第七巻

第九章 弱腰男〔三〇九〕
 日の出神はそれより天教山に登り、青木ケ原の木の花姫宮に致りて今までの神教宣伝の経過を詳細に物語りしが、木の花姫は深く感賞し、再び常世国に出発を命じたまひける。日の出神は撞の御柱の神および天の御柱の神に謁し、種々の神勅を蒙り、欣然として再び宣伝の途に就きにける。 田子の浦より今や常世国に向つて出帆せむとする常世丸の船客となりぬ。船中には数多の人々、あるひは唐国へ、あるひは常世国へ通ふべく満乗しゐたり。波は静かに風凪ぎわたる海原を西へ西へと進み行く。静けき海に漂ふこと数十日、遂に青雲山のある月氏国の浜辺に到着し、此処に一同は上陸して船路の疲れを休めける。この船は風の吹き廻しの都合により一ケ月ばかりこの港に碇泊するの止むを得ざるに立ちいたりぬ。日の出神は無聊に苦しみ山深く分け入りてこの地に宣伝を試みける。 此処は青雲山の山つづき、白雪山といふ小高き山の麓にして、山野は青々と種々の草木の花は所狭きまでに咲き乱れ居り、胡蝶の花に戯る姿、鳥の梢に飛び交ひて唄ふ声、実に長閑さの限りなり。日の出神は長き日を終日宣伝歌を歌ひ、遂に草臥れて眠気を催し、路傍の草花の中に身を横へ腕を枕にしながら、淡き雲の散り行くを眺めつつありぬ。ここは白雪山の山口なりき。かかる所へ二三の里人と見えて息を喘ませながら走り来り、路傍に横臥せる宣伝使の姿を見て両手をひろげ大口を開け、『アツ』とばかりに仰天し、その場に打ち倒れける。日の出神は怪しみて、『汝なに故なれば、わが姿を見て驚くか』と尋ぬるに、甲『貴下はウラ、ウラ、ウラル彦の、カヽ神様の御家来の宣伝使様ではありませぬか。どゝどゝどうぞこの場は見逃して下さいませ。私は何もかも包み隠さず申上ます。先つ頃よりこの村に三五教の宣伝使祝姫と云ふ、それはそれは美しい女性の宣伝使が現はれて、色々のことを教へてくれまして、わが里の酋長をはじめ、老若男女は一人も残らずこの山奥の岩神の前に寄り集まり、その女性を中に、種々の結構な話を承はりつつありました。酋長夫婦はすつかりその言葉に感心いたして白雪郷は一人も残らず三五教の神様を祭る事となりました。今日もその祭を行つて居ります所へ、ウラル彦の宣伝使が現はれ、その女性を掠奪つて山の奥へ連れて行つてしまひ、私らの酋長夫婦は大木に縛りつけられてしまひました。さうして逃げるなら逃げて見よ、皆の奴共、この山はウラル彦の宣伝使が取り巻いてをるから、今この場ですつかり三五教を捨てて、大中教の神を祭ればよし、違背に及ばば、酋長を始め皆の奴を亡ぼしてしまうと、いかい眼を剥いて呶鳴られました。私はやうやくに虎口を逃れて此処まで来ることは来ましたが、たうとう大中教の宣伝使様に見つけられました。どうぞ命ばかりはお助け下さい』と涙を流して泣き入るを、日の出神は驚いて、むつくと立ち上り、『我は三五教の宣伝使なり。これより汝らの里人を救ひ与へむ。疾く案内せよ』と云ひつつ再び宣伝歌を歌ひ始めたるに、甲乙丙の三人は俄に元気づき、乙『サアもう大丈夫だ。それだから酋長様が、どンな事があつてもこの神様に離れな、叶はぬ時はきつと助けて下さるとおつしやつたぢやないか。それに何だよ貴様は最前も最前とて、肝腎の宣伝使は引攫はれてゆく、信仰の強い酋長夫婦は木に縛られて居つても、三五教の神様は助けてくれやしない、やはり長いものには捲かれよと云ふことがある、今までの信仰をサラリと止めて、大中教に入らうぢやないかと、たつた今泣き面かわいてほざきよつた癖に、今の元気たら何のことだい』丙『そりや貴様のことだよ、現にいま貴様さう云つたぢやないか。宣伝使様に告げられたら耐らぬと思ひよつて、俺が云つたやうに宣伝使様に思はせやうたつて、そンなことは生神様ぢや、よく御存じだぞ』乙『先ンずれば人を制す。貴様が喋らぬ間に俺の方から先鞭をつけたのだ』 甲は低い声で、『オイ貴様ら、さう喜ンだつて先方は多勢、此方は一人の宣伝使だ。何程強いかつて高が知れて居る。この宣伝使も女性のやうにふん縛られて、山奥に連れて行かれる連中であらうも知れぬぜ。あまり喜ぶな考へものだぞ』 乙丙溜息を吐きながら、『さうかなあ、困つたものだよ。しかしお手際をまだ拝見せないのだから、そつと見えかくれに跟いて行つたらどうだい』 日の出神は、『オイ、三人の者、何を分らぬ事をいつて居るか。早く先に立つて案内をせよ。心が焦く』甲『貴神、大丈夫ですか。それはそれはオトロしい奴が沢山をりますぜ』と指をつき出しながら、『この山をツーとかう行つてかう曲つて、またかう曲つて、かう、かう、かう、ツーとお出なさいましたら其処に皆が縛られて頭をはられたり、突かれたり、猿が責められたやうに、キヤツキヤツ云うて居ます。その声を便りにとつととお越しやす。左様なら』と尻引きからげ逃げむとする。日の出神は、『オイ待て』と云ひながら襟髪をむんづと掴みける。
(大正一一・一・三〇 旧一・三 加藤明子録)