『霊界物語』47巻

総説

 最上天界即ち高天原には、宇宙の造物主なる大国常立大神が天地万有一切の総統権を具足して神臨し給ふのであります。

そして大国常立大神の一の御名を天之御中主大神と称へ奉り、無限絶対の神格を持し、霊力体の大原霊と現はれ給ふのであります。

この大神の御神徳の完全に発揮されたのを天照皇大御神と称へ奉るのであります。

そして霊の元祖たる高皇産霊大神は、一名神伊邪那岐大神またの名は日の大神と称へ奉り、体の元祖神皇産霊大神は一名神伊邪那美大神またの名は月の大神と称へ奉るのは、この物語にて屡述べられてある通りであります。

また高皇産霊大神は霊系にして厳の御霊国常立大神と現はれ給ひ、体系の祖神なる神皇産霊大神は、瑞の御魂豊雲野大神またの名は豊国主大神と現はれ給うたのであります。

この厳の御魂は再び天照大神と顕現し給ひて天界の主宰神とならせ給ひました。因に天照皇大御神様と天照大神様とは、その位置において神格において所主の御神業において大変な差等のある事を考へねばなりませぬ。

また瑞の御魂は、神素盞嗚大神と顕はれ給ひ、大海原の国を統御遊ばす神代からの御神誓である事は神典古事記、日本書紀等に由つて明白なる事実であります。

しかるに神界にては一切を挙げて一神の御管掌に帰し給ひ宇宙の祖神大六合常立大神に絶対的神権を御集めになつたのであります。故に大六合常立大神は独一真神にして宇宙一切を主管し給ひ厳の御魂の大神と顕現し給ひました。

さて厳の御魂に属する一切の物は悉皆瑞の御魂に属せしめ給うたのでありますから、瑞の御魂は即ち厳の御魂同体神と云ふ事になるのであります。故に厳の御魂を太元神と称へ奉り、瑞の御魂を救世神または救神と称へまたは主の神と単称するのであります。

故にこの物語において主の神とあるは、神素盞嗚大神様の事であります。主の神は宇宙一切の事物を済度すべく天地間を昇降遊ばしてその御魂を分け、或は釈迦と現はれ、或は基督となり、マホメツトと化り、その他種々雑多に神身を変じ給ひて天地神人の救済に尽させ給ふ仁慈無限の大神であります。

しかして前に述べた通り宇宙一切の大権は厳の御魂の大神即ち太元神に属し、この太元神に属せる一切は瑞の御魂に悉皆属されたる以上は神を三分して考へることは出来ませぬ。約り心に三を念じて口に一をいふことはならないのであります。

故に神素盞嗚大神は救世神とも云ひ、仁愛大神とも申上げ、撞の大神とも申し上げるのであります。

この霊界物語には産土山の高原伊祖の神館において神素盞嗚尊が三五教を開き給ひ数多の宣伝使を四方に派遣し給ふ御神業は、決して現界ばかりの物語ではありませぬ。霊界即ち天国や精霊界(中有界)や根底の国まで救ひの道を布衍し給うた事実であります。

ウラル教やバラモン教、或はウラナイ教なぞの物語は、大抵顕界に関した事実が述べてあるのです。故に三五教は内分的の教を主としその他の教は外分的の教を以て地上を開いたのであります。故に顕幽神三界を超越した物語と云ふのは右の理由から出た言葉であります。

主の神たる神素盞嗚大神は愛善の徳を以て天界地上を統一し給ひ、また天界地上を一個人として即ち単元としてこれを統御したまふのであります。譬へば人体はその全分に在つても、その個体にあつても千態万様の事物より成れる如く天地もまた同様であります。

人間の身体を全分の方面より見れば肢節あり機関あり臓腑あり、個体より見れば繊維あり神経あり血管あり、かくて肢体の中にも肢体あり部分の中に部分あれども個人の活動する時は単元として活動する如く、主神は天地を一個人の如くにして統御し給ふのであります。

故に数多の宣伝使もまた主神一個神格の個体即ち一部分として神経なり繊維なり血管なりの活動をなしつつあるのであります。

天人や宣伝使のかく部分的活動も皆主神の一体となりて神業に奉仕するのは恰も一個の人体中にかくの如く数多の異様あれども、一物としてその用を遂ぐるに当り、全般の福祉を計らむとせざるはなきに由る如きものであります。

即ち全局は部分のために、部分は全局のために何事か用を遂げずと云ふ事はありませぬ。蓋し全局は部分より成り部分は全局を作るが故に、相互に給養し相互に揖譲するを忘れない。しかしてその相和合するや部分と全局とに論なく何れの方面から見ても統一的全体の形式を保持しかつその福祉を進めむとせないものはない。これを以て一体となりて活動し得るのである。

主神の天地両界における統合もまたこれに類似したまふのである。凡て物の和合するは各そのなす所の用が相似の形式を踏襲する時であるから、全社会のために用をなさないものは天界神界の外に放逐さるるのは当然である。そは他と相容れないからであります。

用を遂ぐると云ふ事は総局の福祉を全うせむために他の順利を願ふの義であり、そして用を遂げずと云ふは、総局の福祉如何を顧みず、ただ自家のための故に他の順利を願ふの義である。これはすべてを捨ててただ自己のみを愛し、彼はすべてを捨ててただ主神のみを愛すと云ふべきである。

天界にあるもの悉く一体となりて活動するはこれがためである。しかしてかくの如くなるは主神よりするのであります。諸天人や諸宣伝使自らの故ではない。何となれば、彼等天人や宣伝使は主神を以て唯一となし、万物の由りて来る大根源となし、主神の国土を保全するを以て総局の福祉となすからであります。

福祉といふは正義の意味である。現世に在つて、国家社会の福祉(正義)を喜ぶこと私利を喜ぶより甚しく、隣人の福祉を以て自己の福祉の如くに喜ぶものは、他生においては主神の国土を愛してこれを求むるものである。

そは天界における主神の国土なるものは、この世における国家と相対比すべきものだからである。自己のためでなく、ただ徳の故に徳を他人に施すものは隣人を愛することに成るのである。天界にては隣人と称するは徳である。すべて此の如きものは偉人であつて、即ち高天原の中に住するものである。

三五教の宣伝使は皆、善の徳を身に備へ、かつ愛の善と信の真とを体現して智慧と証覚とを本具現成してゐる神人ばかりである。何れも主の神の全体または個体として舎身的大活動を不断に励みつつある神使のみで、実に神明の徳の広大無辺なるに驚かざるを得ない次第であります。

願はくは大本の宣伝使たる人は神代における三五教の宣伝使の神業に神習ひ、一人たりとも主の神の御意志を諒解し、国家社会のために大々的活動を励み、天国へ永住すべき各自の運命を開拓し、かつ一切の人類をして天国の楽園に上らしむべく、善徳を積まれむことを希望する次第であります。

太元神を主神と云つたり、救世神瑞の御魂の大神を主神と云つたりしてあるのは前に述べた通り太元神の一切の所属と神格そのものは一体なるが故であります。読者幸に諒せられむことを。

 附けて言ふ
 主の神なる神素盞嗚大神は神典古事記に載せられたる如く大海原を知食すべき御天職が在らせらるるは明白なる事実であります。主の神は天界をも地の世界をも治め統べ守り給ふと言へば、大変に驚かるる国学者も出現するでせう。

しかしながら天界と言つても天国と云つても矢張り山川草木その他一切の地上と同一の万類があり土地も儼然として存在して居るのであるから、天界地球両方面の守宰神と言つても余り錯誤ではありますまい。天界または天国と云へば蒼空にある理想国、所謂主観的霊の国だと思つてゐる人には容易に承認されないでせう。天国とは決して冲虚の世界ではありませぬ。

天人と雖もまた決して羽衣を着て空中を自由自在に飛翔するものとのみ思つてゐるのは大なる誤解であります。天国にも大海原即ち国土があるのです。ただ善と真との智慧と証覚を得たる個体的天人の住居する楽土なのであることを思考する時は、主の神の天地を統御按配し給ふといふも決して不可思議な議論ではありませぬ。故に大海原の主宰たる主の神は天界の国土たると地上の国土たるとを問はず守護し給ふは寧ろ当然であります。
  大正十二年一月八日
    王仁識