プロフィール

青春の故郷ワセダ 

魂の故郷 亀岡

遥かなオリオンの三星

 

スプ1号とともに

故郷は韓国語でヒャン・・なぜか哀愁を感じさせる昭和3210月、3210と宇宙時代の秒読みに入った月の4日、人類初の人衛星スプ1号が打ちげられた。スプートニクが日本の上空に見えたことをマスコミで報じられるとき、明けの明星とともに、京都は亀岡の北緯35度東経13535分の地、晩年の出口王仁郎のまい「熊野館に私は生まれた。恒星の「恒」に雨あたらなようミは出口のひさ()。また「恒」は一文字で表す中国世界最大の数字であり、「恒河」は印度のガンジス川、「恒河沙(ごうがしゃ)」はガンジス川の砂粒の数、それくらい数が多いという意味。

父は早大生時四季J劇団の創立者である江古田生まれの女優(当時、創立と同時に退団した謎の女優 福田禮子)を、自分の劇団梅座に引っこき、早ザで結婚し

白梅座では、父が自作自演自監督であった。手塚治が「鉄腕アトム」を発表する半年以上前に、「アトム大帝」という劇を上演し、好評を博した。それが手塚治に影響を与えたかどうかは私は知らない。

祖父 福田徳太郎昔、東京の荏原区長をしてともあたのか、一家の生活の基盤は東京にあった。兄は汪、隆。幼年時代の私は、杉並区や目黒区で育った。私は当時、女子水泳で日本の代表的な強みを発揮した杉山女学園大学への父の強いあこがれ、四柱推命術で「駅馬」の宿命を得た天性の引っ越し好きなどにより、名古屋の千種区等に引っ越した。十一才の時に指折り転居の回数を数えたことがあるが、私個人の転居も含めて十一回だった。だから、私にとり転居は、川の流れのように自然なものであった。

父は、祖父の起こした教団、大本を「ひのもと救霊会」に置き換え、ディスポーザーを完全犯罪に利用した推理小説「凶徒」で、昭和三八年、第二回オール讀物推理小説新人賞を松本清張等の推薦を得て、西村京太郎氏と同時受賞している。

そして、小学校四年のとき、父・和明が曾祖父「出口王仁三郎」を「大地の母」として小説化するために、その舞台となった亀岡に移住することとなった。

 

青春の故郷、ワセダ

私の脳裏には、いつも「ワセダ」という名前があった。父和明の早稲田大学文学部ロシア文学科の同級生であった五木寛之著「青春の門」の舞台…というより、汚い格好をすればするほど崇められる不思議な大学。

早稲田に入り、私は司法試験のサークルに入り、勉強した。弁護士にはなれなかったものの、その過程で、私は同級生の平田雅彦と、学部は違うが香取夏野いう生涯の友を得た。「雑人会」というサークルを組織し、会員150名を集めて、私は会長、平田は幹事長という役回り。入会資格は、西門の私の下宿に足を踏み入れた勇気ある女性と男。ほとんど名目だけだったが外務省に入った奥という人もいた。

 

早慶野球優勝戦での私が早稲田の貫一に扮しての「貫一・お宮(三田の宮)」劇の上演、日本新記録「パラシュートを付けて、風速50メートルの風に何メートル向かっていけるか」への挑戦、埼玉県本庄市から早稲田への100キロハイク、茨城県常陸太田市から早稲田までの160キロハイク、試験対策実行委員長としての人材輩出、「ミス早稲田コンテスト(企画サークルともーる)」の実施など、早稲田での思い出はつきない。(その後、同志社大学大学院ビジネス研究科MBA課程卒業)

 

甘く切ない恋

私は青春時代にもありがちでない甘く切ない恋を経験した。原宿に住む島明海(しまあけみ)(朝岡百合子 若松浩二プロ所属)、当時16歳がその人だった。

西暦930年頃、四国の日振島に目の色が緑で髪が少し赤い、ペルシャに由来するかのような美しい女の赤ん坊が一隻の小舟で流れ着いた。海賊藤原純友の家来が小舟と赤ん坊を発見し、純友に赤ん坊を差し出した。

赤ん坊が成長するにつれ、碧眼を恐れた乳母は、ある日、その娘の両目を針で刺し、両目を失明させた。神秘的な黒いつぶらな瞳と長い黒髪で、赤ん坊は『島明海』として生まれ変わった。

「来世には、長い黒髪と美しい黒い瞳の美しい娘に生まれ変わってきます」という遺書を残し、四国の日振り島、「明海(あこう)」という海に身を投げて消えた。

(これらは、実際に鎌倉の海に身投げして助けられた女性に霊がかかり、複数の証人のもと語ったこと)。島明海が人を介し、その人の知り合いであった亀岡の私の実家に移ることになった。彼女は私に会うなり、「殿!」と声をかけた。私は反射的に「姫!」と呼んでしまった。彼女は映画界に衝撃デビューし、プロダクションの軋轢もあり、二人の恋はどうにもならない方向に流れていく…

 

俺の空を求めて

学生時代の私は、「自分の生きるべき空」を見つけるべく、世界に飛び出してみることにした。当時私が影響を受けた漫画は「俺の空」作 本宮ひろし。東大卒の主人公、安田財閥の御曹司 安田一平がスチューデントマントを翻しながら、世界に「俺の空」を求めて放浪する。その「安田一平」のスタイルをそのままにコピーし、神田で買った黒いスチューデントマントと赤いTシャツといういでたちで、欧米に旅立った。 パリでやくざと喧嘩し、ニースの橋の下でオーストリアの若者と夜通し語らい、アメリカイリノイ大学イングリッシュスクールに在籍しながら、通わずにアメリカ38州、グレイハウンドバスを使用してバックパッカーとしての独り旅をする。あのときは、私は何も怖いものはなかった。

求めた地の一番危険なところに深夜に行くという習慣を続けたが何も起こらなかった。しかしカストロ政権がキューバーの囚人を逃がし、彼らがマイアミに上陸して起こした黒人暴動の最中に、それを見に行って黒人にナイフで刺され、難民収容所(救世軍)に収容される。ミズリー州ではミシシッピ川をくだる船を結果的にヒッチハイクし、サンフランシスコでは、ジャパンセンター周辺でピストルを突きつけられホールドアップ。エキサイティングな旅だった。本当の怖さを最終日に知った。現在までに、アジア・大洋州・アフリカ・欧州など二十数か国を旅した。しかし安田一平のようなハッピィな結末とはいかない。

 

桑田の宮と日本のルーツ

日本を語る古い歴史書「富士古文書」。この富士古文書には「亀岡(旧丹波国南桑田郡)を含む一帯は、桑田の宮とよばれる国常立命の都であった」と書かれている。現在は亀岡市内の元出雲の地と比定されている。ここは富士山と並ぶ、日本の二大神都。

そのことを裏付けるように、亀岡には「元」のつくいわれのある神社仏閣が多い。実際、日本中にある神々や仏のいくつかは、亀岡を起源とする。元出雲(丹波国一宮出雲大神宮)、元稲荷(磐榮稲荷宮)、元高野(とこなげさん千手寺)、元天満宮(園部町だが、生身天満宮)が亀岡に立地している。(元八坂、元妙見はわからなかった)

「元伊勢」についていうと、伊勢神道は、伊勢の外宮信仰であり、これは出口家が始めたと伝えられている。

私の家に伝わるところでは、伊勢の外宮の神「豊受大神」(国常立命)は、もとは京都綾部市の本宮山に鎮座になり、出口家が代々これに奉仕していた。後、丹波の真名井原に鎮座し、雄略天皇21年に、真名井原から現在の伊勢の度会の地に遷座になるときに、出口家の分家が豊受大神のお供をしていかれたと示されている。出口は「齋く いつく」がなまって「出口」となった可能性がある。伊勢神道を大成した度会家行も本名は出口家行で出口家の人(広辞苑)

また王仁三郎(円山応挙の7代目)は、明治維新の時の総裁、当時、有栖川宮熾仁親王が独身のとき、伏見の恋人、上田よねとの間に生まれた唯一の男の子。もうひとりの女の子(いく)が別の女性(たま)との間にいたが、息子(家口栄二)は、出口家に養子に来ている。物語はやはり京都と丹波亀岡。

 

日本の雛形、世界の雛形

亀岡はJR京都駅から山陰線で20分くらいだが、京都からみれば遠い山国。しかし亀岡は、日本の古代よりの都・京都を窺うところにある。京都の綾部生まれの足利尊氏(出口直の遠祖)が亀岡の老の坂で「敵は本能寺にあり」と亀岡の篠八幡で天下を狙う旗を挙げ、明智光秀が亀岡の老の坂で「敵は本能寺にあり」と、信長を討った。伝説によると明智光秀は、僧に化け、千利休として秀吉の天下統一を助けることになる(これについては、別稿)。亀岡は昭和十年代の日本の四大逆賊(出口王仁三郎、足利尊氏、明智光秀、弓削道鏡)のうち、道鏡を除く三者が集うところにある。

亀岡は、大本教(出口王仁三郎が創始者、戦後は愛善苑)の発祥地。大本教からは生長の家、世界救世教(そこから真光教が出る)、三五教など、子供、孫教団を含めて百以上が起源を持つ。合氣道、日本神霊科学協会なども大本発祥である。

オリオンの三ツ星

 王仁三郎は、「自分の故郷はオリオンの三ツ星」と語る。オリオンはギリシャ神話に登場する美男の狩人で、海の神ポセイドンの子。サソリに刺されて死に、天に上げられて星になったと言う。預言者でもあった王仁三郎の名は、ポーランド出身の医者 ザメンホフが開発した世界共通語を名乗るエスペラント語では、ONI(人類) SAV(救う) URO()(メシア・キリストと同義)を示す。

 私は、わが故郷、亀岡、そして遙かな先、オリオン星座の三星に祖先のルーツを見、思いを巡らせている。なお、参考までに父のプロフィールを示します。

 

出口和明(でぐち・やすあき)
ペンネーム=十和田龍(とわだ・りゅう)

昭和5年(1930年)815日生、出口王仁三郎の孫で、出口宇知麿、出口八重野の間に産まれる。出生地は綾部・穹天閣。
出生秘話として『月鏡』「十和田湖の神秘」、『東北日記』、『真如の光』、『庚午日記』、『玉鏡』「男装坊の再生」など聖師の残された資料は実に多い。『月鏡』「十和田湖の神秘」には、

「かくて男装坊(出口和明氏の前世の姿)は三熊野三神別けて神素盞嗚尊の神示によりて弥勒の出現を待ちつつありしが、天運ここに循環して昭和三年の秋、四山の紅葉今や錦を織らむとする頃、神素盞嗚尊の神示によりてここに瑞の魂(出口王仁三郎聖師)十和田湖畔に来り、弥勒出現の神示を宣りしより男装坊は欣喜雀躍、風雨雷鳴地震を一度に起してその微証を示しつつその英霊は天に昇りたり。それより再び現界人の腹を籍りて生れ男性となりて弥勒神政の神業に奉仕することとなりぬ。

ああ神界の経綸の深遠にして宏大なる到底人心小智の窺知し得る限りにあらず。畏しとも畏き次第にこそ。惟習霊幸倍坐世。

附言、男装坊現世に再生し、弥勒の神業を継承して常盤に堅盤に神代を樹立するの経綸や出生の経緯に就いてはこと神秘に属し、未だ発表を許されざるものあるを遺憾とするものであります。」


十和田湖上の王仁三郎一行


とあります。また、『玉鏡』「男装坊の再生」には、

「『月鏡』「十和田湖の神秘」を読んだものは誰も知っている如く、湖の主が昇天の時、王仁に約束した言葉がある。「再生の時は大本に生れて参ります」と。…元来は王仁の子となって生れる筈であったが、それが出来なかったので、八重野が生まして貰った和明がそれである。十和田の龍神の再生であるから、十和田の和をとり明は日と月で神を表はす積もりで斯く命名したのである。王仁をばかり慕って、父親はそっちのけで聖師様々々とつけまとう。霊の因縁は不思議なものである。」

とあります。

昭和10年、5歳のときに第二次大本弾圧事件が起こり、祖父・祖母・父ら入牢。
中学4年で家出し、一年間、北国新聞記者となる。昭和27年、早稲田大学に入学するも中退。その後、幾多の職業を遍歴。
昭和38年、第2回オール讀物推理小説新人賞受賞。

著書に、『大地の母』(毎日新聞社、全12巻、196971年)、『出口直・王仁三郎の予言・確言』(光書房、1978)、『出口王仁三郎入蒙秘話―出口清吉と王文泰』(いづとみづ社、1985)、『第三次大本事件の真相』(自由国民社、1986)、『オニサブローウーピーの生涯・明治篇』(新評論、1987)、『出口王仁三郎の神の活哲学』(お茶の水書房、1987)、『予言と神話』(八幡書店、1991)などがある。

宗教法人 愛善苑宣伝使会会長、霊界物語刊行会会長
平成14年(2002年)0618日ご昇天(享年71歳)。