のあやしき知らぬ痴心かも……」 ふっと笑って、王仁三郎は歩き出した。
 その日から、同僚たちは王仁三郎に一歩距離をあけて眺めるようになった。 三、四日後、王仁三郎は建勲神社所轄の警察へ呼び出された。当時は上長者町警察署筋違橋巡査派出所で、建勲神社を南東に下って堀川通りに接した角にあった。 鍵前をあけた件についての取調べである。神社の神職以外にあのことを目撃した者はいないから、神社側が通報したのであろう。「これは事件ではなく参考までに聞くのだから気を悪くせんように」と前置きしながらも、係官はしつこく鍵前をあけた方法を問いただした。鎮魂帰神について説明しても腑に落ちぬ顔である。ためしにもう一ぺん開けてみせてくれと手鍵を持ち出してきたが、王仁三郎は断わった。不快だった。 半信半疑のまま、最後に係官はこわい顔になる。「そんな魔法がほんまにあるのなら、銀行の金庫でも警察の牢でもあけられるやろ。正直いうて、どうや、その手、今までに使うたことないか、え」「魔法やない、神法です。神法やさけ、邪悪なことに通用するわけおへん。安心しとくれやす」 静かに言い返しながら、王仁三郎は辞表を書くことを考えていた。理由はともかく、神職が警察へ呼びつけられて調べられたとあっては府庁に免職の口実を与えよう。それならこちらから辞めてやれ。 建勲神社から学ぶことはもうなかった。
 昭和十九(一九四四)年十二月、松原静は建勲神社の宮司として奉職した。古い名簿(旧職員の履歴書綴)を調べていると、一部分が抜けている。職員を呼んで事情を聞くと、抜けているのは明治四十年から四十一年にかけての一頁、主典の上田王仁三郎の項であるという。「不敬罪に問われた人やさかい、『こんな人が別格官幣社におったことがわかっては建勲神社の不名誉や』言うて、前の誰かが破り捨てたそうどす」 その言葉で初めて松原は、王仁三郎がかつて建勲神社に在職していたことを知った。松原は、単純に「不敬罪に問われた男」として抹殺する気にはなれなかった。興味をそそられて、保釈出所中の王仁三郎を訪問した。王仁三郎から、一時間余にわたって建勲神社奉職時代の思い出を聞き、その感動を日記に記している。
 建勲神社から御嶽教へと、この年の暮れ、王仁三郎は移っていた。 陽気な王仁さんの本性はどこへ行っても変わらなかったが、王仁三郎はひたすらに一点をみつめて歩いていた。王仁三郎の霊眼にうつるのは、まさしく人間の本性を失ったけものたち。利欲・身欲にしんそこ穢されきった手のつけられない人間たちだ。 しかし、憎めぬ奴ら。奴らのために血の宿命を負って、悪神の型に生きよう。命かけて。それがやがては、けものの世のあがないとなるために――。 そのための、十年の苦節は、どうやら終わりに近づいていた。

表題:十年目の弟子 9巻5章
十年目の弟子



 建勲神社を辞して間なしの明治四十(一九〇七)年十二月十八日、王仁三郎は伏見稲荷山御嶽教西部本庁の総務主事となった。 御嶽教は神道十三派の一つ。初めはミタケ教といったが、最近はオンタケ教と呼ぶ。   明治六(一八七三)年、木曽の御嶽山に登る行者や講中を統合して御嶽講社を結成し大成教に所属していたが、明治十五(一八八二)年に一派として独立した。山上の御嶽神社の祭神三太気大神(国常立尊・大己貴尊・少彦名尊の総称)を信じる素朴な山岳宗教である。 御嶽教本庁は東部(東京)と西部(伏見稲荷山)に別れている。当時、東は五代管長神宮寿、西は副管長辻田祥寿が統率していたが、両者の間に根本的対立があり、内部不統一が甚だしかった。 御嶽教は復古神道的な教義があるにはあるが、本質はあくまで登拝・祈祷・禁厭などである。超自然的、神秘的なものへの傾倒は、「いたずらに吉凶を説くなかれ」という政府の文教政策の条文とは相容れぬものがあり、過激な行者達が警察へひっぱられる事件もしばしばあった。 しかし彼らは「政府や警察は常識的範囲内でしか判断できぬから、常識を越えた世界を知るわれわれと衝突するのは当然だ」と割り切っていた。 神道学者、国学者である神宮寿はそれらの風潮を憂え、しっかりした教理のないことを不満とし、教理の体系化を主張して自ら先頭に立った。 それに対し、副管長辻田祥寿は反駁する。「教理尊重は、御嶽教の生命であり特色である行の軽視につながる。行者が山にとり組んで一人一人真剣に体得することこそ真の教理であるのに、字句や書物の中に教理を築くことは堕落である」 西部本庁の所在する稲荷山は交通の便もよく、樹木がうっそうとして神秘的な雰囲気があり、修行に必要な瀧も随所にあった。従って、行者や神秘を求める連中が集まってきて各自に行をし、明治から大正時代にかけては千里眼が非常にはやった。霊術や予言のできぬ行者は大きな顔で歩けぬほどで、非常識がまかり通る世界であった。 稲荷山の繁栄をはかる辻田祥寿ら西部本庁の方針にも神宮は批判する。「お山が御嶽教の根本道場であることに異論はない。だがそのお山は人跡及ばぬ深山や霊山であるべきだのに、町中に近い稲荷山だけを行場として尊重する安易な西部本庁のやり方は信仰の取り違いだ」 神宮管長は西部本庁の発展を望みつつも、それが西日本全体を含む御嶽教本部のような形で独走することを警戒していた。東部本庁に安住しつつ、妾を稲荷山に住まわせ、自らもしばしば来て辻田らの動向に目を光らせた。しかし最後には、御嶽教の脱皮をはかった神宮の構想は御嶽教の伝統の前に崩れ去り、辻田に軍配が上がる。 教理尊重の神宮が辞した後、御嶽教は乱れ教と世間で喧伝されるほどになる。 王仁三郎が御嶽教入りする当時、管長派と副管長派の対立は激化していた。神宮管長は西部本庁にも自分の手足になる者を欲していた。王仁三郎の秀でた霊力と説得力の評判は、下宿先の焼芋屋の御嶽教行者中村保次郎によって神宮に伝えられていた。 神宮は、王仁三郎が建勲神社を辞任する前後から、月給五十円という好条件を持ち出して勧誘の手をのばしたのである。 王仁三郎がその勧誘に応じたのは、稲荷山の持つ怪しい雰囲気にひかれると共に、教団運営の実際を学び、内部の対立をじっくり観察したいからであった。だから御嶽教入りしても、治病や祈祷はしていない。主として事務的な仕事で、来信文書の開封整理、役員への連絡、来客の接待などにあたった。
 年の暮れ、休日を利用して、王仁三郎は宇津の広前に出向いた。八幡宮社務所の広前では、沢山の信者たちを相手に傲然とあぐらかいて、松元は祈祷の最中であった。王仁三郎は邪魔せぬようにそっと松元の背後に坐った。「よし、もう治っとる。右の手首、振ってみい」 若い娘はこわごわ手をふる。「どや、痛いか」 娘が首を横に傾げる。「大きくまわして……」 言いなりに腕を動かしながら、娘が頬を上気させて言った。「あっ、ほんま、何ともない。痛ない、母さん」 母親が進み出て、白紙に包んだ金を差し出す。松元はぶすりと押し返した。「礼金など、神さまは受けとってやないわい。持ってお帰り」「うちばかり……何でどす」 母親がむっとして訊き返す。松元はすっぱ抜いた。「お礼いうのは金の多い少ないやない。まごころで出すもんでなけら礼にはならへん。お前らが喧嘩して包んだ金やで、穢れとるわい。神さまはお見通しや」 母親は赤面しながら白状した。「実は娘が『自分の病気を治してもらうのだから二円包みたい』と言いますさかい、私は『二円はもったいない、一円でこらえてもらおう』と出発の間際まで言い争って、結局は私が折れて二円包んだのです。神さまにすまんことでした」「そうやろ、あとからの一円には、あんたの執着がこびりついとるでなあ。分かったらよろし、神さまにおわびして納めてあげよ。はい、次の人……」 年寄りがこわごわ前に出る。 松元は振り返って、当然のようにそこにいる王仁三郎を手招いた。「お前やない、会長はんのことや。この間は周山までわざわざ行ってもろたが御苦労はん。さっぱり無駄足やったそうななあ。皆さん、紹介しときますで。この人が綾部の大本、つまり金明霊学会の会長で上田王仁三郎はんや。もともとは瑞の御霊の大神さまが守護してござる因縁の人やが、それを忘れて別格官幣社の神主なんぞになったりするさかい、神さまが愛想つかして、この松元に乗り替えなはった」 満座の信徒は、純朴な眼で驚いたように二人を見比べる。が、王仁三郎は平気な顔で笑っていた。松元は臆面もなく続ける。「よいか、ここが大事なとこなんやで。瑞の御霊のご神徳はみなこの松元におさまった。わしの審神によると、会長はんは蝉の抜け殻になったとこへ、今度は稲荷山の狐に憑かれた。そやさかい、稲荷山の御嶽教にへばりついとるやろ。こんな人に鎮魂してもろても、もうあかんで」 王仁三郎はさらりと流す。「ああ、そうや、わしは抜け殻や。松元先生は何でもお見通しやのう」 松元はふんぞり返った。「綾部の教祖はんが変性男子の身魂で、この松元が言うたら松の大本で変性女子の御用をする因縁やが、もうちと会長はんの改心を見きわめんことには、綾の高天原へ乗り出すわけにはいかんわい」 笑顔の下で、王仁三郎の心は煮えたぎっていた。思うさま霊縛でしめ上げて、その高慢の鼻をへし折ってやりたかった。我慢したのは、宇津の広前に対する執着である。 綾部で妨害され、西田元教と二人で隠れ忍んでようやくここに広前を作った。ここを拠点に大本の教えを北桑田に発展させたいという念願がある。すでに元教は松元を捨て去ったのに、一時の短慮で自分までこの男を見放し、今までの苦労を水泡に帰したくない。 それに小西松元の霊力も確かに得がたかった。霊眼は効く、病気治しは優れている、信者の心をつかむのもうまい。霊力を授けたのは王仁三郎である。しかし誰にでも授けられるものではない。授けられる側の素質の問題である。松元にその素質を見抜いたからこそ、埋もれた形の彼の霊力を開発し、力をつけて北桑田宣教に利用しようとした。 が、善にも悪にも強いのが松元の素質である。王仁三郎に心服しているうちはよかった。省みる直霊の心の支配がゆるむと、たちまち己れの才に慢心し、松元自身の信者を作ろうとしだす。面と向かって放言するくらいだから、かげではもっとひどく王仁三郎の悪口を信者たちに植えつけていよう。 王仁三郎は一泊することもなく、稲荷山へ帰った。
 明治四十一年、直七十三歳、王仁三郎三十八歳、澄二十六歳である。 御嶽教に勤めた王仁三郎の能力は隠しようもなく、わずか三ヶ月後の三月十日には大阪大教会長に抜擢され、生玉御嶽大教会詰めとなっている。 それから間もなくの三月十六日(旧二月十四日)の昼下がり、伏見稲荷山裏参道のゆるい石畳坂を小柄な男が登ってきた。左右に立ち並ぶ稲荷塚、朱色の鳥居……坂の中程から左手一郭は石垣の上の板壁で区切られている。男は足を止め、黒門にかかる門標を確かめた。「御嶽教西部本庁」 門内の石段を三つ四つ上がって瓦葺きの高い屋根を見上げた。板壁の裏手はそのまま奥深い稲荷山の森に続いているらしく、静まり返っている。 玄関脇の受付けに立って声をかける。白衣の男が現われて奇声を発した。「よう、斎やんやないか、やあ……」 湯浅斎次郎(三十九歳)は思わぬ所に友を見出し、二重の大きな眼をむいた。「茂三やん、お前、ここにおったんか」「そうや。斎やんは何しに来やはったんや」 湯浅は奥をのぞきこむようにして、和田茂三郎に問いかけた。「綾部から来とってん上田王仁三郎という人、おってやないか」「あいにくやなあ。上田先生なら、つい一週間ほど前までここにいやはったけど……」「辞めなはったんか」「管長はんの任命で大阪大教会長にならはって、大阪の生玉大教会に行っとってや」「そら困ったなあ。どうでも上田はんに会いたいのやが……」「よっしゃ、ほんならすぐ電話で連絡してみるさかい、上がって待ってなはれ」 湯浅斎次郎は道中の羽織、たっつけ(もんぺ)の埃を払い、腰の手拭いで足を拭って、六畳の受付けに上がり込んだ。玄関の上手側は八畳ほどの板の間で、大きな神床が正面に見える。 和田は大阪に電話を申し込んでおいて、懐かしそうに番茶をくんで出す。 湯浅斎次郎は、明治三(一八七〇)年、京都府船井郡胡麻村(現日吉町字胡麻)の船越陣右衛門の次男として生まれた。明治三十一年、北桑田郡宇津村下宇津の湯浅喜之輔の長女小久と結婚、湯浅家の養子婿となる。湯浅家は昔、庄屋もつとめた宇津の名家であった。養子に行く前、斎次郎は畳表の行商をしていたが、たまたま湯浅家の豪邸の前を通りかかり、養子に行くならこんな立派な家に行きたいものだと立ち去りがたく思ったというから、はからずも念願がかなったわけである。 斎次郎は、養父の材木商を手伝いながら、馬喰もした。なかなかのやり手で、成牛の取引きのほかに、仔牛を農家に預けて無料で飼育させ、大きくなってから引き取り、売りに出した。農家にとっても、牛を養うことでその糞尿を肥料とし、農耕にも使えるので、歓迎した。 間もなく畜産組合の組合長に選ばれ、村の名士として村人からは「宇津殿」と敬愛されていた。 和田茂三郎は同じ宇津村、湯浅家より大堰川に沿って少し上流の平野の出身だ。資産のあった和田家が没落してから茂三郎は村を出奔、それきり行方が知れなかった。 斎次郎は改めて茂三郎の顔を見た。「あんたが急におらんようになったさかい、心配しとったんや。けど、こんな所におるとはのう、ほんまに奇遇や」「家は破産するし、何もかもうまくいかん。やけくそになって村をとび出した。京都まで来たものの、さて、どないしてよいかわからん。その時、宇津にいた頃に説教を聞いたことのある上田先生を思い出して、建勲神社に訪ねてみた。そしてここへ引っぱられたんや。」「ここではどんな仕事をしとる」「総務主事の上田先生の秘書みたいな役やな。事務や使い役や雑用……も一つ、ほかに大事な仕事がある。上田先生の起こし役や」「起こし役?……上田はんはそんなに寝坊か」「寝坊は寝坊やけど、起こすのは朝とはきまらん。あの先生は変わっとるで。ひまになると、『どれ、見学や』言うて、ごろんと横にならはる。しばらくするとぷっとふき出して、それからころころ笑いが止まらんようになるのや。お客さんが来たり用事があると、わしが抱き起こす。起こすと笑いがぴたりと止まる」「へえ、けったいやなあ」「うーん」 茂三郎は眼を天井にやった。「はて、どう説明したらよいか……横になると肉体が静的状態に入るさかい、逆に霊的活動が激しくなるらしい。すると御嶽教の中だけでなく、伏見稲荷のお山全体の様子が霊眼に見えてくるのや。山のあちこちの行場では修験者たちが修行しとるし、稲荷神社は御利益目当ての参詣人で一杯や。ここの座敷では、管長や副管長や大教正がお座を立てとる。つまり審神者になって、台になる行者から予言やら千里眼やら神託を引き出しとる。それらにかかっとる霊の正体みたら百鬼夜行、霊的昂揚状態にあるさかい、笑い出したら止まらんのやろ。だからわしが起こして肉体を動的状態に戻さんならん。やっかいな先生やで」「ふーん」 斎次郎は、狐につままれたような顔で聞いている「上田はんは、ここでも病気治しや審神者をしたはるのか」「それがちっとも……この御嶽教の行者の仲間のうちでも、群を抜いて霊力があるのは確かやな。けどなんでや知らんが、上田先生は総務、つまり行政や事務面の仕事ばかりで、後は夜中せっせと書き物したはる」 大阪に電話が通じた。茂三郎は気の毒そうに言う。「斎やん、上田先生はどこかへ外出中やて。帰って来やはったらすぐここまで来てもらうように伝えたるさかい、それまでゆっくり村の噂でも聞かせてんか。けど斎やんも何か、やっぱり艮の金神はんの信者かいな」「いや……」 斎次郎はそれが癖の鼻を横なぐりに拭き、その手をさりげなくたっつけにこすりつけた。「わしは妙霊教の信者やし、養父は日蓮にこちこちや。ただ小久が長年の血の道の患いを上田はんに治してもろて以来、すっかり艮の金神さんにまいっとる」「宇津では、けちの頑固の鬼の清兵衛のいざりは治るし、小西の庄やんのリュウマチは治るし、上田先生に難病を治されたもんはなんぼでもある。斎やんかて女房の病気を治してもらいながら、まだ妙霊教に凝ったはるのか」「確かに艮の金神はんの神力はあるやろ。けどなあ、わしが素直についていく気にならんのは、庄やん見とるからや。良い年をして酒は飲んだくれるし、女はたらす。上田はんの弟子になって宇津の広前を預けられながら、金神はんの神力もってしても、しょせんは庄やんの人格を変えることはできん。それぐらいの神さんなら、前から信じとる妙霊教を捨てることはない」「庄やんか。何でまた上田先生があんな男を見込みなはったんやろなあ」「他人のことは言えんのや。わしかて調子に乗ってしもて……実は今日ここに来たんは小西の庄やんの件でや。庄やんの息子の増吉、知っとるやろ……」「ああ、あの金鵄勲章か」「そうや。死んだと思った増吉が生きとって、おまけに金鵄勲章をもろて帰ってきた。村はえらい騒ぎやったで。それからこっち、小西株はぐんと上がった。増吉は郷土の英雄や。娘たちは憧れよるし、縁談はなんぼかあったが、どれも気に入らんかして、帰還後二年間、今だに独身や。そこで西田元教はんが間に立って、奥さんの妹、つまりは上田はんの末の妹のお君いう娘をすすめたらしい。小西家では喜んで、庄やんがわしの所へ媒酌を頼みに来よった。ほんまなら庄やんの頼みなどはねつけたいとこやが、なにしろ金鵄勲章の媒酌をことわったんでは、村の奴になに言われるやわからん。小久の奴まで一生懸命わしを責めよる。しょうがなし重い腰を上げてきたんや。そうそうここまで出てこれんさかい、せっかちなようなが、二十円の結納金も預ってきた。今更会えなんだでは村へ帰れんし、とにかく上田はんに会うだけは会わんならん」 久し振りに出会った二人の話ははずむ。日が暮れても、王仁三郎は戻らなかった。「神出鬼没の上田先生のことやさかい、いつ連絡つくやわからん。今夜はここに泊まって行きなはれ」 茂三郎は斎次郎を王仁三郎の部屋に通した。受付けの間から一間幅の廊下をへだてた六畳間である。小机の脇には、うず高く和綴じの本が積んである。「えらい仰山の本読んどってんやなあ。御嶽教の本やろか」「いや、御嶽教には、これといった教義はあらへん。これはみな上田先生が自分の考えを筆で書きなはったもんや。良いことが書いたりますで。そうや、退屈なら、御飯を食べてからゆっくり読んでみなはれ」 茂三郎は、自慢そうに書物をぱらぱらとめくってみせた。 王仁三郎が湯浅斎次郎の待つ西部本庁へ戻ってきたのは、翌三月十七日の午後三時頃であったという。一昼夜待ったことになる。が、斎次郎には、待ちあぐねた意識はなかった。部屋に積まれた大部の著述、『本教創世紀』、『道の大本』、『道の栞』などを次々にむさぼり読むうち、時間は思わずたっていた。それらには、想像もし得ぬ神秘、卓越した教理が端麗な筆跡で綴られていた。 この一昼夜こそまさに回心の時、感動に震える心を抱きしめつつ、斎次郎は、はっきり大本入信を決意していた。今までは病気治しなどの霊験や鎮魂帰神の霊術に驚き入信するのがほとんどであったが、大本の教義にふれて入信したのは稀有の例である。「お帰りなさい、お待ちしていました」 王仁三郎と会った時、斎次郎は無意識のうちに両手を仕え、師に対する礼をとっていた。「待たせたのう……」と王仁三郎は言った。仰ぎ見る斎次郎の面には敬慕のこころがあふれている。 茄子紺の絹地に金色の唐草模様を飾った上下続きの神代服と宿禰帽(同じ茄子紺地に白と金の筋のついた冠型)、御嶽教の正装の王仁三郎であった。 神前に拍手打って頭を下げ、自室に入って神代服を脱ぐと、平素の白衣に着替える。 王仁三郎は巻煙草に火をつけて、気さくな調子になった。「小久はん、その後、如何です。宇津にも御無沙汰しとりますが……」 さそいの言葉にのって、斎次郎が小西松元に媒酌を頼まれた事情を語る。話なかばで王仁三郎の面に苦渋の色が走った。昨年暮の小西松元についての不快な思い出がよみがえったのである。 その松元が、何を思ったか息子増吉と妹君との縁談にのり出してきた。王仁三郎の妹をということは、松元もまた自分個人の宣教の限界を知り、王仁三郎の力を求めているのではないか。もし松元が心を改めてわしと手を握る気なら、北桑田宣教の明日のために私憤をこえて受けて立とう。それに、宇津の湯浅小久の夫、今まではよそよそしい素振りしか見せなかった湯浅斎次郎の好意も無にはしたくない。 君はようやく十七歳、といっても満十五歳半に過ぎぬ泣き虫の子供である。体も小さいし、器量もようやく人並み、これといった才能もあるわけでなく、婿選びするほど優れた娘ではない。いずれ誰かと結婚させねばならぬのだから、増吉なら、まず上等の部類であろう。 けれどひっかかるのは、妹の結婚によってすぐ松元との融和を願う自分の気持ちである。龍の結婚問題の時の苦い記憶がよみがえる。中村竹吉との結婚を望む龍の意志を踏みにじって、王仁三郎は無理にも木下慶太郎とめあわせた。今度もまた、妹個人の幸福より教団の立場からつい物事を考える打算が、我ながらうとましかった。 古代万葉の頃には歌垣によせての高らかな愛の讃歌があり得たものを……公武合体の美名のもとに薄幸の生涯を終えた和宮を悼む心は持ちつつも、男の利己から抜け出せぬ。 王仁三郎は即答を避け、「しばらく考えさしてくれ」と言った。 斎次郎の関心は、縁談を離れて大本の教義面に深く向けられていた。次々と人生や神への疑問点を投げかけ、王仁三郎からはね返ってくる明解な解答を心の根でしっかりと受け止めた。斎次郎にとって、住みなれたこの世が急速に仮面を脱いで、別の色彩をおびつつあった。「上田先生、管長はんが呼んではりますで」 和田茂三郎が入って来て、王仁三郎に告げた。「おおきに。管長室か」「御神前に出て待ったはります」 斎次郎は時計を見た。午後八時を過ぎている。思わぬ長居に気がついて、慌てて腰を浮かしかけると、王仁三郎が引き止めた。「ちょうど管長はんが東京から来てはるのや。ご挨拶しときなさい。一緒に行こ」 神床を背にして、神宮管長が端座していた。六十とは見えぬほど、髪は黒々と艶光りしていた。王仁三郎と斎次郎が坐るや否や、神宮は厳粛な声で言い渡した。「時が来た。上田どの、そなたはこんな所にぐずぐずしているお方ではない。出口直どのが待ってござる。そなたとの約束通り、早く綾部へ帰って直どのと手を結び、救世の神業にあたって下されよ」 問い返す間もなかった。神宮はすっと立ち上がり、奥の管長室へ去った。王仁三郎は頭を下げたなりである。挨拶しそびれた斎次郎は、あっけにとられて王仁三郎を見た。しばらくして王仁三郎は顔を上げ、放心したように動かぬ。 音のない時がたった。 初春の宵の外気は寒い。斎次郎はぶるっと震え、開け放たれた縁の障子を閉めようとした。「閉めんでくれ。……月がまんまるい」 しわがれた声で、王仁三郎がつぶやいた。「ほんに満月ですなあ」「……あの時も、こんな月夜やった。十年前の今月今夜……」 斎次郎はせかせかとさえぎる。「先生、いまのはどういうわけです。すぐ綾部へ帰るように、管長さんは言いなはったが……わしがご挨拶もせんうち立ちなはって、何かお気にさわったんでっしゃろか」 王仁三郎は、まだ放心からさめぬ声音で言った。「湯浅はん、あれは管長はんが言うたんやないで」「え、あれ、管長はんと違いますのか」「管長はんは管長はんやが、無形の神感法で帰神状態になっていなさる。神さんに言わされたんや。何神さんか審神するゆとりはなかったが、間違いなく正神です。わしは、そのお告げの意味を悟った……」「……」「今日は明治四十一年旧の二月十五日……湯浅はん、わしはのう、明治三十一年旧二月九日から十五日までの一週間、神さまに導かれて郷里の高熊山で神示を受けた。それからの十年間が、神に命ぜられた修行期間や。つまり今日はまる十年の修行の上がりの日、わしにとっては待ちこがれた大事な日や」 王仁三郎は、射るような眼を斎次郎に移した。「それと共に、あんたにとっても大事な日のはず……今日、あんたがここに来たのも十年前からの神さんとの約束ごとです」 この男こそ、湯浅斎次郎こそ、修行の終わりに力ある者を授けると神の契約し給うた十年目の弟子なのだ。王仁三郎の頬が燃え、月明りに眸がうるんだ。 斎次郎は、まだ納得できぬままにうなずいていた。あらがうことも出来ぬ大波が自分を引きさらっていく。「今夜は遅いさかい、もう一晩お泊まり。わしも明日は綾部へ帰る。八木までの道中は一緒や。それからお君の縁談の件、神ながらに心が決まった。喜んでお受けしますわ」 王仁三郎、ぬっと片手をつき出す。斎次郎はあわてて鼻を横なでにし、その手をたっつけにこすりつけた。「何しとる。そうと決まったら、二十円の結納金や、はよ出さんかい」
 翌三月十八日朝、王仁三郎はすっかり帰綾の支度を整え、斎次郎を連れて神宮管長の前に出た。「お世話になりました。今から綾部へ帰なしてもらいます。ひとまず落ち着いたら、戻ってきて、事務の引き継ぎはちゃんとしますさけ……」「おい、上田君、何を言ってるのだ。今からどうする気だって。ま、まさか、君、勝手に帰るつもりじゃないだろうな」「勝手にって……昨夜、管長はんが、『こんなとこにぐずぐずしとるな、すぐ帰ね』って言わはったさけ、わしもその気になったんです」「私がそんなこと言うはずなかろう。第一、こないだ大阪大教会長にしたばかりじゃないか」「そんな殺生な……ああ、そうか。会長はんのあれは無形の神感法で意識はまったく残らなかったわけや。けど私は神勅に従わねばなりません」 王仁三郎は昨夜の出来事を語り、斎次郎も証明した。 和田茂三郎に呼びにやらしたことさえ記憶せぬ神宮は、自分が帰神して王仁三郎に帰綾を命じたと知って狼狽した。 副管長派との対立の最中、王仁三郎を失うことは大きな痛手であったろう。言葉を尽くして引き止めをはかった。けれど帰綾を神意と信じる王仁三郎の決意は動かぬ。 結局、今年中に後任を探すことにして、それまで王仁三郎は綾部と伏見を往復、御嶽教西部本庁の行政面を担当することで妥協した。
表題:妹の結婚  9巻6章妹の結婚



 完全に伏見を引き払うことができぬとなれば、また荷物を整理しなおさねばならぬ。斎次郎を先に帰して荷物を分け直し、午後から王仁三郎は伏見を発った。 亀岡で下車し、郷里の穴太へ向かう。生家に着いて母世祢の顔を見るなり、王仁三郎は形を改めて切り出した。「母さん、わしは昨日で十年の修行は終わった。今日からはなんぼ実の母親でも、わしのことを名前では呼ばんときや」「そんなこと言うたかて喜三や……」「そう、それがいかんのや。ついわしを子として頼りとうなるし、甘えがでる。わしは肉親のことでもかまっとれん大きな御用がある。これからわしは母さんの導師や。尊敬こめて『先生』と呼んでおくれ」「なんやて、尊敬こめて、『先生』やて?……」 世祢はびっくりして王仁三郎を眺め、それが冗談でないと知って、あわてて坐り直す。 王仁三郎は君の縁談を打ち明けた。末の妹君さえ結婚させれば、後顧の憂いなく神業にとびこめよう。 君は穴太の斎藤万平方から東穴太の醤油屋斎藤敏夫方に移って子守り奉公していた。王仁三郎は、母に君を呼びにやらした。久し振りの長兄との対面に歓声上げてとびついてくる君。あまりに子供子供したその姿に、王仁三郎はつい真実を言いそびれた。「お君、お前を子に欲しがってる家があるのやが、行ってみる気はないけ」「ふん、行ってもよいで」 君は考えもせず、嬉しげに答える。泣き出すのではないかと心配していた王仁三郎は、あっさりしすぎる返事にかえってまごついた。「子に行ったら母さんにも会えへんし、穴太にもなかなか帰れへん。それによその人を父さん、母さんと呼ばんなんぞ」「かまへん」「……何で子に行きたいのや」「女中とちがうさけ、子守りせんでもよいもん。おむつ洗わんかてよいんやろ」 十歳の時から他家に子守り奉公にやられて背に子を負い、汚いものばかり洗って育った君は、苦しい奉公暮らしから抜け出せるなら、どんなとこでも行きたいのだろう。それとも家庭的な愛情に飢えていて、他家の子になればそれが見つかるとでも夢みているのであろうか。 早婚のこの時代としては満十五歳は驚くほど若い花嫁でもないが、君は格別小柄で、身も心も奥手なのだ。 王仁三郎とは二十一も年の離れている一番末の妹だから、わが子のように可愛く、ひとしお気になる。年のゆかぬ娘を嫁にやる男親の心境と変わらなかった。
 王仁三郎が帰綾した時、龍門館は捨て小舟の淋しさであった。朝晩礼拝に来て龍門館の雑用をするのは日雇いの四方与平だけ。ほかには田中善吉が時々顔を出すぐらいである。 早期立替え説を信じ家業を投げうって集まって来ていた役員たちは、その旗頭である中村竹吉が狂死し、敵対していた王仁三郎がいなくなると、目がさめたようにそれぞれ家業に戻っていた。この時点、ともかくも信仰を続けていた役員信者は子供も含めて僅か四十九名に過ぎなかった。 しかし、大本の中がさびれても、直の超然とした態度は変わっていない。春夏秋冬の区別なく、夕方になると直は縁に出て、太陽が西に沈むのを瞬きもせずに見詰める。その傍に、直日がより添う。 夕陽を浴びて金色に燃えたつ直の髪と眸。「日の大神さまがお帰りじゃ。ほれ、わたしの懐も温うなる……」 直日はうなずいて祖母の懐に頬をつけ、最後の光芒の一筋をも見落とすまいと目をみはる。 王仁三郎はいきいきと動き始めていた。何度か仕切り直しを重ねるうち、体が紅潮し気力が充実してくる力士のように。足掛け三年の外部での生活は、王仁三郎の内への蓄積を終えていたのか。 去る者が去り、単一化されて、王仁三郎の動きを封ずる狂的な力はもはやなかった。 離散していた役員信者との連絡、春季大祭の準備、大本独自の祭典方式の確立、私事では君の結婚も迫っていた。しかし、財政逼迫は予想以上に甚だしかった。
 明日は春季大祭という三月二十四日の夜、澄は階下の七畳半に蒲団を敷いて、王仁三郎をせかした。「はよう裸になって、ここに寝とっておくれなはれ」「よっしゃ」 王仁三郎は裸一つになって、うすい夜具の中にもぐりこむ。 澄は夫の脱いだ着物と掛け蒲団一つを畳んで背に負うと、肌寒い表に出る。行先は上町の質屋である。 以前は吉田質屋へ通いつめたが、この頃は新しく開店した筋向かいの山口質店にも行く。ここの主人が澄と同年輩で幼なじみのため、何かと便宜をはかってくれた。 王仁三郎の紋付きがここに預けてある。明日は大祭だし、その二、三日後には君の結婚式、どうでも紋付きが必要なのだ。 ――この蒲団と普段着を交換にうけ出せば、あとが困るのは知れているが、あとのことはあとで思案しよう。 将来の偉大な構想を練る王仁三郎の耳元に、客の訪れる声が聞こえた。王仁三郎は、蒲団の中から大声でどなった。「その声は湯浅はんか、遠慮せんとずっとお上がり……」 やがて草鞋を脱いで、遠慮がちに上がった気配。「湯浅はん、ここや、ここや」 初めての家でとまどいながら、斎次郎は声を頼りに障子を明け立てする。奥の七畳半の部屋をそっとのぞくと、王仁三郎は夜具の中から手招いた。「御病気ですかい」「いーや。ぴんぴんしとるで」 伏見で王仁三郎と別れる時、春の大祭に参拝せよと言われて、宇津から十二里の道をはるばる来たのだ。それにしては夜具にもぐっての出迎えとは何という扱いようやろと、少々腹立たしい。そんな斎次郎の心中におかまいなく、夜具に腹這った王仁三郎は、楽しげに将来の抱負を弁じ立てた。 澄が帰って来て、斎次郎にさばさばした初対面の挨拶をし、「先生、出して来ましたで。湯浅はんに失礼なさかい、はよお着やす」 王仁三郎はむくむくと起き上がり、裸の上になんのてらいもなく紋付きを着た。 斎次郎は夫妻の会話からおよその事情は察したが、普段着さえ質屋におかねばならぬ貧しさとさっきの怪気焔を思い合わせて、毒気を抜かれた。 王仁三郎に案内されて、斎次郎は教祖出口直に面会した。 直は斎次郎のたっつけ姿に目を止めて、にっこりした。「龍宮の眷属さんがはいていなさったのはこれやったでよ。袴でもなし、股引きでもなし、このお姿で、海からぞろぞろ上がってこられましたのや」 後日談になるが、湯浅斎次郎のたっつけ姿を大本の男も女もきそって真似しだし、その風俗を宇津の里から綾部の大本へ移した形になった。やがてそれは亀岡にひろまり、参拝する全国の信者たちが地方へ持ってかえる。昭和の時代になって、たっつけはもんぺと呼ばれ、戦時中、津々浦々で見られるようになる。 その夜、斎次郎は龍門館で泊まったが、夜半に気づくと、直と王仁三郎と澄の三人が一つの蒲団にはみ出さんばかりに寝ている。二人の子供は座蒲団の上だ。 ――そうか、二組しかない蒲団の一つをわしが占領してしもたのや。 斎次郎が大本のために一番最初に手掛けたのは、二組の蒲団を作って寄進すること。妻の小久が、その蒲団地を心こめた手機で織り上げた。 朝の礼拝の時、直は帰神して、斎次郎に向かって大音声を発した。「この方は国常立尊であるぞよ。湯浅家一統、綾部へ出て下されよ。湯浅家は神の御用をいたさなならんから百姓はできんぞよ。宣伝使となって上田どのの命令を受け、人を助けい」 朝食の朝粥をよそいながら、直は優しい声で訊いた。「湯浅さん、先ほど神さまはどのように申しなされましたかな」 斎次郎がそのままを答えると、直がちょっと考えて言った。「それなら来年の八月になったら、引っ越しされることになるじゃろなあ。湯浅家では二代まではご苦労続きですけどなあ、三代からはようなりますで」 王仁三郎が笑いながら、後を続ける。「湯浅はん、いつまでも宇津殿ではそれ以上の見込はない。御苦労じゃが早う宇津の方を整理して大本へくることや」
 明治四十一年度の春の大祭は、午後二時から執行された。参拝者は役員親子十九人、信者十五人と記録にある。大祭の神饌物や昼・夕食代などの総支出三円九銭、玉串料一円二十銭を差し引くと一円八十九銭の赤字である。 この赤字は、四方平蔵 木下慶太郎・四方与平・田中善吉・時田金太郎・野崎友吉・四方安蔵・塩見じゅんの八人の役員が一人二十二銭づつ負担し、中村の未亡人こまが十三銭出して補填している。
 農繁期までに労働力がほしいという小西家の要求があって準備は急速に進み、明日は嫁入りという三月二十六日であった。朝から陰気な雨、前日に春季大祭をすませた王仁三郎は、綾部から歩いて夕方、雨にけむる穴太についた。 王仁三郎は、障子を明け放って、雨にぬれる椋の大木を眺めていた。悪童時代、村の一山をまる焼きにして、激怒した父吉松に縛りつけられたこの幹。子供の頃の思い出の夢にはきっと出てくるなじみの木だ。夕闇にとけて、梢のあたりは形も定かでない。 君はその傍に坐って、あかず兄を眺めていた。いつまでも黙して雨の音に聞き入っている兄――その横顔が、かつて見たこともないほど淋しげだった。 うちを子にやるのんかなわんのやろと、君は思った。兄さんのために、子に行くのんあきらめてもかまへん。「――兄さん、明日も雨やったら、子に行かんとこか」 王仁三郎は、淋しさの消えぬ笑顔で君を見た。「阿呆やのう。雨降ったら地固まる言うて、雨は縁起がよいのやで」「兄さん、兄さん、あのなあ、言うたろか」 君が何を思いついたのか、声に力をこめる。「うちら何で阿呆か知っとるか。うちも幸兄さんも、由兄さんも、みーんな阿呆なわけ。あのなあ、うちらの知恵、ぜんぶ兄さんが一人でとってしもたさけ、うちらの頭は空っぽなんや。みんなそう言うとるで、なあ、母さん」 世祢は思わず王仁三郎と見交わした眼を、急いでそらした。 ――確かに自分は鬼子であろう。時とともに親兄弟との差は隔たるばかりである。村人の目が敏感にそれをとらえて噂する。情においては変わりないつもりながら、父の血の違いは争えぬ。 王仁三郎は縁の戸をしめ、部屋の真ん中にあぐらをかいた。「お君、おいで」 君はいそいそと兄の膝にのる。王仁三郎は目を閉じて、妹の日向くさい髪の匂いを吸い込んだ。「そうや、兄さんが虱とっちゃろ。明日は桃割れ結わんならんで」 ランプの傍ににじり寄り、君を膝枕させた。この頃の田舎の女童たちの頭に虱がいることは、別に珍しくなかった。君が綾部にいた頃は、直が丹念に髪をくしけずりながら、虱をとってくれたものだ。 ――許してくれ、お君。百姓の家にふさわしからぬ知恵を持ったばかりに、誰よりも兄を慕う幼いお前を政略の贄とする。しかも偽ってまで……。 やわらかい髪をかきわける王仁三郎の胸の奥底が、きーんと疼いた。 夕食の膳を囲んで世祢、王仁三郎、由松、君が親子水入らずの箸をとった。君にとって、上田家での最後の晩餐である。世祢は膝に抱いた三歳の孫惣次の口に飯を運んでいる。 由松の妻小ちえの姿が見えぬことを、王仁三郎は、うかつにもこの時になって気がついた。「惣次の母さんは……小ちえさんはどこへ行ったんや、由松」 聞えぬ振りして、由松は茶漬けをかき込む。世祢も口を閉ざした。こわばりかける空気を感じて、王仁三郎は話題を転じた。「わしはきばって男生んじゃろと思ったが、うまいぐあいにいかんわい。惣次はよい子や、親父よりだいぶ男前やのう」 食事が終わるや、由松は外へ飛び出していく。博奕ぐせはまだおさまらぬのか。 君が後片付けに台所へ立ったすきに、王仁三郎は世祢の袖を引いた。「母さん、由松の嫁、どないしたん」「――小ちえさんは千原に帰んだえ」 世祢は重たい口を開いた。 千代川村千原の小ちえ(二十二歳)の父は酒に溺れきっていた。薮入りの日、惣次を連れて実家に帰った小ちえは、それきり戻ってこない。由松が迎えに行くと、裸同然の小ちえは奥にかくれた。薮入りに着て帰った着物を父が質入れして酒に代え、呑んでしまったという。帰るに帰れぬ妻のため、由松は金を工面して着物をうけ出し、連れ戻った。それも一度ではなかった。 ある時、迎えに行った由松は、小ちえが他の男と寝ている現場を目撃した。金のために追いつめられた行為と分かっていた。由松は許したが、小ちえは恥じて帰らなかった。 ――気弱く、心やさしい小ちえを、由松は愛していたのであろう。 胸かきむしられる思いで、王仁三郎はそれを聞いた。 無法者の由松の、ようやくつかんだささやかな幸せをすら、束の間に押しつぶしていった貧しさが憎い。誰を責めるまでもなく、兄でありながらその不幸を見過ごした自分の非力が憎い。 二人の巣であった焼け残りの狭い六畳を見渡す。この一部屋がすべてなのだ。世祢が、土間続きの三畳一間にいるばかりだ。焼け出されて以来、何一つ新調されていない、殺風景な住まいであった。 嫁を迎えて、由松は好きな博奕も止めたと聞いていた。女房子供のために、職を求めて京都の醤油屋にまで奉公した。足を痛めたあげく穴太に帰り、ぶらぶらしていた間、どんなに暮らしは苦しかったろう。 由松からはよくせびられた。生活の苦しさを訴えた手紙ももらった。綾部の生活を背負う王仁三郎とて、ままになる金はわずかだった。 ――由松、今度嫁はんもらう時は、きっとわしが力になってやるぞ。 王仁三郎は心に誓った。 もらい風呂から世祢と君が帰ってきた。髪を洗った君は、明日の晴れ着を支度しながらはしゃいでいる。 六畳一間に親子四人で雑魚寝した。背戸の樹々の梢をゆすり、雨滴を吹きこぼして風が渡る。由松、君の寝入った気配に、王仁三郎は深く吐息した。「……母さん、お君は大丈夫やろか。……あそこ、もう生えとるやろか……」 夢うつつに君はそれを聞いた。 ――何のことやろ。兄さん、何心配しとってん……兄さん……。 けれど眠りが君を引き込んでいく。何か答える母の言葉すら、雨だれの音にとけてにじんだ。 翌三月二十七日、夜来の雨もからっと晴れていた。 八時過ぎ、君は上田家を出た。惣次を抱いた母や次郎松、おこの婆さん、お政後家ら親戚や近所の人たちが小幡橋まで送ってくれた。こんなに盛大に見送られるのは初めてのことだし、誰もがいつになくやさしかった。「子に行ったらなかなか帰れん」と言った兄の言葉を思い出し、君はちょっともの悲しかった。 母がついて行けないのを幾度か嘆いたが、君は気にならない。大好きな兄さんがいるし、それに足元がこぼこぼ晴れやかに鳴っていた。一度だけ履いてみたかったこぼこぼ(ぽっくり)である。畳表を敷いた地に紅緒がかかっている。京からの兄さんのお土産だ。 その上、母さんが水白粉をぬってくれ、生まれて初めて紅もさした。髪は今朝早く裏の上田由之助の隠居お品婆さんが来て桃割れに結い、赤い紐で結んでくれたし、着物は黒地に赤白の細かい縞木綿の一帳羅だ。奉公先のお仕着せだったが、袖を通さずしまってあった。 羽織は母さんが亀岡安町の角の古着屋で買ってきてくれた、濃い黄色地に黒の水玉模様、大き過ぎて体に合わぬので、縫いこんで小さくしてくれた。「お嫁さんみたいやなあ、母さん」と君が言ったので、見送りの人たちがみんな笑った。君はぴょこりとお辞儀をして、それから二度振り向いて手を振った。 黒紋付き羽織の王仁三郎が先に立つ。黒袢纏に黒股引き、袢纏の上から兵児帯をしめた由松が、嫁入り道具を両掛けにしてかついでいた。 鏡台と六足ほど入る下駄箱と針箱が嫁入り道具の一切である。小西家から来た二十円の結納金のうち五円を王仁三郎が雑費にとり、あとの十五円を嫁入りの支度金として由松に渡した。由松がその金で買い整えたのだが――。そうそう、その他にも僅かの衣類を風呂敷に包んで、君が手に下げている。 穴太を出はずれると、君は喜びが押えられなくなり、風呂敷包みをくるくる回して飛び跳ねながら先頭に立った。ふり返ると、王仁三郎はずっと後の方をうつむきがちにとぼとぼ歩いている。「兄さん、はよおいでえな」 君が手をふり上げて叫ぶ。王仁三郎は頬につくった笑いを浮かべて手を振った。 昼前に八木の福島家に到着した。寅之助も久も、今日に限ってとびきり優しかった。 福島家には、嫁入り先の本家という小西慶太郎が宇津から迎えに来ていた。昼食は久の作った五目ずしである。 王仁三郎は懐中から一円を出し、紙に包んで神前に供えた。「兄さん、なんでそんなにぎょうさん供えてん」 君が目を丸くして訊くと、王仁三郎は苦笑した。「わしらの昼食代のつもりじゃわい」 由松は嫁入り荷物を出迎えの小西慶太郎に引き渡すと、あっさり引き上げていった。代わりに慶太郎がいかにも山男らしい屈強な背でかるがると荷物をかついだ。 八木橋を渡って日置(現船井郡八木町日置)まで二里、日置峠を越えて上世木まで二里、上世木の手前にどみっとした深い川があり、高い吊橋がかかっていた。慶太郎が慣れた足取りで先に渡ると、橋は大きく揺れた。 王仁三郎はわら草履を出して、君のこぼこぼとはき代えさせた。「ええか、下の流れ見たら眼がまうで。兄さんの顔だけ見とってみい、こわないさけのう」 王仁三郎は、君の両手をつかんで、後ずさりに橋にかかる。橋が揺れる。「こわないで、こわないで」 握った手に力をこめて、王仁三郎が呟く。「ふん、ちっともこわないで」 こわいどころか、ぶらんこに乗っているようで面白くて仕方がないのに、とうとう橋を渡り切るまで、王仁三郎は君の手を離さなかった。 道は険しく狭い。人ひとりやっと通れるぐらいだ。君はさすがに疲れてきて、何度も訊いた。「兄さん、宇津はまだけ」「もうすぐや、もうすぐや」 その度に王仁三郎はなだめにかかる。 ――うちはよっぽど遠い所へ子にやられるのやなあと、ようやく故郷を離れた実感がわく。 黙り込んだ君に、しんみりと王仁三郎が言った。「お君、兄妹だけの嫁入りってめったにないで」 言ってしまってから、王仁三郎ははっとした。君はその意味をはっきり受けとめなかったのか、「ほんまやなあ」と軽くうなずく。 上世木から広い道を少し歩いて天若(現船井郡日吉町天若)、小茅を経、貞任峠まで一里強、突然眼下が開けた。「お君、ほれ宇津はあそこや」 王仁三郎の指さす先に、清流に沿った細長い村が見えた。足長自慢の杉たちが、直立不動で幾重にも山々の斜面をうずめている。青光る川をめぐって、麦の緑、菜の花の黄、れんげの桃色が、やわらかな市松模様を織っていた。 君に幸福を与えるために長い間そこに待っていた美しい村にちがいない。「わーい、わーい」 君は歓声を上げ、貞任峠の下り道を走った。あまり夢中で降りたので、桃割れの根がとんでくずれた。 小さな村を過ぎて、八幡神社の横の大きな屋敷の門をくぐった。 君は心臓が止まるほど驚いて、兄の袖を引いた。「兄さん、こんな大きな屋敷の子になるのけ」「違う。ここで一服して支度するのや。湯浅さんいうて仲人してくれはるのやさかい、ちゃんと御挨拶するのやで」 湯浅斎次郎と妻の小久が、待ちかねたように、王仁三郎と君を座敷へ通した。小西慶太郎は嫁入り道具を小西家へ運びこむ。 大きな鏡台の前に坐らされた君は、こわれた桃割れを結い直され、はげた化粧もなおされた。小久に頭を預けながら、君は植込みの深い庭や苔むした大きな庭石を珍しく眺めた。 座敷では、王仁三郎と斎次郎が語り合っていた。「よう辛抱するやろか。」という王仁三郎の不安そうな声が耳に残った。 ――うちのこと言うとってんやろかと、君はふと心細くなった。 式らしいものは別になかった。夕方から隣の八幡宮社の社務所で披露宴が始まった。君はここで初めて小西家の人たちに紹介された。でっぷりした大きな人が父さんになる小西松元、顔にみっちゃ(あばた)のあるきつい顔付きのすえが母さん――新しい父母は、にこりともせず、頭の先から爪先まで君を見まわしていた。「この人が息子さんの増吉さんです。先年、ロシアと戦って天皇陛下さまから金鵄勲章もらいなさった軍人はんや。今、縁あって、上田家と結ばれるのは、まことにめでたい。名誉なことですで」 斎次郎の増吉紹介のあとをひきとって、王仁三郎は君に言った。「この人とお前は死ぬまで仲よう一緒に暮らすのやで。可愛がってもらわなあかん」 増吉は父の松元を若くして痩せさせただけに見えた。黒くて太い眉毛の、右側のしっぽがちょっぴり短く切れているのが、君には面白かった。 君は増吉と並んで坐らされた。君の前に、皿に山盛りに盛った白飯が置かれた。それが気になってならない。「兄さん、あの山盛り御飯、うちが食べてもよいのんか」 それは花月飯といい、花と月を型どっている。つまり、きれいな花嫁が食べる飯というので、披露宴の時に花嫁の前にだけ出される宇津の習慣であった。 仲人の斎次郎は、こんな大盛り食わせられる君が気の毒と早飲み込みしたのか、親切に囁いた。「全部食べんでもよいんやで。お祝いやさかい、形だけ一口箸をつけておきなはれ」 ――なんや、つまらん。 一口だけつついて、恨めしく眺めた。腹がきゅうきゅう空いてくる。 酒宴が始まって、参列者たちの盃の献酬がたけなわとなる。小西松元の呑みっぷりは際立って豪快であった。 増吉は父に似ず、盃を持たなかった。誰かが酒を無理強いすると、脇の男がたしなめる。「あかん。花婿が酔っぱらって、金鵄勲章を警察にとり上げられたらえらいこっちゃ」「そうやそうや」と、まわりの者も同意する。 盃は増吉をのけて次にまわる。他人ごとのように、君はそれを聞いた。退屈な酒盛りは長々と続く。 早朝から支度にかかり、ずっと歩きづめで疲れていた。君はたまらなく眠くなり、こくりこくりと居眠りを始めた。王仁三郎があわてて君をつつく。「こら、こんなとこで寝る奴があるか」 王仁三郎は君を連れて、乱れたつ酒宴の席をそっと抜け出した。小久が、先に小西家へ連れて行くよう王仁三郎に耳うちし、すえがついてきてくれた。 八幡社の道をへだてた斜め向かいの崖下に小西家はあった。杉皮葺のマッチ箱みたいな家で、風が吹いても転倒しそうだ。六畳の台所の間と六畳の座敷の二間きりで、襖、畳も何とか原型を保っているに過ぎぬほど古びていた。 ……なーんや。焼けた穴太の家よりまだ小さい……。 君の夢は、この狭い家の門口に突っ立ったまま無残にしなびていった。 六畳の部屋の真ん中に重そうな蒲団が敷いてあり、暗いランプの光が二つの枕を照らしている。「兄さん」 君は王仁三郎の袖をつかんだ。「よしよし、恐がらんでもええ……」 王仁三郎はうめくように言った。「明日は兄さん、帰ってんやろ」 君があどけなく兄を見上げる。「明日は帰らな……」「ほんな兄さんと寝るのは今夜きりやさけ、手枕してや」 二つの枕は当然兄と一緒に寝るためのものと、君は思いこんでいる。「よっしゃ、寝たろ。はよ寝巻に着替えんかい」 君は母が縫ってくれた新しい寝巻に着替え、桃割れの髪を気にしながら兄の手枕で横になった。子にやるとだまして連れ出した罪悪感が、のっぴきならぬまで王仁三郎にのしかかっている。「増吉はんのこと、どう思う。ええ男やろ」「ああ、あの人……あひるがびっくりして逃げて行く時、あんなやで……ぐりぐり目して」「ほんまや、そっくりや、あはは……」 手枕がゆれて、君の頭ががくがくした。 笑いをおさめて、王仁三郎は真剣な声になった。「けどのう、お君、増吉はんは男らしい男や。仕事さしたら二人前するぞ。杉の枝打ちの名手やで。鉈で枝はらっても大工が鉋でけずるみたいに見事にはらいよる。増吉はんが打ったあとにはもう芽が出んくらいやと。魚取りもわしに負けんぐらいの名人や。金鵄勲章もらうほど度胸も勇気もある」 王仁三郎は君のために増吉の長所を数えたてながら、心の中ではその欠点も呟いていた。 ――勇気はあるけど気ままもんや。思いやる心がちょっと足らん。徳利に味噌つめたようなさばけんとこもある。増吉には人が寄りつきにくかろ。けれど欠点のない人間はいない。その欠点を補うのが、女房のつとめやぞ。 だがそんなことを言い聞かせるには、君はまだ幼すぎる。増吉の腕の中に放りこんで、夫の好みに何とか教育してもらわなければ仕方ない。「とにかくやさしい男やさかい、増吉はんに頼って暮らせよ。はい、はいと逆らわずに言うこと聞いてな。早速今夜から、お前の知らんことをいろいろ教えてくれはる。その通りしとったら間違いないのやで、お君……お君……」「ふん……」 たわいなく、君は夢路に入っていた。
 同じ頃、社務所では、馬さんという村の旦那が酔いにまかせて増吉にからんでいた。「お前に『早う嫁はんもらえ』言うてやったのに、『いやや、いやや』言うてもらわんさかい、どうや、しまいにあんな屑つかまんならん」 増吉は憮然とした顔で、ずっと心にかかっていた不安を口に出した。「あんな小そうて、お祭りできるやろか」 お祭りとは、この地方の方言で、女性との関係をさす。
 一時のまどろみに目覚めて、君ははっとした。王仁三郎の姿はない。半身を起こしてあたりを見回す。見知らぬ家、見知らぬ土地――一人捨てられたような淋しさにしゃくり上げて泣いた。 と、誰かがそっと入ってきて、無言で君をのぞき込んだ。暗いランプの光で、それが新しい兄の増吉だと知った。この家は狭いさかい一つの蒲団で二人ずつ寝るのやろと思い、君は遠慮して体をずらせた。 湯浅家で一夜を転々として明かした王仁三郎は、早朝に床をはなれて、こわごわ小西家をのぞいた。君は尻からげして勢いよく板の間を雑巾がけしていた。声もかけ得ず立ちすくむ王仁三郎を、すえがみつけて大声で言った。「会長はん、昨夜はそんなに心配することおへなんだで」
 半期ごとにくる富山の薬売りが、すえにしゃべっていた。「あんたんとこの嫁はん、前より大きなりましたなあ」 そんなことを来る度に言っていたから、君は結婚後も背はのびていたのだろう。といって、成長が止まってからも、やはり小柄は変わらなかった。その小さな体で、一人前の労働者として扱われた。 小西松元は宮守りしながら広前でお取次ぎ、増吉は枝打ちと雑魚取り、一反五畝の山田をすえと君が耕作した。 宇津は田が少なく、どの家でも一年分の飯米が足りなかったので、六里離れた八木まで米の買い出しに行かねばならなかった。五斗の米を八木から二回に分けて運ぶのが、このあたりの主婦の標準とされた。慣れぬうち小さな体で二斗五升の米を背負い幾峠を越えるのは、君には拷問のように苦痛であった。 宇津の近辺は典型的な悪路である。村人たちは、山々から伐り出した木材を筏にくんで大堰川に流し、遠く京都市内の嵯峨野まで運ぶ。五月十六日より九月中頃までは川の水を田へ引くので、水量が乏しくなる。筏流しの時期は申し合わせで、九月中頃より翌年五月十五日までに決まっている。 この筏流しの時期、材木を山から川ぶちまで運ぶ牛車がひっきりなしに通る。その牛車の重い轍が道をえぐる。雨水は道の両側の溝にたまってあふれ出し、晴天が続いてもぬかるんでいる。盛り上がってすべる道の中央をひろい歩きしながら、幾度、米の重みによろめき、足をとられて泥にまみれたことか。人に負けまいとして歯をくいしばり、泣き声を殺して、死ぬ思いで君は堪えた。「嫁はんは仇の末」という諺をすえは実践した。事あるごとに君につらくあたった。持って行きどころのない口惜しさに、君が夫に言いつけても、夫はきまって無条件で母親の肩を持った。 読めない字を夫に訊いた時、増吉は網の手入れをしながらぼそっと言った。「わしには、お前にそんなこと教える愛の持ち合わせがないのや」 君はきょとんとしたが、日がたつにつれて、その言葉は深く君を傷つけていった。愛とは、はるか遠く、君とは無縁のところにあるのだろう。それでも、君は自分を格別に不幸と感じなかったのは、雑草に育った強さであろうか。 すえが君の目前で近所の人にぐちった。「うちの嫁はんいうたら貧乏の宮はんで鳥居(取り柄)なしや。それにちょっと見てみい。頭からいうたら、縮み毛の、でぼちんの、奥目の、鰐口の、猪首の、猫背の、鰐足の、小人の、ぐずの、足の裏まで会長はんに似て土ふまずがあらへん」 君は記憶力がよかったので、一語も間違えずに頭に叩きこみ、それを綾部の大祭に参拝した時、真っ先に王仁三郎に告げた。王仁三郎はウーンとうなった。「わしの土ふまずのないとこまで、よう観察してけつかる。よし、お婆に言うたれ。一でいやな婆、二で憎まれ婆、三でみにくい婆、四で欲どしい婆、五で業つくばり婆、六でむずかし婆、七で情けない婆、八つやかまし婆、九つ小面憎い婆、十でとんでもない婆……」 君は間もなく身ごもり、翌年の春出産のために綾部に行った。あまりに若くして母となる君に、王仁三郎は胸をつかれた。「兄さん……だましてうちを連れていって……」 今更ながら、君がせいいっぱいの恨みをこめる。「子に行ったもんに、子ができるかい……」 いなしておいて、王仁三郎が君の肩をつかんだ。「君、そんなら帰ぬか……」 君の目に涙が湧き上がり、それからゆっくり首を左右に振った。 龍門館にま近い藁葺きの小さな家(通称お庭の間)で、君はまさやを生んだ。初産は思いの他軽かった。まさやは赤い顔をした小さな児。生まれて二十日しかたたぬのに、はやくさにかかって死んだ。 はやくさは口中に広がる白い瘡(鵝口瘡?)で、そのため乳が呑みにくかった。育児の知恵にうとい母親は、乳の呑み方が足りぬための赤子の衰弱に気づくのがおそかった。 何とか乳を呑ます工夫をして助けるすべもあったろうにと、年を経るにつれ、君は自分を責める。悲しむ間にも、次々と子供は生まれた。 愛を持ち合わせぬ、と言い放った増吉のその言葉の裏返しに、すでに愛はひそんでいたのだろうか。夫妻は十一人もの子を生んで八人を育て、二人を戦死させている。

表題:世界改造業者  9巻7章世界改造業者



 四月、直日は数え七つで綾部尋常小学校に入学した。家庭調査表の父の職業欄に、王仁三郎はこう書いている。 ――世界改造業者。 農商業がほとんどを占める綾部にあって、直日の担任の教師がどんな顔でこれを見ただろう。 明治四十一(一九〇八)年の王仁三郎の動きはあわただしかった。四月二十三日、直の命によって、下の大広前に艮の金神と並んで坤の金神を奉斎、夫婦神お揃いの祭が執行される。王仁三郎にかかるという坤の金神が初めて表に出たことによって、役員信者の王仁三郎に対する態度がかなり変わってきた。さらに王仁三郎の帰綾を知って、離散していた信者も集まり出した。かつての激しい火水の戦いは終焉し、直は王仁三郎に一切を委ね、神霊との交渉に明け暮れている。 本格的活動を始めるにあたって、王仁三郎は多年の懸案であった公認問題ととりくんだ。独立教団にしたいという願望は、お筆先を曲げぬかぎり当時の宗教統制策のもとでは不可能である。一時他の教団の下部組織へなりと隠れて、当局の干渉をかわさねばならない。 六月四日、王仁三郎は大成教直霊教会本院設置のための規約を作り、大成教管長の承諾を受けている。 教派神道十三派の一つである大成教は、旧幕臣で外国総奉行の平山省斎(一八一五~九〇)が組織した。平山は維新で追放され静岡に蟄居していたが、明治三(一八七〇)年に許されて東京へ帰り、官幣大社氷川神社大宮司となる。のち禊教・淘宮術・天学・蓮門教・儒教・心学など雑多な民間宗教を集めて教会を作り、明治十五(一八八二)年に独立して教祖となった。 祭神は造化三神を含める七神、あわせて教祖素山彦弘道命(平山省斎)はじめ教師・信者の祖霊を祀る。教義は天皇中心の惟神の道を強調し、信者たちは祓いの儀式・占星術・占卜術・予言術・瞑想の儀式を行ない、呼吸の調節を自在にする訓練をする。いわば大成教は、異質の教義を持つ雑多な宗教の人為的連合体であり、御嶽教も一時所属していたことがある。 王仁三郎がどういう方法で連絡をつけたか不明だが、大成教の性格から、大本を抱き入れることは比較的容易であったろう。 六月八日、龍門館で大成教直轄直霊教会本院の開院式を行なう。東京からは大教正井上信義と柴田・藤井の随員が来綾して亀甲屋旅館に投宿、開院式にのぞんだ。 龍門館の階下に大成教の祭壇を設け、階上に艮・坤の二金神をかくれ祀って、大本神の祭壇が官憲の目にふれぬようにした。悲しい擬装である。 八月一日、従来の金明霊学会を再編成して大日本修斎会と改称。九月には最初の機関誌「本教講習」を発行、文書による布教活動に着手する。しかし、機関誌といっても雑誌の体裁は整わず、四号を出して廃刊している。「本教講習」の二号には、神諭として、 ――ななおう(七王)もやおう(八王)もおう(王)があればせかいにはくぜつ(口舌)がたえんから、ひとつのおうでおさめるともおしてあるが、こんどのたたかいはおおたたかいであるぞよ、しんりき(神力)とがくりき(学力)とのちからくらべであるから、ほねがおれるぞよ。 などの筆先が掲載されている。 創刊号が残存せぬので確かではないが、おそらくこれが筆先の活字になった初めであろう。 九月二十五日、月のうち二、三度伏見へ通っていた王仁三郎は御嶽教大本庁理事・教師検定委員・評議員・大阪府教区庁長に任命される。御嶽教内でも重用される一方である。 十月一日、大日本修斎会は会則を定め、十三日にはこれを改正して十三章七十五条とし、王仁三郎を中心に教団の体系化を試みている。 十一月十三日、王仁三郎は御嶽教に辞職届を出すがすぐに却下され、同月二十六日の御嶽教大阪教会開莚式で斎主をつとめる。 十二月八日には綾部で大成教直轄直霊教会の開教披露式、あわせて秋季大祭を執行、新・旧信者百名ばかりが龍門館の内外にあふれた。前年の秋季大祭参拝者は全家族を入れてもわずか二十名に満たなかったのだ。 十二月十六日、京都府より王仁三郎に職務勉励の廉で慰労金七円を下賜される。 ――どういう皮肉や、王仁三郎はにやりと笑って懐にした。 御嶽教の職を辞した王仁三郎が本格的に綾部へ腰を据えに帰ってきたのは、十二月もかなりおしつまってからである。 龍門館に帰着するなり、王仁三郎は四方与平を呼んだ。「与平はん、ちょこっと買物頼まれてくれんか」 澄が横から言った。「買物ならうちが行きます。ついでがありますで……」「お澄では無理や、ちょっと大き過ぎる」「へい、何でっしゃろ」と、与平が訊き返す。「古家や。なるべく安くて大きな家や」 掌に握っていた五十銭銀貨一つを、王仁三郎は与平に押しつけた。「……」「古家を買うて来て、大広間を立て増す。御嶽教は辞めた。今日から綾部がわしの城や。参拝者はどんどん増え出す。このままでは狭うてどうにもならんわい」「あの……これで」 与平は掌の五十銭玉を裏返してみる。何の変哲もない五十銭玉、この年の米価にして米三升買うのがやっとだ。 王仁三郎は明るい笑い声を立てる。「なにしろこれが今のわしの全財産や。あんたもこれしかないと思えば、足を棒にしてでも安い家を捜し回るやろ。これと家さえ決めれば、これで手付けを打て。後の金はどうにでもなる」 実際、王仁三郎に金はなかった。今までのように教団経常費を役員に負担させることをやめ、修斎会の経費いっさいは王仁三郎の懐から支出することに決めたのだ。 湯浅斎次郎や吉田竜治郎という金持ちの入信者ができ、今までと違う大口の献金もあった。しかし動けば動くほど出費がかさむ。いつも無一文に近い中で仕事をした王仁三郎には、仕事さえすれば金が汗をかいて追いかけてくるという信念があった。「何をぼんやりしとるのや。はよう捜しに行かんかい」 追いたてられて与平が出て行くと、王仁三郎は澄に言った。「広間を立て増すだけやない、いよいよ来年は神殿の造営や。教祖はんも喜んでくれてやろ」 今年の旧五月二日に出た筆先は誰もが知っている。忘れているわけではなかった。 沓島から上がられ、弥仙山のお借殿で不自由をしのんでおられる艮の金神国常立尊が「雑なお宮でよいゆえに早く建てて下されよ」と、遠慮勝ちに申し出られてからもう半年になる。いくら神が神殿建設を望んでも、麦藁帽子のてっぺんの渦巻を作る澄の手内職でようやく出口家が食いつないでいる現状では、どうにもならなかった。 それを、さも成算ありげに王仁三郎は口外した。
 明治四十二(一九〇九)年を迎えると、王仁三郎は陣頭に立って、舎身活躍しはじめる。二月十五日には月刊機関誌「直霊軍」創刊、B五版八頁の小冊子で、発行所は綾錦社となっている。綾錦社はおそらく王仁三郎の自室であろう。印刷ははじめ福知山下柳の小宮活版所、三号から綾部南西町の塩見活版印刷所に変わる。 編集人湯浅斎次郎、発行者竹原房太郎とあるが、実際は印刷・製本・帯封書き・発送まですべて王仁三郎ひとりであった。さらに創刊号から四号までの原稿も、すべて王仁三郎の手になったと思われる。創刊号「発刊の辞」上田王仁三郎、「論説」百済博士、「実談無人島詣で」金明道人、どれも王仁三郎のペンネームだ。「落葉篭」という漫録や記事も王仁三郎の筆。 「文苑」という詩の欄には湯浅斎次郎、小西増吉、上田幸吉、竹原房太郎、田中善吉がそれぞれ詩一篇を載せているが、これらも王仁三郎の代作とみて間違いない。 王仁三郎がこの機関誌で最初に着手したのは、直の筆先の中での社会に対する予言と警告のくだりを解説的に外部へ出すことであった。筆先そのものは、第九号(明治四十三年一月十日)から四回にわたって「天の真奈井」と題して掲載されている。 ――神の方はいつ何時にでもかかるから、いったん新聞に出して日本へだけなりと見せておかねば、神の役がすまんから、この筆先出してくれいと申したらば、早く出してくだされよ。この出口にいま書かしたことを、せんぐり新聞に出してくださらんと、ものごとがおそくなりておるぞよ。新聞屋をせりたててくだされよ。(明治三十三年旧八月二十三日) 神は筆先を新聞に発表することを早くから要求していた。しかし原文の平仮名のままではなく、漢字をまじえて発表されている。筆先の場合、漢字がふり仮名の役割をはたす。 なぜ、四回までしか発表されなかったか。「大本七十年史」はその事情を説明する。「……王仁三郎は、筆先のなまのままを発表することに、非常に慎重であったということがある。筆先は平仮名ばかりで書かれているので、もし読み誤れば、多分に危険な誤解を生ずることになりかねない。これを読みやすく一、二の文字をなおしたり、漢字をあてたりすれば問題はないのであるが、当時の古い役員や信者の中には、なお王仁三郎に対する微妙な反発感情が残っていたし、大神の筆先をなおすことは、神を冒涜する悪神の所業として、はげしく非難されることも予想されたので、むだな内部的あつれきをさけるためでもあったという。さらに配慮された問題に官憲の目があった。筆先には、はげしい言句で、社会の不正矛盾を指摘しているものが多く、時代の悪弊を端的に突いている、かなりきびしい表現が内在していたからである……」 開教以来数年、丹波の片田舎で「立替え立直し」を叫びつづけた大本の主張が、当時の各教団では思いもつかなかった活版印刷によって、ひろく世人に訴えかけられることになってゆく。「直霊軍」第五号から千葉埴麿の署名が目立つ。彼は御嶽教でごろごろしていたが、そこを追い出され、王仁三郎を頼って夫婦で大本に転げこみ、「直霊軍」の記者となったのである。「祈祷禁厭神占等は本会の厳禁するところなるに、万一本会役員又は修斎と称するものにして、これを施行する者あらば御一報を乞う」「直霊軍」第七号(明治四十二年十一月十日)、第八号に掲載された緊急社告である。また十一号、十二号には、重ねて支部・会合所で鎮魂帰神の修行を禁ずる社告が出た。 ――大本の経綸は病気なおしではないぞよ。この大本は医者やあんまの真似はささんぞよ。三千世界のしぐみを取りちがいいたして、病気なおしに無茶苦茶に骨をおりて、かんじんの神の教えを忘れておる取次ぎがたくさんあるが、いままでのようなことはさしておかんから、めんめに心得て下されよ。(明治三十二年旧七月一日) 早くから筆先にある警告であったが、現実には神の霊験はまことにあらたかであり、宣教面で最も効果のある現世利益的な治病の取次ぎは止めることができなかった。おかげ信仰が信者の大方を占めているのだ。 この頃、小西松元は宇津から独断で綾部へ出てきて、広間へ先生顔して坐りこんでいた。王仁三郎の実妹君の舅である立場をふりかざし、病人を集めては薬の指図や鎮魂をやり出した。筆先と一体化している直は、広間での松元のやり方をきらい、中に立った王仁三郎がひどく気をもんだ。 鎮魂帰神が好奇心で行なわれたり、発動させることを目的とする傾向になりがちなのをおそれて、みだりにすることを許さぬ王仁三郎だったが、松元はそれを無視した。現に、病気治しさえすれば、信者は集まってくるのだ。 教団が急速に膨張する時、不純物のまじりこむのも仕方ない。しかも来る者は拒まず式の王仁三郎のやり方なので、好餌を求めて大本の中に雑多な人物が流れ込む。この時期、大本は激しい発展の勢いを見せつつ、一方ではそれを私欲に利用しようとする動きが現われるのもやむを得ない。 王仁三郎に拾われた千葉埴麿が、今度は法華坊主上がりの神道家宮沢円隆を大本に呼び寄せた。宮沢は「栃木県吉田村に時価二億円の金が埋けてあるから、それを発掘して国家のために尽くそう」と王仁三郎に提案した。 若い頃にはマンガン鉱探しに熱中し、高熊山修行後も松岡天狗にだまされ財布の代わりに牛の糞をつかまされた王仁三郎である。三つ子の魂百まで、この時にもまだ山っ気が完全に抜け切れていない。金を工面し、宮沢に田中善吉と小西増吉をつけて、吉田へ金掘りにやらせた。 宮沢の言葉は、まんざら根拠のないことではなかった。室町時代の武将結城氏朝(一四〇二~四一)が関東公方家足利氏の再興をはかり、関東諸家を糾合して幕府と戦い滅亡した際、莫大な財宝を出城であった吉田城(的場城)に埋めたというのである。 この結城氏埋蔵金は、人の投機心をあおり続けたらしい。古記録によると、正保五(一六四八)年・竹内某、元文二(一七三七)年・江戸の弥右衛門と佐兵衛、明和三(一七六六)年・孫右衛門、天明三(一七八三)年・眼科医中村至楽、天明六(一七八六)年・中村某らが掘り、大岡越前守が掘ったという口伝もある。明治二十二(一八八九)年、篠原某が七人の金主を得て延べ三千余人の人夫で蒸気ポンプを使用して掘り、明治二十六(一八九三)年、鈴木某らが神託により目隠しして祝詞を上げながら掘ったが徒労であった。大正年間には埼玉県の株成金熊倉某が大がかりな発掘を行ない、当時の金で二、三百円を投じたが金は出なかった。戦後は三五教が電波探知機まで持ち出してボーリングしたが空しかった。現今も発掘する者が絶えぬという。 宮沢円隆は明治三十八(一九〇五)年にも発掘しているが金が続かず中断、今度が二度目の発掘である。このあたりは砂礫地で掘るに従ってくずれるので、四角の枠を積み重ねねばならず、深く掘れば水が湧き、作業は困難を極めた。 小西増吉の軍隊手帳より当時の覚え書きを抜粋しよう。「……(二月)二十七日午後三時頃より大なる鉄の棒をもって箱の中を突く。二十八日も三ヶ所突くなれども何のしらせもなし。三月一日午後五時頃はじめて突き当たりたり、そは水面より一丈八尺の処に何かある様子なり……三日午後四時半頃はじめて水中にもぐり中の様子を見る……七日は午前八時頃より仕事に取りかかるなり、昨日より一人増えて八人となり、その名を記さん。宮沢氏・田中氏・小西・もぐり丸用内藤他一人・日用二人・高さん・福さん……本日十一日快晴、午前九時頃より取りかかるなり、午後五時頃仕事終わる。その夜九時頃伊沢氏(著者注 宿泊所の家主・共同事業者)来たり、種々様々話あり『今回掘り出しおれど、私は現われまいと思います。丹波の修斎会が集めた寄付金を他の支払いに使うとは道が違うと思う。金主しておる人が気の毒ゆえ修斎会の方は返済し、ほか金主を頼む』という話あり。またその名の者がエンジャク(燕雀?燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやの意か)と思い、実に驚きたり……朝外を見れば一面銀世界、風が非常に激しく、その日即ち十二日休業す。その時に自己の思いしは、まったく神がお怒りありて、今日も見るほどきびしきなり……十六日も天気なり。午前八時頃より開始、午後五時終わる。……夜いろいろ話あり……」 宮沢は王仁三郎から千余円の金を引き出し、さらに「金送れ」の矢の催促、しかも調べて見るとその金の大半を自分の借金返しに費消していることが判明した。 王仁三郎は田中善吉・小西増吉を直ちに引き揚げさせている。 明治四十三年三月十日発行の「直霊軍」雑報欄には「特別賛助員宮沢円隆氏は去月五日参綾し日々説教講演の上、同二十一日田中幹事を伴ひ、或大事業の為急遽某地へ向け出発せり」とあり、四月十日発行の同欄には「田中・小西両幹事、大事業の為東京方面へ出向中なりしが、本部多忙の為一先帰綾す」とあり、その間の事情をうかがわせる。 王仁三郎は「まただまされた」と一笑にふしたが、貧乏財政で一千余円を濫費したのだから、反対派に恰好の口実を与えた。千葉埴麿は野心家の小西松元と結託し、王仁三郎排斥運動に着手する。それを知った王仁三郎は思い切った行動に出た。「しゃらくさい、あいつの度胸を試したろ」 上田幸吉にそう言うと、王仁三郎は日本刀を下げて千葉の借家に行き、庭の榊の枝に切りつけながらわめいた。「千葉、出てこい。お前はろくすっぽ仕事もできんくせして、なんちゅうことをさらす。もう了見ならん、この刀でぶち斬ってやるぞ」 千葉は王仁三郎が発狂したと錯覚し、「こんな所にいたら殺される」とばかり、妻のかね子をせきたて一反風呂敷に所帯道具を包み、裏口からこけつまろびつ逃げ出した。千葉はちょび髭をはやした小男、妻はでっぷり肥えた大女でまさに蚤の夫婦であったが、その逃げ出す姿を見て王仁三郎は洪笑した。「阿呆なやっちゃ、一言詫びたら許してやるのに、今月分の月給もとらずに逃げ出しくさったわい」 小西松元も綾部におれなくなり、宇津へ帰った。松元の息子増吉は千葉や宮沢に抱きこまれて二人を宇津に連れ帰り、松元とともに大本へ反旗をひるがえした。 彼らは園部の片山源之助や浅井花らとしめしあわせ大本乗取り策を講じたが果たさず、ついにそれらの動きも消滅してしまった。
表題:鼬の最後屁 9巻8章鼬の最後屁                                   


 明治四十二(一九〇九)年初春、大日本修斎会京都支部(近松政吉宅)には、綾部から竹原房太郎と田中善吉が来て数日間滞在していた。近松家は政吉の妻自由と南部孫三郎の醜聞で一時支部を解散したが、その後王仁三郎の許可を得て復活していたのである。(第六巻「金明霊学会」参照) 折りよく参拝に来た政吉の娘安子を叔父田中善吉がつかまえた。「お安、会う度にきれいになるのう。今、お前のとこ訪ねていかんならんと思ったんやさ。どうや、梅田はんの道楽、まだやまらんかい」「へえ、あい変わらずどっせ……」 安子は視線をそらした。が、端麗な横顔に滲む淋しい翳りはかくしきれぬ。「困ったもんや。どうでも梅田はんに会いたいんやが、そんならいつ帰ってくるやらもわからんやろなあ」「どんな御用どす」「それですがな……」 竹原が勢いこんで立ち上がり、神前の三方から筆先の写しをとり出してきた。「これは昨年の旧五月二日に出たお筆先や。お安さん、まず拝読しとくれなはれ」 ――元の活神が沓島へ落ちておりたなれど、何かの時節が参りて来たから、明治四十一年の節分の夜に弥仙山まであがりておるぞよ。お借殿では何かの便利がわるいから、雑なお宮でよいゆえに早くして下されよ。「もったいなや、わしらの力が至らんさかい、三千年の間落ちておられて元の活神さまを沓島開きでようやくお上げ申したというのに鎮まっていただくところさえないもんで、弥仙山の頂上の宮に木の花咲耶姫さまと同居して不自由をしのんでござった。いよいよ大望が切迫して、元の綾の高天原、つまりは綾部本宮村神宮坪の内の元屋敷へ帰るから、ほんのおがら(麻の皮をはいだ茎)建てでもよいから宮を造れと、神さまがおせかしですわな。開祖さまは直ちにお引受けし、役員を集めて神殿建築をお命じなされた。誰それが用材を献木する、誰それは金を用立てる、誰それは労力を奉仕すると言うてくれてじゃが、何しろ信者というてもその日暮らしの貧乏人ばかりじゃ、一向にらちがあかん。暮れには会長はんが御嶽教から帰らはって、『これではならん』と本腰を入れ始めた。何せ、まず土地を手に入れることから始めねばならん」「土地いうてもなあ、龍門館の裏は薮やし横は桑畑で、あとはよその地面や。隣の四方源之助はんの屋敷に建ていと神さまは言うてじゃが、村一番の分限者に立ち退いてくれとも言えんわな。その上、『大広間も手狭になったさかい、同時に立て増しや』と会長はんが言うとる。金はなんぼあっても足りん」と、田中が思案顔になる。「それでわしら、京都の支部の人たちからも寄付を集めに、ここに御厄介になっとるわけですわな」 竹原の熱っぽい語に次いで、田中がいまいましげにぼやいた。「わしらは一生懸命集めとるのやが、京都の信者というても数が知れとる。思ったように金が集まらん。会長はんからは今日、『この忙しい時に役員二人まで出掛けて、いつまでぼやぼやしとる。この葉書着き次第すぐ帰れ』ちゅうお叱りが来た。人の苦労も知らんと。明日は帰るつもりやが、その前に梅田はんに会わんならん。というのは、来しなに教祖さまに御挨拶に行ったら、神殿建設の話は前に一度おいでたことのある梅田はんの耳にも入れとくようにと、わざわざ御注意があったのや。けどなあ、梅田はんに信仰があるわけやなし、まだ茶屋遊びがやまらんようでは、やっぱり無駄やろなあ」 安子の胸は、神殿造営の話で喜びに震えた。「そんな結構なことどしたら、なんでもっと早う言うとくれやしまへなんだんどす。梅田はお茶屋に流連けどすけど、四、五日たってお金がのうなると、きまって戻って来まっしゃろ。家へおいでやして、梅田が帰ってきたら、どうぞあんたはんからよう頼んでみとくれやす」
 夕方、安子の予測通り、梅田常次郎はひょろんと帰ってきた。「やあ、叔父さん、おいでやす。大本の役員さんもようおいで……」 常次郎は、田中と竹原に愛嬌のある笑顔で頭を下げ、後は二人を無視して大きな姿見の前に立つ。安子の手を借りて、着物から肌着まですっぱり着替えるのだ。それから卓袱台の前にあぐらをかく。「お安、すぐ飯や。茶漬けでよいえ。御馳走を食いあきたら、たまにはおこうこ(沢庵)で茶漬けもよいもんや」 竹原は常次郎の前に四角張って出て、神殿建設の事情を説明する。聞いているのかいないのか、常次郎は音をたてて茶漬けをかきこむ。秀でた額、高い鼻、意志の強そうな口元、それらが憎らしいほど冷静にとり澄ましている。 田中は焦れて、声を高めた。「梅田はん、お聞きの通りや。お安も熱心に信仰しとるこっちゃし、柱一本、瓦一枚でもよいさかい、寄付しておくれんかい」 梅田は箸の先で歯をほじくりながら、そっけなく言った。「わしは信心が嫌いやないで。こどもの頃に紙に自分で神名を書いて拝んどったぐらいのもんや。もう七、八年前かしらん、お安に無理矢理連れられてやけど、綾部にも参らしてもろた。けどなあ、大本の神さんはさっぱり有難い気がせんのや。有難いとさえ思わしてもろたら、まだ親がかりでかたまったことはできいでも、柱一本、瓦一枚、そんな物は邪魔くさい、屋根代ぐらいは出しまっせ。けど心がちっとも動かんさかい、どうしようもない。有難くもない宮建てて大本の神さん拝むより、祇園の芸妓の観音さんでも拝んどる方が、なんぼ結構やわからん。へんな話をするさかい、また里心がついたやないか。ほんなお安、行ってくるで」 常次郎は箸を置くなり立ち上がり、箪笥から金をつかみ出して袂に入れ、銭湯へでも行くような調子で、ぷいと表へとび出した。竹原と田中は、気まずい顔を見合わせる。安子はうなだれて、白くて長い指先のこわばりを見詰めていた。
 お宮建設の御用から取り残されねばならぬのは、夫の浮気に耐えるよりも一層苦しくせつなかった。泣いて縋って夫に頼めば、いやいやながらも少しの寄付ぐらいはしてくれる気になったかも知れぬ。しかし安子の性格では、それができなかった。 行燈のほの灯りで天井を眺めると、梅田といっしょになったその日から煩悩に悶えたあしかけ十年の日々が思い返されてくる。「綾部さえ連れてってもろたら、旦那はんがお遊びやしても……じっと待ってまっせ。そやさかい、どうぞ……」 夫の浮気公認と引替えに綾部へ連れて行ってもらったのは、明治三十三(一九〇〇)年七月であった。夢にまで見た教祖出口直との対面は、いっそう安子の信仰を燃え上がらせた。けれど信仰したからといって、禍いが避けて通ることはなかった。あるいはと期待した常次郎の素行は、参綾によって治まるどころか、むしろ逆であった。安子の言質を得て、さらに公然と茶屋遊びを続けた。 明治三十六(一九〇三)年七月、常次郎は廃嫡をとり消され、通いで、親元の呉服お召問屋梅常の店に坐るようになった。いかにも商売人らしくない若主人であったが、常次郎がおっとりと坐っていると不思議に客が寄ってくる。それでも店の実権はあい変わらず義母テルががっちり握り、口出し一つ許さなかった。月末になると、番頭が安子の元に月々の金を届けにきた。常次郎の茶屋遊びは、その間も続いていた。 常次郎は「芸者のあだっぽい立ち姿が身震いするほど好きや」と言い、贔屓の芸者に梅常から持ち出した呉服を着せてはあかず眺めた。常次郎の柄の見立ては天才的といってよく、それぞれの顔立ちや姿に応じて選んだ着物は、これ以外に考えられぬほどぴったりと似合った。芸者ばかりではなかった。店の客も常次郎の柄の見立てに魅せられて、喜んで買っていった。迷っている時でも、常次郎の坊ちゃん然とした様子を見ると、ことわるのが気の毒で買わずにおれなくなるという。気が向けば常次郎は柄を考案して梅常で作らせたが、その反物は、目のある客の垂涎の的となった。 七月三十一日、四魂揃うた岩戸開きのお礼、三代の世継の決まったお礼などを兼ね、出口直、王仁三郎、澄、直日ほか役員信者が多数揃って七社参りをした。七社とは、綾部町の産土神社七社(熊野新宮社・若宮八幡社・八幡宮・二の宮・三の宮・笠原社・斎社)を指す。安子ははるばる京都から参拝し、身も心も清らかな感動に酔いしれて帰ってきた。 安子の留守中、夫は芸者お光を身請けして、近くに妾宅を持たせてそこに入り浸っていた。 梅常からの仕送りは茶屋遊びとお光の生活費に消えていく。幾夜も一人で考えたあげく、安子は表を改造して小さな煙草屋を始め、そのわずかな利益で細々と食いつないだ。間なしにお光は身ごもり女の子を出産、続けて翌年、男の子を生んだ。二度とも、安子は産着を縫って贈った。 お光の母親がやって来て、産婦の枕元で責めた。「立派な梅常の跡取りがでけたんどっせ。石女のお安など追い出して、あんたが本妻におなりいな。どうせお安かてまだ籍に入れてもろてへんのやし……よいか、今夜は必ず梅田はんにねだって、しっかり梅常を握るのやで」 気の弱いおとなしいお光は、生さぬ仲の母にけしかけられる程おどおどとして、それを常次郎に言い出せなかった。すると母親は、「この甲斐性なしの不孝者」とお光をののしり、さらに激しく責める。母と本妻安子への気兼ねの板ばさみになったお光は産後五日目、狂って家を抜け出た。安子はお光を捜して連れ戻し、癲狂院へ入院させるまでのいっさいの世話を見た。 常次郎は茶屋に入り浸って帰って来ない。一月ほどして、煙草屋の店先にお光の父親があらわれた。くたびれきった初老の男で、自信のない目付きをしていた。「お光が癲狂院へ入ってから、梅田の旦那はんは、一度でも見舞いに来てくれはらへんやんか。ときどき正気に返ると、お光は赤子や旦那はんのことばっかし言うて泣いてるそうどすわ。奥さんにこんなお願いできた義理やおへんけど……ちょっとでよいさかい、あの子に旦那はんの顔見せたっとくれやす」 安子の言うことなど、聞く常次郎ではない。いつ帰るやら分からぬ常次郎のために買ってあった好物の金鍔をすすめながら、言葉を尽くして慰めるだけであった。「……お医者はんは治ると言うてはるけど、ようなったらきっと旦那はんの足は向きます。それまで辛抱させとくれやす」 お光の父は、やさしい聴き手を得て、いつまでも愚痴った。おもに後妻への不満であった。「あんたみたいな良いお方を苦しめて、お光が気違いになるのも当たり前どすわ」 最後にそう言って、お光の父はしょぼしょぼと立ち去った。 ――良いお方……あてが良いお方……。 安子は畳につっ伏した。お光の父さんがあての心をのぞいたら、きっと震え上がってやろ。落籍されて初めて常次郎に抱かれた時、安子はなぜか燃えなかった。妻であろうとあせる心とはうらはらに。その時の常次郎の興ざめた顔が忘れられない。それ以来、安子は女らしく甘えてより添うしぐさが出来なかった。身も心も乱れて溶けるような愛の情感などとは無縁だった。体がそうできているのか。そのくせ嫉妬は火を吹き、激しく身を焼き焦がす。女の生理の妖しさでもあろうか。貞女ぶった固い仮面が顔に貼りついてしまっただけ、それだけ心の中は焼けただれている。 安子には決して与えられなかった子をお光がやすやすと生み落とした時、安子の痩せた身は、憎悪の刃と化した。二人目の男の子の産着を縫う手先が震え、幾度も指に針を刺した。やさしい言葉をお光に吐きかけながら、なお押さえきれぬおのが嫉妬の毒が、目には見えぬ霧となってお光をとりまき、気を狂わせたのではないか。 自責の念が二重に安子を苦しめる。生きながら地獄へつらなる我が想念の恐ろしさに、神前に手を合わすこともできず泣きあかす夜々であった。 やがてお光は退院してきたが、常次郎の心はお光に戻らなかった。「甲斐性なしのお前が言うこと聞かんさかい、あてまで阿呆な目ェ見るわいな」 義母の毒づきと厭味の中でお光の病気は再発し、癲狂院で死んだ。とり残された幼い女の子は里子に出され、男の子は江州の渋柿問屋に養子にやられた。 お光の遺体が帰ってきた時、安子は呟いた。「あんたはまだ仕合わせどっせ、もう苦しみからぬけてしもたんやさかい。あてには、まだまだ続くのや。業やな……業や、業や」 安子は遺書を書き、部屋の額の裏に短刃と共に隠した。忍べるだけ忍んでお光のように気が狂いそうになったら、いつでもわが胸に短刃を刺す覚悟であった。自分を刺すつもりの刃が、どう間違って夫や女の胸をつらぬかぬという保証もなかった。 何度か短刃に手をやりながら、その度に思い止まったのは、出口直の言葉があったればこそである。 安子の心をのぞくように、直は言った。「死んだら今の執着から逃れられると思うてはなりませんで。肉体を持って超えられなんだ業は、魂につきまとうて果てはせぬ。辛抱するんやで。だるまの絵に、ほれ、お足を書こまいがの。お安さん、わかるかい」 ――いやどす。そんな死後の世界などなければいい。あては灰になって散ってしまいたい……。うつむいた安子の全身がそうもがいていた。しかし、直に逆らって死にきれはしない。 信仰は安子の発作的行為を止め鎮痛剤の役目をしても、治病力はないかのようだ。あるがままの夫を認め、許し、無我の愛でやわらかく夫をくるむ芸当など出来はせぬ。いっそ常次郎の女たちへ向く目をつぶし、女たちに触れる手を断ち切ってやりたい。 常次郎の心を女たちから引き離し、少しでも神に振り向けさせられたら……大本に入信してくれさえすれば、きっと夫の浮気はおさまろう。 その執念をこめて、安子は直からいただいて肌身につけておいたおひねりさん(筆先を書いた紙片)を御飯にまぜ、一週間、常次郎に食わし続けたことがある。知らずに食った常次郎は、便所へ行く途中で卒倒した。安子は驚いて神前に供えてあった御神水を飲ませ、祝詞をとなえる。常次郎はやがて意識をとり戻した。 この時とばかり、安子はきっと身を構えて常次郎に向かった。「旦那はん、あんたはんほど幸せな人はおへんえ。お金はあるし、ひまはあるし……けどそれを良いことに使いなはったらよろしいのに。おひねりさんを頂いて気絶して、御神水で息を吹き返しなはった。これが神力、神さまのお気付けというものどす。それが分かりなはったら、ギャッと心を立替えられまへんか」 常次郎はふらふらと立ち上がり、苦笑した。「お安、お前は結構なやっちゃ。神さんさえあったら他には何もいらんのやろ。かわいい女さえあったらよいわしと、ちっとも変わらへん」 こういう出来事があっても、常次郎の心を神に向けることはできなかった。夫はいっそう神から、安子から遠のいていった。
 竹原と田中がむなしく引き揚げて四日目、安子は近松家へ行った。父母の顔を見たいからではなく、支部に参拝するためである。支部の神前に平伏していると心の炎症は鎮まり、一時なりと妄想がかき消える。 支部には、ちょうど綾部から上田王仁三郎が来合わせていた。「先生、いつおいでやしたんどす」「今さっきや。忙しさけ、今夜すぐ帰ぬ」「へえ、そら忙しおすなあ。よほど大事な御用どすか」「なあに、梅田はんに会いに来たのや。いま、おってかい」 安子は教祖を生神とまで信じているが、会長のことは軽く見ていた。役員信者間に根強く残る「小松林の容器・悪神の型」という王仁三郎観を安子もまた持っており、これまでもできるだけ避けようとしていた。けれど常次郎に会うためにわざわざ出て来たのなら、お宮の御用に関してのことだろう。役員はだめでも会長はんなら旦那はんも折れるかも知れんと、安子は期待に胸をはずませる。「四日前に遊びに出たきりどすさかい、今日は帰って来まっしゃろ。先生、うちへ来て待ってくれはりますか」「ああ、そのために来たんや」「こないだ竹原さんや田中の叔父さんが来やはったけど、なんにもなりまへん。どうぞ梅田に神さまが分かるよう、有難いお話しとくれやすな」「よっしゃ、有難い説教したろ。案内してくれ」 安子は王仁三郎を連れ帰って、奥の座敷へ通した。常次郎の趣味は茶屋遊びのほかに人形蒐集があった。部屋の幾つもの棚には美しい着物をつけた人形がぎっしり並んでいる。だが王仁三郎は人形の脇に置いてあった二絃の琴を吸われるように見詰めた。安子は常次郎不在の無聊をわずかにこの八雲琴で慰めていたのである。「先生、八雲琴、お好きどすか」 安子の言葉に答えず、王仁三郎は琴を座敷の真ん中に持ち出して、爪弾き始めた。 王仁三郎は、瞳をきらめかせて安子に言った。「この二絃の琴は、古事記にある天沼琴が起源なのや。つまり、須佐之男命がその女須世理姫と大穴牟遅神(大国主命)に授けられた三神宝、生太刀・生弓矢・天沼琴の一つ……息長帯日姫(神功皇后)の帰神の時、神霊降下の祈りをこめて仲哀天皇のひかせ給うた大御琴も同じや。わしは琴の代わりに天の岩笛を吹くことを教わったのやが……」「そう言えば、初めて手ほどきされた曲が須佐之男命の出雲神歌『八雲立つ』どしたえ。この神歌にちなんで、八雲琴、または出雲琴とも名付けられたそうどすえ」「それを聞かせてんか」 王仁三郎に請われるまま、安子は出雲神歌を詠いつつ弾いた。二絃の琴ながら、五音六律の澄んだ音色のなかには神代の昔から秘められてきた日本民族の伝統と神さびた清らかさがあった。 現今の形の八雲琴は、文政三(一八二〇)年、伊豫国宇摩郡天満村の中山琴主が創始したものといわれる。琴主は生まれながらの盲目であったが、産土神である八雲神社に祈願をこめ、目が見えるようになった。後、出雲国天日隅宮に参篭し、神示を受けて、この二絃琴をつくった。曲は古事記、万葉集、古今集など古典から歌詞をとった上の巻三十六曲、国学者の歌った下の巻三十六曲、合わせて七十二曲を本曲という。幕末から明治中期にかけて江戸・京都などの上流の人々の間に広く学ばれたが、神前に捧げる調べとして三味線・尺八などとの合奏を禁じ、俗曲は弾いてはならぬなどあまりに厳しい定めがあるために、この頃は弾く者さえ稀であった。 王仁三郎は琴の譜面から顔を上げて強く言った。「お安さん、いまのうちのよう勉強しとけよ。いずれ役に立つ」「なんでどす」「大本に必要な時が来る。頼むで」 夕方になって、常次郎が帰ってきた。九年前に梅田夫婦が初参綾した時は王仁三郎は不在だったので、常次郎とは初対面である。互いにさりげない挨拶をする。王仁三郎三十九歳、常次郎三十一歳。 常次郎が安子の袖をそっと引いて、次の間へ行く。「おい、お安、あんな『祓い給え』、誰が呼んで来た」「へえ、おなじみやさかい、寄っとおくれやしたんどっしゃろ」「あんな者は出入りさせなや。『祓い給え、潔め給え』とか、何とかぬかして、金をとりに来る手合いや。役員があかなんださかい、親分が乗り出して来よったんやろ」「そんなふうな考え方せんといてほし。あても綾部へ行ったら、お世話になってます。せっかく寄ってくれはったんやさかい、夜御飯など御馳走しとおす。支度するまで、すんまへんけど相手になってあげとくれやすな」「悪い時に帰ってきたもんや。しゃあない、今度だけやぞ」 常次郎が観念して座敷へ行くと、王仁三郎は畳の上に置いた達磨を握りこぶしで踊らせて遊んでいた。その無心な様子に、ふっと心の警戒がゆるんだ。 台所で聞き耳たてる安子に、聞こえてくるのは王仁三郎の気楽そうな馬鹿話である。「わあ、台所からええ匂いがしよる。匂いといえばなあ、梅田はん、わしは生まれてからあんな妙なもん見たこともないし、あんな怪体な匂いもかいだことないで……」「そら何のことどす」「まあ、お話にもならんくらい、ひどいもんや。十二、三年前やったが、わしは郷里の穴太で二、三人と組んで精乳館いう乳屋をやっとった。一日の仕事も終えた夕方、白い浴衣に着替えて外の薮小路に立った時や。西の方から青い稲田をわたって幅二尺ばかり、長さ六、七間の真っ赤なもんが、大蛇のうねるようにやってくる。近寄るのをよくよく見れば、何と貂くらいもある大鼬が二匹先頭に立って、その後から数百匹もの並みの鼬が行列をつくって歩いとるんや」「ちとそれは大袈裟やおへんか。六、七間で二列ならまあ七、八十匹ぐらいやないと……」「気にするな、なにせ多いいうことや。数十匹でも数千匹でもどっちゃでもよい。それはおもろい方に考えとけ」「ふーん、それで」「狐の嫁入りやのうて鼬の嫁入りか、一族郎党引き連れての大引越しか、それともなぐりこみの一隊か。今なら行列の最後についてってそっと見届けたいとこやが、その頃はわしも若いし、殺伐たるもんやった。いきなり稲田にとび込み、手当たり次第にひっつかまえて、路上に投げつけ、投げつけ……」「無茶ァしなはる」「四、五匹ばかりふんのびとるうちの一匹を、鼬の親玉が足ひっかついで薮の中に逃げ込みやがった。薮は竹の子が出来る頃で厳重に垣が結うてある。あちこち走り回るうち他の死体までうまいこと持ち去られてもて、敵は薮の中からケチケチ奇妙な声をあげて騒いどる。仕方なく残る二つの鼬の死体を持って帰った。わしら百姓は、鼬のわるさには、日頃ほんまに参っとったんや」「……」「さて、その死体をどうしたもんか。わしには獣医学の素養がある。さっそくメスをふるって、得意になって解剖を始めた。ところが、うっかり鼬の屁ぶくろを突いてしもて、ふんぷんたる毒ガスをまともにくらった。やっこさん、発射寸前にやられて執念こめたる最後屁やろ。さあその臭いの臭くないの。鰯のどうげん壷をまぜくりかえしたどころの臭さやないで。鼻も顔もはれ上がったようになってもて、三度の飯ものどに通らん。いかなる悪臭いうても、鼬の最後屁にくらべたら愛らしもんや。四、五日は寝込んでしもて、見舞いにきよる友だちまで鼻つまんで逃げていきよる。こうまで臭いとは思わなんだ。鼬死しても屁を残す。一匹でもこのくらいや、あの数百匹の鼬の屁士の総攻撃くらっとったら、今頃は命もあらへんわい」 日頃、笑顔も惜しんでみせぬような常次郎が、大声をあげて笑いころげている。 ――何がおかしかろ、こんな阿呆なこと言いに綾部から来やはったんかいなと思うと、安子は腹が立ってたまらない。 夕食の支度ができて、三人が膳につく。 王仁三郎は麩を口に入れて、また話し出した。「そうそう、麩といえばのう、丹波と摂津の国境に吉野峠というところがある。この辺は茶・栗・柿・高野豆腐・湯葉・麩などが名産や。阿呆由という男がいて、主人の言いつけでそれらを一荷ににない、亀山といった頃の亀岡地方へ行商に出掛けた。さて売り声じゃが、茶・栗・柿・麩の四つの品を一つにまとめて『ちゃっくりかきふー、ちゃっくりかきふー』、何のことやらわからんので、さっぱり売れん。帰って主人に報告すると、大目玉を食った。『今度から茶は茶で別々に言え。よいか、みんなそれぞれ別々に言うのや』、そこで阿呆由は『茶は茶で別々、栗は栗で別々、柿は柿で別々、麩は麩で別々……』とどなって歩き、また失敗や。今度も主人に叱られた。『売り声があまり丁寧過ぎる。もうちょっと短く言わんかい』、阿呆由はあらん限りの知恵をしぼって、亀山の町を大声で売り歩く。『茶別栗別柿別麩別……』、『茶よい栗よい柿よい麩よい』、この二つの売り声を、かわりばんこにどなる。やっぱり一つも売れんさけ、帰って主人に叱られるのが心配で山間の溜池に身を投げてすんでに死ぬとこを、誰かに助けられた。仕方ないので麩一品だけ持たしてやったら、朝から晩まで口とがらして『ふーふ、ふーふ』……」 のみ下した食物を吐き出しはせんかと思うほど、常次郎が笑った。安子一人、つんとすましている。今はこんな馬鹿話しとってやが、食事が終わったら改めて神さまの話が出るやろと思って辛抱しながら。しかし食事が終わると、王仁三郎は言い出した。「話に夢中ですっかり長居してしもうた。今から綾部へ帰ぬわ」 安子は目くばせしながら、「先生、せっかく来とおくれやしたんどすさかい、まだよろしおすやろ。一晩でもゆっくり泊まっとくれやす」「そうしとれんわい。何しろ席が暖まるひまのないほど忙しい身や。ほんな御馳走になりました」 言うなり、草鞋をはいて表へとび出す。安子が続いて外へ出、追いすがって、うらめしげに訴えた。「先生、あんな話しといやす間に、何で神さまの話しとくれやしまへんのどす」「あれでええのや。時節がくるとのう、梅田はんはわしの手紙一本ですぐ綾部までとんできよる。けどお安さん、梅田はんが神さまの方向いたら、お前らの信仰など足元へも寄れんで。そうならんように、あんたも身魂みがいとけよ」 ――ふん、うまいこと言いなはる。 ひょうひょうと去り行く王仁三郎。安子は、会長にまで見捨てられた淋しさにうちのめされた。 しょんぼり帰ると、常次郎は仰臥しながら思い出し笑いしていた。「ああ、腹が痛いわい、久し振りによう笑うた。変わった『祓い給え』や。えらいあっさり帰りよったが……」 その口ぶりは、用事がなかったことが物足らぬげであった。

表題:神霊迎え 9巻10章神霊迎え



 明治四十二(一九〇九)年四月二十四日、大広間の材料が並松河畔に到着した。昨年暮れ、王仁三郎から五十銭を握らされて四方与平が古家探しに奔走した結果である。 与平の買物は北桑田郡大野村(現北桑田郡京北町大字大野)味噌淵の高見米次郎所有の木造二階建一棟で、三月二十八日に購入、実際の買い入れ価格は不明である。これを解体して筏に組み、棚野川、由良川と流して運んだ。 翌二十五日、藤葛でつないだ筏をはずし、土堤まで上げる。それを大八車に積み込み、大本まで運ぶ。四方平蔵、野崎友吉、時田金太郎、森津由松、中村こまらが労力奉仕した。呉の軍港から帰綾した上田幸吉の元気な姿も見える。彼らの服装は、おもに筒袖の木綿の着物、パッチ、草鞋ばきで、手拭いで鉢巻していた。 王仁三郎は、造営につき大工の白波瀬弥太郎(三十三歳)を招いて打ち合わせ、さらに翌二十七日、神殿の参考に四方与平、白波瀬を連れて味方の黒住教の建築様式を見学に行く。 この建物は、昔、出口直の夫・名人大工出口政五郎が建てたものと伝えられる。 四月二十九日、多忙きわまる間をぬって、王仁三郎は宇津に出向いた。小西家での妹君の暮らしをのぞき、湯浅家を拠点に宣教する。 五月二日、神殿の製図ができ上がり、伏見の瓦師安田荘次に送付する。 五月五日、湯浅家に滞在中の王仁三郎に、三女誕生の電報が届く。「また女子や、澄の奴……」 言いつつ帰り支度を急ぐ王仁三郎に、おさえきれぬ喜びがあふれている。 斎次郎が送って出ながら、首を傾げた。「昨年、初めて参拝した時に、教祖さまが神憑りして『綾部へ来い』言わはりましたやろ。しかし、材木の仕事が忙しゅうて義父は嵯峨に行ったなりですし、宇津は材木と畜産組合の仕事が重なって、わし一人で切り回さんなりまへん。それに今年は村役が三つも回ってきます。養蚕やら百姓やら……とても綾部へ移れる状態やない」「そうか、そうか……」 事もなげにうなずいて、王仁三郎は肩を叩いた。「お父さんは嵯峨から帰って留守してくれはるし、村役はちゃんと代わってくれる者がおるわい。わしが呼ぶのやない、神さまが引き寄せはるのや。神さまには勝てんでのう……」 その日のうちに宇津から帰った王仁三郎は、三女に八重野と名づける。大広間建築の熱気がみなぎっていた。「勇ましい槌音の中からこの子は生まれましたのやでなぁ」と澄は誇らしげである。端午の節句に、はやくも大広間の上棟式が行なわれる。神殿造営を直は知っていたが、大広間の件に関しては、全然知らされていなかった。王仁三郎の独断である。万一の反対を恐れたし、驚かせようという茶目気もあった。 直は終日部屋に篭って筆先を書いており、五月の空に木霊する槌音を聞きながら、近所で普請でも始めたのかと思っていたという。神殿の敷地もすでに入手していた。 宮敷地三百六十坪は地価七十銭の所、「大本はんに今度京都の大金持ちの信者はんがでけたそうや」という噂がとんで、たちまち地主が一円に値上げした。土地買収費三百六十円は、梅田常次郎の献金の五百円を割いてあてられる。 役員信者たちの気勢はとみに上がり、四方与平、四方平蔵などの古い信者たちもなけなしの財をはたいて用材を献木、湯浅斎次郎からは当座の費用としてまず七十円が送られてきた。献労を申し出る者も続出した。 神殿造営の棟梁と決まった近松政吉は、まず綾部本宮村に一戸を買って、妻自由と五人の子供を連れ移転してきた。近松家が移転したあとの京都の大日本修斎会支部は、長女の梅田安子が世話をする。次女のまきは二十四歳、自前で出ていた芸者をやめて一緒についてきた。まきは京舞の名手であり、姉の安子とはまた違ったはなやいだ雰囲気を持っていた。長男の光次郎は綾部で奉仕生活に入ってからもう六年になる。 明治二十五年から艮の金神は綾部を「昔から神が隠しておいたまことの地場である」と言い、特に本宮を「宮屋敷として神定められており、人民の住いいたす場所でない」と示した。そして直の口を借りて、「家売って下されよ、家持って立ち退いて下されよ」と叫ばせた。村人たちは直を狂人とし、座敷牢に閉じ込めて、まともに耳を貸す者はなかった。今、ようやく神の言葉が現実となり、本宮村の土地が急速に大本の手へ移りはじめていた。 宮の建設用地を手始めに、梅田常次郎の献金によって四方松之助より畑一畝十九歩を十二円、さらに四方源之助より宅地一反十一歩及び地上の立木共土地家屋全部(四百九十四坪)を四百六十九円三十銭(坪代金九十五銭)で買収する。 出口家の親方であり、組頭であり、また、澄に惜しみなく母乳を与え、龍を奉公させ、一時は養蚕室を艮の金神の広前として、どん底にあった直を誰よりかばってくれた四方源之助であった。 澄は幼い日、眠い目をこすりこすり、雪の夜半を四方家に走って、ひそかに水をまき、土をまいたことを思い出す。すべては艮の金神の指図であった。「家屋敷を買ってほしい」と申し出る四方源之助、受ける直の胸中は感無量であったろう。四方家の屋敷の西北にあった榎の大木は、今日でも神木として幾多の風雪に耐え、そびえ立っている。 王仁三郎が陣頭指揮にあたって、工事は早朝から日没まで精力的に進められ、早くも大広間は五月下旬に完成した。増築部分は龍門館の東側につぎ足され、北側から順に玄関・四畳半・大広間(約三十畳)・六畳・六畳、それぞれの襖を開ければ五十畳近くになる。二階にも広い部屋があった。神殿は増築部分から渡廊下でつないで、さらに南側に造られる予定であった。
 六月二十一日に田の植えつけを終わり、湯浅斎次郎は翌二十二日早朝、宇津を発って、昼頃に本宮村へ着いた。わずかの間に龍門館は建て増されてどっしりと厚みを持つ。その奥には神殿建設敷地として幔幕が張られていた。白木の祭壇の前には、すでに神饌物が供えられている。「やあ、よく参ってきたのう」 斎次郎が近づくと、王仁三郎が声をかけた。「今日はなんぞありますのか」「お宮の地鎮祭やないか。あれ、葉書出せと言うといたが……」 王仁三郎がかたわらの四方与平をみる。「ほい、ころりと忘れてましたわ」 律儀そのものの与平が、王仁三郎の頼みを忘れるなど珍しいことであった。 王仁三郎は与平を咎めず、感慨深く言った。「知らさんのによう来た。惟神やろ。湯浅はん、神さまにお礼しよかい」 地鎮祭に先立って、三人は神言を奏上した。と、祝詞半ばでどこからか小さな蜜柑色の蛇があらわれ、祭壇にするすると上がる。王仁三郎が手に持った扇子を出して前に置くと、蛇が扇子に上がってとぐろを巻き、首を三寸ほど立てて拝礼する姿になった。斎次郎が驚いて与平と顔を見合わせ、再び目を元に戻すと、もう蛇の姿はない。 終わって王仁三郎に連れられ、龍門館の二階へ直に挨拶に行った。「先生、いま龍神さまが御神殿のお祝いに行きなされましたが……」「はい、お喜びでしたなあ」 平然と語る直と王仁三郎であった。
 八月三日、神殿斧始祭執行。建築主任は上田王仁三郎、世話方は湯浅斎次郎と梅田常次郎、会計係は四方与平、棟梁は本殿を近松政吉、仮教祖殿を太田喜平、拝殿を白波瀬弥太郎と決まる。 十曜の神旗のひるがえる中で、大本の役員信者たちは献労にいそしむ。 神殿造営の世話方に選ばれた梅田常次郎は、ほとんど京都を留守にして綾部に居ついた。宿舎は綾部に移住した安子の実家近松家であった。 「直霊軍」と白く染め抜いた法被を着た常次郎は、連日工事現場に出て汗を流した。白い肌がたちまち浅黒く逞しくなった。生まれて初めての肉体労働であったが、常次郎の全身には喜びが満ち溢れていた。 一人留守をして京都の支部の世話をする安子であったが、彼女もまた、かつてないほど安らいでいた。夫が神さまの傍近くにいるというだけで、幸福だった。 八月二十五日午後から神殿の立柱式、上棟式が行なわれた。安子も京都から駆けつけた。直は澄と安子の付き添いで斎主をつとめ、副斎主は王仁三郎がつとめた。役員代表梅田常次郎、信徒総代西岡弥吉、その他の役員信者多数が居並ぶ。祓戸行事・立柱式行事、続いて上棟式行事に移る。 近松政吉と白波瀬弥太郎が梯子をするすると登ると、北面して棟に立つ。柄に白い熨斗を巻いた掛矢を「よーい」と振り上げ、「とん」と棟を打つ。 よーい、とん、よーい、とん、よーい、とん……。 うっとりと見上げる常次郎の傍に、王仁三郎が並び立った。「梅田はん、おかげでここまでできた」 語尾が感動にかすれて震える。 棟を見上げたままうなずく常次郎の目から、涙が止めどもなく流れ出していた。 直会の後で、直がさも嬉しげに言った。「お安さん、今日はおめでたい日やさかい、お下がりの牡丹餅があるげな。一緒にいただきましょう」 出された牡丹餅を一口食べかけて、安子はもてあました。塩餡だった。直も澄も子供等も、目を細めて食べている。「ほれ、おいしかろうがの。生まれて始めていただく牡丹餅やもの」と、直が子供たちに言っている。 もったいない、と思いつつも、甘味に慣れた安子の喉は拒む。そっと牡丹餅を紙に包み、食べたふりして袂に入れた。
 宇津殿と言われるほど宇津村での湯浅斎次郎は大きな存在になっていた。宇津を去るには、嵯峨へ出て手広く材木を商っている義父喜之輔に帰村してもらう以外にない。妻小久は意を決して嵯峨まで父母を説得に行ったが、日蓮信者の喜之輔は頑固につっぱねる。「小久は大本で病気を治してもろたんじゃさかい、お前たち夫婦が大本を信心するのは勝手や。けど信心は宇津でもできる。何も家業を捨てて苦労しに綾部まで行くことはない」 小久はしおしおと帰って、父の言葉を夫に告げた。斎次郎はあきらめず、翌日、嵯峨へ向かった。養子の立場だけに「信仰のために養家を捨てる」とは言いだしにくい斎次郎であったが、綾部に奉仕したい一念は押えきれなかったのだ。 四角張って進み出ると、喜之輔は手を振った。「お前の来た要件はわかっとる。『綾部に移りたいからわしら夫婦に宇津へ帰れ』と言うつもりやろ。実は小久が帰ってから急に気が変わってな、十月一日に帰るつもりや。いつでも綾部に行けるように準備はしとくんやで」 斎次郎は歓喜して宇津へ戻り、後の始末にかかる。気にかかっていた三つの村役もそれぞれ引き受け手がみつかった。 斎次郎夫婦、二人の子供が宇津を出発したのは十月十一日である。途中、斎次郎の実家の胡麻で一泊、翌十二日の朝出発して綾部に着いたのは夜に入っていた。 神殿にはランプ四個を灯して夜間工事が行なわれており、威勢のよい槌音が響いている。工事を監督していた王仁三郎が急ぎ足で出迎え、斎次郎を抱きかかえる。「よう来てくれた。それに今日は旧八月二十八日、今から乙姫さまの祭典が始まる」 斎次郎と小久は顔を見合わせた。昨年の春、「引越しは旧八月になろうなあ」と言った教祖直の言葉を同時に思い出していたのだ。神に引き寄せられた身であるという思いが、二人の脳天から背筋へと突き通る気がした。 翌日から斎次郎は普請の手伝いに立ち働き、小久は機を織った。 この年の六月、神苑内に機織部を設置し、大槻伝吉が主任となっていた。信徒の婦女子が就業して、絹紋織と普通手機木綿縞織を開始したのである。
 神殿竣成の前日、梅田安子は京都から綾部入りした。 神殿は小さかったが、桧の香りも匂いやかに出来上がっている。拝殿にひざまずいて手を合わせ、涙をこらえて振り仰いだ。夫と二人、このお社を見たいばかりに、ほとんど裸になって資金をつくった。神さまはその誠心を受けて下さったのだ。 背後から、四方平蔵が声をかけた。「お安さん、お待ちしておりました。まず教祖さまのお部屋まで来とくれなはれ」 連れ立って龍門館の神前に坐ると、平蔵は改めて安子に向かって頭を下げた。「さて、お安さん、ご苦労はんでございました」 特別にねぎらわれる理由がわからず、安子がぼんやり会釈を返す。と、平蔵はしんみりした声になった。「……あれから十年たちましたなあ。あなた方夫婦が綾部へ初めてお参りしちゃった時……覚えとられますかい、確か明治三十三年の春じゃったわな。梅田はんはいかにもつまらんように帰りの時間ばかり気にしとってん様子やった。教祖さまがわしにだけそっと教えてくれちゃったんですわな。『平蔵さん、よう見とんなよ。梅田常次郎というお人は信仰に入るのにはまだまだ時間がかかってじゃが、あの人が初めてお宮の御用をしなさる人じゃで』、わしはええ、お安さん、それをちゃーっと聞かしてもろとるさかい、その時の来るのが待ち遠して……ようやっと神殿建築の話が表に出て、この春、田中はんが資金集めに京に上る時、『この話、梅田はんにも声かけておきなはれ』と教祖さまが言うてじゃった。田中はんが『梅田はんはあかん』と帰ってきた時、まだ時は熟しとらなんだ、梅田はんがこっちを向く時期がなあ。もどかしおしたで。けど、辛抱強う梅田はんに仕えて、とうとう信仰に導いたのは、お安さん、あんたの誠心や。ほんまに長いこと御苦労はん」 隣室の襖が開いて、直が入ってきた。その笑顔がまぶしくて仰げず、安子は畳についた手を上げられなかった。
 その午後、弥仙の頂上の宮(金峰神社)をめざして、待ちかねておられる国常立尊の御神霊を迎えに二十二名が出立した。 一行が弥仙山の山頂に着いたのは午後十一時、斎主上田王仁三郎、副斎主梅田常次郎で厳粛に神事を終わった。深夜の山頂は身も心も凍えるばかりの寒風が吹き荒んでいた。 御幣に下りられた御神霊は小さい唐櫃に遷座され、頂上の宮から十五、六歳の二人の少年の肩にかつがれて山路を下った。この日のために禊を重ね、国祖の御神霊を遷しまつる大役に緊張しきっていた少年たちである。夜っぴて無言で歩き続け、やがて朝霧の流れる中に綾部大橋を見出した時、ようやく帰りついた安堵に心がゆるんでいた。朝の光で見る唐櫃には、山頂での恐ろしいばかりの威圧感はなかった。 少年たちは大橋を渡りながら囁いた。「この中に神さんが入っちゃった言うけど、それなら帰りにその分だけ重とうなってもよさそうなもんやろ。行きも帰りも、ちっとも重さは変わらへん。軽い、軽い」 試みに唐櫃をゆすると、コトコトと御幣のぶつかる音がする。その音がへんに物質的で滑稽だった。「ほんまや、第一、神さんならこんな真似して運ばんでも、好きに飛んで行かはったらええのや」 信者の子であって親の信心についてはきたものの、生意気ざかりの年頃だ。ふと生じた疑問に、たちまち言葉が先立った。「ええころかげんなことやわな。阿呆らしてかなん」と言った時、突如二人はよろめいた。唐櫃はずしんと重くなった。「どうしたんや、疲れたかい」 後を歩いていた王仁三郎が笑った。 綾部大橋から龍門館まで二町に満たぬ距離を、少年たちは物も言えず、必死に歩いた。全身から汗がふき流れる。出迎えた四方平蔵や祐助に助けられ、ようやく神殿前に着く。「あんなこわいことなかったでよ」とあとになって、少年たちは告白した。

表題:五百円気違い  9巻9章五百円気違い



 明治四十二年四月三日、思いもかけず王仁三郎の封書が届いて、梅田安子はどきんとした。王仁三郎の言葉を思い出したのだ。時節が来たのやろと、安子は感じた。 この夜も常次郎は帰らず、封書は机の上でむなしく一夜を明かした。 翌朝、常次郎は帰ってきて、いつものように大きな姿見の前に立ち、鏡に映じた机上の封書に目を止めた。「誰から来た手紙や」「綾部の上田先生からどす」 安子は息を詰めて夫の答えを待った。「ああ、あのおかしな『祓い給え』か。何が書いたるか読んでみい」 常次郎は、呉服屋が持ってきてまだ手を通していない着物に着替え、姿見の中の自分に見惚れている。「旦那はんの名前どすさかい、御自分で読んどくれやす」 安子は常次郎の傍へ寄って仕付けをとる。やがて常次郎は机の前にスーッと坐り、面倒くさそうに封を切った。安子は鎮魂を習わなかったことを悔いた。 作法も知らぬまま常次郎の背後に坐り、精魂こめて念じた。 ――神さま、何が書いたるやら知りまへんが、この手紙でどうぞ常次郎に神さまをわからせておくれやす。どうぞ神さまを……。「お安、今日は何日やった」と、常次郎が真顔で訊く。「四月四日どす」「そうか、四月四日か。よっしゃ、お前、すぐよそ行きの着物着い」「何でどすのん」「お前といっしょに綾部へ行くのや。この手紙、ぐんと気に入ったで」 その返事を聞いた途端、安子の気持ちは落ち着いた。ようやく一念が通じたのだ。わざと焦らすように、ゆっくりと言う。「そんなに急にお言いやしたかて……その手紙、何が書いたるのどす」「何も書いたらへん。四月五日、つまり明日や、綾部で春の大祭をするさかい、一ぺん遊びがてらに見に来たらどうや……」「それから……」「それからって、それだけや。はて、へんやなあ、なんでこの手紙が気に入ったんやろ。まあ、ええわ、すぐ行こ」 まだ園部・綾部間の鉄道は開通していない。汽車利用で京都から綾部に行くには、大阪から福知山回りしかない。汽車賃は一人二円二銭、五時間余りかかった。 時間的に半分ばかりの柏原まで来ると、窓際に坐っていた常次郎が悲鳴を上げた。「痛っ、お安」「どうしなはったんどす」「眼や、眼にごみが……」 安子はハンカチを唾でしめらせて眼のごみをとろうとしたが、どうしてもとれぬ。いらだつ常次郎の眼からひっきりなしに涙がこぼれてきて、目蓋が赤く腫れ上がった。 気の変わりやすい夫のことだ。「帰の」と言い出しはせぬかと、安子は内心はらはらした。 綾部へ着くまでの長かったこと。片手で眼を押えたままの常次郎の手を引いて、どうやら龍門館へ行きついた。 王仁三郎のいる臥龍亭へ常次郎を置くなり、飛ぶ心を追って、安子は二階の教祖の部屋へ急ぐ。塞かれていた恋人に合うように胸がときめく。 挨拶を終わって、安子は言った。「教祖さま、梅田が結構に綾部に参らしてもらいましたけど、汽車の中で眼にごみが入ってとれんのんどす」「そうかい、ちょっと待ってなされや」 直は自分で立って、神前からお神酒を下げてきた。「これいただかしておあげ。眼につけたらすぐ治りますで……」 安子が徳利と土器を持って臥龍亭へ行くと、常次郎が片手で眼を押えたまま、王仁三郎と談笑していた。「旦那はん、教祖さまがお神酒さんくれはりましたえ。これ、眼につけたげまひょ」「ばかたれ、こんな痛い眼、酒みたいなもんで洗たら、よけ痛むわい」「大本へ来なはったら、観念して教祖はんの言いなりにおしやす。あてがええようにします」 安子は徳利の酒を土器につぎ、指先で常次郎の眼につけた。思わず閉じた常次郎の目蓋を手で押え、「惟神霊幸倍ませ」と念じる。残った土器の酒を夫にのませ、お神酒を直の所へ返して再び夫の傍へ行った。 常次郎は張りのある目を見開いて、王仁三郎と話していた。「旦那はん、眼は?……」「あ、どうもない……」 常次郎は今しがたまで腫れていた目蓋をなでた。
 大本の春の大祭は正午より執行された。神饌物は玄米・白米・実米・餅米・鏡餅・川魚・海魚・辛菜・甘菜・夏みかん・菓子・御飯・酒・その他……質素ながら一通りの海河山野種々の珍物が揃う。役員たちの誠心こめて献ぜられた品々である。 玉串奉奠者は出口直・上田王仁三郎・四方平蔵・福島寅之助・出口慶太郎・竹原房太郎・西田元教・小西松元・小西増吉・栗山庄三郎・四方与平・田中善吉・湯浅斎次郎・梅田常次郎・森津由松・時田金太郎・森津助右衛門以上十七名。 見物に来ただけのつもりの常次郎は、松の小枝に紙垂をたらした玉串を持たされて、とまどいつつ神前に進んだ。玉串を捧げて四拍手した時、神と向き合って心をひらくような感動に身内がおののいた。 ――わしは今まで女に溺れてきた。神さんは見通しの上、わしの玉串を受けてくださる。大本の神さんもまんざら捨てたものやない。 祭典が終わり、出口直が席を立つ。能舞台でも見るような典雅な足どりやと、常次郎は感嘆した。十代から謡・仕舞・つづみを習得していて、目の高い常次郎である。本物を見きわめる眼力は確かであった。 続いて斎主の王仁三郎以下祭官が連なって立つ。祭官たちは祭式講習を受けて日が浅いのか、のびやかな王仁三郎に対して気の毒なくらいこちこちであった。彼らはやっと責任をはたし神前に一揖、退座となる。 その瞬間、ひょいと手がのびて、神前の三方の上の饅頭をかすめ取った奴がいる。参拝者の方に向き直った時、王仁三郎の片頬がぽっこりふくらみ、もごもご動いていた。食いちぎられた饅頭の残りを右手に、のどかに歩を運ぶ王仁三郎。後に続く祭官たちは、微妙に揺れる心を押えて、伏目になった。 常次郎の頬が思わずゆるんだ。と、どよめく参列者の中からただ一つ、常次郎をかえりみて、にこっと笑った顔があった。「宇津の湯浅斎次郎」と祭典の前にあわただしく紹介されたばかりの、たっつけをはいた小柄な男である。男同志の共感の微笑みが交錯した。「ほんまに会長はんいうたら……」 悲憤こめて、安子がつぶやく。常次郎は真顔で言った。「宗教で飯を食っている拝み屋には、絶対にできん真似やで、お安……」 午後一時祭典終了、一同揃って御飯と鰈の焼物を竹の皮で包んだ弁当で直会。直会の米一斗八升(一升十五銭)と鰈(一枚一銭五厘)は、大本の費用でまかなわれる。 この弁当は百二十包用意され二十三包残ったと記録にあるから、九十七名の参拝者があったことになる。 大本行事日記によると、王仁三郎が皇典講究所へ入学した年の旧正月元旦の神饌物は盛り合わせ一台しかない。また同年の月掛負担金による年間総収入二十五円五銭、総支出二十四円二十九銭。王仁三郎が建勲神社に奉職した年の明治四十年はさらに減じて総収入十九円二十銭、総支出二十一円二十四銭、差し引き不足額は六人の役員で一人当たり三十四銭を負担している。 これを明治三十九年度における綾部の丹陽キリスト教会の歳入六百四十五円十九銭、歳出五百五十四円七十三銭(綾部町史)に比較しても、大本の財政総額がいかに貧しかったか明白である。 当時の米相場は明治四十年一石十三円五十銭(中筋村史)だから、年間収入米一石五斗に満たぬ。このたびの直会に一時に一斗八升もの米が使用されたのだから、大本としては椀飯振舞いであったろう。 直会が終わって三時から筆先の拝読、四時半に二階で本日の神饌のお下がりを分配する。一人あたりお神酒盃一杯、切り餅二切れ、煎餅二枚。 昼の直会後、梅田常次郎と安子は、汽車の都合で早目に綾部を辞し去った。常次郎は窓側に坐り、筆先の写しを黙読していた。「汽車の中の退屈しのぎにこれでも読みなはれ」と王仁三郎が何気なく渡してくれたものである。 汽車が柏原を通る時――ここで旦那はんの眼にごみが入って、ほんまにひやっとしたと思いながら安子が横を見ると、常次郎の眼からまたも涙がぽろぽろ流れている。 急に常次郎は子供のようにしゃくり上げた。「なんやの、なんやの、どうしやはったんどす」 安子は驚いてのぞきこむ。常次郎は拳で涙を拭い、嗚咽をこらえて言った。「神さんはこれだけ人間のことを思うてくれてはるのやなあ。それやのに、今だに神さんの住みなさるお宮さんさえないやなんて……わしみたいな道楽者が二、三人よれば、とうにお宮さんは建ってるはずや。いかにわからんと言うてもあんまりやわい」「旦那はん、汽車の中どっしゃろ。昼ひなか、男はんが泣いておいやしたら笑われますえ」 たしなめる安子も、あふれる涙を必死でこらえた。常次郎は乗客に背を向けて筆先から眼もはなさない。初めて参綾してからあしかけ十年、ようやく今、安子の念願かなって大本の門を叩く気になってくれた。幸せとはこういうものだろうか。夫に寄り添い、初めての豊かな心の交流をかみしめる安子であった。 京都駅に近づいて、降りる支度にかかった安子に、常次郎は筆先に注いでいた充血した眼を上げた。「お安、お前は先に帰ね」「旦那はん、どこへお行きやすのどす」 この足で祇園へ……安子はどきっとして訊き返した。「親父のとこへ行くのや。五百円、つもりしてきたる」「五百円って、そんな大金を……」 死んだお光に代わる誰かをまた身請けするのではないか、想像は常に暗い方へ走る。が、常次郎の面は輝いていた。「あのなあ、お宮を建てる敷地、わしに買わしてもらうのや。着いた日に会長はんが言うてはった。龍門館の隣接地三百六十坪が坪七十銭で買えるそうや。その土地はどうしてもわし一人で買う。それにお宮の建設資金、せめて屋根代ぐらいはわしが出したい」「そんなこと言わはりましても、五百円もの大金をお父さんが出してくれはりまっしゃろか」「ちょびちょびなら出すやろが、まとめてはなあ。けど、わしはふんだくってくるまでは帰らんで。いつになるや知らんが、楽しみに待っててや」「へえへ、慣れてますさかい、何日でも……」 冗談めかして言いながら、安子は夫に手を合わしていた。
 烏丸三条上ルの西陣お召問屋「梅常」の山大標の暖簾をくぐる。十七人いる奉公人たちは、「坊、お帰りやす」、「若旦那はん、お帰りやす」と、それぞれ好意的な挨拶を送る。梅田家の嗣子でありながら両親と別居し、三十歳を過ぎてもなお仕送り生活をしている放蕩息子を、奉公人たちは嫌ってはいない。 一つには内儀テルへの反撥が作用していた。テルは六十歳になる。明治二十二(一八八九)年、四十歳で梅田家の後妻になってから、もう二十年間も「梅常」の財政的主導権を握っている。きままな女で、使用人に対しても厳しかった。女中が茶椀一つ割っても必ず弁償させたし、どんな些細な過失でも容赦なく叱りとばした。奉公人の人権など考えられなかった時代であったし、奉公人も辛抱強かったが、それでも半期とつとまる女中がなかった。 もし悔い多き自分の過去を誰かの責に帰することができるならば、常次郎は躊躇なく継母の名をあげたであろう。テルが梅田家の後妻に入りこんだのは、常次郎十一歳の年である。表面的には、テルは文句のつけようもなく継母の義務を果たした。が、それは三つの時に死に別れた母の乳房の感覚とは、まるきり異質のものであった。少年の神経は、奉公人の手前や世間体をつくろう見せかけの愛情を敏感に識別した。 常次郎の潔癖さは、それに慣れることを拒んでいた。憎しみと反抗から始めた放蕩ではあったが、そこにはまり込んでいったのは、偽善をかなぐり捨て色情を売物と割り切り、嘘が嘘として通用する色町の世界に、むしろすがすがしさを感じたせいかも知れぬ。 テルにとっては、一人息子の常次郎が芸者にうつつを抜かしてくれていた方が嬉しかったであろう。梅常にすわって当然若旦那としての実権を握ってもいい年頃であり、着物の選別・柄合わせなどの才能は天才的なものがある。それだけにテルは常次郎がこわい。六十四歳になって商売にも人生にもくたびれた夫常七に代わり、一層弱味をみせまいと梅常の実権を掌中にし続けるのだ。 生さぬ仲の常次郎が安子を連れて帰ってきた時、隠居の座に追われてかえりみられぬであろう自分のみじめな立場を恐れていた。だからテルは、常次郎が茶屋遊びに呆けるのに不自由ないだけの仕送りは続けていたのだ。 長い年月の継母との葛藤のむなしさから、常次郎は自分の人生を建設する意欲を捨て、継母の望むがままの耽美な日々に溺れてきた。そういう事情を、主人の私生活に敏感な奉公人たちが感づかぬわけはない。彼らは、それとなく常次郎に同情を寄せていた。 通り庭を突き抜けて、常次郎は奥庭に面した座敷に上がった。めっきり老けこんだ常七は嬉しそうに息子を迎えたが、テルは愛想のよい声とはうらはらに、こわばった表情で茶を入れる。 常次郎は、さりげなくテルの前の大福帳をぱらぱらとめくってみた。「父さん、よう儲かってますなァ」「ほんまに結構なことや。赤耳お召といえば、東京の三越でも最高級の品で通るのやさかい……」 誇らしげに答える常七に、テルはぴしっと言う。「旦那はん、早うお店に顔出しとくれやすな。ちょっと気を許すと、奉公人ら、あてらの眼盗んで何しとるやらわからしまへんえ」「けどまあ、せっかく常次郎が来たんやさかい、お茶一杯よばれて」と言いながら、テルの酷しい眼にあうと、たまさか会う息子へ未練を残して腰を浮かしかける。 常次郎は、父を押しとどめた。「父さん、ちょっとここに居とくれやす。今日は無心があって来たんどっせ」「また金か。こないだ送ったばかりやのに……」 常七は警戒した顔になる。結局は息子の言いなりになるのに、テルの手前、出ししぶらずにはおれぬ。「今日はまとまった金がほしおす。五百円ばかり……」「五百円……またどえらい大金や。そんな大金どないするのんや」「お宮を建てる金を寄付するのどす。五百円で梅田家代々のめぐりがとれると思たら安いもんや」 常次郎はお宮建設の事情を語った。芸者の身請けの相談ではないだけに堂々と語った。が、テルの方をちらちら眺めながら聞いていた常七は、息子が語り終わると、いそいで首を横に振った。「そんな大事なお宮ならなおさら、誠のこもった金やないとあかん。親のすねかじりが親の懐から持ち出して右から左へ運んだぐらいで、神さんが喜ばはるわけはない。そんなに寄付したかったら、自分の甲斐性で作った金でしたらよろしおっしゃろ」「そんなことぐらい、わかってます。けどわしにどんな銭儲けができるのや。自慢やないが生まれてから三十年、びた一文稼いだことがない」「そんなこと、自慢にされてたまるかいな。貧者の一燈という言葉がおすやろ。茶屋遊びの金を始末して、分相応のことをさせてもろたらどうどす」「そんな悠長なことしとれますかいな。神さまは『宮を早う建てい』言うて急いではる。どうせこの家の銭は、虚栄の突っ張った奴らが運んできて、身欲のかたまりが貯めこんだものや。人間の妄念がうようよついとる。梅田家のためにも、こんな銭は早う使てもた方が功徳になりまっしゃろ」 テルがたまりかねて口をはさんだ。「坊、それはあんまりな言い方どっせ。梅田の財産は、坊みたいに遊んどってできたものやおへん。汗水たらして働いて、始末して始末して作ったものどす。そのおかげで坊かて左団扇で暮らせるのやおへんか。そやのに、五百円もの大金を……」「五百円ぐらいで眼をむきなはんな。梅田の財産から比べたら、鼻紙代にもなりまへんやろ。どうせ冥土まで持って行けるわけやなし、けちくさいこと言わんと出しとくんなはい」 テルは憎々しげに言った。「芸者だけで足らんと、次は神さま道楽……ふん、あほくさやの。梅田家にはなあ、先祖代々、ちゃんと仏さまをお祀りしたるのどっせ。祟り神の艮の金神など、それこそさわらぬ神に祟りなしや」 艮の金神をののしられて、常次郎はかっと血がのぼった。「何が仏さんじゃ。仏は外国から渡ってきたもんや。そんなもんを真ん中にやって、日本で生まれた御先祖をわきへやって、あべこべやないかい。そやさかい、この家では牝鶏がときを告げるのじゃ。五百円出せ、出さなんだら、こんな仏なんか……えーい……」 常次郎は金ぴかの仏壇を縁先から内庭へ投げつけ、はだしでとび下りて踏んづけた。 テルが店に走って、奉公人に命じた。「坊が気が狂うた。つかまえて縛っとくれ」 奉公人たちが集まってきて常次郎を押さえつけようとするが、荒れ狂って手に負えぬ。ようやく皆でとびかかって、力つきた常次郎を縛り上げた。「五百円くれえ、五百円くれえ」 体裁屋の常次郎が見栄も外聞も投げ出し、涙で顔をぐしゃぐしゃにして叫び続ける。 表面取り乱した風ながら、テルはてきぱきと処置した。常次郎のただ一人の叔父、常七の弟儀助をすぐ呼びに走らせる。「坊は急に気が狂うて、もったいなや、御先祖代々の仏壇を投げ出し踏みにじって暴れ回ったんどっせ。このままではあてら安心して成仏もできしまへん。今のうちならすぐ治るかもしれんさかい、すぐ癲狂院へ入れたらどうどっしゃろ」 儀助はたけり狂う常次郎を見、テルの言葉を信じた。放蕩に使う金銭の他には無欲な常次郎が五百円に示す執念は、全く異常としか言いようがなかった。 常七は驚倒、悲嘆のあまり寝込んでしまった。儀助の意志として、すぐに岩倉にある精神病院に入院の手続がとられた。 一夜が過ぎ、朝になった。春の日ざしが暖かくて、この分なら庭の桜も開花を早めそうな上天気であった。「五百円くれえ、五百円くれえ」 常次郎の監禁された部屋から、絶え絶えの非痛な叫びがまだ聞こえる。 テルは、女中を指揮して、入院に必要な持ちものを整えさせていた。梅田の坊の持ちものとして恥ずかしくない、上等の品々が揃えられた。 儀助は、常七の寝ている枕元に暗然と腕をこまねいて坐っていた。たった一人の息子を精神病院に送らねばならぬ兄の絶望が、痛いほどわかった。もうすぐ岩倉の病院から迎えが来る時刻である。 常七が頭をもたげて弱々しく言った。「ちょっとおテルを呼んでくれんかい」 間もなくテルが、儀助に連れられて入ってきた。久し振りで女中を指図して働いたせいか、老いた頬にかすかに紅がさしているようであった。「おテルや、常次郎の入院は見合わせたらどうやろ」 常七の言葉に、テルは眥を吊り上げ、唇を尖らせて食ってかかった。「なんちゅうことをお言いやすのどす。そら旦那はんにしたら総領を癲狂院になど入れたら梅常の暖簾に傷がつくと思わはるかも知れまへんえ。それでも、そんなこと言うとる場合やございまへんやろ。本当に坊が可愛かったら、一時も早く入院させて徹底的に治療させたげとくれやす。手遅れになったら、ほんまに知りまへんえ」 儀助が口をそえる。「そら義姉さんの言わはる通りどす。案外すぐ退院してくるかも知れまへん。悪いようにはせんさかい、ここんところはわてらに任しといて」 常七は起き直り、やせた喉仏をひくひくさせた。「それはまあ気違いかも知れん。けれど気違いの原因ははっきりしとる。あれの気違いは、五百円ほしいほしいの気違いや。五百円握らせたら治りまっしゃろ」「まさか……」 常七は皺の多い腕をのばし、弟の膝頭をつかんだ。「あれが五百円ほしいほしいの気違いなら、わしも五百円惜しい惜しいの気違いや。正気の息子に五百円むしりとられたと思たら腹も立つが、気違い息子の治療代やと思うたらあきらめもつく。番頭を呼んどくれ」「旦那はん、そんな……」 激しく気負い立つテルに、儀助はかぶせて言った。「五百円で気違いが治るなら、義姉さん、こんな結構なことおへん。無駄でもともとやさかい、試しに一遍握らせてみまひょか」 五百円を握った常次郎は、たちまちこぼれるような笑みをうかべた。どこから見てもやんちゃで品の良い梅田の坊にちがいなかった。
「くそ親爺奴、神さんもわからへん」 帰ってくるなり吐き出した常次郎だが、内心の喜びは隠しきれない。五百円の札束をきっちり三方に積み上げて神前に供え、音高く拍手して頭を下げる。後に従って感謝の祈願をささげる安子に、はずんで言った。「さあ、すぐ支度せい。この金持ってまた綾部参りや」 ――昨日帰ったばかりやのに、今日もまた綾部へ行ける。教祖さまに会える。しかも神殿の敷地を買う五百円を持って。 安子は我が身の幸せがそら恐ろしくなり、震えがとまらなかった。
 五百円を献金して帰京した梅田常次郎の人生は、全く一変したかである。「教祖はんが木綿の着物着てはるのに、わしらが絹物など着れるかい」 お洒落の常次郎が木綿の衣服に改め、絹物の一帳羅を安子に売りに行かせた。何しろ「梅常」で仕立てさせた最高級品なので、意外に高く売れた。味をしめて、常次郎は次々に安子に売りに行かせ、「これで瓦何枚や、これで柱がでけた」と悦に入る。 度重ねて売りに行くうち、一銭でも高く売ることが安子の楽しみになる。安子のかけ引きもうまくなった。 梅常からの仕送りを節約したり着物類を売った金が貯まると、常次郎はお茶屋へ行く時より、もっといそいそと綾部へ出かけた。神さまには、安子は嫉妬せずともよかった。 金目の物が次第に消えると、常次郎は安子の指のダイヤモンドに目を止めた。「そうそう、そんな指輪があったなあ。お安、それも売りィ……」「へえ、おおきに……」 安子は瞳を輝かす。 安子がまだ先斗町にいた頃、常次郎に五十円で買ってもらった指輪なので、自分から「売る」とは言いかねていた。夫が気がついてくれるよう、ふだんは箪笥の奥にしまっているのを、四、五日前から指にはめていたのだ。買ってもらってから十年、貨幣価値も違っているし、どれぐらいで売れるものやら見当もつかぬ。 神さまの御用にしますさかい、どうぞよい値で売れますようにと心で念じつつ、前に買った宝石店へ行った。「あて、この指輪、長い間はめてるさかい、もうあきてしもたんどっせ。引き取ってくれはりますか」 宝石店の主人は愛想よく言う。「へえへえ、もう型が古うなってますさかい、新しいのと買い換えなはった方がよろしおす。ちょうど新しい型が入ってます……」「それは旦那はんに見てもろてからいただきますさかい、今日はとりあえず引き取っとくれやす」 「よろしおす。はて、幾らでお買い上げどしたかいな」「さあ、良い値やったことは覚えてますけど、なんせ十年も昔のことどっしゃろ」「そうどすか、ほんまに昔の石はよろしおすなあ」 主人は古い帳面を探したが見当たらぬのか、指輪を調べただけで百五十円の値をつけた。三倍で売れた。 これで御神殿の屋根ができるだろうか。夫の喜びを思うと、安子の魂までダイヤモンドには比べられぬ燦爛たる光に包まれる。 持ちものを売り払うばかりでなく、常次郎の大本への傾倒ぶりは、安子さえ不安がるほどますます激しくなっていく。 常次郎は艮の金神の意志を思うと居ても立ってもいられなくなり、三条通りを泣き叫びながら歩いたこともある。「神さまは立替え立直しをおせきたてになる。これほど大切なことが、世間の人間にはどうしてわからんのか。ああ、情けないことじゃ」 家にいる時はひまさえあれば大声で筆先を拝読するので、隣の郵便倉庫の連中が不思議がってのぞきにきたぐらいである。 思い出す限りの知人に、「立替え迫る、改心せよ」と警告の葉書を出した。文句が激越なので届け出があったのか、警察から呼び出された。常次郎は奮い立ち、切り火を打って神さまを拝み、警察署へ出頭する。 高等刑事の訊問にこたえて、常次郎はここぞと大本出現の意義を弁じ立てる。刑事はもてあまして、「商人は商売の勉強しとったらよいのや。まあ、今日のところは帰ってくれ」と、まだ喋り足らぬげな常次郎を押し帰した。 警察に呼び出されたことは、常七を震え上がらせた。必死で信仰を捨てることを頼んだが、逆に息子に説教されるのがおちである。

表題:炬燵の中  9巻11章炬燵の中



「神殿遷宮式には伶人二人で八雲琴を合奏してくれ」と、王仁三郎は安子に命じた。 今春、王仁三郎が京都の住居で八雲琴を見た時、「今のうちによう勉強しとけよ」と言った意味が今になってようやくのみこめた。もう一人の伶人は石原福子という娘で、参綾するたび、安子は八雲琴を即席指導していた。福子は、四日後に近松光次郎との挙式をひかえていた。「お安さん、ちょっと……」 つる禿の四方祐助爺さんが、襖を細目にあけた。練習に一区切りつけたところだったので、福子が琴の爪を抜いて置き、一礼して立っていった。他には誰もいない。祐助はすべり入って、後ろ手に襖をしめた。「変な噂を聞いたんじゃわいな。お安さん、今夜、梅田はんの命があぶない……」「え、なんどすて」 高声になる安子を制して、祐助は黒い顔を近寄せ、唾をのんだ。 安子の心臓は高鳴る。「今夜のお宮遷しのお祭りで、さて大神さまがお宮に鎮まりなさるという時、ろうそくの灯を消しまっしゃろ。その打ち合わせは知っとられるじゃろ」 安子はぎこちなくうなずく。「その暗がりが危ない。その瞬間をねろうて、梅田はんを刺そうとしとる者がおるでよ」「冗談はいやどすえ、祐助はん」 きっと睨みつける安子に、祐助はむきになった。「な、なんでこんなことを……ほ、ほんまや。疑うとる場合やありまへん……」「ほんなら誰です、それは……」「小沢惣祐はんや。ほかにも手をかそうとしとる者が四、五人おるげな」 小沢惣祐を安子は知らぬわけではない。最近大本に居ついた六部で四十五、六歳。若い頃から七、八寸位の鉄板を胸にぶらさげ、木槌でそれを叩きならして諸国を巡礼していたというが、宇津の小西松元と出会って大本を知り、綾部へ来た。 なんでもよいから仕事をさせてくれと頼みこみ、王仁三郎のとりなしで、お宮建設の手伝いをしていた。黒い長髪を背後まで垂らし、八字髭を生やしている。鼻は異人のように高く、目はくぼんで険しい。所定めぬ暮らしに鍛えられた赤銅色の筋肉をもつ熱血漢であり、弁舌も達者で、一部の過激な若者たちの心をつかんでいた。しかし奇矯な行動も多く、何をするかわからぬ不気味さがある。 あの男なら人殺しぐらいするかも知れないと、安子は寒気立った。「あんな人に、なぜ梅田が殺されんなんのどす」「梅田はんは今夜の祭典に副斎主をしまっしゃろ。『梅田のような極道が、ちょっと金があるばかりにのさばりやがって、副斎主などさせたら、せっかくのお宮が穢れる。その上これからもどんな大事な御用に使われるやら分からんさかい、教祖さまの教の邪魔になる。大本のために今のうちに殺してしまえ』ちゅうことらしいでよ」「梅田の極道は昔のことどす。今は信仰に入って、すっかり改心して……」「お安さん……そうとばかり言えまへんのや。若いもんたちは梅田はんの改心を信じとりはせん……」 四方祐助は悲しむように安子を見、急に背を向けて頭をふりふり出て行った。 一人になると、強い不安が安子をとらえる。ともかく梅田の顔を見たかった。弥仙山奉迎の供に加わった梅田は、徹夜つづきの疲れで、どこかの部屋に仮眠しているらしい。遠目に会うだけで、昨日から安子は夫と言葉も交わしてはいなかった。 ――そうや、二代さんに相談しょ。 女は女同志、困った時はいつも澄に打ち明ける安子であった。龍門館の台所では、三女八重野を背に負った澄が、奉仕の婦人たちにまじって、直会の準備にてんてこ舞いをしている。 安子は澄を庭先に呼び出して、事情を打ち明けた。「殺す……やて」 澄は目を丸くした。「そらどもならん。とにかく先生のとこへ行ってみんと……」 澄は安子を王仁三郎の部屋へ連れていった。「先生、寝とるどこやありまへんでえ。梅田はんを殺そうとしとる人があるげなで」 神殿建設の総監督、資金繰りから昨夜の頂上の宮での斎主、今夜の遷宮式の斎主、引き続いて二十三日の秋季大祭斎主と、いくつ体があっても足りぬ王仁三郎だ。 一時のまどろみを叩き起こされて、頭から蒲団をかぶった。「こらえとくれい。ちょっとぐらい、わしを寝かせんかい」 澄は腹立たしげに蒲団を引きむしった。「梅田はんが殺されてもよいんですかい。何とかしておくれなはれ……冗談ごとやござへんでなあ。あのなあ……」 王仁三郎は手を上げた。「それ以上言うな。梅田はんにはわしがついとる」「そんなこと言うちゃったかて……」「心配せんでええ。神さんがうまい具合にしてくれはる。今のことは忘れてしまえ」 王仁三郎は澄の手から蒲団をとり戻し、眠い目をこじあけるように安子を見た。「お安さん、神さんに任せる、それが信仰や。取越し苦労をしなはるな。それより今夜の八雲琴、しっかり頼むぞ。あんたが神さまに初めて八雲琴を捧げるのや、琴の音を濁さんでくれよ」 安子の不安は消しとんだ。福子との音合わせに、安子は自室へ戻っていった。
 その夜、十一月二十二日午後十一時、遷宮式が始まった。伶人の安子、福子の二人が白衣緋の袴姿で入場、八雲琴の冴えた音色に、場内は鎮まりかえる。 管掻曲の調べにつれて、教祖出口直、斎主上田王仁三郎、副斎主梅田常次郎、そして上田幸吉ら四人の祭官が衣ずれもさわやかに着座。幔幕を張りめぐらし、高張提燈をかかげた神殿前は参拝者で埋まっていた。 雑誌「直霊軍」の記事によると、「この日は京阪各地二十里四方の会員来会したることなれば、新築の拝殿・事務所・及び旧家屋全部に収容するもなお不足を告げ、臨時に近隣四、五軒を借り入れようやく休憩の用に供したるも、立錐の余地なし」とある。人数は不明だが、おそらく開教以来の参拝者であったろう。 澄は、参拝者席の右側最前列に坐って、注意深くあたりに気を配っていた。 最前列中央辺に、小沢惣祐の蒼ざめた顔があり、その傍の四、五人の若者たちも緊張している。気をつけて見れば、小沢を中心にその周囲だけがこわばった異質の雰囲気を持っていた。小沢の位置から梅田常次郎の席まで数歩、一とびである。 ――先生は心配するなと言うてじゃけど……。 衣冠に身を包んだ王仁三郎も常次郎も、危険すら気づかぬ風に泰然としている。安子も八雲琴に心を奪われている様子。 いざとなれば澄は、常次郎を襲う影に体当たりするつもりであった。艮の孤島から三千年の忍苦に耐えて元の高天原に還られる国祖を迎える今日、どんなことがあっても神殿で血だけは流させたくなかった。 祓戸行事、続いて王仁三郎が神前に進み出て鎮祭詞を宣り上げる。一同平伏。この詞が終わるのを合図に、灯が一斉に吹き消される手はずである。 澄は一人頭を上げて、平伏している参拝者の頭ごしに、小沢たちを見た。彼らの頭もあやしく動いている。 闘志を燃やして澄が身構えた時、副斎主梅田常次郎は優雅な裾さばきで立ち上がった。しずしずと拝殿を下って小沢らの脇を通り、当然のように場外へ消えて行く。折しも、「この神床に鎮まりましませ――」 王仁三郎の鎮祭詞の最後が尾を引いて響き渡った。灯という灯が吹き消され、神殿は星空を背に深々と闇にしずんだ。三声の警蹕が闇に湧き、ゆるく流れる。祭壇の燈火一つが神霊渡御の道を照らしてポッと揺れる。 斎主の拍手で次々に場内に灯がともり、参拝者は頭を上げた。明るくなった中で肩すかしをくった小沢惣祐や周囲の若者たちは、いっそう蒼ざめて見えた。 常次郎は、最後まで祭官の席に戻ってこなかった。斎主に万一の事故がある場合にとっさに代行をする役である。斎主がその座にある限り、飾りのような存在だから、常次郎がいなくても別に支障はない。 祭典は一時間ばかりで滞りなく終了し、一段と冴える二弦琴の曲に送られて、斎主、祭官退場。 安子は八雲琴をかかえたまま、小走りに教祖室へ急いだ。祭服を脱いで、着物に着替えた常次郎が直の前にあぐらをかき、煙草をくゆらしていた。「旦那はん、どうおしやしたんどす。お祭りの途中で抜け出して、そのままやなんて……」 常次郎はにべもなく言い放った。「もうこんな固苦しいことはやめや。わしは帰んで芸者買うわ」 反射的に安子の眼は、直に走った。やんちゃ坊主を眺めるように、直は笑っている。言い出したら聞かぬ常次郎だ。また地獄のような嫉妬の苦しみがはじまる。 安子は縋った。「せっかく……せっかくここまできて……お宮さんができたんどすさかい、もうちょっと辛抱して御奉仕しとくれやす」「いやや、これから大本には金持ちも学者もどんどん集まってくる。大本はもうこれでええ。わしなどおらいでもよいのや」 傍にいた四方平蔵も取りなしたが、常次郎は無視して直に向かった。「教祖はん、わしは今夜近松へ泊まって明日の朝早く京都へ帰にますさかい、もう御挨拶には出られまへん。また気が向いたら参拝させてもらいますわ」 四方平蔵が安子と共に常次郎の後を追った。 広間では、王仁三郎の挨拶の声が聞こえていた。やがて直会がはじまろう。小沢たちの姿は見えなかった。 龍門館を抜け出して三人は無言で歩く。十日の月は無く、三つ星が低く煌めいていた。近松家はすぐそこである。 常次郎が近松家の格子戸をあけると、大輪の花が浮き出したように、まきが立っていた。耳を澄まして誰かの足音を待ってでもいたかのように。「お帰りやす」 まきは嬉しそうに常次郎に声をかけ、後の安子に気づいて身を固くした。いや、その横に四方平蔵を見たせいかも知れなかった。 追いかけるようにして、近松政吉夫婦が帰ってきた。彼らは言わずして茶の間に集まり、常次郎を囲んだ。 政吉の妻自由が、真先に不満をならし出した。「どうおしやしたんどす、常次郎はん。副斎主やのに、急にお祭りの途中で抜け出したりして、気が気やありまへんどしたえ。どこぞ体の具合が悪おしたんか」 煙管煙草をくわえて、常次郎は愛想もなく言った。「別にどうもあらへん。急に坐っとるのがいやになったんや」「そんな……わがままもあんまりやおへんか。神さまが今鎮まりなはるという大事な時に……今日は二時から秋の大祭どすさかい、さっきみたいなわがまませんときやっしゃ」「わしはやめとこ。朝になったら帰ぬつもりや。副斎主は誰かがするやろ。お宮さえでけたら、わしに用事どもあらへん」 政吉が困った顔になった。「そう言いなはったかて、あんたはお宮造営の世話方どっしゃろ。まだ後始末も残っとるし、未払いの建築資金もたんとある。そんな無責任なことはでけしまへんで」「そんなこと知るかい。お宮さえ建ったら、わしは後始末までする気のうなった。大本はんのためにわしは退散する方がよいのや。男は引き際が肝心やろ。お安をよろしゅう頼んますで」 政吉はきょとんとした。「え、あんた一人で京都へ帰んでんどすか」「一人では帰なん。おまきを連れて帰にますわ」「おまきを――」 瞬間、凍ったような沈黙があった。常次郎の言葉を確かめるまでもなく、誰もが直感的に隠された事情を察していた。 引き裂くような嗚咽がほとばしった。まきであった。 常次郎は、長火鉢のふちに煙管の雁首を叩きつけ、胸をそらせるように早口に言った。「お安は京都で支部のお守りや。お義父はんはお宮の建築で毎晩夜なべや。お義母はんは日が暮れたら寝てしまう。隣の部屋に炬燵がある。炬燵にさし向かいで、わしとおまきの二人だけや。炬燵の中やで、炬燵の……手もふれれば足もふれる。こうなるのは当たり前やないか」 自由の眼はひきつっていた。「あての大事な娘を……そんな言い訳がおすかいな、どうしとくれますのんえ」 ふだんは常次郎に声をかけるのさえ遠慮勝ちな政吉が、禿げた頭まで真っ赤にして怒鳴った。「神さまのお宮建設や言うてしおらしい顔して綾部に落ち着いとると思うたら、毎晩ここで乳くり合うてけつかったんか。ええい、けがらわしい。お前の信仰は嘘っ八か、神罰がこわないのか」 傲然と押し黙ったままで、常次郎は立ちのぼる紫煙の輪の薄れゆくのをみつめる。身じろぎもせず、それぞれの形でいて、誰もが常次郎の答えをせまっていた。「美しいもんに惚れる……それだけや。他に何があるかい」「……」「信仰かどうか知らんが、わしは神さんの親心の美しさにも惚れとった。女と一緒や」「そんなええかげんな……神さんをおまきに見変えるなんて……」 平蔵が、夜盲の眼を逆立て、見当はずれの方に向かって膝で突進した。 政吉が平蔵の肩をつかんで、常次郎の方に向き変える。「あんたは間違うとる。梅田の坊やからいうて、神さんのことまで女とまぜこぜにするのは許さん。わしが許さん」 平蔵のやみくもに振り回す腕を身をよじって避け、常次郎はゆとりある笑いを浮かべた。「とにかくおまきを連れて帰なさしまへんで。あんたみたいな極道にあての大事な娘を……」 自由は言いかけ、血迷うたように安子に向かった。「この阿呆、お前が旦那をしっかりつかまえとかんさかい、おまきを傷ものにされてしもたんや。さあ、おまきを元の体にもどしておくれ」 まきだけが自分の娘と言わんばかり、憎しみをこめた母の視線に、安子は放心からつき戻された。 ――そうか、旦那はんとおまきのことは、もう大本の人たちは知っていたのや。知らなかったのは近松の両親とわてだけ。だから小沢はんが……。 安子の目前いっぱいに、四方祐助のもの言いたげな悲しい顔が広がった。「連れて帰ぬ言われても、姉さんの旦那はんやいうこと忘れとるわけやないやろ。なあ、おまき、お前はかなんなあ。一時のあやまちや、なあ、そやろ」 政吉には父親の威圧がない。むしろ哀願に近かった。 まきは強く首を横に振った。面は伏せて誰をも見ず、ほっそりと白いうなじに懸命の意志をこめる。「おまき……」 わっと泣き乱れたのは、自由だった。 常次郎が立ち上がり、大またに出て行こうとする。 まきが、その裾にとり縋って叫ぶ。「義兄さんと一緒におれなんだら……あて、死にます」 常次郎の腕が、力強くまきをかかえて引き摺った。「行かさへんえ」 自由がまきを、政吉と平蔵が常次郎をさえぎろうと争う。誰もが夢中で、安子のことなど忘れていた。 安子は、針箱から裁ち鋏を取り出していた。隣室には炬燵があった。夫と妹がもつれ合ったであろう炬燵には、火の気がなかった。すーっと冷えきっていく胸で、安子は考える。 ――小沢はんらはあの人を刺したかったのや。神さまの前で刺してもだんないと思ってはったのや……。 その意味を考え続けようとあせっても、安子の頭脳はしびれてしまったのか動かない。裁ち鋏の長い刃が、蛇身のようにのたうってみえた。 ――神さまのお道は一夫一婦、一人が多すぎる……多いさかいあてが死なんならん。 もうそれ以外の結論は、安子の暗くよどんできた頭から生まれそうもなかった。重い鋏の刃を開くとき、しゃっと乾いた刃鳴りがした。逆手に握りしめ眼をつぶる。 か細く白いうなじが、安子のまぶたに見える。人買い男に手を引かれて行った四つのまきの頼りなくはかなげなそのうなじは、九つの安子の心の底に焼きついたまま離れなかった。 十八になって、安子はまきを身請けするために我が身を売った。身代わりになって沈んだ世界で、安子は梅田常次郎に逢ったのだ。今、初めて女になったまきが、そのうなじに意志をこめ、生命をかけている。 ――まきにはあの人が必要なのだ。もう一度、まきと代わろう……もう一度出来んことはあらへん。あてには……あてには教祖さまがおってや……。 突き当たったところに、直が両手をひらいていた。闇路をくぐり抜ける安子を待っている。 はっと我に返った。瞬時のことだったにちがいない。騒ぎは、隣室から玄関の間に移っていた。悲痛なまきの叫び声が自由の怒号にかき消されながら、なお尾を引いている。 今夜の遷宮式のために念入りに結いあげた丸髷から素早く櫛を抜き、玉飾りをはずして安子はつき崩す。 平静な気持ちで、背に流れる黒髪を根元から鋏で裁ち切った。紙で根元をくるんだ豊かな黒髪を神前に供え、安子は頬に乱れかかるざんばら髪をそのままに、玄関に立ちはだかった。「母さん、おまきを放しとくれやす。あて、こんな因縁に生まれてます。おまきもかわいそうな因縁。どうぞこれで因果を切って、旦那はんとおまきを好きなようにさせてあげとくれやす」「ほいで……お前はどうするのや」と、政吉が虚脱して聞く。「大本に御厄介になりとおす。できれば教祖さまのお傍に……」 安子のしっかりした語調に、四方平蔵は大きくうなずいた。「お安さん、そうしてくれてか。教祖さまのお傍にいて御用してくれてか……」「はい、平蔵さん、どうぞ教祖さまによろしゅうお願いしておくれやす」 髪も帯もしどろに、まきは泣き伏していた。
 六時三十九分発の一番列車を待って、ひそかに常次郎とまきは綾部駅へ急いだ。 頭巾のかげに切り下げ髪をかくして、安子があとを追った。二人は改札口に入る所であった。「おまき……」 安子が声をかけると、息をのんでまきは眼をひらいた。常次郎の袂を握ったまきの指が固くこわばっている。 安子は微笑んだ。「旦那はんを頼んまっせ」「姉さん、かんにん」 まきは身を震わせて泣いた。 幼い時以来、一緒に暮らすことのなかった姉妹である。それでいて何故にこうも、愛憎深く綯い合わされていくのだろう。安子は妹のために何か言ってやりたかった。別れていく夫にも何か言いたくてここまで来たのだ。それでも、はらわたのそこからふつふつ発酵してくるドス黒いものが邪魔をする。 汽車が入ってくる轟音につき動かされて、安子は声を上げた。「旦那はんにうんとおねだりして困らしてあげるのやで、おまき。あてはそれができん性分やさかい、あきられるのや……旦那はん、おまきをほかさんといて……」「ほんなお安、帰んでくるわ」 まきをかかえて、嬉々として常次郎は手を振った。安子の心中など思いやることもなく、新しい玩具を手にした子供のように、全身に喜びがあふれていた。 甲高い汽笛の音が安子の背骨をぎりりときしませた。重い車輪がゆっくりと目前をよぎっていく。安子は頬に刻みつけた微笑を、最後まで守り続けていた。
 湯浅斎治郎の初宣教は四十二年も暮れ行かんとする十二月三日である。 王仁三郎に宣教を命じられた時、斎治郎はひるんだ。「こちらへ来てからは普請のお手伝いばかりで、なんの修行もしてまへん。わしなどとても人を導くなど」「あんたが導くのやあらへん。神さんがあんたの体を守護して導きなさる。湯浅はん、まずここへ坐ってみい」 神妙に斎治郎が坐る。その傍に妻の小久がひかえて、等分に王仁三郎と夫を見比べた。夫よりは一つ年下の王仁三郎であるが、ふさふさした黒髪も、つやのある肌も、まだ青年並みの若々しさである。 小久は息をつめた。王仁三郎が鎮魂の姿勢をとって夫に向かったからだ。 約五分間……。 第三者である小久の体が、ぼうと熱してくる。小久は子供の頃から霊感が鋭く、よく人に見えぬものを見、聞こえぬ声を聞いた。正夢を見るなど珍しくない。 その小久のみつめる先に淡いうす紫のもやがたゆたう。それは王仁三郎の指頭から迸り、徐々に濃度を加える。銀色の髪・髭・白衣とくっきり霊身を整え終わるや、夫の額のあたりにおり立って、溶けるように体内に吸い込まれていく。「あっ」と、小久が歎声を発していた。「さあ、あんたに守護神にちなんだ名をあげよう。仁斎――今日からお前は湯浅仁斎やぞ。宣教師となって活躍せいよ」 王仁三郎の宣言に斎治郎――仁斎が小久と共に平伏した。 仁斎は手始めに神戸に行き、海岸通り四丁目の塩谷福松の家を根拠に宣教を始めた。おもしろいほどお神徳が立ち、病人がどんどん治ったという。 仁斎もまた病める肉体を癒すことを宣教の手掛かりにしたが、霊の救いを忘れなかった。霊主体従の神律は、王仁三郎の著述によって仁斎の頭に暗記するまで叩きこまれていたから、おのずから旧役員の頑迷で独断的な説教とは違っていた。 小久の目撃によって、気高い白髪の守護神と共にある我が身を信じ、肉体の限界を超える力を悟った上、教義の裏打ちのある仁斎の説教は、入信する者に確かな筋金を入れていった。

表題:大逆事件  9巻12章大逆事件



 明治四十三(一九一〇)年、直七十五歳、そして王仁三郎は不惑といわれる四十歳になった。   王仁三郎が帰綾して以来、大本の面目は日に日にふくれ上がっていたが、出口直の日常は変わらなかった。 臥龍亭の北側のつづきに建て増した二間が直と安子の部屋になった。梅田安子は隣室に起居して直に仕え、日常を肌で感じとって、こよない生き甲斐を得ていた。何が幸せになるかわからぬとさえ、しみじみ思うこの頃であった。 直は朝四時前に起床、まだ闇の深いぬれ縁に出る。そこで手桶に汲んだ水を掌に受けて、髪と額を丹念に潔める。木櫛で銀髪を梳き、紙こよりでうしろにくくる。寒中など、唇も手足も紫色に変わる。四年前から、神命によって直は水行を中止していた。 神前の板の間の円座に坐って、長い長い祈念。その間に安子は直の床を上げ、台所に火をもらいに行く。台所の燃料はすべて山から刈ってきた柴である。 炭は「もったいない」と言って、直が使用を許さぬ。澄から台所の燠をもらって教祖室へ運び、小さな手あぶりに埋ける。祈念を終えた直はその前に行儀よく坐り、ちょっと火に手をかざすだけ、膝をくずした姿を一度も見たことはない。燠が燃えつきると、後はずっと火なしである。 あまり朝が早いので、火の間に合わぬことがある。安子がわびると、「何を言うのやいな、わたしは働かぬのにもったいない。台所はさぞ忙しかろのう」 食事は奉仕者と同じく一汁一菜。はげちょろけの箱膳に入れて、安子が運ぶ。蓋をあけると、お膳になる。茶は倹約して、直は飲まぬ。茶碗に盃一杯ほどの飯を盛り、湯をかけてやわらかくしてのどに流しこむ。 食欲がないのか、それさえ欲しがらぬことがある。安子が見かねて言った。「教祖さま、御飯をお上がりになりまへんと、体が持ちまへんえ」「お安さん、わたしは神さまから『このままではだいぶ人減りがする』と聞いておりますのや。『わたしはどんな行でもしますさかい、どうぞ人は減らさんと立替えて下され』とお願いするとな、『なんぼ直のお願いでも渡る川は渡らねばならぬ』とのう。それならば大難を小難にとお祈りしとるのやが、こうやって坐っていると世の行く末がみなわかるさかいなあ、心配で食事がのどに通らんのやで。『この方の言うことは毛筋の横巾ほども違わんぞ』と神さまは言うてじゃが……」 髪の毛を一本抜き取り、安子に示す。「毛筋の横巾って、お安さん、これやで。これの横巾も違わん……ちっとは違うとよいがなあ、この悪いことがなあ……」 直の目にうっすら涙が滲む。「それでも御飯をいただかんと、肉体がもたんでなあ」「はい、教祖さま……」 安子は励ますように、椀をさし出す。 時には直は、貧窮時代の思い出を語った。「あない毎日御飯をいただかずに屑買いに歩いて、よう体がもったもんや。わたしは何も知らなんだのやが、わたしの霊魂は天の規則を破ったために、どん底まで落とされたげな。それだけのことはしていかなならんが、それでもあの頃は、『一ぺんお腹がふくれるだけ食べてみたいなあ』と思うたことがあったわいな」 直が恥ずかしげに笑った。「あんたもわたしの傍でいただきな」と直が言ってから、安子は向き合って箱膳と箱膳をくっつけて食べるようになった。それだけのことで、安子は楽しくてならなかった。 筆先が出る日は、朝の礼拝の時に知らされるらしい。「今日はお筆先が出るげなで墨をすっておくれよ。ようけらしいでなあ、ようけすっておくれよ」 初めて命じられた時は、「よいかい、お水は御神水、お玉の水やで」と念を押された。御神前から下げたお玉(丸い水用の素焼のうつわ)の水を注いで、墨が落ちても滲まぬ濃さにする。直は下着から一切着替えて間の襖をしめきり、自室の袋戸棚の上に祀った神床の前に机を置いて坐る。 次の間にひかえて待つ安子は、どんな状態で筆先が出るのか、むしょうに知りたかった。 ある時、几帳面な直には珍しく襖が細目にあいていたので、安子はにじり寄り、閉めようと手をかけた。つい、そのまま中をうかがう。 端座した直は、じっと瞑目している。日頃の温顔はなく、引き締まって恐いばかりの男神と化している。と思った瞬間、安子の体は強い風圧をくらったように、ドーッとうしろへはねのけられていた。 しかし、こわいもの見たさには勝てなかった。またそろりと襖に寄る。直は左手を紙の上におき、右手は筆を真直ぐに持ち、どぶんと墨の中につけ、墨がつきるまで走らせ、またどぶんと筆をつける。すごい早さである。ちらとそれだけを見て安子は首をひっこめ、急いで手を合わせて神さまにお詫びをした。 あとで直は言った。「どえらいもんやなあ。神さまは邪魔な物をちょっと除けようとなさるだけやのに、人間は六間向こうへ吹っとぶのやで」 筆先が終わると手を膝におき、静かに次の間に声をかける。「お安さん、お筆先が出たさかい、まず先生にのう……」 筆先を三方にのせて捧げ、安子は王仁三郎の所へ持って行く。王仁三郎がショーショーとめくってみて、すぐ役員へ、それから信者へ。これは不文律であった。 直は安子に教えた。「筆先は紙をやっと使うさかい贅沢なようなが『口で言うと言い間違い、聞き間違いがある。後の証拠のために書き残してもらいたい』と神さまが言いなさるで……」 神霊とは常に交流があった。が、時に激しく悪霊に妨害される。 夜中に恐ろしい物音がするので、安子はとび起きて教祖室の襖を開く。行燈の傍で、直は白髪を逆立て、金色の目を射放って凄まじく宙を睨んでいる。居竦む安子に、「水、水……」 長い廊下を走り、台所から茶碗に水を運ぶ。あわてているので水は揺れて、半ばこぼれていた。「そんな小さな物であくかっ」 かつてない男のような荒々しさである。再び台所へとってかえすと、澄が手燭をかかげて出てきた。「お安さん、どんぶり鉢に持って行き」と言った。 中庭をへだてて三部屋も向こうの教祖室から、「ばか、ばか、ばかっ」と叱る大声が、龍門館をゆるがさんばかりに響き渡る。震えて杓もつ手も定まらぬ安子に代わって、澄がどんぶりに水を満たしてくれた。 直は一息にのみ下し、ようやく息をつく。それから震えのとまらぬ安子に目をおとし、まだしゃがれた声で言った。「お安さん、びっくりしたやろ。こっちがこんだけの力やったら同じだけの悪魔がくる。わたしさえなかったら悪の代は続くさかい、悪魔も死にもの狂いやわな。わたしは負けられへんのやで」 神前に向かって何事か祈念を終え、こちらを見返った時、もういつに変わらぬ和んだ眸、涼しい声音の直であった。「おおきに、風邪ひかぬよう早くお休み」 直の着物は木綿ずくめ、紐まで木綿でないと承知しなかった。それでも着こなしはうまかった。 以前に梅田常次郎と参拝した時だった。継ぎはぎの手織り木綿の着物を着た直が、果物を載せた三方を御神前から下げてきて、ふと、「梅田はん、これ上げようか」と、声をかけた。常次郎は返事もできず立ち尽くしている。「どないしはったんどす」 直が通り過ぎたあと、安子がいぶかしがって訊くと、夫は魅せられたようなまなざしのまま、うなった。「うーん、あの品のよい立ち姿といったら……菊五郎でも団十郎でもあんな様子はできん、絶品やなあ」 常々、舞いできたえ、最高の衣装によそおった芸妓の裾を曳いて立つあでやかさを、何より愛する常次郎である。夫の嘆賞を自分のことのように、安子は嬉しかった。 きびしい生活態度の反面、徹底した慈愛の人であることも、安子は知った。珍しく神前に砂糖が供えられた日、蟻の行列が三方の上から教祖室をよぎって庭先まで続いていた。気付いた安子が、あわてて貴重な砂糖を取り上げ、右往左往する蟻を払いのけた。直は庭に下りてしきりに何かしている。蟻の進路の妨害物を楽しげに取り除けてやっているのだ。 あきれる安子に、直は言った。「こんなもんでも自分のつとめに一生懸命はげんでいる。かわいいもんじゃなあ」 鼠が増え、いたずらして仕方がないので役員たちが毒だんごをしかける相談をしていた。直がそれを聞いて、遠慮っぽく口を出した。「鼠の分だけわたしは食べる物を始末するさかい、どうぞ毒だんごのことだけはこらえとくれ」 直の傍近く仕えることで、安子は長い間ため込んでいた心の底のどろどろまで洗い澄まされるような気がした。
 王仁三郎は東に西に走り回って精力的に宣教にうち込んでいた。湯浅斎治郎や西田元教もまたその意を体して活発に動き、教勢は次第に展開した。 明治四十三(一九一〇)年六月三十日、山陰線の園部・綾部間の鉄道が開通した。殿田・胡麻・本庄・山家の四駅、十一ヵ所のトンネルによって、一時間二十分で両駅はつながったのだ。京都から綾部へ来るには、今まで大阪・福知山回りの汽車しかなかったのが、直接、京都・園部・綾部間が一本化する。そのための社会的利益は三つ。 一、綾部・京都間は里程において六十五哩、時間において四時間余りを短縮できる。 二、運賃の上からは、三等運賃で七十五銭を減ずる。 三、綾部・京都・大阪間は、綾部・福知山・大阪間よりも時間において一時間余り、   里程において四哩を短縮し、三等運賃において六銭を減ずる。 地方への宣教、地方からの参綾の便宜は増大した。開けゆく大本にとっては、待ちかねた喜びの日であった。 雑誌「直霊軍」は六月に十四号を発行して休刊、十二月に十五号を発行して廃刊した。廃刊の辞に、「直霊軍の発行は毎号数千部に達し、会員の数は一万を出るといえども、至誠の士数名のほかは一銭の雑誌料をも支出される人士なく、僅かに三十に過ぎざる会員の補助を頼りにこの難題を切り抜けたる次第なれば……」とある。大量に印刷し配布するほど苦しくなる。その大部分が無量配布であれば、経営の成り立つ道理はない。しかし、社会に警鐘を打ち鳴らし、大本の存在を広く世に知らせたことに意義があった。万事がそうであった。 大日本修斎会は活気づき、奉仕者も増え出したが、あい変わらず貧乏とは縁が切れない。奉仕者が外に働きに出て、持って帰る日収さえあてにせねばならなかった。「腹減って、山仕事はかなんなあ……」と、朝の薄粥を流し込んだあと、誰かがぼやいた。感慨は同じ王仁三郎が、弟上田幸吉に言った。「お前は足が早いさけ、西町の鹿はんに頼んで、電報の仕事でも世話してもろてこいや」 運よく町の配達人がよそに出ていたので、大槻鹿蔵の口ききで、幸吉は臨時雇いとなった。「二里の道を一時間で行かな、つとまらんで」と言い渡される。一里歩いて八銭、山道だと十銭であった。 その日のうちに、片道五里の奥上林までの仕事にありつく。幸吉は走った。返電の文案が出来上がるのを待ち、それを預かってまた一心に走り戻る。澄がそれで米二升五合を買い、二食に分けて、みんなで食べた。「幸はんのおかげで固い飯や。久し振りやのう」と、みんなが喜びの声を上げた。 電報配達のあい間には、発展途上の郡是製糸の普請に雇われた。法被と江戸腹あてと職人用パッチを借金でこしらえて、仕事に出た。収入から少しずつ借金を返し、残金で米を買って龍門館の台所を助けた。 福本源之助や近松光次郎は、由良川の筏をほぐして運んだ。「ちょっと油五合買うてこいや」と言って、四方祐助爺さんは二銭七厘くれた。「これでは足らんやないか」 光次郎が抗議すると、「足らんとこはお前が出すのや」といった調子であった。 光次郎は醤油も買いに行かされた。「金神さんの醤油おくれ」と声をかける。むこうは心得ていて、樽の底を洗ったような雑巾水色の塩辛いだけの醤油をくれた。それが金神さん用だった。 みなで野草を摘んできては、「日本中がこんな物食わんなん時がくるのやなあ」と嘆きつつ、粥に入れた。 一家で綾部に移住してきた湯浅家も、打って変わった貧乏生活に入った。自分たちだけの贅沢など許されない。生活を極度に切りつめ、余分の金はすべて献金した。 宣教に出てゆく仁斎の人には言えぬひそかな楽しみの一つは、外では家より固い飯が食えることだ。地方に行けば、必ずお神徳が立つ。帰綾の時は、かなりの玉串料で懐が重い。何日ぶりかで勇んで帰ってくると、何の知らせもせぬのに龍門館の門口まで王仁三郎は出迎えていて、待ちかねたように手を出す。「御苦労やった。ちょうど広前の建具代をとりに来とるのや。きっちりその分あるはず……」 仁斎がいくら持って帰るか、綾部にいながら小銭の末まで見通しの王仁三郎だ。 銭は右から左に消える。教団が動けば動くほど、金はいくらでも必要であった。それでも仁斎や妻小久の誇りは、大本の一番苦難の土台固めの時代のお役に立つという自負であった。 こういう貧乏教団の台所を預かる澄の苦労も、尋常ではなかった。お宮は完成したが、まだかなりの未払い金が残っている。 梅田常次郎は、新しく得た恋人まきに情熱を移して京都へ引き揚げたままだ。王仁三郎も「お澄、あとはええようにやっとけよ」と言うなり宣教にとび出してしまう。三人の幼い娘をかかえて、奉仕者たちのあれこれをさばくだけでも心身の休まるひまはないのに、借金の催促はすべて澄一身に集中した。澄特有の明るい笑顔と機転で、幾度も難局を切り抜けてきた。 十一月一日、上田王仁三郎は弟幸吉を養子として隠居届を出す。上田家のあとは幸吉が継ぐことになった。順序としては次弟の由松が跡をとるべきだろうが、王仁三郎は彼の博奕癖を恐れたのである。 十二月二十九日、出口家への養子手続きを終え、晴れて出口王仁三郎に改める。 明けて明治四十四(一九一一)年一月三日、王仁三郎は竹原房太郎を連れて、島根県の出雲大社教を訪問した。御嶽教、大成教と次々に看板を書き替えても警察の圧迫は激しかったので、大本の祖霊社を合法的に大社教霊社の分社にする手続きのためである。 王仁三郎の出雲大社訪問は明治三十四年の出雲火の御用についで二度目、十年ぶりのことである。素盞嗚尊の神格を重視する大本にとって、大社教につながることに心理的抵抗は少なかった。そして同月二十六日には祖霊分社の許可書がきて、表むきには大社教本宮教会本院と称することになる。 大社教訪問直後の一月五日、綾部町役場に正式に澄との婚姻届を出し、直日(十歳)・梅野(八歳)・八重野(三歳)の三人の娘も同時に出口姓になる。十一年前に婚礼の式を挙げながら、こうも改姓と婚姻届がおくれた理由は、上田家の戸主である王仁三郎が戸籍をぬけきれなかったためであった。 この措置は、いずれ上田家の家督は自分がつぐと信じていた由松を怒らせた。明治四十四年一月十一日付けの由松から王仁三郎にあてた手紙が現存する。 ――拝啓、拝ば(?)幸吉を戸主にして出口王仁三郎になることなら、穴太の内(家)をチャントシテカラどをなりともいたせ。三年前に兄上穴太にもどり、きんじょとなり皆々様へ由松の家をたてやるとウソバッカリゆうたが為、小生も母もせけんの人にはじをさらされ免んもく(面目)なくてこたえられん事。それに出口になるとわ何事じゃ。其事ばかりわ母上も「いやいやいやいや」と申して居る。穴太の内にちゃんとしてからの事なら勝手にせ。今居る所の家わせぼ(狭)て何にもをく事も免じたく、ばしょを京都の二条下ル車屋町あめの森、せんち(雪隠)わツブレかけたのをツンバリ(突っ張り)、それも雨の森(雨が漏るの洒落?)、たきぎ一ついれる所もなく、ションベンたご(桶)もなし、何もかも何もかもあめの森を、ゆき(王仁三郎の妹)の一年半もびよき(病気)の世話もしてやった。何もかもないものばかり、右の有様ゆへに穴太の事をちんと気をつけなされ。
 日露戦争後の帝国主義確立にともない、資本主義の独占段階への発展はめざましかった。階級闘争は激化し、幸徳秋水を理論的指導者とする無政府主義の影響が伝播、天皇政府との対立が深まった。 日本最初の合法的社会主義政党である日本社会党は明治四十(一九〇七)年二月解散を命じられ、翌年六月、山口孤剣の出獄歓迎会の際のいわゆる赤旗事件で、堺利彦・山川均・大杉栄・荒畑寒村ら幸徳派の中心人物が投獄された。 この事件後成立した第二次桂内閣は、社会主義・無政府主義運動に対する圧迫を強化、これに対し無政府主義者の間に、天皇個人に対するテロリズムによって解決しようという動きがあった。 明治四十三年(一九一〇)五月二十五日、社会主義者・無政府主義者ら数百名が全国各地で検挙され、そのうち、幸徳秋水ら二十六名が明治天皇暗殺を計画したとして大逆罪の容疑で起訴された。 同年十二月十日より大審院刑事特別法廷が非公開でひらかれ、翌年一月十八日、判決が下る。二十四名の被告が大逆罪により死刑、二名が爆発物取締罰則違反で有期懲役。翌日、死刑者の半数を無期懲役に減刑した。 一月二十四日早朝から市ヶ谷の東京監獄の絞首台で幸徳秋水ら十一名の死刑が執行され、翌二十五日には管野スガも刑死する。 この事件の大半は当局のデッチ上げであり、関係者はせいぜい四名、幸徳秋水その他大半は事件とは全く無関係である。桂内閣が幻の全国的大陰謀団を作り上げ、国体の名を借りて無政府主義者グループの一網打尽をはかったものといえる。 この大逆事件を号砲として、あらゆる社会主義運動・民主主義運動への弾圧は強化され、日本は暗黒の冬へと踏み出していた。 大逆事件の全国一斉検挙が行なわれた朝、王仁三郎は地方へ宣教に出ていて留守であった。澄が八重野を抱いて乳をのましている所へ刑事が入って来て、居丈高に命じた。「取調べることがあるから、すぐ警察へ来い」 刑事が龍門館へ顔を出すのは珍しいことではない。 澄は乳を含ませた姿のまま、片頬にえくぼを浮かべた。「どんなことやら知りまへんけど、主人は居りまへんで。ちょうど赤ん坊が乳のんどる最中やさかい、ちょっと待っとくれなはれ」 刑事は、余裕のない声を甲走らせてわめいた。「何をぬかす。お前らの子が一ぺんや二へん乳のまんかてかまわん。さあ、立てい」 澄の頬からえくぼが消えた。 お前らの子が……と侮蔑をむき出した刑事の言葉が澄の心を煮えたたせた。上と下、富める者を尊び、貧しい者をいやしむことに何の疑念すらおぼえぬ人種への、激しい嫌悪に身震いした。 八重野を背にくくる間ももどかしく、強引に警察に連行される。刑事たちの緊張ぶりは異様だった。何の嫌疑やら分からぬままに、出入りの新顔信者などについて、澄は根ほり葉ほり聞かれた。 危険を本能的に知って、澄の答えには当たりさわりはなかった。 王仁三郎、湯浅仁斎のいない龍門館では新聞を読むものすらなかったが、大本のような田舎の微々たる一教団に対してすら、大逆事件の余波はうち寄せていたのだ。立替え立直しなど社会主義者の革命思想と同じ系列ではないかと、当局の神経はいらだっていたのだろう。澄はその日のうちに帰された。 幸徳らの死刑が報じられた時、澄の心中はおだやかではなかった。いどむような目で、王仁三郎に食い下がっていく。「先生、あの人たちは、ほんまに死刑になるほど悪いことしとっちゃったんじゃろか。天皇さんを殺そうと相談しただけで、別に殺したわけやなし……それでも十二人も殺されんならんのやろか」「大逆罪というのはそう法律で決まっとるのや。天皇一族に対して危害を加えようとしたというそれだけで、もう大逆罪が成立して死刑。否も応もあらへん。墨で書いた文字を墨で消してつぶしてしもたのといっしょや。真相はわしらには読み取れん」「憎いもんを憎いと思う、その気持ちまで止めることはできまへんやろ。天皇さんの警察か知らんが、かさにかかって『お前らの子が……』などと言われた時は、うちかてほんまに口惜しうて口惜しうて……」 王仁三郎は、無念の涙すら浮かべている妻をじっとのぞき込んだ。「お澄……お前……天皇と神さんと、どっちを信じる……」 王仁三郎の声は低く暗かった。 引きしぼった弓のようにみはった澄の眼が、一瞬まばたく。「決まってますがな、何でそんな阿呆げたくらべ方せんなんのです……人間よりは神さんが偉い……」「天皇は人間ではない、現人神やそうな」「……そうか知らんが、それでもこの世を持ち乱らかした神ですやろ。国祖を艮へ押し込めた側の……」 言い放つ澄の目の色に、ひるみはなかった。王仁三郎は暗い目のまま押しだまった。筆先を信じる以上、澄をとがめるわけにはいかない。幣帛供進使にたてついた時、王仁三郎の覚悟はすでに決していたはずではないか。「むかし、支那に老子という人がいてのう、『貴族なければ賎族なし』と言わはった」「何やいな、その匪賊とか山賊とか……」「ははは……匪賊やない、貴族や。つまり生まれながらに特権を与えられた階級、身分の貴い人たちのことを言う。本来、神さまの目からみれば等しなみ、人は神の子・神の宮や。筆先ではそれを一列に人民という表現がしてある。ところが人間が勝手に貴族という特権階級を作り上げるから、その対立概念として賎族――いやしいとされる家柄が作り出される。江戸時代士農工商という階級が作られ、その頂点に将軍がいたが、絶体的権力を持つ将軍すら神にはならなかったし、死んでから神に祀り上げられたのは……気の毒に、家康だけや。 ところが明治政府は天皇を現人神に仕立て上げた。神とは隠身、肉体を持たぬ存在であるべきやのに、『日本書紀』の日本武尊なぞの言葉をひっぱり出して、現身を持ってこの世に現われた神などという観念を作り上げた。そんなものができれば、当然差別は助長される」「お筆先には『天も地も、世界中、桝かけ引いたごとくにいたすぞよ』とありまっしゃろ。人間の中に尊いもんとか卑しいもんとか、そういう特別な人間を作らないと言うとってじゃのに……」「その通りじゃ。その結果、『神もぶつじも人民も、勇んで暮らす世になるぞよ』と神さまは約束してなはる。そのためにこそ立替えが必要になる」「けどこの頃、教祖はんのことを『大神さま』という人がふえてきましたで」「困った風潮や、大神さまが教祖はんの肉体にかかって筆先を示されることはあっても、教祖はんそのものが大神さまやない。教祖はんを敬慕する気持ちは分かるが、贔屓のひき倒しで、そのことがどんなに神さまに御無礼になっとるか、奴らは気がつかん」「先生、立替えいうたら、今まで絶対やと思うていた考えをひっくり返すことでっしゃろ。天皇さんをもし殺したら、天皇さんは神さんでなくなる。やっぱり人やったわいなあと、みんな思いますやろ。人よりは神さんが偉いのに、神さんを押し込めといて、天皇の方がえらいといわせることも、もうなくなりますやろ。それで世の中がひっくりかえるのなら……考えるだけなら、うちかてそれくらい考えますで。幸徳秋水らの考えたこととうちらと、どこが違うとるんです」 澄が光る眼で押してきた。「ひっくりかえすのは、ものの形やない。まず霊魂の立替えからとお筆先にもある。幸徳らの見るのは体にすぎん。体を壊そうとすれば、血も流れるわい。わしらが念ずるのは霊体一致の革命や。 革命いうのは、人為の力で、人間の知恵の限界内で、理想世界と思われるものを築き上げることやろ。けど、理想世界と思われるものが錯覚でなかったという保証はない。立替え立直しは、神の示す理想世界を、神の助けを借りて人間がなしとげようとするもの。言うならば、神と人間との協同作業や。霊が変われば自然と形も変わる。制度も正されるはず。体の内側の霊のあり方まで変えなんだら、ほんとうの革命、つまり立替え立直しはできんのや。 天皇を殺そうと考えたのがほんまやったら、幸徳らは間違うとる。けれど、その間違いを死刑で正そうとした天皇政府のやり方は、なおのこと大間違いや」「……」 低い暗い調子ながら、王仁三郎は信念をこめて続ける。「国家社会の実状を憂うる者が、世を毒する元凶を殺そうとするのは、霊主体従の律法を厳守しようとする国祖が艮に押し込められて以来、野放しとなった。神武天皇の昔から殺し殺されの歴史はあかず繰り返されてきた。たしかに殺して片付けるのが一番てっとり早い局面の転換とはなろう。しかしそれで世の中は平和になりはせん。現に戦争は今だに絶えんやろ。長い眼で見たら、おそろしく無駄なことや。明治維新の時も、そういう誤った信念で多くの惜しむべき人材が凶刃に倒れたし、これからだってあるやろう。だがそんなことをしても、世の中のためには百害あって一利なしや」「……」「人間が殺すことができるのは肉体だけや。それをみんなは長いこと忘れとるのや。切ったり、焼き捨てたり、水に流したりして、形さえ見えなくなればそれですべては済んだと思うとる。そんなちょろこいもんかい。心は刃で斬れやせん。肉体を失い、恨みを呑んだ霊魂はどうなるか。必ず新しい人に憑依して、あるいは生まれ変わって、前世以上の力を発揮する。仇を報じようとする。七生報国の忠臣の魂が生き続いているように、逆賊の魂かて同じこっちゃ。 だから、一部流血革命家が考えている一人一殺主義は、かりに一人を殺したところで、かえって新進気鋭のその後備軍を前線に誘導して、味方の不利を招くだけの結果になる。悪因縁をつみ重ねるだけや。力によっての平和など永久に来はせんわい」「……」「死刑やその他の体罰によって社会を善導しようとするのも、同じ意味で無益なことじゃ。人が人を殺す権利はないという議論はさておいても、死刑にされた者の魂魄はさらに怨恨をまして邪気を凝らせ、次々と他の人間に作用するから、社会はちっとも清まらん。まして為政者のために邪魔な思想家や主義者を政略的に投獄し、どれだけ殺してみても、彼らは魂魄と共にかえって根強く思想を残す」「ほんなら、どうすれば良いのやろ」「かつて水戸公が、孝の道を知らない罪人に孝道を教えること三年、道を悟らせてから刑を執行したという。犯罪者には自ら犯した罪の恐ろしさを徹底的に悟らせ、その霊魂を正しく省みさせることや。日本には古くから『言向け和す』という美しい言葉がある。言霊戦で邪に勝つのが惟神の大道。それ以外に誠の道はないとわしは思う。けどのう……言霊で勝てる世の中はまだまだ遠い。わしらの身にもやがて大峠はくる。お澄、覚悟せいよ。けれどわしらの魂魄は永遠に死なぬ」 王仁三郎は灰色の雪雲をみつめていた。
 二月二十三日、出口家当主の直は隠居し、王仁三郎が家督を継ぐ。土地・家屋の名義変更が行なわれ、四十一歳にして名実ともに出口家の戸主となった。小松林の悪の御用として役員信者たちに排斥され行動を一々妨害されてきた王仁三郎が、忍苦の十年ののち、ようやく教団内に地歩を築き、力強く踏み出す時節がやってきたのだ。

表題:新しい命 9巻13章  新しい命



 直日は動作がのそっと緩慢で、寡黙であった。内心のはにかみを隠すためにであるが、いつもぶすっと怒った顔をしていた。 美に対しても、無表情に黙りこくっていた。他の子供らが花の美しさにたちまち感動の声を上げるとき、直日は心を押えてうずくまる。花弁のふくらみにそって生まれる影の濃淡・色・姿・香りと葉裏のそよぎまで丹念にみつめ、そのいとしさに動けないのだ。美への驚きは深く、容易に子供の口には表現できなかった。 他の子らの興味は、とっくに花をはなれて蝶に移り、直日を忘れて追いかけて行く。鈍な子、面白みのない子と他人は言う。直日もそう思う。友らの敏感な反応、変わり身の早さについていけず、ひとりとり残されるとき――うちはにぶいのや、と。 だから直日は、誰に気がねなく、ひとりの世界にひたる。この世に生まれてきて最初の印象が汽車の窓から見た果てしない薄野であったように、小さい直日は感動と淡い哀愁をこめて移りゆく自然をみつめる。雨の日は、格子戸にもたれて、外面を眺める。樋を伝い落ちて、角の水たまりにぱちんと白く輝く雨滴。 日暮れを急ぐ烏の群れにも小声で呼びかける――。「カラス、カラス、カンザブロウ」  裏の柏の木の二又に分かれた幹に腰をかけ、隣の内田家の庭を眺めるのも好きだった。秋になると、生垣の傍に鄙びた赤紫の花が群れて咲く。その愛らしさに見とれていると、父が寄ってきた。「穴太ではこの花を乞食牡丹と言うとるが、ほんまの名は分からん。……わしが植えたんやぞ、可愛いやろ」 うれしげに父が言った。ぶすっとした表情は変えずに、直日がうなずく。もの言わずの娘の眸の中に、美への鋭い感受性と天稟の資質がのぞくのを、父だけは知っている。父は包むように言った。「直日はわしの子や、わしの子や……」 ずっと後年、父が死んでから、直日はこの花の名を貴船菊と知った。
 ――うちは他人とは違うとると、直日が子供心にも漠然と自分というものをみつめ出したのは、小学校に入ってからである。 いつとはなく、教祖出口直の孫、水晶の種、三代のお世継などの言葉は直日に向かって囁かれ、役員信者たちに特異のまなざしで見られてきた。直日自身にとってはあずかり知らぬそれらの言葉は、やがて直日を、人並みの子供らしい夢から、友から、孤独の世界に追いおとし、むしろ重たい劣等感となって逆の方向に作用した。 澄は極貧に育った子供の頃のみじめさを自分の娘にだけは味わわせまいと決意していたのであろう、金さえあれば、まず直を安心させるため、米櫃に米を満たし、筆先の紙を買い、次に直日の着物や持ち物に気を配った。 入学の日、澄が苦労して新調した着物を、直日は拒んだ。「こんな赤い着物はいやや」と泣いてだだをこね、母を怒らせた。 女の子らしい着物は自分の柄に合わぬとでも子供心に決めたのか、男っぽい目立たぬ着物ばかり好んで着たがる。それでも、木綿の黄八丈に、納戸色の繻子の帯や白飛白の単衣など、母の選んでくれた着物は貧乏な家庭にしては分不相応で、他の子らに立ちまさっていた。 女の子たちの興味と話題は、小さなうちから世俗的なものが多かった。「あの子の家は金持ちやで」とか、「うちの袴はセルや。あの子のはセルと違うで」といった類である。直日は、自分がそれらの好餌にされるのが嫌だった。「金神さんの子やから……」と嫉妬と侮蔑も含んで、特別な眼で見られるのが何よりつらかった。 一年生の時は女の中山先生。他の子らのように、甘えて先生の腰にまつわりつくことはできなかったが、それでも慕わしい気がした。二年は黒田先生。そして三年の大西先生の担任になって、学校は暗く淋しい檻と化した。授業は味気なくて退屈なばかり。中でも、一たす一は二、一かける一は一でなければならぬ算数が嫌い。初めにがみがみと頭から押しつけられて納得のいかぬまま、直日は初歩でつまずいて、そのまま敬遠してしまった。 出来なくて叱られるのは悲しく恥ずかしかったが、だからといって分かろうと努力して殊更勉強する気はなかった。「学は悪」というお筆先を素朴に信じる気風が、この小さな魂にまで染みついてしまっているのか。 大西先生はキリスト教信者であったから、大本に対して特に偏狭な観念を持っていた。同じ組の牧師の娘はとりわけ大切に扱い、そのぶん異教の子直日を目の敵にした。勉強ができないせいに加えて、何かあると憎しげに白墨をぶつけた。この先生にだけは、打擲されもした。「お前らの中で金神さんの信者は手を上げてみい」 授業中にそんな質問をする。たった一人、手を上げる直日に、子供らの視線が集中した。「朝野、お前も拝んどるんか。金神さんなんか拝みよったら、しまいに俥引きになるぞ」 子供らがここぞと嘲笑する。先生が追い打ちをかける。「信者は一日何人ぐらい来るかい。え、賽銭は、なんぼぐらい上がるのや。朝野、言うてみい、え……」 世俗の垢にまみれた野卑な目が、爪が、直日のやわらかい胸に無残に食い入った。 先生から解放され、運動場の片隅で迷い子のようにぽつんと立つ。血のにじむ傷口を自分でなめて癒やす子猫のように、直日は痛む胸に、ひしと祖母を抱く。朝な朝な登校する直日を、格子に身をよせ、じっと見送ってくれる祖母のきよらかな、いつくしみにみちたまなざしをよみがえらせる。 けれど子供たちは、傷ついた直日をほっておいてはくれなかった。大人たちや、大西先生までが自分たちの側である一種の正義感に気負って、忍び寄る子供たちの息は生々しくはずんでいた。 背にせまる危機をうけとめ、次にくる屈辱の予感に怯えながら、直日は動けない。「金神さんの子、やーい」 どっと突き倒され、砂地にひどく膝小僧を打ってころがった。「金神さんのお婆あは、髪の毛一本五円、下の毛一本十円で売ってやげな、わーい」 囃しておいて、ぱっと逃げる。またやって来る。今度はうずくまる直日の髪の毛を引っ張る。一人が小突く。一人がつねる。耐えかねて身をさけると、「やーい、やーい、逃げるのん、卑怯……」 ――大勢で、一人にかかるのがよっぽど卑怯やないか。口には出せず、怒りに蒼ざめた顔をただふり向けるだけの直日。子供らはたちまち数を増し、声を合わせて唄い囃す。「金神さんの子……」「下の毛一本十円……」 ――違う、うちのおばあちゃんは、下の毛など売ったりはせん……。 胸いっぱいの抗議は、しかし声にはならぬ。問題の祖母の髪の毛は、確かに信者たちが争って欲しがっていた。直日も、金銀にまぶしく輝く祖母の髪を、艮の金神のお肌守りにしのばせている人たちを知っている。彼らはそれを肌身につけることで、大難を小難に、小難を無難にと、日々の災いをさけ、安らかに暮らせると信じている。 直の櫛けずったあとのこぼれ髪を拾って大切そうに押しいただく梅田お安さんや平蔵さん、祐助爺さんを、直日は卑しい目で見たことはなかった。まして金で売るなどと。けれど、何故、祖母の髪が肌守りになるのか、九つの直日に、どう弁明のしようがあろう。こづきまわされる直日を助ける者はいない。 サフランの赤が……萱草の花の色した妖しい赤が……三つの時、熱病にうかされた直日の口中に母が塗ったあの不気味さで、ふいに直日の脳裡いっぱいにひろがっていった。 死にたい。呟いてみてどきっとした。けれど、もうずいぶん前から、直日はそのことを思いつづけていたような気がした。 朝礼の時、いつものように直日の眼は、居並ぶ子供たちの頭をこえ、壇上で訓話中の丸岡校長先生の頭上にとまる。そこには講堂の長押にかかった大きな額があり、古びた墨絵がおさまっていた。恐ろしい不快な学校の中で、ただ一つ、直日の心を魅きつけているのはこの絵である。入学以来の三年間、直日は講堂に入るたびこの絵をみつめてきた。何の絵であるか、何のためにこんな絵を学校に飾るのか分からぬながら、異様な緊迫感をもって直日の心にせまっていた。 それは疲れ果て傷ついた少年群像である。髪を大たぶさに結い、抜刀した凛々しいいでたちながら、よろめく者、刀を杖に立とうとする者、谷川の水をむさぼり呑む者、刀を腹に突き立てている者、互いに胸をさし違えている者、すでに血に染んでうつ伏している者、すべてが痛々しい子供たちだ。絵本を見ることもなく、サムライの概念すら定かではない直日だったが、追いつめられたこの少年たちが今何を考え、何をしようとしているかだけは、はっきり分かった。 死――そうだ、死のうとしている。何故かは知らぬが、死に急いでいる。 思いつめた少年たちの表情の中に、直日は自分と通じる哀しさをみた。現実に息づいている、かたわらのどの子供たちよりも、直日は死のうとしている絵の中の少年たちがいとしかった。直日のまぶたには、やがてすべての少年たちが息絶えて、谷川の瀬音だけがいつまでも高鳴りつづける情景が見えてくる。すると胸が熱くなり、湧き上がる涙をおさえきれない。校長先生の長々しい訓話のあいまにふと我にかえると、死にたい――と憧れるようにまた直日は思った。 この絵が官軍に抗戦して全滅した会津少年白虎隊の最期を描いたものと知ったのは、ずっと後である。
 ――明日から春休みがはじまる。学校へ行かんでもよいのや。 胸毛をふくらした小鳩のように、直日の心は、ことことおどる。 終業式がすみ、担任の大西先生の休み中の訓示もよそごとに聞いた。 とび立つ思いで帰り支度を始めた時、直日は先生に名前を呼ばれて、数人の生徒と一緒に教室に居残った。 わいわいとび跳ねながら、子供たちが校庭をよぎって帰っていく。それに気をとられていると、大西先生が戻ってきて、居残りたちを教壇の前に招いた。「お前らは、胸に手をあてて、この一年をよーく反省すること。よいか、お前らは仮及第やぞ。仮及第でやっと四年生にしてもらえるのやさかい、それを忘れんように。この春休みは、ほかの友達の倍も三倍も努力して勉強せなあかん。分かったか……どうや」 脅しは声にばかりでなく、表情にもたっぷり込めて、大西先生は、ずーっと生徒の顔を見渡す。低い背丈の上に骨ぼったい赤ら顔、とび出た頬骨に大きな厚い唇、眼だけが危険に構えるように小さく奥にある。直日の審美眼では、この顔はどうにも好きになれない。 みんなしょんぼり肩を縮め、先生の目が行き過ぎるのを待つ。右側の女の子がすすり泣いた。と、左側の女の子も誘われるように泣き出した。 ――仮及第って、やっぱりいかんことかいな。 その時になって気がついて、直日はびっくりした。直日のきょとんと上げた顔に、大西先生は二重に視線を戻して睨んだ。「こら、朝野、分かったやろな」 家へ帰ると、井戸端で洗濯している母に報告した。「母さん、明日から春休みやで。うち、仮及第や」 家に帰りついた喜びで、直日の声まではずんでいた。「へえ、そら結構じゃな。お父さんにも教えたげな」 澄は洗濯の手を止めてにっこりし、また急がしそうに洗い出す。学校へ行ったことのない澄に、仮及第の意味など分からない。分かろうという関心すらない。 渡り廊下を急いで、原稿を書いている父の離れへ行った。黙っていてもよかったのだが、大西先生のものものしい目つきが、小鳥の足にからむ網のように邪魔になる。 通知簿を父に渡すと、そう言えばこんなもんがあったわいと王仁三郎は筆を置き、珍しげに眺めた。「なんや、直日は丙と丁ばっかりやなあ」と父は笑い出し、「いやいや、甲があるぞ。ほう、唱歌と歴史に甲もろたな。直日は歴史が好きなんか」 一番好きやと直日は眼を光らせた。ほめてもらえたようで嬉しかった。 当時の通知簿は、上から順に優・甲・乙・丙・丁と五段階に分かれていた。「うち、仮及第やって。仮及第って、あかんのやろか」 父は笑顔のまま肩に手を置く。その手のひらに、愛のぬくみがあった。「どうにか落第だけはこらえてやるちゅうこっちゃ。四年生になれるのや。落第せんでもうけたのう。さあ、しっかり遊んでくるのやぞ」
「姉さん、よう来とくれやした」 まきは、臨月を迎えていた。 安子は、一年半ぶりに帰った我が家を見渡した。見慣れた家具ばかりなのに、まるきり別の家に踏み込む感じであった。母自由が来られぬというので、直の許しを得、まきの出産手伝いに来た安子である。 ――否、我が家とは思うまい。ここは妹夫妻の住む家、常次郎を夫とした過去十年は、直と暮らす日々の中に、きれいに洗い流してしまったはずなのだ。 茶を入れながら、まきはこだわりなく顔をほころばせた。「あてなあ、不思議な夢みたんどっせ。綾部の教祖さまが何かをあての口にむりやりお入れやした。ようよう呑み込んだと思たら目がさめたんどす。そしたら子供をみごもって……」「ふうん、結構なことやないの、きっと神さまから授かった子に違いおへん、大事に育てなあかしまへんえ」「へえ、おおきに……」 嬉しげに頭を下げるまき。長火鉢の上には常次郎愛用の銀煙管が置いてあった。安子は、つい手をのばして取ろうとしたが、これさえ今は妹の夫の物と気づく。さりげなく元に戻して、「旦那はんは、どこに行ってはるのどす」 まきの顔が曇って、「昨日からお茶屋に流連けどす。あんなとこ、何がおもしろいのどっしゃろ」 ――今日明日にも出産しようというまきを置いて。 安子の心は騒いだ。思わずとがった声で詰問する。「誰かまた……きっと夢中になってはる芸妓はんがあるのどっしゃろ」「小力はーん、と言わはりましたえ。きれいなお人やそうどす。あては気がきかんさかい……」「おまき……」 ――それでは約束が違うと叫びかけるのを、安子はこらえた。悲しいことは悲しいがさほど怒っている様子もないまきの態度に、一層腹が立つ。妹の幸せのためと思えばこそ、髪まで切って身をひいた。そんな姉の心を察すれば、母となる今、まきは妻の座を守ることにもっと熱中し、外敵に対しもっと憤激してよいではないか。妹に譲ったつもりの妻の座を、横から他人に奪われたのでは、安子の立場はみじめ過ぎる。 綾部で忘れていた黒い炎が、腹から胸へとたちまち自分を焼け焦がすのを、安子は感じた。常次郎をとりこにした小力という芸妓が、まきの分も合わせて、安子には我慢ならなかった。 三月二十九日、難産であった。妹の産みの苦しみを、子を産んだことのない安子は、おのが身のはり裂ける思いで見詰めた。母体とともにもがき苦しんだ果て、ようやくか細い産声を上げた赤子の、深刻そうにしかめた顔。しわだらけの小さい手足が、涙でぼやけてしかたなかった。 常次郎はさほど感激もなさそうに一瞥して、初めての男子に常三郎と命名した。 難産のせいか、まきの産後の肥だちは悪かった。強い出血が続き、高熱にうかされた。水蜜桃を思わせたまきの肌はつやを失い、熱がようやく下がってからは血の気もなかった。寝たきりのまきは、一日うつろな眼を天井に向けるばかり。医者も匙を投げ、義務的に薬を投与するだけとなった。 安子は帰綾もできず、妹の看病と赤子の世話に昼夜もなかった。陰気くそうてかなわんと常次郎は病室をのぞいてやることもせず、お茶屋通いに精出している。綾部から近松夫婦や田中善吉が駆けつけているというのに。 庭の桜も散り、たんぽぽの綿毛がほうける頃、まきは看病疲れにうたたねしている安子を揺り動かし、床の中から手を合わせた。「姉さん、かんにんえ。あての最後の願いを聞いとくれやすな」「なにえ、なんでも言うとおみ」 まきはようやく聞き取れる程のかすれ声をしぼり出す。「おおきに。あて、もう元気になることはないやろと思います。どうせ死ぬんなら、綾部で死なしてほしおす」「綾部で? 旦那はんも、お父さんもお母さんも善吉さんも、みんなここにいやはります。あんたが元気になるまでずっとおってもらうさかい、心配せんときや」「あてなあ、大本で……教祖さまのお傍で死にたいん。そればっかり考えてました」 耳を疑った。それほど信仰に関心があるまきとも思えなかった。「こんな体で動いとおみ、よけいひどなりまっせ」「かましまへん。綾部に行きつきさえできたら本望どす」 考え抜いた結論らしく、まきの大きな眼は光をとり戻して冴えていた。 ――どうせ肉体が死ぬのなら、魂だけでも生かしてやりたい。 そう思うと、妹の願いをなんとしても叶えてやりたかった。患者を見放した医者には、異存はなかった。病人の匂いにくさくさしている常次郎は無論賛成。父母は病人を動かすのを危ぶんだが、安子の強い説得で承知した。常次郎は京都に残り、近松夫婦・田中善吉・安子の四人で病人と赤ん坊をこわごわ運んだ。 翌日、安子は常次郎のいる京都へ引き返した。「旦那はんが心配どすさかい、帰ったげとくれやす」と、まきが強いて頼んだからである。 茶屋遊びを続ける常次郎の傍で、安子は、妻とも妻の姉ともつかぬ奇妙な日々を過ごした。 十日ほどして、近松から赤ん坊の危篤を知らせる電報が届き、続いて王仁三郎からも。「旦那はん、坊が病気どす。すぐ綾部へ行ったげとくれやす」 常次郎はにべもなく答えた。「わしは行かん。神さんは子供をつくったり殺したり勝手なもんや」「ほんな、あてに行かしとくれやす」「今日はあかん。明日まで待ってくれ」「なんでどす」「わしは一日、ゆっくり家で本を読むつもりや。飯を炊く者がない」 翌朝、近松と王仁三郎から、また別々に電報が届いた。安子は身支度をすませて常次郎の前に出た。「ほな、旦那はん、行かしてもらいます」「あかん。今からお茶屋へ行っても小力は寝とるやろ。昼飯食ってから遊びに出掛けるさかい、それからどこへなと行ったらええ……」「……」 唇を紫色になるほどかんだが、安子は黙って台所へ下がった。 高杉晋作の伝記を目で追いながら、常次郎の頭は惑乱していた。 ――猿とも人間ともみわけのつかぬ赤ん坊はみにくい。糞も小便も垂れ流しの赤ん坊はみにくい。自分の子か知らんが、みにくいものは好きになれぬ。好きでもないものに頬ずりしたり、おしめをかえたり、親ぶりたがるのは不道徳や。赤ん坊だって迷惑やろう。赤ん坊の魂が純粋無垢やと皆が言う。むさぼるだけの貪欲な動物やないか。腹が減れば泣きわめき、小便すれば泣きわめき、ささいな不満で泣きわめく。要求、要求……ただ自己主張の強い厄介なだけの存在やないか。そんなものが生きようが死のうが……。 ――わしの子が死ぬ。わしが求めもせぬのにこの世にしゃしゃり出ておきながら、まきをふぬけにしたあげく、今度は無断で去って行く。勝手な奴。許されるか。 電報が入って以来、足元をさらわれるような驚愕に、その実、動転している常次郎だった。一日、本を前にしているくせに、どこを読んでいるやら分からない。その自分に腹を立て、死にかけている子供に腹を立て、一人じりじりもだえている。 言葉は逆の形になって、再び綾部行きの承諾を求める安子へはね返った。「まだあかん。もうちょっと待っとれ」 安子は黙って引っ込んだ。 ――ばかな女め、何をふくれていやがる。もっと取り乱せ。ぐずぐずするな、わしを放ってすぐ綾部へ行け、走れ、常三郎が可愛くはないのか。 そうわめきたいのを、意地になってこらえる。その意地も限度にきた。 昼近く、不安といらだたしさに負けて、常次郎は本を投げた。「綾部へ行ってもよいが、必ず明日中に帰ってきいや」 安子が本宮の近松家へかけつけた時、赤ん坊は虫の息だった。一息が、かすかに鼻孔をふるわせる。次の息まで恐ろしく長い気がした。安子は枕頭の医者をふり仰いだ。「先生、助けておくれやす。どうぞこの子を……」 痩せた角顔の医者吉川五六(三十九歳)が、むつかしい表情で言った。「便が出ん。どないしても出んのや……」 まだ医者の少ない綾部にあって、吉川医師は内科・外科・小児科、頼まれれば産婦人科の領分まで引き受ける。キリスト教信者で人徳があり、町の人から信頼されていた。 母乳にはほとんど頼れなかったから、安子は牛乳と米の粉を煮て、細心の注意を払って育ててきた。それでも便秘がちで、一人で排便する力に乏しかった。綾部にきて育てる者が違えば、いっそうその傾向は強まったろう。 ――こんな小さな弱い子を手放したあてが悪い……坊、かんにん……。 土色におちくぼんだ赤ん坊のまぶたが上がって、また力無く閉じる。「便さえ出れば……きっと治るのどすか、先生」「そうやな、便さえ出れば……けれど、もうその体力はない」 安子は母に向かった。「母さん、教祖さまにお願いしておみやしたか」「いいえ、なんぼ教祖さまかて……お医者はんがあないあきらめてはるのに……」「そやさかい、あとは神さましかおへんのどす。あて、この子を連れて、教祖さまにお願いに行きます。先生、よろしいやろ」「そうやなあ、大本はんは時々不思議なことするさかいなあ……あかんとは思うが、それで気がすむなら連れていってみ」 医者の手放した重病人が大本で治った例を、いくつか吉川は自分の体験で知っていた。キリストの奇蹟を信じる以上、迷信だと笑い捨てる偏狭さはなかった。 赤ん坊をねんねこにくるんで、安子は母と一緒に龍門館へ行った。王仁三郎も澄も平蔵も、教祖室までついてきた。 直は赤ん坊を抱いて神前に座す。心細く神灯の揺れるのをみつめながら、一同、手を合わせた。 直は赤子を抱いたまま、安子に命じた。「便が出ると、着物がよごれるさかいなあ、おむつだけにして下され」 裸にむかれた赤ん坊は、肋骨がすけているのに、腹だけが醜くふくれていた。赤ん坊の口に直は小さいおひねりを入れ、神水をそそぎこんだ。むせもせず、こっくりおひねりがのどに通る。直は赤ん坊の全身を掌にくるみ、最後に腹に手をあてて真剣に念じる。 ……五分……六分……。赤ん坊の小さなこぶしが震え、手足が突っ張った。大人たちが力をこめて見守る中で、コルクの栓が抜けるように、一つ、二つ、固いものが転げ落ちた。ややあって激しい音、たまりにたまったものが……。 室内は臭気に満ちた。が、誰もがかぐわしい芳香でもあるかのようにうっとりした。放心して動けぬ安子。 澄が手際よくおしめをかえてやると、赤ん坊は何日ぶりかの泣き声を上げる。「お安さん、この子をどうしてじゃい」 直が深いまなざしを安子に向けた。「……この子は、梅田に授かったんどっしゃろか」「そうや、この子はのう、梅田の三代目やでなあ」「あてが育てます」「そうしなはれ。お乳は心配せいでも神さまが良いようにしてくれてやわいな」 赤ん坊を抱きとると、安子は常次郎が気になった。いつの間にか行燈には灯がともっている。「梅田は、明日中に帰れときつう申してましたけど、この子を連れて帰っても、だいじょうぶやろか」「さあ、それはお医者はんによう相談してごらん。ほれ見な、雪洞に火がついたみたい……頬に赤味がさしてきましたで。生命の色や、きれいやなあ」 直の嘆声に、一同の喜びの視線が安子の腕の中に集まった。王仁三郎が口をはさむ。「この子は常三郎やったなあ。命を拾ったお祝いに、わしが名前をつけてやる。厳の御霊に助けられた男の子やさけ、イヅオ。どうや、よい名やろ」 王仁三郎は『梅田伊都雄』と筆を走らせ、紙の乾くのを待って安子に与えた。 翌日、安子と自由は吉川医院へ伊都雄を抱いて行き、京都へ連れて帰ることを相談した。吉川医師は、驚きを隠さなかった。「あれ、大本はん、またこんなことをやりおった……」 念入りな診察の上、病後の注意を与えて、吉川医師は連れ帰る許可を与えた。 近松家の離れで療養している母親まきには、赤ん坊の病気を知らせなかった。まきは気配でそれとなく察していた。医薬をやめ、お松とお土を煎じてもらって飲んでいるが、とにかく死なずに生き存えているだけの身には、すべて遠い出来事だった。 安子がまきの枕元に来て赤ん坊を見せ、明るくはずむ声で言った。「おまき、会長はんがなあ、常三郎に伊都雄という名前をくれはったえ。教祖さまがこの子の病を助けておくれやしたさかい……厳の御霊のイヅオ。よい名前でっしゃろ」 長い細い五本の指をのばして、まきは伊都雄の手をまさぐった。 波立つ心を押えて、安子はさりげなく切り出す。「伊都雄のことやけど……あんたは体が悪いし、ここに置いとくのも心配どす。弱い子やさかいなあ、あてが京都へ連れて帰って育てたらあかんやろか……なあ、それでよろしやろ」「……」 命をかけて産み落としたひとり子だ、執着もきつかろう。安子はまきが取り乱して泣くのを恐れた。それでも今日には連れ帰らねばならぬ。伊都雄に愛情を移しきっている安子だ。 長い睫毛をそらして、まきは安子を見た。「この子をお願いします。それから、旦那はんも姉さんにお返しします」「……」「旦那はんと暮らしていても、借着をつけているようで、ちっとも落ち着かしまへなんだんどす。旦那はんが本当に好きなんは、姉さんどすえ」「おまき……」「いいえ、姉さんどす。どんなに浮気してなはっても、帰ってくるところは姉さんの他にあらしまへん。この子を連れて、早う京へ帰んどくれやす」
 玄関の格子戸をあける音で、常次郎がとび出してきた。安子の腕の伊都雄を食い入るように凝視し、安らかな寝息を確かめると、むっつり部屋に入って、煙草に火をつけた。父親じみたしぐさに我ながらてれていたので、ことさら不機嫌に言った。「なんでこんな子を連れて帰った。おまきを連れて帰りゃええのや」「この子は梅田の三代目やそうどす。あての代わりにまきが産んでくれた子……あて、離さしまへんえ」 安子は底光る眸で断言した。「どれ、かしてみい」 邪慳な手つきで、常次郎は伊都雄を抱きとった。 ――これが、わしの血を継ぐ梅田の三代目か……不憫な奴め。わしは三歳で生母を失ったが、こいつはもう……。 初めて赤ん坊を抱いた常次郎は、鼻の奥がこそばゆいような感触に顔を歪めた。 あわてて安子に押しつけ、「しゃあない、すぐにもこいつの乳の心配からせんならん」「教祖さまが『お乳は神さまがよいようにしてくれてや』言うとくれやしたんどすえ」「まさか、お前の乳しゃぶらせい言うつもりやないやろ。いや、ちょっと待てよ」 下駄をつっかけて、常次郎はとび出して行ったが、やがて頬の赤い女を連れて戻ってきた。「おい、お安、神さんは無駄なことはさせなさらん。乳みつけてきたで」 梅常で下働きしているその女は、親の許さぬ恋をして赤ん坊を産み、すぐ里子に出されたという。「この子は、うちの子とそっくりどす」と、女は嬉しげに張り切っている乳房を含ませた。女は乳母として梅田家に二年いた。
 明治四十四(一九一一)年八月八日、王仁三郎の四女一二三が誕生した。また女かと王仁三郎は苦笑したが、ぼやくひまがないほど発展する教団運営に寧日ない毎日であった。 八月二十七日、王仁三郎が大日本修斎会の会長を辞任したため、後任の会長選挙が十一名の出席議員により行なわれた。選挙の結果、四方平蔵が当選したが、彼が議長なので兼任はできず、会則により次点の湯浅仁斎が会長に就任した。この時任命された役員の総数は八十一名で、これはほぼ会員の戸数と同じであった。顧問に梅田常次郎の名もあった。 王仁三郎が会長を辞任した理由は、会員に教団機構の責任を分担させ、発展への協力体制を確立する意図からであった。王仁三郎は大日本修斎会を超越した教主的立場で教団を指導することになる。 この頃から、会員たちは王仁三郎を「管長さん」と呼び慣らわした。 秋風が立つ頃、直のすすめで、まきは近松家の離れから龍門館へ移る。かつて桐村清兵衛が病気を養っていた土間の西側四畳半の一室がまきに与えられた。同じ死ぬにしても直と同じ屋根の下でと、まきは念じていた。「今夜から、わたしの入った風呂の後にお入りよ」と直は命じた。 母に体を拭いてもらうのがやっとで、とても入浴できる体力はなかった。しかし、まきは直の命令を守ろうとした。母や澄に抱えられて入浴した。舞いに鍛えぬいたしなやかな体が、みるかげもなく衰えている。 道ならぬ恋に燃えて、姉の夫を奪った……これが当然のむくいとまきはあきらめ、せめて安らかに死ぬことを祈っていた。 浴後は激しい疲労が襲ったが、それだけに今までになく熟睡できた。 風呂へ行くには、土間から庭に出ねばならぬ。入浴し始めてから一週間目、雨が降っていたが、まきは下駄をはくことができた。確かにそれだけ体力は回復したのであろうが、それ以上ははかばかしくなかった。 ひと月目、直がまきの病室をのぞいて、「わたしは今からお風呂へ入るのやが、ちょっと熱いさかい、水を運んでおくれ」「へえ……」と、まきは半身を起こした。 直はさっさと湯殿へ向かった。 ――教祖さまは、あての病気、忘れてなはる。 朝から微熱があったが、無理に土間まで這い出た。誰かに頼もうにも、龍門館はひっそりと人の気配もない。木枯らしが楓の枝々をざわめかせていて、土間のそちこちに紅い葉が舞い散っていた。裸になって水を待っているであろう直を思うと、泣きたかった。下駄をさがす間にも、「早う水を――」と酷しい声がとんできそうだった。 まきは夢中で土間の隅の井戸に走り、釣瓶にすがった。支える物もなく走ったことさえ、まきは気づいていなかった。荒々しくけば立ち凍えた太綱を握り、体重をかけて手繰る。底深い井戸の底を見れば、のめり込みそうに足が震えた。地底の水が鈍色にゆれながら上がってきて井戸枠に触れ、奥深い響きを上げる。飛沫がはねてまきの頬をぬらす。 ためらい怯じる心はとび去っていた。ただ汲み上げた水を桶に満たし、彼方に運ぶ。それに耐え、死力を尽くす。一歩、二歩、……敷居をまたぐ。骨々がきしみをあげる。三つ目の敷居は峻嶮な幾峠を越えるにまさっていた。ゆらめく炎が、まきの視野をいっぱいにおおった。「ほれ、ちゃんと持てようがの」 湯殿の戸を開けて、半裸の直が手をのべ、崩れおちるまきの体を支える。 直は笑った。「あんたの寿命は二十六……それでも死んではおるまいが。分かるかい、おまきさん。今日から神さまが、あんたに新しい生命を下されたんやで」 翌日、まきは半年に余る病床を上げた。直の言葉がまきの過去をふっ切っていた。自縛を解かれた一つ一つの細胞は、新しい生を営み始めていた。 数年ののち、まきは福本源之助と結婚、八十二歳までの長寿を保つ。
 おぼこを響かせて、祇園の街を舞妓が通る。喜びも悲しみも厚化粧の下……自分にもあんな頃があったのだと、安子は一昔前を思う。 紅殻色の格子に京すだれ、似たような家がたち並ぶ。一軒の置屋の前に佇み、気負いを静めて、木札に書かれた芸妓の名前を幾度も見直す。ここまで来たのは常次郎の命令ではあったが、安子の胸は一種の自虐的な快感に満たされていた。 奥から出てきた茶屋の主人は、女客に不審の色を浮かべた。「小力はんを身請けしとおす」「どなたはんでございます。あてとこはお馴染みさんでのうてはお話にもなりまへん」「すんまへん。あて、梅田の家内どす」 主人は叫びを上げた。「ほな、梅常はんの……これは失礼を……」「梅田の親からまとまった金が出まへんさかい、いちどきにというわけにはいきまへんけど、お金はあてがなんとか工面しますさかい……」 撫然として、主人は安子を眺める。「うちとこは親の代からこんな商売しとりますけど、本妻さんから芸妓の身請けの相談受けたん、初めてどす」 身受け代千三百円は五百円・五百円・三百円の三回に分けて三ヶ月間のうちに支払うことを、主人は安子のひたむきな熱意に負けて承諾した。 手回しよく、常次郎は、本宅の傍に瀟洒な家を借りていた。庭からまわると、障子を開け放って、常次郎が小力の膝枕でうたた寝していた。 安子は、大役を果たした忠実なしもべのように、はずんで駆け寄った。「旦那はん、行ってきましたえ。身請けの話、先方さんも承知してくれはりましたえ」 縁側まで乗り出してきて、常次郎は聞いた。「そうか、承知か。ほんな小力は、もう帰なさんでもええのやな」「えっ、そんなん聞いてまへんえ……」 安子は口ごもった。まず第一回に支払うべき五百円の工面のことで頭がいっぱいで、そのことまで考え及ばなかった。けれどどう常識で考えても、まだ一回の身請け金さえ支払わぬ先に、小力を請け出せる道理はなかった。「旦那はん、もう少しお待ちやす。初めの支払いが終わらな無理どっしゃろ。なんぼなんでも……」「ど阿呆……」 やにわに常次郎は足を蹴り上げて、安子の肩先を突きとばした。「こらお安、お前は一体、何を承知させて来た言うとるんや。小力はもうわしのもんやいうことぐらいちゃんと言えなんだんか。ええ、お安、地べたに手えついてあやまれ」 倒れる刹那、安子は小力の切れ長な目に傲岸な嘲笑を見た。割れてはだけた裾を直し、泥にまみれた足袋はだしで、安子は地べたに坐った。したたかに蹴られた肩先の痛みのため、すぐには息もつげぬ。 小力は縁に並んで夫にしなだれ、安子を見下ろしていた。常次郎の狂ったような激昂が、そのまま自分への愛の証しであるかのように、小力は甘ったるく夫にすり寄っていた。「お安、何とか言え。手えついてみい……」と、常次郎は言いつのる。「すまんことどした……」 食い縛った歯の隙間からそれだけ押し出した。が、手が……地につかぬ。片手で片手を無理やり土に押しつけた時、屈辱が火花になった。 翌日、安子は親戚を拝み倒して五百円を借り、再び置き屋に行って小力を身請けした。貼りついた貞女の仮面をかなぐり捨てる勇気はなかった。 毎朝、伊都雄を乳母に預け、まるで通い女中のように妾宅に通った。朝飯の支度と風呂をたきに。 朝風呂につかる常次郎と小力は、あたたかい湯音の中でたわむれつつ、熱いぬるいと容赦なく安子をこきつかった。水を運び、火吹き竹を吹き、煙にむせて流す涙さえ、安子はじゃけんに振り払う。小力に哀れまれるくらいなら、死んでやりたい。「お安、お前は道具として置いてやっているのや。なぜ泣く、道具が泣くか」 不用意に涙を見られた時、常次郎にそう嘲けられた。それ以来、絶対に涙を見せまいと安子は誓った。 入浴後、小力は肌ぬぎになって、うっとりと長い化粧にかかる。昼も夜も、隣の料理屋へ仕出しを頼んだ。肌荒れを恐れて、小力が水を使うことを極度にいやがったからである。 朝食の片付けをすませ、男と女の脱ぎ捨てた洗濯物を風呂敷にまとめると、安子は妾宅を出る。伊都雄が待っている。それだけが生き甲斐に、安子は小走りとなった。 月末になると、きまって梅常の番頭が本宅へ金を届けにきた。それを預って、そっくり安子は妾宅へ持参する。朝寝の床から手をのばして、夫が受け取る。「そこから少しおくれやすな」 卑屈になるまいと、さも当たり前のことのように安子が言う。常次郎はにべもなくはねつけ、寝返って、何事か小力の耳に囁く。身をよじらせて小力が含み笑う。 ――あの背に刃を突き刺し、すーっと切り下げたら、どんなによい気持ちやろ。どんなにせいせいするやろ。 安子はその感覚を執拗に思い描いている自分にわななく。一人寝の闇の中に、くりかえしその感覚はよみがえってきた。 伊都雄と乳母を加えて、安子の暮らしは追いつめられていた。細々とした煙草売りの口銭ぐらいでは、食うのがやっと。その中からでも安子はこつこつ小銭を貯めた。すべての無駄を廃し、化粧を止め、素顔で過ごした。地味な木綿の目立たぬ着物をつけた。小力の派手なよそおいと厚化粧への意地であり、素肌でも小力ごときにひけはとらぬ美しさへの自負であった。 質素倹約は、また安子を支える教祖直の心でもある。この世に直がいなければ、安子は狂っていたかも知れない。直の顔を見るだけで、安子は生き返った。 二条駅まで電車賃六銭、二条駅から綾部まで汽車賃七十三銭、片道七十九銭の交通費がかかった。月に一度、いや二月に一度ぐらい、小銭が二円に達すると、酸素を求めて水面に浮上する金魚のように、安子は綾部に急ぐ。 参拝する度にやつれの目立つ安子を見て、直はしみじみと諭した。「お安さん、あんたはかわいそうなお人やが、自分の借金は他人に払うてもらえんでなあ」「あては前世で、よほど悪業を積んだんどすやろか」「そうやろなあ。いつの世でか、自分のしたことを今、受けている。相手は知らぬうちに深い恨みを返しているのや。だからこの世で苦しんで罪をつぐなわしていただけるのは、まだしも神さまのお慈悲……お安さん、ここが大事やで。人を恨んだり憎むだけでは地獄や。二度目の立替えはあるが、三度目はないげな。借銭をとってもらう、清めてもらうと思ってじっと耐ばって行するのも、つまりは自分のためやわいな」 あとから、あとから涙があふれて、安子の頬を伝った。ここでなら、心ゆくまで泣けた。堪えに堪えた涙は安子の毒を体外に流し捨ててくれる。安子は叫ぶ。 ――よーし、涙が残っとるなら、いま泣いてこましたる。泣き枯れるまで涙よ、出てこい。
 決して叱らず、どんなことでもかなえてやろうとする子煩悩な父。貧乏と戦いつつも娘だけはのびのび育てようと気を配る母。けれど直日にとって、この世で誰よりも慕わしいのは、祖母直であった。 厳しく贅沢をいましめ、宗教的な戒律の中で端正な日常を送る祖母。時所位をわきまえず、世間話をしたり、鼻唄をうたったりの浮薄な態度をいとい、ばたばた音をたてて歩くことすら許さない。 自由奔放な野人的父と、天真爛漫な母、禅宗の尼僧の暮らしにでもありそうな気品高いものしずかな祖母との間には、すでに不思議な調和が生まれていて、あたたかい家庭の雰囲気がかもし出されていた。 ほとんど祖母により添って育ってきた直日にとって、規律ある祖母の生き方は快かった。「オナといっしょにおったら口の中に虫が湧くわいな」とその昔、直の夫政五郎を嘆かせた寡黙さ、片苦しさが少しも苦にならない。多分に政五郎的な血を受け継いだ澄を通して、直の気質は孫へと流れていたのであろう。 ある夜、祖母が思いもかけず煙管で煙草を喫っているのを直日は見た。「あれ、おばあちゃん、煙草のんでんか」 直は、びっくりしたように煙管を置き、恥ずかしそうに微笑んだ。「お澄が忘れていったので、ちょっといただいてみたのや」 それからういういしく染めた頬のまま、小さな孫にこう打ち明けた。「わたしの生れた桐村の家のそばに、葉煙草を刻んで商う店があったのやで。わたしがむずかって泣くと、母さんはわたしをその店の見える所に坐らせておいて、家の仕事をしなさる。物心もつかぬわたしは、葉煙草を刻むにおいをかぎながら、あきもせず半日でも坐っていたげな。その葉煙草の香りが、今でも体のどこかに残っているような……ほんとはわたしは煙草が大好きなんやで」 その大好きな煙草さえ欲しいままにせぬ祖母の生き方を、直日は強いと思った。 祖母にはまた、理性ではわりきれぬ、超現実的な行動があった。よく夜中に、コトンコトンと梅の杖をついて廊下を歩く音を耳にした。ある夜、めざめると、杖の音をさせながら、何か気負った感じで祖母が戻ってきた。「おばあちゃん、どうしちゃったん」と直日が訪ねると、直はまだたかぶった感情で言った。「いま、どえらい悪霊が来たさかい、追い払ってきたんや」 朝夕の礼拝のあとにも、神前に向かってよく、かすかに首をふるようにして、問答を重ねている祖母をみる。その身辺にたゆとう超自然界との交流も、祖母の日常にとけ入っていた。 夜な夜な直日は、妹の梅野と二人、祖母の部屋へ寝に行った。行燈の灯影に揺れる丹波縞の夜具の中で、両方からせり合って祖母に寄りそい、哀れな少女の物語をせがむ。それは毎夜同じ「阿波の巡礼お鶴」の悲話であったが、その度に涙を流し泣きむせびながら、いつか眠っていた。 直日が読書の楽しみを初めて知ったのはこの春休みである。父の書斎から引き出した『雨月物語』をはっきりは意味がわからぬながらめくるうち、魅きこまれていった。浅茅が宿の帰らぬ夫を待つ妻のはかなさに胸がつまり、涙をこぼした。 書物に親しみ出した直日を見て、京都から参綾した梅田常次郎が立川文庫を与えてくれた。たちまち直日は、魂を奪われたように耽溺した。学校の講堂にかかる会津白虎隊最期の絵が直日の心の下地をつくり上げていたのだろう。立川文庫で武士の概念を教えられ、英雄豪傑への憧れに小さな胸を燃え立たせた。立川文庫の主人公たちの中では薄田隼人が特に好きで、子供心にも宮本武蔵はどこか好きになれなかった。 四年生の担任は赤見坂先生。大西先生から離れられたのが嬉しかった。 次の妹、梅野がこの春、小学校に入学した。あい変わらず学校にも友達にもなじめぬ直日だったが、休み時間にひとり教室に残って武者絵を描く楽しみを覚えた。同じ年頃の友達が次第に娘らしくなろうとする時、直日は少しでも男ぶりたくて夢中であった。何故女なぞに生まれてきたのか、なぜ自分が男であってはいけないのか、それが不満で哀しくてならない。 女子用のやわらかい色あいの帯は大嫌いで、すぐ引き裂いた。女下駄は、わざと乱暴して割った。あきれて澄が叱った。「そんなに赤いのが嫌いなら、直日は黒い三尺帯でも締めなはれ」「ほんまに……黒い帯しめてもよろしか」 とび立つように、直日は目を輝かせる。早速、父にねだって黒帯を買ってもらい、うれしそうにしめだした。黒足袋も男下駄も、父は直日の言いなりに買ってくれた。厚歯の下駄に太い鼻緒をつけて、胸をそらせ、カラコロと音高く歩きまわる。子供の頃の薄田隼人も弱虫であった。意気地のない自分を矯め直し、何ものをも恐れぬ強い人間になろう。 学校から帰るなり、妹や近所の男達相手に、勇ましい遊びに熱中した。乗馬の真似をして、ハイヨハイヨと跳び回ったり、剣術ごっこに明け暮れた。 あまりのことに澄が怒ると、王仁三郎がにやにやした。「変性男子やら変性女子やらは、わが家の家系やわい。変わりもんがでけてもしやない……男を産めよと言うたわしの言霊が、今頃効いてきたらしのう」
 春はまた、澄にとって頭の痛い季節である。梅野、八重野はとうに種痘を済まし、こともないのに、長女直日ばかりは四年生にもなって今だに種痘問題に悩み続けていた。学校での種痘の日は、どんなに先生が気をつけていても、いつの間にやら抜け出していなくなる。「朝野さんは種痘がこわくて逃げて帰っちゃった」 友達は、直日の弱虫ぶりを嘲り笑う。しかし、笑ってすませるわけにはいかない。学校にとっては大問題であった。役場や学校から、龍門館へ執拗に直日の種痘を督促してきた。 澄が王仁三郎に相談しても、以前と違って曖昧に逃げる。「直日の水晶の種を保ちたいと願われる教祖はんのお気持ちはようわかる。種痘することが直日の血をまぜこぜにすることになるかどうか、一概には言えん。けれど直日もあんなに嫌がっとることやし、役場や学校の方はなんとかお前がごまかしとけや」 夫が頼りにならぬなら、直日自身に納得させる他なしと澄は考える。こっそり種痘して直日が知らぬ顔さえしていてくれれば、母には知れまい。「直日さん、日本の国には法律いうもんがあってなあ、日本に住むんじゃったら、ぜーんぶ種痘せんならんように決められとる。お前は日本人やろ、なあ……天子さまかて植えとってんやで」「……」「お前が痘瘡植えなんだらなあ、どんなことになると思う。今年こそお祖母さんも、お父さんも、お母さんも、みんなお前のために縛られて牢へ入れられんなんのやで」 脅しをこめた澄の語気をはね返すように、直日はぐいと唇をむすぶ。下ぶくれの頬をいっそうふくらし、まなじりの上がった目に、小面憎いほど頑固な拒否を浮かべる。祖母の言葉が、直日の脳裡に刻みついているのだ。 ――うちが種痘したら、おばあちゃんは神さまへお詫びに自害するのや。うちは誰より何より神さまとおばあちゃんが大切。そやさかい、そやさかい……。 もの言わぬ直日の思いつめた眸を見ては、真向うからどう攻めても無駄なのを澄は知った。 三つの時、中村竹吉がしたように、一日中直日を連れて逃げ回ったからといって解決はできぬ。学校側では役場と相談して、だましてでも直日に種痘させることに決め、澄に協力を求めてきた。覚悟して、澄は応じた。 学校から直日が帰ってくるのを待って、澄は腹を押え、苦しげにうめいた。「直日さん、……お腹が痛んでかなんのや」 日頃弱音を吐いたことのない母の蒼ざめた表情に、直日も顔色を変えた。澄は六ヵ月の身重なのだ。「吉川先生に見てもらいに行かんならん。すまんけど直日さんもついて来とくれ」 父はいない。直日は必死に母を支えるようにして、三町半ほど離れた横町の吉川医院へたどりつく。診察室にはすでに役場の村上という吏員が待機していて、澄と直日が入ると同時に、手はず通り戸を閉めた。「さあ、直日さん、よい子やさかいここへおいで……」 吉川医師が直日の腕をとるや否や、「だました!」 直日の体はとんで、村上吏員の手の下をかいくぐり、激しく戸にぶつかる。戸は開いて、あっという間に直日は外へ。医師も看護婦も村上も澄も、勢いに呑まれて手が出ない。 狼狽した澄は玄関からとび出した。下駄をつっかけるひまもなかった。直に告げられては一大事である。怖いもの知らずの澄もただ一つ、直の怒りだけは格別に怖かった。「直日、こらえてよ、直日……」 直日は裏通りを一気に駆け抜け、そこで立ち止まって、追いかけてくる澄にこみ上げる怒りをぶちまけた。「母さん、だました。おばあちゃんに言うちゃる」「植えせん、植えせん。待っとくれ……もうだまさへんさかい……おばあちゃんに言うたらあかんでよ」 澄は立ち止まり、肩で荒い息をつきながら哀願した。懐妊の身をはだしで走るのは過酷であった。 怒りながらも直日は母の身を思いやったのだろう。母の息のしずまるまで黙念と待つ。かなりの距離をおいてにらみ合う母子の間に、桜の花びらが舞い散った。 直日は後ずさり、ぷいっと走り出した。「こらえて……直日……」 龍門館に着くまでに、澄は追いつくことはできなかった。直日の姿はどこにもない。今頃教祖室に駆け込んで、娘をだました一件を訴えているのだろう。 澄は機を織り始めた。思えば直日をだますことはできたとしても、母をあざむきおおせるはずはなかった。あの恐ろしい神憑りで雄叫びだしたら、どうやってしずめよう。乱れる心で踏む機は、トン、カランといつもの冴えた音など出はしない。 あきらめて教祖室に行った。障子の外から、おずおず声をかける。「母さん、よいお天気ですなあ」「ほんまによいお天気やなあ」 静かな声が帰ってきた。そっと障子をあけてのぞくと、屑紙の皺をのばしながら、直は笑顔を向ける。この部屋にいるとばかり思っていた直日の姿はない。「あの……直日さんはここへ来ておりませんかい」「まだ一度も見んわな。そこらにおるやろ」 笑んだ直の眸がまぶしくて、澄は居たたまれない。風が吹き過ぎる度に、掛軸が壁に当たってコトコト音を立てた。 早々に下がって廊下に出る。澄はぎょっと足を止めた。さっきは気がつかなかったが、ぬれ縁の隅に、壁に貼りつくようにして、直日がうずくまっている。 直日の傍に片膝つき、片手拝みして澄は囁いた。「ごめんやで。教祖はんに言わんといてよ」「言わへんけど……母さん、だました」 直日の小さな唇がぴくぴく震える。依怙地に面をそらせる直日の頬に、幾筋もの涙のあとがあった。 暗くなるまで直日はそこにいた。傷ついた直日の心を誰が知ろう、もう誰も信ずることはできなかった。母の嘘をかばうために、直日は大切な祖母に対して心に秘密を持った。強い人間になりたいというひたむきな直日の願いとはうらはらに、自分は「卑怯者」「弱虫」と嘲笑を一身にあびて学校へ行かねばならない。 「弱虫」という、直日にとって耐えがたい烙印はいつ消えるあてとてない。 ――何故うちばかり……。年々重なりゆくこの果てない辱めを思えば、いっそ死にたかった。直日にとって、全世界は敵。自分を陥れ、あざむき、血を汚す怖ろしい敵であった。 澄は五斤の砂糖を買った。砂糖を買おうと思ってから、その金を工面するために数日かかった。幾度か質屋に走り、幾人かに頭を下げて借金もした。その砂金のような砂糖を風呂敷に包み、澄は吉川医院を訪問した。「もうこれ以上、むりに直日の痘瘡植えてしもては、あの子の心に取り返しのつかぬ傷を残しますわな。わたしも、絶対植えさそまいと腹決めました。それで……」 ずっしり重い砂糖箱をさし出し、勝気な澄が科人のように目を伏せた。「頼みますさかい、先生の一存で直日の種痘をすましたことにしてくれなはれ」 砂糖箱を押し返しながら、吉川医師は困惑の表情を隠さなかった。「なんぼお澄はんの頼みでも、そんなことはできん。それでも、お澄はんまで種痘させまいという気持ちになったんでは、こら、いよいよ厄介やなあ」「……他の子はさせたんですさかい、直日一人は……」「お直はんが承知しなはったら、種痘してもよいかい」「そらそうですけど、出来んことですわいな」「できるかできんか、わしが行って、お直はんに得心いくまで話してみたげますわい」 吉川医師は龍門館へ来て、直を相手に種痘の必要性を根気よく説いた。静かにうなずきつつ聞いている直に、吉川は説得の効果を確信しかけた。 直はおだやかに言った。「みなさんに御迷惑かけて、すまんことですなあ。直日に種痘を植えさせまいと頑固はりますのも、世間から見れば随分阿呆げたことに見えますじゃろ。でもこれは神様のお命じなさることですさかい、私心では考えとうございまへん。たとえわたしが殺されても、直日の水晶の血だけは守りとうございます。吉川さんも信仰をお持ちですさかい、信者の心はわかってもらえますやろ」 吉川は、自分の説得が池面に木の葉の落ちた程も直の心を動かしていないことを知った。徒な努力であったが、不快ではなかった。カトリックの熱心な信者である吉川には、他宗であれ、直の信仰心の深さにうたれ、動かされるものがあった。「ようわかりました。実は種痘というものは外国の牛を介して培養したものですから、おっしゃることもすべては否定しきれません。そんなら形ばかりの種痘をさせてもらいましょ。こういう方法ならどうどっしゃろ」 吉川の提案を直はついに受け入れた。消毒の上にも消毒した器具で微量の直の血が取られ、その血で直日のふくらはぎに真似だけの種痘がされた。直日の傷口を、直は念入りに塩で清める。傷は跡形も残らなかった。長年続いた種痘問題の重みから、ようやく解放された直日の表情も、安らかであった。